秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

田久保忠衛

1308/中西輝政の憲法<改正>論。

 中西輝政・中国外交の大失敗 (PHP新書、2014.12) の最終の第八章のタイトルは「憲法改正が日中に真の安定をもたらす」であり、その最終節の見出しは「九条改正にはもはや一刻の猶予もならない」だ。そして、「九条改正という大事の前では、集団的自衛権の容認など、取るに足らない小事」で憲法九条を改正すれば「集団的自衛権の是非などそもそも問題にはなりえない」等ののち、「日本人はいまこそ一つの覚悟を固めて」、「日本国憲法の改正、とりわけ第九条の改正」にむけて「立ち上がらなければならない」等と述べて締めくくられている。
 このように中西輝政は憲法「改正」論者であり、<改正というべきではない、廃棄だ>とか<明治憲法に立ち戻ってその改正を>とか主張している<保守原理主義>者あるいは<保守観念主義(観念的保守主義)>者ではない。
 ではどのような憲法改正、とくに九条改正を、中西は構想または展望しているのだろうか。中西輝政編・憲法改正(中央公論新社、2000)の中の中西輝政「『自己決定』の回復」の中に、ある程度具体的な内容が示されている。
 すなわち、「九条の二項を削除し代わりに、自衛のための軍隊の保有と交戦権の明示、シビリアン・コントロールの原則と国際秩序への積極的関与に、それぞれ一項を立てる、というのが私の提案である。そして慎ましい『私の夢』である」(p.98)。
 そして、このような「九条二項の逐条改正を『最小限目標』とすべきである」ともされている(p.96)。
 この中西の案はいわば九条1項存置型で、同2項削除後の追加条項も含めて、基本的には、自民党改正案(第二次)や読売新聞社案とまったくか又はほとんど同じもののようだ。
 注目されてよいのはまた、「一括改憲」か「逐条改憲」かという問題にも言及があることで、「戦略」的な「現実の改憲」の容易性(入りやすさ)が意識されている。
 中西によれば、私学助成、環境権、プライバシー権など(の追加による逐条改憲)は「入りやすく」とも「『自己決定』の回復」とは到底いえず、一方、一括改憲は「改憲陣営の分裂を生じさせる」可能性があり、「何よりも時間がかかる」(p.96)。
 昨年末に田久保忠衛の論考(月刊正論(産経)所収)を読んで、ただ憲法改正を叫ぶだけではダメで、どの条項から、どういう具体的内容へと改正するのかを論じる必要がある、<保守派の怠惰>だと書いたのだった。しかし、中西輝政はさすがによく考えていると言うべきで、上のような議論を知ると、中西輝政を含めた<保守派>全体にあてはまる指摘ではなかったようだ(この中西編の著も読んだ形跡があるのだが、少なくともこの欄で取り上げたことはなく、-よくあることだが-中西論考の内容も忘れていた)。
 なお、上の2000年の中西論考は、中西輝政・いま本当の危機が始まった(集英社、2001)p.214以下、およびその文庫版(文春文庫、2004)p.196以下にも収載されている。
 とくに中西輝政と西尾幹二の諸文献、諸論文を、読む又はあらためて読み直すことをするように努めている。この稿はその過程でしたためることになった。

1304/西修・…よくわかる!憲法9条を読む-4。

 西修・いちばんよくわかる!憲法9条(海竜社、2015)を読んでの感想は、最後に、改憲派あるいは憲法九条改正を主張する論者においても、その改正の具体的内容についてはおそらくは基本的な点についてすら一致が必ずしもない、ということだ。これは西修の責任ではない。但し、読売新聞社案、産経新聞社案の作成に関与し、「美しい日本の憲法をつくる会」の代表発起人の一人であることから、もう少し何とかならなかったのか、という気もする。
 最大の論点は、現九条1項を基本的にそのまま残し、2項のみを削除・改正ないし追加するかだ。西修自身は、全体をかなり分解した改正案を考えているが(上掲p.115-)、現1項の趣旨をより明確化した文章に変えたうえで現2項を全面的に改めるもので、基本的趣旨・構造自体は現1項存置型に近いもののように解される。西修案は、同・憲法改正の論点(文春新書、2013)p.186でも示されている。
 明確に1項存置型の読売新聞社案と産経新聞社案とは基本的に同じだという西修の説明もあるが、産経新聞社案「起草委員会委員長」だった田久保忠衛は「第一項も含めて全面的に改める」こととしたと明記していることはすでに何度か記した(田久保忠衛・憲法改正/最後のチャンスを逃すな!p.172-5(並木書房、2014))。また一方では、既述のとおり、田久保忠衛は「美しい日本の憲法をつくる会」の共同代表の一人だが、同会による「改正案骨子」は現九条について「9条1項の平和主義を堅持するとともに、9条2項を改正して、自衛隊の軍隊としての位置づけを明確にします」と述べて、現1項は存置する考え方であるような主張をしている。
 櫻井よしこ=民間憲法臨調・日本人のための憲法改正Q&A(産経新聞出版、2015)はこの点についてどう書いているだろうか(なお、西修は民間憲法臨調の「副代表・運営委員長」のようだ)。
 まず、「例えば、第9条2項だけを改正し、1項は残す」としているのが目につき(上掲、p.36)、「例えば」とあるところからすると、この考え方も一案にすぎないものと理解されているように読めなくはない。
 しかし、改憲諸案で現1項の<侵略戦争>放棄の趣旨部分を提案するものはないと書き、1項を存置しても「平和主義の原則」は変わらない旨も記している(p.35)。
 また、<第9条を改正すると、「平和主義の理想」を捨てることになりませんか?>という質問を設定しつつ、「第9条2項を改正して軍隊を持っても、第9条1項に掲げられた『平和主義の理想』を捨てることにはなりません」という回答を述べ、その説明をしている(p.54-55)。
 こうしてみると、この本の考え方は、現九条1項は基本的に残したうえで2項を改正又は削除して「軍隊」保持を明記する、というもののようだ。
 とすると、田久保委員長ら「起草」の産経新聞社案はやはり最も異質な改正案の文言になっている。 
 奥村文男は産経新聞5/17の「憲法講座」94回で自民党案と産経新聞社案を比較して、「両者の基本的視点は共通ですが、自民党草案は、現9条1項を踏襲した上で、自衛権の発動を認めるとする点で、回りくどい表現が気になります。この点では、産経案の方がより簡明です」と述べて、産経新聞社案が最良であるかのごときコメントをしている。しかし、各改正案を見てみれば、このような評価は、「簡明」さの問題はさておき、決して多数に支持されているわけではないと思われる。
 このように諸改正案を見てみると、西修案にも見られる「簡明」さは魅力的ではあるが、結局のところ、現に政党の中で唯一九条改正案を提示し、今後も改憲運動の中心になるだろう自民党の案を基本として九条改正を議論する、あるいはそれに向けて運動するのが妥当だろうと考えられる。
 政権政党でもある自民党の案は、たんなる「私」企業である新聞社の案や学者等の「私案」とは異なるレベルのものと理解されるべきで、同列に並べて比較するのはもともと適切ではない。
 細かな文言等々について種々の議論が-おそらくは「美しい日本の憲法をつくる会」の役員の内部でも-あるのだろうが、私的団体間や個人間の議論ではなく、九条に関する自民党改正草案を支持するか、あるいはどのようにそれをよりましに修正するか、という議論をした方が生産的だと思われる。また、かりに九条にかかる自民党改正草案が支持されてよいのだとすれば、それを採用して各団体や論者の主張・意見としてもよいのではないか、と考えられる。
 九条の改正の具体的内容について些細なあるいは細かな、字句をめぐるような、不毛な・非生産的な議論は避けるべきだろう。 

1297/西修・…よくわかる!憲法9条を読む-3。

 西修・いちばんよくわかる憲法9条(海竜社、2015)を読んでコメントしておきたい第三は、以下のことだ。
 西修は現九条をどう改正するかについて①自民党案(2012)、②読売新聞社案(2004)、③産経新聞社案(2013)を挙げ(もう一つ旧民社党議員たちの「創憲会議」案(2005)も挙げているが、ここでは省略する)、1.現九条1項の「基本的な踏襲」、2.自衛戦力(軍隊)保持の明記、等で共通している、とするが(p.112)、この1.は、はたしてそうなのだろうか。
 現九条1項-「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。
 これに対応する各改正案の条文は次のとおりだ。
 ①自民党案-「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない」。
 ②読売新聞社案-「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを認めない」。
 ③産経新聞社案-「日本国は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国が締結した条約および確立した国際法規に従って、国際紛争の平和的解決に努める」。
 西修は各改正案が1.現九条1項の「基本的な踏襲」で共通している理由として、①を除く各案の「作成に関し、かかわりをもっているから」だとしている(p.116)。この著によると西は、②については読売新聞社内の1992年設置の憲法問題調査会に1委員として参画し、2004年案作成にも関係した。また、この欄でも既述のように、③については、産経新聞社内「国民の憲法」起草委員会5委員の一人だった。だから各案には「私の考えが大なり小なり反映されて」いる、というのだが、上記のとおり、ほとんど明らかに、産経新聞社案だけは異なっている。
 他の案は現九条1項の条文をほとんどそのまま維持している。「…は、国際紛争を解決する手段としては、」の部分をそのまま生かしており、そのあとが①「用いない」、②「永久にこれを認めない」。と少し変えているだけだ。
 これに対して、③産経新聞社案には、「…は、国際紛争を解決する手段としては」否認する、という、パリ不戦条約以来の歴史のある、<侵略戦争の放棄>の趣旨を、少なくとも明文では残していない。「…、国際紛争の平和的解決に努める」という部分でその旨を表現した、と主張されるのかもしれないが、その旨は明確ではない、と理解するのが自然だと考えられる。
 それに、この欄ですでに触れたことだが、産経新聞社案にかかる「国民の憲法」起草委員会の委員長だった田久保忠衛自身が、その著で次のように述べている。以下、田久保・憲法改正、最後のチャンスを逃すな!(並木書房、2014)による。
 「第一項は…そのまま残し」、第二項を「全面的に改める」説に「じつは私も…賛成だった」が、現第一項に「問題はないだろうか」。「国際紛争」の理解によっては「支障が出てくる」。第一項があると「国連決議にもとづく国際紛争にかかわる集団的安全保障に参加できないことになる」、また「米国が多国籍軍に入っている」ときに米国に対する武力攻撃を日本が「自国が攻撃されていないにもかかわらず」実力で阻止しようとすると「動きがとれなくなってしまう」=「集団的自衛権の行使に踏み切ることができなくなる」。そこで現第一項を含めて全面的に改める」こととした(p.172-5)。
 上にいう「国連決議にもとづく国際紛争にかかわる集団的安全保障」への参加については現一項は何も定めて(語って)いないのではないかとすでに書いたが、そうでない場合の米国との関係での「集団的自衛権の行使」については、現一項のもとでも一定の要件のもとに認められると閣議決定で解釈され、それにもとづく法案が(現一項のもとで!)国会に提出されている(2015.05)。
 この実際の動きはさしあたり別論としても、③産経新聞社案が他の、現一項をほとんどそのまま残す①や②とは異なることは、田久保忠衛が明言するようにほとんど明瞭なことではないか、と思われる。
 この産経新聞社案が絶対的に拙劣で<悪い>案だと言うさもりはない。だが、①や②には、現九条の全体に問題があるのではなく(<侵略戦争>放棄の第一項に問題はなく)、現九条二項こそが問題であってこの項こそが改正すべきなのだ、という主張・見解を国民に対して明確にアピールできる効用はあるだろう。
 自らが関係した二つの案が基本的に同じ趣旨だと主張したい気分は理解できるが、やはり、産経新聞社案だけは異質なのではないだろうか。
 全体の趣旨・論調からすると些細なことかもしれないが、気になった点であることは間違いない。
 なお、西修の改正私案は「…他国に対する侵略の手段として、国権の発動たる戦争、武力による威嚇または武力の行使を永久に放棄する」というもので(p.115-6)、「侵略」という語の使用によって趣旨をより明確にしつつ、③産経新聞社案よりも①自民党案・②読売新聞社案に近いものだ。 

