秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

池央耿

2359/J・グレイ2002年著でのコルィマ(Kolyma)①。

 一 John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 =J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 上の邦訳書からの要約・抜粋または一部引用を掲載してきたが、外国語の翻訳ではなく、邦訳書の日本語文の要約・抜粋等にすぎないにもかかわらず、全部を了えていない。邦訳書の本文計6章、計209頁のうち、第4章の途中のp.139までにとどまっている。最後は→No.2122/2020.01.15.
 とどまってている理由は自分の事ながら今の時点で推測するに、一つは、J・グレイのこの本の文章は綿密で長々としたものではなく、要約・抜粋するのがかなり困難な、アフォリズムにかなり接近するものにますますなっていること、だ。
 二つは、同じJ・グレイの、Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)<邦訳書なし>を入手して、L. Kolakowski 、Eagleton & Hobsbawm、Tismaneanu の人や書物に関する論評を同じこの欄で試訳してしてきたことだ。L・コワコフスキにつき→No.2126/2020.01.19。
 なお、L・コワコフスキの文章は多くは原語から英訳されているので、まだ読解しやくすいように英語訳されているが、J・グレイの英語文は、現役のイギリス人の英語だけあって、はなはだ読み(理解し)難いところがある。
 J・グレイは好き・嫌いをわりあいと明確にしていて、前者にKolakowski、後者にHobsbawm が入る。Richard Dawkins に対しては批判的なのだが(理由の一つを勝手に推測すると、きっと、自信満々に書き過ぎることだろう)、そのドーキンス部分の翻訳=試訳を開始したが、読解と実際の試訳に難渋して、今のところ挫折している。
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  コルィマまたはコリマ(Kolyma)という場所(シベリアの東北の極北部)に旧ソ連の収容所があったことを知ったのは、たぶん、上の<わらの犬>によってだ。そしてJ・グレイは、V・Shalamov の<コルィマ物語>に依拠して、コルィマに言及していると見られる(但し、この欄で最近に試訳した書物によると、シャラモフによるコルィマの<物語>の全文ないし完全版ではないようだ)。
 すでに邦訳書の要約・抜粋等として掲載したところだが、あらためて、邦訳書を参照しつつ、J・グレイの原書にほぼ即したかたちで、より長く試訳して紹介しておく。
 John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。
 まず、第3章第5節(邦訳書p.103-)あたり。
 <邦訳書要約→No.2121/2020.01.14>。以下は、これよりも長い。
 「」をはずし、原文の一行ごとに改行する。段落の区切りには○と//を付す。
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 (ここでの便宜的な数字)
 今日ではキリスト教徒と人間中心主義者(humanists)は、一緒になって、悲劇を不可能なものにしている。
 キリスト教徒にとって、悲劇とは偽装した天恵以外の何ものでもない。すなわち、世界は—ダンテが述べたように—、神聖な喜劇なのだ。そして、全ての涙がすっすり拭われてしまう来世がある。 
 人間中心主義者にとっては、全ての者が幸福な人生を送る可能性をもつときを、心待ちにすることができる、ということになる。
 そのうちに悲劇は、我々は逆境のもとでも生き抜けることを教訓として記憶させるものになるのだ。
 しかし、極限状態の苦痛によって人間は高貴になる、というのは、お説教または舞台上のセリフだけにすぎない。//
 収容所を生き延びたGustaw Herling によると、ヴァーラム・シャラモフ(Varlam Shalamov)の前で、「Solzhenitsyn も含む全ての収容所文学者は、頭を垂れなければならない」。この作家は、わずか22歳でまだモスクワ大学の学生だった1929年に最初に逮捕された。
 彼は、Solovki での3年間の重労働の判決を宣告された。そこは、正教の男子修道院がソヴィエトの強制集中収容所へと改造された、一つの島だった。
 1937年に再び逮捕されて、シベリア東北部のコルィマでの5年間の判決を受けた。
 控えめの推計でも、この極北の収容所でおよそ300万人が絶命した。毎年、受刑者の3分の1かそれ以上が死んだ。//
 シャラモフは、コルィマで17年間を過ごした。
 彼の書物の<コルィマ物語(Kolyma Tales)>は簡潔なChekhov 的文体で書かれ、Solzhenitsyn の作品がもつ教訓臭は全くない。
 だがなお、ときおりの素っ気なく離れている行の間に、一つのメッセージが示されている。
 すなわち、「違って行動することができると考える者は誰もみな、人生の本当のどん底に触れたことがない。そう考える者はみな、『英雄のいない世界』で最後の息を吐かなければならなかったということが決してない」。//
 コルィマは、道徳が存在しなくなる場所だった。
 シャラモフが冷ややかに「文学的おとぎ話(fairly tales)」と呼んだ状況では、人間の深い結びつきが、悲劇と窮乏の圧力のもとでやむなく作り上げられる。
 しかし、実際には、どんな友情や同情の絆も、コルィマで生き延びるに十分なほど強くはなり得ない。すなわち、シャラモフはこう書いた。
 「悲劇と窮乏が人々を一緒にさせて、人々の間に友情を生んだのだとすれば、その場合には、窮乏は極限状態ではなく、悲劇は大きくなかったのだ」。
