秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

月刊正論

1153/西尾幹二が橋下徹について語る-月刊正論1月号。

 橋下徹を擁護する文章をこの欄に書いてはいるが、いつかも触れたように、この人物のすべてを、この人物の主張・言動のすべてを手放しで賞賛しているわけではない。
 ただ、橋下徹を「保守ではない」とか「ファシスト」・「ヒットラ-」だとか、あるいは佐伯啓思のごとくロベスピエール(の再来の懸念あり)>だとか、簡単または単純に決めつける論調が自称<保守派>の中にすらあることに強い危惧を覚えているのだ。
 佐伯啓思の名を先に挙げてしまったが、中島岳志-本質が「左翼」ならば当然だが-、適菜収、新保祐司、月刊正論編集長・桑原聡らがこれに該当する(藤井聡もこれらに近い)。
 月刊正論2013年1月号(産経)に、西尾幹二「救国政権誕生の条件と保守の宿命-危機克服のリ-ダ-に誰を選び、何を託すのか」がある。
 西尾論考全体の趣旨の方が重要だろうが、橋下徹への言及もあるので、ここでも触れておく。西尾が橋下徹に論及するのを読むのは初めてでもあるからだ。
 結論的に言って、西尾の橋下評は穏便で、無難なものだ。
 西尾幹二の橋下評は、「橋下氏は毀誉褒貶が激しいが、私は早くから好意を抱いてきた」から始まる(p.80)。続けて述べる-「言葉は激しく時に辛辣だが、意外に柔軟性がある。自分に対して謙虚なところもあって、彼からは決して傲慢なイメ-ジは受けないのである」。
 基本的に私と異ならない。はっきりと意見を述べることと、「ファシスト」・「独裁者」とはまるで異なる。そのような論評の仕方をする者またはグル-プの中に私は「左翼」を見い出してもきたのだ。
 西尾幹二が「都」は天皇のおられるところ一つで、「大阪都構想」はおかしいという点も同感できる。ただ、言葉遣いのレベルの問題で、東京都制のように政令指定都市ではない特別区をうちに含む大都市制度というイメ-ジで用いられている可能性はあるだろう。
 西尾幹二はまた、橋下に「地方」のイデオロギ-に「過度にこだわらないでほしい」と助言し、道州制には反対だと述べている。
 果たして橋下徹が<地方のイデオロギ->を持っているかは、とくに「イデオロギ-」という語が適切かは疑問で、コメントし難い。また、道州制の問題は種々の具体的制度設計にかかる議論が今後なされなければならない。「アメリカ式」の「州政府」を持つものに必ずなるのかは疑問だし、アメリカやドイツのように州憲法までもつ「道州」が日本で構想されているわけでもないだろう。
 「国家観の根幹がぼやけている危ういと思うこともある」、というコメントも理解できる範囲内だ。ついでながら、石原慎太郎・橋下徹らの日本維新の会は、できるだけ早く、制定を目指すという「自主憲法」の具体的内容を明らかにすべきだろう。
 西尾幹二の橋下徹への言及はつぎの文章で終わる。
 「どうかもっと勉強してほしい。若いのだから、歴史も法律も国際関係もいくら学んでも学び足りない謙虚さを一方ではもちつづけてもらいたい」。
 何と暖かい言葉だろう。40歳すぎそこそこの人間に過大な注文をつけるな、若造に高いレベルのものを要求した上で物足りないと言って批判・攻撃するな、というのは、単純で乱暴な橋下徹批判論に対して感じてきたことでもある。

 西尾幹二は安倍晋三、石原慎太郎についても興味深いコメントを明確にしている。紹介は省略して、今回はここまで。

1145/石原新党と橋下徹・維新の会-憲法「破棄」か否かで対立するな。

 1 石原慎太郎、都知事辞職、新党結成・代表就任・総選挙立候補を表明。
 これについての、みんなの党・渡辺某と比べて、維新の会の国会議員団代表・松野頼久の反応ないしコメントの方がよかった。自民党も含めて「近いうち」の衆議院選挙の結果はむろんまだ不明だが、連携・協力の余地は十分に残しておいた方がよい。
 2 石原慎太郎と橋下徹(・維新の会)との違いの一つは、現憲法の見方にあり、石原は憲法<破棄>論であるのに対して、橋下は<改正>論である、らしい。つまり、石原は、渡部昇一の影響を受けてか、現憲法を<無効>と考えているのに対して、橋下は<有効>であることを前提にしているようだ(彼らの発言を厳密にフォローすることを省略するので、<ようだ>と記しておく)。
 おそらくこの違いもあるのだろう、橋下徹は、代表を務める日本維新の会の「傘下」にあるはずの東京維新の会の東京都議会議員が「憲法破棄」・旧かな遣いの大日本帝国憲法復活の請願に賛成したことについて、大きく問題視はしないとしつつも、クレームをつけた、という(10/09。都議会全体としては請願を否決)。
 石原慎太郎が産経新聞紙上で述べていた「憲法破棄」論については、この欄で疑問視したので子細を反復しないが、橋下徹の「憲法改正」論の方が適切だ。現実性はないと思うが、かりに国会で「憲法破棄」決議をしたところで法的には無意味で、そのことによって大日本帝国憲法が復活するわけでもない。国会についてすらそうで、現憲法によってはじめて府県レベルでも設置することとされた住民公選議員により構成される都道府県議会が、橋下も言っていたように、現憲法「破棄」決議をする権限はなく、かりに決議または請願採択をしてもまったく無意味だ。
 3 上のことをとくに指摘しておきたいのではない。あとでも触れるかもしれないが、この問題は今日ではほとんど決着済みの、議論する必要がないと思われる論点だ。
 なぜあえてこの論点に触れているかというと、この問題についての石原新党と維新の会の違いが強調されまたはクローズアップされて、両党の連携に支障が生じることを、あるいは支障の程度が大きくなることを危惧しているからだ。
 安部晋三内閣時代に2007年に成立しのちに施行された憲法改正手続法=正確には「日本国憲法の改正手続に関する法律」は、名称どおり、現憲法の有効性を前提にして、同96条によるその「改正」のための国民投票等の手続を定めたものだ。自民党の第一次、第二次の新憲法案も<憲法改正案>であり、ずっと前の読売新聞案も同様だったかと記憶する。
 橋下徹は 「日本維新の会としての方針としては、憲法破棄という方針はとらない。あくまで改正手続きをとっていく。理論上は憲法破棄ということも成り立ちうるのかもしれないが、その後現実的に積み重ねられてきた事実をもとにすると、簡単に憲法について破棄、という方法はとれないのではないのか」と発言したらしい。この発言のとおり、「理論上は憲法破棄ということも成り立ちうるのかもしれない」とかりにしても、上のような法律が安部晋三の新憲法制定の意欲のもとに作られ、重要な「改正案」も発表されているのであり、石原慎太郎・石原新党は、政治的・現実的に判断し、<憲法破棄>論に拘泥すべきではない、だろう。実質的に日本国民による新憲法の制定がなされる方向で、両党(と自民党)は連携・協力すべきだ。
 4 上の論点についての見解の相違が<保守勢力の結集>を妨げるようなことがあってはならない。
 この点、産経新聞(社)はどういう立場を採っているのだろうか。
 上記のように維新の会・東京都議会議員団は旧かな遣いの憲法に戻したいようだが、この主張およびそのもととなった都民の請願が産経新聞「正論」欄に掲載された新保祐司のそれの影響を受けているとすると、新保祐司と産経新聞は、極論すれば<保守派>の中に分裂を持ち込むものだ。そして、国民の過半数の支持による新憲法制定を妨害する役割を客観的には果たすものだ。また、石原の<憲法破棄論>が渡部昇一らの<現憲法無効論>の影響を受けているか支えの一つになっているのだとすると、渡部昇一らの議論もまた、極論すれば<保守派>の中に分裂を持ち込むものだ。そして、国民の過半数の支持による新憲法制定を妨害する役割を客観的には果たすものだ。
 念のため確かめてみると、産経新聞社に置かれたという数名による委員会の議論について、同新聞は「新憲法起草」とか「国民の憲法」起草とかと見出しを立てていて、<改正>と明記していないようだ。つまり、<破棄>論に配慮したとも解釈できる言葉遣いを採用しているように見える。
 また、「産経新聞出版」ではなく産経新聞社発行の月刊雑誌・正論(編集長・桑原聡)の今年8月号p.232-は、渡部昇一と大原康男の「対論/改正か無効か~日本が『日本』であるための憲法論」を掲載して、「改正か無効か」が大きな論点であるかのごとくとりあげている。この問題に関心を持つことや月刊正論上で取り上げること自体を批判はしないが、このとり上げ方は、月刊正論、そして産経新聞が少なくとも<憲法無効・破棄論>を一顧だにしないという立場ではない、ということを示しているだろう。
 また、上の二人のうち大原は実質的には有効・改正論者だと読めるが、大原が渡部に敬意を表して遠慮しているせいか、法学に「素人」だと自認している渡部にしゃべらせ過ぎており(大原は京都大学法学部卒でもある)、<憲法無効・破棄論>の無意味さを明確にするものには(私には残念ながら)なっていない。
 こうしたことも併せ考えると、産経新聞社・月刊正論(編集長・桑原聡)は、石原・同新党と橋下・維新の会の協力・連携を阻害する役割を果たしている可能性、そして今後も果たす可能性があると危惧される。
 月刊正論の編集長・桑原聡は橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと判断しているので、上の両党の協力・連携が阻害されるのは、少なくとも桑原聡の意図には即しているのかもしれない
 だが、産経新聞も月刊正論も少なくとも強くは批判していない安部晋三・現自民党総裁は、憲法改正のためには橋下徹・維新の会と連携する必要がある、あるいはそういう時期が来る可能性がある、という旨を発言している。橋下徹が現憲法96条の要件緩和に賛成していることは周知のことだ。
 大局を見ない、または国民の過半数の支持という重要なハードルを考慮しない主張や議論は(旧仮名遣い復活論も含めて)、新憲法の制定に賛成する立場の新聞や雑誌からは排されるべきだ。 
 5 <憲法無効・破棄論>はむろん、自民党の立場でもないと考えられる。この論に固執することは、石原新党と自民党との対立も深めることとなり、<保守派の結集あるいは連携・協力>を妨げることとなるだろう。自民党全体を<リベラル>または「左翼」と考えるならば話は別だが。

 憲法「破棄」論に立ち、<旧かな遣い>の憲法に戻すべきだ、という見解こそが「真の保守」だ、などという大きな、かつ危険な勘違いをしてはいけない。
 なお、中島岳志のごとき、現憲法9条改正(2項削除・国防軍明記)反対論は、言うまでもなく「保守派」のそれではない。
 6 上の渡部・大原対論も含めて、産経新聞や月刊正論の記事・主張・議論に、この欄で最近はほとんど言及していない。だからといって、何の感想も持っていないわけではない。以上で書いたものの中には、その一部は含まれているだろう。

1141/月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切なのか③。

 月刊正論9月号(産経)の「編集者から」(p.327)の文章で驚いたのはつぎの言葉だ。
 一読者が「いたずらに異見を責めるのではなくて、国民の落着点を求め」る姿勢が大切ではないかと(前回に紹介にしたことを書いて)「編集者へ」述べたことに答えて、それが「必要な場合もあるでしょうが…」と述べているのは一般論としては誤っていないだろうが、問題は、それに続くつぎの文章だ。
 「それ〔異なる意見〕が日本と日本人を間違った方向に導くと判断した時には、我々は異見を潰しにかかります」。
 月刊正論編集部は「日本と日本人を間違った方向に導くと判断し時には」「潰しにかかる」、そういう編集方針を明らかにしたわけだ。
 善意に解釈して、その気分ないし意気込み?は理解できなくもないが、ただちに、次のような疑問が生じる。
 第一。「日本と日本人を間違った方向に導く」意見かどうかを判断するのは、明らかに月刊正論編集部(「我々」)だとされている。
 しかして、そもそも月刊正論編集部に、諸意見・考え方等々のいずれが「日本と日本人を間違った方向に導く」か否かを適切に判断する資格または能力があるのだろうか。
 主観的に、そのような気概?を持って何らかの「判断」をするのは結構だし、妨げることもできないだろうが、そもそもその「判断」が正しいまたは適切か否かの客観性は何ら保障されていない。
 奥付?によると月刊正論「編集部」には、「編集人」の桑原聡のほかに「小島新一・永井優子・川瀬弘至・上島嘉郎」の4名しかいない。政治・社会系の研究者・学者としても、政治・社会系評論家としても何らその地位を確立しているとは思えない、長の桑原を含めてこれら5名に、「日本と日本人を間違った方向に導く」か否かの判断を、読者は委ねることができるだろうか。一般論として、とても不可能だ、と考えられる。
 「我々」が「日本と日本人を間違った方向に導くと判断した時には」、という書き方は、まるで「我々」がその判断を客観的ないし的確に行うことができるということを前提にしているごとくで、誤っている可能性がきわめて高く、ひどく<傲慢>だ。
 読者は、「日本と日本人を間違った方向に導く」意見・考え方か否かの判断を、上の5名が客観的にかつ適切になしうるとは考えていないし、期待もしていないだろう。
 そもそも月間
発行部数2万程度の雑誌の、たった5名の「編集者」にそのようなことができるわけがない、と考える方が常識的だ。
 百歩譲って、編集者としての気分・気概を宣明しただけだ、と理解するとしても、そのような気分・気概は、ある意味では、すべての政治・社会系雑誌の編集者が持っていても不思議ではないもので、わざわざ文章にし、活字にしておくような類のものではない。
 あえて上のようなことを活字にしていること自体が、やはりどこかおかしい、と感じざるをえない。
 第二。「日本と日本人を間違った方向に導く」意見・考え方を「我々」は「潰しにかか」る、という。
 その前提的判断の客観性・適切性に疑問がありうることは上に記したが、そのような前提的判断に立っての、上のような「異見」は「潰しにかかります」、という表現は尋常ではない。
 具体的には、そのような「異見」は掲載せず(執筆を依頼せず)、それを批判・攻撃する論考のみを掲載していく、という編集方針を宣言していることになるのだろう。
 一般論として、何らかの編集方針を持つことはありえ、それに基づいて具体的な雑誌編集を行うことはむろんあるだろう。どの雑誌もそうしている、とも言える。
 だが、上のような「異見」は「潰しにかかります」、という表現は、穏やかではない。
 客観的にまたは結果的にそのような機能を持つことがあっても、あるいは持つことを意図していたとしても、ふつうは、上のように「潰しにかかります」とまでは、文章化しない、活字にはしない、のではないか。
 この点でも、現在の月刊正論編集部は、やはり、どこかおかしい。
 それにまず、自分(たち)の気にくわない意見は「潰しにかかる」という姿勢・態度を明らかにすることは、多分に気味が悪いものだ。月刊正論編集部は、政治・社会問題にかんする諸意見についての<思想警察>のつもりなのだろうか。そういう立場に立つつもりなのだろうか。右向きか左向きか知らないが、どこか<ファシスト>的匂いを感じる表現であることに、実際の書き手は注意した方がよいと思われる。
 つぎに、そもそも、月刊正論という雑誌の力で、「日本と日本人を間違った方向に導く」意見を同誌編集部が「潰しにかかる」ことができると本当に考えているのだろうか。
 そうだとすれば、尋常ではないし、やはりひどく<傲慢>だ。
 月間発行部数2万程度の雑誌に、朝日新聞の数分の1しか読者のない産経新聞のさらに100分の1程度の読者数の雑誌に、その雑誌編集部の「判断」と異なる意見を<潰す>ことができるとはとても思えない。<潰せる>と考えているとすれば、その自信過剰さは、尋常な感覚ではないだろう。
 実際問題として、月刊正論(編集部)が「日本と日本人を間違った方向に導く」意見だと判断するかもしれない諸意見は種々の、別の雑誌に溢れているし、今日ではブログやツイッター等の表現手段もある。
 月間発行部数2万程度の雑誌の「編集者」が、気にくわない「異見」を「潰しにかかります」などと、かりに内部でそう考えていたとしても、正規に、雑誌上に文章とし、活字にするようなことはしない方がよいだろう。
 ごく常識的な感想を書いたつもりだ。内容的にも疑問があり、「潰しにかかる」という言葉には<思想警察>的な気味悪さを感じる。と同時に、そのような文章を平気で活字にし、正規に残しておく、という姿勢・態度・感覚に、尋常ではない、戦慄すべき<怖ろしさ>を感じる。
 余計ながら、ひょっとして具体的には皇位継承問題(女系天皇の是非)を念頭に置いて「編集者」の上の文章は書かれたのかもしれない。しかし、そのような特定・限定はなく、一般的な宣明のかたちで、上の文章は書かれている。
 さらに余計ながら、「日本と日本人を間違った方向に導く」、日本国内のマルクス主義者・親マルクス主義者あるいは「左翼」の諸意見・考え方を「潰しにかかる」という編集方針を、月刊正論編集部は採っているのだろうか?、かりに採っているとしても、それは十分なものだろうか?、という疑問がある。
 「保守」派内の「内ゲバ」に主要な関心を向けたり、その一方に加担することに熱心な月刊雑誌は、少なくとも「保守」派一般の、またはその代表的な雑誌になることすらできないだろう。ましてや、憲法改正に必要な国民・有権者の過半数に支持される、あるいは関心をもたれる雑誌に成長することは決してないだろうと思われる。
 月刊正論の親会社の発行する産経新聞8/14加地伸行と竹内洋の対談中に、こんな部分があった。
 「加地 今の保守系は論壇というよりも、悪口を言うことで終わってしまっている。……
  竹内 それと内ゲバ。左翼…が、保守論壇も。仲間内でやるのが一番見苦しい」。
 この秋月の文章も一種の「内ゲバ」かもしれないが、秋月瑛二のブログにそのようなものの一方当事者となる資格(・読者数)はないものと自覚している。

