秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

欧州近代

1424/「保守」とは何か-月刊正論編集部の愚昧①。

 一 「愚昧」とは挑発的だが、直接には、月刊正論3月号のp.58の、「保守」にかかわる論壇・政党のチャート(マップ)図表に異を唱えたい。
 また、<保守とは何か> も惹句であり、これを以下で正面から論じるつもりはない。
 月刊正論「編集部作成」という上記のマップは、一つは対アメリカ観に着目して「対米協調」と「対米不信」に分け、もう一つは「自尊」と「自虐」に分け、併せて四つの象限を描いている。
 月刊正論編集部の頭の中を覗きみる観がある。しかし、この二つの対立軸を合成して思想・論壇・政治家等を見るのでは、適切に現在の思想・政治状況を把握できないと思われる。
 まず、対アメリカの見方を重視すること自体、月刊正論編集部が「アメリカ」に拘泥していることを示している。例えばなぜ、「対中国」であってはダメなのか ?(対中国を基軸にせよとの趣旨ではない。)
 つぎに、「自尊」・「自虐」という基準は、適切な基準にはならず、正確には、これを基準とすべきではない、と思われる。
 同編集部によれば、産経新聞は第一象限の<対米協調・自尊>に属するらしい(朝日新聞は<対米不信・自虐>)。同編集部もまた、この立場をとりたいのだろう。
 とすると、「自尊」は疑いもなく肯定的評価が与えられ、「自虐」には疑いもなく消極的評価が与えられると<信じて>いるかに見える。しかし、そのように断定することはできない、と考える。
 長くなるので結論だけ書くが、「自尊」も程度による。いくつかの民族・文明を劣ったものと罵倒して、日本民族(日本人)の<優秀性、すばらしさ>だけを言い募ってはいけない。
 合理的・理性的なものならばよいが、実証性の欠く叙述・主張をして、自己満足をしてはいけない。<日本の歴史・伝統>を語ることは私も好きだが、できるだけ事実に即した冷静さも必要だ。
 産経新聞社の安本寿久らは、本当に日本書記の「神代」の記述、神武天皇の聖跡・東遷のルート上の言い伝えをほとんどそのまま「真実」だと思っているのだろうか。左はついでに。今年は皇紀2600+年だと「信じ」ないと<保守>派ではないのだろうか。左もついで。
 二 上のマップに興味をもったのは、秋月自身が、思想・思潮(とくに政治・論壇における)の4分類というものを思い描いており、この欄に提示して遺しておきたく考えていたからだ。
 それによると、共産主義に対する考え方、<自由と民主主義>に対する考え方の二つを基準として、現代日本の思想・思潮は以下のように分類できる。
<自由と民主主義>とは<欧州近代>思想と言ってもよく、liberal and democratic 又は Liberal Democracy を意味する。表向きは、日本国憲法の思想又は理念でもある。以下では、たんに「リベラル」と略記する。中島岳志のいう<保守リベラル>等と、以下の類似の言葉は同じではない。中島は<保守>界の紛れ込もうとした<容共・リベラル>だろう。
 説明・コメントは、のちにも行う。
 A/保守・ナショナル (産経新聞 →B ?)
 B/保守・リベラル  読売新聞
 C/容共・リベラル  朝日新聞・毎日新聞
 D/共産主義     「赤旗」
 ・人文・社会系の学界・大学の教授たちは、ほとんどがCかDに属する。憲法学界は、95パーセント程度か。
 ・自民党はAからBに広く及ぶが、Bの方が多そうだ。かつて(今も ?)、Cに属する議員もいた可能性がある。
 ・<保守>イコール<反共産主義>だと、秋月は考えてきた。D/共産主義の重視しすぎだとの感想を与えるかもしれないが、きちんと残しておくべきだ。このD/共産主義が(日本には)まだあるがゆえにこそ、Cも存在しうる。
 ・産経新聞は、もともとは<保守・ナショナル(愛国・反反日)>の新聞だったようだ。しかし、安倍戦後70年談話を支持して以降は、先の<戦争>の理解については、読売新聞と基本的には同じになっていると見える。昭和の戦争にかかわる<歴史認識>では産経も読売も変わらなくなったのではないか。上のマップでは産経新聞は<自尊>派とされているが、何が<自尊>だ。笑わせる。また、<対米協調>とは、<歴史認識>では<対米屈服>・<対米追従>なのではないか。笑わせる。
 ・欧米と日本を比べると、AとDを殊更に挙げておく必要があるのが日本で、欧米の圧倒的大勢は「近代市民革命」の肯定と<自由と民主主義>支持で覆われているようだ。民族問題はその基本的理念・理想のもとでの対立だと考えられているように見える。具体的には、日本におけるような<靖国問題>も、大きな対立がある<改憲問題>も、欧米には存在しないように見える。アメリカ・トランプ大統領はBからAへの離脱までしようとしているかは、まだはっきりしない。かりにそうだとすれば、欧米的<自由と民主主義>理念の放棄まで目指しているとすれば、根本的に新しい時代に入っている、と思われる(但し、これまでの<リベラル・保守>の範囲内のものである可能性も高い)。
 ・A/ナショナル保守も、さらに分岐する。親米か反米かという基準は、あまり役に立たないと考えるべきだ。むしろ、「観念保守/ナショナル」と「合理的保守/ナショナル」を重要なものと考えるべきだ、と最近は思っている。また、反共産主義という場合の「反共」の程度で、この内部を分けることができると思われる。
 ・月刊正論上記号の櫻井よしこ論考は、「観念保守/ナショナル」丸出し。櫻井よしこが保守論壇の(オピニオン・)リーダーだとされることがあるのは、恥ずかしく、情けない。かつまた、恐ろしい。
 月刊正論編集部もまた、俺たちこそが<真正保守>派だとの思いは(あるとすれば)、捨て去るがよいだろう。「真正保守」の認定権がこの編集部にあるわけがない。
 さらに続ける。