 人生から生きる全ての意味を奪われて、受刑者たちには生き続ける理由が存在しないように思えたかもしれない。
 だが、ほとんどの者は体力が弱くて、自分たちが選択した方法で自らの生命を断つ機会がときおり訪れたとしても、その機会を利用することができなかった。
 「死ぬという気持ち(will)を失わないように、〔自殺を〕急がなければならない場合もあった」。
 飢えと寒さに痛めつけられて、受刑者たちは、無感覚のままで、無意識の死に向かって動いていった。//
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 以降の試訳も含めて、次回以降へ。

2168/J・グレイ・わらの犬(2002)⑩-第4章01。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.123-p.126。太字化は紹介者。(1), (2), (3)は秋月による。
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 第4章・救われざる者(The Unsaved)。
 第1節・救済者(Saviours)。
 (1) 「仏陀は、万人が理解する苦悩からの解放(煩悩からの解脱)〔release from suffering〕を約束した。
 これに対して、だれも人間の原罪とは何かを説明できず、キリスト教の苦悩がどうして人の罪を償うことになるのか、理解してもいない。
 キリスト教はユダヤ教の一宗派(a sect)に始まった。
 初期の信者にとって、罪とは神の意志に背くことであり、罪深い人間に下される罰は世界の終末だった。
 この神話信仰(mythic beliefs)が、救世主(メシア)の人物造形に結実した。世界に懲罰を与え、篤信の少数に救いをもたらす神の使者である。」
 「キリスト教の開祖は聖パウロであって、イエスではない。
 パウロはユダヤ教の救世主信仰(Jewish messianic cult)をギリシア・ローマふうの神秘主義に塗り替えたが、自身の創始した信仰をユダヤ教の伝承から解放するまでには至らなかった。
 罪と償いの理念がユダヤ教の根幹をなす、というだけの話ではない。
 この考えがなかったならば、キリスト教が説く原罪の約束も、意味をなさない。
 人間に罪がないならば、救われるまでもないし、贖罪の約束も、悲痛に耐える身の支えにはならない。」
 (2) 「人類は自分たちを自由で覚醒した存在だと考えているが、じつはたぶらかされた動物(deluded animals)である。
 それでいながら、想像で作り上げた自分の姿から逃れようと足掻き続けている。
 その信仰(religions)は、手にしたこともない自由を打ち捨てる苦行である。
 20世紀には、右翼と左翼のユートピア思想がともに同じ機能を果たした。
 今日では、政治が娯楽(entertainment)としてすら説得力を失って、科学が救世主の役割を引き受けている。
 (3) 「おおかたの人間は救済者(saviours)を軽んじているばかりに、救済者から解放されることを願わない。
 人間が救済者を待ち望む以上に、明日の救済者の方がよほど人間を必要としているのである。
 人間が救済者に期待するのは気散じ(distraction)であって、救済の福音ではない。」
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 第2節以降へ。

2111/J・グレイ・わらの犬(2002)⑤-第2章02。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間と他動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.54~p.71。本文最後(p.209)まで昨秋に読了しているので、再読しながら、ということになる。太字化は紹介者。
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 第2章・欺瞞〔The Deception〕②。
 第5節・ライオンとの対話〔Conversing with Loins〕。
 ライオンが言葉を発しても人間は理解できないと言ったL・ヴィトゲンシュタイン〔Ludwig Wittgenstein〕は、ヨーロッパの伝統に添うヒューマニストだ。プラトンからヘーゲルまでは世界を「人間の思惟を映す鏡」と、ハイデガーや彼はさらに進めて「人間の思考から成る構築物」と解した。いずれでも、世界は、それまではなきに等しかったが、人間が出現して初めて意味をもつ。
 後期ヴィトゲンシュタインは旧哲学を超越したと自負したが、原点の「観念論」を出ていない。観念論者によれば「精神を離れて」は何も存在せず、究極的には「世界は人間が創造した」に等しい。これは、「人間だけを認める考え方」だ。
 前期の彼は「世界の論理的構造を映し出す思考と言語を記述」しようとしたが、のちに「言語が世界を鏡映する」との考えを捨てて、「言語から隔絶して存在する世界の概念に想定される一切の概念」を否定した。後期には、「言語で表現しえないことは何もない」のであり、「その哲学は所詮、観念論(Idealism)を言語の術語(linguistic terms)で開陳」したものだ。
 第6節・『ポストモダニズム』〔"Postmodernism"〕。
 ポストモダニズムによると、自然などはなく、「ただ人間が造り上げた浮遊する世界」が存在する。せいぜい「相対主義」(relativism)を唱えて「人間は真理(truth)を掴み得ないこと」を認めるが、この真理否定は「質の悪い思い上がり」だ。
 「人間の理解の遠く及ばない世界」を否定するポストモダニストは、そのことで「人間野望の限界を見定める」ことを拒否して人間を「最終調停者」にし、「何ものも人間の意識(onciosness)に現れないないかぎりは存在しない」と暗に断定している。
