秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

民主党

1485/日本の保守-櫻井よしこの<危険性>②。

 ○ 国家基本問題研究所は公益財団法人だが、国又は公共団体の研究所ではないので、前回に「任意、私的」団体と秋月が記したことは何ら誤っていない。
 さて、この研究所なるものの役員たちは、あるいは櫻井よしこに好感を抱いてる日本の保守的な人々は、櫻井よしこの「政治感覚」はまっとうで正確な、又は鋭いものだと思っているのだろうか。そうは私は、全く感じていない。
 ○ 最近に櫻井よしこは産経新聞4/03付の「美しき勁き国へ」で、「小池百合子知事の姿が菅直人元首相とつい重なってしまう。豊洲移転の政治利用は許されない」との見出しの小論を書き、「左翼」菅直人と結びつけてまで、小池現東京都知事に対する警戒感を明らかにしている。
 また櫻井よしこは、たしか週刊新潮では「保護主義」を批判的にコメントしていたが、週刊ダイヤモンド2017年1月26日号には、D・トランプ米大統領について、希望・期待を述べるよりは、皮肉と警戒、懸念を優先した文章を載せた。
 さらに、櫻井は1月21日に「日本の進路と誇りある国づくり」という高尚な?テーマで講演して、ほとんどをトランプに関する話に終始させている(ネット上のBLOGSの情報による)。種々の見方はあるだろうが、そこで語られているのは、トランプに対する誹謗中傷だとも言える。
 小池百合子やトランプについての櫻井よしこの言及内容をここで詳しく紹介したり、議論するつもりはない。
 しかし、小池百合子に対する冷たさは、石原慎太郎を守りたい観のある一部「保守」系雑誌(面倒だから特定を省略する)や、小池ではなく別の候補者を支援した自民党中央や東京都連の側に立っているとの印象がある。このような立脚点または姿勢自体が適切なのか、「政治的」偏向はないかを疑わせると私は感じる。(なお、産経新聞も、かつての大阪の橋下徹に向けた冷たさや批判が適切だったかが問われる。)
 また、トランプについては、ではヒラリー・クリントンが新大統領になった方がよかったのか、という質問を、当然ながら投げつけたい。
 櫻井よしこが週刊ダイヤモンドで依拠している、Wallstreet Jounal のデイビッド・サッターの適切さの程度についてや、またどのようなソースによってトランプに関する上の諸文章・講演はなされているのか、について興味・関心がある。
 例えばだが、アメリカの「保守」又は「反左翼」論者として有名らしい(詳しくは知らない)アン・コールター(Ann Coulter)は、昨2016年8月に、<私はトランプを信じる>と題する書物を刊行している。
 また彼女は、邦訳書『リベラルたちの背信』(草思社、2004/原書名等省略)を書いてアメリカの「リベラル」派を批判しているが、日本語版の表紙に写真のある人物は、F・D・ルーズベルト、トルーマン、J・F・ケネディ、ジョンソン、カーターおよびビル・クリントンで、全て民主党出身の大統領だ。所持しているが読んでいない原書の表紙にはないが、批判の対象がこれらの民主党大統領でもあることを示しているだろう。
 また、読みかけたところだが、B・オバマを「左翼」と明記して、<共産主義者>を側近に任命した、と書いている本もある。
 もう一度問おう。あらためて遡って確認してはみるが、民主党・オバマの後継者の、ヒラリー・クリントンの方がよかったのか?
 もちろん、日本人と日本国家のための議論だから、アメリカ国内の民主党・共和党の対立にかかわる議論と同じに論じられないことは承知している。
 しかし、櫻井よしこは、本当に<保守>なのか、健全な<保守>なのか。トランプに対する憂慮・懸念だけ語るのは、アメリカ国民に対してもかなり失礼だろう。
 思い出したが、「アメリカのメディアによると」と簡単に櫻井が述べていた下りがあった。
 <アメリカのメディア>とは何なのか。日本と同等に、あるいはそれ以上に、明確な国論の対立がアメリカにあること、メディアにもあること、を知らなければならない。あるいは、櫻井よしこが接するような大?メディアだけが、アメリカの評論界や国民の意見を代表しているのではないことを知らなければならない。
 ○ 以上のような批判的コメントをしたくなるのも、櫻井よしこには、秋月瑛二に言わせれば、政治判断を誤った<前科>があるからだ。
 かつてのこの欄にすでに何回も書いた。詳細を繰り返しはしない。
 櫻井よしこは、2009年の日本の民主党・鳩山由紀夫内閣の成立前後に、つまり2009年8月末の総選挙前後に、民主党の危険性についてほとんど警戒感を表明せず、同政権誕生後には屋山太郎の言を借りて<安保・外交政策に懸念はないようだ>とも語り、当時の自民党総裁・谷垣禎一を「リベラル」派と称して自民党にも期待できないとしつつ、民主党政権成立の責任の多くを自民党の責任にし(この部分は少しは当たっているだろうが、言論界の櫻井よしこの責任ももちろんある)、翌年になってようやく民主党政権を「左翼」だと言い始めた。
 こんな人物の政治感覚など、信頼することができない。秋月でも、2009年8月に、鳩山由紀夫の<東アジア共同体>構想等を批判していたのだ[2009年の8/28、9/18]。
 ついでに言えば、櫻井よしこに影響を与えたとみられる、上に名前を出した屋山太郎は、<官僚内閣制からの脱皮>を主張して民主党政権成立を歓迎した人物であり、渡辺喜美が「みんなの党」を結成した際の記者会見では渡辺の隣に座っていた人物だ。
 屋山は、官僚主導内閣批判・行政改革を最優先したことによって、より重要な政治判断を誤った、と断言できる。
 さらには、櫻井よしこはかつて、道路公団<民営化>に反対して竹中平蔵〔23:50訂正-猪瀬直樹〕らと対立していたが、この問題を櫻井は、どのように総括しているのか。
 もう一つ挙げよう。
 櫻井よしこは、今すぐには根拠文献を探し出せないが、かつて<国民総背番号制>とか言われた住民基本台帳法等の制定・改正に反対運動を行っていた一人だ。のちに遅れて、マイナンバー制度と称される法改正等が導入された。
 櫻井よしこは、この問題について、どのように自らの立場を総括しているのか。
 ○ こうした過去の例から見ても、櫻井よしこの発言・文章を信頼してはいけない。この人に従っていると、トンデモない方向へと連れていかれる可能性・危険性がある。
 同様の指摘とどう思うかの質問を、国家基本問題研究所の役員「先生方」に対しても、しておこう。

1419/D・トランプとR・パイプス。

 D・トランプはキューバ・カストロについて、「自国民を抑圧した独裁者」だと断定し、キューバは「全体主義」国だと適切にも言い放っている。
 トランプはアメリカの共和党員として、同じく共和党のR・パイプスの<共産主義>に関する書物を読んでおり、反共産主義はトランプにとっての常識または皮膚感覚になっているのではないか。選挙戦中に中国やソ連について何と言ったかしらないが、種々の外交的駆け引きを別にすれば、中国やロシアに<甘い>ことはないだろう。
 R・パイプスの共産主義やロシア革命等にかんする本には、知識人、とりわけ「左翼知識人」に対する皮肉っぽい言辞がしばしば見られる。
 西側の知識人はこの点はあまり認めようとはしないが…、とか、知識人の多くは強調しているが、実際にはこうだった、とかの文章が見られる。例えば、彼はかなり一般的な歴史叙述と違って、<10月革命>後の<干渉戦争>なるものの実際の圧力の大きさをさほどのものとは見ていない。すでにこの欄で用いた表現を再び用いると、ボルシェヴィキは「干渉戦争」とではなく、ロシア国民との間の「内戦」をこそ戦っていた。それは、ドイツとの講和後も、一次大戦終了後も続いた。
 トランプの勝利はアメリカの<左翼的>知識人とメディア関係者の敗北で、ナショナリストの勝利だ。
 反共産主義のナショナリスト。なかなかけっこうではないか。
 イギリスのEU離脱を予想しないでおいて一斉に批判する(あるいは懸念する)、クリントンの勝利を疑わずトランプが当選するはずはないと予想する、そういう日本のメディアのいいかげんさ、ほとんど一致して同じことをいうという<全体主義的気味の悪さ>を感じていたので、トランプ当選は驚きではなく、精神衛生によかった。
 偽善・タテマエの議論は排して、各国が反共産主義(自由主義経済)とナショナリズムで切磋琢磨すればよい。
 日本人はいかほど意識しているのか。R・パイプスによれば、中国も北朝鮮もベトナムも、そしてキューバも、「共産主義」国だ。
 アメリカや欧州ではとくに1989/91年以降に<ソ連・社会主義>が解体した歴史的意味を真剣に考えて、議論した。
 日本では、真摯な議論はまるでなかった、と断じたい。日本共産党が゚1994年にソ連は社会主義国でなかったと新しく「規定」するまでの間、日本の政治は、日本の<反共・保守>論壇は、いったい何をしていたのか。
 1990年代の前半、政治改革とやらに集中し細川護熙政権を生み、自社さ・村山連立政権を生み、1995年の戦後50年村山談話を生み出した。
 あの時代-まだ20年あまり前だが-、<反共・保守>は結束して、日本共産党および「共産主義」を徹底的に潰しておくべきだったのだ。
 政治家の中での最大の責任者は、小沢一郎。その後に幹事長として民主党政権を誕生させたことも含めて、小沢一郎こそが、日本の政治を攪乱し、適切な方向に向かわせなかった最大の犯罪者だろう。
 今や小沢は、<左翼・容共>の政治家に堕している。
 1989/91年を、おそらくは公になっていない「権力」闘争・内部議論を経て、日本共産党は生き延びてしまった。日本の政治家たちは、そして<保守>の論者たちはいったいこの当時に何をしていたのかと、厳しく糾弾したい思いだ。

1285/民主党政権・朝日新聞には甘く自民党には厳しい「左翼」法学者たち。

 古い話題だが、現在と関係がないとは思われない。
 2010.09.07にいわゆる尖閣諸島中国漁船衝突事件が起きた。そのときのビデオが存在することが話題になっていたが政府は公開せず、同年11.01に国会の予算委員会関係委員30名に対してのみ7分弱に短く編集したものが視聴用に供された。その後11.04、<sengoku38>によって計44分のビデオがネット上にアップロードされた。
 これを受け、11.06のA新聞社説は「こんな不正常な形で一般の目にさらされたこと」は残念だ、「政府または国会の判断で、もっと早く一般公開すべきだった」等と書いた。同日のB新聞社説は「最大の問題は」、政権が、国民の「知る権利」を無視して「衝突事件のビデオ映像を一部の国会議員だけに、しかも編集済みのわずか6分50秒の映像しか公開しなかった点にある」等と書いた。
 一方、同日のC新聞の<尖閣ビデオ流出―冷徹、慎重に対処せよ>と題する社説はつぎのように書いて公開の点では政府側を擁護し、むしろ情報管理に問題があるとした。
  「政府の情報管理は、たががはずれているのではないか」。「流出したビデオを単なる捜査資料と考えるのは誤りだ。その取り扱いは、日中外交や内政の行方を左右しかねない高度に政治的な案件である。/それが政府の意に反し、誰でも容易に視聴できる形でネットに流れたことには、驚くほかない」。
 「もとより政府が持つ情報は国民共有の財産であり、できる限り公開されるべきものである。政府が隠しておきたい情報もネットを通じて世界中に暴露されることが相次ぐ時代でもある。/ただ、外交や防衛、事件捜査など特定分野では、当面秘匿することがやむをえない情報がある」。「政府は漏洩ルートを徹底解明し、再発防止のため情報管理の態勢を早急に立て直さなければいけない」。
 「流出により、もはやビデオを非公開にしておく意味はないとして、全面公開を求める声が強まる気配もある」。/「しかし、政府の意思としてビデオを公開することは、意に反する流出とはまったく異なる意味合いを帯びる。短絡的な判断は慎まなければならない」。「ビデオの扱いは、外交上の得失を冷徹に吟味し、慎重に判断すべきだ」。
 慎重に対処・判断せよという主張の仕方が、ビデオを積極的に公開しなくてもよい、という意味であることはほとんど明らかだった。その論拠としてこの社説は「日中外交や内政の行方」に影響を与えないかねないことも挙げつつ、より一般的には、「政府が持つ情報は…できる限り公開されるべき」だが、「外交や防衛、事件捜査など特定分野では、当面秘匿することがやむをえない情報がある」、ということを述べていた。
 さて、時は移って2013年秋以降に特定秘密保護法案に反対する運動が起きた。反対の理由としてつねに挙げら競れた理由の一つは、<国民の知る権利>を著しく制限する、というものだった。
 そうだとすれば、この法案に反対し、その後の同法の成立を苦々しく思っている者たちは、2010年秋の上記のC新聞の社説にはそのままでは納得できず、むしろ批判的に読んだ(はずだ)と思われる。
 そのような者たちとして、すでにこの欄に当時に転載したのだが、つぎのような大学教授たち等がいる。大学名だけ残し学部等以下は省略して再掲しておく。
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 秘密保護法の制定に反対する憲法・メディア法研究者の声明 2013.10.11
 よびかけ人/愛敬浩二(名古屋大学)、青井未帆(学習院大学)、石村善治(福岡大)、市川正人(立命館大学)、今関源成(早稲田大学)、上田勝美(龍谷大学)、右崎正博(獨協大学)、浦田賢治(早稲田大学)、浦田一郎(明治大学)、浦部法穂(神戸大学)、奥平康弘(憲法研究者)、小沢隆一(東京慈恵会医科大学)、阪口正二郎(一橋大学授)、清水雅彦(日本体育大学)、杉原泰雄(一橋大学)、田島泰彦(上智大学)、服部孝章(立教大学)、水島朝穂(早稲田大学)、本秀紀(名古屋大学)、森英樹(名古屋大学)、山内敏弘(一橋大学)、吉田栄司(関西大学)、渡辺治(一橋大学)、和田進(神戸大学)
 賛同者/青木宏治(関東学院大学)、浅川千尋(天理大学)、梓澤和幸(山梨学院大学・弁護士)、足立英郎(大阪電気通信大学)、荒牧重人(山梨学院大学)、飯島滋明(名古屋学院大学)、池端忠司(神奈川大学)、井口秀作(愛媛大学)、石川裕一郎(聖学院大学)、石塚迅(山梨大学)、石村修(専修大学)、井田洋子(長崎大学)、伊藤雅康(札幌学院大学)、稲正樹(国際基督教大学)、井端正幸(沖縄国際大学)、浮田哲(羽衣国際大学)、植野妙実子(中央大学)、植松健一(立命館大学)、植村勝慶(國學院大學)、江原勝行(岩手大学)、榎透(専修大学)、榎澤幸広(名古屋学院大学)、大石泰彦(青山学院大学)、大久保史郎(立命館大学)、太田一男(酪農学園大学)、大津浩(成城大学)、大塚一美(山梨学院大学等)、大藤紀子(獨協大学)、大野友也(鹿児島大学)、岡田健一郎(高知大学)、岡田信弘(北海道大学)、緒方章宏(日本体育大学)、奥田喜道(跡見学園女子大学)、奥野恒久(龍谷大学)、小栗実(鹿児島大学)、柏崎敏義(東京理科大学)、加藤一彦(東京経済大学)、金澤孝(早稲田大学)、金子匡良(神奈川大学)、上脇博之(神戸学院大学)、彼谷環(富山国際大学)、河合正雄(弘前大学)、河上暁弘(広島市立大学)、川岸令和(早稲田大学)、菊地洋(岩手大学)、北川善英(横浜国立大学)、木下智史(関西大学)、君島東彦(立命館大学)、清田雄治(愛知教育大学)、倉田原志(立命館大学)、古関彰一(獨協大学)、越路正巳(大東文化大学)、小竹聡(拓殖大学)、後藤登(大阪学院大学)、小林武(沖縄大学)、小林直樹(東京大学)、小松浩(立命館大学)、笹川紀勝(国際基督教大学)、佐々木弘通(東北大学)、笹沼弘志(静岡大学)、佐藤潤一(大阪産業大学)、佐藤信行(中央大学)、澤野義一(大阪経済法科大学)、志田陽子(武蔵野美術大学)、清水睦(中央大学)、城野一憲(早稲田大学)、鈴木眞澄(龍谷大学)、隅野隆徳(専修大学)、芹沢斉(青山学院大学)、高作正博(関西大学)、高橋利安(広島修道大学)、高橋洋(愛知学院大学)、高見勝利(上智大学)、高良鉄美(琉球大学)、田北康成(立教大学)、竹森正孝、多田一路(立命館大学)、只野雅人(一橋大学)、館田晶子(専修大学)、田中祥貴(信州大学)、塚田哲之(神戸学院大学)、寺川史朗(龍谷大学)、戸波江二(早稲田大学)、内藤光博(専修大学)、永井憲一(法政大学)、中川律(宮崎大学)、中里見博(徳島大学)、中島茂樹(立命館大学)、永田秀樹(関西学院大学教授)、仲地博(沖縄大学教授)、中村睦男(北海道大学)、長峯信彦(愛知大学法学部教授)、永山茂樹(東海大学教授)、成澤孝人(信州大学)、成嶋隆(獨協大学)、西原博史(早稲田大学)、丹羽徹(大阪経済法科大学)、根本博愛(四国学院大学)、根森健(新潟大学)、野中俊彦(法政大学)、濵口晶子(龍谷大学)、韓永學(北海学園大学)、樋口陽一(憲法研究者)、廣田全男(横浜市立大学)、深瀬忠一(北海道大学)、福島敏明(神戸学院大学)、福島力洋(関西大学)、藤野美都子(福島県立医科大学)、船木正文(大東文化大学)、古川純(専修大学)、前原清隆(日本福祉大学)、松田浩(成城大学)、松原幸恵(山口大学)、丸山重威(前関東学院大学)、宮井清暢(富山大学)、三宅裕一郎(三重短期大学)、三輪隆(埼玉大学)、村田尚紀(関西大学)、元山健(龍谷大学)、諸根貞夫(龍谷大学)、森正(名古屋市立大学)、山崎英壽(都留文科大学)、山元一(慶応義塾大学)、横田耕一(九州大学)、横田力(都留文科大学)、吉田稔(姫路獨協大学)、横山宏章(北九州市立大学)、吉田善明(明治大学)、脇田吉隆(神戸学院大学)、渡辺賢(大阪市立大学)、渡辺洋(神戸学院大学)
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 これら多くの法学者たち等に、暖簾に腕押しだろう日本共産党員である者や樋口陽一等々を除いて、真面目に尋ねたいものだ。
 2010年の秋に、尖閣衝突事件に関する情報の国民への積極的な開示を求めたのかどうか。かりに上のように<声明>は出さなくとも、各人において政府における情報開示の消極的姿勢を批判する旨を書いたり語ったりしたのか?。そうしたことをしなかったとすれば、なぜ、自民党等提出の特定秘密保護法案には「国民の知る権利」等を持ち出して反対することができたのか?。
 言うまでもなく(?)、上記のC新聞は読売(A)でも産経(B)でもなく、朝日新聞。当時は民主党・菅直人内閣だった。
 政権が民主党か自民党(中心)か、内閣首班が菅直人か安倍晋三か、これらによって<国民の知る権利>に関する具体的判断も「外交や防衛、事件捜査など特定分野」では国益・公共的利益の方を優先させざるをえないのかどうかの具体的判断も異なるというのであれば、それはいったい何故か。答えられないようであれば、貴方たちは「学問の自由」を享受できるだけの<良心>を持っているのか?
 このような問いかけは、集団的自衛権行使容認(閣議決定等)に反対する声明に参加している憲法学者等に対しても続けていきたい。

1260/朝日新聞12/15夕刊「素粒子」の錯乱等。

 朝日新聞12/15夕刊のコラム「素粒子」はつぎのように書く。
 1.「信を問われても耳を貸さない半数近い人々。得られた民意の薄い地盤に、建てられる国家像の不釣り合いな重さ」。
 衆議院議員選挙における安倍政権・与党の<圧勝>を投票率の低さから見ての「得られた民意の薄い」等々と述べて揶揄し、本当に信任されたわけではないぞ、と言いたいわけだ。
 投票率の低さをもたらした原因の一つは、この選挙には「大義がない」と早々に断言した朝日新聞やそれに近いメディアにもあるのではないか。「大義がない」選挙であれば、投票しなくてもよい、と考えてしまう有権者が生じても不思議ではない。
 もともと、解散・総選挙は、与党の多数議席を減らし、あわよくば半数以下にさせたい野党が要求するはずのものであり、朝日新聞のような、反安倍・反自民党のメディアが2012年総選挙の結果を変えるために主張しても不思議ではないものだった。にもかかわらず、せっかくの総選挙の機会を「大義がない」と評してしまったのだから、投票率の減少や与野党の議席占有率がほとんど変わらなかったことの責任の一端は、朝日新聞自体にもあったことを自覚すべきだろう。安倍首相は朝日の「大義がない」という反応を見て<勝った>と思った、と某評論家がテレビで語っていたが、さもありなん、という気がする。まして、この時期に解散・総選挙をしてよいかとうかを争点にしようとか、総選挙には700億円かかるといった朝日新聞等の報道姿勢こそが、奇妙なものだった。
 もっとも、上に述べた皮肉・批判を、<狂った>朝日新聞のコラムや論説の執筆者たちは理解できないかもしれない。
 2.「意思がはっきり浮かんだ沖縄」。
 沖縄県の4小選挙区では自民党候補が敗北したことを<喜んで>上のように述べているのだが、これには笑って(嗤って)しまった。
 同じ一面にある今回総選挙の投票率によると、沖縄県のそれは52.36%で、全国平均の52.66%よりも0.3%低い。後者から沖縄県を除外すれば、もっと低くなる。
 この数字を見ると、沖縄県での「得られた民意」もまた「薄い地盤」に支えられたものではないか。にもかかわらず、全国平均よりも低い投票率の沖縄では「意思がはっきり浮かんだ」と評するのは、いったいどういう感覚のゆえなのだろう。
 自分たち=朝日新聞にとっての好ましくない結果は「得られた民意の薄い」と論定し、好ましい結果が出た沖縄については「意思がはっきり浮かんだ」と書く。この神経はまっとうなものではなく、<狂って>いる。
 朝日新聞がダブル・スタンダードをもった、<ご都合主義>者の集まりであることはよく知られている。12/15夕刊の「素粒子」もまた、そのことをあらためて明らかにしている。
 もつとも、上に述べた皮肉・批判を、<狂った>朝日新聞のコラムや論説の執筆者たちは理解できないかもしれない。
 朝日新聞12/15の朝刊「社説」は、つぎのように主張している。
 総選挙の結果によって安倍政権は「決して『何でもできる』力を得たことにはならない。憲法に基づく民主主義は、選挙の勝利によって生まれた政権に全権を委任するものではない」。
 これ自体は異議を挿ませないものかもしれないが、しかし、問いたい。2009年8月末総選挙における民主党勝利=政権交代必至の結果を受けて、朝日新聞「社説」は、民主党政権に<白紙委任をしたわけではない>旨を書いたのか?
 朝日新聞はダブル・スタンダードをもった、<ご都合主義>者の集まりであり、それは事実(ファクト)よりも価値(スタンス)を優先する報道機関まがいの政治団体であることによって生じている。朝日新聞が何と釈明しようと、この本質を変えることはないだろう。 

1230/特定秘密保護法反対の朝日新聞社説10-11月のいくつか。

 朝日新聞は特定秘密保護法の成立まで、ほとんど毎日のように法案に反対する社説を掲載し続け、同法案の問題点等を示唆・指摘する、いったい何事が起きたかと思わせるような「狂った」紙面づくりをしてきた。
 衆院通過後の朝日11/27社説は「国の安全が重要なのは間違いないが、知る権利の基盤があってこそ民主主義が成り立つことへの理解が、全く欠けている」とほざいている。この新聞はそもそも、はたして「国民の知る権利」に奉仕してきたのか?
 必要な情報をきちんと報道しないどころか、種々の「捏造」記事を書いて、日本の国家と国民を欺し、名誉も傷つけてきた。<従軍慰安婦>問題のニセ記事もそうだし、教科書の<近隣諸国条項>誕生のきっかけとなった、<侵略→進出書換え>という捏造報道もそうだった。2005年には本田雅和らが<NHKへの政治家の圧力>報道問題を起こした。尖閣・中国船衝突事件ではビデオを隠す政府側を擁護したことは先日に触れた。
 朝日11/12社説は「何が秘密かの判断を事実上、官僚の手に委ねるのが、法案の特徴だ。そこに恣意的な判断の入り込む余地はないか」と、奇妙なことをほざいている。第一次的には行政「官僚」が判断しないで、いったい誰が、どの機関がそれをするのか? 国会か、裁判所か、それとも朝日新聞社か。首相・内閣の指揮監督・調整をうけつつ関係行政機関の長が補助機関たる「官僚たち」の専門的知見を参照しつつ指定せざるをえないものと思われる。また、「恣意的な判断」についていえば、法律が行政権・行政機関に何らかの「権限」を授権する場合に、その権限の「恣意的」行使あるいは濫用のおそれはつねにあることで、この法律に限ったことではない。
 実質的に行政官僚が判断に相当に支えられつつ政治家でもある担当大臣等が「規制」権限を行使することとしている法律はおそらく千本以上ある。朝日新聞は、上の主張を貫くならば、そうしたすべての法律に反対すべきだ。幼稚なことは書かない方がよい。
 朝日11/26社説は地方公聴会での、「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の情報が適切に公開」されなかった問題を指摘した意見を法案と関係があると擁護している。だが、この問題は、この社説のいうような、「危急の時にあっても行政機関は情報を公開せず、住民の被曝につながった」ということではないだろう。
 「SPEEDIの情報」の「公開」とは何を意味しているのか。朝日新聞が擁護し応援した民主党政権が、政府が<知り得たはずの情報を有効に利用(活用)できなかったことにこそ問題があったのであり、法案とはやはり無関係だったと考えられる。公開・非公開、秘密にするか否かではなく、政府内部で「非公開」でも「秘密」でもなかった情報を民主党政権が適切に利用できなかった、というのというのが問題の本質だっただろう。朝日社説は民主党政権の「責任」につながるような論点であることを回避し、強引に一般国民との関係の問題にスリカエている。
 朝日新聞がまともな新聞ではないことは、今次の報道ぶりでもよく分かる。結局のところ、あれこれの改正・改善がなされたとしても、いわゆる四分野、①防衛、②外交、③スパイ等の「特定有害活動」の防止、④テロ防止、について「特定秘密」を設ける法律は許さない、いかに個々の論点・問題点を指摘して、それらが解明または改善されれば問題がなくなったとしても賛成するつもりは全くない、というのが朝日新聞の最初からの立場だったと思われる。
 国会上程時の10/26朝日社説は「特定秘密保護―この法案に反対する」という見出しになっている。それ以降、報道機関ではなく、政治的運動団体として、その機関紙を毎日(地域によっては毎朝と毎夕)政治ビラのごとく配布してきたわけだ。朝日新聞(会社・記者)はおそらく、自分たちが<スパイ等の「特定有害活動」>という「反日」活動ができにくくなることを本音では怖れているのだろう。
 「反日」と共産主義に反対する政治家たちは、もっと勇気をもって、堂々と朝日新聞と対決し、同新聞を批判してもらいたい。

1227/「政治結社」朝日新聞に「国民の知る権利」を語る資格はない。

 一 特定秘密保護法成立。それにしても、逐一言及しないが、朝日新聞の騒ぎ方、反対の仕方はすごかった。「捏造に次ぐ捏造」がほとんどだったのではないか。秘密指定は行政が勝手に、などと批判していたが、では誰が指定するのか。戦前の治安維持法を想起させるというような記事か意見紹介もあったが、批判の対象を別のものに作り替えておいて批判しやすくするのは、「左翼」メディアには常套の、しかし卑劣な報道の仕方に他ならない。
 この数ヶ月、朝日新聞がこの法案に反対の記事等で紙面を埋めていたのは「狂って」いたかのごとくであり、かつ実質的には政治団体の機関紙だから当然ではあるが、この法案を支持する国民の声・意見をほとんど無視したという点で、じつは「国民の知る権利」を充足させないものだった。
 国会の議席数からして成立するだろうことは容易に予想できた。しかし、朝日新聞の意図は、あわよくばとは思いつつも、結局は安倍内閣に打撃を与えること、そして安倍内閣への支持率を減少させること(そして、次期衆院選挙・参院選挙の結果によって安倍内閣の継続を許さないこと)にあったと思われる。特定秘密保護法案に対する法的な・理屈の上での批判ではなく、相変わらず、<戦争準備>とか<戦前の再来>とかを基調とする紙面作りによって読者国民を欺き、反安倍ムードを醸成することにあったかと思える。
 本日報道されたNHKの1000人余をベースとする世論調査によると、安倍内閣支持率は10%下がり、不支持率は10%上がったとか。あの、朝日新聞の無茶苦茶な「反」ムードを煽る「捏造に次ぐ捏造」報道は、この数字を見るとかなり効いたようで、アホらしくもある。安倍晋三首相は「反省」の言葉も述べていたが、<マスコミの一部は…>という堂々とした批判をしてもよかっただろう。朝日新聞らの報道ぶりやデモに怯んだのか、与党・自民党の閣僚や議員にも朝日新聞らに対する反論をするのにやや消極的な面があったような印象ももつ。
 こんなことでは、いかなる手順によるにせよ、憲法改正(の国民投票)はとてもできない。今回すでに山田洋次や吉永小百合らの「左翼・映画人」が反対声明を出していたが、本番?の憲法改正(とくに現九条二項の削除と「国防軍」の設置)では今回以上に激しい<反対>運動が起こる(日本共産党や朝日新聞社が中心として起こす)ことは間違いない。心ある政治家・国会議員たちは、周到な<左翼・マスメディア>対策を(もっと)用意しておくべきだろう。
 二 朝日新聞は「国民の知る権利」や表現の自由・集会の自由を持ち出して<物言えば唇寒き時代の到来>とかの批判もしていたようだが、安倍内閣を批判することを目的とするレトリックにすぎない。何ら真剣な検討を必要としないものだ。
 朝日新聞が「国民の知る権利」を擁護・尊重する側につねには立たない<ご都合主義>の新聞であることは、以下のことでも明らかだ。
 2010年秋のいわゆる尖閣・中国船衝突事件の衝突の際のVTRは、当時においてかなり多くの海上保安官が観ていたようだが、今次の秘密保護法の「特定秘密」には当たらないと政府は答弁している。当時も、警察・検察当局は公務員法上の「職務上知り得た秘密」漏洩罪で逮捕せず、また起訴しなかった。
 しかし、当時の民主党内閣・仙谷由人官房長官はVTRを公にした一色正春を「犯罪者」扱いし、一色の気持ちは分かるが政府・上級機関の方針にはやはり従うべきだとの世論をある程度は作り出した。そして、一色は懲戒停職1年の行政的制裁をうけ、-この処分にもっと抵抗していてよかったのではないかと思うが-一色は依願退職した(おそらくはそのように余儀なくされた)。
 さて、「国民の権利」を充足させたのは一色正春であり、「中国を刺激したくないという無用な配慮から、一般への公開に後ろ向きだった」(読売新聞2010.11.06社説)のは当時の民主党政権だったのは明らかだと思われる。
 しかるにこの当時、朝日新聞はいったい何と言っていたか。2010.11.06朝日新聞社説はつぎのように書いた(一部)。
 「流出したビデオを単なる捜査資料と考えるのは誤りだ。その取り扱いは、日中外交や内政の行方を左右しかねない高度に政治的な案件である。/それが政府の意に反し、誰でも容易に視聴できる形でネットに流れたことには、驚くほかない。ビデオは先日、短く編集されたものが国会に提出され、一部の与野党議員にのみ公開されたが、未編集の部分を含めて一般公開を求める強い意見が、野党や国民の間にはある。/仮に非公開の方針に批判的な捜査機関の何者かが流出させたのだとしたら、政府や国会の意思に反する行為であり、許されない。/もとより政府が持つ情報は国民共有の財産であり、できる限り公開されるべきものである。政府が隠しておきたい情報もネットを通じて世界中に暴露されることが相次ぐ時代でもある。/ただ、外交や防衛、事件捜査など特定分野では、当面秘匿することがやむをえない情報がある。警視庁などの国際テロ関連の内部文書が流出したばかりだ。政府は漏洩ルートを徹底解明し、再発防止のため情報管理の態勢を早急に立て直さなければいけない。/流出により、もはやビデオを非公開にしておく意味はないとして、全面公開を求める声が強まる気配もある。/しかし、政府の意思としてビデオを公開することは、意に反する流出とはまったく異なる意味合いを帯びる。短絡的な判断は慎まなければならない」。
 この朝日新聞社説は「短絡的な判断は慎まなければならない」との説教を垂れ、「もとより政府が持つ情報は国民共有の財産であり、できる限り公開されるべきものである」と言いつつも、「外交や防衛、事件捜査など特定分野では、当面秘匿することがやむをえない情報がある」と書いて、民主党内閣の方針を擁護し、政府の「非公開の方針に批判的な」者が「流出させたのだとしたら、政府や国会の意思に反する行為であり、許されない」と、VTR公開者・情報流出者を批判したのだ。
 かかる当時の朝日新聞の主張は、今次の特定秘密保護法案に対する態度と首尾一貫しているか。「外交や防衛…など特定分野」には「当面秘匿することがやむをえない情報がある」という主張を、ここでいう情報は今次の「特定秘密」よりも広いと解されるが、最近の朝日新聞は述べていただろうか。「政府の意に反し、誰でも容易に視聴できる形でネットに流れたことには、驚くほかない」と上では書いていたのだが、このような「政府の意に反し」た情報の取材・報道が困難になる、不可能になる、今年の秋は狂ったかのごとく騒いでいたのではなかったか。
 別に驚きははしないが、2010年秋には「国民の権利」よりも「政府の意」の方を優先させていたことは明らかだ。この「ご都合主義」はいったい何だろう。政権が民主党にあるか安倍・自民党等にあるかによって使い分けられている、と理解する他はない。
 「国民の権利」も表現・集会の自由も朝日新聞にとっては主張のための「道具」にすぎず、政治状況・政権政党の違いによって適当に異なって使い分けられているのだ。
 以上の理解および批判に朝日新聞の社説執筆者等は反論できるか? <安倍批判(・攻撃そして退陣へ)>を社是とする「政治結社」の朝日新聞にできるはずがない。

