秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

松竹伸幸

1862/松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済-(大月書店、2009)。

 「日本共産党の大ウソ・大ペテン」の連載?にそろそろ区切りを付けて終わっておかなければならない。
 大ウソ・大ペテンとして取り上げてきたのは、大きく、つぎの二つだった。
 第一。1994年党大会の直前まで、ソ連は「社会主義」国家だった(「現存」社会主義国という言い方もあった)と党の文献上も語ってきたにもかかわらず、さらには中国共産党がソ連を「社会帝国主義」国家だとして社会主義陣営ではないと主張していたときにいや「社会主義」国家で、ソ連を含む<社会主義の復元力>を信じる、等と主張していたにもかかわらず、1991年夏にソ連共産党が消滅し、同年1991年12月にソ連が解体したことについて、1994年党大会以降は、日本共産党は、ソ連はスターリンによって社会主義への途から踏み外した(ソ連はそれ以降社会主義国ではなかった)、そうしたソ連の大国主義・覇権主義、スターリン等と日本共産党は「正しく」闘ってきた、とのうのうと主張するという、大ウソ・大ペテン。
 第二。レーニンはネップ政策導入の時期に、<市場経済を通じて社会主義へ>という「普遍的」路線を明らかなものとして確立した(それをスターリンが継承しないで転落した)、という大ウソ・大ペテン。
 この第二について、不破哲三が画期的なものとして取り上げるレーニンの論文では、上のことは全く明らかではない、読み方がおかしいのではないか、というのが秋月に最後に残されている記述だ。
 ***
 その前に、つぎの書物に言及する。日本共産党の幹部以外では、-レーニン幻想をなお抱き、レーニンとスターリンを切り離してレーニンだけは擁護しようとする論者は多いが-ネップ期における<市場経済を通じて社会主義へ>の路線確立なるものを評価し擁護しているとみられる、稀有の文献だ。
 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済-(大月書店、2009)。
 幹部というほどではない時期のもののようだが、この人物はかつて日本共産党(中央委員会?)政策委員会の長(・責任者)だったことをのちに知った。
 この本の「あとがき」はなかなか面白いので、紹介したくなって、今回の投稿になった。一行ごとにここでは改行する。
 社会主義について種々の否定的な要素が指摘されるが、としつつ、松竹はこう記す。
 「けれども、社会主義というものは、ほんらい、ソ連や中国などとは違うのではないかという思いは、〔1970年代の半ば以降〕少なくない若者が共通して感じていた。
 マルクスやエンゲルスが語る社会主義とは、『自由の王国』であり、国家権力は『死滅する』過程にあり、そこでは人びとはそれなりに充足し、余暇を楽しんでいるはずだったのだから」。//
 レーニンについても「行き過ぎや誤りはあっただろうが、社会主義らしさを感じさせる成果を挙げたことは、率直に評価すべきだと感じてきた」。
 例えば、第一次大戦からの離脱、周辺諸国の領土返還、労働時間等の規制。
 「だから、いつか社会主義が輝きを取り戻す時代が来るのではないか、いやそうしなければならないと、私は心から思ってきたのである。それはいまも変わらない」。
 「それまで社会主義の立場にたっていた研究者の動向」は残念だ。
 「いまこそ、研究者は、社会主義の可能性を大胆に提示すべき時ではないのだろうか」。
 この本では「素人なりに取り組んだ」。/「社会主義の再生を心から願う」。
 以上、紹介・要約。
 2009年に、1955年生まれの54歳になる人物が、このようなことを書いていた。
 なかなか興味深く、面白いだろう。
 いったん社会主義(・共産主義)の虜になった、または<囚われてしまった>者の発想というのは、社会主義(・共産主義)をめぐる現実も理論動向も、もはや冷静には見ることができなくなるのだろう。
 何と言っても、「マルクスやエンゲルスが語る社会主義とは、『自由の王国』であり、国家権力は『死滅する』過程にあり、…そこでは人びとはそれなりに充足し、……はずだったのだから」とか、「社会主義というものは、ほんらい、…」とかのように、「はずだ」、「ほんらいは」とかを持ち出すと何とでも言えるだろう。
 「本来」、こうなる「はずだ」というのは、いったいどういう意識なのだろうか。何ゆえにそんな規範論あるいは理念論が「現実に」なるという信念を持ち得るのだろうか、不思議だ。社会主義(・共産主義)というユートピアの到来を信じる強い「思い込み」があるのだろう。
 松竹伸幸、現在は、かもがわ書房の編集責任らしい。「文学部」出身ではなかった。

