妊娠中絶のための処置・手術が、ある種の医院・診療所にとっての重要な収入源になっている、という話がある(その数も含めてかつて読んだが、確認できない)。多くの寺院に見られる「水子地蔵」なるものの存在や一つの寺院の中でも見られることのあるその数の多さは、いったい何を意味しているのだろうか。
 不幸な流産等もむろんあるだろうが、親たち、とくに母親女性の意図による妊娠中絶の多さは、戦後日本の「公然たる秘密」なのではないか。そもそも妊娠しても出産にまで至らないのだとしたら、出産後の育児のための保育園の数的増大や男性社員・従業員の育児休暇の取得の容易化等の政策の実現にいくら努力しても、根本的なところでの問題解決にはならないだろう。
 生まれる前の将来の子ども(・人間)の「抹殺」の多さはマスメディアによって報じられたり、検討されたりする様子はまるでないが、これは(マスコミを含む)戦後日本の偽善と欺瞞の大きな一つではないかと思われる。
 望まない妊娠の原因の一つは、妊娠に至る行為を若い男女が安易にしてしまうという「性道徳」にもあるのだろう。もちろん、そのような若い男女の「個人主義」と「自由主義」をはぐくんできた戦後日本の、家庭や学校での教育にも問題があるに違いない。
 また、妊娠し(受胎し)出産することは、男と女の中で女性にしかできない、子孫をつないでいくための不可欠の高貴な行為にほかならないだろうが、そのような妊娠・出産を、男性とは異なる女性のハンディキャップであり、男性にはない女性の労苦であると若い女性に意識させてしまうような雰囲気が戦後日本には少なからず形成されてきたかにみえる。
 家庭において、学校において、そのような女性にしかなしえない貴重な営為について、その尊さについて、十分に教えてきただろうか。教えているだろうか。そのような教育を受けない若い女性が、とりわけ「少しだけは賢い」と思っている女性が、そのような労苦を<男女差別>的に理解しはじめたとしても不思議ではない。なぜ女だけが、男はしない<面倒な>ことをしなければならないのかと、とりわけ学校教育の過程で男子と対等にまたはそれ以上に「よい成績」をあげてきた(上野千鶴子のような?)女性が感じるようになっても不思議ではない。
 晩婚・非婚の背景には種々のものがあるだろうが、戦後の<男女平等(対等)主義>が背景にはあり、そして、それこそが、今日みられる<少子化>の背景でもある、と考えられる。
 まるで疑いもなく<善>とされているかに見える<男女平等(対等)主義>は、その理解の仕方・応用の仕方によっては、社会全体にとって致命的な<害毒>を撒き散らすことがありうることを、知るべきだろう。
 こんなことを感じ、考えているのは私だけではないはずで、確かめないが、林道義・フェミニズムの害悪(草思社、1999)に書かれていたかもしれないし、タイトルを思い出せないが中川八洋の本の叙述の中にもあったように記憶する。
 日本の国家と社会にとって<少子化>が問題であり、それが日本の「衰退」の重要な原因になるだろうというのは、かなり常識化しているようでもある。そうだとすれば、その解決策は表面的な(ポストの数ほどの保育所を、といった)対応だけでは無理で、より基本的な論点に立ち戻るべきだろう。
 妊娠と出産は女性にしかできない。その点で、男女は決して対等でも平等でもない。そしてそのような違いはまさに人間の本質・本性による自然なもので、善悪の問題ではまったくない。むろん「差別」でも、非難されるべき「不平等」でもない。
 このあたりまえの(と私には思われる)ことの認識に欠けている人々や、こうした認識を妨げる言論・風潮があること自体が、戦後日本社会を奇妙なものにしてきた一因だと私には思われる。