 「真理は存在しない」との考えはギリシャ哲学にもあった。ポストモダニズムは、「最新流行を装った人間中心主義(anthropocenturism)でしかない」。
 第7節・動物の無心(Animal Faith)。
 従来の全ての哲学者は、「動物の無心」を超える理由を発見していない。
 第8節・プラトンとアルファベット〔Plato and Alphabet〕。
 鳥や獣に対する「人間の特質」は「言葉操作能力」にではなく、「言葉を固定する(crystallisation)」手段として「文字」を持つことにある。
 「文字は仮想の記憶を生む。これによって、人間は世代や境遇の枠を超えて体験を拡張することができる。同時に、文字は抽象世界の創造を可能にし、人間はそれをリアリティと取り違える結果になった。文字の支えで発達した哲学では、人間はもはや自然界に足場がない。」
 原始期の文字には自然界との多様な関係があったが(象形文字)、次第に動物と共有しない「人語」が出現して、「全ての観念(sense)の根拠」になった。
 プラトンらの言語崇敬を批難したヴィトゲンシュタインらは要するに、「表音文字が思考に及ぼす影響を批判した」。
 プラトン哲学の系譜にない中国古文は「豊かな視覚表現」をもつために「抽象思考」を育てなかった。プラトンによると「抽象語が精神、知性の実体を規定」するが、中国思想は一貫して「唯名論」(nominalst)で、抽象語は全て「名称(labels)」にすぎないと理解したので、「観念(ideas)と事実(facts)を混同することがない」。
 プラトンが遺した「真・善・美」の三価値・抽象的理想は、対立抗争・僭政・殺戮を生んだ。ヨーロッパ史の少なからぬ部分は、「アルファベットがもたらした思想の過誤による」。
 第9節・個人崇拝批判〔Agaist the Cult of Personality〕。
 ヒューマニズムによると地球は人間出現まで何の「価値」(value)もなかった。この「価値」は「人間の願望、選択が落とす影」で、本質的に多少とも価値が問題になるのは「個々の人格」だ。人間は神に由来するがゆえに、キリスト教は「個人崇拝」を認めるだろう。しかし、キリスト教を捨てたとなると、そこでの「神」の姿は不分明だ。
 「人格とは、自律の意志をもって人生を選択、決定する主体だが、ほとんどの人間はそこまで自己を確信していず、最良の境遇にある者たちも、自身をそのようには見ていない」。「江戸時代の武士(bushido warriors in Edo Japan)、中世ヨーロッパの王侯貴族や吟遊詩人」等々は「近代的な自律した人格(personal autonomy)の理想像に合致しない」がゆえに「欠陥人間」だったのか。
 「自律した人格である(being a person)か否かは、人間の本質(essence of humanity)にかかわることではない」。歴史的にも、「人格は一種の仮面だ」。「自律した人格、主体的な個人とは、…ヨーロッパに伝搬した仮面を後生大事に被りつづけ、それを自分の素顔だと思い込んでいる人間のことを言う」。
 第10節・意識の貧困〔The Poverty of Conciousness〕。
 プラトンは「人間のすみきった意識で感得(perceive)したこと」を「究極のリアリティ」とした。デカルト以来の命題では「感覚(sensation)や知覚(perception)は意識(conciousness)を必要とはせず」、まして「自己認識(self-awareness)」とは関係がない。「感覚、知覚は、動物にもある」からだ。
 植物は触感・視覚をもち、「最古の単純な微生物も、その感覚は人間に通じる」。
 「地球上の生命の始原」にあるハロバクテリア(halobacteria)は「感光物質ロドプシン(rhodopsin)の作用で光に反応する」が、これは人間の「網膜にあるのと同じ色素蛋白」だ。「人間は、太古の泥の目を通じて世界を見ているのだ」。
 古き二元論によると、「物体(matter)」には知性(intelligence)がなく「精神」(minds)がなければ知識(knowleage)もない。実際には、「知識」は「精神」を必要とせず、マーギュリス〔Lynn Margulis〕の言うように、全生体は「知識を備えている」。-「自律した一個の生体である地球、ガイヤは固有の感覚と知覚によって、人間が登場するはるか以前から全地球規模で自在に情報を交換し、意志伝達を図っていた」。
 「バクテリアは環境に関する知識にもとづいて行動する」。「より複雑な生物の免疫システムには学習機能と記憶の蓄積(learning and memory)が認められる」。
 高度に発達した生物でもふつうは、「知覚や思考は無意識に生じる」。人間は最たるもので、「意識される知覚(concious perception)」は「五感(senses)を介する受容」の「ごく一部」であって、人間は遙かに多くを「閾下知覚(subliminal perception)によって感じ取る」。「意識」の変動(生活リズム、概日性・睡眠等)は、原始以来「人間の生存に不可欠」だ。日々の「行動」はおおむね「無意識」による。
 「心底の動機は疎外されて意識の検証を経ることがなく」、「ほとんどの精神生活(mental life)は、無意識に(unknown)行われる」。意味が「自覚を要する」ことは殆どなく、「致命的に重要なことの多くは、意識が欠如しているうちに生起する」。
 プラトンやデカルトでは「意識が人間と動物を分ける」。後者によると「考えない動物は機械(machines)と変わりがない」。しかし、犬・猫・馬は周囲を「意識」(display awareness)し、行動の当否を「経験に即して判断」する。「思考」(thoughts)も「感覚」(sensations)も備える。類人猿は「知的能力」をもち、人間だけが「意識」をもつのではない。
