秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

石原慎太郎

1485/日本の保守-櫻井よしこの<危険性>②。

 ○ 国家基本問題研究所は公益財団法人だが、国又は公共団体の研究所ではないので、前回に「任意、私的」団体と秋月が記したことは何ら誤っていない。
 さて、この研究所なるものの役員たちは、あるいは櫻井よしこに好感を抱いてる日本の保守的な人々は、櫻井よしこの「政治感覚」はまっとうで正確な、又は鋭いものだと思っているのだろうか。そうは私は、全く感じていない。
 ○ 最近に櫻井よしこは産経新聞4/03付の「美しき勁き国へ」で、「小池百合子知事の姿が菅直人元首相とつい重なってしまう。豊洲移転の政治利用は許されない」との見出しの小論を書き、「左翼」菅直人と結びつけてまで、小池現東京都知事に対する警戒感を明らかにしている。
 また櫻井よしこは、たしか週刊新潮では「保護主義」を批判的にコメントしていたが、週刊ダイヤモンド2017年1月26日号には、D・トランプ米大統領について、希望・期待を述べるよりは、皮肉と警戒、懸念を優先した文章を載せた。
 さらに、櫻井は1月21日に「日本の進路と誇りある国づくり」という高尚な?テーマで講演して、ほとんどをトランプに関する話に終始させている(ネット上のBLOGSの情報による)。種々の見方はあるだろうが、そこで語られているのは、トランプに対する誹謗中傷だとも言える。
 小池百合子やトランプについての櫻井よしこの言及内容をここで詳しく紹介したり、議論するつもりはない。
 しかし、小池百合子に対する冷たさは、石原慎太郎を守りたい観のある一部「保守」系雑誌(面倒だから特定を省略する)や、小池ではなく別の候補者を支援した自民党中央や東京都連の側に立っているとの印象がある。このような立脚点または姿勢自体が適切なのか、「政治的」偏向はないかを疑わせると私は感じる。(なお、産経新聞も、かつての大阪の橋下徹に向けた冷たさや批判が適切だったかが問われる。)
 また、トランプについては、ではヒラリー・クリントンが新大統領になった方がよかったのか、という質問を、当然ながら投げつけたい。
 櫻井よしこが週刊ダイヤモンドで依拠している、Wallstreet Jounal のデイビッド・サッターの適切さの程度についてや、またどのようなソースによってトランプに関する上の諸文章・講演はなされているのか、について興味・関心がある。
 例えばだが、アメリカの「保守」又は「反左翼」論者として有名らしい(詳しくは知らない)アン・コールター(Ann Coulter)は、昨2016年8月に、<私はトランプを信じる>と題する書物を刊行している。
 また彼女は、邦訳書『リベラルたちの背信』(草思社、2004/原書名等省略)を書いてアメリカの「リベラル」派を批判しているが、日本語版の表紙に写真のある人物は、F・D・ルーズベルト、トルーマン、J・F・ケネディ、ジョンソン、カーターおよびビル・クリントンで、全て民主党出身の大統領だ。所持しているが読んでいない原書の表紙にはないが、批判の対象がこれらの民主党大統領でもあることを示しているだろう。
 また、読みかけたところだが、B・オバマを「左翼」と明記して、<共産主義者>を側近に任命した、と書いている本もある。
 もう一度問おう。あらためて遡って確認してはみるが、民主党・オバマの後継者の、ヒラリー・クリントンの方がよかったのか?
 もちろん、日本人と日本国家のための議論だから、アメリカ国内の民主党・共和党の対立にかかわる議論と同じに論じられないことは承知している。
 しかし、櫻井よしこは、本当に<保守>なのか、健全な<保守>なのか。トランプに対する憂慮・懸念だけ語るのは、アメリカ国民に対してもかなり失礼だろう。
 思い出したが、「アメリカのメディアによると」と簡単に櫻井が述べていた下りがあった。
 <アメリカのメディア>とは何なのか。日本と同等に、あるいはそれ以上に、明確な国論の対立がアメリカにあること、メディアにもあること、を知らなければならない。あるいは、櫻井よしこが接するような大?メディアだけが、アメリカの評論界や国民の意見を代表しているのではないことを知らなければならない。
 ○ 以上のような批判的コメントをしたくなるのも、櫻井よしこには、秋月瑛二に言わせれば、政治判断を誤った<前科>があるからだ。
 かつてのこの欄にすでに何回も書いた。詳細を繰り返しはしない。
 櫻井よしこは、2009年の日本の民主党・鳩山由紀夫内閣の成立前後に、つまり2009年8月末の総選挙前後に、民主党の危険性についてほとんど警戒感を表明せず、同政権誕生後には屋山太郎の言を借りて<安保・外交政策に懸念はないようだ>とも語り、当時の自民党総裁・谷垣禎一を「リベラル」派と称して自民党にも期待できないとしつつ、民主党政権成立の責任の多くを自民党の責任にし(この部分は少しは当たっているだろうが、言論界の櫻井よしこの責任ももちろんある)、翌年になってようやく民主党政権を「左翼」だと言い始めた。
 こんな人物の政治感覚など、信頼することができない。秋月でも、2009年8月に、鳩山由紀夫の<東アジア共同体>構想等を批判していたのだ[2009年の8/28、9/18]。
 ついでに言えば、櫻井よしこに影響を与えたとみられる、上に名前を出した屋山太郎は、<官僚内閣制からの脱皮>を主張して民主党政権成立を歓迎した人物であり、渡辺喜美が「みんなの党」を結成した際の記者会見では渡辺の隣に座っていた人物だ。
 屋山は、官僚主導内閣批判・行政改革を最優先したことによって、より重要な政治判断を誤った、と断言できる。
 さらには、櫻井よしこはかつて、道路公団<民営化>に反対して竹中平蔵〔23:50訂正-猪瀬直樹〕らと対立していたが、この問題を櫻井は、どのように総括しているのか。
 もう一つ挙げよう。
 櫻井よしこは、今すぐには根拠文献を探し出せないが、かつて<国民総背番号制>とか言われた住民基本台帳法等の制定・改正に反対運動を行っていた一人だ。のちに遅れて、マイナンバー制度と称される法改正等が導入された。
 櫻井よしこは、この問題について、どのように自らの立場を総括しているのか。
 ○ こうした過去の例から見ても、櫻井よしこの発言・文章を信頼してはいけない。この人に従っていると、トンデモない方向へと連れていかれる可能性・危険性がある。
 同様の指摘とどう思うかの質問を、国家基本問題研究所の役員「先生方」に対しても、しておこう。

1272/「憲法改正」の事項的「単位」と産経新聞社案「国民の憲法」。

 1/06に、次のように書いた。-「憲法改正とは、現憲法の全体を一挙に廃棄・廃止して、新しい憲法を一括して創出する、というものではない」。「憶測にはなるが、ひょっとすれば産経新聞『国民の憲法』案は、渡部昇一らの現憲法『無効』論や石原慎太郎の現憲法『破棄』論の影響も受けて、現憲法の全体に新しい『自主』憲法がとって代わる、というイメージで作成されたのではないか、という疑問が生じなくはない」。「現憲法と『新』憲法案のどちらがよいと思うか、というかたちで一括して憲法改正の発議と国民投票が行われるはずがない。確認しないが、憲法改正手続法もまた、そのようなことを想定していないはずだ」。
 この問題は、「憲法改正」の発議および「国民投票」の仕方、より正確には、発議や賛否投票の<対象>または<単位>の問題だ。先には憲法改正手続法と書いたが、この問題、とくに発議の<対象>・<単位>についての関係既定は、(改正された)国会法にある。以下、憲法制度研究会・ポイント解説Q&A/憲法改正手続法-憲法改正手続と統治構造改革ガイド(ぎょうせい、2008)に依って説明しておく、なお、憲法制度研究会が編者だが編集代表は川崎政司だ。この人は地方自治法・行政法の書物もあり、慶応大学法科大学院の客員教授だが、もともとは参議院法制局の職員・官僚(いわば立法・法制官僚)である人、またはそうだった人で、<とんでもない左翼>の人物ではない。叙述内容も、できるだけ客観的になるように努められている、という印象がある。
 上の本はやや古いが、言及されている関係条項は現在でも変わっていない(総務省・現行法令データベースによる)。国会法6章の2の表題は「日本国憲法の改正の発議」。その中の、現行規定でもある、国会法68条の3は次のように定める。
 「第六十八条の三  前条の憲法改正原案の発議に当たつては、内容において関連する事項ごとに区分して行うものとする。
 上掲書は、つぎのように「解説」する(p.30-31)。
 ・例えば九条改正と環境権の創設という別々の事項が一括して投票に付されると、一方には賛成だが別の一方には反対である、という国民はその意思を適切に投票に反映できない、そこで、「内容において関連する事項ごとに区分して」発議することとされた。
 ・問題は、何が「内容において関連する事項」に当たるか、だ。憲法改正手続法の国会審議では上の例の場合に一括発議・一括国民投票は「好ましくない」という点で一致したが、自衛軍の設置とその海外活動は一括できるか、自衛軍と軍事裁判所の設置は一括できるか、などについては「明確な判断は示されてい」ない。
 ・結局、個別の案ごとに国民の意思を問う要請と「相互に矛盾のない憲法体系を構築する」要請から決定されるべきもので、「個別具体的事例については、国会が発議するに当たって、しかるべき判断を行うことにならざるを得ない」ようだ。
 ・この点について、参議院では「発議に当たり、内容に関する関連性の判断は、その判断事項を明らかにするととともに、外部有識者の意見も踏まえ、適切かつ慎重に行うこと」との付帯決議がなされた。
 ・この条文により「全部改正」が不可能になったのかも問題になったが、「すべて相互に密接不可分である、つまり内容の上で分かち難いというものであれば一括して発議がなされるという場合も論理的にないことはない」とのむ答弁が提案者からなされている。
 ・国民投票のイメージとしては、個別の事項の案ごとに投票用紙を受け取り、投票(投函)を済ませてから次のブースに移り、そこで次の別の事項に関する投票をする形が間違いないという見解、その場合10も20もブースを作ることは困難で、3~5問程度が限度だとの見解も提案者から示されていた。
 以上のとおりだが、はたして、産経新聞社「国民の憲法」案は、このような国会法等の規定も十分に意識して作成されたのだろうか。
 なるほど、「すべて相互に密接不可分である、つまり内容の上で分かち難いというものであれば一括して発議がなされるという場合も論理的にないことはない」ということに「論理的には」なるのだろう。しかし、同社案は「すべて相互に密接不可分である」ものとして作成されたのだろうか。そのように主張する起草委員および産経新聞関係者も存在する可能性はある。だが、「基本的人権」または「国民の権利義務」の章の個別の条項の書きぶりはさらにいくつかに区分することが可能であると見られるし、いかに「産経憲法観」?によっているとしても、例えば「財政」や「地方自治」の章の具体的内容までが前文や「国防」の章(の案)と「密接不可分である」とまでは言えないように考えられる。
 ともあれ、産経新聞社「国民の憲法」案が、「憲法改正」運動のためには、形式面において「使いづらい」ところがあることは否定できない、と思われる。
 「憲法改正」発議の仕方、発議の対象となる<単位>には少なくともある程度の、「内容において関連する事項ごとに」、という限定があることもふまえて、「憲法改正」は議論されなければならない。そして、だからこそ、どの条項から優先して「改正」していくか、という問題があり、その問題に関する議論もしなければならないわけである。

1226/月刊正論・桑原聡編集長等に対する批判的コメント一覧。

 桑原聡が月刊正論編集長になって半年も経っていないとき、民主党政権下の月刊正論2011年3月号で、桑原はこう書いていた。-「かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」。

 ということは現在の自民党も「多くを期待できない」のか。桑原聡という人は「政治感覚」がどこかおかしかったように感じる。
 上のことを以下で記した。

 ①2011.04.06

 「月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは。」

 ほかに、月刊正論の編集方針等について書いたものに以下がある。存外にたくさん、非生産的なことに時間を費やしてきた想いが生じ、あまり楽しくはないが。再度同旨のことを繰り返すのはやめにし、リストアップにとどめておくことにする。

 ②2012.04.06 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言1。」

 ③2012.04.09 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言2。」 

 ③2012.04.10 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言3。」

 ④2012.04.11 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言4。」 

 ⑤2012.04.13 「『B層』エセ哲学者・適菜収を重用する月刊正論(産経)。」

 ⑥2012.04.15  「『保守』は橋下徹に『喝采を浴びせ』たか?」

 ⑦2012.05.17  「月刊正論の愚-石原慎太郎を支持し、片や石原が支持する橋下徹を批判する。」

 ⑧2012.06.06 「月刊正論編集部の異常-監督・コ-チではなく『選手』としても登場する等。」

 ⑨2012.08.06 「憲法改正にむけて橋下徹は大切にしておくべきだ。」

 ⑩2012.08.21 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?①」

 ⑪2012.08.29 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?②」

 ⑫2012.09.03 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?③」

 ⑬2013.09.08 「適菜収が『大阪のアレ』と書くのを許す月刊正論(産経新聞社)」

 ⑭2013.10.04 「月刊正論(産経)・桑原聡は適菜収のいったい何を評価しているのか。」

 ⑮2013.10.13 「錯乱した適菜収は自民+維新による憲法改正に反対を明言し、『護憲』を主張する。」

1225/月刊正論(産経)の編集長が交代-桑原聡は退任。

 〇桑原聡が月刊正論(産経)の編集長になったのは、2010年12月号からだった。それから3年、古本で求めた月刊正論の11月号の末尾を見て、思わず心中で快哉を叫んだ。編集長執筆欄によると、桑原は「この号をもって編集長を退任」する。後任が川瀬弘至でなければ、安心して月刊正論の新刊本を毎月初めに購入できそうだ。

 この交代は桑原の何らかの「責任」が社内で問われたのではなく、定期の人事異動のようなものと思われる。だが、この3年間で、同じ保守派月刊雑誌・月刊WiLL(ワック)との比較において、月刊正論が販売部数=読者数で完全に負けるに至った。完全に、決定的に引き離されてしまった。正確な時期の記憶はないが、以下に紹介しておくようなコメントを書く前にすでに月刊正論の内容が何となく(違和感を感じる方向へと)変わったと感じたことがあった。その印象と桑原聡の「編集方針」は無関係ではないのではないか。

 〇桑原聡は同欄で、「保守のみなさん、…、内ゲバのような貶し合いは左翼にまかせ、おおらかに共闘していきましょうよ」、と書いている。

 この文章には甚だしい違和感を持つ。よくぞ言えたものだ、自分こそが「おおらかに共闘しよう」という姿勢でもって編集してきたのかどうかを、厳しく総括し、反省すべきだ、と感じる。
 この点の詳細は別の機会にもう一度書くだろう。きちんとした再確認を必要としない以下のことだけを、とりあえず書いておく。

 第一。私によれば、「反共」は「保守」であるための不可欠・重要な要素だ。八木秀次は橋下徹を「素朴な保守主義者」と評し、「保守」派であることをほとんど誰も疑わないだろう(但し天皇観を疑問視する者もいる)石原慎太郎は橋下徹とともに同じ政党の共同代表になっている。私の見るところでも、橋下徹は明白な「反共」主義者であり、明確に反日本共産党の立場でいる。だからこそ、二年前の大阪市長選において、日本共産党(大阪府委員会)は自党の候補を降ろしてまで、民主党・自民党(大阪市議団)等が推した当時の現役市長・平松某を支持し、その幹部は<反ファシズム統一戦線>だ、とまで言ったのだった。

 しかるに、桑原聡編集長の月刊正論は適菜収に「橋下徹は保守ではない」との巻頭論文を書かせ、自らは橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと思うと明言し、「日本を解体しよう」としているとまで明記した。かりに適菜収も桑原も「保守」だとして、このような編集方針および編集長自身の考え方自体が橋下徹との間での<保守の中での内ゲバ>そのものであり、あるいは少なくともそれを誘発したものであることは明らかだろう。何が「保守のみなさん、おおらかに共闘しましょうよ」だと言いたい。大笑いだ。

 しかも、適菜収は別の雑誌上で、安倍晋三を「バカ」呼ばわりしたうえで(橋下徹憎さのあまり?)自民党が日本維新の会と共闘するくらいなら憲法改正に反対すると明記したのだから、少なくとも憲法改正問題に関するかぎり、適菜収は日本共産党や朝日新聞と同じく「左翼」だ。桑原聡は自らは「保守」だと意識しているようだが、そのような適菜収を重用し続けたかぎりにおいて「左翼」に加担したことになるのではないか。

 桑原聡は「自信をもって」「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」と言える、とも同欄で書いている。瑣末な揚げ足取りのようだが、<天皇のもとでの共産制>を夢想し、構想した者は戦前にもいた。

 第二。正確な確認をしないまま記憶に頼って書き続けるが、桑原聡編集長時代の月刊正論は、「保守」であると考えてよいと思われる田中卓に対して罵詈雑言を浴びせる(と評してよい)論文を掲載している。そしてそれ以来、田中卓の弟子筋だとされている所功に対しても冷たく、所功を末尾近くの「読者欄」または「投稿欄」の書き手として(素っ気なく?)遇したことがあるが、所功の論文を掲載したことはないはずだ。
 所功は「左翼」だと位置づけているのならば理解できなくはない。だが、所功を「左翼」と評することはおそらく間違いなくできない。そうだとすれば、桑原聡編集長時代の月刊正論は、「保守」の中の対立の一方に立ち、まさしく<保守の中での内ゲバ>を展開したのではないか。

 編集部員の川瀬弘至は自らを「真正保守」と考えているようだが、読者への回答欄で「日本と日本人を間違った方向に導くと判断した時には、我々は異見を潰しにかかります」と書いたことがあった。かかる姿勢は傲慢であるとともに、<保守のおおらかな共闘>の精神とは真逆のものだと思われる。すなわち、いかに「保守」派の者の意見でも一定の場合には「潰しにかかる」という意味を含む意気込みを示しており、<保守のおおらかな共闘>などは考えていない書きぶりだ、と感じる。そして、桑原聡編集長はこの川瀬の文章を何ら修正することなく掲載させたと見られる。

 何が「保守のみなさん、おおらかに共闘しましょうよ」だ。自らの編集方針・編集意図を冷静に振り返っていただきたい。

 〇「保守」の「おおらかな共闘」は私も強く望むところだ。しかし、桑原聡編集長時代の月刊正論こそが、これに反する編集方針・記事の構成をしていたことは、以上の二点の他にもあったと感じている。再確認のうえで、別に機会をもちたい。

1211/在米「世界抗日連合」と中国共産党政府による「反日」運動-江崎道朗著の2。

 前回のつづき(江崎道朗著p.22-)。在米の「世界抗日連合」は南京「大虐殺」目撃とのドイツ人・ラーベの日記を発掘、南京「大虐殺」否定の石原慎太郎衆院議員(当時)への抗議意見広告をニューヨークタイムズに掲載、訪米中の天皇陛下への抗議デモを展開。米国の元捕虜グループには対日賠償請求を、韓国系アメリカ人には「慰安婦」問題での共闘を、呼びかけた。

 1990年に韓国で「韓国挺身隊問題対策協議会」が結成されていた。このアメリカ支部として韓国・北朝鮮系アメリカ人が1992年12月に「慰安婦問題ワシントン連合」を結成するやただちに提携を申し入れ、1993年3月の<日本の常任安保理国入り反対>などのデモ等の共同行動をしている。なお、ユダヤ系「サイモン・ウィーゼンタール・センター」とも一時期に連携した。これは文藝春秋刊「マルコポーロ」を廃刊に追い込んだ団体。

 在米反日ネットワークと中国共産党とはいかなる関係か。
 1950年結成の「日中友好協会」(初代会長・松本治一郎)は中国人遺骨送還・中国人殉難碑建設等をし、機関紙は日本の中国「侵略」批判を続けてきた。「中国帰還者連絡会」、中国で「洗脳」された元日本軍人組織、のメンバーは、「三光作戦」等の日本軍の「残虐行為」を「証言」して、「侵略史観」の形成を助けた。

 中国共産党政府は1963年に「中日友好協会」を設立し、併せて中国共産党中央委員会に「対日工作委員会」を設置、その上部組織として「党政治局」に「日本ビューロー」を設けた。

 中国政府は1982年の<教科書書換え誤報>事件に関して日本政府の検定を「内政干渉」だと一蹴されるかと「内心思いながら抗議」したところ、日本政府・宮沢喜一官房長官は結果として中国政府による日本の教科書内容への中国政府の容喙を認め、「教育に関する主権侵害」を容認する談話を8/26に発表した。中国政府は「驚き、そして喝采を叫んだに違いない」。その後、日中共同声明や宮沢談話を利用して「過去」を持ち出しては日本に譲歩を迫るに至る。1985年の「南京大虐殺記念館」建設を皮切りに、「東京裁判史観」に異を挟む日本の閣僚を遠慮なく非難するなどをする(その結果としての藤尾正行文部大臣辞任)。

 1989年天安門事件、1990年ベルリンの壁崩壊につづくソ連解体等の新しい状況のもとで対日本政策が問題になり、「アジアにおける中国の覇権」確立のための「日本の政治大国化」阻止、そのための「過去の謝罪問題」の取り上げとのシンクタンク意見に沿って、1993年には中国政府は「敵国日本」を追い落とす手段として「歴史カード」を使うという「対日戦略」を決定した

 アメリカでの1994年の在米中国人による「世界抗日連合」結成も上の中国共産党政府の戦略と無関係ではない。1995年、中国政府は「軍国主義・日本」・「その日本と戦った解放の旗手・中国」というイメージ宣伝に努めた。そのキャンペーン真最中の8/15に出たのが、いわゆる「村山談話」。「侵略と植民地支配」をしましたと述べて、中国の宣伝を「追認」した。この時点ですでに、日本国内の「左翼」の運動とも相俟って、「慰安婦という性奴隷制度をもった最悪の戦争犯罪国家・日本」というイメージが国際社会に定着した。

 中国政府は1996年の日米安保共同宣言(橋本龍太郎首相)を批判し、アメリカの「対日世論を悪化させて日米分断」を狙った。これに対応して12月に「世界抗日連合」後援の大戦中の「残虐行為についての日本の責任」と題するシンポジウムを開催、12/12にアイリス・チャンと記者会見して「ラーベ日記」存在を公表、「南京大虐殺」による大「反日キャンペーン」が始まった。アイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」が発刊されたのは、1997年11月だった。

 第一節の終わりまであと10頁余もあるが、予定を変更して、ここまでであとは省略する。

 中国共産党・同政府にとって、「南京大虐殺」も「慰安婦強制連行=性奴隷」も(他にもあるが)、日本に<勝つ>ための大きな情報戦略の一つであることに変わりはない。彼らはすでに<戦争をしている>つもりであるに違いない。

 今はなきコミンテルンもそうだったが、表で裏で、陰に陽に、公式・非公式に、種々のネットワークを使って執拗に目的を達成しようとする<共産主義者たち>の骨髄は、中国共産党にも継承されているようだ。
 脳天気で善良な、「お人好し」の日本国民は、簡単に<洗脳>されてしまいそうだ。一般国民のみならず、日本の政治家の中にだって主観的には「歴史と過去にきちんと向かい合える」という<親中国>人士は少なからずいる。日本共産党のように、真偽はともかくとしても自党の存続・勢力拡大のために中国の「宣伝」を利用している者たちもいる。マスメディアとなると、朝日新聞を筆頭に…。朝日新聞の社説や記事の中にはもあるいは「左翼」人士の発言の中には「歴史・過去ときちんと向かい合う」ことの大切さを説いたり、それをできないとして自民党「保守派」政治家を批判したりする者がいるが、そのような言い方をする記事や発言は、日本社会党委員長だった村山富市と同様に、すでに中国共産党の<宣伝工作>に屈してしまっている、と言わなければならない。歴史をきちんと振り返るのは一般論としては誤りではないが、上のようにいう場合に想定されているのは、<日本(軍)の悪行>という特定の価値評価を伴った「過去」または「歴史」なのだ。