1140/月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切なのか② 。

 〇8/21に月刊正論による自民党批判を今年8月号と書いたのは誤りで、正しくは7月号。
 6月号以降は月初めに購入せず、のちに古書で手に入れることにしており、かつ従来のように月刊正論を手元に置いておく癖をなくしたまま、確認しないで書いたがゆえの誤りだ。
 月刊正論7月号は<徹底検証/誰が殺した自民党>という特集を組んでいる。10本もの論考から成っていて、編集部が設定したはずのこのテーマは、自民党を「殺した」者がいること、つまり自民党は「殺されている」=「死んでいる」ことを前提として、犯人を探索させる、という趣旨になっている。自民党は「死んだ」という前提に月刊正論編集部は立っているわけだ(ちなみに、このテーマと必ずしも正面からは一致しない論考もあるが、執筆者と犯人とされた者は誰かは、田久保忠衛→谷垣禎一、田母神俊雄→麻生太郎、適菜収→小沢一郎、佐伯啓思→小泉純一郞、上念司→竹下登、倉山満→三木武夫、西尾幹二→中曽根康弘、阿比留瑠比→野中広務、中宮崇→河野洋平、潮匡人→安倍晋三)。
 このような前提的認識自体に疑問がある。少なくとも、疑問を差し挟む余地がある。このような認識をもつとすれば、自民党ではなく現在の民主党こそが、とっくに自壊・分裂して?「死んでいる」という認識・見解も、月刊正論編集部は示さなければならないのではないか。
 民主党政権の三年間の批判的総括の特集がないのは先日に書いたとおり。6月号に<特集/左翼諸君よ、反省しなさい!>があって4本の論考を載せているが、このテーマに即しているのは佐々淳行「進歩主義者の知的退嬰を糾す」くらいで、河添恵子らの「女3人言いたい放題/保守の男と革新のオトコを比べてみれば」という、<遊び>の企画も含んでいる。そして、この特集も、「左翼」・民主党政権の具体的批判とはまるで関係がない。
 「保守派」らしき月刊雑誌が、「保守」・「右」の立場から自民党批判の特集を組むことはありうるだろうが、より熱心でなければならないのは、現実に政権=権力を持っている「左翼」・民主党に対する批判でなければならないのではないか。
 〇月刊正論9月号の「編集者へ/編集者から」の中には、目を剝く「編集者」の文章がある。
 目を剝いた、驚きかつ戦慄を覚えた部分は後回しにして、読者と編集部のやりとりを簡単に要約しておこう。
 ある80歳を超えている読者が、月刊正論には「時々、違和感のある内容の文章も散見されるので、あえて苦言と希望を併せて述べる」という観点から、月刊正論8月号の伊藤悠司「田中卓先生、それを詭弁と言うのです」(p.256-)を読んで「貴誌の姿勢というか、見解を疑いました」と書き始め、「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」に「甚だしい違和感を覚えた」、「名のある他人に対する非礼な書きぶり」を掲載している月刊正論に「失望を禁じえない」と続けている。内容的にも「いたずらに異見を責めるのではなくて、国民のための落着点を求めようとする姿勢」が月刊正論のような「日本護持の気持ちの強い月刊誌」には「大切」ではないか、と書き送っている(9月号p.325-6)。
 これに対する「編集者」の応答は、素っ気なく、冷たいものだ。
 「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」という「指摘はどうでしょう」、「編集者は冷静で落ち着いた筆の運びと感じました」。
 一毫も一読者の感想・意見を容認・受容することなく、バッサリと切り捨てている。せっかく投稿してくれた読者に対して、こんな姿勢・態度でよいのだろうか、という感想がまず湧く。
 ここで問題になっているのは、女系天皇容認論者らしき田中卓(元皇學館大学教授・学長)に対する伊藤悠司の「書きぶり」だ。
 論争の中身にはさしあたり立ち入らずに、「書きぶり」ははたして「編集者」が言うように「冷静で落ち着いた」ものかどうか、という観点から、8月号の伊藤論考を見てみた。
 結論的には、月刊正論「編集者」が言うように全面的に「冷静で落ち着いた」ものとはいえず、感情的な文章を含み、読者によっては(とくに田中卓に同調したり、彼に敬意を感じている読者には)、「悪意と誹謗に満ちた…」と感じてもやむをえない文章もある、ということだ。
 例を引用しておく。
 ・「…というのは…無頼漢のサカシラゴトである」(p.259)。
 ・「…とは恐れ入る。ラーメンでも寿司でも昼飯は何でもいいというような口ふりで皇室を語っていることに〔田中卓は〕気がつかないのだ」(同上)。
 ・「これほど理を非に言い曲げるこじつけが上手な人もそうはいない。田中氏のは一級品である」(同上)。
 ・「こんな人物が皇學館大学の学長をつとめていたとは驚かざるをえない。神宮の神域に立ち入ることを禁じたらどうか」(p.260)。
 ・「この人はよく皇室を言祝ぐ」が、そうしながら「皇室を貶めるのに成功している文章に接してあきれてしまう。民族的信仰心とでもいうべき精神性からは遠い。傲慢な手つきしか見えない」(p.261)。
 ・「この人〔田中卓〕が眺めている日本の将来像や風景には、ふつうの神経の人が正視できないものが映っているのかもしれない」(p.266)。
 これらの文章を含む論考を月刊正論「編集者」は、「冷静で落ち着いた筆の運びと感じました」と評している。
 月刊正論「編集者」の感覚は、やはり少しおかしいのではないか。とくに上のp.266は対象者を(「かもしれない」としつつも)<狂人>扱いしているごとくであり、かなりの、「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」と称しても、差し支えないように感じる。
 月刊正論編集長・桑原聡、編集部員・川瀬弘至らは、やはり、どこかおかしい。まともな、月刊雑誌編集者と言えるのだろうか。
 驚きかつ戦慄を覚えた部分については、さらに後回しにする。
 なお、この文章は女系天皇容認論を支持する立場からのものではまったくない。

1138/月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切なのか?①

 〇「Weekly 雑誌ニュース」というサイトによると、各雑誌の月間発行部数は、文藝春秋約60万、潮約40万、WEDGE-約16万、サピオ約12万、月刊WiLL-11万、エコノミスト8万、月刊ボイス-約3万、らしい。
 月刊正論、新潮45、世界等については「調査中」とある。
 但し、この欄で既述のように、雑誌・撃論3号(2011.11)の編集部による文章によると、<月刊WiLLの販売部数は月平均約10万部、産経新聞社の月刊正論は実売2万部以下>らしい。
 月刊WiLLについての上の両者の数字が11万・10万とほぼ同数であることからすると、月刊正論についての数字も、信頼してよさそうに見える。
 歴史があり、新聞社に支えられている(はずの)月刊正論(産経)よりも、後発の、同じく一般には
<保守>派とされていると思われる月刊WiLL(ワック)や月刊ボイス(PHP)の方が、よく売れているわけだ。
 とくに、月刊正論は月刊WiLLの5ないし6分の1程度しか読まれていない(売れていない)、ということは興味深い。
 以上のことは、以下に述べることと直接の関係はない。但し、現在の編集方針だと(つまりは現在の編集長・編集部員だと)、販売部数は増えそうにない、という気はする。
 〇月刊正論やその個々の論考については言及したいことは多い。さしあたり、月刊正論全体ないしその編集方針について、まず、いくつかをごく簡単にコメントする。
 ①「近いうち」の衆議院解散・総選挙という時期なので、あるいはずっと前から今年(2012年中)の解散・総選挙の可能性は高いと言われてきたので、政治・社会系総合雑誌がすべきことは、私見では、<(2009年誕生の)民主党政権とは何であったか・民主党政権はいったい何をしてきたか>という総括だろう。
 これが月刊正論にはほとんど見られないようだ。少なくとも「特集」は組まれていない。
 この点では、月刊文藝春秋8月号が「政権交代は何をもたらしたのか―民主解体『失敗の本質』」という特集を組んでいることの方が(p.116-)が、決して「保守派」雑誌でないにせよ、時代的・時期的センスが(月刊正論編集部よりも)優っている。

 また、月刊WiLL9月号は「総力大特集/醜悪なり民主政権」と銘打つ特集を組んで、4本以上の論考を載せている。山際澄夫「朝日新聞は土下座して読者に詫びよ」(p.84-)などは、反民主党、反朝日新聞の読者を少しは痛快な気分にさせるだろう。
 ②朝日新聞や岩波・雑誌「世界」らは、2009年の民主党政権樹立へとムード・空気を煽ってきた。2009年の投票日に並んでいた月刊世界の表紙のタイトルは「政権選択選挙へ」だったと記憶する。さすがに「政権交代選挙へ」とは打てなかったのだろう。だが、総選挙とはつねに「政権選択選挙」たる性格をもつことからすると、月刊世界のタイトルの含意は明瞭だった。
 政権交代を朝日新聞等は「歴史的」と表現して歓迎した。自分たちの世論誘導は見事に効を奏したのだった。
 従って成立した民主党政権を罵倒するはずはないのだが、残念ながら民主党内閣の「失点」は相次ぎ、叱咤激励はするものの、政権交代の現実的なプラスの成果を、朝日新聞らは提示できなかった、と思われる。
 だが、朝日新聞らが意図したことは、<民主党政権は批判されるべきだが、自民党政権に戻してもダメだ>という世論形成だった。民主党がダメだとしても、自民党が良いわけではない、というのが彼らの<矜持>あるいは<面子>からする主張だった、と思われる。そして、これまた、そのような世論形成は、相当に成功したように見える。
 「保守派」のはずの月刊正論(産経)も、そのような雰囲気に対抗することはせず、むしろ、その編集長は、2011年4月号に、次のように書いていた。あの3.11の起こった時点の、編集長・桑原聡の文章だ。 
 「…民主党内閣が、憲政史上最低最悪の内閣であることは多くの国民が感じているところだろうが、かりに解散総選挙が行われ、自民党が政権を奪回したとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも、わが国を元気にする知恵も力もないように思える」(p.326)。
 解散・総選挙の現実的可能性が高まった現在でも、桑原聡はこう考えているのだろうか。このような見解は、<民主党はもちろん、自民党にも投票するな>と言っているに等しい。
 どちらがよりマシか、どちらがより「保守的」か、どちらが現憲法改正草案を持っているか(九条2項削除を明確な方針としているか)、どちらに靖国神社参拝をする議員が多いか、などを考えれば、編集長・桑原聡の上の文章は、ほとんど、朝日新聞らの「左翼」と同じだ。
 自民党よりも「保守的」な有力政党の結成・誕生を見ていない現在では、多少は異なる見解に至っていることを期待したい。だが、月刊正論の(2012年)8月号は、<自民党批判>の特集を組んでいる。解散・総選挙が近づいていることは客観的に明瞭だった時期に、月刊正論は、<民主党政権の総括的批判>ではなく<自民党批判>の特集を打ったのだ。
 この雑誌は、あるいはこの雑誌の編集長、その編集方針は、やはりどこかおかしい。とても<保守派>の雑誌とは思えない。
 ③今年2012年は、日本共産党創立90周年の年だ。産経新聞でもまともにこれを採り上げた記事は少なかった(あっても大きな紙面を用いたものではなかった)が、きちんと日本の「共産主義」政党の過去と現在を分析し、批判的に総括しておくことは、新聞ではなくむしろ「保守派」雑誌の役割だっただろう。
 しかるに、月刊正論は、これを怠っている、と見られる。月刊正論(編集部)は、いったい何と闘っているのか? いったい日本をどうしたいのか?
 編集長・桑原聡が早々に(今年初めの時点で)、橋下徹を「きわめて危険な政治家」、日本「解体」を意図している、と論定してしまったように、まるで政治的センスに乏しく、<いったい日本をどうしたいのか>について多少とも錯乱しているのではないだろうか?
 憲法改正は重要なテーマだが、この問題についての(大きな論点ごとでもよいが)特集は組まれていない。
 従来の、「固い」読者層を掴んでいれば大丈夫だという感覚なのだろうか。そのような感覚では、国民・有権者の過半数の支持が必要な憲法改正のために情報発信するメディアの中の中心に位置することはとてもできないだろう。
 以上のほか、9月号をごく最近に見ていて、月刊正論の「編集方針」に、あるいは編集部自身の文章に、<戦慄すべき>怖ろしさを感じた。
 長くなったので、次回に譲る。 
 