1226/月刊正論・桑原聡編集長等に対する批判的コメント一覧。

 桑原聡が月刊正論編集長になって半年も経っていないとき、民主党政権下の月刊正論2011年3月号で、桑原はこう書いていた。-「かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」。

 ということは現在の自民党も「多くを期待できない」のか。桑原聡という人は「政治感覚」がどこかおかしかったように感じる。
 上のことを以下で記した。

 ①2011.04.06

 「月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは。」

 ほかに、月刊正論の編集方針等について書いたものに以下がある。存外にたくさん、非生産的なことに時間を費やしてきた想いが生じ、あまり楽しくはないが。再度同旨のことを繰り返すのはやめにし、リストアップにとどめておくことにする。

 ②2012.04.06 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言1。」

 ③2012.04.09 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言2。」 

 ③2012.04.10 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言3。」

 ④2012.04.11 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言4。」 

 ⑤2012.04.13 「『B層』エセ哲学者・適菜収を重用する月刊正論(産経)。」

 ⑥2012.04.15  「『保守』は橋下徹に『喝采を浴びせ』たか?」

 ⑦2012.05.17  「月刊正論の愚-石原慎太郎を支持し、片や石原が支持する橋下徹を批判する。」

 ⑧2012.06.06 「月刊正論編集部の異常-監督・コ-チではなく『選手』としても登場する等。」

 ⑨2012.08.06 「憲法改正にむけて橋下徹は大切にしておくべきだ。」

 ⑩2012.08.21 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?①」

 ⑪2012.08.29 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?②」

 ⑫2012.09.03 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?③」

 ⑬2013.09.08 「適菜収が『大阪のアレ』と書くのを許す月刊正論(産経新聞社)」

 ⑭2013.10.04 「月刊正論(産経)・桑原聡は適菜収のいったい何を評価しているのか。」

 ⑮2013.10.13 「錯乱した適菜収は自民+維新による憲法改正に反対を明言し、『護憲』を主張する。」

1205/中西輝政・賢国への道(2013)の「保保二大政党制」論。

 中西輝政の主張について、8月上旬に、この欄であいまいに次のように書いていた。

 8/06-「残念ながら数ヶ月前に読んだためか文献を確認できないが、中西輝政もまた、<リベラル系>をなお含んでいる自民党に比べて日本維新の会は<保守性>が高いという旨を書き、上記の遠藤浩一のごとく、とくに憲法改正に向けての自民党と日本維新の会の協力・連携を期待する旨をこの数カ月以内にどこかで書いていた」。

 8/10-「中西輝政の主張はたんなる両党の連携等というよりも、遠藤浩一の今年最初の<保守合同>論でもない、両党による<二大保守政党>成立への展望だったように思い出してきた。その場合、維新の会を自民党よりも<右>または<より保守的>と位置づけていたような気がする」。

 どの雑誌上だったかと気になり続けていたのだが、原文を見つけた。雑誌ではなく、単著だった。すなわち、中西輝政・賢国への道-もう愚かではいられない(致知出版社、2013)の第五章だった。

 昨年末総選挙後・参院選前に執筆されているこの著で中西は、日本の直面する三大危機は①経済・財政問題、②外交・安全保障問題、③政治のリーダーシップにあるとし、この③に関する第五章で、うろ覚えで記した上記のようなことを書いている。但し、必ずしも正確ではないようなので、あらためて関連部分を紹介しておく。

 章の下の第一節にあたるものの見出しを「保保二大政党制で一枚岩の態勢を作る」とし(p.166)、次のように言う。
 ・「民主党か自民党かという選択は間違」い。「民主党はとんでもない左翼政党」。

 ・「求めるべきは保保二大政党制」。現在の自民党は「保守といっても、ほとんど中道リベラル政党」。「もう一つ、日本の歴史と伝統文化に沿った国家軸を持つ本格保守政党が必要」(p.169-)。

 ここで自民党以外の「保守」政党とは石原慎太郎・橋下徹代表の日本維新の会が想定されているように感じられた。そのように読めなくもない。だが、必ずしもそうでもなさそうだ。
 安倍政権の当面の課題はともかくも<自民党参院選挙勝利>で、安倍首相が①「身近な敵を黙らせる」、②「中国の挑発に乗らない」ことにより参院選に勝利できるかに「日本の未来はかかっている」(p.200)という別の議論の中で、参院選前の靖国参拝や河野・村山談話見直しがなくとも、「保守層」は参院選自民党勝利まではじっと耐えるべきだ、ということを強調している(とくにp.195-6)。
 まさに<戦略的>な主張をしているわけだが、上の①「身近な敵を黙らせる」に関連して、次のように言う。
 ・公明党は「根本的な国家観が違い」、いつ離れるか分からない。
 ・「『維新』と連立」すればとの意見もあろうが、「維新」は「まだ海のものとも山のものとも分かりません」。内部のベテラン議員に「自民党内をかき回される可能性」もある。

 ・自民党内の「反安倍陣営」の結成に警戒が必要(p.193-4)。

 以上からすると、日本維新の会に高い評価を与え、強く期待しているわけでもなさそうだ。
 はて、中西輝政の真意は何なのだろう。

 中西の安倍晋三に対する期待はきわめて高いことを前提にすると、現在の自民党と日本維新の会を中心とする勢力による「保保二大政党制」ではなく、自民党内の安倍晋三らの「保守派」と維新の会や他党の中にいる「保守派」が合体して現在の自民党ではない「日本の歴史と伝統文化に沿った国家軸を持つ本格保守政党」を作り、現在の自民党にもいる「中道リベラル」系(かつ反共)の者たちによる<その他の保守>政党との「保保二大政党制」を展望しているのだろうか。一種の、大きな<政界再編>だ。

 だが、中長期的にはともかく、自民党が近い将来に分裂する可能性は少なく、安倍晋三らが自民党から出て他グループと連携または合同する可能性も少ないだろう。安倍晋三は、相対的に多数の国会議員を擁する自民党の総裁のままでいた方がよい、と考えられる。こちらの方が戦略的にはベターだと思われる。

 そうだとすると、自民党を「ほとんど中道リベラル政党」と見なし、もう一つ「本格保守政党」が必要だとすることの意味はよく分からなくなる。

 今年の1月に刊行された書物の中の主張なので、自民党が7月参院選にいちおう勝利した後であれこれと吟味しても大きな意味はないかもしれない。しかし、将来的には現実化するまたは現実化させる必要のある論点になるのかもしれない。

 さて、追記になるが、中西輝政は「保守」の人々は自民党の参院選勝利までは安倍内閣か「保守」的行動・措置を執らなくとも我慢をすべし、と強調し、「本当の安倍政治が始まるのは参院選のあとなのです」(p.200)と言う。
 最近にこの欄に記したこととの関係でいうと、橋下徹慰安婦発言について、支持・同調できる部分もある、と安倍首相でなくとも自民党幹部が発言していたとすれば自民党は現実に得たような「勝利」を獲得できなかったのだろうか、同じことだが、橋下徹発言には正しい部分もあると自民党幹部が発言していたとしても、民主党に対する不信は前年と同様に激しいものがあったから、自民党は実際と同様に「勝利」していたのではないか、とも思われる。

 この点はもはや歴史のイフに属するかもしれず、これ以上は立ち入らないことにしよう。問題はこれからだ、

 中西輝政は述べた、「本当の安倍政治が始まるのは参院選のあと」だ、と。参院選後すでに、短い国会と夏休みが終わり、東京五輪招致問題も決着した。

 中西はさらに予測する-「参院選に勝てば、…『戦後レジームからの脱却』を改めて掲げて、前政権でやり残したことを次々と実現していくはずです。歴史問題にも真正面から取り組んでいくでしょう。…靖国参拝もするでしょう。それから憲法改正にも手をつけ始めるはずです」(p.200)。

 参議院では自民党は2/3超の議席を持たず、非改選組を含めれば1/2にも達していない。そのような状況で、どのようにして「憲法改正にも手をつけ始める」のかはむつかしい。

 しかし、ともあれ、中西輝政の言うように安倍首相や自民党中心内閣が「前進」していくことを期待するほかはない。 

1203/日本共産党ちょうちん記事一面の産経新聞は<保守>派の新聞か?

 〇月刊WiLL10月号(ワック)で金美齢が言及しているので(p.235)、確認してみると、産経新聞8/05の記事に以下がある。ウェブ上では紙面構成が分からないが、金美齢によると、これが当日朝刊の「一面トップ」だったらしい。

 タイトルは「『時代は共産」本当? ネット戦略、若返り奏功」で、日本共産党をもってきている。批判的にか? いやいや、そうではなく、産経新聞らしさはどこにあるのか、と感じる。

 本文は「共産党が俄然、活気づいている。7月の参院選では12年ぶりに選挙区で議席を獲得し、総崩れの状態の野党で唯一気を吐いた」から始まる。そして「自民、公明はイヤで民主もコリゴリ。日本維新の会もダメ。こうなりゃ共産に入れるしかない-。こんな心理が有権者に働いた可能性がある」で終えている。

 「保守」とは私の理解では、まず「反共・反共産主義」・「反コミュニズム」だ。そういう観点からすると「保守」派新聞は、日本共産党に対して、批判的・警戒的な見方をする、客観的事実もふまえた記事を載せる必要がある。参議院選挙の分析の一つのつもりかもしれないが、上の記事は誇張すれば、日本共産党の<ちょうちん記事>だ。

 参議院選挙の分析としても間違っている。「総崩れの状態の野党で唯一気を吐いた」と評価しているのは、朝日新聞、毎日新聞らと何ら異なるところはないようだ。本当にそうか?

 〇今年7月の参院議員選挙での、①獲得議席数は、日本共産党8だが、日本維新の会も8、みんなの党もまた8だった。あとの二つがもっと多い議席獲得の予想もあっがゆえに、また日本共産党が近年はあらゆる選挙を通じて低減傾向を示していただめに、当初の予想に反して意外に日本共産党が健闘したという印象はあるが、客観的な数字は、日本維新の会、みんなの党、日本共産党は同じだ。

 ②非改選を含む公示前議席数数との当選者数+非改選者数を比べてみると、日本共産党は6→11と確かに増やしたが、維新の会は3→9で、増加数は共産党の5を上回る6だ。みんなの党も13→18で共産党と同じく5を増やした。
 いったいどこを見て、産経新聞記者(高木桂一・楠城泰介の署名あり)、日本共産党が「総崩れの状態の野党で唯一気を吐いた」と言えるのか。とても正常な判断能力をもつマスコミ人間とは思えない。

 「総崩れ」した野党は民主党(86→59、新規は17)、生活が第一(8→2、新規は0)、みどり(4→0)、社民党(4→3)等であり、「野党」すべてではない。

 〇反日本共産党、反コミュニズムの意識がないか弱いテレビ局の中には「躍進」した日本共産党に着目して、志井委員長や党本部を紹介する番組中の一コーナーを作ったものもあった。産経新聞の感覚は、そのようなテレビ局と何ら異ならないようだ。

 繰り返しておく。増加数では日本維新の会の方が上。現在の議席数はみんなの党18に対して日本共産党は11。明らかにみんなの党の方が上だ(日本維新の会は元来今の数が少ないことがあり、9)。

 またくり返す、高木桂一、楠城泰介よ、日本共産党が「総崩れの状態の野党で唯一気を吐いた」とは不真実の報道、捏造報道ではないか

 〇日本共産党も、志井和夫をはじめ、「勝利」した、と総括したらしい。これもバカな話だ。

 両院の一つにすぎないことは別としても、参議院の総定員242名中の11(改選に限ると総数121名のうち8)を獲得した程度で、いったいどこが「勝利」なのか、総定員の5%弱を獲得して本当に喜んでいるとすれば、無邪気なものだ。いや、アホだ。

 日本共産党は1922年に国際共産党(コミンテルン)日本支部として設立されてから、何と100年以上の歴史を持つ。現在の路線の基礎になった綱領を採択したのが1961年だったから、そこから起算しても50年を超える。それほどの長い歴史をもつ、従って長々と日本国民にその政策・主張を訴え続けてきた政党だ。
 しかるに、数年前にできたみんなの党や昨年末に結成されたばかりの日本維新の会と同数の当選者8名しか出せなかったのは恥ずかしいことであり、嘆かわしいことではないのか。

 いったいいつ、日本共産党が目指す「民主主義革命」とそれが連続的に発展する「社会主義革命」が日本に起こるのだろうか。日本共産党は共産主義社会を志向する「革命」政党ではないのか。

 この程度で「勝利」したと喜んでいるとはちゃんちゃらおかしい。それに乗っかって、日本共産党は「総崩れの状態の野党で唯一気を吐いた」などと書いてしまう、産経新聞記者も、そして産経新聞もどうかしている。

1192/憲法改正の主張ではなく、いかにして憲法改正するかの「戦略」的主張を。

 民主党政権下の2010年11月3日、産経新聞社説は民主党は「政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」等と主張した。これに対して、同11月6日付のこの欄で、「現在の民主党政権のもとで、あるいは現在の議席配分状況からして、『戦後の絶対平和主義』から脱した、自主・自立の国家を成り立たせるための憲法改正(の発議)が不可能なことは、常識的にみてほぼ明らか…」、「産経社説は、寝惚けたことを書く前に、現内閣<打倒>をこそ正面から訴えるべきだ」、と批判した。

 同様の批判を同じ欄で、産経新聞同日の田久保忠衛の「正論」に対しても行っていた。以下のとおり。
 「『憲法改正の狼煙上げる秋がきた』(タイトル)と叫ぶ?のはいいのだが、どのようにして憲法改正を実現するか、という道筋には全く言及していない。『狼煙』を上げて、そのあとどうするのか? 『憲法第9条を片手に平和を説いても日本を守れないことは護憲派にも分かっただろう』くらいのことは、誰にでも(?)書ける。
 問題は、いかにして、望ましい憲法改正を実現できる勢力をまずは国会内に作るかだ。産経新聞社説子もそうだが、そもそも両院の2/3以上の賛成がないと国民への憲法改正「発議」ができないことくらい、知っているだろう。
 いかにして2/3以上の<改憲>勢力を作るか。この問題に触れないで、ただ憲法改正を!とだけ訴えても、空しいだけだ
 国会に2/3以上の<改憲>勢力を作るためには、まずは衆議院の民主党の圧倒的多数の現況を変えること、つまりは総選挙を早急に実施して<改憲>派議員を増やすべきではないのか?
 <保守>派の議論・主張の中には、<正しいことは言いました・書きました、しかし、残念ながら現実化しませんでした>になりそうなものも少なくないような気がする。いつかも書いたように、それでは、日本共産党が各選挙後にいつも言っていることと何ら違いはないのではないか。」 以上。
 政治状況は当時とは違っているが、衆議院はともかく、参議院では憲法改正に必要な2/3の議員が存在せず、いくら憲法改正を(9条2項廃棄を)と「正しく」主張したところで、国会は憲法改正を発議できず、従って憲法改正が実現されないことは当時と基本的には変わりはない。
 また、昨年12月総選挙も今年7月参議院議員選挙も、「憲法改正」は少なくとも主要な争点にはなっていない。したがって、民主党政権下とは異なりいかに自民党等の改憲勢力がかなりの議席数を有しているとしても、議席配分または各党の議席占有率がただちに国民の憲法改正に関する意向を反映しているとは断じ難い。
 衆議院では自民党・日本維新の会の2党で2/3以上をはるかに超える、参議院では維新の会・みんなの会と民主党内「保守派」を加えて、あるいは<野党再編>によって何とか2/3超になりはしないか、と「皮算用」している者もいるかもしれないが、やや早計、早とちりだろう、と思われる。
 というのは、軍の保持を認めて自衛隊を「国防軍」にするか否か、そのための憲法改正に賛成か否かを主要な争点として選挙が行われたとした場合の議席獲得数・率が昨年の総選挙、今般の参議院選挙と同じ結果になった、という保障は何もない。有権者の関心のうち「憲法改正」は、主要な諸課題・争点の最下位近くにあったと報道されたりもしていた筈だ。
 しかし、とはいえ、憲法改正を!という主張だけでは<むなしい>ことは、少なくともそれに賛同している者たちに対する呼びかけとしてはほとんど無意味であることは明らかだ。
 上の点からして、遠藤浩一の、撃論シリ-ズ・大手メディアが報じない参議院選挙の真相(2013.08、オ-クラ出版)の中のつぎの発言は、私のかつての記述内容と同趣旨で、適確だと思われる。

 「多くの人が憲法改正(ないし自主憲法制定)の大事さを説きますが、現実の政治プロセスの中でそれを実現するにはどうすればいいのか、どうすべきかについてはあまり語りません。多数派の形成なくして戦後体制を打ち破ることはできないという冷厳なる事実を直視すること、そして現実の前で身を竦ませるのではなく、それを乗り越える戦略が必要だと思います」(p.26)。
 ここに述べられているとおり、「現実の政治プロセスの中でそれを実現するにはどうすればいいのか」についての「戦略」を語る必要がある。

 <保守>派らしいタテマエや綺麗事を語っているだけではタメだ。私はこの欄で遅くとも2020年までには、と書き、2019年の参議院選挙が重要になるかもしれないと思ったりしたのだが、それでは本来は遅すぎるのだろう。だが、しっかりと基礎を固め、朝日新聞等の影響力を削ぎ、「着々と」憲法改正実現へと向かうには、そのくらいの期間がかかりそうな気もやはりする。むろん何らかの突発的な事態の発生や周辺環境の変化によって、2016年の参議院選挙、その辺りの時期の総選挙を経て、2017年くらいには実現することがあるかもしれない。
 このように憲法改正の展望を語ることができるのは昨年末までに比べるとまだよい。民主党等が国会の多数派を形成している間は、永遠に自主憲法制定は叶わないのではないかとの悲観的・絶望的思いすらあった。「ぎりぎりのところで日本は救われた」(中西輝政「中国は『革命と戦争』の世紀に入る」月刊ボイス8月号p.81)のかもしれない。

1189/櫻井よしこは民主党政権について当初は何と論評していたか。

 かつてのこの欄での記述の(各回のうちの)一部をそのまま再掲しておく。二つのいずれも、櫻井よしこに関するものだ。
 一 2010年5月14日

 「櫻井よしこは-この欄で既述だが-昨年の2009総選挙前の8/05の集会の最後に「民主党は…。国家とは何かをわきまえていません。自民党もわきまえていないが、より悪くない方を選ぶしかないのかもしれません」とだけ述べて断固として民主党(中心)政権の誕生を阻止するという気概を示さず、また、鳩山由紀夫内閣の誕生後も、「…鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」(産経新聞10/08付)と書いていた。文字通りには「期待と懸念」を半分ずつ持っている、と言っていたのだ!。
 鳩山由紀夫の月刊ヴォイス上の論考を読んでいたこともあって、私は民主党と鳩山由紀夫に対しては微塵も<幻想>を持たなかった、と言っておいてよい。<総合的によりましな>政党を選択して投票せざるをえず、民主党(中心)政権になれば決して良くはならない、ということは明らかだったように思えた。外交・安保はともあれ<政治手法>では良い面が…と夢想した屋山太郎のような愚者もいただろうが、基本的発想において<国家>意識のない、またはより正確には<反国家>意識を持っている首相に、内政面や<政治手法>面に期待する方がどうかしている。
 しかし、櫻井よしこは月刊WiLL6月号(ワック)p.44-45でなおもこう言っている。
 「自民党はなすすべきことをなし得ずに、何十年間も過ごしてきました。その結果、国家の基本というものが虫食い状態となり、あちこちに空洞が生じています。/そこに登場した民主党でしたが、期待の裏切り方は驚くばかりです」。
 前段はとりあえず問題にしない。後段で櫻井よしこは、何と、一般<日和見>・<流動>層でマスコミに煽られて民主党に投票した者の如く、民主党・鳩山政権に「期待」をしていたことを吐露し、明らかにしているのだ!
 何とまあ「驚くばかり」だ。これが、<保守系シンクタンク>とされる「国家基本問題研究所」の理事長が発言することなのか!? そのように「期待」してしまったことについて反省・自己批判の弁はどこにもない。」

 二 2010年12月31日 

 「「左翼」政権といえば、櫻井よしこは週刊新潮12/23号(新潮社)の連載コラムの中で、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」と書いている(p.138)。
 はて、櫻井よしこはいつから現在の民主党政権を「左翼政権」と性格づけるようになったのだろうか?

 この欄で言及してきたが、①櫻井よしこは週刊ダイヤモンド11/27号で「菅政権と谷垣自民党」は「同根同類」と書いた。

 自民党ではなくとも、少なくとも「谷垣自民党」は<左翼>だと理解しているのでないと、それと「同根同類」のはずの「いま堂々と日本に君臨する」菅政権を「左翼政権」とは称せないはずだ。では、はたしていかなる意味で、「谷垣自民党」は「左翼」なのか? 櫻井よしこはきちんと説明すべきだろう。
 ②昨年の総選挙の前の週刊ダイヤモンド(2009年)8/01号の連載コラムの冒頭で櫻井よしこは「8月30日の衆議院議員選挙で、民主党政権が誕生するだろう」とあっさり書いており、かつ、民主党批判、民主党に投票するなという呼びかけや民主党擁護のマスコミ批判の言葉は全くなかった。

 ③民主党・鳩山政権発足後の産経新聞10/08付で、櫻井よしこは、「鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」と書いた。「期待と懸念」を半分ずつ持っている、としか読めない。

 ④今年に入って、月刊WiLL6月号(ワック)で、櫻井よしこは、こう書いていた。-「「自民党はなすべきことをなし得ずに、何十年間も過ごしてきました。……そこに登場した民主党でしたが、期待の裏切り方は驚くばかりです」。期待を持っていたからこそ裏切られるのであり、櫻井よしこは、やはり民主党政権に「期待」を持っていたことを明らかにしているのだ。→ <略>

 それが半年ほどたっての、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」という櫻井よしこ自身の言葉は、上の①~④とどのように整合的なのだろうか。
 Aもともとは「左翼」政権でなかった(期待がもてた)が菅政権になってから(?)「左翼」になった。あるいは、Bもともと民主党政権は鳩山政権も含めて「左翼」政権だったが、本質を(迂闊にも?)見ぬけなかった。
 上のいずれかの可能性が、櫻井よしこにはある。私には、後者(B)ではないか、と思える。

 さて、櫻井よしこに2010年の「正論大賞」が付与されたのは、櫻井よしこの「ぶれない姿と切れ味鋭い論調が正論大賞にふさわしいと評価された」かららしい(月刊正論2月号p.140)。

 櫻井よしこは、「ぶれて」いないのか? あるいは、今頃になってようやく民主党政権の「左翼」性を明言するとは、政治思想的感覚がいささか鈍いか、いささか誤っているのではないか?」

 なお、屋山太郎については再掲しないでおく。この人物が靖国神社の総代会か崇敬奉賛会の役員に名を出している筈であるのは異様であると、靖国神社のためにも言っておきたい。

 以上は、先月の<民主党政権成立を許したことについての保守派の責任をきちんと総括すべきだ>旨のエントリーの続きの意味ももっている。

1183/<保守>論者は「左翼」民主党政権成立を許したことをどう反省し、自己批判しているのか。

 〇元首相・鳩山由紀夫が中国で妄言を吐いている。「棚上げ」で一致していたとかも言っているようだが、万が一そうだったとしても、尖閣諸島を「中核的利益」と正規に位置づけ、同諸島を自国領土とする法律を制定して、さらには「公船」をときどき侵入させたりして、そもそも「棚上げ」していないのは、中国(政府・共産党)自身ではないか。日本政府や日本のマスコミはなぜ、この点を指摘または強調しないのだろう。
 〇ずっと書きたくて書かなかったことだが、2009年8月末総選挙による翌月の民主党政権の成立を許し、鳩山首相を誕生させたことについての、<保守>論壇の側の深刻な反省と総括が必要だと思っている。安倍・自民党中心内閣が昨年末に誕生したからよいではないか、ということにはならない。
 いずれ繰り返すかもしれないが、この欄に当時に書いたように、例えば屋山太郎は明確に民主党政権誕生を歓迎し、外交・安保問題も心配することはないだろう旨を明確に発言していた。この屋山に影響を受けたか、櫻井よしこは、民主党内閣に<期待と不安が相半ば>する、と明言していた。選挙前において、櫻井よしこは、決して民主党に勝利させてはならないとは一言も主張していなかった。
 過去のことにのみ関係するわけではない。上はわずかの例だが、<保守>論者の現在および将来の主張が決して適切なものであるとは限らないことを、2009年総選挙前後の<保守>論壇の状況は示している。

 〇月刊WiLL7月号(ワック)で、渡部昇一はこんなことを(相変わらず)発言している。-「筋としては理想的な憲法を創り、国民に示して、天皇陛下に明治憲法への復帰(一分間でよい)と新しい憲法の発布をしていただく。…憲法の継承問題が起こらないから…」(p.55)。

 渡部昇一ら一部論者の現憲法無効・破棄論の「気分」は理解できないわけではない。但し、この欄で何度も書いたように、この議論はもはや貫徹できない。
 上の渡部発言にしても、誰が、いかなる機関が、いかなる手続によって「理想的な憲法を創り」出すのか、何ら論及していない。こんな議論がやすやすと通用するはずがない。またそもそも(確かめるのを厭うが)、渡部の主張は「国会」が無効・破棄宣言をする、というものではなかったか。
 天皇陛下に「お出ましいただく」とする点に新味があるのかもしれないが、現天皇に「新しい憲法発布の宣言」をしていただくという場合の「新しい憲法」を誰がどうやって創るかという問題に言及していないことは上記のとおりだし、現憲法は昭和天皇の名において「裁可し、公布せしめ」られたこと、今上天皇は皇位継承・即位に際して「日本国憲法にのっとり」と明確に述べられたこと、等との関係をどう整理しているのか、という基本的な疑問がある。

 <保守>論壇の中の大物らしく扱われている渡部昇一ですらこの程度なのだから、現在の日本の<保守>論壇のレベルは相当に低い(あえて言えば、論理の緻密さが足りず、某々のような「精神」論で済ませている者もいる)と感じざるをえない。

 そして再び上記のことに戻れば、「左翼」民主党政権成立をかつて許したことについて、各<保守>論者はどのように反省し、自己批判しているのかを厳しく問いたいところだ。

1159/佐伯啓思の産経12/16の文章の低レベル。

 産経新聞12/16の月一回連載「日の蔭りの中で」欄の「民主主義への誤解」と題する佐伯啓思の文章は、総選挙の投票当日にこの程度のことしか書けないのか、と幻滅させるものだ。
 1 公正中立性がある程度は新聞にも要求されるのかもしれないが、この欄のようなエッセイ的部分では、新聞社説よりも、堂々と特定の党派的主張をすることもできたのではないか。
 佐伯啓思は、そのような特定の政党を支持する、または反対するという強い関心を持たない人物なのかもしれない。但し、この文章でも、維新の会・橋下徹の使った「ふわったとした民意」という語に対する皮肉は(やはり)見られるが。
 佐伯啓思においては、近年の政治状況の最大の問題は、「『政治改革』が世論の中心を占めるようにな」ったことにあると理解されているかのごとくだ。
 これはある程度は正しいのかもしれない。だが、第一の、最大の問題は2009年以降の民主党政権の発足・継続にあったのであり、この民主党政権に対する明示的な批判の言葉を一言も吐いていないことは、佐伯啓思の政治的感覚・政治的姿勢を相当に疑わせる。
 佐伯の書きぶりは、12/19の同新聞「正論」欄で佐々淳行が、「鳩山政権は、かつての左翼活動分子、日教組、旧社会党の残党、反国家的市民運動家の権力簒奪による左翼政権だった」と、私が当時に感じたのと同様のことをずばり指摘しているのと、まるで異なっている。
 2 より具体的な、内容についての疑問もある。
 第一。佐伯啓思は「民主主義の捉え方によっては」と条件をつけているが、「議会主義」と「民主主義」とは異なる、ということを強調したいようだ。しかし、佐伯は「われわれが通常考える民主主義とは、主権者が直接に政治に関わることをよしとする。つまり、できるだけ、個別の政策ごとに主権者の意思が反映されるべきだという。たえず『民意』」が反映されるべきなのだ」と、「民主主義」を理解して論述しており、この前提自体の妥当性が問われなければならない。
 佐伯の上にいう「民主主義」は「直接民主主義」のことで、「議会主義」を「間接民主主義」の一形態だと理解することもできる。そうだとすると、「民主主義」と「議会主義」は決して対立するものではない。
 「民主主義」を上のごとく「直接民主主義」と理解する、あるいは「直接民主主義」の方が「間接民主主義」よりも優れた民主主義だと理解する傾向にあるのは、<左翼>論者・学者だ。
 ついでながら、議会主義といっても、各議員が被代表者の意思に強く拘束される「命令的(拘束的)委任」と、選出された議員は選挙区有権者の意向とは別に自由に活動できる「自由委任」とが区別されることもある。現在の日本では後者が採用されている(日本国憲法は国会議員は「全国民を代表」する旨の規定をもつ)とされているのだが、前者の方がより民主主義的との主張がありうるとしても、後者が「民主主義」の要素を含まない、民主主義と矛盾するものだとは憲法学上も(「保守」派憲法学者においても)考えられていないはずだ。
 こんな区別に佐伯啓思は関心がないのかもしれない。ともあれ、佐伯啓思にしてはかなり杜撰な見解が提示されているのではなかろうか。
 第二。佐伯啓思は、「今回の選挙によって、そろそろ安定した議会政治を取り戻せるか否かは、われわれの『人物を見る眼力』にかかっている」、という文章でこの欄を締めくくっている。
 この程度しか書けないのかとは先にも述べたことに含まれるが、この内容自体にも、少なからず疑問がある。
 抽象的な「安定した議会政治を取り戻せるか否か」などよりも、民主党政治の三年余の評価(民主党政権を継続させるか否か)
の方がより重要な具体的争点だっただろう。
 この点は別としても、有権者国民の「人物を見る眼力」が試されている旨の指摘は、いったい何が言いたいのだろう。
 政党・政策ではなく「人物」をよく吟味せよという趣旨であるとすれば、少しは同意するが、しかし、その「人物」の所属政党とその政策を抜きにして、「人物を見る」ことはできないのではないか。
 ここでも佐伯は、具体的政党の評価や具体的政策論に立ち入ることを避けているようだ。あるいは、そもそもそれらに立ち入ることに対する関心が相当に薄い人物なのかもしれない。
 以上、これまでに読んだ佐伯啓思の文章の中では、最低の部類に属する。