1205/中西輝政・賢国への道(2013)の「保保二大政党制」論。

 中西輝政の主張について、8月上旬に、この欄であいまいに次のように書いていた。

 8/06-「残念ながら数ヶ月前に読んだためか文献を確認できないが、中西輝政もまた、<リベラル系>をなお含んでいる自民党に比べて日本維新の会は<保守性>が高いという旨を書き、上記の遠藤浩一のごとく、とくに憲法改正に向けての自民党と日本維新の会の協力・連携を期待する旨をこの数カ月以内にどこかで書いていた」。

 8/10-「中西輝政の主張はたんなる両党の連携等というよりも、遠藤浩一の今年最初の<保守合同>論でもない、両党による<二大保守政党>成立への展望だったように思い出してきた。その場合、維新の会を自民党よりも<右>または<より保守的>と位置づけていたような気がする」。

 どの雑誌上だったかと気になり続けていたのだが、原文を見つけた。雑誌ではなく、単著だった。すなわち、中西輝政・賢国への道-もう愚かではいられない(致知出版社、2013)の第五章だった。

 昨年末総選挙後・参院選前に執筆されているこの著で中西は、日本の直面する三大危機は①経済・財政問題、②外交・安全保障問題、③政治のリーダーシップにあるとし、この③に関する第五章で、うろ覚えで記した上記のようなことを書いている。但し、必ずしも正確ではないようなので、あらためて関連部分を紹介しておく。

 章の下の第一節にあたるものの見出しを「保保二大政党制で一枚岩の態勢を作る」とし(p.166)、次のように言う。
 ・「民主党か自民党かという選択は間違」い。「民主党はとんでもない左翼政党」。

 ・「求めるべきは保保二大政党制」。現在の自民党は「保守といっても、ほとんど中道リベラル政党」。「もう一つ、日本の歴史と伝統文化に沿った国家軸を持つ本格保守政党が必要」(p.169-)。

 ここで自民党以外の「保守」政党とは石原慎太郎・橋下徹代表の日本維新の会が想定されているように感じられた。そのように読めなくもない。だが、必ずしもそうでもなさそうだ。
 安倍政権の当面の課題はともかくも<自民党参院選挙勝利>で、安倍首相が①「身近な敵を黙らせる」、②「中国の挑発に乗らない」ことにより参院選に勝利できるかに「日本の未来はかかっている」(p.200)という別の議論の中で、参院選前の靖国参拝や河野・村山談話見直しがなくとも、「保守層」は参院選自民党勝利まではじっと耐えるべきだ、ということを強調している(とくにp.195-6)。
 まさに<戦略的>な主張をしているわけだが、上の①「身近な敵を黙らせる」に関連して、次のように言う。
 ・公明党は「根本的な国家観が違い」、いつ離れるか分からない。
 ・「『維新』と連立」すればとの意見もあろうが、「維新」は「まだ海のものとも山のものとも分かりません」。内部のベテラン議員に「自民党内をかき回される可能性」もある。

 ・自民党内の「反安倍陣営」の結成に警戒が必要(p.193-4)。

 以上からすると、日本維新の会に高い評価を与え、強く期待しているわけでもなさそうだ。
 はて、中西輝政の真意は何なのだろう。

 中西の安倍晋三に対する期待はきわめて高いことを前提にすると、現在の自民党と日本維新の会を中心とする勢力による「保保二大政党制」ではなく、自民党内の安倍晋三らの「保守派」と維新の会や他党の中にいる「保守派」が合体して現在の自民党ではない「日本の歴史と伝統文化に沿った国家軸を持つ本格保守政党」を作り、現在の自民党にもいる「中道リベラル」系(かつ反共)の者たちによる<その他の保守>政党との「保保二大政党制」を展望しているのだろうか。一種の、大きな<政界再編>だ。

 だが、中長期的にはともかく、自民党が近い将来に分裂する可能性は少なく、安倍晋三らが自民党から出て他グループと連携または合同する可能性も少ないだろう。安倍晋三は、相対的に多数の国会議員を擁する自民党の総裁のままでいた方がよい、と考えられる。こちらの方が戦略的にはベターだと思われる。

 そうだとすると、自民党を「ほとんど中道リベラル政党」と見なし、もう一つ「本格保守政党」が必要だとすることの意味はよく分からなくなる。

 今年の1月に刊行された書物の中の主張なので、自民党が7月参院選にいちおう勝利した後であれこれと吟味しても大きな意味はないかもしれない。しかし、将来的には現実化するまたは現実化させる必要のある論点になるのかもしれない。

 さて、追記になるが、中西輝政は「保守」の人々は自民党の参院選勝利までは安倍内閣か「保守」的行動・措置を執らなくとも我慢をすべし、と強調し、「本当の安倍政治が始まるのは参院選のあとなのです」(p.200)と言う。
 最近にこの欄に記したこととの関係でいうと、橋下徹慰安婦発言について、支持・同調できる部分もある、と安倍首相でなくとも自民党幹部が発言していたとすれば自民党は現実に得たような「勝利」を獲得できなかったのだろうか、同じことだが、橋下徹発言には正しい部分もあると自民党幹部が発言していたとしても、民主党に対する不信は前年と同様に激しいものがあったから、自民党は実際と同様に「勝利」していたのではないか、とも思われる。

 この点はもはや歴史のイフに属するかもしれず、これ以上は立ち入らないことにしよう。問題はこれからだ、

 中西輝政は述べた、「本当の安倍政治が始まるのは参院選のあと」だ、と。参院選後すでに、短い国会と夏休みが終わり、東京五輪招致問題も決着した。

 中西はさらに予測する-「参院選に勝てば、…『戦後レジームからの脱却』を改めて掲げて、前政権でやり残したことを次々と実現していくはずです。歴史問題にも真正面から取り組んでいくでしょう。…靖国参拝もするでしょう。それから憲法改正にも手をつけ始めるはずです」(p.200)。

 参議院では自民党は2/3超の議席を持たず、非改選組を含めれば1/2にも達していない。そのような状況で、どのようにして「憲法改正にも手をつけ始める」のかはむつかしい。

 しかし、ともあれ、中西輝政の言うように安倍首相や自民党中心内閣が「前進」していくことを期待するほかはない。 

1187/憲法改正に向けて維新の会や橋下徹は大切にしておくべきだ。

 遠藤浩一月刊正論2月号(2013、産経新聞社)の「保守合同こそが救国への道」で、次のことを述べていた。

 戦後の日本政治は昭和24年のように保守合同によって局面を打開してきた。憲法改正のためにも、民主党に匹敵する議席を獲得した「日本維新の会との連携を緊密にする必要がある」。安倍首相が本気で<戦後レジ-ムからの脱却>を目指すのなら、「自公政権」ではなく、「あくまでも、より厚みのある本格的保守政権の確立をめざす」べきではないか(p.37-38)。

 みんなの党への言及はないようで、タイトルにいう「保守合同」とはまずは自民党と日本維新の会の「合同」を意味させていると読める。

 大阪の維新の会が太陽の党と合併したことについては批判もあったが、既述のように両党にとってよかったと思っている。合併=橋下徹と石原慎太郎の結合がなければ、衆院選54議席の獲得はなかった。この点を、ジャパニズム11号(2013.02、青林堂)の田口圭「日本維新の会/その歴史と未来を徹底分析」は次のように適確に指摘している。
 石原慎太郎の維新の会への合流という<正しい判断>は、たちあがれ日本→太陽の党の「いわゆる愛国保守系の落選議員を多数当選させた」ことによって証明された(p.97)。
 また、田口は触れていないが、日本維新の会が全国的に多地域から支持を受けて比例区票数では民主党をも上回ったのは、大阪中心の、橋下徹らだけの維新の会ではなしえなかったことだろう。

 上の点はさておき、参院選直前にも、日本維新の会支持を明確にしていたのが、撃論シリ-ズ・大手メディアが報じない参議院選挙の真相(2013.08、オ-クラ出版)の冒頭の無署名(編集部)「反日マスコミの自民・維新の会包囲網を打ち破れ」で、つぎのように書いている。
 「維新の会は、歴史、外交、安全保障において、明らかに自民党以上に正当な保守政党としての理念を表明している」。

 残念ながら数ヶ月前に読んだためか文献を確認できないが、中西輝政もまた、<リベラル系>をなお含んでいる自民党に比べて日本維新の会は<保守性>が高いという旨を書き、上記の遠藤浩一のごとく、とくに憲法改正向けての自民党と日本維新の会の協力・連携を期待する旨をこの数カ月以内にどこかで書いていた。
 このような意見もあり、上記撃論の冒頭は、「維新の拡大なくして憲法改正はありえない、この認識が現在の政治を取り巻くもっとも重要な鍵である。…参院選は、自民党の安定した勝利、そして維新の凋落ーせき止めること、この二点に懸かっている」とも書いていた。
 そしてまた、同文章は、「一部保守派」による橋下徹批判をたしなめてもいる(p.3)。
 完全・完璧な人間や政党は存在するはずがないのであり、何が相対的に最も重要な論点・争点なのかについての間違いのない判断を前提として、橋下徹についても日本維新の会についても論評される必要がある。重要な政治的課題が憲法とくに9条2項の改正であることはほとんど言うまでもないだう。そして、日本維新の会は(橋下徹個人のこれまでのいちいちの発言ではなく政党の政策表明に着目すれば)9条2項の改正を支持している。
 このような状況において関心を惹くのは、月刊正論も出版している産経新聞社の維新の会・橋下徹に対する「社論」ははたして一致しているのか、だ。
 何度か書いたが、何しろ産経新聞社発行の月刊正論とは、その昨2012年5月号において、編集長・桑原聡が「編集長個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う。…橋下氏の目的は日本そのものを解体することにあるように感じる」と、その「個人」による詳細な理由づけ・説明もないまま明記してしまっている雑誌だ(末尾、p.336)。そして、同号の表紙には、その編集者の見解に添ってだろう、C級哲学者・適菜収の論考タイトル、「理念なきB層政治家…橋下徹は『保守』ではない!」が一番目立つように大書されているのだ。そしてまた、月刊正論の公式ブログ内で「あなたの保守度」を点検などという読者に対する<上から目線>の設問を書いて遊んでいたりした編集部の川瀬弘至は、この適菜収論考を「とてもいい論文です」と好意的に評価してもいたのだ。
 産経新聞本紙が維新の会に対して少なくとも全面的に批判し敵対視しているというわけではないだろう。但し、少し怪しい記事もあるようだし、ネット上ではとくに関西発のニュ-ス・評価の発信の中に橋下徹や維新の会に対して厳しいまたは不要に批判的すぎると感じられるものもある。
 産経新聞社の維新の会・橋下徹に対する「社論」ははたして一致しているのか。少なくとも一部には、上記にいう「一部保守派」のごとき記事や論考もあるように感じられる。
 そして、そのような姿勢・「社論」では日本のためにならないだ
ろう。橋下徹に多少は?批判的なのが<真の保守>だ、などという勘違いはしない方がよい。
 桑原聡や川瀬弘至は見解を改めたのかどうか(後者は適菜に対してむしろ批判的になったのか)は知らない。たぶん明示的には何も書いていないだろう。
 その他の気になる「一部保守派」たちもいるので、さらに書き継ぐ必要があるようだ。
 なお、上記の撃論本で遠藤浩一は、「第三極の失速・減速」を理由として、先の「保守合同」論を改めている。この点も別の機会に扱う。

1175/佐伯啓思の不誠実と維新の会・天皇。

 〇この欄の4/09で佐伯啓思の昨秋の文章についての私の昨年の12/31を引きつつ佐伯啓思の言論人・知識人としての「責任」を問うたが、12/31の私の文章を読み返していると、こうも佐伯に問うていたことを思い出した。
 「佐伯啓思にまじめに質問したいものだ。佐伯は11/22に『橋下徹氏の唖然とするばかりの露骨なマキャベリアンぶり』という言辞も使っていたのだが、日本維新の会、あるいは自民党の原発、増税、憲法等々についての諸政策は『大衆迎合主義』に陥っていたのかどうか。」
 佐伯啓思がこの秋月の欄を読んでいなくて何ら不思議ではないが、上に言及したようなことを佐伯啓思は産経新聞昨年11/22紙上で公言していたのであり、昨年12月総選挙結果もふまえて、自らの見解が適切だったかに論及することはやはり言論人・知識人としての「責任」なのではないか。佐伯啓思にはそのような感覚・姿勢があるのかどうか。
 〇佐伯啓思は新潮45(新潮社)2013年1月号の連載で「『維新の会』の志向は天皇制否定である」と題する文章を書いている(但し全9頁のうち4頁だけがこのタイトルに添う)。
 このタイトルと内容を一瞥して感じたことの第一は、では佐伯啓思は「天皇制肯定」論者なのか、だ。
 上のようなタイトルからすると、そうであることを前提としているようであるし、またそのように理解しても不思議ではない。しかし、じつは佐伯啓思は、自らの「天皇制度」または「天皇」に対する考え方・立ち位置をほとんど明らかにしてきていない。
 昨年12/05と12/09のこの欄で佐伯啓思の「天皇」観を示している文章に言及したが、そこで紹介したとおり、佐伯啓思は、「天皇という問題となれば、ある意味では、私自身もきわめて『戦後的なもの』の枠組みに捕らえられている」、「私には天皇や皇室への『人物的な関心』がなく、まして、天皇・皇室への『深い敬愛に基づいた情緒的な関心を示すなどということが全くない…」、「天皇陛下や皇室の方々の人柄だとか、その人格の高潔さだとか、といったことにはほとんど興味がない」、日本国憲法第一条の「象徴」という部分も、「象徴」の意味は問題になるにせよ、「しごく当然のことであろう、と思う」、などと書いていた。
 このような佐伯啓思が、<維新の会は天皇制否定>などと銘打つ文章を簡単にかつ堂々と書けるのかどうか。
 まずは自らは「天皇制肯定」論者であることを、その意味も含めて詳細かつ明確にしたうえで、<維新の会は天皇制否定>論は書かれるべきだろう。
 感想の第二は、<維新の会は天皇制否定>という結論的認識が妥当かどうかだ。簡単に書けば、石原慎太郎がそうだという論拠は石原と三島由紀夫の1969年の対談の一部と三島の石原に対する評価(のそのままの追随)だけであり、橋下徹については「橋下氏が天皇制についてどのように考えているのかはわかりません。しかし、彼らが共和主義的であることは十分に想像がつきます」(上掲誌p.333-4)という程度にとどまる。
 丁寧な論証がなされているとはとても思えない(なお、同じことは同じ上掲誌上の青山繁晴論考についても言える)。それにそもそも、欧米の「共和主義」なるものに多大の関心を示し、それに関する書物の共編著者になっていたのは、佐伯啓思自身ではないか(佐伯啓思=松原隆一郎編・共和主義ルネサンス(NTT出版、2007))。そこには、「共和主義」を否定し「天皇制を肯定」する心情のみが基礎になっていたのかどうか、はなはだ疑わしい。
 ついでに書けば、佐伯啓思によると、<私こそがこの国を変える、と軽々と言う>=「共和主義的」=「天皇制否定」という論理が簡単に成り立つらしい(上掲誌p.334)。いくら日本維新の会が嫌いでも、佐伯啓思ほどの者がこんな(大学院生ですら採用しそうにない)論理または推論を提示するとは、嘆かわしく、幻滅しもする。

1161/日本維新の会54議席と橋下徹らへの佐伯啓思の評価の適切さ。

 旧たちあがれ日本の日本維新の会への合流について、維新の会の純粋さ・新鮮さがなくなった、政策があいまいになった、等の批判もあったようだ。しかし、私は、橋下徹グループと石原慎太郎グループの合流・新しい日本維新の会の結成は、結果としてもよかったことだ、と思っている。
 橋下徹はもともとは全選挙区に候補者を立てるとか過半数の獲得を目指すとか言っていたが、これらは橋下一流の建前的「ホラ」のようなものだっただろう。そして、衆議院議員選挙で(合流後の)日本維新の会が民主党の57に次ぐ(ほぼ並ぶ)54議席を獲得したことは、第三極の失速とも言われた中での、大きな成果だっただろう。
 小選挙区での当選者が大阪府下に限られていたことをもって、全国的な広がりに欠けた、という論評もある。だが、選挙区では自民党2564万、民主党1360万に対して日本維新の会は694万で大きく劣ってはいたものの、比例区では、自民党1662万に次ぐ1226万を獲得して第二党であり、民主党の963万を大きく上回った。
 54という議席のかなりの部分は、比例区での獲得票の多さによる。そして、この全国的な(東日本を含む)比例区票の獲得は大阪中心の橋下・松井グループだけでは不可能で、石原慎太郎のネームバリューや(もともとたちあがれ日本が持っていた)全国的に散在する「保守」への期待によって可能になったものと思われる。繰り返せば、もともとの、橋下・松井グループだけの日本維新の会では、54議席の獲得は無理だったに違いないと思われる。
 そして、54という数は決して小さくはない。この欄の11/30付で「来月の総選挙の結果として憲法改正派2/3以上の勢力が衆議院の中にできるとは想定しがたい(この予測が外れれば結構なことだ)」と書いたのだったが、自民党と日本維新の会を合わせて、348も、みんなの党まで含めると366と、2/3をゆうに超える(3/4をも超える)議席を獲得してしまった。これで憲法改正(・自主憲法制定)が一挙に近づいたとはもちろん考えないが、理念的・理論的には改憲派の政党がこれだけの議席を衆議院で持っていることの意味は、決して軽視してはならないだろう。
 ところで、すでにこの欄の11/24と11/25で11/22の産経新聞上の佐伯啓思「正論」に言及したが、「大衆迎合の政治文化問う総選挙」というタイトルを掲げた同欄で佐伯啓思は、「今回の選挙の基本的な争点」は「あまりにポピュリズムや人気主義へと流れた今日の政治文化に決着をつけうるか否かでもある」と(も)述べていた。
 佐伯啓思にまじめに質問したいものだ。そのように述べていた佐伯啓思において、今回の総選挙の経緯と結果は、いったいどのように総括され、評価されているのか? 「大衆迎合の政治文化」は、あるいは「あまりにポピュリズムや人気主義へと流れた今日の政治文化」はさらに拡大したのか、それとも少しは(あるいは大いに)是正されたのか?
 この問いに答えることは、全国紙の11/22付で上のように述べた言論人の<責任>なのではないか。
 たまたま読んだ読売新聞12/30朝刊の中で、細谷雄一(慶応大学教授)は、「反原発や反増税などポピュリズム(大衆迎合主義)とも思える政策」という表現を用いて少なくとも「反原発や反増税」は「大衆迎合主義」の政策だったという見解を示し、これらの政策を掲げた政党は支持を得られなかった、とも述べていた。
 佐伯啓思にまじめに質問したいものだ。佐伯は11/22に「橋下徹氏の唖然とするばかりの露骨なマキャベリアンぶり」という言辞も使っていたのだが、日本維新の会、あるいは自民党の原発、増税、憲法等々についての諸政策は「大衆迎合主義」に陥っていたのかどうか。
 石原慎太郎グループとの合流前の維新の会の主張が<脱原発>寄りだったことは否定できず、それには飯田哲也(のち日本未来の党代表代行)等から成る大阪府市(?)エネルギー戦略会議の見解の強い影響があったと思われるが、石原グループとの合流後は、よい意味でこの点は曖昧になったと私は思っている。
 佐伯啓思は、「(政治)改革」という「大衆迎合主義」(・ポピュリズム)の流れの中に橋下徹や維新の会がある、という捉え方をこれまでし続けてきた。
 このような評価はそもそも適切だったのか。中高年層に「痛み」を求めることもあることを明言し、決して「大衆」受けはまだしそうにない「憲法」問題にも論及する日本維新の会は、そして橋下徹は、決して「大衆迎合主義」者・ポピュリストではないのではないか。
 真摯な言論人・研究者であるならば、佐伯啓思にはぜひ、上の問いに答えてもらいたいものだ。

1156/朝日・NHKとともに中国展を共催する毎日新聞12/12社説と総選挙。

 毎日新聞は、「第二朝日」などと言われないように、せめて朝日と読売新聞の「中間」あたりの読者層をターゲットにしたらどうなのだろう。日中国交「正常化」40周年記念の「特別展・中国王朝の至宝」を東京国立博物館・NHK・朝日新聞社!ともに「主催」していて(後援は日本外務省・中国国家文物局・中国大使館!)、中国・同共産党に不満を与えたくないためだろうか。
 毎日新聞の12/12の社説は、自民党の尖閣諸島への「公務員の常駐や周辺漁業環境の整備を検討する」という公約にイチャモンをつけている。
 同社説によると、「公務員を常駐させたり船だまりを造ったりすれば、日中の対立をことさらあおり、中国にさらなる実力行動の口実を与えかねない。紛争は日米の利益に反する」、のだそうだ。

 また同社説は、「自民党や日本維新の会の候補者に保守化の傾向が強まっていること」への憂慮を示している。
 今回の総選挙の注目点の大きな一つは、「左翼」政党がどの程度の議席を獲得するか(どの程度減らすか)、だと思っている。
 ここでいう「左翼」政党とは、東京都知事選挙で宇都宮健児を支持している党だといえば、分かりやすい。すなわち、日本未来の党、社民党、共産党だ。
 小沢一郎が「社会民主義」や「共産主義」の政党と手を組むまでに<落ちぶれた>ことも刮目すべきことだと思うが、それは措くとして、保守化・「右傾化」を憂えている毎日新聞は、これらの政党(または民主党旧社会党系の「左翼」)の主張と近似の主張をしているのであり、それがいかほどの国民または「世論」の支持を受けることになるのか、余計ながら真面目に再検討した方がよいだろう。
 もっとも、たとえば憲法改正・自主憲法制定や国防軍の設置が第一の争点になっていないこともあり、自民党と日本維新の会の個々の議員候補者や支持者が実際にどの程度これらを支持しているかは分からない。
 週刊現代12/22・29号によると、テレビ朝日系「報ステ」(12/07?)に出席した安倍晋三が石原慎太郎とともに「時間の3分の2近く」を使って憲法改正論を「ブチまくった」翌日、ある自民党選対関係者は「あれじゃ、まるで右翼だ。票を減らすのは確実だろう。終わった」と嘆いた、という(p.56-57)。
 週刊誌がいかほどに正確な記事を書いているかは十分に疑わしいが、以上が事実だとすると、まことに嘆かわしい自民党関係者の言葉だ。
 とくに社民党の福島瑞穂が喚いていていてくれるおかげで、憲法改正は低い順位ながらも選挙の争点にはなっている。そして、石原慎太郎のほか、かつて自民党草案をまとめた桝添要一(新党改革)、「ブレない保守」国民新党の自見某らが憲法改正はしごく当然のことという趣旨で発言しているので、改憲(とくに9条2項を削除しての正規「軍」保持)の主張が決して一部の「右翼」の主張ではない、ということが、ある程度はふつうの国民・有権者にも伝わっているようで、将来も考えると希望を持ってよいような気がする。
 だが、いずれまた書くかもしれないが、かりに改憲主張の政党が2/3以上の議席を得たとしても、ただちに改正の発議にはならないことは当然だ。
 参議院もあることとともに、やはり自民党と日本維新の会等が各党内で、どの程度結束し、どの程度の「本気・覚悟」を持つかにかかっている。安倍晋三・石原という党首が同意見であることが近い将来の改憲を楽観視できる根拠にはまったくならないだろう。
 月刊WiLLの1月号(ワック)が<私が安倍総理に望むこと>を10人の論者に(早くも?)書かせているが、西部邁の名もあるので興味を惹いた。
 そして、西部が温和しく(?)安倍晋三への皮肉を一言も記すことなく、安倍への期待を書いていることに驚き、ある意味では安心した。「右派」ではなく「保守リベラル・社民リベラル」の側に立つ旨を明言し、憲法改正に反対している(9条護持論に立つ)中島岳志と西部は全く同じではない、と見てよいだろう。
 もっとも、最後には、安倍への直接の皮肉ではないにしても、「…といってみたものの、この私、この世にそんな素晴らしいことが起こるとは少しも信じていない」、だから安倍はこの文章を無視してよいと書いているのだから、さすがに、西部邁はシニシストでありニヒリストだ。
 現実に影響を与える可能性のある言論活動をすることなどはとっくに諦め、自分の観念・意識の中でそれなりにまとまった世界を描かれていればそれで満足する、という境地に達しているかのごとくだ。発言内容は同じではないが、こうしたスタンスは佐伯啓思のそれともかなり似ていると思われる。
 総選挙について、各党の公約や党首の発言等々について、書きたいことは多いのだが…。