1130/適菜収・世界(岩波)・月刊正論(産経)と変説?した川瀬弘至。

 〇月刊正論5月号(産経、2012.04)の適菜収論考は「理念なきB層政治家」を副題として橋下徹を批判・罵倒している。
 冒頭の一文は、「橋下徹大阪市長は文明社会の敵です」。この一文だけで改行させて次の段落に移り、「アナーキスト」、「国家解体」論者、「天性のデマゴーグ」等々と、十分な理由づけ・論拠を示さないままで<レッテル貼り(ラベリング)>をしていることはすでに触れた。
 この論考では「B層」という概念が重要な役割を果たしているはずだが、これの意味について必ずしも明確で詳細な説明はない。いくつか「B層」概念の使い方を拾ってみると―。
 ・「B層」=「近代的理念を妄信する馬鹿」(p.51)。
 ・橋下徹は「天性のデマゴーグ」なので「B層の感情を動かす手法をよく知っている」(p.52)。
 ・橋下徹の「底の浅さ」は「B層の『連想の質』を計算した上で演出されている」(p.53)。
 ・橋下徹・維新の会をめぐる言説は「B層、不注意な人、未熟な人の間で現在拡大再生産されている」(p.53)。
 ・「B層は歴史から切り離されているので、同じような詐欺に何度でも引っかかります」(p.54)。
 ・「マスメディアがデマゴーグを生みだし、行列があればとりあえず並びたくなるB層…」(p.54)。
 ・「小泉郵政選挙に熱狂し、騙されたと憤慨して民主党に投票し、再び騙されたと喚きながら、橋下のケツを追いかけているのがB層です」(p.55)。
 このくらいだが、要するに適菜のいう「B層」とは<馬鹿な大衆>を意味していると理解して、ほとんど間違っていないだろう。
 産経新聞5/04の「賢者〔何と!―秋月〕に学ぶ」欄でも適菜収は、「B層」とは、「マスメディアに踊らされやすい知的弱者」、ひいては「近代的諸価値を妄信する層」を指す、と明確に述べている。「知的弱者」、つまりは「馬鹿」のことなのだ。
 またニーチェのいう「畜群人間」はまさに「B層」だとし、この「B層」人間は「真っ当な価値判断ができない人々」で、「圧倒的な自信の下、自分たちの浅薄な価値観を社会に押し付けようとする。そして、無知であることに恥じらいをもたず、素人であることに誇りをもつ」、そして、「プロの領域、職人の領域」を浸食し、「素人が社会を導こうと決心する」、「これこそがニーチェが警鐘を鳴らした近代大衆社会の最終的な姿だ」、とも書いている。
 適菜において「B層」とは「知的弱者」=「馬鹿」で、「畜群」と同義語なのだ。
 そして、こうした「B層」を騙し、かつこうした「B層」に支持されているのが橋下徹だ、というのが、適菜の主張・見解の基調だ。前回に少し述べたが、決して、「伝統」か「理性」かを対置させて後者の側(「理性の暴走」)に橋下を置いているのではない。
 さて、月刊世界7月号(岩波)は「橋下維新―自治なき『改革』の内実」という特集を組んでいるが、その中の松谷満「誰が橋下を支持しているのか」(p.103-)は興味深い。
 松谷は、多段無作為抽出にもとづく有効回答数772のデータを基礎にして、次のように述べている(逐一のデータ紹介は省略する)。
 ①一部の論者が「社会経済的に不安定な人びと」が橋下を支持している、「弱い立場にいる人びと」が「その不安や不満の解消を図るべくポピュリズムを支えている」という<弱者仮説>を提示しているが、「少なくとも調査結果をみる限り、妥当性は低い」。
 ②橋下徹に対する支持は「若年層」で高いというわけではなく、「強い支持」は「六〇代がもっとも多い」。
 ③六〇才以下の男性について雇用形態・職業から5つに分類すると、「管理者職層、正規雇用者で支持率が高く、自営層、非正規雇用、無職層」で支持率が低い。
 ④自身の「階層的位置づけ」意識との関係では、「上・中上」、「中下」、「下」の順で「強い支持」が高い=前者ほど<強く支持>している。(以上、p.106)
 これらにより松谷は、「マスコミや知識人の『空論』は、ポピュリズムを支持する安定的な社会層を不問に付し、その責任を『弱者』に押しつけているのではないか」と問題提起している(p.107)。
 その他、次のような結果も示している。
 ⑤「高い地位や高い収入を重視する者のほうが、それらを重視しない者に比べて、橋下を支持している」(p.109)。
 適菜収のいう「知的弱者」と松谷のいう「弱者」は同じではないし、無作為抽出とはいえ772の母数でいかほどの厳密な結論が導出できるのかはよく分からないが、それにしても、上のとくに③・④・⑤あたりは、橋下徹は(先に述べたような意味での)「B層」を騙し、かつ「B層」に支持されているとの、「仮説」とも「推測」とも断っていない適菜収の「決め付け」的断定が、松谷のいう「知識人の空論」である可能性を強くするものだ、と考えられる。そのような意味で、興味深い。
 隔週刊サピオ5/09・16号の中の小林よしのり・中野剛志の対談とともに、月刊正論の適菜収論考は、橋下徹に対する悪罵・罵倒の投げつけにおいて、最悪・最低の橋下徹分析だったと思われる(立ち入らないが、小林よしのりは研究者ではないからある程度はやむをえないとしても、中野剛志の、学者とは思えない断定ぶり・決めつけ方には唖然とするものがあった―下に言及の新保祐司の発言も同様―。橋下徹がツイッターで中野剛志に対して激しく反応したのも―ある程度は―理解できる)。
 この機会に記しておけば、佐藤優はいろいろな媒体で橋下徹に対する見解・感想等々をたくさん書いていて、批判的・辛口と見えるものもあるが、週刊文春5/17号の特集「橋下徹総理を支持しますか?」の中の、つぎの文章は、多数の論者の文章の中で、私には最もしっくりくるものだった。
 「国政への影響を強める過程で……外交、安全保障政策について勉強する。その過程で…確実に国際水準で政治ゲームを行うことができる政治家に変貌する。…府知事、市長のときと本質的に異なる安定した政治家になると私は見ている。言い換えると橋下氏の変貌を支援するのが有権者の責務と思う」(p.48)。
 中西輝政とは異なり、橋下徹・維新の会の政策に「殆ど賛成」とは言い難い私も、このような姿勢・期待は持ちたいと考えている。
 〇だが、橋下徹を暖かく見守り、「変貌を支援する」どころか、早々と「きわめて危険な政治家」、橋下徹の「目的は日本そのものの解体にある」と(理由・論拠も提示することなく)断定したのが、産経新聞社発行・<保守>系と言われている月刊正論の編集長桑原聡だった。
 また、同編集部員の川瀬弘至は、上記の適菜収論考を「とってもいい論文です」と明記し、自民党の石破茂に読むことを勧めるまでした(月刊正論オフィシャルブログ4/04)。  ところが、何とその同じ川瀬弘至は、同ブログの5/29では、橋下徹の憲法関係発言を知って
、「橋下市長、お見逸れいたしました。これまで国家観がみえないだとか歴史観があやふやだとか批判してきましたが、自主憲法制定に意欲を示してくれるんなら全面的に応援しますぞ。どうか頑張っていただきたい」と書いている。
 この契機となった発言よりも前の2月中に橋下徹は現憲法九条を問題視する発言をしているし、3月には震災がれきの引きうけをしないという意識の根源には憲法九条がある旨を発言している。月刊正論4月号の編集期間中には、橋下徹は今回に近い発言をすでにしていたのだ。月刊正論5月号の山田宏論考は、橋下徹による改革の先に「憲法改正」が「はっきり見えている」と明言してもいる(p.58)。
 今頃になって、川瀬弘至は何を喚いているのだろう。それに、「全面的に応援しますぞ。どうか頑張っていただきたい」と書くのは結構だが、それが本心?だとしたら、橋下徹に対する悪罵を尽くした論考だったも言える適菜収論考を「とってもいい論文です」と評価していたことをまずは反省し、この言葉を取消し又は撤回して、読者に詫びるのが先にすべきことだと思われる。
 だが、しかし、この川瀬の言葉とは別に、月刊正論6月号(産経、2012.05.01)は、依然として、橋下徹を批判し罵倒する、遠藤浩一と「文芸評論家」新保祐司の対談を掲載している。<反橋下徹>という編集方針を月刊正論(産経)は変えていないと見られる。
 この対談、とくに遠藤浩一については書きたいこともある。同号の「編集者へ/編集者から」欄への言及も含めて、再びあと回しにしよう。

1129/月刊正論編集部の「異常」-監督・コーチではなく「選手」としても登場する等。

 月刊正論(産経)は、発売日(毎月1日)から二週間経てば、送料を含めても150-200円安く、一ヵ月も過ぎれば約半額で購入することができることが分かった。
 そのようにして入手した月刊正論6月号(産経)を見て、驚き、あるいは唖然とした点がいくつかある。とりわけ「編集者へ/編集者から」という読者・編集部間のやりとりは、注目に値する。
 月刊正論5月号の適菜収論考には読者からの疑問・反論も多かったようで、そのうちの一つを紹介し(p.324-5)、「編集者」が簡単に答えて(コメントして?)いる。適菜は自らの考える「保守の理想形」を提示していないという疑問(の一つ)に関して、「編集者」は以下のように書いている(p.325)。
 「おそらく適菜さんは、人間の理性には限界があり、その暴走を食い止めるために伝統を拠り所としようという態度こそが保守であると考えているのだと思います。その立場から見ると、橋下氏には理性暴走の傾向が感じられませんか。」
 これには驚き、かつ唖然とした。
 第一。「…が感じられませんか」という質問形・反問形での文章にしているのもイヤらしい。それはさておくとしても、この読者はもっと多くの疑問・批判を適菜収論考に対して投げかけている。
 それらを無視して、ただ一点についてだけ答える(コメントする)というのは、紙面の限界等もあるのかもしれないが、到底誠実な「編集者」の態度だとは言えないように思われる。紙面の関係で一点だけに限らせていただく、といった断わりも何もないのだ。
 第二。月刊正論編集部は橋下徹に「理性の暴走の傾向」を感じているようだが、その根拠・理由は全く示されていない。編集長・桑原聡の前月号の末尾の文章と同じく、理由・根拠をいっさい述べないままの、結論のみの提示だ。こんな回答(コメント)でまともで誠実な対応になると思っているのだろうか。
 なるほど適菜収論考の中に、橋下徹には「理性暴走の傾向」がある旨が書かれていたのかもしれない。そのように解釈できる部分が(あらためて見てみたが)ないではない。
 だが、「伝統を拠り所」にするか「理性の暴走」かという対置を適菜は採っていない。従って、上の短い文章は「編集者」自身が新たに作ったもので、適菜論考の簡潔な要約ではない。
 あらためて適菜「橋下徹は『保守』ではない!」の橋下徹に対する罵倒ぶりを見てみたが、適菜は橋下徹を「文明社会の敵」、「アナーキスト」、「国家解体」論者、「天性のデマゴーグ」等と断じている。
 明らかな敵意・害意を感じるほどに異常な文章であり、「決めつけ」だ。何段階かの推論(・憶測)を積み重ねて初めて導き出せるような結論を、適菜はいとも簡単に述べてしまっている。
 ともあれ、「伝統を拠り所」にするか「理性の暴走」か、という対立軸を立てて、適菜は書いているのではない。とりわけ、「伝統を拠り所」に、という部分は適菜の文章の中にはない。
 第三。読者の(省略するが)これらの疑問に対しては、本来、適菜本人が答えるか、別の新しい論考の中で実質的に回答するのが、正常なあり方だと思われる。
 しかるに、これが最も唖然としたことなのだが、月刊正論「編集者」は、「おそらく」という副詞を使いつつ、適菜収に代わって、適菜の「保守」観を述べ、読者に回答(コメント)しているのだ。適菜論考から容易に出てくる文章ではないことは上の第二で述べた。
 雑誌、とくに月刊正論のような論壇誌の編集部というのは、「監督」または「コーチ」であって、自らが「プレイヤー(選手)」も兼ねてはいけないのではないだろうか。にもかかわらず、月刊正論「編集者」はプレイヤー(執筆者)に代わって、自らブレイヤーとして登場として、自らの見解を述べてしまっている。
 雑誌編集者のありようについての詳細な知見はないが、これは編集者としては<異様>な行動ではないだろうか。しかも、「執筆者」の考え方を代弁して自ら回答(コメント)するという形をとりながら、上に述べたように、結論らしきものを語っているだけで、いっさいの理由づけ、論拠の提示を割愛させてしまっているのだ。
 「編集者」・「編集長」に用意された短い文章の中で、特集を組んでいるような重要なテーマについての編集者・編集長自らの(特定の)「結論」を、執筆者に代わって、理由づけをすることもなく明らかにしてよいのか??
 雑誌出版・編集関係者のご意見を伺いたいところだ。
 第四。適菜は(おそらく)「伝統を拠り所」にする態度を「保守」と考えており、橋下徹にはこれとは異なる「理性の暴走の傾向」があるのではないか、というのが月刊正論(産経)「編集者」の見解のようだ。
 このような対置が「保守」と「左翼」の間にはある、という議論・説明があることは承知している。
 だが、少しでも立ち入って思考すれば容易に分かるだろう。いっさいの<変化>やいっさいの<理性>を否定しようとしないかぎり、維持すべき「伝統」とそうでない「伝統」、必要な「理性」と危険視すべき「理性の暴走」の区別こそが重要であり、かつ困難で微妙な問題でもあるのだ。
 もちろん、月刊正論「編集者」の文章(p.325)はこの点に触れていない。全ての<変化>・<理性>を否定しないで、かつ「伝統を拠り所」とする態度と「理性暴走の傾向」とを明確に区別するメルクマール・基準・素材等々を、何らかの機会に、月刊正論編集部(編集長・桑原聡)は明らかにしていただきたい。
 第五。月刊正論「編集者」の文章に乗っかるとして、そもそも橋下徹に「理性暴走の傾向」はあるのだろうか。
 むろん「理性暴走」の正確な意味、それと断じる基準等が問題なのだが、それはさておくとしても、例えば橋下徹における次の二例は、「理性暴走」というよりもむしろ日本の「伝統」を重視している(少なくとも軽視していない)ことの証左ではないか、と考えられる。
 ①橋下徹は5/08に、公務員が国歌(・君が代)を斉唱するのは「当たり前」のこと、「ふつうの感覚」、「理屈じゃない」と発言している。
 ②橋下徹は大阪府知事時代の最後の時期、昨年秋の、大阪護国神社秋季例大祭の日に(知事として)同神社に参拝している。
 推測にはなるが、上の②は、大阪府出身の、「国家のために」死んだ(そして同神社の祭祀の対象になっている)人々を「慰霊する」(とさしあたり表現しておく)のは大阪府知事としての仕事・「責務」でもあると橋下は考えたのではないかと思われる。
 これらのどこに「理性暴走の傾向」が
あるのだろうか。月刊正論編集部(編集長・桑原聡)は、何らかの機会に回答してほしいものだ。
 なお、この欄で既述のとおり、産経新聞や月刊正論でもお馴染みの八木秀次は、隔週刊サピオ5/09・16号の中で、橋下徹は「間違いなく素朴な保守主義者、健全なナショナリスト」だ等と述べている(p.16)。
 八木秀次のあらゆる議論を支持するのではないが、上の指摘は、適菜収や月刊正論編集部とはまるで異なり、素直で的確な感覚を示していると思われる。
 第六。そもそも、「保守」か否かの基準として、「伝統」重視か「理性」重視(「理性暴走」)かをまず提示する、という(適菜ではなく)月刊正論「編集者」の考え方自体が正しくはない、と考えられる。
 上でも少し触れたように、この基準は明確で具体的なものになりえない。
 「保守主義の父」とか言われるE・バークもこうした旨を説いたようだが、私の理解では、上のような<態度>・<姿勢>という一種の<思考方法>ではなく、バークは、その結果としての<価値>に着目している。つまり、フランス革命によって生じた「価値」(の変化)の中身にバークは嫌悪感を持ったのであり、たんに「ラディカルさ」・「急激な変化」を批判したのではない、と言うべきだと思っている。
 「保守」か否かは、第一義的には、「伝統」か「理性」かといった<思考方法>のレベルでの対立ではないだろう、と思われる。
 E・バークの時代には、まだ「共産主義」思想は確立していなかった(マルクスらの「共産党宣言」は1848年)。従って、余計ながら、いくらバークを「勉強」しても、今日における「保守」主義の意味・存在意義を十分には明らかにすることはできないだろう。
 この問題は、「保守」という概念の理解にかかわる。月刊正論編集部がいかなる「保守主義」観をもっているのかきわめて疑わしいと感じているのだが、この問題には、何度でも今後言及するだろう。
 なお、関連して触れておくが、月刊正論編集部が「保守」の論客だと間違いなく認定していると思われる中西輝政は、月刊文藝春秋6月号(文藝春秋)の中の橋下への「公開質問状」特集の中で、「私は橋下徹氏の率いる『大阪維新の会』が唱える政策の殆どに賛成である」と明記し、橋下の「中国観」についてのみ質問する文章を書いている(p.106-7)。
 どう読んでも中西輝政が橋下徹を「保守ではない」と見なしているとは思えないのだが、中西の橋下徹観が誤っており、橋下は「保守ではない!」「きわめて危険な政治家」だと言うのならば、月刊正論編集長・桑原聡は、末尾の編集長コラム頁に書くなりして、中西輝政を「たしなめる」ことをしてみたらどうか。 
 いずれにせよ、上に六つ並べたように、月刊正論編集部はどこか<異常>なのではないか。今回言及した以外にもある。月刊正論6月号の上記冒頭の欄についてはもう一度言及する。