1261/月刊正論1月号・柳本卓治論考を読む。

 月刊正論(産経新聞社)2015年1月号に柳本卓治「世界最古の『憲法の国』日本の使命」がある(p.168-)。
 自民党議員で参議院の憲法審査会会長に就任したという人物が書いているもので、共感するところもむろんあるが、大いに気になることもある。
 この論考は大きく五つの柱を立てているが、その二は「国家や国民という歴史と文化・伝統を縦軸に、国民主権・基本的人権・平和主義の三大原理を横軸に据えた憲法を」だ。「国民主権・基本的人権・平和主義の三大原理」を基軸の一つにする、と言うのだが、より詳しくは次のように語られている(p.170)。
 「現行の日本国憲法は、占領下の翻訳憲法ではあるが、その根幹には、国民主権、基本的人権、そして平和主義(戦争の放棄)という三大原理が謳われてい」る。「国民主権(主権在民)も基本的人権も、自由と民主主義に立脚する近代国家には、普遍的な原理」だ。「また、戦争放棄と平和主義も、人類国家として実現していかなければならない理想でもあ」る。
 これはいけない。第一。すでにこの欄で述べたことがあるが、まず、現憲法が「国民主権・基本的人権・平和主義」を「三大原理」とするというのは、多くの高校までの教科書には採用されている説明かもしれないが、<左翼>憲法学者たちが説いてる一つの解釈または理解の仕方にすぎない。阪本昌成のように七つの<後日訂正-六つの>原理を挙げる憲法学者もあり、大学レベルでの憲法教科書類が一致して説いているわけでは全くない。少なくとも、権力分立原理と「象徴」天皇制度の維持・採用も、現憲法の重要な原理だろう。前者には、司法権により立憲主義を維持・確保しようとしていること(立法を含む国家行為の憲法適合性の審査)も含めてよい。
 ともあれ、素朴で、幼稚ともいえる「三大原理」の持ち出し方は、適切であるとは思えない。
 つぎに、その「三大原理」を「自由と民主主義に立脚する近代国家」に「普遍的な原理」だと語るのは、まさに<左翼>的な戦後教育の影響を受けすぎており、とても<保守>派の政党・論者が語るものとは思えない。そもそも、日本において、アメリカの独立革命やフランス革命とそれらが生んだ憲法をモデルとして「近代憲法」を語ることの意味が問われなければならないだろう。西欧+アメリカの「近代」原理を日本も現憲法で採用し、それは「普遍的原理」だ、というのは、典型的な<左翼>の主張であり、理解である、と考えられる。
 欧米を「普遍的」原理を提供しているモデルと見るのではなく、日本的な国政あるいは国家統治の原理を創出しなければならず、「自由と民主主義」といっても、それは日本的な「自由と民主主義」でなければならない。
 柳本のような論調だと、欧米的「近代」・「普遍的な原理」によって、「国家や国民という歴史と文化・伝統」は害され、決して両者は調整・調和されないことになるのではないか。
 柳本の教養・素養の基礎は経歴によると経済学にあるようだが、上のようなことを書く人が参議院憲法審査会会長であるというのは、かなり怖ろしい。
 さらにいえば、柳本・参議院憲法審査会会長は、「戦争の放棄」とか「平和主義」をどのような意味で用いているのだろうか。いっさいの「戦争の放棄」をしてはならず、正しい又は正義の戦争=自衛戦争はある、と私は考える。
 また、<左翼>が「平和憲法」などと称して主張する場合の「平和主義」とは、決して戦後および現在の世界諸国において一般的・普遍的なものではなく、「戦力の保持」をしないで他国を信頼して「平和」を確保しようとする、きわめて非常識かつ異常な「平和主義」に他ならない。
 にもかかわらず、柳本は次のように書く-「いま最も大切なことは、この憲法9条の精神を今後も高々と掲げると共に、同時に、…独立国としての自衛権と、自衛のための自衛軍の整備をきちんと明文化すること」だ。
 ここには現9条の1項と2項の規範内容の違いへの言及がまるでないし、「憲法9条の精神を今後も高々と掲げる」という部分は、実質的に日本共産党の別働団体になっている「九条の会」の主張と何ら異ならない。せめて、9条1項の精神、とでも書いてほしいところだ。
 柳本は「憲法9条とは、先の大戦を通して、国民が流し続けた血と涙の池に咲いた、大輪のハスの花である」とまで言い切る。憲法9条は、その2項も含めて全体として、このように美化されるべきものでは全くない、と私は考える。このような言い方も「九条の会」と何ら異ならない。
 繰り返すが、現憲法の文言から素直に読み取れる「平和主義」とは、「軍その他の戦力」の不保持・「交戦権」の否認を前提とする、それを重要な構成要素とする<世界でも稀な、異様な>「平和主義」だ。その点を強調しないままで、現9条は「大輪のハスの花」だとか、「戦争放棄と平和主義」は「人類国家として実現していかなければならない理想」だ、などと自民党かつ参議院の要職者に語られたのでは、げんなりするし、憲法改正・自主憲法制定への熱意も薄れそうだ。
 第二。五つめの柱の「日本人は世界初の『憲法の民』」も、そのまま同感はしかねるし、また議論のために不可欠の論点だとは思われない。
 柳本は、聖徳太子の「十七条の憲法」を持ち出して、「近代国家の憲法とは、一律には比較でき」ないと断りつつも、「日本人は、世界初の『憲法の民』なの」だ、という(p.175)。
 日本と日本人が<世界初>・<世界で一つ>のものを有することを否定はしない。しかし、日本の明治期に欧米の近代「憲法」の原語(Constitution, Verfassung)がなぜ「憲法」と訳されたのかという歴史問題にもかかわるが、柳本も留保を付けているように、日本が世界初の「憲法」を持った、というのはいささか牽強付会の感を否めない。これはむろん「憲法」という概念・用語をどう理解するかによる。今後の憲法改正にあたっては、この点の指摘または強調はほとんど不要だろう。
 憲法改正に向けての多少の戦術的な議論の仕方を一切否定しようとするつもりはないが、柳本の基本的論調はあまりに<左翼>の影響を受けた、あるいは、表現を変えると<左翼>に媚びたものではないか。稲田朋美ならば、このような文章にならないのではないか。
 問題は、現憲法の諸条項を、どのように、どのような順序で改正するか(新設も含む)、そのための勢力を国会両議院内および国民・有権者内でどのように構築していくか、にある。