1153/西尾幹二が橋下徹について語る-月刊正論1月号。

 橋下徹を擁護する文章をこの欄に書いてはいるが、いつかも触れたように、この人物のすべてを、この人物の主張・言動のすべてを手放しで賞賛しているわけではない。
 ただ、橋下徹を「保守ではない」とか「ファシスト」・「ヒットラ-」だとか、あるいは佐伯啓思のごとくロベスピエール(の再来の懸念あり)>だとか、簡単または単純に決めつける論調が自称<保守派>の中にすらあることに強い危惧を覚えているのだ。
 佐伯啓思の名を先に挙げてしまったが、中島岳志-本質が「左翼」ならば当然だが-、適菜収、新保祐司、月刊正論編集長・桑原聡らがこれに該当する(藤井聡もこれらに近い)。
 月刊正論2013年1月号(産経)に、西尾幹二「救国政権誕生の条件と保守の宿命-危機克服のリ-ダ-に誰を選び、何を託すのか」がある。
 西尾論考全体の趣旨の方が重要だろうが、橋下徹への言及もあるので、ここでも触れておく。西尾が橋下徹に論及するのを読むのは初めてでもあるからだ。
 結論的に言って、西尾の橋下評は穏便で、無難なものだ。
 西尾幹二の橋下評は、「橋下氏は毀誉褒貶が激しいが、私は早くから好意を抱いてきた」から始まる(p.80)。続けて述べる-「言葉は激しく時に辛辣だが、意外に柔軟性がある。自分に対して謙虚なところもあって、彼からは決して傲慢なイメ-ジは受けないのである」。
 基本的に私と異ならない。はっきりと意見を述べることと、「ファシスト」・「独裁者」とはまるで異なる。そのような論評の仕方をする者またはグル-プの中に私は「左翼」を見い出してもきたのだ。
 西尾幹二が「都」は天皇のおられるところ一つで、「大阪都構想」はおかしいという点も同感できる。ただ、言葉遣いのレベルの問題で、東京都制のように政令指定都市ではない特別区をうちに含む大都市制度というイメ-ジで用いられている可能性はあるだろう。
 西尾幹二はまた、橋下に「地方」のイデオロギ-に「過度にこだわらないでほしい」と助言し、道州制には反対だと述べている。
 果たして橋下徹が<地方のイデオロギ->を持っているかは、とくに「イデオロギ-」という語が適切かは疑問で、コメントし難い。また、道州制の問題は種々の具体的制度設計にかかる議論が今後なされなければならない。「アメリカ式」の「州政府」を持つものに必ずなるのかは疑問だし、アメリカやドイツのように州憲法までもつ「道州」が日本で構想されているわけでもないだろう。
 「国家観の根幹がぼやけている危ういと思うこともある」、というコメントも理解できる範囲内だ。ついでながら、石原慎太郎・橋下徹らの日本維新の会は、できるだけ早く、制定を目指すという「自主憲法」の具体的内容を明らかにすべきだろう。
 西尾幹二の橋下徹への言及はつぎの文章で終わる。
 「どうかもっと勉強してほしい。若いのだから、歴史も法律も国際関係もいくら学んでも学び足りない謙虚さを一方ではもちつづけてもらいたい」。
 何と暖かい言葉だろう。40歳すぎそこそこの人間に過大な注文をつけるな、若造に高いレベルのものを要求した上で物足りないと言って批判・攻撃するな、というのは、単純で乱暴な橋下徹批判論に対して感じてきたことでもある。

 西尾幹二は安倍晋三、石原慎太郎についても興味深いコメントを明確にしている。紹介は省略して、今回はここまで。

1149/適菜収は「B層」国民は投票するな、と主張する。

 「B層」哲学者・適菜収は相変わらず橋下徹を攻撃しているようで、新潮45(新潮社)の今年10月号の冒頭近くの適菜「民主の次は維新? いつまでも懲りない人々」も、その一つだ。
 内容は容易に想像できることで、立ち入らない。(小泉改革→)民主党→維新の会の「大衆迎合」ぶりの連続を批判的またはシニカルに観ている佐伯啓思とも似た論調だ。
 興味をもつのは、では、適菜収はいったいどのような政治勢力を支持しているのか、適菜収は有権者国民に対してどのような投票行動をとるように求めているか又は期待しているか、だ。
 この点、じつに興味深いことを上の文章の最後に適菜収は述べている。以下のとおり。
 「前回民主党に投票し、そのことに少しでも良心の呵責を感じている人は、次の選挙には行かないことです」。「選択」に不向きの人が「選択をしようとするから道を誤るのです」(p.33)。
 なんと、(どの党にも)投票するな、棄権せよ、と言っているのだ。
 適菜収は橋下徹・維新の会を批判しつつも、橋下・維新ではなくどの政党が(相対的にであれ)好ましいかを明らかにすることができていない。

 また、上の文からは適菜収の、そのいう「B層」国民に対する激しい侮蔑の感情が窺える。適切に候補者の中からの適格者を「選択」できないような者は、投票するな、と述べているのだ。
 適菜収のこの論の行き着くところは、一定年齢以上の国民の全員が選挙権・投票権をもつ、いわゆる<普通選挙>制度の否定に他ならないだろう。
 「A層」哲学者だと自らを位置づけているに違いない適菜収は、彼のいう<B層>=バカな国民(=「マスコミ報道に流されやすい『比較的』IQが低い人たち」)には選挙権を認めないという、<普通選挙>制度否定論を真面目に主張してみたらどうか。

1147/橋下徹、石原慎太郎、安倍晋三、佐伯啓思、中島岳志。

 一 <左翼>は間違いなく橋下徹・維新の会を危険視・警戒視してきた。社民党も共産党も勿論だ。
 最近の某週刊誌に東京都知事選で宇都宮某を「市民派」・「リベラル」等だとして支持することを明記していた者に森永卓郎、池田理代子、香山リカ、雨宮処凜がいたが、社共両党が支持するこの元日本弁護士会会長を支持する者たちもまた、橋下徹に対しては批判的であるに違いない(すでに明確に批判している者もいる)。
 一方、<保守>の中では橋下徹・維新の会に対する評価が分かれたし、現在でも分かれたままであることは興味深いことだ。
 その橋下徹を石原慎太郎は義経に、自分を義経を支え保護する武蔵坊弁慶になぞらえ、橋下を義経ではなく頼朝にしたいとか発言していた。そして、石原新党は橋下徹・日本維新の会に合流した。
 安倍晋三も橋下徹に対して決して警戒的・批判的ではなく、将来における「闘いの同志」と言っていたこともあるし、衆議院解散後も「お互いに切磋琢磨して‥」などと言っていた。
 <保守>派論者はおおむね又はほとんど石原慎太郎・安倍晋三を支持しているか好意的だと思われるが、この二人には好感を持ち、かつ橋下徹は「きわめて危険な政治家」だとか「保守ではない」とか言って批判していた者たちは、近時の石原や安倍の橋下徹に対する態度をどう観ており、どのような感想を持っているのだろうか。
 石原慎太郎や安倍晋三は橋下徹の本質、その危険性を見抜いていないとして苦々しく思っているのだろうか、そして、この二人に諫言または忠告でもしたい気分だろうか。それとも、橋下徹に対する評価を少しは改めたのだろうか。
 二  佐伯啓思は産経新聞11/22の「正論」で、新日本維新の会について次のように述べている。
  「石原新党が合流した日本維新の会は、ただ『統治機構改革』すなわち中央官僚組織をぶっこわし、既成政党をぶっこわす、という一点で政権奪取をうたっている」。
 そのあと「橋下徹氏の唖然とするばかりの露骨なマキャベリアンぶりを特に難じようとは思わない」としつつ、かなりの国民が維新の会を支持しているとすれば、「われわれは民主党の失敗から何を学んだことになるのだろうか」と結んでいる。
 この後半部分はどうぞご自由に論評を、と言いたいが、その前提となっている、「ただ『統治機構改革』すなわち中央官僚組織をぶっこわし、既成政党をぶっこわす、という一点で政権奪取をうたっている」という認識は、学者らしくなく、あるいはある意味では学者らしく、あまりに単純すぎる。
 日本維新の会はもっといろいろなことを主張しているのであり、とりわけ「自主憲法の制定」の方向を明確にしていることを看過する論評は、大きな欠陥があるだろう。とても、緻密な?佐伯啓思の文章だとは思えない。
 三 「左翼」だと思われるが、自称「保守」または「保守リベラル」でもあるらしい中島岳志は、宇都宮健児・雨宮処凜・佐高信・本多勝一らとともに編集委員をしている週刊金曜日の11/16号の、朝日新聞にある欄の名称とよく似た「風速計」という欄に、「第三極のデタラメ」と題する文章を書いている。それによると、以下のごとし。
 橋下徹代表の日本維新の会とみんなの党は「リスクの個人化」を志向し、「小さな政府」に傾斜しているのに対して、「たちあがれ日本」は「リスクの社会化」を志向している。また、日本維新の会
と「たちあがれ日本」は「タカ派的主張」を中核にしているが、みんなの党は「消極的リベラルの立場」だ。
 こうして実質的にはこれら三者の合流は困難だと、のちに聞かれた「野合」論を先走るような叙述をしている。
 各党の個々の評価には立ち入らない。興味深いのは、学者らしく、あるいは厳密にはしっかりした研究者らしくなく、「リスクの個人化」か「リスクの社会化」か、「タカ派」か「リベラル」か、という単純な対比によって各党を評価しようとしていることだ。
 実際は、もっと複雑だと思われる。学者の、レッテル貼りにもとづく単純な議論はあまり参考にしない方がよいだろう。
 ところで、中島岳志は、橋下徹代表時の日本維新の会と「たちあがれ日本」の主張を「タカ派的」と称している。このような称し方は「左翼」論者や「左翼」マスコミと変わりはしない。まともな<保守>派論者ならば、改憲の主張を「タカ派」などと呼びはしないだろう。
 中島岳志の「左翼」ぶりは、今回の総選挙に際しての「緊急の課題」を次のように述べていることでも明瞭になっている。すなわち-。
 「保守・中道リベラルと社民リベラルが手を結び、新自由主義・ネオコン路線と対峙すること」。以上、上掲誌p.9。
 「新自由主義・ネオコン路線」という一時期の<左翼>の好んだ語がまだ使われていることも目を引くが、中島が「社民リベラル」に好意的であることを明瞭にしていることの方が面白い。
 中島岳志が<保守>であるはずがない。この中島を同好の者のごとく同じ月刊雑誌(「表現者」)に登場させている西部邁や佐伯啓思の<保守>派性すら疑わせる人物だ。

1145/石原新党と橋下徹・維新の会-憲法「破棄」か否かで対立するな。

 1 石原慎太郎、都知事辞職、新党結成・代表就任・総選挙立候補を表明。
 これについての、みんなの党・渡辺某と比べて、維新の会の国会議員団代表・松野頼久の反応ないしコメントの方がよかった。自民党も含めて「近いうち」の衆議院選挙の結果はむろんまだ不明だが、連携・協力の余地は十分に残しておいた方がよい。
 2 石原慎太郎と橋下徹(・維新の会)との違いの一つは、現憲法の見方にあり、石原は憲法<破棄>論であるのに対して、橋下は<改正>論である、らしい。つまり、石原は、渡部昇一の影響を受けてか、現憲法を<無効>と考えているのに対して、橋下は<有効>であることを前提にしているようだ(彼らの発言を厳密にフォローすることを省略するので、<ようだ>と記しておく)。
 おそらくこの違いもあるのだろう、橋下徹は、代表を務める日本維新の会の「傘下」にあるはずの東京維新の会の東京都議会議員が「憲法破棄」・旧かな遣いの大日本帝国憲法復活の請願に賛成したことについて、大きく問題視はしないとしつつも、クレームをつけた、という(10/09。都議会全体としては請願を否決)。
 石原慎太郎が産経新聞紙上で述べていた「憲法破棄」論については、この欄で疑問視したので子細を反復しないが、橋下徹の「憲法改正」論の方が適切だ。現実性はないと思うが、かりに国会で「憲法破棄」決議をしたところで法的には無意味で、そのことによって大日本帝国憲法が復活するわけでもない。国会についてすらそうで、現憲法によってはじめて府県レベルでも設置することとされた住民公選議員により構成される都道府県議会が、橋下も言っていたように、現憲法「破棄」決議をする権限はなく、かりに決議または請願採択をしてもまったく無意味だ。
 3 上のことをとくに指摘しておきたいのではない。あとでも触れるかもしれないが、この問題は今日ではほとんど決着済みの、議論する必要がないと思われる論点だ。
 なぜあえてこの論点に触れているかというと、この問題についての石原新党と維新の会の違いが強調されまたはクローズアップされて、両党の連携に支障が生じることを、あるいは支障の程度が大きくなることを危惧しているからだ。
 安部晋三内閣時代に2007年に成立しのちに施行された憲法改正手続法=正確には「日本国憲法の改正手続に関する法律」は、名称どおり、現憲法の有効性を前提にして、同96条によるその「改正」のための国民投票等の手続を定めたものだ。自民党の第一次、第二次の新憲法案も<憲法改正案>であり、ずっと前の読売新聞案も同様だったかと記憶する。
 橋下徹は 「日本維新の会としての方針としては、憲法破棄という方針はとらない。あくまで改正手続きをとっていく。理論上は憲法破棄ということも成り立ちうるのかもしれないが、その後現実的に積み重ねられてきた事実をもとにすると、簡単に憲法について破棄、という方法はとれないのではないのか」と発言したらしい。この発言のとおり、「理論上は憲法破棄ということも成り立ちうるのかもしれない」とかりにしても、上のような法律が安部晋三の新憲法制定の意欲のもとに作られ、重要な「改正案」も発表されているのであり、石原慎太郎・石原新党は、政治的・現実的に判断し、<憲法破棄>論に拘泥すべきではない、だろう。実質的に日本国民による新憲法の制定がなされる方向で、両党(と自民党)は連携・協力すべきだ。
 4 上の論点についての見解の相違が<保守勢力の結集>を妨げるようなことがあってはならない。
 この点、産経新聞(社)はどういう立場を採っているのだろうか。
 上記のように維新の会・東京都議会議員団は旧かな遣いの憲法に戻したいようだが、この主張およびそのもととなった都民の請願が産経新聞「正論」欄に掲載された新保祐司のそれの影響を受けているとすると、新保祐司と産経新聞は、極論すれば<保守派>の中に分裂を持ち込むものだ。そして、国民の過半数の支持による新憲法制定を妨害する役割を客観的には果たすものだ。また、石原の<憲法破棄論>が渡部昇一らの<現憲法無効論>の影響を受けているか支えの一つになっているのだとすると、渡部昇一らの議論もまた、極論すれば<保守派>の中に分裂を持ち込むものだ。そして、国民の過半数の支持による新憲法制定を妨害する役割を客観的には果たすものだ。
 念のため確かめてみると、産経新聞社に置かれたという数名による委員会の議論について、同新聞は「新憲法起草」とか「国民の憲法」起草とかと見出しを立てていて、<改正>と明記していないようだ。つまり、<破棄>論に配慮したとも解釈できる言葉遣いを採用しているように見える。
 また、「産経新聞出版」ではなく産経新聞社発行の月刊雑誌・正論(編集長・桑原聡)の今年8月号p.232-は、渡部昇一と大原康男の「対論/改正か無効か~日本が『日本』であるための憲法論」を掲載して、「改正か無効か」が大きな論点であるかのごとくとりあげている。この問題に関心を持つことや月刊正論上で取り上げること自体を批判はしないが、このとり上げ方は、月刊正論、そして産経新聞が少なくとも<憲法無効・破棄論>を一顧だにしないという立場ではない、ということを示しているだろう。
 また、上の二人のうち大原は実質的には有効・改正論者だと読めるが、大原が渡部に敬意を表して遠慮しているせいか、法学に「素人」だと自認している渡部にしゃべらせ過ぎており(大原は京都大学法学部卒でもある)、<憲法無効・破棄論>の無意味さを明確にするものには(私には残念ながら)なっていない。
 こうしたことも併せ考えると、産経新聞社・月刊正論(編集長・桑原聡)は、石原・同新党と橋下・維新の会の協力・連携を阻害する役割を果たしている可能性、そして今後も果たす可能性があると危惧される。
 月刊正論の編集長・桑原聡は橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと判断しているので、上の両党の協力・連携が阻害されるのは、少なくとも桑原聡の意図には即しているのかもしれない
 だが、産経新聞も月刊正論も少なくとも強くは批判していない安部晋三・現自民党総裁は、憲法改正のためには橋下徹・維新の会と連携する必要がある、あるいはそういう時期が来る可能性がある、という旨を発言している。橋下徹が現憲法96条の要件緩和に賛成していることは周知のことだ。
 大局を見ない、または国民の過半数の支持という重要なハードルを考慮しない主張や議論は(旧仮名遣い復活論も含めて)、新憲法の制定に賛成する立場の新聞や雑誌からは排されるべきだ。 
 5 <憲法無効・破棄論>はむろん、自民党の立場でもないと考えられる。この論に固執することは、石原新党と自民党との対立も深めることとなり、<保守派の結集あるいは連携・協力>を妨げることとなるだろう。自民党全体を<リベラル>または「左翼」と考えるならば話は別だが。

 憲法「破棄」論に立ち、<旧かな遣い>の憲法に戻すべきだ、という見解こそが「真の保守」だ、などという大きな、かつ危険な勘違いをしてはいけない。
 なお、中島岳志のごとき、現憲法9条改正(2項削除・国防軍明記)反対論は、言うまでもなく「保守派」のそれではない。
 6 上の渡部・大原対論も含めて、産経新聞や月刊正論の記事・主張・議論に、この欄で最近はほとんど言及していない。だからといって、何の感想も持っていないわけではない。以上で書いたものの中には、その一部は含まれているだろう。

1121/月刊正論の愚―石原慎太郎を支持し、片や石原が支持する橋下徹を批判する。

 〇月刊正論(産経新聞社)編集部の川瀬弘至は、既述のように、自らを「保守主義者」と称し、「今後は『真正保守』を名乗らせていただきます」とまで明言していた(イザ・ブログ4/04)。
 その川瀬弘至は同じ文章の中で月刊正論5月号の、橋下徹を批判する適菜収論考を「とってもいい論文」と紹介してもいたのだが、産経新聞4/03の月刊正論の紹介(宣伝広告)記事の中で、次のように書いていた。
 「橋下市長は、自分に対する批判にツイッターなどでいつも手厳しく反論する。今回の適菜氏による『保守』の視点からの批判には、どんな反応を示すだろう…」。
 その答えは、無視だった。4月初めの数日間の橋下ツイートは空白になっているので、何か事情があったのかもしれない。
 だが、月刊正論5月号とほぼ同じ頃に出た、「橋下首相なら日本をこう変える」と表紙に大きく銘打ったサピオ5/09・16号(小学館)の中の(特集・諸論考の中では少数派の辛口の)小林よしのり中野剛志の対談(p.20-)については、橋下徹は反応して、小林よしのり・中野剛志への批判・反論をツイッターで書いているので、橋下徹は月刊正論の方は(おそらくは知ったうえで)<無視>したのではないか、と思われる。
 小林よしのり・中野剛志と適菜収では、まるでネーム・バリュー(・影響力)が違う。加えて、適菜の主張内容は、小林よしのりらのそれと比較して、まるで話にならない、相手にするのも馬鹿馬鹿しい、というのが、無視したと仮定したとしての私の推測だが、その理由でなかったかと思われる。橋下徹は自ら「しつこい」とも書いているので、気に食わず、反論しておくべきと感じたとすれば、月刊正論5月剛の適菜論考にも触れただろう。
 しかし、何の反応もしなかった。それだけ、適菜収論考の内容はひどい(と橋下は判断したのだろう)。
 〇この適菜収については、これまた既述のように、「産経新聞愛読者倶楽部」という名のウェブサイトが、適菜の前歴も指摘しつつ、「産経新聞は適菜を今後も使うかどうか、よく身体検査したほうがいいでしょう」と助言?していた。
 しかし、産経新聞は―何ヶ月か一年かの約束でもしたのかどうか―適菜収を使うのをやめていない。
 産経新聞4/04に続いて5/04の「賢者に学ぶ」欄に適菜は再び登場して、橋下徹の名こそ出さないものの、「閣僚から地方首長にいたるまで政治家の劣化が急速に進んだ背景には、《偽装した神=近代イデオロギー》による価値の錯乱という問題が潜んでいる」を最後の一文とする文章を書いている。
 批判されている「地方首長」の中に橋下徹・大阪市長を含意させていることは明らかだろう。
 ところで、執筆者名は不明(明記なし)だが、産経新聞5/14の月刊正論紹介記事は「尖閣・石原発言を支持する!」 という特集が組まれていることに触れていて、一色正春の主張をかなり紹介している。その前にある次の文章は、月刊正論編集部の見解だろうと思われる。 
 「自分の国は自分で守る―。この当たり前の意識が、戦後70年近くも置き去りにされてきた。それが諸悪の根源だ。もしも石原発言に何かリスクがあるとしても、喜んで引き受けよう。私達は石原発言を断固支持する」。
 一色正春の主張内容との区別がつきにくいところが大きな難点だが、以下の文章は、月刊正論編集部の言葉のようにも読める。
 「繰り返す。私たちは今、スタートラインに立った。石原都知事が号砲を鳴らした。さあ、胸を張って走り出そう。続きは正論6月号でお読みください」(途中に改行はない)。 
 (なお、産経新聞本紙は購読しておらず、もっぱら電子版(無料)に依っている。この部分以外も同様)。
 このように石原慎太郎発言・行動を支持するのは結構なことだが、月刊正論編集部は、石原慎太郎産経新聞5/14の連載「日本よ」で書いている内容は支持するのだろうか??。
 石原のこの文章は大きな見出しが「中央集権の打破こそが」で、「……東の首都圏、大阪を芯にした関西圏そして中京圏と、この三大都市圏が連帯して行おうとしているのは中央集権の打破、国家の官僚の独善による国家支配の改善に他ならない」、から始まっている。
 また、「志のある地方の首長たちが地方の事情に鑑みた新規の教育方針を立てようとしても、教育の指針はあくまで文部科学省がきめるので余計なことをするなと規制してかかるが、その自分たちがやったことといえば現今の教育水準の低下を無視した『ゆとり教育』などという馬鹿げた方針で…」とか、「日本の政治の健全化のためには多少の意見の相違はあっても、地方が強い連帯を組むことからしか日本の改革は始まりはしない」とかの文章もある。
 「地方」の中に大阪市(・大阪市長/橋下徹)も含めていることは、石原慎太郎は橋下徹を支持して選挙の際には応援演説までしたこと等々からも疑いえないことだ。
 適菜収は月刊正論5月号で「地方分権や道州制は一番わかりやすい国家解体の原理ですと書いていた(p.51)。
 一般論・超時代的感覚での適菜の<中央集権>志向と、具体的・現実的な現在の状況をふまえての石原の<地方の連帯>等の主張は嚙み合ってはいないだろうが、ともあれ、ほぼ真反対の議論・主張であることは間違いない。
 これら石原と適菜の、矛盾する二つの文章を掲載する産経新聞というのは、はたして、いったい何を考えているのだろうか。何らかの一致した編集方針はあるのだろうか。
 適菜の言葉を借用すれば、「価値の錯乱」は、産経新聞においても見られるのではなかろうか。
 「価値の錯乱」は産経新聞社の一部の、月刊正論編集部においても見られる
 一方で橋下徹を批判・攻撃しておいて、一方で、その橋下徹を支持し、連携しようとしている石原慎太郎の(別の点での)発言を大々的に支持する特集を組むとは、少しは矛盾していると感じないのだろうか。
 橋下徹を批判する適菜収論考を(も)掲載するくらいならばまだよい。月刊正論の編集長・桑原聡自身が、自分の言葉として、橋下徹について、「きわめて危険な政治家」だ、「目的は日本そのものの解体にある」と明言したのだ。
 こんな単純で粗っぽい疑問・批判を加えることにより、産経新聞や月刊正論の購読者を一人でも失うとすれば、それは、産経新聞・月刊正論の<価値の錯乱>、いいかげんな編集方針に原因があるのではないかと思われる。
 私のような者の支持・支援を大きく失うようでは、<保守>メディアとしては立ちゆかないだろう、少なくとも日本の「体制派」・「多数派」になることはありえないだろう、と私は秘かに自負している。
 〇「保守」・「右派」、「左翼」・「共産主義」といった言葉は使わなくともよい。
 橋下徹は毎日放送・斉加尚代ディレクターの質問に対して、公立学校の教職員が入学式等で日本(国家)の国歌である君が代を歌うのは、<国歌だから。式典だから。君が代を歌うときに、起立斉唱するのは当たり前のこと。感覚で、「理屈じゃない」。>等と答えている。
 こうした橋下の答えが虚偽の、あるいはパフォーマンス的なものではないことは、<囲み取材>の雰囲気等々からも明らかだろう。
 しかるに、月刊正論編集長・桑原聡は―繰り返すが―橋下の「目的は日本そのものの解体にある」と思うと明記した(月刊正論5月号)。
 上のような<国歌・君が代観>の持ち主が、<日本そのものの解体>を目的として行動しているのだろうか??
 何度でも書いておきたい。何の、誰の影響を受けたのか知らないが、月刊正論編集長・桑原聡の<感覚>は異常なのではないか