 「自我の観念(the sensation of selfhood)の欠如」が他動物と人間を分ける。といっても動物が「不幸」なのではなく、「自己認識」(self-awareness)は能力であるとともに妨害物だ。自己忘却により最大の能力を発揮することもある。「日本の弓道では射手が的を忘れ、自分をも忘れて(no longer think)、初めて正鵠を射ると教える」。
 東洋の「瞑想」(meditatives)は「意識高揚」技法ではなく「意識を迂回する」手段だ。
 「意識に上ることのない知覚-閾下知覚は、異状でも変則でもなく、正常なこと」だ。人間の「知覚」のほとんどは、「意識的観測」ではなく「持続する無意識の凝視」による。
 精神分析家のA・エーレンツヴァイク〔Anton Ehrenzweig〕が指摘するように、「無意識の視覚」は「意識的な熟視」よりも大量の情報を収集するが、これは「科学」の視点からも同じだ。
 「閾下知覚」(subliminal perception)の影響は長期的で広範囲だ。約40年前に禁止されたが、「消費者の購買行動を操作する」サブリミカル・プロジェクション企業も登場した。
 「人間が意識のフィルターを通して見る世界は、閾下知覚によって与えられたものの断片でしかない」。人間は「自分の感覚を検閲(censor)」するが、じつは「全てを前意識(preconcious)の世界観に頼っている」。「現時点で知っていること」=「意識を介して学習すること」ではない。
 「精神(mind)の寿命と肉体(body)の寿命は表裏のことだ」。「覚醒した意識」(concious awareness)にのみ頼れば、「精神は全体としては機能しない」。
 第11節・ロード・ジムの行動〔Lord Jim's Jump〕。
 J・コンラッド〔Joseph Conrad〕の小説<ロード・ジム>の主人公の行動〔略〕には、謎がある。乗客を捨てて救命ボートに飛び降りたのは「自分から」か「無意識で」か。「責任」が問われ得るならば別の行動をとるのが「自由意志」だが、どう判別するのか。
 「自由意志(free will)の概念を否定する論拠」は多数あるが、その議論自体を拒絶する立場もある。
 「自ら行動を決定して、初めて人は自由行為者(free agent)だ。ところが、人間は偶然と必要(chance and necessity)の申し子であって、何に生まれるかも自分では選べない。だとすれば、一切の行動は責任外になる」。これが、「自由意志否定」論の有力論拠だ。
 近年の科学研究はますます、「自由意志を薄弱なものに」した。B・リベット〔Benjamin Libet〕の実験では「行動を促す脳内の電気パルス(electtrical impulse)-準備電位は、意識が行動を決定する半秒前に発生する」。自分の意志で行動を決定して実践するとふつうは考えるが、しかし「全ての動作、行動を無意識に開始する」。リベットらは述べる。-「とっさの自発的行為においてすら、脳の作動は意識に先行すると見られる」。
 人間が思うようには行動していない理由の一つは、「意識の帯域幅(bandwidth)、…意識の容量もしくは能力の問題」だ。人間は生物として「毎秒約1400万ビットの情報を処理するが、意識の帯域幅はせいぜい18ビットで」、「意識」は必要な情報の100万分の1しか処理しない。
 「神経科学(neuroscientific)研究は、人間が自由意志では行動できないことを実証した」。リベットは「わずかながら」その働きを「脳の促す行動を保留し、または抑止する意識の力」に認めるけれども、そうした「拒否権」行使の実例や可能性について「検証の術はない」。
 人間は将来の行動を予測できないにもかかわらず、後から振り返って「あの決断は定められた道程の一歩だった」と思う。あるときは降りかかった偶然だとし、あるときは「自身の行為」だとする。「自由」の感覚は、この二つの視点を切り替えるることから生じる。「自由意志は、錯視のいたずら(a trick of perspective)である」。
 ロード・ジムが思い悩むのは「自身の人格探究」だが、虚しい努力だ。「自己認識」がどうであれ、「人間個人の本質」は、「きわめて曖昧なかたちでしか、捉えることはできない」。ショーペンハウアーが、つぎのように言うとおり。
 「自己認識-人が自身の本質をどう規定するか-は、意識のあり方によるとされる」。しかし、決定的に不十分だ。人間はその人生で多くのことを「知る」が、それは微々たるもので、かつ、記憶の1000倍以上のことを忘却してしまう。「外界との接触を重ねるうちに、人がいつか認識の主体-知っているつもりの自分-を自己の本質と考えるようになるのは事実だが、これは脳の機能であって、自己そのものではない」。
 「知っているつもりの自己を探し求めながら、ついに発見に至らない」。「不変の人格は存在しないだろう」と考えつつも、人間は「自分の行動を説明しようと心の裡を覗きこまざるにはいられない」。そこには「記憶の断片ばかり」がある。
 ロード・ジムは「自分が救命ボートに飛び移った理由を知り得ない。知り得ない運命である」。ゆえに、「人生を白紙に戻して出直すことはできない」。
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 第12節<仮想の自己>以降へと、つづける。

2069/J・グレイ・わらの犬(2002)①-第1章01。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。
 以下、邦訳書から一部引用したり、要約したりする。
 各章の中の「小節」の見出しは原書にはないようで、邦訳者が読者の便宜のために付したのではなかろうか。「」は邦訳書からの直接引用。
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 第一章・人間。邦訳書、p.1~p.15。
 第1節・科学かヒューマニズムか。
