秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

知識

2334/「知識」·「学歴」信仰の悲劇①ー山口真由。

 ネット上に、山口真由の興味深い述懐が掲載されている。週刊ポスト(集英社)2021年4月9日号の記事の一部のようだ。おそらく、ほぼこのまま語ったのだろう。
 「東大を卒業したことで“自分はダントツでできる人間だ”との優越感を持ってしまったのだと思います。その分、失敗をしてはいけないと思い込み、会議などで質問をせず、変な質問をした同期を冷笑するようになった。東大卒という過剰なプライドが生まれたうえに、失敗を恐れてチャレンジせず自分を成長させることができませんでした」。 
 山口真由、2002年東京大学文科一類入学とこのネット上の記事にはある。
 別のソースで年次や経歴の詳細を確かめないまま書くと、2006年東京大学法学部を首席で卒業、同年4月財務省にトップの成績で入省、のち辞職して、司法試験に合格。
 上のネット記事によると、同は「財務省を退職して日本の弁護士事務所に勤務した後、ハーバード大大学院に留学。そこで『失敗が許される』ことを学び、『東大の呪縛」を解くことができたという」。
 山口真由、1983年年生まれ。ということは、2021年に上の述懐を公にするまで、ほとんど38年かかっている。
 2016年にハーバード大・ロースクールを修了したのだとすると、ほとんど33年かかっている。
 33-38年もかかって、「失敗を恐れてチャレンジせず自分を成長させること」ができなかったことに気づいた、というのだから、気の毒だ。
 東京大学入学・卒業までの年月は除外すべきとの反応もあるかもしれない。しかし、一冊だけ読み了えているこの人の書物によると、この人は大学入学まで(たぶん乳児期を除いて)<東京大学信仰>または<学歴信仰>を持ったまま成長してきている。つまり、少年少女期・青春期を、<よい成績>を取るために過ごしてきていて、「東大卒という過剰なプライド」を生んだ背景には間違いなく、おそらく遅くとも、中学生時代以降の蓄積がある。
 読んだ本は(手元にないが、たぶん)同・前に進むための読書論—東大首席弁護士の本棚(光文社新書、2016)
 「知識」・「学歴」信仰の虚しさ、人間はクイズに早くかつ多数答えたり、難しいとされる「試験」に合格したりすること<だけ>で評価されてはならない、ということを書くときに必ず山口真由に論及しようと思っていたので、やや早めに書いた。
 正解・正答またはこれらに近いものが第三者によってすでに用意されて作られている問題に正確かつ迅速に解答するのが、本当に「生きている」ヒト・人間にとって必要なのではない。「知識」や「教養」は(そして「学歴」も)、それら自体に目的があるのではなく、無解明の、不分明の現在や未来の課題・問題に取り組むのに役立ってこそ、意味がある。勘違いしてはいけない。
 ーー
 付加すると、第一。テレビのコメンテイターとして出てくる山口の発言は、全くかほとんど面白くないし、鋭くもない。
 <キャリアとノン・キャリアの違いがあることを知ってほしい>との自分の経歴にもとづくコメントとか、サザン・オールスターズの曲でどれが好きかと問われて、<そういうのではなくて、論理・概念の方が好きだったので…>と答えていたことなど、かなり奇矯な人だと感じている。これらの発言は、2016-2020年の間だろう。
 第二。一冊だけ読んだ本での最大の驚きは、「試験に役立つ・試験に必要な知識」を得るための読書と、その他一般の読書をたぶん中学生・高校生のときから明確に区別していたこと。
 大学入学後も、受講科目についての「良い成績」取得と国家公務員試験の「良い成績での合格」に必要な知識とそれらと無関係な(余計な?)知識とを峻別してきたのではないか。
 これでは、<自分の頭で考える>、茂木健一郎が最近言っているようなcreative な頭脳・考え方は生まれない。
 山口真由だけに原因があるというのではなく、その両親や友人、出身高校等、そして「戦後教育」の全部ではないにせよ、重要な一定の側面に原因があるに違いない。
 よってもちろん、こうした<信仰>にはまった人々は、程度や現れ方は違うとしても、多数存在している。

