秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

皇室典範

1443/天皇譲位問題ー「観念保守」というアホの4人組。

 一 天皇譲位問題は、現在の私には最優先の論題、思考テーマではない。
 しかし、日本の<伝統と歴史>を守るためにとか言いながら、じつはデタラメな歴史観と歴史知識をもったままで単純かつ<観念的>な議論をする者がいて、しかも首相のもとでの検討会に専門家として見解・意見まで述べる機会が与えられたというのだから、ヒドイものだ、ますます<保守>派の印象は悪くなる、と憂いていた。
 といっても、いくつかの論考や文章にきちんと目を通して、精確に批判しておくことは、むろん不可能ではないが、それだけの手間と労力をかける意味があるのかと思うと、大いに躊躇するところがあった。
 本郷和人・天皇にとって退位とは何か(イースト・プレス、2017)を入手して読んで、やれやれやっと、私が言いたかったこと、論じたかったことの8割ほどは書いてくれている書物が出てきた、と思った。
 すでに昨年8月に、生前譲位を認める何らかの<改正>をせざるをえないだろうと簡単に記した。また、昨年12月頃には<観念保守>の主張らしきものを批判的にコメントしている。その中で、明治期以降だけが日本や天皇の歴史ではない、とも書いた。
 上の本郷著を概読して、あるいは冒頭の数頁をひもといても、やはり、(たぶん年齢順に)渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこ、八木秀次の4人はバカなのだと思う。
 いや、最近読んだ西部邁の文章によると、「バカ」なのは左翼で、右翼・保守は「アホ」なのだそうだ。
 本当に上の4人は、「アホ」らしいことを真面目に書ける、主張できるものだ。恥ずかしい。また、これらの人々の言論のために、政府や出版社も含めて、多くの時間・コストを要していることを、何と無駄なことをしているのか、と感じる。
 二 さて、本郷和人著から、ほぼ首肯できる文章を、ほとんどが以前から私が感じてきたことや知っていることだが、抜き出して引用する。
 「じつは、いわゆる右といわれている思想家や研究者のなかには平気でウソをついている人がたくさんいます」。/歴史に「無知なためにウソをついている人もいれば、なかには知っていてわざとウソをついているのでは、という人もいます」。p.11。
 「摂政のあり方や摂政としての制度の運用のしかたというのは、まだ固まっていません。戦後の象徴天皇制のもとでは、もちろん一度も置かれていません」。p.33。
 「皇室典範を金科玉条のように思い、改正することに対して否定的な考えの人たちも多い」。だが、私が思うに、「じつは天皇陛下は、そういう人たちの動き、いうなれば硬直的というか、極度に保守的な考え方を快く思っていないのではないでしょうか」。p.38。
 「ただ疲れたからやめたい、体力的にキツいというだけで提案したわけではないでしょう。それ以上の意味合いをもっての行動だったのではないでしょうか」。p.45。〔本郷の推測する意味づけは省略。〕
 旧皇室典範が終身在位を定めたのは-「死ぬまで天皇をやってください」と決めたのは-、「天皇の後継者への任命権を制限する行為ともいえる」。天皇の「絶対的な存在」を規定しつつ、「伊藤博文をはじめとする元勲たちは、どこか冷めた目も持っていた」。p.51。
 明治政府は、「もう一度、朝廷の力や権限を担ぎ出されたくはない」。自分たちが成功したのと「同様のことを行われたくはないから」だ。天皇の「政治利用」を極端に恐れたはずだ。「旧幕府軍側が、[奥州戦争で]…皇族の北白川宮能久親王を先頭に押し立てて戦おうとした」ような政治利用の再現を恐れた。「終身天皇という形を制定したことはそういう政治利用の場に引っ張り出される危険性を未然に防ぐ効用もあったはずです」。p.53。
 「明治時代の元勲たち」は、「天皇が絶対であると一般大衆には布告しながら、本音としてはそれは方便でした」。p.54。
 のちの指導者たちは「明治の元勲たちの持っていた冷めた視点を失ってしまった」。「第二世代、第三世代になると建前を盲信してしまい、あやまちを犯す」。p.58。〔この最後の辺りの評価と原因分析は議論の余地があるだろうが、立ち入らないでさらに続ける。〕
 「実在が確認されている天皇のほとんどは生前退位しています。現在のような終身在位の方がめずらしいケースでした」。p.66。
 「第50代くらいまでの歴代の天皇」では「生前退位が行われているケースは、やはり女性と高齢天皇の場合が多いのです。しかるべき人が無事に即位できる時期になれば生前退位をして譲位をすることが前提に近い状態で即位した」。p.69。
 「桓武天皇以降からは生前退位が当たり前になってきます」。p.70。
 「後三条天皇」以降で「死ぬまで天皇でいた人は、若くして亡くなったり、不慮の死で急逝したりした場合と、経済的に苦しかった戦国の天皇たちにかぎられていきます」。p.74。〔経済的に苦しいとなぜ生前譲位できないのか。それは、新天皇の践祚・即位の儀礼等に多大の費用がかかるからだ-秋月瑛二。〕
 「院政の時代」は、「権力を握った上皇のほうが天皇より偉い」。p.77。
 「家康は…、天皇や公家のやることは学問であると『上から』規定して役割を与えて」いった。天皇の存在を重視せず、公家・貴族は、将軍-大名-旗本-御家人の、御家人クラスの「必要最低限の援助」しか受けられなかった。p.85。
 この時代には「天皇の権力は無力化され、江戸幕府がすべての権力を集中して持っていた」。天皇は「領地」も将軍家から与えられて「経済的にもまったく自立していません」。但し、改元と暦に関する権限だけは別だった。p.86。〔但し、これは近世・江戸時代のことで、少なくとも室町時代には改元権は幕府・将軍にあったことがある-秋月。〕
 「天皇というのは、そのときそのときで性格を変えてきた」。地域首長・首長連合の筆頭・院政・武家政治、等々。p.126-7。[武士幕府政治のもとでも、後鳥羽・後醍醐のように「親政」へと挑戦した天皇・上皇はいたし、そうでなくとも、個々の天皇等ごとに幕府と朝廷・公家の関係は一様ではないとみられるー秋月。]