1121/月刊正論の愚―石原慎太郎を支持し、片や石原が支持する橋下徹を批判する。

 〇月刊正論(産経新聞社)編集部の川瀬弘至は、既述のように、自らを「保守主義者」と称し、「今後は『真正保守』を名乗らせていただきます」とまで明言していた(イザ・ブログ4/04)。
 その川瀬弘至は同じ文章の中で月刊正論5月号の、橋下徹を批判する適菜収論考を「とってもいい論文」と紹介してもいたのだが、産経新聞4/03の月刊正論の紹介(宣伝広告)記事の中で、次のように書いていた。
 「橋下市長は、自分に対する批判にツイッターなどでいつも手厳しく反論する。今回の適菜氏による『保守』の視点からの批判には、どんな反応を示すだろう…」。
 その答えは、無視だった。4月初めの数日間の橋下ツイートは空白になっているので、何か事情があったのかもしれない。
 だが、月刊正論5月号とほぼ同じ頃に出た、「橋下首相なら日本をこう変える」と表紙に大きく銘打ったサピオ5/09・16号(小学館)の中の(特集・諸論考の中では少数派の辛口の)小林よしのり中野剛志の対談(p.20-)については、橋下徹は反応して、小林よしのり・中野剛志への批判・反論をツイッターで書いているので、橋下徹は月刊正論の方は(おそらくは知ったうえで)<無視>したのではないか、と思われる。
 小林よしのり・中野剛志と適菜収では、まるでネーム・バリュー(・影響力)が違う。加えて、適菜の主張内容は、小林よしのりらのそれと比較して、まるで話にならない、相手にするのも馬鹿馬鹿しい、というのが、無視したと仮定したとしての私の推測だが、その理由でなかったかと思われる。橋下徹は自ら「しつこい」とも書いているので、気に食わず、反論しておくべきと感じたとすれば、月刊正論5月剛の適菜論考にも触れただろう。
 しかし、何の反応もしなかった。それだけ、適菜収論考の内容はひどい(と橋下は判断したのだろう)。
 〇この適菜収については、これまた既述のように、「産経新聞愛読者倶楽部」という名のウェブサイトが、適菜の前歴も指摘しつつ、「産経新聞は適菜を今後も使うかどうか、よく身体検査したほうがいいでしょう」と助言?していた。
 しかし、産経新聞は―何ヶ月か一年かの約束でもしたのかどうか―適菜収を使うのをやめていない。
 産経新聞4/04に続いて5/04の「賢者に学ぶ」欄に適菜は再び登場して、橋下徹の名こそ出さないものの、「閣僚から地方首長にいたるまで政治家の劣化が急速に進んだ背景には、《偽装した神=近代イデオロギー》による価値の錯乱という問題が潜んでいる」を最後の一文とする文章を書いている。
 批判されている「地方首長」の中に橋下徹・大阪市長を含意させていることは明らかだろう。
 ところで、執筆者名は不明(明記なし)だが、産経新聞5/14の月刊正論紹介記事は「尖閣・石原発言を支持する!」 という特集が組まれていることに触れていて、一色正春の主張をかなり紹介している。その前にある次の文章は、月刊正論編集部の見解だろうと思われる。 
 「自分の国は自分で守る―。この当たり前の意識が、戦後70年近くも置き去りにされてきた。それが諸悪の根源だ。もしも石原発言に何かリスクがあるとしても、喜んで引き受けよう。私達は石原発言を断固支持する」。
 一色正春の主張内容との区別がつきにくいところが大きな難点だが、以下の文章は、月刊正論編集部の言葉のようにも読める。
 「繰り返す。私たちは今、スタートラインに立った。石原都知事が号砲を鳴らした。さあ、胸を張って走り出そう。続きは正論6月号でお読みください」(途中に改行はない)。 
 (なお、産経新聞本紙は購読しておらず、もっぱら電子版(無料)に依っている。この部分以外も同様)。
 このように石原慎太郎発言・行動を支持するのは結構なことだが、月刊正論編集部は、石原慎太郎産経新聞5/14の連載「日本よ」で書いている内容は支持するのだろうか??。
 石原のこの文章は大きな見出しが「中央集権の打破こそが」で、「……東の首都圏、大阪を芯にした関西圏そして中京圏と、この三大都市圏が連帯して行おうとしているのは中央集権の打破、国家の官僚の独善による国家支配の改善に他ならない」、から始まっている。
 また、「志のある地方の首長たちが地方の事情に鑑みた新規の教育方針を立てようとしても、教育の指針はあくまで文部科学省がきめるので余計なことをするなと規制してかかるが、その自分たちがやったことといえば現今の教育水準の低下を無視した『ゆとり教育』などという馬鹿げた方針で…」とか、「日本の政治の健全化のためには多少の意見の相違はあっても、地方が強い連帯を組むことからしか日本の改革は始まりはしない」とかの文章もある。
 「地方」の中に大阪市(・大阪市長/橋下徹)も含めていることは、石原慎太郎は橋下徹を支持して選挙の際には応援演説までしたこと等々からも疑いえないことだ。
 適菜収は月刊正論5月号で「地方分権や道州制は一番わかりやすい国家解体の原理ですと書いていた(p.51)。
 一般論・超時代的感覚での適菜の<中央集権>志向と、具体的・現実的な現在の状況をふまえての石原の<地方の連帯>等の主張は嚙み合ってはいないだろうが、ともあれ、ほぼ真反対の議論・主張であることは間違いない。
 これら石原と適菜の、矛盾する二つの文章を掲載する産経新聞というのは、はたして、いったい何を考えているのだろうか。何らかの一致した編集方針はあるのだろうか。
 適菜の言葉を借用すれば、「価値の錯乱」は、産経新聞においても見られるのではなかろうか。
 「価値の錯乱」は産経新聞社の一部の、月刊正論編集部においても見られる
 一方で橋下徹を批判・攻撃しておいて、一方で、その橋下徹を支持し、連携しようとしている石原慎太郎の(別の点での)発言を大々的に支持する特集を組むとは、少しは矛盾していると感じないのだろうか。
 橋下徹を批判する適菜収論考を(も)掲載するくらいならばまだよい。月刊正論の編集長・桑原聡自身が、自分の言葉として、橋下徹について、「きわめて危険な政治家」だ、「目的は日本そのものの解体にある」と明言したのだ。
 こんな単純で粗っぽい疑問・批判を加えることにより、産経新聞や月刊正論の購読者を一人でも失うとすれば、それは、産経新聞・月刊正論の<価値の錯乱>、いいかげんな編集方針に原因があるのではないかと思われる。
 私のような者の支持・支援を大きく失うようでは、<保守>メディアとしては立ちゆかないだろう、少なくとも日本の「体制派」・「多数派」になることはありえないだろう、と私は秘かに自負している。
 〇「保守」・「右派」、「左翼」・「共産主義」といった言葉は使わなくともよい。
 橋下徹は毎日放送・斉加尚代ディレクターの質問に対して、公立学校の教職員が入学式等で日本(国家)の国歌である君が代を歌うのは、<国歌だから。式典だから。君が代を歌うときに、起立斉唱するのは当たり前のこと。感覚で、「理屈じゃない」。>等と答えている。
 こうした橋下の答えが虚偽の、あるいはパフォーマンス的なものではないことは、<囲み取材>の雰囲気等々からも明らかだろう。
 しかるに、月刊正論編集長・桑原聡は―繰り返すが―橋下の「目的は日本そのものの解体にある」と思うと明記した(月刊正論5月号)。
 上のような<国歌・君が代観>の持ち主が、<日本そのものの解体>を目的として行動しているのだろうか??
 何度でも書いておきたい。何の、誰の影響を受けたのか知らないが、月刊正論編集長・桑原聡の<感覚>は異常なのではないか

1113/憲法改正・現憲法九条と長谷部恭男・岡崎久彦。

 一 自由民主党が日本国憲法改正草案を4/27に発表した。この案については別途、何回かメモ的なコメントをしたい。
 翌4/28の朝日新聞で、東京大学の憲法学教授・長谷部恭男は、<強すぎる参議院>が日本国憲法の「最大の問題」だとして、この問題(二院制・両院の関係・参議院の権能)に触れていない自民党改正草案を疑問視している。
 長谷部恭男はやはり不思議な感覚の持ち主のようだ。現憲法の「最大の問題」は、現九条2項なのではないか。
 潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(PHP、2007)という本もある。橋下徹も最近、趣旨はかなり不明確ながら、日本の諸問題または「諸悪」の根源には憲法9条がある旨を述べていた(ツイッターにもあった)。
 忖度するに、長谷部恭男にとっては、自衛隊は憲法「解釈」によって合憲的なものとしてすでに認知され、実質的に<軍隊>的機能を果たしているので、わざわざ多大なエネルギーを使って、九条改正(九条2項削除と「国防軍」設置明記)を主目的とする憲法改正をする必要はない、ということなのかもしれない。
 「護憲論の最後の砦」が長谷部恭男だと何かで読んだことがあるが、上のようなことが理由だとすると、何と<志の低い>現憲法護持論だろう(この旨はすでに書いたことがある)。
 二 外務官僚として政治・行政の実務の経験もある岡崎久彦はかなりの思想家・評論家・論客で、他の<保守>派たちと<群れて>いないように見えることも、好感がもてる。
 月刊正論5月号に岡崎久彦「21世紀の世界はどうなるか」の連載の最終回が載っている。
 「占領の影響と、そして冷戦時代の左翼思想の影響がその本家本元は崩壊したにもかかわらず、まだ払拭されていないという意味では、日本の二十世紀は、ベルリンの壁の崩壊でもまだ終わっていないのかもしれない」(p.261)という叙述は、まことに的確だと思われる。多くの(決して少数派ではない)評論家・知識人らしき者たちが平気で「冷戦終結後」とか「冷戦後」と現在の日本の環境を理解し表現しているのは、親中国等の<左翼>の策略による面があるとすら思われる、大きな錯覚だ。中国、北朝鮮という「社会主義」国が、すぐ近隣にあることを忘れてしまうとは、頭がどうかしている。北朝鮮の金「王朝」世襲交替に際して、金正恩は、「先軍政治」等と並んで、「社会主義の栄華」(の維持・発展)という言葉を使って演説をしたことを銘記しておくべきだ。
 上の点も重要だが、岡崎久彦の論述で関心を惹いたのは、以下にある。岡崎は次のように言う(p.262)。
 婦人参政権農地解放は戦後の日本政府の方針で、GHQも追認した。日本の意思を無視した改革に公職追放財閥解体があったが占領中に徐々に撤廃され、今は残っていない。
 「押しつけられた改革」のうち残ったのは憲法教育関連三法だったが、教育三法は安倍晋三内閣のもとで改正され、実施を待つだけだ。「今や残るのは憲法だけになっている」。
 しかし、軍隊保持禁止の憲法九条は、日本にも「固有の自衛権」があるとの裁判所の判決によって「実質的に解決されている」。自衛隊を国家に固有の「自然権」によって肯定したのだから、「自衛隊に関する限り憲法の改正はもう行われていることとなる」。
 「実質問題として残っているのは集団的自衛権の問題だけ」だ。政府の「頓珍漢な解釈を撤回」して集団的自衛権を認めれば「戦後レジームからの脱却はほぼ完成することになっている」。
 以上。
 きわめて興味深いし、柔軟で現実的な思考が表明されているとも言えるかもしれないが、はたして上のように理解すべきなのだろうか。「集団的自衛権」に関する(それを否認する)政府の<憲法解釈>を変えれば、条文上の憲法改正は必要はない、というのが、上の岡崎久彦の議論の帰結に近いと思われるが、はたしてそうだろうか。
 趣旨はかなり理解できるものの、全面的には賛同できない。「戦車にウィンカー」といった軍事的・技術的レベルの問題にとどまらず、「陸海空軍その他の戦力」の不保持条項(九条2項)は、戦後日本人の心性・メンタリティーあるいは深層意識にも多大な影響を与えてきたように思われる。
 集団的自衛権にかかる問題の解決もなされるべきだろうが、やはり九条2項削除・国防軍保持の明記も憲法典上できちんとなされるべきだろう。

1112/日本国憲法「無効・破棄」論について③。

 月刊正論(産経)6月号が発行されている筈だが、産経新聞の購読を辞めて広告も見ず、新刊雑誌として購入することも、編集長が桑原聡である間は、差し控える。
 一ヵ月前の月刊正論5月号が、わざわざ2頁余を使って、「ハイ/正論調査室」という欄の中で、<憲法
破棄>を可能とする二人の読者の回答を紹介している(p.330-332)。
 二人(A氏、B氏)とも60歳代の元公務員で共通し、日本国憲法(1947施行)は「無効」とする点でも共通している。
 異なるのは、まず、「破棄」または「廃棄決議」・「無効宣言(決議)」をする主体だ。
 A氏は「国会」と考えていて、「過半数の議決」があればよい、とする。
 B氏は「国会で決議」するか「最高裁で『無効』判決」を出せばよいとする。
 これらの回答を生じさせた契機となった石原慎太郎の発言・考え方を、最近の産経新聞3/05の連載「日本よ」から引用すると、次のようだ。 
 「憲法改正などという迂遠な策ではなしに、しっかりした内閣が憲法の破棄を宣言して即座に新しい憲法を作成したらいいのだ。憲法の改正にはいろいろ繁雑な手続きがいるが、破棄は指導者の決断で決まる。それを阻害する法的根拠はどこにもない」。
 このように三者三様で一致がないが、石原慎太郎のいう「しっかりした内閣」とはいかなる意味かは厳密にはよく分からない。但し、「内閣」に「破棄を宣言」する権限があると考えているのだろう。
 いかほどに厳密な法的思索を経ているのかは疑わしいが、天皇や「最高裁」も想定される中で「内閣」を権限主体として想定するのは、<無効>論者の中でもおそらく少数派だろう(主流派?は「国会」だと思われる)。
 そして、「内閣」が日本国憲法のもとでの内閣であり、日本国憲法下の公職選挙法にもとづき選出された衆議院議員・参議院議員から成る国会により選出された内閣総理大臣とそれが任命したその他の国務大臣からなる合議体を意味するかぎり(但し、婦人参政権を認めた等の公職選挙法改正は現憲法公布後・施行前。憲法施行後に頻繁に改正されて憲法とともに「国会」議員等を選出する根拠になっている)、石原説は成立しえない、と思われる。「内閣」を生んだ法規である日本国憲法を内閣が「無効」とし「破棄」するのは、子どもが親を殺すようなものだ。
 親あるいは血を継承した祖先の一人でも殺してしまえば自分自身(子ども)はこの世に存在していない筈なのであり、過去に生じた憲法を、憲法所産の「内閣」が現時点で「破棄」するなどというのは、明らかに背理だ。
 基本的に全く同じことはA氏やB氏のいう「国会」や「最高裁」についても言える。
 旧憲法下では「国会」はなく「帝国議会」だった。参議院はなく、貴族院が所謂第二院として存在した。
 両氏のいう「国会」が日本国憲法のいうそれであり、衆議院・参議院で構成されるものであるかぎり、「国会」なるもの自体が、日本国憲法(とそれに違反していない国会法等の法律)によって生み出されたものであり、「国会」による日本国憲法の「無効宣言」・「破棄」とは、親殺しであり、かつ完全に瞬間的に同時の<自分殺し>に他ならない。日本国憲法を「破棄」したあとまで、日本国憲法下での「国会」が存続するはずがない。
 この議論が現憲法41条が国会を「国権の最高機関」と称していることを根拠(の一つ)にしているとすれば、明らかな矛盾がある。「無効」であるはずの日本国憲法(の一条項)を根拠とする、という<背理>に陥らざるをえない。
 「最高裁判所」となるとますます日本国憲法所産のもので、「最高裁」が自分の親である日本国憲法を「無効」とする判決を出せるはずがない。
 戦前は「大審院」(と「行政裁判所」)で、憲法上の位置づけは大きく異なる。
 というわけで、第一に、いったい誰が(どの機関が)日本国憲法を「無効」宣言=「破棄」できるのか、という問題で、現時点での日本国憲法「無効」論は躓かざるをえない。
 「無効」視したいというセンティメント(気分・情緒)は理解できるが、もはや現時点では「無効」宣言・「破棄」は不可能だ。ありうるとすれば、国民または有権者の少なくとも過半数がそのような認識に立ち、何らかの方法で(数千万の署名を集めて?)意思表明することだろうが、どのような手続および意思表明の方法を採用するのかになると、途方に暮れる(「無効」論者で<国民投票>という手続・方法を提言する者はいないようだ)。
 A氏が述べるように(p.331)、1952年の「主権回復」後ただちに(または「すみやかに」)「無効」・「失効」宣言をして(旧憲法に戻すか)新しい・自主憲法を制定すべきだっただろう。
 その場合の「無効」宣言の主体の問題はやはりある。その場合に、天皇陛下(昭和天皇)の意思・認識も「無効」論を支持するものでなければならないのは不可欠の前提だったと思われる(日本国憲法は、昭和天皇の名において公布されているのだ)。
 主体・手続の問題はかつてもあっただろうが、60年後の現在と比べると、クリアできる可能性はまだ十分にあったと思われる。

 第二に、万が一上記の機関が権限主体たりうるとしても、「無効」宣言・「破棄」をする現実的可能性はあるか、という問題に、日本国憲法「無効」論はぶつからざるをえない。 
 A氏は正当にも次のように述べる-「現実問題として現憲法の廃棄なり無効宣言をするには、現憲法は正統性を有せず無効とする考えを持つ国会議員が衆参両院においてそれぞれ過半数いることが必要です」(p.331)。
 この必要性が充足される可能性に言及してはいないが、B氏がたんに<可能だ>という旨を回答しているにとどまるのに比べると大きな(第二の)違いで、より現実的に考えておられるようだ。
 しかし、上の「必要」性が充足されるとは、到底考えられない。
 現在、いくつかの政党が憲法改正案を発表しているが、<すべて>が、現憲法=日本国憲法は憲法として有効なものであることを前提としている。そしておそらくは、現在の国会議員の全員が(または少なくとも99%)が、日本国憲法を「無効」と考えてはいないものと思われる。
 つまり、「無効」論に立って国会議員を送り出している政党はゼロであり、「無効」と考えている国会議員はゼロか、存在しても1~2名だろう。
 このような状況において、各院の国会議員の「過半数」が日本国憲法「無効」論に与する可能性は皆無(ゼロ)だと言い切ってもよい、と考えられる。
 最高裁判所の裁判官についても同じことが言えるだろう。
 石原慎太郎のいう「内閣」説に立てば、現実的可能性はもう少し高くなりそうではある。しかし、それは法的には一種の<革命>か<クーデター>で、失敗する後者ではなく成功する前者になるためには、少なくとも国民の「過半数」(現実的には最低でも2/3以上)の賛同に支えられていないといけないだろう。
 しかして、国民の意識はどうだろうか。日本国憲法「無効」論の存在自体を知っている国民すら、おそらくは10%以下だろう。
 そのような現実が誤っており、正しい教育、正しい情報提供・言論活動をしていけば、必ず過半数のまたは2/3以上の国民が現憲法は「無効」のものだと認識するはずだ、と考え、主張するのも、論理的には誤っているわけではない。
 しかし、そのような状況に達することを目指して活動するよりも、<憲法改正>というかたちで、実質的に<自主憲法>を制定することの方が、はるかにてっとり早く、現実的可能性もはるかに高い。
 なお、一時期、<維新政党・新風>という政党がこのブログサイトにも登場していて、2007年参議院選挙に候補者を立てたりしていたが、この政党?が、明言してはいないものの、日本国憲法「無効」論に親和的であるようにも感じられた。だが、この政党は一人の当選者(国会議員)も出してはいない。
 ここまで書いてネット上で調べてみると、この政党?も、現憲法を「国際法違反の占領基本法」と(渡部昇一と同様に)称しつつ、憲法「改正」を志向しているようだ。→ 
http://seisaku.sblo.jp/article/3621051.html
 このような状況ではますます、国民の多数が「無効」論を支持し、国会議員の過半数でもって「無効宣言(・決議)」が行われる可能性はほとんどゼロであり、「夢想」にすぎない、というべきだ。
 月刊正論編集部は、こんな問題に2頁余を割くよりも、そんなスペースがあるならば、憲法改正の具体的内容に関する議論を掲載したらどうか。
 石原慎太郎を尊敬してはいるが、「しっかりした内閣」による現憲法「破棄」論だけは、気分・情緒は理解できても、支持することができないものだ(都民により「直接に選出」された東京都知事という地位もまた、日本国憲法の一条項にもとづく)。  

