〇サピオ2/11・18号(小学館)。
 <昭和天皇と私たち日本人の幸福な日々>という特集は、一気に読了。<昭和>を回顧・懐古することが無意味だとは思わないが、<今上天皇>のもとでの<私たち日本人の日々>はどうなのか、という問いかけ・懐疑、ひいては現在の天皇・皇室についての問題提起も含まれているような気がして(深読みかもしれないが)、編集意図がよく分からず、多少は気持ちが悪い。
 西尾幹二月刊WiLL3月号(ワック)にまた何か書いているが(概読はしている-この欄に批判的感想を書くかもしれない)、現在の天皇・皇室問題の焦点は(懐古し、あるいは天皇制の本質について思い巡らすのも大切だが)、現皇太子妃殿下・皇太子ご夫妻の言動等にあるのではない。悠仁親王以外に、現皇太子・秋篠宮殿下らの次の世代に男子親王がいないことをどうするのか、将来の皇統の安定的継承こそが問題で、雅子妃の個人的考え方、それに関係する現皇太子殿下の言動等ではない。現皇太子殿下か秋篠宮殿下かといった類の議論は、天皇制度の維持という点から見れば所詮は小さな問題だろう。
 編集意図はよく分からないが、サピオの上記特集の個々の論考がつまらなかったわけでは全くない。
 斎藤吉久は、宮内庁内に「厳格な政教分離の考え」がはびこったこと、宮内庁における「祭祀軽視」の蔓延が、宮中祭祀簡略化論に繋がっている、という(p.34)。
 宮内庁官僚・職員も原則的には国家公務員法の適用をうける(公務員試験を通過してきた)公務員のはずで、そのような者たちは、天皇制度の伝統・歴史に関する適切な教育をほとんど全くしない<戦後民主主義教育>を受けてきたのだと思われる(反天皇・平等主義教育を受けてきた可能性もある)。
 <戦後進歩(左翼)主義>は、日本国憲法の<政教分離原則>に関する「進歩(左翼)」的憲法解釈を通じて、宮内庁官僚にすら影響を及ぼしているのだ。
 何度か書いたように、「宮中祭祀は皇室の私事」という<欺瞞>をいつまでも続けていくわけにはいかないのではないか。憲法解釈論としても、伝統・歴史の蓄積が付着しているはずの「世襲」「(象徴)天皇」制度の存在を現憲法が明確に肯定しているかぎりは。
 石原信雄によると、「昭和天皇大喪の礼」の際、内閣法制局が憲法上の政教分離原則を持ち出して「国事行為を神道儀式では行えない」と強く主張したため(宮内庁は古式に則った神道儀式を主張したが)、天皇家の(私的な)神道形式による「葬場殿の儀」と政府の(公的な)「大喪の礼」は連続して行ったものの、後者では神道形式を外すために「鳥居と大真榊」をとり除いた、という。そして、その除去を「わずか数分」の間に行うために、鳥居の「柱の中身をくりぬい」ていた、という(p.39。おそらくは重量を少なくして速やかに撤去できるように)。こんなこと、初めて知った。
 宮内庁よりも内閣法制局は日本国憲法の<政教分離原則>の「進歩(左翼)」的解釈をより強く採用しているわけだ。
 内閣法制局の官僚たちは奇妙だとは思わなかったのだろうか。いや当時も「進歩(左翼)」的解釈を採る憲法学者が多かったはずだから、彼ら公務員だけの責任ではない。
 歴史的に古代の昔から(小林よしのりは1300年という数字を前号で書いていたが、「天皇」制度の歴史は「天皇」という呼称がまだ使われていなかった(スメラノミコト?、オホキミ=大王?)時代も含めて実質的には1500年~1700年になるのではないか)<神道>形式の儀礼をしてきたのだとすると、そしてそのような歴史の付着した「世襲」「天皇」を現憲法もまた公的に承認しているのだとすると、日本国憲法の宗教関係条項は、そのことも考慮して、例えば天皇の「大喪」等(これらは憲法が国事行為の一つとして明記する「儀礼」なのではないか)には適用されない、という解釈が採用されるべきではないのか。