1294/日本共産党のデマ-安倍首相らは「ネオナチ」か。

 デマゴギーとは、政治的目的をもって、または政治的効果を狙って、意図的に発信・流布する虚偽の情報のことらしい。略して、デマ。これを行なう者をデマゴーグという。
 日本で歴史上も現在でも最大の、手のこんだデマゴギー流布団体は、日本共産党だ。
 マルクス(・レーニン)主義自体が、古代史家の安本美典が適切に、端的に語るように、<大ホラの体系>だろう。これを「科学的社会主義」と言い換えていること自体、「科学」を愚弄するデマゴギーだと言える。
 日本共産党・不破哲三が前衛2015年3月号で、安倍晋三首相らを「日本版『ネオナチ』そのものだ」と言っている(p.135)。あるいは、「安倍内閣-…日本版『ネオナチ』勢力」という見出しをつけている(p.131)。
 このように断定する論拠は何か。つぎのような論旨の展開がある。
 ①河野談話や細川護煕首相の1993.08の「侵略戦争」発言に危機感をもった自民党内「戦争礼賛」派が同月に党内に「歴史・検討委員会」を作った。当選1回生の安倍晋三も参加した。
 ②上の委員会は1995.08に検討結果を著書・大東亜戦争の総括(展転社)でまとめた。この戦争の呼称自体が戦争を「美化」するもので、同書は、「アジア解放と日本の自存・自衛の戦争、正義の戦争」だったとし、南京事件も慰安婦問題も「すべてでっち上げ」だとした。
 ③かかる「戦争礼賛」論を教育に持ち込むために「礼賛」派を集めてその戦での歴史教科書づくりを始めた。新しい歴史教科書をつくる会発足が1996.02。
 ④上の運動を「応援」する国会議員団〔名称省略〕を1997.02を発足させ、事務局長に安倍晋三がなった。2001.01に「戦争美化」のつくる会教科書が文部省の検定に合格した。
 ⑤このように、安倍晋三は「戦争礼賛」の教科書づくりの「張本人」。要職を経て、「大東亜戦争」肯定論という「異様な潮流の真っただ中で育成され、先輩たちからその使命を叩き込まれて」、2006年に首相になった。
 ⑥政権と自民党を安倍晋三を先頭とする「戦争礼賛」の「異様な潮流」が「乗っ取った」状態にあるのが現在。
 ⑦上の潮流に属する「ウルトラ右翼の団体」のうち、「最も注目」されるのは、「日本会議」と「神道政治連盟」。それぞれ国会議員懇談会をもち、安倍晋三は首相就任後も前者の特別顧問、後者の会長だ。また、第二次安倍内閣の閣僚は全員かほとんどが上のいずれかに属しており、内閣は「ウルトラ右翼」性をもち、「侵略戦争の美化・礼賛一色の内閣」だ。
 ⑧「ネオナチ」とは要するに「ヒトラーの戦争は正しかった」というもの。
 ⑨安倍首相中心の日本の政治潮流は「ヒトラーと腕を組んでやった日本の侵略戦争」を「あの戦争は正しかった」と言っているのであり、「主張と行動そのもの」が「ネオナチ」と「同質・同根」。あの戦争を「礼賛」する「安倍首相率いるこの異質な潮流こそ、日本版『ネオナチ』そのものだ」。
 さて、間にいくつかのことを挿んでいるが(新しい歴史教科書をつくる会を結成させたのは自民党(の一潮流)という書き方だが、事実に即しているのだろうか。それはともかく)、安倍首相らは「ネオナチ」だとするその論旨は、A/安倍らはあの戦争を「美化」・「礼賛」している。B/あの戦争は「ヒトラー〔ナチス〕と腕を組んでやった」ものだ。C/したがって、安倍らは「ネオナチ」だ、という、じつに単純な構造を取っている。
 不破哲三とはもう少しは概念や論理が緻密な人物かと思っていたが、上の論理展開はヒドいだろう。政治的目的をもって、政治的効果を狙って、あえて虚偽のことを述べている、と思われる。
 まず、上のAは適切なのか。物事を、あるいは歴史を、単純に把握してはいけないことは、別の問題については、日本共産党はしきりと強調している。戦争の「美化」・「礼賛」とだけまとめるのは、単純化がヒドすぎる。
 大東亜戦争の総括(展転社)を読む機会を持ってはいないが、安倍首相らの<歴史認識>がこれほどに簡単で単純なものとは到底考えられない。たしかに、日本共産党のような?GHQ史観または東京裁判史観にそのまま立ってはいないだろうが、もう少し複雑にあるいは総合的に、あるいは諸局面・諸要素ごとに判断しているように思われる。
 また、例えば、より具体的には、安倍首相らの「潮流」に属する団体としてとくに「日本会議」が挙げられているが、田久保忠衛は同会の代表役員であるところ、田久保・憲法改正最後のチャンス!(2014、並木書房)を読んでも、-この点は別の機会にも触れるが-田久保があの戦争を全体として「美化」・「礼賛」しているとは到底感じられない。長谷川三千子も同じく代表役員だが、GHQ史観・東京裁判史観に批判的だったとしても、あの戦争を単純に「美化」・「礼賛」しているわけではないだろう。
 さらに、今手元にはないが、初期のいわゆるつくる会の歴史教科書を読んだことのある記憶からしても、まだ十分に<自虐的>だと感じたほどであり、あの戦争の「美化」・「礼賛」一色で叙述されていたとは到底思えない。そのような教科書であれば、そもそも、検定には合格しなかったのではないか。
 いずれにせよ、安倍首相らを批判し、悪罵を投げつけたいがための、事実認識の単純化という誤り(虚偽)があると考えられる。批判しやすいように対象や事実を単純化して把握することによって、じつは、存在しない異なる対象や事実を批判しているにすぎなくなる、というのはデマ宣伝にしばしば見られることだ。
 つぎに、ドイツ(・ナチス)と<腕を組んだ>戦争という、あの戦争の理解は適切なのか。なるほど、日独伊三国同盟というものがあった。しかし、日本とドイツは共同しての戦闘は行っていないし、その同盟の意味は時期によって異なる。ドイツ(・ナチス)と「社会主義」ソ連が「腕を組んだ」時期もあったのだ。また、政府ではないにしても、南京事件に関してドイツ人の中には<反・日本>で行動した者もあったことはさておくとしても、<保守派>の中には、ドイツと同盟したことを批判的に理解する者もいる。「日本会議」や「神道政治連盟」の役員の中にも、そういう論者はいるだろう。
 詳しくは歴史あるいは日独関係の専門家に任せるとして、<ドイツ・ナチスと手を組んだ戦争を「礼賛」しているから「ネオナチ」だ>というのは、子供だましのような幼稚で杜撰な論理だ。安倍首相らを批判し、悪罵を投げつけたいがための、論理展開の単純化という誤り(虚偽)があると考えられる。
 このような論法を日本共産党について採用したらどうなるのだろうか。上の論理よりももっと容易に、「ネオ」大粛清組織、「ネオ」大量殺戮組織、「ネオ」人さらい組織、「ネオ」侵略戦争支持組織、等々と批判することができる。
 「ソ連型社会主義」とか称して、誤りはあるものの(生成途上の)「社会主義」国だと見なしていたはずのソ連を、1991年末にソ連が崩壊した後では平然と<社会主義国ではなかった>と言い繕えることができるように、「ウソ、ウソ、ウソ」を得意とするコミュニスト集団・日本共産党のことだから、別に驚きはしない。言ったところで無駄だろうが、いちおう言っておきたい。党員と熱心なシンパにだけ通用するような、幼稚で単純なデマを撒き散らすな。 

1292/西修・…よくわかる!憲法9条を読む-2。

 西修・いちばんよくわかる憲法9条(海竜社、2015)にかかわってコメントしたい第二は、保守派または改憲派、あるいは正確には現九条改正論者において、現在「公」的に通用している(例えば、自衛隊を法的に支えている)、政府の九条解釈の理解は一致しているのか、という疑問がある、ということだ。
 西修の理解については、すでに触れた。もう少し言及すれば、政府解釈は①「憲法は戦争を放棄した」とするものであり(上掲p.15)、「自衛戦争」も「認めていない」(p.17)、また、②憲法は自衛目的の「戦力」=「自衛戦力」も認めていない、とするものだ(p.19)。そして、③自衛隊は、禁止されている「戦力」ではない「必要最小限度の実力」として合憲である(p.16、p.21)。
 政府解釈を、このように私も理解してきた。①については、A/すでに1項からか、B/2項からかという解釈の分かれがあるが、とりあえず省略する。
 産経新聞の5/03と5/10に「中高生のための国民の憲法講座」として、奥村文男が憲法九条について解説している(なお、失礼ながらこの人の名は見聞きしたことがなかった)。
 この解説の最大の問題は、自説、つまり自らの解釈を述べることに重点を置いており、政府の解釈はいかなるものかについての丁寧な説明がないことだ。これでは、なぜ現九条を改正しなければならないのかが殆ど分からないままだと思われる。
 奥村は自らの解釈としては西修と同じ解釈を主張している。つまり、1項は「国際紛争を解決する手段として」の戦争(侵略戦争)のみを禁止(放棄)しており自衛戦争等は認めている、そのような(2項にいう)「前項の目的」のために、「自衛戦争」(や制裁戦争)・自衛目的の「戦力」保持は許容される、と解釈する。
 かかる解釈を主張するのはむろん自由だが、すでに述べたように、この解釈に立てば、現九条、とくにその2項を改正しなくとも、自衛隊を自衛「軍」と性格変更する法律制定、換言すると<自衛軍>あるいは<国防軍>設置法(法律)を制定することによって「陸海空軍その他の戦力」を保持することができ、「自衛戦争」も行なうことができる。
 なぜ現九条、とくにその2項を改正しなければならないかの理由が、かかる解釈の披瀝だけでは全くかほとんど分からない。
 また、政府解釈に言及する部分もあるが、奥村文男の理解は正確ではないと見られる。
 2項の「戦力」の意味についての、「戦力の保持は認められないが、自衛のための必要最小限度の実力の保持は認められるとする」のが「何度か変更」はあったが「政府解釈」だ(丙2説)と説明する部分は(5/03)、誤っていないだろう。
 しかし、2項の「前項の目的」についての、「国際紛争を解決する手段として」の戦争等を放棄するものだと限定的に解し、「自衛戦争や制裁戦争は禁止していないとする」のが「現在の政府見解」だとする説明は(5/03)、政府解釈の理解としては、誤っている。
 このように解釈すると、<自衛戦力>は保持できないにもかかわらず<自衛戦争>は認められている(!!)、というじつに奇妙な結果になってしまう。奥村は、そして読者はお判りだろうか。
 したがってまた、奥村が示す甲説から丙2説までの解釈の分かれの分類とそれらの説明も、適切なものではない、と考えられる。
 奥村文男の個人的な見解が自らの著書等に書かれているのならばまだよい。しかし、代表的な?<保守派>・改憲派の新聞に、このような現九条に関する説明が掲載されているのは由々しきことだと感じる。九条の解釈問題は複雑だ、ややこしいという印象が生じるだけならばまだよい。誤った理解・情報が提供されるのは問題だろう。
 田久保忠衛の書物にも櫻井よしこら編の書物にもアヤしい部分があることは、すでに触れた。
 こんなことで大丈夫なのだろうか。自民党の改正草案をまとめた人たちはさすがに政府解釈をきちんと押さえていると思われるので、憲法改正、九条改正運動のためには、田村重信らの自民党関係者または防衛省関係者の解説書を読む方が安心できるようだ。

