秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

柏原兵三

西尾幹二全集第15巻(国書刊行会、2016)。

 西尾幹二全集第15巻(2016)の内容のほとんどは「わたしの昭和史」で(全集では「少年記」)、二冊の新潮選書(1998)で読んだことがある。
 いつか忘れたが読んだあとは、こんな記憶力とそれを呼び覚ます資料は自分にはない、したがって自分には書けない、という思いと同時に、1935年生まれの、私のいう<特殊な世代>、あるいは国民学校・小国民世代の人物が、よくぞ「左翼(的)」にならなかったものだ、という感想が生じた。
 もしあらためて読めば何かのヒントがあったのかもしれず、著者がこの問題に触れているのかもしれないが、読み返す余裕はたぶんない。
 1960年の時点、著者がちょうど25歳の頃に「左翼」でなかったことは上記単行本のp.505でも記述されている。
 すなわち、同年に樺美智子が死亡したのちの東京大学での演説会で日本社会党国会議員が「虐殺」うんぬんを述べていたとき、「私〔西尾幹二〕があれは虐殺ではない、圧死だと口走った」とある。
 このあと「口走ったとたん、巨漢の柏原〔柏原兵三、のち芥川賞作家-秋月〕の大きな掌が私の口をふさいだ」、彼は「私が殺されるのを恐れたからだった」、と続いて、生々しい。
 ともあれ、「虐殺抗議」のプラカートを先頭に掲げたデモの写真を見たこともあり、当時の各大学での(樺美智子もその一員だったが)「左翼」的雰囲気を想像することもできる。だが、西尾は明らかに「左翼」ではなかったようだ(なお、同じ文学部の同期入学生に、大江健三郎がいたはずだ)。
 そして、それはなぜ ?、いかにして<保守>論客に ?という感想が生じるが、それは全集をよくよく読み込めば判るのかもしれない。
 ところで、上の柏原某も出てくる文章はこの全集版で初めて読んだのではない。だが、示されている月刊正論1995年2月号で読んだのでもないとも記憶していて、やや不思議だ。
 この上の文章は<少年記>とは別の「付録/もう一つの青春」の一部で、私は上の部分のみを憶えていたかに見えるが、今回に(といっても昨2016年の刊行直後に)読んで印象に残ったのは、一つに、大学院学生の西尾は、当然ではあるのだろうが、研究の対象等の自らの将来に思い悩んでいた、ということだ。
 「私は相変わらず何を書くべきなのか、あるいは何が書けるのかも分らず、学校と自宅の間を往復し、文学と思想の広大な海を漂流していた」。(余計だが、「美しい」文章だ。p.504)
 もう一つは、大学院に進学したのちの「指導教官」を、当時にすでに故人ではあるものの、氏名を明示して、「私はその思想、研究業績を軽蔑していた」と明記していることだ。この「指導教官」は「日本の典型的な『進歩派』文学者」だったらしい。
 それで西尾は「ニーチェを師として選んだ」ようだ。
 さて、個々の人間の人生にはいろいろな偶然的な出逢いがあるものだ。西尾幹二にとっても、若き学生時代のいくつかの偶然はのちのちの西尾幹二が生まれる原因の一つだったことには違いなく、「指定された」という「指導教官」もまた、その一つだっただろう。
 さらに発展させれば、西尾は拒否したようだが、「指導教官」が日本共産党の党員学者だったり、明確な親共産党の者だったりすれば(そんなことは大学院の学生レベルでは通常はあらかじめ判っているものではないだろう)、西尾のように実質的に離れれば別として、その「指導」を受ける学生は、どのような学者・研究者に育っていくのだろうか、と想像して、暗然とする。
 そういう特定の教師・学生の特殊な「身分関係」は-それは学生にとって「就職」という生活・生存にかかわる-、今日まで、容共・「左翼」的な人文社会系学者・研究者たち(大学教授たち)の誕生に、大きく寄与してきたのではないか、と推測される。
 -と、かなり西尾の全集それ自体からは離れたことまで書いてしまった。

0207/小嵐九八郎・蜂起には至らず(講談社、2003)と樺美智子。

 筆名と見られるが、反日本共産党系(中核?)活動家だったらしい小嵐九八郎という人の蜂起には至らず(講談社、2003)という本がある。そのp.339は、こう書いている。
 ソ連解体は「衝撃であった」、「旧だけでなく新の左翼も…思想の核心、在ることの意味、組織の土台を問われた―問われ続けているはず。…共産党宣言、…ロシア革命、…中国革命って何であったのだろうかと。九八郎めもここいらを境にして、やっと自分の半生を疑いはじめ、四十ウン歳にして、茫然とした覚えがある」と告白している。
 まだ中国等が「社会主義」国として残っているとはいえ、日本共産党員等の中に生じたに違いない「動揺」は当然のことで、「良心の揺らぎ」を世俗的人間関係や不破哲三等の言説によって誤魔化す必要はない。
 この本は副題が「新左翼死人列伝」で27人の物故した新左翼活動家又はシンパを扱っている(高橋和巳を含む)。『二〇歳の原点』で知られる高野悦子(1949.01.02-1969.06.24*20歳)は含まれておらず、最初に登場するのは樺美智子(1937.11.08-1960.06.15*22歳)だ。
 小嵐氏の本から離れるが、樺美智子は高校時代からコミュニズムに関心をもち、一浪して1957年に東京大学入学後に日本共産党に入党、翌年には離党して共産主義者同盟(ブント)に入り積極的活動家になった。1960.06.15に国会南通用門から国会敷地内に入ろうとしたときに倒れて死亡した。たぶん学生の隊列の先頭あたりにいたのでないか。
 死因については、「虐殺抗議」との文字を掲げたデモがあったことに見られるように警官隊の暴力に求める立場もあるが、西尾幹二は、東京大学内での「虐殺抗議集会」で「虐殺じゃないではないか。自分たちで踏み殺したんではないか」と少し大きな声で言ったらのちの芥川賞作家・柏原兵三が心配して会場から連れ出してくれた、などと当時のことを振り返っており(西尾幹二氏のHPblog/2006/08/による)、警察側に責任があることは自明ではないようだ。ともあれ、彼女は、一人の優秀だったはずの女子学生は、満22歳でその人生を終えた。
 この樺美智子の死は-人の死への哀惜の念はもちろんもつが-、しかし、活動中に他セクトの暴力=内ゲバによって殺されたり、同じセクト内で「総括」し合ったり、懊悩から自殺したりした若者も含めて、共産主義というものがなかったら、コミュニズムを(理解の仕方に差違はあれ)信奉する団体・組織がなかったら、そのような団体・組織に彼らが入ったり接触したりしなければ、避け得たのではないか。 マルクスらが共産党宣言を書かず、レーニンらがロシア「革命」を成功させなかったら、彼らの多くはまだ生きているのではないか。存命であれば、樺さんは今年70歳の古稀を迎える。
 彼らの一度しかない人生を短くしたのはコミュニズムではないか。哀しく、そして怖ろしい。
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