山田洋次監督・吉永小百合主演の映画「母べぇ」というのが上映されている(らしい)。
 読売新聞1/24の全面広告欄で、原作者・野上照代はこう語る(一部)。
 <今も世界には「暴力による支配」に苦しむ多数の人々がいる。日本で「も」、「戦争の怖さ、悲惨さ、残酷さを語り継ぐ体験者」が減り、「戦争を知らない世代がほとんど」。戦争の時代は「すっかり過去の遺物」となりつつある。「しかし、…ああいう時代がいつまた来るかわかりません」。「暴力」は「本当に恐ろしく、私の父のように戦争反対を唱える人はまれで、…。だから、ひたひたと恐ろしい時代が忍び寄っていたとしても気付かず悲惨な歴史がまた繰り返されるのではないかという不安があるのです」。>
 かかる発言は一体何だろう。どこかで何回も聞いたことがある、<二度と繰り返すな、警戒しないとまたあの時代が>という<狼少年>的な教条「迷い言」そのままではないか。
 「ああいう時代がいつまた来るかわかりません」などと言っているが、「ああいう時代」は絶対に二度とやって来ない、と私は考えている。まるで現在が「ひたひたと恐ろしい時代が忍び寄っていたとしても気付かず…」という時代であるかの如き発言もしているが、じつに幼稚な、日教組等がかつてよく言っていたような、情緒的な<戦後左翼>の言葉そっくりではないか。
 吉永小百合も「ひとりの日本人として『母べぇ』の時代のことは忘れてはならないとの思いを胸に、心を込めて」演じた、と語る。
 山田洋次もいわく、「軍国主義の時代…」、「表現の自由が認められない、辛く厳しく、重苦しい時代でした…」、「こうした時代の記憶…作品として次世代に残していくのが使命…」等々。
 戦時中に「思想犯」として投獄されていた者の家族(吉永小百合ら)をその妻(子の母)を中心に描く、表向きは、またたぶんかなりの程度は<ヒューマニズム溢れた>映画なのだろうが、しかし、上の言葉等からすると、<戦争反対>の「思想犯」を英雄視し、又は英雄とまではいかなくとも真っ当な立派な人物として描き、日本「軍国主義」を批判する<反戦>映画であることは間違いないだろう。
 逮捕・投獄されるほどの当時の「思想犯」とは、コミュニスト(マルクス主義者)あるいは親コミュニズム者(親マルクス主義者)である可能性も高い。少なくとも、日本の戦勝を喜びはしなかったと思われる「国民」で、戦後初期、例えば占領中の人物評価基準と同じ価値基準を今日でも用いるのは適切ではないだろう。
 また、言うまでもなく、山田洋次も吉永小百合も「九条の会」(現憲法九条の改正に反対するグループ)の有力な賛同者であって、たんなる監督・女優あるいは文化人ではない。
 <ヒューマニズム溢れた>映画に反対するつもりはないが、しかし、野上照代が「暴力による支配に苦しめられている人々がたくさんいます」などと言うのならば、山田洋次監督・吉永小百合主演で、例えば、北朝鮮、中国、チベット、かつてのカンボジア、ソ連等々の「表現の自由」のない人々と関係のある日本人を主人公とする映画を作ってほしいものだ。北朝鮮については、その「暴力」のれっきとした被害者が現に日本にいるではないか。
 なぜ山田洋次は、<めぐみさん>又はその両親を描く映画を作ろうとしないのか?
 現・旧の<社会主義国>の「暴力」や「弾圧」には目が向かず、日本「軍国主義」を結局は(間接的にせよ)糾弾する映画作りには熱心になるという山田洋次は、そして吉永小百合も、やはり、私に言わせれば、<ふつうじゃない>。
 なお、産経新聞1/30は、広告記事ではなく一般のインタビュー記事として野上照代に語らせている。この映画の上映収益の増大に一役買っていることになる。読売の広告欄のような言葉を野上は(あからさまには)述べていないが、これが野上の<自粛>なのか、記者の判断による取捨選択の結果なのかは分からない。
 ともあれ、映画もまた、<時代の空気>のようなものを作っていく。1970年代には、「容共的」作家・五味川純平原作の、日本の財界人を「悪徳」者視し、中国共産党員をヒロイックに描いていた、山本薩夫監督の『戦争と人間』全三部という大作映画もあった(吉永小百合も山本学・圭らとともに出演)。「母べぇ」を観る気はないが、<政治>的匂いのある映画には(良かれ悪しかれ)関心を向けておくべきだろう。