1286/西修・いちばんよくわかる憲法9条(2015)を読む。

 西修・いちばんよくわかる憲法9条(海竜社、2015)を、当面関心をもつ部分のみに限って読む。
 最近読んだ憲法改正ものの本の中で、田村重信著につづいて非常によく分かる。さすがに憲法学者の書物だ。いかに志は高く、同じであっても(?)、非専門家の叙述には、奇妙だと感じたり、趣旨が分からないものもあった。
 きちんとフォローしておこうと思っていた政府解釈の内容(・変遷)も、残念ながら原文どおりではないかもしれないが(p.15-17)、基本的なところは紹介されているので、役に立つ。
 西修が紹介している政府解釈のポイント(p.17-23)も、私も同様の理解であるので、目くじらを立てる(?)ところはない。
 というわけで上だけの言及で十分とも言えるのだが、いくつかの感想・コメントを記しておく。
 第一。西は憲法九条(とくに二項)についての自らの解釈を(も)示している。それは、いわゆる芦田修正を文理どおりに生かし、九条二項により保持が禁止されているのは「侵略戦争を目的とする」戦力であり、認められないのは「自衛権」の範囲を超える「交戦権」だ、というものだ(p.40)。
 むろんこのような解釈は成り立つし、また文理に即していえば最も素直な解釈だ。ゼロ・ベースで考えると、私もこう解釈したい。さらに、芦田が挿入した意図もこのような解釈を可能にすることだったかとも思われる。
 しかし、西修もよく理解しているように、かかる解釈を一貫して日本政府は採用してこなかった、ということが重要だ。西説もいわば私的な、成立しうる解釈の一つにすぎず、自衛隊の現在までの存立を法的に支えているのは政府解釈という「公的」解釈だ(そしてこれを最高裁も少なくとも否定したことはない)、ということが重要だ。
 この区別が明確に意識されているとは思われない叙述も、改憲派の文献の中に見られる。
 櫻井よしこ=民間憲法臨調・日本人のための憲法改正Q&A(産経新聞出版、2015)p.39以下はいわゆる芦田修正の文言の意味を解説しているが、この部分の執筆者の憲法解釈を示しているのか、それとも(現実には通用している)政府解釈の説明をしているのかが明確ではない。そして、「自衛のためであれば、軍隊や戦力を保持できることを明確にすべく」「前項の目的を達成するため」との文言を入れた、と書いており、これは上の西修の解釈と同じだ。
 しかし、このように政府は解釈していないことが重要なのであり、その旨をきちんと記しておくべきだろう。
 上の櫻井ら著が記すように、この著が示す解釈が採用されているならば、つまり「文意にそって解釈していけば」、「自衛のための組織である自衛隊は、憲法に何ら違反していない」ことになる。
 さらに重要なのは、そうだととすれば、九条2項はあえて<改正>する必要がないことになる、ということだろう。
 もちろん種々の疑義を晴らしておくための条文改正もありうるところだが、芦田修正文言が文字通りに解釈され、政府・国会議員・国民等々の間に疑問が生じていなければ、自衛隊は名実ともに憲法適合的な存在であったはずなのであり、その点については憲法改正は不要であるのだ。
 この辺りを上の櫻井ら著は理解しているのかはっきりしない。例えば、この著は「…自衛隊は、憲法に何ら違反しない」に続けて、「また、政府見解も『自衛力』としての自衛隊を合憲としています」と書いているが、この続け方は意味不明だ。自衛隊が自衛力の行使のための(必要最小限度の)実力組織であって合憲であるということと、九条2項にいう「軍隊その他の戦力」であって合憲(上述の文理解釈)であるというこことはまったく意味が異なる。
 西修は理解していると思うが、西修解釈そして櫻井ら著の解釈(p.40)を強調すると、じつは九条2項の改正という、改憲派が最重要視しているかもしれない課題の達成は不要になってしまう、という逆説的状態が生じる、ということにも留意が必要だ。
 さらにいえば、西修解釈・櫻井ら著の解釈が占領期、遅くとも1950年段階で採用されていれば、「自衛隊」ではなく「国軍」・「国防軍」等の名称の正規の?軍隊を(現九条2項のもとで)設置することも憲法上可能であったわけだ。だが、現実の歴史はそうは動かなかった。
 なお、コメントの最後にまで至っていない、田久保忠衛・憲法改正/最後のチャンスを逃すな!(並木書房、2014)のp.112は「芦田解釈」で「何ら不都合はなかったはずだ」、しかし「芦田修正案は政府の見解ではない」と、上の櫻井ら著よりも正しく明確に記述している。但し、「芦田解釈」を「政府解釈にしていれば、日本は自衛隊を改め、…軍隊を持って」よかった、と語っている(p.112)。揚げ足取りのようだが、上記のとおり、「自衛隊を改め、…軍隊」に、という必要はなく、当初からあるいは主権回復時から(自衛隊という中間項?を経ることなくただちに)「軍隊を持って」よかったことになる、と解される。
 第二点以降は、さらに続ける。

1276/田久保忠衛・憲法改正最後のチャンス(並木)を読む-4。

 〇 現憲法九条について、その1項と2項とを分けて論じることは、決して「左翼」憲法学者の解釈ではない。彼らはむしろ、1項によって自衛(防衛)戦争を含むすべての戦争が「放棄」されていると読みたいかもしれない。学者ではなく、吉永小百合を含む「左翼」一般国民は、九条1項ですべての戦争が放棄され、2項はそれを前提にして確認的に具体化した規定であると漠然と理解している可能性が高い。
 <保守派>憲法学者である百地章は、2013年参院選直前の産経新聞7/19の「正論」欄で「『憲法改正』託せる人物を選ぼう」と題して、次のように述べていた(この欄の2013.07.20で既述)。
 「9条2項の改正だが、新聞やテレビのほとんどの世論調査では、『9条の改正』に賛成か反対かを尋ねており、『9条1項の平和主義は維持したうえで2項を改正し軍隊を保持すること』の是非を聞こうとはしない。なぜこれを問わないのか。」 
 このとおり、<9条1項の平和主義は維持したうえで2項を改正し軍隊を保持すること>を提言することは、<保守>派の者であっても何ら奇異なことではない。産経新聞社案「国民の憲法」とその解説は、むしろ異質で少数派に属するかもしれない。
 ここで再び不思議なことに気づく。百地章は田久保忠衛とともに産経新聞案「国民の憲法」の起草委員の一人なのだが、何と前回に言及した「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の<幹事長>でもあるのだ(ウェブサイト、本日現在で同じ)。
 ということは、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の共同代表の一人と幹事長は、産経新聞社案起草の際は現九条1項を含めて九条を全面的に改めることに同意していたが、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の共同代表と幹事長としては、九条1項の「平和主義」は堅持する考えであることになる。きわめて奇妙で不思議だ。
 合理的に考えられるのは、産経新聞社案起草の際と上記の「国民の会」設立の際とでは考え方を変えた、ということだろうが、憲法改正論上の重要な論点についてこのように簡単に?基本的考え方を変えてよいのか、そして、そのような方々を信頼してよいのか、とすら感じてしまう。田久保忠衛は2014年10月30日刊行(奥付による)の本でも産経新聞社案と同じ考え方であることをその理由も挙げて積極的に記している。「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の設立は、2014年10月01日だ。はて??
 なお、憲法学者の西修(駒沢大名誉教授)も、5人の産経新聞案「国民の憲法」の起草委員の一人であるとともに、上記「国民の会」の<代表発起人>だ。
 〇 上の問題はこのくらいにして、「前文」に移る。既述のように、田久保忠衛はその著で憲法の具体的内容については、前文・天皇条項・九条にしか触れていない。国会についても、衆議院と内閣の関係についての衆議院「解散権」の所在・要件についても、「地方自治」等々々についても、むろん「人権」または国民の権利・義務条項についても論じられるべき点は多いにもかかわらず、上の三論点あたりに関心を集中させてきたのが<保守派>の憲法改正論の特徴だ。田久保が触れていない問題については、別のテーマとして扱ってみたい。
 さて、田久保は縷々述べたのちに、現在の前文を産経新聞社案「国民の憲法」のそれに「一日も早く…差し替えたい」としている(p.107)。
 感想の第一は、そもそも憲法の前文とはいかなる法的性質をもつのか、に関する議論が必要だ、ということだ。産経新聞社・国民の憲法(産経)を見ないままで書くが、現日本国憲法のような長い前文をもつ憲法は世界でもむしろ少ないように思われる。あっても、制定の経緯のほかは基本的原理・理念をごく簡単に述べているにとどまるようだ。
 現憲法前文が日本の「国柄」に合わないこと、これを改めてしっかりと日本の「国柄」を書き込みたいという気持ちは理解できるし、あえて反対はしない。しかし、もともと前文とは本文(の個々の条文)のような法規範的意味は持たず、個々の条項の解釈に際して「参照」または「(間接的に)援用」されるものにすぎないと考えられる。
 したがって、過大なエネルギーを割くほどのものではないし、文章内容について激しい議論・対立が生じるようであれば、いっそ現在のものを削除して、新しい前文は改正(「新」憲法の制定でもよい)の経緯を記録として残す程度にして、内容的なものはいっさい省略する、というのも一つの考えだと思われる。
 むろん、日本の「国柄」を示す10ほどの文からなる文章について、容易に合意が成立し、過半数国民も理解し、納得できるならばそれでもよい。あえて反対はしないし、する必要もない。
 第二の感想は、田久保が「差し替えたい」と望んでいる新前文の内容について、上のような合意・納得が得られるのだろうかという疑問が生じる、ということだ。
 例えば、「国家の目標として独立自存の道義国家を目指す」というが、「道義国家」とは何か。ほとんど聴いた又は読んだことがない「国家」概念だ。むろん、「道義」をもつ国家であろうとすることに反対はしないが、「国家の目標」として憲法前文に書き込むほどのことなのだろうか。
 上のことよりも、より疑問をもち、問題を感じたのは、「道義国家」文の一つ前の「日本国は自由主義、民主主義に立脚して基本的人権を尊重し…」というくだりだ。
 櫻井よしこの週刊新潮1/29号の連載コラムには最後に、「自由、民主主義、法治という人類普遍の価値観」を肯定的に語っている文章がある。
 安倍晋三首相も同じまたは類似の発言をしばしばし行っていて、本心で又は心底からそう思ってなのか、対中国(・北朝鮮等)を意識して欧米(かつての西側)むけに<戦略的に>言っているのか、と訝しく思っている。
 「日本国は自由主義、民主主に義に立脚」するという場合の「自由主義、民主主義」とはいったい何を意味しているのだろうか。櫻井よしこが言うように「人類普遍の価値観」なのだろうか。アフリカ・イスラム圏を含む「人類普遍の価値観」だとは到底思えない。これらは近代西欧に由来する<イデオロギー>で、日本ではそのままでは採用できず、そのままでは定着することはない、と考えている。こんなに簡単に前文の中に取り込むためには、その意味等々について相当の議論が必要だと思われる。
 とくに「民主主義」は、日本共産党を含む「左翼」の標語であり、そのうちに(人民民主主義・プロレタリア民主主義という「独裁」の一形態を経ての)「社会主義」・「共産主義」というイデオロギーを胚胎している、と私は理解している。
 私どころか、有力な<保守派>論客も、「民主主義」の危険性を説いてきた。
 長谷川三千子・民主主義とは何なのか(文春新書、2001)のある長谷川は、最近の長谷川=倉山満・本当は怖ろしい日本国憲法(ビジネス社、2013)の中でも、民主主義・「国民主権」の<怖ろしさ>を語っており(p.34-48など)、倉山満は、「長谷川先生は『平和主義』『人権主義』『民主主義』というのは、そもそも怖いものだということを力説しています」とまとめてもいる(p.155)。
 長谷川三千子は産経新聞社憲法案とは無関係のようだが、上記、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の「代表発起人」の一人ではある。長谷川が上記の「日本国は自由主義、民主主義に立脚して基本的人権を尊重し…」という部分に容易に賛同するとは考え難い。
 自民党憲法改正草案はいわゆる<天賦人権論>に立つと言ってよい現憲法97条を削除することとしており、産経新聞社案も同様のはずなのだが、そこでなおも語られる「人権」・「権利」ではない<基本的人権>とは何のことなのか、近代西欧的<天賦人権論>が付着した、それと無関係に語ることはできないものなのではないか、という問題もある。
 田久保忠衛の推奨する産経新聞社案の前文が<保守派>のそれだとすれば、私はきっと<超保守的>であるに違いない。<戦略的に>?「自由主義、民主主義」等を語ることも考えられるが、真意ではない文章を掲げるくらいならば、いっさい省略してしまう方がよい、と思う。
 というようなわけで、田久保のせっかくの長い叙述にかかわらず、「国柄」を書く文章はむつかしい、と感じざるをえない。
 フランスのように自由・平等・博愛(友愛)をなおも理念として前文に書いたり(1958年第五共和国憲法)、ドイツ憲法(ボン基本法)のように「ドイツ連邦共和国は民主主義的かつ社会的な連邦国家である」という明文条項をもつ国家はうらやましいものだ。「国柄」をどう表現するかについて、過半の日本国民に一致はあるのだろうか、合意は得られるのだろうか。