 現代人の多くは自分たちで「運命を支配する」ことができるヒトという生物の種の一員だと考えているが、これは「信仰である。科学ではない」。
 ダーウィンをもう一度振り返る必要がある。
 「種とは遺伝子の集合であって、遺伝子は相互に、かつ変遷する環境と、無作為に関連し合っているにすぎない。
 種は自己の運命を制御できない。
 個々の遺伝子を取り出してみれば、種というものはない。
 生き物はすべて同属で、人間も例外ではない。」
 人間が「人類の進歩」を語るのは、「キリスト教の希望」に由来する「抽象概念」にとらわれているからだ。
 「人間とほかの生き物は同類」だが、人間を優越させるキリスト教を母胎としたために「進化論」は喧しい議論を発生させた。
 現在では、「人間主義者」と、「人間は動物と同じで運命の支配者たりえないことを理解している少数派」が対立する構図がある。
 「人間主義」とはここでは「進歩信仰」を指す。「人間は増しつづける科学知識を力として、ほかの動物〔の〕…限界を超え、自己を解放できるという思いこみ」だ。
 これには何の根拠もない。「知識を身につけたところで、生き物である人間はもとのままである」。
 他の動物と変わりがないとしたダーウィンに対し、「ヒューマニストは人間と動物をいっしょにするなと声高に言う」。それを裏付けるため、「人間は、みな救われる」というキリスト教の「いかがわしい約束」を担ぎ出したが、「ヒューマニストの進歩信仰はキリスト教信仰の世俗版でしかない」。
 ダーウィンの「世界に進歩と呼べるものはない」。
 ヒューマニストにこれは耐え難いことで、ダーウィン説を「逆手に取り」、「人間はいかなる動物とも異なる」とするキリスト教の根底にある「誤信」を永らえさせた。
 第2節・恣意的進化の蜃気楼。
 人間は「偶然にもてあそばれている-当てもなく進化の流れに身を任せてきた」。
 しかし、ウィルソン(E. O. Willson)は遺伝子工学を味方につけて、「人間進化の恣意的な操作」は可能である、と言う。しかし、この主張は「蜃気楼」だ。
 「人類が運命の管理責任を負うという考えは、種に目的意識があってはじめて意味をなす」。しかし、「種は遺伝子の流れに浮かぶ泡沫でしかない」。
 次世紀にかけて「科学の力で人間が変わることはありえよう」。しかし、変わるとしても「無計画な改造に終わる」。
 「人間が神の立場で運命をあやつったところでどうなるものでもない。
 もし人類が改良されるなら、それもまた運命の気紛れである」。
 第3節・人間がいっぱい。
 6500万年前に「全生物の4分の3に相当する種」が忽然と消滅した。その後も急速につづく「種の絶滅」の原因は、「地にはびこって」いる人間にある。
 1万2000年前に人間が登場した世界に生きていた動物の原産種のほとんどは、「狩猟によって絶滅した」。
 「自然破壊はグローバルな資本主義や産業化」や「人間の組織や習慣」の欠陥に起因するのではなく、「進化の過程で異様なまでに貪婪な霊長類が突出した結果」だ。有史以前から今日まで、「人類の隆盛と自然環境の荒廃は軌を一にしている」。
 地球規模で見ると、今後も人口は大幅に増加する。80億人ともなれば、「地球を荒らさずには維持できない」。
 遺伝子工学が「痩せこけた土壌からむりに豊かな収穫を上げる」のに成功すれば、「ほとんど何もなくなつた地球で、人間だけが人工的に欠乏を補った環境に細々と生きる」「孤愁の時代」がやって来る。
 実際には「地球の自動調節機構」によって、人間が住めなくなるか、人口の増加停止が生じるだろう。
 ラヴロック(J. Lovelock)の「筋書き」は、1.病原菌である人類の絶滅、2.慢性的地球汚染、3.宿主たる地球の破壊、4.地球(宿主)と人類(寄生動物)が「互恵関係を維持する共生」、だ。
 最もあり得るのは、1.に「いくぶんか脚色」を加えたものだ。「気候変動の副次的効果で、新しい病気が人口を抑制するとも考えられる」。「戦争の影響は計り知れない」。「生物化学兵器」、「遺伝子兵器」類が「人間社会の生命維持機構にあたえる打撃こそが深刻」だろう。
 モリソン(R. Morrison)はつぎのように言う。
「環境がもたらすストレスに、動物の多くはホルモンによって反応を制御し、栄養源が不足するとなれば新陳代謝をより効率のいい状態に切り替える。当然ながら、エネルギーを消耗する生殖行動は真っ先にその対象となる。<一文略>
 出産を打ち切って環境ストレスに対応する人間は動物一般と少しも変わらない。」
 「気候変動、新型の疾病、戦争の惨害、出生率の低下」等々の複合と「未知の要因」により、それ自体が「一過性の異常」である「人口爆発」は終息するだろう。
 「2150年までに生物圏は無事、ホモ・サピエンスがはびこる以前の状態に戻り、人口は5億から10億のあいだに落ち着くにちがいない」。
 第4節・人類はなぜ技術をもてあますのか。
 「『人類』は存在しない。ただ、矛盾する欲求と幻想に衝き動かされ、とかく不確かな意志と判断に左右される人間がいるだけである」。
 「技術」を手に負えなくしている原因は国家が多数に分かれていることではなく、「技術」を実現する「知識」それ自体は無償であることだ。「大量殺戮」目的の「新種ウイルス」開発に「莫大な資金、大規模な設備、最先端の機材」は必要がない。
 ビル・ジョイ(B. Joy)の言う「知識が招来する大量破壊の危険」という情況の責任の一端は国家にあるが、つまるところは「誤った政治の結果」ではなくて「知識の普及」による。
 「技術の管理は強制できない」。「遺伝子操作」は「戦争」に使われ得る。「政府の目が届かない…生物兵器」を防ぎようがない。「クローン人間」技術は「人間の理性や感情に乏しいか、まったく欠落した兵士」をいくらでも増殖させ得る。
 「ユダヤ人大虐殺」は「鉄道と、電信と、毒ガス」があって可能だった。スターリン・毛沢東の「強制労働収容所」には「近代的な輸送、通信手段」が必要だった。
 「そもそも技術は人類の手に負えない」。テレビ、インターネット…、「新しく登場した技術はとうてい人の理解がおよばないところまで生活様式を変える」。