1156/朝日・NHKとともに中国展を共催する毎日新聞12/12社説と総選挙。

 毎日新聞は、「第二朝日」などと言われないように、せめて朝日と読売新聞の「中間」あたりの読者層をターゲットにしたらどうなのだろう。日中国交「正常化」40周年記念の「特別展・中国王朝の至宝」を東京国立博物館・NHK・朝日新聞社!ともに「主催」していて(後援は日本外務省・中国国家文物局・中国大使館!)、中国・同共産党に不満を与えたくないためだろうか。
 毎日新聞の12/12の社説は、自民党の尖閣諸島への「公務員の常駐や周辺漁業環境の整備を検討する」という公約にイチャモンをつけている。
 同社説によると、「公務員を常駐させたり船だまりを造ったりすれば、日中の対立をことさらあおり、中国にさらなる実力行動の口実を与えかねない。紛争は日米の利益に反する」、のだそうだ。

 また同社説は、「自民党や日本維新の会の候補者に保守化の傾向が強まっていること」への憂慮を示している。
 今回の総選挙の注目点の大きな一つは、「左翼」政党がどの程度の議席を獲得するか(どの程度減らすか)、だと思っている。
 ここでいう「左翼」政党とは、東京都知事選挙で宇都宮健児を支持している党だといえば、分かりやすい。すなわち、日本未来の党、社民党、共産党だ。
 小沢一郎が「社会民主義」や「共産主義」の政党と手を組むまでに<落ちぶれた>ことも刮目すべきことだと思うが、それは措くとして、保守化・「右傾化」を憂えている毎日新聞は、これらの政党(または民主党旧社会党系の「左翼」)の主張と近似の主張をしているのであり、それがいかほどの国民または「世論」の支持を受けることになるのか、余計ながら真面目に再検討した方がよいだろう。
 もっとも、たとえば憲法改正・自主憲法制定や国防軍の設置が第一の争点になっていないこともあり、自民党と日本維新の会の個々の議員候補者や支持者が実際にどの程度これらを支持しているかは分からない。
 週刊現代12/22・29号によると、テレビ朝日系「報ステ」(12/07?)に出席した安倍晋三が石原慎太郎とともに「時間の3分の2近く」を使って憲法改正論を「ブチまくった」翌日、ある自民党選対関係者は「あれじゃ、まるで右翼だ。票を減らすのは確実だろう。終わった」と嘆いた、という(p.56-57)。
 週刊誌がいかほどに正確な記事を書いているかは十分に疑わしいが、以上が事実だとすると、まことに嘆かわしい自民党関係者の言葉だ。
 とくに社民党の福島瑞穂が喚いていていてくれるおかげで、憲法改正は低い順位ながらも選挙の争点にはなっている。そして、石原慎太郎のほか、かつて自民党草案をまとめた桝添要一(新党改革)、「ブレない保守」国民新党の自見某らが憲法改正はしごく当然のことという趣旨で発言しているので、改憲(とくに9条2項を削除しての正規「軍」保持)の主張が決して一部の「右翼」の主張ではない、ということが、ある程度はふつうの国民・有権者にも伝わっているようで、将来も考えると希望を持ってよいような気がする。
 だが、いずれまた書くかもしれないが、かりに改憲主張の政党が2/3以上の議席を得たとしても、ただちに改正の発議にはならないことは当然だ。
 参議院もあることとともに、やはり自民党と日本維新の会等が各党内で、どの程度結束し、どの程度の「本気・覚悟」を持つかにかかっている。安倍晋三・石原という党首が同意見であることが近い将来の改憲を楽観視できる根拠にはまったくならないだろう。
 月刊WiLLの1月号(ワック)が<私が安倍総理に望むこと>を10人の論者に(早くも?)書かせているが、西部邁の名もあるので興味を惹いた。
 そして、西部が温和しく(?)安倍晋三への皮肉を一言も記すことなく、安倍への期待を書いていることに驚き、ある意味では安心した。「右派」ではなく「保守リベラル・社民リベラル」の側に立つ旨を明言し、憲法改正に反対している(9条護持論に立つ)中島岳志と西部は全く同じではない、と見てよいだろう。
 もっとも、最後には、安倍への直接の皮肉ではないにしても、「…といってみたものの、この私、この世にそんな素晴らしいことが起こるとは少しも信じていない」、だから安倍はこの文章を無視してよいと書いているのだから、さすがに、西部邁はシニシストでありニヒリストだ。
 現実に影響を与える可能性のある言論活動をすることなどはとっくに諦め、自分の観念・意識の中でそれなりにまとまった世界を描かれていればそれで満足する、という境地に達しているかのごとくだ。発言内容は同じではないが、こうしたスタンスは佐伯啓思のそれともかなり似ていると思われる。
 総選挙について、各党の公約や党首の発言等々について、書きたいことは多いのだが…。

1149/適菜収は「B層」国民は投票するな、と主張する。

 「B層」哲学者・適菜収は相変わらず橋下徹を攻撃しているようで、新潮45(新潮社)の今年10月号の冒頭近くの適菜「民主の次は維新? いつまでも懲りない人々」も、その一つだ。
 内容は容易に想像できることで、立ち入らない。(小泉改革→)民主党→維新の会の「大衆迎合」ぶりの連続を批判的またはシニカルに観ている佐伯啓思とも似た論調だ。
 興味をもつのは、では、適菜収はいったいどのような政治勢力を支持しているのか、適菜収は有権者国民に対してどのような投票行動をとるように求めているか又は期待しているか、だ。
 この点、じつに興味深いことを上の文章の最後に適菜収は述べている。以下のとおり。
 「前回民主党に投票し、そのことに少しでも良心の呵責を感じている人は、次の選挙には行かないことです」。「選択」に不向きの人が「選択をしようとするから道を誤るのです」(p.33)。
 なんと、(どの党にも)投票するな、棄権せよ、と言っているのだ。
 適菜収は橋下徹・維新の会を批判しつつも、橋下・維新ではなくどの政党が(相対的にであれ)好ましいかを明らかにすることができていない。

 また、上の文からは適菜収の、そのいう「B層」国民に対する激しい侮蔑の感情が窺える。適切に候補者の中からの適格者を「選択」できないような者は、投票するな、と述べているのだ。
 適菜収のこの論の行き着くところは、一定年齢以上の国民の全員が選挙権・投票権をもつ、いわゆる<普通選挙>制度の否定に他ならないだろう。
 「A層」哲学者だと自らを位置づけているに違いない適菜収は、彼のいう<B層>=バカな国民(=「マスコミ報道に流されやすい『比較的』IQが低い人たち」)には選挙権を認めないという、<普通選挙>制度否定論を真面目に主張してみたらどうか。

1140/月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切なのか② 。

 〇8/21に月刊正論による自民党批判を今年8月号と書いたのは誤りで、正しくは7月号。
 6月号以降は月初めに購入せず、のちに古書で手に入れることにしており、かつ従来のように月刊正論を手元に置いておく癖をなくしたまま、確認しないで書いたがゆえの誤りだ。
 月刊正論7月号は<徹底検証/誰が殺した自民党>という特集を組んでいる。10本もの論考から成っていて、編集部が設定したはずのこのテーマは、自民党を「殺した」者がいること、つまり自民党は「殺されている」=「死んでいる」ことを前提として、犯人を探索させる、という趣旨になっている。自民党は「死んだ」という前提に月刊正論編集部は立っているわけだ(ちなみに、このテーマと必ずしも正面からは一致しない論考もあるが、執筆者と犯人とされた者は誰かは、田久保忠衛→谷垣禎一、田母神俊雄→麻生太郎、適菜収→小沢一郎、佐伯啓思→小泉純一郞、上念司→竹下登、倉山満→三木武夫、西尾幹二→中曽根康弘、阿比留瑠比→野中広務、中宮崇→河野洋平、潮匡人→安倍晋三)。
 このような前提的認識自体に疑問がある。少なくとも、疑問を差し挟む余地がある。このような認識をもつとすれば、自民党ではなく現在の民主党こそが、とっくに自壊・分裂して?「死んでいる」という認識・見解も、月刊正論編集部は示さなければならないのではないか。
 民主党政権の三年間の批判的総括の特集がないのは先日に書いたとおり。6月号に<特集/左翼諸君よ、反省しなさい!>があって4本の論考を載せているが、このテーマに即しているのは佐々淳行「進歩主義者の知的退嬰を糾す」くらいで、河添恵子らの「女3人言いたい放題/保守の男と革新のオトコを比べてみれば」という、<遊び>の企画も含んでいる。そして、この特集も、「左翼」・民主党政権の具体的批判とはまるで関係がない。
 「保守派」らしき月刊雑誌が、「保守」・「右」の立場から自民党批判の特集を組むことはありうるだろうが、より熱心でなければならないのは、現実に政権=権力を持っている「左翼」・民主党に対する批判でなければならないのではないか。
 〇月刊正論9月号の「編集者へ/編集者から」の中には、目を剝く「編集者」の文章がある。
 目を剝いた、驚きかつ戦慄を覚えた部分は後回しにして、読者と編集部のやりとりを簡単に要約しておこう。
 ある80歳を超えている読者が、月刊正論には「時々、違和感のある内容の文章も散見されるので、あえて苦言と希望を併せて述べる」という観点から、月刊正論8月号の伊藤悠司「田中卓先生、それを詭弁と言うのです」(p.256-)を読んで「貴誌の姿勢というか、見解を疑いました」と書き始め、「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」に「甚だしい違和感を覚えた」、「名のある他人に対する非礼な書きぶり」を掲載している月刊正論に「失望を禁じえない」と続けている。内容的にも「いたずらに異見を責めるのではなくて、国民のための落着点を求めようとする姿勢」が月刊正論のような「日本護持の気持ちの強い月刊誌」には「大切」ではないか、と書き送っている(9月号p.325-6)。
 これに対する「編集者」の応答は、素っ気なく、冷たいものだ。
 「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」という「指摘はどうでしょう」、「編集者は冷静で落ち着いた筆の運びと感じました」。
 一毫も一読者の感想・意見を容認・受容することなく、バッサリと切り捨てている。せっかく投稿してくれた読者に対して、こんな姿勢・態度でよいのだろうか、という感想がまず湧く。
 ここで問題になっているのは、女系天皇容認論者らしき田中卓(元皇學館大学教授・学長)に対する伊藤悠司の「書きぶり」だ。
 論争の中身にはさしあたり立ち入らずに、「書きぶり」ははたして「編集者」が言うように「冷静で落ち着いた」ものかどうか、という観点から、8月号の伊藤論考を見てみた。
 結論的には、月刊正論「編集者」が言うように全面的に「冷静で落ち着いた」ものとはいえず、感情的な文章を含み、読者によっては(とくに田中卓に同調したり、彼に敬意を感じている読者には)、「悪意と誹謗に満ちた…」と感じてもやむをえない文章もある、ということだ。
 例を引用しておく。
 ・「…というのは…無頼漢のサカシラゴトである」(p.259)。
 ・「…とは恐れ入る。ラーメンでも寿司でも昼飯は何でもいいというような口ふりで皇室を語っていることに〔田中卓は〕気がつかないのだ」(同上)。
 ・「これほど理を非に言い曲げるこじつけが上手な人もそうはいない。田中氏のは一級品である」(同上)。
 ・「こんな人物が皇學館大学の学長をつとめていたとは驚かざるをえない。神宮の神域に立ち入ることを禁じたらどうか」(p.260)。
 ・「この人はよく皇室を言祝ぐ」が、そうしながら「皇室を貶めるのに成功している文章に接してあきれてしまう。民族的信仰心とでもいうべき精神性からは遠い。傲慢な手つきしか見えない」(p.261)。
 ・「この人〔田中卓〕が眺めている日本の将来像や風景には、ふつうの神経の人が正視できないものが映っているのかもしれない」(p.266)。
 これらの文章を含む論考を月刊正論「編集者」は、「冷静で落ち着いた筆の運びと感じました」と評している。
 月刊正論「編集者」の感覚は、やはり少しおかしいのではないか。とくに上のp.266は対象者を(「かもしれない」としつつも)<狂人>扱いしているごとくであり、かなりの、「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」と称しても、差し支えないように感じる。
 月刊正論編集長・桑原聡、編集部員・川瀬弘至らは、やはり、どこかおかしい。まともな、月刊雑誌編集者と言えるのだろうか。
 驚きかつ戦慄を覚えた部分については、さらに後回しにする。
 なお、この文章は女系天皇容認論を支持する立場からのものではまったくない。

1138/月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切なのか?①

 〇「Weekly 雑誌ニュース」というサイトによると、各雑誌の月間発行部数は、文藝春秋約60万、潮約40万、WEDGE-約16万、サピオ約12万、月刊WiLL-11万、エコノミスト8万、月刊ボイス-約3万、らしい。
 月刊正論、新潮45、世界等については「調査中」とある。
 但し、この欄で既述のように、雑誌・撃論3号(2011.11)の編集部による文章によると、<月刊WiLLの販売部数は月平均約10万部、産経新聞社の月刊正論は実売2万部以下>らしい。
 月刊WiLLについての上の両者の数字が11万・10万とほぼ同数であることからすると、月刊正論についての数字も、信頼してよさそうに見える。
 歴史があり、新聞社に支えられている(はずの)月刊正論(産経)よりも、後発の、同じく一般には
<保守>派とされていると思われる月刊WiLL(ワック)や月刊ボイス(PHP)の方が、よく売れているわけだ。
 とくに、月刊正論は月刊WiLLの5ないし6分の1程度しか読まれていない(売れていない)、ということは興味深い。
 以上のことは、以下に述べることと直接の関係はない。但し、現在の編集方針だと(つまりは現在の編集長・編集部員だと)、販売部数は増えそうにない、という気はする。
 〇月刊正論やその個々の論考については言及したいことは多い。さしあたり、月刊正論全体ないしその編集方針について、まず、いくつかをごく簡単にコメントする。
 ①「近いうち」の衆議院解散・総選挙という時期なので、あるいはずっと前から今年(2012年中)の解散・総選挙の可能性は高いと言われてきたので、政治・社会系総合雑誌がすべきことは、私見では、<(2009年誕生の)民主党政権とは何であったか・民主党政権はいったい何をしてきたか>という総括だろう。
 これが月刊正論にはほとんど見られないようだ。少なくとも「特集」は組まれていない。
 この点では、月刊文藝春秋8月号が「政権交代は何をもたらしたのか―民主解体『失敗の本質』」という特集を組んでいることの方が(p.116-)が、決して「保守派」雑誌でないにせよ、時代的・時期的センスが(月刊正論編集部よりも)優っている。

 また、月刊WiLL9月号は「総力大特集/醜悪なり民主政権」と銘打つ特集を組んで、4本以上の論考を載せている。山際澄夫「朝日新聞は土下座して読者に詫びよ」(p.84-)などは、反民主党、反朝日新聞の読者を少しは痛快な気分にさせるだろう。
 ②朝日新聞や岩波・雑誌「世界」らは、2009年の民主党政権樹立へとムード・空気を煽ってきた。2009年の投票日に並んでいた月刊世界の表紙のタイトルは「政権選択選挙へ」だったと記憶する。さすがに「政権交代選挙へ」とは打てなかったのだろう。だが、総選挙とはつねに「政権選択選挙」たる性格をもつことからすると、月刊世界のタイトルの含意は明瞭だった。
 政権交代を朝日新聞等は「歴史的」と表現して歓迎した。自分たちの世論誘導は見事に効を奏したのだった。
 従って成立した民主党政権を罵倒するはずはないのだが、残念ながら民主党内閣の「失点」は相次ぎ、叱咤激励はするものの、政権交代の現実的なプラスの成果を、朝日新聞らは提示できなかった、と思われる。
 だが、朝日新聞らが意図したことは、<民主党政権は批判されるべきだが、自民党政権に戻してもダメだ>という世論形成だった。民主党がダメだとしても、自民党が良いわけではない、というのが彼らの<矜持>あるいは<面子>からする主張だった、と思われる。そして、これまた、そのような世論形成は、相当に成功したように見える。
 「保守派」のはずの月刊正論(産経)も、そのような雰囲気に対抗することはせず、むしろ、その編集長は、2011年4月号に、次のように書いていた。あの3.11の起こった時点の、編集長・桑原聡の文章だ。 
 「…民主党内閣が、憲政史上最低最悪の内閣であることは多くの国民が感じているところだろうが、かりに解散総選挙が行われ、自民党が政権を奪回したとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも、わが国を元気にする知恵も力もないように思える」(p.326)。
 解散・総選挙の現実的可能性が高まった現在でも、桑原聡はこう考えているのだろうか。このような見解は、<民主党はもちろん、自民党にも投票するな>と言っているに等しい。
 どちらがよりマシか、どちらがより「保守的」か、どちらが現憲法改正草案を持っているか(九条2項削除を明確な方針としているか)、どちらに靖国神社参拝をする議員が多いか、などを考えれば、編集長・桑原聡の上の文章は、ほとんど、朝日新聞らの「左翼」と同じだ。
 自民党よりも「保守的」な有力政党の結成・誕生を見ていない現在では、多少は異なる見解に至っていることを期待したい。だが、月刊正論の(2012年)8月号は、<自民党批判>の特集を組んでいる。解散・総選挙が近づいていることは客観的に明瞭だった時期に、月刊正論は、<民主党政権の総括的批判>ではなく<自民党批判>の特集を打ったのだ。
 この雑誌は、あるいはこの雑誌の編集長、その編集方針は、やはりどこかおかしい。とても<保守派>の雑誌とは思えない。
 ③今年2012年は、日本共産党創立90周年の年だ。産経新聞でもまともにこれを採り上げた記事は少なかった(あっても大きな紙面を用いたものではなかった)が、きちんと日本の「共産主義」政党の過去と現在を分析し、批判的に総括しておくことは、新聞ではなくむしろ「保守派」雑誌の役割だっただろう。
 しかるに、月刊正論は、これを怠っている、と見られる。月刊正論(編集部)は、いったい何と闘っているのか? いったい日本をどうしたいのか?
 編集長・桑原聡が早々に(今年初めの時点で)、橋下徹を「きわめて危険な政治家」、日本「解体」を意図している、と論定してしまったように、まるで政治的センスに乏しく、<いったい日本をどうしたいのか>について多少とも錯乱しているのではないだろうか?
 憲法改正は重要なテーマだが、この問題についての(大きな論点ごとでもよいが)特集は組まれていない。
 従来の、「固い」読者層を掴んでいれば大丈夫だという感覚なのだろうか。そのような感覚では、国民・有権者の過半数の支持が必要な憲法改正のために情報発信するメディアの中の中心に位置することはとてもできないだろう。
 以上のほか、9月号をごく最近に見ていて、月刊正論の「編集方針」に、あるいは編集部自身の文章に、<戦慄すべき>怖ろしさを感じた。
 長くなったので、次回に譲る。 
 

1137/資料・史料-2012年04月28日民主主義科学者協会法律部会理事会声明。

 資料・史料-2012年04月28日民主主義科学者協会法律部会理事会声明
 「今年は、沖縄を米国の施政権の下においたサンフランシスコ講和条約と(旧)日米安保条約の発効から60年、沖縄の復帰から40年を迎える。しかし、今なお日本全国に多数の米軍基地が存在し、日本における主権と人権を制約している。とくに、日本の総面積のわずか0.6 %しかない沖縄に、いまも米軍専用基地の74 %が集中し、普天間基地や嘉手納基地をはじめ33もの米軍専用基地が置かれたままである。
 日米両政府は2月8日、米軍普天間基地(沖縄県宜野湾市)の「移設」を在沖縄米海兵隊のグアム移転の前提にしていた現行の在日米軍再編計画を見直し、両者を切り離す協議を開始することを発表した。その狙いは、普天間基地の名護市辺野古への「移設」が、県民・市民の反対で行き詰まるなか、アジア太平洋地域重視を打ち出した米国の新国防戦略に基づきグアム移転を先行して進めることであり、米国は、その移転費用の増額や普天間基地の改修費用の支出を日本政府に迫ってきている。これにより、普天間基地が固定化される危険も強まっている。また、現在の民主党政権は、「武器輸出三原則」を緩和し、「基盤的防衛力構想」を放棄するなど、日本の軍事的プレゼンスの拡大、強化をもくろんでいる。
 私たち民主主義科学者協会法律部会は、3 月26 日から29日にかけて沖縄県那覇市で合宿研究会を開催した。そのなかで、沖縄と安保体制、日米地位協定をめぐる諸問題や、普天間基地の辺野古地区への「移設」反対運動、高江ヘリパット基地反対運動、歴史教科書検定・公民教科書採択をめぐる運動などさまざまな平和への取り組みを学ぶとともに、普天間基地や名護市辺野古地区の現地にも赴き、基地による多くの人権侵害や生活破壊、地域社会と地方自治体に対する重圧と、それらの問題点を改めて深く実感した。
 私たち民主主義科学者協会法律部会は、これまでにも法学の立場から安保体制に関する共同研究の成果を発表し、安保条約は、軍事同盟条約として国連の集団安全保障の理念に背馳し、憲法の平和主義および基本的人権の保障の理念と矛盾することを指摘してきた。いま改めて、それを再確認するとともに、安保条約と米軍基地は、日本国憲法前文の「平和のうちに生存する権利」やこんにち国連でも注目が高まりつつある「平和に対する人民の権利」を脅かすものであることを強調したい。
 日米安保条約の下で米軍基地の存在を永久化し、「日米同盟」を深化させるとして全世界的な軍事的関与を進め、また、普天間基地の名護市辺野古地区への移転に固執しつつ、それが果たせない場合は普天間基地を維持するとする日米両政府の方針は、国際社会の平和と日本国憲法の平和・人権・民主主義の原理を大きく損なうものとの認識の下、その方針の変更を強く求めるものである。」
 <出所-ネット上>
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 ・この主張がどの政党の主張・見解に添ったものであるかは言うまでもない。
 ・現在の民主党政権は、「武器輸出三原則」を緩和し、「基盤的防衛力構想」を放棄するなど、日本の軍事的プレゼンスの拡大、強化をもくろんでいる、らしい。「日本の軍事的プレゼンスの拡大、強化」はそもそも<悪>か?
 ・この「学会」によると、日米安保条約は日本国憲法の理念に矛盾し、「安保条約と米軍基地」は日本国民の<平和的生存権>等を脅かすものらしい。そして、最後に日米両政府に対して「
方針の変更を強く求める」というが、具体的にはどのようにしたいのか?。
 ・内容は法学のうち、とくに憲法学、国際法学に関連しているだろう。この「民科」に属する研究者(教授たち)には「学問の自由」はあるのだろうか?
 

1110/橋下徹の「手順」・「情報公開」感覚と「役立たず知識人」や月刊正論。

 〇橋下徹のツイッターについて松井一郎が「今日もストレスがたまっているんやな、という感じで見てます。早く寝ればいいのに」と語ったそうだが(産経新聞4/18の記事「一日平均11ツイート/つぶやきすぎの橋下市長に松井知事『ストレスたまってるんやな』」)、たしかに「ストレス」もあるだろう。但し、内容の当否について議論の余地はあるとしても、並々ならぬ文章力、論理構成力、熱意等々によるところも大きいだろう。
 宮崎哲弥月刊ヴォイス5月号(PHP)で、橋下徹は「他方で非常に手続き的政正当性にこだわる側面があって、府政にせよ、市政にせよ、つぶさにみればプロシージャー(手続き)に重きが置かれているのが特徴的です。…やはり弁護士出ということでしょう」と発言している(p.66)。
 さすがに宮崎は長年にわたって橋下徹を観察して、よく理解しているようだ。上は原発再稼働問題に関連したものではないが、ブログを読んでいると、橋下徹は、原発の危険性を過度に強く認識しているというよりも、民主党政府が進めている再稼働に向けての「手順」を問題視し、批判している、と理解できる。
 消費税問題について小沢一郎の言い分の方が正しいと橋下徹が言って小沢グループは喜んだと伝えられているが、これまた、民主党は選挙マニフェストで逆のことを書いていた、それとの矛盾を指摘する小沢の方が「論理的」に正しい、というだけのことで、全体として小沢一郎という政治家への信頼を語っているのでは全くないと思われる。
 朝日新聞が消費増税に賛成していることも橋下徹は批判している。また、橋下徹が市長選で「公約」していなかった教育関係条例の制定を朝日新聞の(大阪の?)記事が批判したこと等々に対して、その記事の記者を名指ししてツイッターで、ではなぜマニフェストに書いたのと真逆のことをしている民主党を批判しないのかと、正しい「論理」でもって反論・批判したりしている。異なるテーマも含むが、例えば、以下。
 「朝日新聞は本当にご都合主義。原発の是非を決める住民投票について大阪市議会は否決をしたけど、朝日新聞はそれにご不満。僕は署名した5万5000人の熱い思いをしっかりと受け止めて関西電力に対して新しい電力供給体制に向けての株主提案をします。しかし朝日新聞は住民投票をやりたい模様。」

 「朝日新聞はいつも僕に言ってるじゃない。物事を二者択一に単純化するな!もっと議論を尽くせ!中身を説明しろ!議論が拙速だ!白か黒かで決めるな!…だから今回は朝日新聞のご意見に従ったのですが。原発を是か非かで決めちゃいけないと。」(3/28)。 

 「君が代起立斉唱条例の採決の際には強行採決だ!と朝日新聞や毎日新聞は批判し続けた。マニフェストにも載っていなかった!と。消費税増税に関する今回の民主党内での決定についてはどう考えるんだ?国政は議院内閣制なので法案を出す前に過半数を獲る攻防がある。まさに今の状況。」

 「しかし朝日も毎日も消費税増税だから民主党には決めろ決めろの大プレシャーをかける。民主党のマニフェストにも増税のぞの字もなかった。むしろ消費税は上げないと明言していた。ほんと朝日も毎日も都合が良いよ。自分たちの好きなことは決めろ!自分たちの嫌いなことは決めるな!赤ん坊だね。」(同上)
 原発再稼働問題については、例えば以下。 

 「定期検査後の再稼働に原子力安全委員会の安全コメントは現行法上不要だ。ただそれは福島の原発事故が発生する前の平時の手続き。定期検査が目的だから定期検査だけで良い。民主党政権は完全に統治を誤った。今大飯に求められているのは定期検査ではない。安全性なのだ。定期検査と安全性は全く異なる」

 「民主党政権は、大飯の原発を定期検査の手続きで再稼働している。政権(保安院)が確認したのは定期検査を確認したまでだ。定期検査については、安全委員会はコメントしなくても良い。ところが定期検査の手続きを踏んだだけなのに、民主党政権は安全宣言をした。完全に国民を騙した。」

 「安全委員会は法令上、定期検査についてコメントをする立場にはない。ということは民主党政権は、大飯の定期検査をやっただけだ。これが今回の安全委員会のコメントではっきりとした。にもかかわらず政権は安全宣言。危険だ。これはもはや統治ではない。」

 イデオロギー的に「反原発」ではないことはもちろん、原発の危険性・安全性に関する特定の立場・考え方に立っているわけでもないように見える。
 橋下徹にとっては、決定の「手続」・「手順」、「統治」のシステム・プロセス(・仕方)に基本的な関心があるように見える。
 そのかぎりで、産経新聞4/20の社説「原発と橋下市長/電力確保の責任はどうした」は、気分は分かるが、必ずしも橋下徹に対する正面からの批判になっていない面があることを否めないだろう。
 〇橋下徹は、「手順」を重視するほか、(プロシージャーではなく)ディスクロージャーにも相当に熱心な政治家(地方自治体首長)だ。
 4/16~4/19の、大阪市改革プロジェクトチームと各部局の施策・事業(改革)担当者との間の「オープン議論」が、出席者全員の顔と発言内容(声)も含めて、すべて、大阪市のホームページを通じて、ユーストリームでビデオ(動画)として、(事後的にだろうが?)「公開」されていることをごく最近になって知り、一部を実際に見て驚いた。橋下徹はもちろん、大阪市職員の顔も発言もすべて、おおっぴらだ(なお、その会議に配布された資料は上記ウェブサイトから入手することもできる)。
 〇「ワンフレーズ・ポリティクス」とかいう言葉があり、小泉純一郞の手法はそれだと言われもしたが、橋下徹のツイッターや上記動画を見ると、橋下徹は「ワン・フレーズ」どころではない。
 テレビ等では数語で何かを断定するかのごときコメントを発しているような印象もあるが、それはテレビ局の「編集」による「ぶった切り」によるところも大きいようだ(橋下徹がテレビ用に意識して短くしている側面もあるだろう)。
 〇橋下徹のツイッターの内容や動画上での会議での発言の仕方等を見聞きしていると、いったいどこに「ファシスト」、「アナーキスト」、「デマゴーグ」がいるのかと、そのように断定的に書いた者たちの<神経>を疑いたくなる。
 上掲の宮崎哲弥発言が載っている座談会で、萱野稔人は橋下徹について「彼や彼の政策を現段階で『〇〇主義』と表現するのは、過大評価でもあるし、見くびっていることにもなる気がします」と言っている(月刊ヴォイス5月号p.73)。
 萱野稔人とはどういう人物か知らないが(宮崎に「萱野さんは本当に左翼だったの?」と言われている。p.71)、上の発言は、的確だろう。
 同じ座談会の中で宮崎哲弥は橋下徹について「彼のうちにナショナリスティックな意気が宿っていることは疑いえません」と、また「文化左翼の嫌いな体育会的な気風も多分にもっている」と、語っている(p.66)。
 なぜ「左翼」は橋下徹を嫌うのかについては書いたこともあるが、宮崎哲弥も言及しているように、簡単には、「保守」的または「右派」的な心性をもつ人物だからこそ、「左翼」はこぞって批判した(している)に違いないと考えられる。そして逆に、石原慎太郎は自らに近い「心性」・「感性」を橋下徹のうちに見出したのだろう。
 日本共産党は誰が「敵」かを、さすがに鋭く掴んでいるように思われる。
 民主党・自民党推薦だった前市長平松某よりも、自分たち・日本共産党にとってのはるかに強い脅威を、橋下徹に見出したからこそ、あえて民主党・自民党が推したのと同じ候補を支持したのだ(自党独自の候補を降ろしてまで。<反・反共統一戦線>)。
 そうした中で、自称<保守>派の佐伯啓思・中島岳志・藤井聡・東口暁という<西部邁・佐伯啓思グループ>が種々の観点から橋下徹を批判し、<保守>派らしき、「真正保守」を名乗る編集部員もいる産経新聞社発行の月刊正論5月号の巻頭で適菜収は橋下徹を「全体主義」者扱いし、国家解体を狙う「アナーキスト」だ、「デマゴーグ」だと断じた。
 月刊正論編集長・桑原聡までが-くどいが繰り返しておく―橋下徹を「きわめて危険な政治家」、「目的は日本そのものの解体にある」と明言した。
 こういう構図は、どこかきわめて奇妙なのではないか。倒錯が見られるのではないか。
 中国共産党の「工作」は、日本の<保守>系論壇・雑誌(評論家・編集者等々)にすら及んでいるのではないかとすら考えたくなる。
 小泉純一郞・民主党・橋下徹をすべて「(構造)改革」派と一括して理解して批判する佐伯啓思も、あまりに単純かつ短絡的だ。小泉「改革」と民主党(の意図した)「改革」と橋下徹(の意図している)「改革」とは、一括できるほどに同じなのか(=共通性が大きいのか)? 佐伯啓思にしてすら、学者らしき抽象化・単純化、概念・言葉の操作(・遊び)があると思えてならない。
 上記の萱野稔人の言葉を再び引用したいところだ。
 別の、中央公論5月号の<官僚覆面座談会>から、最後の二つを、一部省略して紹介して、今回は終えておこう。
 B「…期待しすぎてもいけないけれど、彼のような政治家を殺してはいけないと思う」。
 A「…ここでした批判や意見についても徹底的に勉強して、対抗するために研鑽を積む」だろう、「批判をすべて養分にしてしまう。そういう希有な人物であることは間違いない」。(以上、中央公論5月号p.133)。