1112/日本国憲法「無効・破棄」論について③。

 月刊正論(産経)6月号が発行されている筈だが、産経新聞の購読を辞めて広告も見ず、新刊雑誌として購入することも、編集長が桑原聡である間は、差し控える。
 一ヵ月前の月刊正論5月号が、わざわざ2頁余を使って、「ハイ/正論調査室」という欄の中で、<憲法
破棄>を可能とする二人の読者の回答を紹介している(p.330-332)。
 二人(A氏、B氏)とも60歳代の元公務員で共通し、日本国憲法(1947施行)は「無効」とする点でも共通している。
 異なるのは、まず、「破棄」または「廃棄決議」・「無効宣言(決議)」をする主体だ。
 A氏は「国会」と考えていて、「過半数の議決」があればよい、とする。
 B氏は「国会で決議」するか「最高裁で『無効』判決」を出せばよいとする。
 これらの回答を生じさせた契機となった石原慎太郎の発言・考え方を、最近の産経新聞3/05の連載「日本よ」から引用すると、次のようだ。 
 「憲法改正などという迂遠な策ではなしに、しっかりした内閣が憲法の破棄を宣言して即座に新しい憲法を作成したらいいのだ。憲法の改正にはいろいろ繁雑な手続きがいるが、破棄は指導者の決断で決まる。それを阻害する法的根拠はどこにもない」。
 このように三者三様で一致がないが、石原慎太郎のいう「しっかりした内閣」とはいかなる意味かは厳密にはよく分からない。但し、「内閣」に「破棄を宣言」する権限があると考えているのだろう。
 いかほどに厳密な法的思索を経ているのかは疑わしいが、天皇や「最高裁」も想定される中で「内閣」を権限主体として想定するのは、<無効>論者の中でもおそらく少数派だろう(主流派?は「国会」だと思われる)。
 そして、「内閣」が日本国憲法のもとでの内閣であり、日本国憲法下の公職選挙法にもとづき選出された衆議院議員・参議院議員から成る国会により選出された内閣総理大臣とそれが任命したその他の国務大臣からなる合議体を意味するかぎり(但し、婦人参政権を認めた等の公職選挙法改正は現憲法公布後・施行前。憲法施行後に頻繁に改正されて憲法とともに「国会」議員等を選出する根拠になっている)、石原説は成立しえない、と思われる。「内閣」を生んだ法規である日本国憲法を内閣が「無効」とし「破棄」するのは、子どもが親を殺すようなものだ。
 親あるいは血を継承した祖先の一人でも殺してしまえば自分自身(子ども)はこの世に存在していない筈なのであり、過去に生じた憲法を、憲法所産の「内閣」が現時点で「破棄」するなどというのは、明らかに背理だ。
 基本的に全く同じことはA氏やB氏のいう「国会」や「最高裁」についても言える。
 旧憲法下では「国会」はなく「帝国議会」だった。参議院はなく、貴族院が所謂第二院として存在した。
 両氏のいう「国会」が日本国憲法のいうそれであり、衆議院・参議院で構成されるものであるかぎり、「国会」なるもの自体が、日本国憲法(とそれに違反していない国会法等の法律)によって生み出されたものであり、「国会」による日本国憲法の「無効宣言」・「破棄」とは、親殺しであり、かつ完全に瞬間的に同時の<自分殺し>に他ならない。日本国憲法を「破棄」したあとまで、日本国憲法下での「国会」が存続するはずがない。
 この議論が現憲法41条が国会を「国権の最高機関」と称していることを根拠(の一つ)にしているとすれば、明らかな矛盾がある。「無効」であるはずの日本国憲法(の一条項)を根拠とする、という<背理>に陥らざるをえない。
 「最高裁判所」となるとますます日本国憲法所産のもので、「最高裁」が自分の親である日本国憲法を「無効」とする判決を出せるはずがない。
 戦前は「大審院」(と「行政裁判所」)で、憲法上の位置づけは大きく異なる。
 というわけで、第一に、いったい誰が(どの機関が)日本国憲法を「無効」宣言=「破棄」できるのか、という問題で、現時点での日本国憲法「無効」論は躓かざるをえない。
 「無効」視したいというセンティメント(気分・情緒)は理解できるが、もはや現時点では「無効」宣言・「破棄」は不可能だ。ありうるとすれば、国民または有権者の少なくとも過半数がそのような認識に立ち、何らかの方法で(数千万の署名を集めて?)意思表明することだろうが、どのような手続および意思表明の方法を採用するのかになると、途方に暮れる(「無効」論者で<国民投票>という手続・方法を提言する者はいないようだ)。
 A氏が述べるように(p.331)、1952年の「主権回復」後ただちに(または「すみやかに」)「無効」・「失効」宣言をして(旧憲法に戻すか)新しい・自主憲法を制定すべきだっただろう。
 その場合の「無効」宣言の主体の問題はやはりある。その場合に、天皇陛下(昭和天皇)の意思・認識も「無効」論を支持するものでなければならないのは不可欠の前提だったと思われる(日本国憲法は、昭和天皇の名において公布されているのだ)。
 主体・手続の問題はかつてもあっただろうが、60年後の現在と比べると、クリアできる可能性はまだ十分にあったと思われる。

 第二に、万が一上記の機関が権限主体たりうるとしても、「無効」宣言・「破棄」をする現実的可能性はあるか、という問題に、日本国憲法「無効」論はぶつからざるをえない。 
 A氏は正当にも次のように述べる-「現実問題として現憲法の廃棄なり無効宣言をするには、現憲法は正統性を有せず無効とする考えを持つ国会議員が衆参両院においてそれぞれ過半数いることが必要です」(p.331)。
 この必要性が充足される可能性に言及してはいないが、B氏がたんに<可能だ>という旨を回答しているにとどまるのに比べると大きな(第二の)違いで、より現実的に考えておられるようだ。
 しかし、上の「必要」性が充足されるとは、到底考えられない。
 現在、いくつかの政党が憲法改正案を発表しているが、<すべて>が、現憲法=日本国憲法は憲法として有効なものであることを前提としている。そしておそらくは、現在の国会議員の全員が(または少なくとも99%)が、日本国憲法を「無効」と考えてはいないものと思われる。
 つまり、「無効」論に立って国会議員を送り出している政党はゼロであり、「無効」と考えている国会議員はゼロか、存在しても1~2名だろう。
 このような状況において、各院の国会議員の「過半数」が日本国憲法「無効」論に与する可能性は皆無(ゼロ)だと言い切ってもよい、と考えられる。
 最高裁判所の裁判官についても同じことが言えるだろう。
 石原慎太郎のいう「内閣」説に立てば、現実的可能性はもう少し高くなりそうではある。しかし、それは法的には一種の<革命>か<クーデター>で、失敗する後者ではなく成功する前者になるためには、少なくとも国民の「過半数」(現実的には最低でも2/3以上)の賛同に支えられていないといけないだろう。
 しかして、国民の意識はどうだろうか。日本国憲法「無効」論の存在自体を知っている国民すら、おそらくは10%以下だろう。
 そのような現実が誤っており、正しい教育、正しい情報提供・言論活動をしていけば、必ず過半数のまたは2/3以上の国民が現憲法は「無効」のものだと認識するはずだ、と考え、主張するのも、論理的には誤っているわけではない。
 しかし、そのような状況に達することを目指して活動するよりも、<憲法改正>というかたちで、実質的に<自主憲法>を制定することの方が、はるかにてっとり早く、現実的可能性もはるかに高い。
 なお、一時期、<維新政党・新風>という政党がこのブログサイトにも登場していて、2007年参議院選挙に候補者を立てたりしていたが、この政党?が、明言してはいないものの、日本国憲法「無効」論に親和的であるようにも感じられた。だが、この政党は一人の当選者(国会議員)も出してはいない。
 ここまで書いてネット上で調べてみると、この政党?も、現憲法を「国際法違反の占領基本法」と(渡部昇一と同様に)称しつつ、憲法「改正」を志向しているようだ。→ 
http://seisaku.sblo.jp/article/3621051.html
 このような状況ではますます、国民の多数が「無効」論を支持し、国会議員の過半数でもって「無効宣言(・決議)」が行われる可能性はほとんどゼロであり、「夢想」にすぎない、というべきだ。
 月刊正論編集部は、こんな問題に2頁余を割くよりも、そんなスペースがあるならば、憲法改正の具体的内容に関する議論を掲載したらどうか。
 石原慎太郎を尊敬してはいるが、「しっかりした内閣」による現憲法「破棄」論だけは、気分・情緒は理解できても、支持することができないものだ(都民により「直接に選出」された東京都知事という地位もまた、日本国憲法の一条項にもとづく)。  

1111/日本国憲法「無効・破棄」論について②。

 今年2月下旬に石原慎太郎が現憲法無効・破棄論を述べたと伝えられたとき、無茶・無謀と感じつつ、ここでは採り上げないつもりでいた。佐伯啓思が<本来は無効>と書いたのを知っても、同様だっただろう。
 だが、再び論及したくなったのは、月刊正論5月号(産経新聞社)が、「ハイ/正論調査室」という欄の中で、<憲法破棄>の可能性を問う一読者の質問に対する別の二人の読者の回答を紹介し、かつ二人の回答はいずれも<(論理的には)不可能ではない>という点では共通していた、ということによる。
 わざわざ2頁余を、この問題に費やした産経新聞・月刊正論編集部(桑原聡編集長)の意図はわからないが、こういうかたちで議論が広がり、混乱・錯綜が生じることは<憲法改正(=新憲法制定)>のためにはよくないだろう。
 さて、石原慎太郎の「憲法破棄」論(憲法破棄可能が前提)は、現憲法は「無効」との論を前提としていると思われ、そして、憲法「破棄」とは「無効宣言」または「無効確認(決議・決定)」を意味している、後者と同意義のものだと理解して差し支えないだろう。
 そして、石原慎太郎発言を受けて、日本国憲法無効論者のブログサイトは勢いづいて?いるようでもある。
 しかし、この日本国憲法「無効論」は、①「破棄」または「無効宣言」という手続を一つ加えるために、<憲法改正(=新憲法制定)>を却って遅らせるものだ、②「無効宣言」・「破棄」の権限主体に法的問題もあり、かつ現実的にはそれが行われる可能性はゼロに近い、(したがって賛同できない)というのが私の結論だった(あくまでも要点の要約だが)。
 すでに、この欄の以下で、日本国憲法「無効論」については何度か論及してきた。詳しくは、以下を(有効の論拠については大石眞の著に言及したものを)参照していただきたい(このテーマ以外のものを含むものもある)。
 ①「「日本国憲法無効」論に接して―小山常実氏の一文を読む。」2007/04/23。  ②「渡部昇一は日本国憲法改正に反対している!」2007/04/26。  ③「立花隆の現憲法論(つづき)と国民投票法反対姿勢。」2007/04/28。  ④「日本国憲法無効論はどう扱われてきたか(たぶん、その1)。」2007/04/29。  ⑤「潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(PHP、2007)の渡部昇一氏による書評。」2007/04/29。  ⑥「小山常実・憲法無効論とは何か(展転社、2006)を少し読む。」2007/05/04。  ⑦「別冊宝島・日本国憲法特集号の「奇怪」と……」2007/05/10。  ⑧「小山常実氏の日本国憲法無効論に寄せて-その2。」2007/05/23。  ⑨「日本国憲法「無効」論とはいかなる議論か-たぶんその3。」2007/05/24。  ⑩「1956年3月衆議院内閣委員会での神川彦松公述人と石橋政嗣委員の質疑。」2007/05/28。  ⑪「大石眞・憲法講義Ⅰ(有斐閣、2004)の一部を読む-日本国憲法はなぜ有効な憲法か。」2008/12/26。  ⑫「竹田恒泰は安易に「真正保守」と語ることなかれ」。2009/10/05。  ⑬「もはや解散・総選挙以外にない+渡部昇一の妄論。」2011/03/03。  ⑭「西尾幹二は渡部昇一『昭和史』を批判する。」2011/07/07。  既述のように、日本国憲法「無効論」の影響を受けて、これを支持している者に、渡部昇一、兵藤二十八、秦奈津子らがいる。
 この人たちの文章を読むことはあるが、この欄で言及することがそのわりには少ないのは、渡部昇一らが安易に「無効論」に依りかかっている(がゆえに信頼性が低い)と感じているのが理由だ。
 月刊正論5月号での読者回答文や石原慎太郎の発言内容について言及するために、もう一回だけ、別の機会にこの欄でこのテーマを採り上げることにする。

1110/橋下徹の「手順」・「情報公開」感覚と「役立たず知識人」や月刊正論。

 〇橋下徹のツイッターについて松井一郎が「今日もストレスがたまっているんやな、という感じで見てます。早く寝ればいいのに」と語ったそうだが(産経新聞4/18の記事「一日平均11ツイート/つぶやきすぎの橋下市長に松井知事『ストレスたまってるんやな』」)、たしかに「ストレス」もあるだろう。但し、内容の当否について議論の余地はあるとしても、並々ならぬ文章力、論理構成力、熱意等々によるところも大きいだろう。
 宮崎哲弥月刊ヴォイス5月号(PHP)で、橋下徹は「他方で非常に手続き的政正当性にこだわる側面があって、府政にせよ、市政にせよ、つぶさにみればプロシージャー(手続き)に重きが置かれているのが特徴的です。…やはり弁護士出ということでしょう」と発言している(p.66)。
 さすがに宮崎は長年にわたって橋下徹を観察して、よく理解しているようだ。上は原発再稼働問題に関連したものではないが、ブログを読んでいると、橋下徹は、原発の危険性を過度に強く認識しているというよりも、民主党政府が進めている再稼働に向けての「手順」を問題視し、批判している、と理解できる。
 消費税問題について小沢一郎の言い分の方が正しいと橋下徹が言って小沢グループは喜んだと伝えられているが、これまた、民主党は選挙マニフェストで逆のことを書いていた、それとの矛盾を指摘する小沢の方が「論理的」に正しい、というだけのことで、全体として小沢一郎という政治家への信頼を語っているのでは全くないと思われる。
 朝日新聞が消費増税に賛成していることも橋下徹は批判している。また、橋下徹が市長選で「公約」していなかった教育関係条例の制定を朝日新聞の(大阪の?)記事が批判したこと等々に対して、その記事の記者を名指ししてツイッターで、ではなぜマニフェストに書いたのと真逆のことをしている民主党を批判しないのかと、正しい「論理」でもって反論・批判したりしている。異なるテーマも含むが、例えば、以下。
 「朝日新聞は本当にご都合主義。原発の是非を決める住民投票について大阪市議会は否決をしたけど、朝日新聞はそれにご不満。僕は署名した5万5000人の熱い思いをしっかりと受け止めて関西電力に対して新しい電力供給体制に向けての株主提案をします。しかし朝日新聞は住民投票をやりたい模様。」

 「朝日新聞はいつも僕に言ってるじゃない。物事を二者択一に単純化するな!もっと議論を尽くせ!中身を説明しろ!議論が拙速だ!白か黒かで決めるな!…だから今回は朝日新聞のご意見に従ったのですが。原発を是か非かで決めちゃいけないと。」(3/28)。 

 「君が代起立斉唱条例の採決の際には強行採決だ!と朝日新聞や毎日新聞は批判し続けた。マニフェストにも載っていなかった!と。消費税増税に関する今回の民主党内での決定についてはどう考えるんだ?国政は議院内閣制なので法案を出す前に過半数を獲る攻防がある。まさに今の状況。」

 「しかし朝日も毎日も消費税増税だから民主党には決めろ決めろの大プレシャーをかける。民主党のマニフェストにも増税のぞの字もなかった。むしろ消費税は上げないと明言していた。ほんと朝日も毎日も都合が良いよ。自分たちの好きなことは決めろ!自分たちの嫌いなことは決めるな!赤ん坊だね。」(同上)
 原発再稼働問題については、例えば以下。 

 「定期検査後の再稼働に原子力安全委員会の安全コメントは現行法上不要だ。ただそれは福島の原発事故が発生する前の平時の手続き。定期検査が目的だから定期検査だけで良い。民主党政権は完全に統治を誤った。今大飯に求められているのは定期検査ではない。安全性なのだ。定期検査と安全性は全く異なる」

 「民主党政権は、大飯の原発を定期検査の手続きで再稼働している。政権(保安院)が確認したのは定期検査を確認したまでだ。定期検査については、安全委員会はコメントしなくても良い。ところが定期検査の手続きを踏んだだけなのに、民主党政権は安全宣言をした。完全に国民を騙した。」

 「安全委員会は法令上、定期検査についてコメントをする立場にはない。ということは民主党政権は、大飯の定期検査をやっただけだ。これが今回の安全委員会のコメントではっきりとした。にもかかわらず政権は安全宣言。危険だ。これはもはや統治ではない。」

 イデオロギー的に「反原発」ではないことはもちろん、原発の危険性・安全性に関する特定の立場・考え方に立っているわけでもないように見える。
 橋下徹にとっては、決定の「手続」・「手順」、「統治」のシステム・プロセス(・仕方)に基本的な関心があるように見える。
 そのかぎりで、産経新聞4/20の社説「原発と橋下市長/電力確保の責任はどうした」は、気分は分かるが、必ずしも橋下徹に対する正面からの批判になっていない面があることを否めないだろう。
 〇橋下徹は、「手順」を重視するほか、(プロシージャーではなく)ディスクロージャーにも相当に熱心な政治家(地方自治体首長)だ。
 4/16~4/19の、大阪市改革プロジェクトチームと各部局の施策・事業(改革)担当者との間の「オープン議論」が、出席者全員の顔と発言内容(声)も含めて、すべて、大阪市のホームページを通じて、ユーストリームでビデオ(動画)として、(事後的にだろうが?)「公開」されていることをごく最近になって知り、一部を実際に見て驚いた。橋下徹はもちろん、大阪市職員の顔も発言もすべて、おおっぴらだ(なお、その会議に配布された資料は上記ウェブサイトから入手することもできる)。
 〇「ワンフレーズ・ポリティクス」とかいう言葉があり、小泉純一郞の手法はそれだと言われもしたが、橋下徹のツイッターや上記動画を見ると、橋下徹は「ワン・フレーズ」どころではない。
 テレビ等では数語で何かを断定するかのごときコメントを発しているような印象もあるが、それはテレビ局の「編集」による「ぶった切り」によるところも大きいようだ(橋下徹がテレビ用に意識して短くしている側面もあるだろう)。
 〇橋下徹のツイッターの内容や動画上での会議での発言の仕方等を見聞きしていると、いったいどこに「ファシスト」、「アナーキスト」、「デマゴーグ」がいるのかと、そのように断定的に書いた者たちの<神経>を疑いたくなる。
 上掲の宮崎哲弥発言が載っている座談会で、萱野稔人は橋下徹について「彼や彼の政策を現段階で『〇〇主義』と表現するのは、過大評価でもあるし、見くびっていることにもなる気がします」と言っている(月刊ヴォイス5月号p.73)。
 萱野稔人とはどういう人物か知らないが(宮崎に「萱野さんは本当に左翼だったの?」と言われている。p.71)、上の発言は、的確だろう。
 同じ座談会の中で宮崎哲弥は橋下徹について「彼のうちにナショナリスティックな意気が宿っていることは疑いえません」と、また「文化左翼の嫌いな体育会的な気風も多分にもっている」と、語っている(p.66)。
 なぜ「左翼」は橋下徹を嫌うのかについては書いたこともあるが、宮崎哲弥も言及しているように、簡単には、「保守」的または「右派」的な心性をもつ人物だからこそ、「左翼」はこぞって批判した(している)に違いないと考えられる。そして逆に、石原慎太郎は自らに近い「心性」・「感性」を橋下徹のうちに見出したのだろう。
 日本共産党は誰が「敵」かを、さすがに鋭く掴んでいるように思われる。
 民主党・自民党推薦だった前市長平松某よりも、自分たち・日本共産党にとってのはるかに強い脅威を、橋下徹に見出したからこそ、あえて民主党・自民党が推したのと同じ候補を支持したのだ(自党独自の候補を降ろしてまで。<反・反共統一戦線>)。
 そうした中で、自称<保守>派の佐伯啓思・中島岳志・藤井聡・東口暁という<西部邁・佐伯啓思グループ>が種々の観点から橋下徹を批判し、<保守>派らしき、「真正保守」を名乗る編集部員もいる産経新聞社発行の月刊正論5月号の巻頭で適菜収は橋下徹を「全体主義」者扱いし、国家解体を狙う「アナーキスト」だ、「デマゴーグ」だと断じた。
 月刊正論編集長・桑原聡までが-くどいが繰り返しておく―橋下徹を「きわめて危険な政治家」、「目的は日本そのものの解体にある」と明言した。
 こういう構図は、どこかきわめて奇妙なのではないか。倒錯が見られるのではないか。
 中国共産党の「工作」は、日本の<保守>系論壇・雑誌(評論家・編集者等々)にすら及んでいるのではないかとすら考えたくなる。
 小泉純一郞・民主党・橋下徹をすべて「(構造)改革」派と一括して理解して批判する佐伯啓思も、あまりに単純かつ短絡的だ。小泉「改革」と民主党(の意図した)「改革」と橋下徹(の意図している)「改革」とは、一括できるほどに同じなのか(=共通性が大きいのか)? 佐伯啓思にしてすら、学者らしき抽象化・単純化、概念・言葉の操作(・遊び)があると思えてならない。
 上記の萱野稔人の言葉を再び引用したいところだ。
 別の、中央公論5月号の<官僚覆面座談会>から、最後の二つを、一部省略して紹介して、今回は終えておこう。
 B「…期待しすぎてもいけないけれど、彼のような政治家を殺してはいけないと思う」。
 A「…ここでした批判や意見についても徹底的に勉強して、対抗するために研鑽を積む」だろう、「批判をすべて養分にしてしまう。そういう希有な人物であることは間違いない」。(以上、中央公論5月号p.133)。