1154/佐伯啓思があまり語らない「天皇」につき、2009年に語っていた。

 一 佐伯啓思日本という「価値」(NTT出版、2010)、日本の愛国心(NTT出版、2008)という著書を発行し、最近に記したように「近代民主主義」とうまく結合しないものとして「日本的なるもの」を語っている(新潮45今年8月号)。
 西欧所産の「近代民主主義」よりも「日本的なるもの」に身を寄せていることはほとんど明らかで、また日本にかかわって「価値」や「愛国心」を論じているのだから、「日本的なるもの」についてのある程度は具体的イメ-ジを提示してきていると想定しても、何ら不思議ではないだろう。
 上の二著すら手元に置かないで書くが、これらを読んでも、じつは彼のいう「日本的なのもの」とは何かは、はっきりしていない、と言える。
 「日本(的なるもの)」を語る場合に佐伯啓思が全くかほとんど触れることがないもの、その一つは「天皇」だ。もう一つは、菅野覚明・仏教の逆襲(講談社現代新書、2001)に上のいずれかの中で言及していた記憶はあるが、神道および日本化された仏教という「日本の宗教」だ。
 佐伯啓思の本領または得意分野が西欧近代(の思想・原理)にあるとしても、「日本的なるもの」に言及して、上の二つについてはほとんど立ち入った論及をしていないのは、読者には少なくとも物足りないところがある。あえて、偏頗すぎるとか、保守されるべきものとして語られる可能性がある「日本(的なるものの)」の具体的な象がきわめて不明確だ、といった批判形を使うのはやめておこう。
 二 佐伯啓思が「天皇」について語っている文章はないかと探していたら、隔月刊・表現者2009年9月号の佐伯「『天皇』という複雑な制度をめぐる簡単な考察」(p.68-71)を見つけた。
 「天皇」に関する叙述内容自体以前に、佐伯啓思という人物の「思想」を理解する上で興味深い文章があるので、まずはそれらを要約的に引用する。
 ・私は「戦後的なるもの」を批判的に見てきたが、「しかし、天皇という問題となれば、ある意味では、私自身もきわめて『戦後的なもの』の枠組みに捕らえられているというべきなのかもしれない」。
 ・なぜなら、私には天皇や皇室への「人物的な関心」がなく、まして、天皇・皇室への「深い敬愛に基づいた情緒的な関心を示すなどということが全くないから」だ。「天皇陛下や皇室の方々の人柄だとか、その人格の高潔さだとか、といったことにはほとんど興味がない」。
 ・日本国憲法第一条のうち天皇は日本国および日本国民の「象徴」という部分も、「象徴」の意味は問題になるにせよ、「しごく当然のことであろう、と思う」。
 以上で、佐伯啓思のこの文章のほぼ1/4は終わっているが、ここで示されている心情からすると、次のことが言えそうだ。
 第一。安倍晋三らは<戦後レジ-ムからの脱却>を唱えている。だが、佐伯啓思は<戦後レジ-ム>あるいは「戦後的なもの」から完全に離れるべきだとは少なくとも心情レベルでは感じていない。「戦後的なもの」を自分の意識に内包していることを自覚しつつ、それを問題視する感覚がなさそうだ。
 第二。自民党が2012年4月に決定・発表した日本国憲法改正案の一条の前半は「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって…」とある。断定はし難いが、佐伯啓思は、天皇を「元首」とすることを「しごく当然」とは感じず、違和感を感じてしまうのではないか。
 以上のあと佐伯啓思は、明治憲法上の「天皇」には西欧的立憲君主と日本の歴史の中で構成された神格性をもつ世襲的存在の二重構造があり、これを一つにする必要があったことに「明治近代化の悲劇」がある、三島由紀夫は政治的概念としての天皇と区別される文化的概念に「天皇の本義」を求めようとしたが、「天皇」概念には元来「政治的意味合い」、「日本の王権」の政治的正当性を特徴づけるという意味があった、といった趣旨を述べている。
 「左翼」歴史学者と同様に「王権」という語を使っていることも気になるが、より気になることは別の点にもある。次回に扱おう。

1150/日本は西欧と中国のどちらにより近いのか-佐伯啓思と中西輝政。

 新潮45(新潮社)の今年8月号の佐伯啓思「反・幸福論/20回・空気の支配」の末尾で、佐伯啓思はこう書いている。

 「『日本的なるもの』と『近代民主主義』の結合には何か基本的な難点がある」(p.334)。
 西欧近代(またはヨーロッパ近代)に対する懐疑または批判的分析は佐伯の文章の随所に見られるところで、この人の最も得意とする論点かもしれない。戦後日本の「空気」を支配する基本的な正義となっているとする「民主主義」・「平和主義」、その延長上にあるとする「国際化」・「個人の自由」・「基本的人権」等(p.331-2)の欧米所産の諸原理は「日本的なるもの」と必ずしも容易には結合しないという基本的な趣旨には反対しない(但し、この論考の基本的なテーマは「空気の支配」で、この論点に関する叙述内容にはいくつかの疑問を提示することもできるが、立ち入らない)。
 上の佐伯啓思の一文に興味をひかれたのは、ほぼ同時期に中西輝政・日本人としてこれだけは知っておきたいこと(PHP新書、2011)をもう一度読み直していて、つぎの文章に出くわしたからだ。

 「法律」・「約束」等に対する「感覚は、日本と西欧がほぼ同じなのに、中国はまったく異なる…。『同じアジア人』という意識を持ってはいけない」
 テーマも文脈も異なる中で単純に対比してはいけないが、面白い論点が示されているように思われる。
 かりに欧米・日本・中国という三つの「文明」があるとして(むろん他にもあるのだが、省略する)、(歴史的にまたは現在において)日本は欧米と中国のいずれの「文明」に<より近い>のか。
 佐伯啓思は欧米「文明」と「日本的なもの」との不整合をあちこちで書いてきている。中国(・共産党)または中華文明に触れていないわけではないが、これらに関する論及は欧米所産の原理・「価値」へのそれと比べて格段に少ないように見える。