1095/水島総、適菜収、橋下徹、野田内閣。 

 〇水島総が、「撃論+(プラス)」という雑誌(oak-mook。2012.04)で、「今、最も問題なのは、反日メディアや反日政治家、反日財界なのではない『戦後保守』と言われる言論人の一種の頽廃というべき姿である」と書いている(p.171)。
 現在の「保守」派がかなり混乱していることは確かだと思われ、「頽廃」という形容が的確かは悩むが、私とも問題関心に共通するところはあるだろう。
 このようなブログだから「保守」派のあれこれに対して批判的な言辞も吐いてきた。100%信頼できる人物はいないと(残念ながら)感じているので、テーマ、論点に応じて、櫻井よしこ、西尾幹二、佐伯啓思等々を批判したこともある。だが、<このようなプログだから>影響力は微々たるものだとの自覚があるからなのであり、保守派内部の対立・軋轢を拡大する意図はない。
 産経新聞社も(以前から)意図しているようである憲法改正にしても、現憲法を前提にすれば(なお、石原慎太郎の「破棄」論は精神論としてはともかく、現実的には無謀だ)国会内に2/3以上の改憲勢力を作らなければならず、有権者国民の過半数の支持を受けなければならない。
 産経新聞3/31に論説委員・皿木喜久が書いているように(この人にはまともな文章が多い)、かりに憲法を軸にした「保守合同」を展望するとしても、それは命がけ」で取り組まれなければならない課題だ。
 そうした状況において、「保守」派内部において、「自称保守」とか「エセ保守」とか言い合っている余裕は本来は十分にはないはずだ。あるいは個々の論点について対立してもよいが、憲法改正、正確にはとくに現憲法九条2項の削除と「国防軍」の設置(「自衛軍」という語よりもよいと思う)、についてはしっかりと<団結>しておく必要があろう。

 憲法・国防といった国家の基本問題に比べれば、橋下徹・現大阪市長をどのように評価するかなどという問題は「ちんまい」テーマだ。
 にもかかわらず、産経新聞社の月刊正論5月号は、3/31の大きな広告欄によると、「橋下徹は『保守』ではない!」という一論考のタイトルを最大の文字の惹句にしている。
 「国民の憲法」起草委員会を作ったのだったら憲法改正大特集でも不思議ではないが、上の文字を最大の謳い文句にする感覚は(私には)尋常とは思えない。
 上の論考の執筆者らしい適菜収は冒頭掲記の「撃論+」にもたぶん似たようなことを書いているので、―今回は立ち入らないが―主張内容はおおよその推察ができる。「評論家」の佐伯啓思にもむつかしい問題に「哲学者」が適切に対応できるとはとても思えないが、この、よく知らない適菜収という「哲学者」にとっては、またとない「売名」の機会になったことだろう。あるいはまた、橋下徹をテーマにすれば(とくに批判すれば)<売れる>という月刊正論編集部の<経営的>判断に乗っかかっているだけなのかもしれない。
 ついでだから立ち入るが、「撃論+」の中の小川裕夫「検証/橋下改革は本当か?」(p.150-)の方が、橋下徹について冷静にかつ客観的に判断しようとしており、性急な結論づけをしていない。
 このような性急に単純な結論・予測を述べない姿勢の方が好感をもてる。「撃論+」よりも数倍の(十倍以上の?)読者をもつだろう月刊正論の編集部が、<橋下徹は保守ではない!>と訴えたいらしいのはいったいどうしてなのだろうか。まだ民主党政権のゆくえや解散・総選挙問題を直接のテーマにする方が時宜にかなっているように思われる。
 〇水島総の文章に戻ると、しかし、水島がいう「戦後保守」の「頽廃」の意味、したがってまた水島の考えている「(真の)保守」の意味は必ずしも明確ではない。水島は次のように書く。
 ・保守を標榜しつつも「TPP参加や増税、女性宮家創設等で分かるように、GHQ日本国憲法内閣と言ってもいいほど」なのが野田民主党内閣の本質であり、「日本の国体そのものの解体を目ざしている」にもかかわらず、「戦後日本意識」を脱し切れず、有効に批判できていない。「戦後保守と呼ばれる言論人は、野田内閣の『改革路線』を批判出来ず、野田内閣に一定の支持を与えたり、政権権力にすり寄る、まことに見苦しい迷走を続けている」(p.171)。
 ここで批判されている「戦後保守」言論人とはいったい誰々なのだろうか。
 「TPP参加」を批判されるべき野田内閣の政策の一つとして挙げているところを見ると、櫻井よしこ、竹中平蔵あたりなのだろうか(きちんと確認しないが、岡崎久彦もこれに反対ではなかったようだ)。政権権力に「すり寄る」とは厳しいが、櫻井よしこは野田内閣への期待を明確に(産経新聞紙上で)述べたことがある。
 だが、「TPP参加」に反対するのが「(真の)保守」とは私は考えないし、「保守」か否かで簡単に判断できるものでもないように思っている。
 月刊正論に連載欄を持っている水島総の「保守」派性を(その内容から見て)微塵も疑いはしないが、具体的問題となると、私とまったく同じように考えているわけでもなさそうだ。
 急いで書かれただろう文章にあまり拘泥するのもどうかとは思うが、いま一つ、水島の論述には分かりにくいところがある。
 水島は、「アメリカ拝跪から中国拝跪へ」という時代の変化を語りつつ、いずれも「主権国家意識の欠如した戦後意識」に由来する点で共通する、と批判的に指摘している。
 この点はまだ分かるのだが、次の文章との関係はどうなるのだろう。
 ・「親米反中だから、保守内閣であるとの誤解は、冷戦構造が世界的に終焉した現在にあっては全く通用しない」(p.171)。
 後半の冷戦構造の終焉うんぬんは、そのままでは支持できないことは何度もこの欄で書いた。よく分からないのは、野田内閣を「親米反中」内閣と性格づけていることだ(なお、「保守」内閣だなどと私は「誤解」したことはない)。
 まず、「中国拝跪」意識を水島が批判しているところからすると、野田内閣の「反中」性を批判し難いのではないだろうか。
 つぎに、野田・民主党内閣は本当に「反中」内閣なのだろうか。なるほど、鳩山由紀夫、菅直人と比べると<中国拝跪>性は弱いようにも思えるが、「反中」とまで言いきれるのかどうか。具体的に<南京大虐殺>の存在を肯定しているわけでもない村山談話を継承すると(河村たかし名古屋市長発言問題に関連して)官房長官が答えるような内閣は「反中」なのだろうか。
 〇「保守」派を攪乱する意図はないし、そのような力もないが、いろいろと考え方あるいは表現の仕方が異なるのはやむを得ない。ひょっとすれば、水島総における「反米」性(TPP参加反対はこちらだろう)と「反中」性との関係がよく分からない、ということかもしれない。
 だが、早晩憲法改正の具体的展望が出て来たときには、水島総が、その先頭に立つ運動家の一人だろうことは疑いえないだろう。この点では「思想家」佐伯啓思らよりもはるかに信頼が措けそうだ。余計ながら、西部邁と中島岳志はまるであてになりそうもない、という印象を抱いている。中島岳志は、憲法改正、正規の軍隊保持などという「ラディカル」な変化の追及は、「保守主義」と適合しない、などと言い始めるのではないか(??!)。
 〇西部邁・佐伯啓思グループの隔月刊・表現者(ジョルダン)は、橋下徹批判特集の最新号からは購読しないこととした。駄文につき合っているヒマはない。前の「発言者」時代の古書を購入したことすらもあったのに、ある意味では寂しく、ある意味では爽快でもある。
 このグループの橋下徹批判よりもレベルが落ちていると疑われる適菜収論考が<売り>の論文として宣伝されている月刊正論5月号(産経)も購入したくないが、はて、どうしたものだろう。

1086/橋下徹を単純かつ性急に批判する愚③―佐伯啓思ら。

 〇佐伯啓思は、新潮45/3月号で「橋下現象」に「イヤなもの」・「嫌悪感」を覚えるとし、それは近年の日本の「必然的帰結」・今日の日本の「象徴」だという。そして、「一歩間違えば、とんでもない事態にわれわれを導きかね」ないと警戒視する(p.323)。このような基本的論調は三点に分けられてより詳しく論述されているが、直感的にこれは誤っている、単純化しすぎていると思われたのは、佐伯のいう第一点だ。第二、第三点の叙述も疑問はあるが、橋下徹の「姿勢」・「手法」への違和感が示されているだけ(?)なので、とりあえず、以下では触れない。
 佐伯啓思によると、以下のとおり。
 ①橋下徹の基本的な「政策」は、90年代以降の「行政の無駄の削減、財政再建、福祉の見直し、地方分権、政治的リーダーシップの強化など」という「改革」論そのもので、それを「とことん徹底したもの」だ。
 ②「徹底した成果主義」・「実力主義、業績主義、強力な指導力」による「徹底した『改革』」こそ、90年代以降の日本を覆ったもので、「民主党現象」もそうだった。「改革」は官僚や既得権者を敵対者と見なした。
 ③これまでの民主党を含む「改革」が不十分だった(と感じられた)ために橋下徹が期待された。
 ④90年代以降の「改革」論は「成果主義や能力主義や財政再建化や自由競争」等の「いわゆる新自由主義政策」だったが、「橋下改革もきわめて新自由主義的傾向の強い」もので、大阪市の場合も「新自由主義によって社会に活を入れるというショック療法が施されている」(p.323-4)。
 おおむね叙述順に要約的に紹介したが、かかる議論あるいは分析は正鵠を射ているのだろうか?
 第一に、上にも出てくる「新自由主義」を筆頭に、「財政再建、福祉の見直し、地方分権」というより具体的でもなおも抽象度の高い諸概念の意味がきちんと明らかにされていないと、よほど忠実にこれまでの佐伯の議論を読んできた者以外には、ほとんど理解不可能だろう。
 第二に、かりにより高いレベルの読者が読んだとしても、にわかに賛同することはできないだろう。それはまずは、90年代以降の「改革」(論)という一色の歴史理解(時代認識)のもとに「橋下現象」を位置づけよう、把握しようとしていることによる。
 佐伯の言うほどに単純なものではなかろう。自民党(末期?)の「小泉」改革・民主党の「改革」・橋下「改革」と、同じ「改革」(論)だと一括りにしてよいものなのか?
 佐伯の時代認識は、学者・「思想家」らしく、抽象度が高すぎる。「左翼(=容共)・反日」政権として登場した民主党政権による「改革」を従来の「改革」路線の延長と捉えるのは妥当ではあるまい。なるほど民主党も「改革」を唱えたようだが、「戦後民主主義」のなれの果てと言える「左翼(=容共)・反日」政権による改革論を自民党のそれと本質的に同一視することはできないと思われる。
 実際にも、労働組合によって支持され、現在は日教組の「親分」が幹事長をしている政党が、いかほどの「改革」を行いえてきているかはきわめて疑問だ。その「民主党現象」と「橋下現象」が似たようなもので、したがって橋下改革も「おおよそロクな結果をもたせさないでしょう」とまで佐伯は断言するのだから、呆れてしまう。
 「地方分権」論といっても、自民党・民主党そして「大阪維新の会」とでは中身が異なる。立ち入らないが、「維新八策」における「国」・「地方」の役割分担に関する叙述を見ても、民主党の曖昧な「地域主権」論よりもまともだと思われる。
 佐伯は「成果主義」等々を批判するが、これを一概に批判することができないことくらいは佐伯だから分かっているだろう。また、佐伯は「新自由主義的」と橋下徹の政策を論定しているが、報道されている大阪市西成区に対する施策の方向を知ると、とても「新自由主義主義的」などと論難できるものではないように思える。
 交通事業の民営化方針も佐伯によると「成果主義や能力主義や財政再建化や自由競争」等の「いわゆる新自由主義政策」なのかもしれないが、大阪市営交通事業の経営主体等の問題は、抽象度の高い、「新自由主義」的か否かといったレベルで決せられるものではあるまい。
 「財政再建」も「福祉の見直し」も、似たようなことが言える。
 いっさいの「改革」が悪だ、いっさいの「変化」を許さない、という立場に立たないかぎり、佐伯啓思の議論は支持できるものではない
 第三に、以上とほぼ同旨だが、そもそも90年代以降の「改革」(論)を否定し批判する佐伯啓思の立論の内容および立脚点自体が、十分に説明されていないし、十分に肯定されるものなのかという問題があるだろう。
 佐伯啓思は、「改革」論の帰結は「地域格差」・「所得格差」・「地方のコミュニティの崩壊」・「医療現場の崩壊」・「労働と雇用の不安定化」・「教員や家庭の崩壊」だったとし、「何よりも経済はちっともよくはなせなかった」と、社民党や2009年選挙以前の民主党のようなまとめ方を簡単にしてしまっている(p.324)。
 このような「帰結」をもたらした「改革」論と橋下改革は同じなのかという問題のあることは先に述べたとおりだが、これらの原因をあげて「改革」論に求めることは、きわめて粗雑だと思われる。
 問題は「改革」の具体的中身、その達成手法、そして「改革」論議と実際になされた「改革」の区別、をきちんとふまえて論じられなければならないだろう。
 佐伯啓思は産経新聞2/20付で、「『改革』についての功罪」をこう述べている。
 「グローバル化の功罪、金融自由化の功罪、日本的経営の崩壊の意味、二大政党政治の功罪、小選挙区制やマニフェストの問題、これらを自民も民主も整理できていない。むろん、マスメディアもジャーナリズムとて同様である」。
 <改革の功罪>を誰も整理できていない、というのだ。いやおそらく、佐伯啓思自身は「整理」しているつもりなのだろう。だが、佐伯自自身の「整理」が、つまりは「改革」(論)を総じて批判し否定し消極的に評価するという結論自体の正しさが、十分に論証されていないとまるで説得力がない、
 佐伯にとっての「悪」を橋下徹は継承している、というのが佐伯の論点の一つで、橋下徹が「継承」しているとにわかに論定すべきではない、と上では述べた。いま一つの佐伯の論点は「改革」(論)は悪だった、ということにある。この点がここで批判しているところだ。
 90年代以降の「改革」(論)をこのようにまとめ、あるいは上記のように簡単に「改革」の帰結=「罪」を列挙するだけでよいのだろうか。
 ともあれ、佐伯啓思以外には誰も(?)整理できていない課題の克服を橋下徹らに求めても無理強いであり、整理していないことをもって論難することも橋下徹らにとっては酷というべきだ。佐伯啓思は声を大にして、民主党と自民党のほかに、「マスメディアもジャーナリズムも」批判するがよいだろう。
 簡単に上のことを再述すれば、以下のとおり。
 ①橋下徹らの政策が90年代以降の「改革」(論)の系譜上にあり、それをさらに徹底したものだ、という把握の仕方は、単純で性急すぎる。
 ②90年代以降の「改革」(論)がよいものではなかった、ということ自体が説得的には何ら論証されていない。佐伯啓思の頭の中にはあるのかもしないが、ほとんどの読者には伝わっていない、と思われる。
 いっさいの「改革」や「変化」を許さない、という立場に立たないかぎり、佐伯啓思の議論は容易に支持できるものではないのではないか
 産経新聞2/20付の佐伯啓思論考にはあまり言及しなかったが、上で紹介したのと似たようなことを書いており、ほぼ同じような感想を抱くので、もはや省略しておく。
 〇産経新聞2/23の特集記事中に、橋下徹のつぎの言葉が紹介されている。
 ・「世間の民意とは関係なく、自分の主義主張だけで『世の中の方が間違っている』『衆愚政治だ』『大衆迎合だ』『世論は間違っている』『市民は一時の熱情に狂っている』とか、平気で言えるのが学者だ」。 
 同じ記事によると、田原総一郞はこう言った、という。「橋下さんに対する批判の弱さに、日本のインテリの弱さが出た」、「日本のインテリは権力側を批判はするが、対案を持っていない。『じゃあ、あなたはこの問題をどうしますか』といわれたときに、答えを持っていない」。
 佐伯啓思そして<西部邁・佐伯啓思グループ>の面々は、これらの言葉をどう聞くのだろうか。
 書き忘れていたが、佐伯啓思は90年代以降の「改革」(論)を批判してきているが、「じゃあどうすればよいのか(よかったのか)」という問題には具体的にはほとんど何も答えていない、と思われる。地方分権にせよ財政再建等々にせよ、具体的な「対案」があるわけでもないのだ。論壇・大学のインテリ=「口舌の徒」は楽なものだ、とあらためて感じている。かかる皮肉も、「思想家」には何の痛痒にもならないのかもしれないが。

1084/橋下徹を単純かつ性急に批判する愚①―佐伯啓思。

 やはりというべきか、中島岳志、東口暁、藤井聡に続いて、佐伯啓思も橋下徹に対する批判的姿勢を明らかにした。①新潮45/3月号(新潮社)と②産経新聞の月一回連載(2/20付)においてだ。
 前者についてもっと後でコメントしようと思っていたが、新潮45誌上よりも批判・警戒視の気分が明瞭な産経新聞上の文章が出たので、とり急ぎ感想を書いておく。
 ・上と同日の産経新聞紙上に、日本共産党の志位和夫が橋下徹をヒトラーになぞらえて警戒視しているという特集記事中の文章があるが、②の最後で佐伯啓思はフランス革命期のジャコバン派の勢力拡大に言及し、「そうなってからでは遅い」という。
 ヒトラーとジャコバン派(ロベスピエール独裁)との違いはあるが、日本共産党委員長と佐伯啓思が似たようなことを言っている。
 もっとも、①の計11頁のうちの後半の5頁は違和感なく読めるもので(橋下徹批判になっておらず)、橋下徹は「独裁者」だという批判をむしろ和らげるものになっている。そして、独裁者は「橋下の後に?」との見出しのもとで、橋下徹が独裁者になるとは思わないが、「人気者」デモクラシーを続ければ「いずれ本格的に…独裁者がでてくるかもしれません」、「その事態になってからでは遅い」とまとめている。
 この①の最後に比べれば、②のまとめ方は、紙数制限のゆえだろうが、性急すぎるか、簡略化しすぎている。
 ・佐伯啓思は①で「橋下現象」に「危険なもの」よりも「イヤなもの」・「嫌悪感」を感じる、と書いている。一方、②では「大阪維新の会」に対して「原則的な」、「大きな危惧の念」を抱くと書いている。
 この二つはややニュアンスが異なる。「橋下現象」と「維新の会」とで使い分けているとは思えない。後者で見解をより明確化した、ということだろうか。
 ・佐伯啓思は①で「橋下現象を批判することは結構難しい」と書いているが、私にはそうは思えない。佐伯がまさに批判しているように、今日までの(とくに最近20年間の)時代の所産の一つで、ポピュリスト(・デマゴーグ)で、マスメディアによる「人気主義」・「面白主義」の結果だ、等の批判は容易だ。佐伯が言うように橋下現象は「われわれ自身の変形された自画像」で「時代の象徴」なのだろう(p.327)。
 もっとも、上のような趣旨は、紙数のゆえだろうが、②にはまったく出てこない。
 
・上のように、佐伯啓思の二つの文章には、若干のブレ、ニュアンスの違いなどがある。
 もう一つ例を示せば、「素人政治」に関する言及は②にはあるが、①にはない。かつ、②におけるこの点の叙述はその意味がよく判らないところがある。
 佐伯啓思によると、「民主党の失敗の最大の原因」は「にわか作りの素人集団による政治の貧困」にあったにもかかわらず、「維新の会」という「素人集団」に(教訓を無視して)期待するのはいかがなものか、ということらしい。これはこれでスジは通っているのだが、大阪府知事を三年間は務めた橋下徹らを「素人集団」と言い切ってよいのか、という疑問もある(余計ながら佐伯啓思らはこのような政治・行政実務をしていないはずだ)。
 また、そもそも次のような叙述の意味が判らない。―「従来の政党政治」では「党内実績や地元との交流、人間相互の信頼関係の醸成、官僚との調整など時間をかけた積み上げが必要」だったが、これらを「省略して政治主導による合理的解法を見いだせるする政治」が「素人政治」だ。
 後者の「素人政治」を消極的に評価しているのはかりによいとしても、では前者の「従来の政党政治」は(100%でなくともよいが)肯定的に評価されるものなのか。佐伯啓思の書きぶりからすると後者よりはだいぶマシなものと理解されているようだ。
 多言はしないが、「従来の政党政治」をむろん完全に消極的に評価はしないとしても、「金」等にかかわる政策と無関係の党内の人間関係とか、「利権」の混じった「地元の交流」とかもあったのであり、佐伯啓思がイメージしているほどには「従来の政党政治」は万全のものではないと思える。「官僚との調整」も「時間をかけ」ればよい、というものではあるまい。
 「民主党」と「大阪維新の会」を同じイメージで捉えること自体が―下記および別の回のとおり―疑問だが、民主党のいう「政治主導」という「素人政治」に対する批判を橋下徹らに対しても投げかけるのは、「従来の政党政治」の評価も含めて、いささか性急すぎるか、単純化しすぎているのではないだろうか。
 さらに、この「素人政治」に関する部分は、佐伯啓思の②の文章の中にうまく溶け込んでいない、前後との関係がよく分からない、という疑問もある。
 ・以上は、佐伯からすればおそらく瑣末な問題だろう。
 佐伯啓思の言っていることに対する基本的な疑問は、「橋下現象」や「大阪維新の会」の主張を、日本のこの20年間の「改革」運動の一つ・またはより徹底したものと理解し、佐伯による、近年の「改革」運動の否定的評価を前提にして、橋下徹らの主張をも批判し、「否定」しようとしていることだ。
 ものごとを単純化・抽象化する作業を頭の中で(書斎の中で)することは簡単だが、現実は上のように単純には把握できないと考えられる(この点は佐伯啓思の叙述自体をもう少し紹介しておく必要がある)。
 それに、佐伯啓思が言及していないこと、例えば、橋下徹が府知事時代に大阪護国神社に参拝したこと、橋下徹は日本の元首は天皇陛下だと述べたらしいこと、橋下徹は国歌・国旗を大切にする姿勢を鮮明にして、民主党または日本共産党を支持する教員労働組合と対決しようとしていること、もある。
 これらも視野に入れないで、簡単にあるいは性急に橋下徹らを論評してはいけないのではないか? また、東口暁に対して述べたように、橋下徹と対立した候補が当選した方がよかったのか?、民主党・自民党・共産党が揃って支援した対立候補が勝利することこそが「イヤな感じ」の「気味の悪い」現象ではなかっのか、と問うてみたい。
 長くなったので、途中で切り上げた。最後の段落部分については、あらためてもう少し詳しく述べる。その際には、「思想家」佐伯啓思のこれまでの基本的論調との関係にも言及するだろう。

1080/自衛隊の合憲性の根拠は芦田修正?

 2/02衆議院予算委員会で自民党・石破茂が田中某防衛大臣に自衛隊の合憲性についての憲法(九条)上の根拠を糾し、田中某が「しどろもどろ」の答弁をしたので、石破茂は、次を「模範解答」として教示した、とされる。
 ・九条二項冒頭のいわゆる「芦田修正」(「前項の目的を達成するため」の挿入)。他に「文民条項」も挙げたらしいが、これをも追加した意味は不明なので、以下では後者については省略しておく。
 誰かがどこかですでに書いているだろう。石破の憲法「解釈」は成り立ちうるものではあるが、これまでの政府見解とはまったく異なる。
 元防衛大臣の石破も、そして自民党も、上の問題についての「政府見解」を知らないとは、まったく呆れてしまう。それをご説ごもっともと?聞いていたらしい田中某も民主党政府全体も、そしてマス・メディアもどうかしている。この点を問題視していた全国紙はあったのだろうか。
 憲法9条の法解釈論を少しでも勉強したことがある者であれば誰でも知っているようなことだ。
 なるほど芦田修正を形式的に文言どおりに生かせば、前項(9条1項)による<侵略戦争の禁止(放棄)>のためにのみ「戦力の保持」が2項によって禁止されていることになる。換言すれば、<自衛(戦争)>のための「戦力」保持は禁止されておらず、自衛のための(堂々たる)「戦力」として自衛隊は認知されていることになる。
 しかし、政府の解釈も変遷してきたという曖昧さ・いいかげんさはあるのだが、昭和29年・自衛隊法制定時の鳩山一郎内閣時代の林修三法制局長官国会答弁(1954.12.21)は、次のようなものだった。
 ・「国家が自衛権を持っておる以上…〔自衛のための〕実力を…持つことは当然のこと」、「憲法が…、今の自衛隊のごとき…自衛力を禁止しておるということは…考えられない。すなわち第2項…その他の戦力は保持しないという意味の戦力にはこれは当たらない」。
 また、同時期の大村清一防衛庁長官国会答弁(1954.12.22)は、次のようなものだった。
 憲法は自衛権・「自衛のための抗争」を否定していない。「…従って自衛隊のような自衛…目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない」。
 要するに、芦田修正などは何ら根拠とされず、そもそも自衛隊は九条2項が保持を禁止する「戦力」ではなく<自衛のための実力部隊>にすぎない、とされたのだ。
 その後、佐藤栄作内閣時の吉国一郎法制局長官国会答弁(1972.11.13)は、「9条2項の戦力の定義」は「自衛のための必要最小限度を超えるもの」だと述べ、自衛隊は「超えるもの」ではないがゆえに「戦力」ではなく、従って憲法9条に抵触しない、とした。
 「戦力」の意義を明瞭にしているが、基本的な趣旨は、昭和29年の時期と同じだと解してよい。
 このような解釈については、常識的にみて自衛隊が「戦力」に当たらないとするのはこじつけだとか、「必要最小限度」とはどの程度かあいまいだ等の批判は当然にありうる。
 しかし、ともあれ、これが現在も生きている日本政府の(自衛隊に関する)憲法解釈のはずなのであり、石破が「芦田修正」を持ち出すのは、芦田に自衛隊(自衛軍)保持の余地を残したいという意図がかりにあったとしても、<公的な・公定の>解釈ではなく、一国会議員の解釈にすぎない。石破は1970年代以降に大学で憲法を学んだはずだが、よほど奇妙な(主観的な個人の解釈だけを示す)教師の講義を受けたのだろうか。
 こんな、自衛隊の存立基礎にかかわる問題について、与党も野党も、そしてマスコミも、国会における奇妙なやりとりを問題意識をもって聞いていないとは、まことに奇妙な、あるいは異様な事態だと思われる。ますますもって嘆かわしい世の中になってきている。

1077/産経新聞と櫻井よしこと遠藤浩一。

 〇「保守」概念、「保守主義」なるものの意味について考えている。これまでここで取り上げていない文献に言及したいこともある。だが、やや重たいテーマだ。あまり間隔を空けるのも問題なので(と勝手に感じている)、以下の程度でお茶を濁しておこう。
 〇産経新聞1/12櫻井よしこ連載「首相にもの申す」は、かなり興味深い。というのは、櫻井はこの文章の9割ほどをかけて、野田内閣の実績を評価し(「…評価すべき実績が見えてくる」)、同内閣に対する「期待」を語っているからだ。
 前者は①TPP交渉参加表明、②金正日死去の際の哀悼の意の不表明、後者は内閣改造によって「首相が税と社会保障の一体改革に伴う消費税増税に命運をかけた攻勢に出る」ということで、「党内の反対を考慮せず信ずるところを実行に移すのがよい」と述べている。「集団的自衛権の行使を決断」することへの期待も語っている。
 野田佳彦は民主党内「保守」派とされているようで、なるほどイメージとしては鳩山由紀夫や菅直人よりはましのようにも感じる。
 だが、こんなに評価し、期待してよいのだろうか。評価すべきとする①は論者によって(「保守」派論者の中でも)異なるだろうし、②は「当然といえば当然」なのではないか。
 また、もともと、産経新聞上での「期待」を野田はどれほど意識するだろうか、(消費税増税についても議論があるところだが)かりに妥当な内容であったとしても、どれほどの「応援」になるのだろうか、という気もする。産経新聞のスタンスとしては、民主党内閣に対しては、少なくとも<やや辛口>程度ではいるべきだろう。勝手な期待?だが、そうした期待?からすると、櫻井よしこの文章は、産経に期待するレベルを超えて民主党内閣に「甘い」。
 産経新聞1/16の「正論」欄の遠藤浩一の文章は、櫻井よしことはだいぶ論調が異なる。
 遠藤は、内閣改造による「社会保障と税の一体改革」への「不退転の決意」表明に(櫻井よしこの上記文章もあるが-秋月)世論も市場も冷たく、それは「こうした重要にして困難な政策を進めていく当事者能力および適格性が野田・民主党政権にあるのかという不信が払拭されていないからだろう」等と述べる。
 そして一番最後の文章は、「野田氏に期待するのは空しいということである」、となっている。
 櫻井よしこによる「期待」を意識して書かれたのではないだろうが(あくまで推測)、遠藤浩一のスタンスは櫻井とはかなり異なる。
 こういう違いが同じ産経新聞紙上で見られるのは興味深いことだ。そして、遠藤浩一の感覚の方が、私はまっとうだと思っている。 

1073/月刊WiLL2月号の中西輝政論考・九条の呪い・総選挙。

 〇自民党幹事長・石原伸晃は1/03に「1月の通常国会の冒頭に解散すれば1カ月で政治空白は済む」と発言したらしい。今月解散説だ。今月でなくとも、今年中の解散・総選挙の主張や予測は多くなっている。
 にもかかわらず、産経新聞も含めて、「(すみやかに)解散・総選挙を」と社説で主張する新聞は(おそらく地方紙を含めても)ない。のんびりとした、何やらややこしく書いていても<あっち向いてホイ>的な社説が多い。
 朝日新聞は総選挙を経ない鳩山由紀夫退陣・民主党新政権発足(「たらし回し」)に反対していたが、近い時期に総選挙をとはいちおう社説で書いていた(2010年6月頃)。朝日新聞がお好きな「民主主義」あるいは「民意」からすると、「民意」=総選挙によって正当化されていない野田・民主党内閣も奇態の内閣のはずであり、今年冒頭の社説では<すみやかに解散・総選挙をして民意を問え>という堂々とした社説が発表されていても不思議ではないのだが、この新聞社のご都合主義または(自分が書いたことについての)健忘主義は著しく、そのような趣旨は微塵も示されていない。
 マスメディア、大手新聞もまたそこそこの<既得>の状況に安住していて、本音では(産経新聞も?)<変化>を求めていないのかもしれない。

