秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

朝日新聞

2024/読売=朝日+毎日、減紙率1位毎日・2位産経。

 新聞全国紙の発行部数についてのいわゆる「ABC部数」が発表されているようだ。
 2019年3月現在。対前年同月部数比とその割合。1000部未満を四捨五入。
 いわゆる「押し紙」を含むので、配達される実数ではない。丸数字とコメントは私のもの。
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 読売新聞   ①811万5000部、⑤-38万9000部、②- 4.8%
 朝日新聞   ②560万4000部、③-37万7000部、③- 6.7%
 毎日新聞   ③245万2000部、④-38万4000部、⑤-15.6%
 日本経済新聞 ④234万7000部、①-10万2000部 ①- 4.4%
 産経新聞   ⑤139万2000部、②-12万6000部 ④- 9.0%
    計(全体) 1991万部   -137万8000部  -6.9%
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 コメント①-朝日+毎日=805万6000で、読売811万5000にほぼ等しい。
 コメント②-上の812万や806万と比べて、産経新聞の139万2000は、17%で、5~6分の1にすぎない。
 コメント③-減少率一位は毎日で1年で-16%、二位は産経で1年で-9%。

1999/池田信夫のブログ009-朝日・鈴木規雄。

 池田信夫ブログマガジン2019年7月8日号「慰安婦問題の知られざる主役」。
 鈴木規雄(~2006)という名も含めて、知らなかったことが多いので、要約的紹介。
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 1990年まで慰安婦問題はほとんど知られていなかったが、これを日韓の外交問題にしたのは朝日新聞だ。第一報を書いた植村隆は当時33歳の駆け出しで、キャンペーンの責任者は当時大阪社会部デスクの「鈴木規雄」だった。
 1988年、鈴木は千葉支局デスク時代に初めて「日本人慰安婦」証言を記事にしたあと、1991年8月に大阪社会部デスクで「慰安婦の記事を書かせた」。
 1992年1月、宮沢喜一訪韓直前に「軍関与示す資料」トップ記事が出たときの東京社会部デスクは、鈴木規雄だった。
 1997年3月に、信憑性が怪しくなった吉田清治証言の「真偽は確認できない」との曖昧な総括記事取材班の人選をしたのは、当時名古屋社会部長の鈴木規雄だった。
 上の時期の朝日新聞・外報部長は吉田清治を「世に出した」清田治史だった。この人物は「勤務していた大学を辞職し、その後は姿を消している」。
 鈴木規雄が慰安婦問題で力をもったのは社会部「本流」だったからだろう。大阪社会部で頭角を現し、京都・蜷川虎三府政を応援する記事を書いた。
 鈴木規雄は「共産党員(もしくはそのシンパ)だったとみられ」、朝日新聞は「革新」府政の原動力となった。
 大阪のマスコミは営業的にも「在日」・「同和」の読者が重要で、「慰安婦キャンペーン」は「大阪ジャーナリズム」の総集編ともいうべきものだった。
 鈴木規雄が「自分の書かせた特ダネに事実関係に致命的な誤りがあったことに気づかなかった」とは思えず、遅くとも1997年には気づいたはずだ。
 なぜ2014年まで隠蔽されたのか。「朝日新聞は、まだ大きな問題を隠している」。
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 若干の感想・コメント。
 第一。保守・右派や革新・左派の「論壇・評論家・知識人」たちと同様に、あるいはそれら以上に、現実の「知的」雰囲気を作ったのはジャーナリズムで、新聞、テレビ局を含み、さらに広くは<情報産業>全体を、もっと広くは<情報・エンターテイメント産業>を含む。「産業」・「企業体」だ。
 そして、そうした「産業」界の面々は組織・企業の一員として働くので、「論壇・評論家・知識人」たちと違って(「個人営業」をしないので)、個人の固有名詞が世間一般には出てくる頻度がはるかに少ない。
 上の鈴木規雄、清田治史もそうだが、大手新聞社(+共同通信等)の要職者・社説執筆者、最終的構成・校正担当者はもちろん、テレビ番組の制作責任者(・ディレクター)や月刊雑誌・週刊誌等の「編集」担当者、さらに大手出版社の単行本発行に関与する「編集」担当者もそうだ。
 こういう<業界人>たちは、どのような人物なのか。どのような教育を受け、どのような一般的知識をもち、かつどのような<政治的>感覚を基礎的に身につけているのか。
 そのレベルや内容は、社会にも、「政治」にも、そして「投票行動」にも、全体としては無視できない影響を与えることになっているだろう。
 第二。全てを「個人」に還元させることはできない。例えば、朝日新聞社、読売新聞社、産経新聞社のいずれに入社するかで、ある人物の人生は大きく変わるに違いない。組織内で「出世」しようと思えば思うほど、当該新聞社の「主流的」論調に合わせようとするだろうと思われる。
 産経新聞社の主流論調は、<天皇を戴く国のありようを何よりも尊い>と感じることなのだろうか(例、桑原聡)。
 この産経新聞社内にいると、九州・中国地方の、平安期以降に新たに生まれた<神武天皇東遷>の伝承記録も、<神武…は実際にあった>の証拠になるのかもしれない。
 なお、「個人」が直接に特定の<政党>の影響下にあることはもちろんあるだろう。
 朝日新聞社や岩波書店のみならず、新潮社にも講談社にも平凡社にも、れっきとした日本共産党員はいると思われる。
 少なくとも、自分の会社から日本共産党・不破哲三の本を出版させようと考える「容共産党」の編集者はいる(新潮社・平凡社)。提案して、社内での編集会議ないし出版会議を通過させれば、大手出版社の名で出版することは可能だ。
 第三。しかしまた、個々の組織人で成り立つ新聞社等の情報産業界に、政党直接でなくとも、「評論家・知識人」たちが<空気>の有力な一つとして影響を与えていることも確かだろう。もっとも、相対的には後者の力は落ちているようにも思われる。
 <論壇>とか、<言論思想界>なるものは、ごく一部の者がその「存在」を信じているにすぎない「夢想郷」なのではないか。あるいは、存在しても、その現実的影響力は、当事者たちが想定しているよりも遙かに弱く、100分の1、1000分の1ほどなのではないか。
 第四。朝日新聞批判、朝日新聞拒絶は、この欄の発足時で立脚点だったことで(当初のサブ・タイトルは「反朝日新聞・反日本共産党」だった)、近年になってようやく<えせリベラル>などと指摘して批判的立場を明確にするようでは遅すぎる(例、八幡和郎)。そういう意味では、今回紹介の池田信夫の文章も、無意識に想定していた範囲内に十分にある。

1899/G・ステッドマン・ジョウンズ・カール・マルクス(2016)。

 ソ連解体後でも、日本の出版社およびこれに影響をもつ日本共産党員や容共「知識人」の外国の<反共産主義>文献に対するガード(つまり、自主検閲・自主規制)は堅いようだ。
 L・コワコフスキの大著、R・パイプスの二著のほかにシェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(最新版、2017)も邦訳書はない。
 一方で例えば、江崎道朗が唯一コミンテルン関係書として付録資料のそのまた一部を利用していた邦訳書・コミンテルン史(大月書店、1998年)は、立ち入った内容紹介はこの欄でしていないが、レーニン擁護まではいかなくともレーニンになおも「甘い」ところがある。かつまた、著者の二人は20-30歳代だったと見られ、そのうち一人の現在はネット検索してもさっぱり分からない。
 また、岩波書店のシリーズものの一つ、グレイム・ギルほか=内田健二訳・スターリニズム -ヨーロッパ史入門(2004年)は、レーニンとスターリニズムとの接続関係を何とかして認めないように努めている。まだ、この欄では紹介、言及していない。
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 カール・マルクスの人生や論考全体に関する近年の研究書に、以下がある。
 ①Gareth Stedman Jones, Karl Marx :Greatness and Illusion (Cambridge、2016年)。
 ②Jonathan Sperber, Karl Marx :Nineteenth-Century Life (Liveright、2014年)。
 これらは、目も耳も早そうな池田信夫が紹介したかもしれないと思ったが、まだのようだ。
 ①のG・ステッドマン・ジョウンズ・カール・マルクス-偉大と幻想(2016)は、奇妙な読み方だろうが、そのEpilogue であるp.589-p.595 を辞書なしで何とか読んでしまった(Kindle 版ではない)。
 小川榮太郎の文章を探して確認して読むよりは、私にははるかに知的刺激になる。
 小川榮太郎によると、彼の文章の意味が分からない者は、<小川榮太郎の「文学」>を理解できない人間なのだそうだ。
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 上の①の最後の部分を試訳する余裕はないが、著者は興味深いことを書いている。たぶん、以下のようなことだ。
 ・エンゲルスはマルクスの生前の手紙類をロシアの友人、「社会主義」者のLavrov に渡したが、その内容を<資本>の第二巻・第三巻の編集に利用しなかった。
 ・プレハノフ、ストルーヴェおよびレーニンがロシアのマルクス主義は「史的唯物論対人民主義」、「西欧化対ロシア主義」の闘いだとしたとき、エンゲルスは異論を挟まなかった。このことは、農民共同体の重要性が直接的な政治的争点になった国で、マルクスの見解を忘れさせる意味をもった。
 ・エンゲルスはロシアでの農民の多さ、都市プロレタリアートの少なさを指摘はしていたが、マルクスの1883年直前のロシア・農村共同体(ミール)に関する見解は20世紀にまで(ロシア革命以前に)ロシアに伝わらなかった。〔イギリスやロシアの農村共同体に関する論及がEpilogueの最初にあるが割愛する。〕
 ・マルクス=エンゲルス全集を編纂したRyazanov はマルクスからの手紙のやりとりがあったことを想い出し、かつAkselrod文書の中にあることが判ったが、編集者はマルクスの手紙が忘れ去られた本当の理由を理解できなかった。
 ・マルクスの手紙は、「正統派マルクス主義」派の「都市に基礎をおく労働者の社会民主主義運動の構築という戦略」ではなくて、プレハノフらに、「農村共同体を支援する」ことを強く迫るものだった。
 ・〔秋月の読み方では、マルクスは後進国とされるロシアでのプロレタリアートの少なさ・弱さからして、これの支持を得ての「革命」-「プロレタリアート独裁」を想定していなった。二次的に(必ずしも理論的にではなく)「農民」の支持を求めるいわゆる<労農同盟>論は-元々は日本共産党も継承した-マルクスではなく、レーニン・ボルシェヴィキによる。〕
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 このG・ステッドマン・ジョウンズの2016年著に対する書評をさらにネット上で見つけた。
 Terence Renaud (Yale Uni. )は、マルクスの伝記はとくにIsaiah Berlin、George Lichtheim およびLeszek Kolakowski のものが「スタンダード」だとしつつ(コワコフスキを除き、邦訳書があって所持している筈だ)、この著者も青年マルクスと成年マルクスの哲学上の継続性を承認する。しかし、長くは紹介しないが、こんな紹介があって、「しろうと」には意外感を抱かせる。一部だけ。
 「ステッドマン・ジョウンズは、マルクスの政治論は1860年代に変化した、と主張する。
 イギリスに逃亡中の間に、彼は社会(的)民主主義者、そして暴力的手段を拒絶する労働組合支援者に変化した。
 マルクスは蜂起についてのジャコバン型やブランキ型を放棄し、ゆっくりとした漸進的な変化を支持した。
 多数の共産主義者たちがのちに信じたのとは反対に、マルクスは革命に関して単一の劇的な事件ではなくて長い過程だと考えた。
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 しかし、このTerence Renaud は、著者のGareth Stedman Jones (1942~、Uni. of London)は、「新左翼」-「フランス構造主義派」-<マルクス主義放棄>と立場を変えており、自己正当化のためのマルクス理解・解釈ではないか、とかなり疑問視しているように読める。
 Stedman Jones はかつてNew Left Review の編集長だったらしく(1964-1981)、これはL・コワコフスキを批判するE・トムソンの文章が別の雑誌に掲載された1970年代前半を含んでいる(その反論がこの欄に試訳を掲載したL・コワコフスキ「左翼の君へ」)。
 T. Renaud という研究者についても全く知らないのだが、Stedman Jones の主張を鵜呑みにするわけには、きっといかないのだろう。
 だが、いろいろと興味深い議論または研究ではあるようだ。
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 日本で、マルクス(やエンゲルス)あるいはレーニン等に関する、冷静な学問的研究を妨げているのは、マルクスとマルクス主義あるいは「科学的社会主義」を党是とする政治組織・政党が存在していて、その「政治的」圧力が、意識的または無意識的に、日本の人文社会分野の研究者を<拘束>しているからだと思われる。
 <身の安全を図る>ために、日本共産党が暗黙に設定している<タブー>を破って「自由な学問研究」をすることを、事実上自己抑制しているのではないか、と秋月瑛二は推測する。「自由な学問」・「大学の自治」は共産主義組織・政党によって蝕まれているのではないか。
 かつまた、「(容共)左翼」に反発している人々も、立憲民主党や朝日新聞等を批判することがあっても、なぜか正面からの<日本共産党批判>には及び腰だ。
 なぜだろうと、つねに不思議に感じている。日本の出版業界やマス・メディア業界(これらも資本主義的で自由な営利企業体だ)の独特さ、奇妙さにも一因があるに違いない。

1838/2018年8月-秋月瑛二の想念④。

 月刊正論2017年3月号の「編集部作成」のチャート(マップ)は、「保守の指標」と題しつつ右上・左上・左下・右下という反時計回りの4象限をつぎのように示す。
 B/自虐・対米協調派 A/自尊・対米協調派
 C/自虐・対米不信派 D/自尊・対米不信派。
 月刊正論・産経新聞はAで、朝日新聞はCなのだそうだ。
 秋月瑛二が2017年の1/30や2/02で示したのは、つぎだった。
 B/リベラル・保守 A/ナショナル・保守
 C/リベラル・容共 D/共産主義(=ナショナル・容共)。

 対米協調・不信+自尊・自虐という二基準と保守・容共+リベラル・ナショナルという二基準とどちらが「優れて」いるか、あるいは少なくともどちらが<視野が広い>か、ということには再びたちいりはしない。
 ここで問題にしたいのは、こうした何らかの二つの要素だけを組み合わせた<社会思潮>の四分類程度で複雑・多岐にわたる「思想」・「意識」等を整理・把握できるのか、という問題設定の仕方そのものだ。
 なるほどある程度の「単純化」は必要で、そうしないと「知的」作業が成り立たない。
 しかし、わずかの四分類(四象限化)で済ませること自体が、タテ・ヨコ(上下・左右)の二次元しかない一枚の(平面の)紙の上の作業であることの限界を示しているだろう。
 つまり、三つ目の対立軸を立てて、平面四角形ではなく、サイコロの形のような立体的、三次元的四方型を想定しての思考方法を、最低でも、しなければならないだろう。
 ヒト・人間の本能に内在する感覚からしても、この程度の思考程度はかなり容易に行えそうな気がする。二次元の四象限化程度では、<簡略化>が行き過ぎている可能性がすこぶる高い。
 上のような四象限化を「公式に」示した月刊正論編集部は、その頭の単純さを暴露しているようなものだ。もっとも、それにお付き合いして対案を考えた秋月もおかしいかもしれない。
 もっと多様で柔軟な発想をすべきで、思考の方法や基準を「硬直」させてしまってはだめだ。
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 例えば、「日本会議」と日本共産党は、真反対の側にいると相互に意識しているかもしれない。
 例えば平面上に一つの円があるとして、かりに前者が左端近くに、後者が右端近くにある、としよう(これも、あくまでかりにだ)。たしかに、両者は真反対の側にいて、対立しているように見える。
 しかし、その同じ円形を底面・上面とする円柱を、つぎに想定してみる。
 底から、または上からその円柱を覗いたとする。
 たしかに真下又は真上から見ると、両者は真反対側にいて対立しているようだ。
 しかし、例えば透明の円柱全体を横から眺めたとすると、「日本会議」と日本共産党はいずれも、底面部(下部)又は表面部(上部)に並ぶように存在していて、円柱全体の中ではきわめて近い位置にいる、ということが考えられる。
 対立していそうでいて、この両者は、それぞれの「観念」的な単純発想において、きわめてよく似ているのではあるまいか。
 いつか、つぎの趣旨を書いたことがある。
 不破哲三・日本共産党は「未来」にユートピアを求め、櫻井よしこ・「日本会議」は(日本の歴史・伝統/天皇という)「過去」に理想を求めようとする
 いずれも現在・現況に不満で、過去か未来の「空中の一点」に変革・回復目標を設定する点で、共通しているのではないか。
 むろん、これらは、現存勢力の支持・団結を維持し拡大するという、世俗的・卑近的な「政治的」目的をもつことでも共通するが、これは今回はさて措く。
 円柱を想定するとすれば、もちろんそれ以上に、円球、つまり地球のような丸い立体を想定し、かつその表面部分(地表面や海面)だけではなく、透明なガラス球のごとく内部・奥(地底・海底)も見える、という球形を想定することができるだろう。
 先だって、宇宙空間にいて眺めているような発想が必要だとも書いた。かりに上下・左右・前後について可視能力のある点的な物体の中に認識主体がいるとすれば、それ自体または他者の移動の方向が<上下・左右・前後>のいずれであるのは分からない、それらのいずれでもありうるのではないか、ということを書いた。
 だが、発想・思考のためには何らかの「軸」が必要だとすると、東経・西経/北緯・南緯の二つの軸で表現しうる地表面(・海面)に加えて、地球の中心(地核)までの距離(深さ)をも加えた三つの軸くらいはやはり必要かもしれない。そうでないと、全てが<相対的>になる。
 またこのように円球を想定した思考は、サイコロ的四方型を想定するよりも、はるかに複雑な思考をすることができる。
 上下・縦横・左右の三次元的発想によると、四象限ではなく、2×2×2の八象限化が可能だ。これでも線的(一次元)、平面的(二次元的)思考よりは、優れている。
 だが、所詮はまだ、<社会思潮>等を八つに分類することができるにすぎない。
 世の中には、もっと多数の、無数に近い論点、対立点がある。
 この点、その「内部」を含めた、表面ではなくてむしろ「内部」の位置こそに注目する円球・地球的発想では、ほとんど無限の位置を設定でき、かつ何らかの方法・基準・指標でそれを表現することが可能だ。
 もとより、ヒト・人間の一個体には、このような厳密で複雑な作業をする能力はない。しかし、発想としては、この程度に複雑・多様であることを意識して、「観念」化・「硬直」化を可能なかぎり回避する必要がある。
 唐突だが、では上の「厳密で複雑な作業」をITはすることができるか。将来的にも、絶対にすることはできないだろう。


1828/不破哲三の2017年11月・朝日新聞での妄言①。

 日本共産党前議長・現常任幹部会委員の不破哲三が、朝日新聞2017年11月17日朝刊の紙面に登場して、<ホラ話>を述べている。
 ロシア革命100年ということでこんなインタビュー記事を掲載する堂々とした全国紙があるのだから、日本の<左翼的>状況の程度をよく知らせてくれている。
 聞き手は「三浦俊章、池田伸壹」とされる。編集部の手が入っているだろうが、本人・不破哲三の不服・不満があるかたちで紙面になっているとは考え難い。したがって、不破哲三自身の言葉・表現だと理解して、以下、この<妄言>についてコメントする。
 最初に語られているテーマは、ロシア革命の意味・意義だ。
 最近に岩波書店のロシア革命・講座の「編集代表一同」の「刊行の言葉」に言及したが、そこで書かれていた三点のうち二点は、この朝日新聞での不破哲三発言と同じだ。
 似たようなデマゴギーが溢れている。
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 さて、不破は、つぎの三点を挙げていると読める。
 第一。「資本主義に代わる新しい社会を目指す革命がロシアで勝利した」。
 第二。「ロシア革命が起点となって、民主主義の原則が新たな形で世界に定着した」。
 これのコロラリーのようなかたちで、つぎもある。
 「社会的権利と呼ばれる労働者の権利が、革命後の人民の権利宣言で初めてうたわれた」。
 第三。「革命政権は、〔第一次大戦〕大戦終結の条件として、民族自決権の世界的確立を求めた。…。世界の民主的国際秩序の先駆けとなる原則を打ち立てました」。
 以上の三点全てが<ホラ話>だ。<妄想>だ。つまり現実・事実に反する。あるいは、論証されていない命題にもとづいて何らかのことを「政治的に」主張している。あるいは、「観念・言葉」と「現実」の混同がある。
 たぶん一回ではすまない。
 第一。「資本主義に代わる新しい社会を目指す革命がロシアで勝利した」。
 資本主義からの離脱に初めて成功した、と不破哲三は理解する。
 かりにそうだとして、それが<良かった>、<進歩的だった>のかはもちろん別の問題だ。
 この人は、そしておそらく日本共産党員の全てが、資本主義→社会主義(・共産主義)という道筋を「人類」はたどる「はず」だと想定しているのだろう。そうだとすれば、ロシア革命は歴史上「初めて」の積極的な意義があることになる。ちなみに、何となくそう理解している、あるいはロシアの現実は別として、資本主義→社会主義(・共産主義)という方向自体は少なくとも理念として正しいのではないかと考えている、<容共>者もいるかもしれない。
 しかし、そもそも上の想定・前提は<正しい>、<適切な>ものなのか。
 一定の観念・想念・幻想があってはじめて、「資本主義に代わる新しい社会を目指す」のは良かったことだ、という評価が成り立つ。
 不破によると、「マルクスの理論の中でしかなかった社会主義が現実化し、世界に大きな衝撃を与えた」。
 そのとおりかもしれず、「マルクスの理論」が現在でもなお影響力をもつのは「ロシア革命」が成功したこと、つまりは<理論が現実化>して、<理論の正しさ>が現実で証明された、と少なくとも「受け止められた」ことにあっただろう。
 その意味で、マルクス→レーニンによってこそ、マルクスは現にあるような形で歴史に残っているのだとも言える。
 それは、ルソー(ら)→フランス革命、吉田松陰→明治維新、という関係とも似ている
 しかし、レーニンによる「ロシア革命」は本当に<社会主義(を目指す)革命>だったのか。
 そのようにレーニンらボルシェヴィキ派が<宣伝>した、<言葉・概念で訴えた>だけかもしれず、本当に<マルクスの理論を現実化した>ものかどうかは別途の検討が必要だ。
 かりにレーニンらが「マルクスの理論」を現実化したもの、または現実化しようとしたものであったとしても、1917年~1922年の現実は、かりに「社会主義が現実化」したものだったとすれば、悲惨な現実だったと私には思われる。
 国家・行政の運営の仕方を知らない<しろうと>たちが、マルクスが簡単かつ抽象的に描く「共産主義」をさっそく実施しようとしたがゆえの悲惨な現実だった、と十分に理解することができる。
 不破哲三による<市場経済をつうじて社会主義へ>というレーニンの考えの確立という発見(?)の特徴は、この人はおそらくレーニン全集等で読むことのできるレーニンの<言葉・文章>だけでロシア革命等を、また十月革命直後の歴史を理解しようとしていることだ、と論評することができる。
 この人はいったい、どこまで、1917年~1922年くらい、要するに<レーニン時代>のロシアの現実を知っているのだろうか。
 かりに現実にしたのだったとしても、そこでの「社会主義」とは人間の本性には反した絵空事を描いたものではなかっただろうか。
 さらにもともと、マルクスらのいう封建主義→資本主義→社会主義(・共産主義) という「歴史的法則」自体の<正しさ・適切さ>も、何ら証明されていないものだ。
 <最初に資本主義から離脱した>。これがなぜ積極的意義・意味を持つのか、さっぱり分からない。
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 若い頃からマルクス、レーニン、(1980年くらいまでは)スターリンを読み、かつ日本共産党の幹部だった(である)人物の<思考・意識形態>というのは、ヒト・人間観察としても、すこぶる興味がある。
 続けざるを得ないだろう。

1703/陸自「日報」問題・情報公開と古賀茂明・佐藤正久。

 陸上自衛隊日報にかかる情報開示問題につき、佐藤正久・現外務省副大臣、古賀茂明・元経済産業省官僚で元内閣審議官の二人の論評類をネット上で読んだ。
 テレビ、新聞等は、陸上自衛隊「日報」問題を、稲田朋美・安倍内閣問題にのみほとんど焦点をあてて<政治的に>報道してきた。産経新聞、フジ系テレビ局でも、事態はほとんど変わらない(かりに立場が正反対のようでも)。国の情報公開制度に関する基礎知識に曖昧な部分または誤りがあるのではないか、と思われる。
 ましてや、月刊正論(産経)等の「特定保守」系雑誌に稲田・安倍等に関して書いている人は、何も知らないだろうと思われる。
 現副大臣・佐藤正久、そして著名?評論家・古賀茂明。この人たちはだいじょうぶなのだろうか。
 曖昧さや明らかな誤りではないかと思う部分がある。なお、この二人を個人的に批判するのが、以下の目的ではない。
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 A「2016年7月の情報公開請求があったとき、陸自の現場は、日報の存在を隠す判断をしている。文書が物理的に存在するのに、情報公開請求に対して不存在と回答する場合の官僚の言い訳は、『物理的に存在しても、単なる個人のメモ、あるいは、ただの走り書きのようなもので正式なものではないから<行政文書>としては存在していない』という理屈である。加計学園問題で文部科学省でも同様の言い訳が使われたことは記憶に新しい。
 今回のケースでは、組織内のネット上で多数の職員が閲覧できる形で存在したものだから立派な行政文書なのだが、それを捻じ曲げて、不開示決定をしてしまった。/その時の陸自関係者の意識は、こういうものではないか。」
 以上、古賀茂明「官僚と稲田防衛相に“阿吽の呼吸”が成立しなかった本当のワケ」2017年7/31付・朝日新聞系のアエラ・ドットコム上。
 B「“日報”とは、現場の部隊から国内の大臣等に報告のため、作成されるものであり、文書の性質上、“行政文書”に属する。そのため、行政文書に係る法令等に従うことは当然であり、情報開示請求の対象となるのである。/これは、現状の法令に則った回答である。
 現在の報道では、日報の存在を組織ぐるみで隠蔽したとされ、“情報開示”の在り方に主にスポットが当てられている。/確かに、情報開示に関する防衛省の組織体制は再考する必要はあるだろう。//
 しかし根本の問題を見過ごしていないであろうか?/すなわち、“情報保全”である。
 日報には当然であるが、隊員の健康状態・装備品の状況の詳細といった、我が国の“手の内”が記載されている。/現場での任務遂行のための必要な情報の塊といっても良いであろう。/さらに、今回の対象となったのは、現在進行中の任務である。
 その様な状況の日報・レポートを開示請求されたならば開示するといった国は、おそらくどこにもない。開示するような国と共に行動する国も、おそらくないであろう。
 実行中の任務の日報については、不開示という判断も当然あり得る。
 “情報”の取り扱いの在り方について、引き続き考えて行きたい。」
 以上、佐藤正久ブログ7/31「“情報保全か?”それとも“情報開示か?”」
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 A・古賀は、日報という「文書が物理的に存在」する場合に「情報公開請求に対して不存在と回答する場合の官僚の言い訳は、『物理的に存在しても、単なる個人のメモ、あるいは、ただの走り書きのようなもので正式なものではないから<行政文書>としては存在していない』という理屈」だ。/今回のケースでも「組織内のネット上で多数の職員が閲覧できる形で存在したものだから立派な行政文書なのだが、それを捻じ曲げて、不開示決定をしてしまった」、と書く。
 しかし、「立派な行政文書」であっても、不開示決定にすることはできる。かつ、その判断に「裁量」が認められてよい、と考えられる。「裁量」性の問題を別にすると、上の「かつ」以前の文意は、法律上で<明記>されている、と言ってよい。
 もとより具体的事案に立ち入るつもりはないが、<行政文書なのに「捻じ曲げて」不開示決定した>という叙述はおかしい。どちらかと言うと、誤りだ。関係条文は、あとで以下に示す。
 B・佐藤の文章の趣旨は、必ずしも明晰でない。
 行政文書→開示請求の対象になる→不開示もあり得る、と明確に書いてくれないと困る。
 つまり、先ずは例えば、開示請求の対象になる=開示義務が発生する、ではない、ということを。
 Aの古賀の文章だと、行政文書→不開示決定は「捻じ曲げられ」たことになる。正しくは、上記のとおり、(文書・情報→)「行政文書」→開示請求の対象になる=審査・検討の義務が大臣等に発生する→開示決定または不開示決定、なのだ。
 もっとかみくだいて言うと、不開示決定には、つぎの二つのものが、厳密にはつぎの三つのものがある、ということを明確に知っておく必要があるだろう。
 新聞記者、メディア関係者は知ったうえで報道してきたのだろうか。
 「特定保守」雑誌への執筆者たちは、たぶん全く知らない。
 ①文書・情報そのものが不存在のとき。古賀のいう「物理的」な不存在の場合。
 ②文書・情報はあっても、法律上の「行政文書」に該当しないとき。つまり、<行政文書の不存在>のとき
 ③当該文書・情報は「行政文書」だが、法律が定める「不開示情報」に該当する(と認める)とき
 いずれの場合も、間違いなく同じく<開示しない旨の決定>がなされるはずだ。
 ①の場合は、存否の判断が正しいものならば、開示(公開)したくてもできない。
 ②、③には、「行政文書」か否か、「不開示情報」を含むか否か、という法律解釈または法律の適用・個別案件ごとの要件充足性の認定が伴う。
 以上のことを、佐藤正久は分かったうえで書いているのだろうか。どうも微妙だ。
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 ①と②で、「ある」(ない)・「存在」(不存在)と言っても、意味・レベルが違う
 ②の場合の「ある」・「存在」は、法律上の一定の概念に当てはまる経験上の現物たる「もの」がある(ない)とか存在する(存在しない)という意味で、<現実の客観的(・物理的)認識>上の「ある」・「存在」ではない。
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 関係法律と関係条文は以下。防衛省(・自衛隊)も同じ法律の適用をうけ(かつ適用除外されておらず)、開示に関する法的な決定権限者は防衛省でも事務次官でも自衛隊でもなく、一人の人間が担当する職としての防衛大臣であることの根拠・関連条項は省略。 
 行政機関の保有する情報の公開に関する法律(平成11年=1999年法律第42号、最近改正・2016.05)。
 いわゆる国の情報公開法(法律)。独立行政法人には直接の適用はなく別の法律があるので、<行政機関情報公開法>とも略称されている。
 同法2条項本文「この法律において「行政文書」とは、行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書、図画及び電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られた記録をいう。以下同じ。)であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているものをいう。ただし、次に掲げるものを除く。」(但書の各号省略)
 同法第5条本文「行政機関の長は、開示請求があったときは、開示請求に係る行政文書に次の各号に掲げる情報(以下「不開示情報」という。)のいずれかが記録されている場合を除き、開示請求者に対し、当該行政文書を開示しなければならない。」
 同第5条第3号「三 公にすることにより、国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ又は他国若しくは国際機関との交渉上不利益を被るおそれがあると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」。
 シロウトにも、「公にすることにより、国の安全が害されるおそれ…」が「あると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」は「不開示情報」として開示しないことができる、ということが分かる。
 佐藤正久は、このことをきちんと知って、意識して、上の文章を書いたのだろうか。
 怪しい。それとも、具体的に問題になった<陸自日報>が「公にすることにより、国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ又は…」のある情報かどうかに逡巡があって、上のような、「引き続き考えて行きたい」という、締めくくりの言葉になったのか。
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 天皇譲位問題も自衛隊憲法明記問題も、数ヶ月遅れてまともに書く気になった。天皇制度も憲法九条も、主要な関心対象ではなくなっているからだ。この回の情報公開制度は、さらにもっと同じ。
 だが、ネット上の諸発言・主張・見解等々をいつになく見ていると、気になることが山ほど出てくる。
 早く卒業して、本来の?L・コワコフスキ、R・パイプスの本の試訳作業、共産主義や「全体主義」・「ファシズム」の問題に戻りたい。