 天皇・武士の関係について「よく耳にする言葉に『天皇は権力は失った、だが権威だった』という言葉があります」。しかし、私は「それはあくまでも言葉の遊びにすぎないと思っています。権力も何も持っていない権威なんてものが存在するのかと考えるからです」。p.128。
 今の社会ならば「権力はなく、権威として存在することは可能」かもしれないが、昔、たとえば「中世社会において権力=力のない権威というものが存在したでしょうか」。同上。
 「そもそも将軍が天皇からお預かりしているという思想自体が、江戸時代の後期になって尊王とともに登場してきた概念にすぎません」。「朝廷の命によって征夷大将軍に任じられて」いるのは、「それこそ形式的なもの」です。p.135。
 「万世一系」を「日本の皇室がもつ特徴のひとつ」と思うのは問題はない。しかし、「だから日本人は偉い」・「日本人は特別の民族」とかの「優越意識や選民思想と結びつくと非常に問題があります」。日本・日本人を誇るときに「『天皇』を引き合いに出して自尊心を満たしたい」という心理はある。p.144。
 三種の神器の存在、前天皇又は上皇の承認の二つを欠いたまま即位した、「かなりグレーというか、いい加減な対応」による、後光厳天皇もいた。p.147-9。
 武家政治は鎌倉時代から江戸時代で「700年」続いたが、「軍事力をほぼ独占した武士たちによる政府ができたからこそ、天皇家は続いた」といえるかもしれない。「天皇が軍事も政治も意欲的に」行えば、とって代わろうとする勢力によって滅ぼされた「かもしれない」。古代の天皇のように自ら軍事行動をすれば、「どこかで戦いに敗れ、滅ぼされていた可能性は高い」。p.150-1。
 「怠惰な国民のもとに独裁者が生まれるし、怠惰な国民が独裁者をつくりだす」。「生臭いものから皇室は距離を保っておくべきだ」との意見が大勢であるようで国民はさほとどバカではない。「日本の場合、独裁者が生まれるとするなら、皇室もしくはその周辺からしか生まれないでしょうから」。p.156。〔この部分の言明は興味深い。「皇室の周辺」等についてさらに発展させて議論したいが、省略。〕
 生前退位による「政争の具」化、「政治的な混乱」の発生は「もはや難しい気がします」。皇室も含めて「絶えず可視化」されている情報化社会はそれを許さないだろう。p.159-160。
 「外部勢力が生前退位というシステムを使って」「手を突っ込んでくることはほぼ考えられません」。「あるとしたら、天皇家のなかでそういう動きがある場合でしょう」。p.162。〔この部分も興味を惹く。別に話題にしたい。〕
 「時の内閣の政治的駆け引きに利用される」という危惧が再三提起されるが、これは「天皇の人格の問題」、「どんな人が天皇になるのかという問題」だろう。p.162。 
 三 以上のすべてではないが、アホの4人組の見解・主張に対する反論や無知の指摘になっているところが多いだろう。
 <観念保守>の思考方法自体に最近は関心があるが、日本共産党による<明治維新以来ずっと日本は悪いことをしてきた-「帝国主義」化と「侵略」戦争>という歴史観を裏返しにした、しかも明治当初の元勲たちにはあった冷静な視点すら失った、戦前の一時期の<皇国史観>に立ち戻れ、というだけではないだろうか。
 本郷も指摘するし、産経新聞・「正論」欄で秦郁彦も述べていたように、明治期の旧皇室典範の内容こそがむしろ長い日本の歴史、天皇の歴史からすると<異例>だったのだ。
 誰も書いていないようだからあえて書いておくが、明治新政府の誕生時(1868年)、明治天皇は16歳で、明治憲法発布・旧皇室典範(勅令ですらない)制定時には38歳だった。かつまた、すでにのちの大正天皇は生まれていた(12年後にはのちの昭和天皇も生まれた)。そのような、40歳にもなっていない若い又は壮年の天皇がいた時期に、言うまでもなく、そのことや当時の後嗣を含む皇室の具体的状況も考慮して、あるいは具体的なそれを背景として、旧皇室典範により終身皇位制度が採用されたのだ-反対論もあったことが知られている-。この当時と大きく具体的な事情が異なる(むろん法的な位置づけも異なる)現在において、旧皇室典範の<精神>を持ち出すのは、狂気であるか、あるいはたんにアホであるとしか思えない。
 旧皇室典範以降で、わずか三代の代替わりしか行われていない(大正・昭和・今上)。これがなぜ、「日本の伝統と歴史」と言えるのか。昨年12月に触れたことだが、(<保守>派ならば神武天皇にまでさかのぼって ?)天皇の歴史に関する知識を持たなければならない。欽明まで遡らなくとも、平安直前の光仁、そして桓武あたり以降の歴史をすべて(概略でもよいが)知っておかないと、いかなる発言もマトモにはできないのではないか。
 本郷和人は、平川祐弘・月刊Hanada4月号(飛鳥新社)が嫌味を言っているような「法学」者ではなく、東京大学史学科出身の(中世が専門の)歴史学者だ。平川は、自らの視野の狭さ、思い込みとそれからくる「無知」、そして<観念論>ぶりを自ら嘆くべきだろう。
 また、平川は源氏物語という<文学>作品を読んでいない「法学」者を批判しているようだが、そんなものを持ち出さなくとも、いくらでも多数、より実際の<歴史>に近い書物・文献・史書はある(すべてが100%信用できるとは言わない)。
 櫻井よしこ、八木秀次らの具体的叙述も、かりにきちんと読めば、いくらでも、反駁あるいは無知の指摘をすることができる。
 こうしたアホたちがなぜ生まれて、出版界等で生きておれるのか。その理由、背景に最近は興味をもっている。アホたちを生息させている産経新聞等にもかつてよりはるかに批判的になっている。
 天皇・皇室制度それ自体について、種々書き残しておきたいことはあるが、今回はこれくらいにしよう。
 なお、本郷の長くはない叙述のすべてに同意しているのではない。例えば、明治新政権を世襲否定として肯定的な見方を示しているが、薩長中心の、藩閥的・門閥的な政府でもあっただろう(それは昭和期にも影響を与えた)。

