秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

未来社会

1332/日本共産党は「本当は怖い」?、日本共産党の「正体」?-日本共産党こそ主敵。

 一 保守系雑誌の背表紙に「日本共産党」の文字があるのはきわめて珍しいと思うし、産経新聞ですら、日本共産党に直接に関係する連載記事を掲載したことがあるのか疑わしい。
 したがって、雑誌で日本共産党特集を組むのはよいが、背表紙タイトルが「日本共産党の正体」(月刊WiLL5月号(ワック))だったり、「本当は恐ろしい日本共産党」(月刊Hanada6月号)だったりするのは、あまりに旧態依然としていて新味がない。
 それに何より、「正体」と書けば実際とは違う別の「外形」?があるかのごとくだし、「本当は恐ろしい」と書けば、では「表面的には恐ろしくない」のか、と(皮肉家としては)思ってしまう。
 日本共産党についてわざわざ「正体」と書く必要はない。「正体」は批判できるが、その他は批判できない、などというものではない。
 また、日本共産党について「本当は恐ろしい」などと書くのは、上記のとおり、表面的・外形的には「恐ろしくない」 かのごときで、ミス・リーディング を誘導しかねない。
 秋月瑛二からすれば、日本共産党のそのままが、このような政党が存在していること自体が、日本と日本人にとって「恐ろしい」、と言うべきなのだ。
 二 日本共産党の現綱領(2004年1月)は、かつてのマルクス解釈としては通説?だった社会主義と共産主義(狭義)の二段階論を放棄して、「社会主義・共産主義の社会」と言っている。また、文献等は省略するが、日本共産党の党員は「科学的社会主義」を用いるべきだが、「マルクス主義」を用いることはまだ許され、「マルクス・レーニン主義」という言葉は使うべきではないのだそうだ。
 ともあれ、現綱領によると、「社会主義・共産主義の日本」では、「搾取の廃止によって、人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる道が開かれ、『国民が主人公』という民主主義の理念は、政治・経済・文化・社会の全体にわたって、社会的な現実となる」、のだそうだ。
 コメントすると、「搾取」とは何ぞや、綱領中には説明がない。そしてとりわけ、「人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる」という部分は「ほんとうの意味で」という限定が付いたりしているので、何が言いたいのかさっぱり分からない。「国民が主人公」とは、一時期、民主党がよく使っていた表現だ…。
 また、現綱領によると、「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる」。
 この部分はきわめて恐ろしいのだが、さらに現綱領、つまりは現在の日本共産党が言っていることによると、上の「本格的な展望が開かれ」ることによって、「本当の意味で人間的な生存と生活の諸条件をかちとり、人類史の新しい発展段階に足を踏み出すことになる」のだ、そうだ。
 つまり、「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ」たのちに、「…共同社会への本格的な展望が開かれ」、そしてようやく「人類史の新しい発展段階」が始まる(足を踏み出す)、というわけだ。
 何とまぁ、高度な「社会主義・共産主義の社会」もまだ序の口で、まだ先があるのだ。
 以下は、コメント、論評。
 第一。日本共産党の綱領には、その他の重要決定類にもそのようなものあるが、もともと①たんなる<願望>なのか、②たんに将来こうなるだろう、という<推測>なのか、あるいは③将来こうなるはずだ、という<(客観的・合理的?)予測>なのかが判然としない部分が多い。