1275/田久保忠衛・憲法改正最後のチャンス(並木)を読む-3。

 田久保忠衛・憲法改正、最後のチャンスを逃すな!(並木書房、2014.10)は、筆者の、「体系的」憲法論ではなく、「体感的な」憲法論だとされているので(p.252)、国際政治が専門らしい田久保に専門的な憲法論を期待するのは無理かもしれない。しかし、表紙裏の経歴には「産経新聞『国民の憲法』起草委員会委員長」と明記されているのだから、産経新聞案「国民の憲法」に関する(委員長個人としてであれ)、産経新聞社の本にはない説明または解説がある程度詳しくはあるものと期待しても不思議ではないだろう。
 また、今年に入って気づいたことだが、田久保忠衛は「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の共同代表の一人(あとの二人は櫻井よしこ、三好達)だ。この団体は2014.10.01に設立されたようで、同日に設立宣言を発表している(同会のウェブサイトによる)。そして、たんにこういう名称の会の設立だけだと、さっそく「美しい日本の憲法」の具体的内容は何かと問いたくなるが、同会はQ&Aのかたちで、条文案ではないものの、目指す憲法の骨子を7点に整理しまとめたものを公表している。
 そうすると、時期的には田久保の上掲書は上の会の設立前に書かれてはいるが、一年も前ではない直前の時期に書かれていると推測されるので、同著は「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の代表(の一人)が書いたものだ、という<権威>をもってしかるべきことになるだろう。
 だが、期待しもした産経新聞社案「国民の憲法」のより詳しい説明はほとんどないし、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が公表している7つの骨子の過半についてはまったく触れるところがない。
 しかも、一方では起草委員会の委員長を、片方では共同代表を努めながら、両者が提言する憲法案の具体的内容には<一致していない>、<矛盾する>部分がある。これはきわめて奇異なことだ。
 矛盾しているとほぼ明らかに言えそうなのは、九条についてだ。産経新聞案「国民の憲法」と田久保の上掲書は矛盾してはいないが、田久保の上掲書の九条(およびその改正案)に関する叙述と「美しい日本の憲法をつくる国民の会」公表の改正案骨子は矛盾している。
 先に「美しい日本の憲法」案の方から紹介すると、第三の柱として「九条…平和条項とともに自衛隊の規定を明記しよう」との見出しが掲げられ、その第三文では、こう書かれている(ウェブサイトのそれとまったく同一文ではない同会のパンフレットによる。ウェブ上では以下の「軍隊」は「国軍」になっている)。
 9条1項の平和主義を堅持するとともに、9条2項を改正して、自衛隊の軍隊としての位置づけを明確にします」。
 すでに書いたことだが、このような文章の考え方にもとづく改正案づくりと憲法改正(おそらくは1項の基本的な維持と現2項の削除、そして自衛隊を正規に「軍隊」と位置づける条項の新設)に私は賛同する。
 だが、田久保忠衛が起草委員会委員長だった産経新聞社案「国民の憲法」は、このような考え方に立っていないことはすでに記したとおりだ。
 自民党草案も読売新聞社試案も現9条1項は基本的に維持することとしているのだが(また、北岡伸一も、1項の平和主義は維持し2項の戦力不保持は改正しようとする意見を無視して、朝日新聞は一括して改憲論>九条改正論=「平和」主義・「平和憲法」否定というデマを撒き散らしている旨を述べて朝日新聞を批判していたが)、くり返せば、産経新聞社・国民の憲法(産経、2013)は、自民党草案について、つぎのように書いていた。
 <自民党草案は1項に「自衛権の発動を妨げるものではない」を追記して「工夫を重ねている」が、「主権の行使に制限を課している条文をそのままにしている意味では不徹底で不完全だ」>(p.140)。
 そして、現9条1項の断片のみを残した「平和」希求と国際紛争の「平和的解決」を志向する新たな条文を作り、別の条文で、「軍を保持する」ことを明記することとしている(同案15条・16条)。
 「美しい日本の憲法」案が「9条1項の平和主義を堅持する」と記しているのは現1項の条文を基本的に維持するとの趣旨ではなく、この産経新聞案「国民の憲法」のような書きぶりでも「平和主義」の堅持にあたる、という可能性がないではない。
 しかし、「美しい日本の憲法」案の文章が続けて「9条2項を改正して、自衛隊の軍隊としての位置づけを明確にします」と書いていることからすると、9条1項は(基本的に)改正しないという趣旨だと解釈するのが自然で、やはり、、「美しい日本の憲法」案と産経新聞社案「国民の憲法」は異なる、と理解することができるものと思われる。
 そして、田久保忠衛の上掲書は、現9条1項は基本的にであれ維持することはしないという考え方を明確に語っている。つぎのとおりだ(p.172-5)。
 <当初は九条1項はそのまま残す説に賛成だったが、森本敏の次の指摘(森本ら・国防軍とは何か(幻冬舎ネネッサンス新書)に「まったく同感」して、産経新聞社案では「現行憲法第九条第一項を含めて全面的に改める」ことした。>
 森本の指摘とは、①第一項があると、「国連決議にもとづく集団安全保障に参加できなくなる」、②第一項があると、「多国籍軍」に入っているアメリカ軍が攻撃された場合に「集団的自衛権の行使」ができなくなる、をいう。
 要約したし、もとの森本の発言内容を読んではいない。また、私自身の知識と勉強の不足かもしれないが、これらの理由が当たっているのかは理解困難だ。だが、<集団的自衛権>の行使は現憲法のままでも行使可能と閣議決定されたところであるし、「国連決議にもとづく集団安全保障」措置への参加の許容性については現憲法は何も語ってはいないのではないのだろうか。また、正規に認知された軍ができたとすれぱ直ちに「国連決議にもとづく集団安全保障」措置に参加できるというものではなく、法律(+条約?)による正当化が必要だろう。
 この問題には立ち入らない。ともかくも、現九条1項も「改め」る見解である旨を田久保忠衛は上掲書で明確に述べている。しかるに、共同代表を務める会の「美しい日本の憲法」案はどうも現九条1項は「堅持」するつもりのようだ。
 これは明らかに矛盾で、田久保は上掲書の考え方に立つのであれば、「美しい日本の憲法」案の内容に反対するのが論理的な筋のはずだ。にもかかわらず、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」による公表後に、それと異なる見解を明らかにしている書物を公にしているのは、奇異・奇妙だと言う他はない。
 もともと、p.110以下の叙述を読んでいても、現九条に関する田久保の理解の仕方には疑問が生じるところである。例えば、「芦田修正案は政府の見解ではない」という理解はそのとおりだが、「戦力」ではない「必要最小限度の実力の行使」による相手国兵力の殺傷及び破壊等を行うことは「交戦権の行使」としてのそれとは「別の観念」という政府答弁は「何を意味するのかよくわからない」と書いている(p.113-4)。しかし、私にはよく分かる。現憲法の政府解釈によるかぎりは、自衛権はあり、そのための実力行使は「交戦」ではない(実力行使組織=自衛隊は「軍その他の戦力」ではない)、ということになる。
 憲法学上の「多数説」に従って私は記してきているのだが(最近にあらためて憲法学文献で確かめておいた)、諸説が成り立つものの、1項は自衛権を否定するものではなく<自衛のための軍>設置・「自衛戦争」を否定するものでもない。しかし、2項が一般に「軍その他の戦力」の保持等を否認している結果として、「自衛」目的であれ「軍」は保持できず「戦争」もできない。但し、「自衛」のための「必要最小限度の実力の行使」は可能であり、そのための組織の保持も許容される。このような、政府解釈も基本的に拠っていると思われる(むろん、但し以降は相当に苦しい)論理構造くらいは、民間団体とはいえ、憲法改正案起草委員会の委員長や新憲法制定運動団体の共同代表の方には、理解しておいていただきたいものだ。

1274/田久保忠衛・憲法改正最後のチャンス(並木)を読む-2。

 〇 田久保忠衛・憲法改正、最後のチャンスを逃すな!(並木書房)は、憲法改正の具体的内容については、①前文、②天皇条項、③九条に触れているにとどまる。また、これらに限っても、起草委員会委員長を務めた産経新聞社案「国民の憲法」はいかなる理由で自民党草案と異なっているのかについての詳しい説明があるわけではない。
 つぎに、改正の優先順位は、上の三点を優先的に考えているのだろうとは推測できるが、その中での順位・重要性の程度に言及してはいない。
 また、いかにして国会内に「憲法改正」発議に必要な勢力を作るか、有権者国民の過半数の支持を得るにはどうすればよいか、についての戦略・戦術についても、言及するところがない。
 したがって、田久保忠衛を<改憲派>の代表的論者だと見るかぎりは、先日1/05に述べた<憲法改正に関する保守派の怠惰>という感想を変更する必要はなさそうだ。このような感想を書いてしまったがゆえに、もっと正確に田久保忠衛の主張を知っておこうと上掲書を読んだのだったが、印象は変わらない。
 〇 「憲法改正」に関する議論のあり方については、2013年につぎの三つの文章をこの欄で肯定的に引用した(その前にもあるかもしれないが、自らの投稿ながら、探索を省略する)。
 2013.08.11-中西輝政「いっさいの抵抗を排して憲法九条の改正に邁進することである。…もし九条改正の妨げとなるならば、『歴史認識』問題をも当面、棚上げにする勇気をもたなければならない。」(中西「憲法改正で歴史問題を終結させよ-アジアの勢力均衡と平和を取り戻す最後の時が来た」(月刊ボイス2013年7月号(PHP))。
 2013.08.12-遠藤浩一「多くの人が憲法改正(ないし自主憲法制定)の大事さを説きますが、現実の政治プロセスの中でそれを実現するにはどうすればいいのか、どうすべきかについてはあまり語りません。多数派の形成なくして戦後体制を打ち破ることはできないという冷厳なる事実を直視すること、そして現実の前で身を竦ませるのではなく、それを乗り越える戦略が必要だと思います」(遠藤発言・撃論シリ-ズ/大手メディアが報じない参議院選挙の真相(2013.08、オ-クラ出版))。
 2013.10.11-中西輝政「これまでの日本の保守陣営が、原理主義ではなく、戦略的現実主義に基づいてもっと賢明に対処していれば、ここまで事態は悪くならなかった」。「原理主義」によって「妥協するならお前は異端だ」という「神学論争的な色彩を帯びてしまったのが、日本の保守の悲劇」だ。「一歩でも前進することの大切さ」を知ることが「いま日本の保守陣営に求められている」。「玉と砕け散ることが一番美しい」という「古い破滅主義的美学に酔いしれることから早く脱」するべきだ(中西「情報戦/勝利の方程式」歴史通2013年11月号(ワック))。
 ここでは、中西輝政の、上の二つの文章、すなわち併せて読めば、<憲法九条の改正のためには「歴史認識」問題も棚上げすべきで、保守「原理主義」ではなく、「戦略的現実主義」に立つべきだ>ということになると考えられる見解に注目したい。
 いわゆる「慰安婦」問題、南京「大虐殺」事件問題、「百人斬り競争」問題、沖縄「集団自決」命令問題等々、<歴史戦>とも産経新聞が呼んでいる<歴史認識>問題がある。またそもそもより基本的には、先の戦争をどう認識し評価するかという問題もある。この、先の大戦・戦争の認識・評価の問題について、田久保忠衛は一定の叙述をしているので、別の機会に触れる。その他、占領期のアメリカをどう評価するかや、「日本国憲法」の制定過程の認識とその評価もまた、<歴史認識>の問題に他ならない。だが、個々人のこれらについての「歴史認識」がどうであろうと、それが「憲法改正」の問題につながりはしないし、また、つなげてしまうと「憲法改正」は不可能になるだろう。
 「憲法改正」運動のためには、「日本国憲法」の制定過程の実際を広く知らしめることは必要だ。例えば、①GHQによって100%「押しつけ」られたのではなく、二院制の採用・参議院の設置などの日本側の意見・希望が採用された部分もあるが、基本的な部分については又は全体としてはほぼ「押しつけ憲法」と評価してよいと見られること、九条二項は幣原喜重郎、つまり日本側が提案したとの理解は疑わしく、鈴木安蔵ら日本人の憲法案もあったことは、ほぼ「押しつけられた憲法」との評価を変える理由にならないこと、②1946年の総選挙で選出された衆議院議員により憲法改正案は審議されたので国民の意思が反映されているはずだという憲法学者の文章を最近に読んだが(氏名と媒体は忘れた)、その衆議院選挙前に新憲法案の全文が知られていたわけではまったくなく(したがって、新憲法案の当否は選挙の争点にほとんどならず)、また「公職追放」の危険性もある中でGHQ草案をもとにした政府案を議員たちが「自由」に審議できたはずはないこと、などを現在の国民はもっと知っておいてよいと思われる。
 しかし、上の意味で現憲法を<占領憲法>と略称するのはかりによいとしても、現憲法を「占領基本法」と称するのがよいかどうかは別の議論が必要だ。そして、この「占領基本法」なる言葉の意味を、現在の有権者国民は容易にはまたは的確には理解できないように思われる。
 田久保忠衛はむろん、現憲法の改正に賛成する者はそれを「占領基本法」だと認識・評価すべきだとか、現憲法を「占領基本法」と認識・評価できない者は改憲に賛成するな、と言っているわけではない。しかし、何気なくであれ、現憲法は「占領基本法」だと一般国民が読む可能性のある書物で書き、その意味もきちんと説明していない、というのが、前回に問題にしたことだ。
 上に記したような<歴史認識>の問題に比べれば、些細な問題であるとは言える。だが、もともと<保守派>の中においてすら完全な一致があるとはいえない用語法だとは思うが、<仲間うち>だけで通用するような概念・用語を一般国民が読む可能性のある書物で用いるべきではないだろう。そこに私は、中西輝政のいう「保守原理主義」の匂いを感じてしまった。
 「保守原理主義」で突っ走って勝利するのであれば、それでもよいだろう。しかし、「憲法改正」をめぐる戦いは、<正しいことを主張しました。しかし、力及ばず負けました>では済ますことが絶対にできないものだ。
 有権者国民の過半数が理解でき、かつ賛同できるような議論・主張・運動をしなければならない。産経新聞の読者だけが、あるいは仏教寺院関係者ではなく神道政治連盟に属する神社関係者だけは、理解でき、賛同できるような議論・主張・運動であってはならないだろう。
 〇田久保忠衛の上掲書の内容については、奇異に感じた部分もある。初めに記した改正の三論点に関する議論、田久保の先の戦争についての評価とともに、近いうちに論及するだろう。