1383/日本の保守-悲惨な渡部昇一・加地伸行。

 天皇譲位問題についての、月刊WiLL9月号(ワック)の渡部昇一、加地伸行、百地章、月刊正論9月号(産経)の渡部昇一、八木秀次、竹田恒泰、月刊Hanada9月号(飛鳥新社)の高森明勅、に触れる。
 あまりにヒドいのは、渡部昇一、加地伸行だ。この二人は、「摂政」の制度の利用で(現実的には)足りるとするが、その際、現行の皇室典範(法律の一つ)が定める「摂政」に関する規定の内容を全く無視している。
 渡部昇一は「天皇がご病気のとき」という要件を勝手にでっちあげており(妄想しており、月刊正論p.56)、加地伸行は「摂政」制度の利用は当然に可能だという前提(思い込み)に立っている(月刊WiLLp.44以下)。
 こうした、議論の作法自体をわきまえない「論考」が保守系とされる月刊雑誌の冒頭近くに置かれ、表紙等でも重要視されていることは、現在の日本の「保守」論壇の悲惨さを曝け出している。
 「保守」言論人のすべてが渡部や加地のごとくではないだろうが、上のような雑誌の編集部が原稿を依頼した十人に満たない中に、皇室典範の規定を一瞥することすらしないで天皇・皇室問題を「論じる」者がいるのだから、「保守」論壇の劣化・悲惨さは明らかだ。
 高森明勅が引用しかつ論及しているが(月刊Hanada、p.293)、天皇が未成年のとき以外に「摂政を置く」と皇室典範が定めている条文は、つぎのとおりだ。第16条二項。
 「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。」
天皇陛下の談話以前に書いた原稿だと弁明するかもしれないが、陛下ご自身が問題は「摂政」制度利用では解決されえないことを明言された。
 また、高森明勅は上の条文の解釈に踏み込みつつ(これは当然の作業だ)、「陛下がお考え」の譲位と摂政設置は「似ても似つかない」と結論している。
 詳論しないが、私もまた、上の条文が定める要件は充たされていないだろう、と考える。
 渡部や加地は、天皇・皇室に関する自らのイメージと理解でもって「摂政」・譲位問題を議論している。愚昧きわまりない。
 渡部や加地は、結果としては、現在の天皇陛下が「精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができない」状態にある、と主張していると理解される可能性すらある(誤解だが)。
 百地章と八木秀次はさすがに皇室典範の上の条項を意識しているが、二人ともに<柔軟な解釈>をして適用することを主張または示唆していることが興味深い。
 しかし、このような論法は皇室典範の<解釈による実質的改正>の可能性を説くもので、支持し難い。<柔軟な>解釈なるものは、法的安定性を損なうことにもなる。
 また、百地や八木の解釈がほぼ一致して採用されるとは限らず、正面からこれを説けば、世論はもちろん、「皇室会議」での議論も紛糾するだろう。
 竹田恒泰が言うように(月刊正論p.75)、皇室典範の改正か「特別措置法」制定しかないだろう。立ち入らないが、竹田が後者を主張している根拠は必ずしも十分ではない。特別措置法も(現天皇についてのみ適用する、と竹田はイメージしているのだろうか ?)、いったん成立すれば「制度」(しかも皇室典範の特別法として優先する)になってしまうことに変わりはない。
 問題は、天皇・皇族の高齢化を避けることはできず(喜ばしいことかもしれないが)、いわゆる「高齢化」社会を想定していない法律(皇室典範)が60年以上も改正されることなく存在し続けていることにあるだろう。
 加地伸行が「暴力革命を支持する勢力」による譲位・退位の強制がありうるとして、「退位規程」を作るのに反対しているのは、一見もっとものように見えて、現行の制度・皇室典範についての知識のなさを再び示している。
 加地伸行によると、「議会で過半数を占める特定勢力が、議会の議決によって退位を可能」とする危険もあるのだ、という。
 皇室典範を法律ではなく天皇(・皇室 ?)が定める「家法」にせよとの主張ならばまだ分かる。しかし、憲法自体を改正しないとこれも困難だ。
 憲法第2条「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する」。
 加地は、この条項も知らないで適当な文章を書いて、小遣い銭を貰っているのだろう。
 むろん、個別案件の適否は、国会が決めるのではなく、現行の制度を前提にすれば「皇室会議」が議決することになろう。
  「暴力革命を支持する勢力」が「議員」の過半数を占める事態は抽象的には想定できるが、そのような事態にな っているのであれば、現憲法の天皇条項自体が廃止・削除されているのではないか。
 ところで、現皇室典範第28条はつぎのように定める。
 「1 皇室会議は、議員十人でこれを組織する。
  2 議員は、皇族二人、衆議院及び参議院の議長及び副議長、内閣総理大臣、宮内庁の長並びに最高裁判所の長たる裁判官及びその他の裁判官一人を以て、これに充てる。
  3 議員となる皇族及び最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官は、各々成年に達した皇族又は最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官の互選による。」
 マスコミによる外からの「煽動」も考えられるが、基本的には、これらの「議員」となる人物が信頼できないとなれば、日本は、国家と諸制度自体が「脆うい」状況にある、ということになろう。
 加地伸行は、上の規定もおそらく知らないままで原稿を書いているのだろう(摂政を置くことも個別には皇室会議の議決が必要)。
 渡部昇一もそうだが、どうして、このような人物が「保守」系雑誌に、よりにもよって天皇・皇室問題について、登場してくるのか。
 嘆かわしい、悲惨な状態だ。
 ついでに。天皇陛下の「ご負担」軽減というとき、①憲法上明記された国事行為、②その他の「公的」行為、③祭祀を含む「私的」行為、を区別して論じてもらいたい。百地、八木、竹田の論考も丁寧にこの問題に言及してはいない。
 法律、政令の改廃に対する御璽押印と署名だけでも(慣行上または法制上、公布=官報掲載のために必要だ。公布自体は憲法上の国事行為だ)、おそらく一年に数千件にのぼるだろう。