 「道徳の深化が科学知識の発展に歩調を合わせられなかったこと」を嘆いても、無意味だ。
 「手段に罪はない。その手段をもてあそぶ人間にこそ問題がある」。
 「技術の進歩はひとつだけ未解決の問題を置き去りにする。すなわち、人間の弱さである。
 悲しいかな、こればかりはどうする術もない。」
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 第1章②へと、つづける。

2068/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)③。

 政治思想・政治哲学研究者のジョン・グレイ(John Gray)は1948年生まれ。
 John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals は2002/2003年に刊行されている。原版は、54歳になる(なった)年だ。
 そして、2008年まではイギリスの大学教授(最後はロンドン大学)で、その年に引退するまでは講義や研究指導をしていたのだろう。
 それにしては、つまりそうした年齢や境遇からすれば、上記著書の内容は相当に驚くべきものだ。
 邦訳書に依拠すれば、巻末の最後の文章は、以下のとおり。一行ごとに改行する。
 「動物は、生きる目的を必要としない。
 ところが、人間は一種の動物でありながら、目的なしには生きられない。
 人生の目的は、ただ見ることだけだと考えたらいいではないか。
 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)、p.209。
 上の「見る」は、原文では see。
 最後の一文を直訳すると、<我々は、人生の目的について、たんに見ることだと、考えることはできないのか?>
 この「たんに見る」というのは、すでに「序」でも書かれているが、社会あるいは世界を「変革」しよう、「改善」しよう、「進歩」させよう、などと考える必要はない、あるいはそうしてはならない、ということを意味するだろうと思われる。
 静かに<見る>、<じっと黙想する>、それでよいではないか、と言いたいのだろう。
 こういう境地には、54歳くらいで、また現役の大学教授が、とくに「文科」系の研究者が、なかなかなれないのではないか。
 上に引用の文だけではなおも理解し難いようだが、脳科学者の茂木健一郎が標題を<生きて死ぬ私>とする書物を30歳代に刊行した、そのような心境に、政治・思想を扱う「文科」系人間でありながら、到達しているように見える。
 80歳を過ぎている日本の「知識人」らしき人物が、なおも<世俗感>・<現世感>丸出しの文章を雑誌に寄稿したり書物を出版しているのとは、大きく違っているだろう。
 もっとも、J・グレイには彼なりの<戦略>があったのかもしれず、そしてその意図どおりに、この著は種々の大きな<衝撃>を欧米の(少なくともイギリスの)「知的」世界に与えたらしい。
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 「序」は邦訳書で計6頁ほどしかなく、以下はこれまで紹介していない最後の部分を、ほとんど邦訳書に依らないで、抜粋的に「試訳」しておく。邦訳書ⅶ~ⅷ。
 「進歩という希望が幻想であるとすれば-つぎのように尋ねられるだろう-、我々はいかに生きるべきなのか?
 この疑問が前提にしているのは、世界を造り直す(remake)力を有していてのみ、人間は幸福に(well)生きることができる、ということだ。
 しかし、過去に生きたほとんどの人間はこれを信じ(believe)なかった。そして、大多数の人間は幸福(happy)に生きてきた。
 この疑問が前提にしているのはまた、人生の目的は行動だということだ。しかし、これは近現代(modern)の異端説だ。」
 プラトンは人間の最高の形態は「行動」だとしたが、同様の見方は「古代インド」にもあった。
 「人生の目的は世界を変革(change)することではない。世界を正しく見る(see rightly)ことだ」。//
 こうした考え方は「今日では破壊的な真実(subversive truth)」を示すものだ。「なぜならば、政治というものの空虚さをその意味に含んでいるからだ」。
 「優れた政治は卑劣であり当座凌ぎのものなので、21世紀の初めの世界には、失敗に終わったユートピアの瓦礫が山のように撒き散らされている。
 左翼は瀕死の状態にあり(moribund)、右翼がユートピア的空想の本拠になった。
 グローバルな共産主義のあとに続いたのは、グローバルな資本主義だった。。
 これら二つの未来像には、多くの共通するところがある。
 両者ともに醜怪で(hideous)、かつ幸いにして、荒唐無稽(chimerical)だ。」//
 「政治活動が救済(salvation)のための代用物になるに至っている。しかし、いかなる政策も、人間をその自然条件から救い上げる(deliver)ことはできない。
 いかに急進的であっても、政治的な諸方針はあくまで便宜的なものだ。-それらは、繰り返し出現する悪に対処するための穏健な方策にすぎない」。
 「人間は、世界を救済することができない。しかし、このことは絶望する理由にはならない。
 人間は、救済を必要としない。
 幸運にも(happily)、人間は決して、自分たちが造る世界に生きることはないだろう。
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 <わらの犬>の意味も含めて、別にこの書物の内容に論及したい。

2066/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)②。

 ジョン・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002/2003).