 上に紹介した部分はおそらく③だとみられる。そして、このようになるはずだから、これに向かって頑張ろう、と主張しているものと思われる。たんなる願望や、漠然とした推測ではないだろう。
 日本共産党は<理論・法則と実践の統一>だとか言うのかもしれないが、上の点ですでに<思考の方法論>の奇妙さを日本共産党については感じる。
 上の点は措くとしても、第二。将来の見通しを確たるものとして?持っていることについて、日本共産党は、他の(日本の)政党とは違うと言って自慢しているようだ(不破哲三が言っていたが、文献省略)。しかし、つぎに述べるように、<空想>・<妄想>ならば、何とでも書ける。
 第三。このような将来展望をかかげていること自体が、異様であって、恐ろしい。
 もともと抽象的概念が多くて厳密な意味は理解しにくいが、何となくのイメージで理解するとしても、「いっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」なるものの実現・達成は、そもそも不可能だと私には思われる。
 そもそもが「いっさいの強制のない」、「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」なるものの正確な意味は不明で、「真に平等で自由な人間関係」なるものも分かりにくいが、何となく分かったとして、このような社会は本当に実現されるのだろうか。日本共産党がそう考えている、あるいは(科学的に?)予測しているとすれば、それは<狂>の世界にいる人たちの<妄想・幻想>の類だと思われる。
 「平等」と「自由」が、あるいは「いっさいの強制のない」ということも、すべてが充足されるような社会はおそらくは到底実現されない、と思われる。
 なぜなら、人間自体が決して画一的には、全く「平等」には生まれてこないからだ。個体としての人間自体に生来の「制約」があるのであって、完全に「自由」な状態など生じるはずがないからだ。
 日本共産党が夢想しているような社会がくるとすれば、それは生殖も生育環境等々も統一的に<管理>された、ロボットのような人間ばかりの社会だろうと思われる。あるいは、すべてがメガ・コンピューターによって(いわゆる個人情報のすべても認識され)操作され、<管理>されるのだろうか。<管理>主体はいったい誰あるいはどこにあるのだろう。
 簡単に「真に平等で自由な」などと言ってしまわない方がよい。人間、社会について日本共産党は異常に傲慢すぎる。人間は、社会は、日本共産党の幹部・党員たちが想定しているよりははるかに複雑で、多様だ。かつ、人間は、死を免れない「生物」という自然(環境)の一つ・一要素でもあるのだ。
 日本の公的な政党の中に、上のような将来展望をもち将来予測している政党があること自体が気味が悪く、恐ろしい。さらにまた、「原則として」などという曖昧な限定を付けているのだから、まともに論評できるものではない。
 三 将来予測と実践と、と考えていくと、日本共産党は<日本共産教>または<(日本)科学的社会主義教>とでもいうべき「宗教」を奉じる「宗教団体」だと--本当の宗教団体には申し訳ないが--感じざるをえない。
 始祖があり中間教祖があり、教義があり、「信者」獲得運動があり、現在の最高指導者・最高指導部に対する「帰依」も要求される。そのように感じてしまう文章を、日本共産党の文献の中に、いくらでも見つけることができる。
 それで「科学的」とか語り、不破哲三は「科学で見た…」とかの書物を多数刊行しているのだから、「恐ろしい」。わざわざ詳細に立ち入らなくとも、その「正体」はじつははっきりしているのだ。