1107/橋下徹は佐々淳行・「正論」にツイッターで答えていた。

 一 佐々淳行産経新聞2/24の「正論」欄で橋下徹・「維新八策」に論及していることはすでに触れた。
 月刊ボイス5月号(PHP)の中に佐々淳行「日米安保条約改定を『八策』に加えよ」があることを知り、「正論」欄と似たようなことを書いているのかと思ったら、何と、上の佐々淳行「正論」に対して、同じ2/24に橋下徹はトゥイッターでコメントしたらしい。
 佐々淳行の文章によると、産経新聞2/24で「国政を担うには外交、安全保障分野への認識が著しく欠けている、と厳しい論調で批判したのだ。そのうえで、『天皇制の護持』や『憲法九条改正』などが必要だと指摘した。/すると同日午後一時過ぎに、橋下氏はツイッターで私に対するコメントを発表した」。
 1カ月以上前のことであり、また、橋下徹ツイッターのフォロヤーには無意味かもしれないが、以下、橋下徹の対佐々淳行コメントの全文をそのまま掲載(転載)しておく。
 二 「佐々さんのご意見も厳しいご意見ではあるが、役立たずの学者意見とは全く異なり、国家の安全を取り仕切ってこられた実務者の視点で迫力あるご意見です。」(posted at 13:09:54、以下省略)

 「佐々さんのご主張はまさに正論。内容自体に反論はありません。ただし、今の日本が動くようにするためにはどうすべきかの観点から、僕は次のように考えています。まだ維新の案として確定したものではありません。佐々さんの言われるように、日本は国家安全保障が弱い。これは全てに響いてきています。」
 「世界では自らの命を落としてでも難題に立ち向かわなければならない事態が多数ある。しかし、日本では、震災直後にあれだけ「頑張ろう日本」「頑張ろう東北」「絆」と叫ばれていたのに、がれき処理になったら一斉に拒絶。全ては憲法9条が原因だと思っています。」
 「この憲法9条について、国民的議論をして結着を付けない限り、国家安全保障についての政策議論をしても何も決まりません。国家の大きな方針が固まっていないのですから。しかし憲法9条議論や国家安全保障議論をしても結局憲法改正は非現実ということで何も動かない。学者議論に終始。」

 「だから僕は仕組みを考えます。決定でき、責任を負う民主主義の観点から。憲法96条の改正はしっかりとやり、憲法9条については国民投票を考えています。2年間の議論期間を設けて国民投票。この2年の間に徹底した国民議論をやる。」
 「これまでの議論は決定が前提となっていないから、役立たず学者議論で終わってしまう。その議論でかれこれ何十年経つのか。決定できる民主主義の議論は決定が前提の議論。そして期限も切る。2年の期間で、最後は国民投票。この仕組みを作って、そして国民的に議論をする。」

 「朝日新聞、毎日新聞、弁護士会や反維新の会の役立たず自称インテリは9条を守る大キャンペーンを張れば良い。産経新聞、読売新聞は9条改正大キャンペーンを張れば良い。2年後の国民投票に向かって。そして国民投票で結果が出れば、国民はその方向で進む。」

 「自分の意見と異なる結果が出ても、それでも国民投票の結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う。9条問題はいくら議論しても国民全員で一致はあり得ない。だから国民投票で国のあり方を国民が決める。そのために2年間は徹底して議論をし尽くす。意見のある者は徹底して政治活動をする。」
 「その上で国民投票の結果が出たら、国民はそれに従う。そんな流れを僕は考えているのです。佐々さん、そう言うことで、今維新の八策にあえて安全保障については入れていません。憲法9条についての国民の意思が固まっていない以上、ここで安全保障政策について論じても画餅に帰するかなと。」

 「憲法9条について国民意思が確定していない日本において、それを確定するというのが僕の考えです。あくまでもシステム論です。まずはその決定できる仕組みを作る。仕組みができれば、次に実体論に入る。実体論から先に入ると、その賛否によって決定できる仕組みすら作ることができません。」

 「まずは憲法9条について国民意思を固める仕組み作りが先決だと思います。佐々さん、またご意見下さい。」
 翌日の2/25にもある。

 「政治は学者や論説委員の議論と違う。決定しなければならない。実行しなければならない。自民党が憲法改正案を出すらしいが、本当にこのようなやり方で憲法問題が結着すると考えているのであろうか?憲法改正案を選挙の公約に掲げて、仮に自民党が勝ったとしても、選挙が全てでないと言われる。」(posted at 09:35:36、以下、省略)

 「自民党に投票したけど、憲法問題は違うと必ず言われる。政策等であれば、選挙結果に従って欲しいと言えるだろうが、憲法の本質的価値に触れるところまでそれを言えるだろうか?首相公選、参議院の廃止は、分かりやすいので選挙になじむ。しかし憲法9条はどうだろう?これは選挙になじまないと思う。」 
 「政治には自分の価値観を前面に出すことと、国民の価値を束ねることの2つの側面があると思う。これは領域、状況によって使い分けるものであり、その使い分けもまた政治と言える。自称インテリは後者ばかりを言う。それでは現実の課題は解決しない。議論ばかり。」

 「しかし憲法9条問題こそは、国民の価値を束ねて行くことが政治の役割だと思う。自らの価値を前面に出すのではなく、国民に潜在化している価値を顕在化していく作業。単なる議論で終わるのではなく一定の結論を出す。そういう意味では、憲法9条問題は選挙で決するのではなく、国民投票にかけるべきだ。」

 「選挙の争点には、憲法9条の中身・実体面・改正案を掲げるのではなく、憲法9条問題に結着を付けるプロセス、仕組み、手法、手続きを掲げるべきだと思う。この点は、今後維新の会で議論していきます。」

 「簡単に言えば、憲法9条は色々な政治公約の一つとして選挙で決めるのではなく、憲法9条だけを取り上げる国民投票で決めましょうということです。この問題はある種の白紙委任で政治家に委ねるわけにはいかないと思う。」 

 「一定期間を定めて国民的大議論。そして国民投票の結果には皆で従う。反対の結果が出た国民も国民投票の結果に従う。だからこそ自分の主義主張がある人は一定期間内に徹底して国民に訴えかける。その上で結果が出たなら潔くその結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う。」

 「憲法9条については国民的大議論を巻き起こす裏方役が政治家の役割だ。政治家が憲法9条について自分の価値観を前面に出せば出すほど、憲法9条問題は決着しない。政治家は学者と違う。自分の考えを控えることが決定のための必要条件なら自分の考えを押し殺す。決定こそ政治だ。」

 「佐々さん、幕末の世は民主主義ではありませんでした。ですから坂本竜馬は船中八策で国家安全保障のことを一人で決しました。しかし、今の世は国民主権です。国家安全保障を決するのも国民です。憲法9条問題は、国民全員が坂本竜馬です。その裏方を引き受けるのが政治だと思います。」

 以上。
 三 ・内容は、憲法9条改正問題が中心になっている。この問題についての橋下徹の考えについて、私はこの欄で「世論の趨勢を測りかねていて、個人的見解を明確にする時期ではまだないと判断しているように…推察している」と書いたことがある(4/11エントリー)が、少し異なるようだ。別の機会にコメントしたい。
 ・佐々淳行は、この橋下徹コメントを読んだうえで、「私は彼を『百年に一度の政治家』とみている。強い正義感と信念をもち、現代においてこれほど政策提言に命を懸ける人物はいないと思うからである」(ボイス5月号p.76)、「この戦闘機」=橋下氏の「敵・味方識別装置」は「有効に機能している」(p.82)等と、高く評価している。
 橋下徹は憲法9条改正に賛成と明言しているわけではなく、厳密には憲法9条改正問題について国民投票で決着をつけたいと考えている、と読めるが、この点も含めて、別にコメントする。
 ・しかしともあれ、一日平均11通(?)というツイッターで発信された橋下徹の文章を眺めていて、大阪市長という公職や維新の会代表を務めながら、よくもこれだけ書けるものだと本当に(それだけでも)、橋下徹に感心する。若い、まだ頭脳明晰、文章作成能力旺盛、むろん政策・行政に対する熱意十分、の証左だ。
 ・ボイス5月号の橋下徹特集(大阪府知事・松井一郎のものを除いて計4本、1つが佐々淳行のもの)のほか、中央公論5月号(中央公論新社)の橋下徹特集(計5本)も、すべて今日(4/16)読んだ。必要に応じて、別の機会に言及したい。
 四 PHP研究所と中央公論新社の上の二つと比べて、産経新聞社の月刊正論5月号の橋下徹特集の「貧弱さ」が目立つ
 上の二特集の計9本の論考(座談も含む)はいずれも面白く読める。観念的で現実感覚に欠けた論考がないからだ(中央公論5月号の北岡伸一論考には少し感じるが)。これらと比べて、月刊正論5月号の適菜収論考は「最低」・「最悪」だ、と言ってよい。すでに言及した、別の雑誌での中島岳志藤井聡の<反橋下>論考と優るとも劣らない「劣悪」さだ。
 中島岳志や藤井聡の論考は各雑誌のメインと位置づけられてはいなかったが、月刊正論5月号は適菜収論考のタイトルを表紙最右翼に大きく印字し、巻頭にもってくる、「売り」の論考と位置づけていたのだから、機能的には最もヒドく、「最悪」だ。
 あまつさえ、月刊正論の編集長自体が、自分自身は何ら詳論することもなく、橋下徹を「きわめて危険な政治家」、「目的は日本そのものを解体することにある」と明記したのだから、始末に負えない。バランスを取るために山田宏の(インタビュー)記事を載せたのだろうが、橋下徹を「デマゴーグ」等と断じる適菜収論考をメインにする編集・広告方針のうえでのものであり、かつまた編集長個人が山田宏とは異なる見解を明示するとは、山田宏に対して非礼でもあろう。
 上記の月刊ボイスや中央公論には、編集長(個人)の特定の考え方などはどこにも書かれていない。産経新聞社の月刊正論が、最も異様なのだ。産経新聞社の人々は、恥ずかしい、あるいは情けないと思わないのだろうか。

1104/「B層」エセ哲学者・適菜収と重用する月刊正論(産経)②。

 〇前回に引用・紹介した丸山真男の文章は、昭和22年(1947年)06月に「東大で行った講演」を母体にしたもので、丸山真男自身の著では、最も古くは、丸山・現代政治の思想と行動/上巻(未来社)の第二論文「日本ファシズムの思想と運動」の一部として、1956年12月に刊行されている(p.25以下、注記はp.190)。
 この講演録の中で、丸山は「まず皆さん方」(東大での聴衆)は「第二の類型」(=「本来のインテリ」)に「入るでしょう」と臆面もなく、言っている(当然に丸山自らもその一員だ)。ここでの「東大」とは、時期からすると、まだ東京帝国大学だったに違いない。
 丸山真男は「インテリ」を「本来の」それと「似非」・「亜」インテリに分けて、後者が「日本ファシズム」の社会的基盤だったするのだが、「日本ファシズム」とともに「インテリ」(インテリゲンチャ)という言葉は昨今ではほとんど使われなくなった。
 適菜収は<A層とB層>あるいは<一流と二・三流>の区別がなくなったことを今日の問題だと捉えているようだ。たしかに、<リーダー>、「ノブレス・オブリージュ」意識のある<エリート>の不存在(または稀少さ)が日本の問題の一つではあろうが、「インテリ」と「一般大衆」の区別の相対化・不明確化は、問題視しても簡単に元に戻るわけがない、客観的な現実だろう。
 同世代の半分もが大学に進学する今日では、少なくとも半分程度は「インテリ」意識を持っているかもしれないし、間違いなく「インテリ」だと自任しているかもしれない者もまた、実際には相当に「大衆」化している。
 そのような時代背景の変化をふまえれば、丸山真男の「似非」・「亜」インテリが「日本ファシズム」の社会的基盤だったとする丸山真男の議論は、「比較的にIQ(知能指数)が低い人たち」=「B層」を問題視し、批判している適菜収の議論と類似性がある。
 適菜収は橋下徹を「ファシスト」とは形容してはいないが、「全体主義」者である旨、民主主義が生む「独裁者」である旨は語っている(月刊正論5月号p.49、p.50)。
 丸山真男については竹内洋水谷三公らによる批判的分析もあり、竹内は丸山「理論」は東京大学の直系の研究者にのみ継承されるだろう、とかどこかで書いていたとか思うが、長谷川宏のように今なお「左翼」知識人・「進歩的文化人」だった丸山真男を称揚する新書を書いている「左翼」もいる(この三人の各文献についてはこの欄で言及している)。
 適菜収はどうやら自らを「保守」派だと、あるいは少なくとも「左翼」ではないと位置づけているようだが、「左翼」・丸山真男の上記のごとき「似非」インテリ論、<相対的にバカな者たち>論の影響を受けているのではなかろうか。丸山真男の議論・「政治思想」論は哲学・思想界にも(少なくともかつては強い)影響力を持っていたのだから。
 〇さて、気は進まないが、行きがかり上、月刊正論5月号の適菜収「橋下徹は『保守』ではない!」に批判的にコメントする。
 すでに最近、橋下徹関係の(月刊正論上の)4つの論考のうち最も空虚で観念的な言葉が並んでいる、と書いた。
 橋下徹を離れて一般論で言うと、間違いではないだろうことを書いてはいる。
 フランス革命時の「ジャコバン派」と「ナチス」を同類視し、ルソーを「全体主義の理論家」と形容しているのもそれにあたる。ハンナ・アレントの議論に肯定的に言及しているのも、よいだろう。
 ついでながら、ジャコバン派はのちにレーニンも明示的に肯定的に論及しており、ルソー→ジャコバン派(・フランス革命)→マルクス→レーニン(・ロシア革命)という系譜を語ることができるものだ。
 しかし、適菜収がその一般的な議論を橋下徹に適用するとき、あるいは「B層」を巧妙に騙す政治家だと断じるとき、実証性や論理の緻密さなどはまるでない。
 この適菜収によれば、選挙を経て、つまり「民意」によって選ばれた者はすべて「デマゴーグ」であり、「独裁者」であるがごとくだ。そんなことはないだろう。
 「橋下はアナーキストなので、イデオロギーは飾りにすぎません」(p.52)、「橋下は天性のデマゴーグです」(p.52)、橋下は「B層の感情を動かす手法をよく知って」おり、「その底の浅さはB層の『連想の質』を計算した上で演出されています」(p.52-53)といった言葉が並んでいる。だが、悪罵の投げつけだけの印象で、橋下徹批判としての説得力はほとんどない。むしろ、「B層」であれ何であれ、有権者大衆の「感情」を捉えることができるのは、今日の政治家としての優れた資質の一つではないかと、いちゃもんをつけたくもなる。
 適菜収の大言壮語・罵詈雑言はさらに続く。-①「この二〇年にわたる政治の腐敗、あらゆる革命思想、反文明主義、国家解体のイデオロギーを寄せ集めたものが、橋下の大衆運動を支えているのです」(p.55)、②「水道民営化、カジノ誘致、普天間基地の県外移転、資産課税、小中学生の留年、市職員に対する強制アンケート…。これはB層を大衆運動に巻き込むための餌です」(同上)。
 呆れたものだ。こんな文章が並んでいるのが、天下の?産経新聞社発行の論壇?誌・月刊正論の巻頭論文なのだ。
 今気づいたが、適菜収は「大衆運動」という語を使っている。この語は、丸山真男が使っていた「ファシズム運動」に似ている。
 この点はともかく、①のようによくぞ大胆に言えたものだ。橋下徹は、それほどでもないよと、却って恐縮するのではないか? ②について言うと、すでに実現しそうなものもある、橋下徹・維新の会の政策・主張はすべて「餌」か? 橋下徹が主張している<敬老パス>(市営交通の老人無料)の見直しもまた「B層」に対する「餌」なのか?
 論文というよりも場末の?喫茶店での雑談レベルで語られるような指摘を、適菜収は行ってもいる。-橋下徹は首相公選を主張しているが、それは「テレビタレントの橋下を首相にするための制度」だ(p.50-51)。これには笑ってしまった。橋下徹はそのようなことを考えている可能性が全くないではないとは思うが、適菜収はこのように何故、断定できるのだろう。
 また、<アホ丸出し>では藤井聡に<優るとも劣らない>次のような叙述もある。
 「地方分権や道州制は一番わかりやすい国家解体の原理です」(p.51)。
 藤井聡の勉強不足・知識不足を指摘する中ですでに書いたことだが、「地方分権・道州制」=「国家解体」とは、アホ(・バカ)が書く命題だ。
 この議論でいくと、国家内に「邦」・「州」を設けている国(アメリカ、ドイツなど)は解体していないといけないのではないか。連邦制は道州制以上に「分権的」だ。
 また、書かなかったが、戦前の日本においてすら、「地方自治」・「地方分権」制度がなかったわけではない。幕藩体制という相当に分権的な国家から明治日本は中央集権的な国家に変わったのだったが、それでも旧憲法のもとでの「市制」・「町村制」といった法律によって、市町村の「自治」がある程度は認められていた。市町村長は(有権者は限定されていたが)選挙で選ばれ、(現行憲法・法令と同様に)法令の範囲内での「自由な」行政・活動もある程度は認められていた。現在の(現憲法上の)「地方自治」も「法律の範囲内」のものであることに変わりはない。「地方分権」の要素は戦前は法律レベルで、現在は憲法レベルで認められているもので、「原理」的に「国家解体」につながるわけではない。
 橋下徹自身も書いていたと思うが、問題は「分権」の程度・内容、国と地方の「役割・機能」の分担のあり方にある。
 法学部・政経学部の学生のレポートでも書かれていないだろうようなことを、適菜収は、恥ずかしげもなく書いている。そんな部分を含む論考を、月刊正論が巻頭論文とし、大々的に宣伝し、編集部員は「とってもいい論文です」とブログ上で明記する。適菜収も自らを恥ずかしいと感じるべきだと思うが、桑原聡や川瀬弘至もまた、赤面すべきなのではないか。
 楽しくもない作業なので、この程度にしておく。
 まことにイヤな時代だ。川瀬弘至が「真正保守」を自ら名乗り、ひょっとすれば月刊正論や産経新聞全体が自分たちは「真正保守」の雑誌・新聞と考えているのだとすれば、日本の「保守」の将来は惨憺たるものだろう。