2238/秋月瑛二の想念⑧01-2020年6月。

 秋月瑛二の想念-2020年6月①。
 いろいろなことを考える。
 最も深くは、人間にとっての、正確には現在の人間や社会にとっての「知」・「知識」の意味だ。脳内の一定部分に強くか弱くか、継続的か一時的にか蓄積される<認識>の束のようなもので、「教養」とか言われるものを含む。
 ヒトと人間の「進化」に<精神>活動、<知識獲得・継承>活動が不可欠だったことは論じるまでもなく、「精神」活動・「知的」活動一般を否定するつもりはないし、否定できるはずもない。
 だが、世界の国や地域で同じ程度ではないとはいえ、いずれかの時代から、「教養」を含む「知」の意味は、あまりに高く、大きく評価されすぎになってしまって、ほとんど誰も疑問視していない(つまり当然視している)。
 これは人間または国民・住民に一様に言えることでもない。
 「専門知識」・諸概念を伴う「理論」を知っている者たちが、人間の世界の中にいることは必要だ。しかし、どの程度の人が、どの範囲の数の人々が、「知識」や「理論」を知っている、身に付けている必要があるのか。
 「知識」は個人的にも獲得でき、「家庭」でも教えることができるが、「知識」提供がおおむね<社会化>(・国家化)されたのは大雑把に言って<近代>以降のことだろう。
 「国家」自体が強く大きくなるために、「国民」自体に対する「公教育」が必要だった。
 日本に限ればもともと日本人の識字率は高かったところ、明治以降の「義務教育」制度等々によって、基礎的な素養・教養程度において、日本人は高いとか言われている。
 しかし反面で止目しておいてよいと思われるのは、本来は、もともとは、-その意味が<本来は>問題になるが-必要ではない「知識」も<教え込まれた>ということだ。
 それぞれの人々、ある程度の範囲の人々には<本来は不要>だったとすると、その人たちに対する「教育」にかけたエネルギーは、浪費、無駄だったことに論理的にはなる。
 戦後日本もまた、<高教育>の方向へとつき進んだ。
 戦前は小学校・高等小学校までくらいが<ふつうの庶民>の最終学歴だったところ、新制高校への進学率は100パーセント近くになり、かつての旧制中学への進学率以上にするかに高く、同一学年の45-50パーセントが「大学生」になっている、とされる(旧制度期の実際については時代・時期により異なるだろうが、こだわらずに書いている)。
 彼らは、4-6年を「大学生」として過ごす。
 この「大学教育」の現在の日本での意味はいったい何か。
 大学教授等の大学教師たちがいて、一方では「研究者」でもあるようだが、おそらく少なくとも過半数はろくに「研究」もせず、「論文」もほとんど書かず、「教育」だけをしている(正確には、「教員」人事を含む大学・学部運営への関与もある)。
 彼ら「大学教師たち」の今日での存在意義は、いったいどこにあるのか。
 彼ら「大学教師たち」こそ、「知識」や諸概念を伴う「理論」について、あくまで<大衆>と比べて相対的に見てというだけだが、かつまた一定の「分野」に限ってのことだが、<より高く、広く>知っている、とされる。
 だが、彼らの「知識」等とそれをいちおうは享受する「学生」たちにとって、そもそも具体的な「知」や「精神活動」はいったい何のために役立っているのか。
 大学進学・卒業の意味が実質・実体ではなく<レッテル・ブランドの獲得>に代わったと指摘されて久しいだろう。むろん一部は除外して、総体としては、という意味だ。