0690/中川八洋・悠仁天皇と皇室典範(清流出版、2007)による日本の憲法学界批判。

 中川八洋・悠仁天皇と皇室典範(清流出版、2007.01)は、中川の皇室問題三部作の三冊め。ほぼ読了した。
 皇室問題・皇室典範の改正の方向に関する議論もさることながら、現憲法の天皇条項に関する園部逸夫・宮沢俊義の解釈批判に関連して多く語られている、現在の憲法学界に対する「怨嗟」とでもいうべき批判の仕方はすさまじい。
 例えば、p.110-「共産党であることを隠し続けた(憲法ではなく行政法だが)園部逸夫タイプも多いが、杉原泰雄長谷川正安奥平康弘横田耕一辻村みよ子…などのように、自分が共産党であることを隠そうとしないものもいる」。「後者の一群の中でも、いっさいのアカデミズムをかなぐり捨てて、フランス革命期の革命家気取りは、何といっても、横田と辻村の右に出るものはいない。自分を『ルソーの高弟』とか『ヴォルテールの愛弟子』と妄想しているのが横田耕一。自分を”大量殺人鬼”ロベスピエールの革命を助けている『ロベスピエールの愛人』だと毎夜夢想し恍惚に耽るのが辻村みよ子」。
 組織(日本共産党)所属問題は俄には信頼できないが(長谷川正安のように間違いないと見られる者もいるが)、舌鋒の激しさ、鋭さはスゴい。
 批判のための表現・言葉の問題は別としても、中川八洋は重要な問題提起をしていることは疑いえない。とりあえず挙げれば、例えば-。
 ①<国民主権>原理は(イスラム圏については知らないが)普遍的にどの国でも現在では憲法上採用されているように思ってしまっているが、そうではない、米国憲法は<国民主権>を意識的に排斥した、とする。宮沢俊義がアメリカ独立宣言やその当時の諸州の憲法が「国民主権主義」を明文で定めたと書いている(1955)のは「嘘宣伝(プロパガンダ)」だという(p.208)。また、英国もこの原理を採用していないとされる。
 「国民が主人公」とやらの日本の民主党のかつての?スローガンは<国民主権>の言い換えのつもりなのだろうが、日本国憲法における「国民主権」の厳密な意味は「民主主義」(・「民意」)とともにあらためて問われる必要がある(「国民主権」か「人民主権」かという辻村みよ子の好きな論点以前の問題として)。むろんこれは、<天皇制度>にもかかわる。
 ②「法の支配」の意味の正確な理解。中川によると「正しく知る」ものが「日本に一人でも存在するか」疑問だ(p.248)。中川は前東京大学教授(憲法)・高橋和之の<法の支配>に関する叙述の一部を引用して、「中学生レベルの抱腹絶倒の珍説で、論評する気が失せる」とまで述べる(p.253)。
 中川によれば、(ボッブズやロックではなく)英国のコウク卿(英国法提要・判例集)、ブラックストーン(イギリス法釈義)の流れの「法の支配」を採用しているのがアメリカ憲法で、「デモクラシーの暴走を、未然に防」ぐことにその基本的要素の一つがある。
 ③「立憲主義」の意味(「国民主権」との関係)。中川によると、「立憲主義」と「国民主権」とは両立しない。<憲法>が全ての機関・人間を拘束するのが<立憲主義>なので、「最高の権力」の意味での「主権」概念は(「国民主権」も含めて)当然に否定される(p.288)。
 「日本の憲法学は、本心では、確信犯的に、”立憲主義”を否定・排除するイデオロギーに立脚している。…フランス革命から生まれた革命スローガン『国民主権』と『憲法制定権力』を全否定しない説は、”立憲主義を殺す”反憲法の教理である。日本の憲法学は、恐ろしいことに、この反憲法の教理に基づいている。/『国民主権』や『憲法制定権力』を神格化して、”立憲主義を殺す”反憲法学の極みとなった、逆立ちする日本の憲法学は、『憲法=立法者の絶対命令』とする、異様な命令法学に畸形化している」(p.289)。
 「命令法学」の意味に立ち入らない。何とも挑発的で刺激的な本だ。もっとも、憲法学アカデミズム以外の者による批判として、日本の憲法学者たちは、かりに中川のこの本とその内容を知っても、おそらく完全に無視し続けるのだろう