 〇月刊WiLL2月号(ワック)の中西輝政論考の紹介の続き。
 ・日本「国家の破局」の到来が危惧される3つめの理由は、「
政党構造が融解し、国内政治がまったく機能していないこと」だ。「保守」標榜の自民党も「見るに堪えない状況」で、「大きな政界再編の流れ」は全く見られない。官僚も企業も同じ。今年に解散・総選挙がなければ、日本は今年の「世界変動」に乗り遅れるだろう。ロシア大統領、台湾総統のほか韓国大統領選挙もあるが、新北朝鮮派(野党・韓国「民主党」)が勝利すれば、38度線が対馬海峡まで下がってくるような切迫した状況になる。そして、日本は「親北」民主党政権なのだ。日本には「冷戦終局後かつてない危機が、さらに明確な形で目前にまで迫っている」(p.40-42)。
 ・だが、全くの悲観論に与しない端的な理由は、<欧州も中国ももはや一つであり続けられない>のが、2020年代の大きな流れだからだ。EUは崩壊するだろう。中国でもバブルが崩壊し「社会体制」も崩れて「国家体制」を保てなくなるだろう(p.42-43)。
 ・かかる崩壊は「民主主義と市場経済の破綻」=「アメリカ的なるもの」の終焉にも対応する。アメリカ型市場経済は臨界点を超えると「激発的な自己破壊作用」に陥る。「物質欲、金銭欲の過剰」は「市場経済のシステム自体」を壊す。「個人が強烈な物質主義によって道徳的に大きく劣化し、『腐敗した個人主義』に走り」、「自らの欲望」だけを「政治の場」にも求める結果として、「民主主義そのものがもはや機能しなくなっている(p.43-44)。

 ・①「過剰な金銭欲」と②「腐敗した個人主義」という「現代文明の自己崩壊現象」が露呈している。「アメリカ由来の市場経済も民主主義も、長くは機能しない」。「アメリカ化」している日本に、むろんこれらは妥当する。この二つが日本を壊すだろうと言い続けてきたが、不幸にも現実になった。だが、これは「アメリカ一極支配の終焉」でもある(p.44)。
 ・「グローバル」化・「ボーダーレス」・「国家の退場」・「地球市民社会」などの「未来イメージ」は結局は「幻想」だった。アメリカ一極支配後の核心テーマは、「国家の再浮上」だ。この時こそ、「一国家で一文明」の日本が立ち上がるべきで、その状況まで日本国家が持続できていれば、「日本の世紀」になる。これが「短期の悲観」の先の「長期の楽観」の根拠だ(p.45)。
 ・「固有の文明」をもつ日本は有利だ。だが、「民主主義を荒廃」させる「腐敗した個人主義」の阻止が絶対条件だ。日本文明の再活性化・国民意識の回復のためには、「国家の刷新、とりわけ憲法改正が不可欠」だ。とくに憲法九条の改正。「すべてを、この一点に集中させる時が来ている」(p.45-46)。
 ・アメリカ「従属」、歴史問題・領土問題・財政問題・教育問題などはすべて、「九条の呪い」に発している。憲法改正に「保守」は正面から立ち向かうべきだ。今の危機を乗り越えれば、「日本の時代」としての2020年代が待っている(p.46-47)。
 以上。
 アメリカ的市場経済に批判的なところもあり、ある程度は佐伯啓思に類似した論調も見られる。
 「腐敗した個人主義」という形容または表現は面白い。利用?したくなる。
 おおむね賛同できるが、「九条の呪い」という表現や叙述は、朝日新聞の若宮啓文等々の「左翼」護憲論者、樋口陽一等々の大多数の憲法学者はとても納得できない、いや、理解できないに違いない。

 最終的には条件つきの楽観視で中西輝政はまとめているが、はたしてこのように楽観視できるだろうか? そのための「絶対条件」は達成できるだろうか? はなはだ心もとない。

 中西輝政は真意を隠してでも多少は煽動的に書く必要もある旨を述べていたことがある(この欄でかつて紹介した)。従って、条件つきの楽観視も、要するに「期待」・「願望」にすぎないのだろう、とは言える。だが、微かな希望でも存在しうると指摘されると、少しは精神衛生にはよいものだ。

1071/岡崎久彦・真の保守とは何か(PHP新書、2010)の一部。

 「保守とは何か」に関する文章・議論を昨今にもいくつか目にした。以下もこれに関係する。
 岡崎久彦・真の保守とは何か(PHP新書、2010.09)は岡崎の2007~2010年のほぼ三年余の間の論考をまとめたもので、最後から二つめの「真の保守とは何か」(初出2010.05.18、新潮45)を読んでいただいても「本書を発刊した目的の半ばは達成された」と思っている、とされる(p.4-5)。
 書名にも採用されたこの論考で、まず注目を惹いた文章は、あえて引用すれば、つぎの二つだ。
 ①「どの程度政府の統制が望ましいか、民営化と政府の統制のどちらがいいかなどということは、どちらが民主主義の正統路線か、あるいは保守の本流であるかというような大きな問題ではない」(p.213-4)。
 ②「真の保守主義は、経済問題ではなく、外交、安保、教育などの面でその真価が発揮されるべきものである」(p.215)。
 これらは適切であるように思われる。基幹産業の全面的国有化を別にすれば、経済政策、あるいは「経済」への国家(政府)関与の程度・形態は、<保守か左翼か>という対立軸で決定されるものではないだろう。「保守」(主義)から見て、郵政民営化の是非が決定されるわけではないし、「規制緩和」の是非も同様だ。

 昨今問題にされているTPP参加問題にしても同様だろう。また、原発政策(推進・維持か廃止・脱か)についても言えるように思われる。現に、これらについて(自称)「保守」論者の中でも対立がある。そしてそれは当然であって、「保守」か否かによって、あるいはいずれが「真の保守」かによって決定される政策問題ではない、と言うべきだろう。
 岡崎の文章の中には、自民党の綱領や主張にも関係する、以下のようなものもある。
 ・小泉・竹中改革には「規制廃止、自由競争原理〔の重視〕」こそ「真の民主主義、保守政党」という主張があるようだが、「特に、郵政民営化」を考えると、日本の従来型制度をバークが批判した「人間の理性、あるいは浅知恵で急速に」変えようとし「すぎたきらい」はなかったか(p.213)。
 ・「経済の自由化」を謳うから「真に保守的」で、「規制を強化」すればただちに「社会主義的」とするのは日本政治では「ほとんど意味がない」(p.215)。
 「しすぎたきらいはなかったか」という郵政民営化に関する抑制的なコメントも含めて、基本的に同感だ。
 全面的な国家計画経済さえ選択しなければ、広義の「自由主義〔市場主義)」の範囲内で経済に対する規制強化も規制緩和もありうる。どの程度が具体的に妥当かどうかは国家によって、時代によって、あるいは経済(産業)分野ごとに異なるもので、一概にに断定できるものではない。そして、これらの問題についての解答選択は、何が「真の保守か」とは関係がない。無理やり、「思想」または「主義」の問題に還元させるのは、無意味な思考作業だろう。
 その他、以下のような岡崎久彦の文章も、読むに値するものだ。
 ・「岸、佐藤、福田の安保優先政策、親韓、親台湾政策に対抗する、経済優先、親中政策」が「保守本流」だとするのは、「高度経済成長の功を全部池田内閣に帰」そうとする、「フィクション」だ。

 ・「自称の保守本流」は「安全保障重視のタカ派保守」に対して自分たちは「経済優先のハト派保守だ」と言いたいのだろうが、もともと「安全保障と経済は対立概念ではない」。これを対立概念のごとく扱ったことから「一九七〇代以降の日本の政治思想の頽廃が起きた」(p.219-220)。
 <経済優先のハト派>が「保守本流」だとの意識・議論が(自民党内に)あったとは十分には知らなかったが(むしろ逆ではないか)、趣旨はよく分かる(つもりだ)。
 では、岡崎にとって「真の保守」とは何か。引用は少なくするが、以下のごとくだ。
 ・「国家、民族と家族を守るのが保守主義である」(p.224)。自民党は、明確な国家意識と家族尊重の姿勢を示し、「外交政策、安保政策、教育政策」をはっきり表明することが、「再生の王道」だ(p.225)。
 ・かかる「真の保守に立ち戻る」のでは「国民の広い支持を得られないという危惧」はあるが、「中間層はいずれにしても大きく揺れる」のであり、「固定層からの確固たる支持票を得ている政党」は強い(p.225)。

 ・「志半ばで病に倒れた安倍政権」の「戦後レジームからの脱却」こそが「保守主義」だ(p.229)。
 岡崎久彦のこの本は菅直人政権発足後、かつ3・11以前に刊行されている。そして、人柄なのかどうか、民主党、あるいは菅政権に対する見方が「甘い」と感じられるところや日本の将来をなおも?楽観視しすぎていると感じられる部分もある。
 だが、基本的には賛同できる内容が多い。
 この欄に書いてきたように、基本的には、「保守」主義とは「反共(反容共)」主義だと思っている。後者は「保守主義」概念のコアではないとの議論がありかつ有力なのだとすれば、「保守」という言葉にこだわるつもりはない。
 この点はともあれ、「保守」=「反共」という理解の仕方と、岡崎久彦の文章は矛盾しているわけではないと考えてよいだろう。

1067/大阪の自民党は嘆き、自らを嗤え-大阪ダブル選挙。

 〇大阪市・大阪府の選挙については<維新(の会)対反維新>または<既成政党対維新>という対立軸も示された。
 そのとおりではあるだろうが、正確には「自民・民主(・共産)という全国的政党」対「維新の会」という二年ほど前にできた地域政党(ローカル・パーティ)との対立だった。
 前者の複数の政党の支持票をまとめるだけで、十分に「維新」などという地域政党に勝てるはずだった。しかもなお、維新の会の側に対しては、「バカ新潮・文春」(11/27夜の橋下の表現)による代表・橋下に対する<陰湿な>個人攻撃まであって、これがボディ・プローのように利いて、橋下(市)と松井(府)がたやすく勝てるとは思えなかった。日本共産党は<反独裁>批判を正面に掲げ、結果的・機能的にはそれと同調する「左翼」の佐高信・中島岳志等々による橋下徹攻撃もあったのだ。
 選挙日の前までに、中田宏・政治家の殺し方(幻冬舎、2011)を半分程度は読んでいたこともあり、橋下徹の政治生命もひょっとすれば危ういのではないかとすら危惧した。
 月刊WiLL1月号(2011.11、ワック)は「週刊誌の病理」との特集?を組んで、中田宏の文章とともに宮崎学「橋下前大阪府知事の出自を暴く異常」を掲載したのだったが(p.278~)、広告・発売が選挙の前日では、ほとんど投票行動に影響はないものと思われた。
 それよりもとっくに前に、月刊新潮45(新潮社)12月号は「続・『最も危険な政治家』橋下徹研究」という「特集」を組んで、橋下批判の第二弾を撃ち、この特集名を表紙にも大きく載せていたのだ。

 にもかかわらず、維新の会の橋下と松井は、結果としては文句なしの<大勝>だった。一週間前の各新聞社の予測からの印象を上回る、十分な差がついた。

 マスコミ、とくに新潮社については別の回に触れる。
 〇この結果は既成政党に衝撃を与えているとされる。上に述べたようなことからして当然だろう。
 日本共産党の票が大阪市内で10万票あったとすると(府知事選挙での共産党候補得票数は約12万)、そして社民党その他の他の政党の票も加えて除くと、自民党と民主党の支持者からは40万票ほどしか平松某に流れていない。一方、橋下徹(維新)は75万票を獲得した。自民と民主がかりに同じ程度だとすると、20万、20万に対して、橋下(維新)は75万なのだ。
 地方自治体の首長選挙であることを強調して、衝撃・影響力を薄めたいかのごとき発言をしている民主党幹部もある。自民党幹部の中にもいるかもしれない。
 だが、すでに選挙前に書いたことだが、この選挙結果によって最も深刻な影響を受けたのは自民党だと見なすべきだ。
 自民党府連は市・府議団による<反橋下>方針をそのまま承認した。結果としては自民党の本部(中央)もまた、これを容認した、と理解して差し支えないだろう。
 実際にも、小泉進次郎を大阪には送らなかったようだが、片山さつき佐藤ゆかりという自民党の二大マドンナ?は大阪へ行って、反橋下(平松ら支持)の演説を行なっている。
 産経新聞11/28の表現・文章構成を一部引用しつつ述べれば、「深刻さでは自民党の方が〔民主党よりも〕上だろう」。
 なぜならば、「国政で〔民主党と〕対決しながら反維新の会で〔大阪では〕手を結んだバツの悪さがある」。
 このあと産経の記事には、「市長選では共産党とも共闘した。これでは国会での応酬を茶番劇だと言われても仕方がない」、とつづく。
 市長選での日本共産党との「共闘」は、<共産党があとから勝手に乗ってきただけ>と言い逃れることができるかもしれない。しかし、紛れもなく言い逃れできず、説得力ある説明ができないと思われるのは、市・府のいずれにおいても、<なぜ民主党と手を組んだのか?>だ。
 11/29に自民党中央の石原伸晃(幹事長)は大阪で、「維新の会との距離感」について、「自民党出身が多いことから『維新は保守の陣営。シンパシーもある』と秋波を送った」とされる(産経ニュース)。
 「維新は保守の陣営」などと選挙が終わってから、かつ選挙で自党推薦候補がダブルで敗れてから、よくぞ言えたものだ。
 むろん、実質的な責任は、石原伸晃(・谷垣禎一)よりも、自民党の大阪府連、そして大阪市議団・府議団に、より大きいのだろう。
 自民党中央の幹部はもちろんだが、深刻に受けとめて反省すべきなのは、<反橋下>・<反維新>を選択・判断した同党の大阪府連、大阪市議団・府議団だろう。
 上記の元横浜市長による中田宏・政治家の殺し方(幻冬舎)には、地方議会の議員たちは党派は違っても(首長対議会という二元構造からくる)「仲間意識」があり、「市議会は相乗り=オール与党議会が一番楽なの」だ等の指摘がある(p.55-60)。
 こうした事情に、国会議員の大多数は「小選挙区」または「一人区」から一人だけ当選するのに対して、政令市の市議会や府議会の議員は複数者当選の選挙区から選出される、ということが加わる。
 すでに同旨は書いたことだが、とくに大阪市について言えば、民主党らの議員とともに平松某市長の与党議員であり続けたい、与党議員としてうまく棲み分けたい、というのが自民党大阪市議団の本音であったかに見える。
 与党議員であってこそ、支持者からの要望・要求を(市長に直接にではなくとも)局長以下の行政公務員に「伝えて」、支持者に感謝され、次期選挙での再選を期待することができる…。
 このような至極幼稚な(政策理念のほとんどない)意識のもとで、じつに安易に平松某支持=反橋下を選択したのではなかっただろうか。これで天下の?大阪市の議会議員とは、情けないものだ。
 自民党支持者・有権者の方が賢明に判断していた、とも言える。新聞・テレビ等によりデータは同一ではないが、自民党支持者のおおむね50%が、(平松某らの)<反維新>候補ではなく、橋下・松井という<維新>候補に投票したようだ。そうした票の少なくとも一部には、日本共産党までが支持している候補に投票したくはない、という者もいたに違いない。
 もはや遅いかもしれない。大阪の自民党は、かりに<維新の会>がそれなりに適切な候補を出し続ければ、大阪市議会でも府議会でもそして国政選挙でも、<維新の会>に負け続けるのではないか。
 それだけの痛みをもって、大阪の自民党は今回の選挙の「総括」をするだろうか?
 繰り返しておくが、全国ニュースでは、自民党が民主党政権を終わらせるために来年前半にでも衆議院解散・総選挙を目指す、という報道がなされているときに、同じ自民党の大阪では、民主党と闘いもせず、同じ候補を担ぐとはいったいどうしたことか?
 他に候補がいなかったわけではない。自党で候補を擁立できないならば、(少なくとも相対的にはマシな候補として)橋下徹・松井一郎がいたと思われるのに、なぜ後者を支持・推薦できなかったのか?。最悪でも(公明党と同じように)自主投票という苦渋の?選択もあり得た。
 大阪の自民党は大いに嘆くべきだ。その愚かな判断を自らで嗤うべきだ

 もちろん民主主義=多数者の判断=「正義・善」などという単純な考え方を前提にしてはいない。民主主義が誤った結果をもたらすことはありうる。
 だが、大阪の自民党の判断が「現実の力」にはつながらなかったことは間違いのないことだ。政治的にはやはり「敗北」だ。
 なお、こうした大阪の自民党の態度を捉えて、(谷垣)自民党と民主党は<同根同類>だなどという櫻井よしこの認識に同調しているわけでは全くない。
 外国人地方参政権付与を求めているようである民団(韓国系)の集会に、(民主党や公明党等とは異なり)自民党は挨拶をする国会議員を一人も送っていない。この点だけでも、民主党と自民党は「同根同類」だとは言えない。そのような違いがあるはずなのに、そうした「政策」・「理念」よりも、大阪の地方議会議員は<保身>を優先した、ということをきちんと記録しておきたい。

1061/日本の異様さ-共産党の存在。

 産経新聞10/28に、ソ連崩壊20年・第5部「共産主義は今」の米国編が載っている(古森義久執筆)。それによると、「一連の世論調査」でアメリカ人のうち「保守主義者」と自認する者は40%前後、「リベラル派」は20%前後、「自分を公然と社会主義者だと認める人は統計上、ゼロに近い」。そして、アメリカでの「社会主義」は「西欧型の社会民主主義」を指すが、「共産主義は一党独裁、個人の抑圧、市場経済活動の禁止などマルクス主義としてまた別扱い」らしい。
 さすがに米国という感じだ(社会主義と社民主義との関係の説明と調査での支持率には少し疑問も湧くが)。これが日本だとどうなるか?
 「保守」自認は20%前後、「リベラル派」は20~40%、それより左の社会民主主義・共産主義は少なくとも10%はあるものと思われる。
 日本の世論調査では「無党派層」という「日和見」層・「無定見」層が多いのが特徴だが、上の<「リベラル派」は20~40%>とする根拠は、あれほど評判の悪かった菅直人内閣ですら、内閣支持率を最低でも20%前後を維持したこと、民主党支持者の率もその程度は(強固に)ありそうであることを根拠にしている。
 社民党や共産党(それぞれ日本の)の国会獲得議席は減少しており、そのことをもって日本の<保守化>を(誤って)語る者もいるようだが、しかし、合わせて10%程度の得票率は維持していると思われる。また、民主党という政権獲得可能性のある(自民党ではない)政党の登場によって、元来の共産党・社民党支持者の投票先が民主党へと(非自民党政権を誕生させかつ維持するために)流れている可能性が高い。したがって、民主党にあたる政党がなければ、政権「批判」票は元来の支持の共産党や社民党に戻る(そしてこれらの議席は増える)可能性はあるように思われる。
 ともあれ、あらためて刮目すべきなのは、アメリカと日本との間にある、国民または有権者の政治意識または「社会思想」意識の大きな違いだ。
 公然と「共産主義」社会の実現を最終目標として綱領に掲げる政党が国会に議席をもち、それなりの(当面は民主主義の徹底を掲げているにすぎないにせよ)支持者があること自体が、アメリカと、そしてイギリスやドイツとも決定的に異なることを―何度もこの欄で書いたことだが―知らなければならない。
 フランスやボルトガルあたりの事情は少し異なるかもしれないが、北欧も含めて、欧州では(米国とともに)共産党や共産主義者は<ほぼゼロ>と言ってよいだろう。
 日本における共産主義「思想」の残存は、広い「左翼」の存在の原因でもあり、結果でもある。
 例えば、日本共産党・「赤旗」が存在するがゆえにこそ(そして一方に産経新聞があるがために)、朝日新聞・毎日新聞でも<中庸>に感じさせてしまい、これらの読者も<共産党(共産主義)ではない>として安心して少なくとも「何となく左翼」にはなってしまう。
 また、日本共産党・「赤旗」が存在するがゆえにこそ、非(・反)共産党かつ非(・反)自民党という立場が<中庸>であるような気にさせてしまうところがある。「左翼」とは自覚していない、<リベラル派>はたくさんいるのだ。
 そのような、紛れもない「左翼」を、「中間」・「中庸」(そして公正中立?)だと感じさせる役割を、日本における共産党やマルクス主義は果たしているわけだ。
 さらに言うと、論壇・アカデミズム(大学等)の世界において、非(・反)「共産党・共産主義」かつ非(・反)「保守」というのは、最も安全な「思想的」立場になっているのではないか。
 そのようなかつての「進歩的知識人」の代表が、丸山真男だった。明確な「左翼」の大江健三郎も、おそらく非・共産党ではあるだろう(=共産党員ではないだろう)。
 これらの非(・反)「共産党・共産主義」かつ非(・反)「保守」という立場の知識人たちは(アメリカでいう「リベラル派」の一般国民も含めてもよいが)、反共(反共産主義)か反・反共(例えば=「反ファシズム」)の選択を迫られれば、どちらを選択するのか?
 これは近い将来にでも設定されうる大きな分岐点になると思われる(擬似的ミニチュア版はすでに大阪市長選挙で見られるようだ)。
 丸山真男は反・反共(=「反ファシズム」)を選好しただろうし、現在の大江健三郎もそうなのではないか。
 その他大勢の非・反共産党(・共産主義)で非・反「保守」の国民は、いったいどちらを選ぶだろうか。非・反共産党(・共産主義)を拒否しない可能性がある(つまり「容共」。これは日本と欧米との決定的な違いだ)、というのが、私が日本の行く末を深刻に懼れている根拠・理由でもある。

1053/雑誌・表現者(ジョルダン)や中島岳志は「保守」派か??

 一 隔月刊・表現者39号(ジョルダン、2011.11)には西部邁や佐伯啓思らが参加する「保守思想から見た原発問題」との座談会があり、何カ所かに「保守放談」と題するコラム(小文)があったりもするので、紛うことなき<保守>派の雑誌らしい。少なくとも発行者や執筆者たちはそのように自己規定しているようだ。
 しかし、客観的に<保守>派かどうかは別途論じられてよい。
 西部邁もまた「自称保守」や「保守を自称する人々」を批判するところがあり(p.18-)、「保守」との自称がその「保守」派性を証明するわけではないことを当然の前提にしている。
 「反左翼」=「保守」だとかりにすれば、西部邁は「反左翼」を批判している部分もあり(p.26など)、彼が「保守」または「反左翼」の少なくとも一部に対して懐疑的であることも分かる。
 同じ思考は、西部邁らの(西部邁と佐伯啓思を「顧問」とする)表現者という雑誌についても向けられてよいだろう。この雑誌に執筆している者たちは「保守」なのか?、「自称保守」にすぎないのではないか?、という疑問をもっても、その思考方法自体については、西部邁も反対できないだろう。
 この雑誌・上掲号の冒頭近くの三浦小太郎の「保守人権派宣言」と題する連載ものらしい二頁の文章の最後は、ソルジェニーツィンが「資本主義も共産主義も同根の…危険性を持っていたことを見抜いていた」ことを肯定的に評価しているようで、ソルジェニーツィンの地点まで「思想的に深め」られれば、「現代日本への根源的な批判となりうるはずだ」という(p.15)。
 趣旨は分からなくはないが、しかし、「資本主義も共産主義も」という両者の同列視・同質視ははたして「保守」派の思想なのか、という疑問も生じる。反共産主義・反コミュニズムこそが(コミュニズム誕生以降の)<保守>思想の中核だと私は理解しているからだ。

 むろん<保守>はいろいろに定義または理解できるのだが、この西部邁グループのいう「保守」がいかなる意味で使われているのかは、参加者において一致しているとは思えないし、雑誌自体がきちんとした定義をしているとも思えない。「保守」、「保守」とこの概念を多用する前に、この雑誌は一度、現在の日本における「保守」派ないし「保守」思想とは何かについての詳細な座談会を組んでみたらどうか。

 なお、今年6月にこの欄に、「西部邁・中島岳志ら『表現者』グループは『保守』か?」と題する文章を私は書いている。

 二 すでに感じていた疑問または関心からも興味を惹くのは、とくに、中島岳志の「橋下徹大阪府知事こそ保守派の敵である」と題する文章だ(p.114-120)。

 中島岳志はこの文章では自らを「保守派」と明確に位置づけている(p.114)。ここですでに、中島は別のところでは(朝日新聞では)自らを(じつに奇妙な形容の)「保守リベラルの立場」と書いたのではないか、「保守派」と「保守リベラル」は同じなのか、と突っ込みたくなる。
 上はさておき、この文章はタイトル通り、橋下徹に対する「保守」派(自称)からの批判であり、「保守派」は橋下徹を支持してはならない、という警告?になっている。
 しかし、賛同することはできない。いくつかの論理の飛躍、都合のよいように(批判しやすいように)対象を歪曲しての批判、が見られる。
 詳しくは述べない(長くなりすぎる)。だが、橋下は「保守的どころか、反保守的と言わざるを得ない側面がほとんどである」という結論(p.114)には十分な説得力がない。
 中島によると、橋下は伝統・慣習よりも「法というルール」を「絶対視する傾向」がある(p.15)、橋下にとっては道徳・倫理ではなく「明文化されたルール」等に価値がある(p.117)。
 また、中島は、「大阪市の解体」を「一気に進める」べきとの橋下の主張は「ラディカリズム」あるいは「急進的な設計主義と伝統的価値観の否定」だとする。橋下の「ラディカルな改革熱」とともに、かかる「ラディカルな合理主義」に対して、「保守思想」は「懐疑的立場」をとるのだそうだ(p.118)。したがってまた、中島は「中央政治をぶっ壊す」との橋下のブレインとされる上山信一の文章にも噛みついている(p.119-)。
 中島のような断定的結論を導くには、中島が例として挙げる橋下徹の文章・発言は少なすぎる。それらは中島岳志のようには解釈できない可能性は残る。また。中島は自己が想定する「保守」思想とは矛盾するまたは対立する「反保守」の思想をあらかじめ想定して、その中に橋下の文章・発言を(慎重さの必要に配慮することなく)位置づけている可能性が高い。
 また、橋下の文章・発言等はむろん何らかの事案・問題との関係性を持っているので、単純に、中島の言うような、<伝統・慣習>か<法的ルール>か、(漸進的な改革ではない)<ラディカルな(急進的な)改革>の是非、といった一般論でその是非を判断することはできないように思われる。

 橋下が言っているわけではないが、<今こそ憲法改正を>とか<今こそ日本も核武装を>という主張は「急進的な変化」を追求するもので、「保守」思想から外れるものなのだろうか(かかる主張自体の現実的当否をここで述べているのではない)。
 あるいはまた、<戦後体制・戦後民主主義>からの脱却にはかなり思い切った覚悟と勇気が必要であって、ある意味ではラディカルな=急進的な主張や実践的運動にならざるをえないところがあるように思えるが、中島はそのような「ラディカルさ」をいっさいの場合について非難するつもりなのだろうか。
 中島は<大阪市の一気な解体>という主張のラディカルさを批判しているが、問題はそこにあるのではなく、「大阪市の解体」という主張の当否にあるはずだ。しかも、そもそもが、現行法制上(中島は「法」がお嫌いのようだが)、大阪市を簡単に(一気に)解体することなど不可能なのだ。横浜市、名古屋市らとまったく無関係に、大阪市だけの解体などがありうるはずがない。
 中島は最後の方であらためて、橋下徹を「大阪市を解体し、国家まで解体しようとする」「自称改革派」と性格づけ、「保守が支持してよいのでしょうか」と警告?している。
 「大阪市の解体」については上でも言及したが、中島は、その議論に対する詳しい反論(大阪市存続論)を叙述しているわけでもない。
 「国家まで解体しようとする」となるとますます怪しい。
 この部分に対応するのは、上山信一の「中央政府をぶっ壊す」との表現だろうと思われる。だが、後者の「ぶっ壊す」は「廃棄」=<消滅させること>ではなく現状を大きく変える程度の意味だろう。また、そもそも、「中央政府」と「国家」は同じ意味ではない。
 しかるに、中島岳志の頭の中では、上の表現が<国家の解体>を意味するものと読み替えられているのだ。
 これはフェアな批判ではなく、自己の主張に都合のよいように対象を変化させたうえでの<卑劣な>方法による批判にすぎない。そして、中島岳志という人物の頭の<幼稚さ>を示してもいるだろう。
 ところで、注目されてよいのは、橋下徹が大阪府知事を辞任して大阪市長選挙に立候補するという時期に、中島岳志は上の文章を公にしている、ということだ。
 前回に書いたように、この中島岳志という人物は、香山リカらととともに、大阪で<反ハシズム>集会に参加して喋っている。
 ひょっとすれば、この集会は、大阪府の(橋下らの会派が提案した)職員・教育に関する条例を批判するための集会だった(橋下徹を一般に批判したわけではない)と釈明?するかもしれないが、10月下旬という時期に橋下徹を批判することが、対立候補となることが想定された(そして現実にもそうなった)民主党・平松某を助けることとなる政治的機能を果たすことは容易に考えられえたはずだった。
 そして、今回とり挙げている雑誌・表現者において、たんに特定の条例に対する批判ではなく、一般的な橋下徹批判を中島は展開しているわけだ。
 従って、たんなる反橋下集会への参加・発言を捉えてではなく、一般的に、以下のように言うことができる。
 中島は橋下徹を「反保守」として批判・罵倒するが、では民主党・平松某をいったいどのように評価しているのか??
 選挙・投票を前にした時期に一方だけを批判することは、そうではない片方を支持・擁護し、その片方の当選・勝利へと導こうとする意図を持っているとしか考えられない。
 なぜ、中島岳志の文章には、「民主党」もその擁立する「対立候補(平松某)」もひとことも出てこないのか。
 結局のところ、橋下徹を批判することによって、少なくとも客観的な機能としては、民主党・平松某を支持していることにしかならないと思われる。しかして、現時点において、相対的には民主党・平松を擁護することになる文章を公にするような人物はまっとうな「保守派」なのか??
 橋下徹を批判することが結果として(少なくとも大阪の、そしてひいては国政上の)民主党を「持ち上げる」関係になることは明らかだ。
 中島岳志は実質的には、大阪の選挙における民主党支持を表明していることは明らかだ。少なくとも大阪市長選挙においては、民主党・平松某と橋下徹(大阪維新の会)が対抗しているのであり、橋下徹よりも「保守」的な候補はいない。
 もう一度言っておこう。かかる構図の中で、民主党の候補を支持することとなる文章を書く者は「保守」なのか??
 三 中島岳志という人物を「飼っている」表現者グループないし西部邁グループの「いかがわしさ」は、表現者39号でも明らかになった、と思われる。
 寺脇研もこのグループの一人らしく、かつ大阪で橋下徹の教育・教員政策を批判していること、中島岳志は「ラディカル」な改革とともに、野田佳彦首相が唱えているらしき「中庸」もまた批判していること(p.148-)との関係の曖昧さ・不思議さ、についても気にかかるが、さしあたり省略する。