1698/「日本会議」・伊藤哲夫の稚拙と安倍内閣改造。

 これでまともな改憲提案か。
 伊藤哲夫=岡田邦宏=小坂実・これがわれわれの憲法改正提案だ-護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?(日本政策研究センター、2017.05)。
 体裁からして、計200頁ほど。
 三点しか、改正の提案はない(緊急時、九条、家族)。しかも、具体的な条文案を用意しているのでもない。
 その計200頁ほどのうち、総論的部分が30頁ほどあるので、平均すると、一つの改憲項目について、50-60頁ほどしか当てていない。しかも、そのうち過半は「鼎談」。
 読者を馬鹿にしているだろう。
 これでよく、「護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?」と表紙に書けるものだと思う。ほとんど発狂している。この人たちがいう「護憲派」は、この人たちの発言・文章よりも確実に1万倍以上、長年にわたって執拗に情報を発信してきている。
 これで本当に「それでも憲法改正に反対か?」と胸を張れると思っているのだろうか。ほとんど発狂している。
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 伊藤哲夫による、冒頭の総論・入門部分(といっても計17頁)を読んでみよう。明らかに、稚拙さあるいは誤りがある。
 伊藤は堂々と「憲法改正に関する基本認識と現状への視覚」と表題を掲げる。
 伊藤哲夫が指摘するのは、現日本国憲法には「国家」と「日本」が欠けている、ということ。これは、さすがに?、「日本会議」がその設立趣旨で謳っているのと同じで、かつ櫻井よしこが最近に現憲法・憲法改正にからめて言っていることとほとんど同じ
 もちろん、「国家」・「日本」の意味が問題になるが、先に進もう。
 第一。そのような欠陥の「淵源」を、アメリカの「占領政策」に求める。p.15。
 これは「日本会議」派によく見られる、<反米>ルサンチマン的心情の発露だ。
 <親米>外交政策を支持しつつ、この人たちには、<民族の栄光>を侵奪してしまった、侮辱したアメリカへの底知れぬ憤懣があるやに感じる。
 中川八洋がよくこの人たちを<民族系>と称するのは、根拠がないわけではない。
 ともあれ、しかし、①現日本国憲法の直接の「淵源」はアメリカでありマッカーサーだっとしても、現憲法の基礎にあるのは、天皇条項は別として、<リベラル・デモクラシー>という欧米的・近代的「国家・憲法」観であって、アメリカに限るのは、誤謬だ。
 アメリカ独立・連邦建設時の「国家・憲法」観とともにフランス革命時およびその前後以降の、<欧米思想>がはっきりと流れ込んでいる。三権分立(規範制定と執行の別、司法権の別置)、<自然権的「人権」>思想、等々。
 伊藤哲夫は、きちんと勉強したことがないのだろう。政策研究センター「代表」らしい程度には。
 現憲法の上の二つの欠落は「まさに占領政策に淵源する」。/「占領政策の影響をストレートに受けた」、「その帰結そのものがこの憲法になった」。p.15。
 上の認識、評価は誤りだ。
 また、②占領期のアメリカの対日政策は、1950年以前、すでに1947年頃には<変化>>している。九条の定めにしても、制定・公布時と比べて、国際・東アジアの安全保障・軍事環境はまるで変わっていた。だからこそ、<白色>パージから<レッド・パージ>へと公職追放対象は変わったし、日本政府も、憲法改正(とくに九条)をしないままで警察予備隊・保安隊を設立する方途へと進んだ。
 <アメリカの占領政策>と簡単に書き、「マッカーサー・ノート」を持ち出したりするのだけでは、決定的に時代認識が足りない。なぜその頃に憲法改正(とくに九条)しなかったのか、できなかったのかにも言及すべきだろう。
 幼稚、稚拙-伊藤哲夫。おそらくは、「日本会議」の幹部・活動家(櫻井よしこを含む)たちも。
 第二。伊藤哲夫は長々と欠陥住宅・耐震補強やゴルフの喩え話をする。p.18-22。
 せっかくの貴重な紙面を、退屈な話で埋めている。読者としてきっと、伊藤哲夫らと同等の読者を想定しているのだろう。
 しかし、こうした部分は、むしろ多くの読者を<馬鹿にする>ものだ。自分のレベルに合わせない方がよい。
 第三。いつぞや、<ただ、卑しい>と書いた。
 政治戦略的なテーマになるのだが、この人たち、伊藤哲夫らは、自分たちが<政治戦略>を考えていることを、明らかにしている。
 つまり<改憲に反対でない国会議員>が三分の二超を占めている、という国会の状況、そしておそらくは安倍晋三が首相である、というのを前提にしてだ。p.21-24。
 これを踏まえて、何とか<改憲>したい、または安倍晋三に<改憲>をさせたい。これこそが、この人たちの基本的パッション(熱情)だろう。
 このこと自体を批判しない。「左翼」・日本共産党のように<安倍による改憲反対>などとは思わない。
 しかし、問題なのは、卑屈になり、場合によっては日本共産党の<憲法解釈>に屈服してまで、つまりは合意が得られるようにハードルを下げて、<形式的でもいいから、改憲したい・させたい>という願望を実現しようとしていることだ。
 その結果として、九条二項存置のままでの三項・自衛隊明記論も出てきている。
 この案の行く末については、すでに書いた。
 結局のところは、<現実的に>これまでの「保守」の基本的考え・目標を投げ捨てることにつながっている。
 小林よしのりが自衛隊=非「軍・戦力」視を固定する「左翼」・「極左」の改憲案・考え方だと評したのも、ある程度は的を射ている。
 興味深いと思うのは、伊藤哲夫らは政治家でも国会議員でもないのに<政治戦略>を弄していることだ。
 この人たちは、いったい何者なのだろう。<策略家>か、<陰謀家>か。
 <保守>論者ならばそれらしく、スジを通すべきではなかったのか。
 しかもまた、その案は<現実的>でも何でもない。
 理想を70-80点だとすると、<現実的に>20-30点を獲得しよう、という案にも、実際にはなっていない。
 繰り返さないが、案への賛成・反対を論じる以前に、この案は実際には成文化できないだろう。現実の案にはならない、きっとつぶれるものだった、と思われる。
 伊藤哲夫や「日本会議」に対して冷たすぎるかもしれないが、秋月瑛二にもいろいろな経緯がある。
 もう少し別に触れよう。
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 二項存置・自衛隊明記案は、すでに政治的には消滅した可能性もないではない。
 8月の安倍首相による<内閣改造>は「お友だち内閣」という名の、実際には、正確には、「日本会議とつながった」内閣では危ないと安倍晋三が判断しての、「日本会議」隠し内閣改造だった(まだ少しは残っている)。
 2012年末の安倍晋三内閣誕生は、「日本会議」・産経新聞だけが生み出したのではなかった。
 しかし、安倍晋三内閣は、「日本会議」・産経新聞が崩壊させる可能性・危険性がある。
 そのように、政治的感覚が(樺島有三、伊藤哲夫、櫻井よしこらよりは)鋭い安倍晋三が判断した、という可能性があるだろう。
 2015年安倍内閣戦後70年談話を、産経新聞や「日本会議」がかりに批判していても、安倍内閣は倒れなかっただろう。朝日新聞らが基本的には反対できない「歴史観」を述べたからだ。
 しかし、一方で、産経新聞と「日本会議」派だけでは、安倍晋三内閣を支えることはできない
 安倍晋三は、ひょっとすればこの重要なことに、ようやく気づいたのかもしれない。

1552/R・パイプスとL・コワコフスキが隣に立つ写真から。

 ○ 世界中で、日本に限ってとしてすら、多数の人が生まれ、そして死んでいっている。
 それぞれの死は悲しいものに違いないが、世界中の、日本に限っても、全ての各人の死を嘆き悲しむことなどできるわけがない。
 一粒の涙ずつ流したとしても、一日で足りるのだろうか。
 所縁のない人々の死をいちいち考えていては、人は生きていけない。
 遺族にとっては突然の死(事故であれ自然災害であれ)もあれば、「大往生」と呼ばれる死もあるだろう。不条理な死も、きっとあるだろう。しかし、ほとんど圧倒的な場合について、<遺族>または関係者以外の人々は、いちいち考える余裕もなく、それぞれに生きている。
 こんなことを書きたくなったのも、一枚の写真を書籍の中でたまたま見た(たぶん初めて気づいた)のがきっかけだ。
 外国の、かつまた自分には私的な関係はこれっぽっちもない人々のことながら、その死を思って、涙が出た。
 Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non - Belonger (2003)。
 このp.133に、つぎの4名が立って、十字のように向かい合って何か語っている写真がある。1974年、イギリス・オクスフォードでのようだ。右から。中の二人の表情が最もよく撮れている。
 アイザイアー・バーリン(Isaiah Berlin)、リチャード・パイプス(Richard Pipes)、レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)、イタリアの歴史学者のフランコ・ヴェンチュリ(Franco Venturi)。
 最後の人だけ名前も知らなかったが、R・パイプスの初期の研究対象と同じく19世紀のロシア、および1789年以前のヨーロッパについて主として研究したようだ。以下、() は写真のときの年齢。
 Isaiah Berlin、1909.06~1997.11、満88歳で死去 (65歳)。
 Leszek Kolakowski、1927.10~2009.07、満81歳で死去 (47歳)。あの、L・コワコフスキだ。
 Franco Venturi、1914.05~1994.12、満80歳で死去 (60歳)。
 そして、Richard Pipes、1923.07~ (51歳)。
 前回に2015年2月付のR・パイプス著の「序言」に言及したが、そのときすでに、満91歳なのだった。
 そして、自分には私的な関係は一切ない人物だが、この人もいずれは亡くなるのだと思うと(自分も勿論そうだが)、涙が出た。
 誰もがみんな、いずれ死んでいく。
 ○ リチャード・パイプスについて書かれている日本語文献は、多くない。
 二冊の詳しく長い方の、ロシア革命とその後のスターリン直前までの書物には邦訳書がない。
 『共産主義の歴史』と素直に邦訳されてよいこの人のコンパクトな書物は、<共産主義者が見た夢>という、誰か特定の共産党員の個人的思い出話とも誤解されそうな邦題が付けられた邦訳書になっている。
 下村満子・アメリカ人のソ連観(朝日文庫、1988)は1983年初頭のR・パイプスインタビュー記事を載せていて、珍しく、かつ興味深い。
 もう一つ、上の Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non - Belonger (2003)の、詳しいわけではないが、貴重な書評記事が、以下にある。
 草野徹「気になるアメリカン・ブックス/28回」諸君!2007年11月号(文藝春秋)p.243-5。
 
草野徹はR・パイプスの書名を『私は生き延びた-自主的な思想家の回想録』と訳している。
 < a Non-Belonger >の意味がむつかしいところで、最初はどの党派にも属さない、つまりは社会主義や共産主義政党から独立した(自由な)者との意味かと思ったが、のちにはだいぶ離れて、ポーランド出自のこの人は20歳のときにアメリカに帰化してもなおも<帰属意識>をもてない、祖国ではない国に生きた、という意識からする言葉かとも思った(40歳頃に社会主義ポーランドを離れたL・コワコフスキについてもある程度はそういう問題の所在を指摘しうるのではなかろうか-多くの日本人には分かりにくい)。
草野は、同僚学者たちからも際立つほどの、つまり仲間がいないか極めて乏しい=帰属先のない学者、独立した<反共産主義・反ソ連>意識の持ち主だったことを、< a Non-Belonger >性だと理解しているようだ。たぶんこれで正しいのだろう。私はほとんど読んでいないので、判断しかねる。
 ともあれ草野徹の紹介によると、R・パイプスというのは、つぎのような考えの持ち主だ。
 「共産主義一般や特にソ連に対して否定的見解」に立つ。
 「スターリニズムはレーニニズムにその兆しがある」。
 「ソ連の残虐な独裁は、スターリンの個性の結果というより、ボルシェヴィキ革命の必然的結果である」。
 60年代の大学騒擾を「嫌悪しながら見詰め、マルクス主義の方法論を用いてソ連に共感する『修正主義者』と対立」した。
 あとは、R・レーガン大統領のもとでの安全保障会議補佐官の時代のことだ。
 R・パイプスは<対ソ連強硬派>だった。この点はこの欄でも触れている。
 草野によると、R・パイプスが嫌ったのは<対ソ連融和派>(秋月)とも言うべき「西側ジャーナリズム」で、これは「①ソ連は安定していて、外部から破壊はもちろん、体制変更はできない。②そんなことを試みれば、ソ連は硬化し、核戦争につながる危険がある」との前提で共通していた、という。
 草野は最後にまとめる-R・パイプスという「圧力行使で『悪の帝国』を倒せると考えた数少ない一人、時代におもねらない自主的な思想家」が、「歴史の歯車に油を差したと言えるかもしれない」と(さらに、「日本の学者」は ? と続けるが)。
 リチャード・パイプスの書物の試訳を行ったり、また部分的にだが(まるでポーランドのふつうの哲学者か東欧の怪談お伽話の作家のごとく日本では扱われているかもしれない)L・コワコフスキの著作を邦訳したりすることの意味は十分にある、と秋月は考えている。
 またさらに、<軟弱・融和・表向き平和>論でないR・パイプスの<強硬論>は、決して過去に関することではなく、現今の北朝鮮や中国に対する外交等の政策についてもある程度は参照されてよいと思われる(日本政府に何ができるかという問題はあるが)。
 民主党政権、オバマ大統領は、ぃったいどうだったのか ? また触れてしまうが、櫻井よしこは、大局を無視して、<トランプへのケチつけ>ばかりするのはやめた方がよい。
 ○ 日本とは違う<反共産主義>の思想・雰囲気がアメリカには大勢ではないにせよ強くある、ということは、「左翼」・対ソ連<融和>派の朝日新聞・下村満子も書いていた。
 1992年のソ連解体以前の文章だが、同・上掲書、p.614は言う。
 「アメリカ人の反共精神、対ソ不信感には、非常に根強いものがあり、これはほとんどアメリカの体臭といっていいほどのものだと私は考えている」。
 こう書きつつ、レーガンの反共・対ソ強硬姿勢はきっとうまく行きそうにないとの雰囲気で朝日新聞記者らしくまとめているのだが。
 ○ しかしともかくも、日本人は、日本とアメリカ等の違いを、共産党・共産主義に対する見方についても、本当はもっと実感しなければならないのだろうと思う。
 1992年以降、イタリア共産党はなく、フランス共産党も1980年にミッテラン大統領を社会党とともに生んだ力はまるでない。
 なぜ日本には日本共産党があって600万票を獲得し、隣国には「中国共産党」があるのか。
 北朝鮮のグロテスクな現況は、マルクス-レーニン-スターリン-コミンテルンと関係がないのか ?
 レーニン・スターリン・コミンテルン-金日成・金正日・…、ではないのか ?
 この点を、なぜ日本のメディアは明確に指摘しないのか。
 スターリン以降とは区別された、<レーニン幻想・ロシア革命幻想>が日本には「左翼」にまだ強く残ることについては、また何度も述べる。 

1425/「保守」とは何か-月刊正論編集部の愚昧②。

 月刊正論編集部作成の四分けマップと新聞社等の位置づけは、自己中心的なものだ。
 かりにこれによる二つの大きな基準によってすら、産経そして月刊正論は、前回でも触れたように、「歴史認識」問題では決して<自尊>派ではなく、大きく<自虐>派へと移行している。それは、2015年8月安倍談話以降、ぴたりと<歴史戦>と呼号( ?)しなくなったことでも分かるし、月刊正論の背表紙の文字のこの時点前後を比べれば一目瞭然だ。月刊正論編集部・菅原慎太郎らは、ごまかさない方がよい。
 また、自民党はこのマップではやはりどちらかというと「自尊派」に傾斜して位置づけられているが、実態は、少なくとも上の談話以降、読売新聞と同様の<リベラル保守>、月刊正論編集部による<自虐(保守)>派であることを明らかにしている。稲田朋美も下村博文も、おそらく誰も、自民党内では戦後70年談話に異議を挿まなかった。
 ほかにも難点はある。例えば、朝日新聞・毎日新聞が<対米不信>派に分類されているが、アメリカのメディアや同民主党政権の意向・考え方を利用して、いわば対米追随的に、日本の<自尊>派、または私のいう<保守・ナショナル>派を批判してきたことは周知のことだ。日本共産党と朝日新聞らをごっちゃにする月刊正論編集部の見方は、そもそも<対米協調>か<対米不信>かを大きな基準にすること自体が適切ではないことを示している。
 また、月刊正論編集部によれば、第4象限の<対米不信・自尊>派にはほとんど何も分類されなくなる。政党では辛うじて「日本のこころ」がこれに近いことが示されているにとどまる。
 だが、「保守」論壇人を見ると、「自由と民主主義はもうやめる」と書いた佐伯啓思や西部邁らの<表現者>グループは、月刊正論編集部のいう<対米不信・自尊>派だろう。
 そして、広義での「保守」が1・2・4の三象限を占めてしまい。いわゆる「左翼」は第3象限にしか位置づけられなくなる。
 現実は、保守対「左翼」が3対1ということはない。
 秋月瑛二の分類では、西部邁・佐伯啓思・西田昌司らの<表現者>グループは、<保守・ナショナル>派(第一象限)に位置づけられる。
 <自尊・自虐>という情緒的なものを大きな基準として採用していることのほか、<対米協調>か<対米不信>かを大きな基準として採用していることに、月刊正論編集部マップの致命的な欠陥がある。
 よほど月刊正論編集部と産経新聞は<対米協調>派であることを強調したいのだろう。
 月刊正論編集部の4つの分け方によれば、上が「対米協調」で下が「対米不信」。右が「自尊」で左は「自虐」。これで反時計回りに、象限に位置づければ、つぎのとおり。
 B/自虐・対米協調派 A/自尊・対米協調派
 C/自虐・対米不信派 D/自尊・対米不信派
 秋月瑛二の分類(前回のA~D)はたんに右から左へと並べたものではなく、上のような4象限化をすることも可能だし、そのように意図している。反時計回りに、第1~4象限。以下のとおり。もちろん、反共か容共かは大きな基準とされなければならない。
 B/リベラル・保守 A/ナショナル・保守
 C/リベラル・容共 D/共産主義(=ナショナル・容共)
 上半分はいわゆる保守、下半分はいわゆる「左翼」。
 左半分は<(欧米淵源の)自由・民主主義>派、右半分は、リベラル・デモクラシーをそのままは支持せず日本の特殊性を強調する、またはそれを(日本共産党のように)乗り越えようとする立場だ。
 D/共産主義に日本共産党だけが入るのではない。反日本共産党の日本の「共産主義」者たちがいることを知っている。但し、日本共産党に少なくとも限れば、この党は「アメリカ帝国主義」を大きな「敵」と見なす<民族=ナショナル>派的性格をもっていること、「民主主義」社会を超えた「社会主義・共産主義」社会を展望していること(単純なリベラル派ではないこと)を忘れてはいけない。

1382/共産主義の脅威と言論人。

 一 共産主義の脅威について、言論人の多くは触れたがらない。
 むしろ多少左翼的な姿勢を-それも過度ではなく-とることが、いまの世をわたる一番安全なみちであって、これはちょうど戦争前の昭和10年ころに、多少右翼的な姿勢を示すことが安全な処世術だったのと、似ているであろう。
 そういう態度を保っているかぎり、ジャーナリズムは衛生無害とみなしてくれる。
 しかし衛生無害の処世家で世の中が充満するとき、国はほろびるのである。
 流れに抗して、だれかがあえて憎まれ役を買って出なければならない。
 二 以上の5文は引用で、賀屋興宣・このままでは必ず起る日本共産革命(浪漫、1973)の冒頭にある序言の一つ、村松剛「共産主義はメシア宗教の一つ-序にかえて」の一部だ。
 2016年から見て40年以上前の文章だが、日本における「共産主義」と「言論人」の状況はほとんど変わっていないのではないか。
 1970年初頭の日本共産党の「民主連合政府」構想とその未遂、1990年代初めのソ連崩壊等にもかかわらず、日本共産党は延命しつづけており、「日本共産革命」(民主主義革命と社会主義革命という二段階の革命)の構想を党綱領を維持したまま、有権者から600万票(2016年参院選・比例区)を獲得している。
 三 保守派と言われる、または自称する言論人・論壇人の中ですら、「反共産主義」を鮮明にしている者はごくわずかにすぎない、という惨憺たる状況が現実にはある。
 いくら中国を、あるいは中国共産党の現在を批判しても、それはなぜか、日本共産党に対する批判にはつながっていない。意識的に日本共産党を名指しすることを避けているごとくですらある。
 いくら朝日新聞を、あるいは朝日新聞の「歴史」報道を批判しても、それはなぜか、日本共産党とその「歴史認識」に対する批判にはつながっていない。朝日新聞は日本共産党の「歴史認識」を知らずして、「歴史」に関する報道・主張をしているとでも思っているのだろうか。
 朝日新聞と日本共産党との関係に関心をもつ者は少なく、多くに見られる朝日新聞批判にもかかわらず、意識的に日本共産党を名指しすることを避けているごとくですらある。
 日本共産党に対する批判に向かうべき回路から別の回路へと、それ自体は必ずしも誤っているわけではない議論・主張であっても、それらを逸らす、大がかりな仕掛けができあがっているようだ。
 秋月の見るところ、産経新聞の主流派も、多数派の「保守」論壇人も、その大がかりな仕掛けに嵌まっており、かつそのことを意識していない。
 四 当然のごとく、自由民主党という政党の圧倒的多数派も、大きな仕掛けの中に入ったままだ。
 共産主義者は、権力維持のために、または権力掌握のために、要するに目的達成のためならば、何とでも言うし、何でもする。
 上のことは、維持したい「権力」を持った政治家にも多少ともあてはまるように思われる。
 権力の維持のために、権力維持期間を長くするために、元来は有していた「歴史認識」を言葉の上では-言葉・観念だけの過去に関する問題だと思って-捨ててしまう政治家が出てきても不思議ではない。
 もちろん、そのような政治家に「おべっか」して寄り添う出版社や論壇人もいる。阿諛追従。
 惨憺たる状況だ。
 五 賀屋興宣(1989~1977)は、1937年近衛文麿内閣の大蔵大臣、1941年東条英機内閣の大蔵大臣、いわゆるA級戦犯の一人で、終身刑判決により10年間収監されたのち、1955年に事実上の釈放、1958年総選挙で当選して衆議院議員、1963-64年池田勇人内閣法務大臣、1972年「自由日本を守る会」を組織。

1353/日本共産党の大ペテン・大ウソ20ー宮本顕治発言。

 1991年12月(ソ連邦解体)直後から1994年7月(第20回党大会)直前まで、日本共産党は曖昧ながらなおソ連を「社会主義」国と見ていたか、または明確な立場を示せず<混乱していた>、と思われることは既に何度か書いた。
 一 1991年12月21日のソ連邦解体の直前の12月17日にインタビュー・質問に対する回答であり、のちに前衛1992年3月号に掲載された宮本顕治の発言内容も、興味深いところがある。以下、日本共産党国際問題重要論文集24(1993)p.172-による。
 「党の崩壊につづいてソ連邦が崩壊しつつある」(p.182)時期のもので、宮本もソ連邦の崩壊(解体)を覚悟?しているようだ。そして、次のように言う。
 「レーニンのいった自由な同盟の、自由な結合がソ連邦になかったんだから、私たちとしてはもろ手をあげて歓迎とはいいませんが、これはこれとして悲しむべきことでもないし、また喜ぶべきでもない、きたるものがきたという、冷静な受け止めなのです」(p.182)。
 <悲しむべきことでも、喜ぶべきことでもない>、と言う。しかし、宮本顕治自身が、この発言のちょうど1年前には、「われわれはソ連の失敗は希望しないし、なんとかソ連も立ち直ってほしいと思う」と明言していたことからすれば、見地を修正した、と確言してよいだろう。
 1990年末には、ソ連の存続・回復について一縷の望みがあり、可能性もあると思っていたところ、党が解体し、ソ連邦解体も必至になった、という現実=<情勢の変化>が、この<修正>をもたらした、に違いない。
 興味深く、かつ同感できるのは、こうした回答の前提にある、個人名は明らかではないが、「朝日新聞外報部」によるつぎのような質問だ。朝日新聞を基本的には信頼しないが、当時でも適確な、今日でもなお意味のある問いかけだ、と考えられる。
 日本共産党は「赤旗」等でソ連共産党とは「同根」ではないと繰り返し主張しているが、「もし、よってたつ基盤がもともとまったく違う相手ならば、ソ連共産党にたいして『逸脱』だとか『誤り』だと批判するのはおかしい。社会主義の仲間と考えるからこそ、正常化のために理論闘争をつづけたのではないか」(p.185)。
 このあと「日本共産党の対応はいまのソ連の事態から噴き出てくる火の粉を振り払うというご都合主義ではないのか」、「この点についていかがでしょうか」と続いている。
 朝日新聞の記者が<ご都合主義>との批判を宮本顕治・日本共産党に対して向けていることも面白いが、上に引用の部分自体は、すこぶるまっとうなものだ。
 <30年にわたってソ連(の覇権主義等)とたたかってきた>というのは<大ペテン>だと何度も書いてきたが、まさにこのペテンぶりを暴露する問いかけに他ならない。
 再言すれば、かりにソ連邦がアメリカ等と同様の自由主義・資本主義国であるならば、その政権党が日本共産党に対してどのような「干渉」等を行なおうと、大仰に<大国主義、覇権主義>だとかといって闘うことを日本共産党はしなかっただろう。「社会主義の仲間と考え」てきたからこそ、日本共産党は1960年代からソ連共産党やそれを政権党とするソ連邦と闘ってきたのではないか? それを、ソ連邦解体が明白になってから、ソ連邦・同共産党の「誤り」に早くから気づき、指摘して「たたかって」きた、とヌケヌケと主張するのは、欺瞞であり、卑劣な<ペテン>に他ならない、と思われる。
 つぎに、上の問いに対する宮本顕治の回答も、興味深い。
 「同根などというのはまったくの見当違いの攻撃だ」(p.186)と反応して、宮本顕治は「同根」論を全面否定している。
  その理由としてまず「たとえば民族自決の問題です」と語られ始めていることも、宮本がレーニン期とスターリン以降期の違いとしてこの時点で何を考ええていたかを示すものとして、面白い。そして、宮本の趣旨は、スターリン以降のソ連と<同質>ではない、ということなのかもしれない。
 しかし、そもそもスターリン→ブレジネフ等々のソ連邦と日本共産党は、マルクスやレーニンの「血」をひいたもので、その意味で「同根」ではないのだろうか。
 なるほど、日本共産党が1994年7月の党大会で採択したソ連観からすれば、同じソ連邦といってもレーニン期とスターリン以降期とではまったく(質的に)異なる国家または体制であって、スターリン以降はレーニンと「同じ根」を持っていない(これに対して、日本共産党はレーニンの正嫡子?であり、レーニンの「根」から育っている)、と日本共産党は言うのだろう。
 問題は、そのような詭弁?が通用するかどうかだ。さらにまた、上のような主張(詭弁?)を日本共産党はいつから公式に語るようになったのか、だ。
 したがって、上に一部引用の1991年末の時点での宮本顕治発言は、分かりやすいものではないし、歯切れがよいとも感じられない。 
 二 再度引用になるが、1991年12.23の日本共産党常任幹部会「ソ連邦の解体にあたって」はつぎのように述べていた(上掲書p.204)。
 「大局的にいって、ソ連邦とともに解体したのは、科学的社会主義からの逸脱を特質としたゆがんだ体制であって、事態はいかなる意味でも、科学的社会主義の破綻をしめすものではない」(p.204)。
 ここでは、「科学的社会主義」という言葉が使われている。そして、1994年7月までの間、日本共産党は曖昧ながらソ連は「(現存)社会主義国」だったとの理解も示しているとともに、<「科学的社会主義」から逸脱していた>との理解も(上のように)示していることになる。
 あくまで推測になるが、この時期、日本共産党の幹部たちは、①スターリン以降すでにソ連邦は「社会主義」国ではなくなっていた、②スターリン以降のソ連邦もなおいちおうは「社会主義」国だったが、「科学的社会主義」からはすでに逸脱していた、の二つのいずれと理解するか、あるいは党員や国民向けにいずれと説明するかに、迷っていたのではなかろうか。あるいは、同じことだが、いずれと理解するかを明確にできなかった、のではないだろうか。
 上の②は、偽りのまたはふつうの「革新」ではない「真の革新」政党が日本共産党だというのと同じ言い方であり、ソ連は誤った「社会主義」国で、「真の社会主義」国ではなかった=「科学的社会主義」の国ではなかった、という言い方だ。
 だが、1994年7月に、日本共産党は上の②の論法を採用しないことに決めた。
 1930年代半ばにすでにソ連は「社会主義」への道から踏み外れていた=「社会主義」国ではなくなっていた、という歴史理解を採用することにしたのだ。これはこれで明確ではあるが、1991年以前に日本共産党が語ってきたこと、前提としてきたことと全く異なる歴史理解・ソ連理解ではある。その<変説>に対して批判が生じるのは、当たり前だろう。
 日本共産党は、状況に応じて、きわめて重要な、基本的な歴史「認識」すら、修正・変更する。むろん、今後もありうるだろう。
 <つづく>