0579/横田耕一(1939-)はきっとバカだ-同・憲法と天皇制(岩波新書、1990)等。

 横田耕一(1939-)という人はきっとバカなのだろう。それでも九州大学の憲法学の教授だったというから、日本の大学教授・憲法学者のレベルの低さもわかる。
 一 所功・近現代の「女性天皇」論(展転社、2001)p.71-72によると、横田耕一は1990年に(あの!)日本評論社から天皇制度に関する書物を出版し、その中の一論文で、現皇室典範(法律)が皇位承継資格を男系男子に限っているのは憲法14条が定める(男女対等という)平等原則に違反し、区別する合理的な理由もないので、「女帝の否定は、端的に違憲である」と主張しているらしい。
 女性天皇、女系天皇も法律(皇室典範)上認めて差し支えない、という議論ではない。女性天皇・女系天皇を認めないと「違憲」だというのだから迫力?が異なる(なお、現憲法上は「世襲」とのみ明記され、皇位承継者が男子に限る旨の明文規定はない)。
 所功の上の本には法制局「皇室典範案に関する想定問答」が資料として収載されている。正確な年月は不明だが、現在の皇室典範(1947年1月公布)を制定する直前のものと思われる。
 この「想定問答」は、旧皇室典範の「義解」(解説・解釈書と見られる)も参考にして、歴史的に見て「皇位の世襲」観念に「少なくとも女系」は一切含まれていない、ということを述べる。また、もともと「皇位承継資格が国民の一部にすぎない」、そして、「その一部に於ける不平等は、必ずしも男女同権原則の否定とは言い得ない」、従って「男系に限ることは必ずしも憲法違反と言い得ないと考える」、と記している。
 戦後当初のゆえにだろうか、<男女同権原則>の前にやや遠慮しがちに「必ずしも…ない」などという表現の仕方をしている。だが、上にも書いてあるように憲法自体が皇位は「世襲」と明記して(人の血統によることを明記して)憲法14条の平等原則とは矛盾することを定めている。
 歴史的・伝統的な経緯も含めて総合解釈すべきで、そもそも天皇・皇室にかかわる法律に憲法14条・男女平等の原則の直接適用がありえ、違反すると違憲となるという横田の発想自体が、率直に言って(バカを通り越して)<狂って>いるのではないか。
 なお、所功の別の本によると所は<保守派>だが女性天皇限定的容認論者で(この表現は私による)、なかなか興味深い。別の機会に言及するだろう。
 二 どうせ<反天皇主義者>の本だろうと思って、岩波新書であることもあり所持だけして読んでいなかったのだが、横田耕一・憲法と天皇制(岩波新書、1990)を瞥見してみた。
 1 この横田の本では「違憲」だとは断定せず、「女性天皇の否定は違憲の疑いが濃い」と書いている(p.18)。この書き分け方の違いの意味はよく分からないが、実質的には同じことを言いたいのではないか。
 また、現皇室典範は「女性差別」だと書いている(p.231以下)。一つは天皇になれないこと、二つは皇族以外の男性と結婚した女性皇族は皇族でなくなる(と定められている)こと。さらに次のようにも書く。
 1.「皇后が天皇よりも常に数歩遅れて歩くといった慣行は、平等原理には合致しないし、これを見る者の胸中の性差別意識を再生産することにもなるだろう」。
 2.「皇室祭祀・儀式のうち、宗教色の強いもの」には「皇后や皇族女子が列席を遠慮することになっているのも、女性差別と見ることができよう」。
 日本の歴史も伝統も無視して形式的に男女対等を語るとどうなるかの見本のような文章だ。<左翼>フェミニストたちは相槌を打って読むのかもしれない。
 (ところで、横田は「皇后や皇族女子が列席を遠慮することになっている」「皇室祭祀・儀式」があるという。この叙述の正確さを私は知らないが、正しいとすると、<現皇太子妃(将来の皇后)>問題?とも無関係ではないようだ。横田によると-この人は「男女差別」の例として書いているのだが-、「大嘗祭」では女性皇族は「早い段階で拝礼を終えて退席し、儀式の中核である天皇が直会を行う段階には列席しない」こととされているらしい。)
 2 上の本で横田耕一は現皇室典範は「身障者差別」だとも書いている(p.228以下)。
 「精神若しくは身体の不治の重患」の場合には皇位継承順序の変更が(皇室会議の議を経て)可能であるのは、「精神若しくは身体の不治の重患」の判断の「運用次第では、障害者差別として機能する面を内在している」。
 また、皇族男子の結婚について相手が障害者であることを理由に皇室会議が反対することも予想され、「その場合には障害者差別が行われていると言わねばならない」(他の例も書いているが割愛)。
 3 上の本で横田耕一は現皇室典範は「身分差別」だとも書いている(p.232以下)。
 横田によると、男性皇族の結婚の過程で「身障者差別」とともに「家柄による選別といった身分差別が生まれてくる」。
 また、そもそも皇位の「世襲」自体が「血による差別、生まれによる差別」なのだが憲法自体が容認しているので「平等原則の例外」と言うべきであるものの(ここの理解は正しい-秋月)、この憲法上の「差別の存在」が、種々の「社会的差別意識を再生産しつづける大きな源になるように思われてならない」。
 やれやれ。ここまでくると、現憲法を金科玉条とした憲法解釈論を超えて、憲法二条自体が「社会的差別意識を再生産しつづける大きな源」と言っているのだから、いつのまにか<憲法政策論>、具体的には天皇制度廃止論・解体論、を主張しているに等しい(その旨の明記は巧妙に避けているが、実質的にはこれに等しい。最初の方のp.23では、「国民の総意」・憲法改正により天皇制度の廃止が可能だと明記してある)。
 4 上の本は1999年9月に11刷となったようで、それ以降のものを所持しているのだが、それには「第11刷にあたって」という追記がなされ、国歌・国旗法の成立(1999)に関係して、次のように横田耕一は述べる。
 「『君が代』は『天皇の国』と解されるはずで…、これは…国民主権の憲法と明白に矛盾し、この意味であるなら『君が代』は違憲であり、それを国歌とする規定は無効と解されるべきであろう」。
 この横田耕一のような発想をしていると思考はきわめて単純で済み、たくさんの論文等が書けるに違いない。
 三 だが、本当に真面目に思うのだが、冒頭掲記のとおり、横田耕一という人はきっとバカに違いない。それでも九州大学の憲法学の教授だったというのだから、日本の大学教授・憲法学者のレベルの低さもわかる。
 また、大江健三郎・沖縄ノートを増刷したのと同様、さすがに岩波書店だ。こんなレベルの本を出版し、反「君が代」闘争(→究極は<反天皇主義>・<天皇制度解体論>)を行っている教員たち・「市民」たちに売って(バイブルになっているのかどうか?)、利潤を得つつ、<左翼(政治)活動>をしているわけだ。

