「総理の悪口は最も安全な「いい気分」になる方法」との題で曽野綾子・悪と不純の楽しさ(ワック、2007)のごく一部を紹介したのは、6/20だった。
 紹介した1992年の文章のつづきは、少しずつ論旨転換して、<とくに政治家は、簡単に謝ってはいけない>、謝ったが最後、金を出さなきゃならないから、悪いとは認めない、という計算」が現実の全世界には満ち満ちている現実を知るべきだ(p.44)、という話になっていく。
 この時点ではまだ所謂河野談話(1993)はなかったのだが、「慰安婦」問題に関して既に、宮沢喜一首相や渡辺美智男外相は韓国に対して<謝って>いた。このことを背景にして上の文がある。
 謝罪は金につながるということは、曽野の表現では「自分が悪いという以上、そのような犠牲(=「厖大な額の金」)を払わないと筋が通らない」ということは、実際に、政府(村山内閣)が1995年7月にアジア女性基金(「女性のためのアジア平和国民基金」、今年解散)を発足させたことによって現実化した(韓国人・中国人個人の日本への請求権は消滅しているとの公式見解からすると国による直接の「補償」は不可能だった)。
 この基金には政府も拠出し、民間募金もあった。現代用語の基礎知識1997年版(PC用)には、「募金は2億円で、目標の一〇億円にほど遠い」とある。
 再び曽野の本に戻ると、次の指摘は愉快で、かつ適切に思える。
 「非を認めた人は、…補償に金を出さなければその証ができない。その時は、自ら過去の非を率先して認めるべきだと連日書き立てた朝日新聞が、まずヒャク億円くらいは軽く醵金してくれるだろうし、会社が出さなければ、そういう記事を書いた記者たちが出すだろう。日本は謝るべきだ、と投書したり思ったりしている個人は、きっと税金ではなく、お詫びのお金なら出してくれるだろう。そのような自発的行為こそが、日本人の心からの謝罪の表現になる、と私は思う」(p.44)。
 朝日新聞社又は同社の「そういう記事を書いた」記者たちは、上記の基金にいったい何百(?)億円寄付したのか? 朝日新聞関係者の方又は物知りの方は、教えていただけないだろうか。