 馬鹿馬鹿しい<レッテル・ブランド>のために、壮大な精神的・物理的エネルギーが無駄に使われている、という感触を拭いがたい。当然に、膨大な数の親・保護者、学校教育関係者を巻き込んでいる。
 医師、あるいは専門法曹、専門技術者等々、必要な職業・資格があることは否定できない。
 しかし、そうした職業に就かない、資格を獲得しない、おそらくは最少でも過半数の学生たちにとって、「大学教育」とは何なのか、何のために「大学教師」が必要なのか。
 <レッテル・ブランドの獲得>が第一で、第二は(社会人としての?)「教養」だとすると、こんな馬鹿馬鹿しい、無駄なものはない。
 クイズ番組で優勝することができるほどの多数で雑多な「知識」を各人が持つ必要はない(アメリカで諸種の辞典類を全て詰め込んで必要語句を探索できるAIが優勝したとの話を読んだことがある。勝利しても彼=AIロボットは「喜ばなかった」そうだ)。
 現実社会を「現実に」生活していくためには何ら役に立たない「教養」も、-あるいは「教養」をそういう限定された意味で使うと-それを習得することは無意味で、無駄だ。
 最近のコロナウイルス禍に引きつけて言うと、ウイルス・細菌・生命といった基礎的概念、産まれ落ちたときにすでにある、あるいは生後に社会的に獲得した「免疫」(遺伝、自然免疫)、そうした「機構」をもつ「細胞」やその集積体について、基礎的にではあれ、何らかの「知識」を持っている方が、はるかに有益ではないだろうか。
 あるいは広げると、<何故、見えるのか(脳は外界を画像として知覚するのか>、<何故、皮膚は感じるのか(触覚)>等々といったヒト、人間(あるいは多くの生命体)そのもの全員に関係がある、まさに<自分自身のこと>に関する「知識」をもっていることの方が、はるかに意味があるのではないだろうか。
 とある外国の歴史上の王朝名・国王名を知らなくとも、外国での「~戦争」やその勃発年について知らなくとも、まさに<自分自身のこと>である人体・脳・細胞・生命に関する「知識」を持っている方が、はるかに有益だ。
 明治以降のどこかで、<教育・教養>政策には、根本的な見直しが必要だったかに見える。
 だが、これを<変革>するにはよほどの大きな<時代意識>の変革が必要だろう。
 単純に言えば、<無駄な知識・精神活動>よりも<健全なヒト・人間としての活動>だ。「知」ではなく、「感性」あるいは今日に必要な「人間的な=同種の生命体への共感を持つ感情」や適度に鍛えられた健康な身体の培養により意識と配慮をむけて重視することだ。
 むろん、むつかしい。意味・内容自体も問題だが、そのような基礎的な関心自体に乏しいだろう。
 現在の日本で<知的精神活動>を行っている者たちの大半は、明治以降・戦後日本へと続いた<教養教育>の優等生・少なくとも劣等生ではなかった者、で占められている。彼らはほぼ「知育」に限っての<学校での成績・順位>を自己存在の根拠にしているゆえに、根本的に「知」のありようを問うたりするのは、<自己否定>につながる危険性がある。従って、「知識」にかかわる教育の意義を、根本的に疑問視することはない。大まかな分類のもとで差異がもうけられても、全員が、又はほぼ全員が、真の必要性を問うことなく、<同じような>教育を受けるべきだと考える。
 コロナ禍が「終息」して「日常」に回帰するという場合の「日常」は近代日本と戦後日本が作り上げてきた相当程度に人為的なものなので、例えば現在の<学校>のあり方や<学校制度>は、日本人にとっても、当然の「日常」であるはずはない。
 つづく。