1052/自民党の自殺-大阪の自民党のバカ(アホ)。

 大阪府知事選につき、10/25時点で、自民党の大阪府連は橋下徹の「維新の会」の候補に対立する候補を民主党等とともに擁立する方向らしい。
 また、同日、大阪市議会自民党会派は、民主党とともに現職平松某を推薦することを決定したらしい。
 これらは、大阪の自民党の自殺であり、この地域における自民党勢力は、今後消滅していくように思われる。このことが、日本全国に悪い影響を与えることを怖れる。
 当たり前の事だが、選挙に当選するのが一人の場合、投票者は「よりましな」候補に投票するだろうし、政党等の政治団体は、自らが候補者を擁立しない場合には、候補予定者(その意向である者も含む)の中で「よりましな」者を推薦すべきだろう。
 選択肢が現時点で明確になっているのは大阪市長候補で、橋下徹と民主党推薦の平松某、そして日本共産党推薦の某らだ。
 これらの中で、自民党の大阪市議会議員団は、民主党とともに、平松某を推薦する。
 バカなことだ。おそらく、国政・次期総選挙や日本全体のことを考慮することなく、次期の市議会選挙で自らの市議会議員生命を維持することを優先したのだろう。日本の将来よりも自分の生活という「我欲」が勝ったのだろう。
 詳細は記憶していないが、橋下徹は前回の知事選挙で自民党の推薦を受け、民主党推薦の対立候補に勝ち、知事になった。もともと橋下には自民党の党員籍はなかっただろうが、民主党よりも<保守>派であることは明らかだった。「維新の会」をのちに設立したが、自民党からの転入?者が多かったように、本来の主義・主張あるいは思想基盤からすると、自民党から見て、民主党よりも「維新の会」の方が近いはずだ。
 一方、平松某という民間テレビ局社長室長(元ニュースキャスター)は民主党の推薦を受けて、自民党らが推薦する候補に勝ち、市長になった。
 今回も、民主党や労組(・連合)の支持を受けて平松某は立候補する。支持団体の中には当然に、民主党系の日教組も含まれている。
 かかる構図の中で自らの候補を擁立しない自民党が選択すべきなのは橋下徹であることは、明白だと思われた。
 民主党は現在の政権与党であり、すでに数々の失態・失政を明らかにしている。社会主義者・マルキスト国会議員も一部には(かつ有力者として)含んでおり、朝鮮総連等とも(自民党・「維新の会」と比べれば)親しい。
 しかるに大阪市の自民党は(そして大阪府の自民党も)そのような民主党、基本的に「左翼・反日」団体と手を組むことを選んだ。狂っている、としか思えない。日教組の大阪支部にあたる組織等々の労働団体とともに、日教組の「親分」・輿石東を幹事長とする政党と一緒に、橋下徹に対抗しようとしているのだ。バカ(アホ)としか思えない。
 なるほど橋下徹の欠陥を指摘しようと思えばできるだろうし、「大阪都」構想なるものの適否については議論の余地は十分にある。もともと大都市制度問題は戦後当初からあり、その改革には地方自治法の改正が必要である以上、大阪府または大阪市あるいはそれらの長や議会の判断で自由に決められる問題ではまったくない。したがって、誰が市長、知事になっても、ただちに現行制度の維持・改編が決まるわけではなく、橋下徹と「維新の会」候補が市長・知事になったところで、「大阪都」が実現するわけではないし、それに大きく近づくわけでは全くない。つまるところ、制度の将来を決定するのは国会(国会議員)の法律制定・改正作業なのであり、橋本グループが勝ては大阪市がなくなるとか、大阪市がなくなることへと大きく接近するなどというのは、一種の幻想またはデマにすぎない。
 この大阪の選挙は全国的な関心を(私も含めて)集めている。
 「左翼」はこぞって、橋下徹(・「維新の会」)の当選を阻止しようとしている。

 「ハシズム」という「ファシズム」を連想させる造語によって、橋下・「維新の会」を攻撃している。
 民主党のブレイン・支持者である山口二郎(北海道大学教授)と香山リカも大阪へ行って、橋下批判の集会で講演?をしたようだ。これからも日本の「左翼」は集中的な橋本攻撃を―かつての安倍晋三政権攻撃のように―するものと思われる。
 そのような橋下攻撃を大阪市・大阪府の自民党は民主党と一緒になってするというのだ。バカ(アホ)としか言いようがない。
 山口二郎・香山リカに続いて、「ハシズムを斬る」ための集会に参加したのが、「表現者」グループまたは西部邁グループの、中島岳志寺脇研らしい。中島岳志は週刊金曜日という「左翼」週刊紙の選集委員の一人で、その「保守」派性をこの欄で疑問視し、<ヌエ>的性格を批判したこともあるのだが、大阪の選挙についても、または橋下徹の評価についても面白い主張をしているようだ(別に扱う)。
 自民党が民主党と一緒になって、橋下徹・「維新の会」と対抗する。馬鹿馬鹿しいことだ。自民党の本部・石原伸晃幹事長らは少しは異なる意向だったようだが、大阪の自民党は橋下に対する「個人的感情」や<自己の地方議会議員としての生活>を優先した。
 繰り返すが、自民党の自殺行為だ。「保守」派大阪府民・市民はますます?自民党から離反するだろう。

 かりに橋下らが勝利したとしても、民主党は自民党とともに痛手を受けるだけのこと。かりに橋下らに平松らが勝てば、その勝因は(とくに大阪市の場合)民主党・労組の力にあるとされ(もともとが民主党の候補なのだから)、自民党の利益にはほとんどならない。大阪の自民党のバカな(アホな)判断が、全国に大きな悪い影響が及ぶことを阻止しなければならない。

1045/北朝鮮による人権侵害への対処に関する法律。

 「拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する法律」という名前の法律が(生きている現行法として)ある。平成18年法律96号。
 民主党であっても松原仁はたぶん知っているだろうが、山岡某担当大臣は内容まで含めて知っているだろうか。
 多くの人は知らないと思うので、またさして長い法律ではないので、以下に、全文を紹介しておく。

 「第一条(目的)   この法律は、二千五年十二月十六日の国際連合総会において採択された北朝鮮の人権状況に関する決議を踏まえ、我が国の喫緊の国民的な課題である拉致問題の解決をはじめとする北朝鮮当局による人権侵害問題への対処が国際社会を挙げて取り組むべき課題であることにかんがみ、北朝鮮当局による人権侵害問題に関する国民の認識を深めるとともに、国際社会と連携しつつ北朝鮮当局による人権侵害問題の実態を解明し、及びその抑止を図ることを目的とする。 
 第二条(国の責務)   国は、北朝鮮当局による国家的犯罪行為である日本国民の拉致の問題(以下「拉致問題」という。)を解決するため、最大限の努力をするものとする。
   政府は、北朝鮮当局によって拉致され、又は拉致されたことが疑われる日本国民の安否等について国民に対し広く情報の提供を求めるとともに自ら徹底した調査を行い、その帰国の実現に最大限の努力をするものとする。
   政府は、拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題に関し、国民世論の啓発を図るとともに、その実態の解明に努めるものとする。
 第三条(地方公共団体の責務)  地方公共団体は、国と連携を図りつつ、拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題に関する国民世論の啓発を図るよう努めるものとする。
 第四条(北朝鮮人権侵害問題啓発週間)  国民の間に広く拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題についての関心と認識を深めるため、北朝鮮人権侵害問題啓発週間を設ける。
 2  北朝鮮人権侵害問題啓発週間は、十二月十日から同月十六日までとする。
   国及び地方公共団体は、北朝鮮人権侵害問題啓発週間の趣旨にふさわしい事業が実施されるよう努めるものとする。
 第五条(年次報告)  政府は、毎年、国会に、拉致問題の解決その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する政府の取組についての報告を提出するとともに、これを公表しなければならない。
 第六条(国際的な連携の強化等)  政府は、北朝鮮当局によって拉致され、又は拉致されたことが疑われる日本国民、脱北者(北朝鮮を脱出した者であって、人道的見地から保護及び支援が必要であると認められるものをいう。次項において同じ。)その他北朝鮮当局による人権侵害の被害者に対する適切な施策を講ずるため、外国政府又は国際機関との情報の交換、国際捜査共助その他国際的な連携の強化に努めるとともに、これらの者に対する支援等の活動を行う国内外の民間団体との密接な連携の確保に努めるものとする。
 2  政府は、脱北者の保護及び支援に関し、施策を講ずるよう努めるものとする。
   政府は、第一項に定める民間団体に対し、必要に応じ、情報の提供、財政上の配慮その他の支援を行うよう努めるものとする。 
 第七条(施策における留意等)  政府は、その施策を行うに当たっては、拉致問題の解決その他北朝鮮当局による人権侵害状況の改善に資するものとなるよう、十分に留意するとともに、外国政府及び国際連合(国際連合の人権理事会、安全保障理事会等を含む。)、国際開発金融機関等の国際機関に対する適切な働きかけを行わなければならない。
 第八条(北朝鮮当局による人権侵害状況が改善されない場合の措置)  政府は、拉致問題その他北朝鮮当局による日本国民に対する重大な人権侵害状況について改善が図られていないと認めるときは、北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する国際的動向等を総合的に勘案し、特定船舶の入港の禁止に関する特別措置法(平成十六年法律第百二十五号)第三条第一項 の規定による措置、外国為替及び外国貿易法 (昭和二十四年法律第二百二十八号)第十条第一項の規定による措置その他の北朝鮮当局による日本国民に対する人権侵害の抑止のため必要な措置を講ずるものとする。」
 以上。
 北朝鮮系の朝鮮学校への補助(学費無償化)の問題も、上の法律の趣旨と関連させて論じられてよいのではないか。
  なお、すべてとはいわないが、北朝鮮の現況の重要な起源・原因・背景がコミュニズム・共産主義・マルクス主義にあること、マルクス→レーニン→スターリン→毛沢東・金日成という系譜の果てに現在の北朝鮮があることを、とりわけ日本の「左翼」は―むろん朝日新聞を含む―しっかりと認める必要がある。

1044/石井聡と櫻井よしこ論考+政治部記者の法的感覚。

 〇すでに批判的に言及した月刊正論9月号巻頭の櫻井よしこ論考(談)を、産経新聞8/21の「論壇時評」で、石井聡は、こう紹介している。
 「『菅災』が大震災や原発事故対応にとどまらず、外交面でも国益を大きく損なったと批判するジャーナリストの櫻井よしこは『希望がないわけではありません』という〔出所略〕。民主、自民両党の保守系議員らが『衆参両院の各3分の2』という憲法改正の高いハードルを2分の1に下げることを目指す『憲法96条改正を目指す議員連盟』で既成政党の枠を超えた活動を始めており、これが日本再生への起爆剤となると期待しているからだ。/同時に櫻井は『不甲斐ないのは自民党現執行部』と、菅の延命を見過ごした野党第一党の責任を問うている。谷垣禎一総裁の下で『相も変わらず、元々の自民党の理念を掲げていない』と憲法改正に取り組む熱意の薄さを批判し、民主党政権と『大差のない政策しか提示し得ていない』と言い切る」。
 以上が全文で、「時評」と掲げるわりには論評部分はない。
 この石井聡や最近に吉田茂の「軍事参謀」だった辰巳栄一に関する著書(産経新聞連載がもと)を刊行した湯浅博等々のように、産経新聞社内には、屋山太郎や某、某等々の知名度はよりあると思われる者たち以上の知見と文章力を持った論客がいると、とくに最近感じているのだが、上の後半部分、とくに櫻井よしこが自民党は「民主党政権と『大差のない政策しか提示し得ていない』と言い切」ったことについて石井聡は、あるいは産経新聞編集委員たちは、どう評価しているのかを知りたいものだ。
 産経新聞は民主党を厳しく批判してきたが、自民党を積極的に支持してきたわけでもなさそうだ。それは、産経新聞が自民党の機関紙のごとく世間的に印象づけられることが経営的にもマズいと判断しているからかもしれないが、よく分からない。
 だが、もともと産経新聞は自民党よりも「右」だという印象を持つ者も少なくはないだろう。一方また、西部邁や西尾幹二のように、産経新聞に対する批判を明言する「保守」派論者もいる。
 ともあれ、櫻井よしこに対する遠慮などをすることなく、個人名であるならば、自民党は民主党と「大差がない」という櫻井の理解が適切なものかどうかくらいにはもう少し立ち入ってみてもよかったのではないか。日本の今後にとっても基本的な論点の一つだろうから。
 〇産経新聞の8/14社説は「非常時克服できる国家を」等と題うち、菅直人政権の非常時対応について、こう書いた。
 「戦後民主主義者が集まる国家指導部は即、限界を露呈した。緊急事態に対処できる即効性ある既存の枠組みを動かそうとさえしなかったからだ。安全保障会議設置法には、首相が必要と認める『重大緊急事態』への対処が定められているが、菅直人首相は安保会議を開こうとしなかった。重大緊急事態が認められれば、官僚システムは作動し、国家は曲がりなりにも機能したはずである」。
 菅政権を「戦後民主主義者が集まる…」と規定していることも興味深い(誤りではないだろう)。さらに、菅首相(当時)の「不作為」として、安全保障会議設置法にもとづく同会議の招集の不作為のみを挙げ、一部?に見られた、①災害対策基本法による<緊急政令>発布の不作為、②武力攻撃事態等国民保護法の震災・原発事故への適用の不作為、を挙げていないのは、私と同じ適切な法的理解に立っているように思われる。このような社説(産経の「主張」)の中でこれらの①②も問責していれば、おそらく産経新聞は大恥をかいていただろう。
 さらに遡るが、但木敬一(元検事総長)は産経新聞7/27でこう論じていた(一部要約)。
 ・内閣法6条は「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する」と定めるが、同法5条の1999年改正により閣議を内閣総理大臣が主宰する旨の規定に、「この場合において、内閣総理大臣は、内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議することができる」という文言が追加された。
 ・菅直人首相が「特に7月13日、官邸に記者を集め、脱原発を提唱したのは、内閣法の精神にもとるように思われる。エネルギー政策の転換は、国民生活、経済活動に幅広く、かつ深刻な影響を与える。従来の内閣の方針に明示的に反する政策の大転換は、まさに『内閣の重要政策に関する基本的方針』そのものではないのか。各国務大臣がそれぞれの観点から複眼的に閣議で論議すべき典型的事例であり、閣議を経ずして総理が独断で口にすべきことではない」。
 このように但木は、菅による「脱原発」との基本政策の表明を、内閣法(法律)違反ではないか旨を述べている。
 首相のあらゆる言動が(浜岡原発稼働中止要請も含めて)閣議による了解(または閣議決定)を必要とするかは、上の内閣法6条「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する」の射程範囲の理解または解釈にかかわる議論が必要だし、すでにあるものと思われる。「内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議」する権限が、「重要政策に関する基本的な方針」の決定・表明に関する<義務>なのかどうかも議論する余地はなおあるだろう。
 むろん政治的・政策的な検討や議論はなされてよいのだが、上で指摘しているのは「法的」検討の必要性であり、「法的」論点の所在だ。
 菅直人による(閣議を経ない)浜岡原発稼働中止要請や(閣議を経ない)「脱原発」基本政策表明がはたして法的にあるいは法律上許容されるのか、という問題があるはずなのだが、産経新聞の阿比留瑠比も含めて、どの新聞社の政治部記者たちも、そうした法的問題があるという意識自体をほとんど欠落させたままで日々の記事を書いているのではないか。これはなかなか恐ろしい事態だ、というのが先日に書いたことでもある。

1043/屋山太郎は「恥を知れ」と指弾されるべき。

 民主党「たらい回し」野田政権成立にかかわって書きたいことも多いが、とりあえず書きやすいテーマでごぶさたを埋めておこう。
 産経新聞9/02の「正論」欄で岡崎久彦は「官僚を使えなかった教訓学ぶ」という見出しを立てて、こう書いている。
 「官僚の使い方を知らなかったことに気付いたということも大きい。〔中略〕/日本人は誰も任務をサボろうなどとはしない。そんな時に上から、思い付きで、チョロチョロ小知恵を出すのが一番いけない。政治家の決断は必要であるが、決断の必要は、緊急事態ほど、応接に遑ないほど後から後から、下から上がって来る。その都度、果断な決断を下し、その責任を取るのが上に立つ人の任務である。/事件が起きてから有識者の意見を求めるなどは本末転倒である。意見は普段からよく聞き、有事には決断しなければならない。忙しい時に有識者会議など人選して招集するなどは、部下に余計な事務の負担を強いることになる。/その点、今や全て反省されている。民主党政権ができて以来、現在までに国民が被った損害、負担は少なからぬものがあるが、それで教訓を得たというならば、将来の二大政党体制にとってはプラスとなったといえよう」。
 同じく産経新聞8/24に但木敬一(元検事総長)はこう書いていた。
 「わが国の危機を深めたのは、政治主導という無意味なスローガンによって官僚機能を破壊してしまったことである。憲法上も法律上も、行政権は内閣に属しており、各省の権限は大臣に集中している。政治主導はわが国の基本的システムであり、これをことさらに提唱することは、自らの統治能力のなさを独白するに等しい。/それによって何が起こっているか。大臣が壁となった省庁間の情報の切断と省庁を超えた官僚による解決策の模索の放棄である。極端な大臣は、省の重要な政策決定の場から官僚を排除し、副大臣、政務官とだけ協議するという手法を用いた。そこで決断できないときは、いわゆる有識者の意見で政策を決定することになった。官僚たちは、官僚の出すぎと叱責されることを嫌い、以前にも増してリスクをとることを避け、自主的に判断することを躊躇し、待ちに徹することになる。行政の意思決定は明らかに遅くなり、外交・内政を問わず、頓珍漢な大臣コメントが出され、朝令暮改されるケースも珍しくなくなった」。
 岡崎久彦のように将来のための良い教訓になったと楽観的に?見てよいかは疑問なしとしないが、民主党政権のもとで、<政治主導>(=官僚支配の打破)のかけ声の下で生じたことを、上の二人は、適確に述べていると思われる。外務・検察官僚OBで、より一般的な官僚OBではないが、さすがに事態を適切に把握している。
 一言でいえば、民主党内閣は、行政公務員を(行政官僚を)うまく使いこなすことができなかったのだ。それは自らの行政(・関係行政法令)に関する知識の足りなさを自覚することなく、議員出身というだけで行政官僚よりも<すぐれた>知見を持っている、というとんでもない「思い上がり」によるところが大きかっただろう。そんな、行政官僚に実質的には軽視・侮蔑される副大臣や政務官が何人いたところで、適切に行政(多くは法令の執行)がなされるはずはない。
 ところで、再述になるが、「政治主導の確立と官僚主導の排除」の問題を「公務員制度改革」の問題へと次元を小さくし、さらに<天下り禁止>の問題に矮小化しているのが、屋山太郎と櫻井よしこだ。
 最近に書いたように、屋山太郎の意見を紹介しつつ、櫻井は、菅政権のもとで<以前よりも官僚が強くなった(以前よりも「勝手を許」した)>のが問題だ、という事態の把握をしている。
 屋山太郎は産経新聞8/16の「正論」欄でこう書いていた。
 2009総選挙の際に(民主党が)「最も人心を捕らえたのは『天下り根絶』の公約だっただろう。〔中略〕/民主党は『天下り根絶』と『わたり禁止』を標榜(ひょうぼう)した。天下りをなくすということは肩たたきという役所の慣行を変えることである」。
 これが実践されなかったと嘆いた?のち屋山は、「『天下り根絶』の旗降ろすな」という見出しを立てて、こう続ける。
 「代表選に当たって、民主党はあくまで、『天下り根絶』の意思があるかどうかを争点にすべきだ。/公務員制度を改革し、政治主導の司令塔としての国家戦略局、独法潰しのための行政刷新会議を設置(立法化)できるかどうかで、民主党の真価が決まるだろう」。
 この屋山太郎という人物によると、現今の政治課題で最重要なのは、行政官僚の<天下り禁止>を実現するか否か、にあるようだ。
 同じようなことを月刊WiLL等々でも書いている。
 どこかズレているか、同じことだが焦点の合わせ方が違っているか、政治課題全体を広く捉えることができていないことは明らかだ。
 この人物によると<天下り禁止>さえできれば世の中はバラ色になるが如きだ。
 <政治主導>〔官僚支配の打破)なるかけ声の問題性は、上の二人が述べているように、<天下り禁止>の問題に矮小化されるようなものではない。
 やや離れるが、上の産経新聞「正論」で屋山太郎は「蠢く『小鳩』よ、恥を知れ」という見出しで小沢一郎らを批判している。しかし、屋山太郎こそ「恥を知れ」と言われなければならないだろう。
 2009年総選挙の結果について<大衆は賢明な選択をした>と明言し、自民党を批判しつつ民主党に期待したのは他ならぬ屋山太郎だったことを忘れてはならない(この点は当時に正確に引用したことがある)。
 そのような民主党への期待が幻想にすぎなかったことはほぼ明確になっているが、二年前の自らの期待・評価・判断が誤っていたということに一言も触れず、読者等を民主党支持に煽った責任があることについて一言も詫びの言葉を述べていないのが、屋山太郎だ。
 屋山は自らを恥ずかしいと思っていないのか? 無責任だと思わないのか? こんな人物が「保守」派面をして産経新聞等々の「保守」派らしき新聞・雑誌に登場しているのだから、日本の「保守」派もレベルは低いと言わざるをえない。
 政府の審議会の委員を何年か務めたくらいで、政治・行政、政権・行政官僚関係をわかったような気がしているとすれば大間違いだろう。冒頭の二人のように(佐々淳行もそうだが)、実務経験の長かった行政官僚OBの方が、はるかに、政治と行政公務員の関係をよく理解し、適切に問題把握している、と見て間違いはない。

1039/櫻井よしこの政治感覚は研ぎ澄まされているだろうか。

 一 月刊正論9月号(産経新聞社)の巻頭、櫻井よしこ「国家は誰のものか」(談)は主として菅直人批判に費しつつ、谷垣自民党批判と一定の議員グループへの期待をも語っている。
 7/15の民主党議員グループの行動に流れの変化を感じるとしつつ、櫻井は続ける。-「一方、不甲斐ないのは自民党現執行部」で、菅直人が延命できるのは「現在の自民党執行部の責任でも」ある。谷垣禎一を次期首相にとの世論が少ない「理由は明らか」で、「相も変わらず、元々の自民党の理念を掲げていないから」だ。「憲法改正、教育改革、国家の自立など」の点について、「民主党の菅、鳩山政権と大差のない政策しか提示し得ていない…」(p.60-61)。
 このような叙述には、首を傾げざるをえない。
 自民党(谷垣自民党でもよい)の「憲法改正、教育改革、国家の自立など」の「政策」は「民主党の菅、鳩山政権と大差のない」、という認識または評価は、いったいどこから、どのような実証的根拠をもって、出てくるのだろうか。谷垣「リベラル」自民党との距離感をずっと以前にも示していた櫻井よしこだが、櫻井もまた「相も変わらず」何らかの固定観念にとらわれてしまっているのではないか。
 自民党のしていることを無条件に擁護するわけではないが、親中・「左翼」の「菅、鳩山政権と大差のない」などと論評されたのでは(しかも上記のような基本的論点について)、さすがの自民党「現執行部」も文句の一つでも櫻井に言いたくなるだろう。
 この冷たい?自民党に対する態度は、2009年総選挙の前後にも櫻井よしこに見られたところだった。
 櫻井よしこが上の部分の後に書いているところによれば、彼女が期待するのは「谷垣自民党」ではなく、6/07に初会合があった憲法96条改正議員連盟に賛同しているような、「既成政党の枠を超えた」議員グループのようだ。
 櫻井よしこは、この議員連盟こそが「真に日本再生に向けた地殻変動の起爆剤になる」ことを期待し、「彼らの議論から党を超えた連帯意識が生まれ、真の意味で政界再編の機運が高まる」ことを願っている。その際、「民主党、自民党、そのほかどの政党に身を置」いていようと関係がない(p.61)。
 櫻井よしこが現自民党に対して<冷たい>のはこういう代替的選択肢を自らのうちに用意しているからだろう。
 しかし、思うのだが、かかる期待や願望を全面的に批判する気はないが、櫻井は見方が少し甘いのではないだろうか。
 2009年の時点でも、明言はなかったようでもあるが、自民党よりも<真の保守>に近いと感じていたのだろう、櫻井よしこには自民党ではなく「たちあがれ日本」や「創新党」に期待するような口吻があった。しかして、その結果はいったいどうだったのか?。
 反復にもなるが、当時に自民党への積極的な支持を明言しなかった保守論客は、客観的・結果的には、民主党への「政権交代」に手を貸している。現時点ではより鮮明になっただろう、民主党政権の誕生を断固として阻止すべきだったのだ。保守派は2009年に敗北したのだ。この二年前の教訓は、今年中にでも衆議院解散・総選挙がなされる可能性のある現時点で、生かされなければならないだろう。
 党派を超えた動き、それによる「真の政界再編」を夢見るのは結構だが、それらは次期総選挙までに間に合うのか??
 櫻井よしこは、とりあえずにでも現執行部の自民党を中心とした政権が成立するのがお好きではないようだ。そんな態度をとり続けていると、民主党「たらい回し」政権があと二年間も延々と(!)続いてしまうのではないか。
 二 櫻井よしこの週刊新潮8/25号の叙述の一部にも気になるところがある。
 民主党あるいは鳩山・菅政権の「政治主導」が失敗し、むしろ消極的で悪い効果をもたらしたことは、多言しないが、明らかだ、と思われる。政治主導あるいは官僚排除の姿勢によって、政治・行政運営に「行政官僚」をうまく活用することができなかったのだ。
 ところが、そういうより広い観点からではなく、櫻井よしこは「政治主導の確立と官僚主導の排除」を「公務員制度改革」の問題に矮小化し、「以前と比較にならない官僚の勝手を許す結果に陥った」と菅政権を総括している(p.139)。
 行政官僚をうまく使いこなせなかったことではなく、櫻井によると、<以前よりも官僚が強くなった(以前よりも「勝手を許」した)>のが問題だ、というのだ。
 このような事態の認識は、全体を見失っている。そして、このような認識と評価は、政官関係について「相も変わらず」屋山太郎から情報と意見を入手していることに原因があるようだ。
 「天下り禁止」の有名無実化を批判するのはとりあえず結構だが(なお、古賀利明の本にいつか言及する)、この問題に焦点を当てているようでは、議論の対象が「ちんまい」。問題把握のレベルが小さすぎ、視野狭窄があり、優先順位の序列化の誤りもある。
 すぐれた政治感覚と政治・行政実務に関するしっかりした知識をもった、信頼できる<保守>論客はいないものだろうか。憂うこと頻りだ。    

1035/国民保護法の適用は可能か?-佐々淳行著(幻冬舎)を1/3読む②等。

 〇「その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるとき」は免責する旨を定原子力損害賠償法〔原子力損害の賠償に関する法律〕3条第一項但書に関する政府の解釈もマスメディアの議論も不明瞭なままではないか旨を先日8/02に記した。
 産経新聞の「主張」=社説をさかのぼって見ていると、「原子力賠償法案/『国の責任』はっきり示せ」と題する7/29付のそれで、次のように論及されていた。他紙は調べていない。
 「損害賠償をめぐる議論には、最初からボタンの掛け違いがあった。原子力事故の際の補償を定めた原子力損害賠償法では、異常に巨大な『天災地変』の場合、電力会社は賠償を免責され、国が責任を負うと定めている。/しかし、菅直人政権は初めから、この条項の適用の可否を議論することなく、東電の『無限責任』を前提にしてきた。そこにそもそもの根本問題がある」。
 菅内閣はやはり上の法律の解釈問題にほとんど立ち入らず、事業者の「無限責任」を前提にしているようだ。ここにも法律または法令の順守=誠実な執行ではなく「政治」・「政策」=国民の人気取りの方を優先しようとする菅直人内閣(・民主党内閣)の本質の一端が見られるように思われる。
 〇さて、佐々淳行・ほんとに彼らが日本を滅ぼす(幻冬舎、2011)への言及をつづける。
 一 第二章「危機管理の検証」の既読の最初あたりまでは、佐々は、安全保障会議設置法と国民保護法の適用を主張し、それをしなかった菅内閣を難詰している。
 国民保護法の問題は別に扱うが、前者による安全保障会議の招集・開催については(その要件も充足しており)それをすべきだっただろう旨は私もこの欄で既に書いた。
 興味深く、かつなるほどと思わせるのは、佐々淳行が推測する、菅直人が上の諸法律を適用しなかった理由だ。
 佐々は次のように言っている。
 ・自衛隊・警察という「力のあるもの」には「生理的に体質的に拒否反応」があり、できるだけ「平和的に、事勿れの楽観論」をとるという「左翼特有の基本姿勢」があったからではないか(p.77)。
 ・「市民運動家の感覚で生理的に…実力部隊の国家的掌握を嫌い」、「地方分権、非権力主義的権力分散の発想」で今回の大震災に取り組んだ。都道府県・市町村を中心主体とする災害対策基本法を使い、「なるべく自衛隊や警察機動隊を使わないですまそうとしたにちがいない」(p.78)。
 ・上の二つの法律の適用を拒否したのは、これらの法制の淵源が「有事法制の研究」にあり、菅直人は昔から「有事法制」に反対だったからだ(p.82)。
 安全保障会議についてこの指摘があたっているとすると、震災・原発事故後の政府の対応(不作為を含む)は人災・<政治災害>であり、「菅災」である可能性が高い。「左翼」政権であったがために、適切な対応ができなかったのだ。何という悲劇か。
 二 一方、国民保護法(武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律)の適用可能性を前提とする、佐々淳行の主張については、にわかには賛成しかねる。
 佐々は、次のように言う。-緊急的な「国民の保護のための措置」は「武力攻撃事態等」になされうるのであり、「災害」を含むとは明記されていなくとも、「武力攻撃事態等」の「等」に中に含めることができる(実質的にも東北被災地は武力攻撃を受けたに等しい惨状だ)。「列挙」には「限定列挙」と「例示列挙」があるが、国民保護法は「例示列挙」で、「必要に応じて同種同類のものは高度の政治行政の有権解釈で拡大解釈や準用が許される」(p.85-86)。
 「列挙」に関する説明は一般論としてはその通りだろう。問題は、国民保護法についてそれがあてはまるかだ。
 佐々淳行は立ち入っていないが、法律の名称にいう「武力攻撃事態等」とは何を意味するかを、当該法律自体がどう定義しているか等を明らかにすることを試みる(そのために条文を調べてみる)ことがまず必要かと思われる。
 国民保護法(上記のとおりで略称)2条第一項は次のように規定する。
 「この法律において『武力攻撃事態等』、『武力攻撃』、『武力攻撃事態』、『指定行政機関』、『指定地方行政機関』、『指定公共機関』、『対処基本方針』、『対策本部』及び『対策本部長』の意義は、それぞれ事態対処法第一条、第二条第一号から第六号まで(第三号を除く。)、第九条第一項、第十条第一項及び第十一条第一項に規定する当該用語の意義による。 」
 ここにいう「事態対処法」という略称は、国民保護法1条の中で明記されてように
、「武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律」を意味する(平15法律79)。この事態対処法(略称)で「武力攻撃事態等」等の意味は定められている、というわけだ。
 従って、事態対処法(略称)をつぎに見てみる。
 この法律の1条の冒頭にまずこうある-「
この法律は、武力攻撃事態等(武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態をいう。以下同じ。)への対処について、基本理念、国、地方公共団体等の責務、国民の協力その他の基本となる事項を定めることにより、……」。
 「武力攻撃事態」とは「武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態」のことをいうのであり、それは国民保護法(略称)についても同じなのだ。これらの中に地震・津波災害や原発災害は含まれるのか?
 事態対処法(略称)2条は、「武力攻撃」・「武力攻撃事態」・「武力攻撃予測事態」を、さらに、次のように定義している。

   武力攻撃 我が国に対する外部からの武力攻撃をいう。
   武力攻撃事態 武力攻撃が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態をいう。
   武力攻撃予測事態 武力攻撃事態には至っていないが、事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態をいう」。  

 いかに大規模で深刻なものであっても、地震・津波災害や原発災害は「武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態」の中には含まれないとするのがおそらくは適切な法解釈だろう。
 なお、「武力攻撃事態等」=「武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態」なので、前者の「等」は、「武力攻撃予測事態」を意味することになるが、これは佐々の用語にいう「限定列挙」にあたる。「武力攻撃予測事態『等』」ではない。
 というわけで、すでに<有事立法>に簡単に触れる中で自然災害・原発災害は含まない旨を記したことがあるが、それは正しく、いわゆる国民保護法を今時の大震災・原発災害に適用することは、いかに高度の政治的判断をもってしても、「法的には」無理ではないか、と思われる。
 佐々淳行の本は最後まで読み続ける価値があると思っているが、全く瑕瑾のない書物だとは、残念ながら言えそうにないように見える。

1033/菅直人と「法治国家や議院内閣制」等々。

 一 昨年の参議院選挙の前に「たちあがれ日本」という政党のそれこそ立ち上げに石原慎太郎が尽力または協力していたようで、当時、石原慎太郎は都知事を辞めて国政選挙に出て参議院議員となり、<最後のご奉公>をするつもりではないか、と感じたことがあった。また、そうであれば、この政党は石原の知名度の助けもあってかなりの議席を取れるのではないか、とも予測した。
 石原慎太郎の議員立候補とはたぶん無関係に、櫻井よしこらをはじめ、<真の>保守政党に少なくとも自民党よりは近いらしいこの政党に期待する向きも(保守論客の中には)多かったようだが、選挙結果は芳しくなかった(なお、山田宏らの「創新党」は議席一つすら獲得できなかった)。
 今でも、石原慎太郎が今年の都知事選挙に結局は立候補するくらいならば、昨年の国政選挙に出てもらいたかったと思うのだが、このあたりの話題は雑誌・週刊紙類でほとんど読んだことがない。
 二 「たちあがれ日本」には、平沼赳夫の他に片山虎之助がいるようだ。
 この片山のウェブサイトによると、片山虎之助は、7/22に参議院予算委員会で次のように発言した。このサイト内の「メールマガジン」によると、最後の第五点は次のようだ。
 ⑤「首相の『脱原発依存』の記者会見は、まさか個人の意見表明ではなかった筈で、言いっ放しでなく、本当の政策転換につなげて行く努力が求められる。しかし、首相には法治国家や議院内閣制についての認識が乏しいような気がしてならない」。

 最後の指摘の根拠はこれだけでは必ずしもよく分からないが、第二次補正予算案の6割近く(復旧・復興予備費)についての、「使途を決めない、政府に白紙一任するような8千億円の予算は、国会軽視で問題だ」という指摘(②)は根拠の一つなのだろう。
 阿比留瑠比の産経7/31の文章によると、片山は「菅直人首相は法治国家や議院内閣制に正しい理解があるのかなと思う。自分だけで独裁者であったら、この国は回りませんよ」と述べたらしい。こちらの方が、上のメールマガジンの文章よりは臨場感がある。
 そして、阿比留も指摘しているように、菅直人の答弁が「従来の長い自民党のやり方は、ほとんどの決定を官僚任せにしてきたのを見てきたので…」というものだったとすると、まことに菅直人は「法治国家や議院内閣制」について何も理解していないように思える。
 ところで日本国憲法66条第三項には、こうある-「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ」。
 この条項を現菅直人内閣はきちんと履行しているだろうか。今さら指摘するようなことでもないが、首相と経産大臣の意思疎通のなさ、後者の涙ぐみ答弁、「忍」との手文字等々は、内閣不一致も著しく、とても<連帯して>国会=国民の代表機関に対して責任を負っている、とは思えない。これだけでも十分に内閣不信任に値するとすら感じるが。
 三 菅直人は憲法を松下圭一から学んだとか書いたか発言したはずだ。岩波新書に「市民自治の憲法理論」等々を書いている「左翼」出版社お墨付きの学者・松下圭一は、しかし、憲法学者ではなく、政治学者。「憲法の専門家」がどの程度信頼できるかという問題はあるが、そもそも松下は憲法の専門家ですらないのだ。
 菅直人はまた国際政治を永井陽之助に学んだ、とかも書いているか発言したはずだ。
 松下圭一の名をとくに出すことも含めて、このような菅直人の学者名の列挙は、むしろ憲法・政治・国際政治等々に関する基礎的な学識のなさを窺わせる。なぜなら、これらをきちんと勉強していれば、それぞれの分野で一人ずつくらいの名前しか挙げられないはずはなく、首相たる者は、問われてあえて挙げるとすれば誰にするか、困るというほどでなければならないはずだ。そして、通常は、名指しできない人物に失礼にあたるので、影響を受けた学者の特定の氏名などを、首相が簡単に挙げたりはしないものだろう。
 しかるに、菅直人の<軽さ>=無知蒙昧さはここでも極まっている。社会系の学者の名を挙げて、理系出身の自分でもきちんと勉強して知っていますよ、と言いたいのかもしれないが、叙上のような特定の数人の専門書(らしきもの)しか読んだことはないのではなかろうか。そして、菅直人の脳内に蓄積されているのは、<市民活動>の中でてっとり早く読んできた、諸団体の機関紙類の断片的で煽動的な(学問性の乏しい)、かつ「自民党政治」を批判する目的のものを中心にした、論理や概念なのではなかろうか。
 鳩山由紀夫に続いて、菅直人もダメだ。ひどいレベルにある。「たらい回し」されるかもしれない民主党の三番目の人物ははたして大丈夫なのか?? 