「序」のつづき。
 (1) ダーウィン・進化論(ガレリオ・地動説、ニュートン力学も?)がキリスト教世界・文化に対して与えた衝撃を実感として理解することはできない。
 ともあれ、J・グレイはダーウィニズムにこう言及しつつ、さらに、キリスト教→ヒューマニズムの歴史を語り、後者もまた「科学」ではなく「信仰」だと述べる。以下、邦訳書を参照しつつ、そのままには従っていない。
 ・本書は「新ダーウィニズムの思想(Neo-Darwinism orthodoxy)」が「人間という動物(human animal)に関する究極的な説明」だとはどこにも書いていない。支配的な「ヒューマニズムの世界観」を打破するために「戦略的」にダーウィニズムを使っているのだ。にもかかわらず、ヒューマニストたちは「進歩への信仰が今日に揺れ動いている」のを支えるためにダーウィンを用いている。しかしながら、彼が明らかにした世界には「進歩」はない。「真に自然主義の世界観は、世俗的な〔進歩という〕希望の余地を残していない」。
 ・19世紀初めに、Henri Saint-Simon とAuguste Comte が「人間中心教(Religion of Humanity)」を創始した。これが20世紀の「政治的宗教(political religion)」の原型となり、John Stuart Mill に強い影響を与え、「リベラリズムを今日の世俗的信条(secular creed)にした」。また、Karl Marx への影響を通じて「科学的社会主義」の形成を助けた。
 ・「ヒューマニズムは科学ではなく、宗教(religion)である。-人間はこれまでに生きてきたいずれよりも世界をより良く造ることができる、というキリスト教以降の信仰(faith)である。」
 (2) つぎにJ・グレイが言及するのは、ヒューマニズムという「進歩への信仰」のもう一つの淵源(source)としての「知」=「知識(knowledge)」だ。
 ・「科学では、知識の増大は蓄積していく。しかし、人間の生活全体は、蓄積していく活動ではない。ある一つの世代が獲得したものは、つぎの世代には失われるかもしれない。」
 ・「科学では、知識は純然たる善き(good)ものだ。しかし、倫理や政治では、知識は善であるとともに悪(bad)でもある。
 ・「進歩という観念が依拠するのは、知識の増大と種の進化は相伴っている、という信念(belief, 邦訳書では適切に「思い込み」)である」。
 ・「知識は、我々を自由にはしない。知識は我々を、これまでつねにそうだったような、あらゆる種類の愚行の餌食にしたままだ」。
 (3) このような「知識」論は、秋月瑛二の最近の関心を大きく刺激するところがある。
 「知識」は無条件に良いものではない。「知識の増大」=「進化」・「進歩」ではない。
 つまり「良い」必要な知識も「悪い」不要な知識もある。
 にもかかわらず、「知識」ないし「知」がほとんど無条件に良いものだと考えられているのは、いったい何故なのだろうか。
 「知識人」それ自体で<えらい>わけでは全くない。良質の「知識人」もいれば、悪辣で犯罪的な「知識人」もいる。
 にもかかわらず、「知識人」というだけで<立派な>人間だというイメージ・「思い込み」が生じているようであるのは、いったい何故なのだろうか。
 「知識」をほとんど対象とするのが、高校入学試験、大学入学試験、種々の国家試験類(公務員試験・司法試験等々)だ。これらに合格して特定の「大学」生等々の<資格>を得ること自体は、まだ善か悪か、<えらい>か否か、<立派>か否かを決するものでは全くない。
 にもかかわらず、「知識」の有無・多寡によって<全人格>までが決せられるようなイメージがある程度は相当に生じているようであるのは、いったい何故か。
 これは、<学歴>一般のほか<国家公務員最上級職>とか<弁護士>とかの資格の評価に関連する。
 「知」・「知識」の重視、これは少なくとも明治期日本以降には<伝統>になった、と思われる。
 日本国憲法もまた<リベラル・ヒューマニズム>の系列・流れの中にある。
 J・グレイによれば、憲法もまた一つの「宗教」・「信仰」あるいは「仮構」・「虚構」ではある。この点も、私にはよく分かる。
 そしてまた、<リベラル・ヒューマニズム>あるいは「近代啓蒙主義」は「知識」=「善」・「進歩(に役立つもの)」と理解したと考えられるが、これもまた「宗教」・「信仰」・「仮構」・「虚構」だろう。
 「知識」は生命体たる人間の、あるいは人間の脳内の一定部位や一定の仕組みが持つ、一定の側面にすぎない。
 「学歴」意識の虚妄と「学歴」意識の無惨・悲惨。
(つづく)
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2065/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)①。

 ジョン・グレイ(John Gray, 1948~)というイギリスの政治・社会思想家(・研究者)の文章を少し読み始めている。
 ジョン・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 この中の「ペーパーバック版序」は2003年に書かれているが、なかなかに興味深い、刺激的な内容を含んでいる。
 本文を読まない、「序言」・「後記」のみ読者の弊害に陥らないで、全体を読んでみたいものだ。しかし、興味深いのでここで論及する。
 原書は2002年刊行で、邦訳書の対象であるPaperback 版は2003年に出たようだ。原書の原題は、つぎのとおり。
 John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002/2003).