0559/八木秀次とは何者か・5-現皇太子皇位継承不適格論の主張者。

 一 八木秀次は、月刊・諸君!7月号(文藝春秋)で、「問題は深刻である。遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生するという、皇室の本質に関わる問題が浮上している」と書き、続けて、皇室典範3条の「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる」という定めのうちの「重大な事故があるとき」に、「祭祀をしないこと」は該当する、という法解釈を示した。
 この八木の指摘については、すでに何回か言及した。
 ここでは、あらためてその論理の杜撰さを、より詳しく述べる。
 二 1 渡部昇一=稲田朋美=八木秀次・日本を弑する人々(PHP、2008)で、八木はまず、こう言っている。
 皇太子「妃殿下のご病気の原因が宮中祭祀への違和感にあるという説にはそれなりに信憑性があるのは事実です…」(p.205)。
 皇太子妃殿下が数年にわたって宮中祭祀に<陪席>しておられないのは、皇太子殿下のご発言等から見て事実のようだ。また、妃殿下の心身または体調にすぐれないところがあることも事実のようだ。
 だが、上の如く、八木もまた、「妃殿下のご病気の原因が宮中祭祀への違和感にある」とは断定的には認定していない。あくまで、「それなりに信憑性がある」とだけ自ら述べている。「それなりに信憑性がある」とは、厳密には<たぶん>・<おそらく>の類の推測・憶測であり、その程度が高い方に属する(と判断されている)場合に使われる表現だと思われる。
 2 ところが、「遠からぬ将来に……祭祀に違和感をもつ皇后が誕生する」という「皇室の本質に関わる問題が浮上…」と八木が書くとき、「それなりに信憑性がある」ということが、断定的事実へといつのまにか発展・転換している。「祭祀に違和感をもつ皇后が誕生する」との表現は、現皇太子妃殿下が「祭祀に違和感をも」っておられるということを疑い得ない事実として前提にしている。
 ここに、八木の論理の杜撰さ・いい加減さ、あるいは論理の<飛躍>の第一点がある。
 三 以上のことは、現皇太子妃殿下に関する事柄で、皇太子殿下ご自身に関する事柄ではない。にもかかわらず、八木は、将来における「祭祀に違和感をもつ皇后」の誕生と「祭祀をしない天皇」の誕生とを何故か同一視しているようだ。
 「祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生…」というふうに使い分けている、同一視していないとの反論がありうるが、これは当たっていない。
 何故なら、八木はその直後に、皇太子妃ではなく皇太子にのみ関係する、「皇位継承の順序を変えることができる」要件の解釈について語っているからだ。
 現在、皇太子殿下が皇位継承の第一順位者であることは言うまでもない。八木は現皇室典範に従って論じようとしているので―現皇室典範の有効性や合理性を疑う論者もありうるので、その場合は別の議論の仕方をする必要があるが―、現皇室典範の関係規定を引用しておく。
 皇室典範第2条第1項「皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。一 皇長子 二 皇長孫 …<略>」
 皇室典範第8条「皇嗣たる皇子を皇太子という。…」
 1 つまり、八木はいつのまにか、皇太子妃殿下の「祭祀」への「違和感」問題を皇太子の<皇位継承適格性>問題へとを発展させている。ここには見逃すことのできない、大きくは第二の、論理の杜撰さがあり、論理の<飛躍>がある。
 「祭祀をしない」ことが、「皇位継承の順序を変えることができる」要件に該当するかを論じるためには、そもそも現皇太子が「祭祀をしない」天皇になるのかどうかを認定していなければならない筈だが、このキー・ポイントを八木は脱落させている。
 八木の頭の中を想像すると、現皇太子妃殿下は「祭祀に違和感をも」っており、「祭祀に違和感をもつ」皇后が「誕生する」という問題があり、そのことは同時に、皇太子妃殿下=将来の皇后を<守る>(<護ろうとされる>)皇太子=将来の天皇が「祭祀をしない」こと、つまり「祭祀をしない天皇」の誕生につながる、というのだろう。
 だが、どう考えても、上の論理には無理がある。かりに現皇太子妃殿下が「祭祀に違和感をも」っておられることが100%の事実だとしてすら、なぜそのことが、「祭祀をしない天皇」の誕生の根拠になりうるのか?
 皇太子妃ではなく皇太子殿下については、宮中祭祀に長期間列席されていないとの情報はない、と思われる。
 現皇太子が「祭祀に違和感をも」ち、「祭祀をしない天皇」が誕生することがほぼ絶対的に確実であって初めて、皇室典範3条が定める「皇位継承の順序を変える」可能性の要件該当性を論じることができる筈だ。
 しかるに八木は、「祭祀をしない天皇」が誕生することがほぼ絶対的に確実だとする根拠を何も示していない。皇太子妃殿下が「祭祀に違和感をも」っておられる、という100%事実だと認定されてもいないことを(自ら「それなりに信憑性がある」とだけしか述べていないことを)、根拠らしきものとして挙げているだけだ。
 ここにはきわめて重大な論理の<飛躍>がある。むろん、きわめて杜撰な思考回路が示されてもいる。
 再び書くが、かりに現皇太子妃殿下が「祭祀に違和感をも」っておられることが100%の事実だとしてすら、なぜそのことが、「祭祀をしない天皇」の誕生の根拠になりうるのか?
 ことは皇位継承適格にもかかわるきわめて重大な問題だ。天皇家を、あるいは皇位というものを、大切に考えている筈の八木秀次は、なぜこんな無茶苦茶なことを言い出しているのか。現皇太子、皇位継承第一順位者、将来天皇になられる(皇位を継承される)蓋然性がきわめて高い御方に対して、きわめて失礼・非礼なのではないか。
 2 さらに厳密に考えると、宮中祭祀の少なくとも重要部分の主宰者は天皇ご自身であり、皇太子でも皇后でもない、ましてや皇太子妃でもない、とすれば、現皇太子が天皇として「祭祀をしない」か否かは、現皇太子が皇位を継承されて天皇におなりになって初めて判明することだと思われる。
 そもそも皇太子でいらっしゃる段階で「祭祀をしない天皇」になると断定することはできないし、その蓋然性・可能性を想定することも厳密にはできない。消極的な予想してもよいのかもしれないが、しかし、現皇太子は天皇になられて、宮中祭祀を立派に行われるだろう、と私は想像・推定している。現皇太子が「祭祀をしない天皇」になると、少なくともその可能性が高いと、何故、いかなる理由をもって八木は主張するのか。
 三 上のような諸点がクリアされないかぎりは、そもそも、「祭祀をしないこと」は皇室典範3条が定める「皇位継承の順序を変えることができる」要件の一つとしての「皇嗣に…重大な事故があるとき」に該当するかどうかを論じようとしても、全く無意味なことだ。
 にもかかわらず、八木はこの問題にもさらに踏み込んで、<該当する>と結論的判断を示してしまっている。ここに、論理の杜撰さ、<飛躍>の大きな第三点がある。
 相当にヒドい論理の<飛躍>だ。
 上記のように、①宮中祭祀にとって天皇こそが本質的・不可欠で、皇太子といえども<付き添い>者・<陪席>者であるにとどまるとすれば-但し、たぶん失礼な言葉になるが、実質的には将来に備えての<勉強>・<見習い>という要素が皇太子についてはあるものと思われる-「皇嗣」(皇室典範3条)の段階ではまだ「祭祀をしない」天皇になられるか否かは分からないのだ。
 ②「祭祀をしない」天皇になられるだろうとの予測をかりに関係者(とくに皇室会議構成員)ほぼ全員がもつようになってはじめて、ギリギリ皇室典範3条の問題になりそうに見えるが、現状はそのような状況にはない。皇太子殿下は、現況において、宮中祭祀を<欠席>されていることは基本的にはないはずだ。
 ③反復になるが、皇太子妃(将来の皇后予定者)が「祭祀に違和感をもつ」か否かは、皇太子=皇嗣の宮中祭祀への対応の問題とは別の問題だ。この二つを八木は何とか、レトリック又は<雰囲気>で結びつけようとしている(そこで論理の杜撰さが露わになり、論理の<飛躍>を必要とするに至っている)。
 宮中祭祀が基本的には天皇ご一身の行為であるかぎり、現皇太子=将来の天皇の祭祀行為への積極的対応と、皇太子が現皇太子妃=将来の皇后を<守る>(<護ろうとされる>)こととは、何ら矛盾しない。
 竹田恒泰いわく-皇太子妃殿下が皇后になられたときにまだご病気であれば、「無理に宮中祭祀にお出ましいただく必要はない。またそれによって天皇の本質が変化することもない」。
 西尾幹二、中西輝政とともに八木秀次は、<取り返しのつかない、一生の蹉跌>をしてしまったのではないか。
 皇室に入ってきた<獅子身中の虫>=<左翼>を排除するため、という正義感に燃えて、八木は今回冒頭に引用のことを書いたのかもしれない。しかし、主観的善意が適切な具体的主張につながる保障はむろん全くない。
 八木秀次が、皇太子妃の現状を批判的に問題にし、それを飛躍・発展させて現皇太子の皇位継承適格性を否定することまで明言したことは、皇室に関する混乱が発生し拡大することを喜ぶ<天皇制度解体論者>をほくそ笑ましただろう。そのかぎりで、八木は<保守的「左翼」>とも、<底の浅い保守>とも評されうる。そのくらいのインパクトのある文章を月刊・諸君!7月号に書いてしまった、という自覚・反省の気持ちが八木にあるのかどうか。