1316/憲法学者の安保法案「違憲」論は正しくない-4。

 一 つまみ食いになるが、西尾幹二・同全集第11巻-自由の悲劇(国書刊行会、2015.06)の「後記」で、西尾は「立花隆、加藤典洋、姜尚中、内田樹、藤原帰一、中島岳志、加藤陽子、保阪正康、香山リカ」の名を挙げ、「いわゆる『リベラル派』と称せられる一群の勢力」の者たちについて、つぎのように語っている(p.747)。
 「彼らは専門知に長け、世界を詳しく知っているが、現実の判断となるとウラ目に出る」。
 「彼らには学問上の知識はあるが、判断力はなく、知能は高いが、知性のない人たちなのだ」。
 もともとは外国人移民問題に関する西尾の論敵およびその「後続部隊」の者たちについての文章なのだが、<リベラル派>憲法学者・長谷部恭男に対する指摘としても読めなくはない。
 戦後教育の優等生としての長谷部恭男は、「専門知に長け」、「学問上の知識はあるが」、「現実の判断」・「判断力」はじつに乏しいのではないだろうか。安倍内閣による憲法解釈の変更の背後にある「現実」=安全保障環境の変化については別に扱う。
 二 日本共産党機関誌・前衛2015年7月号に、安保法案を批判する日本共産党・志位和夫の最近のテレビ発言類が資料として掲載されている。それによると、志位はいわゆる新三要件の第一の<存立危機事態>の認定について、こう述べて批判している。
 「明白な危険」かどうかを「判断するのは政府なんです」、「政府の一存で広がっていくわけですね」(p.54)。
 これがなぜ批判となるのか、さっぱり分からない。<存立危機事態>に該当するかを認定するのは「政府」であってなぜいけないのだろうか。最高裁(長官)であれば、あるいは国会(・両院議長?)であればよいとでも日本共産党は主張しているのだろうか。まずは「政府」が判断・認定せざるをえないのは当たり前のことだろう。
 にもかかわらず日本共産党が問題視しているのは、「政府」として安倍政権のような自民党中心内閣を想定しているからに他ならないだろう。そして、安倍政権は適切にこの具体的「判断」を行なわず、濫用するに違いない、という予断と偏見を持っているのだ。このような、思い込み・予断を前提にしているかぎり、まともな批判になるはずがない。もっとも、日本共産党からすれば、安倍晋三を首班とする内閣は、アメリカとともに「二つの敵」である日本の大企業(独占資本)の利益に奉仕する内閣なので、日本共産党の基本方針(綱領)自体が歪んでおり、まともなものではないことに由来することではあるが。
 このような、「時の政府」の恣意的判断によることとなるという批判は、日弁連会長・村越進の昨年の抗議声明にも見られる。いわく-「…等の文言で集団的自衛権の行使を限定するものとされているが、これらの文言は極めて幅の広い不確定概念であり、時の政府の判断によって恣意的な解釈がされる危険性が極めて大きい」。
 そしてまた、前回に述べたように、長谷部恭男の批判の仕方とも同じだと言える。長谷部が読売オンライン上の一文で最も強く表明していたのは、「現在の政府」あるいは「時々の政府」に対する不信だった。
 日本共産党(・党員憲法学者)のような教条的議論はせず、共産党中央からの<指示>とも無関係だろう長谷部恭男の<非共産党・リベラル>意識は尊敬しなければならないかもしれないが(?)、しかし、一見アカデミックな装いをもって語られる内容は、上のように日本共産党の<政治的>主張と同一だ。民主党や共産党の「政府」ならば信じられるかと問いたくなるような感情的な批判の仕方は「学問」とは言い難いだろう。
 なお、この欄に掲載しているが、2015.06.09政府見解は、新三要件は「いかなる事態においても、我が国と国民を守ることができるように備えておくとの要請に応えるという事柄の性質上、ある程度抽象的な表現が用いられることは避けられないところである」と述べたうえで、具体的「判断」について、さらにつぎのように述べている。
 「ある事態が新三要件に該当するか否かについては、実際に他国に対する武力攻撃が発生した場合において、事態の個別具体的な状況に即して、主に、攻撃国の意思・能力、事態の発生場所、その規模、態様、推移などの要素を総合的に考慮し、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性、国民が被ることとなる犠牲の深刻性、重大性などから客観的、合理的に判断する必要があり、あらかじめ具体的、詳細に示すことは困難であって、このことは、従来の自衛権行使の三要件の第一要件である「我が国に対する武力攻撃」に当たる事例について、『あらかじめ定型的、類型的にお答えすることは困難である』とお答えしてきたところと同じである」。
 三 長谷部恭男は憲法審査会で参考人として、今次の安保法案が拠る憲法解釈は①従来のそれとの<論理的整合性を欠く>、②<立憲主義を害する>、と述べたらしい。
 この①についてはすでに触れた。1972年政府答弁書が示した「基本的な論理」は維持されており、批判はあたらない。
 上の②は、長谷部が述べたという<法的安定性を害する>という批判と、まったくかほとんど同じだと見られる。
 結局のところ、長谷部恭男の頭の中では<集団的自衛権行使否認>=憲法九条の規範的意味、という観念がこびりついてしまっているので、<集団的自衛権行使容認>の解釈に変更することは憲法違反=立憲主義違反であり、したがって<法的安定性を欠く>ということになる、というだけのことだ。
 長谷部恭男が1972年以降の数多くの政府答弁・内閣法制局見解を丁寧に読んで堅く信じてきた(?)憲法九条の規範的意味、自衛権にかかる憲法適合的解釈、が崩されたがゆえに立腹し、長谷部の内心での「法的安定性」が揺らいでいる、のだと思われる。
 すでに書いたようなことだが、<よい子の僕ちゃんは政府が40年以上も集団的自衛権行使は違憲と言ってきたのでギリギリそうだろうと信頼しそう解釈してきたにもかかわらず、急にそれを変更してよい子の僕ちゃんの『憲法』の意味を変えるなんて、勝手なルール破りで、よい子の僕ちゃんの内心の(精神的)安定性をひどく害する>と喚いているようなものだ、と表現できる。<信じた私が悪いのよ>という類ではないか。
 政府の憲法解釈は変更しうる。産経新聞記者の中では信頼度の高い阿比留瑠比は産経新聞6/18付の紙面で、民主党・枝野幸男は2010年6月に朝日新聞のインタビューに答えて「行政における憲法の解釈は恣意的に変わってはいけないが、間違った解釈を是正することはあり得る」と語った、と記している。また、菅直人内閣官房長官・仙谷由人は当時に「憲法解釈は政治性を帯びざるを得ない。その時点で内閣が責任を持った憲法解釈を国民、国会に提示することが最も妥当な道だ」と語ったらしい。憲法解釈が一般に「政治性」を帯びるとは断じ難いだろうが、枝野、仙谷発言の基本的趣旨は、妥当なところだ。こうした<憲法解釈観>が奇妙であるならば、民主党内閣時代に憲法学者たちは批判の声を大きく上げるべきだった(そこで阿比留瑠比の文章のタイトルは「民主政権に甘かった憲法学者」となっている)。
 ところが、朝日新聞6/12によると、憲法学者・駒村圭吾(慶応大学)は、「1972年の政府見解はすでに『憲法の重み』を持っている」と発言している(聞き手・二階堂友紀)。これには驚いてしまった。こうまでただの政府見解の法的意味が高められては、その政府見解にとっては有難迷惑だろう。
 この駒村という憲法学者はおそらく、今次の法案を批判するために政治的・戦略的に1972年政府見解は「憲法の重み」をもつと言っているのだろう。そして、この政府見解を変更するためには、何と「憲法改正」が必要だとまで述べているのだ。
 一般論として、古い政府見解は新しい政府見解にもとづく法律の制定・変更によって、当然に変更される。政府見解よりも国会の憲法解釈の方が優位する。憲法改正を待つまでもない。
 朝日新聞に登場するのだから(朝日新聞が登場させるのだから)当然なのかもしれないが、この駒村圭吾がまともな憲法学者だとはとても思えない。かつての内閣の憲法解釈がなぜ「憲法の重み」を持つのだ。馬鹿馬鹿しいほどだ。 
 さらに続ける。  

1313/安保法案「違憲」論は憲法学者の「学問」か-1。

 しばらく、安保法制整備法案に対する<違憲論>について、それに対する批判的コメントを続けてみよう。
 池田信夫がいうように非専門家または一般国民からすれば「神学」的な、魑魅魍魎の?議論かもしれないが、一部憲法学者さまたちの「違憲」論が一種の<政局>的現象を生じさせているとあっては、無視するわけにはいかない。
 一 まず、そもそも現憲法九条の条文・文言と現在提出されている、「集団的自衛権行使容認憲法解釈」を前提とするという今次の安保法制整備法案とを比較対照させて、簡単にあるいは断定的に<違憲>だと言えるのだろうか、という疑問がわく。一般国民的感覚からすれば、そのことこそが奇妙に感じられる。憲法学者というのは、条文・文言の背後にある規範的意味内容をさほどに明確に取り出せる魔術を持ち、トリックを使える者なのか。
 現憲法は「自衛(権)」という語を用いず、そのための実力行使・それを行なう組織についての言及もしていない。そのことから、いかなる(日本の主権、国土と国民の安全を守るための)「自衛」措置も、「自衛」組織の設立も違憲だと断じるのならば、問題は簡単だ。今次の法案は「自衛」権、そして「自衛隊」の存在を前提としているがゆえに、ただちに違憲となる。
 しかし、言うまでもなく、長谷部恭男たちや昨年07月の「集団的自衛権行使容認閣議決定」への抗議声明に参加した(そして今次の法案にも反対している)憲法学者たちは、上のような立論をしているわけではない。
 とすれば、そしてこの学者たちが憲法解釈上も日本国家に固有の(自然の)「自衛権」を否認していないとすれば、その「自衛権」の行使の程度・範囲・態様等々について、どこまでが合憲で、どこからが違憲なのか、という線引きをしていなければならなくなる。
 長谷部恭男、小林節、笹田榮司および森英樹、樋口陽一らの憲法学者たちは、上の問題についての自らの憲法解釈およびその適用の具体例を、憲法学者ならば積極的に示すべきだろう。そのことをしていないとすれば、学者の怠慢なのではないか。
 二 もちろん、憲法学者のかなり多くが、もともとは自衛隊設置(法律)から始まって、いわゆる有事立法・周辺事態法、自衛隊イラク派遣法等々に反対してきており、その際に当然ながら憲法九条との抵触を指摘してきたことを知っている。つまり自分たちの上の点についての憲法解釈・適用を積極的に示すというよりも、自民党を中心とする(自衛隊設置はそれ以前の<保守>諸政党だが)政権側の諸法律案に反対する・制定に抵抗することに力を注いできたことは分かる。その際に、今次にも見られるように、いわば防戦的に、言葉・概念にかかわる細かな指摘・主張をするとともに、<時の政権の恣意的な解釈を許す>、<「戦争」に巻き込まれるおそれがある>等々と憲法学者たちも述べてきたのだった。
 自衛隊も、有事立法等々も、もちもと「左翼」憲法学者たちにとっては違憲だったのではないか? また、これらの諸法律は、何らかの内閣による<憲法解釈>=「政府解釈」を前提として、その「政府解釈」を立法府・国会による<憲法解釈>にしてきたものだった。もはやたんなる「政府解釈」ではなくなっている。国会も行なったいわば「国会解釈」になっている(これを覆すことができるのは裁判所、とくに最高裁判所だけだ)。
 上の二点はとりあえずさておき、再び論及するだろう。
 三 北側一雄(公明党副代表)が6/11の衆院憲法審査会で語ったらしいように、自衛隊そのものや安保条約ではなく「憲法9条と自衛措置の限界について突き詰めた議論」が憲法学界・憲法学者たちの間でなされてきた、とはとても思えない。上述のように、<「自衛権」の行使の程度・範囲・態様等々について、どこまでが合憲で、どこからが違憲なのか>という問題に積極的に回答することを憲法学者たちはしてこなかった、と思われる。そして、たんに自民党・政府側の動き・法案は憲法九条(・その精神)に反して違憲だとか、違憲の疑いがある、とか言ってきたわけだ。
 この機会に、この欄に引用・掲載している日本共産党系憲法学者たちの2014.07声明にも言及するが、この声明をあらためて読むと、「集団的自衛権行使容認」は憲法九条違反だとは明確には、または断定的には述べていないことに気づく。
 長年にわたって継続した政府解釈を変更するのは「国民的議論」を欠いた「暴挙」だとか、「従来の政府見解から明白に逸脱」だとか言って批判しているが、とくに後者について言えば、政府解釈を<変更>すると安倍内閣は明言しているのだから、従来の政府解釈から「逸脱」するところがあるのは当然で、何ら批判になっていない(原文作成者は頭が悪いのではないか)。
 そして、「憲法9条の根本的変質」に他ならないとも言っている。ここで憲法九条が登場するが、この表現は、現憲法九条に違反する、と明言するものではなく、それよりも弱い表現だ。要するに、この声明ですら、集団的自衛権行使容認は憲法九条違反とは明言・断定していないとも解される。
 では、長谷部恭男らは、今次の、上の解釈にのっとった(そして従前から予定されていた)安保法案は<違憲だ>となぜ、明言・断定できるのか。
 ここで、いわゆる個別的自衛権と集団的自衛権の区別の問題が出てくる。
 四 長谷部恭男は6/04の憲法審査会での発言ののち、6/09の<読売オンライン>上の「国民の生死”をこの政権に委ねるのか?/集団的自衛権―憲法解釈変更の問題点」で、自らの見解を記している。
 かかる論考を掲載する読売新聞はさすがに太っ腹で(?)、例えば「憲法学者が見た審査会」という小特集で、長谷部を擁護する憲法学者のみを二人登場させて、そのインタビュー内容を掲載している6/12の朝日新聞とは大違いだ。
 上のことはさておき、長谷部恭男は上の中で「タバコ」吸引のことを例に挙げたあとで、集団的自衛権行使否認という従来の憲法解釈の変更は「立憲主義を覆す」ものだ、とまで述べている。こういう批判の仕方は上記の日本共産党系学者たちの声明の中には明記されていないようだが、しばしば見られる。また、長谷部恭男は、憲法審査会で、<法的安定性を害する>とも語ったようだ。
 「タバコ」吸引のことを例にとれば、長谷部恭男の言っていることは、次のような、「僕ちゃんよい子」のダダッ子の言葉のようだ。
 <長い間、タバコ喫煙は20歳にならないと許されないと執拗にかつ厳しく言われて、そのとおりだと納得してじっと我慢してきたのに、急に18歳から喫煙可能だと言うなんて、僕が従ってきたルールを勝手に破るもので、僕の内心の(精神的)安定性をひどく害するものだ。
 もちろん、もっと説明が必要だ。次回に行なう。

 
 

1309/日本共産党は「河野談話」を全面擁護し「性奴隷制」を認定する論点スリカエで朝日新聞を応援する。

 先に(この欄の6/02で)「慰安婦」にかかる歴史関係団体声明と日本共産党・小池晃等の発言の対応関係を見たのだったが、小池晃等の発言は、当然のことながら日本共産党の公式見解の範囲内のものだ。また、歴史関係団体声明が、日本共産党の見解に添ったものであることもほとんど明らかだ、と考えられる。
 以下、志位和夫・戦争か平和か-歴史の岐路と日本共産党(新日本出版社、2014.10)を、諸資料を載せているものとして用いる。
 日本共産党幹部会委員長・志位和夫は、2014年06月02日に「日本軍『慰安婦』問題アジア連帯会議」でこう述べた。しんぶん赤旗2014.06.04掲載。
 ・河野談話「見直し」論は、①「日本軍『慰安婦』問題の一番の核心部分である『慰安所』における強制性」=「性奴隷」にされたことに「ふたをして」、「強制連行があったか否か」に「問題を矮小化」し、②「強制連行を裏付ける公文書があったかいなかに、さらに問題を二重に矮小化する」。
 ・安倍政権に以下を要求する。①「性奴隷制」の「加害の事実」を認め、謝罪すること。②軍「慰安婦」問題がなかったとする論に対して明確に反論すること。③被害者に賠償すること。④子孫に伝えるため、この問題に関する「歴史教育」を行なうこと。
 2014年03月14日に「内外記者」からの質問に答えるかたちで、志位は以下のことを述べた。しんぶん赤旗2014.03.17掲載。
 ・「日本軍『慰安婦』制度」は、「軍の統制・監督下の『性奴隷制度』」で、「性奴隷制度」の中でも「最も野蛮でむき出しの形態のもの」だった。
 ・河野談話否定論に対しては、「今日発表した見解」で反論を尽くした。
 「今日発表した見解」とは、「歴史の偽造は許されない-河野談話と日本軍『慰安婦』問題の真実-」と題する相当に長文の、志位の以下のような見解だ。しんぶん赤旗2014.03.15掲載。以下は、基本的な構造のみ。
 ・河野談話はつぎの五つの事実を認定した。①「慰安所」と「慰安婦」の存在、②「慰安所」の設置・管理への「軍の関与」、③「慰安婦」とされる過程が「本人の意思に反して」いた=「強制性があった」、④「慰安所」における「強制性」=「強制使役の下におかれた」、⑤日本人以外の「慰安婦」の多数が朝鮮半島出身で、募集・移送・管理等は「本人の意思に反して行われた」=「強制性があった」。
 ・河野談話「見直し」派は上の③のみを否定して談話全体を攻撃する。本質・最大の問題は、「本人の意思で来たにせよ、強制で連れて来られたにせよ」、軍「慰安所」に入れば「監禁拘束され強制使役の下におかれた」「性奴隷状態とされたという事実」だ。
 ・上の③の事実認定には根拠がないという批判は成り立たない。
 以上で要約的紹介を終える。
 明瞭であるのは、日本共産党が③の問題から④の問題へと、つまり<女性の人権侵害>の問題へと論点をスリカエていることだ。これはのちの日本共産党・山下芳生発言にも見られた。そして、2014年8月に朝日新聞が行なったことでもある。朝日新聞の記事をまとめた者たちは、この日本共産党・志位和夫の見解をおそらく知っていたものと思われる。そして、それを十分に参考にしたのではないか。
 ④については、「本人の意思で来たにせよ、強制で連れて来られたにせよ」と、入所自体は「自由意思」であった場合のあることを肯定していることは興味深い。、
 それはともかく、河野談話の原文に比べて日本共産党・志位の表現はより悲惨な印象を与えるものになっている。すなわち、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいもの」だった。→軍「慰安所」に入れば「監禁拘束され強制使役の下におかれ」、「性奴隷状態とされた」。
 また、もともと、河野談話のいう、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいもの」だったという簡単な一文が正確にまたは適切に「慰安所」での「慰安婦」の状態を叙述しているか、という問題があるだろう。はたして、志位のいうように「監禁拘束され強制使役の下におかれた」というものだったのか。
 つぎに、上のように日本共産党・志位は③で「慰安婦」とされる過程が「本人の意思に反して」いた=「強制性があった」とまとめているが、この部分の河野談話の原文は、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」、というものだ。
ここにも見られるように、また志位も「強制性があった」とだけ述べているように、第一に、「慰安婦」とされる過程がすべて「本人の意思に反して」なされたとは河野談話は述べておらず、「本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあ」ったと言っているにすぎない。割合としての「数多く」なのか、絶対数が少なくないという意味なのかも曖昧だ。第二に、河野談話は「官憲等が直接これに加担したこともあった」と述べているだけで、「慰安婦」とされる過程の「強制性」が全体として日本軍(・国家)の行為を原因とするものだとは述べていない。また。「官憲等」と「等」を付けて、「加担」者が日本軍(・国家)だと断定しているわけでもない。
 要するに、河野談話は、1.一般的に「強制」性を認めたものとは言い難い、2.その「強制」なるものが全体として日本軍(・国家)の行為によるものだったと述べているわけでもない。
 日本共産党・志位は、「慰安婦」となる過程は<軍による強制>と明言しないでたんに<強制性があった>と述べつつ、じつはすべてが<軍による強制>があったという印象・イメージを生じさせようとしている。概念操作・論理展開において、<卑劣>なところがある。
 むろん、河野洋平もいけない。談話発表後に、朝日新聞の記者によるものだったのだろう、<強制があったと認めるのか>という質問に、<そのように理解してもらってけっこうだ>旨を答えてしまったのだから。
 この③の部分の重要な基礎だった吉田清治証言の内容を、朝日新聞は2014年08月に事実でなかったとした。ここで紹介した志位見解はこれよりも前の時期に語られている。そして、前回に記した小池晃発言は、吉田清治証言が崩れても③の事実が否定されはしないと、これまたほとんど朝日新聞と同様に、<強弁>していることになる。
 なお、「強制」=<悪>という語感でもって「強制」という概念が使われているようだが、法律にもとづく(適法な)「強制」もあれば、一般的・包括的な<自由意思での合意・契約>にもとづく個別の「強制」の受忍というものもある。このあたりは改めて記してみたい。「強制」という概念の整理も必要だ、とかねてより感じている。

1305/長谷部恭男は九条改正反対論者、「人選ミス」では済まない。

 「人選ミス」では済まないだろう。
 6/04の衆院憲法審査会で、与党等(自民党・公明党・次世代の党)の推薦で参考人となった長谷部恭男は、安保法制整備法案について、「憲法違反」だと言い切った。
 産経新聞社のネット情報によると長谷部を選んだのはまずは衆院法制局のようだが、もちろん自民党等の委員、船田元や北側一雄(公明党)らが了解しないと参考人になれるはずがない。
 長谷部恭男はひっょとして、依頼を受けて驚くとともにほくそ笑んだのではなかろうか。
 長谷部は特定秘密保護法案には反対を明言しなかったようだが、憲法九条の改正については、<志は低い>とはいえ、明確な<護憲>つまり改憲反対論者だ。このことは、この欄でも紹介してきた。
 また、2005年の<NHKに対する安倍晋三ら政治家による圧力>という朝日新聞の記事が問題視されたあとの第三者的検証委員会のメンバーとして朝日新聞には<優しい>報告書作成に関与し、今年2015年4月にはNHK「クローズアップ現代」の<やらせ>問題でも調査委員会の一員となってNHKには<優しい>報告書をまとめた。もともとは、民主党が推薦したらしい小林節の方が<より保守的>であり、長谷部は小林節よりも<左>の人物なのだ(東京大学→早稲田大法という履歴でもすでにある程度は分かってしまう)。
 このような人物が、今次の安保法案は合憲ですと発言してくれると思っていたのだろうか。信じ難い。
 長谷部恭男は昨2014年夏の、日本共産党系「左翼」憲法学者たちの集団的自衛権行使容認閣議決定に対する反対声明に参加してはいない。純粋な日本共産党的な(教条的な?)「左翼」ではない。だが、そのような「左翼」学者もまた多いのであって、この声明に加わっていないことが集団的自衛権行使容認解釈は合憲と理解していることの保障には全くならないことは自明のことだろう。木村草太(首都大学)もまた、非共産党系「左翼」憲法学者のようだ。
 船田元は「ちょっと予想を超えた」と言ったらしいが、マヌケにもほどがある。憲法学者の中にまともな人物が少ないのは残念なことだが、それでも、自民党内で憲法改正を扱う中心的な人物の一人であるならば、憲法学界の状況、どういう学者・大学関係者が憲法改正、とくに九条2項改正に明確に賛成しているのかぐらい、きちんと把握しておくべきだろう。
 維新の党が安保法制についてどういう立場なのかは知らないし、同党の人選結果についての反応も知らない。だが、同党が推薦したらしい笹田栄司(現早稲田大)についても、長谷部恭男についてとほぼ同様なことが言えそうだ。
 どうやら、国会議員の方が、現実の憲法学界の動向・雰囲気を知らないという<浮き世離れ>した世界に生きているようだ。それはひょっとすれば、<保守>派・<改憲>派の人々にもあてはまるのではないか。

1302/歴史関係団体「性奴隷」声明と日本共産党。

 一 歴史科学協議会(れっかきょう)などの歴史関係団体の2015.05.25声明は、<日本軍による「慰安婦」強制連行>は「事実」だとしていわゆる河野談話を擁護するとともに、朝日新聞や元記者の植村隆を明確に応援している。
 その場合に「強制」はどのような意味で理解されているかが問題だが、次のように述べている。
 「強制連行は、たんに強引に連れ去る事例(…)に限定されるべきではなく、本人の意思に反した連行の事例(朝鮮半島をはじめ広域で確認)も含むものと理解されるべきである」。
 また、「慰安婦」とされた女性は「性奴隷」だったと述べたのち、次のように述べている。
 「近年の歴史研究は、動員過程の強制性のみならず、動員された女性たちが、人権を蹂躙された性奴隷の状態に置かれていたことを明らかにしている。さらに、『慰安婦』制度と日常的な植民地支配・差別構造との連関も指摘されている。たとえ性売買の契約があったとしても、その背後には不平等で不公正な構造が存在したのであり、かかる政治的・社会的背景を捨象することは、問題の全体像から目を背けることに他ならない」。
 つまり、「動員過程の強制性」がある場合のみならず、「たとえ性売買の契約があったとしても」、背後の「不平等で不公正な構造」・「政治的・社会的背景」を捨象しないで理解すれば、「強制」だった、と言っているようだ。
 このような「強制」概念の用法は、当初の概念の拡大・変質であり、かつ問題の本質をはぐらかすものだ。
 すなわち、もともとの問題・争点は、日本国家・日本軍による<慰安婦>とするための女性の「強制」連行があったか否か、もう少しだけ広く言っても、日本国家・日本軍によって<慰安婦>となるよう「強制」された女性がいたか否か、だったはずだ。
 にもかかわらず、この声明では、「本人の意思に反した連行」はすべて日本国家・日本軍によるものであるかのような不当な叙述をしており、また、背後に「日常的な植民地支配・差別構造」がある場合の「性売買の契約」もまた日本国家・日本軍による「強制」だったと理解している。
 ほとんどが日本共産党系団体だと思われるので別に驚きはしないが、「本人の意思に反した連行」はすべて日本国家・日本軍の「強制」、そして私人間の契約(あるいは私人間の勧誘・働きかけ等)であってもすべて日本国家・日本軍の「強制」だったというのだから、無茶苦茶だ。とても「歴史」を正視しているとは思えない。
 二 このような声明がなぜ出されのか。おそらくは、日本共産党中央による、歴史関係団体に属して役員等になっている同党構成員=日本共産党員に対する働きかけがあったものと思われる。したがって、たんに日本の大学の文科系学部の実態を問題視するだけでは足りないようだ。
 2014年08月以降、ネット情報によると、日本共産党の小池晃らは、次のような発言をしている。
 2014.08.10のフジテレビ番組で小池晃-「(「慰安婦」問題で問われている)強制性というのは、無理やり連れて来たかどうかという手段だけの問題ではない。甘言や人身売買などで、本人の意思に反して連れてくれば、それは強制です」。これは後日、新聞・赤旗に掲載されている。
 この部分は、上の声明における「強制」概念の用法とほとんどか全く同じだ。
 「甘言や人身売買などで、本人の意思に反して連れてくれば、それは強制」だ、というのは一瞬は分かりやすい表現かもしれない。<意思に反して=強制して>というのは通りやすいかもしれない。しかし、問題の本質は、「甘言や人身売買などで、本人の意思に反して連れてく」ることが日本国家・日本軍によってなされたか否かだ。日本共産党・小池晃の発言にはゴマカシ、あるいはペテンがある。
 なお、2014.10.21の国会委員会で山下芳生-「ひとたび日本軍『慰安所』に入れば、自由のない生活を強いられ、強制的に多数の兵士の性の相手をさせられた、性奴隷状態とされた事実は、動かすことができない」。
 ここでは「慰安所」内のことに「強制」という語が使われている。これまた、問題の本質をゴマカすものだ。
 ややはずれるが、このような言い方をすれば、当然に、小池晃や山下芳生は日本共産党(の上位者)によってこのような発言をするようにきっと「強制」されたのだろう、ということになる。
 三 というわけで、必ずしもはっきりはしないが、上の声明と日本共産党・小池晃発言は対応している。
 日本共産党・小池の発言内容を支持し補強するために歴史関係団体の声明が使われている、という見方をすることは不可能ではない。
 また、あらためて言えば、重大なのは、上の声明が「強制」の有無の判断に、「日常的な植民地支配・差別構造」、背後の「不平等で不公正な構造」、かかる「政治的・社会的背景」を持ち込んでいるこんでいることだろう。
 こんな論法を採ることが許されるならば、戦時中の現象はすべて日本国家・日本軍の「強制」だったということも可能になってしまう。呆れてしまう物言いだ。
 さらには、次のようにも言える。上の声明は、<戦後日本>の現在の、日本共産党が公然と存在する「政治的・社会的背景」のもとで、日本共産党によって「強制」されたものだ。そのような「強制」に喜んで従っているのかもしれないが。

1301/資料・史料/2015.05.25「慰安婦」問題歴史学関係団体声明。

 「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明

 『朝日新聞』による2014年8月の記事取り消しを契機として、日本軍「慰安婦」強制連行の事実が根拠を失ったかのような言動が、一部の政治家やメディアの間に見られる。われわれ日本の歴史学会・歴史教育者団体は、こうした不当な見解に対して、以下の3つの問題を指摘する。
 第一に、日本軍が「慰安婦」の強制連行に関与したことを認めた日本政府の見解表明(河野談話)は、当該記事やそのもととなった吉田清治による証言を根拠になされたものではない。したがって、記事の取り消しによって河野談話の根拠が崩れたことにはならない。強制連行された「慰安婦」の存在は、これまでに多くの史料と研究によって実証されてきた。強制連行は、たんに強引に連れ去る事例(インドネシア・スマラン、中国・山西省で確認、朝鮮半島にも多くの証言が存在)に限定されるべきではなく、本人の意思に反した連行の事例(朝鮮半島をはじめ広域で確認)も含むものと理解されるべきである。
 第二に、「慰安婦」とされた女性は、性奴隷として筆舌に尽くしがたい暴力を受けた。近年の歴史研究は、動員過程の強制性のみならず、動員された女性たちが、人権を蹂躙された性奴隷の状態に置かれていたことを明らかにしている。さらに、「慰安婦」制度と日常的な植民地支配・差別構造との連関も指摘されている。たとえ性売買の契約があったとしても、その背後には不平等で不公正な構造が存在したのであり、かかる政治的・社会的背景を捨象することは、問題の全体像から目を背けることに他ならない。
 第三に、一部マスメディアによる、「誤報」をことさらに強調した報道によって、「慰安婦」問題と関わる大学教員とその所属機関に、辞職や講義の中止を求める脅迫などの不当な攻撃が及んでいる。これは学問の自由に対する侵害であり、断じて認めるわけにはいかない。
 日本軍「慰安婦」問題に関し、事実から目をそらす無責任な態度を一部の政治家やメディアがとり続けるならば、それは日本が人権を尊重しないことを国際的に発信するに等しい。また、こうした態度が、過酷な被害に遭った日本軍性奴隷制度の被害者の尊厳を、さらに蹂躙することになる。今求められているのは、河野談話にもある、歴史研究・教育をとおして、かかる問題を記憶にとどめ、過ちをくり返さない姿勢である。
 当該政治家やメディアに対し、過去の加害の事実、およびその被害者と真摯に向き合うことを、あらためて求める。
 2015年 5月25日
 歴史学関係16団体
 日本歴史学協会/大阪歴史学会/九州歴史科学研究会/専修大学歴史学会/総合女性史学会/朝鮮史研究会幹事会/東京学芸大学史学会/東京歴史科学研究会/名古屋歴史科学研究会/日本史研究会/日本史攷究会/日本思想史研究会(京都)/福島大学史学会/歴史科学協議会/歴史学研究会/歴史教育者協議会
    

1291/幻想・妄想と正気-門田隆将・西尾幹二。

 一 もう1カ月以上前になったが、産経新聞4/19付の門田隆将「新聞に喝!/本当に『右傾化』か、いまだ左右対立をいう朝日」はほとんどそのとおりだと感じさせ、かつ示唆に富むものだった。
 統一地方選の結果を受けての朝日新聞4/13社説を素材にしているが、今日(現在・現代)についての一般論的叙述でもある。
 門田によれば、もはや「左右対立」の時代ではない、対立しているのは「空想と現実」だ。あるいは、「空想家、夢想家(dreamer)」と「現実主義者(realist)」の対立だ。
 したがって朝日新聞がいまだに「右傾化」という論評の仕方をするのは、「時代の変化に取り残され」ている、という趣旨でまとめられている。
 門田が「1989年のベルリンの壁崩壊以降、左右の対立は、世界史的にも、また日本でも、とっくに決着がついている」とか、自社両党による「55年体制」的思考の時代ではもはやない(旨)とか書いているのは、とくに前者はそのままでは支持できないことは何度も書いた。
 しかし、対立は<左右>あるいは<左翼と保守>といった「思想」または「イデオロギー」にあるのではない、という基本的な趣旨は、最近はとくに共感するところがある。
 門田が「空想家、夢想家」と「現実主義者」の対立を“DR戦争”とも言えるとしているのは、熟していない概念・用語だ。それはともかく、現在の日本での議論の基本的な対立は、かなりの部分、<考え方によっていろいろ>、と割り切れる又は理解してよいものではなく、「空想・夢想」と「現実(直視)」の違いが表れているものだ、と理解して差し支えないように思われる。
 「空想・夢想」は、ここでは<幻想・妄想>と表現したい。一方、「現実(直視)」あるいは「現実主義」は、他に適切な語はないだろうかと感じられる。最終決定?ではないが、とりあえず、<正気>とでも表現しておこう。となると、<幻想と妄想>=<狂気>と<正気>の対立になってしまい、陳腐な用語法ではある。しかし、<狂気>と<正気>の違いという把握の仕方は、存外、本質を衝いているようにも思われる。
 集団的自衛権行使容認の政府解釈に反対する憲法学者たちの声明を読んで、私は<幻想と妄想>に陥ったままである、と感じる。学者さまたちだからより丁寧に言えば、<正しさが論証されていない観念に嵌まったまま>だ、と感じる。そして、言葉はきついが、<幻想と妄想>を抱いたままの人たちは、<狂気>の持ち主である、と表現することができる。すでにこの声明はこの欄で紹介しているが、批判的コメントは別に記述する予定だ。
 二 <左右>あるいは<左翼と保守>といった「思想」または「イデオロギー」の問題ではない、というイメージを形成したきっかけは、どうやら、西尾幹二全集第14巻(2014、国書刊行会)を一瞥したことにあるようだ。
 <保守>の論客としての政治的・文化的な書物や論考に接してきたのだったが、上の本の内容におそらく明確に示されているように、西尾幹二は<左右>・<左翼と保守>とかの「イデオロギー」を<超えた>人物だ。そのことに初めて気づいたような気がした。西尾幹二のものはかなり読んできたようにも思っていたのだが、そして全集もすべて購入はしてきたのだが、全集の中を丁寧に読んでみる時間的余裕がなかった。
 上の著の全体は簡単に「人生論集」と題されているが、そこで種々に語られている、人生や人間についての洞察は、(あくまで凡人による論評ではあるが)深く、鋭い。その内容は直接には政治にも<左右対立>にも関係しておらず、基礎的でかなり普遍的だ。
 これまでこの欄に記してきたようなこととは性格をかなり異にするので、西尾幹二「人生論」の内容への言及はこの程度にする。
 西尾幹二の名前を知っている「左翼」は、すぐに「右派」、あるいは「右翼」の評論家というイメージと評価をしてしまうのかもしれない。だが、上に言及した「左翼」憲法学者たちも含めて、「左翼」論者たちは(但し、教条的日本共産党員を除く)、自らの考え方に自信を持っているならば、西尾幹二の上の著も読んで自らの感覚と思考方法の適切さを試してみよ、と言いたい。
 念のために付記しておくと、かつての<雅子皇太子妃問題>をめぐる議論でも示したように、西尾幹二の諸主張・見解のすべてに同意してきたわけではない。この問題については、西尾幹二を批判し、竹田恒泰に基本的には同調していた(「東宮擁護派」というレッテルを貼られたこともあった)。原発問題も、率直にいってよくは分からない。とはいえ、上に記した西尾著についての感想等を変えるつもりはない。
  

