八幡和郎「邪馬台国畿内説の人々が無視する都合の悪い話」ブログサイト・アゴラ2019年12月19日。
 西尾幹二・国民の歴史(産経新聞社、1999)第6章・第7章=同・決定版/国民の歴史・上(文春文庫、2009)第6章・第7章。
 西尾著の第6章・第7章の表題は各々、「神話と歴史」、「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」。
 上の八幡の文章を読んで予定を早める。八幡・西尾批判を行うとともに、この機会に、安本美典の見解・歴史(古代史)学方法論を自分なりにまとめたり、紹介したりする。
 可能なかぎり、別途扱いたい天皇の歴史・女系天皇否認論に関係させないようにする。但し、事柄の性質上、関連してしまう叙述をするかもしれない。
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 八幡和郎「万世一系: すべての疑問に答える」ブログサイト・アゴラ2019年5月31日によると、この人物が天皇の「万世一系」に関係することに「とり組み始めたのは、1989年」で、「霞が関から邪馬台国をみれば」と題する記事を月刊中央公論に掲載してからだった。
 1989年!、ということに驚いた。文脈からすると、邪馬台国論議をその年くらいから「勉強」し始めたというように、理解することができるからだ。ひょっとして、長く検討してきた、とでも言いたいのか。
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 1989年、秋月瑛二はすでにいくつかの邪馬台国に関する文献に親しんでいた。
 井上光貞・日本の歴史第1巻/神話から歴史へ(中央公論社、1965/文庫版1973)は単行本で概読していただろう。文庫版も所持している。
 安本美典は、1988年までに、<邪馬台国の会>のウェブサイトによると、邪馬台国に関係するつぎの書物を出版している。*は、Amazonで入手できるらしい。
 ①邪馬台国への道(1967、筑摩書房)。
 ②神武東遷-数理文献的アプローチ(1968、中央公論社)。
 ③卑弥呼の謎(1972、講談社新書)。*
 ④高天原の謎(1974、講談社新書)。*
 ⑤邪馬台国論争批判(1976、芙蓉書房)。
 ⑥新考・邪馬台国への道(1977、筑摩書房)。
 ⑦「邪馬壱国」はなかった-古田武彦説の崩壊(1979、新人物往来社)。
 ⑧研究史・邪馬台国の東遷(1981、新人物往来社)。*
 ⑨倭の五王の謎(1981、講談社新書)。*
 ⑩卑弥呼と邪馬台国-コンピュータが幻の王国と伝説の時代を解明する(1983、PHP研究所)。*
 ⑪古代九州王朝はなかった-古田武彦説の虚構(1986、新人物往来社)。
 ⑫邪馬台国ハンドブック(1987、講談社)。*
 ⑬邪馬台国と卑弥呼の謎(1987、潮出版)。
 ⑭神武東遷/文庫版(1988、徳間文庫)。*
 ⑮新版/卑弥呼の謎(1988、講談社)。*
 ⑯「邪馬一国」はなかった(1988、徳間文庫)。
 以上。
 秋月は上記<会>の会員ではないし、邪馬台国論議に関与できる資格があるとも思ってもいない。
 しかし、正確な記憶・記録はないが、上のうち、③・④・⑥・⑨・⑫~⑯は所持しており(所在不判明のものも含む)、かつ読了していると思える。⑫は、事典的に役に立つ。⑭は②の改稿版。
 したがって、論議の基本的争点くらいは理解しているつもりだ。
 このような秋月瑛二から見ると驚いたのは、上の西尾幹二の書(1999年)も、八幡和郎の1989年以降の書物やブログ書き込みも、安本美典のこれら著書を全く読まないで、あるいは全く存在すら知らないで、書かれていると見えるということだ。
 古代史に関係する、専門家以外の著作の恐るべき傲慢さがある(もっとも古代史・考古学アカデミズムが、ごく一部を除いて安本の諸業績に明示的に言及しているわけでもない)。
 上の点は別に措くとして、西尾幹二は、魏志倭人伝の記載自体をまるで全体として信頼できないと主張しているようで、中国の「歴史書」よりも日本の「神話」を重視せよとナショナリズム満開で主張し、かつまるで古代史学者はもっぱら魏志倭人伝等に依拠していると主張しているようだ。これは西尾の無知又は偏見で、例えば安本美典の書物を見ればすぐに分かる。安本は、日本書記にも古事記にも注意深く目を通して、分析・検討している。
 一方、八幡和郎は、「邪馬台国」所在地論争について「北九州説」に立つようで、この点は安本美典(および私)とも同じだ。
 しかし、八幡和郎にどの程度の自覚があるのか知らないが、八幡説(?)はまるで性質が異なる。