 佐伯啓思・反幸福論(PHP新書、2012)の中には「某国のように市民的自由さえ認められない全体主義では困りますが…」という文章があったりするので、「某国」の中に少なくとも現在の中国を含んでいるとすると、-上は一例にすぎないが-中国を好意的・肯定的に評価しているわけではないことは確かだろう。
 それに佐伯啓思は必ずしも明確にまたは強調して叙述しているわけではないが、ナチズムもコミュニズム(共産主義)も、そして「全体主義」も<西欧近代>から産まれたもので、あるいは<西欧近代>の矛盾・限界を解決するために発展的に生じてきたもので、いずれの根っこも<西欧近代>にあると言って過言ではないだろう。
 この点を佐伯は必ずしも明瞭には述べていないように見える。<西欧近代への懐疑>は、同時に、あるいはより強くコミュニズム(共産主義)に対して向けられるべきではないのだろうか。
 <西欧近代>への懐疑、<西欧近代>を基本的に継承した「アメリカニズム」に対する疑問・批判は鋭いし、傾聴すべきだろうが、中国または共産主義に対する疑問・批判が弱いのはいったい何故なのだろうと感じることがある。
 比べて中西輝政は、中国についても共産主義(コミンテルン等々)についても、とりわけ近年、多くのことを(批判的に)語ってきている。中身に言及しないが、読了している中西・迫りくる日中冷戦の時代-日本は大義の旗を掲げよ(PHP新書、2012)もその一つだ。
 もっとも、上で紹介したのは「法律」・「約束」等に対する「感覚」の相違についての文章なので一般化すると誤りになる可能性はあるが、日本文明は「西欧」文明により近く、「中国」文明とはより大きく異なる、と言えるのかどうかは、私自身はよく分からない。
 とりわけ、一般的に「日本と西欧がほぼ同じ」だとは断言できないと思われる。
 但し、明確なのは、現在において、アメリカと中国のどちらを選択すべきかと問われれば、躊躇いなく米国を選ぶべきだろう、ということだ。そのかぎりでは、基本的には反中・親米でなければならない。
 さらに言えば、日米の二国間の問題のみを視野に入れるとすれば、米国依存・米国従属をなくし日本の「自立」性を高めるべきで、そのかぎりでは、ある程度は<反米>でもなければならないことになろう。
 かりに明言していないとしても、現在において実質的にはアメリカに対するよりも中国に親近感を持っている人々・政党や、両国と<等距離>に接すべきと考えている人々・政党は、マスメディアも含めて、早く消滅してほしいものだ。

 文明論と現在の政策論とは同一であってはならないだろうが、混在を自認しつつ、駄文として書いておいた。 

1092/佐伯啓思は「的確な処方箋を提示」しているか。

 隔月刊・表現者39号(ジョルダン、2011.11)に、佐伯啓思・現代文明論講義(ちくま新書)の書評が載っている。
 この本を概読したかもしれないが、きちんと憶えていない(憶えられるはずがない)。それはともかく、先崎彰容という1975年生まれの人物は書評の冒頭で、佐伯啓思の「作品の魅力」を次の二つにまとめている。
 一つに「『近代文明』が抱える問題を、その根本にまで遡り解明しようとすること」、二つに「その原理的・根本的な問題意識を携え、現代日本の政治・経済・文化にたいして的確な処方箋を提示しようとする姿勢」(p.175)。
 上の第一点にはほとんど異論はない。そのとおりで、「近代(文明)」を懐疑して、批判的に分析した諸業績(「反西洋」かつ「反左翼」の主張を含んでいるはずだ)は大いに参考になると思われる。
 だが、上の第二は「仲間褒め」の類で、いかに年配者への敬老?精神によるとしても、とても納得できない。
 なるほど「提示しようとする姿勢」が全くないとは言えないが、「現代日本の政治・経済・文化にたいして的確な処方箋を提示」してきたとはとても思えない。
 佐伯啓思は所詮は(といっても侮蔑しているわけではない)「思想家」なのであり、多様な「現代日本の政治・経済・文化」の諸問題を論じているわけではないし、ごく一部を除いて、「的確な処方箋を提示」などはしていない、と思われる。
 憲法改正の方向を論じたことはないだろうし、そもそもが現在の改憲論議に言及することさえほとんどないだろう。<少子化問題>への処方箋を示してはいないし、これと無関係とは思われない<フェミニズム>に論及したことも、ほとんどなかったと思われる。
 「現代日本の政治・経済・文化にたいして的確な処方箋を提示しようとする姿勢」がそもそもあるのかどうか自体を、私は疑問視している。そして、お得意の経済(政策・思想)問題を除けば、佐伯啓思が「現代」について「的確な処方箋を提示」しているとは言えないのではなかろうか。橋下徹警戒論もその一つだ。
 一人の人間にできることには限界がある。怜悧な「思想家」に多様な現代問題を的確に論じることは期待しない方がよいだろう。
 但し、「思想家」としての佐伯啓思に完全に満足し、その主張内容にすべて納得しているわけではない。別の回に、いずれ書くだろう。

1037/「戦後」は終わった(御厨貴)のか?

