秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

法治主義

1003/独裁者・菅直人、一刻も早くクビをとるべきだ。

 一 かりに目的がよくても為政者はいかなる手段を用いてもよいわけではない。

 万が一「共産主義」社会が理想的なものであっても、その社会実現のために、邪魔になる「反共」主義者をその思想ゆえにのみすべて殺害することは許されるのか?。

 菅直人は、上と似たような発想をする<独裁者>のようだ。

 なるほど浜岡原発は、その立地において他の原発と比べて地震・津波の安全性に疑問が高いように見える。安全性の確保が(東北地方・太平洋側の原発とともに)急がれる原発かもしれない。

 上のような印象がただちに浜岡の「運転停止」を正当化するものではない。この点についても検証が必要だが、これもスルーして、浜岡は「運転停止」すべき原発だということが合理的判断だ、ということにしてみよう。

 そうしてみたところで、内閣総理大臣による「停止」要請が正当化されるわけではまっくない。

 二 菅直人による今回の要請はなるほど唐突であり、総合的・長期的考察を欠いているだろう。

 だが、より大きな問題は、内閣総理大臣たる菅直人が(口頭によったのか文書によったのかも新聞紙上では不明確ななままで)「要請」という<行政指導>によって、「運転停止」を実現しようとし、かつ実現しそうだ、ということにある。

 菅直人は、法律と行政に未熟な、かつ「左翼」的心性をもった菅直人は、その「独裁者」ぶりを、いよいよ発揮してきた。

 三 自民党の石波茂(政調会長)は菅直人の措置の「根拠」を問題にしているが、相手方が任意に協力してくれるかぎりでの「行政指導」に具体的な法的根拠(法律上の根拠条項)は要らないだろう。

 だが、思い出しても、バブルを終熄させたのは、1990年3月の大蔵省銀行局長の「行政指導」通達だった(農林系金融機関は対象外だったことが大きな問題を残したことは周知のとおり)。

 このときはたかが銀行局長の…と感じたものだが、今回は内閣総理大臣たるものの「要請」=「行政指導」だ。建て前上、行政指導に拘束力はない、従うか否かは相手方の任意といってみたところで、強く規制・監督されるかわりに強く保護されている電力会社が内閣総理大臣の「要請」を拒否できるはずがない、と考えるのが常識的な感覚だろう。

 そして、菅直人によると「指示や命令は現在の法制度は決まっていない」らしいのだが、「現在の法制度」では不可能なことを、便宜的な「行政指導」という措置で実現しようとした、かつその意思形成過程はほぼ菅直人の脳内にあり、わずかにせよ存在するはずの国(行政)の意思形成システムをもほとんど無視してそれはなされた。ここに問題の本質がある。

 四 浜岡原発の運転停止を求める「指示や命令は現在の法制度は決まっていない」のだとすれば、そのような正規の法的権限を与えるように原子炉等規制法等を改正して、内閣総理大臣または経済産業大臣等に<運転停止>権限を付与するのが、正常な法的感覚だ。

 そんな悠長なことをいっておれない、緊急性を有する、と菅直人は考えたのかもしれない。しかし、幸い?国会は開会中で、官僚たちに指示して原案を作らせて国会で審議すれば、菅直人の浜岡原発の焦眉の危険性が国会議員多数に共有されるかぎり、数週間で法律は(場合によっては政令・省令も)改正できるはずだ。

 法律改正が難航して、いよいよ浜岡原発が危ない、となれば、その時点で停止「要請」しても間に合うだろう。国会での審議中に浜岡に放射性物質にかかわる震災または津波が起こったときにかぎり、菅直人の措置は結果として(カンが当たったとして)正当化されるだろう。

 なぜ、関係法令の改正をしようとしないのか、なぜ、そのための改正案を菅直人(内閣)は国会に提出しないのか。

 「熟議を」とかいいながら、国会を軽視・無視している菅直人(そして民主党)内閣の本質が一段と明らかになっている。

 国会の軽視・無視、国会に諮らないままでの事案処理、これはまさしく<行政独裁>であり、さらにほとんど菅直人の脳内でのみ意思形成がなされたようであることも含めて、<菅直人の独裁>に他ならない。

 五 場当たり的、人気取り、原発政策全体との整合性は?、とかの批判は当たっていないことはないだろう。

 だが、最大の問題は、現行法制上は不可能なことを内閣総理大臣たる菅直人個人の「行政指導」で行った、という点にある。目的さえよければ(菅直人は「国民の安全と安心」のためと明言している)、現行法制を無視して、いかなる事項・問題でも首相の「行政指導」によって実現する、という道が拓かれた、という点にある。これを座視すれば、今後のその他の問題でもまた、同様のことが繰り返されるだろう。「国民の安全と安心」のために、現行法制では決められていないので「行政指導」で、という行政スタイルが構築されようとしている。しかもまた、その「行政指導」にあたって、行政部内全体での十分な検討が行われたようにも見えないのだ。

 国会軽視・無視の、かつ行政部内全体の調整も不十分なこの行政スタイルは、菅直人(個人)による<独裁体制>だ、と言って過言ではない。

 六 目的さえよければ、手段はどうでもよいとするのが「左翼」の基本的な発想だ。さっそく日本共産党・社民党、そして民主党系・容共らしき川勝某静岡県知事は<英断を歓迎する>と述べている。