0530/西尾幹二は皇室典範等のどの法律・どの条項に基づく「皇室会議」を指しているのか。

 月刊・諸君!7月号(文藝春秋)の<われらの天皇家、かくあれかし>特集で、西尾幹二は、皇室典範(という法律)29条が内閣総理大臣を「皇室会議」の議長と定めているので、福田康夫現内閣総理大臣に対して、質問・要請する、というスタイルで文章を綴っている。最初の質問・要請事項は、皇太子妃のご病気・宮中祭祀へのご欠席等は「国家」問題・「国家レベルで解決されるべき政治問題」だと思うが、閣下(福田首相)は「そのような認識をお持ちであろうか」、のようだ(p.241)。
 内容的又は実質的問題はすでに(前回に)かなり触れたので、形式的・手続的問題について言及しておく。すなわち、「皇室会議」は「皇室」に関する事項ならば何でもすべて議題として議論することができるのか? 西尾が援用している皇室典範の全条項を、西尾自身は読んでいるのだろうか。
 皇室典範37条
皇室会議は、この法律及び他の法律に基く権限のみを行う」。
 皇室会議の権限は法律に列挙されている事項に限られる。同会議の議長としての内閣総理大臣の権限も(同会議に関する限りは)同じ範囲・事項に限られることとなる。その範囲・事項に該当しないと、議長・内閣総理大臣は「皇室会議」を招集・開催できない。

 やや急いで確認したので、見落としがありうるが、法律のうち皇室典範上の定めに限ると、「皇室会議」の権限は次のとおりだ。以下、特記がない限り、「皇室会議の議を経ることを要する」又は「皇室会議の議により…」と定められている。
 ・同3条/「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるとき」に、2条に定める順序に従つて「皇位継承の順序を変えること」。 
 ・同10条立后及び皇族男子の婚姻」。
 ・同11条
一項/「年齢十五年以上の内親王、王及び女王」が「その意思に基き」、「皇族の身分を離れる」こと。
 ・同・同条二項/「親王(皇太子及び皇太孫を除く。)、内親王、王及び女王」が「前項の場合の外、やむを得ない特別の事由があるとき」に、「皇族の身分を離れる」こと。
 ・同13条但書皇族の身分を離れる親王又は王の妃並びに直系卑属及びその妃は、他の皇族と婚姻した女子及びその直系卑属を除き、同時に皇族の身分を離れる」が、「直系卑属及びその妃」が例外的に「皇族の身分を離れないものとすること」。
 ・同14条二項/「皇族以外の女子で親王妃又は王妃となつた者が、その夫を失つたときは、その意思により、皇族の身分を離れることができる」(第一項)が、これらの者が「その夫を失つたとき」、「その意思に」よらなくとも、「やむを得ない特別の事由があるとき」に「皇族の身分を離れる」こと。
 ・同16条
二項/「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないとき」に、「摂政を置く」こと。 
 ・同18条/「摂政又は摂政となる順位にあたる者に、精神若しくは身体の重患があり、又は重大な事故があるとき」に、一七条が定める「順序に従つて、摂政又は摂政となる順序を変える」こと。
 ・同20条
/上記の「第十六条第二項の故障がなくなつたとき」に、「摂政を廃する」こと。
 西尾幹二は、皇太子妃うんぬんの問題は、上記の皇室会議の権限のうちどの条項に該当すると判断しているのか、皇室典範以外の法律上の権限ならばどの法律の何条が定める権限に属する問題なのか、を明確にしておくべきだ、と思う。冒頭の文を「皇室典範の第二九条に…と書かれてある」から始めているのだから。