 原書の英語(とくに単語)も参照しつつ、「序」に言及する。なお、Paperback 版の元の原書には「Foreword〔序〕」はなかったようだ。
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 J・グレイがこの著で主張したいことは、上の「序」によると、簡単には、以下に対する反抗、あるいは以下のものの「否定」、「消極視」だ。
 すなわち、「リベラル・ヒューマニズム」、あるいはたんに「ヒューマニズム」、「人間中心主義」。
 この文章には出てきていない言葉・概念ではあるが、グレイの意味する「リベラル・ヒューマニズム」、「ヒューマニズム」、「人間中心主義」とは、<近代>あるいは<(近代)啓蒙主義>あるいは<近現代の「科学」主義>であるように思える。
 あるいは、彼が反抗?しているのは「近代進歩主義」または「進歩」という観念自体だ。
 冒頭に、「思想家の不用意な謬見」を「論破」するのが本書の趣意だと明言したあと、つぎのように書いている。原文を参照して、一部またはかなり、邦訳書の訳を変更する。
 ・「リベラル・ヒューマニズム(liberal-humanism)」はかつての「啓示宗教」に劣らず「広く一般に浸透」し、ヒューマニストたち(Humanists)は「理性的(rational)な世界観」を「標榜」している。
 ・しかし、「その核心をなす進歩信仰(belief in progress)」は、いかなる宗教よりもなお、「人間という動物(human animal)の真実」〔邦訳書では、「生き物である人間の本然」〕から遠く離れた「迷信(superstition)」である。
 これと同じ主旨が繰り返し、かつより詳細にまたは具体的に語られている。しばらく追ってみよう。原文を参照して、一部は邦訳書の訳を変更する。
 ・「科学」の分野は別として「進歩とはたんに神話(myth)にすぎない」と原書が主張したので一部の読者は激高し、「リベラルな社会への忠誠という中心的項目を誰も疑問視することができない」、「それなくしては、我々は絶望的だろう」と言った。しかし、彼らは「進歩的希望(progressive hope)」という「虫の食った旗印」に縋りついている。
 ・「宗教界の思想家たち」はもっと自由に考えている。一方で「世俗の信仰者たち(believers)」は、「時流の在来的知識にとらわれて、検証されていないドグマの捕囚になっている」〔これは一般の思想家・哲学者のこと〕。
 つぎに、最近にこの欄に「自由」する西尾幹二著とも関連させて論及した<自由意思>に、J・グレイは説き及ぶ。
 ・現在の「主流の世俗的世界観は、当今の科学正統派と敬虔な希望を混合したもの」だ。ダーウィンは人間は動物だとしたが、「ヒューマニストたち」は「他のどの動物とも違って」、「我々は我々が選択するように生きる自由がある」と説教する。
 ・しかし、「自由意思(free will)という観念は、科学に由来するものではない」。「自由意思」の起源は、彼らが揃って罵倒する宗教・「キリスト教信仰」にある。「人間は、自由意思を持つことによって他の動物いっさいと区別される、という信念は、キリスト教から継承したものである」。
 ・ダーウィンの進化論はインド、中国、アフリカで唱道されたならば、欧米でのような「論議の的」(scandal)にならなかっただろう。「キリスト教以降(post-Christian)の文化でのみ」、「科学的決定論」と「自分の生き方を選ぶ人間に特有の能力」とを調和させようとする「哲学者たち」の努力が見られた。「確信的ダーウィニズムが皮肉であるのは、哲学者たちが宗教に由来する人間性という見方を支持するために、それ〔ダーウィニズム〕を援用している、ということだ」。
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 まだ「序」の1/3も終わっておらず、つづける。
 最後の方に、グレイのこんな文章がある(邦訳書による)。一文ずつ改行する。
 「21世紀を迎えた世界は、…失敗に終わったユートピアの瓦礫の山である。
 左翼は息も絶えだえで、右翼がユートピア思想の本家となり、世界資本主義が世界共産主義に取って代わった。
 この二つの未来像には共通するところ少なくない。
 ともに醜怪この上なく、幸いにして、荒唐無稽である。
 欧米または<キリスト教(を継承した)諸国・社会>との違いもやはり関心を惹くが、日本にも当てはまるだろうという意味で「普遍的な」テーマが提示されているだろう。
 近代・啓蒙・近代「科学」・近代「思想」-これらと現代日本・日本人。
 ヒト・人間と「科学」・思想・宗教。
 J・グレイが合理主義・理性主義(またはヒューマニズム・リベラル)に対して懐疑的・批判的であるのは、日本での本来の「保守」におそらく近いだろう。
 しかし、おそらくはという推測になるのだが、J・グレイは、日本の「いわゆる保守派」とは異なる。
 人間中心ではなく、「自然との共生」とか「環境の保護」とかくらいは(持続可能な社会等とともに)、<容共・左翼>でも主張しているだろう。
 また、日本の「いわゆる保守派」も、人間は「自然の一部」だとか「自然」を畏怖してきた日本人等々とか叙述しているかもしれない。
 しかし、これまた全体を読まないでの推測になるが、J・グレイが主張したいことは、人間が「自然」の一部であることは当然で、かつ犬・猫等々の他の動物・生物と<本質的に>変わるところはない、それらと十分に共通性がある、ということだろうと思われる。 そして、そのことを十分に意識して思考し、議論しなければならない、ということだろう。
 この欄で比較的最近に、私の理解として<ヒト・人間の本性>(の認識・重視)という言葉を使うことがある。上がJ・グレイの主張したいことなのだとすると、かなり共通性がある。
 そして、考える。例えば、<日本精神>、<日本人のこころ>が日本人に自然に「継承」されているかのごとき見解・主張は、<ヒト・人間の本性>に反している。
 なぜならば、人間の生後の獲得形質は「遺伝」の対象にはならないのであって、日本人だから<日本精神>、<日本人のこころ>を受け継いでいる、というのは、人間の本性と学問的にも反する、反科学の「迷信」ごときものにすぎない。
 江崎道朗が6世紀の「保守自由主義」なるものが19世紀に「受け継がれた」とか叙述するのも、荒唐無稽な、日本人を含む<ヒト・人間の本性>に全く反する血迷いごとだ。
 せいぜい<こうあってほしい>という願望で、正確には、<政治的プロパガンダ>の虚言だ。
 J・グレイは「右翼がユートピア思想の本家となり…」と語るが、日本の「右翼」はまともな「ユートピア」像すら示すことができていない。
 ともあれ、さらに次回へ。
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