1103/「B層」エセ哲学者・適菜収と重用する月刊正論(産経)。

 〇月刊正論5月号の巻頭、適菜収「橋下徹は『保守』ではない!」は「保守ではない」と言っているだけで橋下徹を全面的に消極的に評価しているわけではないとの印象を持つ人や、そのように釈明する者もいるかもしれない。しかし、この論考は「橋下徹大阪市長は文明社会の敵です。そして橋下流の政治…の根底には国家解体のイデオロギーがある」という文章から始まっているいるように、全面的な、人格面も含む、橋下徹攻撃・非難の論考に他ならない。したがって、問題はたんに「保守」の意味・内容にとどまるものではない。
 月刊正論編集長・桑原聡が明言している、橋下徹は「きわめて危険な政治家」、「橋下氏の目的は日本そのものの解体することにあるように感じられる」、というのと全く似たようなことを、より長く書いているのが適菜収だ。
 編集部員の川瀬弘至もまた、イザ!内のブログで、適菜論考を「とってもいい論文」と評価し、川瀬が「保守」性を疑っている石破茂に読むことを勧めている(4/04エントリー)。
 ちなみに、川瀬弘至は自ら「保守主義者」と称し、さらに「小生、今後は『真正保守』を名乗らせていただきます」とまで明言している。
 そのような「真正保守」の方にはご教示を乞いたいこともあるので、別の回に質問させていただくことにしよう。
 〇さて、適菜収は月刊正論5月号で「B層」という概念を使い、橋下徹を「理念なきB層政治家」(タイトル副題)と称したりして「B層」を何度か用いているが、その意味をきちんと説明しているわけではない。
 ほぼ同じ時期に公表された、雑誌・撃論+(オークラ出版、2012.05)上の適菜収「B層政治家の見抜き方」(p.142~)の方が「B層」なるものについては詳しいだろう。
 これによると、「B層」とは「マスコミ報道に流されやすい『比較的』IQ(知能指数)が低い人たち」を意味する(p.142)。より簡単には「知能指数の低い者たち」、だ。
 こんな言葉がキーワードとして用いられる論文(?)に、まともなものはない、と思われる。また、自らは「B層」には含まれないことを当然の前提にしているようだが、「知能指数の高い」者ならば、そのこと自体をまずは疑ってみる方がよいように思われる。
 ところで、適菜の「B層」論という<じつに差別的な>議論を気持ち悪く感じながら読んで思いだしたのは、丸山真男の<ファシズムの担い手>論だった。
 この欄でかつて紹介したことがあるが、丸山真男は「日本ファシズム」も「中間層が社会的担い手」だったとし、以下の「層」が(日本ファシズムの)「社会的基盤」だったと断じた。丸山真男はこれを「疑似」又は「亜」インテリと称する。
 「たとえば、小工業者、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校職員、殊に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官
 これに対して、丸山真男によると、以下の「本来のインテリ」は、「ファシズムの社会的基盤」でなかったとする(つまり<免責>する)。
 「都市におけるサラリーマン、いわゆる文化人乃至ジャーナリスト、その他自由知識職業者(教授とか弁護士とか)及び学生層」。
 ここで丸山真男が「学生層」として念頭に置いているのは、彼が「皆さんのような」と呼んだこともある、東京帝国大学の学生(その他、広げても旧制大学の後身大学の大学生)だ。
 丸山真男と適菜収が同一のことを言っているのではなく、適菜の方がはるかに粗くて単純なのだが、丸山真男の上の区別も、何やら<知能指数の程度>による<職業差別>意識を背景にしているように見える。
 丸山真男のこの部分を読んで、アホらしい、まともな学問の結果ではないと思ったものだが、適菜収が書いていることについても、そのまま、あるいはそれ以上にあてはまる。
 適菜は要するに、<バカ>が多いから<バカ政治家>が生まれ、勝利する(=民主主義)、バカは政治家等の甘言にダマされやすい、したがってうまくバカを騙せる政治家等が勝利し、バカの「民意」を背景にして「独裁者」も生まれる、というようなことを、ときどきは外国人や歴史に言及したりしながら、言っているだけのことなのだ。
 じつは、行きがかり上、仕方なくこれを書いているようなところがあって、適菜の文章をまともに取り上げようとすることすら、本当はアホらしい時間潰しだと感じている。
 「大衆民主主義」時代における「大衆」を、私もまた基本的なところでは信頼してはいない。この点では、大衆=有権者は結局のところは適切な判断をするものだ、とかときどき書いている産経新聞の論説委員・コラムニスト等とは少し異なる。
 しかし、騙されやすい「大衆」を「『比較的』IQ(知能指数)が低い人たち」と定義して、思考し叙述する気はまったくない。
 騙しているマスメディア(や政治家)の責任の方がはるかに大きい。また、結果的には読者を騙そうとしている、月刊雑誌等の「論壇」の執筆者=評論家・大学教授たち(・「哲学者」?)の責任も大きいだろう。
 適菜収は、「かつて『B層を騙す側』にいたB層政治家がB層そのものになりつつある」と書いているが(撃論+p.143)、「かつて『B層を騙す側』にいたB層哲学者がB層そのものになりつつある」のではなかろうか。
 適菜収というまだ三〇歳代の自称「哲学者」は、大学・研究機関に所属しているわけでもなく、また、学術研究者(・哲学者)または「評論家」としてのまともな業績は全くかほとんどないようだ。
 こんな人物の「トンデモ」論考を巻頭に持って来て大々的に広告を打つ編集長がおり、また「とってもいい論文」だと評価する編集部員もいる月刊正論という雑誌は、まともな雑誌なのだろうか。
 このような疑問は、当然に産経新聞(社)自体にも向けられうる。

 産経新聞本紙はともあれ、月刊正論には常連の「保守派」の執筆者もいるとは思うが、こんな編集長・編集部員の依頼を受け、唯々諾々と従って文章を提供して金銭をもらって、編集長・編集部員の<考え方>・<質>については何の関心もないのだろうか?? 

1102/月刊正論編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言④。

 何度めになるのだろう、産経新聞4/06の「正論」欄で田久保忠衛が憲法改正の必要を語っている。そのことに反対はしないが、憲法改正(九条2項の削除、国防軍保持の明記を含む)の必要性をとっくに理解している者にとっては、そんな主張よりも、いかにして<改憲勢力>を国会内に作るかの戦略・戦術、そういう方向での運動の仕方等を語ってもらわないと、「心に響かない」。
 両議院の2/3以上の賛成がないと憲法改正を国民に発議できないのだから(現憲法上そのように定められているのだから)、いくら憲法改正の必要性を説いても、国会内での2/3多数派形成の展望を語ってもらわないと、厳しい言い方をすれば、ほとんど空論になるのではないか。
 現在のところ、憲法改正の具体的案文を持っているのは自民党で、さらに新しいものを検討中らしい。憲法改正にも現憲法第一章の削除を含む、かつての日本共産党の<日本人民共和国憲法案>のようなものもありうるが、自民党のそれは、九条改正・自衛軍設置明記等を含むもので、「左翼的」な改正ではない。
 自分が書いていながらすっかり忘れていたが、1年余り前に(も)、月刊正論編集長・桑原聡を、「月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは」と題して、批判したことがあった。
 月刊正論の昨年2011年の4月号の末尾に、自民党を「賞味期限の過ぎたこの政党」と簡単に断じていたからだ。桑原聡は同時に、「かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、<賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」とも明言していた。
 自民党については種々の意見があるだろうが、「はたして、かかる立場を編集長が明記することはよいことなのかどうか。それよりも、その<政治的>判断は適切なものなのかどうか」、という観点から批判的にコメントしたのだった。背景には、編集長が替わってからの月刊正論は編集・テーマ設定等が少しヘンになった、と感じていたことがあったように思う。
 一年前のこの言葉の考え方を桑原聡がまったく捨てているとは思えないので、彼にとっては、自民党は基本的には、「多くを期待できない」「賞味期限の過ぎた」政党のままなのだろう。
 しかし、産経新聞(社)は「国民の憲法」起草委員会まで設けたのだが、現在のところ、産経新聞社の見解に最も近い憲法改正を構想しているのは、自民党なのではないか。
 将来における<政界再編>によってどのようになるかは分からないが、憲法改正に向けての動きが進んでいくとすれば、現在自民党に所属している国会議員等が担い手になることは、ほとんど間違いはないものと思われる。
 しかるに、桑原聡のように、自民党を「多くを期待できない」「賞味期限の過ぎた」政党と断じてしまってよいのか
 桑原聡はこのように自民党を貶し、かつまた橋下徹を「きわめて危険な政治家だ」と明言する。この人物は、いったいどのような政党や政治家ならば(相対的にではあれ)肯定的・好意的に評価するのだろうか。ただの国民でも雑誌・新聞の記者でもない、<月刊正論>の編集長である桑原聡が、だ。
 読売新聞4/08安倍晋三が登場していて、橋下徹は憲法改正に向けての大きな発信力になるので期待しているといった旨を書いて(答えて?)いた(手元になく、ネット上で発見できないので厳密に正確ではない)。

 憲法改正の内容を橋下徹・大阪維新の会は具体的・明確にはまだ明らかにしていないが、国会議員連盟もあるらしい、憲法改正のための国会発議の要件を2/3超から1/2超に改正することには橋下徹は賛成している。憲法改正の必要性自体は、彼は十分に認識していると思われる。
 桑原聡は憲法改正には反対なのだろうか。大江健三郎、香山リカ、佐高信、立花隆らと同じく<護憲派>なのだろうか。
 そうではないとしたら、橋下徹を「きわめて危険な政治家だ」となぜ簡単に断じてしまえるのか。不思議だ。<異常な>感覚の持ち主の人物だとしか思えない。
 なお、佐々淳行産経新聞2/24の「正論」欄で、「橋下徹大阪市長に申す。国家安全保障問題、国家危機管理の問題こそが国民の龍馬ブームの源であり、物事を勇気を以て改めてくれる強い指導力を貴方に期待している国民の声なのだ。国政を担わないのなら、今の八策でもいいが、命をかけて、先送りされ続けた国家安全保障の諸問題を、貴方の『船中八策』に加え、国策の大変更を含めて平成の日本の国家像を示してほしい」、と書いている。
 この文章の途中で、「船中八策」には「一番肝心の安全保障・防衛・外交がそっくり抜け落ちて」いると批判もしている。
 このような佐々淳行の批判もよく理解できる(九条については、橋下徹は世論の趨勢を測りかねていて、個人的見解を明確にする時期ではまだないと判断しているように私は推察している)。

 だが、佐々淳行は最終的には<期待>を込めた文章で結んでいるのであり(最末尾の文章は「…など橋下市長の勇気ある決断を祈っている」だ)、きわめて穏当だと感じられる。
 大人の、まっとうな<保守>派に少なくとも求められるのは、橋下徹に対する、このような感覚・姿勢ではないだろうか。
 逆を走っているのが、月刊正論(産経)の現在の編集長・桑原聡だ。
 こんな人物が産経新聞発行の政治関係月刊誌の編集長であってよいのか。
 川瀬弘至という編集部員が、イザ!で月刊正論編集部の「公式ブログ」を書いているのに気づいた。この川瀬の文章の内容の奇妙さにも、今後は言及していくつもりだ。

1101/月刊正論編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言③。

 〇「産経新聞愛読者倶楽部」という名のブログサイトがあるようで、月刊正論5月号や産経新聞における適菜収とその内容を批判する投稿を紹介している。
 上の団体が本当に「保守」派なのかは知らないし(「左翼」の立場から産経を批判することはありうる)、他のブログからの引用・紹介はほとんどしたことがないのだが(もともと他のブログを見て読むことがほとんどない)、珍しくそのようなことをしてみる。
 〇4/07付で、「『B層』という嫌な言葉…産経新聞は橋下叩きをやめよ!」とのタイトルのもとで、まず、以下の投稿を掲載している(一部省略)。
 ①「産経新聞社発行の月刊『正論』5月号(3月31日発売)は『【徹底検証】大阪維新の会は本物か 理念なきB層政治家 橋下徹は『保守』ではない!』と題した論文をメーン記事として掲載しました。/筆者は適菜収という37歳の聞いたことのない哲学者です。この中で適菜は『B層』について『近代的理念を盲信する馬鹿』と定義して、橋下市長を『アナーキスト』『デマゴーグ』などと非難しています。/巻末の編集長コラム『操舵室から』でも桑原聡編集長が『編集長個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う』と表明しています。/
 雑誌を売るためにインパクトのある記事を載せているのなら仕方ないなと思っていたら、なんときのう(6日)の産経新聞1面左上(東京本社版)にも適菜収が登場して<【賢者に学ぶ】哲学者・適菜収 「B層」グルメに群がる人>というコラムを書いていました。B級グルメをもじって「B層グルメ」という言葉を紹介しています。『≪B層≫とは、平成17年の郵政選挙の際、内閣府から依頼された広告会社が作った概念で『マスメディアに踊らされやすい知的弱者』を指す。彼らがこよなく愛し、行列をつくる店が≪B層グルメ≫だ』そうです。/締めくくりは『こうした社会では素人が暴走する。≪B層グルメ≫に行列をつくるような人々が『行列ができるタレント弁護士』を政界に送り込んだのもその一例ではないか』です。橋下叩きを書くために、延々と食い物と『B層』の話をしているだけの駄文です。/
 われわれ保守派としては、橋下徹氏が今後どのような方向に進んでいくかはもちろん分かりません。自称『保守』の中には小林よしのりや藤岡信勝のような偽物もいました。しかし、職員組合に牛耳られた役所、教職員組合に支配された教育現場を正常化する試みは橋下氏が登場しなければできませんでした。自民党は組合との癒着構造に加わってきたのです。私は少なくとも現段階では橋下氏を圧倒的に支持します。/

 そもそも『B層』という言葉には非常に嫌な響きがあります。適菜がいみじくも『馬鹿』と書いているように、いろいろな連想をさせる言葉です。/
 ちなみに適菜収はサイモン・ウィーゼンタール・センターから抗議を受けたこともあります。/読売新聞平成19年2月22日付夕刊/徳間書店新刊書の販売中止を要請 米人権団体「反ユダヤ的」/【ロサンゼルス=古沢由紀子】ユダヤ人人権団体の「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)は21日、徳間書店の新刊書「ユダヤ・キリスト教『世界支配』のカラクリ」について、「反ユダヤ主義をあおる内容だ」として、同書の販売を取りやめるよう要請したことを明らかにした。同書の広告を掲載した朝日新聞社に対しても、『広告掲載の経緯を調査してほしい』と求めたという。/同書は、米誌フォーブスの元アジア太平洋支局長ベンジャミン・フルフォード氏と、ニーチェ研究家の適菜収氏の共著で、今月発刊された。サイモン・ウィーゼンタール・センターは反ユダヤ的な著作物などの監視活動で知られている。/
徳間書店は、「現段階では、コメントできない。申し入れの内容を確認したうえで、対応を検討することになるだろう」と話している。/
 産経新聞平成19年2月23日付朝刊/米人権団体『反ユダヤ的陰謀論あおる』本出版、徳間に抗議/【サンフランシスコ=松尾理也】米ユダヤ系人権団体のサイモン・ウィーゼンタール・センター(ロサンゼルス)は21日、日本で発売中の書籍「ニーチェは見抜いていた ユダヤ・キリスト教『世界支配』のカラクリ」(徳間書店)について、「反ユダヤ的な陰謀論の新しい流行を示すもの」と批判する声明を発表した。同センターは同時に、同書の広告を掲載した朝日新聞社に対しても、掲載の理由を調査するよう求めている。/

 問題となった書籍は、米誌フォーブスの元アジア太平洋支局長、ベンジャミン・フルフォード氏と、ニーチェ研究家、適菜収氏の共著。2月の新刊で、朝日新聞はこの本の広告を18日付朝刊に掲載した。/同センターは、同書の中に『米軍は実はイスラエル軍だ』「ユダヤ系マフィアは反ユダヤ主義がタブーとなっている現実を利用してマスコミを操縦している」などとする内容の記載があり、米国人とイスラエル人が共同で世界を支配しているという陰謀論をあおっているとしている。(後略)/
 産経新聞1面左上のコラム(東京本社版)は約30人の『有識者』が日替わりで執筆しています。適菜収がここに登場したのは初めてです。つまり適菜は執筆メンバーになったわけですが、いったい誰が登用したのでしょうか。産経新聞は適菜を今後も使うかどうか、よく身体検査したほうがいいでしょう。」
 この①の投稿文に関して、つぎのコメントが寄せられている。、
 ②「橋下市長を100%支持するわけではありませんが、適菜収の批判は嫌らしさを感じます。」
 ③「正論と産経新聞がこんないやらしい橋下批判をしたら、現場の大阪市役所や府庁の担当記者がどれだけ迷惑するか、産経の幹部は考えてやっているのでしょうか。」
 〇産経新聞本紙までが、「賢者」として適菜収を登用しているらしい。うんざりする。憲法改正、そのための<保守派>の結集のための事務局あるいは情報センターのような役割を、産経新聞に(ましてや桑原聡編集長の月刊正論に)期待することは、とても無理なようだ。
 適菜収という<怪しい哲学者>の文章については、あらためて私自身の言葉でコメントする。