 再述になるが、新保祐司の産経7/05「正論」欄は、「戦後体制」または「戦後民主主義」を「A」と略記して簡潔にいえば、大震災を機に①Aは終わった、②Aはまだ続いている、③Aは終わるだろう(終わるのは「間違いない」)、④Aを終わらせるべきだ、ということを同時に書いている。レトリックの問題だなどと釈明することはできない、「論理」・「論旨」の破綻を看取すべきだ(私は看取する)。
 上の点はともあれ、東日本大震災発生によって「戦後」は終わり、「災後」が始まった、ということを最初に述べたのは、菅直人に嫌われてはいない、東京大学教授・御厨貴だったようだ(月刊文藝春秋?)。
 たしかに「災後」ではあるが、「戦後」はまだ終わってはいない、というのが私の認識だ。
 井上寿一は産経8/03の「正論」欄の中で、「『8月15日』から始まった戦後日本の歴史のサイクルは『3月11日』に終わった」という一文を挿入している。「戦後日本の歴史のサイクル」という表現の意味が必ずしもよく判らないので断定できないが、3/11を戦後日本の最大の画期の如く(御厨貴と同様に?)理解しているとすれば、支持することはできない。
 今年の3/11を語るならば、1993年の細川護煕を首相とする非自民連立内閣の成立も、その翌年94年の村山富市を首相とする自社さ連立政権の成立も、大きな歴史の画期だった。これらよりも重要な画期は、2009年総選挙後の民主党「左翼・売国」政権の誕生だったかもしれない。これらの内閣の変遷から視野を外しても、1995年のオウム事件・サリン事件は、戦後「民主主義と自由主義(個人主義)」の行き着いたところを示した、とも言いうる(当時にそんな論評はたくさんあったのではないか)。
 誰でも自分が経験した目下の事象を(たんなる個人的にではない)社会的・歴史的に重要に意味を持つものと理解したがる傾向にあるかもしれないが、今年の3/11をもって「戦後」が終わったなどと論じるのは(あるいはそういう時代認識を示すのは)、「戦後」はまだ続いている、ということを糊塗・隠蔽する機能をもつ、犯罪的な言論だと考える。
 1947年日本国憲法はまだ存続している。自衛隊の憲法上の位置づけに関する議論に画期的な変化が生じたわけではない。日米安全保障条約もそのままだ。なぜ、「戦後の終焉」を語ることができるのか。
 3/11を機会に、「戦後レジーム」の終焉へと、あるいは憲法改正へとさらに奮闘すべきだ、という議論ならば分かる。
 だが、「なすべき」次元の目標と客観的な現実とを混同してはならない。
 根拠論考が(今の時点で)定かでないので引用し難いが、佐伯啓思は、この度の大震災を「戦後」の終わりを超えた、<近代>または(原発に象徴される)<近代文明>の終焉を示すもの(それの限界・欠陥を示すもの)と理解しているように見える(とりあえずは関係文献を参照要求できないが)。
 かりに上のことがあたっているとすれば、反論は可能だ。
 専門家ではないが、ニーチェ、キェルケゴールらは「近代」の限界・欠陥を強く意識したとされる。それは19世紀末だ。グスタフ・クリムトらの<世紀末>芸術運動も時期的には重なっている。何よりも、その後の第一次「世界」大戦こそがすでに、「近代」の終わりの象徴だったのではないか。第二次大戦の勃発も同様かもしれないが、その戦争の最後に「核兵器」が使われて十万人以上が一瞬にして生命を剥奪された、ということはまさしく「近代」(文明)の終わりそのものではなかったのだろうか。もう少し後にずらしても、1989年以降のソビエト解体・東欧「社会主義」諸国の終焉もまた、「近代」の終焉の徴表と理解することが不可能ではない。
 「近代(文明)」の終わりなるものは、もう100年にわたって続いているのではないか? ついでながら、アンドロイド・スマートフォンとやらを含む近年のIT技術の深化・変容は、どのように歴史的に(文明史的に)位置づけられるのだろうか。
 といったわけで、佐伯啓思のいくつかの文章をまじめに(?)読んではいるが(産経新聞、月刊正論、雑誌「表現者」内のものであれば必ず読む。ウェッジを買ったときまたは東海道新幹線のグリーン・カーを利用したときも読む(但し、連載は最終回を迎えた))、全面的に賛同しているわけではない。
 余計ながら、最近のサピオ(小学館)で小林よしのりが、佐伯啓思の産経新聞6/20の佐伯「日の蔭りの中で/原発事故の意味するもの」を、佐伯啓思が<反原発>に立つものとして「さすが」と高く評価している。そのように<反原発>論者に理解されて、佐伯は不満を感じないのだろうか。

1022/産経6/20佐伯啓思「原発事故の意味するもの」を読んで。

 やや遅いが、産経新聞6/20の佐伯啓思「日の蔭りの中で/原発事故の意味するもの」への感想は以下。
 第一に、日本人は「途方もない危険を受け入れることで、今日の豊かさを作り上げてきた」が、「ほんとうのところわれわれ日本人にそれだけの自覚があったのだろうか。あるいは、豊かさであれ、経済成長であれ、近代技術への確信であれ、ともかくもある『価値』を選択的に選び取ってきたのだろうか。私にはどうもそうとも思われない」と述べたあと、次のように続ける。
 「アメリカには強い科学技術への信仰や市場競争への信仰という『価値』がある。中国には、ともかくも大国化するという『価値』選択がある。ドイツにはどこかまだ自然主義的志向(あの「森」への志向)があるようにもみえる。では日本にあるのは何なのか。それがみえないのである。戦後日本は、大きな意味では国家的なあるいは国民的な『価値』選択をほとんど放棄してきた」。
 A ここでの疑問はまず、「価値」という概念の不明瞭さにかかわる。
 戦後日本(日本人・日本国家)は「平和と民主主義」という<価値>を、あるいは佐伯啓思がもうやめようという「自由と民主主義」という<価値>を、あるいは「軽武装のもとでの経済成長」という<価値>を選び取ってきた、とも言えるのではないか。
 B むろん、『日本という「価値」』(NTT出版)を著している佐伯啓思が「価値」という語を無造作に使っているわけではないだろうし、また、上のような<価値>的なものを佐伯が忌避したい気分を持っていることも分かる(つもりだ)。また、いわゆる「価値相対主義」に対する基本的な懐疑も基礎にはあるに違いない(と思われる)。

 だが、何が日本の「国家的なあるいは国民的な」「価値」であるべきか、という問題にさらに進めば、佐伯啓思の上掲書等を読んでも、じつははっきりしていない。戦前の京都学派への関心や好意的(?)評価らしきものから漠然としたものを感じることは不可能ではないが、佐伯は上の「価値」を自ら明確に提言・提示しているわけではない。「価値」をもたない、という指摘が無意味とは思えないが、それよりも、今日の日本はいかなる「価値」をもつべきか、という問いの方が本来ははるかに重要であるはずだと思われる。
 第二に、「脱原発は脱経済成長路線を意味するし、日本の国際競争力を落とす。そのことを覚悟しなければならない。一方、原発推進は、高いリスクを覚悟でグローバルな市場競争路線を維持することを意味する。グローバルな近代主義をいっそう徹底することである」と述べる。
 この二つの間の選択は「将来像」の「『価値』選択」だとも述べており、「価値」概念との関連についての疑問も生じるが、それはここではさておくとしても、次のような疑問がただちに湧く。
 ①「脱原発」=「脱経済成長」=「日本の国際競争力」の低下、②「原発推進」=「高いリスクを覚悟」しての「グローバルな市場競争路線」の維持、という二つの選択肢しかないのか? あまりにも粗雑で、単純な(佐伯啓思らしくない)書きぶりではないだろうか。実際のところ、問題はもっと多様で複雑なような気がする。
 あえて言えば、このような二項対立から出発すれば、もともと日本国家の安定的・持続的な経済成長ですら妨害したい、<日本の経済力>への怨念をもつ、<反国家>、そして<反日>の「左翼」は、簡単に前者の①を選択するだろう。それでよいのか?