1028/菅内閣は「法律を誠実に実施」したか-その3。

 菅直人および同内閣の<法的>感覚は少なからず異様であり、その点を問題にしないマスメディアもまたどうかしているのではないか。
 前回までの続きで第三に、中西輝政も言及している災害対策基本法にもとづく措置に触れる。
 災害対策基本法24条によると、内閣総理大臣は「非常災害が発生した場合において、当該災害の規模その他の状況により当該災害に係る災害応急対策を推進するため特別の必要があると認めるとき」は、「臨時に内閣府に非常災害対策本部を設置することができ」、設置したときはその旨を「直ちに、告示」しなければならず、同法28条の2によると、内閣総理大臣は「著しく異常かつ激甚な非常災害が発生した場合において、当該災害に係る災害応急対策を推進するため特別の必要があると認めるとき」は、「閣議にかけて、臨時に内閣府に緊急災害対策本部を設置することができ」、設置したときはその旨を「直ちに、告示」しなければならない。後者が設置されたときは、前者は廃止される(28条の2第三項)。
 今時の東日本大震災のときは発生日の3/11に、後者の「緊急災害対策本部」が正式に設置されたようだ。
 原子力災害対策特別措置法にも同様の規定があり、福島第一原発事故発生後に、同法16条にもとづいて、「原子力災害対策本部」が3/11に設置されたようだ。なお、災害対策基本法の場合と違って、これの設置には前提として内閣総理大臣による「原子力緊急事態宣言」が必要なので(同法16条)、この宣言もなされたものと見られる。
 「原子力災害対策本部」が置かれる前提となる「原子力緊急事態宣言」にかかる原子力緊急事態」については、災害対策基本法にもとづく「緊急災害対策本部」に関する諸規定は適用されないので、原子力(原発)災害とこれ以外の地震・津波災害について、「原子力災害対策本部」と「緊急災害対策本部」という二種の<対策本部>があった(今でもある)ことになる。
 地震・津波災害にかかる災害対策基本法のシステムと原子力災害対策特別措置法のそれとの大きな違いは、前者には「災害緊急事態」の布告という制度が上記の災害対策本部の設置とは切り離されて存在することだ(原子力災害の場合は、「原子力緊急事態宣言」→「原子力災害対策本部」で、一体化されている)。

 すなわち、災害対策基本法105条第一項によると、「非常災害が発生し、かつ、当該災害が国の経済及び公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合において、当該災害に係る災害応急対策を推進するため特別の必要があると認めるときは、内閣総理大臣は、閣議にかけて、関係地域の全部又は一部について災害緊急事態の布告を発することができる」。
 この布告は「区域」・それを「必要とする事態の概要」・「効力を発する日時」 を明記して行われなければならず(同条第二項)、また、事後的な国会による承認が必要等の定めもある(106条)。
 この「災害緊急事態の布告」を、現菅内閣は行なっていない。「当該災害が国の経済及び公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合において、当該災害に係る災害応急対策を推進するため特別の必要があると認めるとき」に該当しない、との判断をしたことになるが、はたして適切だったのかどうか。安全保障会議の招集・開催に関して書いたことと同様の問題を指摘することができるだろう。
 次に述べるように、この布告がいかなる法的意味をもつかが問題であるとはいえ、この布告だけをしておくことも法的には可能だったはずだ。
 さて、「災害緊急事態の布告」の重要な法的意味は、それを前提として、いわば<緊急(非常時)政令>を制定することができ、かつその政令(内閣が制定する)は次の事項を定めることができる、とされていることだ。以下は、109条第一項各号。 
 
 その供給が特に不足している生活必需物資の配給又は譲渡若しくは引渡しの制限若しくは禁止

   災害応急対策若しくは災害復旧又は国民生活の安定のため必要な物の価格又は役務その他の給付の対価の最高額の決定
   金銭債務の支払(賃金、災害補償の給付金その他の労働関係に基づく金銭債務の支払及びその支払のためにする銀行その他の金融機関の預金等の支払を除く。)の延期及び権利の保存期間の延長

 これらの制限(権力的規制)に対する違反には罰則を定めることも可能だと定められている(同条第二項)。
 中西輝政は、前々回に言及したウェッジ7月号p.9で、次のように書いている。
 首相が105条にもとづき「災害緊急事態」を布告すれば、「生活必需品の配給や日本中のガソリンを1カ所に集めて東北に送ることも、物資の買占めを制限することもできたにもかかわらず」、政府は布告せず、不可欠の各種制限をしなかった、と。
 だが、このような中西輝政の理解と叙述は誤っている、と考えられる。
 以上では意識的に省略したのだが、109条は、いわば<緊急(非常時)政令>を制定することができる場合を、「災害緊急事態に際し国の経済の秩序を維持し、及び公共の福祉を確保するため緊急の必要がある場合」とするほか、次の限定を加えている。
 「…の必要がある場合において、国会が閉会中又は衆議院が解散中であり、かつ、臨時会の召集を決定し、又は参議院の緊急集会を求めてその措置をまついとまがないとき」。
 つまり、国会開会中等の期間には<緊急政令>を発することはできないのだ。3/11から今日まで、国会は開会され続けている。従って、「政府」>内閣かぎりでの判断によって、各種制限をすることはできないことになる。
 だからといって、「災害緊急事態の布告」をしない、という決定的な理由になるわけではないだろう。また、上記のような諸事項(各種制限)は、<緊急政令>によってではなく開会中の国会による法律制定によって行うことができるのは当然で、内閣はいうまでもなく法律案を作成して国会に提出することはできた。
 法的性格のあいまいな要請・お願い等々の弱腰の(?)措置を多用するのではなく、必要ならば、きちんと法律を改廃したり、新法律を制定すればよかったのだ。
 はたして、それだけの見識と十分な意欲があったのかどうか、はなはだ疑わしい。そういう状況になった理由・背景の大きな一つはおそらく、<政治主導>とやらで、行政官僚が有している関係法令についての専門的知識とそれにもとづく「補助」を、菅直人らが嫌悪し忌避したからではないかと思われる。行政官僚を軽視した、彼らの意欲をそぐ<政治主導>とやらは、大災害に際して、国民をより<不幸な>状態に追いやってしまっているのではないか。

1026/菅直人・民主党内閣は「法治行政」ではない「権威による行政」志向?

 一 よく分からないことが多すぎる。菅直人は、あるいは民主党内閣そのものが、そもそも<法律にもとづく又は法律にしたがった>行政活動という考え方を理解していないか、無視する傾向にあるように感じる。法律(やそれ以下の政令等)の制定・改廃そのものが<政治>でもあるが、法律や政令等(以下、法令)があるかぎりは、それを内閣総理大臣をはじめとする行政部は遵守し、きちんと実施・執行すべきものだろう。また、既存の法令に不備・不都合があれば、淡々と改正や新法令の制定をすべきものだろう。
 現憲法73条は、「内閣」の事務の一つとして「法律を誠実に執行」することを明記している(第一号)。
 はたして菅内閣は「法律を誠実に執行」しているのだろうか、あるいはそもそも、そういう姿勢・感覚を身につけているのだろうか。菅直人にあるのは、<法的権限にもとづく政治・行政>よりも<権威による政治・行政>をより重視しようという感覚ではないかと思われる。法律は「国家」権力そのものなので、それをできるだけ忌避したいという<反国家>=<反法律>心情を有しているのではないかとすら疑いたくなる。あるいは、何となく国家中枢が溶融していて、シマリがないように感じてしまうのは、法令を遵守した行政とそうではない政治的に自由な(具体的な法令が存在しないために法令から自由な)行政との区別がきちんとついていない、ということにも原因があるのではないだろうか。
 以下、専門的な議論に立ち入る能力はないが、いくつかの具体例を紹介し、またはそれらに言及する。こうした諸問題があるにもかかわらず、テレビの報道系番組はもちろんのこと、一般全国紙もまた、以下のような<法的>議論・問題についてほとんど論及することがないのは、いったい何故なのだろうか、というのも、最近感じる不思議なことでもある。
 二 安倍晋三らもすでに批判的に指摘していることだが、今時の大震災・原発事故に関して、法律上の「安全保障会議」が召集・開催されなかった、という問題がある。

 安全保障会議設置法(法律)によると、同会議は内閣に設置され、議長と議員で組織され、議長を内閣総理大臣、「議員」を総務・外務・財務・経済産業・国土交通大臣・防衛の各大臣、内閣官房長官、国家公安委員会委員長およびこれら以外に内閣総理大臣の臨時の職務代理者(内閣法10条)があるときはその者、が担当する(4条・5条)。
 内閣総理大臣は、次に記す事項については、この会議に「諮らなければならない」と定められている(2条1項。 また、諮問なしにでも「意見を述べる」ことができる-2条2項)。
  その法定の事項のすべてを列挙するのは省略して、今時の震災・事故が該当する(または、その可能性がきわめて高い)のは、9つの事項のうち最後に明記されている以下の事項だ。
 「
 内閣総理大臣が必要と認める重大緊急事態(武力攻撃事態等、周辺事態及び前二号の規定によりこれらの規定に掲げる重要事項としてその対処措置につき諮るべき事態以外の緊急事態であつて、我が国の安全に重大な影響を及ぼすおそれがあるもののうち、通常の緊急事態対処体制によつては適切に対処することが困難な事態をいう。以下同じ。)への対処に関する重要事項 」。
 一~八に列挙されているのは大雑把には国防(・防衛)の基本方針・大綱類あるいは「武力攻撃事態」・「武力攻撃予測事態」、「周辺事態」に関する重要事項であり、今時の大震災・原発事故に直接の関係はなさそうだ(但し、この災害を奇貨としてのテロ・内乱等が予想されれば、全くの無関係ともいえないことになろう)。
 さて、今時の大震災・原発事故は、その地域的な広さおよび原発事故の深刻さの程度からみて、上にいう「我が国の安全に重大な影響を及ぼすおそれがあるもののうち、通常の緊急事態対処体制によつては適切に対処することが困難な事態」に該当するように考えられる。一~八号は別としても、今時のような災害発生が上の九号に該当しないとすれば、そもそもいかなる事態が九号に該当することになるのか(何のために九号があるのか)、きわめて疑わしいものと思われる。
 たしかに上の事項には「内閣総理大臣が必要と認める~」という限定が付いており、内閣総理大臣の判断の<裁量>性が認められ、内閣総理大臣が「必要と認め」なければ安全保障会議に諮るべき事項ではないということに形式的にはなりそうだ。
 しかし、今時の大震災・原発事故は、「我が国の安全に重大な影響を及ぼすおそれがあるもののうち、通常の緊急事態対処体制によつては適切に対処することが困難な事態」だと、内閣総理大臣が認めてしかるべき事態ではないかと思われる。すべてが内閣総理大臣の<政治的・政策的>な、自由な判断に委ねられている、とは考え難い。
 そうだとすると、安全保障会議が招集・開催されず、「重要事項」についてその会議に諮ることなく震災や原発事故への対処がなされたことは、菅直人首相による「必要と認める」ことの懈怠を原因とする、安全保障会議設置法の基本的な趣旨に違反した違法な対応だったのではないか、と考えられる。
 むろんその「違法」が法的にまたは裁判上どのように、またはどのような形で問題にされることになるのかはむつかしい問題があるだろう。だが、かりに訴訟・裁判上の問題に直結しなくとも、たんなる<政治>領域に押しやることができず、客観的には<違法=法律違反>を語ることができる場合のあることを承認しなければならないだろう。
 まだあるが、長くなったので、第二点以降は、次回へと委ねる。
 なお、上記法律7条には、「議長は、必要があると認めるときは、統合幕僚長その他の関係者を会議に出席させ、意見を述べさせることができる」とも定められている。

1023/菅直人と朝日新聞の低劣・卑劣・愚劣ぶり-あらためて。

 何ともヒドイものだ。これほどとは。
 一 菅直人は7/13に、「脱原発」=「将来は原発がない社会を実現する」と記者会見で述べたが、閣僚等から疑問・批判が出ると、7/15に、「私の考え」、「個人的な考え方」だったと釈明?した。
 内閣総理大臣たる者が、英語で「首相」と書かれ、桐の紋まで刻まれた台に自ら積極的に立って行った記者会見(記者発表)での発言を、わずか二日後に「私(個人)」の考えの表明だった(政府方針ではない)と後退させてしまうとは。
 この人は自らの内閣総理大臣たる地位を何と理解しているのだろう。首相としての記者会見(発表)の場で、内閣総理大臣担当者たる立場を離れた「私(個人)」の考えを表明できるはずがないではないか。
 かりにそれが閣内や民主党内で支持されていないこと(または唐突感も含めて疑問視されていること)が判明したとすれば、<私的>だったと逃げるのではなく、首相見解そのものを撤回・変更するというのが、スジというものだろう。
 こんなことが罷り通るのならば、菅直人の中部電力への浜岡原発停止要請はいったい何だったのかと言いたくなる。
 内閣総理大臣による行政指導だったのか、それとも、内閣総理大臣を担当している菅直人個人の<私的>要請(・願望)だったのか? 後者ならば、中部電力はまともに取り上げ、まともに検討する必要はなく、結果として従う必要もなかった。その後に今回のような閣内・民主党内での疑問・批判が出なかったから、たまたま(私的・個人的ではない)内閣総理大臣による要請(行政指導)になったのだとすれば、怖ろしい<政治・行政スタイル>だ。
 思いつきで適当なことを(ウケが良さそうで支持率がアップしそうなことを?)発言しておいて、反対論・疑問論が大きいと見るや、「私(個人)」の考えでしたとして逃げることが可能だとすれば、ヒドい、とんでもない、呆れるほどの<政治・行政スタイル>だ。
 この一点だけを取り上げても、菅直人首相とそれが率いる内閣の不信任に十分に値する。
 産経新聞はほぼ同旨で、7/16社説の大文字の見出しを「首相の即時辞任を求める」と打った。首相が辞任すれば、当然に菅直人内閣は瓦解する。
 産経とともに菅の7/13発言の内容にも疑問を呈していた読売新聞は、7/16社説で、<私的(個人的)>見解への転化をさほど大きくは問題視せず、その代わりに、主としてその発言内容自体をあらためて批判している。
 いわく、「そもそも、退陣を前にした菅首相が、日本の行方を左右するエネルギー政策を、ほぼ独断で明らかにしたこと自体、問題である。閣僚や与党からさえ、反発の声が一斉に噴き出したのは、当然だ」。「その発言は、脱原発への具体的な方策や道筋を示さず、あまりに無責任だった」。「首相は、消費税率引き上げや、環太平洋経済連携協定(TPP)への参加などを掲げ、実現が危ぶまれると旗を降ろしてきた。同様の手法のようだが、今回は明らかに暴走している」。
 二 何ともヒドイのは、菅直人だけではない。朝日新聞も、(やはり)ひどい。
 菅首相の7/13記者会見の内容につき
、「国策として進めてきた原発を計画的、段階的になくしていくという政策の大転換である」とし、「私たちは13日付の社説特集で、20~30年後をめどに「原発ゼロ社会」をつくろうと呼びかけた。…方向性は同じだ。首相の方針を歓迎し、支持する」と社説で明確に支持し、大歓迎した。
 そして内閣や民主党の全体的支持を得られるかどうかに懸念を示しつつも、最後は
「いまこそ、与野党を問わず、政治全体として脱原発という大目標を共有して、具体化へ走り出そう」と結んでいたのだ。
 とあれば、7/15の<私的(個人的)見解>との釈明後に、この問題をあらためて社説で取り上げて不思議ではないし、むしろ取り上げるべきだろう。
 しかし、朝日新聞は逃げた。トンズラを決め込んだ。7/17社説の見出しは、「福島の被災者―「原発難民」にはしない」と「レアアース―WTOを通じた解決を」の二つで、読売・産経が取り上げた重要な問題をスルーした。
 「いまこそ、…政治全体として脱原発という大目標を共有して、具体化へ走り出そう」と大見得を切ったところが、わずか二日後での(閣内・民主党内事情による)挫折?に、さすがに恥ずかしくなったのだろうか。いやいやそんな純情な朝日新聞ではない。要するに、自分たちに都合の悪いことには触れない。それだけのことだ。

1014/<宰相不幸社会>の宰相・菅直人の意識は?

 読売新聞6/23社説は、「最小不幸社会」を目指したのに<宰相不幸社会>になった、と面白いことを冒頭に書いている。
 さて、菅直人が何を考えている、どういう神経の持ち主なのかはよく分からないが、良いように?解釈すれば、次のように思考しているのかもしれない。以下は、6/02午前中の、鳩山由紀夫との間の「確認書」からヒントを得た推測だ。
 確認書の第二項には「自民党
政権に逆戻りさせないこと」とあったはずだ。これは政権交代を否定するものだとしてすでに言及したが、あらためて表現を見ていると、「逆戻り」との言葉が使われているのに気づく。
 これは、自民党政権に交代するのは「逆戻り」、すなわち、時代の進歩または発展の方向には向かわない、<反動的>な逆の方向だ、という認識を前提にしているものと思われる。
 菅直人に限らず鳩山由紀夫もそうなのだろうが、そして民主党に投票した有権者の少なくない部分も、<自民党はもう古い・遅れている>、<民主党は新しい・進んでいる>というイメージを持っているように思われる。
 このように単純には言えないはずだが、朝日新聞等々の有力マスメディアはこのようなイメージを、2009総選挙の前に撒き散らしたのだ。
 菅直人自身、自民党政権に戻ることは時代・社会の進歩の方向とは逆の方向だ、自分は<時代の流れ>に添った、その方向上にある首相だ、という意識を強く持っているのではなかろうか。
 むろん、上はたんなる幻想、誤った<左翼的>観念にすぎないのだが。
 いま一つ、菅直人を支えているのではないかと思われる意識がある。それは、小沢一郎のように<きたなくはない>という自己認識だ。
 菅直人は、良いように?理解すれば、自分は自民党とは違って<進歩>(歴史の発展方向?)の方向に添っており、かつ小沢一郎(・一派)とは違って<クリーン>だ、という意識に支えられて、なお<延命>しようとしているのではないか。
 以上は、より良く解釈しすぎている可能性はある。たんなる権力亡者かもしれず、自分を客観的に観れないだけの人物なのかもしれない。だが、それらに加えて、上のような二種の意識も最低限度は混じっているようにも思えるのだが…。

1012/菅直人と一部マスコミの謀略?-6/02退陣(辞意)表明。

 民主党最高顧問・渡部恒三が菅直人につき「本当にひでえのにやらせちゃったな」と述べたそうだ(産経6/20二面)。
 菅直人の心理・性格の分析は専門家の研究対象に十分になるだろう。それはともかく、6/02の午前の民主党議員総会での菅直人自身の発言は、それ自体は明確には<辞意>表明ではなかったように聞こえなくはない(例えば、辛坊治郎はそう言っている)。だからこそ、鳩山由紀夫は、一定のメド等を条件としての退陣という趣旨だ旨を直後にその場で発言したのだろう。
 だが、菅直人は明確には辞意を述べていないとの逃げ道を残していたのも確かで、そのかぎりでは、マスメディアが<退陣(辞意)表明>と報じたことは、結果としては、菅直人を助けたことになる(そして今にしてもなお、菅直人首相はいつ頃に辞任するかを明確にしないままで<延命>している)。
 さらに言えば、菅直人が議員総会で<退陣(辞意)表明>を行うつもりだという情報はいくつかのメディアの記者には事前に流されており、だからこそすみやかに、号外が出るほどに、その旨の報道がいったんは行き渡ったのではないか。
 辞意表明し、退陣予定だから、不信任案に賛成はしない、という理屈は、本当は奇妙なものだ。しかし、実際問題としては、不信任案に賛成しようとしていた民主党議員たちは、菅直人の言葉を<退陣(辞意)表明>と理解して、不信任案に反対するか欠席に回ったのだと思われる(賛成して除名された2名を除く)。そして、そういう理解を助けたのは、鳩山由紀夫の発言とともに、事前にメディアの一部から流されていた菅直人<退陣(辞意)表明>という情報ではなかったのだろうか。
 推測なのだが、産経新聞を含むすべてのマスメディアだったとは思われない。その情報は、朝日新聞+テレビ朝日系(星浩ら)、毎日新聞+TBS系(金平茂紀ら)の一部に確定的情報として流されたのではないか。
 そして、一部のマスメディアは菅直人(ら?)の情報策略に、少なくとも結果としては、利用されたのではないか。あるいは、何とか不信任案可決を阻止したいという思惑から、<退陣(辞意)表明>すれば不信任案賛成票は大幅に減るとの見通しをもって、一部のメディアは、菅直人(ら?)の情報策略に協力したのではないか。
 確証はないが、それくらいのことは菅直人らの政治家や、一部マスコミの一部に棲息する政治活動家たちはするだろうと思われる。
 週刊ポスト7/01号p.32(上杉隆・長谷川幸洋の対談記事)によると、朝日新聞6/02朝刊の一面トップは「首相、可決なら解散意向」だった。解散を忌避したい議員たちに不信任案に賛成することを躊躇させるような見出しだ。だが、同記事によると、菅直人は実際には「解散」につき語っていないという。朝日新聞は(ほかの新聞・テレビも?)「官邸の情報操作」(同上記事)に利用されたか、協力した、と理解して何ら差し支えないだろう。
 かくのごとく、マスメディアを、とりわけ朝日新聞・毎日新聞系を信頼してはいけない。

1008/櫻井よしこは不信任案の意味を知らない!

 日本国憲法69条「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」。
 産経新聞6/09の櫻井よしこの文章(菅首相に申す)の第一文はこうだ。
 「菅直人首相への不信任決議案は、首相ひとりではなく、菅政権そのものに突きつけられたものだ」。
 櫻井よしこは何を言っているのか? ずっこけるほどの、目を剥く文章だ。
 6/02に衆議院で議決されたのは内閣不信任決議案であって首相不信任決議案ではないことは憲法条項からも明らかだ。かりに厳密には「内閣」<「政権」だとしても、まさに「首相ひとりではなく、菅政権そのものに突きつけられたものだ」。このことすら知らないで、新聞の一面を飾る?文章を書き、国家基本問題研究所なるものの理事長でもあるらしいのだから、恐れ入る。
 かつてこの欄に書いた文章を確認する手間を省くが、櫻井よしこは2009年夏に、①民主党の詳細な政策がよく分からないので早く具体的なマニフェストを公表してほしい旨を書き、民主党内閣成立後には、②<期待と不安が相半ば>する旨を書いた、そういう人物だ。
 民主党の少なくとも幹部連中のこれまでの政党遍歴・諸発言を知っていれば、民主党の詳細な政策など知らなくとも、櫻井よしこが批判していた自民党よりも<よりましな>政権になるはずはないだろう、ということくらいはすでに判るのが、優れた評論家であり国政ウォッチャーであり、「国家基本問題」の研究者だろう。情けなくも、早く具体的で詳細な政策を明らかにせよ(そうでないと評価できない)と櫻井よしこは書いていたのだ(①)。
 また、ある時期からは明確に民主党や同党内閣批判の姿勢に転じたようだが、上記研究所理事の屋山太郎の影響を受けてか、民主党政権の成立当初は、櫻井よしこのこれへの姿勢は曖昧なままだった、ということも忘れてはならないだろう(②)。

 また、櫻井よしこはその後も、「谷垣自民党」と民主党は<同根同類>だ旨も強調して、自民党も期待できないという雰囲気を撒き散らしてきた。このような櫻井の認識では説明できなかったのが、(詳細は省くが)この間の政界・政局の動向だっただろう。要するに、櫻井は、残念ながら、適確に政治状況を把握し切れているわけでは全くない。また、反中国専門家ではあるようだが、しかし、反フェミニズムの専門家では全くない。
 ついでに。櫻井よしこには今年初めに、正論大賞が贈られた。産経ニュースから引用すると、「櫻井氏はシンクタンク・国家基本問題研究所を設け『日本人の誇りと志』を取り戻そうと活動。ぶれない姿勢、切れ味鋭い論調が評価され、正論大賞が贈られた」らしい。
 「ぶれない姿勢、切れ味鋭い論調」とは少し?褒めすぎではないか?? 産経新聞社自体が、「ぶれない姿勢、切れ味鋭い論調」では必ずしもないのだから、社の論調に近い原稿を寄せてくれる者に対する<内輪褒め>のようなものだろうか。
 と書きつつも、筆者の頭を離れないのは、(とりわけ憲法9条2項削除・自衛軍の正式設置のための)憲法改正に向けた<多数派>をいかに形成するか、という問題・課題だ。
 その目標に向けて櫻井よしこにも働いてもらわなければならず、櫻井を全面的に非難・批判しているわけではむろんない。但し、和服を着て母親とともに受賞式場に現れて、嬉しそうに微笑んで、<功成り名を遂げた>ような挙措をするのはやめてほしかったものだ。
 日本の全状況から見ると、櫻井よしこらは(私もだが)<反体制>派であり、<少数派>にすぎないことを、深刻に、悲痛な想いで、つねに自覚しておくべきだろう。ニコニコとしている場合では全くない。 

1005/資料・資料-2011.06.01菅内閣不信任決議案理由全文。

 2011年6月1日
 自民党・公明党・たちあがれ日本共同提出/菅内閣不信任決議案提案理由全文

 「菅内閣は、国難のときにあって明確な指針を示せないまま迷走を続け、わが国の復興と再生に対して大きな障害となっている。
 とりわけ東日本大震災をめぐる対応については、初動の遅れを招いた判断、曖昧で場当たり的な指揮命令など、その迷走ぶりがさらなる混乱を招き、取り返しのつかない状況を生み出してきた。被災者や関係者への配慮を欠く発言、マニフェストにこだわりバラマキ政策を財源に充てようとしない姿勢、意志決定が複雑を極める対策本部の乱立、唐突な連立政権呼びかけなど、未熟で軽率な行動に寄せられる厳しい非難は、菅総理が政権を担当する資格と能力に著しく欠けている実態委を明確に示している。
 また、被災地の再生に道筋をつけようともせず、今国会の会期や二次補正予算の提出につき明言を避け続ける不誠実な対応は、危機感や現場感覚を持たず、震災よりも内閣の延命を優先する無責任極まりないものである。
 昨年の通常国会において、菅政権に対する内閣不信任決議案が提出された。それは、民意によらない「正当性なき内閣」、「不作為内閣」、国民の選択肢を奪う「政策隠し内閣」、政治とカネの問題に背を向ける「疑惑隠し内閣」、自覚に欠け努力を怠る「責任放棄内閣」、国民の期待にそむく「国民愚弄内閣」との理由からである。今日、その状況はますます悪化し、菅内閣は明らかに機能不全の様相を呈している。
 未曽有の災害を前に、われわれは危機克服と復旧に猶予がないものとして政府与党に協力し、菅内閣の継続を黙認してきたが、もはや容認することはできない。菅総理に指導者としての資質がない以上、難局にあたって、菅内閣とともに新たな政策体系を積み上げていくことは到底できないからである。国民の不安を払拭し、国家を挙げて被災地の復興と被災者の生活再建を実現していくためにも、菅総理は一刻も早く退陣すべきである。」