1100/月刊正論編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言②。

 〇産経新聞1/24の「正論」欄、藤井聡「中央集権語ること恐るべからず」に対して、2/04に、「揚げ足取りと感じられる部分、橋下らの真意を確定する作業をしないままで批判しやすいように対象を変えている部分が見られ、まともなことを書いている部分が多いにもかかわらず、後味が悪い」から始まる批判的コメントを書いたことがあった。  上の藤井聡の文章について、当の橋下徹自身が、すぐさま1/24の夜に、ツイッターとやらで次のようにコメントしていることをつい最近に知った(私は橋下徹ツイッターの読者・フォローヤーではない)。
 「24日産経『正論』には愕然とした。藤井教授の震災復興で日本を強くするという趣旨の新書を読んでいたが、現実の政治・行政を預かる僕には、何も響かなかった。そして今回の正論。学者論評の典型だが、まず今の中央政府が機能しているという前提から入っている。現在の実態分析が何もない。」
 「行政機構が機能するためには、決定権と責任がはっきりとしていること。そして仕事の役割分担がきちんとなされていること。これが全てである。そして今の中央政府は、これが全くなされていない。だから行政機構を作り直そうと僕は言っているのである。」
 「藤井教授は、一から最適な政体を設計できる万能な人間などこの世にはいないという。確かに世の中に完璧な制度などない。しかし今よりも少しでも良いものを作ることに挑戦するのが政治である。学者は完璧な制度を研究するのが仕事なのであろう。」
 「そして藤井教授は、僕の言うところの地方分権、中央政府の解体が、中央政府の不存在だと曲解している。地方分権とは、中央政府と地方政府の役割分担の明確化である。現在、仕事がオーバーフローして機能していない中央政府を、身軽にして機能するようにする。これが地方分権なのである。」
 「藤井教授は行政機構をマネジメントしたことがない。ゆえに今の中央政府が機能不全に陥っていることが分からない。中央政府がやらなくてもいい仕事を中央政府がやっている。そのことが中央政府を弱くしているのである。」
 「そして国の出先機関を地方に移管することに反対しているが、これは国交省官僚の主張そのものである。まだこんな論を張るのかと愕然とした。確かに今回の東日本大震災において地方整備局は大活躍した。しかし地方へ移管しても同じ機能を発揮させる仕組みを考えれば良いのである。」
 「学者さんが陥るのは、問題提起された新しい制度についての批判点だけを挙げる。現実の政治・行政で重要なのは、現在の制度と新しい制度のどちらが良いのかという比較である。現在の制度の問題点の分析なのである。藤井教授は非常事態に備えて現在の地方整備局を維持せよと言われる。」
 「ところが現在の地方整備局の仕組みで、非常事態ではなく平時において、どれだけの問題点があるのかの分析が全くない。非常事態においては現在の地方整備局の形が必要だ!という主張しかしていない。地方の首長が現実の行政を仕切るにあたって、国の出先機関との関係でどのような問題意識を持っているか」
 「藤井教授の考えの根幹には中央と地方が相互に補完する関係を基調としている。現実の行政とはかけ離れた認識だ。これだけ複雑化した現代日本において行政の仕組みは複雑怪奇になり過ぎた。そして決定権と責任が全く分からなくなってしまった。非常事態が起きたときの行政機構の混乱ぶりは酷過ぎる。」
 「今新しい国づくりとしてやらなければならないことは、国と地方、そして地方部においても広域行政と基礎自治行政の役割分担、決定権と責任の整理・明確化。これが急務である。日本の中央政府を強くするためにも国の仕事をはっきりとさせて決定権と責任を明確化させる。これしかない。
 「行政機構も現実の人間が動かしている。生身の人間ができることなど知れている。藤井教授は中央政府にとてつもない幻想を抱いているがそれは研究室での話しだろう。普通の人間が適切・的確に仕事ができるような行政機構に改める。国と地方の役割分担。これが地方分権である。」
 「藤井教授は現在の体制で中央政府が強くなるとでも思っているのか?政治家を変える?もっと官僚組織を大きくする?組織が大きくなることと強くなることは全く別物。組織が強くなるということは大きさではない。機能することだ。」
 「国の出先機関、特に地方整備局を地方移管しても非常時に対応できるような仕組みを探る。これが現実の政治・行政論である。藤井教授の震災復興の著書が、現実の政治・行政を預かる僕の心に全く響かなかったのは、藤井教授の政府の実態分析の弱さ、そして組織を動かした経験のないことに起因する。」
 以上。1月24日23時54分以降。
 「現実の政治・行政を預かる」者が現実を知らない「研究室」の者に説諭しているようで、大人が子どもを説教するごとく、あるいは教師が学生を教示しているごとく、橋下徹と藤井聡の勝負?がまるで対決になっていないことは明らかだ。
 月刊WiLL4月号に藤井聡「橋下『地方分権論』の致命的欠陥」を掲載した編集長・花田紀凱にも、「地方分権とは、中央政府と地方政府の役割分担の明確化である。現在、仕事がオーバーフローして機能していない中央政府を、身軽にして機能するようにする。これが地方分権なのである」等の橋下徹自身の言葉をしっかり読んでおいていただきたい。
 〇たとえば上のようなことを橋下徹は(おそらくは推敲もしないで一気に)書いているのだが、月刊正論(産経)編集長の桑原聡は、橋下徹が「民意を利用する」「目的は日本そのものを解体することにあるように感じるのだ。なぜ解体するのか? 日本のため? それとも面白いから?」と同誌上で明記した。
 他の橋下徹の文章や政策等も含めて、いったいどこから、橋下徹は「日本そのものを解体」することを目的としている、という判断が出てくるのだろう?
 「左翼」論者の文章・文献の読み過ぎだろうか。
 桑原聡の感覚は<異常>だ。
 こんな感覚の持ち主が、産経新聞社発行の月刊正論の編集長であってよいのか。産経新聞社の多くのメンバーに尋ねたいものだ。

1099/月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言1。

 一 月刊正論(産経)の現在の編集長・桑原聡が、「個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う」と同5月号の末尾に書いている。740円という価格と情報量のCBA分析をして?やはり購入し、いくつかの論考等を読んだあとで見たのだが、喫驚した。
 少なくとも桑原聡が編集長でいる間は、月刊正論を新刊雑誌としては購買しないことにする。この欄の閲覧者にも、そのように呼びかけたい。
 「編集者個人の見解」としてはいるが、一頁分の編集後記にあたるものを一人で書いている、れっきとした編集長の文章であり、上のような、橋下徹を「きわめて危険な政治家」視する意識が、月刊正論の編集に反映されないはずはない。
 5月号の巻頭が先だって広告を見て言及したように、適菜収「橋下徹は『保守』ではない!」であり、表紙にも最大の文字で銘打たれているのも、桑原聡のかかる意識の現われだろう、と得心する。
 個人的にはそれこそどのように考えていてもいいとしても、このように明言するとは大胆で、珍しいと思われる。
 この月刊正論を発行している産経新聞社自体に問い糾したいものだ。
 第一。見解が分かれている中で、貴社の発行している雑誌の編集長が、上のような特定の「政治的」立場・見解を明らかにしてしまってよいのか
 第二。橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと明言する人物を、貴社の発行する雑誌の編集長にとどめているのは何故か
 産経新聞も、月刊正論も、岩波の「世界」や朝日新聞とは異なる、むしろそれらの対極にある「保守」派の、または「保守」的な新聞であり、雑誌であるという印象をもたれてきている、と言ってよいだろう。そして、その点に共感して購読・購入している国民も少なくないはずだと思われる。そしてまた、産経新聞における橋下徹に関係する記事は、したがって彼への注目度は、他紙に比較して多く、大きいような印象もある。
 しかるに、同じ会社が発行する月刊雑誌の編集長が上のように明言してしまうのは、そしてそのような考え方のもとで雑誌が編集されるのは、むろん雑誌編集の裁量がかなり認められているのではあろうが、貴社自身のマスメディアの一つとしての姿勢と整合しているのか
 二 桑原聡自身はなぜ橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと思うかの根拠・理由をほとんど書いていない(根拠にもならないような文章については後で触れる)。
 その代わりに、自分自身の考え方に近い適菜収の(低劣な)論考を巻頭にもってきて、自らの「個人的」な姿勢を反映させた、ということなのだろう。
 ということは、かりに橋下徹を肯定的に評価している編集長であったならば、山田宏「平成の『龍馬伝』がはじまった」から採って、「橋下徹は平成の龍馬だ!」というタイトルで大きく広告され、表紙も作成されていたのかもしれない。
 桑原聡はこの山田宏の論考も加えるなどして、編集の公平さを装っているようだ。そして「特集を読み判断していただきたい」と読者に判断を委ねるかっこうをつけている。
 それはそれで一見公平らしくも見えるのだが、しかし、上の一文は「橋下氏の目的は日本そのものを解体することにあるように感じるのだ。なぜ解体するのか? 日本のため? それともたんに面白いから? 特集を読み判断していただきたい」という文章の一部だ。念押し的に、橋下徹は<日本解体(論)者だ>との桑原聡の考え方を書いた上での言葉なのだ。
 一見読者の判断に委ねつつ、自己の見解の方向へと誘導しようとしている、情報操作・意識操作をしようとしていることは疑いえない。
 それにしても、上の文章の、上野千鶴子ら「左翼」にも似た、気味の悪さはどうだろう。「日本解体」が目的だろうとする論拠を示していないこともあまりにも不誠実で唐突だが、その後の?の連続部分からは、感覚・判断能力の<異常さ>をすら感じてしまう。
 産経新聞社にあらためて問うておこう。こんな内容の文章を唐突に書いてしまう人物は貴社発行の月刊雑誌編集者としてふさわしいのか、と。
 三 桑原聡の情報操作・意識操作の意図(・意識)にもかかわらず、橋下徹関係の四つの論考のうち、最も空虚、最も観念的で低劣なのは適菜収のそれであり、あとは大きな抵抗感なく読めるもので、橋下徹が「きわめて危険な政治家」だとの印象は(桑原の意図に反して?私は)まるで受けない。
 適菜収のものは別に扱いたいが(出発点の「B層」大衆論など、それこそファシスト紛いの気持ち悪いものだ)、山田宏は的確にポイントを衝いている。橋下徹は簡単に前言を翻すとか最近に書いたが、山田宏によると、橋下徹は「実際に会ってみると、じつに謙虚で人の話をよく聴く…。しかも、自説の間違いに気付くと素直に認めて撤回する」と、上手に説明されている(p.61)。

 佐藤孝弘「日本よ、『保守する』ことを学べ」は橋下を肯定的に評価してはいないが、消極的・否定的に論評してもおらず、性急な判断を避けている(あと一つは、内田透「かくて職員組合は落城せり」で、橋下徹を貶すような内容ではなく、むしろ逆かもしれない)。
 四 桑原聡は同じ文章の中でこうも書いている。
 「保守を自任ママ〕する人々まで、印籠を掲げて労働組合を組み伏せようとする橋下氏に喝采を浴びせるが、その矛先がいつか自分たちに向けられると考えたことはないのだろうか」。
 これも産経新聞社発行の月刊正論の現在の編集長の文章だ。
 先に紹介した部分と併せて見ても、どうやら、桑原聡にとっては<反橋下>は<情念>にまで高められているようだ。
 それに、上の文章には反論することが十分に可能だ。橋下徹が攻撃しようとしているのは「戦後体制」・戦後の既得権者たち(官公労働組合も当然に含む)であって、<戦後レジーム>の終焉、日本の「再生」を望む人々にとっては、喝采こそすれ何ら怖いものではなく、橋下徹を怖れているのは、現状に(そこそこ?)満足している、<戦後レジーム>に基本的な疑問を持たない、(そこそこに)利益を得てきている者たちではないか、と。
 桑原聡はどうやら、「左翼」と同様に橋下徹の矛先が自分に向けられることを怖れているようだが、それは、月刊雑誌の編集長にまで登りつめ?、さらに販売部数を伸ばして会社内で「いい気分」を味わいたいと思っている、その現状を「保守」したいからではないのか。
 桑原聡にとっては、現状はそこそこに安住できるもので、その現状・地位を橋下徹によって攪乱されたくない、というのが本音ではあるまいか。
 こういう意識は、昨年秋の大阪市長選で、橋下徹に対立した現職市長を民主党とともに支持した自民党市議団の意識とほとんど等しいと思われる。
 あらためて言っておこう。「右」からという粧いをとってはいるようだが、「右」からか「左」からかは不明なままに、日本共産党・民主党、両党支持の労働組合、そして上野千鶴子、香山リカ、山口二郎、佐高信等々の「左翼」論者と同様に、産経新聞社発行の月刊正論の編集長が、橋下徹は「きわめて危険な政治家」だと明言した。
 山田宏も指摘しているように、<保守>派の最大の課題と言ってもよい憲法改正(をシンボルとする「敗戦後体制」の破棄)の方向で、産経新聞や月刊正論の記事・論考の多くの字数よりもはるかに大きな影響力を、橋下徹の今後のひとこと・ふたことが持つだろう(p.58参照)。そのような人物を「危険」視するとは、とりわけ月刊正論の編集長としては、桑原聡の感覚は<異常>なのではないか。
 五 産経の月刊正論が「橋下市長に日本再生のリセットボタンを押させまいと、イメージ悪化を狙ったさまざまな妨害活動を仕掛けてくる」(山田宏、p.59)ようなことのないように、切に望みたい。
 桑原聡では危ない。月刊正論(産経新聞社)は、編集長が替わるまで、新刊本としては購入するのは避けた方がよい。買うとしても、桑原聡編集長による月刊正論の販売部数が一部でも増えないように、発行後しばらくして、アマゾンあたりのお世話になることにしよう。

1097/安倍晋三は正しく橋下徹を評価している。

 一 安倍晋三は4/02のBS朝日の放送の中で、大阪市の橋下徹市長を「こういう時代に必要な人材だ」と評価したらしい(ネットのの産経ニュースによる)。
 いろいろと問題はあり、あやういところもあるが、<保守>派は、橋下徹という人間を大切にしなければならない、あるいは大切に育てなければならない
 安倍晋三には同感だ。
 これに対して、谷垣禎一は、橋下徹・大阪維新の会への注目度の高まりについて、先月、ムッソリーニやヒトラーの台頭の時代になぞらえた、という(同上)。
 自民党リベラル派とも言われる谷垣と朝日新聞がかつて「右派政権」と呼んだときの首相だった安倍晋三の感覚の違いが示されているのかもしれない。
 ムッソリーニ、ヒトラーを引き合いに出すのは、昨秋の選挙前に、日本共産党の府知事選挙候補者が大阪市長選への独自候補を降ろして民主党・自民党と「共闘」して前市長の(当時の現職の)候補に投票したことについて<反ファシズム統一戦線ですよ>と述べた感覚にほとんど類似している。
 <反ファシズム統一戦線>という「既得(利)権」擁護派に勝利したのが橋下徹・大阪維新の会だった。日本共産党や「左翼」労組がきわめて危険視し警戒した(している)のが、橋下徹だ。
 そういう人物について「保守」ではない、といちゃもんをつけている月刊正論(産経新聞)または適菜収中島岳志の気がしれない。
 別の機会にあらためて書くが、佐伯啓思が「敗戦後体制」の継続を疎み、それからの脱却の必要性を感じているとすれば(佐伯啓思・反幸福論(新潮新書))、その方向にあるのは橋下徹であって、「敗戦後体制」のなれの果てとも言える、自民・民主・共産党に推された対立候補の平松某ではなかったはずだ。その点を考慮せずして、あるいはまったく言及せずして、なぜ佐伯啓思は、橋下徹批判だけを口にすることができるのか。
 優れた「思想家」ではある佐伯啓思は、週刊新潮にまで名を出して(週刊新潮4/05号p.150)「橋下さんのようなデマゴーグ」等と橋下徹を批判している。インタビューを拒むことも出来たはずなのに、佐伯啓思は自分の名を「安売り」している。佐伯啓思のためにもならないだろう。
 なお、橋下徹を批判する(とくに「自称保守」派の)者やメディアは、橋下徹を支持または応援している、石原慎太郎、堺屋太一、中田宏、古賀茂明等々をも批判していることになることも自覚しておくべきだろう。
 二 橋下徹があぶなかしいのは、例えば<脱原発>志向のようでもあることだ。彼は、現時点では福井県大飯原発の再稼働に反対している。
 私はよくは解っていないが、別に書くように、<脱・反原発>ムードの「左翼」臭が気になる(大江健三郎らの大集会の背後に、または平行して、日本共産党の政策と動員があった)。必要以上に危険性を煽り立て、日本の経済の、ひいては、健全な資本主義経済の発展を阻害することを彼らはイデオロギー的に意図しているのではないか。
 コミュニスト・「容共」を含む「左翼」は、基本的に資本主義に対する「呪い」の情念を持っていて、資本主義経済がうまく機能することを邪魔したいし、同じことだが、「経済」がどのようになっても、破綻することになっても(それで自分が餓死することはないとタカを括って)平気でおれる心情にある。枝野幸男経済産業大臣にも、それを少しは感じることがある。
 しかし、橋下徹はそのような<イデオロギー的>脱・反原発論者ではなさそうだ。
 青山繁晴によると、大阪府知事・市長の二人は原発問題について「ダマされている」とナマのテレビ番組で述べたあとで、(楽屋で?)二人と話したとき、橋下徹は<関西電力から情報を出させたいだけですよ>旨を言った、という(某テレビ番組による)。
 けっこう前言を翻すこともある橋下徹は、また<戦術>家でもある橋下徹は、この問題についても、納得ずくで意見を変える可能性はあるだろう。
 ついでにいうと、大阪府市統合本部とやらは関西電力の原発について「絶対的」安全性を求めるようだが、これは無茶だ。この点では、「絶対的」という条件には反対だったという橋下徹の考え方の方が正常だ。
 市販されている薬剤でも使用方法によっては死者を生み出す。売られ、乗られている自動車によって、毎日20人程度は死亡している(かつては一年間の交通事故死亡者は1万人を超えていた)。にもかかわらず、自動車の製造・販売中止の運動または政策があったとは聞いたことがない。<生命最優先>は現実のものにはなっていない。
 「絶対的」に安全なものなどありはしない。<リスク>と共存していく高度の知恵を磨かなければからない。―という、しごくあたり前で抽象的な文章で今回は終える。
 冒頭に戻って繰り返せば、安倍晋三の橋下徹に関する感覚はまっとうだ。