1011/佐伯啓思のリスボン大地震・カント・「近代」への言及を受けて。

 佐伯啓思が1775年にリスボンで大地震があり、カントが影響を受けて著書まで書いた〔『美と崇高の感情の観察』→『判断力批判』)、ということを初めて記したのはおそらく新潮45(新潮社)5月号だ(p.231-)。最近の表現者37号(ジョルダン、2011.07)の座談会「文明内部の危機」でも、同旨のことが語られている(p.39-)。
 佐伯によると、ヴォルテールはアウグスティヌスやライプニッツの<神の創造した世界は最善>とかの「神学的」世界観を疑う契機とした。また、カントは、壮大な自然現象の恐怖・脅威を人間は理性と構想力で克服しようとし、そのような人間は「人格性」をもち、かつ「崇高」だ、と論じた。これは「近代的な理性中心の発想」に連なるもので、「ちょっと極端にいえば」、「リスボン大地震を一つのきっかけ」にして「自然を人間がコントロールできる」、そこに人間の「素晴らしさ、崇高さがある、という近代的なヒューマニズムのようなものが力を得てくる」。要するに、リスボン大地震はそういう(「近代」に向けての)「大きな価値観の転換をもたらした」。そして、佐伯啓思によると、今回の日本の大震災は、かかる「近代的な考え方」が限界を迎えたことを意味する、という(表現者37号p.40)。また、新潮45の5月号では、カントのような欧州近代(またはそれを用意した欧州啓蒙主義)の自然観とは異なるものとして、宮沢賢治の詩に見られる(日本の)自然観・死生観に言及している(p.234-)。
 なかなか興味深いし、別のどこかで誰かが、ルソーの人間不平等起源論の「自然に帰れ」との反文明観の吐露もリスボン大地震の影響があったと書いていたこともついでに思い出す。
 だがむろん、完全に釈然としているわけではない。ヴォルテールとカントだけを持ち出して、「欧州近代」へのリスボン大地震の影響は論証できるのだろうか、という疑問がある。「一つのきっかけ」程度で、リスボン大地震の影響を過大評価してはいけないとの議論もできそうだ。
 また、自然災害を前にして自然と闘おうとする欧米(西洋)「近代」思想と、自然と「共生」しようとする日本的自然観・死生観との対比も上の佐伯啓思の論調には見られるようだが、そもそも「自然」環境そのものが、欧州と日本では異なる、ということが出発点なのではないか、という気もする。すなわち、自然観・死生観が異なるから大地震等々の「自然」現象への対処・対応が異なるのではなく、逆に「自然」環境が異質だからこそ、欧州と日本では自然観・死生観も異なるに至ったのではないだろうか。
 1775年といえば明治維新から100年近く前の江戸時代・安永年間。その頃以降も日本ではいくたびも大地震・津波を経験したのだが、欧州については1775年の大地震まで遡らなければならないということ自体に、自然<大災害>の多寡が示されているようにも見える。
 地域によって違うだろうが、土地の肥沃度では日本の方が総じて豊かなような気もする。しかし、地震、津波、台風といった自然現象による災禍は、古代からして欧州よりも日本の方がはるかに多く、そこから、日本(・日本人)には欧州とは異なる独自の自然観・死生観が育まれてきたのではないだろうか。
 というようなことを考えていると、なかなかに面白い。

0999/アメリカ建国の理念とは-佐々木類(産経新聞)・佐伯啓思・中川八洋における。

 一 A 産経新聞アメリカ支局長・佐々木類は産経1/16付紙面で、「同盟深化に米建国の理念理解を」と題して、米国での銃規制の困難さにも関連させて、こう書いていた。

 「書生っぽいことをいえば、ロックが1676年に『統治二論』で著した社会契約説が、100年後に米国建国という形で具体的な姿を現した。ロックは、人間が自分を守る権利と労働の結果生まれた私有財産は人民の契約に基づいて国家が作られる前からあった『自然権』だとし、国家権力がこれに干渉してはならないと定義した。/この精神を引き継いだ英国の植民地人、つまり、米国人らが、自分たちの意向を無視して証書や新聞などに印紙を貼らす印紙税や茶に課税する英国に対し、『代表なくして課税なし』と立ち上がり、独立戦争に突き進んだのである」。
 B 佐伯啓思・日本という「価値」(NTT出版、2010)は、「アメリカの建国の精神」について、こう書く。

 ・「ジェファーソンの『独立宣言』に見られるように、「生命」「自由」「幸福の追求」を万人に平等に与えられた普遍的価値とみなしている」。
 ・「このアメリカ建国の精神である、強くて自由な個人、民主主義、個人の能力主義と競争原理などの価値へと『復帰』することは、アメリカにおいては『保守主義』ということになる」。
 ・「これは本来のイギリス流の保守主義とかなり異なっている。……アメリカ独立が…イギリスの伝統的国家体制への反逆であり、王権からの分離独立であることに留意すれば、アメリカの建国それ自体が、イギリスからすれば自由主義的な革新的運動であった」。アメリカ建国には「進歩主義」の理念が色濃く、「アメリカ流保守主義」は「いささか倒錯的なことに」すでに「『進歩主義』に染め上げられている」(p.188-9)。
 C 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)は、「米国の建国」について、つぎのように言及する。