1285/民主党政権・朝日新聞には甘く自民党には厳しい「左翼」法学者たち。

 古い話題だが、現在と関係がないとは思われない。
 2010.09.07にいわゆる尖閣諸島中国漁船衝突事件が起きた。そのときのビデオが存在することが話題になっていたが政府は公開せず、同年11.01に国会の予算委員会関係委員30名に対してのみ7分弱に短く編集したものが視聴用に供された。その後11.04、<sengoku38>によって計44分のビデオがネット上にアップロードされた。
 これを受け、11.06のA新聞社説は「こんな不正常な形で一般の目にさらされたこと」は残念だ、「政府または国会の判断で、もっと早く一般公開すべきだった」等と書いた。同日のB新聞社説は「最大の問題は」、政権が、国民の「知る権利」を無視して「衝突事件のビデオ映像を一部の国会議員だけに、しかも編集済みのわずか6分50秒の映像しか公開しなかった点にある」等と書いた。
 一方、同日のC新聞の<尖閣ビデオ流出―冷徹、慎重に対処せよ>と題する社説はつぎのように書いて公開の点では政府側を擁護し、むしろ情報管理に問題があるとした。
  「政府の情報管理は、たががはずれているのではないか」。「流出したビデオを単なる捜査資料と考えるのは誤りだ。その取り扱いは、日中外交や内政の行方を左右しかねない高度に政治的な案件である。/それが政府の意に反し、誰でも容易に視聴できる形でネットに流れたことには、驚くほかない」。
 「もとより政府が持つ情報は国民共有の財産であり、できる限り公開されるべきものである。政府が隠しておきたい情報もネットを通じて世界中に暴露されることが相次ぐ時代でもある。/ただ、外交や防衛、事件捜査など特定分野では、当面秘匿することがやむをえない情報がある」。「政府は漏洩ルートを徹底解明し、再発防止のため情報管理の態勢を早急に立て直さなければいけない」。
 「流出により、もはやビデオを非公開にしておく意味はないとして、全面公開を求める声が強まる気配もある」。/「しかし、政府の意思としてビデオを公開することは、意に反する流出とはまったく異なる意味合いを帯びる。短絡的な判断は慎まなければならない」。「ビデオの扱いは、外交上の得失を冷徹に吟味し、慎重に判断すべきだ」。
 慎重に対処・判断せよという主張の仕方が、ビデオを積極的に公開しなくてもよい、という意味であることはほとんど明らかだった。その論拠としてこの社説は「日中外交や内政の行方」に影響を与えないかねないことも挙げつつ、より一般的には、「政府が持つ情報は…できる限り公開されるべき」だが、「外交や防衛、事件捜査など特定分野では、当面秘匿することがやむをえない情報がある」、ということを述べていた。
 さて、時は移って2013年秋以降に特定秘密保護法案に反対する運動が起きた。反対の理由としてつねに挙げら競れた理由の一つは、<国民の知る権利>を著しく制限する、というものだった。
 そうだとすれば、この法案に反対し、その後の同法の成立を苦々しく思っている者たちは、2010年秋の上記のC新聞の社説にはそのままでは納得できず、むしろ批判的に読んだ(はずだ)と思われる。
 そのような者たちとして、すでにこの欄に当時に転載したのだが、つぎのような大学教授たち等がいる。大学名だけ残し学部等以下は省略して再掲しておく。
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 秘密保護法の制定に反対する憲法・メディア法研究者の声明 2013.10.11
 よびかけ人/愛敬浩二(名古屋大学)、青井未帆(学習院大学)、石村善治(福岡大)、市川正人(立命館大学)、今関源成(早稲田大学)、上田勝美(龍谷大学)、右崎正博(獨協大学)、浦田賢治(早稲田大学)、浦田一郎(明治大学)、浦部法穂(神戸大学)、奥平康弘(憲法研究者)、小沢隆一(東京慈恵会医科大学)、阪口正二郎(一橋大学授)、清水雅彦(日本体育大学)、杉原泰雄(一橋大学)、田島泰彦(上智大学)、服部孝章(立教大学)、水島朝穂(早稲田大学)、本秀紀(名古屋大学)、森英樹(名古屋大学)、山内敏弘(一橋大学)、吉田栄司(関西大学)、渡辺治(一橋大学)、和田進(神戸大学)
 賛同者/青木宏治(関東学院大学)、浅川千尋(天理大学)、梓澤和幸(山梨学院大学・弁護士)、足立英郎(大阪電気通信大学)、荒牧重人(山梨学院大学)、飯島滋明(名古屋学院大学)、池端忠司(神奈川大学)、井口秀作(愛媛大学)、石川裕一郎(聖学院大学)、石塚迅(山梨大学)、石村修(専修大学)、井田洋子(長崎大学)、伊藤雅康(札幌学院大学)、稲正樹(国際基督教大学)、井端正幸(沖縄国際大学)、浮田哲(羽衣国際大学)、植野妙実子(中央大学)、植松健一(立命館大学)、植村勝慶(國學院大學)、江原勝行(岩手大学)、榎透(専修大学)、榎澤幸広(名古屋学院大学)、大石泰彦(青山学院大学)、大久保史郎(立命館大学)、太田一男(酪農学園大学)、大津浩(成城大学)、大塚一美(山梨学院大学等)、大藤紀子(獨協大学)、大野友也(鹿児島大学)、岡田健一郎(高知大学)、岡田信弘(北海道大学)、緒方章宏(日本体育大学)、奥田喜道(跡見学園女子大学)、奥野恒久(龍谷大学)、小栗実(鹿児島大学)、柏崎敏義(東京理科大学)、加藤一彦(東京経済大学)、金澤孝(早稲田大学)、金子匡良(神奈川大学)、上脇博之(神戸学院大学)、彼谷環(富山国際大学)、河合正雄(弘前大学)、河上暁弘(広島市立大学)、川岸令和(早稲田大学)、菊地洋(岩手大学)、北川善英(横浜国立大学)、木下智史(関西大学)、君島東彦(立命館大学)、清田雄治(愛知教育大学)、倉田原志(立命館大学)、古関彰一(獨協大学)、越路正巳(大東文化大学)、小竹聡(拓殖大学)、後藤登(大阪学院大学)、小林武(沖縄大学)、小林直樹(東京大学)、小松浩(立命館大学)、笹川紀勝(国際基督教大学)、佐々木弘通(東北大学)、笹沼弘志(静岡大学)、佐藤潤一(大阪産業大学)、佐藤信行(中央大学)、澤野義一(大阪経済法科大学)、志田陽子(武蔵野美術大学)、清水睦(中央大学)、城野一憲(早稲田大学)、鈴木眞澄(龍谷大学)、隅野隆徳(専修大学)、芹沢斉(青山学院大学)、高作正博(関西大学)、高橋利安(広島修道大学)、高橋洋(愛知学院大学)、高見勝利(上智大学)、高良鉄美(琉球大学)、田北康成(立教大学)、竹森正孝、多田一路(立命館大学)、只野雅人(一橋大学)、館田晶子(専修大学)、田中祥貴(信州大学)、塚田哲之(神戸学院大学)、寺川史朗(龍谷大学)、戸波江二(早稲田大学)、内藤光博(専修大学)、永井憲一(法政大学)、中川律(宮崎大学)、中里見博(徳島大学)、中島茂樹(立命館大学)、永田秀樹(関西学院大学教授)、仲地博(沖縄大学教授)、中村睦男(北海道大学)、長峯信彦(愛知大学法学部教授)、永山茂樹(東海大学教授)、成澤孝人(信州大学)、成嶋隆(獨協大学)、西原博史(早稲田大学)、丹羽徹(大阪経済法科大学)、根本博愛(四国学院大学)、根森健(新潟大学)、野中俊彦(法政大学)、濵口晶子(龍谷大学)、韓永學(北海学園大学)、樋口陽一(憲法研究者)、廣田全男(横浜市立大学)、深瀬忠一(北海道大学)、福島敏明(神戸学院大学)、福島力洋(関西大学)、藤野美都子(福島県立医科大学)、船木正文(大東文化大学)、古川純(専修大学)、前原清隆(日本福祉大学)、松田浩(成城大学)、松原幸恵(山口大学)、丸山重威(前関東学院大学)、宮井清暢(富山大学)、三宅裕一郎(三重短期大学)、三輪隆(埼玉大学)、村田尚紀(関西大学)、元山健(龍谷大学)、諸根貞夫(龍谷大学)、森正(名古屋市立大学)、山崎英壽(都留文科大学)、山元一(慶応義塾大学)、横田耕一(九州大学)、横田力(都留文科大学)、吉田稔(姫路獨協大学)、横山宏章(北九州市立大学)、吉田善明(明治大学)、脇田吉隆(神戸学院大学)、渡辺賢(大阪市立大学)、渡辺洋(神戸学院大学)
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 これら多くの法学者たち等に、暖簾に腕押しだろう日本共産党員である者や樋口陽一等々を除いて、真面目に尋ねたいものだ。
 2010年の秋に、尖閣衝突事件に関する情報の国民への積極的な開示を求めたのかどうか。かりに上のように<声明>は出さなくとも、各人において政府における情報開示の消極的姿勢を批判する旨を書いたり語ったりしたのか?。そうしたことをしなかったとすれば、なぜ、自民党等提出の特定秘密保護法案には「国民の知る権利」等を持ち出して反対することができたのか?。
 言うまでもなく(?)、上記のC新聞は読売(A)でも産経(B)でもなく、朝日新聞。当時は民主党・菅直人内閣だった。
 政権が民主党か自民党(中心)か、内閣首班が菅直人か安倍晋三か、これらによって<国民の知る権利>に関する具体的判断も「外交や防衛、事件捜査など特定分野」では国益・公共的利益の方を優先させざるをえないのかどうかの具体的判断も異なるというのであれば、それはいったい何故か。答えられないようであれば、貴方たちは「学問の自由」を享受できるだけの<良心>を持っているのか?
 このような問いかけは、集団的自衛権行使容認(閣議決定等)に反対する声明に参加している憲法学者等に対しても続けていきたい。

1279/<左翼>愛好の「国家のゆらぎ」論を萱野稔人が批判。

 Think global, Act local というスローガンかモットーのようなものを読んだことがある。<グローバルに考え、ローカルに行動せよ(しよう)>ということだ。
 この二つにあえて反対する必要はないようにも見えるが、当然ながら、重大なことに気づく。
 グローバル・「世界」・「国際」・「地球」とローカル・「地域」との間の、<国家>がすっぱりと抜け落ちているのだ。
 上記は、ナショナルに考え、行動することは絶対にしたくないという、<左翼>の標語なのだろう。
 「国家」、そして「ナショナルなもの」をできるだけ無視したい、想起しないようにしたいというのは、遠い将来の<国家の死滅>を予言し最終目標とするコミュニズム・「共産主義」に親近的な者たちの考え方でもある。
 エンゲルスの著-家族・私有財産および国家の起源-は、コミュニストたちが廃棄したい三つのものを明確に記していた(この著の前にルソーは「家族」について実践していたが)。
 そういう人々は近年、<国家のゆらぎ>ということを語りたがる。それは一つは、単一の近代国家が統合へと向かう兆しによって生じており、EU(欧州連合)はその好例だとされる。日本近辺については、<東アジア共同体>なるものを目指すことを肯定的に語る者もいる。
 いま一つは、単一の国家内部で、「国家」と社会または民間の境が曖昧になりつつある現象として表れているとされる。国家の事務の範囲・役割が不明確になっていることを前提とする、公共事務の<民営化>も、そうした傾向の重要な一つだとされる。
 だが、<国家のゆらぎ>を積極的・肯定的に語りたがる者は、「国家」・「ナショナルなもの」をできるだけ無視したい、想起しないようにしたい、<左翼>の学者や評論家たちだと思われる。
 萱野稔人は<保守派>だとは見なされていないようだが、「日本のリベラル派の言論人は国家のゆらぎということをすぐに論じたがるが…」という一文を含む文章を朝日新聞の2015.01.18朝刊に書いていて、その内容は納得できるものだ。
 萱野稔人は、「国家のゆらぎ? ゆらいでいるのは米の覇権」と題し、昨年のクリミヤ半島ロシア編入、「イスラム国」、スコットランド独立住民投票に言及したあと、「これまでの国家の枠組みをゆるがすようなできごとが相次いだ」が、「これらの動きを主権国家そのものの衰退ととらえることには無理がある」と断じる。そして、ウクライナ・イスラム世界での出来事は「国家そのもののゆらぎではなくて、米国の覇権のゆらぎである」とする。
 そのあと、さらに次のように述べる。
 「国家のゆらぎについてはこれまでも、グローバリゼーションによって国境の壁は低くなり、国家は衰退していくのではないか、ということがとりわけ日本では盛んにいわれた」。しかし、サッセンの近著はそうした見方を「表面的で稚拙な見方だと批判」し、「グローバリゼーションによって国家の主権は消滅するのではなく、新たな役割を担うだけだ」としており、ドゥルーズ=ガタリの近著も「資本主義と国家の関係を理論的に考察」しつつ「(資本が国家を)超えるとは、国家なしですませるという意味では決してない」ととしている。
 最後に、つぎの一文でまとめられる。
 「日本のリベラル派の言論人は国家のゆらぎということをすぐに論じたがるが、国家を正面から考えるためには、そもそもそういった発想自体が問い直されなくてはならない」。
 <国家のゆらぎ>を語りたがる日本の<左翼>学者等は、「表面的で稚拙な見方」を改め、その「発想自体」を問い直す必要がある。
 ところで、「日本のリベラル派の言論人」の言説を多数掲載してきたのは朝日新聞で、そのような者の書物を多く刊行しているのも朝日新聞出版だ。上の萱野の文章における批判的指摘は、朝日新聞に対しても向けられていると見るべきだろう。だが、朝日新聞は<事前検閲>をして掲載中止を求めることはしなかった(又はできなかった)。この寄稿の担当者は、どういう気分で読んだのだろうか。

1262/憲法九条2項改正と北岡伸一による朝日新聞の批判的分析。

 一 自民党の憲法改正案において、現憲法九条の全体が削除または改正されるのではなく、現1項はそのまま残されて新9条の全体になるとともに、新たに九条の二を設けて「国防軍」の設置が明記されることになっている。
 現在の第二次案ではなく「自衛軍」としていた第一次案の時期のものだが、自民党本部の担当者だった者による、田村重信・新憲法はこうなる(2006.11、講談社)p.120-1は現1項の趣旨をイタリア・ドイツ等の憲法(・基本法)も有し、「国権の発動たる戦争」とは1928年パリ不戦条約に由来する表現で<侵略戦争>を意味し、それを放棄・禁止するものであっても「自衛権に基づく戦争」を放棄・禁止するものではない、と明確に説明している。
 上の趣旨を理解していないかに思えた産経新聞社説があったので上の点を(そのときは上の田村著を知らなかったが)この欄で指摘し、かつ<「九条を考える会」という呼称はゴマカシだ、正確に<九条2項を考える(護持する)会>と名乗るべきだ>という旨を書いたことがある(2012.03.15)。
 前回にやや厳しい感想を述べた柳本卓治の文章も、上の点を明確に意識して書かれてはおらず、現九条=日本的「平和主義」について、<左翼>がふりまいているデマ宣伝に部分的には屈している印象がある。
 現九条の2項のみの削除・改正を主張しているにもかかわらず九条全体を削除・改正しようとしていると<すりかえ>をして改憲派を反平和主義者・好戦論者のごとく批判するのは、悪質なデマゴギーに他ならない。
 二 12/23に朝日新聞の<慰安婦報道検証・第三者委員会報告書>が公表された。その一部を成すと思われる各委員の個別意見において、北岡伸一は以下のように、適切に朝日新聞を批判している。日本共産党・「九条の会」のみならず、朝日新聞もまた、上のようなデマ宣伝を展開してきたからだ。
 朝日新聞には「言い抜け、すり替えが少なくない。/たとえば憲法9条について、改正論者の多数は、憲法9条1項の戦争放棄は支持するが、2項の戦力不保持は改正すべきだという人である。朝日新聞は、繰り返し、こうした人々に、『戦争を放棄した9条を改正しようとしている』とレッテルを貼ってきた。9条2項改正論を、9条全体の改正論と誇張してきたのである。要するに、他者の言説を歪曲ないし貶める傾向である」。
 北岡は、読売新聞12/26のインタビュー記事でも、「憲法9条についても、1項の『戦争放棄』は支持するが、2項の『戦力不保持』は改正すべきだという人に対し、戦争放棄を改めようとしているとレッテルを貼って批判する」と述べている。
 このような北岡伸一の朝日新聞批判は適切であり、こうして活字になった九条1項と2項をきちんと分けての議論を初めて読んだような気がする。
 <九条を世界遺産に>という運動があった(ある)ようだが、その運動者・活動家はおそらく九条2項を念頭に置いているのだろう。ちなみに、潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(2007.04、PHP)という書物があるが(読了)、正確な趣旨は、「憲法九条2項は諸悪の根源」なのではないか。憲法学者・百地章もかつては憲法九条改正という言い方をしていたかにも見えるが、近年では正確に九条2項改正と記述していることを、この欄でコメントしたことがある。
 三 ところで、北岡伸一の上記朝日新聞紙上の文章は朝日新聞の問題のある傾向の第6点「論点のすりかえ」の例として書かれている。それ以外は、第一・「粗雑な事実の把握」、第二・「キャンペーン体質の過剰」、第三・「物事をもっぱら政府対人民の図式で考える傾向」、第四・「過剰な正義の追求」、第五・「現実的な解決策の提示の欠如」、である。
 北岡に対しては<保守>派からの批判もあるようだが、朝日新聞批判の著・文章は数多くあると見られるところ、北岡の上のような、決して長くはない文章における体系的・総合的な?整理・分析は、的確で、なかなか優れていると感じられる。以上の諸点はすべて、かつての<進歩的文化人>と同様に社会主義・共産主義への憧憬を残した、目的のためならば歪曲・虚報も許されるという心情の「記者」たちによって構成された<政治団体>だからこそ生じている傾向・問題点であるかもしれないが。

1260/朝日新聞12/15夕刊「素粒子」の錯乱等。

 朝日新聞12/15夕刊のコラム「素粒子」はつぎのように書く。
 1.「信を問われても耳を貸さない半数近い人々。得られた民意の薄い地盤に、建てられる国家像の不釣り合いな重さ」。
 衆議院議員選挙における安倍政権・与党の<圧勝>を投票率の低さから見ての「得られた民意の薄い」等々と述べて揶揄し、本当に信任されたわけではないぞ、と言いたいわけだ。
 投票率の低さをもたらした原因の一つは、この選挙には「大義がない」と早々に断言した朝日新聞やそれに近いメディアにもあるのではないか。「大義がない」選挙であれば、投票しなくてもよい、と考えてしまう有権者が生じても不思議ではない。
 もともと、解散・総選挙は、与党の多数議席を減らし、あわよくば半数以下にさせたい野党が要求するはずのものであり、朝日新聞のような、反安倍・反自民党のメディアが2012年総選挙の結果を変えるために主張しても不思議ではないものだった。にもかかわらず、せっかくの総選挙の機会を「大義がない」と評してしまったのだから、投票率の減少や与野党の議席占有率がほとんど変わらなかったことの責任の一端は、朝日新聞自体にもあったことを自覚すべきだろう。安倍首相は朝日の「大義がない」という反応を見て<勝った>と思った、と某評論家がテレビで語っていたが、さもありなん、という気がする。まして、この時期に解散・総選挙をしてよいかとうかを争点にしようとか、総選挙には700億円かかるといった朝日新聞等の報道姿勢こそが、奇妙なものだった。
 もっとも、上に述べた皮肉・批判を、<狂った>朝日新聞のコラムや論説の執筆者たちは理解できないかもしれない。
 2.「意思がはっきり浮かんだ沖縄」。
 沖縄県の4小選挙区では自民党候補が敗北したことを<喜んで>上のように述べているのだが、これには笑って(嗤って)しまった。
 同じ一面にある今回総選挙の投票率によると、沖縄県のそれは52.36%で、全国平均の52.66%よりも0.3%低い。後者から沖縄県を除外すれば、もっと低くなる。
 この数字を見ると、沖縄県での「得られた民意」もまた「薄い地盤」に支えられたものではないか。にもかかわらず、全国平均よりも低い投票率の沖縄では「意思がはっきり浮かんだ」と評するのは、いったいどういう感覚のゆえなのだろう。
 自分たち=朝日新聞にとっての好ましくない結果は「得られた民意の薄い」と論定し、好ましい結果が出た沖縄については「意思がはっきり浮かんだ」と書く。この神経はまっとうなものではなく、<狂って>いる。
 朝日新聞がダブル・スタンダードをもった、<ご都合主義>者の集まりであることはよく知られている。12/15夕刊の「素粒子」もまた、そのことをあらためて明らかにしている。
 もつとも、上に述べた皮肉・批判を、<狂った>朝日新聞のコラムや論説の執筆者たちは理解できないかもしれない。
 朝日新聞12/15の朝刊「社説」は、つぎのように主張している。
 総選挙の結果によって安倍政権は「決して『何でもできる』力を得たことにはならない。憲法に基づく民主主義は、選挙の勝利によって生まれた政権に全権を委任するものではない」。
 これ自体は異議を挿ませないものかもしれないが、しかし、問いたい。2009年8月末総選挙における民主党勝利=政権交代必至の結果を受けて、朝日新聞「社説」は、民主党政権に<白紙委任をしたわけではない>旨を書いたのか?
 朝日新聞はダブル・スタンダードをもった、<ご都合主義>者の集まりであり、それは事実(ファクト)よりも価値(スタンス)を優先する報道機関まがいの政治団体であることによって生じている。朝日新聞が何と釈明しようと、この本質を変えることはないだろう。 

1259/「危険な思想家」発想がなお残る今日の知的世界。

 ・前回言及の竹山道雄の文章は、朝日新聞が日本の継続性肯定の<明治100年>か敗戦による新たな<戦後20年か>という対立があるとして両側の諸論者の文章を掲載したものの一つで、前者の論者は平川祐弘によると竹山道雄・林健太郎・江藤淳・林房雄、後者のそれは野間宏・遠山繁樹・小田実・加藤周一、のそれぞれ4名だ。作家・野間宏は少なくとも戦後の一時期は日本共産党員だった者、日本史学者・遠山茂樹は日本共産党だったと推測される者、あとの後者の二人は非日本共産党「左翼」だろう。そして、平川の言に俟つまでもなく、朝日新聞は後者の立場を支持することをを少なくとも示唆した特集だったと思われる。
 ところで、平川祐弘によると、同じ1965年に山田宗睦が「危険な思想家」というタイトルのカッパ・ブックスを出していて、上の前者の4名は山田のいう「危険な思想家」だったらしい。平川によればほかに安倍能成が明記されているが、三島由紀夫や石原慎太郎もまた当然に?「危険な思想家」だったようだ。平川によると、この山田の著に朝日新聞が「飛びつい」て、上に言及の特集になったらしい。
 この論争に立ち入るつもりはないが、上の両派?のいずれの立場が日本国家と日本国民にとって本当は「危険な」ものだったかは、今日ではほとんど明らかだと思われる。
 だが、60-80年代くらいまでかなり広く<保守・反動>という言葉でレッテリ貼りされた考え方・歴史の見方を今日でもやはり「危険」と感じている者は今日でも少なくないし、憲法学界では前回に言及した某憲法学者も含めて圧倒的多数派を占めているという印象がある。
 「危険な」の反対は「安全な」だが、いわゆる<進歩>派あるいは「左翼」こそが、憲法学界では「安全な」立場・立ち位置なのだ。したがって、学界や各大学・各学部の多数派=「安全な」立場に属していることが、就職・昇格やその他の人間関係上<有利>であると感覚的に判断する者は、深く考えることなく、無自覚に「左翼」になってしまう憲法学者も出てくることになる(別に憲法分野に限りはしないが)。あるいはまた、<右・左>、<保守・左翼>のいずれかの立場を鮮明にしない方が「安全」だと感じる大学や学部にいる間は<温和しく>しているが、「左翼」性を明確にしても「安全」だと感じる大学・学部に移れば、例えば平気で「九条(2項)を考える会」に属して報告をしたり、特定秘密保護法や集団的自衛権容認に反対する声明に堂々と名を連ねたりすることになる。
 ・憲法学界を例にしての以上のことが決して的外れではないことは、月刊WiLL1月号(ワック)冒頭の座談会で、政治学の中西輝政が語っていることでも明らかだろう。<保守派>であることは大学院生がどこかの大学に就職する(採用される)ために不利だったことは指導教師だった高坂正堯の言葉を紹介しながら中西輝政がすでに述べていた(この欄でも触れた)。
 上の座談会の中で中西輝政は、「いまでも特殊な知識人の世界」では「朝日的であること」が「知的権威そのもの」だ、「朝日に対する信仰」は「いまでもテレビ界の報道関係では、NHKも含め…根強く残っていて、一般の社会と大きくズレている」と述べたりしつつ(p.37)、つぎのようにも語っている。
 「学会ではいままでずっと地雷原を歩いているようなものでした(笑)」。大学では「最も大変な時期は、校門をくぐった瞬間から一瞬たりとも警戒心を解くことができ」なかった。メディアで「靖国参拝に賛成」と言ったら「授業を暴力で潰しに来かねない状況で、教員たちも露骨に反発して私一人、全く孤立無援」だった。大学の校門を出た方が安全で、「むしろ大学に入ると『学問の自由』は保障されてい」なかった。
 学生の反応はともかくとしても、「教員仲間」から「そもそも中西さんの言動に問題がある」として「取り合ってもらえなかった」(以上、p.40)という、学部または教員たちの雰囲気に関する発言の方が重要だし、興味深い。
 もっとも、具体的にいかなる時期のどの大学(京都大学?)のことを述べているのかは明確ではない。余計ながら、中西輝政が退職した大学・学部には佐伯啓思も同僚としていたはずだ。
 上の最後の些細な点は別として、「学問の自由」といいながら、人文・社会系の大学に所属する研究者たちは、テーマ設定や研究内容について、本当に自分の頭で「自由」に考え、結論を出しているのだろうか、という疑問をあらためてもたざるをえない。それは「靖国参拝」や「慰安婦」についての彼らの意見や認識についても言える。それぞれの学界・学会の<空気>を読みながら、「黒い羊」と目されないように、多数派に属するように、あるいは「安全」であるように、取捨選択しているのではあるまいか。無意識にそのように行動させるシステムができ上がっているとすれば、もはや大学でも「学問」でも「自由な」研究者でもないだろう。ややテーマがそれたかもしれない。

1258/月刊正論を最近は毎号きちんと読んでいる。

 ・前編集長時代とは異なり、交替後の月刊正論(産経新聞社)は「メディア裏通信簿」も含めて、なかなか面白い。何よりも、くだらない、又は反発を覚えるような論考や記事がほとんどなくなった。
 とは言っても、なぜか、日本共産党、社民党、生活の党(小澤一郎は見事に?変身した)という「左翼」政党、とりわけ日本共産党の現状の紹介や批判的検討が全くと言ってよいほどないことは相変わらずで、中国(中国共産党)を熱心にかつ批判的に分析しても、なぜ日本の月刊雑誌は日本の「共産党」を、あるいは日本のコミュニズムを正面から扱わないのだろうというもどかしさは依然として残る。
 ・月刊正論1月号もおそらく90%以上読み終えた。最近と同様に、かつてほどに逐一言及する余裕はない。
 門田隆将の文章も小浜逸郎(この人は一時期は信用していなかったのだが)の文章も、印象に残ったが、平川祐弘が紹介している、竹山道雄の、朝日新聞1965.04.05号の文章の一部が目を惹いた。
 「私には戦後の進歩主義がほんものの平和と民主主義であるとは思われない。それはむしろ、人々の平和と民主主義をねがう気持ちにつけこんで、別なものが進歩主義を利用して浸透する手段としたのだった」。(p.347)
 ビルマの竪琴という小説の作家としてしかほとんど知らない竹山道雄だが(もっとも、同・昭和の精神史は所持していていずれ読みたいと思っているし、著作集も半分以上所持している)、60歳をすぎた時期に朝日新聞紙上でこんな文章等でもって論争しているとは、相当な人物だったに違いない。
 「人々の平和と民主主義をねがう気持ちにつけこんで、…進歩主義を利用して浸透する手段」としている「別なもの」は現在も厳然として存在するし、「別なもの」に「平和と民主主義をねがう気持ちにつけこ」まれていることを知らずに、戦争と<全体主義・ファシズム>の復活?を許さず「平和と民主主義」の理想を追求していると自らを評価しているものも厳然として多数存在している。
 すでに「別なもの」になっているのかどうかは知らないが、個人的に知る某憲法研究者は、<日本の自衛隊(軍事組織)は信用できない。正式に軍として認知すれば何をしでかすか分からない>という旨を<公言>していた。
 日本軍国主義=日本のかつての軍部は<悪>でありかつ<拙劣>であったので、そのDNAを継承している自衛隊、そして日本人そのものが<正規の軍として位置づけられるものを保持するとアブない>というわけだ。
 かかる戦後・占領期の<時代精神>を、日本の憲法学者の多くはなおも有し続けているのだろう。
 開いた口がふさがらないし、そのような感覚を平然と語るれっきとした<おとな>らしき人物などとは、もはやとっくに、「口をきく気にもなれなくなっている」のだが。
 

1256/詐話師・吉田清治とは何者なのか。

 一 慰安婦問題について、詐話師・吉田清治の虚言癖はすでに広く知れ渡ったようだが(朝日新聞のそれを信じた「狂」者ぶりも含めて)、この吉田清治がどのような人物で、なぜ平気でウソをつき、なぜ韓国で土下座する等のパフォーマンスをしたのかについては、納得できる報道・記事を見ない。
 8月からの報道等のうちほとんど唯一関心を惹いたのは、吉田清治は1947年頃、下関市議選に日本共産党から立候補した、ということだ。つまり、その時点で、日本共産党の党員だったことはほとんど疑いを容れない。
 その後1980年代までずっと同党に所属していたかは明らかではないし、日本共産党自体にも、47年から60年頃までの間に混乱と「変化」があった。
 しかし、戦後の一時期とはいえ、「共産主義」を夢想していた人物であることは明らかだと思われ、このことはのちの「虚言」と無関係ではないと考えられる。すなわち、そのような<左翼>だからこそ、日本と日本人の名誉と誇りを大きく傷つけるほどに戦時中の日本・日本軍を悪く言ってもかまわない、という精神構造をもっていたかに見える。
 彼にとっては、「日本軍国主義」は悪を為したはずなのであり、過去の日本国家を悪し様に言うことは、いかにそれが「ウソ」であっても、日本国家を傷つけるという目的のために正当化されるものだったのだろうと考えられる。
 共産主義者あるいは「左翼」とは怖ろしいものだ。目的のためにはウソを吐くことくらい、あるいは土下座をしてみせることくらい、何ともないことなのだ。
 そのような精神構造の人物であることを見抜けなかった朝日新聞の関係者もまた、同様の精神構造にあったと言ってよい。
 二 ところで、サクラムック・この国に「朝日新聞」は何をしたのか(2014、笠倉出版社)という初めて見るムック名と出版社名の雑誌によると、「従軍慰安婦」という言葉を最初に用いたのは千田夏光(元毎日新聞記者)であるらしい(さすがに岩波書店というべきだろう、吉見義明はこの言葉をそのままタイトルに用いた岩波新書を出している)。そして、同書によると、千田夏光は、「日本共産党の不破哲三元委員長の『後援会長』」だった(p.17)。
 ここにも日本共産党が顔を出している。作家・元毎日記者という「文化人」であるなら、党籍を隠したまま「後援会長」になっても不思議ではない。すなわち、千田夏光もまた日本共産党員だった可能性がかなり高いだろう。
 日本共産党員だった人物だからこそ平然と「ウソ」をつき、あるいは「意図的な曲解」(同上p.15)をしたのではないか。
 朝日新聞の中の吉田清治持ち上げ記事に関与した記者たちの個人名を明らかにさせての責任追及もなされてよいが、吉田清治や千田夏光についても、その経歴等々について詳細な情報を知りたいものだ。故人にも保護されるべきプライバシーはあるだろうが、現存者よりは狭いと考えられるし、日本の国益・公益に関係する問題でもある。