 相当に思いつき程度で書いているが、基本的には、上のような解釈は成り立ちうる、と考える。天皇の祖先とされる天照大御神を祭神とし、皇位と密接不可分の「三種の神器」の一つである「鏡」の本体(本物)が所在する神宮(伊勢神宮)等に対する(に関する)天皇の諸行為についても同様だ。
 あるいは、「宗教」関連行為であっても、憲法が禁じる「宗教的活動」(20条3項)ではない、と解釈してもよい。
 天照大御神を祭神とするのは、強いて<宗教>という語を使えば、その一つと一応はされている<神道>ではある。もともと神道を仏教やキリスト教と同列の<宗教>と性格づけてよいのか、という問題もあるが、今回は立ち入らない。
 小林よしのり「天皇論・第三章」。正月の皇居での所謂「一般参賀」が戦後の慣行であること、より正確には、昭和天皇が昭和20年に「皇居勤労奉仕団」の前に姿を現されたことがきっかけになって、昭和23年(1948年)に宮内庁が認めて公式に始まった、ということを初めて知った。一日5回でも多すぎるくらいではないか。今年は雅子妃殿下も全回同席されたのはよかった。
 〇井上清・天皇の戦争責任(岩波現代文庫・井上清史論集4、2004)を全部読むつもりはなく入手している。
 マルクス主義日本史学者・井上清(1913~2001、京都大学人文研教授・同名誉教授)による昭和天皇に「戦争責任」あり論と昭和天皇批判・罵倒が並んでいるようだ。
 <責任>というからには「戦争」は悪いこと、間違っていたことという前提の肯定が必要なはずだが、その点の論証はなく、おそらく、あの戦争=「悪」・「誤謬」が不動の明瞭な(論じるまでもない)前提になっているのだろう。家永三郎・戦争責任(岩波書店、1985)も同様だが、かりにあの戦争=「悪」・「誤謬」ではなかったとすれば、「戦争責任」とはいったい何の意味なのだろう。無意味な主題を論じていることになるのではないか。そのような可能性は、脳裡に一片も浮かばなかったのだろうが。
 江口圭一は上の井上著の中の主論文の「解説」の最後で、昭和天皇は「慈父のごとし」と称される「外見からはかけはなれた…実像」を持ち、「したたかでエゴイスティックそのもの」だった、と明記している(p.316)。
 上記のサピオの特集と比べると、同じ国の人、日本人が書いたとは思えないほどの較差がある。
 ところで、上記井上清著の「年譜」によると、井上清は1960年に「一カ月」中国に滞在し、1971年以降「毎年のごとく訪中」し、1997年に「中国社会科学院名誉博士」に、1998年に「北京大学名誉教授」になっている(この年に最後の訪中)。
 上の最後の二つの称号からして、井上清は、中華人民共和国(中国共産党)に対する貢献がよほど大きかったのだろう。
 さらについでに。店頭で手を取って見ただけだが、井上清・昭和史(下)(岩波新書、第一刷1966)はまだ版を重ねて販売されている。朝鮮戦争の項を見ると、なおも(当然かもしれないが)、朝鮮戦争は<アメリカが開始した>旨を記している。
 井上清は故人だが、岩波書店はまだ上のような記述の残る岩波新書を販売している。出版社としての良心はこの岩波書店にはない。そして、丸山真男の死後の1995-6年に<丸山真男集>を(もはや時代遅れなのに)刊行したのに似て、井上清の死後には同史論集を文庫化しているのだ(上の本は第4巻)。
 岩波は朝日新聞社とともに<左翼>政治団体であり、出版社レベルでは(朝日新聞社の出版担当部署とともに)今日の<左翼ファシズム>の根源・大元になっている。
 言い古されたことだろうが、岩波や朝日の<権威>が崩れないと、日本はあぶない。