秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

水上勉

0231/文藝春秋の元編集者は「ウソ」を書いてはいないか。

 延吉実・司馬遼太郎とその時代/戦中篇同・-戦後篇(青弓社、2002、2003)という本がある。著者は戦後篇の奥付によると本名・藤田佳信、1950年生れ、早稲田大学社会科学部卒、藍野学院短期大学助教授、専攻・英米文学・比較文学。
 上のうち戦後篇p.27、p.138-9、p.202-226には、司馬遼太郎の「私事」が書かれている。最大の驚きは、司馬にはみどり夫人の前に婚姻関係にあった女性がいて、実子(男性)もいる、という事実の指摘だ。
 再読してみると、月刊誌・噂の真相1998年6月号で「…司馬遼太郎が歴史から抹殺した私生活の過去」とのタイトルで「暴露」されたというから(p.138)、<知る人ぞ知る>話なのかもしれない。だが、私は知らなかったし、司馬遼太郎全集も含めて、公式の?司馬の履歴には一切書かれていない。
 真相探索というミステリー的興味をそそらないわけではないが、一方で何故こんなに詮索するのかという気分も湧いてきて、読んで楽しいものではない。だが、延吉著に依ってもう少し細かく書くと、司馬の「年譜」には1959年1月に「…みどりと結婚」とあるが、1948年5月に産経新聞社(京都支局)に入社後、1949年(26歳になる年)に某女性(個人名の記載があるが省略)と結婚し左京区某地(同)に借家住まいし、男子(個人名は書かれていない)をもうけた後1952年に守口市に転居し、離婚した(p.204。司馬は大阪からずっと通勤だったとして京都居住の事実を語ったことはないという)。なお、その頃(1952年)大阪本社に転勤、1959年(36歳の年)に再婚、ということになる。
 延吉実の指摘をふまえて、短篇「白い歓喜天」も読んでみた。司馬遼太郎全集には登載されていないが、司馬遼太郎短篇全集第二巻(文藝春秋、2005)p.141以下に収載されている。なお、「白い歓喜天」を含む同名の短編集は1958年(司馬35歳の年)刊行だが、この小説は1948-49年頃(司馬25-26歳)の執筆らしい。
 そしてなるほど、この作品はたぶん、結婚経験がないと書けないものではないか、と私は感じた。結婚経験がなければ、「七年間も続いたあの退屈な結婚生活」とか「妻と自分の不幸が身のうちを腐らせてゆくように思えた」などの文を含む小説はなかったように私にも思える。但し、「白い歓喜天」が司馬の結婚生活そのままであったのではないことは勿論だろう。あくまで「小説」・「創作」なのだから。
 水上勉(1919-2004)は貧苦のために別れた最初の妻との間に子どもがいたことも隠してはいなかった。その子どもとのちに、最初は実子とは気づかないまま、つまり成人した窪島誠一郎とのちに出逢うという実話は、水上勉の人生そのものの如く感動的なものだった。だからといって司馬遼太郎を貶めるつもりは全くなく、彼は「私事」を知られたくなかった、それを厳格に終生貫いた(いや貫こうとした)のであり、そうした考え方を非難することは勿論できない。ましてや、司馬遼太郎の多数の小説の価値に影響があるわけでは全くない。
 ところで、前回言及した半藤一利・清張さんと司馬さん(文春文庫、2005)には、司馬の上のような「私事」には全く触れていない。元文藝春秋社編集者の和田宏・司馬遼太郎という人(文春新書、2004.10)も半藤著と同じく延吉著(2003.09)より後に刊行されているが、同じく論及はない。むしろ後者の和田の本が「はじめに」でこう書いているのが目を惹いた。
 「編集者に守秘義務があるとしたら、その作家にとってマイナスになるイメージを提示することだろう。それは男女関係であったり…さまざまであろうが、…私は司馬さんについてそのようなことはなにも知らない。というよりそんな噂も聞かない。…陰で声をひそめて話さなければならないことなど、少なくとも私は持たない」(p.5)。
 これを読んでやや奇異な感に打たれた。出版業界に生きた人が、半藤もそうだが、上に言及の雑誌・噂の真相の記事やすでに発刊されていた(タイトルに「司馬遼太郎」をずばり含む)延吉実の著書の存在を本当に全く知らなかったのだろうか
 かりにだが、雑誌「噂の真相」や「青弓社」の出版物程度なら多くの一般読者をゴマカせると考えていたとすれば、「大手」の文藝春秋社関係者の傲慢だとも思える。
 上に「かりにだが」と書いたが、おそらく、半藤や和田は<噂>があること、その<噂>は真実らしいことに気づいていたのではなかろうか(だが、たぶん、司馬本人の前で話題にしたりはしなかったのだろう)。だとすると、上の和田宏の文章は「ウソ」だと思われる。上のような話題の文章をわざわざ書いたために、「ウソ」をつかざるを得なくなったのだ。司馬遼太郎個人のことよりも、むしろこちらの方がはるかに気になる。
 社会的には些細なことかもしれないが、文藝春秋という出版社は好みであるにもかかわらず、元編集者の和田宏は信用できない。別の意味で信頼できない面が同じく同社の元編集者の半藤一利にあることは、前回に述べた。