1255/元朝日新聞幹部の山田厚史・早野透に見る「朝日新聞的なるもの」。

 朝日新聞の記事の一部の同新聞による否定や社長謝罪会見(第一次的には福島原発・吉田「調書」問題)等に合わせて、朝日新聞社記者OBの発言もいくつか見られるが、興味深いのは、最近問題とされた又は朝日新聞か認めたミスをいちおうは批判しつつも、なおも「朝日新聞」的意識・心情を吐露していることだ。二つ例を挙げておく。
 宝島11月号(宝島社)における、元編集委員・山田厚史
 山田厚史は、<朝日は反日>は「陳腐な非難」とか、朝日の上層部には他新聞と同じく「政権とプイプ」があるとか発言しつつ、つぎのように何気なく発言する。
 「野党が弱体化しているいま、政治の暴走を食い止める防波堤は世論です」(上掲p.8)。
 これはいったい何だろう。正確には「政治の暴走」とはいったい何のことだろ。おそらく、特定秘密保護法(12/10施行の旨の政令が2日ほど前に決定)の成立や集団的自衛権行使合憲との内閣解釈決定等を指すのだろうが、これらを「政治の暴走」と感じるのはまさに朝日新聞的な見方によるものであり、決して一般的なものではないとの自覚すらないように見える。
 また、次のようにも言う。①政権には世論が壁になりうるので「リベラルと言われる朝日新聞の信用が失墜すれば政権は楽になるということはある 」、「だからといって政権が朝日に何かしているということではないですよ」、②この20年「中国、韓国に対し、日本が劣後してきた、…ことに対する苛立ちが日本人の中にある。そうした時代状況のなかで傷ついた自尊心がナショナリズムを煽り、朝日新聞が逆風を受けている状況はあると想います」(p.8-9)。
 安倍政権による謀略的朝日新聞攻撃だったらよいのに、とも理解できなくはない①は無視して、②はなかなか面白い。第一に、「中国、韓国に対し、日本が劣後してきた」という時代認識は正しいだろうか。たしかにかつてと比べれば中国や韓国は大きな経済力をもつに至った。しかし、一人あたりGNPも含めて、日本が中国・韓国よりも劣るに至ったというのは、元朝日新聞・山田の願望かもしれないが、事実ではないだろう。こんなふうに何げなく、簡単に表現してしまえる感覚というのは怖ろしい。
 第二に、「苛立ち」を肯定的に評価していない、同じことだが、中国や韓国に対する(何についてかは省略するが)反発を正当なものとは見ていない。まさに朝日新聞的だ。
 第三に、「ナショナリズム」を、偏狭なとも排他的とも限定しないまま、<悪>と見なしている。かつてこの欄で問題にした、山田よりも先輩の若宮敬文の文章と同じだ。<ナショナリズムを煽る>=悪、というのは、まさに朝日新聞の感覚に他ならない。
 第四、そのようなナショナリズムの増大によって、「朝日新聞が逆風を受けている」という認識、あるいは状況把握では、適切な朝日新聞への助言などできるはずはないだろう。近時の朝日新聞批判は日本の<右傾化>を背景・原因とする、という、他にも読んだことがある朝日新聞擁護・弁明論を、山田もまた述べているわけだ。
 つぎに、中央公論11月号(中央公論社)における早野透。 
 単独の論考の中で早野は、詐話師(とはここで秋月が使っているのだが)・吉田清治の証言を訂正するのは1997年が限度だった等とも書きつつ、つぎのように述べる。
 ①「朝日新聞は戦後民主主義とリベラルを自らの信念としてきた」、「右派ジャーナリズムは、…戦後日本の基本的価値観に疑問を呈し、朝日新聞こそその攻撃だった」。かかる「右派ジャーナリズムの隆盛は、ナショナリズムの復活の流れにある」(上掲p.52)。
 まさに朝日新聞の「心情」がかつての編集委員・コラム執筆者によって堂々と披瀝されており、愉快なほどだ。
 やはりナショナリズム=悪であることにはもう言及しないが、「朝日新聞は戦後民主主義とリベラルを自らの信念としてきた」とは、元朝日文筆人・幹部自自身が語っていて、説得力?がある。たしか丸山真男は「戦後民主主義の虚妄に賭ける」とか書いたのだったが、早野透は、「戦後民主主義」をより厳密にはいったいどう理解しているのだろうか、そしてそれとGHQの日本占領方針等との関係はどう理解しているのだろうか。
 なお、「右派ジャーナリズム」=「あっち」=敵、朝日新聞=「こっち」という、日本共産党にも共通する対立・矛盾の認識がうかがわれるのも面白い。この点は、他の朝日新聞関係者の文章で明らかなので、別の機会に-余裕があり、文献を探し出せれば-触れる。
 ②「反日」「売国」「国賊」といった言葉が飛び交うのは「知性の劣化」。「朝日新聞が反日のはずがない。日本の悪かった部分を直視し、反省していくことはむしろ『愛国』だろう」(p.52)。
 こうした叙述からは反論・開き直りの姿勢がうかがえ、朝日新聞(のOB)が反省を何もしていないことがうかがえる。②「反日」「売国」「国賊」といった批判はある程度は効いているのかもしれない。そして、朝日新聞の捏造を含む記事によって日本と日本人の名誉・誇りが世界的に傷つけられたのは客観的に明らかなことだから、朝日新聞をウソ記事を書く「反日」、「売国」の新聞、「国賊」たる新聞と評するのはまったく正しいことだ。
 上の最後の一文は、なぜ次のような文章を含まないのだろうか。-「日本の良かった部分をきちんと指摘し、誇りをもち続けることは、『愛国』だろう」。
 朝日新聞は、あえて「日本の悪かった部分を直視し、反省していく」というスタンス、姿勢を基本に据えて、その基本にそうように<ファクト>を歪曲したり、捏造したりしたのではないか。自国を批判するのも愛国だ、などという、それ自体は一見誤りではないような言辞を吐いて、朝日新聞の本質をごまかすな、逃げるな、と強く言いたい。
 ところで、この早野透は、現在、桜美林大学教授らしい。いかなる著書・論文でもって教授に任用されたのだろう。きっと、桜美林大学とは、いいかげんな大学だ。

1254/朝日新聞社説8/29が示す朝日の戦後史観。

 朝日新聞今年-2014年-8/29の社説はつぎのようなものだ。
 「「私人としてのメッセージ」で済む話ではないだろう。/安倍首相が今年4月、A級、BC級戦犯として処刑された元日本軍人の追悼法要に、自民党総裁名で哀悼メッセージを書面で送っていた。
 「今日の平和と繁栄のため、自らの魂を賭して祖国の礎となられた昭和殉職者の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げる」
 送付先は、高野山真言宗の奥の院(和歌山県)にある「昭和殉難者法務死追悼碑」の法要。碑は、連合国による戦犯処罰を「歴史上世界に例を見ない過酷で報復的裁判」とし、戦犯の名誉回復と追悼を目的に20年前に建立された。名前を刻まれている人の中には、東条英機元首相らA級戦犯14人が含まれている。首相は昨年と04年の年次法要にも、自民党総裁、幹事長の役職名で書面を送付していた。
 菅官房長官は会見で、内閣総理大臣としてではなく、私人としての行為との認識を示した。その上で、「A級戦犯については、極東国際軍事裁判所(東京裁判)において、被告人が平和に対する罪を犯したとして有罪判決を受けたことは事実」 「我が国はサンフランシスコ平和(講和)条約で同裁判所の裁判を受諾している」と述べた。
 戦後69年。このような端的な歴史的事実を、いまだに繰り返し国内外に向けて表明しなければならないとは情けない。
 日本は、東京裁判の判決を受け入れることによって主権を回復し、国際社会に復帰した。同時に、国内的には、戦争責任を戦争指導者たるA級戦犯に負わせる形で戦後の歩みを始めた。
 連合国による裁判を「報復」と位置づけ、戦犯として処刑された全員を「昭和殉難者」とする法要にメッセージを送る首相の行為は、国際社会との約束をないがしろにしようとしていると受け取られても仕方ない。いや、何よりも、戦争指導者を「殉難者」とすることは、日本人として受け入れがたい。戦後日本が地道に積み上げてきたものを、いかに深く傷つけているか。自覚すべきである。
 首相の口からぜひ聞きたい。/多大なる犠牲を生み出し、日本を破滅へと導いた戦争指導者が「祖国の礎」であるとは、いったいいかなる意味なのか。あの戦争の責任は、誰がどう取るべきだったと考えているのか。
「英霊」「御霊」などの言葉遣いでものごとをあいまいにするのはやめ、「私人」といった使い分けを排して、「魂を賭して」堂々と、自らの歴史観を語ってほしい。/首相には、その責任がある。」

 8月初旬の慰安婦記事検証記事と9月初旬の原発記事(を第一義とする)社長謝罪会見の間にこんな社説を掲載しているのだから、朝日新聞が決してその<左翼・反日>性を捨てることがないことは明らかだろう。
 安倍晋三憎し=安倍の葬式はウチで出す、という気分の表れでもあるだろう。
 加えて、上の文章における単純な歴史認識・歴史観には呆然とせざるをえない。
 よく読めば、たんにいわゆる「A級戦犯」とされた者のみを念頭に置いているのではない。「A級、BC級戦犯として処刑された元日本軍人の追悼法要」への安倍晋三の哀悼文送付を批判しているのであり、丁寧でも三審制にもとづいてでもなく戦地近くの「裁判」で死刑判決を受け、処刑されたいわゆる「BC級戦犯」者に対する哀惜の念の欠片もない、じつに冷酷な文章だ。
 この社説の執筆者は、藤田まこと主演の映画「明日への遺言」(2007)を観たのだろうか、もっと前のフランキー堺主演のドラマ「私は貝になりたい」の物語を知っているのだろうか。
 この社説は「日本は、東京裁判の判決を受け入れることによって主権を回復し、国際社会に復帰した。同時に、国内的には、戦争責任を戦争指導者たるA級戦犯に負わせる形で戦後の歩みを始めた」と書く。
 日本国家が「戦争責任を戦争指導者たるA級戦犯に負わせる形で」戦後を出発した、とは誤認だろう。日本又は日本人が積極的にそうしたのではない。死刑者以外の「戦犯」の刑の執行するという意味で東京裁判の「遵守」をサ条約でもって約束しなければならなかったのは事実だが、主権回復のためのやむをえざる判断だったと考えられるし、むろん広田弘毅を含む死刑者を選別したのは日本・日本人ではない。
 朝日新聞の社説のように言うならば、死刑者と終身刑者とではもともと微妙な差異しかなかったと見られるところ、サ条約にもとづく関係諸国と同意を得て死刑者(無念ながら元には戻せない)以外の受刑者を解放し、終身刑者の中には賀屋興宣というのちの法務大臣もいたことはどのように説明するのか。
 いわゆる東京裁判史観に立ちそれを絶対視するならば、それによって有罪とされた者の釈放など認めてはならなかったはずだが、朝日新聞は当時それに反対したのか?
 さらに、周知のように1953年には国会で受刑者を犯罪者とは扱わない旨の決議がなされているが、当時、朝日新聞はこれに反対したのか。
 朝日新聞社説は、戦後の歴史の一部、一端だけを取り出して、安倍晋三の<歴史認識>批判という目的のために使っているにすぎない。朝日新聞のような単純素朴な歴史観でもって実際の歴史を認識したり総括することはできない。
 何がクォリティ・ペイパーだ。戦後当初にGHQが植え付けようとした単純な<日本が悪かった>史観をいまだに引き継いでいるだけではないか。むろん、朝日新聞の慰安婦問題捏造記事の根源もここにある。日本軍・日本国家は悪いことをしたはずなのであり、していなければならなかったのだ、朝日新聞にとっては。客観的な報道をするつもりでも、そのような「思い込み」があると、記事は歪み、えてして<捏造>記事になってしまう。このようなおそれが今後の朝日新聞にあるのは、8/29の社説でも明らかだ。

1253/月刊WiLL10月号と週刊現代9/06号ー朝日虚報と青木理ら。

 月刊Will10月号は背表紙「朝日『従軍慰安婦』大誤報」、表表紙に大きく「朝日新聞の『従軍慰安婦』は史上最悪の大誤報だった!/総力大特集120ページ」と朝日問題に大集中。もっとも、朝日がしたのは大きな「誤報」にすぎないのか?、日本国家と先輩同胞を貶めたいがゆえの意図的な(真実性が多少はあれば真実だと確信しての)<虚報>、<捏造>ではないのか、という問題は残る。
 ともあれ、朝日慰安婦検証報道に対する姿勢によって諸雑誌等のメディアの<性格>もかなり明らかになりそうだ。NHKは、この朝日新聞の一部訂正記事を放送したのだっただろうか。2000年に「女性戦犯法廷」での天皇有罪判決というパフォーマンスを一番組にしたのは長井某というNHKの「左翼」ディレクターだったが。
 週刊現代9/06号は「『慰安婦報道』で韓国を増長させた朝日新聞の罪と罰」と題して特集。例のごとく表紙からする印象に比べれば短いが、「識者30名」のアンケート結果は面白い。面白い、というのは、「識者」の中での<左翼>の存在が明確になっているからだ。
 アンケートは①朝日の検証記事は「納得のいく内容」だったか、②朝日「誤報」は「日韓関係悪化の一因」か、③朝日は「誤報の説明責任を果たした」か、の三つで、それぞれについて、いいえ、はい、どちらでもないの回答が用意されているようだ。そして、「識者30名」の選抜の仕方が適切かどうかという問題はさておくとして、30名中21名が、それぞれについて「いいえ、はい、いいえ」と回答している。この回答がふつうの、まともな感覚の持ち主の反応の仕方だと思うが、9名の回答はそうではない。上のいいえではなくはい、及びいいえではなくはいをいずれも-2、どちらでもないを-1としてマイナスを計算すると、次の結果になる。
 ①前田哲男-6、①岡留安則-6、①北原みのり-6、④青木理-5、⑤香山リカ-4、⑥斉藤貴男-2、⑥江川紹子-2、⑥小倉紀蔵-2、⑨服部孝章-1。前田哲男は近年、集団的自衛権や沖縄等、近年に軍事に強いらしき「左翼」としてよく名前を見る。マイナスは少ないが、江川紹子は少なくとももともとは親日本共産党の新聞記者だった。
 これらは明確な「左翼」だろうが、この順位では1位ではない青木理は、週刊誌本文によると、朝日新聞による検証記事の掲載は「歴史修正主義の風潮がかつてなく蔓延」して「反日」的動きに対するバッシングが強くなった状況に「耐え切れず」に「追い込まれた」もので、「日本社会が大きく変質していることを象徴的に示す」「事件」だ、と述べている。簡単には、<右派からの攻撃に耐えきれなかった、という右派増長という時代・社会の反映だ>と考えているようだ。これを読んで、青木理の頭の中の<倒錯>ぶりに(あらためて?)感心せざるをえない。
 かりに朝日新聞の報道が客観的事実を内容とするものだったとすれば、あるいはそのことに自信があれば、<右派からの攻撃に耐えきれない>というほどにナイーヴな神経を朝日新聞(の記者たち)がもっているはずはないだろう。こういうふうに青木理という<倒錯>者は朝日新聞を擁護するのだ。転嫁・曲解・相殺・無視という論法(湯浅博「潔さに欠け、往生際が悪すぎる」、月刊Will10月号p.64以下)による「検証」の仕方にみられる朝日新聞の神経のずぶとさ、厚顔無恥ぶりは何ら変わっておらず、朝日新聞が理由なく<右派からの攻撃に耐えきれず>屈服するはずがない。
 -1にすぎないが、服部孝章も、朝日報道が日韓関係悪化の一因になったことは認めつつ、朝日新聞よりも、「加害責任を明示しない安倍政権サポーターや商業主義に傾いてムードを煽るマスコミ」の方が責任は重い、とコメントしている(週刊現代p.45)。これまた、「商業主義に傾いてムードを煽る」<保守・右派>マスコミに責任を転嫁している(又は朝日よりも重い責任があるとする)ようで、不思議な議論だ。立教大学にはなかなか立派な「教授」がいる。
 今後の、9月上旬あたりまでに刊行される雑誌類の朝日新聞<慰安婦検証記事>への対応にさらに注目したい。すでに多くは明らかになっているのだが、「左翼」論者があぶりだされ、雑誌編集者の「左翼」度=親朝日新聞度が試されるだろう。

1252/朝日新聞を読むとバカになるのではなく「狂う」。

 一 桑原聡ではなく上島嘉郎が編集代表者である別冊正論Extra20(2013.12)は<NHKよ、そんなに日本が憎いのか>と背表紙にも大書する特集を組んでいた。月刊WiLL(ワック)の最新号・9月号の背表紙には<朝日を読むとバカになる>とかかれている。
 こうした、日本国内の「左翼」を批判する特集があるのはよいことだ。月刊正論にせよ、月刊Willにせよ、国内「左翼」批判よりも、中国や韓国を批判する特集を組むことが多かったように見えるからだ。中国や韓国なら安心して?批判できるが、国内「左翼」への批判は反論やクレームがありうるので産経新聞やワック(とくに月刊WiLLの花田紀凱)は中国・韓国批判よりもやや弱腰になっているのではないか、との印象もあるからだ。昔の月刊WiLLを見ていると、2005年11月号の総力特集は<朝日は腐っている!>で、2008年9月号のそれは<朝日新聞の大罪>なので、朝日新聞批判の特集を組んでいないわけではないが、しかし、中国等の特定の<外国>批判よりは取り上げ方が弱いという印象は否定できないように思われる。
 それに、「本丸」と言ってもよい日本共産党については批判的検討の対象とする特集など見たことがないようだ。日本共産党批判は、同党による執拗な反論・反批判や同党員も巻き込んだ<いやがらせ>的抗議を生じさせかねないこともあって、<天下の公党>の一つを取り上げにくいのかもしれない。しかし、中国共産党を問題にするならば、現在の中国共産党と日本共産党の関係はどうなっているのか、日本共産党は北朝鮮(・同労働党)をどう評価しているのかくらいはきちんと報道されてよいのではないか。しかるに、上記の月刊雑誌はもちろん、産経新聞や読売新聞でも十分には取り上げていないはずだ。
 特定の「外国」だけを批判していて、日本国内「左翼」を減少または弱体化できるはずがない。むろん報道機関、一般月刊雑誌の範疇にあるとの意識は日本共産党批判を躊躇させるのかもしれないが、1989年以降のソ連崩壊・解体によって、欧州の各国民には明瞭だった<コミュニズムの敗北>や<社会主義・共産主義の誤り>の現実的例証という指摘が日本ではきわめて少なく、その後も日本共産党がぬくぬくと生き続けているのも、非「左翼」的マスメディアの、明確にコミュニズムを敵視しない「優しい」姿勢と無関係ではないように見える。
 二 さて、<朝日を読むとバカになる>だろうが、「バカになる」だけならば、まだよい。あくまで例だが、月刊WiLL9月号の潮匡人論考のタイトルは「集団的自衛権、朝日の狂信的偏向」であり、月刊正論9月号の佐瀬昌盛の「朝日新聞、『自衛権』報道の惨状」と題する論考の中には、朝日新聞の集団的自衛権関係報道について「企画立案段階で本社編集陣そのものが狂っていた」のではないか、との文章もある。すなわち、「バカ」になるだけではなく、本当の狂人には失礼だが、朝日新聞は<狂って>おり、<朝日を読むと狂う>のだと思われる。昨年末の特定秘密保護法をめぐる報道の仕方、春以降の集団的自衛権に関する報道の仕方は、2007年の<消えた年金>報道を思い起こさせる、またはそれ以上の、反安倍晋三、安倍内閣打倒のための<狂い咲き>としか言いようがない。
 むろんいろいろな政治的主張・見解はあってよいのだが、種々指摘されているように、「集団的自衛権」の理解そのものを誤り、国連憲章にもとづく「集団(的)安全保障」の仕組みとの違いも理解していないようでは、不勉強というよりも、安倍内閣打倒のための意識的な「誤解」に他ならないと考えられる。
 一般読者または一般国民の理解が十分ではない、又はそもそも理解困難なテーマであることを利用して、誤ったイメージをバラまくことに朝日新聞は執心してきた。本当は読者・国民をバカにしているとも言えるのだが、集団的自衛権を認めると「戦争になる」?、「戦争に巻き込まれる」?、あるいは「徴兵制が採られる」?。これらこそ、マスコミの、国民をバカにし狂わせる「狂った」報道の仕方に他ならない。
 長谷部恭男が朝日新聞紙上でも述べたらしい、<立憲主義に反する>という批判も、意味がさっぱり分からない。長谷部論考を読んではいないのだが、立憲主義の基礎になる「憲法」規範の意味内容が明確ではないからこそ「解釈」が必要になるのであり、かつその解釈はいったん採用した特定の内容をいっさい変更してはいけない、というものではない。そもそも、1954年に設立された自衛隊を合憲視する政府解釈そのものも、現憲法施行時点の政府解釈とは異なるものだった。「解釈改憲」として批判するなら、月刊正論9月号の中西輝政論考も指摘しているように、多くの「左翼」が理解しているはずの「自衛隊」は違憲という主張を、一貫して展開すべきなのだ。
 安倍首相が一度言っているのをテレビで観たが、行政権は「行政」を実施するために必要な「憲法解釈」をする権利があるし、義務もある(内閣のそれを補助することを任務の一つとするのが内閣法制局だ)、むろん、憲法上、「行政権」の憲法解釈よりも「司法権」の憲法解釈が優先するが、最高裁を頂点とする「司法権」が示す憲法解釈に違反していなければ、あるいはそれが欠如していれば、何らかの憲法解釈をするのは「行政権」の責務であり義務でもあるだろう。
 1981年の政府解釈が「慣行」として通用してきたにもかかわらず、それを変更するのが立憲主義違反だというのだろうか。一般論としては、かつての解釈が誤っていれば、あるいは国際政治状況の変化等があれば、「変更」もありうる。最高裁の長く通用した「判例」もまた永遠に絶対的なものではなく、大法廷による変更はありうるし、実際にもなされている。それにもともと、1981年の政府解釈(国会答弁書)自体がそれまでの政府解釈を変更したものだったにもかかわらず、朝日新聞はこの点におそらくまったく触れていない。
 三 そもそも論をすれば、「戦争になる」、「戦争に巻き込まれる」、「徴兵制が採られる」あるいは安倍内閣に対する「戦争準備内閣」という<煽動>そのものが、じつは奇妙なのだ。日本国民の、先の大戦経験と伝承により生じた素朴な<反戦争>意識・心情を利用した<デマゴギー>に他ならないと思われる。
 なぜなら、一般論として「戦争」=悪とは言えないからだ。<侵略>戦争を起こされて、つまりは日本の国家と国民の「安全」が危殆な瀕しているという場合に、<自衛戦争>をすることは正当なことで、あるいは抽象的には国民に対する国家の義務とても言えることで、決して「悪」ではない。宮崎哲弥がしばしば指摘しているように<正しい戦争>はあるし、樋口陽一も言うように、結局は<正しい戦争>の可能性を承認するかが分岐点になるのだ。むろん現九条⒉項の存在を考えると、自衛「戦争」ではなく、「軍その他の戦力」ではない実力組織としての自衛隊による「自衛」のための実力措置になるのかもしれないが。
 朝日新聞やその他の「左翼」論者の顕著な特徴は、「軍国主義」国家に他ならない中国や北朝鮮が近くに存在する、そして日本と日本国民の「安全」が脅かされる現実的可能性があるという「現実」に触れないこと、見ようとしないことだ、それが親コミュニズムによるのだとすれば、コミュニズム(社会主義・共産主義)はやはり、人間を<狂わせる>。
 四 率直に言って、「狂」の者とまともな会話・議論が成り立つはずがない。政府は国民の理解が十分になるよう努力しているかという世論調査をして消極的な回答が多いとの報道をしつつ、じつは国民の正確な理解を助ける報道をしていないのが、朝日新聞等であり、NHKだ。表向きは丁重に扱いつつ、実際には「狂」の者の言い分など徹底的に無視する、内心ではそのくらいの姿勢で、安倍内閣は朝日新聞らに対処すべきだろう。
 朝日新聞が「狂」の集団であることは、今月に入ってからの自らの<従軍慰安婦問題検証>報道でも明らかになっている。

1248/オリンピックを<ナショナリズム発揚>と忌避する「左翼」。

 月刊正論(産経新聞社)は編集長・編集部が変わってかなりマシになってきたようだ。
 部員として安藤慶太・上島嘉郎という、信用の措けそうなベテランが入っていることも大きいのかもしれない。
 そろそろ数ヶ月遅れて中古本を読むのはやめようか、という気にもなってきた。
 月刊正論7月号で目に付くのは、元週刊朝日編集長・川村二郎の朝日への「決別」文だ。だが、読んで見るとほとんど朝日新聞社グループ内のもめ事の程度のようだ。すなわち、川村二郎は、朝日新聞社の「左翼」性あるいは「容共」性を日本国家・日本国民の立場から批判しているのでは全くない。せいぜいのところ、論説委員等の文章力への嘆きとか自分に対する処遇のうらみごと程度では、まったく迫力がない。
 それよりも、朝日新聞を毎日読むという精神衛生に良くない習慣のないところ、朝日新聞の昨年10/13付けの曽我豪(当時、政治部長)のコラムが一部引用されていて。その内容に興味を持った。川村によると、2020年東京五輪について曽我はこう書いた、という。
 「国民の和合の礎となる」よう「昇華していけるのか、国威発揚の道具に偏して無用な対立や混沌を生むのか」、これがこの7年の「日本の政治の課題なのだろう」。
 川村の批判に含まれているかもしれないように、二つの選択肢を挙げて、どちらを主張することもなく、「日本の政治の課題」だと言うのは、日本語文としても厳密には奇妙だ。「無用な対立や混沌」なるものの意味もよく分からない。
 そのことよりも、朝日新聞の政治部長がオリンピックについて「国威発揚の道具に偏して無用な対立や混沌を生む」可能性に言及していることが興味深い。明確に書くことなく(例のごとく?)曖昧にはしているが、オリンピックを「国威発揚の道具」に少なくともなりうるものとして批判的に捉える、という朝日新聞らしい感覚が見てとれる。
 オリンピックは、あるいはサッカー・ワールドカップは、客観的には「国威発揚」の場となり、国民「統合」の方向に働くことは否定できないと思われる。いちいち述べないが、やはりかなりの程度は、オリンピックでの成績(メダル数等)は<国力>に比例していることを否定できないと思われる。スポーツをできる余裕のある国民の数やスポーツに財政的にも援助できる金額等々は、国(国家)によって異なり、<格差>のあることはほとんど歴然としていると思われる。
 だが、そのことをもって「国威発揚の道具」視するのは、何についても平等でなければならず、<競争>の嫌いな、従ってまた<国家間の競争>についても批判的・諧謔的に捉えようとする「左翼」のイデオロギーに毒されている、と感じざるをえない。
 国家間の武力衝突・戦争に比べれば、平和的でルールに則った、可愛い「競争」ではないか。
 だが、「日本」代表とかいうように、個別「国家」を意識させざるをえないことが、朝日新聞的「左翼」には不快であるに違いない。
 先日言及した、<共産主義への憧れをやはり持っている>と吐露した人物は、<国威発揚の場となるようなオリンピックはやらない方がよい>と言い切った。あとで、オリンピック一般ではなく「国威発揚のために使われる」それに反対だと言い直していたのだが、趣旨はほとんど変わらないだろう。上述のように、客観的に見て、オリンピック等の「国家」を背負ったスボーツ大会は「国威発揚の場」にもならざるをえないからだ。
 何年かに一度、「日本」代表選手又は選手団の勝敗や成績に関心をもち、応援して一喜一憂する国民が多くいることは悪いことではないと思う。
 「地球」や「世界」ではなく個別の「国家」を意識させざるをえないオリンピック等に朝日新聞的「左翼」はもともと警戒的なのだ。彼ら「左翼」は、むろん日本国民の中にもいる「左翼」は、サッカー・ワールドカップのパプリック・ビューイングとやらに何万人、何千人もの人々が集まることに批判的、警戒的であるかもしれず、あるいは<ナショナリズムを煽られた>現象だと理解するのかもしれない。
 だが、そのように感じる意識こそが、どこか<倒錯>しているのだ。「国家」を意識したくなく、(本来のコミュニストはそうだが)「国家」を否定したい、というのは<異常な>感覚なのだ。「日本」代表を応援するのが<ナショナリズム>だとすれば、それは何ら批判されるものではないし、批判的に見る<反・ナショナリズム>の方がフツーではない。しかし、一部にはそういう者もいて、<大衆は…>などと批判していそうなのだから、異様で、怖ろしい。