 ・「サッチャー保守主義の原点」にはバークがあるが、その基底で「ヴィクトリア女王時代の栄光の大英帝国」を崇敬していた。これは、「ジョージ・ワシントンやアレクザンダー・ハミルトンが米国の建国に当たって、エリザベス女王時代の…あとの頃一六〇〇年代初頭の…古き英国をイメージして、理想の新生国家・米国を建設したのと似ている」(p.233)。
 二 さて、米国建設の理念・イメージがかくも異なって叙述されることにまずは止目されるべきだろう。

 中川八洋はアメリカの対英「独立」の理念と一三州統合しての「建国」の理念とは区別すべしと別の著で説いており、上で挙げるハミルトンらは英国「保守主義」と基本的に異ならない「建国」の理念提示者として叙述されていると見られる。

 これに対して佐伯啓思はジェファーソンの名を挙げて対英「独立」の理念に着目しているようだ。

 かかる違いはあるとはいえ、基本的に英国「保守主義」を継承したと捉える中川と、米国の「保守主義」は英国のそれから見ると「進歩主義」だとの見解を示す佐伯啓思とは、やはり同じことを述べているとは、同様に理解されているとは、理解できない。

 アメリカ「建国」の理念も、論者により、あるいは論じられる脈絡との関係により、異なって語られうることは、知的関心を惹く、興味深いことだ。これは、アメリカを理解するうえで、そして<日米同盟>を語る場合の、決して「知的」関心の対象にとどまらない問題でもあろう。

 これに対して、佐々木類の「書生っぽい」叙述は、上の二人の学者とはやはり異なり、通俗的だ。要するに、<欧米近代>を一色で見ている。英米の違いはもちろんのこと、英・仏間にある大きな違いを見ることもしていない。ロックの「社会契約説」を挙げていることからすると、米国独立戦争前のルソーの『社会契約論』(1762)も、米国の国家理念と矛盾していないと理解されているのだろう。

 怖ろしいのは、「書生っぽい」、あるいは高校の社会科教科書を真面目に勉強したような<欧州近代>の理解でもって、欧米諸国(の建国理念・歴史等)を単純に捉えてしまうことだと思われる。

 そこには、今日ではすでに自国ですら疑念が提起されている、かつての通説的な「フランス革命」の(美化的)理解を疑いもしない、かつての「書生っぽい」認識も含まれる。ルソーもフランス革命も、さらには<欧州近代>(ロックを含む)そのものも、日本の<保守派>ならば「懐疑」の対象にしなければならないのではないか。
 ちなみに、中川八洋に全面的に賛同するつもりはないし、評価する資格もないが、中川によるとロックはホッブズ(中川のいう有害な思想家)の影響を強く受けており、ハイエクは英国名誉革命に関するヒュームとロックの議論を対比してヒューム(中川のいう有益な思想家)に軍配を上げた、という。またヒュームは(中川も)ロック、ルソーの「社会契約説」に批判的だ(下掲書p.320-1)。但し、全体としては、中川八洋は、ロックを、モンテスキュー、パスカル、ショーペンハウエル、カントとともに(いずれかに傾斜しているとしつつも)「有益」、「有害」それぞれ31名の思想家リスト(p.384-5)の中には含めず、「双方の中間」と位置づけている(中川八洋・保守主義の哲学(PHP、2004)p.388)。

0958/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章を読む②。

 佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」-メモ②

 ・「保守」の立場の困難さの第二は、日本の「近代化」が一方で伝統的日本(と見られるもの)への回帰、他方では「西欧列強の制度や価値」の導入、によって遂行されたことだ。近代化は「外発的」で、「憧憬することで近代化を遂げた」。この事情は戦後はさらに「緊張感を欠いた漫然たる」ものになり、ほとんど「無自覚、無反省」のままで「アメリカ的なもの」への「傾斜、追従」がなされた(p.181)。

 ・決してアメリカ化などしていないとの反論はありうるが、「戦後日本人が、ほとんど無意識のうちにではあれ、『アメリカ的なもの』、すなわち、個人的自由、民主主義、物的豊かさと経済成長、人権思想、市場経済、合理的で科学的・技術的な思考、市民社会などに寄りかかった」のは間違いない。他方で、これらと対立するとされた「日本的なもの」、たとえば「家族的紐帯、地域共同体、社会を構成する権威、そして、日本的自然観、美意識、仏教的・儒教的・神道的なものを背景にした宗教意識」は、すべて否定的に理解された。ここに「戦後日本における大きな精神的空洞が出来した」(p.182)。

 ・「保守」が「その国の歴史的分脈や文化的価値をとりわけ重視する」ものだとすれば、上の事態は「由々しき」ものだ。「倒錯した価値をしごく当然のごとく受け入れてきた戦後日本という空間には、公式的にいえば、『保守』の居場所はない」。「日のあたる場所」は「アメリカ的」「戦後思想」が占拠したのだから。したがって、「保守」は、「戦後日本が公式的に重要な価値とみなしているものをまず疑うところから始めなければならない」(p.182)。

 ・「軍事力」のない「戦前に戻ればよい」という単純な話ではなく「日本の近代化」自体が孕む問題だが、「戦後」に限っても、「戦後日本の…ありように、根源的な違和感をもつ」、この前提がないと「『保守』という精神的態度は成立しえない」。したがって、「少なくとも戦後憲法の精神は保持したままで『保守の原点に戻る』などと言っても意味はない」。「戻るべき原点」とは何かも問題だ。

 ・しかし、「戦後」への「大きな違和感」をもつと同時に、「どうあがき悶えても」、「戦後日本」に生きてきているのであり、戦後憲法と下位法体系のもとで「生活を守られ、言論活動をしている」のも事実で、「今日、われわれは決して『戦後日本』の外へ出ることはできない」(p.182-3)。
 ・典型的「進歩主義」に覆われた「戦後日本の公式的価値空間」で「保守」を唱えること自体が「矛盾をはらんでいるのではないか」との疑問すら生じる。「実際その通り」なのだ。「保守」自体の矛盾に自称「保守主義者」たちは「どこまで自覚的」なのだろうか。まずは、「自らの置かれた立場についての引き裂かれた自覚」があるべきだ。この自覚がないと、戦後日本の「大方の」「保守主義者」のように、「社会主義に反対して日米同盟を守ることが保守の役割」だといった「倒錯した保守の論理」が出現する(p.183-4)。