1273/田久保忠衛・憲法改正最後のチャンス(並木書房)を読む1。

 2014衆院選で与党圧勝とは言うが、自民党は定数減を考慮してほとんど橫バイで、議席数を増やしたわけではない。大阪府下の小選挙区で維新の党から奪い返した議席が10ほどあるから、それ以外では10議席ほどマイナスだった。産経新聞などの300議席超えが確実という旨の予測と比べると、むしろ後退の印象がある。
 その他の衆院選結果で印象的なことは次世代の党とみんなの党の大幅減または壊滅だ。その分を増やしたのが民主党と日本共産党だから、全体としても<保守派>は後退した、というのが客観的な把握だろう。
 維新の党が何とか「踏みとどまった」のに対する次世代の党の壊滅状態は、<保守化>とか<右傾化>の現象があるわけでは全くないことを意味していると思われる。
 田母神俊雄には当選してほしかったし、山田宏・中田宏という<反共>・<反・反日>の明確な人物が比例復活もならなかったのは残念だ。とくに中田宏はまだ若いのだから、再起を期して、将来は橋下徹らとともに新しい風の担い手になってほしい。
 大阪維新の会と立ち上がれ日本→太陽の党が合流して石原慎太郎・橋下徹共同代表による日本維新の会ができたのち、旧立ち上がれ日本グループは橋下徹に対する違和感を隠さなかった印象があったが、2012年総選挙で日本維新の会は議席を伸ばし、旧立ち上がれ日本グループ(石原グループ)もかなり当選した。石原グループの議員たちの多くは自分たちの「保守」の力で当選したと思ったかもしれないが、石原・橋下コンビの清新さへの期待もかなり大きかっただろう。その後も橋下徹批判を平気で続ける者もいたが、自分の当選に橋下徹人気も寄与していることを忘れているのではないか、と感じたことだった。
 橋下徹グループと別れて、旧立ち上がれ日本グループ=次世代の党は二名しか当選させることができなかった。維新の党の松野某らは何とか比例復活したにもかかわらず、比例復活させるほどの票をまんべんなく集めることはできなかった。
 次世代の党という名前自体、自分たちはすでに旧世代の年寄りたちだという自覚の表れのようで、魅力を感じさせないものだった。それに、彼らは、<保守化>について、何らかの「錯覚」をしていたのではないか。安倍晋三政権が比較的に安定して支持され続けたことが自信を生じさせたのかもしれないが、有権者国民は、自民党よりも「右」の<保守>政党に期待することが少なかったわけだ。
 江田憲司は、石原慎太郎らの「自主憲法」制定という主張に「憲法破棄」論を感じるとして、石原らまたは次世代の党とは組めないとか言っていたが、「自主憲法」制定という語をそこまで穿って理解することはないだろうと思われた。だが、次世代の党の正確な公約または政策提言は承知していないものの、また正式に表明しているかどうかは別として、石原慎太郎も含めて、日本国憲法「破棄」論や同「無効」論の主張者・支持者が同党には多いだろうという印象はある。日本国憲法「無効」論は現として存在しているが、2009年や2012年の総選挙でそれを明示的に主張した政党は(維新政党・新風も含めて)なかったように思われる。そしてまた、次世代の党が醸し出している?日本国憲法「破棄」論・同「無効」論は、今回の選挙でも、支持されなかった、と言ってよい、と思われる。
 日本国憲法「無効」論が決して微々たる存在ではないことは、勝谷誠彦=倉山満・がんばれ!瀕死の朝日新聞(アスペクト、2014)に、「日本国憲法は日本の憲法ですらない」と題する章の中に「日本国憲法の改正では意味がない」と題する節があることでも分かる(p.122-)。そこでは、二人のこんな会話がある。
 勝谷/僕の意見は「廃憲」・「今の日本国憲法の廃止」。倉山/「本当にできるなら」それが一番よい。そして、それをするのは「天皇陛下」のみ。議会には廃止権限はない。憲法を廃止するとすれば「一度天皇陛下に大政奉還するしかない」、「本来はそれが筋」。日本国憲法改正手続によって「帝国憲法を復活」することは「論理的には可能」。
 こうした議論は、日本国憲法は「本来は無効」という考え方を前提としているとみられる。上の天皇陛下による憲法廃止論にも、倉山が上のあとで述べている、「改憲派すら」日本国憲法の「条文をどうやって変えようかという議論しかしていない」(p.126)という批判にも、反論することができる。但し、別の本、倉山満・間違いだらけの憲法改正論議(イースト新書、2013)はニュアンスの異なることを書いているので(上でも「論理的には」と述べている)、別の機会に譲って、ここではこの問題には立ち入らない。
 ともあれ、日本国憲法「無効」論はあり、それを<保守派>論者の中で明確に述べてきたのは渡部昇一で、渡部は、日本国憲法を「占領基本法」とも称してきた。
 さて、田久保忠衛・憲法改正、最後のチャンスを逃すな!(並木書房、2014)には、現日本国憲法は「占領基本法だ」、との旨を書いている部分が、少なくとも2カ所ある。
 ①集団的自衛権容認に対する反対論には「…国際情勢の中で占領基本法だった現憲法がいかに旧式になってしまったかという説明は皆無だった」(p.212)。
 ②「日本を危機にさらすのは占領基本法を死守しようとする護憲派だ」(p.249)。
 <保守派>の重鎮?・渡部昇一の使っている表現を<保守派>の慣用句?のごとく無意識に使っているのかもしれず、「占領基本法」なるものの意味は説明されてはいない。
 しかし、将来に「国民投票」に参加するかもしれない有権者国民の感覚で質問するが、「占領基本法」とはいったい何のことか。
 日本国憲法が本来の、まっとうな憲法ではないという意味をもっていることは何となく分かるが、それ以上に何を意味しているのか? この語を用いることにいかなる意味・効用があるのか? また、この概念の前提には日本国憲法「無効」論があると見られるが、田久保は明確にその立場に立っているのだろうか?
 少し踏み込んで言えば、憲法ではなく占領基本「法」だとすれば、憲法でも法律でもない「法」は(不文法を除けば)存在しないので、占領基本「法」は法律の一種になるのだろうが、それでは昭和天皇の<憲法改正の詔勅>とはいったい何なのか。、法律の一種だとすると後法優先・特別法優先が働いて、事後の法律によっていかようにも特則・例外を作れることになるが、法律の「憲法」適合性を審査する規範・基準として現日本国憲法は機能して、最高裁によって<違憲>とされた法律(の条項)もすでにいくつかあることをどう理解すればよいのか。
 <保守派>の常套句のつもりで簡単に用いているのかもしれないが、もともと渡部昇一の議論は、サ条約上のJudgementsは「裁判」ではなく「諸判決」だと、鬼の首を取ったように主張していることも含めて(この点はすでにこの欄で言及している)、信用することができない。
 有権者国民から質問されて適切には回答することができないような術語を、そしてまた憲法改正のためには不可欠でもない用語を、用いない方がよい、と思われる。
 周辺部分の、やや些細なことから始めてしまったが、少しずつ、上掲の本によって、田久保忠衛の<憲法論>についてコメントする予定だ。

1264/産経新聞社案「国民の憲法」について。

 田久保忠衛の名も出しつつ、<憲法を改正しよう>と主張するだけでは意味がない、と前回に書いた。
 これに対して、田久保忠衛は、改正の優先順位も政治的な戦略・戦術にも触れていないが、産経新聞社の「国民の憲法」起草委員会の委員長として、改正の具体的内容は検討・議論して、公表している、と反論するかもしれない。
 そのとおりで、産経新聞は「国民の憲法」(憲法改正要綱)を公表している。そして、産経新聞社・国民の憲法(2013.07、産経新聞社)の中には、自民党改正草案との違いを(わずか3頁だが)叙述している部分もある(p.138-140)。従って、かりにその部分を田久保が執筆しているか、または了解しているのだとすると、田久保が産経新聞社案と自民党案との違いをまったく説明していないというわけではない。
 以上のかぎりで田久保に対する批判的コメントは一部取消させていただく。もっとも、上記書物は「国民の憲法」の個々の条項に即して自民党案を採用しなかった理由を述べてはいない。上の3頁の中で触れられているのは、のちに触れる基本的スタンスの他は、天皇条項・現九条・前文のみだ。
 それに、あらためて上記書物を手がかりに産経新聞「国民の憲法」要綱を見てみると、基本的なよく分からない点があり、また奇妙に感じる点もある。
 まず第一に、この産経新聞「国民の憲法」案の発表主体はいったい誰なのか。どうやら、上記委員会ではなく、産経新聞社という会社法人(新聞会社)そのもののようだ。上記書物の「はじめに」の執筆者(署名)は「産経新聞社」になっている。そして、この書物は「起草委員会の議論をもとに…編集」したものだとされているが、「国民の憲法」案を最終的に完結的に作成したのは田久保を委員長とする起草委員会なのか、それとも起草委員会の議論の過程に産経新聞社の社員・記者たちがすでに関与したのか、も分かりにくい。起草委員会なるものの性格・位置づけにかかわるが、おそらくは上の後者で、起草委員会の「事務局」としての社員・記者たちがすでにかなり関与したように推測される。そして、その産経新聞の社員・記者たちの固有名詞・人名が「産経新聞社」の名の中に隠されていることも特徴の一つだろう。
 このような曖昧さは、読売新聞社の<読売試案2004年>の作成過程とはかなり異なっている。
 読売新聞社編・憲法改正-読売試案2004(2004.08、中央公論社)によると、この試案が読売新聞社の名によるものであることが明らかだが、この書物の「はじめに」は同社の「調査研究本部長」が執筆し、「おわりに」は同社「調査研究本部」員が執筆して、それぞれ固有名詞(個人名)まで明らかにしている。また、読売試案の作成には(社外の専門家の助言等を得たかもしれないが)「起草委員会」なるものがかかわっているわけではない。
 つぎに第二に、時期的に私が産経新聞を定期購読しなくなって以降のことだったことに原因がある勉強不足のためかもしれないが(もっともネット上で改正案作成の動きや結論の公表があったことは知っていた)、あらためて産経新聞「国民の憲法」案を見て、大きな違和感を抱いたことがある。
 それは、自民党案との違いとして記述されていることでもあるが、「現行憲法をゼロベースで見直して」いて、自民党案や、さらに読売試案とも違って、現憲法の条項との関係がはなはだ分かりにくいことだ。現憲法の△条を改めて「…」とする、という書き方をしておらず、現憲法の「構成」や各条項とは無関係に、一体として、「新」憲法案が提示されていることだ。
 この点について、上記書物p.138は、自民党案は現憲法を「下敷き」にしているので「現行憲法の抱えるさまざまな欠陥をそのまま引き継い」でいる、と述べている。論理的に見て、「下敷き」にしていれば必ず「欠陥を引き継ぐ」ことにはならないとは思うが、それは別としても、現実の憲法改正(の発議と国民投票)のためには、産経新聞「国民の憲法」案ははなはだ使いづらい。
 なぜならば、憲法改正とは、現憲法の全体を一挙に廃棄・廃止して、新しい憲法を一括して創出する、というものではないからだ。
 ここで、憶測にはなるが、ひょっとすれば産経新聞「国民の憲法」案は、渡部昇一らの現憲法「無効」論や石原慎太郎の現憲法「破棄」論の影響も受けて、現憲法の全体に新しい「自主」憲法がとって代わる、というイメージで作成されたのではないか、という疑問が生じなくはない。
 総選挙における<次世代の党>の衰退とも関連させて、現憲法「無効」論・現憲法「破棄」論についてはあらためて触れる予定だ。ともあれ、現憲法と「新」憲法案のどちらがよいと思うか、というかたちで一括して憲法改正の発議と国民投票が行われるはずがない。確認しないが、憲法改正手続法もまた、そのようなことを想定していないはずだ。
 より具体的に、あるいは個々の条項に即して、例えば(自民党案によれば)現九条2項を削除して九条の二(国防軍の設置)を新設することに賛成か反対かで、あるいは(読売試案2004年によれば)①現九条1項を一部修正する、②現九条2項を削除して、別内容の条文に代える、③新たに別の条を追加して「自衛のための軍隊」保持可能等を明記する、のそれぞれについて、またはこれらだけを一括して賛成か反対かで、国民投票は行われるはずだ。
 産経新聞「国民の憲法」案の個々の条項を見て、かつ優先順位さえ決定すれば、上のような技術的?問題は解消できる、というのが産経新聞社案の意図なのかもしれない。しかし、現憲法との比較対照表を作れない(作っていない)案は、かなり分かりにくいし、上記のような(革命的?な一挙の)一括的「改正」をイメージしているのではないか、との疑問が生じなくはない(そうした気分がまったく理解できないわけではないが、非現実的で、却って「改正」を遅らせる)。
 さらに第三に、ここで書いてしまっておけば、産経新聞社の上記書物における現憲法九条1項の理解はいぜんとして奇妙だ。すなわち、p.140は、現九条1項は「主権の行使に制限を課している」、「不徹底で不完全」なものだ、と記している。
 しかし、自民党改正案も読売試案2004年も、基本的には現在の現九条1項の条文をそのまま残すこととしている。
 歴史的由来のある「国権の発動たる戦争」等の意味が理解しやすいものではなく、大きな誤解も招くことになっているのは確かで、<侵略戦争>の否定の趣旨を書き直すことは考えられてもよい(そうした趣旨の規定に対する、<侵略戦争>否定は「主権の行使に制限を課す」不適切なものだ、との批判はあたらないだろう)。
 しかし、産経新聞「国民の憲法」案よりもより長い時間と議論を経て作成されたとみられる自民党の最新改正案や読売試案2004年が現九条1項を基本的にはそのまま維持しているのと比較すると、同じく<保守派>の中では異質な案になっていることを、田久保忠衛や産経新聞関係者は意識・自覚しておいてよいと思われる。
 なお、産経新聞社の上記書物は、自民党案は「戦争放棄の規定(9条)をほぼ踏襲している」と書いて疑問視している(p.139)。しかし、(侵略)戦争放棄の規定は「9条」ではなく、同条1項だ。法学者ではない北岡伸一でもしているような理解を、どうやら産経新聞関係者および上記起草委員会は採用していないようだ。不思議で仕方がない。
 とりあえず、憲法改正の仕方・内容に関して若干のことを述べた。最優先されるべきは、現九条2項の廃止(削除)と実質的に自衛隊を正規の「軍」と認めることとなる条項の新設だ(法律改正により名称等々の変更が必要だが)、と考えている。「自衛軍」でも「国軍」でもよいが、「国防軍」で差し支えないのではないか。
 憲法の専門家ではない者が書いていることだが、憲法改正にむけての議論に小さな渦でも生じさせることがあれば、幸い。

1263/具体的・建設的で戦略も意識した議論を-憲法改正をめぐる保守派の怠惰。

 月刊正論1月号(産経新聞社)に、田久保忠衛「衆院選で忘れてはならぬ/憲法改正のラスト・チャンス」がある(p.158-)。産経新聞の憲法改正案起草委員会の一員だった人物(かつ国家基本問題研究所の幹部)が憲法改正の必要性を説き、衆院選の重要な争点とすべき旨を主張してるのだが、これを概読して、2010年11月03日の産経新聞「正論」に掲載された、やはり田久保忠衛の「憲法改正の狼煙上げる秋がきた」を読んで感じたのと似たようなことを感じた。
 当時感じたことは、この欄の2013.08.12投稿でも繰り返されている-「問題は、いかにして、望ましい憲法改正を実現できる勢力をまずは国会内に作るかだ。/この問題に触れないで、ただ憲法改正を!とだけ訴えても、空しいだけだ」。
 当時は民主党政権下だったので現在とはやや状況は異なるが、発議自体に各議院議員の2/3以上の賛成が必要であることに変わりはなく、これが達成されている状況にあるとは、衆議院に限っても明確には言い難い。
 また、国会議員の構成は民主党政権下に比べれば改憲のためにより有利にはなっているだろうが、そもそも憲法「改正」の具体的内容は改憲派(あるいは「保守派」)において明確になっているのか、という根本的問題がある。
 田久保は月刊正論1月号で現前文・現九条の改正と緊急事態対処条項の三つに少なくとも触れているようだが、田久保には尋ねてみたいことがある。
 まず、産経新聞社「国民の憲法」草案起草委員の一人として、すでに公表されていた自民党の憲法改正案を知っていたはずだが、産経「国民の憲法」案・要綱と自民党改憲案はまったく同じではないはずのところ、なぜ両者には違いがあるのか?、自民党の改憲案をそのまま採用しなかった具体的理由は何なのか?
 これくらいのことを明らかにしてくれていないと憲法改正のための具体的な議論はできないのではないか。
 また、憲法改正は-いずれまた触れるだろうように、明治憲法を全体としてそのまま復活させるという主張を採用しないかぎり-現憲法全体に対して改正案全体を提示して、全体について一括して支持するか否かを国民投票によって決する、というのではない。一箇条(の改正または新設)のみについて一回の記載か、複数の条項についての改正案(新設を含む)に即して複数回の(賛否の)記載を国民に問うのか、というやや技術的な(とはいえ現実には重要な)問題もあるが、いずれにせよ、改正が優先されるべき個々の条項について改正(・新設)の賛否を国民に問うことになるはずだ。
 しかして、田久保はいったい現憲法のどの条項から改正を始めるべきだと考えているのか。この点も明らかにしてくれていないと、憲法改正についての具体的な議論はできない。
 田久保忠衛に限らない。月刊正論2月号(産経新聞社)に、八木秀次「見え始める憲法改正への道筋」という魅力的なタイトルの論考があるが(p.58-)、総選挙結果の政治評論家的分析が3/4を占め、憲法改正に関する、上のような疑問に答えるところはない。ただ一つ、「憲法改正を政治日程に載せるためには1年半後の参議院選挙で改憲派の議席を確保しなければならない」等の、率直に言って改憲派ならば誰でも書けるようなことを書いているにすぎない。
 たまたま田久保忠衛と八木秀次の名を出したが、①両議院に2/3の改憲派を生み出し、国民投票でも国民・有権者の過半数の支持を得るための戦略・戦術、②すでにある改正案もふまえて、具体的にどのような内容の条文にするかのより突っ込んだ検討(ちなみに、櫻井よしこは「国防軍」ではなく「国軍」でよいと、どこかに書いていた)、③そもそもどういう順番で、改正案を国民に提示していくのか、についてのきちんとした検討、はいずれも、改憲派(「保守派))において、決定的に遅れているか、まったくなされていない。
 実に悲観的(・悲惨的)で危機的な状況にある、とすら言える。改憲派の論者たちは、本当に、真剣に、現憲法を変えたい、「自主憲法」を制定したい、と考えているのだろうか。
 このような状況では、安倍晋三首相が、憲法改正について具体的なことを語ることができないのも、当然だ。適当に何かを論じ、書いていれば済む立場に、安倍首相はいるわけではない。発議に必要な要件を彼は痛いほど理解しているだろうし(96条改正問題にもかかわる)、また、具体的な改憲条文を示した上で国民投票にかける必要があることも、どの条項から始めるべきかという問題があることも、当然に強く意識しているはずだ。
 にもかかわらず、安倍首相の問題意識・問題関心に応え、具体的にサポートする議論を改憲派(「保守派))が行ってきているとは思えない。
 優先順位にしても、公明党の「加憲」論に配慮して、安倍首相は緊急事態対処条項から始めたいのでは、という憶測記事を新聞で読んだことがあるが(何新聞だったかは忘れた)、かかる程度の<優先順位>論すら、改憲派(「保守派))は何もしていないのではないか。現九条か、前文か、緊急事態条項か、それとも「環境権」か?
 改憲派(「保守派」)の怠惰だ。
 もともと自民党は安倍晋三が言うとおり、「自主憲法の制定」を悲願としてきたのだから、改憲派(「保守派」)が、たんに、<憲法を改正しよう>と主張しても、訴えても、ほとんど意味はない。いいかげんに、それだけの主張や議論はやめるべきだ。
 ついでに言うと、周知のとおり、憲法改正反対(とくに現九条2項護持)の政党・運動団体があり、憲法学者の大半は<護憲派>とみられるところ、現96条改正や現九条改正に反対する憲法学者等の主張・議論に、改憲派(「保守派」)は適確に反駁してきているだろうか。
 例えば、昨2014年に、東京大学の現役教授・石川健治は朝日新聞に「乾坤一擲」の長い文章を載せ、京都大学の現役教授・毛利透は読売新聞紙上で護憲の立場で論考(・インタビュー回答)を載せていたが、これらに、迅速に改憲派(「保守派」)は反応し、これらを批判したのだろうか。
 <憲法改正を>だけ叫ぶのはいいかげんにしてほしい。具体的かつ建設的で戦略も意識した議論が、そして<護憲派>に対する執拗といってよいほどの批判が、必要だ。

1192/憲法改正の主張ではなく、いかにして憲法改正するかの「戦略」的主張を。

 民主党政権下の2010年11月3日、産経新聞社説は民主党は「政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」等と主張した。これに対して、同11月6日付のこの欄で、「現在の民主党政権のもとで、あるいは現在の議席配分状況からして、『戦後の絶対平和主義』から脱した、自主・自立の国家を成り立たせるための憲法改正(の発議)が不可能なことは、常識的にみてほぼ明らか…」、「産経社説は、寝惚けたことを書く前に、現内閣<打倒>をこそ正面から訴えるべきだ」、と批判した。

 同様の批判を同じ欄で、産経新聞同日の田久保忠衛の「正論」に対しても行っていた。以下のとおり。
 「『憲法改正の狼煙上げる秋がきた』(タイトル)と叫ぶ?のはいいのだが、どのようにして憲法改正を実現するか、という道筋には全く言及していない。『狼煙』を上げて、そのあとどうするのか? 『憲法第9条を片手に平和を説いても日本を守れないことは護憲派にも分かっただろう』くらいのことは、誰にでも(?)書ける。
 問題は、いかにして、望ましい憲法改正を実現できる勢力をまずは国会内に作るかだ。産経新聞社説子もそうだが、そもそも両院の2/3以上の賛成がないと国民への憲法改正「発議」ができないことくらい、知っているだろう。
 いかにして2/3以上の<改憲>勢力を作るか。この問題に触れないで、ただ憲法改正を!とだけ訴えても、空しいだけだ
 国会に2/3以上の<改憲>勢力を作るためには、まずは衆議院の民主党の圧倒的多数の現況を変えること、つまりは総選挙を早急に実施して<改憲>派議員を増やすべきではないのか?
 <保守>派の議論・主張の中には、<正しいことは言いました・書きました、しかし、残念ながら現実化しませんでした>になりそうなものも少なくないような気がする。いつかも書いたように、それでは、日本共産党が各選挙後にいつも言っていることと何ら違いはないのではないか。」 以上。
 政治状況は当時とは違っているが、衆議院はともかく、参議院では憲法改正に必要な2/3の議員が存在せず、いくら憲法改正を(9条2項廃棄を)と「正しく」主張したところで、国会は憲法改正を発議できず、従って憲法改正が実現されないことは当時と基本的には変わりはない。
 また、昨年12月総選挙も今年7月参議院議員選挙も、「憲法改正」は少なくとも主要な争点にはなっていない。したがって、民主党政権下とは異なりいかに自民党等の改憲勢力がかなりの議席数を有しているとしても、議席配分または各党の議席占有率がただちに国民の憲法改正に関する意向を反映しているとは断じ難い。
 衆議院では自民党・日本維新の会の2党で2/3以上をはるかに超える、参議院では維新の会・みんなの会と民主党内「保守派」を加えて、あるいは<野党再編>によって何とか2/3超になりはしないか、と「皮算用」している者もいるかもしれないが、やや早計、早とちりだろう、と思われる。
 というのは、軍の保持を認めて自衛隊を「国防軍」にするか否か、そのための憲法改正に賛成か否かを主要な争点として選挙が行われたとした場合の議席獲得数・率が昨年の総選挙、今般の参議院選挙と同じ結果になった、という保障は何もない。有権者の関心のうち「憲法改正」は、主要な諸課題・争点の最下位近くにあったと報道されたりもしていた筈だ。
 しかし、とはいえ、憲法改正を!という主張だけでは<むなしい>ことは、少なくともそれに賛同している者たちに対する呼びかけとしてはほとんど無意味であることは明らかだ。
 上の点からして、遠藤浩一の、撃論シリ-ズ・大手メディアが報じない参議院選挙の真相(2013.08、オ-クラ出版)の中のつぎの発言は、私のかつての記述内容と同趣旨で、適確だと思われる。

 「多くの人が憲法改正(ないし自主憲法制定)の大事さを説きますが、現実の政治プロセスの中でそれを実現するにはどうすればいいのか、どうすべきかについてはあまり語りません。多数派の形成なくして戦後体制を打ち破ることはできないという冷厳なる事実を直視すること、そして現実の前で身を竦ませるのではなく、それを乗り越える戦略が必要だと思います」(p.26)。
 ここに述べられているとおり、「現実の政治プロセスの中でそれを実現するにはどうすればいいのか」についての「戦略」を語る必要がある。

 <保守>派らしいタテマエや綺麗事を語っているだけではタメだ。私はこの欄で遅くとも2020年までには、と書き、2019年の参議院選挙が重要になるかもしれないと思ったりしたのだが、それでは本来は遅すぎるのだろう。だが、しっかりと基礎を固め、朝日新聞等の影響力を削ぎ、「着々と」憲法改正実現へと向かうには、そのくらいの期間がかかりそうな気もやはりする。むろん何らかの突発的な事態の発生や周辺環境の変化によって、2016年の参議院選挙、その辺りの時期の総選挙を経て、2017年くらいには実現することがあるかもしれない。
 このように憲法改正の展望を語ることができるのは昨年末までに比べるとまだよい。民主党等が国会の多数派を形成している間は、永遠に自主憲法制定は叶わないのではないかとの悲観的・絶望的思いすらあった。「ぎりぎりのところで日本は救われた」(中西輝政「中国は『革命と戦争』の世紀に入る」月刊ボイス8月号p.81)のかもしれない。

0988/日本の「保守」は生き延びられるか-中川八洋・民主党大不況へのコメント1。

 中川八洋・正統の哲学/異端の思想(徳間書店、1996)、中川八洋・保守主義の哲学(PHP、2004)はいずれも読んでいる。とりわけフランス革命やルソーについては、これらの本の影響を受けているかもしれない。

 これらの本についても感じることは、中川八洋は学術的な研究論文にして詳論すればそれぞれ数十本は書けるだろう、そしてその方が読者にはより説得的によく理解できるような内容を、きわめて簡潔に一冊の本にまとめてしまっている、ということだ。この人は、海外・国内のいずれの文献についても、(外国人の著についてはおそらくは英語のまたは英訳された原書で)すさまじいスピードで読み、理解できる能力をもつ人だと思われる。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)についても、ほぼ同様のことはいえるだろう。中川八洋のすべての本を読んできているならば少しは別かもしれないが、そうでないと、簡潔に言い切られている多数のことが、ふつうの?読者には容易には理解できないように思われる。それは、むろん、すでに紹介したように、「民族派(系)」の江藤淳・渡部昇一・西尾幹二等々は「保守」ではない、控えめに言っても「真正保守」ではない、という、中川ら(?)以外の者にとっては一般的ではない、独特の?見解・立場に立っていることにもよる。

 中川の上の著は「ハイパー・インフレと大増税」という副題をもち、「大不況」というメイン・タイトルをもつことから民主党の経済・財政政策批判の本との印象も生じるが、まるで異なる。「大不況」には「カタストロフィ」というフリガナがついていることからすると、<民主党による日本大崩壊(大破綻)>というのが基本的趣旨で、同時にそのような民主党政権誕生を許した自民党や<民族系>論者を批判することを目的としているように感じられる。その意味では<「民族派」(保守)大批判>というタイトルでも決して内容と大きく矛盾していないと思われる。

 にもかかわらず、実際のタイトルになっているのは、<「民族派」(保守)大批判>では売れない、<民主党批判>本なら売れる、という出版社・編集者の判断に従っているかにも見える。

 上のことはこの本の感想の第一ではまったくないが、中川八洋とて、<出版>そして<売文>業界という世俗と完全に無縁ではいられない、ということを示してもいるだろう。

 さて、中川八洋・民主党大不況(2010)への簡単なコメントはむつかしい。ここで触れられていることは、この欄であれこれと書いてきた多くのことに、あるいはマスメディアや多数の論者が議論してきた多くのことに関係している。

 とりあえずは二点だけ述べる。

 秋月瑛二の私見あるいはこの欄の基本的立場は昨年の7月に「あらためて基本的なこと」と題して書いたとおりだ。
 以下は一部のそのままの引用。 

 ・左右の対立あるいは<左翼>と<保守>の違いは、<容共>か<反共>かにある。<容共>とは、コミュニズムを信奉するか、あるいはそれを容認して、それと闘う気概を持たないことを意味する。<容共>と対立するのがもちろん<反共>で、<保守>とは<反共主義>に立つものでなければならない。コミュニズムを容認または放置してしまうのではなく、積極的に闘う気概をもつ立場こそが<保守>だ。
 ・米国との関係で、自立を説くことは誤ってはいない。<自主>憲法の制定も急がれる。その意味では<反米>ではある。だが、現在の最大の<溝>・<矛盾>は、コミュニズム(共産主義・社会主義)と<自由主義>(・資本主義)との間にある。<反共>をきちんと前提とするあるいは優先した<反米>でなければならない。<反共>を優先すべきであり、そのためには、米国や欧州諸国のほか韓国等の<反共>(・自由主義)諸国とも<手を組む>必要がある。以上のかぎりでは、つまり<反共>の立場を貫くためには、<親米>でもなければならない。
 ・日本と日本人は<反共>のかぎりで<親米>でありつつ、欧米とは異なる日本の独自性も意識しての<反米>(反欧米、反欧米近代)でもなければならない。そのような二重の基本的課題に直面していると現代日本は理解すべきものだ。

 こうした考え方からする中川八洋著に対する第一の感想は、<反共>主義の立場であること、<保守=反共>と完璧に理解すること、が鮮明で、他の多くの<保守>派とふつうは言われている人々の論調に比べて、共感するところ大だ、ということだ。

 述べたことがあるように、佐伯啓思の本は刺激的で思考誘発的で、かつ<西欧近代>への懐疑の必要性について教えられることが多い。だが、佐伯はコミュニズム(・共産主義)との対立は終わった、<社会主義対資本主義>という議論の立て方はもはや古い、というニュアンスが強く、結果として、現実の中国・北朝鮮に対する見方が甘くなっているのではないかという疑問も生じる。上記のような<親米>でも<反米>でもあるという立場は佐伯啓思の論じ方にも影響を受けているが、<反共>と<反米>のどちらをより優先させるべきか、と二者択一を迫られた場合、やはり<反共>(現実には反中国・反北朝鮮等)を選択すべきで、そのためには米国をも利用する(その限りでは<親米>になる)必要があると考えられる。そういう根本的な発想のレベルでは、佐伯啓思にはやや物足りなさも感じている。昨秋の尖閣問題の発生以降の佐伯の産経新聞紙上の論調は何となく元気がないと感じるのは、気のせいだろうか。

 櫻井よしこ渡部昇一がとの程度マルクス(・レーニン)主義を理解しているのかはかなり疑わしい。櫻井よしこはしきりと<反中国>の主張を書いていて、そのかぎりで<反共>だと言えると反論されそうだが、しかし、そのとおりではあるとしても、桜井の文章の中には、見事に、「共産主義」や「社会主義」という言葉が欠落している。

 櫻井よしこに限らず、中国について<中華思想>の国(・地域)だとか、日本と違う<王朝交代>の国(・地域)だとか、その<民族>性自体に対する批判は多く、桜井も含めて中国の帝国主義的(?)、覇権主義的(?)、領土拡張主義的(?)軍事力増大に対する懸念・批判は多く語られてきている。だが、中国の元紙幣には現在でも毛沢東の顔が印刷されているように、中国は毛沢東が初代の指導者であった中国共産党が支配する国家であり続けている。

 そして毛沢東・中国共産党はまぎれもなく、マルクス・レーニン(・スターリン)の思想的系譜をもっていること、中国は<現存する社会主義>国家であることを決して忘れてはいけない。その領土拡張主義的政策に大昔からの<中華思想>等をもって説明するのは本質を却って没却させるおそれなきにしもあらずだ。<中国的>な発展または変容を遂げていることを否定しないが、現在の中国は基本的にはなおもマルクス・レーニン(・スターリン)主義に依拠している国家だからこそ、日本にとっても害悪となる種々の問題を生じさせているのではないか。

 このマルクス主義(・共産主義・社会主義)自体の危険性への洞察・認識が櫻井よしこらにどの程度あるのかは疑わしいと感じている。田久保忠衛についても同じ。

 述べきれないが、以上のようなかぎりで、中川八洋の<民族系>批判は当たっている、と感じられるところがある。

 くり返すが、<ナショナリズム>を、あるいは<よき日本への回帰>を主張し称揚することだけでは<保守>とはいえないだろう。ナショナリスムに対する国際主義(グローバリズム、ボーダーレスの主張)に反対するだけでは<保守>とは言えないだろう。「グローバリズム」、朝日新聞の若宮啓文の好きな「ボーダー・レス」の主張の中に、ひっそりとかつ執拗に「共産主義」思想は生きていることをこそ、しっかりと見抜く必要がある。

 <万国の労働者団結せよ!>とのマルクスらの共産党宣言の末尾は、国家・国境・国籍を超えて<万国>のプロレタリアートは団結せよ、という主張であり、脱国家・ボーダーレスの主張をマルクス主義はもともと内包している。外国人参政権付与論も、上面は美しいかもしれない<多文化(・民族)共生>論もマルクス主義の延長線上にある。

 やや離れかけたが、<反共産主義>の鮮明さ、この点に中川八洋の特徴があり、この点は多くの論者が(ミクロな論点に過度にかかわることなく)共有すべきものだ、と考える。

 といって、中川八洋の主張を全面的に納得して読んだわけでもない。別の機会に書く。

0929/産経11/03社説(主張)の「能天気」ぶり。

 産経新聞11/03の社説(「主張」)「憲法公布64年/国家の不備を正す時だ/尖閣を守る領域警備規定を」は、おわりの直前まではまともな指摘・叙述をしているようだ。

 しかし、最後の段落の「審査会の早期始動を」の部分は、寝言に等しい。

 憲法改正の必要性を前提としてだろう、「参院の民主、自民両党幹部の協議で、委員数など審査会の運営ルールとなる『規程』の制定に民主党が応じる考えを示した」ことをもって「注目すべき動き」と捉え、両院での議論の活性化につなげるべきだとし、「日本の守りの不備をどう是正するかなどを、審査会で論議すべきだ。……/民主党は党の憲法調査会ポストを空席にしたままだ。政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」と結んでいる。

 なるほど民主党が憲法改正手続法により設置されたはずの憲法審査会の動きを前進させるようであるらしい(参院の審査会「規程」の制定に「応じる」らしい)ことは、好ましい変化なのかもしれない。

 だが、現在の国会の議席状況から見て、かりに万が一両院で憲法審査会での「議論」が始まったとしても、まともな憲法改正の方向に結実しないことは、ほぼ明らかではないのだろうか。

 民主党に「政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」と産経社説は書くが、厳密にいえば、ともかくもいかなる内容であれ憲法が改正されればよい、というものではないことは自明のことだろう。かりに万が一、政権与党が憲法改正に積極的になったとして、民主党と同様の見解の政党とともに出した結論が、現9条2項の削除ではなく、第一章・天皇条項の削除であったとしたら、社説子は歓迎するのか?

 現在の民主党政権のもとで、あるいは現在の議席配分状況からして、「戦後の絶対平和主義」から脱した、自主・自立の国家を成り立たせるための憲法改正(の発議)が不可能なことは、常識的にみてほぼ明らかではないか。

 産経新聞社説子がとりわけ現9条2項の削除・正規の「自衛軍」(防衛軍・国軍)の設置の明記を望んでいるならば、現与党による「憲法改正への主体的な取り組み」を求めても無駄だ。

 こんなことを理解していないとすれば、<能天気>であり、本当に思考力は<寝た>ままではなかろうか。

 自民党自体にいかほどに憲法改正(・現9条2項削除等)を目指す「意思」と「力」があるかは問題だ。しかし、民主党よりは「まだまし」だろう。

 喫緊の課題は、現与党・民主党に憲法改正への何らかの「期待」を寄せることではなく、民主党政権自体を「よりましな」内閣に変えることだ。それを抜きにして、望ましい方向での憲法審査会の「議論」がなされるとはとても思えない。
 産経社説は、寝惚けたことを書く前に、現内閣<打倒>をこそ正面から訴えるべきだ。

 <打倒>という表現でなくともむろんよい。<あらためて政権選択を!>とか、<政権選択のやり直しを!>とかくらいは主張したらどうか。

 と考えているところに、民主党には「政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」などと主張されたのでは、ガックリくる。

 近いことは、同じ11/03の田久保忠衛の「正論」についても言える。「憲法改正の狼煙上げる秋がきた」(タイトル)と叫ぶ?のはいいのだが、どのようにして憲法改正を実現するか、という道筋には全く言及していない。「狼煙」を上げて、そのあとどうするのか? 「憲法第9条を片手に平和を説いても日本を守れないことは護憲派にも分かっただろう」くらいのことは、誰にでも(?)書ける。
 問題は、いかにして、望ましい憲法改正を実現できる勢力をまずは国会内に作るかだ。産経新聞社説子もそうだが、そもそも両院の2/3以上の賛成がないと国民への憲法改正「発議」ができないことくらい、知っているだろう。

 いかにして2/3以上の<改憲>勢力を作るか。この問題に触れないで、ただ憲法改正を!とだけ訴えても、空しいだけだ。
 国会に2/3以上の<改憲>勢力を作るためには、まずは衆議院の民主党の圧倒的多数の現況を変えること、つまりは総選挙を早急に実施して<改憲>派議員を増やすべきではないのか?