2066/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)②。

 ジョン・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002/2003).
「序」のつづき。
 (1) ダーウィン・進化論(ガレリオ・地動説、ニュートン力学も?)がキリスト教世界・文化に対して与えた衝撃を実感として理解することはできない。
 ともあれ、J・グレイはダーウィニズムにこう言及しつつ、さらに、キリスト教→ヒューマニズムの歴史を語り、後者もまた「科学」ではなく「信仰」だと述べる。以下、邦訳書を参照しつつ、そのままには従っていない。
 ・本書は「新ダーウィニズムの思想(Neo-Darwinism orthodoxy)」が「人間という動物(human animal)に関する究極的な説明」だとはどこにも書いていない。支配的な「ヒューマニズムの世界観」を打破するために「戦略的」にダーウィニズムを使っているのだ。にもかかわらず、ヒューマニストたちは「進歩への信仰が今日に揺れ動いている」のを支えるためにダーウィンを用いている。しかしながら、彼が明らかにした世界には「進歩」はない。「真に自然主義の世界観は、世俗的な〔進歩という〕希望の余地を残していない」。
 ・19世紀初めに、Henri Saint-Simon とAuguste Comte が「人間中心教(Religion of Humanity)」を創始した。これが20世紀の「政治的宗教(political religion)」の原型となり、John Stuart Mill に強い影響を与え、「リベラリズムを今日の世俗的信条(secular creed)にした」。また、Karl Marx への影響を通じて「科学的社会主義」の形成を助けた。
 ・「ヒューマニズムは科学ではなく、宗教(religion)である。-人間はこれまでに生きてきたいずれよりも世界をより良く造ることができる、というキリスト教以降の信仰(faith)である。」
 (2) つぎにJ・グレイが言及するのは、ヒューマニズムという「進歩への信仰」のもう一つの淵源(source)としての「知」=「知識(knowledge)」だ。
 ・「科学では、知識の増大は蓄積していく。しかし、人間の生活全体は、蓄積していく活動ではない。ある一つの世代が獲得したものは、つぎの世代には失われるかもしれない。」
 ・「科学では、知識は純然たる善き(good)ものだ。しかし、倫理や政治では、知識は善であるとともに悪(bad)でもある。
 ・「進歩という観念が依拠するのは、知識の増大と種の進化は相伴っている、という信念(belief, 邦訳書では適切に「思い込み」)である」。
 ・「知識は、我々を自由にはしない。知識は我々を、これまでつねにそうだったような、あらゆる種類の愚行の餌食にしたままだ」。
 (3) このような「知識」論は、秋月瑛二の最近の関心を大きく刺激するところがある。
 「知識」は無条件に良いものではない。「知識の増大」=「進化」・「進歩」ではない。
 つまり「良い」必要な知識も「悪い」不要な知識もある。
 にもかかわらず、「知識」ないし「知」がほとんど無条件に良いものだと考えられているのは、いったい何故なのだろうか。
 「知識人」それ自体で<えらい>わけでは全くない。良質の「知識人」もいれば、悪辣で犯罪的な「知識人」もいる。
 にもかかわらず、「知識人」というだけで<立派な>人間だというイメージ・「思い込み」が生じているようであるのは、いったい何故なのだろうか。
 「知識」をほとんど対象とするのが、高校入学試験、大学入学試験、種々の国家試験類(公務員試験・司法試験等々)だ。これらに合格して特定の「大学」生等々の<資格>を得ること自体は、まだ善か悪か、<えらい>か否か、<立派>か否かを決するものでは全くない。
 にもかかわらず、「知識」の有無・多寡によって<全人格>までが決せられるようなイメージがある程度は相当に生じているようであるのは、いったい何故か。
 これは、<学歴>一般のほか<国家公務員最上級職>とか<弁護士>とかの資格の評価に関連する。
 「知」・「知識」の重視、これは少なくとも明治期日本以降には<伝統>になった、と思われる。
 日本国憲法もまた<リベラル・ヒューマニズム>の系列・流れの中にある。
 J・グレイによれば、憲法もまた一つの「宗教」・「信仰」あるいは「仮構」・「虚構」ではある。この点も、私にはよく分かる。
 そしてまた、<リベラル・ヒューマニズム>あるいは「近代啓蒙主義」は「知識」=「善」・「進歩(に役立つもの)」と理解したと考えられるが、これもまた「宗教」・「信仰」・「仮構」・「虚構」だろう。
 「知識」は生命体たる人間の、あるいは人間の脳内の一定部位や一定の仕組みが持つ、一定の側面にすぎない。
 「学歴」意識の虚妄と「学歴」意識の無惨・悲惨。
(つづく)
 ----

 IMG_1011 (2)
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー