Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第4節・民主主義革命におけるプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永続革命』③。
 1917年4月まで、レーニンは、第一の革命がただちに第二のそれへと発展するとは考えていなかった。彼は、『第一の段階』で社会民主主義政府が権力を握るというパルヴゥスの見方に異議を唱えた。
 彼は、1905年4月に、このような政府は長続きしない、と書いた。
 なぜなら、『人民の莫大な多数派が支える革命的独裁だけが永続的なものであり得るからだ。<中略>
 しかし、ロシアのプロレタリアートは、今のところは、ロシアの大衆のうちの少数派だ。』(+)
 (『社会民主党と臨時革命政府』、全集8巻p.291。〔=日本語版全集8巻289頁。〕) 
 ゆえに、社会民主党は、専政体制の打倒をその全体として利益とする農民と権力を分かち持つことを想定すべきだ。
 他方で、レーニンは、1905年革命の前に、プロレタリアートの独裁は自作農民の階級全体に対抗しそれを覆う独裁でなければならない、と書いた。
 このことは、プレハノフによる党綱領の第二草案に関する彼の<ノート>で、明確に表明されている。
 『「独裁」の観念は、外部からのプロレタリアートへの支持を積極的に承認することと両立し得ない。
 もしもプロレタリアートがその革命を達成する際に小ブルジョアジーが自分たちを支持すると本当に積極的に知っているならば、「独裁」を語るのは無意味だろう。
 我々が圧倒的な多数派によって完全に保証されるほどであれば、独裁なくしても立派にことを進めることができるだろうからだ。<中略>
 プロレタリアートの独裁の必要性を承認することは、ただプロレタリアートだけが真に革命的な階級だとの共産党宣言の命題と最も緊密にかつ分かち難く結びついている。』//
 我々が党の綱領の実践的な部分で、小生産者(例えば農民)に対して「好意」を示せば示すほど、綱領の理論的部分では、この信頼できない二つの顔をもつ社会的要員をそれだけ、我々の立場を微塵も損なうことなく「厳格に」、扱わなければならない。
 さて今や、我々は言う。もし貴君がこのような我々の立場を採用するならば、貴君はあらゆる種類の「好意」を期待できるだろう。
 しかし、そうでないならば、我々に腹を立てないで!
 我々は独裁をしながら、貴君に言うだろう。権力の行使が要求されているときに言葉を無駄にするのは無意味だ、と。』(+)
 (全集6巻p.51、p.53注。〔=日本語版全集6巻37頁、39-40頁注(1)。〕)//
 このような見方に沿って、レーニンは1906年に『農業問題綱領の改訂』で、つぎのように書いた。
 『農民の蜂起が勝利へと近づけば近づくほど、自作農民がプロレタリアートに反対する方向へと変化するのはそれだけ近づきそうだ、また、プロレタリアートが独立の組織をもつことが、それだけ多く必要になる。<中略>
 農村プロレタリアートは、完全な社会主義革命へと闘うべく、都市プロレタリアートとともに独自に組織化しなければならない。』(+)
 (全集10巻p.191。〔=日本語版全集10巻174頁。〕)
 したがって、綱領は、つぎのことを含んでいなければならない。
 『農民の成果を強固なものにし、民主主義の勝利から社会主義への直接のプロレタリアの闘争へと移るために運動がすることができ、またそうすべきつぎの一歩を、精確に明示すること。』(+)(同上p.192。〔=日本語版全集10巻174頁。〕)
 1906年4月の『統一大会』で、レーニンはこの見方から明確に、彼があるだろうと信じる西側でのプロレタリアートの蜂起がもしもないならば、農民の抵抗は革命をうち砕くだろうと、語った。//
 『ロシアの革命は、自らの努力で達成することができる。
 しかし、自分自身の強さによるのでは、その成果を保持して強固にすることはおそらくできない。
 西側で社会主義革命がないならば、そうすることができない。
 このような条件がなければ、復古は不可避だ。土地の市有化、国有化、分割のいずれを選択しようとも。それぞれのかつ全ての領有や所有の形態において、小土地所有者はつねに復古のための堡塁になるだろうから。
 民主主義革命が完全に勝利した後では、小土地所有者は不可避的にプロレタリアートに反対する方向に変わるだろう。そして、資本家、地主、金融ブルジョアジーその他のようなプロレタリアートと小土地所有者の共通の敵が放擲されるのが速ければ速いほど、それだけ早くそのように変わるだろう。
 我々の民主主義共和国は、西側の社会主義プロレタリアート以外には、予備軍を持たない。』(+)
 (全集10巻p.280〔=日本語版全集10巻270頁。〕//
 こうしたことは、スターリンがレーニン主義と永続革命理論の間には『根本的対立』があるとのちに語ったのが、いかに大きく彼が誇張していたかを、明らかに示している。
 スターリンはトロツキーに反対して、第一に、この理論は革命的勢力である農民に対する不信の意味を含んでいる、農民は一階級として社会主義革命でのプロレタリアートの敵になると示唆している、と主張した。
 第二に、トロツキーは一国における社会主義建設の可能性を疑問視し、西側での大転覆なくしてロシアでの成功を維持できるとは考えなかった、と彼は主張した。
 スターリンによると、この二つの点で、レーニンとトロツキーは最初から全体として対立していた。
 しかし実際は、レーニンは、1917年の前に、そして決して一人だけではなく、社会主義革命は言うまでもなくロシアでの民主主義革命ですら、西側の社会主義革命なくしては維持できないと考えていた。
 レーニンは、農村プロレタリアート、つまりその利益が彼によれば都市労働者と合致し、ゆえに社会主義革命を支持するだろう土地なき農民を組織する必要を強調した。
 しかし、1917年の前に、農民全体は『第二段階』ではプロレタリアートに反対する方向に変わるだろうと認識した。
 最後には、レーニンは、『第一段階』は社会主義政府をもたらさないが、『社会主義に向かう直接の階級闘争』を開始させる、と考えた。
 永続革命の理論は、『第一段階』がただちにプロレタリアートまたはその党による支配をもたらすという点でのみ、レーニンの見方に反していた。
 レーニンが農村地帯での階級闘争に関する戦術を基礎づけ、プロレタリアートと貧農の独裁という教理へと進んだのは、ようやくのちのことだった。レーニンは、プロレタリアートと全体としての農民層の間には埋められない懸隔があるという理論にもとづく政策に対抗すべく、その教理を認めざるを得なかった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
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 第4節終わり。第16章全体の「小括」へとつづく。