 そこには、法律(国会)と行政の関係あるいは行政にかかわる法秩序感覚は乏しい。

 一種の非常事態の中で、日本の立憲主義、法治主義は危機に瀕している

 菅直人という政治・行政の「素人」が、まがりなりともある程度は築かれてきた日本的な立憲主義、法治主義を破壊している。

 そのような深刻な危険性を、今回の浜岡「停止要請」はもつものだ。この点を良識ある人々は鋭敏に見抜くべきだ。

 菅直人はあぶなっかしいのではなく、現に危ない。独裁者は退場させなければならない。早くクビを取らなければならない。

 七 菅直人のクビを取ること、そしてさらにそもそも「現行法制」はどうなっているのか、について次回以降に書く。

 三万人近い死者にとっては「勇気を」、「希望を」等々とか言っても空しいだけだ。死者が、どのようにして「勇気」・「希望」をもちうるのか?? そう感じ、言葉の無力さをひしひしと感じてしばらくこの欄に向かわなかったが、菅直人の行動により「日本」という国家がさらに一段と自壊していくのを感じて、再び文章をつづる気になった。

0407/呉智英-産経3/01でまた珍論。

 産経新聞3/01のコラム欄(「断」)で、呉智英がまた奇妙なことを書いている。
 やや単純化すると、三浦和義が米国の裁判でクロになったら、「保守主義者よ、かかる近代国家、法治国家で、道徳の再興を説き、道徳教育の実現を画することが、どうしてできようか」、と言う。
 この論理はあまりにも唐突だが、媒介項としてあるのが、道徳と国家・法律が衝突すれば、近代国家・法治国家では後者が勝つのが自明だ、という主張だ。
 呉智英は率直に言って、莫迦(失礼乍ら=アホ)ではないだろうか。
 道徳と法律が衝突すれば、近代国家・法治国家では後者が優先する(反道徳的でも合法でありうる)という主張はおそらく基本的には(なお後述)適切だ。
 だが、そのことから、「道徳の再興を説き、道徳教育の実現を画する」、「しかめつらしい顔をした」「保守主義者」に対する皮肉あるいは批判がどうして出てくるのか
 第一に、「道徳」に明瞭に矛盾している<法律>が優先するのは、国家の裁判・訴訟という場面での現象で、一般的に「道徳」規範の意味がなくなるわけではない。裁判上は<無罪>であっても<無実>とは限らないこと、その場合に犯罪者は道徳・<良心>による別の(法的ではない精神的)裁きを受けうること、は常識的なことだろう。
 道徳も(近代法治国家では)法律には負ける→道徳の再興・道徳教育の実現を説くことはできない、という論理がいったい何処から出てくるのか。かかる幼稚な論理が公然と語られることに心寒い思いがする。
 第二に、「道徳」と「法律」は別次元に存在しているのではなく、前者の観点から絶えず後者の見直し(=改正)が図られるべきものだ。両者が矛盾することはあるのが当然だが、それが常態となるような社会は健全ではないだろう。
 呉智英のいう「近代国家、法治国家」においても、<道徳>の意味が失われるわけでは全くない。それは、「近代国家、法治国家」の具体的内実を変えていく機能を果たしうる。
 とりあえず以上ですでに十分だが、第三に、①<道徳>の意味、②「近代国家、法治国家」の意味(呉智英は「法の支配」と「法治主義」(<「法治国家」)の異同を知っているのか?)、を呉智英はどれほど明確・厳密に理解したうえで執筆しているのか? ③やや細かいが、(刑事)裁判といっても日本と米国で手続や有罪とするための基準は同一ではないと見られることについて、いかほどの考慮を払っているのか、との疑問もある。(なお、同一国家でも、ある時点で有罪とされたが数十年後の新証拠発見(発生)により再審・無罪となることもある。ということは、その逆も(裁判手続上の認定は無理でも事実としては)ありうるのであり、時間軸を無視した過去と現在の単純な比較は意味がない。)
 呉智英は産経新聞紙上で「保守主義者」を刺激したいようだ。残念ながら、全く成功していない。「保守主義」者という言葉自体がどういう意味で用いられているかも、厳密には不明なのだが。
 ついでに書いておく。「法治国家」という場合の「法」には法律の他に憲法も含んでいるだろう。憲法>法律なのであって、法律でも破れない規範的枠・基準を憲法は定めていて、主として法律制定者(<国家)を拘束する。その憲法の背後又は基礎には、「道徳」と呼ぶかどうかはともかく、より高次の<理念>(<最高規範>?)があるはずだ、と思われる。この「道徳」、基本的<理念>の具体的内容については多様な議論がありうる。
 呉智英は「保守主義者」のみが「道徳」という(「法律」とは矛盾しうる)より高次の規範・価値基準の存在を主張しているかの如き書き方をしているが、「保守主義者」でなく「進歩主義」者・「左翼」もまた、何らかの(「法律」とは矛盾しうる)高次の規範・価値基準の存在を前提にしており、主張していると思われる。
 問題は、「法律」と矛盾しうる高次の規範・価値基準の具体的内容なのだ。政策や法律改正をめぐる議論と闘争は、多様な高次の規範・価値基準のうちどれが適切かをめぐってなされているとも言えるのだ。
 一部では著名らしい(本当か?)評論家らしき者に対してこんな幼稚で常識的なことを書いて時間を潰すのも莫迦ゝゝしく思えたが、せっかく書いたので残しておこう。
ギャラリー
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
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  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
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  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
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  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
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  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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  • 1721/L・コワコフスキの「『左翼』の君へ」等。
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