秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

民衆政治

0357/西部邁・正論10月号を読む-つづき。

 前回の西部邁論文に関する私なりの整理・引用のつづき。
 〇マスメディアは3つのM、すなわち各「瞬間」(モメント)で目立つ「気分」(ムード)の「運動」(ムーブメント)の大衆心理における形態を見抜いているものだが、本来の「説得」の政治では「物事の根本前提を国民の根本的な歴史的感情」から導出すべきところ、その導出作業は3つのMに任せることはできない困難なもので、「説得」の際には「結論を導く過程を、状況に照らし合わせしつつ、論理化」するという厄介事をする必要がある。しかし、「大衆」はそんな困難や厄介には「聞く耳持たぬと構える」。p.54-55.
 〇したがって、「政治家や情報屋」は前提・論理のうち「最も刺激的で最も流通しやすい」側面のみを取り上げる。彼ら「専門人」は大衆の「代表者」ではなく「代理人」に成り下がっており、「民衆の生活が直面している多面多層の厄介事にけっして触れることがない」。「みかけの多弁」にかかわらず「失語症」に陥っている。p.55
 〇上の如き「群盲象を撫でる」専門人は、「民衆政治(=デモクラシー)につきものの民衆扇動(=デマゴギー)の走狗」になる。p.55
 〇民衆の欲望の真偽、善悪、美醜を区別する基準は、「歴史の良識」としての「伝統の精神」、「良き慣習」としての「道徳の体系」を現下の状況に適用するために必要な「説得における会話法」の中にあるだろうが、その「言葉における歴史の叡智」を破壊してきたのが、「個人主義派と社会主義派の両左翼」、一口でいうと「近代主義」だ。p.56
 〇民主主義はアリストクラシー=「最優等者の政治」では全くなく、カキストクラシー=「最劣等者の政治」になる可能性が大きい、と認めておく必要がある。そう認めることのできる民衆による政治=デモクラシーこそ「唯一健全な政治」かもしれず、「安倍晋三氏は、ひょっとしてアリストスでありすぎたのではないか」。p.56-57.
 〇目指されるべき価値規範は、「自由」と「秩序」間の平衡としての「活力」、「平等」と「格差」間の平衡としての「公正」だろう。この活力と公正の具体的意味はしかし、「歴史的英知」が指示するものなので、自らの「国柄が何か」を理解できないと、政治の価値規範を論じることはできない。p.57.
 〇「歴史的英知」は過去の種々の状況での試行錯誤の蓄えなので、現在への具体化に際しては状況適合的な「説得と決断」が必要であり、「議論の作法」・「言語活動のルール」が不可欠となる。この作法・ルールに照らすと、「博愛」理想と「競合」現実の間の平衡としての「節度」と、「合理」と「懐疑」の間の平衡としての「常識」が必要だと判る。
 〇「活力・公正・節度・常識」こそ、「大人の政治の要諦」だ。これらの総合点を見ると、「安倍晋三…はたぶん最高位にある」。「この相対的に勝れた資質を見抜く能力や真剣さ」、いわんや「この人物を激励したり育成したりする余裕」は「今のマスメディア関係者にも選挙民にも、みじんもなさそうだ」。p.58
 〇「何と醜い政治であることか」。国内状況については、「格差それ自体」よりも、「家族・学校、地域・職場」、「歴史・自然」といった「国柄」にまつわる「共同体的なるもの」の「破壊が進んでいることを正視」すべきだ。p.58.
 とりあえず、ここで終えておこう。
 西部邁の本は少ししか読んだことがない。ただし、<保守主義>がこの論文にも出ていると思うし、何よりも言葉・語彙の豊富さ(それは複合的・多面的な知識と思索の結果として得られるものなのだろう)に感心する。
 全面的に支持しているわけではなく、理解できないところもある。しかし、私が言いたいことをズバリと書いてくれている(と思える)部分が明確に存在する。