1307/日本共産党は「将来、情勢が熟したとき」<天皇制>を廃止する。

 産経新聞5/18で日本共産党・小池晃(政策委員長)は、現行憲法の「全条項を守る」と明言している。
 しかし、これは日本共産党独特の言い方、あるいは<ペテン>であって、<今のところは>または<当面は>という副詞が隠されている、と理解しなければならない。
 軍・戦力の保持を一般に禁止している九条2項についてもそうなのだが、とりわけ一条以下の「天皇」の存在を前提とする諸規定も含めた「全条項を守る」つもりであるとは思えない。
 小池によれば、1946年6月に同党が発表した日本人民共和国憲法草案は「歴史的文書」で、現在における憲法改正案として掲げているのではないらしい。
 だが、そうであるとしても、戦前に<天皇制打倒>を掲げた政党が戦後にその目標を降ろしたとは考え難い。また、日本共産党系の、鈴木安蔵を初代の代表理事とした「憲法改悪阻止各界連絡会議」(「憲法会議」)が、<護憲>ではなく<憲法改悪阻止>と謳っているのも、日本共産党にとっての(改悪ではない)<改正>は追求する趣旨を込めていると解することができるし、実際、そうであるはずだ。
 日本共産党は1961年綱領を2004年に改定した。同綱領は、日本の戦後の変化を、①「アメリカの事実上の従属国」になったこと、②政治制度が「天皇絶対の専制政治から、主権在民を原則とする民主政治」になったこと、③「戦前、天皇制の専制政治とともに、日本社会の半封建的な性格の根深い根源となっていた半封建的な地主制度が、農地改革によって、基本的に解体されたこと」の三点にまとめ、②についてはさらにこう書いている。
 ②の変化の代表は日本国憲法で、「民主政治の柱となる一連の民主的平和的な条項を定めた。形を変えて天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点を残したものだったが、そこでも、天皇は『国政に関する権能を有しない』ことなどの制限条項が明記された」。
 また、今後について、次のように書いている。これ以外に綱領上の言及はないようだ。
 「天皇条項については、『国政に関する権能を有しない』などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する。/党は、一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のため民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」。
 ここでは、<将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって><天皇制度の存廃>が解決される、と言っている。
 これについて、2004年党大会では「国民の総意に転嫁するのは無責任」等の意見があったようで、不破哲三(中央委議長)は次のように「報告」している。以下、不破哲三・報告集/日本共産党綱領p.33-(同党中央委出版局、2004)による。
 党の立場は「明確」だ。「党は、一人の個人あるいは一つの家族が『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく」と、その「評価を明確にして」おり、今後についても、「国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだ」という方針を明示している。だが、天皇制について「国民の現在の多数意見はその存在を肯定する方向にあ」り、「その状態が変わって、国民多数が廃止あるいは解消の立場で合意しない限り、この問題での改革は実現でき」ない。「天皇制の問題」については「なんらかの改変」自体が、「憲法の改定を必要とする」。「一方、戦前のような、天皇制問題の解決を抜きにしては、平和の問題も、民主主義の問題もないという、絶対主義的天皇制の時代とは、問題の位置づけが根本から違っていることも、重視すべき」だ。
 「いま、憲法をめぐる中心課題は、第九条の改悪を主目標に憲法を変えようとする改憲のくわだてに反対し、現憲法を擁護することにあ」る。「わが党は、当面、部分的にもせよ、憲法の改定を提起する方針をもちません」。だから、「天皇制の廃止の問題が将来、どのような時期に提起されるかということもふくめて、その解決について」は、「将来、情勢が熟したとき」の問題だ、と「規定するにとどめている」のだ。
 このように、綱領上の文章ではやや曖昧ではあるが、天皇制度廃止を明記しないのは天皇制度を現在の国民の多数は肯定している、したがって廃止論が多数にならないかぎり改憲による天皇制度の廃止はできないからだ、現在の「憲法をめぐる中心課題」は「現憲法を擁護」することだが、平和・民主主義にとって「天皇制問題の解決」は不可欠なので、その解決は「将来、情勢が熟したとき」の問題だ、という趣旨を述べている。
 要するに、当面は「現憲法を擁護」するが、国民多数の意見の動向によって「将来、情勢が熟したとき」に、憲法改正によって「天皇制の廃止」を図る、と主張していると理解して差し支えない。
 このような理解に、小池晃も反対はできないだろう。不破哲三が述べた内容の合理的な理解のはずだからだ。
 したがって、当面は「守る」が、将来は「廃止」する、というのは、やや複雑な言い方をしているが、日本共産党の既定の方針だ、ということになる。日本共産党は、このような、<戦術的>な政策表明をするので、注意しなければならない。
 <未来社会-社会主義・共産主義社会>を目指す手段・過程としての(「自由」と「民主主義」の擁護・徹底を通じての)<民主主義革命>なのであって、この政党にとっては「自由」と「民主主義」も、第二段階の「革命」のための手段あるいは<便法>であることは言うまでもない。
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