1245/「共産主義への憧れ」を語る者が現存するごとく共産主義思想は死んでいない。

 三〇歳前後の男が、「共産主義への憧れはもっていますね」と明確に言うのをじかに聴いたことがある。少しは酒が入ってはいたが、それはこのつぶやきの真実性又は本音ぶりをむしろ増すものだろう。
 ところで、渡辺利夫・国家覚醒-身捨つるほどの祖国はありや(海竜社、2013)のはしがきの中には「冷戦崩壊後」という言葉があり、この渡辺だったか別の人の著書だったか、「共産主義(マルクス主義)の敗北が明らかになった後も…」という文章をごく最近に読んだことがある。
 中西輝政もまた、月刊正論4月号で「冷戦」について、「世界的にはソ連が消滅する一九九一年まで続いた」と語っている(p.56)。
 ソ連崩壊が重要な出来事であり世界史的画期だったことを否定しないが、東アジアでは「冷戦」は終わらなかった、中国や北朝鮮等の残存が証左である、等のことをこれまでこの欄で強調してもきた。さらに追加すれば、共産主義社会を究極的には志向する日本共産党という「共産主義」政党、中国共産党をかつてとは違って<友党>のごとく扱っている政党の存在こそが、日本内部においてすら<冷戦構造>が残っていることを明らかにしているようにみえる。特定の論者にとっては「共産主義(マルクス主義)の敗北が明らかになった」のかもしれないが、日本社会全体、日本人全体にとっては客観的には決してそうではない、と思える。
 自由主義対共産主義という対立は終わっておらず、<反共>か<容共>かが、現下の、石原慎太郎がしばしば引き合いに出す毛沢東の書物にいう、<最大の矛盾>点であり、最大の対立軸である、と考えている。
 日本共産党は当然だが、朝日新聞や岩波書店あるいは諸「左翼」論者がどちらの立場に客観的には立っているかが最重要な問題として意識されなければならない。
 中国や北朝鮮の現実にはいっさい又はほとんど言及せず、ときに<反米>的言辞を織り交ぜながら、安倍晋三内閣を「戦争準備政権」等々と称して、とにもかくにも安倍内閣がしようとしていることに反対し、あるいはいちゃもんをつけている輩は、客観的には中国(中国共産党)や北朝鮮(同労働党)を利する、<容共>の者たちであることをしかと確認しておかなければならない。
 冒頭に登場させた人物のごとく、ひょっとすれば「左翼的な」高校までの教育を受け、大学でさらにその「左翼」性を(主観的にはまるで自然・当然の<正当な>考え方を持っていると意識するようになるまでに)増した結果として、「共産主義への憧れ」を公然と語る日本人が現に存在することを忘れてはいけない。
 日本共産党へ投票する者の中にはさまざまな人がおり、単純に反自民党又は反「保守」気分だけの者もいるかもしれないが、まじめな?日本共産党員も含めて、「共産主義に憧れている」日本人はまだ!少なからず存在しているのだ。
 中西輝政はどこかで社会主義・共産主義あるいはマルクス主義を正面から主張しずらくなった「冷戦崩壊」以降、日本の「左翼」は<反日>を正面に掲げた、というような趣旨を書いていたが、<反日>の背後で社会主義・共産主義あるいはマルクス主義を決して捨てていないこと、あるいは<容共>・<親共>主義にとどまっていること(これはまた中国・同共産党をまったくかほとんど批判しない、という、あるいは中国・同共産党を刺激するような<ナショナリズム>的言動を日本はすべきではないなどと主張する、朝日新聞的「親中」主義でもあること)を看過してはいけない。
 むろん中西輝政はさすがに、上記の月刊正論4月号の中で、「共産主義と冷戦」の責任を対外的にもむ対内的にも追及しなかった「冷戦崩壊」以降の風潮を鋭く批判している。「ロシア革命以来の共産政権を生み出した国々こそ、『平和に対する罪』『人道に対する罪』が適用されるべき『人類史上の大罪を犯した侵略国家』として裁かれるべき」なのだ(p.57)。
 1990年頃以降、日本の政界・論壇等々はいったい何をしてきたのか。日本共産党の<ソ連は社会主義国家ではなかった>などという奇妙な反論?に納得したわけでもあるまいが、日本共産党や日本内部にいる(ソ連崩壊までソ連等の「社会主義」国に米国よりも親近感・期待感をもって議論してきた)「左翼」マスコミ、「左翼」論者等々の<責任>をいかほどきちんと追及したのか?
 1990年代に反自民細川政権、日本社会党首班の自社さ連立政権を成立させるとは、日本人全体又は多くが<狂って>いたとしか思えない。
 何度も書いたが、米国にもポルトガルを除く欧州諸国にもコミュニスト政党は存在しない(ドイツでは結成自体が法的に禁止されている)。日本は特異であり、異様なのだ。これまた、日本人特有の「お人好し」、外来思想をある程度は取り込むことに長けた日本人の特性に由来するのだろうか。困ったことだ。
 中川八洋はルソーを称揚すればマルクスは何度でもよみがえる、と書いていた。ルソーにまで遡らなくとも、日本共産党を批判しかつ同党から批判されながらも、明らかに「反共」ではなく「容共」論者であった丸山真男を称揚する書物は今日でも新たに発行されている。丸山真男を称揚しておけば、「左翼」=<容共>主義は何度でも蘇り、維持されるだろう。怖ろしいことだ。
 

 

1242/「積極的平和主義」を批判する朝日新聞。

 朝日新聞1/15朝刊の「今村優莉、清水大輔」との署名のある<安倍首相の言う「積極的平和主義」って?>というタイトルの記事は、朝日新聞らしくて面白い。
 安倍首相が使っている「積極的平和主義」(に立つ)という表現の仕方はなかなかうまいものだと感じていた。つまり、従来は「平和」は<革新>または<左翼>の標語で、これに対する「戦争」または「好戦」とは<保守>または<右翼>の好むものだというイメ-ジを「左翼」は撒いてきたのが、安倍首相は逆手にとって自らを「積極的平和主義」者と位置づけ、従来の<左翼>の「平和」主義とは「消極的平和主義」、「何もしない平和主義」に他ならないことを皮肉をも込めて?明らかにしているように思えたからだ。
 上のことがどうやら朝日新聞記者には気にくわないらしい。上の記事は安倍の「積極的平和主義」の意味をあえて特定の意味に理解しようとし、そしてそれを批判している。
 その前にこの記事には意味が不明確な概念・語が無前提に使われている。第一に、「平和憲法の改正を目指す安倍氏…」という表現がある。ここでの「平和憲法」とはいったい何を意味しているのか? 朝日新聞または同新聞の愛読者には自明なのかもしれないが、「平和」主義にも非武装平和主義から(例えばスイスのような、徴兵制による正規軍をもつ)武装平和主義まで種々のものがあることを考えても、「平和憲法」という語の意味は自明ではない。おそらくは前者のごとき意味で用いているのだろうが、それのみが「平和憲法」なるものの意味内容であるとは限らないことを知るべきだろう。「平和憲法の改正をめざす」という表現によってすでに、安倍首相は非平和的・好戦的というイメ-ジを提示してしまっているのだ。第二に、坪井主税という平和学専門らしき札幌学院大名誉教授の引用コメントの中に「9条の平和主義」という語があり、これまた厳密には意味不明であるとともに、これを改正すること=悪という前提に立った叙述をしている。自民党の改憲案も9条第一項は残すのであり同条項の「平和主義」を捨てているわけではない。朝日新聞的な論理または単純素朴な護憲派のイメ-ジを全く知らないものにとっては、奇妙な叙述であり、不思議な前提だ。
 上記のことだけでもすでに朝日新聞らしさは十分に出ているが、<積極的平和主義>については以下のごとくイチャモンをつけている。①青井未帆(学習院大教授・憲法学)の、安倍首相は「平和」概念の広さを利用して「狡猾」で、「アメリカのつくる『世界平和のあり方』、つまり軍事力介入をいとわない“平和”を前提」とするものだ、とのコメントを用いる。②都築勉(信州大教授・政治学)の「国際協調主義に基づく積極的平和主義」という意味ならば現行憲法の尊重で足りる、等のコメントを用いる。③坪井主税の、安倍首相国連演説の「積極的-」の英訳は「Proactive」だが、これは「『先攻的にやっつける』という意味にもとれ、日本が9条の平和主義を捨て、自衛隊という軍事力を行使する意志を示したととらえられてもおかしくない」とのコメントを用いる、など。
 結局のところ、第一には、安倍首相の憲法改正志向や「集団的自衛権」の政府解釈や「武器輸出三原則」見直しの志向を批判する、という前提に立って安倍が「平和」という概念を用いることに文句をつけて(矛盾するなどとして)「積極的平和主義」を批判しているのであり、従来かつ現在の朝日新聞の立場を反復するものにすぎない。第二には、安倍首相の「積極的」を「軍事力介入をいとわない」あるいは「先攻的にやっつける」という意味だと分析?して批判しており、ここには批判したさがゆえの歪曲または単純化が見られる。「積極的平和主義」とは「軍事力介入をいとわない」・「先攻的にやっつける」平和主義だ、との解釈は、かなりの特定・限定または歪曲を施した、批判しやすくするための概念理解に他ならないだう。「積極的」=「Proactive」は「先攻的にやっつける」という「意味にもとれ」とは、悪意に満ち満ちた理解だ。
 世界各地に見られる<非平和>状態・地域に関して、あるいは日本もまた直面している「平和」の危機に際して、今村優莉清水大輔はいかなる対応策あるいは政策・戦略を考えているのだろうか。軍事的要素に脊髄反射的な反発をするだけ、という「平和ボケ」の典型的な姿が、この朝日新聞の記事にも見られるようだ。
 ところで、朝日新聞のおそらくはまだ若い方の記者の署名入り記事をときどき読んで思うのだが、朝日新聞の若い記者たちは、若い間に<朝日新聞的>な主張・考え方に添った文章をどれほどうまく書ける能力があるかによって、上司に<勤務評定>されているのだろう。安倍晋三あるいは自民党を批判することは当然のこととして、それをいかに面白い観点からいかに洒落た文章で行えるかが試されているのだと思われる。朝日新聞社内で「出世」するためにこのようなことで競わなければならないとは、特定の政治団体に入ってしまったがための仕方がないこととはいえ、まことに可哀想で気の毒なことだと感じる。

 

1239/朝日新聞による「倒閣」運動としての特定秘密保護法反対キャンペーン。

 〇「政治結社」朝日新聞のヒドさは何度も書いたことで、それは、そもそもこのブログサイト開設の動機の重要な一つだった。
 月刊WiLL2月号(ワック)の山際澄夫「『秘密保護法反対』朝日のデマ報道」は近時の朝日新聞(正確には朝日新聞「等」)の「デマ報道」ぶりを社説等(大野博人の論説を含む)を引用しつつ具体的に指摘しており、資料的価値も高い。いくつか、紹介またはコメントする。
 ・山際も書くように、「一般人が特定秘密であることを知らないで情報を受け取っても処罰されることはない。暴行、脅迫。不法侵入、有線傍受などによって特定秘密を不正に取得した場合に限り、罪になる」(p.248)。しかるに、山際に依拠しておけば、朝日新聞10/26社説は「国民の知る権利」・「報道の自由」を制約し「その影響は市民社会にも広く及ぶ」と、同11/08社説は米軍基地・原発等の情報を得ようと「誰かと話し合っただけでも、一般市民が処罰されかねない」と書いた。
 処罰対象に「特定秘密」を知る(政府から業務委託を受けた会社従業員等の)民間人や上記のような態様でそれを不正に取得した民間人が含まれるのは確かだが、朝日新聞が書くように「影響は市民社会にも広く及ぶ」ことはないし、特定秘密に関心をもった「一般市民」がそれだけで刑罰を課されることはない。
 上のような朝日新聞社説は、意見・主張ではなく「デマ」の撒き散らしに他ならない。
 ・この欄でも既に書いたが、民主党政権時代の尖閣中国船衝突事件のビデオの「公開」に関する意見・姿勢と今次の朝日新聞のそれはまるっきり違う。山際が見出しとするように、「朝日、いつもの二重基準(ダブルスタンダード)」なのだ(p.248)。
 ・朝日新聞12/07社説は(私もデータ保存している可能性があるが山際に従って書くと)、12/06に成立した特定秘密保護法をかつてのドイツの全権委任法や日本の国家総動員法になぞらえ、この法律によって日本が「戦前」に戻るかのごとき主張をしている。
 また、朝日12/08の「天声人語」いわく-「国の行く末がどうなるか、考えるよすがもないまま戦争に駆り立てられる。何の心当たりもないまま罪をでっち上げられる。戦前の日本に逆戻りすることはないか」。これまた、「デマ」の撒き散らしだ。そして、悪質の<被害妄想>症に罹患している。あるいは、このような<被害妄想>をかりに一部でも本当に持っているとすれば、それだけの<やましさ>を朝日新聞が感じているのではないか、と推測することもできる。
 朝日新聞は日本の防衛・安全保障等に関する情報(特定秘密)を取得して、日本のそれらを害するように報道して「公開」したい、そして積極的にか結果としてか、「共産党」中国や北朝鮮に知らせたいのではなかろうか。いちおう疑問形で書いたが、<反日・売国>の政治結社・朝日新聞ならば、これらの疑いは肯定される可能性が十分にある。
 ・上のコラムはまた、この法律は日本版NSC設置と併せ、「その先」の武器輸出三原則の見直し・集団的自衛権行使容認という「安倍政権の野望」が成就すれば、「平和国家という戦後体制(レジーム)は終わる」と書いたようだ。
 「平和国家」なるものの厳密な意味を知りたいところだが、それはともかく、このような基本的な「思想・思考フレーム」は、戦前は悪、日本国憲法九条二項等をもつ「平和と民主主義」の戦後は善、その好ましい「戦後体制」を<保守・反動・好戦>勢力が終わらせ(そして悪しき戦前に逆戻りさせ)ようとしており、その先頭に安倍内閣・安倍晋三首相がいる、という、最近に紹介した刑事法学者・憲法学者等の声明等も抱いている、共通のものだろうと考えられる。
 いいかげんに覚醒せよ、と言いたい。そして、そのような「思想・思考フレーム」の種は元来はアメリカが作ったものであり、今日では客観的には「共産主義」中国の利益になる、あるいは中国共産党が喜ぶものであることを、知らなければならない。日本共産党(員)や朝日新聞社説子のごとき確信者または「嵌まった人々」以外のまだまっとうな「思想フレーム」に立ち戻ることのできる可能性がある人々はじっくりと、自らの現在の基礎的な<思想・思考フレーム>が適切なものであるかを疑ってみてほしいものだ。
 〇月刊WiLL同号の青山繁晴「『秘密保護法』全否定論に欺されるな」(p.76-)にも言及する予定だったが、割愛する。
 なお、青山繁晴が生出演してコメント等をする水曜日夕方の番組は毎回録画している。青山は、今年(2013年)の8月末にはその番組で、特定秘密保護法案の概要を紹介し、コメントしていた。8月末にすでに少なくとも自民党内において原案がほぼ確定していたのだとすると、10月末または11月初めに発売される月刊雑誌12月号において、スパイ防止法の機能もある程度はもちうるこの法律(案)の重要性・必要性について特集を組むか、そうでなくとも詳細な論考を掲載できたのではないか、と思われる。
 しかるに、10月末・11月初めに発売の月刊WiLLや月刊正論(産経新聞社)12月号は(そして翌月の1月号も)秘密保護法についてほとんど何も掲載しなかったのではないか。朝日新聞等による<大騒ぎ>を許し、安倍内閣の支持率を一時にせよ10%ほども減らした原因の一つは、<保守>メディア(および<保守>論者)のだらしなさにもある、と言ったら、言いすぎだろうか。

1235/「左翼」メディアと特定秘密保護法-月刊WiLL2月号。

 〇別冊正論Exttra20(2013.12、産経新聞社)が「NHKよ、そんなに日本が憎いのか」と題する一冊丸ごとNHK批判の雑誌を出し、月刊WiLL2月号(ワック)も櫻井よしこと高池勝彦の対談「NHK偏向報道判決と秘密保護法」などを掲載している。
 上の対談の中で櫻井は、「NHKや朝日新聞」ととくに名指ししたうえで、秘密保護法反対の煽り方は「もはや報道機関ではなく運動体であり、新聞はプロパガンダ・ペーパーと化している」と述べ、高池は「秘密保護法反対派は『言論の自由』や『知る権利』が制限されると言いますが、では報道機関は本当に国民の権利に応えてきたのか」と、正当な疑問を示している。
 〇NHK固有の問題は別にまた触れるとして、秘密保護法とNHKを含むメディアとの問題については、月刊WiLL2月号の表表紙には記載されていない、つぎの二つの小稿が興味深かった。
 西村幸祐の連載コラムの今回の「加速する報道テロの防止策」は、「鳩山政権で九回、菅政権で八回、野田政権で四回の強行採決があった」し、2010年の公務員国籍条項削除の国家公務員法改正案の強行採決の際には「三宅雪子の転倒演技に」報道を集中させ、法案の危険性や強行採決の問題性もが当時のメディアは問題にしなかった、しかるに……、と説く。朝日新聞等の「左翼」メディアが民主党政権時と自民党等の安倍政権時ではまるで異なる報道姿勢をとっていることを気づかせてくれる。<審議が十分でない。なぜ急ぐのか>というキャンペーンはある程度は効を奏したようで、これを肯定する世論調査結果もあったと思われる。しかし、上の民主党政権時の「強行採決」の回数は知らなかった。朝日新聞等のメディアは、その当時、強行採決を「多数の暴挙」等々と厳しく批判したのか。
 <ご都合主義>、<ダブル・スタンダード>の、朝日新聞を中心とする「左翼」メディア。「プロパガンダ」団体であり、政治団体であることはますます明確になってきている。
 上の一文と同じことをまた書かなければならないが、門田隆将の連載コラムの今回の「『秘密保護法』と『人権擁護法』どちらが怖い」は、(国会に上程までされたかは確認していないが)2012年9月に野田内閣が人権擁護法案(人権委員会設置案)を閣議決定したとき、強大な権限をもつ「人権委員会」が「人権擁護」の名のもとに「裁判所の令状なしでジャーナリストたちに『出頭命令』や『家宅捜索』、『押収』等をできることにメディアは反対しなかった、しかるに……、と書く。
 鳥越俊太郎、金平茂紀らは昨年に人権擁護法案に反対する運動をし、記者会見等をしたのか。現役の放送会社員・TBSの金平茂紀も含めて<政治活動家>であることははっきりしているから、もはや驚きはしないのだが。
 <ご都合主義>、<ダブル・スタンダード>の意識の一片もなく、真面目に(安倍内閣提出の)特定秘密保護法案には反対したのだとすれば、これらのメディアの人々の「神経」を疑うし、そのような人々が平然とテレビ画面に出てくる現実に恐怖を覚える。
 なお、上の西村幸祐のものを読んで、前回に記した「朝日新聞」の<犯罪>の中に、2005年1-2月の、安倍晋三・中川昭一の政治的生命を奪おうとする、<女性戦犯法廷放映政治家圧力>事件も加えておくべきだった、と思い出した。朝日新聞の本田雅和らNHKの長井暁らが「共犯」の事件だった。

1234/朝日新聞はますますおかしくなってきた。

 一 随分と久しぶりに、いつのまにか隔週刊から月刊に変わっていたサピオ2014年1月号を買ったのは、「朝日新聞がますますおかしくなってきた」との特集を読みたかったためだ。
 その特集には慰安婦問題にかかる朝日新聞の責任を衝く西岡力、親中・親北朝鮮の問題性を指摘する井沢元彦の論考がまずあり、他に青山昌史が特定秘密保護法に対する朝日新聞の反対には「とにかく政府が何かを秘密にすることは許せない」という「一種の原理主義のような前提」があるなど等と指摘している。たしかに、朝日新聞は問題を<政府が国民に対する秘密をもつことが是か非か>という、「秘密」=悪というイメ-ジを利用しての、単純で抽象的なレベルに矮小化してしまっていた、ともいえる。但し、それは自民党・安倍内閣批判のためであって、同じ又は類似の内容の法案を民主党が提出してきたのだとしたら、間違いなく朝日新聞の対応は変わっていただろう。
 二 上掲誌には「本誌編集部」作成の「朝日新聞誤報』『虚報』ベスト10」が掲載されている(p.101)。以下のとおりで、より詳細な内容や朝日新聞の事後措置に関するコメントの部分は省略して紹介しておく。
 殿堂①1991.08.11大阪朝刊-「思い出すと今も涙/元朝鮮人慰安婦を韓国団体聞き取り、同②1992.01.11朝刊-「慰安所への軍関与示す資料/防衛庁図書館に旧日本軍の通達・日誌」ほか、1位1989.04.20-「サンゴ汚したK・Yってだれだ」、2位1950.09.27朝刊-「宝塚山中に伊藤律氏/不精ヒゲ、鋭い眼光”潜入の目的は言えぬ”」、3位2005.08.21朝刊・同22朝刊-「郵政反対派『第2新党』が浮上」「追跡/政界流動『郵便局守れだけでは』」、4位1959.12~1960.01-北朝鮮帰還事業に関する一連の報道、5位1984.08.05朝刊-「南京虐殺も現場の心情つづる/元従軍兵の日記、宮崎で発見」、6位1984.10.31朝刊-「『これが毒ガス作戦』と元将校/当時の日本軍内写真を公表」、7位1982.06.26朝刊-「教科書さらに『戦前』復権へ/文部省高校社会中心に検定強化『侵略』表現薄める」、8位2002.06.05朝刊-「ヒデ『最後のW杯』チームに献身」、9位1995.03.29栃木版-「地方分権の時代に逆行/石原前官房副長官に首長や県職員が選別」、10位2009.05.26朝刊-「核拡散北朝鮮の影、常に」記事中、「核兵器をめぐる現状」と題した世界地図〔台湾を中国の一部として色塗り〕、番外編①2012.11.21朝刊-「白川総裁、ゼロ回答/安倍構想『やってはいけない最上位』」、番外編②2013.09.08午前4時5分頃-2020年夏季五輪で「東京落選」。
 『誤報』又は『虚報』ではないのかもしれないが、特定の政治的立場に立った一定期間継続するキャンペーン報道についても、きちんと記録・年表に残しておいてほしいものだ。例えば、①2007年参院選前の反安倍内閣報道(消えた年金、政治事務所経費等)、②2009年総選挙前の「政権交代」煽動、③今次の特定秘密補保護法案反対報道・記事作成。
 三 朝日新聞の読者数を、その影響力を相当に落とさないと、安心して憲法改正、とくに現九条二項削除を、国民投票に委ねることはできないと、関係機関、関係者は心しておくべきだろう。

1233/池田信夫の特定秘密保護法論の一端。

 池田信夫は、原発問題も含めて、相当に信頼のおける、穏当・妥当な(中立・中庸という意味ではない)主張・議論をする人物だと思っている。
 正確な月日を特定できないが、某メルマガ上での、特定秘密保護法に関する池田の文章を見つけたので、この欄の執筆者なりに要約して紹介しておくことにする。
 何事が起こったのかと驚くようなキャンペーンをはっていた朝日新聞等の社説子・記者や朝日新聞等に煽られたか又は逆に朝日新聞等を煽ったかの特定秘密保護法「反対」学者たちは、冷静に読むがよい。単独(多数)講和反対論、60年安保反対論と同様の(それらよりもアホらしいほど程度レベルだが)、すでに正否・適否の結論の出ている空想的・観念的・妄想的「反対」論であったことを知らなければならない。自分たちが恥ずかしいことをしたことを知らなければならない。
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 池田信夫「秘密保護法についてのまとめ」
 <マスコミが大騒ぎする割に何が問題かさっぱりわからないようなので、常識的な事項を簡単にまとめる。「特定秘密」は安全保障に関する情報で、「普通の人が軍事・外交機密に接触する機会はまずない」。この法律が「むしろ軍事・外交機密に範囲をせばめたことで、機密の対象は明確になった」。「『特定有害活動』とか『テロリズム』が拡大解釈されるおそれはある」としても、「普通の人にはまず関係ない」。「その種の人々に対する情報収集は今でも行なわれて」おり、「この法律で広がるわけではない」。この法律による変化の「最大のポイントは、今まで機密漏洩の罰則は国家公務員法と自衛隊法しかなかったのが、公務員の家族や友人、あるいは出入り業者など民間人にも処罰対象が広がることだ」。但し、「運用には注意が必要」だとしても、「これは当然で、国家公務員という身分より軍事機密という情報の属性で分類するのが正しい」。「特定秘密の基準が曖昧で民間人を巻き込むリスクはある」が、それは「主として運用の問題」で、「問題の本質」は「日本の安全保障にどういう影響を及ぼすか」だ。「最大の目的は米軍のもっている軍事機密の提供」で、在日米軍の将来の撤退に備えて、「自衛隊も『自立』して」ほしいというのがアメリカ政府の企図だろう。「臨時国会で成立させるほどの緊急性があるとは思わない」が、「法案が提出された以上は、成立させるしかない」。必要以上にもめれば、「中国に誤ったシグナルを送る結果になる」。「防空識別圏」は小さな問題のようにみえるが、戦争は小さなきっかけでも起こりうる。「日本人もそろそろ平和ボケから覚めるときだ」。>
 池田信夫「秘密保護法の本当の欠陥」
 <「空騒ぎもようやく終わった」。問題は秘密保護法だけでは「機密を守る役に立たないこと」だ。「中国の諜報機関」、中国の「1万人のサイバー攻撃部隊」による「攻撃が、世界の諜報機関を悩ませている」。特定秘密保護法の「大部分は『特定秘密の取扱者』の規制とその適性評価」にさかれおり、「古典的なHUMINTを想定しているので、サイバー攻撃には役に立たない」。安倍首相発言のごとく、、現在「『特別管理秘密』に指定されている42万件の情報の9割は衛星写真」で、「残りは暗号や潜水艦の位置情報などの軍事機密」であり、「マスコミとは関係のない、安全保障の問題」だ。「今の無防備な日本には、アメリカは戦略情報や軍事機密を出さない。だから国家公務員だけでなく、三菱重工のような防衛関連企業にも守秘義務を課してセキュリティを管理する秘密保護法は必要だが、不十分」。新聞などという業界の既得権より、「ハイテク諜報戦争の防護のほうがはるかに重要」だ。>
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. こんな池田の文章を読んでいると、すでに紹介したような、憲法の「平和主義」を持ち出したりしての、「反対」声明・意見の<空理・空論>さを強く感じる。立命館大学有志意見はこの法律は「一般的な秘密の保全というよりは、軍事的な防諜法の側面が強いものになってい」ると言い、「刑事法研究者の声明」は「この法案は、端的に言えば、軍事立法としての性格を色濃く有して」いると言うが、そそもなぜ、そのことがいけないのだろうか。
 この人たちは、「軍事」一般を「悪」と見ており、かつ「戦争」を起こす(又は起こしたい)のは日本かアメリカ(又はアメリカに追随しての日本)だと思い込んでいるようだ。従って、東アジアの現実をリアルに見ることができていない。日本よりも「軍事」を重視し、「軍国主義」化しており、日本に対して戦争を起こす(日本領土を「侵略」する)可能性・危険性を切実に意識しておくべきなのは、共産中国または北朝鮮ではないか。簡単に述べても理解できないのだろうが、今日でも、社会主義(国)=善、自由(資本)主義(国)=悪と見るという、そして危険なのは日本(の「保守・反動」派)だという、50年以上前にすでにあった古色蒼然たる観念を、愚かにも現在まで持ち続けている。こんな意識からは、日本と日本国民の「安全」を守るためには<防諜>や<インテリジェンス>が必要などという考え方はまるで出てこないか、まるで理解できないのだと思われる。そして、日本と日本国民の「安全」を本当にまたは現実に守らなければならないという意識・考え方がじつはきわめて薄いのだと思われる。日本と日本人から<距離を置く>ことが<ナショナリズム>に陥らない良いことだ、と考えているのかもしれない。
 何やら良心的・進歩的な言説を吐いているつもりかもしれないが、<空理・空論・妄想>に嵌まったままの、気の毒な人たちだ。そして、大学教授たちの中に少なからずそういう人たちがいるのだから、日本の大学教育(法学教育)の現在と将来には悲観的にならざるをえない。むろん、冷静で、正常で、まともな教授たちもいるに違いないが。

1230/特定秘密保護法反対の朝日新聞社説10-11月のいくつか。

 朝日新聞は特定秘密保護法の成立まで、ほとんど毎日のように法案に反対する社説を掲載し続け、同法案の問題点等を示唆・指摘する、いったい何事が起きたかと思わせるような「狂った」紙面づくりをしてきた。
 衆院通過後の朝日11/27社説は「国の安全が重要なのは間違いないが、知る権利の基盤があってこそ民主主義が成り立つことへの理解が、全く欠けている」とほざいている。この新聞はそもそも、はたして「国民の知る権利」に奉仕してきたのか?
 必要な情報をきちんと報道しないどころか、種々の「捏造」記事を書いて、日本の国家と国民を欺し、名誉も傷つけてきた。<従軍慰安婦>問題のニセ記事もそうだし、教科書の<近隣諸国条項>誕生のきっかけとなった、<侵略→進出書換え>という捏造報道もそうだった。2005年には本田雅和らが<NHKへの政治家の圧力>報道問題を起こした。尖閣・中国船衝突事件ではビデオを隠す政府側を擁護したことは先日に触れた。
 朝日11/12社説は「何が秘密かの判断を事実上、官僚の手に委ねるのが、法案の特徴だ。そこに恣意的な判断の入り込む余地はないか」と、奇妙なことをほざいている。第一次的には行政「官僚」が判断しないで、いったい誰が、どの機関がそれをするのか? 国会か、裁判所か、それとも朝日新聞社か。首相・内閣の指揮監督・調整をうけつつ関係行政機関の長が補助機関たる「官僚たち」の専門的知見を参照しつつ指定せざるをえないものと思われる。また、「恣意的な判断」についていえば、法律が行政権・行政機関に何らかの「権限」を授権する場合に、その権限の「恣意的」行使あるいは濫用のおそれはつねにあることで、この法律に限ったことではない。
 実質的に行政官僚が判断に相当に支えられつつ政治家でもある担当大臣等が「規制」権限を行使することとしている法律はおそらく千本以上ある。朝日新聞は、上の主張を貫くならば、そうしたすべての法律に反対すべきだ。幼稚なことは書かない方がよい。
 朝日11/26社説は地方公聴会での、「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の情報が適切に公開」されなかった問題を指摘した意見を法案と関係があると擁護している。だが、この問題は、この社説のいうような、「危急の時にあっても行政機関は情報を公開せず、住民の被曝につながった」ということではないだろう。
 「SPEEDIの情報」の「公開」とは何を意味しているのか。朝日新聞が擁護し応援した民主党政権が、政府が<知り得たはずの情報を有効に利用(活用)できなかったことにこそ問題があったのであり、法案とはやはり無関係だったと考えられる。公開・非公開、秘密にするか否かではなく、政府内部で「非公開」でも「秘密」でもなかった情報を民主党政権が適切に利用できなかった、というのというのが問題の本質だっただろう。朝日社説は民主党政権の「責任」につながるような論点であることを回避し、強引に一般国民との関係の問題にスリカエている。
 朝日新聞がまともな新聞ではないことは、今次の報道ぶりでもよく分かる。結局のところ、あれこれの改正・改善がなされたとしても、いわゆる四分野、①防衛、②外交、③スパイ等の「特定有害活動」の防止、④テロ防止、について「特定秘密」を設ける法律は許さない、いかに個々の論点・問題点を指摘して、それらが解明または改善されれば問題がなくなったとしても賛成するつもりは全くない、というのが朝日新聞の最初からの立場だったと思われる。
 国会上程時の10/26朝日社説は「特定秘密保護―この法案に反対する」という見出しになっている。それ以降、報道機関ではなく、政治的運動団体として、その機関紙を毎日(地域によっては毎朝と毎夕)政治ビラのごとく配布してきたわけだ。朝日新聞(会社・記者)はおそらく、自分たちが<スパイ等の「特定有害活動」>という「反日」活動ができにくくなることを本音では怖れているのだろう。
 「反日」と共産主義に反対する政治家たちは、もっと勇気をもって、堂々と朝日新聞と対決し、同新聞を批判してもらいたい。

