クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書<ソ連篇>〔外川継男訳〕(恵雅堂出版、2001)の「序・共産主義の犯罪」の中のp.25-26に、以下の文章がある。
 「ナチスの犯罪の研究」は多いのに(また『夜と霧』・『ソフィーの選択』・『シンドラーのリスト』等の映画も成功したのに)、「共産主義の犯罪については、このような〔秋月-「ユダヤ人の殺害方法の詳細」についてのラウル・ヒルバークの著のような〕タイプの研究は存在しない。//
 ヒムラーやアイヒマンの名前は現代の蛮行の象徴として世界中に知られているのに、ジェルジンスキーやヤゴーダやエジョフ〔三人はいずれもソ連秘密警察の長官〕の名は大部分の人にとって未知である。レーニン、毛沢東、ホー・チ・ミン、そしてスターリンさえ、驚くべきことに依然として尊敬の念をもって語られている。〔/改行〕
 ヒトラーの犯罪に対して向けられた並はずれた注目は、完全に正当な裏付けのあるものだった。〔中略〕それなのに、共産主義の犯罪についての世論や証言の反響が、こんなに弱々しいのは、いったいなぜなのだろうか? とりわけ、八〇年にわたって人類の約三分の一を四大陸において襲った共産主義の大惨事に関して、なぜ『学会』はこのように沈黙しているのだろうか?
 このあと、一文を省略して、つぎのように続く。「我々がこれらの問題を理解することが、どうしてもできないというのだろうか? それよりも、むしろ絶対に知りたくない、理解するのが恐ろしいからではないだろうか?」
 上の「学会」は「学界」の方が適訳かもしれない。
 さて、アウシュビッツ/ホロコーストはよく知られているだろうが、一方で、カティン(の森)事件やポル・ポト派(カンボジア/クメール・ルージュ)の大量殺戮の実態等は、いかほどに日本人の教養的?知識になっているのだろう。日本<軍国主義>の悪行を頻りにいい募る者たちがいるが、その者たちはいったい何故、旧ソ連による強制連行と労働強制を日本国民に対する犯罪として指弾しないのだろうか?(「シベリア抑留」!)
 カティンの森事件について、①ザスラフスキー〔根岸隆夫訳〕・カチンの森-ポーランド指導階級の抹殺(みすず書房、2010)、②ザヴォドニー〔中野五郎=朝倉和子訳〕・消えた将校たち-カチンの森虐殺事件(みすず書房、2012)などがある。
 この事件は、どこかの高校教科書に名前だけでも記載されているのだろうか。上のいずれも読了していないが、互い違いに(頭の方向を逆に)積み重ねられた何段・何列もの発掘された死体群の写真が付いたりしているので、愉しく読み続けられるものではなく、ナチスの場合と同様に、人間はこんなことまでできるのかと戦慄させられる。
 なお、前回紹介したヘインズとクレアの本の一部の文章を訳出した部分以外も含めて多少読むと、コミュニズム・コミュニストはほとんどか全く消滅して<反共>一本槍だろうという単純な印象を持っていたアメリカにおいて、コミュニズムの影響はまだ(とくに知識人層に)あり、アメリカ共産党の評価に対立があることも分かる。ヘインズ=クレアは反共「伝統主義者」だが、ローゼンバーグ夫妻やH.D.ホワイトらの旧ソ連協力者(コミュニスト)を理想主義者として擁護する反・反共「修正主義者」も学界では有力であるらしい。仔細はむろん知らないが、このような雰囲気がアメリカのとくに民主党員たちに影響を与えていないはずはないとも思われる(バーニー・サンダースは「民主社会主義者」とか自称しているらしい)。
 とくにアメリカ共産党やコミンテルン諜報者に関するアメリカの歴史学界の動向については、月刊正論(産経)昨年・2015年9-10月号に、福井義高の連載論稿がある(それぞれ、p.228-「リベラルの欺瞞・上」、p.258-「同・下/元KGB工作員が持ち出した…の衝撃」)。