1108/日本国憲法「無効・破棄」論について①。

 一 佐伯啓思産経新聞の昨年2011年の9/19、すなわち講和条約締結ほぼ60年後に、連載コラムの「日の蔭りの中で」で、①同条約によって主権を回復したと言っても、占領期に日本は「完全に」主権を喪失していたわけではなく、日本国政府は存在していたので、「主権はせいぜい『制限』され」ていた、②同条約締結(・発効)後も、日米安保条約により「国防という主権の最高の発動を『制限』されて」いるので、「いまだに日本は『不完全な主権国家』ということになる」のではないか、と述べる。相当に乱暴に要約したが、講和条約の前後でさほど大きな(質的な)変化はなかったのではないかと、(佐伯啓思らしく)辛口で?分析しているわけだ。
 また佐伯は最近4/16、講和条約発効ほぼ60年後の同連載でも、「同条約と同時に日米安全保障条約が締結された」ことにより、「形の上では日本は主権国家となり、実体の上では『不完全主権国家』となった」、と同旨を述べている。「戦後日本の繁栄であり発展であるとされるもの、すなわち日本が得た『利』は、実は、『完全な主権』をいまだに回復していないがゆえに可能だったということになる」とも書いている。
 翌日4/17の産経新聞「正論」欄では稲田朋美が「主権回復記念日を設ける意義は」と題し、自民党が4/28を「主権回復記念日として祝日に」する法案を国会に提出したことから書き始めていることと対比すると、本当に「主権回復」したのか?、そんなに喜んでよいのか?と佐伯啓思はあらかじめ言っているようで、なかなか面白い。
 この対立?について、ここでコメントしたいのではない。稲田朋美も、「主権回復記念日を祝うということは、安倍晋三首相が掲げた『戦後レジームからの脱却』を今一度わが党の旗にすること」だとか述べ、「今年の主権回復記念日を、日本が…真の主権国家になる始まりの一日に、そして保守政治再生の一歩にしたい」と結んでいるので(現状は「真の主権国家」ではないと言っているようであったりするので)、そもそも基本的な対立があるかどうかも疑わしい可能性がある。
 二 佐伯啓思の4/16の連載コラムで関心を惹いたのはむしろ、「サンフランシスコ条約締結以前の占領状態は、公式的にいえば、いまだ戦争継続中なのであり、広義の戦争状態における占領である。日本には主権はない。したがって、『本来』の意味でいえば、あの憲法は無効である。憲法制定とは、主権の最高度の発動以外の何ものでもないからだ」と書いていることだ。
 「本来」の意味では無効、ということの正確な意味はむろん問題になるが、なぜ関心を惹いたかというと、石原慎太郎が最近(も)、日本国憲法「無効」かつ<破棄>論を述べているからだ。
 産経新聞3/26の「新憲法起草/熱帯びる地方-石原、橋下氏が牽引」と題する記事は次のように伝える。
 「東京都の石原慎太郎知事は今年2月下旬、『占領軍が一方的に作った憲法を独立後もずっと守っている。こんなばかなことをしている国は日本しかない』と強調、憲法破棄と自主憲法制定を呼びかけた。/大阪市の橋下徹市長率いる『大阪維新の会』も3月上旬に公表した公約集『維新八策』の原案で憲法改正を明記。橋下氏は『平穏な生活を維持しようと思えば不断の努力が必要で、国民自身が汗をかかないといけない。それをすっかり忘れさせる条文だ』と憲法9条批判も展開している」。
 石原慎太郎は産経新聞3/05の連載コラムで「歴史的に無効な憲法の破棄を」と題して、たとえば次のように明言している。
 「憲法改正などという迂遠な策ではなしに、しっかりした内閣が憲法の破棄を宣言して即座に新しい憲法を作成したらいいのだ。憲法の改正にはいろいろ繁雑な手続きがいるが、破棄は指導者の決断で決まる。それを阻害する法的根拠はどこにもない。/敗戦まで続いていた明治憲法の七十三条、七十五条からしても占領軍が占領のための手立てとして押しつけた現憲法が無効なことは、美濃部達吉や清瀬一郎、そして共産党の野坂参三までが唱えていた」。
 佐伯啓思は「ではどうすべきか」を書いてはいないのだが、憲法が「本来」の意味では「無効」だと、あるいは、石原慎太郎とともに<センティメント(情緒・気分)>としては現憲法は「無効」だと、言いたいし、そういう情緒・気分も理解できる。しかし、現在における現実的かつ法的な議論としては、日本国憲法「無効」・<破棄>論は成り立たないし、成り立つべきでもない、と考える。
 さらに続けるつもりだったが、長くなったので、次回にする。
 なお、橋下徹の、憲法九条に限っての「国民投票」による(憲法九条改正問題の)決着、という意見にも、完全には同意しない。この点に、いつ言及できるだろうか。橋下徹のツイッターをすべてフォローすることはできないように、この欄のために費やせる時間が無限にあるわけでもないので、困ってはいる。

1105/「保守」は橋下徹に「喝采を浴びせ」た(桑原聡)か?

 月刊正論(産経)編集長・桑原聡は、同5月号の末尾、「操舵室から」と題する編集長コラムの中で、「保守を自任する人々まで、……橋下氏に喝采を浴びせるが、」と書いたあとで、橋下徹を「きわめて危険な政治家」、「目的は日本解体そのものにある」と断じた。
 上にいう、「保守を自任する人々まで、…橋下氏に喝采を浴びせる」との認識は正確なものだろうか?
 「保守」派、あるいは「保守を自任する人々」のうち誰が明確に橋下徹に対して「喝采を浴びせて」いるのだろうか。
 橋下徹に関する論評類のすべてを見ることはむろんできないが、大阪市長戦後の産経新聞の昨年の11/28で、「保守」派だとふつうは思われているだろう産経新聞の政治部次長・石橋登は、「橋下氏は救世主なのか。それとも破壊王なのか」と、やや長い署名記事を結んでいた。喝采を浴びせてもいないし、「大衆迎合の危うさ」という見出しもあるほどで、少なくとも肯定的・積極的にのみ橋下徹を評価したわけではなかった。
 産経新聞を含む選挙前の報道の仕方自体、「保守」派らしき産経新聞も含めて、決して橋下徹に有利で好意的はものではなかった。「左翼」人士たちが大阪まで行って集会等を行い(それが逐一報道され)、週刊文春や週刊新潮が露骨な<反橋下>の記事を載せたことはよく知られている。関西の書店では、<反橋下>の本の方がはるかに多く目立つところに並べられていただろう。橋下徹自身の書物(堺屋太一との対談本を含む)の他には、彼を応援する<保守>派の書物などは一つもなかったのではないか。
 選挙・投票当日の朝の産経新聞の第一面には、対立候補・平松某の最後の演説の遠望写真のみが(写真としては)載っていた(有名な場所なので記事と照合するとどちらの陣営のものかが簡単に分かった)。橋下徹がリード、との予測を各紙がしていたにもかかわらず、だ。
 橋下徹市長の誕生後の産経新聞紙上でも、櫻井よしこ遠藤浩一櫻田淳らの、名うての?<保守>派論客も、橋下徹への明確な判断を避けていて(単純かつ性急に批判・非難する桑原聡よりはまだマシだが)、最近触れたように、佐々淳行が橋下徹への期待または「祈念」を語っていたのが、むしろ目立つくらいだ。
 いったいどこに、「橋下氏に喝采を浴びせる」「保守を自任する人々」がいるのか? 桑原聡は、虚偽を書いているのではないか。
 「保守」を自認している<西部邁・佐伯啓思グループ>が、佐伯啓思中島岳志藤井聡など、橋下徹を明示的に(桑原聡と同じく)厳しく批判していることは、この欄で言及したとおりだ。
 橋下徹を支持・応援している人々として挙げられうるのは、石原慎太郎堺屋太一のほか、特別顧問や政治塾の講師になったりしている、中田宏山田宏古賀茂明高橋洋一らだと思われ、必ずしも多くはない。
 こうした名前を記していて気づくのは、橋下徹を支持・応援しているのは、政治・行政の実務をしているか、その経験がある者ばかりだ、ということだ。
 反面ではこのことは、もっぱら<口舌の徒>であることを生業としている者たち、つまり、評論家や大学教授類で橋下徹支持を明確にしている者はほとんどいない、ということを意味している。
 <文章書き>だけの世界では、あるいは<文章書き>たちと接触している編集者たちの世界では(新潮45の編集長も含めて)、むしろ<反橋下>がモーデ(Mode、ムード)なのではないか。
 そのムードの中に「真正保守」の川瀬弘至・月刊正論編集部員もいるのだろう。
 そうした中で、産経新聞4/14の高木桂一のコラムなどによると、自民党の小泉進次郎は2/10に、橋下徹・維新の会に関して、「…新しい勢力がそこに刺激を与えてくれる。自民党にとってそれが危機感となって、自分たちを省みて『よくしなきゃいかん』という方向に行くならプラスじゃないですか」と答えたらしい。
 「デマゴーグ」とか「きわめて危険な政治家」と簡単に言い放つ「口舌の徒」の者たちに比べて、政治家らしく、冷静で、<大人>だ。

1085/橋下徹を単純かつ性急に批判する愚②―佐伯啓思ら。

 〇いよいよ「御大」の西部邁も橋下徹批判の立場を明確にするようで、隔月刊・表現者(ジョルダン)の41号(2012.03)は、ほぼ橋下徹批判一色のようだ(未入手、未読。産経2/20の広告による)。これで<西部邁・佐伯啓思グループ>は一体として橋下徹批判陣営に与することを明らかにしたことになる。
 それにしても不思議で、奇妙なものだ。相も変わらずの言い方になるが、他の「保守」論者を「自称保守」とか呼び、産経新聞も批判したりしている少なくとも<自称>保守主義者たちがそろって、その勝利を深刻な打撃と受けとめている上野千鶴子とともに、民主党のブレインと目されかつ厳しく批判していた山口二郎とともに、そして日本共産党、民主党や両党系公務員労働組合とともに、橋下徹たち(大阪維新の会)を攻撃しているのだ。
 明瞭な「左翼」による橋下徹警戒論・橋下徹批判といったいどこが違うのだろう。違いがあるとすれば、分かりやすく説明してほしいものだ。やや戯れ言を言えば、「左・右両翼」から批判される橋下徹らは大したもので、<中道>のまっとうな路線を歩もうとしているのではないか??
 〇ふと思い出したのだが、竹内洋・革新幻想の戦後史(中央公論新社、2011)は、戦後の「進歩的知識人」について「知識人の支配欲望」という言葉を使っている(p.104)。
 竹内洋の叙述から離れて言うと、毎日新聞に連載コラム欄をもち、(あの!)佐高信と対談本を出しもしている西部邁は、言論によって現実(世俗)を変えることをほとんど意図しておらず、それよりも関心をもっているのは、あれこれの機会や媒体を使って発言し続けることで、自分の存在が少しでも認められ、自分が少しでも「有名」になることではなかろうか。
 失礼な言い方かもしれないし、誰でも「名誉」願望はあるだろう。だが、知識人あるいは言論人なるものは、現実(世俗)との緊張関係のもとで、現実(世俗)をいささかなりとも「よりよく」したいという意識に支えられつつ発言しつつけなければならないのではなかろうか。
 現時点における橋下徹批判はいったいいかなる機能を現実的には持つのだろうか。
 自称「保守」ならば常識的には、<西部邁・佐伯啓思グループ>は反日本共産党・反民主党だろう。だが、このグループの人たちは自民党支持を明確にしているわけではなく、佐伯啓思がつい最近も産経新聞に書いているように「小泉改革」・「構造改革」等には批判的だ。それでは「立ちあがれ日本」あたりに軸足があるかというとそうでもなさそうで、「立ち日」立党を応援していた石原慎太郎が支援している橋下徹を攻撃している。まさか「反小泉」で国民新党を支持しているわけでもあるまい。
 <西部邁・佐伯啓思グループ>の知識人??たちも、書斎や研究会を離れれば一国民であり、一有権者であるはずなのだが、彼らはいったいどの政党を支持しているのだろうか。支持政党はなく、「政治(政党)ニヒリズム」に陥って参政権は行使していないのだろうか。それはそれでスジが通っているかもしれないが、そのようなグループに一般国民に対して「政治」を論じる資格はないだろう。
 好きなおしゃべりをし、活字に残し、「思想家」らしく振る舞っていたければそれでよいとも言えるのだが、佐伯啓思・反・幸福論(新潮新書、2011)の最後の章は、民主党政権樹立を煽った「知識人」たちの責任をかなり厳しく批判している。
 佐伯啓思ら自身にも「知識人」としての対社会的<責任>があるはずだ。橋下徹という40歳すぎの、まだ未完成の、発展途上の政治家をせめて<暖かく見守る>くらいの度量を示せないのだろうか。
 将来のいずれかの時点で、2012年初頭に橋下徹を攻撃していたことの「自称保守」
知識人・評論家としての<責任>が問題にされるにちがいない。
 〇佐伯啓思の最近の二つの文章については、さらに回を改める。

1066/橋下徹はなぜ「左翼」に攻撃されたのか。

 橋下徹が大阪市長選で勝利。大阪府知事選でも大阪維新の会の松井一郎が当選。
 感想や書きたいことは多い。
 (日本)共産党は大阪市内で最低でも10万票くらいあると言われていたが、独自候補を降ろして民主党等と「統一戦線」を組んでも、共産党のいう「独裁」者・橋下に勝てなかった。府知事選でも、独自候補・梅田某と民主党・自民党推薦の倉田某の票を合わせても、松井の得る票数を下回るようだ。独自の府知事候補を立てていなければ、という可能性も否定されたことになる。府・市いずれも慶賀すべきことだ。
 なぜ、日本共産党はすでに自民党(大阪府)も推薦している候補を勝手連的に支持してまで橋下徹の「野望を打ち砕く」(敗戦後の梅田某の言葉)ことを企図したのか。
 なぜ、はるばると札幌(北海道)から、山口二郎中島岳志(いずれも北海道大学教授)という「左翼」教授が飛んできて、民主党等の候補・平松某と並んで立って反橋下演説をぶったのか(中島岳志は西部邁グループでもあるので注記が必要だが、省略)。
 なぜ、佐高信香山リカ等の「左翼」知名人は大阪まで行って橋下徹攻撃をしたのか。元社民党・現在民主党の辻元清美が反橋下で演説したのは大阪出身なので当然として、あえて念頭には置かない。
 それは、橋下徹に、明瞭な<反左翼>心情(>「反共」意識)があることに気づいていたからではないか、と思われる。
 そうでないと、日本共産党を含む、執拗とも思える<反橋下>の動きを理解できない。
 橋下徹の人間・言説を十分には知らないが、かつての日弁連執行部(日弁連に「巣くう活動家」)批判らしきものを仄聞していると、おそらく橋下はやはり明確な<反左翼>主義者だろう。
 そして、民間テレビ局出身の典型的な<戦後民主主義者>と見える平松某とは異なり、既存の<戦後体制>らしきものを壊そうと藻掻いているのが橋下徹であるように見える。
 その点を私は肯定的に評価しているのだが、従来の<平和と民主主義>体制の維持(・強化)を意図する「左翼」勢力にとっては、(「自由と民主主義はもうやめよう」と説く佐伯啓思と同じように?)橋下はきわめて<危険な>人物だと判断されたのではないか。
 将来はまだ未知数のところはあるが、現状を大きく逸脱・変化させるだけの意図も力もないことが明らかだと見える平松某に比べるのは平松某に気の毒なほどに、橋下はかなりの可能性を秘めた人物だ。
 石原慎太郎(東京都知事)は最終日に大阪市へ行ったらしいが、「出自に関する暴露的な報道」に「義憤」を感じて、だとも伝えられている(読売新聞11/26ほか。マスコミ・週刊誌の問題は別の機会に書く)。
 と同時に、石原慎太郎は橋下徹について「見所がある」と評価していたとも伝えられている。
 石原慎太郎は、橋下徹のうちに自らが持つのと同じような心性・心情のあることを感じとっていたのではないか。
 自民党幹事長・石原伸晃は愚かにも父親が大阪へ行くのを(少なくとも最終日までは)止めた、という情報もある。
 自民党(とくに大阪)についても別に書く。
 ともあれ、日本共産党が集中攻撃していた「反左翼」橋下徹らの勝利は目出度いことだ。逆の結果であるよりは、はるかに精神衛生によい。
 なお、橋下徹らが表向き「反左翼」であることは、もともとは自民党・公明党の支持を受けて民主党の候補を破って大阪府知事になったのであること、松井一郎はもともとは自民党選出の大阪府会議員だったことでも明らかなことだ。
 だが、長期的な将来や日本全体のことを考えている「左翼」陣営は(佐高信はもちろん、山口二郎や中島岳志を含む)、表向き以上の(思想にまで及ぶ?)<危険性>を橋下徹のうちに見ていたに違いない、と思っている。それで、とりあえず、このような一文になった。

1060/猪木武徳・戦後世界経済史(中公新書)を一部読む。

 猪木武徳・戦後世界経済史―自由と平等の観点から(中公新書、2009)p.372以下の要約的紹介。
 ・近代化の一側面は「平等化」で、万人の「法の前の平等」は、「近代社会」の「偉大な成果」だった。しかし、そこに「奇妙な論理のすり替え」が起こる可能性を看過すべきではない。人は法の前で「平等であるべき」なのであり、「事実として人間の有様が同じ」なのではない。しかし、「『真』の理想に燃える『社会哲学』」は、人は「平等であってしかるべきだという考えを押し広め」た。
 「平等」への情熱は「自由」のそれよりも「はるかに強い」もので、既得の「自由の価値」は容易には理解されないが、「平等の利益」は簡単に感得される。「自由の擁護」と異なり、「平等の利益の享受」には努力は不要だ。「平等を味わう」には「ただ生きていさえすればよい」(トクヴィル)。
 ・だが、「平等は自由の犠牲において」実現することが多い。すべての人が「自由かつ平等な社会」は「夢想でありフィクション」にすぎない。平等をめざして自由が失われ、自由に溢れた社会では平等保障がないことは「過去二〇〇年の世界の歴史」が明らかにした。
 ・「デモクラシーの社会」には多様で複雑な課題があり、新しい価値選択を迫られるが、それには「高度の専門性」が必要であるにもかかわらず、一般国民、そして政治家に十分な知識があるというのは「フィクションに近い」。このフィクションを「メディアや一部の啓蒙家」が補正するのは限界がある。したがって、「問題に対する理解」が不十分ならば、「最終的判断のベース自体があやしい」ものになる。
 民主国家に重要な、国民による「倫理的に善い選択」には「十分な知識と情報が必要」だ。難問を処理する「倫理」を確かなものにするには「知性と情報が不可欠」なのだ。
 ・トクヴィルのアポリア(難問)=「平等化の進展は自由の浸蝕を生む」は「人的資本の低い国に起こる可能性が大きい」。この「人的資本」の重要な構成要素は「市民道徳を中心とした『知徳』」だ。かかる意味で、「人的資本の蓄積の不十分な」=「知徳の水準が不十分な」国でのデモクラシーは「全体による全体の支配」を生み出しやすい。
 これは経済的後進国のみを指しているのではなく、「日本のような経済の先進国でも、市民文化や国民の教育内容が劣化してゆけば、経済のパフォーマンス自体も瞬く間に貧弱になる危険性を示唆して」いる。
 以上。なかなか示唆に富む。
 最後の部分を表現し直すと、「人的資本」、すなわち市民道徳・倫理(「知徳」)の水準が低下していくと、民主主義国も「全体による全体の支配」を生み出す傾向があり、日本についても例外ではない、ということでもあろう。
 そうであるとして、日本においてそのような<全体主義>へと近づく「人的資本」の劣化をもたらしているのは、いったい何なのか?
 教育であり家庭であり…、ということになろうが、「一億総白痴化」を実際にもたらした<テレビ>を含む、大衆に媚びる、「知徳」の欠乏した、戦後の<マスコミ>も重要な一つに違いない。
 石原慎太郎・新堕落論(新潮新書、2011)も読み終えているが、日本人の「堕落」の原因をしっかりと剔抉する必要がある。
 なお、石原慎太郎によれば、例えば、戦後の日本人の心性の基軸は「あてがい扶持の平和に培われた平和の毒、物欲、金銭欲」で、日本人が追求し政治も迎合している「価値、目的」とは国民各自の「我欲」で、我欲とは「金銭欲、物欲、性欲」だ(p.40-41)。
 こうした「我欲」に満ちた、「市民道徳」を失いつつある日本国民に、<全体主義>化を抑止するだけの「知徳」をもつことを期待できるだろうか。「テレビ局」をはじめとする大手マスコミは、逆に、日本人の「我欲」追求を助長している大犯罪者なのではないか。

1049/「教育」界の「左翼」支配。

 〇石原慎太郎だったか、岡崎久彦だったか、見知らぬ人からこのままで日本は大丈夫なのでしょうかと話しかけられることが多くなったというような旨を昨年あたりに書いていた。
 あえて主観的願望を抜きにした客観的な(と私には見える)状況判断をすると、すでに日本はダメになった、日本はダメになってしまっている、と思える。少なくとも、もはや元に戻れない限界点を超えている、と感じている。つまり、<保守>に勝利の見込みはもはやない。ゆるやかに(緩慢に)わが愛する日本は「日本」でなくなっていっており、その基本的な流れはもはや変えようがない。すでに41年前、三島由紀夫が予見したとおりになっている。
 但し、国内状況はそうだが、中国共産党による中華人民共和国の支配の終焉=社会主義中国の崩壊が辛うじてでも時間的に先にくることがあれば、少しは希望がある。これは、日本国民、日本の政治だけではもうダメだ、ということをも意味する。こんな思いをもって晩年を生きるのは、つらい。
 〇中西輝政のいう、教育・マスコミ・論壇という「三角地帯」のうちの「教育」が「左翼」に支配されていることは明らかで、むしろそれは自然のことかもしれない。
 高校以下の学校教育で教えられているのは、「個人」主義・「平等」(男女対等を含む)、「民主主義」・「平和(反軍事)」等々の基本理念だ。
 これらは日本国憲法の基本理念でもあり、大学教員以外の学校教育の担当者になるために必要な「教員」免許を取得するためには、「日本国憲法」は必修科目であり、実際にどの程度、どのような問題が出題されているのかは知らないが、当該免許を取得しようとする者の全員が「日本国憲法」を学習していることは間違いないだろう。
 しかして、「日本国憲法」の基本理念は何か。一口で言えば、上記の如き「左翼」的理念だ。

 かつまた、彼らが学習する日本国憲法に関する教科書・参考書類はいったいどのような者たちが執筆しているのか。日本共産党員を含む「左翼」的憲法学者に他ならない。日本の憲法学界は今日に至るまでずっと、圧倒的に「左翼」に支配されている、と言ってよいだろう。
 そのような「憲法教育」を受けた教師が、確信的「左翼」か、少なくとも「何となく左翼」になってしまうのは、自然の成り行きだ。そして、彼らは、自分たちが年少の頃に受けたような「左翼」的教育を、次の世代の子どもたちへと引き継いでいく。
 日教組・全教の組織率は低いなどと言って安心するのは愚かなことだ。あるいはまた<保守的>教科書の採択率が何倍増かしたといって喜ぶのもまだ愚かなことだ。その<保守的>教科書ですら、私には「自虐的」・「進歩的」と感じられる部分があるが、それは別としても、たかが5%程度の採択率になって喜んでいるようではダメで、まだ5%程度にすぎないと嘆く必要があるものと思われる。

 「日本国憲法」から離れて、教育学に目を向けても、この学問分野が「左翼」に支配されてきていることは、竹内洋が月刊諸君!(文藝春秋)や月刊正論(産経)の連載で示してきた。手元に置いて再確認はしないが、戦後当初の東京大学教育学部は「三M」とやらが支配し、日教組を指導した(研修集会等の講師陣を担当した等を含む)といったことも書かれてあった。
 かつて日本共産党系全学連委員長で民青同盟の幹部だった(かつ「新日和見主義」事件で査問を受けて党員権停止。その後かなり遅れて共産党を離脱した)川上徹は、東京大学教育学部出身だった。
 川上徹の自伝ふうの本は読んでいないが、彼が共産党の活動家になっていくことについて、彼が所属していた大学と学部の雰囲気は、容認的・促進的であったに違いない。
 大学を除く高校までの教員は圧倒的に教育学部系の学部出身で、「左翼」的教育学を学んでいる。彼らのほとんどが「左翼」あるいは少なくとも「何となく左翼」にならないわけがない。
 (高校・中学の)日本史の教師については、大学で学んだ「日本史」(国史)、とくに近現代史がどのようなものだったかが問われなければならず、そして、日本近現代史学は「左翼」、そして講座派マルクス主義の影響がきわめて強い。日本史の教師は、そのような「左翼」またはマルクス主義歴史学者のもとで勉強して教師になり、生徒たちに教えているのだ。
 <保守>派の教科書採択に現場教員たちの根強い抵抗があるらしいのもまったく不思議ではない。
 日本史を高校等での「必修」科目とすべきとする主張がある、あるいはすでにそれは一部では実現されているらしいが、いかなる内容の「日本史」教育、とくに明治以降の歴史教育、であるのかを問題にしないと、現状では、逆効果になる可能性もあると考えられる。「左翼」的、マルクス主義的教師担当の科目が「必修」になったのでは目も当てられない。
 政経・公民等の科目の教師については、主としては大学の法学部での教育内容および担当大学教員たちの性向が問題になる。憲法学については上記のとおりだが、全体としても、社会あるいは世間一般と較べれば、「左翼」、そしてマルクス主義の影響力が強いことは明らかだろう(「人権派」弁護士はなぜ生じてくるのかを思い浮かべれば、容易に理解できる)。
 