1227/「政治結社」朝日新聞に「国民の知る権利」を語る資格はない。

 一 特定秘密保護法成立。それにしても、逐一言及しないが、朝日新聞の騒ぎ方、反対の仕方はすごかった。「捏造に次ぐ捏造」がほとんどだったのではないか。秘密指定は行政が勝手に、などと批判していたが、では誰が指定するのか。戦前の治安維持法を想起させるというような記事か意見紹介もあったが、批判の対象を別のものに作り替えておいて批判しやすくするのは、「左翼」メディアには常套の、しかし卑劣な報道の仕方に他ならない。
 この数ヶ月、朝日新聞がこの法案に反対の記事等で紙面を埋めていたのは「狂って」いたかのごとくであり、かつ実質的には政治団体の機関紙だから当然ではあるが、この法案を支持する国民の声・意見をほとんど無視したという点で、じつは「国民の知る権利」を充足させないものだった。
 国会の議席数からして成立するだろうことは容易に予想できた。しかし、朝日新聞の意図は、あわよくばとは思いつつも、結局は安倍内閣に打撃を与えること、そして安倍内閣への支持率を減少させること(そして、次期衆院選挙・参院選挙の結果によって安倍内閣の継続を許さないこと)にあったと思われる。特定秘密保護法案に対する法的な・理屈の上での批判ではなく、相変わらず、<戦争準備>とか<戦前の再来>とかを基調とする紙面作りによって読者国民を欺き、反安倍ムードを醸成することにあったかと思える。
 本日報道されたNHKの1000人余をベースとする世論調査によると、安倍内閣支持率は10%下がり、不支持率は10%上がったとか。あの、朝日新聞の無茶苦茶な「反」ムードを煽る「捏造に次ぐ捏造」報道は、この数字を見るとかなり効いたようで、アホらしくもある。安倍晋三首相は「反省」の言葉も述べていたが、<マスコミの一部は…>という堂々とした批判をしてもよかっただろう。朝日新聞らの報道ぶりやデモに怯んだのか、与党・自民党の閣僚や議員にも朝日新聞らに対する反論をするのにやや消極的な面があったような印象ももつ。
 こんなことでは、いかなる手順によるにせよ、憲法改正(の国民投票)はとてもできない。今回すでに山田洋次や吉永小百合らの「左翼・映画人」が反対声明を出していたが、本番?の憲法改正(とくに現九条二項の削除と「国防軍」の設置)では今回以上に激しい<反対>運動が起こる(日本共産党や朝日新聞社が中心として起こす)ことは間違いない。心ある政治家・国会議員たちは、周到な<左翼・マスメディア>対策を(もっと)用意しておくべきだろう。
 二 朝日新聞は「国民の知る権利」や表現の自由・集会の自由を持ち出して<物言えば唇寒き時代の到来>とかの批判もしていたようだが、安倍内閣を批判することを目的とするレトリックにすぎない。何ら真剣な検討を必要としないものだ。
 朝日新聞が「国民の知る権利」を擁護・尊重する側につねには立たない<ご都合主義>の新聞であることは、以下のことでも明らかだ。
 2010年秋のいわゆる尖閣・中国船衝突事件の衝突の際のVTRは、当時においてかなり多くの海上保安官が観ていたようだが、今次の秘密保護法の「特定秘密」には当たらないと政府は答弁している。当時も、警察・検察当局は公務員法上の「職務上知り得た秘密」漏洩罪で逮捕せず、また起訴しなかった。
 しかし、当時の民主党内閣・仙谷由人官房長官はVTRを公にした一色正春を「犯罪者」扱いし、一色の気持ちは分かるが政府・上級機関の方針にはやはり従うべきだとの世論をある程度は作り出した。そして、一色は懲戒停職1年の行政的制裁をうけ、-この処分にもっと抵抗していてよかったのではないかと思うが-一色は依願退職した(おそらくはそのように余儀なくされた)。
 さて、「国民の権利」を充足させたのは一色正春であり、「中国を刺激したくないという無用な配慮から、一般への公開に後ろ向きだった」(読売新聞2010.11.06社説)のは当時の民主党政権だったのは明らかだと思われる。
 しかるにこの当時、朝日新聞はいったい何と言っていたか。2010.11.06朝日新聞社説はつぎのように書いた(一部)。
 「流出したビデオを単なる捜査資料と考えるのは誤りだ。その取り扱いは、日中外交や内政の行方を左右しかねない高度に政治的な案件である。/それが政府の意に反し、誰でも容易に視聴できる形でネットに流れたことには、驚くほかない。ビデオは先日、短く編集されたものが国会に提出され、一部の与野党議員にのみ公開されたが、未編集の部分を含めて一般公開を求める強い意見が、野党や国民の間にはある。/仮に非公開の方針に批判的な捜査機関の何者かが流出させたのだとしたら、政府や国会の意思に反する行為であり、許されない。/もとより政府が持つ情報は国民共有の財産であり、できる限り公開されるべきものである。政府が隠しておきたい情報もネットを通じて世界中に暴露されることが相次ぐ時代でもある。/ただ、外交や防衛、事件捜査など特定分野では、当面秘匿することがやむをえない情報がある。警視庁などの国際テロ関連の内部文書が流出したばかりだ。政府は漏洩ルートを徹底解明し、再発防止のため情報管理の態勢を早急に立て直さなければいけない。/流出により、もはやビデオを非公開にしておく意味はないとして、全面公開を求める声が強まる気配もある。/しかし、政府の意思としてビデオを公開することは、意に反する流出とはまったく異なる意味合いを帯びる。短絡的な判断は慎まなければならない」。
 この朝日新聞社説は「短絡的な判断は慎まなければならない」との説教を垂れ、「もとより政府が持つ情報は国民共有の財産であり、できる限り公開されるべきものである」と言いつつも、「外交や防衛、事件捜査など特定分野では、当面秘匿することがやむをえない情報がある」と書いて、民主党内閣の方針を擁護し、政府の「非公開の方針に批判的な」者が「流出させたのだとしたら、政府や国会の意思に反する行為であり、許されない」と、VTR公開者・情報流出者を批判したのだ。
 かかる当時の朝日新聞の主張は、今次の特定秘密保護法案に対する態度と首尾一貫しているか。「外交や防衛…など特定分野」には「当面秘匿することがやむをえない情報がある」という主張を、ここでいう情報は今次の「特定秘密」よりも広いと解されるが、最近の朝日新聞は述べていただろうか。「政府の意に反し、誰でも容易に視聴できる形でネットに流れたことには、驚くほかない」と上では書いていたのだが、このような「政府の意に反し」た情報の取材・報道が困難になる、不可能になる、今年の秋は狂ったかのごとく騒いでいたのではなかったか。
 別に驚きははしないが、2010年秋には「国民の権利」よりも「政府の意」の方を優先させていたことは明らかだ。この「ご都合主義」はいったい何だろう。政権が民主党にあるか安倍・自民党等にあるかによって使い分けられている、と理解する他はない。
 「国民の権利」も表現・集会の自由も朝日新聞にとっては主張のための「道具」にすぎず、政治状況・政権政党の違いによって適当に異なって使い分けられているのだ。
 以上の理解および批判に朝日新聞の社説執筆者等は反論できるか? <安倍批判(・攻撃そして退陣へ)>を社是とする「政治結社」の朝日新聞にできるはずがない。

1217/撃論による「トンデモ憲法学者」-奥平康弘・樋口陽一・木村草太・長谷部恭男。

 撃論シリーズ・日本国憲法の正体(オークラ出版、2013)がその名のとおり、憲法改正問題を取りあげている。
 その中に「法学研究家」との奇妙な、初めて見る肩書きの人物による松葉洋隆「トンデモ憲法学者-その珍説の数々」がある(p.104-109)。
 そこで対象とされている「トンデモ憲法学者」は奥平康弘、樋口陽一、木村草太(首都大学)、長谷部恭男でいずれも東京大学関係者(所属または出身)だが、いかんせん字数が少なすぎる。とても「珍説の数々」を紹介した(かつ批判した)ものにはなっていない。松葉洋隆とはたぶんペンネイムだろうが、わざわざそうするほどでもないような文章だ。
 樋口陽一と長谷部恭男に限れば、秋月がこの欄で紹介しコメントしてきたものの方が、はるかに詳しいだろう。
 産経新聞や月刊正論とは違って、特定の現存の「トンデモ憲法学者」を対象にして批判しておくことは重要なことで、編集意図は立派だが、内容はそれに伴っていないようだ。
 上の4名のほかにも、愛敬浩二(名古屋大学)、水島朝穂(早稲田大学)、辻村みよ子(東北大学)、石川健治(東京大学)等々、有力な憲法改正反対論者は数多いし、青井三帆(学習院大学)等々のより若い「左翼」護憲学者が大学教員の地位を占めるに至っている。
 憲法改正の必要性を説き、一般的に護憲派を批判する論考や記事は多いかもしれないが、朝日新聞等の社説等ではなく、「九条の会」の呼びかけに賛同している大学所属の憲法学者の護憲の「理屈」を批判する雑誌論文等は少ないだろう。
 現在のマスコミ従事者や行政官僚(司法官僚=裁判官を除外する趣旨ではないが)等々の「日本国憲法」観を形成したのは圧倒的に樋口陽一らの「護憲」学者に他ならないから、理想的には、憲法改正を目指す者たちや団体は、そのような学者の論考を個別に検討し批判しなければならない。
 今の憲法学界の雰囲気を考慮すると、西修や百地章らにだけそのような仕事を負わせることは無理かもしれない、と想像はするけれども。

1214/NHKは日本と日本人に対する「ヘイト・スピーチ(+ビヘイビア)」を厳しく批判しているか。

 9/23だっただろうか、NHKの九時からのニュースは、<またやったか>と感じさせるところがあった。

 「ヘイト・スピーチ」に反対する集会・デモが東京で行われたというもので、「ヘイト・スピーチ」反対の集会・デモを、NHK、そして大越健介は肯定的・好意的に報道した。前提には、「ヘイト・スピーチ」をする集会・デモは「悪」だ、という価値判断があったようだ。

 なるほど「特定の人種や民族に対して差別や憎しみをあおったり、おとしめたりする言動」はよろしくないだろう。だが、「あおる」とか「おとしめる」にはすでに何がしかの価値評価が入っている。「あおる」ものか否か、「おとしめる」ものか否かの客観的基準を、NHK、そして大越健介、正確にはこの番組制作者・ディレクターかもしれないが、有しているのだろうか。

 <在特会>とやらの集会・デモについての知識が私にはないし、またNHK自体も「ヘイト・スピーチ」集会・デモを詳細にまたは頻繁に取りあげて報道してきたわけではないから、先日の報道は分かりにくく、やや唐突の観があった。

 そして何よりも、一定の価値評価、<善悪>の評価を簡単に下してしまったうえでの報道はいかがなものか、という疑問が残った。

 「ヘイト・スピーチ」に反対する集会・デモは表向きはまともなようであっても、特定の「ヘイト・スピーチ」をしているらしき人々に対する「差別」を<あおり>、<おとしめる>意図を持つものとも言えるのではないか。

 それにまた、中国や韓国では、日本や日本人に対する「ヘイト・スピーチ」がいくらでもあるのではないか。NHKはそれらをきちんと批判してきたのか?

 「小日本」とか「日本鬼子」という言葉自体が日本と日本人を馬鹿にしている。「慰安婦像」とやらを在韓国日本大使館の前に建てるのは<ヘイト・スピーチ>ならぬ<ヘイト・ビヘイビア(行動)>そのものではないのか。しかもまた、これらは、中国政府や韓国政府自体が行い、または少なくともそれらの事実上容認のもとで行われている。

 NHK、そして大越健介よ、かりに「ヘイト・スピーチ」はよろしくないと自信を持って報道するのならば、国家ぐるみで行われている、と言ってよい、<ヘイト・スピーチ>・<ヘイト・ビヘイビア(行動)>を厳しく批判し、これらに抗議しないと、公平ではないのではないか?

 それにまたNHKは主としては日本人からなる「日本」放送協会のはずだ。「ヘイト・スピーチ」集会・デモをする日本人はけしからんというのならば、より厳しく、中国や韓国での<ヘイト・スピーチ>・<ヘイト・ビヘイビア>批判して不思議ではないが、そのような報道の仕方をしてきたのか?

 内に厳しく特定の外国には甘いのだとすれば、公平感あるいはまともな感覚を失っている。日本人に対しては厳しく、「近隣諸国」(国民も含む)には寛容だとすれば、まさに(戦後に継続した)<自虐>意識そのままだろう。

 中国が尖閣諸島への接近を明らかに強め始めた頃、大越健介は<毅然とかつ冷静に>とかくり返して、<冷静>な反応を求めていた。「ヘイト・スピーチ」に反対する集会・デモに対する報道の仕方はこの「冷静さ」を維持しているか?

 「ヘイト・スピーチ」に反対する集会・デモをテレビ局で取りあげたのはNHKだけだったのではないか。朝日新聞らがその後に追随しているようだが、NHKだけが何故か突出している。
 このような放送団体との契約締結義務を課す現行放送法は、戦後の一定の時期まではともかく、現在では憲法違反(国民に対する契約締結「強制」)の疑いが濃いように思われる。

 ともあれ、NHKのニュース番組の中でも、夜九時からのものが最も「偽善的」で、最も多く「気持ちが悪い」部分を含んでいる。

1211/在米「世界抗日連合」と中国共産党政府による「反日」運動-江崎道朗著の2。

 前回のつづき(江崎道朗著p.22-)。在米の「世界抗日連合」は南京「大虐殺」目撃とのドイツ人・ラーベの日記を発掘、南京「大虐殺」否定の石原慎太郎衆院議員(当時)への抗議意見広告をニューヨークタイムズに掲載、訪米中の天皇陛下への抗議デモを展開。米国の元捕虜グループには対日賠償請求を、韓国系アメリカ人には「慰安婦」問題での共闘を、呼びかけた。

 1990年に韓国で「韓国挺身隊問題対策協議会」が結成されていた。このアメリカ支部として韓国・北朝鮮系アメリカ人が1992年12月に「慰安婦問題ワシントン連合」を結成するやただちに提携を申し入れ、1993年3月の<日本の常任安保理国入り反対>などのデモ等の共同行動をしている。なお、ユダヤ系「サイモン・ウィーゼンタール・センター」とも一時期に連携した。これは文藝春秋刊「マルコポーロ」を廃刊に追い込んだ団体。

 在米反日ネットワークと中国共産党とはいかなる関係か。
 1950年結成の「日中友好協会」(初代会長・松本治一郎)は中国人遺骨送還・中国人殉難碑建設等をし、機関紙は日本の中国「侵略」批判を続けてきた。「中国帰還者連絡会」、中国で「洗脳」された元日本軍人組織、のメンバーは、「三光作戦」等の日本軍の「残虐行為」を「証言」して、「侵略史観」の形成を助けた。

 中国共産党政府は1963年に「中日友好協会」を設立し、併せて中国共産党中央委員会に「対日工作委員会」を設置、その上部組織として「党政治局」に「日本ビューロー」を設けた。

 中国政府は1982年の<教科書書換え誤報>事件に関して日本政府の検定を「内政干渉」だと一蹴されるかと「内心思いながら抗議」したところ、日本政府・宮沢喜一官房長官は結果として中国政府による日本の教科書内容への中国政府の容喙を認め、「教育に関する主権侵害」を容認する談話を8/26に発表した。中国政府は「驚き、そして喝采を叫んだに違いない」。その後、日中共同声明や宮沢談話を利用して「過去」を持ち出しては日本に譲歩を迫るに至る。1985年の「南京大虐殺記念館」建設を皮切りに、「東京裁判史観」に異を挟む日本の閣僚を遠慮なく非難するなどをする(その結果としての藤尾正行文部大臣辞任)。

 1989年天安門事件、1990年ベルリンの壁崩壊につづくソ連解体等の新しい状況のもとで対日本政策が問題になり、「アジアにおける中国の覇権」確立のための「日本の政治大国化」阻止、そのための「過去の謝罪問題」の取り上げとのシンクタンク意見に沿って、1993年には中国政府は「敵国日本」を追い落とす手段として「歴史カード」を使うという「対日戦略」を決定した

 アメリカでの1994年の在米中国人による「世界抗日連合」結成も上の中国共産党政府の戦略と無関係ではない。1995年、中国政府は「軍国主義・日本」・「その日本と戦った解放の旗手・中国」というイメージ宣伝に努めた。そのキャンペーン真最中の8/15に出たのが、いわゆる「村山談話」。「侵略と植民地支配」をしましたと述べて、中国の宣伝を「追認」した。この時点ですでに、日本国内の「左翼」の運動とも相俟って、「慰安婦という性奴隷制度をもった最悪の戦争犯罪国家・日本」というイメージが国際社会に定着した。

 中国政府は1996年の日米安保共同宣言(橋本龍太郎首相)を批判し、アメリカの「対日世論を悪化させて日米分断」を狙った。これに対応して12月に「世界抗日連合」後援の大戦中の「残虐行為についての日本の責任」と題するシンポジウムを開催、12/12にアイリス・チャンと記者会見して「ラーベ日記」存在を公表、「南京大虐殺」による大「反日キャンペーン」が始まった。アイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」が発刊されたのは、1997年11月だった。

 第一節の終わりまであと10頁余もあるが、予定を変更して、ここまでであとは省略する。

 中国共産党・同政府にとって、「南京大虐殺」も「慰安婦強制連行=性奴隷」も(他にもあるが)、日本に<勝つ>ための大きな情報戦略の一つであることに変わりはない。彼らはすでに<戦争をしている>つもりであるに違いない。

 今はなきコミンテルンもそうだったが、表で裏で、陰に陽に、公式・非公式に、種々のネットワークを使って執拗に目的を達成しようとする<共産主義者たち>の骨髄は、中国共産党にも継承されているようだ。
 脳天気で善良な、「お人好し」の日本国民は、簡単に<洗脳>されてしまいそうだ。一般国民のみならず、日本の政治家の中にだって主観的には「歴史と過去にきちんと向かい合える」という<親中国>人士は少なからずいる。日本共産党のように、真偽はともかくとしても自党の存続・勢力拡大のために中国の「宣伝」を利用している者たちもいる。マスメディアとなると、朝日新聞を筆頭に…。朝日新聞の社説や記事の中にはもあるいは「左翼」人士の発言の中には「歴史・過去ときちんと向かい合う」ことの大切さを説いたり、それをできないとして自民党「保守派」政治家を批判したりする者がいるが、そのような言い方をする記事や発言は、日本社会党委員長だった村山富市と同様に、すでに中国共産党の<宣伝工作>に屈してしまっている、と言わなければならない。歴史をきちんと振り返るのは一般論としては誤りではないが、上のようにいう場合に想定されているのは、<日本(軍)の悪行>という特定の価値評価を伴った「過去」または「歴史」なのだ。

1208/2020東京五輪-やらせたくなかった朝日新聞と利用したい中国共産党。

 日本時間で9/08の午前5時すぎ、2020年の五輪開催都市が日本の東京に決定した。

 関西テレビの夕方の「スーパーニュース・アンカー」は、青山繁晴出演の水曜だけ録画しているのだが、9/11の青山の発言・指摘は興味深くかつ重要だった。他にもあるが、二点だけ取りあげておく。

 第一。最下位都市除外するための第一回投票において、たまたま第二・第三の得票数の都市が同数であったためその二都市の名だけが公表され、東京の名前が出なかった。私は仕組みを知っていたから、東京が落選したものとは思わなかった。
 だが、東京敗退という誤報を打った報道機関があったらしい。一つは、中国の国営新華社通信、もう一つは朝日新聞社のツイッター。朝日新聞は1分程度のちに訂正はしたらしい。青山繁晴が朝日新聞の関係者に電話するとその者はともかく、朝日新聞社内には、<2020五輪を東京でやらせたくない>雰囲気があった、ようだ

 中国はともあれ、朝日新聞のことは重要だ。なぜ、やらせたくないのか? それは、東京招致の成功は安倍晋三や安倍内閣にプラスに働くからに決まっている。朝日新聞としては、東京敗退=誘致失敗により、安倍首相や(朝日新聞がケチをつけた)高円宮妃殿下のわざわざの南米訪問・プレゼン参加にもかかわらず敗れたと大いに騒いで、安倍政権に打撃を与えたかったのだろうと思われる。

 気分だけではなく、経済・雇用・観光等の面で五輪開催は日本と日本人にとってプラスに働くだろう。それを、そう思わない、歓迎しない、東京で五輪をやらせたくないと考える新聞社はいったいどこの国の、社員の大多数がどの国の国籍をもつ新聞社なのだろう。

 朝日新聞社としては、<安倍晋三の葬式は再びウチで出す>と少なくとも幹部の内心では、考えているに違いない。
 現実化・保守化しているという論評もあるが、信じられない。朝日新聞の報道姿勢が広告主の大幅な減少を導き、経営自体に支障を生じさせかねないという事態になるまでは、彼らはその本質を変えることはないと思われる。テレビに顔を出す星浩らは、東京誘致成功を本心では喜んでいないのだろう。

 第二。中国の尖閣侵略と五輪東京開催との関係の方がより重要だ。中国の政府系環球時報9/09付は、円滑で安全な東京五輪開催を目指す日本政府は日中の「武力衝突を避けるため、低姿勢をとらなければならないだろう」と書いたらしく、日本側にも中国は尖閣侵略(武力による実効支配)を「早めるおそれ」がある、という見方があるらしい。
 要するにこういうことだ。中国は尖閣諸島を中心とする「地域紛争」を発生させる。これが武力や実力衝突を伴うものである場合、東京五輪の準備や開催に支障が出てくる可能性がある。中国が狙っている一つは、日本がアジアで初めて夏期五輪を二度も開催することを妨害したい、東京五輪を中止に追い込むことだ。

 東京五輪が中止にならなくとも、日本政府が同開催のために「低姿勢」になる、つまりは中国による武力行使・実力による実効支配の試みに対して、自衛隊等を使っての「武力」による自衛=領土の防衛に「弱腰」になる。そうすると、円滑に東京五輪を開催したい日本政府の意向を逆手に取って、尖閣諸島を武力行使をして「奪う」ことができる。これが中国が狙っているもう一つだ。

 上のどちらか一方でも達成できれば、中国としては<うまくやった>ことになる。
 以上は、青山発言や番組内容の忠実な紹介ではなく、この欄の私の解釈・理解によって言葉や表現を変えている。但し、基本的な「論理」自体としては、青山は上のような趣旨を述べていた。
 青山繁晴の言っていたことは基本的に適切なのではなかろうか。<対中国危機のもとでの2020東京五輪>と言わなければならないだろう。
 自衛隊の戦力は、尖閣を防衛する日本国民の意識は、そして国防軍設置のための憲法改正は、あるいは「日米同盟」は、2018年頃までに、ということはあと5年しかないが、どうなっているだろうか。むろん、中国内部での変化の可能性もなくはない。
 かつて1988年ソウル五輪の開催を北朝鮮は爆弾を使ってでも妨害しようとし、実行に移した。脳天気で「お人好し」の大多数の日本人が想定できないようなことを考えている国が外国にはある(それに呼応しかねない日本人・日本のマスコミも存在する)、ということを知っておく必要があるし、まともなマスコミは、テロによる妨害を含むあらゆる危険性について、きちんと警鐘を鳴らしておくべきだ。

1201/橋下徹発言と産経新聞のとくに5/15社説。

 〇産経新聞5/18付「一筆多論」欄での、論説委員・鹿間孝一の叙述によれば、いわゆる橋下徹慰安婦発言は、今年5/13午前の<ぶら下がり>会見で(朝日新聞記者から)「安倍晋三首相の『侵略の定義は定まっていない』との発言に対する見解を問われて、『首相が言われている通りだ』と述べた後、唐突に」出されたようだ。

 いつか述べたように、マスコミの中には「失言」・「妄言」なるものを引き出して中国や韓国に<ご注進>し、批判的コメントを貰ったうえで日本国内で<騒ぐ>輩がいるから気をつける必要がある。

 上の点はともあれ、橋下徹発言はあらかじめ準備され、用意されてのものではなく偶発的なものと思われる。従って、産経6/03付「正論」欄で桜田淳が、「橋下市長の一連の発言において批判されるべきは、その発言の中身というよりも、それを語る『必然性』が誠に薄弱だということにある」等と批判しているのは、的確ではないか、または橋下徹に対してやや厳しすぎるだろう。

 〇さて、産経新聞5/16付で阿比留瑠比は、「橋下発言検証『大筋正しいものの舌足らず』」と題して、<大筋は正しいが、舌足らずだ>という印象を与える(内容もそのような)記事を書いていたが、その前日5/15の産経社説(同新聞では「主張」欄)は、<大筋は正しいが、舌足らずだ>という内容のものだったのか。

 そうではなく、「橋下市長発言/女性の尊厳損ね許されぬ」というタイトルどおり、橋下発言を全体として厳しく批判した。

 やや立ち入れば、この社説は、第一に、橋下徹発言を、①「慰安婦制度は当時は必要だった」など、②米軍幹部に「海兵隊員に風俗業を活用してほしい」、と述べた、と紹介したうえで、「女性の尊厳を損なうものと言わざるを得ない。許されない発言である」とまず断定し、切って捨てている。この対象の中には、上の①の、「慰安婦制度は当時は必要だった」という、「当時は」という限定つきの発言も含めている。
 第二に、安倍首相は公権力による強制があったという「偽り」を含む河野談話を「再検討」しようしているのに、橋下徹が「『必要な制度』などと唱えるのは事実に基づく再検討とは無関係だ。国際社会にも誤解を与えかねない」と書いて、これまた橋下を批判している。但し、趣旨は不明瞭だ。<当時は必要な制度だった>という発言趣旨を誤解している可能性があるし、また、安倍内閣による再検討作業を橋下徹発言が邪魔をしているかの如き批判の仕方になっている(のちにこの旨を明記。第四点)。

 第三に、橋下が「当時の慰安婦の必要性を肯定した」ことについて、とここでは「当時の」と限定しつつも、自民党の稲田朋美下村博文両大臣の簡単な言葉を紹介し、「稲田、下村両氏は自民党内の保守派として河野談話の問題点を厳しく指摘したこともあるが、橋下氏の考えとは相いれないことを示すものといえる」と書いた。ここでは、橋下徹発言は自民党内「保守派」のそれとも異質だ、と指摘したいようだ。

 第四に、安倍政権の河野談話見直し作業を、「いわれなき批判を払拭すべきだという点は妥当としても、…見直しの努力を否定しかねない」と切って捨てて、疑問視している。

 第五に、「風俗業活用」発言について、「もってのほか」、「人権を含む普遍的価値を拡大する『価値観外交』を進める日本で、およそ有力政治家が口にする言葉ではなかろう」と断定的に批判した。

 この部分は橋下徹自身がのちに撤回しているが、橋下自身も言うように、売買春を勧めたわけではなく法律上合法的な(沖縄以外の本土にもあるような)「風俗業」の利用に言及したものだった。「もってのほか」と産経新聞社説が主張するならば、理屈の上では全国にある「風俗業の活用」はすべて「もってのほか」になるはずだ。

 以上、要するに、橋下発言に理解を示しているのは「いわれなき批判を払拭すべきだという点は妥当としても」という部分だけで、あとはすべて橋下発言を批判・否定する内容になっている。

 産経新聞がこうなのだから、朝日新聞や毎日新聞の社説がいかほどに厳しい批判だったのかは、容易に想像がつく。

 この「偽善」も一部に含むと考えられる産経新聞社説はいったい何なのだろう。参議院選挙前に、自民党と日本維新の会との差別化を図り、自民党を有利にしたい、という思惑を感じなくもない。もっとも、産経新聞自体が、自民党・稲田朋美が、慰安婦営業は「当時は」合法だった旨を発言したと報道してもいた。橋下発言と「自民党内の保守派」には(あるいは日本維新の会と後者には)この産経新聞社説が指摘するほどの違いがあるのか疑わしい。

 あるいは、朝日新聞等からの批判を予測して、「左」からの攻撃から自らをあらかじめ守っておこうという気分があったのかもしれない。一種の<横並び意識>でもある。少なくとも、一部でも橋下徹を守ろう、庇おう、という意識が感じられない社説だ。上記5/16付阿比留瑠比記事とトーンがまるで異なることは言うまでもないだろう。

 この5/15社説だけが社論ではない、と産経新聞関係者(とくに社説執筆者)は言うかもしれない。

 なるほど、5/17付で憲法96条改正の必要性を強調した産経新聞社説は、5/18付では、みんなの党の日本維新の会との選挙協力解消決定をうけて「橋下氏発言/避けたい改憲勢力の亀裂」というタイトルのもとで、両党の連携への期待を述べている。そして、次のようにも書く。

 「より根本的な問題は、根拠なしに慰安婦の強制連行を認めた平成5年の河野洋平官房長官談話が今も、日韓関係などを損ねている事実だ。/政府や国会がすべきことは河野談話の検証である。慰安婦問題の本質を見失ってはならない」。

 この部分を読んで不思議に思う。「慰安婦問題の本質を見失ってはならない」、「根本的な問題」の原因が河野談話にある、というならば、その旨を、なぜ、5/15の段階で強調しなかったのか。5/15社説の基調は橋下徹発言批判であって、「慰安婦問題の本質」を見失うな、河野談話にこそ「根本的な問題」の原因がある、というものではまったくなかった。なぜ、こうした旨を数日前の5/15に書けなかったのか。
 橋下徹発言に対する批判の高まりを考慮して多少は抑制しようと考えたのかもしれないが、そうであるとすれば、時機を失している。朝日新聞等々ともにさっそく足並みをそろえて橋下徹発言批判を始めたのは、5/15社説だったのだ。

 産経新聞5/28社説では橋下徹発言批判はさらにトーンダウンしている。日本外国特派員協会での橋下徹会見に関するものだが、橋下会見での発言につき、こう書いている。

 「橋下氏は『国家の意思として組織的に女性を拉致したことを裏付ける証拠はない』とも述べ、慰安婦問題に関する平成5年の河野洋平官房長官談話について『否定しないが、肝心な論点が曖昧だ』と指摘した。/河野談話は、根拠なしに慰安婦の強制連行を認めたものだ。橋下氏は以前、『河野談話は証拠に基づかない内容で、日韓関係をこじらせる最大の元凶だ』と主張していた。これこそまさしく正論だ。後退させる必要はない」。

 5/15段階での威勢の良い橋下徹批判はどこへ行ったのか? そして、「安倍政権はいわれなき日本非難には、きちんと反論すべきだ」と、橋下にではなく安倍政権に向けての注文を書いて、締めくくっている。

 こうして見ると、産経新聞の論調の中でも、むしろ5/15社説こそが異様だったような気もしてくる。 

 もっとも、冒頭の5/18鹿間孝一の叙述は「橋下流は『賞味期限切れ』か」と題するもので、上記5/15社説にさらに追い打ちをかけるように、橋下徹が「自身『あと数年たてば、賞味期限切れになる』と語っていたが、現実になるのは意外に早いかもしれない」と締めくくっている。

 こうして見ると、他の例は省略するが、産経新聞社の中には、間違いなく橋下徹に対する一種のアレルギー、嫌悪感のようなものが、少なくとも一部にはあるのは否定できないろう。それが5/15社説で噴出し、諸々の事情を配慮して橋下徹批判の論調を抑制する方向に変化したのだ、と思われる。

 〇今年8/08に別の文献を参照して書いたことだが、産経新聞も他紙と同じく「当時は」という限定を付けることなく、橋下発言について「慰安婦制度は必要」と見出しを付けて報道したようだ。また、その同じ書き込みの中で紹介したように、産経新聞の5/15付社説の論調は、櫻井よしこの週刊新潮5/30号での、橋下徹発言は「日本の国益を大きく損ないかねない…」という明記等と共通するところがある。

 〇その後、産経新聞は5/27付で、<橋下氏の慰安婦発言「不適切」75%/維新支持も急落>、日本維新の会支持率20・7%から10・7%へほぼ半減、という世論調査結果を発表するなど、<維新失速>という「客観」報道をし続けた。
 世論調査はマスメディアが自分たちの国民の意見に対する誘導の効果を立証し、確認するための道具くらいに思っているが、上のような結果の少なくとも原因の一つは、あるいはとりわけ<保守層>の中での維新の会支持率減少の原因の大きなものは、産経新聞自体の社説・社論にあるのではないか。
 日本維新の会代表の発言をそっけなく冷たく批判しておいて、<維新支持も急落>とあとで報道しているわけだ。そうした点では、朝日新聞も産経新聞もほとんど変わりはしない。
 経緯・理由は私と異なるが、月刊WiLL10月号(ワック)で、金美齢は今年7月末をもって産経新聞の定期購読者たることをやめた、ということを明らかにしている(p.230以下)。

 産経新聞は決して<保守派>国民全員が信頼し支持できる新聞ではない。相対的にはまだマシなのだろうが、奇妙な点、歪つな点もある。あたり前のことだが、読者は、「教条的信仰」に陥らず、産経新聞もまた批判的に読まなくてはいけない。

1196/浦川泰幸(朝日放送)と日本共産党系活動家・吉永小百合。

 〇8/15の朝番組について、同日のこの欄で、テレビ朝日の坪井直樹らしきキャスターの発言を批判的に取りあげたが、正しくは朝日放送の浦川泰幸の「おはよう朝日です」内での発言だった。坪井直樹氏にはお詫び申し上げる。ほとんど見たことのない番組だったので(朝日系は原則として観ない)、キャスターの氏名になじみがなかった。異例だが、8/15の書き込みの名前をこのあとで「浦川泰幸」に改める。
 しかし、もちろん、発言内容に関する批判的コメントを改めるつもりはない。

 浦川泰幸、1971年5月生まれ、立命館大学経済学部卒。出身大学・学部と先日の発言とに直接の関係はないだろうが、立命館大学とは「リベラルな」末川博のもとで戦後、容日本共産党の「左翼」教授たちを集めてきた大学。1970年前後の学生「紛争」時代、すべての学生自治会の主導権・執行部を「全共闘」系ではなく、日本共産党・民青同盟系学生が握っていたことでも知られる。少なくともかつては、同大学経済学部は日本共産党系マルクス主義経済学者でほとんどを占めていたものと推測される。