1652/松竹伸幸-2004年・日本共産党政策委員会外交部長。

 一昨日(7/15)夕方に、つぎの著に言及した。
 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済(大月書店、2009)。
 見慣れない人物名だったので、推測もしたが、間違っていた点があった。
 松竹には、以下の本もある。
 松竹伸幸・ルールある経済社会へ(新日本出版社、2004)。
 そして、この書での松竹伸幸の「肩書」は、日本共産党中央委員会政策委員会外交部長。この時点で、「外交政策」の党内部での責任者のようで、専従の立派な幹部職員だ。
 もちろん、党員だとの推測は誤っていない。
 但し、松竹伸幸は現在、かもがわ書房(京都市)の編集長だと分かった。党の専従幹部職員ではなくなっている。党籍があるかどうかは不明。
 しかし、この出版社の名前からして「左翼」系だとは分かる。
 ともあれ、党籍があるかどうかとは関係がなく(共産党専従職員に年齢による定年制のようなものがあるかどうかは知らない)、レーニンが「市場経済を通じて社会主義へ」という途を示したなどと書いている者は不破哲三ら幹部しかいないので、いずれにせよ、日本共産党員またはほとんどそれに近いことは明白だ。
 何しろ、ロシア革命・レーニンを擁護しているとみられる溪内謙(ロシア史)や藤田勇(社会主義法)といった学者・研究者ですら、レーニンによる「市場経済を通じて社会主義へ」の明確化などとは書いていない。
 溪内謙・上からの革命-スターリン主義の源流(岩波書店、2004)。
 藤田勇編・権威的秩序と国家(東京大学出版会、1987)。
 そうした中で、レーニンのもの以外の細かい文献を示すことなく、基本的に日本共産党の中央、つまり不破哲三や志位和夫と同じ趣旨の本を出す「気概」・「根性」があるのだから、形式的な組織帰属の有無は実質的には関係がないだろう。但し、不破哲三らが書いていないことも書くという「自由」は一定範囲内でもっているようだ。
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 松竹伸幸・ルールある経済社会へ(新日本出版社、2004)。
 この本が最初の方で述べていることには、疑問がある。
 この書物は1961年以降の日本共産党の基本方針を大賛美しているが(党員で、それを明らかにした本を書くのだから当然だろう)、その「民主主義革命」先行論の理解は、かなり怪しい。幹部職員でもこの程度かと思わせるところがある。以下、これに触れる。
 「民主連合政府」による大企業に対する「民主的規制」という2004年党綱領の立場に立つ。p.12。「民主」、「民主的」、「民主主義」がいっぱい出てくるので、独特の用語法に慣れないと日本共産党関係文献は読めない。
 さて、この著が言うには、1960年代初めに党が「社会主義をかかげるのではなく民主主義革命を打ち出した」という「先駆性、勇気」に「驚きを禁じ得ない」。p.22。
 こんなことを書かれて、「驚きを禁じ得ない」。
 なるほど、つい最近にフランスやイタリアの共産党に言及したのだったが、それらは「ユーロ・コミュニズム」とか称して議会制度重視ではあったものの、すでにブルジョア革命=市民革命は終わっているとして、つぎの「革命」は社会主義革命だと考えていただろうことを容易に推定できる。輝かしい「フランス革命」はとっくに18世紀後半に完了していたのだ。
 これらに対して、日本共産党は先ずは「民主主義革命」を選択するという「先駆性、勇気」があったと、松竹は書く。
 バカではないか。
 1961年綱領を作り上げるまでの宮本顕治や不破哲三が<偉かった>のではない。
 もともと日本共産党の歴史観は<講座派マルクス主義>と言われたもので、明治維新を<絶対主義天皇制国家>への画期と捉えていたから、ブルジョア革命=市民革命=「民主主義革命」はまだ完遂されていないのだ。
 労農派マルクス主義の立場にたてば、つぎの目標は「社会主義革命」なのかもしれない。
 しかし、日本共産党の発生史的・歴史的沿革からして、先ずは民主主義>革命という路線を選択せざるを得ない。これは1960年頃の日本共産党の幹部たちの判断を超えたものだ(宮本顕治の獄中~年を完全無視しないかぎりは)。
 杉原泰雄(一橋大学・憲法)のように戦後改革を<外見的市民革命>と理解すれば、つぎの革命は<社会主義的>なそれになるだろう。
 しかし、日本共産党は、そのような性格づけを戦後改革についてしていない。
 戦前・戦中にコミンテルン等から送られた<テーゼ>類には触れない。そして私の推論で書くのだが、コミンテルンとその支部・日本共産党は日本天皇制をロシア・ツァーリ体制と類似のものと見て、ロシアでの二月・十月の「革命」のようなものを日本で連続させることを意図していた。
 もともと二月・十月というのは間隔が短かすぎて、その間に<下部構造>がいったいどれだけ変質したのか?と素朴には思うが、ロシアでの<成功>体験からして、日本でも、A・パルヴゥス→L・トロツキーの「永続革命論」と同じではなくとも、<天皇制打倒>と<私有財産否定>の民主主義的変革と社会主義的変革とを連続して一気に遂行しようというのが、日本共産党の根本戦略だったのではないかと推論している(いずれきちんと資料を読みたい)。
 そうではなくとも(<一気に>ではなくとも)、明治維新が<ブルジョア(市民・民主主義)革命>でないかぎりは、そしてマルクスの社会発展史観に教条的に従えば、つぎは「民主主義革命」にならざるを得ない。
 1961年綱領が<先ずは民主主義>の旨を書いているのは、それだけのことだ。
 これに「先駆性、勇気」を見出すというのは、よほど宮本顕治・不破哲三を<崇拝>するものだろう。
 とはいえ、これは2004年の著。その後にほんの少しは変化したのかについては、松竹伸幸の著をもっと読む必要がある。