0356/「民主主義」の喜劇。西部邁・正論10月号。

 民意を尊重すること、これが民主主義の要諦だ。
 こういう文章があったとする。妥当なようだが、どこかおかしくないだろうか。すなわち、一般的理解によれば、民意を尊重することが民主主義の意味のはずなのであり、上の文は、民主主義は民主主義だ、民意を尊重すべきだから民意を尊重すべきだ、というアホらしいことを言っているのにすぎないのではないか。
 むろん民意の尊重の具体的仕方についての議論はありうる。だが、民意を尊重すべきことを民主主義でもって基礎づけたところで、上記の如く循環論証または同義反復に陥るだけではないか。
 多少とも「民主政治」に関係するマスメディアの中に、上のようなことを平然と書ける人間がいるとすれば、驚天動地だ。即刻クビになっても不思議ではない。
 というようなことを枕詞にして、月刊正論10月号(産経〕の西部邁「民主喜劇の大舞台と化した日本列島」から、その「民主主義」に関係する、私の納得できる叙述をメモ書き的にまとめておこう。
 〇デモクラシー=民衆政治とは「多数参加の多数決制」が客観的に存在していることをいうが、<戦後民主主義>はこれを民衆の「主権主義」という主観的当為にまで高めた。かかる指摘をすべき言論勢力等も、「民主主義の前に深々と跪いている」。p.46.
 〇七月参院選は、かの「マドンナ選挙」をはるかに超えて、「大衆喜劇ぶりを底知れず俗悪化」した。p.50.
 〇かつて自己責任論と「小さな政府」論でもって自民党を破壊せんとした小沢一郎の民主党が「生活が第一」と掲げたのは「度外れに醜く映った」が、かつての小沢の論を「忘れることのできるのは、痴呆化したデーモス(民衆)、つまりオクロス(衆愚)のみ」だろう。p.51.
 〇「朝日新聞などの左翼系メディア」が安倍政権のスキャンダル暴露に「大活躍したのは周知の事実」だが、(テレビ)メディアは「醜聞で騒ぐのが商売柄」なので、「左翼流に便乗しただけのこと」だ。p.52.
 〇安倍政権の憲法改正等の主張に「真っ向から抵抗せず」に「スキャンダル暴露の作戦」に出たのは、「アメリカ製の揺り籠のなかで相も変わらず泣きわめいていたいから」だ。左翼を含む日本人の大半は、憲法論に見られるように、アメリカへの「諾否」同時存在という「精神の病気にとらわれて」いる。p.52.
 〇平成デモクラシーの過程で、「大衆〔=マス〕の進撃」と「公衆の絶滅」という一事が明瞭になった。「国柄の保守」を貫き「国柄に公心の拠り所を見出そうとする」「公衆」の「正気」の「ほとんど最後の一片に至るまでもが吹き飛ばされ」、「大衆の勝利」が生じ、それを祝うべく「大衆の民主喜劇」が盛大に演じられている。大衆は公衆であることを忌避しており、「社会のあらゆる部署の権力が大衆の代理人によって掌握された」。p.53.
 〇「大衆喜劇」の舞台のマスメディアは第四どころか「第一権力」で、「大衆の弄ぶ流行の気分」=「世論」に立法・行政・司法が「追随」している。第一権力は議会や首相官邸にではなく「お茶の間ワイドショー」に帰属している。だからこそ、「政治家も学者も弁護士も、三流テレビ芸人の膝下に、陸続と馳せ参じている」。p.54.
 〇第一権力は「匿名の独裁者」としての「人気」=ポピュラリティだ。もともと「民衆の欲望を無視する」政治は長続きせず、「政治の根底は時代を超えて民衆制」なのだが、その「民衆制が独裁者や寡頭者たちを生み出すだけ」のことで、今や「人気者というお化けめいた者が、民衆の茶の間のど真ん中で、大衆政治のどたばた劇」を一日中取り仕切っている。p.54.
 以上。今回はここまでとする。 

0347/「民衆政治」と「民主主義」-西部邁。

 前回に、デモクラシーにつき、<「民主」という訳語も、<主>の意味は元来はなかったと思われるので不適切だろう>と書いた。この旨を、西部邁「嗚呼、許すまじ『民爆』を-従僕の平和と大衆の民主」正論12月号p.63(産経新聞社)はとっくに書いていた。
 西部邁いわく-「デモクラシーを(民衆の政治ではなく)民『主』主義と訳したことの非が咎められなければなりません。民衆政治そのものは、民衆という名の『多数者』の『参加と決定』という一個の政治方式をしか意味しません」。
 さらにいわく-「いいにくいことをあっさりいうと、その多数者がおおむね阿呆ならば、愚かしい議論と過てる決定がなされるということです」。
 さらに<民主>主義にも論及が進む。西部によれば、<民「主」と称して政治に「主権」概念が持ち込まれて、「民意」が「神意」も同然と見なされた。元来の政治学は古代アテネの「民衆政治」批判だったが、「民主主義」礼賛は「現代の金科玉条」になってしまった。「民衆政治」に「民主主義」の衣装が着せられ、自然の成り行きとして、「民意」が誰も逆らってはならぬ「神意」となった。>
 西部邁の議論をしばらくメモしてみようか。

0346/民衆政治のどたばた喜劇-西部邁・正論10月号論文

 一ヶ月以上前に読んだはずだが、西部邁「民主喜劇の大舞台と化した日本列島」(正論10月号p.48以下)において、憂色は濃い。
 同趣旨の文章が、たぶん次の3つある。
 ①「平成デモクラシーの紊乱は、…民衆という名の政治観客が自分らの醜行に茫然自失するに至るまでは、止むことがないのである」(p.49)。
 ②「社会のあらゆる部署の権力が大衆の代理人によって掌握されたという意味での『高度』な大衆社会は、大衆が自分らの無能無策に嫌気がさして沈黙に入るまでは出口なしなのだと、諦めておかなければならない」(p.53)。
 ③「大衆にできるのは『有能な人材をすべて引きずり下ろしたあとで、”人材がいなくなった”と嘆いてみせる』ことくらいなのだ。大衆の演出し享楽する『残酷な喜劇』には終わりがない。そうなのだと察知する者が増えること、それだけが、大衆喜劇としての民主主義に衰弱死をもたらしてくれる唯一の可能性である」(p.58)。
 そして、①「民衆という名の政治観客が自分らの醜行に茫然自失する」こと、②「大衆が自分らの無能無策に嫌気がさして沈黙に入る」ことはあるのだろうか、という想いに囚われざるをえない。ある程度はレトリックなのだろうが、③「大衆喜劇としての民主主義」が「衰弱死」することなど、未来永劫ありえないのではないか、と思わざるをえない。
 だとすれば、私の人生などいつ果てても不思議ではないとしても、日本人は末永く、③「大衆喜劇としての民主主義」と、多少は工夫を凝らして、かつ「民主主義」を神聖化することなく、付き合っていかざるをえないのではないか。
 なお、この西部邁の文章を読んでも、デモクラシーとは「民衆政治」と訳す、又は理解するのが適切のようだ。
 長谷川三千子・民主主義とは何なのか(文春新書)にも書かれていたと思う(確認の手間を省く)。イズムではないのだから<-主義>ではなく<民主制>又は<民主政>の方がよいのだろうが、さらには「民主」という語も、<主>の意味は元来はなかったと思われるので不適切だろう。もっとも、概念は語源・原意にとらわれる必要はなく、日本には、「民主主義」という、デモクラシー(democracy、Demokratie)とは異なる、日本産の概念・言葉がある、というべきか。
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