 現在でも上記のような雰囲気は残っているはずなので、浦川泰幸は「何となく」その影響を受けた可能性がある。そうでなくとも、朝日放送に入社以来、おそらくは毎朝・毎夕に朝日新聞を読んで、「朝日」的感覚と「朝日」的歴史認識を身につけたのだろう。そうでないと、原稿を読むでもない、先だって記したような発言を早口で一気に喋ることができるはずがないと思われる。

 〇やや古いが、今年5/03付朝日新聞朝刊に「女性は戦争への道を許さず、憲法9条を守ります」と大書した、一面全体を使った「意見広告」が掲載されている。
 この意見広告の呼びかけ人は、雨宮処凜、澤地久枝、湯川れい子、田中優子(法政大学教授)ら。
 目を惹いたのは、「第一次賛同人」として氏名が小さく書かれている102人の中に、「吉永小百合(俳優)」とあることだ。
 岩波書店の護憲派のブックレット類に文章を寄せている吉永小百合だから「左翼」的だろうと思っていたが、この意見広告の「事務局団体」の列挙を観ていると、呼びかけ人や賛同者は日本共産党系または日本共産党とは対立していない、(立命館大学教員と同様に?)<容日本共産党>の女性たちであることが分かる。
 事務局団体のうち「自由法曹団女性部」、「新日本婦人の会」が日本共産党系(幹部は党員だろう)であることは知っていた。その他を少し調べてみると、「全国労働組合総連合(女性部)」とは民主党系のいわゆる<連合>とは異なる日本共産党系の<全労連>のこと、「日本婦人団体連合会」とは新日本婦人の会などが加入しているやはり日本共産党系とみられる全国的連合団体。その他は省略するが、「左翼」の中には非または反・日本共産党系の者たちも存在するところ、この意見広告は日本共産党系の女性たちのものであり、その中に吉永小百合も明記されている。俳優または女優と注記があるのは10名もいないにもかかわらずだ。

 将来に現憲法9条2項の改正が現実的な政治的・国民的争点になるとき、「国民的女優」・吉永小百合は積極的にか利用されてか、改憲反対(護憲)の主張者として、ある程度の影響力を持ってしまう可能性がある。「国民的女優」ぶりはJR東日本の宣伝キャラクターとして活躍し?、ある程度大きな同区域の駅の構内には吉永小百合の顔のポスターが目に付くことでも示されている。
 いざとなれば「国民的映画監督」・山田洋次も、同様の役割を果たす可能性がある。NHKは<山田洋次監督が選んだ…日本映画>とやらを連続放映していたが、わざわざ「山田洋次監督が選んだ」と題するところに、NHKらしさがあるとも言える。
 改憲派、憲法九条2項改正派は、吉永小百合や山田洋次等に対抗できる「国民的」俳優・映画監督を自分たちの仲間に含めているのかどうか、気になる。
 日本共産党系発言者としての吉永小百合の活動を封じる必要がある。

1192/憲法改正の主張ではなく、いかにして憲法改正するかの「戦略」的主張を。

 民主党政権下の2010年11月3日、産経新聞社説は民主党は「政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」等と主張した。これに対して、同11月6日付のこの欄で、「現在の民主党政権のもとで、あるいは現在の議席配分状況からして、『戦後の絶対平和主義』から脱した、自主・自立の国家を成り立たせるための憲法改正(の発議)が不可能なことは、常識的にみてほぼ明らか…」、「産経社説は、寝惚けたことを書く前に、現内閣<打倒>をこそ正面から訴えるべきだ」、と批判した。

 同様の批判を同じ欄で、産経新聞同日の田久保忠衛の「正論」に対しても行っていた。以下のとおり。
 「『憲法改正の狼煙上げる秋がきた』(タイトル)と叫ぶ?のはいいのだが、どのようにして憲法改正を実現するか、という道筋には全く言及していない。『狼煙』を上げて、そのあとどうするのか? 『憲法第9条を片手に平和を説いても日本を守れないことは護憲派にも分かっただろう』くらいのことは、誰にでも(?)書ける。
 問題は、いかにして、望ましい憲法改正を実現できる勢力をまずは国会内に作るかだ。産経新聞社説子もそうだが、そもそも両院の2/3以上の賛成がないと国民への憲法改正「発議」ができないことくらい、知っているだろう。
 いかにして2/3以上の<改憲>勢力を作るか。この問題に触れないで、ただ憲法改正を!とだけ訴えても、空しいだけだ
 国会に2/3以上の<改憲>勢力を作るためには、まずは衆議院の民主党の圧倒的多数の現況を変えること、つまりは総選挙を早急に実施して<改憲>派議員を増やすべきではないのか?
 <保守>派の議論・主張の中には、<正しいことは言いました・書きました、しかし、残念ながら現実化しませんでした>になりそうなものも少なくないような気がする。いつかも書いたように、それでは、日本共産党が各選挙後にいつも言っていることと何ら違いはないのではないか。」 以上。
 政治状況は当時とは違っているが、衆議院はともかく、参議院では憲法改正に必要な2/3の議員が存在せず、いくら憲法改正を(9条2項廃棄を)と「正しく」主張したところで、国会は憲法改正を発議できず、従って憲法改正が実現されないことは当時と基本的には変わりはない。
 また、昨年12月総選挙も今年7月参議院議員選挙も、「憲法改正」は少なくとも主要な争点にはなっていない。したがって、民主党政権下とは異なりいかに自民党等の改憲勢力がかなりの議席数を有しているとしても、議席配分または各党の議席占有率がただちに国民の憲法改正に関する意向を反映しているとは断じ難い。
 衆議院では自民党・日本維新の会の2党で2/3以上をはるかに超える、参議院では維新の会・みんなの会と民主党内「保守派」を加えて、あるいは<野党再編>によって何とか2/3超になりはしないか、と「皮算用」している者もいるかもしれないが、やや早計、早とちりだろう、と思われる。
 というのは、軍の保持を認めて自衛隊を「国防軍」にするか否か、そのための憲法改正に賛成か否かを主要な争点として選挙が行われたとした場合の議席獲得数・率が昨年の総選挙、今般の参議院選挙と同じ結果になった、という保障は何もない。有権者の関心のうち「憲法改正」は、主要な諸課題・争点の最下位近くにあったと報道されたりもしていた筈だ。
 しかし、とはいえ、憲法改正を!という主張だけでは<むなしい>ことは、少なくともそれに賛同している者たちに対する呼びかけとしてはほとんど無意味であることは明らかだ。
 上の点からして、遠藤浩一の、撃論シリ-ズ・大手メディアが報じない参議院選挙の真相(2013.08、オ-クラ出版)の中のつぎの発言は、私のかつての記述内容と同趣旨で、適確だと思われる。

 「多くの人が憲法改正(ないし自主憲法制定)の大事さを説きますが、現実の政治プロセスの中でそれを実現するにはどうすればいいのか、どうすべきかについてはあまり語りません。多数派の形成なくして戦後体制を打ち破ることはできないという冷厳なる事実を直視すること、そして現実の前で身を竦ませるのではなく、それを乗り越える戦略が必要だと思います」(p.26)。
 ここに述べられているとおり、「現実の政治プロセスの中でそれを実現するにはどうすればいいのか」についての「戦略」を語る必要がある。

 <保守>派らしいタテマエや綺麗事を語っているだけではタメだ。私はこの欄で遅くとも2020年までには、と書き、2019年の参議院選挙が重要になるかもしれないと思ったりしたのだが、それでは本来は遅すぎるのだろう。だが、しっかりと基礎を固め、朝日新聞等の影響力を削ぎ、「着々と」憲法改正実現へと向かうには、そのくらいの期間がかかりそうな気もやはりする。むろん何らかの突発的な事態の発生や周辺環境の変化によって、2016年の参議院選挙、その辺りの時期の総選挙を経て、2017年くらいには実現することがあるかもしれない。
 このように憲法改正の展望を語ることができるのは昨年末までに比べるとまだよい。民主党等が国会の多数派を形成している間は、永遠に自主憲法制定は叶わないのではないかとの悲観的・絶望的思いすらあった。「ぎりぎりのところで日本は救われた」(中西輝政「中国は『革命と戦争』の世紀に入る」月刊ボイス8月号p.81)のかもしれない。

1191/憲法改正のために「歴史認識」問題を棚上げする勇気-中西輝政論考。

 昨日、中西輝政が<憲法改正(とくに9条2項)を最優先し、そのためには「歴史認識」問題を犠牲にしてもよい>、というきわめて重要な(そして私は賛同する)主張・提言をしていたと書いたが、雑誌数冊をめくっているうちに、この主張・提言のある文章を見つけた。
 月刊ボイス7月号(PHP)、中西「憲法改正で歴史問題を終結させよ-アジアの勢力均衡と平和を取り戻す最後の時が来た」だ。

 その末尾、p.57には-本来は前提的叙述にも言及しないと真意を的確には把握できないのだが、それには目を瞑ると-、こうある。
 「具体的には、いっさいの抵抗を排して憲法九条の改正に邁進することである。その手段として、九六条の改正に着手することも選択肢の一つであり、他方もし九条改正の妨げとなるならば、『歴史認識』問題をも当面、棚上げにする勇気をもたなければならない。」

 このあと続けて簡単に、「日本が九条改正を成就した日には、対日歴史圧力は劇的に低下するからである」という理由が書かれている。
 「歴史認識」問題について中国や韓国(そして米国?)に勝利してこそ憲法9条2項削除(「国防軍」の設置)も可能になるのではないかという意見の持ち主も多いかもしれない。
 しかし、中西輝政の結論的指摘は、私が感じていたことと紛れもなく一致している。中西と同じでではないだろうが、私が思い浮かべていたことは以下のようなことだった。
 国会(両議院)の発議要件がどうなろうと、有権者国民の「過半数」の支持がないと憲法改正は成就しない。しかして、産経新聞社の月刊正論をはじめとする(?)<保守派>が提起している「歴史認識」問題のすべて又はほとんどについて、国民の過半数が月刊正論等の<保守派>と同じ認識に立つことはありうるのだろうか。ありうるとしても、それはいつのことになるなのだろうか。
 田母神俊雄の<日本は侵略国家ではない>との主張・「歴史認識」が、問題になった当時、国民の過半数の支持を受けたとは言い難いだろう。当時の防衛大臣は現在の自民党幹事長・石波茂だったが、自民党の閣僚や国会議員すら明確に田母神を支持・擁護することが全くかほとんどなかったと記憶する。
 先の戦争にかかる基本的評価には分裂があり、2割ずつほどの明確に対立する層のほかに、6割ほどの国民は関心がないか、または歴史教科書で学んだ(人によっては「左翼」教師によって刷り込まれた)日本は悪いことをしたという<自虐>意識を「何となく」身につけている、と私には思える。
 昭和天皇も「不幸な」時代という言葉を使われた中で、さらには<村山談話>がまだ否定されていない中で、いくら産経新聞社や月刊正論が頑張ろうと、
国民の過半数が<日本は侵略国家ではない>という「歴史認識」に容易に達するだろうか。
 上は基本的な歴史問題だが、<南京大虐殺>にせよ<首切り競争>にせよ、あるいは<沖縄住民集団自決>にせよ、さらには<朝鮮併合(「植民地化」?)>問題にせよ、これらを含む具体的な「歴史認識」問題について、国民の過半数は<保守派>のそれを支持しているのだろうか、あるいは近い将来に支持するに至るのだろうか。

 朝日新聞、岩波書店、日本共産党等々の「左翼」の残存状況では、これは容易ではないだろうというのが、筆者の見通しだ。いつぞや書いたが、「seko」というハンドルネイムの女性らしき人物が「在日」と見られる人物に対して、「本当にすみませんでした」という謝りの言葉を発しているのを読んだことがある。産経新聞や月刊正論の影響力など全体からすれば<微々たる>ものだ、というくらいの厳しい見方をしておいた方がよいだろう。

 そうだとすると、憲法改正をするためには、日本はかつて<侵略>をした、<南京大虐殺>という悪いことをした、と(何となくであれ)考えている国民にも、憲法改正、とくに9条2項削除を支持してもらう必要があることになる。
 そういう観点からすると、<保守派>内部に、あるいは<非左翼>内部に対立・分裂を持ち込んでいては憲法改正が成就するはずはないのであり、「歴史認識」に違いはあっても、さらについでに言えば<女性宮家>問題を含む<皇室の将来のあり方>についての考えについて対立があっても、憲法改正という目標に向かっては、「団結」する必要があるのだ。「左翼」用語を使えば、いわば<憲法改正・統一戦線>を作らなければならない。
 日本共産党はずいぶんと前から「九条の会」を作り、又はそれに浸入して、憲法9条の改正にかかる「決戦」に備えている。実質的・機能的には日本共産党に呼応しているマスメディアも多い。
 そうした中では<保守派>にも「戦略・戦術」が必要なのであり、残念ながら「戦略・戦術」を考慮して出版し、そのための執筆者を探すというブレイン的な人物が岩波書店の周辺にはいそうな気がするのに対して、<保守派>の中の「戦略」家はきわめて乏しいのではないか。中西輝政は-安倍晋三と面と向かえる行動力も含めて-貴重な、「戦略」的発想のできる人物だと思われる。

 かつて皇室問題、より正確には雅子皇太子妃問題に関する中西輝政の発言を批判し、国家基本問題研究所の理事を辞めたらどうかと書いたこともあるのだが(なお、むろん私の書き込みなどとは無関係に、中西はのちに同理事でなくなっている)、中西は、相対的・総合的には、今日の日本では相当にレベルの高い<保守派>論客だと思われる。

1186/2013参院選挙前のいくつかの新聞社説等。

 1.朝日新聞7/17社説は「参院の意義―『ねじれ』は問題か」をタイトルにしている。内容を読むと参議院の存在意義に触れてはいるのだが、<ねじれは問題か>と問い、「衆院とは違う角度から政権の行き過ぎに歯止めをかけたり、再考を促したりするのが、そもそも参院の大きな役割のはずだ。その意味では、ねじれ自体が悪いわけではない」と答えているのは、いかにも陳腐で、<ねじれ解消>を訴える自民党や公明党に反対したい気分からだけのもののようにも見える。

 一般論として「ねじれ」の是非を論じるのが困難であることはほとんど論を俟たないと思われる。問題は、「ねじれ」によって何が実現しないのか、にあるのであり、その「何」かを実現したいものにとっては「ねじれ」は消極的に評価されるが、その「何」かを阻止したい者にとっては「ねじれ」のあることは歓迎されるだろう。朝日社説はこの当たり前のことを言っているだけのことで、かつ現在において「ねじれ」は「悪いわけではない」と指摘しているのは、実践的には、衆参両院における自公両党の多数派化に反対したいという政治的主張を、朝日新聞だから当たり前のことだが、含むことになっている。

 2.毎日新聞7/20社説、論説委員・小泉敬太の「参院選/憲法と人権」はかなりヒドい。現憲法と自民党改憲案の人権条項(諸人権の内在的制約の根拠の表現)における「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」を比較して、前者は「一般に、他人に迷惑をかけるなど私人対私人の権利がぶつかった際に考慮すべき概念」とされるが、後者は「公権力によって人権が制約される場合があることを明確にしたのだ」と明記している。

 「公共の福祉」とは「他人に迷惑をかけるなど私人対私人の権利がぶつかった際」の考慮要素だとは、いったい誰が、どの文献が書いていることなのだろう。「公共」という語が使われていることからも明らかであるだろうように-<多数の他人>の利益が排除されないとしても-「社会公共」一般の利益または「国家」的利益との間の調整を考慮すへきとする概念であることは明らかではあるまいか。

 自民党改憲草案にいう「公益及び公の秩序」を批判したいがために毎日新聞社説は上のように書いているのだが、この欄でかつて自民党案の表現は「公共の福祉」を多少言い換えたものにすぎないだろうと書いたことがある。
 この点には私の知識および勉強不足があり、最初は 
宮崎哲弥のテレビ発言で気づいたことだったが、産経新聞7/09の「正論」欄で八木秀次がきちんと次のように書いていた。
 改憲反対派は「基本的人権の制約原理として現行憲法が『公共の福祉』と呼んでいるものを、自民党の憲法改正草案が『公益及び公の秩序』と言い換えたことについても、戦時下の国家統制を持ち出して、言論の自由を含む基本的人権が大幅に制約されると危険性を強調する。自民党案は、わが国も批准している国連の国際人権規約(A規約・B規約)の人権制約原理(「国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護」)を踏まえ、一部を採ったささやかなものに過ぎないのに、である」。 
 「公益及び公の秩序」とは国際人権規約が明示する人権制約原理の一部にすぎないのだ。
 「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えることによって、現憲法以上に「公権力によって人権が制約される場合があることを明確にしたのだ」と自民党改憲案を批判している毎日新聞は、ほとんどデマ・捏造報道をしているに等しいだろう。問題・論点によっては「左翼」が必要以上にその内容を好意的・肯定的に援用することのある「国際人権規約」の基本的な内容くらい知ったうえで社説が書かれないようでは、ますます毎日新聞の<二流・左翼>新聞ぶりが明らかになる。

 毎日新聞の上の社説の部分は、最近に、<憲法は国民が国家(権力)をしばるもの、法律は国家(権力)が国民をしばるもの>と書いた朝日新聞社説とともに、見事に幼稚な<迷言>・<妄論>として、両社にとっての恥ずかしい歴史の一部になるに違いない。
 3.ついでに(?)、産経新聞7/19の「正論」欄の百地章「『憲法改正』託せる人物を選ぼう」にも触れておこう。

 樋口陽一が代表になった(9条の会ならぬ)「96条の会」というのが設立され、96条の改正要件の緩和に反対する樋口陽一らの講演活動等がなされている、という。いくつかの大学等でのその講演集会をかなり詳しく報道し続けているのが朝日新聞で、さすがに朝日新聞は自らの社論に添った運動・集会等には注目して記事にするという政治的な性癖をもつ政治団体だと思わせる。かつての、松井やよりや西野瑠美子らの、いわゆる「天皇断罪戦犯法廷」(NHKへの安倍晋三らの圧力うんぬんという<事件>のきっかけになった)について事前にも朝日新聞記者の本田雅和らが熱心に記事で紹介していたことを想起させる。
 上の一段落は百地論考と無関係だが、百地によると、憲法96条改正反対論に対する反対論・疑問論を提起する者として、大石眞(京都大学教授-憲法学)、北岡伸一(東京大学名誉教授)がある。また、96条先行改正には反対の小林節(慶応大学教授-憲法学)も、「9条などの改憲がなされた後なら、96条の改正をしてもいい」と発言している、という。
 大石眞の読売新聞上のコメントは読んでいるが、上の程度に紹介しておくだけで、ここではこれ以上立ち入らない。立憲主義なるものと憲法改正要件とは論理的な関係がないのは自明のこと。現役の京都大学教授の読売上での発言は、失礼ながら百地章の産経上の文章よりも影響力は大きいのではないか。
 百地章は以下の重要なことを指摘しており、まったく同感だ。 
 「9条2項の改正だが、新聞やテレビのほとんどの世論調査では、『9条の改正』に賛成か反対かを尋ねており、『9条1項の平和主義は維持したうえで2項を改正し軍隊を保持すること』の是非を聞こうとはしない。なぜこれを問わないのか

 この欄で、自民党改憲案も現9条1項はそのまま維持している、「9条の会」という名称は9条全体の改正を改憲派は意図しているという誤解を与えるもので(意識的なのかもしれない)、正確に「9条2項の(改正に反対する)会」と名乗るべきだ等、と書いたことがある。
 百地章も少なくとも最近は漠然と「9条」ではなく「9条2項(または論旨によって1項)」と明記するようになっているようで、まことに適切でけっこうなことだ。また、上のような「新聞やテレビ」の世論調査の質問の仕方は今の日本の「新聞やテレビ」の低能ぶりまたは「左翼」性を明らかにしている証左の一つだろう。  

1178/中国共産党機関紙「人民日報」5/08論文と朝日新聞。

 中国共産党機関紙「人民日報」は5/08に沖縄(琉球)が日本に帰属することを疑問視する論文を掲載したらしい。沖縄は日本が「侵略」して獲得したのだと何かを読むか(NHK番組を?)観て「大発見」をしたかのように感じた「左翼」連中はかかる中国共産党の動きを当然視するのかもしれないが、ケヴィン・メアがしばしばテレビで発言していたように、中国は尖閣諸島などという小さな部分ではなく、いずれは沖縄(本島を含む諸島)を「取り」に来るだろうということの明確な兆候だ。
 予想されていたとはいえ、重要なニュ-スであるに違いなく、遅くとも5/09には各新聞は報道したのだろう。但し、NHKがこの「人民日報」5/08論文の件を報道したかどうかは定かではない。少なくとも重要ニュ-スとしては伝えなかったと思われるが、かりにスル-させたのだとすれば、NHKの決定的な「偏向」・「反日」姿勢を明らかにするものだ。
 さて、5/10の読売新聞・産経新聞の社説はこの論文にうかがえる中国共産党そして中国政府の姿勢を厳しく批判している。
 読売は、「沖縄の『領有権』/中国の主張は誇大妄想気味だ」と題する社説のほか、毛沢東はかつて沖縄は日本領土であることを前提とする発言をしていた旨の別の記事も載せている。
 朝日新聞、毎日新聞はどうだったか。
 朝日5/10社説は「歴史認識-孤立を避けるために」、「裁判員ストレス-証拠の調べ方に配慮を」の二本で、前者は韓国・パク大統領が米国という第三国の首脳の前で日本を批判したことにつき「それほど日本への不信感が強いということだろう」と書いて擁護するとともに「安倍政権の責任は大きい」などと書いてホコ先を安倍内閣に向けている。論文のことを知ってはいるのだろうが、中国の沖縄領有姿勢に対する危惧・懸念など全く示していない。大きな問題ではないと考えているとすれば、その感覚は麻痺しており、相も変わらず中国政府代理新聞・中国エ-ジェント新聞であることを示している。

 毎日新聞の社説は「東アジアFTA-自由貿易圏を広げよう」、「弁護士の不祥事-身内に甘い体質を正せ」の二本で、やはり中国・沖縄問題を扱っていない。第二朝日新聞という位置づけでやはり間違いないのだろう。
 沖縄問題を(沖縄「県民」の立場で)頻繁にとり挙げているくせに、中国共産党が「示唆」している沖縄にかかる、基本的な領土問題を扱わないとは、朝日新聞とともに異様な感覚だろう。
 かくして、憲法問題も参院選挙も、読売・産経対朝日・毎日に象徴される、国論を大きく二分した闘いになるのだろう。前者が勝利しないと(相対的にであれ多数国民に支持されないと)、日本の将来はますます悲観的なものになりそうだ。

1177/日本共産党と朝日新聞の「盟約」関係。

 〇5/09の衆議院憲法審査会で日本共産党の笠井亮は、憲法は国家を<縛る>ものだ(ときどきの政権の都合で変えてはいけない)とか、現96条の要件の緩和は<憲法を法律なみに>するものだとかと述べて、同条の改正に反対したらしい。
 テレビでその部分を観ていて、朝日新聞の社説とほとんどと同じことをほとんど同じ表現で述べていると思った。朝日新聞論説委員・社説子の中にも共産党員や確信的な共産党シンパがいるだろうが、少なくとも憲法改正問題に関して、日朝同盟ならぬ<共・朝盟約>が実質的に成立しているものと思われる(もう一つこれに参加している重要な仲間が、出版界の岩波書店だ)。

 朝日新聞5/09朝刊の二面右上には日本共産党を実質的には「応援」としていると読める記事があった。朝日新聞は日本共産党を<無視>することは決してしないのだ。
 NHKも中立をいちおうは装おうとしながら、憲法(96条)改正に反対の方向で報道することに決めているかに見える。その具体例は逐一挙げないが、5/03の憲法記念日の集会に関するニュ-スでは護憲派(憲法改正反対派)の集会の方を先に取りあげていた。
 この問題が参議院選挙の結果にどのような影響を与えるのかは、私には分からない。だが、朝日新聞やNHKが護憲を明確にしているとなると、改憲派(自民党・日本維新の会・みんなの党)が参院で2/3以上を獲得するのは決して容易ではないと見ておくべきろう。
 なお、私は96条の要件の緩和に反対ではない。まずは96条の改正をしたらどうかという案をこの欄に6年前に記したことすらある。

 但し、改正発議要件の2/3か1/2かという問題は、単純な理屈で決せられるものではないだろう。一義的に是非が判断できる問題ではないと思われる。となれば、96条改正のために2/3以上が獲得できるということは、現9条2項の削除等のためにも2/3以上を獲得できることとたいして変わらず、現行改正規定のままで(むろん両院で2/3以上を獲得して)、一挙に9条2項の削除・国防軍設置等の改正を発議した方がよい、あるいはてっとり早い、ような気もする。
 96条の要件の緩和にあえて反対はしないものの、反面では、例えば現憲法の第一章「天皇」の削除が現在よりも簡単に発議されるような事態が生じることも怖れてはいる(日本共産党は96条改正に反対しているから、現時点では「天皇制度」解体のために国会各議院の議員総数の過半数を獲得する自信を持っていないのだろう。だが、日本共産党が他「左翼」政党とともにそれが可能だと判断するときがくると、96条の要件が緩和されていることは怖いことでもある)。

 〇橋下徹護憲派ほどうさんくさいものはない。護憲派の人たちは、今の憲法が絶対的に正しいと思っている」、「『(憲法に対する異なる)価値観を強要しないで』と言いながら(今の憲法が正しいという価値観を)ばりばり強要している」と護憲派を批判したらしい(5/09記者会見)。

 改憲派である「保守派」の論者の一部の長い文章などよりも、はるかに分かりやすい。

1176/朝日新聞5/3のデマ社説。朝日の「謀略」にご用心。

 6年前の5月初め、第一次安倍内閣のころ、まだ「消えた年金」問題も「事務所経費」問題もマスコミでは大きくはとり挙げられていなかった。現役農水大臣の自殺もまだなかった。
 5月に入ってから、間違いなく7月参院選挙を見越して、「左翼」マスコミは、安倍晋三・自民党に不利になるような報道をし続けた。当時の雰囲気をまだ憶えているが、産経新聞が「何たる選挙戦」と銘打つ連載をするほどの<謀略的>な報道が朝日新聞を筆頭になされた(産経新聞記者の中にも山本雄史のように、選挙後に、自社の報道姿勢に疑問を示し、明らかに当時の主流派マスコミの影響を受けた記者ブログを書いていた者もいた)。
 現時点において、朝日系のマスメディアは何とか安倍晋三又は安倍内閣の問題点を必死に探しているように見える。そして、国内や外交にかかる新内閣の新しい政策運営も、できるだけ<褒めない>・<粗探しをする>、あるいはまだ結果は分からないと<冷笑する>といった姿勢・感覚で対応しているようだ(報道ステ-ションもそういう観点から観る面白い)。

 もとより朝日新聞は「護憲」派・憲法9条2項削除大反対派の代表だが、この憲法問題、正確には安倍・自民党がとりあえず提唱している現憲法96条・憲法改正条項の改正の是非に焦点をあてて、来る参議院選挙の争点化し、この点を強調して少なくとも自民党等の「右派」勢力の伸張を阻止する、という「政治」運動方針を固めたかに見える。もとより、別途のスキャンダル探しは執拗になされると思われるが、この憲法改正条項改正問題に適切に対応しないと、6年前と同様に朝日新聞らの「左翼」マスメディアの<謀略>に負けてしまう怖れなしとしない、という恐さがある。
 朝日新聞の5/3社説「憲法を考える/変えていいこと、悪いこと」は誤り・デマに満ちており、朝日新聞の<謀略的>情報戦略の重要な一つだと思われる。
 あまりにヒドいものなのだが、憲法問題をよく知らない読者を<騙す(ダマす)>可能性が十分にある。以下、しごく当然のことを書いて、ウソ・デマの存在を指摘しておく。
 第一。①冒頭に「国民主権や基本的人権の尊重、平和主義など」は憲法上の「決して変えてはならない」もので、これらの「普遍の原理は守り続けなければならない」、とある。②途中の4段目に同趣旨で、基本的人権の保障のほか「国民主権と平和主義を加えた『三つの原理』の根幹は、改正手続によっても変えられないというのが学界の多数説だ」、ともある。
 朝日新聞の社説子よ、バカも休み休み言いたまえ。

 1.「平和主義」の定義または説明がない。具体的に現憲法のどの条項に表現されているのかをおそらくは意識的に曖昧にしている。

 2.そしてまるで安倍晋三・自民党らの改憲派が「平和主義」を<変えよう>としているかのごとき印象を与えようとしているようだが、そのための正確なまたは実証的な根拠の提示・説明はどこにもない。自民党憲法改正案は現9条1項は現行のままそのまま残そうとしているのであり、そのかぎりで、十分になお「平和主義」を遵守している。改憲派が「平和主義」を壊そうとしている、というのは悪質なデマだ。
 3.そもそもが現憲法の「原理」を上記の三つに整理するというまとめ方自体が決して「学界の多数説」ではないし(そのように単純に書いている樋口陽一の概説書もあるが、彼の著作のすべてに見られるわけでもない)、ましてこの三原理は改正できないというのは(「平和主義」の具体的意味内容を明確にしていない重大な欠陥があることは上記のとおりだが、それを別としても)「学界の多数説」では決してない。これら二点ともにこの欄でかつてかなり詳しく言及したことがある。9条1項だけではなく9条2項もまた「変えてはいけない」、すなわち憲法改正権の限界の一つだとする学説は一部にあるのはたしかだが、決して通説または多数説ではない。朝日新聞社説子は憲法学研究者なのか、そうでなければ一体誰の本を読んで、上のような
「デマ」を平気で堂々と書いているのだろう。
 第二。途中に、「自民党などの改正論」は現96条の「3分の2」を「過半数」に引き下げようというものだが、「これでは一般の法改正と同様に発議でき、権力の歯止めの用をなさない」、とある。
 朝日新聞の社説子よ、バカも休み休み言いたまえ。
 96条が要求している国会議員の「3分の2」以上は国民に対する<発議>の要件であり、(天皇の公布行為を別にすれば)国民投票による国民の「過半数」の承認によって初めて憲法改正が成立する。
 これに対して「一般の法〔法律〕改正」の場合は国会議員の「過半数」のいわば承認だけで「一般の法〔法律〕」として成立してしまう。法律制定や改正の場合は国民投票は必要がない。
 このような重要な決定的な違いをおそらくは意識的に曖昧にしたまま、憲法を法律と同じように扱うものだ、という批判を96条改正派に対して加えているわけで、容易に知りうる違いを無視した、悪質なデマだ。
 なお、付け加えれば、一般的な法律の場合は各議院議員の「出席議員」の過半数の賛成で成立するが、96条による憲法改正「発議」の場合は各議院の「総議員」数が母数になる。
 こんな違いは簡単に分かるものだ。にもかかわらず、朝日新聞社説子は、完全に無視して、改正派は<憲法を法律なみに引き下げようとしている>と論難している。これを<デマ>と言わずして何と言おうか。
 朝日新聞が「政治」結社に他ならないことはとっくに分かっている。そうであったとしても、デマによらず、もう少しはまともな議論をしたらどうか。
 なお、ついでに、朝日新聞5/3の第一面の「座標軸」は欧州では国家「主権」の一部を欧州連合に譲渡しようとしているのに、国家「主権」になおこだわる日本は遅れている、といった趣旨の「論説主幹・大野博人」の文章がある(匿名でない点は「社説」よりはよい)。これは欧州と東アジアの歴史的経緯や文化的背景の差異を無視した謬論だ。
 もともと「国家(主権)」を軽視したい「左翼」朝日新聞論説委員ならではの記述とも言えるが、<自主憲法なくして真の主権回復はない>とする改憲派の主張を批判または揶揄するために欧州の例を持ち出すのは、スジが悪い、あるいは的外れだ。
 以上で今回は終えるが、朝日新聞を筆頭とする「左翼」=親コミュニズム(だからこそ親中国でもある)の、日本を(<右傾化>ではなく)「正常化」、「健全化」しようとする勢力・人々に対する<謀略的>攻撃・<デマ宣伝>にはくれぐれも用心しなければならない。6年前のことを決して忘れてはならない。

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