茂木健一郎・脳とクオリア-なぜ脳に心が生まれるのか(日経サイエンス社、1997)。
 <第10章・私は「自由」なのか?>の後半、「認識論的自由意思論」。p.302-。
 「自然法則の基本的性質」からする自由意思論に加えて、「認識論的自由意思論」なるものが提示される。この部分の方が、<哲学者>の思考にまだ近い。
 茂木によると、「自由意思」概念は、「時間」の認識と深い関係がある。
 そして相対性理論のもとでの「相対的時空観」では四次元の中に「空間」と結びついて「時間」が最初から「そこに存在」するので、「自由意思」なるものは成立し得ない。
 この「相対的時空観」は、私たちの「直感」上の「時間」とは異なり、アインシュタインの過去・現在・未来の区別は「幻想」だとの言明は「正しい」としても、この「幻想」は強固であって、この「幻想」が「自由意思」と深くかかわる。
 どのようにか。これは、つぎのように論述される。
 ・「現在」が生成して「過去」が消滅する。「現在」時点でには「未来」は存在しない。「未来」が作成されたときに「現在」は消滅する。
 上のことが意味するのは、「未来」は「現在」には存在しないからこそ、つまり「未来」は不分明だからこそ、「自由意思」が作動して「未来」の私たちの行動が決定される、ということだ。
 ・「相対的時空観」では「幻想」ではあっても、私たちの一定の「やり方」の「認識」構造がある限り、「幻想」下での「自由意思」の存在を正当化できる可能性がある。
 さらに、つぎのように展開されもする。これによると、「幻想」を前提としなくても済むことになる。
 すなわち、「相対的時空観」が最終的真理ではなく、「時間の流れ」を記述する「未来の自然法則」が存在する可能性がある。
 やや中途半端な感もあるが、これでこの辺りを終えて、茂木はさらに、①<「自己」と「非自己」の区別>、②<自由意思と「選択肢」の認識>の問題に論及する。
 ①では例えば、飛んできたボールを避けるのと「飛んできたボール」を頭に浮かべて避ける練習?をする際の「自己」の内部・外部が語られる。
 ②では、「自由意思」といってもそれによる選択肢の数や範囲は限られる、として、つきの(私には)重要なことが叙述される。
 ・「どのような選択肢が認識に上るかは、私たちの経験、その時の外部の状況、私たちの知的能力、その他の偶然的要素にかかっている」。
 重要なのは、「どのような選択肢が認識に上るか自体を決めるのは、私たちの自由意思ではないということだ」。p.309。
 さて、適切な<要約>をしている、または<要旨>を叙述しているつもりはないが、以下が、この章での「議論」の茂木による「まとめ」のようなので、省略するわけにはいかない。p.309-p.310。
 前回に述べた大きな論脈の第一と今回の第二のそれぞれに対応して、こうなるだろう。
 第一。自由意思が存在するとしても、「アンサンブル限定」の下にある。但し、宇宙の全歴史の時間的空間的限定を考慮すると、「有限アンサンブル効果」を通して、「事実上の自由意思が実現される可能性がある」。
 第二。「認識論的自由意思論」の箇所では「自由意思」の条件を検討したが、未熟で検討課題が多い。
 以上のうえで、さらにこう書いている。p.310。
 ・「私の現時点での結論」は、現在知られている「自然法則が正しい」とすると、「自由意思」が存在しても「かなり限定的なものになる」、ということだ。
 ・「アンサンブル限定」という制約のつかない「本当の意味で自由な」「自由意思」は「存在しないと考える方」が、「量子力学の非決定性の性質、相対論的な時空観から見て、自然なように思われる」。
 さて、このように「現時点での結論」を記されても、特段の驚きはないだろう。
 「本当」のであれ、「事実上」のであれ、「自由意思」は存在する、と考える、そう観念する、ということができなくはないだろうからだ。
 それに、この書での茂木健一郎の論述は1997年時点での彼が30歳代のときのもので、体系的には(江崎道朗著などと比べてはるかに)しっかりしているが、現時点での彼や脳科学上の学問状況を反映しているとは言えないと思われる。もともとが、仮説・試論の提示なのだと思われる。
 むろん、仮説・試論の提示であっても、こうした分野に疎い「文科」系人間にとっては、脳科学の一端らしきものを知るだけでも意味があった。
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 なお、立ち入るならば、上のp.309の論述には、素人ながら疑問をもつ。
 「私たちの経験、その時の外部の状況、私たちの知的能力、その他の偶然的要素」によって「どのような選択肢が認識に上るか」を決めるのは、「私たちの自由意思ではない」、と茂木健一郎は叙述している。
 的外れかもしれない。しかし、決定する時点で「自由意思」は働いていないとしても、「私たちの経験、その時の外部の状況、私たちの知的能力、その他の偶然的要素」は、簡単には自分たちの「経験」等々自体が、自分たちの「自由意思」の介在が100%なくして発生したのではない、のではないだろうか。
 <自由意思>を働かせる選択肢の数・範囲が(残念ながら宿命的にも)限られているのは、おそらく間違いはない。
 しかし、その限られて発生する選択肢の範囲や内容自体の中に、なおもほんの少しは「自由意思」が介在しているものがあると思われるのだが。
 さらに、第9章<生と死と私>も、この欄で紹介・コメントする予定だ。
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 なお、茂木の原書では「自由意思」は全て「自由意志」と表記されている。はなはだ勝手ながら、「自由意志」では何となく?落ち着かないので、全て「自由意思」に変更させていただいている。