〇以上は、思いついた一端にすぎない。こうした「教育」現場の実態、「左翼」支配、を認識することなく、「保守」論壇・「保守的」団体という閉ざされた世界の中で、「そこそこに」有名になり、「そこそこに」収入を得て、いったいいかほどの価値があるのか、と問い糾したいものだ。<大河の一滴から>とか<塵も積もれば…>という意味・価値をむろん全否定するつもりはないが。
 例えば40万部売れたなどと自慢しているあるいは宣伝している「売文」家や出版社があるが、かりに倍の80万人に読まれたとしてもその全員が内容を支持したことにはならず、また、全員が支持したとしても、日本の選挙権者のわずか1%程度でしかない。
 雑誌や単行本の影響力は執筆者たち等がおそらく考えているよりはきわめて小さく、圧倒的多数の国民・有権者は日々の大手マスメディア、とくに大手テレビ局のニュースと一般新聞の「見出し」によって、現在の日本(・日本の政治)のイメージ・印象を形成している、と思われる。狭い世界の中で「自己満足」しているのは愚かしいことだ。

1033/菅直人と「法治国家や議院内閣制」等々。

 一 昨年の参議院選挙の前に「たちあがれ日本」という政党のそれこそ立ち上げに石原慎太郎が尽力または協力していたようで、当時、石原慎太郎は都知事を辞めて国政選挙に出て参議院議員となり、<最後のご奉公>をするつもりではないか、と感じたことがあった。また、そうであれば、この政党は石原の知名度の助けもあってかなりの議席を取れるのではないか、とも予測した。
 石原慎太郎の議員立候補とはたぶん無関係に、櫻井よしこらをはじめ、<真の>保守政党に少なくとも自民党よりは近いらしいこの政党に期待する向きも(保守論客の中には)多かったようだが、選挙結果は芳しくなかった(なお、山田宏らの「創新党」は議席一つすら獲得できなかった)。
 今でも、石原慎太郎が今年の都知事選挙に結局は立候補するくらいならば、昨年の国政選挙に出てもらいたかったと思うのだが、このあたりの話題は雑誌・週刊紙類でほとんど読んだことがない。
 二 「たちあがれ日本」には、平沼赳夫の他に片山虎之助がいるようだ。
 この片山のウェブサイトによると、片山虎之助は、7/22に参議院予算委員会で次のように発言した。このサイト内の「メールマガジン」によると、最後の第五点は次のようだ。
 ⑤「首相の『脱原発依存』の記者会見は、まさか個人の意見表明ではなかった筈で、言いっ放しでなく、本当の政策転換につなげて行く努力が求められる。しかし、首相には法治国家や議院内閣制についての認識が乏しいような気がしてならない」。

 最後の指摘の根拠はこれだけでは必ずしもよく分からないが、第二次補正予算案の6割近く(復旧・復興予備費)についての、「使途を決めない、政府に白紙一任するような8千億円の予算は、国会軽視で問題だ」という指摘(②)は根拠の一つなのだろう。
 阿比留瑠比の産経7/31の文章によると、片山は「菅直人首相は法治国家や議院内閣制に正しい理解があるのかなと思う。自分だけで独裁者であったら、この国は回りませんよ」と述べたらしい。こちらの方が、上のメールマガジンの文章よりは臨場感がある。
 そして、阿比留も指摘しているように、菅直人の答弁が「従来の長い自民党のやり方は、ほとんどの決定を官僚任せにしてきたのを見てきたので…」というものだったとすると、まことに菅直人は「法治国家や議院内閣制」について何も理解していないように思える。
 ところで日本国憲法66条第三項には、こうある-「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ」。
 この条項を現菅直人内閣はきちんと履行しているだろうか。今さら指摘するようなことでもないが、首相と経産大臣の意思疎通のなさ、後者の涙ぐみ答弁、「忍」との手文字等々は、内閣不一致も著しく、とても<連帯して>国会=国民の代表機関に対して責任を負っている、とは思えない。これだけでも十分に内閣不信任に値するとすら感じるが。
 三 菅直人は憲法を松下圭一から学んだとか書いたか発言したはずだ。岩波新書に「市民自治の憲法理論」等々を書いている「左翼」出版社お墨付きの学者・松下圭一は、しかし、憲法学者ではなく、政治学者。「憲法の専門家」がどの程度信頼できるかという問題はあるが、そもそも松下は憲法の専門家ですらないのだ。
 菅直人はまた国際政治を永井陽之助に学んだ、とかも書いているか発言したはずだ。
 松下圭一の名をとくに出すことも含めて、このような菅直人の学者名の列挙は、むしろ憲法・政治・国際政治等々に関する基礎的な学識のなさを窺わせる。なぜなら、これらをきちんと勉強していれば、それぞれの分野で一人ずつくらいの名前しか挙げられないはずはなく、首相たる者は、問われてあえて挙げるとすれば誰にするか、困るというほどでなければならないはずだ。そして、通常は、名指しできない人物に失礼にあたるので、影響を受けた学者の特定の氏名などを、首相が簡単に挙げたりはしないものだろう。
 しかるに、菅直人の<軽さ>=無知蒙昧さはここでも極まっている。社会系の学者の名を挙げて、理系出身の自分でもきちんと勉強して知っていますよ、と言いたいのかもしれないが、叙上のような特定の数人の専門書(らしきもの)しか読んだことはないのではなかろうか。そして、菅直人の脳内に蓄積されているのは、<市民活動>の中でてっとり早く読んできた、諸団体の機関紙類の断片的で煽動的な(学問性の乏しい)、かつ「自民党政治」を批判する目的のものを中心にした、論理や概念なのではなかろうか。
 鳩山由紀夫に続いて、菅直人もダメだ。ひどいレベルにある。「たらい回し」されるかもしれない民主党の三番目の人物ははたして大丈夫なのか?? 

1032/新保祐司の産経7/05「正論」-文芸評論家は文章に「厳密」か?

 産経新聞7/05の「正論」欄の、新保祐司の論考。「文芸批評家」等の肩書きで、文学部畑だろう。少なくとも、法学部出身者ではないだろう。
 「決起」と天皇との関係に関する三島由紀夫と福田恆存の対談内容の一部についても感じたことだが、「法的」思考の残る三島と<勝ってしまえば法的理屈など後からどうにでもつく>旨を語っていた福田とを較べれば、やはり法学部出身者でもあった三島由紀夫の思考方法になじみがある。三島由紀夫は<法的連続性>あるいは<法的正当性>というものを意識していたと思われる。
 以上は以下に書くことと直接の関係はない。ただ、「文芸」評論家なるものにあまり信頼を置いていない、という日頃の感想を記しただけだ。さらに贅言すれば、石原慎太郎は小説も書き文芸評論のようなこともしているが、法学部出身で、かつ国会議員でもあったし、さらには東京都知事という<行政実務>すら経験し、熟知している。たんなる文芸評論家や大学教授の言よりは、総じていって、石原慎太郎の発言の方に信を寄せたい(と書きつつも、あまりこの欄で取り上げていないが)。
 さて、上記の新保祐司論考についてだが、違和感があるし、また文章・「論理」も相当に奇妙なのではないか。
 ①新保によると、3月大震災以降の「今日」・「現在」において、日本人の生き方の根本的見直しが必要になっているが、それは、「戦後的な国家観や人間観は、破綻したからである」。
 また、新保によると、「東日本大震災は、まさに時代を画するものであり、『戦後民主主義』の息の根を止める威力を持つものであった」。
 以上は、(自らが客観的な事実だとするところの)客観的な「認識」の叙述のはずだ。つまり、新保において、「戦後的な国家観や人間観」は「破綻」し、「戦後民主主義」は「息の根を止め」られた、と認識されているのだ(直接引用のとおりで、そう理解して誤っていないはずだ)。
 ②しかるに、新保はこうも書く。「戦後民主主義」に対する批判あったし、「戦後レジームからの脱却」を唱えた政治家もいたが、「『戦後民主主義』というものはなかなかしぶとく、結局、今日まで慣性の法則で惰性的に続いている」。
 あれれ? 「戦後的な国家観」等は「破綻」し、「戦後民主主義」は息の根を止められたのではなかったのか? ①とは矛盾する「認識」が叙述されている。
 ③さらに、新保はこういう書き方もする-大震災が「結果として『戦後民主主義』を終わらせることになるのは間違いない」。
 これは、主観的要素を含まざるをえないと通常は考えられる、<将来予測>だ。
 ④つぎを読んで、ますます(少なくとも私は)混乱する。新保はこうも書く-「この非常時には、それを支えてきた現行憲法や戦後的な諸制度が虚妄であることが暴露された……。だから、『戦後民主主義』はできる限り早急に退場すべきである」。
 これは<将来予測>でもなく、現時点での<べき>論を語っている。新保の主観において、「戦後民主主義」を「退場」させるべく、彼や読者(国民)は努力あるいは運動す「べき」なのだ(そう理解して、大きく誤っているとは思えない)。
 何となく感じられる言いたいだろうことの当否は別として、上のような、「論理」の次元の異なる、率直に言って<矛盾した>文章を読まされると、とてもついていけない。
 「文芸評論家」だから許される、というものではないはずだ。むしろ「評論家」を名乗るからには、一体何を言っているのかを、曖昧にして言外に覚らせるようなことをすることなく(これにも失敗しているが)、明確にすべきだ。
 A客観的な現在の事実・事態の「認識」と、B将来の事実の「予測」とC現在から将来にかけてこう「あるべき」・「すべき」という論とは、それぞれ別のものであり、明確に区別すべきだ。
 これらの混淆した文章を一流の?新聞で読まされたのでは、たまったものではない。
 かつて習ったものだ。Sein (存在)と Sollen(当為) の区別を知らなければならない。二つのいずれを語っているかを理解しなければならず、自ら語る(叙述する)場合には、二つのいずれの次元の問題を扱っているかを明瞭にしておかねばならない。
 「戦後体制」・「戦後民主主義」は終焉しておらず、なおも続いている。その点では、大震災自体が画期になるものではない。かかる「認識」にかかわって他に言及したいこともあったが、長くなったのでやめる。
  

1016/西部邁・中島岳志ら「表現者」グループは「保守」か?

 ・「西部邁事務所」を「編集」者とする隔月刊・表現者(ジョルダン)の37号(2011.07)の座談会の中で、代表格かもしれない西部邁はこんなことを発言する。
 大震災数日後に日本の「自称『保守派』の中心的な機関紙」の産経新聞がトップで、米国の「トモダチ作戦」が機能し始めて「実に有り難い」と「吠えまくった」。左翼も右翼も「国家」を「丸ごと他者にあずけてしまう」(p.47)。
 調子に乗って?、あるいは追随して?富岡幸一郎は次のように語る。
 戦後憲法を作ったアメリカが「非常事態を執行する」という「第二GHQ作戦」を米軍は福島で想定していた。産経新聞の礼賛の意図は不明だが、「国家主権なき、国家意識なき、国家理性なき戦後の正体が露出した事態だ」(p.47)。
 むろん厳密に正確に全文を引用してはいないが、上のような発言からは、反米(・自立?)の気分と親米保守?の産経新聞に対する嫌悪感が明らかだ。
 そもそもが、かかる感覚は「保守」のものか。「保守」の意味に当然に関係するが、米軍の東北地域での活躍をもってその存在の重要性を認知させるための意図的な計略だ旨を強調したらしい沖縄の「左翼」マスコミと、いったいどこが違うのだろうか。
 反米・自立が「保守」の要素たりえないとは考えない。だが、優先順位というものがあるだろう。少なくとも私の理解からすれば、「保守」とは何よりも先ず<反共>でなければならない。
 佐伯啓思もそうなのだが、西部邁ら「表現者」グループには、反共産主義(反コミュニズム)・反中国(・反中国共産党)の意識、あるいはそれにもとづく発言や論考が少ないのではないか。反共よりも反米を優先させたのでは、とても「保守」とはいえないと考えられる。
 ・思い出して確認すれば実例を別の機会に示すが、「左翼」の文章の中には、本題とは離れて、末尾か「むすび」あたりで、唐突に「保守」派を批判するまたは皮肉る文章を挿入しているものがある。その場合に、石原慎太郎を右派・保守の「代表」と見なしてか、石原慎太郎の発言等をとり上げていることがある。
 似たような例が、上の表現者37号の同じ座談会の中にもある。中島岳志は、次のように発言する。
 石原慎太郎は『NOと言える日本』の中で、「日本はアメリカに対してテクノロジーにおいてはもう追い付いた、だから自信を持て」と言っている。ここに「はからずも見えて」いるのは「戦後日本の『保守派』のナショナリズム」の問題性の一つだ。「日本のナショナリズムの根拠」を「テクノロジーの優秀さ」に求めるという「トンチンカンさ」がある。一般に、「保守派」の「ナショナリズムの内実こそが問われている」(p.34)。
 「保守」にとってのナショナリズムの意味・内実を問い直すのはよいが、上の石原批判は的確なのかどうか。石原に対する親米(「アメリカニズムを疑ってなんかいない」)保守派というレッテル貼りを前提として、揚げ足取りをしているのだけではないか。
 もともと日本人の「テクノロジーの優秀さ」が日本人が古来から形成してきた知的能力の高さや精神・技術の繊細さ・適応能力等の柔軟さに由来するとすれば、それは堂々と誇りに感じればよく、それが自然だろう。中島岳志が「日本のナショナリズムの根拠」の一つを「テクノロジーの優秀さ」に求めることに違和感をもっているとすれば、この人物は日本人ではなく、日本の「保守」派でもないのではないか。
 ついでに書けば、中島岳志は、原発は「アメリカ依存の賜物」だ、そういうアメリカ依存の「戦後なるもの」を考え直す必要がある、「僕たちが本気で『近代の超克』という座談会をやってみせないといけないような思想的な環境におかれているのではないか」、とも発言する(p.48)。
 中島はいったいなぜこんなに気負っているのだろう。こんな大口を叩ける資格があると考えているとすれば、傲慢で、面白いほどに噴飯ものだ。また、ここでいう「僕たち」とは誰々のことなのだろう(この座談会出席者は他に、西部邁・佐伯啓思・原洋之介・富岡幸一郎・柴山桂太)。
 そもそも、中島岳志は自らを「保守」と位置づけているようだが、週刊金曜日という「左翼」小週刊誌の編集委員でもあり、「保守リベラル」などと称して朝日新聞にも登場している。
 また、西部邁とともに、専門的な法学者またはケルゼン研究者から見れば嗤ってしまえるようなバール判事意見書(東京裁判)に関するつまらない書物を刊行してもいる。
 中島岳志とは、客観的には、日本の「保守」陣営を攪乱させるために、「左翼」から送り込まれた人間なのではないか、という疑いを捨てきれない。こんな人物を「飼って」いる西部邁もどうかしていると思うし、何とも感じていないようでもある佐伯啓思も、どうかしているのではなかろうか。
 ・この「表現者」グループも、自主憲法の制定(現憲法九条2項の削除等)には賛成するのだろう。その意味では大切にしておくべき、せっかくの集団だが、―産経新聞を全面的に信頼しているのでは全くないものの―奇妙な、首を傾げる文章・発言も目立つ。他にもあるので、別の機会に触れる。

0860/月刊正論5月号(産経新聞社)を一部読む。

 1.月刊正論5月号(産経新聞社)が表紙に掲げる「総力特集」は「民主党よ、どこまで日本を壊したいのか」。「日本」と「壊」だけは赤文字になっている。
 上の文の意味は私は解るが、少なくとも民主党・代表(首相)の鳩山由紀夫(その他の民主党の主流派の面々)には理解不可能ではなかろうか。
 「日本を壊」そうなどとしていない、とムキになって反論してくるのならまだマシだが、「日本」などという(偏狭な・排他的な)国家意識をこそ民主党は破壊して、「国民」ではない「(地球)市民」による共生の社会を目指そうしているのだから、「日本を壊し」てどこが悪いのか、むしろ「日本を壊したい」のだ、と開き直るのではないか。
 そういう人物には、月刊正論の表紙の言葉は、馬に念仏、蛙のツラに何とか、とやらで、何ら心に響かないと思われる。編集者を批判しているのでは(必ずしも)ない。言葉・文章でもって議論なり説得なりをしても、決して判らない、納得しない人々もいる、ということだ(判り、納得して<反省>する人が皆無ではない、ということを否定はしないが)。
 2.さて、最近の各号についての通例として、まず、竹内洋「続・革新幻想の戦後史」を読む(p.254~)。
 小田実が「新手の右」と思われていた時期もあった(またはそう思っていた人も一部にはいた)こと、石原慎太郎は60年安保の頃、「江藤淳や大江健三郎などと『若い日本の会』をつくって安保改定反対の行動をしていた」こと(p.256)などは、初めて知った。
 全体としては、竹内の小田実との接触(?)体験の叙述等が生々しく記憶に残る一方で、「小田実」は「鬱と躁」をかけめぐった、というまとめ方(p.254、p.263)はあまり面白くない。個人の「心理」・「情緒」の揺れに焦点を当てて、「戦後史」全体につなげられるのだろうか、と思いもする。
 ともあれ、いずれ単行本になるだろう。まとめて読んでみたい。

 3.いくつかを一部ずつ読んだあと、石川水穂「マスコミ走査線」の連載(p.162~)。多数の新聞等をすべて読むことはできないので、こういう記事(?)は重宝する。
 これによると、高校授業料無償化につき朝鮮学校も対象とするかという問題については、全国紙社説等で朝日・毎日・読売は賛成、産経のみが反対または疑問視らしい。

 これでは全国紙レベルでは(そしておそらく地方紙も)、<世論>の勝敗はほとんど明らかだろう。青木理は週刊現代4/10号で、「日本ではまたぞろ憂鬱極まりないニュースが飛び交っていた」などと述べて産経新聞(だけ?)の主張を大きく受け止めて、感情的に反発する文章を書く必要はないのではないか。
 4.前回言及した筆坂英世の本には、日本共産党機関紙「赤旗」(日刊)の発行部数は<約130万に落ちた>旨の文章がある。
 週刊現代4/10号p.54、p.56によると、「大手」新聞各社の2009年下半期の発行部数は以下のとおり(()内は前年比?)。

 ①読売1001万(+)、②朝日801万(-14000)、③毎日373万(-96000)、④産経166万(-460000)(日経の数字は紹介されていないようだ)。
 これを信じるとすると、産経新聞の166万は、日本共産党「赤旗」130万と、あまり変わらないではないか。
 新聞では産経新聞、月刊政治(総合)雑誌では月刊正論、だけを読んでいたのでは、<KY>になりそうだ(日本国民全体の<空気は読めない>)。
 もちろん、その<空気>に、産経新聞社記者・山本雄史のかつての見解のように、<従う>必要はまったくないのだが。
 今回の文章は産経新聞(社)に対する嫌味に満ちていると感じられるかもしれない。

 5.次いで、竹田恒泰「政治家が『大御心』を語る危うさ」(p.208~)。

 これに書かれている天皇陛下等の「お考え」はおそらくは事実に相違ない、と私は感じた(つまり<女系容認>というご意向を「忖度」できない)。
 タイトルでは「政治家」になっているが、この文章の最後は、「政治家や官僚、そして学者や言論人までもが自由に天皇の大御心を語り、…を正当たらしめようとすることを、国民は許してはいけない」、だ。
 小林よしのりの名は一言も出てきていないが、最近の小林よしのりの論に対する明確な批判になっている(と感じた)。

0723/カール・ポランニー「ファシズムの本質」等、佐伯啓思。

 〇 週刊エコノミスト5/5・12合併号(毎日新聞社)で、佐伯啓思がインタビューに答えて、同・大転換-脱成長社会へ(NTT出版)の要旨のようなことを述べている。最近に言及した読売新聞の記事より詳しい。
 全く余計だが、同誌同号の巻頭の斉藤貴男のコラムは東京都の五輪誘致活動につき石原都政が「切り捨てた福祉や教育、小児医療等」の予算を財源とする「許されざるカネ儲けの典型」と批判。さらに、石原慎太郎は「何かと言えば戦争だ戦争だと喚き立て、女性や在日外国人や障害者や、社会的弱者に罵詈雑言を浴びせては居直った」等とそれこそ<罵詈雑言>を浴びせている。九条2項護持派・「左翼」は石原慎太郎のやることはみんな憎いのだろう。毎日新聞は朝日新聞の亜流、第二朝日新聞なのかもしれないが、その発行する雑誌の巻頭には、もう少しはまともな神経の持ち主の、上品な文章を掲載してほしいものだ。
 〇 佐伯啓思・大転換(NTT出版)の書名が、カール・ポランニー(1886~1964)の『大転換』に倣っている又はヒントを得ていることは、佐伯も記している。
 その『大転換』ではなくカール・ポランニー・経済の文明史(ちくま学芸文庫、2003。初出単行本は1975)の訳者・平野健一郎「あとがき」によると、ポランニーは「社会主義者」だっともされるが大学卒業後にハンガリー急進党書記長を務めたほかは「非政治的」だった(p.416)。但し、ソ連のフシチョフに「人間的社会主義」を見い出して「平和共存」のための理論誌の創刊を複数の者とともに企図した(没後刊行)とされる(p.418)。『大転換』の刊行は在米中の1944年。
 上掲書の解説者・佐藤光「解説/ポランニー思想の今日的意義」によると、ポランニーは「社会主義者であった」ともされるが(p.432)、彼へのマルクスの影響は「元来限定的なもので」、『大転換』における資本主義批判は「マルクス主義的」というよりも「ユダヤ=キリスト教的」なものだった(p.434)。また、晩年の著作には、「人間的自由の全面的な実現を過激に求めて失敗したロシアのボルシェビズムをはじめとする思想や運動への、そして、それを支持したかつての自分自身への、苦い反省の思いが込められている」、という(p.440)。そして、上掲書所収の一論文は、「キリスト教にまで行き着く」、「西欧世界に伝統的な個人主義
」を基調として、ファシズムはそれを「踏みにじり」、「社会主義こそがその理想を…実現する」と強調するが、晩年にはそのような「個人主義的理想の事実上の放棄」を説くはずだった、しかし、「愚かさ」を自他に語りつつ「近代的個人主義の理想」は「理想」であり続けたのではないか、とされる(p.440-1)。
 単純ではないポランニーの「思想」が、ある程度は、何となく、わかるような気もする。
 〇 上の上掲書所収の一論文とは「ファシズムの本質」(1935)で、少なくともその一部には、興味深い叙述がある。以下は、翻訳を通じてだが、ポランニーの一部の文章のかなり思い切った(従って厳密さを欠く)要旨又は抜粋。
 ファシズムの「哲学大系」をウィーンのオトマール・シュパンはある程度は作りだしており、その体系の基礎には「反個人主義の観念」がある。「普遍主義」を採るシュパンによると、ボルシェヴィズム(共産主義)は「個人主義」の理念を政治から経済領域へと拡張したもので、マルクスは「完全に個人主義者」・「無政府主義的ユートピアニズムとさえいえるまでに、個人主義的」だ。「歴史的にみれば、民主主義と自由主義を経過して、個人主義はボルシェヴィズムへと到達する」(p.172-3)。
 エルンスト・クリークも、「社会主義」への諸力は「個人主義」的性格をもつとしつつ、一八世紀の個人主義と「社会主義に具現される」個人主義の二段階を語る。クリークによると、社会主義においては個人主義にかかる「重点の移動」が生じるだけだ。そして、「社会主義」は「民主主義」の中で用意されており、「個人主義にほかならない」(p.174-5)。
 ヒトラーも、「西欧民主主義はマルクス主義の先駆」
で、前者なくして後者はない、と言った。ローゼンベルクによっても、「民主主義運動もマルクス主義運動」も「個人の幸福」に立脚する(p.176)。
 ボルシェヴィズムは個人主義の封殺、「個性の終末」とするのがこれまでの社会主義(・共産主義)に対する批判の仕方だったが、ファシズムはかかる「単純な批判派」との連合を拒否し、「社会主義は個人主義を継ぐもの」、「個人主義の実質を保存しうる唯一の経済体制」だと主張して批判する(p.176)。
 「社会主義と資本主義」はいずれも「個人主義の共通の所産」だと非難して、ファシズムはこれら二つの「不倶戴天の敵の姿を装う」(p.179)。
 だが、「社会主義」が拠り所とする「個人主義」と、シュパンが実際に議論の対象とした「個人主義」は全く異なったものだ。そしてたまたま、彼のおかげで、「社会主義とキリスト教が共通にもつ個人主義の意味」が明晰になってくる(p.180)。
 シュパンが主観的には批判しようとするのは「社会主義の内容としての個人主義」で、これは「本質的にキリスト教的」だ。だが、彼が実際に批判しているのは「無神論的な個人主義」だ。「絶対者」との関係を前者は肯定し、後者は否定する。これらを混同すると「有効な」結論には達しない(p.181)。
 「キリスト教的個人主義」と「無神論的個人主義」はまったく反対だ。前者は「神」の存在のゆえに「個々の人格は無限の価値」をもつ、「人間みな同胞」という考え方で、「共同体」の外では「個人の人格」は現実化しない、とする。これ(キリスト教的個人主義)は<社会主義(・共産主義)>と親和的であるのに対して、ファシズムが闘っているのは「人間と社会に関するキリスト教の観念全体」で、「キリスト教とファシズムはまったく両立しない」(p.183-4)。
 以上の程度にしておく。
 ドイツ・ファシズム(ナチス)がまだ敗北していない(そしてソ連「社会主義」は現存した)時代の論文だけに、理解し難い面もある。
 だが、骨格だけを抜き出せば、①ファシズム(ファシスト)は、より一般的な批判の仕方とは違って、「社会主義」は「個人主義」の発展型だと批判する、②たしかに「社会主義」は「個人主義」と親和的だ。③しかし、その場合の「個人主義」は「キリスト教的個人主義」であって、その反対の、ファシズムに親和的な「無神論的個人主義」ではない、ということになろう。
 上記の解説等によるとポランニーは親社会主義的で、ここではファシズムによる批判から社会主義(「ボルシェヴィズム」)を守ろうとしているようだ。その際の決め手は「キリスト教的個人主義」であり、ファシズムはこれに敵対的だとみている。
 さてさて、種々の議論があったものだと、人間の知的営為の蓄積にあらためて感心する。
 そして、まだソ連「社会主義」の実態が明らかになっていない段階で、反資本主義意識のあったポランニーはその「理想」を「社会主義」に求めたかにも見える。だが実際の「社会主義」はキリスト教を含む「宗教」に対して苛酷な態度をとり、かつ実質的には「個人主義」あるいは「個人の尊重」の理念を無視するものだったのではないか。
 また、ファシズムの側が、「近代」への幻滅・批判を前提としてだが、「社会主義」を「近代」個人主義・民主主義を継承するものとして捉えた(そして批判した)という点も、マルクスやレーニンによるルソーやロベスピエールへの肯定的評価を併せ
観ると、一面では的確な見方をしていると考えられ(じつはさらに奥底ではルソー・ロベスピエールの「全体主義」性を継承し発展させたのが「社会主義」だと捉えていたとも理解できる)、この点も興味深いところがある。ポランニー自身も、この1935年の論文では、「社会主義」は近代の「(キリスト教的)個人主義」を継承するものと見ていたのだ。
 「キリスト教」が理解できていないと、欧米の、こうした(社会・政治・経済の)文献は理解し難い面があることもあらためて感じる。

0683/奇妙な東京地裁2009.03.12判決と朝日新聞、東京弁護士会・岩井重一、山田洋次・斉藤貴男。

 一 奇妙な判決が3/12に東京地裁で出たようだ(東京地裁2009.03.12判決)。
 産経新聞3/14社説によると、東京都日野市の都立七生養護学校で「性器の付いた男女の人形やコンドームの装着を教えるための男性器の模型などの教材」を使っていたことを視察して知った(確認した?)東京都議会議員が都議会で批判し、視察に立ち会った都教委が上記のような教材を没収した。
 「これに対し当時の教員ら31人が性教育の内容を批判され、教材を没収したのは不当として都と都議のほか、この視察を報じた産経新聞を相手取り計3000万円の賠償を求めた。判決は産経新聞への訴えは棄却し、都教委による教材没収などについても却下した」。だがこの判決は、「都議が教員を威圧的に批判した」などとして「旧教育基本法が定めた『不当な支配』にあたる」との判断を示し、一部訴えを認めた」。つまり、関係都議は原告らに対し、何がしかの損害賠償金を支払え、というわけだ。
 上記の教材につき、読売新聞3/16社説は「性器の付いた人形」としか書いていない。朝日新聞3/14社説もほぼ同様で、「性器がついた人形などの教材」としか書いていない。
 この判決の評価は、上の三紙でいうと、判決を批判する読売・産経と支持する朝日に分かれる。
 朝日新聞社説は、教育は「不当な支配」に服してはならないと教育基本法(改正前)が定めたのは「『忠君愛国』でゆがめられた戦前の教育への反省からだ。その意味を改めてかみしめる司法判断が示された」と大上段から振りかぶって書き始め、(判決の紹介か社説子の見解か不明だが、同じなのだろう)都議が「高圧的な態度で…難じた」、「これは穏当な視察ではない」、「不当な支配」にあたる、と断定する。そして「きわめて妥当な判断」と東京地裁判決を持ち上げている。その中で、「都議らは『政治的な主義、信条』にもとづいて学校教育に介入、干渉しようとした」と明記していることも注目しておきたい。また、「外部の不当な介入から教育の現場を守るべき教育委員会が、逆に介入の共犯だと指摘されたに等しい」とも書いている。
 朝日新聞社説の、歴史に残る大弁舌の一つとして長く記録されてよいだろう。
 養護学校という特有性があるとしても、小学校・中学校で、上記のような教材を使う「性教育」行うことが適切であるかは当然に問題にされてよい。
 読売新聞社説は「当時は、『男らしさ』や『女らしさ』を否定するジェンダー・フリーの運動とも連携した過激な性教育が、全国の小中高校にも広がっていた」と書いている。あえて指摘しておく必要はないかもしれないが、上のような性教育は<ジェンダー・フリー>論・運動を背景にしている。読売社説は続ける-「小学校2年生の授業で絵を使って性交が教えられるなどした。/性器の付いた人形が、都内80の小学校で使われていたことも明らかになり、国会でも取り上げられた。文部科学省が全国調査し、自治体も是正に取り組んだ。/都議の養護学校視察は、こうした過激な性教育を見直す動きの一環として行われたものだ」。
 読売社説も産経社説も指摘又は示唆しているように、かかる(性)「教育」方法を批判することが「不当な支配」にあたるとされ、視察時の都議発言が名誉毀損とされて不法行為責任(損害賠償責任)を負わされるようでは、地方公共団体の議会議員がその職責の一つとして「教育行政」を監視することは不可能になる。
 読売はいう-「政治家が教育現場の問題点を取り上げて議論し、是正していくこと自体は、当然のことと言えるだろう」。産経はいう-「同校の当時の性教育には保護者の一部からも批判が寄せられていた。保護者の同意、発達段階に応じた教育内容など性教育で留意すべき内容から逸脱したものだ。/これを是正しようとした都議らの行動を「不当」とするなら議員の調査活動を阻害しかねない」。
 朝日は、「都議らは『政治的な主義、信条』にもとづいて学校教育に介入、干渉しようとした」と書いた。これを読んで、思わず、「笑っちゃう」という気分になった。特定の「政治的な主義、信条」にもとづいて「性教育」をしていたのは、原告ら教員たちそのものではないか。
 朝日新聞社説子という常識・良識とは異なる基準を持っている者にとっては、自己の見解、主義・主張と異なるそれらだけが「政治的な主義、主張」となり、そのような「主義」にもとづくものだけが「不当な支配」になるのだろう。原告ら又はその教育方法(教材選択等)と「外部」又は「上部」の組織(日教組・自治労・市民団体等)との関係は定かでないが、原告らは、「外部」又は「上部」の組織によってこそ「不当な」支配・介入を受けていたのではないか。そうだとすれば、朝日新聞社説の主張とは逆に、都教委は「不当な支配」から教育を守ったことになる。
 どのような主張のやりとりがなされたかはほとんど知らない。だが、一部にせよ(つまり原告らが請求した額より少ない)「損害賠償請求」を認容した東京地裁の裁判官たちはいったいどういう感覚・良識の持ち主なのだろう。裁判官たちもまた「戦後民主主義」教育・「男女対等」教育の子であり(しかもその中での優等生であり)、放っておけば自然に<左傾化>していることを、この判決も示していると思われる。この判決の裁判長の氏名は矢尾渉
 二 怖ろしいと思うのは、原告団長は日暮かをるという元教諭であるらしい、こうした原告らの訴訟を弁護士団体が応援していたようであることだ。
 「2005年1月24日」に東京弁護士会は東京都教委・同教育長あてにつぎのような文章を冒頭におく文書を発している。
 「東京弁護士会 会長 岩井重一
  警 告 書
 東京都教育委員会(以下「教育委員会」ともいう。)は、2003年9月11日東京都立七生養護学校(以下「七生養護学校」という。)の教員に対して行った厳重注意は、『不適切な性教育』を理由にするものであって、このことは子どもの学習権およびこれを保障するための教師の教育の自由を侵害した重大な違法があるので、これらを撤回せよ。
 教育委員会は、同委員会に保管されている七生養護学校から提出された性教育に関する教材一式を、従来保管されていた七生養護学校の保管場所へ返還し、同校における性教育の内容および方法について、2003年7月3日以前の状態への原状回復をせよ。
 教育委員会は、養護学校における性教育が、養護学校の教職員と保護者の意見に基づきなされるべき教育であることの本質に鑑み、不当な介入をしてはならない。」
 裁判官以上に弁護士たちは<左傾化>していることは、「人権派弁護士」なる呼称がかなり一般化していることでもわかる。
 法的な専門職集団の一つが、「子どもの学習権およびこれを保障するための教師の教育の自由」を侵害するとして、都教委の側のみを一方的に批判しているのだから、この国(日本)はすでにかなり危うくなっている。この文書の責任者、「東京弁護士会 会長 岩井重一」の名前も永く記憶されてよいだろう。
 なお、東京弁護士会の2004年度の副会長・橋本佳子はその一年を振り返って、「とても楽しく充実した1年でした。イラク自衛隊派遣反対の会長声明、……、都の国旗国家〔ママ-正しくは「国歌」だろう〕強制や七生擁護〔ママ-「養護」〕学校性教育処分問題その他いくつもの意見書や警告書などなど、委員や職員の皆様と取り組んだ思い出がいっぱいです」と書いている。
 さらに、東京都議・都教委と原告らの対立に関しては、後者の側に立った<運動>もあった、ということも指摘しておく必要があるだろう。
 詳細には知らないが、上の東京弁護士会の「警告書」は、「当会が受理した2004年1月7日付申立人山田洋次、小山内美江子、斉藤貴男、川田悦子、堀尾輝久、蔦森樹、朴慶南ほか総数8125名にかかる『子どもの人権救済申立』」をきっかけにして発せられている。
 誰かが又は何かの組織・団体が、8125名の氏名を「集めた」又はそれだけの人数を「組織」したのだ。
 「山田洋次、小山内美江子、斉藤貴男、川田悦子、堀尾輝久」は<左翼>の有名人だから明示されているのだろうか(蔦森樹、朴慶南の二人は私は知らない)。山田洋次は日本共産党員又は積極的支持者と見られるご存知の映画監督、元日本共産党員とも言われる川田悦子は薬害エイズ訴訟原告だった国会議員・川田龍平の母親、堀尾輝久は「著名な」左翼・教育学者(岩波新書あり)。
 こうしてみると、この訴訟は石原慎太郎東京都知事を先頭とする?東京都の教育行政とそれに抵抗する「左翼」の闘いの一つで、根っこは、君が代斉唱拒否・不起立問題、それらを理由とする教員に対する懲戒処分に関する訴訟等と共通するところがあることが判る。
 そうだとすると、当然に、そうした<闘い>・<運動>を知って、あるいは背景にして、上記の朝日新聞の社説も書かれていることになる。
 あらためて書いておく。朝日新聞は「ふつうの」新聞ではない。朝日新聞(社)とは、「新聞」の名を騙る<政治(運動)団体>だ。

0632/佐伯啓思・国家についての考察(2001)を読む-朝日新聞批判・その1。

 「市民革命」はあるが「国民革命」は聞いたことがないことを「市民」概念を愛好する理由の一つとするような朝日新聞・若宮啓文の本と文章に触れたのは、朝日新聞を批判する、あるいは朝日新聞をはじめとする<進歩的>マスコミの論調を批判的に分析する佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)のとりあえずは一部を紹介的にメモしておきたいためだった。
 佐伯啓思の論旨は前の論述を前提に後に累々と続いていくので途中から紹介的引用をするのでは正確に理解したことにはならない。だが、最初から言及するのはやめてあえて中途からにする。「今日のナショナリズムの『歪み』」との節名のp.57以降だ。次のように論じられる。
 1 ①「本来性」というフィクションの大地に根ざした「国家意識」が必要だ。しかし、日本の現今のそれは「ほど遠い」もので、「国家」をめぐる言説は「奇妙にねじ曲げられている」(p.57)。
 ②いくつかの運動や議論が日本の「ナショナリズム」の代表として「しばしば進歩派の攻撃にさらされる」が、私(佐伯)には攻撃される「ナショナリズム」は理解しやすい。「全面的に賛同」はしないが、言いたいことはよく分かる。それは「決して復古的意図やまして戦争賛美」ではなく、「戦後の、そして現在の日本を問題視し批判」している。それは端的には、今日に「支配的な影響」をもつ「進歩主義的言説に対する強い疑念」だ。その意味で、彼らの「ナショナリズム」は分かりやすく「歪んでいない」(p.57-58)。
 ③問題は、明言されない「伏在したナショナリズム」の方にある。今日の「ナショナリズム」の問題は、一見「反ナショナリズム」・「反国家」心情にもとづく言説の形をとる、「国家意識」の「歪み」にこそある(p.58)。
 ④なぜ「歪み」が生じているかに、「戦後日本の言説空間の特異性」がある。この「特異性の構造」を分析することは、現代日本の「国家意識」の「歪み」・「ねじれ」を理解するためには重要だ(p.58)。
 ⑤90年代の日本の全般的「失調」のもとは、「きわめて不透明で歪んだ国家意識」に求められるのでないか(p.58)。
 ⑥90年代の日本の「危機」は「グローバル化や情報化」に対応できなかった日本の「守旧的体質」に原因があるというのが「定説」だが、「問題の根ははるかに深い」。究極的には「戦後の歪んだ国家意識にこそ今日の「危機」の源泉があった。「国家意識」の「歪み」をいくつかの局面で見てみる(p.58-59)。
 次に、節名が「オリンピック・ナショナリズム」に変わる。
 2 ①シドニー五輪を前に2000.09.14朝日新聞社説は、「国家」意識に縛られずに「あなた」自身のために参加せよと説いた。だがここ十数年、日本選手が「過剰な」期待を背負っているとの印象はなく、むしろ選手の「私」意識の強さ、「国の代表」意識の希薄さが論議されたくらいだった(p.59-60)。
 ②五輪は「形を変えた国家間競争」で、「国家や地域」の威信がかけられていることを前提に「国家間協調」が謳われる。「個人間の競争と同時に国家間のルール化された競争」があるのであり、「国家間協調」が可能になるのも、そもそも個人が「少なくとも部分的には」「国家を背負っている」からだ(p.60)。
 ③上を書いたのは「ナショナリズム」と「国際協調(インターナショナリズム)」とは「決して対立するものではない」ことを確認するためだ(p.61)。
 ④にもかかわらず、「個人の競争」・「インターナショナリズム」はよいが(「善」だが)、「国家間競争」・「ナショナリズム」は「危険」だという「二者択一」の議論がある。朝日新聞の社説にも「その傾きが見て取れる」(p.61)。
 次に、「『荒っぽい』ナショナリズム」との節名に変わって、引き続いて朝日新聞社説への論及がなされる。
 3 ①朝日新聞2000.09.24社説は再び「ナショナリズム」を取り上げ、自国の選手が勝利して「君が代が流れ、日の丸が上が」るのを見て誇らしいのは「ごく自然な感情の発露というべきだ」と書いた(p.62)。
 ②先の論調からの後退とも見えるが、同社説はこう続ける。「抑制のきいた健全なナショナリズム」はよいが、「居丈高な自己主張」の「ナショナリズム」ほど「危なっかしい」ものはない、と。つまり、「健全なナショナリズム」と「危なっかしいナショナリズム」の区別がある、という(p.62-63)。
 ③上に続けて朝日新聞上記社説は、日本が「危なっかしい」又は「荒っぽい」「ナショナリズム」に席巻されようとしているとの危惧を示す。五輪で示されるようないわば「遊びごと」の「ナショナリズム」はよいが、「本物の(現実の)ナショナリズム」は危険とする。「何とも妙な、そして煮えきらない主張」だ(p.63)。
 ④「荒っぽいナショナリズム」として具体的には、1.中国の調査船・軍艦の日本水域への侵入への「感情的な反発」、2.日米安保にかかる「思いやり予算の削減要求」、3.小林よしのり・戦争論への「若者の共感」、4.「国旗・国歌法」の制定、5.森喜朗首相(当時)の教育勅語評価、5.石原慎太郎都知事の「三国人」発言、等が挙げられている。そして、これらの動向は「固有の伝統への回帰」を訴えるあまり、「自己陶酔と他者の排除」を伴うから危険だ、とする(p.63)。
 3の途中だがここで区切る。朝日新聞・若宮啓文はこの佐伯啓思の著をまったく知らずに(手にとって読んだこともなく)、「ジャーナリズムはナショナリズムの道具ではないのだ」と幼稚に宣言したものと思われる。
 このあと、朝日新聞の論調に対する批判または批判的分析がつづく。たぶん、次回に。

0482/長部日出雄の「神道」論(諸君!5月号)と石原慎太郎「伊勢の永遠性」。

 昨年10月に、長部日出雄・邦画の昭和史(新潮新書、2007.07)p.33-34が、60年安保闘争については「否定論」が「圧倒的に多いだろう」が、自分は、<あの…未曾有の大衆行動の広がりと高まりが、…憲法改正と本格的な再軍備を…無理だ、という判断を日米双方の政府に固めさせ、…ベトナム戦争にわが国が直接的に介入するのを防ぎ止めた>と考える、と書いていることを紹介して、批判的にコメントした。
 したがって、長部日出雄という人は単純素朴で政治をあまり判っていないと感じたのだが、60年安保闘争絡みではなく、神道・「カミ」に関しては、諸君!5月号(文藝春秋)の「作家が読む『古事記』/最終回」で共感できることを書いている。
 長部は本居宣長の叙述を肯定的に引用している。別の誰かの本(井沢元彦?)でも読んだ気がするが、宣長によると、日本の「迦微(カミ)」とは「天地のもろもろの神をはじめ…尋常でないすぐれた徳があって、可畏き(かしこき)ものの総称」だ。そして、宣長は「小さな人智で測り知れ」ない「迦微(カミ)」はただ「可畏きを畏(カシコ)みてぞあるべき」と書いた、という(p.226-7)。
 そして、長部は、「物のあわれを知らない」「心なき人」が増えたことと、上のような「天地自然に対する原初的な畏敬と畏怖の念を失ってしまった」ことが、「いまの日本がおかしくなっている」原因だ旨を記している(p.227)。
 他にも共感できる叙述はあるが省略。「天地自然に対する原初的な畏敬と畏怖の念」を年少者に教育するのはどうすればよいのかと考えるとハタと困るが、<宗教>教育的あるいは<道徳>・<情操>教育的なものが公教育でも何らかの形で必要だろう。長部が自らの経験を語るような<集落の神社の森や境内>に接する機会が多くの子どもたちにあるとよいのだが(私には幸いまだあった)。
 なお、長部のこの論稿は、GHQの1945.12.15<神道指令>の正式名称と七項目の(おそらく)全文を掲載している(p.229-230)。そして長部は言う。-<寛容・融通無碍な信仰心の日本人は「神道指令」を「宗教弾圧」だとは「まるで考えもしなかった」。「神道指令」は「日本人の草の根の信仰心」を「根こそぎにした」。>
 石原慎太郎「伊勢の永遠性」日本の古社・伊勢神宮(淡交社、2003)は、「悠遠」を感じ体現しようとするのは人間だけで「伊勢」神宮はその象徴だ、旨から始めて、途中では、「人間はどのように強い意思や独善の発想を抱こうとも、結局、絶対に自然を超えることはできないし、そう知るが故にも…自然を畏敬することが出来る」等と書いている。
 こういう、神道あるいは(伊勢)神宮に関する文章を読むのは精神衛生にもなかなかよいものだ。狂信的に<保守>・<反左翼>を叫ぶのではなく、じっくりと構える他はない-それが<保守主義>であって<保守革命>などの語は概念矛盾だろう-というような想いもまた湧いてくる。

0387/産経2/04を見て-「ヨーロッパ近代」の背理。

 産経新聞にも、朝日新聞ならば見ることができないだろうような、<産経らしい>記事がよくある。
 産経2/04を見ていると、①「正論」欄で首都大学東京学長・西澤潤一が、南原繁・丸山真男という「人格者」の考え方が、現在の徳育の欠如・国力の低下の原因でもあったとして、「きれいごとだけをつないで、自分の哲学としているだけでは足りない」等と批判している。詳細ではないし、必ずも論旨明瞭ではないが、<わが意を得たり>というところ。
 ②「溶けゆく日本人」の「蔓延するミーイズム」の部の開始も産経らしい。「ミーイズム」(個人主義・反国家主義・反ナショナリズム)賛美の朝日新聞では出てこない企画だろう。
 ③一面の石原慎太郎「日本よ-国家への帰属感、断想」も現在の日本人の「国家への帰属感」の有無又は「質」に言及して憂慮感を示す。まじめな朝日新聞記者ならば、「白熱の国際試合」での「ニッポン、ニッポン」に対してすら眉をひそめるのではないか。無国籍新聞、朝日。
 ④曽野綾子の連載コラムは<教育は強制>等を強調している。
 結局のところ、<ヨーロッパ近代>の生み出した<自由・民主主義>等の<負>の部分が(敗戦・占領という特殊日本的要因もあって)、現代日本に集中的に顕現している、ということでもあろう。
 つい最近読んだ佐伯啓思・イデオロギー/脱イデオロギー(岩波、1995)にこんな文章があった。
 ①近代の真に重要な問題は「権力者に対する市民の戦い」ではなく、「自由が、実現されていくにつれて、むしろ生き生きとした内実を失ってゆくという逆説」にある(p.157)。
 ②「自由の達成は、人を放縦へと追いやり、価値観の拡散と相対化をもたらし、われわれは自由の中で、本当の手ごたえを失ってゆくだろう」(p.160)。
 ロシア・北米という周縁部分を含めた<ヨーロッパ近代>はロシア革命・「社会主義」の母胎ともなったのだが、「社会主義」革命にまで極端化しなくとも、もともと種々の問題を内包させている。<個人主義・自由・民主主義、万歳!>という段階にとどまっているわけには、とてもいかないのだ。
 これらの徹底(あるいは侵害の危険性)を逆に強調して<個人主義・自由・民主主義>を国家・権力に対峙させる発想を最優先に置く政党や新聞や人々は、<倒錯・時代遅れ・時代逆行>としか私には思えないのだが。

0174/石原慎太郎の米国講演、西尾幹二・水島総の朝日新聞等批判。

 少し古いが、産経5/19によると、石原慎太郎はニューヨークでの講演で、次のようなことを述べたらしい(イザ!ニュースなし)。
 1.日本有事に際し米国が安保条約による責任を果たさない場合は<日本は自分で守る努力をする。核保有もありうる>。
 2.中国経済は2008年までと英国エコノミスト誌編集長と一致した。経済が破綻した中国は「軍事的冒険主義」に出てきて「台湾や尖閣諸島に向けられる」可能性がある。
 3.尖閣諸島有事の際に米国が何をできるかは疑問。日米関係の将来は米国が中国をどう認識・評価するかに依るところが大きい。
 4.米国と中国が全面戦争になった場合、米国は必ず負ける。
 産経ですら小さく扱ったのみだから、他紙やテレビで大きくは報道されなかっただろう。
 私としては、上の2と3に現実的な関心をもつ(1と4に関心がないわけではないが)。簡単には、1.中国の経済・社会状況は今後どうなるか、2.米国は「社会主義」中国を(日本との比較が当然に含まれるが)どう認識・評価していくか、だ。
 岡崎久彦はかなり<親米(保守)>のようだが、<反米(保守)>と言ってたぶんよいだろうと思われるのが、西尾幹二だ。
 その西尾幹二が、月刊WiLL7月号(ワック)で「朝日新聞「社説21」を嗤う!」というのを書いている。そして、上の石原講演の内容とあえて関連させると、以下が興味深い。
 私は朝日新聞の「社説21」は読んでいないしデータ保存もし忘れたが、1.朝日は日米安保を前提として議論している。西尾によれば、朝日は「極めて保守的」で、「今まで反米的」だったが、「左翼のくせに親米」だ。
 冷戦構造の中で日本は経済的利益拡大の僥倖に恵まれたが、「朝日新聞は今後もその特権を保守し、なにも責任をとらず、きれい事を言ってアメリカの力にすがりましょうと声高に言っている」。
 2.朝日新聞は、米国に近寄り過ぎると怖い(「直接には関係のない紛争に巻き込まれる危険性がある」)が、遠ざかると相手にしてもらえなくて怖い(「いざという時に守ってもらえないという心配…」)、その「微妙な間合いをとるのに役立ったのが憲法9条」だった、と書いているが、世界情勢が変化し、九条護持を唱え続けることができなくなっていること、「自国を自国で守ろうとする日本の意志がなければアメリカも見放す時が来ている」ことが、「全くわっかっていない」(p.40)。
 上の二つの朝日新聞の社説批判は要するに、米国の対日姿勢が変わりうる(既に変わっているかもしれない)という現実、従ってまた憲法九条の持ちうる意味も変わらざるをえないという「現実」をまるで認識していない、ということに(たぶん)尽きるだろう。
 朝日新聞批判の中で述べられているが、西尾氏自身の言葉としての、3.米国はしばしば歴史上のミスをしてきたが、「例えば、日本を敵に回して中国の共産化を招いたというのは、おそらく歴史的にアメリカが犯した最大の判断ミスでしょう」(p.41)。
 この後で西尾は、ビンラディン登場により米国は「中国という悪魔」と手を結ぼうとしているし、「金正日という小悪魔とさえ、手を組まざるを得ない醜態」見せている、と記す。
 このあたりは私の知識の及ぶところではないが、石原とも共通して、米国が日本を無視又は軽視して中国(・北朝鮮)を重視する(=と友好的になる)ことを懸念し、かつ批判している、と言える。
 やや離れるが、歴史的にみて、日本軍が大陸にいるときに完全に中国側に立ったことは米国の判断ミスだった、と思われる。ルーズベルトの周辺にはマルクス主義シンパがかなりいて、どの政策が「ソ連」の利益かで判断していた可能性が高いが(ゾルゲ・尾崎秀実もそうだった)、中国が「共産」化する可能性の程度を米国は予測し誤ったのだと思われる。それは、二次大戦終了後も続いた。1949年に中国が中国共産党支配の「中華人民共和国」になることを予測できていれば、日本国憲法九条の内容は現在のそれとは違っていた筈だ。
 現憲法九条は戦後の一時期のロマンティックな平和幻想の所産で、冷戦開始(=米ソの対立。1949年の東西ドイツ別々の建国、「中共」成立、朝鮮戦争勃発で完全に明確になった)後にすみやかに、「現実」には不適合の条項になっていた、あっという間に「賞味期限」を過ぎた、のだ。そこで、憲法改正(九条改定)が無理ならばと登場してきたのが、「戦力」ではないとされる、警察予備隊→保安隊→自衛隊だったわけだ。
 上のように振り返れば、現在の憲法九条に関する国論の「分裂」は、「一時期のロマンティックな平和幻想」に陥り、また日本の将来の「軍事大国化」を怖れたがゆえに九条を日本に事実上は「押し付けた」(私は幣原発案説は無理だと考えている)、GHQ・マッカーサーに、そもそもの責任がある、とも言える。
 そのような米国だから、日本に十分な連絡なく突如として米中(大陸の中国)国交を回復したことがあったように、米国の利益に関する判断で今後も動くだろうことは明らかで、米国を中国ではなく日本に引きつけるとともに、米国の判断からの自律性を徐々に身につけることもまた、今後の日本にとっては重要だろう。
 と言って、<親米保守>と<反米保守>(小林よしのりは後者だろう)のいずれかの立場に立っているわけではない。私にはよく分からないことは沢山ある。
 中途だが、西尾の論稿にはまた別の機会にも触れることとして、同じ月刊WiLL7月号には水島総「無惨なり、三大新聞論説委員長!!」もあり、5/06のサンプロの読売・毎日・朝日の論説委員長(論説主幹)の揃い組みをリアルタイムで(保存だったか?)観ていただけに、興味深かった。
 水島総によると、そもそも新聞の論説委員長がテレビ番組で顔を出すこと自体が失敗だった。「みっともない姿をさら」して、「あのおっさん」がこの社説を書いているとのイメージを与えた悪影響は大きい、という。そうかもしれない。
 私の記憶と印象では、朝日新聞の若宮啓文が最も緊張しており、落ち着きがなかった(自社系のテレビ局だったのに、と言いたいが、まぁ無関係だろう)。
 このときの若宮啓文発言についてはすでに批判した。毎日の論説委員長が<論憲>とだけ言い、その具体的内容については<これから考えます>と悪びれることもなく<微笑をたたえて>答えていたことに呆れた記憶もある。
 もう忘れていたが、水島総によると、朝日・若宮啓文氏は、次のような醜態をさらけ出したらしい。
 司会・田原総一朗が「湾岸戦争と同じ状況」になれば「朝日新聞は、今度は国連が正式決議すれば、自衛隊参加に賛成するんですね」と質問したところ、朝日・若宮啓文は、「かなり慌てた表情で、言いよどみ、それは、そのとき、その場で、よく状況を考えていくということで…と、あいまいな答え」しか出来なかった。
 水島は「笑ってしまった」と書き、毎日新聞の出演者とともに「その時に対応を考えます」では「常識で考えても、世間一般では、とても通用しない理屈である」、と批判している(p.138-9)。
 以上、日米関係(中国問題が絡む)と朝日新聞批判がいちおうのテーマの、冗文になった。

0062/今日も続くよ戯言(ざれごと)が-幼稚な「きっこの日記」4/11。

 「きっこの日記」4/11より。
 日本人が「イルカを食べてる」なんてデマがある。「もしも、韓国や中国などの反日の人たちが、こういった嫌がらせをやるんだとしたら、アベシンゾーの発言や石原慎太郎の発言など、ニポンには国際的に批難されちゃうようなネタがマウンテンなんだから、何もわざわざデマを流す必要なんかない。ホントのことを流すだけで、十分に批難されるからだ」。
 
このデマが「反日感情を持ってる英語圏の人たち」によるのだとしたら、「その原因として考えられるのは、どうしても、右翼カブレのお坊ちゃま、アベシンゾーの「従軍慰安婦が強制だったという証拠はない」って発言とか、「沖縄の集団自決に軍の強制はなかった」とする教科書の改ざん問題とかが、アメリカやイギリス、フランスやオーストラリアを始めとした多くの国で、厳しく批判されてる現状が考えられる」。
 「もちろん、欧米の反日感情のキッカケを作ったのは、他でもない、無知なアベシンゾーの大バカ発言が原因だけど…」。
 よくも(最近は)毎日のように幼稚な戯言を、もう成人している筈なのに続けられるものだ。
 またこんなことも書く。社民党の福島瑞穂のブログと全く同じ。同感して引用している、と言ってもよい。
 「自民党のポスターは、東京用と地方用とで、正反対のものが2種類作られてるそうです。/東京には「東京に活力」ってポスターが貼られてるのに、地方に行くと「地方に活力」ってのが貼られてるそうです。/「二枚舌」ならぬ「二枚ポスター」、サスガ、天下の自民党ですね(笑)
 これがどうして「二枚舌」(「二枚ポスター」)なのか東京にも活力、地方にも活力、というのは、論理的にも十分成り立ちうる。「きっこ」?氏には、日本語の論理構造を理解する能力がないようだ。

0060/都知事選は「世代間のリーダ-争い」ではなかったが、将来を「団塊」世代がリードできるかは心配。

 東京都知事に石原慎太郎氏三選に関連して、毎日新聞(少なくともWeb上)は、一種の「世代論」を展開、少なくともそれに言及しているようだ。
 木村健二署名記事のリード-「8日に投開票された東京都知事選は、昭和1ケタ生まれで「太陽族」との流行語を生み出した石原慎太郎氏(74)に対し、戦後生まれの「団塊の世代」に当たる浅野史郎氏(59)や吉田万三氏(59)が挑む世代間のリーダー争いでもあった。結果は石原氏が大差で3選を果たし、首都の世代交代は進まなかった。今年度から大量定年が始まった団塊の世代だが、政治の世界でトップに立つまでの壁は厚いのか。
 本文-石原氏は「浅野氏を念頭に「全共闘が支持しているような手合いが東京を牛耳ると、取り返しのつかないことになる」と敵意をむき出しにしていた。
 「石原氏の選対本部長を務めたのは、元内閣安全保障室長の佐々淳行さん(76)。…団塊の世代には「自己犠牲の精神がなく『みんなで渡れば怖くない』の共同連帯無責任だ」と手厳しく「いつまでたっても、おれたち昭和1ケタがやらなきゃいけない」と話す。
 「団塊の世代は47~49年生まれを指し、約675万人に上る。国政を眺めると、衆院議員が61人、参院議員が41人で、国会議員全体の14・2%を占める。しかし、首相は小泉純一郎氏(65)から団塊の世代を通り越して安倍晋三氏(52)まで若返った。首都決戦でも敗れ去り、団塊の世代からは首相、都知事という2大リーダーを輩出できていない。
 発言の事実等の報道だから、ほとんどコメントのしようもないが、今回の都知事選が「世代間のリーダー争いでも」あった、というのは、いかに「も」が付いているとしても、この点を重視しすぎだろう。
 佐々淳行氏の言葉は、「全共闘」とは無関係だった者も含めて「団塊」世代には耳が痛いことかもしれない。浅野氏ではない、きちんとした石原氏の後継者が「団塊」世代から出てもよかったのだ。
 それに、じつは私は密かに怖れている。いつぞや、1930-35年生まれ世代は「独特の世代」と書き、その中に、石原氏も佐々氏も含まれるのだが、この世代が全て(又は殆ど)いなくなって「団塊」世代が70歳台前半になっているような時期に、日本はどうなっているだろう、「団塊」世代は、今の1930-35年生まれ世代がしているような政治・言論界等での活躍ぶりを(保守・「左翼」を問わず)発揮することができているのだろうかと。同じことだが、全て(又は殆ど)の国民が戦争を知らず、「戦後(平和・民主主義)教育」を受けた者ばかりになって、はたして日本の国家と社会をうまく運営していけるのか、と。やや情けないことだが。

0056/本日も6万アクセスの「きっこの日記」の無惨さと異常さ。

 「さるさる日記」というサイトの中の「きっこの日記」は、4/09に「きっこの音楽日記」閲覧を勧めたあとで、以下のようなことを書いている。
 「引き続き、「核兵器の保有」を謳い、戦争ができるように憲法を変えようとしてる人間がつとめることになったってワケだ。
 「人間同士が殺し合う戦争を「感動的」だと賞賛し、「日本も優秀な戦闘機を作ってどんどん海外に輸出すればいい」なんて言ってる人でも、東京都知事を続けられる…」
 「多数決で勝ちさえすれば、「平和」よりも「戦争」が「正しい」ってことにもなっちゃうワケで、あたしたち「平和」を願う少数派は、また4年間もガマンしなきゃなんない…」
 この人は、福島瑞穂的、社民党的、「日本国憲法2.0開発部」的な、空想的・教条的・観念的な「平和」主義者のようだ。いや「…主義」なるものはない。「「核兵器の保有」を謳い、戦争ができるように憲法を変えようとしてる人間…」という表現には完全な事実誤認がある。事実をきちんと認識できていないのだ。
 また、「「平和」よりも「戦争」が…」という二項対立的発想は、まるで、戦後当初の社会科教科書を学んだ中学生のようで、おそらくは、水島朝穂、「日本国憲法2.0開発部」、福島瑞穂等と同様に、北朝鮮・中国の軍事的脅威は頭の中に入っておらず、米・日の軍備の危険性にばかり目が行っているのだろう。
 このような認識や感覚は、ふつうの生活をし、種々の新聞や雑誌を読んでいると通常は形成されないものだ、と思われる。ということは、「きっこ」?氏の精神・意識の環境(情報・意見形成のソース)は「ふつう」ではない「特殊」なものである可能性が十分にある。
 「きっこの日記」の4/09は、またこうも書く。「「石原さん、おめでとう!」ってメールも紹介したいんだけど、これまた不思議なことに、ただの1通も届いてない。でも、「残念だ」「理解できない」「都民の良識を疑う」ってメールは、この日記を書いてる時点で、すでに300通以上も届いてる。
 この4年間に石原がやって来たことに対してヘキエキとした人たちがそれだけいたってワケで、この東京にも、それだけ「良識」のある人がいたってワケだ」。
 この人が「特殊な」人々に取り囲まれていること、「良識」という言葉の意味を知らないほどの幼稚な人物であることを、これらは示している。

0054/「きっこの日記」のきっこ氏?は、石原慎太郎氏に詫びなさい。

 東京都知事に石原氏再選、とりあえずは慶賀すべきだ。
 途中で諦念の想いだったかもしれないが、上野千鶴子や佐高信の顔が見たい。上野氏は、早く東京都民でなくなった方がよろしいだろう。
 選挙の勝敗は厳密には正と邪、正しい・誤りの区別ではない。多数と少数の区別にすぎない。この点は喜んでいる側も自認しておいてよいだろう。
 ところで、週刊新潮4/12号によると、「さるさる日記」という日記サイトの中の「きっこの日記」は、石原氏について、「東京の恥であり、ニポンの恥であり、地球の恥であり、人類すべての恥である大ウツケ者の石原慎太郎が…」と書いていたようだ。
 本日の現時点の「きっこの日記」は、「東京都知事選の結果について、ものすごい勢いでメールが届いているので、ある程度したら何通か紹介しようと思うのですが、残念なことに、フリーメールアドレスやケータイのアドレスのもの、それから、デタラメなメールアドレスのものなどが多いようで、それらはすべて選別ソフトによってゴミ箱に直行しています。」、「「きっこの音楽日記」を更新しました!/イライラしてる人は、ぜひご覧ください。/きっとスッキリしますよん♪」ということしか書いていない。
 半分近くの人が石原氏以外の人に投票したのだが、その人々のすべてが、石原慎太郎氏を「東京の恥であり、ニポンの恥であり、地球の恥であり、人類すべての恥である大ウツケ者」とまで罵倒する気持ちまでは持っていなかっただろう。
 「きっこ」?氏の心性は恐らく上野千鶴子や佐高信(、筑紫哲也、吉田康彦ら)と同質で、5~20%の「少数」派に属すると思われる。この人は決して「ふつうの」市民あるいは庶民ではない。毎日6-7万人というアクセスは自然発生的なものとは思われず、何らかの「組織」的動きを推定させるものだ。
 こうした、「ふつう」の市民・庶民を装った者のサイトに対する警戒も怠ってはならない、と思う。
 追記-朝日新聞は東京都知事選で石原氏の再選阻止・その他地方選で自民党退潮と民主党躍進→参院選で自民党敗北→安倍首相退陣というシナリオを描き、東京都知事選については、具体的に「菅直人」の名前を特定してまで、さあ立候補して石原と闘え、と煽っていた。報道機関ではなく「政治運動団体」の一つであることを自ら証明していたが、そうした朝日新聞の「深謀」が最初で明確に挫折したことは、「きっこ」?氏の現在の心境がどうかよりも、はるかに重要で、まことに慶賀の至りだ。

0046/「きっこの日記」とは何か。-戦後「平和と民主主義」教育の成果。

 週刊新潮4/12号によると、「さるさる日記」という日記サイトの中の「きっこの日記」は、「東京の恥であり、ニポンの恥であり、地球の恥であり、人類すべての恥である大ウツケ者の石原慎太郎が…」と書き、さらに同氏の弟・故石原裕次郎の配偶者に関する誹謗的コメントを書いて物議を醸し、「800字もの長文」の「お詫び」を掲載した、という。
 原文は既に削除されている。今日午前中に見た「詫び」の文章はもっと長く、かつ「噂によって個人的なことを」書いたことを詫びていたと記憶するのだが、現時点ではこうなっている。
 「選挙期間中には、「○○候補に投票します」「○○候補を応援しています」ということだけ書いてはいけないのかと思っていたのですが、それ以外でも、候補者に関する事柄は書いてはいけないということを知りました。
 
それを知らずに、候補者に関する事柄を書いてしまったため、該当する日記を削除いたしました。
 
ご迷惑をおかけした皆さま、申し訳ありませんでした。
 
また、お知らせくださった皆さん、どうもありがとうございました。
 はて、自信はないが、特定候補の支持・不支持をネット上に書いて少なくとも刑事罰を伴う規制を受けるのは候補者側であって、一般有権者までそのような「言論」が刑事罰付きで規制されるのかな?、上にいう「候補者に関する事柄は書いてはいけない」というのは正しいのかな?と思う。削除の実際の理由は特定候補の支持・不支持を書いたからではなく別の点にあるのに、「ごまかし」がある、と感じるのだが、どうだろう。
 この「きっこの日記」の執筆者「きっこ」氏?は自己のプロフィールにこんなことを書いている(以下に一部のみを引用)。
 「【今一番やりたいこと】/アベシンゾーが寝てる間に、鼻の下に黒マジックで、ヒトラーとおんなじチョビヒゲを描く!
 【兎に角主張したい事】/戦争反対!/核廃絶! 
 【疑問に思っている事】/自民党なんかに投票する人の神経

 こんな人もいるだろうとは思うが、無視できないのは、例えば今日一日で約70000件のアクセスがあり、「さるさる日記」の中では連日圧倒的にアクセス・ランキング1位で、いつからかは確認していないが累計4700万アクセスになっていることだ。
 4/08の投票日を前に、4/06の書き込みでは、上田埼玉県知事が「(共産党は)それはもう野党とか、与党とかというものを通り越してですね、邪党みたいなもんですね。 」「(共産党は)邪道だという気持がありますよね。」/「
(共産党の)やり方は邪道じゃないですか。一般的に言えば。そういう部分が何気なしにポンと出たんではないでしょうか。邪党みたいなもんだというようなね。」/ですからまったく瞬間的な、(共産党は)邪道じゃないかという部分と、酷い党じゃないかというのがかみ合って、そういう表現で、みたいなもんだ、という表現になったんじゃないかと思います。 」と発言したと紹介して、「共産党は邪道なの?」というタイトルを付けて、怒りと抗議の趣旨の文を書いている。投票日前の日本共産党擁護・宣伝と勘ぐれなくもない。
 政治的な話題が毎日ではないが、ときに見せるこの人の政治的スタンスは明瞭な親日本共産党、明瞭な(曖昧な表現だが)「左翼」だ。
 文章や内容を見ていると本格的又は詳細な理論武装がなされているとは全く思えず、むしろ幼稚さが表れているのだが(もっとも「したたかな計算」でもって素人ふうを装っている可能性は否定できない)、こんな程度の日記サイトに毎日7万人もアクセスしているのかと思うと、戦後の行き着いた先の一つの状態に、愕然とし、また暗澹たる想いを覚える。

0012/石原慎太郎候補の圧勝を願う。

 東京都民ではないが、石原氏が再選してもらわないと困る。
 年齢を考えると、適当な別の候補を育てていれば、と感じなくもないが、今となってはそんなこと言っておれない。それに、健康面での問題はなさそうだ。
 浅野史郎には、思想も哲学もない。あるのは、情報公開制度の利用のさせ方も含む「行政技術」だけだ。
 それに何より、上野千鶴子、吉田康彦ら、有象無象の反体制派・所謂「左翼」が日本共産党の吉田某よりは当選可能性があるというだけで支持、応援している候補を都知事にしていいわけがない。
 確認はしていないが、佐高信・筑紫哲也・石坂啓ら週刊金曜日関係者・同読者は(都民であれば)浅野に投票するだろう。
 上野千鶴子、佐高信、筑紫哲也、石坂啓らが喜ぶ顔を想像するとぞっとする。
 千葉県知事・堂本暁子が浅野候補を応援したいというのは、同知事・堂本暁子がれっきとしたフェミニストなのだから当然だろう。
 東京都の有権者の方々は、都庁をフェミニズム、アナーキズム、残存マルクス主義、似非「市民主義」、親北朝鮮等々の牙城にしないように、断固として賢明な結果を示していただきたい。

-0059/1945年から1950年生れを広義の「団塊」世代と呼ぶとすると。

 終戦の1945年に1925年(大正14年)生れの人は20歳で、大学に進学する極めて少数の人を除いて戦前の教育しか受けていない。三島由紀夫は1925年生。
 1930年(昭和5年)から1935年(昭和10年)生れの人は10歳から15歳で、戦前と戦後の両方の教育を受け教科書「墨ぬり」を経験したと思われる。
 1932年生れに石原慎太郎・江藤淳(・本多勝一?)等、1935年生れに西尾幹二・大江健三郎・筑紫哲也等がいる。
 これに対して1940年(昭和15年)以降生れの人は戦前生れであっても戦後教育しか受けていない(立花隆は1940年生)。1945年から1950年生れの少し広義の「団塊」世代が(占領期ではない)戦後の教育しか受けていないことは言うまでもない。
 計算しやすく1990年までを昭和としておくと、この年に上の「団塊」世代は40~45歳でまだ役所や会社の「指導」層ではなかった。かりに50~65歳を社会の指導的中心層とすると、昭和戦前のそれは明治生れの人々であり、1970年のそれは1905~1920年生れ、すなわち明治38年~大正9年生れの人々だった。昭和時代を指導したのはほとんど明治・大正生れの人たちだったのだ。
 昭和世代のうち「団塊」世代がこの指導的中心層になったのは1995年ないし2000年以降で現在に至っている。この時代はバブル崩壊後、欧州での冷戦終結後の「新しい」時代だったと言え、政治的観点からいえば1994~1996年の首相は日本社会党の村山富市だった(自社さ連立)。
 1995年には阪神淡路大震災・オウムのサリン事件も発生したのだが、この年以降頃に指導的中心層になったはずの広義の「団塊」世代は何をなしえただろう。今後何ができるだろう。首相が1954年生れの安倍に替わって広義の「団塊」はスキップされた感もあるが、菅直人・鳩山由紀夫・桝添要一・塩崎恭久・櫻井よしこ・中西輝政・関川夏央らはこの世代で、まだまだ活躍の余地はあるだろう。
 しかし、もっぱら戦後教育のみを受けた者たちが指導的中心層となってどの程度適切・的確に国家・社会を運営していけるか、心配なくもない。「戦後体制との訣別」を志向するとしても、その「戦後」に(ある人々はどっぷりと)浸って、ある意味では「うまみ」も味わっきたのがこの世代であり、「戦後体制」なるものの一部は、この世代の相当部分の人々の血肉化していると思われるからだ。
 1960年代末~70年代の言葉を用いるとすれば、この世代にとってある程度の「自己否定」を伴わないと、「戦後体制との訣別」は不可能だと思われる。

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