一 戦後日本は、1947年(憲法施行)、1952年(講和条約発効・占領終了)、1955年(自社体制)、1960年前後、1970年又は70年代前半、1985年頃、1990年頃(バブル・ピークと崩壊、ソ連解体)、1993年頃(細川政権、自社体制崩壊)、2001年頃(「構造改革」・規制緩和開始)等々によって時代を区分できるだろうが、これまでの全体を<日本国憲法体制>又は<47年憲法体制>の時代と、将来には呼ばれる可能性があるようにも思われる(いずれこれが別の新しい時代に変わることを私は想定するが、このままでよい、変えるのは<危険>という感覚の人々も多いのだろう)。

 なお、国際的には主として(1990年頃までは)<冷戦>の時代だったが、これまでの全体はほぼ<パックス・アメリカーナ>の時代だったと言えるかもしれない。

 <日本国憲法体制>又は<47年憲法体制>の時代とは、ほぼ<戦後民主主義>を<時代精神>とする時代だ。それは、「民主主義」・「平和主義」・「個人主義」といった「」付きの「主義」が支配した時代だったとも言えるだろう。
 その<日本国憲法体制>又は<47年憲法体制>の時代を形成するに際して戦後の<進歩的文化人・知識人>の力は大きかったのだが、肝心の日本国憲法について、基本的に現憲法賛美の<進歩的な>憲法学者の影響力もすこぶる大きかったと思われる。<進歩的な>憲法学者の多くは同時に<進歩的文化人・知識人>だった。
 そのような<進歩的な>憲法学者のうち、就中大きな力をもったのは東京大学法学部の憲法学の教授たちだった、と言えよう。

 憲法学(さらにそれを含む諸法学)の研究者(大学教授たち)の養成、国家試験を通じての専門法曹や上級官僚の意識・観念の形成、そしてまた国家試験を経なくとも戦後のマスコミ人の意識・観念の形成にとって、憲法学者は、就中東京大学の教授たちの説くところ・例えば教科書類は、客観的にはじつに大きな影響力をもったのではないか。

 敗戦・占領期、そしてその後の戦後前半の東京大学法学部の憲法の教授の一人は宮澤俊義だった。

 二 「八月革命」説でも知られるこの宮沢俊義についても、関心をもってみよう。

 竹内洋・大学という病(中公文庫、2007。原単行本は2001)は主として戦前を、かつ東京帝国大学経済学部の「騒擾」を対象としており、憲法学や東京大学法学部を対象とする本ではない。
 それでも、索引を手がかりにすると、宮沢俊義について、3箇所(3頁)に言及がある。内容はつぎのとおり。
 ①p.224-東京帝大教授に対する蓑田胸喜らの原理日本社による攻撃・批判の対象に経済学部よりも法学部教授がなっていることが多く、宮沢俊義は4回、「バッシングの対象として登場した」(原理日本という雑誌の記事等による言及の回数だと思われる-秋月)。横田喜三郎(国際法)は3回、牧野英一(刑法)も3回、南原繁(政治思想)は1回。

 ②p.227-原理日本社の東京帝大総長への進言書(1938年)の後半は「帝大教授批判」で、田中耕太郎・横田喜三郎・末広厳太郎(以上、法学部)、河合栄治郎(経済学部)のほか、「人民に憲法決定の権利ありとする宮沢俊義」も名指しされた。

 ③p.274-戦後1962年の朝日ジャーナル誌上で、文部大臣による学長拒否権等を構想した中教審答申批判の座談会が9回連載された。司会は東京大学元法学部長・宮沢俊義。他の出席者は田中耕太郎、末川博、我妻栄、大内兵衛の4名。
 一部だろうが、①・②のような戦前の経験が戦後の宮沢俊義の意識、そして憲法「学説」に影響を与えなかったはずはないだろうと推測される。当然に「反・右翼」になりそうだ。

 なお、すでに何回か触れたことのある丸山真男における戦前の拘留経験もそのようなものの「感覚的」契機になったに違いない。