0037/朝日新聞はルソー的「平等」教の信徒で、皇族に敬称をつけない。

 昨日読み終えた中川氏の本は、デカルトからレーニンまでの、人類を厄災に陥れた種々の「悪魔の思想」に触れていて、その中には、多少表現を変えれば、日本共産党や朝日新聞批判にもなるような叙述がゴロゴロしている。
 直接に朝日新聞に触れている部分もある。知らなかったが、p.339以下によると、朝日は93年6/06社説以降、敬語・敬称はできるだけ減らす、<皇室は敬語>という「条件反射的な思考を改める」との方針なのだそうだ。従って、皇太子「殿下」でなく皇太子「さま」になっている、という。当然に中川氏は批判的で、これも知らなかったが、皇室典範(という法律)は天皇・皇后・皇太后・太皇太后には「陛下」、それ以外の皇族には「殿下」という敬称を定めているのに、朝日新聞はこの法律の定めを無視し国民にも公然と法律違反を呼びかけている、とする。また、「平等」主義の行き着く所の一つは皇室軽視(→解体)だとして、「皇室への敬語を廃して平等の理念の現実〔化?-秋月〕だと狂信するこのマルクス主義の信徒」は、英国人・バークを引用して次のような人間だという。すなわち、フランス革命による王族・貴族の軽視・廃止を見ての言葉だと思うが、「水平に均してしまおうと欲する徒輩は、精神を高貴にする動機を自らの心中に感受しない人間」、「長年にわたって華麗に、しかも名誉の裡に繁栄して来たものの謂われ無き没落を見て喜ぶのは、…悪意に満ちた、嫉妬深い性質の人間」。
 近年の「格差」批判も近代(合理)思想の一つとされる「平等」主義の一つの表れだろうが、言うまでもなく、「平等」主義を完全に貫けば、一部の権力者(又は共産党員)を除いて「格差」がなく平等な(そして平等に貧困で平等に自由がない)社会主義国になってしまうことは歴然としている。とくに朝日新聞等のマスコミや民主党・社民党といった政党は、どこまで以上が許されない「格差」なのかを具体的に明らかにしたうえで、批判するなら現政権の政策を批判すべきだろう。「格差」批判=みんな平等、といった単純なイメージだけでは政策とは言えず、人気取りフレーズにすぎない。
 平等と自由の兼ね合いはむつかしい問題だ。むろん、「平等」主義を完全に貫けないし、そもそもが人間は平等には生まれていないのだが(「法の下」の平等は別として)、その生まれながらの(生まれてくる人間の責任に帰すことのできない)不平等に起因する「格差」があるとすれば、是正する、「平等」化する政策がとられてもよいように思われる。但し、その場合でも、子どもの責任に帰すことのできない生まれながらの不平等とは具体的には何か、という困難な問題がある。
 なお、親の資産・身分等による子どもの不平等を中川氏は当然視しているようで、中川説に完全には賛同できない。具体的には中川説は相続税の全面的否認説と読めるが、問題は相続税政策の具体的内容なのではなかろうか。現在の相続税制が相続者の負担が大きいものとして批判の対象にかりになるとしても、相続人にとっての「不労所得」としてどの程度国庫に吸収するかという問題が全くなくなるとは思えないのだが。

-0031/親王ご誕生と大江健三郎・日本共産党・朝日新聞。

 皇太子・秋篠宮各殿下の次の世代に親王誕生。慶賀と安堵の声を伝える放送を見ていて、大江健三郎は誕生と一般市民の反応の二つをどう感じているのだろう、と余計ながら思った。
 過日に言及した谷沢栄一の大江健三郎「告発」書を数日前に読了したが、この本の引用によれば大江は1959年に「皇太子よ、…若い日本人は、すべてのものがあなたを支持しているわけではない。…天皇制という…問題についてみば、多くの日本人がそれに反対の意見をもっているのである」と書き(ここでの皇太子は現天皇)、1971年には天皇制という中心への志向を特性とするのが日本の近代の「歪み、ひずみ」だとした。
 岩波新書・あいまいな日本の私(1995)の中にも反天皇的気分の文章はある(例えばp.151-2)。
 朝日新聞が今回彼のコメントを求めたら面白かったと思う。
 大江は民主主義の徹底を「あいまい」にしたものとして天皇・皇室の存続に反対であり、可能ならば天皇関係条項を憲法から削除したいが、「情勢」を見て自説を積極的に唱えてはいない、と推察できる。9条を考える会の呼びかけ人の1人になっているのは、天皇条項廃止とは異なり9条改正阻止は可能性があると「政治的」に判断しているからだろう。
 ほぼ同じことは日本共産党についても言える。昼休みに読んだ朝日新聞の中で共産党書記長が祝意を示していたが、「民主主義革命」達成までの「当面のこと」と付言すべきだ。
 その朝日の1面左側のたしか解説委員記事中で、記憶に頼れば、皇室の「心」・見解も反映させて皇室典範改正すべきと主張していたが、昨秋以降、小泉の私的諮問機関の最終報告書(皇室典範の基本的改正案)に皇室の一部から疑義が出されたときに朝日新聞は<皇室はダマっていろ>旨を「慎む」という語を使ってかなり失礼に、恫喝的に、述べたのではなかったのか。
 日本共産党が「安定的」な皇位継承を確保するために…などと言い出したら奇妙なように、朝日がそのような目的の意見を言うのも本当は片腹痛い。「夏の甲子園」開催と同じく、存立のための「大衆」迎合のつもりなのだろう。
 朝日はかつての戦後50年村山首相談話を継承するか等と質問して「安倍いじめ」を相変わらず続けている。日本共産党の志位某は国内で横田夫妻に逢うこともなく韓国の政党関係者と逢い、彼らが喜ぶ「歴史認識」を述べている。この2団体の動きを知ると精神衛生に悪いが、未来は彼らにはないと達観し、楽観して生きていこう。


ギャラリー
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