 <保守>派の議論・主張の中には、<正しいことは言いました・書きました、しかし、残念ながら現実化しませんでした>になりそうなものも少なくないような気がする。いつかも書いたように、それでは、日本共産党が各選挙後にいつも言っていることと何ら違いはないのではないか。

0548/取り返しのつかない、一生の蹉跌、ではないか-中西輝政・八木秀次・西尾幹二。

 一 諸君!7月号の56人の文章のうち、<皇太子妃問題>に言及しているのは20。うち、天皇制度自体に批判的と見られるのは、原武史、森暢平の2つ。
 二 以下は、前回のつづき。
 皇太子妃(雅子妃殿下)を批判・攻撃し、制度上の何らかの提言までしているのが、中西輝政、八木秀次、そして西尾幹二の3人。全体の56から見ても、また20の中でも、<異様な>(少なくとも<少数派>の)見解だ。
 私的に内々にご意見申し上げる、というのとは全く異なり、月刊雑誌を利用して、<世論>の一部として現皇太子妃等に圧力を加えていることに客観的にはなるものと思われる。主観的な善意の有無はともかく、現皇太子妃(雅子妃殿下)の心身によい影響を与えるだろうか? 攻撃だけが目的ならばそれで執筆者は目的を達しているのかもしれないが。
 1 西尾幹二は首相あて質問・要請文のスタイルで書いているが、月刊Will5月号(ワック)での文章と併せて読むと、ここに明瞭に位置づけられる。
 西尾幹二は、①小和田家が皇太子妃を「引き取るのが筋」との旨を書いた(月刊WiLL上掲p.39-40)。これは、常識的には現皇太子妃は<離婚(離縁)せよ>ということを意味するだろう。
 また、②「秋篠宮への皇統の移動」との提言も「納得がいく」と明記した(同上p.42)。
 この②は法律としての現皇室典範2条の定め(長男が最優先の皇位継承者の旨等)に反し、かつすでに所謂立太子された皇太子殿下がいらっしゃるので、同3条(皇位継承順序の変更)の要件に該当するとする「皇室会議の議」が必要となる。
 本来はこういう話題をこの欄で取り上げるのはそれこそ畏れ多いことで恐懼の至りだが、すでに月刊雑誌上で公表されている以上、このブログ欄でだけ隠しても意味がない。以下、同じ趣旨で記録に残す(すでにこの欄で一部書いたことと重複する)。
 2 中西輝政は、①現皇太子妃の「皇后位継承は再考の対象とされなければならぬ」と明記する(諸君!上掲p.239-240)。
 再考して、現皇太子妃の<「皇后位継承」を不可とすること>は、基本的には、皇太子殿下との離婚か、皇太子自体が天皇位を継承しないこと、によってしか実現しない。
 「離婚」は<左翼>・<フェミニスト>を喜ばせるだろう。「皇室会議の議」を要すると思われるが、皇族同士の離婚の例があるかどうかは知らない。後者の「皇太子自体が天皇位を継承しないこと」も簡単ではないことは、「秋篠宮への皇統の移動」について上に記したとおりだ。
 中西は、②「皇太子妃におかせられては、…特段のご決意をなされるようお願い申し上げたい」とも書く(p.239)。「特段のご決意」の意味・趣旨が不明だが、「宮中祭祀」に列席することか、それとも<離婚>のことなのか(後者は西尾幹二がいう小和田家による「引き取り」とほぼ同じ)。
 なお、中西は、③皇太子妃が「宮中祭祀のお務めに全く耐え得ない」のが真実なら「ことは誠に重大であり、天皇制度の根幹に関わる由々しき大問題である」(p.239)と書いて、このことを①・②の前提にしている。また、「皇族」、「平成の皇室」という語を使っているが、これらの人的範囲は明確にされていない。
 3 八木秀次は、つぎのように書いた。
 「問題は深刻である。遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生するという、皇室の本質に関わる問題が浮上している」。そして、皇室典範3条が定める皇位継承順序の変更可能な要件の一つである「重大な事故があるとき」に、「祭祀をしない」ことは該当する、という解釈を示した(p.262)。
 既述のように、「皇室の本質」という場合の「皇室」の意味・範囲は明確にされていない。
 また、「祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生する…」というのは、いったいいかなるニュアンスを含む文章だろうか。「祭祀をしない天皇」と「祭祀に違和感をもつ皇后」とは全く意味が異なる。「いや少なくとも」という語で簡単につなげてよいものだろうか? 思考・論理の曖昧さが垣間見える気がするのだが…。
 三 以上の3人の見解は、つぎの竹田恒泰の文章が適切なものだとすると、前提自体がそもそも欠けている。
 そうだとすると、中西、八木そして西尾は、<取り返しのつかない、一生の蹉跌>をしてしまったのではないか。
 竹田恒泰の叙述を再掲する(月刊Will7月号(ワック))。
 ・「天皇の本質は『祭り主』であり、祈る存在こそが本当の天皇のお姿」だが、「皇后や東宮妃の本質は『祭り主』ではない」。
 ・皇后等の皇族が宮中祭祀に「陪席」することはあり「現在はそれが通例」だが、あくまでも「付き添い役」としてであり、新嘗祭等に内閣総理大臣が陪席するのと同様だ。「大祭」に際して「全皇族方が…陪席」するのは「理想」かもしれないが、「天皇
は『上御一人』であり、全ての宮中祭祀は天皇お一人で完成するのが本質」だ。「皇族の陪席を必要」とはしないし、「皇族の一方が陪席されない」からといって「完成しないものではない」。
 ・「歴史的に宮中祭祀に携わらなかった皇后はいくらでも例があ」り、「幕末までは皇后が祭祀に参加しないことが通例だった。そもそも皇后の役割は宮中祭祀ではない、まして東宮妃であれば尚更」だ。

 ・東宮妃(=雅子妃殿下)が皇后になられたときにまだご病気であれば「無理に宮中祭祀にお出ましいただく必要はない。またそれによって天皇の本質が変化することもない」。
 この竹田の理解は(上の三人のそれと比べると)より正確又はより適切なのではないか。かりにそうだとすると、西尾幹二、中西輝政、八木秀次は<いったい何を大騒ぎしているのか??>
 今上天皇による宮中祭祀の場合の美智子皇后を「標準」と考えるのは歴史的には正しくないし、明治維新以降の宮中祭祀の慣例もまた絶対に遵守すべき「皇室」のルールではないだろう。明治期以前に、もっと長い長い、天皇による祭祀の歴史があり、皇后や皇太子妃がどのように関与するかについては多様な形態の歴史があったものと推察される。

 他人事ながら、自らを恥ずかしく思わないのか、と感じるのは、中西輝政だ。中西は、「ことは誠に重大であり、天皇制度の根幹に関わる由々しき大問題である」と書いてしまった(八木秀次もほとんど同じだが)。中西は「真実であるなら」と留保(条件・仮定)を付けたと弁明するかもしれないが、かりに「真実」だったとしても、竹田恒泰の言を信頼するかぎり、「天皇制度の根幹に関わる由々しき大問題」などと大仰に言うほどの問題ではないのだ。
 
先月だったか、産経新聞に小さく、櫻井よしこが所長(理事長)の国家基本問題研究所が提言を発表したとかの報道があった。ウェブ上の情報によると、中西輝政はこの研究所の「理事」らしい。上記の諸君!特集の56人の中で中西と同じ見解とは思えない考えを書いている「理事」の遠藤浩一や「副理事長」の田久保忠衛がいるようなので、中西輝政が提案しても、上のような中西見解が、この研究所全体の提言にはならないだろう。だが、「国家基本問題」の所在を見誤ったと思われる中西は、―余計なお世話だとは思うが―「理事」を辞めてもよろしいのではないか。
 あと、15人残っている。さらに続ける。

0505/日本の<保守派>内の対立は「思想」・「理論」次元では解消不能か?

  ①サピオ5/28号(小学館)で小林よしのりがこんなことを言っている。
 <「言論の自由」が保障された国に長く住んでいると、国際社会の中国への眼差しも分かってくる。「中共の洗脳」が解け、「自由や民主主義」の意味も知るような中国人が海外でもっと増えてもよいが、圧倒的に少ない。>(p.56)
 ここでは、「言論の自由」・「自由や民主主義」は、「中共」の支配する中国には欠落しているか極めて不十分なものとして、中国を批判するために用いられている、と理解してよいだろう。
 ②櫻井よしこ産経新聞5/08のコラムで「民主化」・「人権など普遍的価値観の尊重」等を中国の現状とは矛盾するものとして、中国を批判するために用いている。
 ③櫻井よしこ・田久保忠衛連名の「国家基本問題研究所」の意見広告「内閣総理大臣・福田康夫様」(産経5/06)には、こんなくだりがある。
 「自由、基本的人権、法の支配、民主主義。わが国と国際社会が依って立つこれらの価値観を踏みにじる中国共産党に、いま毅然としてものを言うことが、首相の責任です」。
 ④5/07の「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」(福田康夫・胡錦涛)の中には、こんな文章があった。
 「国際社会が共に認める基本的かつ普遍的価値の一層の理解と追求のために緊密に協力する…〔以下は、…とともに、長い交流の中で互いに培い、共有してきた文化について改めて理解を深める〕」。
 ここでの「基本的かつ普遍的価値」を中国・中国共産党・胡錦涛がどのように理解・認識しているかは問題だが、口先又は言葉の上では中国も「国際社会が共に認める基本的かつ普遍的価値」が存在することを認め、かつその追求等のために「協力」すると、外交文書で<公言>したわけだ。
  数日前に、佐伯啓思・学問の力(NTT出版、2006)を全て読了。同・日本の愛国心(NTT出版)等を読んで既に書いたことの同旨だが、佐伯はこんなことを指摘している。
 ①「自由や民主主義という戦後的な価値」による日本再建という考え自体が「きわめてアメリカ的な考え方」で、かつ「本来の保守主義」とは異なる「きわめて進歩主義的な考え方」だ(p.166~168)。
 ②「自由、平等、平和と大きく書いた」所から戦後日本は出発した。これは「自民党」も「保守系の知識人」も同じで、「すべからく本当の意味での保守主義ではなかった」(p.173~174)。
 このように、「自由や民主主義」は<普遍的>ではなく、<普遍>を装うアメリカに独特の<進歩主義(左翼)>思想だ、これを支持・主張するのは「本当の意味での保守主義」ではない、とこの本でも述べている(同・日本の愛国心の方がより詳しかったかもしれない)。
 そして、この本では、「冷戦は基本的には終わっています」と述べたのち、北朝鮮と中国について、次の文章を示す。
 「北朝鮮の崩壊はいずれ時間の問題でしょう。中国は共産党政権ですが、なし崩し的にグローバル資本主義のなかへ入ってきています」(p.174)。
 この本の中で、北朝鮮と中国に言及のあるのはこれだけだ(同・日本の愛国心には、かかる文章すらなかったと思う)。
 また、靖国神社・東京裁判問題に関連して、<親米保守>と位置づけられると思われる岡崎久彦を名指しで、実質的には厳しく批判している。論点の拡大・拡散を避けるために詳細には紹介しないが、次の如く言う-「アメリカの価値観」・「歴史観」を認めるということは占領政策や「東京裁判を認めることに等しい」。だが岡崎久彦らの「日本の保守派」が東京裁判を批判しているのは、「私には矛盾しているとしか思えない」(p.246~247)。
  さて、一で言及した小林よしのり櫻井よしこ等も<保守派>とされている筈だが、佐伯啓思によると、アメリカ的価値観を<普遍的>と誤解しており、「本当の意味での保守主義」者ではない、ということになりそうだ。佐伯啓思も<保守派>と自己規定している筈で、同じ<保守派らしき>者たちの間にあるかかる対立を、どう整理し、どう理解すればよいのだろうか。
 すでに書いたのは、<冷戦>は東アジアではまだ現実には続いており、「思想的」・「理論的」にはともかく、<外交・政治>の上では、中国・北朝鮮には欠如している「自由と民主主義」等の「価値観」を掲げて、これらの近隣諸国に批判的に対峙することは当然だし、戦略的にも意味がある、ということだった(「価値観外交」・「自由の弧・構想」の肯定)。
 今もこれに変わりはないが、「思想」・「理論」レベルでも佐伯啓思と櫻井よしこ・岡崎久彦らとの間には懸隔が横たわるだけなのだろうか。佐伯はあまりにも「自由と民主主義」等が西欧「左翼」から出自していること、アメリカが<普遍的>と自称する「価値観」であること、を強調又は重視しすぎるのではないだろうか。また、あまりに中国・北朝鮮への関心が乏しいのではなかろうか(「思想」的・「理論」的には勝負はついた、だけではまだ済まないのではないか)。
 一方、櫻井よしこ・岡崎久彦(・小林よしのり?)らは、あまりにも無条件に「自由と民主主義」等を<信奉>する旨を語りすぎているのだろうか(日本の「自由と民主主義」に全く問題がないとは考えていない筈だが…)。この点、佐伯啓思の論旨はなかなか鋭いところがあることも認めざるをえないのだが…。
 というわけで、少々当惑している。佐伯啓思の本が知的刺激に富むのはいつもながらで、それは結構なことではある。

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