 すなわち、通常とはかりに言わなくとも、有力な同所在地論争は、「邪馬台国」がのちの「大和朝廷」に発展したことを前提としている。簡単に言えば、「畿内説」に立てば、その地(大和盆地南東部)で成長したことになるし、「北九州説」に立てば、邪馬台国を築いた勢力が「東遷」したことになる(<神武東遷>。「東征」という語は必ずしも適切ではない)。
 八幡和郎の主張は、「大和朝廷」=「日本」国家の起源は、北九州にあった「邪馬台国」とは全く無関係だ、というものだ
 さかのぼって安本著等を見て確認しないが、このような考え方は昔からあった。八幡和郎はどの程度自覚しているのかは、知らない。
 上の12月19日「邪馬台国畿内説の人々が無視する都合の悪い話」は、一定の前提に立って、「畿内説」論者はその前提をどうして理解できないのか、と記しているようなもので、説得力がない。
 八幡によると、北九州にあった邪馬台国が滅亡して「数十年たったあと」、畿内の大和政権が北九州も支配下においた。
 邪馬台国の所在地については中国の歴史書をふまえようという姿勢が(西尾幹二と違って)あるのだが、しかし、つぎのことは八幡和郎にとって「都合の悪い話」ではないか。
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 魏志倭人伝(魏志東夷伝倭人条)によると、中国の使節がここまでは少なくとも来たらしい(これは八幡も肯定する)「伊都」国(現在の前原市辺り)は「女王国」に属し、「女王の都する」国は「邪馬台国」というとされる(女王の名が「卑弥呼」だ)。
 女王国と「邪馬台国(連合)」が同一であるかについてはなおも議論があるのかもしれない。しかし、個々の「クニ」よりも大きな「クニ」または「クニ連合」のことを「邪馬台国」と記載していることに間違いはないだろう(「邪馬一国」説は省略)。
 さて、なぜ、「邪馬台国」と記載されているのか
 話は跳ぶが、ソウルと大宮・大阪のいずれにもある「オ」という母音は、ハングルと日本語では異なる。韓国語でのソウルのソにある「オ」は、日本語の「オ」と「ア」の中間のようだ。
 したがって、ハングル文字での母音表記は大宮や大阪の「オ」とは異なり、コンピュー「タ」やティーチ「ャ」という場合の「ア」や「ヤ」と同じだ。
 何のためにこう書いているかというと、古代のことだから上と直接の関係はないとしても、つまりハングル・日本語と当時の中国語と北九州の言葉の関係は同じではないとしても、「邪馬台」は「ヤマト」と記すことのできた言葉であった可能性があるからだ。
 また、安本その他の諸氏も書いていることだが、当時の「ト」音には二種類があり、福岡県の「山門」郡は「邪馬台」と合わず、「ヤマト(大和)が「邪馬台」と合致する。
 また、「台」は、今日のダ、ドゥといった音に近いらしい(上で参照したアとオの中間的だ)。
 ダを採用すると「邪馬台」=「山田」となる。なお、朝倉市甘木辺りには「馬田」(まだ)という地名があったらしい。甘木という地名自体に「アマ」が含まれてもいる。
 この「邪馬台」と「大和(ヤマト)」の共通性・類似性を、八幡和郎は説明できないように考えられる。
 邪馬台国の成立・消滅のあとに成立・発展したはずの大和(ヤマト)政権は、いったいなぜ、「ヤマト」と称したのか?
 両者に関係がないとすれば、その「国名」の共通性・類似性はいったい何故なのか? たんなる偶然なのだろうか。
 八幡和郎は説明することができるのだろうか。
 八幡は知らないのかもしれないが、かつてすでにこの問題に回答することのできる説がぁった。
 正確な確認は省略するが、すでに畿内にあった大和(ヤマト)政権の強大さ・著名さにあやかって、本当は大和政権ではない北九州の「邪馬台国」が「ヤマト」という美名を<僭称>した、というものだ。
 これは時期の問題を無視すれば、論理的には成り立ちそうだ。
 しかし、八幡和郎は、この説も使うことができない。
 なぜなら、「邪馬台国」が北九州にあった時代、畿内にはまだ「大和(ヤマト)」政権はなかったと八幡は考えるのだから、「ヤマト」と<僭称>することはできない。したがって、中国の歴史書が「邪馬台国」と書き記したのは畿内政権と関係がないことになり、北九州の(伊都国の)人はなぜ、のちに成立する「ヤマト」政権と少なくとも類似した呼称を語ったのか、という疑問が残ったままだ。
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 八幡和郎の論・理解の仕方の決定的弱点は「年代論」にあると思われる。天皇在位の年数をおそらくは平均して30年ほどに想定している。これ自体が、誤りの元になっているようだ。
 さらにいくつか、批判的に指摘しよう。