1003/独裁者・菅直人、一刻も早くクビをとるべきだ。

 一 かりに目的がよくても為政者はいかなる手段を用いてもよいわけではない。

 万が一「共産主義」社会が理想的なものであっても、その社会実現のために、邪魔になる「反共」主義者をその思想ゆえにのみすべて殺害することは許されるのか?。

 菅直人は、上と似たような発想をする<独裁者>のようだ。

 なるほど浜岡原発は、その立地において他の原発と比べて地震・津波の安全性に疑問が高いように見える。安全性の確保が(東北地方・太平洋側の原発とともに)急がれる原発かもしれない。

 上のような印象がただちに浜岡の「運転停止」を正当化するものではない。この点についても検証が必要だが、これもスルーして、浜岡は「運転停止」すべき原発だということが合理的判断だ、ということにしてみよう。

 そうしてみたところで、内閣総理大臣による「停止」要請が正当化されるわけではまっくない。

 二 菅直人による今回の要請はなるほど唐突であり、総合的・長期的考察を欠いているだろう。

 だが、より大きな問題は、内閣総理大臣たる菅直人が(口頭によったのか文書によったのかも新聞紙上では不明確ななままで)「要請」という<行政指導>によって、「運転停止」を実現しようとし、かつ実現しそうだ、ということにある。

 菅直人は、法律と行政に未熟な、かつ「左翼」的心性をもった菅直人は、その「独裁者」ぶりを、いよいよ発揮してきた。

 三 自民党の石波茂(政調会長)は菅直人の措置の「根拠」を問題にしているが、相手方が任意に協力してくれるかぎりでの「行政指導」に具体的な法的根拠(法律上の根拠条項)は要らないだろう。

 だが、思い出しても、バブルを終熄させたのは、1990年3月の大蔵省銀行局長の「行政指導」通達だった(農林系金融機関は対象外だったことが大きな問題を残したことは周知のとおり)。

 このときはたかが銀行局長の…と感じたものだが、今回は内閣総理大臣たるものの「要請」=「行政指導」だ。建て前上、行政指導に拘束力はない、従うか否かは相手方の任意といってみたところで、強く規制・監督されるかわりに強く保護されている電力会社が内閣総理大臣の「要請」を拒否できるはずがない、と考えるのが常識的な感覚だろう。

 そして、菅直人によると「指示や命令は現在の法制度は決まっていない」らしいのだが、「現在の法制度」では不可能なことを、便宜的な「行政指導」という措置で実現しようとした、かつその意思形成過程はほぼ菅直人の脳内にあり、わずかにせよ存在するはずの国(行政)の意思形成システムをもほとんど無視してそれはなされた。ここに問題の本質がある。

 四 浜岡原発の運転停止を求める「指示や命令は現在の法制度は決まっていない」のだとすれば、そのような正規の法的権限を与えるように原子炉等規制法等を改正して、内閣総理大臣または経済産業大臣等に<運転停止>権限を付与するのが、正常な法的感覚だ。

 そんな悠長なことをいっておれない、緊急性を有する、と菅直人は考えたのかもしれない。しかし、幸い?国会は開会中で、官僚たちに指示して原案を作らせて国会で審議すれば、菅直人の浜岡原発の焦眉の危険性が国会議員多数に共有されるかぎり、数週間で法律は(場合によっては政令・省令も)改正できるはずだ。

 法律改正が難航して、いよいよ浜岡原発が危ない、となれば、その時点で停止「要請」しても間に合うだろう。国会での審議中に浜岡に放射性物質にかかわる震災または津波が起こったときにかぎり、菅直人の措置は結果として(カンが当たったとして)正当化されるだろう。

 なぜ、関係法令の改正をしようとしないのか、なぜ、そのための改正案を菅直人(内閣)は国会に提出しないのか。

 「熟議を」とかいいながら、国会を軽視・無視している菅直人(そして民主党)内閣の本質が一段と明らかになっている。

 国会の軽視・無視、国会に諮らないままでの事案処理、これはまさしく<行政独裁>であり、さらにほとんど菅直人の脳内でのみ意思形成がなされたようであることも含めて、<菅直人の独裁>に他ならない。

 五 場当たり的、人気取り、原発政策全体との整合性は?、とかの批判は当たっていないことはないだろう。

 だが、最大の問題は、現行法制上は不可能なことを内閣総理大臣たる菅直人個人の「行政指導」で行った、という点にある。目的さえよければ(菅直人は「国民の安全と安心」のためと明言している)、現行法制を無視して、いかなる事項・問題でも首相の「行政指導」によって実現する、という道が拓かれた、という点にある。これを座視すれば、今後のその他の問題でもまた、同様のことが繰り返されるだろう。「国民の安全と安心」のために、現行法制では決められていないので「行政指導」で、という行政スタイルが構築されようとしている。しかもまた、その「行政指導」にあたって、行政部内全体での十分な検討が行われたようにも見えないのだ。

 国会軽視・無視の、かつ行政部内全体の調整も不十分なこの行政スタイルは、菅直人(個人)による<独裁体制>だ、と言って過言ではない。

 六 目的さえよければ、手段はどうでもよいとするのが「左翼」の基本的な発想だ。さっそく日本共産党・社民党、そして民主党系・容共らしき川勝某静岡県知事は<英断を歓迎する>と述べている。

 そこには、法律(国会)と行政の関係あるいは行政にかかわる法秩序感覚は乏しい。

 一種の非常事態の中で、日本の立憲主義、法治主義は危機に瀕している

 菅直人という政治・行政の「素人」が、まがりなりともある程度は築かれてきた日本的な立憲主義、法治主義を破壊している。

 そのような深刻な危険性を、今回の浜岡「停止要請」はもつものだ。この点を良識ある人々は鋭敏に見抜くべきだ。

 菅直人はあぶなっかしいのではなく、現に危ない。独裁者は退場させなければならない。早くクビを取らなければならない。

 七 菅直人のクビを取ること、そしてさらにそもそも「現行法制」はどうなっているのか、について次回以降に書く。

 三万人近い死者にとっては「勇気を」、「希望を」等々とか言っても空しいだけだ。死者が、どのようにして「勇気」・「希望」をもちうるのか?? そう感じ、言葉の無力さをひしひしと感じてしばらくこの欄に向かわなかったが、菅直人の行動により「日本」という国家がさらに一段と自壊していくのを感じて、再び文章をつづる気になった。

0998/民主党・長妻昭の「無能」さと中川八洋による「子ども手当」批判。

 〇桝添要一は半年ほど前のテレビ番組で、長妻昭(民主党・前厚労大臣)を「無能です」と一口で切って捨てていた。

 長妻昭が大臣時代に、年金切替忘れの専業主婦を「救済」する方針が決定され、課長「通達(通知)」でもって今年から実施された。

 近日において、民主党内閣(細川厚労大臣)はこれを「違法」ではないが「不適切」だったとし、当該課長を官房付に「更迭」したと伝えられる。

 長妻昭は課長「通達」で済ますことの問題性を何ら認識していなかったようだ。ほとんど誰もその点を問題にしなかった旨を他人事のように述べていた。当該課長が「更迭」されるという<行政>的責任をとったとすれば、大臣だった長妻はどう<政治的>責任をとるつもりか?

 日本経済新聞の政治・行政担当の記者の経験もあるらしい長妻昭は、やはり「無能」なのではないか。かつて政治・行政担当の新聞記者であっても、法律によるべきかかそれとも「通達」によってもよいか、という問題意識すらなかったようなのだから、行政担当の政治家としては「無能」と断言してよい。長妻に期待を寄せていた者もいるのだろうが、そのような人々も「無能」なのだろう。かつての新聞記者というのはこの程度だ(という者も多い)、ということもよく分かる。
 「違法」か「不適切」かはじつは重大な違いがある。特定範囲の在日外国人に対しても日本国民(国籍保持者)と同様の生活保護措置が執られることは、関係公務員(自治体も当然に含む)なら誰でも知っているだろうが、自民党内閣時代からの、古い、<生活保護法を……に準用する>旨の一片の「通達(通知)」にもとづいているにすぎない。このような例も含めて、国会では、法律によるべきかかそれとも「通達」によってもよいかを論議してほしいものだ。

 〇上の「救済」策は、忘却した直接の当事者に対しては、一種の「バラまき」にあたる。

 民主党は少子化対策とか景気浮揚の経済政策とか言っているようだが、<子ども手当>施策には「バラまき」との批判も強い。

 だが、「バラまき」福祉という批判だけではこの施策の本質を見抜いていない、という重要な指摘を中川八洋はしている(中川に限らないだろうが、ここでは中川の文章をとり挙げる)。中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)によると、以下のとおり。

 ・「子ども手当」等の「子育て」支援はマルクス=エンゲルス『共産党宣言』(1848)を教典とするカルト信仰からの思いつきで、「日本人から家族をとりあげ『家族のない社会』に改造する」ためのステップだ。共産党宣言にはこうある-「家族の廃止!……我々は両親の小児に対する搾取を廃止しようとする。〔親による教育の禁止は〕……〔子どもの〕教育を支配階級の影響からひき離すにすぎない」(p.14)。

 ・「子育て支援」とは<国家こそが子育ての主体>、<親は産んだ瞬間に役割を終える>等の狂気のイデオロギーによる共産党の造語だ。かかる施策が立法・行政に闖入したのは「自由社会では日本のたった一カ国」。類似の政策は①レーニンによる家族解体の狂策(但し1936年頃廃止)、②金日成・北朝鮮の「子供の国家管理」の制度化(p.16)。

 ・「子育て支援」施策の異様さは「扶養控除」の廃止と連結していることで分かる。「扶養控除」は<親が子供を育てる>を大前提として、親に対して国家が減税により若干の協力をしようとするもの。一方の「子育て支援」思想は「家族=孤児院」とするイデオロギーだ。子供=孤児、親=孤児院の経営者に見立てている(p.17)。

 ・「子育て支援」の狂気は、ルソー(重度精神分裂症者・孤児)の『人間不平等起源論』・『エミール』を教典とし、それを盗作的に要約したマルクスら『共産党宣言』にもとづき、レーニンが実行したおぞましい歴史を21世紀の日本で再現しようとするもの。民主党のマニフェストの「子ども手当」の背後思想は日本共産党により大量出版された「子育て支援」文献を援用しており、民主党は「共産党のクローン」になっている(p.17-18)。

 まだまだ続くが、ここで止めておく。

 民主党の元来の「子ども手当」の思想は<所得制限>といったものに馴染まない(だからこそ結果としては一貫して所得制限は導入されていない)。両親の収入の多寡に応じた「社会福祉」という国家の<援助>とは異なる。「国家」こそが「子育て」の主体(子どもを家族・両親から早期に切り離す)というイデオロギーに支えられたワン・ステップ(一里塚)と位置づけられている、と考えられる。中川八洋の指摘は決して大げさなものとは思えない。

0995/月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは。

 月刊正論4月号(産経新聞社)で編集長・桑原聡いわく-「…民主党内閣が、憲政史上最低最悪の内閣であることは多くの国民が感じているところだろうが、かりに解散総選挙が行われ、自民党が政権を奪回したとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも、わが国を元気にする知恵も力もないように思える」(p.326)。
 同誌の宣伝紹介記事(産経3/01付)で同じく桑原聡いわく-「国民の大半が期待しているのは、この党〔民主党〕が一日も早く政権の座から降りてくれることだけだ。しかし、かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」。
 産経新聞社内の出世コースを歩んでいるのかもしれないこの桑原聡のこのような<政治的>判断を基準にして、産経新聞全体は別としても、当面の月刊正論は編集されていくものと見られる。

 はたして、かかる立場を編集長が明記することはよいことなのかどうか。それよりも、その<政治的>判断は適切なものなのかどうか。

 2009年総選挙前に、自民党はダメだ、(よくは分からないが、新しい)民主党は期待できそうだ、というムードを煽ったのは朝日新聞を含む大手メディアだった。櫻井よしこすら、自民党に対して冷たかった(民主党内閣成立後も<期待と不安が相半ばする>旨を書いていた)。

 現時点で、自民党を「賞味期限の過ぎた政党」と断定して叙述するこの桑原聡のような、大(?)雑誌、しかも<保守系>とされる雑誌の姿勢は、どのような政治的効果をもたらすだけだろうか。

 2009年に自民党離れが生じ、かりに民主党に投票しなくとも<保守派>国民の中に<棄権(無投票)>行動がある程度は生じたと推測されるように、上のような断定は、反民主党(同党政権)の見解をもった国民に対して、自民党にも投票せず、<棄権(無投票)>するという行動を誘発する方向に機能するだろう。そしてそれは、民主党に有利に働くだろう。

 かりに現在のような政党状況のままで解散・総選挙が行われた場合、そのような投票行動は、日本を<良い>方向に導くのだろうか? 民主党の延命を助けるだけではないのか。
 それに、上のような断定は、<右>からの自民党は「第二民主党」、「民主党と同根同類のリベラル」という批判と共鳴しているとももに、<左>からの、例えば日本共産党(・社民党)のいう、民主党(内閣)は<第二自民党(内閣)>だ、という批判とも共振している。

 桑原聡は、上のように、その主張は、日本共産党(・社民党)のそれとも共通することを、いかほど意識しているのだろうか。代表的<保守系>雑誌が、こんな感覚の編集長に率いられているのだから、内容に奇妙な部分が出てくるのもやむをえないだろう。

 月刊正論4月号のウリは「保守論客50人が提言~これが日本再生の救国内閣だ!」で、屋山太郎のような「保主論客」とは思えぬ者を含む人々に、それぞれが構想する内閣の布陣(構成)を語らせている。

 まじめによく考えられており、かつ現実味がなくはないと感じられる「構想」もあるが、雑誌の全体としていえば、<お遊び>の類だ。保守的論者による保守派政治家・評論家類の「人気投票」のような観もある(一部には文章を書かせているが、じっくりと読みたいものがあるものの、1.5頁~2頁に過ぎず、短か過ぎる)。

 八木秀次は「公務員制度改革担当相」に屋山太郎をあてる。筆坂秀世は法務大臣に長谷部恭男(東京大学教授)、「領土問題担当相」に志位和夫(日本共産党委員長)をあてる。野口健は外務大臣に岡本行夫、防衛大臣に前原誠司、環境大臣にC・W・ニコルをあてる。河添恵子は首相に出井伸行、官房長官に辛坊治郎をあてる。……。

 重ねて桑原聡はこの雑誌の最後でこう書く-「筆坂秀世氏が領土問題担当大臣に志位和夫氏を指名しているが、現在の国難は、これぐらいの大胆さがないと乗り越えられないのではないか。いかがだろうか」(p.326)。「賞味期限の過ぎた」自民党(中心)内閣よりも、志位和夫を閣僚の一人とする<救国>内閣の方が、桑原には「よりまし」であるらしい。

 現実的実現可能性はさておくとしても、この桑原聡は正気で、「いかがだろうか」などと暢気に訊いているのだろうか。

 (少なくとも日本の)ジャーナリズム・ジャーナリストの類は(マスメディア一般がそうだが)、総じては、または基本的には、国家・社会・国民を「正」・「善」・「美徳」の方向に導こうなどという気構えはなく、そもそもが何が「正」・「善」・「美徳」かなどという思考をめぐらしもせず(価値相対主義・一種のニヒリズムに陥るとこうなる)、何が<話題になるか>、何が<面白いか(興味を惹くか)>、そして何が<相対的によく(多く)売れるか(儲かるか)>を基準にして雑誌等を編集しているように見える。

 例えば「適切さ」はもちろん現実の実現可能性よりも、<面白い>かどうか、<話題になる>かどうか、が基準になっているように見える。

 産経新聞社の新(?)編集長のもとでの月刊正論も(いい論考も少なくないのに)、そのような弊を免れていないようだ。

0991/古田博司「時代の触角/親中メディアの生理的イライラ」(歴史通3月号)。

 歴史通3月号(ワック)の古田博司「時代の触角③/親中メディアの生理的イライラ」(p.200-)によると、日本の全国紙のうち朝日・毎日・日経は1960年代に「黙って」・「素知らぬ顔で」反米・親中へと変化した、読売は2006年に「鋭角的に」そう変化し、産経は非親中のまま、らしい。これにNHKの親中ぶりを合わせると、大手メディアの<親中>体制は強固だ。

 NHKは在日エジプト人の200人ほどの集会を丁寧に放送し、別の某民放局(忘れた)は在日リビア人のそれよりも少ない数の活動を追っていたが、昨秋の尖閣事件を契機とする他ならぬ日本人の東京での数回にわたる数千人規模のデモ・集会をほとんど無視した。だが、菅直人内閣の支持率の急落の最大の原因は私にはこの尖閣問題への対処のヒドさ(国民に生じた基本的な平和・安全自体への危惧)にあったと思える。大手メディアの報道ぶりと庶民的<世論>の感覚はかなりズレているのではないか。

 古田論考には他にも興味を惹く叙述がある。詳しく反復しないが、親中べったり派の毎日新聞の元・現の記者として、石川昌、中野謙二、辻康吾、金子秀敏という固有名詞を挙げている。そして、「尖閣事件以来、毎日の『スター』はずっとイライラし続けている」のだそうだ。

 古田によると日中友愛の<理想・幻想・空想>は「ウソの団子三兄弟」または「想兄弟」。これに該当する兄弟たちは、東京新聞の清水美和、慶應大学の国分良成、みずほ総研の細川美穂子、東京大学の苅部直(「事後のピエロ」)、慶應大学の添谷芳秀

 「わが日本国ではリベラルと親中が六〇年代に進歩的文化人らにより接着されてから、ずっと剥がせないまま、インテリのマジョリティを作り上げて今日まで来てしまった」のだが、古田は、自分たちで剥がせなければ「際限なくウソ」をつき続ける他はないとして、若干の例も挙げている。
 この古田論考をとり上げたくなったのは、次の最後の一文にある。「東アジア情勢の変動が国内政治にどう反映するか、いよいよ楽しみになってきた今日この頃である」。

 「いよいよ楽しみになってきた今日この頃である」。日本の将来を悲観し、悲痛に思い詰める必要はない。菅直人政権の右往左往ぶり、支持率急落(最新の某調査で20%以下!)、衆議院解散を求める世論の増大(事態の改善方向の第一位意見)に対して、朝日新聞はこれからどう菅・民主党政権を擁護し、自らのかつての主張との齟齬を取り繕うだろうか、「いよいよ楽しみになってきた今日この頃である」、という気分で日々を過ごすことにしよう。

0986/中川八洋・民主党大不況(2010)の「附記」を読む③。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)p.351-「附記/たった一人の(日本人)保守主義者として」の引用・抜粋-その3、p.359~p.365-。
 ・「民族系」論者には「自由社会の存立」に必要な「反共」・「反社会主義」の知識が全く欠落している。「民族系」は南京事件・沖縄集団自決・従軍慰安婦強制連行・百人斬りなど、「左翼」の歴史捏造問題には反撃論陣を張る。これは正しいが、石井731部隊人体実験・シナでの毒ガス作戦などの他の歴史捏造には口を噤む。
 ・「民族系」には歴史の「真実」への関心がない。彼らは観客相手の「売文業者」で、観客のいない問題には関心がなく、知識もない。「観客」とは「旧軍の将兵(退役軍人)たち」だ。「民族系」論者の東京裁判批判は「意味不明な論旨」で、東京裁判史観の拡大宣伝をする日本共産党系学者の「狂説」を目に入れていない。「観客」=退役軍人たちは南京事件・従軍慰安婦等の問題は体験からすぐ分かるので、これらの捏造を糾弾すればすぐに反応がある。「民族系」論者は「花代」欲しさに、捏造歴史問題を一部に限定して声を大にしている。①ソ連軍の蛮行(満州でのレイプ・殺人・財産奪取)、②シベリア拉致日本人の悲惨さ、③南方作戦(餓死から奇跡的な一部が生還)には「何一つ語ろうとはしない」。その理由は、これらの被害はあまりに悲惨で「観客」が思い出したくない、つまり「民族系」の「金にならない」からだ。

 ・「民族系」は「保守主義者」ではなく「保守」か否かも疑問だ。「真正保守」ならば、反「極左イデオロギー」闘争を優先し、「国家の永続」を最重視する。「保守」は昭和天皇や吉田茂のように必ず「親米」だ。「反米」は「左翼」・「極左」の特性で、「日の丸」・「天皇」を戴くだけで彼らを「保守」と見なすのは不正確で「危険」だ。「真正保守」の再建には、彼等を「再教育」して「一部を選別するほかない」。

 ・「民族系」は過去20年間、「第二共産党」・民主党の政権奪取に貢献してきた。彼らは日本の国を挙げての「左傾化」を阻止しようとはせず、助長した。「民族系」は、「ソ連の脅威の一時的な凍結」を好機として、「反米→大東亜戦争美化論→東京裁判批判→A級戦犯靖国合祀の無謬」を「絶叫する狂愚」に酔い痴れてきた。「大東亜戦争美化論」は日本廃絶論・日本「亡国」待望論で、林房雄、保田與重郎・福田和也の系譜だ。
 ・民主党は「国家解体」に直結する「地方分権」、民族消滅に直結する「日本女性の売春婦化である性道徳の破壊」など、「日本滅亡の革命を嫡流的に後継する政党」だ。だが、「民族系」は、民主党が支持される「土壌づくり」に協力した。
 ・「民族系」が「正気に目覚める」のは「外国人参政権」と「夫婦別姓」の二つに限られ、これ以外では無知で無気力だ。「深刻な出生率低下をさらに低下させる法制度や日本の経済発展を阻む諸制度」に反対せず、関心もない。「財政破綻状態にも、日本人の能力の深刻な劣化問題にも」憂慮しない。「民族系」論客・団体の「知的水準」は低く、民主党批判を展開する「学的教養を完全に欠如」する。
 ・だが、「あきらめるのは、まだ早い」。「十八世紀のバークやハミルトン、二十世紀のレプケやハイエクなど、多くの碩学から」学んで、「日本国の永続」方策を探り、「悠久の日本」のための「国民の義務」に生きる道を「歩み続けるしかない」。

 以上で、終わり。

 若干のコメントは次に回したい。

0978/西部邁「『平成の開国』は日本民族の集団自殺だ!」(月刊WiLL3月号)を読む②。

 西部邁「『平成の開国』は日本民族の集団自殺だ!」(月刊WiLL3月号、ワック)から、のつづき。
 ・規制緩和あるいは「秩序からの解放とか、規制からの解放」→市場「活力」、というのは「エコノミストたちの…ひょっとすると戦後六十五年に及ぶ」大誤解だ。これは「戦後始まった歴史感覚乏しきアメリカニズム」の結果。「秩序を作る活力を持たずに、競争の活力がつくわけもない」(p.232-3)。
 -なるほど。だが、前回に紹介したように、西部邁によると規制と保護の間には<絶妙なバランス>が必要で、一方に偏してはいけないのだ。
 ・日本人が平成の22年余「毎日叫んでいた構造改革がもしも必要だとしても」、歴史を忘れた「合理主義」に舞い上がり、「抜本改革だ、構造改革だ、急進改革だ」などと叫んではいけない。このことは「保守思想の見つけ出した知恵」だ。

 -なるほど。だが「構造改革」一般を否認しているわけでもない。その具体的内容、規制と保護の間の<絶妙なバランス>の問題なのだろう。

 ・世代交代により戦前を知っていた、「歴史の知恵を少々は身につけていた」者たちが消え、敗戦後に育った世代が平成に入って以降、「一斉に各界の最前線に立ち改革を唱え始めた」。その「最大の犠牲者」でもあるのが「今の民主党にいる東大出の高級役人であり、弁護士であり、松下政経塾出身者であり、労働組合の幹部出身者たち」だ。その意味で民主党を「クソミソ」に言う気はない(p.234-5)。

 -戦前・戦中の実際を知っていて単純に<日本は(侵略戦争という)悪いことをした>のではないと実感として知っていた者たちがいなくなり(あるいはきわめて少なくなり)、占領下のいわゆるGHG史観・自虐史観の教育を受け、素朴に<平和と民主主義>教育を受けてきた世代が政界でも「最前線」に立つようになった。鳩山由紀夫、仙谷由人、菅直人、みんなそうだ。このほぼ<団塊の世代>は1930年代前半生まれの「特有の世代」の教師あるいは先輩によって、教育・指導されてきた。その結果が現在だ、という趣旨だと理解して、異論はない。

 なお、「東大出」ととくに指摘しているのは、月刊WiLL3月号の巻頭の中西輝政「日本を蝕む中国認識『四つの呪縛』」の一部(p.36、p.39)とも共通する。中西輝政は<団塊>世代に限定しておらず、固有名詞では、藤井裕久、与謝野馨、加藤紘一、谷垣禎一、仙谷由人らを挙げている。

 ・「民主党のような人間たちを作り出したのは、ほかならぬ戦後の日本」だ。月刊WiLL・週刊新潮・産経新聞に寄稿する「保守派のジャーナリストのように、単に民主党の悪口を言って」いて済むものではない(p.235)。

 -上の第一文はそのとおりで、そのような意味で、民主党内閣の誕生は戦後日本の<なれの果て>、あるいは戦後<平和と民主主義(・進歩主義・合理主義)>教育の成果だと思われる。従って、民主党政権の誕生は戦後日本の歴史の延長線上にあり、大きな<断絶(・「革命」)>をもたらしたものではない、というのが私の理解でもある。また、上の趣旨は、「民主党のような人間たち」のみならず、民主党を「支持した」人間たち、民主党政権誕生を「歓迎した」人間たちにもあてはまるだろう。そういう人々を「ほかならぬ戦後の日本」が作ってしまった。

 上の第二文はそこでの雑誌類に頻繁に登場する「保守派」論者たちへの皮肉だ。櫻井よしこを明らかに含んでいるだろう。渡部昇一佐伯啓思まで含めているのかどうか、このあたりにまで踏み込んでもらうと、もっと興味深かったが。
 ・民主党の「大、大、大挫折」は日本人が戦後65年間、「民族国民として、緩やかな集団自殺行為をやっていたことの見事なまでの証拠」だ(p.233)。
 -そのとおりだと思うが、この点を自覚・意識している者は、到底過半に達してはいない。

 ・今や「ほとんどすべての知識人が専門人」となり、「局所」・「小さな分野」にしか関心・知識のない人間が「膨大に生まれている」。新聞記者、雑誌記者、テレビマン、みんな「その手合い」で、民主党の醜態と併せて考えて、「ほとんど絶望的になる」(p.235)。
 -昨今の気持ちとほとんど同じだ。なんとまぁヒドい時代に生きている、という感覚を持っている。西部邁はこのあとで、退屈な老人にとって「絶望ほど面白いものはない」、「民主党さんありがとう」と言いたい、と書いているが、どの程度本気なのかどうか。一種のレトリック、諧謔だろう。ひどい時代を生きてきたし、生きている。マスメディアのみならず、「その手合い」に毒され、瞞されている有権者日本人に対しても、「ほとんど絶望的になる」。この欄にあれこれと書いてはいるが、ほとんど<暇つぶし>のようなものだ。あるいは、時代への嫌悪にじっと耐えて生きている証しのようなものだ。

0977/西部邁「『平成の開国』は日本民族の集団自殺だ!」(月刊WiLL3月号)を読む。

 月刊WiLL3月号(ワック)の西部邁「『平成の開国』は日本民族の集団自殺だ!」(p.226~)は、最近の西部邁のものの中では共感するところが多く、興味を惹く部分もある。

 例のごとく(?)、タイトルと内容は必ずしもきちんと対応していないし、小沢一郎論にもとりあえずは大きな関心はない。

 佐藤栄作首相の後が田中角栄ではなく福田赳夫であったなら、日本の政治・政界も現実とはかなり異なる歩みを持ったのではないか、①程度の違いかもしれないが、親中か反共かの考え方の違いが二人にはあった、②日本の国家財政の<借金>づけ体質の始まりは田中角栄内閣にあるのではないか、といった関心から、その田中角栄の系譜の小沢一郎を問題にすることはできる。

 また、1993年の小沢の自民党離党(「新生党」結成)こそが細川非自民内閣の誕生の機縁になり、反小沢か否かで自社さ連立(村山)政権もできたのだったから、今日までに至る政界の混乱(?)はそもそもが、小沢一郎という政治家の言動に起因する、と言える、と思われる。
 そのような意味では、たんに<政治とカネ>や現在の民主党の内紛といった小さな(?)問題の中に小沢一郎を位置づけてはいけないだろう。

 以上は余計な文章で、西部邁批判ではない。別に本格的に小沢一郎には触れたい(あまり気乗りのするテーマではないが)。

 上掲西部邁論考は小沢一郎への言及から始まる。その部分は省略して、以下は、共感するまたは興味を惹く西部の文章の引用または要約だ。
 ・民主党政権は、「一言で表せば」「マスコミ政権」だ。メディアと「それに踊らされた世論」の責任は大きい。小沢の「化けの皮すら見抜けない」経済界の責任も大きい(p.228-9)。

 -本来なら「国民」と「メディア」に責任をとらせて「彼らを残らず始末」すべし、とまで西部は言う。また、メディアの責任に関して、「朝日新聞系」のほか、「あろうことか、産経新聞や『文藝春秋』まで」流れに追随、と産経新聞等も批判している。民主党政権(2009総選挙、鳩山由紀夫首相)の発足に関して、産経新聞や「文藝春秋」がどういう論調だったのか定かな記憶はないが、ともあれ、この両者もメディアの一部として批判されていることも目を惹いた。
 ・市場における「競争と政府による保護」は「両方とも必要」で、問題はをどのようにして両者の「絶妙なバランスを取るか」だ。民主党は「自由競争」・「弱者保護」とはそれぞれ何かという「原則的な問題」を見極められずに混乱している。だが、民主党のみならず、「財界」、「お役人、学者、その他のインテリ」といった「昨日まで自由競争バンザイを唱えていた連中までもが、今日になってパタッと口を噤んでしまい、誰も言わなくる」という、社会全体の混乱だ(p.231)。

 -「小泉構造改革」は保守派においてどう評価され総括されているのか、という疑問は最近に述べたばかりだ。小泉首相によって自民党が300議席以上を獲得したこともあって、当時は、保守派の多数部分は「構造改革」を肯定または支持したのではなかったのか? 当時に、八木秀次中西輝政等々は何と言っていたのだろうと、何人かの当時の主張・理解を振り返ってみたい、と思っている。ともあれ、西部邁が指摘するように、「昨日まで自由競争バンザイを唱えていた連中までもが、今日になってパタッと口を噤んでしま」う、という現象はあるのではないか。「貧困」・「格差」拡大キャンペーンに負けている、と言えなくなくもないこの問題は、もう少し関心をもち続けたい。

 ・TPPの「関税撤廃への歩み」は「市場競争を至上命題とする弱肉強食も厭わぬ新自由主義が、まだ延命している証左」だ。「新自由主義」を語る「日本のインテリの連中」は自由主義の「新旧の区別」をつけていない。「日本では新自由主義が小泉改革時代に最高潮に達し、様々な社会問題を噴出させ」た。それを民主党が批判したのなら、「旧自由主義」を振り返るべきで、そうすれば、「子ども手当や、その他の福祉ばら撒き政策など」が出てくるはずはない。だが、「自由主義」を拾っては捨て、「またゴミ箱から拾ってくる」のが民主党政権の醜態だ(p.232)。

 -西部邁のこの部分を支持して引用したわけではない。西部意見として興味深い。もともと「新自由主義」批判は「旧自由主義」に戻れとの主張ではなく、<親社会主義>からの資本主義(社会)自体への批判であるような気がする。にもかかわらず、民主党政権が直接に「社会主義」政策を採ることはできず依然として資本主義(いずれにせよ「自由主義」)の枠内で経済政策を決定せざるをえないために、その諸政策は場当たり的で首尾一貫していないのだ、とも思われる。なお、「子ども手当て」は中川八洋らも指摘しているように、特定の<親社会主義「思想」>による(またはそれが加味された)ものだろう。

 このくらいにして、時間的余裕があれば、さらに続ける。

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