0065/本多勝一は、三島由紀夫追悼集会の発起人たちに憤った。

 人が亡くなると、とくに何がしかの業績を残した人については、追悼集会・お別れの会が開かれることがある。そうした会の発起人たちは、故人のすべてを「讃え」、故人の全ての行動・言葉に「賛同」しているだろうか。いくら立派な人だったとしても、そういうことは通常はありえないのではなかろうか。
 1970年に三島由紀夫が自裁したのち、文学者・作家を中心に42名が発起人となって「三島由紀夫追悼集会」が開かれた。発起人代表は林房雄、発起人の中には倉橋由美子、桶谷繁雄、水上勉らもいた。
 この追悼集会発起人全員の名を明記した上で、これらの人々に対して、1.「日本が朝鮮や中国などを侵略したこと」、2.「日本の侵略軍が…一般民衆を虐殺したこと」、3.「それらすべてが、最終的には『天皇』の名のもとに行われたこと」、これらの「事実に対して、あなた方はどう思っているのだろうか」との問いを発した人物がいた。
 この問いを発したのは、元朝日新聞の、本多勝一氏だ。同・殺される側の論理(朝日文庫、1982)p.298以下に収載されている。
 上の3点と三島由紀夫の「思想」との関係もさることながら、追悼集会の発起人として名を連ねただけでかかる質問を受けるとは、発起人たちには訳がわからなかったのではないか。それが、常識的な、普通の感情だろう。追悼集会の発起人になったことが三島の「思想」・言動の全てを肯定し賛同することになるとは通常は思えないからだ。
 本多勝一氏は「名を口にするのも不快な一小説家」、「あのハラキリ小説家」と言うくらいだから、余程三島由紀夫が「憎い」か「嫌い」だったのだろう。だが、死後に追悼集会が開かれることに、そして42名の発起人がいたことに、なぜこんなに憤ったのだろう。少なくとも私には、理解不能だ。神経が違うとでもしか言いようがない。
 朝日新聞にはかつてこんな人がいて、記者として中国・南京等に出向いて、聞いたことをそのまま新聞記事にし、本にまとめたりした。また、こんな人を尊敬して朝日新聞に入った、本田雅和という、今は現役の記者も生まれた。

-0026/坊主憎けりゃ袈裟-。三島由紀夫が嫌いなら追悼発起人まで。

 坊主憎けりゃ袈裟まで、という語がある。祀られている者(の中の少なくとも一部の人々)は憎まれるべきだという理由で参拝者を非難するのは、この語が表現するのとよく似た現象ではないか。
 人が亡くなるととくに何がしかの業績を残した人については追悼集会・お別れの会が開かれることがあるが、そうした会の発起人たちは、故人のすべてを「讃え」、故人の全ての行動・言葉に「賛同」しているだろうか。いくら立派な人だったとしても、そういうことは通常はありえないと考えられる。
 1970年に三島由紀夫が自裁したのち、文学者・作家を中心に42名が発起人となって「三島由紀夫追悼集会」が開かれた。発起人代表は林房雄。発起人の中には倉橋由美子、桶谷繁雄、水上勉らがいた。唐突に読者は感じるだろうが、この追悼集会発起人全員の名を明記した上でこれらの人々に対して、「日本が朝鮮や中国などを侵略したこと」、「日本の侵略軍が…一般民衆を虐殺したこと」、「それらすべてが、最終的には『天皇』の名のもとに行われたこと」、これらの「事実に対して、あなた方はどう思っているのだろうか」との問いを発した人物がいた。
 上の3点と三島由紀夫の「思想」との関係もさることながら、追悼集会の発起人として名を連ねただけでかかる質問を受けるとは、発起人たちには訳がわからなかったのではないか。それが、常識的な、普通の感情だろう。追悼集会の発起人になったことが三島の「思想」・言動の全てを肯定し賛同することになるとはとても思えないからだ。
 上の問いを発したのは本多勝一(同・殺される側の論理(1982、朝日文庫)p.298-)だ。
 「名を口にするのも不快な一小説家」、「あのハラキリ小説家」と言うくらいだから余程三島由紀夫が「憎い」か「嫌い」なのだろう。だが、死後に追悼集会が開かれることに、そして42名の発起人がいたことに、なぜこんなに憤るのだろう。少なくとも私には理解不能だ。神経が違うとでもしか言いようがない。
 ところで、勝谷某が昔某女性歌手のさよならコンサートへ行ったと書いているが、10歳ほど年上の私も同じ会場にいた可能性がある。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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