1648/松竹伸幸・レーニン最後の模索(2009)。

 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済(大月書店、2009)。
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 あらためて、日本共産党の現在の綱領(2004年1月17日/第23回党大会で改定)から。
 ①「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。」
 ②「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。」
 ③「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、…となろうとしていることである。」
 ④「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。」
 ロシア革命とレーニンを肯定的に評価し、かつ「市場経済を通じて社会主義へ」という基本方針を掲げていることが明らかだ。
 かつ、ここでの「市場経済を通じて社会主義へ」という路線は、不破哲三、志位和夫によると、レーニンが、1921年3月党大会における「ネップ」導入決定後、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「社会主義建設の大方向を打ち立てた」のものとして明確にした、という。関係する文献には、この欄で何度か触れた。
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 1991年のソ連解体後もまた、ロシア革命・「社会主義」やレーニンの意味を決して否定しておらず、(スターリン以降はともあれ)これらを明確に擁護する学者・研究者もいる。すでに記した。
 溪内謙、藤田勇、笹倉秀夫
 しかし、レーニンによる「ネップ」期での<市場経済を通じて社会主義へ>という路線の明確化(「社会主義」建設の一般論としても)、という把握を明確に述べている文献は、日本では、ほとんど日本共産党の幹部ものに限られる。
 不破哲三、志位和夫、聴濤弘。
 外国(欧米)文献で、こんなバカなことを記しているのは、見たことがない。
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 日本ではほかに、「松竹伸幸」(「1955-、日本平和学会員」とされる)のつぎの文献が、不破哲三らの上の考え方を支持する。
 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済(大月書店、2009)。
 この問題をきちんと論じようとすれば、相当に関係文献を読んで検討しなければならないはずだ。
 しかし、2009年刊行の本でありながら、そのような形跡はない。注記はない。参考文献の一覧・後掲もない(統計資料についてだけ、なぜかある)。
 本文中に表に出てきているのは、レーニン全集からのレーニンの文章と、E・H・カー等のおそらくは10に満たない、この人物の主張の障害にならない文献だけだ。
 そもそもが、ロシア10月「革命」の「革命」性、あるいは、資本主義からの離脱という「社会主義革命」性自体を否定する文献が(日本も含めて)少なくない。
 そのような文献は、いっさい無視している。
 今回は予告として書いておくのだが、日本共産党綱領を踏まえつつ、不破哲三、志位和夫の「基本路線」から逸脱しないように、その基本的歴史理解を「敷衍」しているのが、上の本だろう。
 言うまでもなく、この「松竹伸幸」は(筆名の可能性がある)、日本共産党の党員だ、と明確に推察できる。
 日本共産党の幹部以外に、同党と同じ主張をする、同じ歴史理解をする「学者・研究者」もいる、ということを示すために執筆された、と推定される。
 そしてまた、社会一般、学界一般(ロシア・ソ連史、共産主義史・社会思想史等)に対してというよりも、上のことを日本共産党の一般党員に示すためにこそ、つまり不破哲三・志位和夫の「レーニン理解」に一般党員が(むろん何らかの分野の学者党員を含む)疑問を抱かないようにするためにこそ、執筆され、刊行されたのではないか、と想像される。
 一時期の間、見失っていたが、再発見した。
 リチャード・パイプスの関係時期およぴ「ネップ」関連部分は、すでに試訳を掲載した。
 L・コワコフスキの著にも、数頁の言及はある。
 その他、ネップに関する論及のある欧米文献は(粗密は様々だが)、100までいかないとしても、数十は瞥見している。
 じっくりと、この立派な?松竹伸幸著と比べて、この松竹著を批判的に分析いていきたい。
ギャラリー
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  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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