 ・「戦後体制」、つまり「平和憲法と日米安保体制」という構造の中で生き、身を守られているとすれば、「日米同盟」を破棄できない。この状況自体が、「日本を日本でなくする危険に満ちている」。そのこともまた「今受け入れるほか」はない。とすれば、「この種の苦渋に満ちた矛盾と亀裂の只中にいるという自覚」だけが「保守」に「道を開く」のであり、この点に無頓着な「保守」は、「親米であれ、反米であれ、『真の保守』たりえない」と思われる(p.184)。

 以上で2回め、終わり。まだ7/26頁。

0951/日本の社会系学者・研究者を覆う「欧米的進歩主義(・合理主義)」・「社会主義幻想」。

 一 隔月刊の歴史通1月号(ワック)で、北村稔(立命大)がこう発言している。

 「不思議なのは、中国近現代の研究者の多くが、中国を批判的に研究しようとしないこと…。社会主義の中国が好きで中国研究者になったものだから、なんでも好意的に解釈をするし、いまだに社会主義は資本主義より一段高いと思い込んでいるふしがある。そういう社会主義幻想にとり憑かれたスタンスを変えて、…共産党独裁の凄まじい現実を見据えた客観的・批判的な研究をするべきだと思う…が、そういう人が少ない」(p.67)。

 これによると、「中国近現代」の専門的研究者はいるらしいが、「多くは」いまだに「社会主義幻想」に取り憑かれていて客観的・批判的研究をしていない。

 おそるべき「中国近現代(史)」学界の現実だ。

 これでは、中国の<社会主義的市場経済>なるものの、きちんとした経済学的、社会科学的(?)分析はおそらくほとんどないのだろう。

 極論すれば、日本共産党員研究者に、日本共産党それ自体(の歴史)についての、彼等のいう「社会科学」的研究を求めるようなものかもしれない。いつか、日本共産党自体の<科学的社会主義>の観点からする自己分析をせよ、と日本共産党員学者には言ってみたいものだ。いや、そんなものはなされている、各回の党大会報告、中央委員会報告がそれに当たる、と反論されるのだろうか。

 日本の「社会科学」的、歴史的、近現代史研究の対象の大きな欠損は、日本共産党それ自体だ。

 二 なぜか、佐伯啓思西部邁西尾幹二も、日本共産党についての具体的・詳細な批判はしていないようでもある。ついでに、櫻井よしこも。当たり前のことで指摘する必要はないということかもしれないが、日本「共産」党は、日本ではまだ立派な<公党>であり、党員のみならず知的職業者(大学教員等)に対して、なお隠然たる影響力を持っている。

 佐伯啓思は上の隔月刊歴史通1月号(ワック)の書評中で、こう書いている。

 自分のように「社会科学を専攻しており、しかも、その入口でマルクス主義だの戦後進歩主義だのという六〇年代末の思潮的風潮の洗礼を受けたとなると、なかなかひとつの思い込みから脱することは難しい。それは、西欧近代は、中世・封建制を打倒して、人間の普遍的な自由を打ち出したという歴史観…。そして、日本は、…明治に西欧的近代を導入し、…戦後に改めて自由と民主主義を確立した、あるいはアメリカから『配給』された、というものだ」(p.164)。

 佐伯啓思ですらこう書いているのだから、「マルクス主義だの戦後民主主義だのという」思潮の洗礼を受けた「社会科学」専攻者の中には、上にいう「思い込みから脱する」ことができていない者が<いまだに>相当の数にのぼるほどにいることが想定される。

 佐伯は「マルクス主義」・「戦後進歩主義」という語を使っているが、これらは北村のいう(私も使っている)「社会主義幻想」(にとり憑かれること)とほぼ同じか近い意味のはずだ。

 ソ連崩壊後ほぼ20年。日本共産党が後づけでソ連は「真の社会主義国」ではなかったと主張したことが影響しているのかどうか、欧州における冷戦終了・社会主義の敗北の明瞭化のあとでもなお、日本の社会系「学界」はこの有り様なのだ。

 佐伯啓思自身が、上のあとでこう続けている。

 今日ではかかる単純な図式を描いている者は「ほとんどいまい」が、「それでも、大半の研究者は、仮に意識しないとしても、漠然とこのような見取り図を脳裏に隠し持っている」(p.164)。

 こうした、<社会>系研究者を覆っている空気のような意識が(教科書等を通じて)高校・中学の社会系教師たちに影響を与えないはずはなく、彼らの講義を聴いて単位を取って卒業して公務員やマスコミ社員(・出版社員)等々になっていく学生たちに何らかの影響を与えていないはずもなく、かくして、「マルクス主義」・「戦後進歩主義」(→欧米的「自由と民主主義」)・「社会主義幻想」に何となくであれ覆われた日本は、ますます<衰亡していく>。

0926/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)を全読了。

 佐伯啓思・日本という「価値」(2010.08、NTT出版)を11/02夜に全読了。全311頁。

 最初から順に読み通したのだから(但し、佐伯の発表論考をまとめたもの)、感想は当然にある。
 既に初出論文について書いたかもしれない、<保守>にとって重たいまたは刺激的な論述もあるし、その他、佐伯らしい鋭い指摘・分析もある。全体として挑発的・論争誘発的(ポレーミッシュ、polemisch)な本なのに、この著をめぐって論争・議論が発展・展開したようでもないのは、<保守>論壇の貧困さの表れでもないだろうか。

 佐伯啓思に全面的に賛同しているわけではない。この9-11月という時期に読んでいると、<中国>への言及が、アメリカや<欧州近代>等に比べてはるかに少ないことに、驚きすら覚える。また、「マルクス主義」は「一九九〇年代には、さすがに腐臭をはなち、どう廃棄処分にするかが関心事であった」(p.45、2008年)とか、1930年代とは異なり「もはやファシズムも社会主義もありえない」(p.99、2009年)とかいう認識は、佐伯の頭の中や佐伯の<仲間たち>や純経済理論にとってはそうなのかもしれないが、「マルクス主義」や「社会主義」(の危険性・脅威)に対して<甘すぎる>、と感じる。

 具体的な紹介等をしていない遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(上下、2010.04、麗澤大学出版会)への言及とともに、より詳しい感想等は、他日を期したい。

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