一 大原康男・天皇-その論の変遷と皇室制度(展転社、1988)をさらに読み続けて、p.188まで。
 1 戦前は天皇・皇室自体に固有の財産があったようだが、戦後は三種の神器・宮中三殿・微少の有価証券類を除いて、皇居・御用邸・陵墓等は国有財産となった。国有財産のうちの行政財産のうちの皇室用財産だ〔他に公共用財産・公用財産等の種別がある〕。大原・上掲書の「戦後の皇室の民主化を問う」によると、昭和62年(1987年)の「内廷費」総額は約2億5700万円(p.154)。この費用で一般の「祭祀」は行われるが、「仄聞するところによれば、祭祀費のやりくりも決して楽ではないとのこと」(p.155)。英国・エリザベス女王の財産は7600億円、チャールズ皇太子のそれは770億円で、別途国家からの王室費も計上されているとか(p.154)。
 2 上の本のうち「昭和史の教訓―政治と軍事と」によると、杉森久英はエッセイ集(『昭和史見たまま』)の中で、昭和10年代の「軍国主義全盛」は「第一次大戦後の戦争反対、軍事否定、軍人蔑視の風潮がみずから招いたものだといえなくもないだろう」と書いた。第一次大戦後の欧州を席巻した戦争嫌悪・平和主義の気分が日本にも及び、「軍縮」が「世論の圧倒的支持の下」で断行された(p.175)。
 軍人だった武藤章は、第一次大戦の中頃からの世界での「軍国主義打破、平和主義の横行、デモクラシー謳歌」を「日本国民」は「日本軍人」に対して向けた。軍人に「嫌悪の眼をむけ」、ときには「露骨に電車や道路上で罵倒した」とのちに書いた(p.176)。
 また、杉森久英は満州事変以降は「冬の時代」の「屈辱と怨念」を晴らす「軍人の復讐」だと書いた、という(p.177)。
 <大正デモクラシー>の中にあった「ゆき過ぎた反軍感情」等を大原は問題にしている。そして、「滔々たる平和主義・厭戦思想・反軍感情の奔流」を前に、軍の立場は弱くなり、かつ政党も政治家も「政治と軍事との関係、国務と統帥との関係、政略と戦略との関係」を根本的に見直すことを怠った、旨を述べている。
 <天皇論>からある程度離れるが(「統帥権」問題では関係する)、上のようなことは戦後日本の「平和主義・厭戦思想・反軍感情」(の「滔々たる」「奔流」?)についてもある程度は示唆的だ。すなわち、軍事を知らずして、軍事を忘れて(=軍事・軍人をバカにして)、平和を語れるのか?、平和を維持できるのか?、ということだ。
 二 ところで、第一次大戦後の日本の「世論」は<戦争嫌悪・平和主義の気分>で、「軍縮」も圧倒的に支持したようだが、北岡伸一・政党から軍部へ/日本の近代5(中央公論新社、1999)によると、1931年の満州事変勃発後のある時点では「世論の方が前に出つつあり」、関東軍はそれをうまく利用した(p.162)。また、より一般的に「『大阪朝日新聞』に代表される進歩的と目される新聞まで、一斉に事変を支持」していた。
 反対にせよ賛成(支持)にせよ、「世論」とそれを形成する新聞等のマスコミの影響力は怖ろしいものだ。かつての満州事変以降の事変や戦争につき、朝日新聞他人事のように断罪し、政府・軍部要人の<責任>を糾弾しているが、かつての自らも<戦時体制>の中にいたことを忘れてもらっては困る。
 三 さらに離れるが、マルクス主義的歴史学者を中心に、満州事変開始(1931.09.18)から1945年の八・一五の敗戦詔勅(又は9月の降伏調印?)までを「十五年戦争」と呼ぶことがある。実際には14年間足らずしかないのだが。
 もっとも「十五年戦争」という語は一般化してはおらず、上の北岡伸一著は使っていない(索引にもない)し、有馬学・帝国の昭和/日本の歴史23(講談社、2002)も同様だ。また、あの?岩波書店による岩波新書の加藤陽子・満州事変から日中戦争へ/日本近現代史⑤(2007)ですら、「十五年戦争」という語は使っておらず、索引事項にもない(但し、私は「支那事変」のことを「日華事変」と習った世代だが、今は1936年以降は「日中戦争」と称することが多いようだ)。
 しかるに、先日言及した、デアゴスティーニの昭和タイムズの昭和6年号(第30号、2008/5/13号)は、満州事変について「15年戦争の発端となった関東軍の一大策略」との大きな文字の見出しで記述している。
 デアゴスティーニのこの雑誌(冊子?)は、いったいどういう傾向の歴史専門家が文章を書き、特定の概念を使っているのだろうか? 歴史専門家が書いているのではないとすれば、記述者はいったいどんな書物を読んで文章をまとめ、見出しをつけているのだろうか。
 大原の皇室論からだいぶ離れたが、<左翼>は気味が悪く、怖ろしい。映画にも本にも冊子にも(むろん新聞にもテレビにも)何食わぬ顔をして棲息している。