1095/水島総、適菜収、橋下徹、野田内閣。 

 〇水島総が、「撃論+(プラス)」という雑誌(oak-mook。2012.04)で、「今、最も問題なのは、反日メディアや反日政治家、反日財界なのではない『戦後保守』と言われる言論人の一種の頽廃というべき姿である」と書いている(p.171)。
 現在の「保守」派がかなり混乱していることは確かだと思われ、「頽廃」という形容が的確かは悩むが、私とも問題関心に共通するところはあるだろう。
 このようなブログだから「保守」派のあれこれに対して批判的な言辞も吐いてきた。100%信頼できる人物はいないと(残念ながら)感じているので、テーマ、論点に応じて、櫻井よしこ、西尾幹二、佐伯啓思等々を批判したこともある。だが、<このようなプログだから>影響力は微々たるものだとの自覚があるからなのであり、保守派内部の対立・軋轢を拡大する意図はない。
 産経新聞社も(以前から)意図しているようである憲法改正にしても、現憲法を前提にすれば(なお、石原慎太郎の「破棄」論は精神論としてはともかく、現実的には無謀だ)国会内に2/3以上の改憲勢力を作らなければならず、有権者国民の過半数の支持を受けなければならない。
 産経新聞3/31に論説委員・皿木喜久が書いているように(この人にはまともな文章が多い)、かりに憲法を軸にした「保守合同」を展望するとしても、それは命がけ」で取り組まれなければならない課題だ。
 そうした状況において、「保守」派内部において、「自称保守」とか「エセ保守」とか言い合っている余裕は本来は十分にはないはずだ。あるいは個々の論点について対立してもよいが、憲法改正、正確にはとくに現憲法九条2項の削除と「国防軍」の設置(「自衛軍」という語よりもよいと思う)、についてはしっかりと<団結>しておく必要があろう。

 憲法・国防といった国家の基本問題に比べれば、橋下徹・現大阪市長をどのように評価するかなどという問題は「ちんまい」テーマだ。
 にもかかわらず、産経新聞社の月刊正論5月号は、3/31の大きな広告欄によると、「橋下徹は『保守』ではない!」という一論考のタイトルを最大の文字の惹句にしている。
 「国民の憲法」起草委員会を作ったのだったら憲法改正大特集でも不思議ではないが、上の文字を最大の謳い文句にする感覚は(私には)尋常とは思えない。
 上の論考の執筆者らしい適菜収は冒頭掲記の「撃論+」にもたぶん似たようなことを書いているので、―今回は立ち入らないが―主張内容はおおよその推察ができる。「評論家」の佐伯啓思にもむつかしい問題に「哲学者」が適切に対応できるとはとても思えないが、この、よく知らない適菜収という「哲学者」にとっては、またとない「売名」の機会になったことだろう。あるいはまた、橋下徹をテーマにすれば(とくに批判すれば)<売れる>という月刊正論編集部の<経営的>判断に乗っかかっているだけなのかもしれない。
 ついでだから立ち入るが、「撃論+」の中の小川裕夫「検証/橋下改革は本当か?」(p.150-)の方が、橋下徹について冷静にかつ客観的に判断しようとしており、性急な結論づけをしていない。
 このような性急に単純な結論・予測を述べない姿勢の方が好感をもてる。「撃論+」よりも数倍の(十倍以上の?)読者をもつだろう月刊正論の編集部が、<橋下徹は保守ではない!>と訴えたいらしいのはいったいどうしてなのだろうか。まだ民主党政権のゆくえや解散・総選挙問題を直接のテーマにする方が時宜にかなっているように思われる。
 〇水島総の文章に戻ると、しかし、水島がいう「戦後保守」の「頽廃」の意味、したがってまた水島の考えている「(真の)保守」の意味は必ずしも明確ではない。水島は次のように書く。
 ・保守を標榜しつつも「TPP参加や増税、女性宮家創設等で分かるように、GHQ日本国憲法内閣と言ってもいいほど」なのが野田民主党内閣の本質であり、「日本の国体そのものの解体を目ざしている」にもかかわらず、「戦後日本意識」を脱し切れず、有効に批判できていない。「戦後保守と呼ばれる言論人は、野田内閣の『改革路線』を批判出来ず、野田内閣に一定の支持を与えたり、政権権力にすり寄る、まことに見苦しい迷走を続けている」(p.171)。
 ここで批判されている「戦後保守」言論人とはいったい誰々なのだろうか。
 「TPP参加」を批判されるべき野田内閣の政策の一つとして挙げているところを見ると、櫻井よしこ、竹中平蔵あたりなのだろうか(きちんと確認しないが、岡崎久彦もこれに反対ではなかったようだ)。政権権力に「すり寄る」とは厳しいが、櫻井よしこは野田内閣への期待を明確に(産経新聞紙上で)述べたことがある。
 だが、「TPP参加」に反対するのが「(真の)保守」とは私は考えないし、「保守」か否かで簡単に判断できるものでもないように思っている。
 月刊正論に連載欄を持っている水島総の「保守」派性を(その内容から見て)微塵も疑いはしないが、具体的問題となると、私とまったく同じように考えているわけでもなさそうだ。
 急いで書かれただろう文章にあまり拘泥するのもどうかとは思うが、いま一つ、水島の論述には分かりにくいところがある。
 水島は、「アメリカ拝跪から中国拝跪へ」という時代の変化を語りつつ、いずれも「主権国家意識の欠如した戦後意識」に由来する点で共通する、と批判的に指摘している。
 この点はまだ分かるのだが、次の文章との関係はどうなるのだろう。
 ・「親米反中だから、保守内閣であるとの誤解は、冷戦構造が世界的に終焉した現在にあっては全く通用しない」(p.171)。
 後半の冷戦構造の終焉うんぬんは、そのままでは支持できないことは何度もこの欄で書いた。よく分からないのは、野田内閣を「親米反中」内閣と性格づけていることだ(なお、「保守」内閣だなどと私は「誤解」したことはない)。
 まず、「中国拝跪」意識を水島が批判しているところからすると、野田内閣の「反中」性を批判し難いのではないだろうか。
 つぎに、野田・民主党内閣は本当に「反中」内閣なのだろうか。なるほど、鳩山由紀夫、菅直人と比べると<中国拝跪>性は弱いようにも思えるが、「反中」とまで言いきれるのかどうか。具体的に<南京大虐殺>の存在を肯定しているわけでもない村山談話を継承すると(河村たかし名古屋市長発言問題に関連して)官房長官が答えるような内閣は「反中」なのだろうか。
 〇「保守」派を攪乱する意図はないし、そのような力もないが、いろいろと考え方あるいは表現の仕方が異なるのはやむを得ない。ひょっとすれば、水島総における「反米」性(TPP参加反対はこちらだろう)と「反中」性との関係がよく分からない、ということかもしれない。
 だが、早晩憲法改正の具体的展望が出て来たときには、水島総が、その先頭に立つ運動家の一人だろうことは疑いえないだろう。この点では「思想家」佐伯啓思らよりもはるかに信頼が措けそうだ。余計ながら、西部邁と中島岳志はまるであてになりそうもない、という印象を抱いている。中島岳志は、憲法改正、正規の軍隊保持などという「ラディカル」な変化の追及は、「保守主義」と適合しない、などと言い始めるのではないか(??!)。
 〇西部邁・佐伯啓思グループの隔月刊・表現者(ジョルダン)は、橋下徹批判特集の最新号からは購読しないこととした。駄文につき合っているヒマはない。前の「発言者」時代の古書を購入したことすらもあったのに、ある意味では寂しく、ある意味では爽快でもある。
 このグループの橋下徹批判よりもレベルが落ちていると疑われる適菜収論考が<売り>の論文として宣伝されている月刊正論5月号(産経)も購入したくないが、はて、どうしたものだろう。

1090/撃論第4号-中川八洋の東口暁・月刊WiLL批判。

 昨年10/26と11/08のエントリーで、雑誌・撃論第3号(オークラ出版)に言及している。
 同・撃論第4号(2012.04)を最近に概読した。
 前号では背中に<月刊WiLLは国益に合致するか>と書かれていて、その特集が主張したいほどではあるまいと感じた。但し、今回の号を読んで、月刊WiLL批判が当たっていると感じる程度は、少しは大きくなった。
 それは、月刊WiLL(ワック)が東谷暁や藤井聡という<西部邁・佐伯啓思グループ>メンバーに橋下徹批判を書かせていることに関係しているが、この撃論は再び(背表紙に謳ってはいないが)、橋下徹批判をしている東口暁の<TPP亡国論>を指弾する中川八洋の論考を掲載しており、かつ中川は「民族系月刊誌『WiLL』」をも大々的に批判しているからだ。
 中川は「TPP賛成派はバカか売国奴」とまで銘打ったこともある月刊WiLLにお馴染みの雑談話の堤堯と久保紘之も批判していて、久保を「テロリスト願望のアナーキスト」、堤を「無国家主義者・非国民であるのを公然と自慢」などと批判している。また、よりまともな?TPP反対論者の中野剛志も批判している。
 堤らに大した関心はないし、中野の議論には関心はあるがその本を読んでいないので、ここでは紹介はしない。
 といって東口暁のTPP亡国論批判をそのまま紹介するつもりもないが、中川八洋は東口について、こう言う。
 「TPP加盟を『日本は米国の属国になる』などと叫びながら、大中華主義に従った、日本の中共属国化である『東アジア共同体』を批判しない論など、非国民の危険な甘言にすぎない」(p.109)。
 また、「左右に巧妙に揺れる”マルクス主義シンパ”東口暁」、「『中共の犬』が本性か?」などと題して東口の論述内容を批判している(p.119-)。
 もともと東口の経済論議を信頼性が高いとは思ってはいなかったが、関心をとくに惹くのは、橋下徹はTPP賛成論者である一方、東口暁は同反対論者であり、その東口を中川八洋が、「非国民」、「マルクス主義シンパ」等と批判している、ということだ。
 中川は月刊WiLLには論及しているが、<西部邁・佐伯啓思グループ>に言及しているわけではない。だが、西部邁は橋下徹と違ってTPPに反対だと明言してもいるのだ(最近の週刊現代3/17号p.183                                          も参照
 グループとして一致しているかは確認していないが、西部邁と東口暁はTPPについて(も)同じような考え方に立っていると理解してよく、従って中川八洋は西部邁(さらに佐伯啓思らとのグループ?)とも対立している、ということになろう。
 さらに関心を惹くのは、中川八洋は東口を、米国には厳しく中国(中共)には甘い、反共よりも反米を優先している、という観点から糾弾しているのであり、このような批判または疑問は、<西部邁・佐伯啓思グループ>に対して私が感じてきたものと基本的に同じだ、ということだ。
 「東口は”中共の犬”で、日本国の安全保障を阻害する本物の売国奴と考えてよいだろう」(p.122)とまで論定してよいかどうかは別としても、西部邁、佐伯啓思、東口暁らは、反米自立(または反近代西欧)の重要性をそのかぎりではかりに適切に強調してきているとしても、中国またはコミュニズムに対する批判を全くかほとんど行わない、という点で見事に?共通している。
 彼らについて、「左翼」と通底しているのではないかと(やや勇気をもって)書いたこともあった。この点を、中川八洋は明確に指摘し、論難しているのだ。中川からすると、東口などは「マルクス主義シンパ」の「左翼」そのものであるに違いない。
 中川八洋が共産党員・共産主義者(コミュニスト)というレッテル貼りを多くの者に対してし続けているのは、少なくともにわかには賛同できないが、しかし、中川の「反共」(少なくとも中川にとっては=「保守」)の感覚は鋭くかつ適切ではないかと私は感じている。
 <西部邁・佐伯啓思グループ>は、「保守」主義を自称しつつもじつは「反米的エセ保守」ないし「民族的左翼」、もしくは「合理主義的(近代主義的)保守」とでもいうような(同人誌的)カッコつき「思想家集団」であって、本来の<保守>陣営を攪乱している存在なのではないか、という疑念を捨て切れない。
 別に佐伯啓思にからめて書きたいが、西部邁・佐伯啓思らは、「日本的なもの」・「日本の伝統・歴史」なるものを抽象的ないし一般論としては語りつつも、国歌・国旗問題に、あるいは「天皇制」の問題に(皇統継嗣問題を含む)、じつに見事に、具体的には論及してきていない。中共、北朝鮮問題についても同じだ。
 なお、このグループの橋下徹批判、TPP反対論、これら自体は、日本共産党の現在の主張と何ら異なるところがない。ついでに、このグループの中島岳志は依然として、「左翼」週刊金曜日の編集委員のままだ。
 中川八洋の批判は月刊WiLLにも向けられていて、月刊WiLL=世界=前衛=しんぶん赤旗であり、「赤色が濃く滲む、保守偽装の論壇誌」と「断定して間違ってはいまい」とまで書いている(p.113)。
 これをそのまま支持するものではないが、月刊WiLLは、そして同編集長・花田紀凱は、かかる批判・見方もあることを自覚し、かつ中川八洋もまた執筆陣に加える(中川に執筆依頼をする)ことを考慮したらどうか。
 蛇足ながら、東口暁は月刊正論の「論壇時評」の現在の担当者でもある。月刊正論(産経新聞社)だからといって、すべてがまっとうな「保守」論客の文章であるわけではないことを、言わずもがなのことだが、読者は意識しておく必要がある。

1075/東谷暁・南木隆治・遠藤浩一と橋下徹。

 〇東谷暁は月刊正論2月号(産経)の連載「論壇時評」で、2頁を使って、橋下徹を批判している、または、警戒視している(p.196-)。後半は産経新聞に書いていたのと同じ内容で、<一粒で二度おいしい>(同じことを書いて2回原稿料を稼ぐ)とはこのことを言うのだろう。
 橋下徹を無条件に支持はしないし、彼の勝利はある程度は一種の「ポピュリズム」の結果だとも思うが(なお、対立候補も民放のローカルニュース・キャスターの経歴を持っていた)、有権者は、当選者が一人の場合、候補者が2人の場合は<どちらがよりましか>で、3人以上の場合は<いずれが最もましか>で判断せざるをえない。
 当選者を批判するのはよいが、では対立候補(大阪市の場合は平松某)が当選した方がよかったのか、対立候補だった者(平松某)についてはどう評価し、論評するのか、と東谷暁には問いたいものだ。

 〇同じ月刊正論2月号の南木隆治「橋下前知事が教育改革で見せた凄み」の中に、―この論考全般への言及は省略する―興味深い記述がある。
 ほとんど報道されていないと思うが、これによると、橋下徹は知事辞任直前の2011年10月20日に、「大阪護国神社秋季例大祭」に「公式参拝」している(p.77)。
 福岡政行は隔週刊・サピオ1/11・18号で「次の次の」総選挙に橋下徹は出馬して「橋下政権」が「誕生する可能性さえある」という(p.34)。こんな予測のが当たるかどうかは全く不明だが、万が一(?)橋下徹が首相になったとすれば、この人物は靖国神社「公式参拝」をするのではないか。
 〇再び月刊正論2月号に戻ると、遠藤浩一「維新前夜―英雄の条件」は、次のように橋下徹に言及している。
 「口が達者らしいことを除いて橋下氏について判断材料を持ち合わせていない小生としては、英雄に大化けするかの判断は留保」する(p.55)。
 <英雄に大化け>するかどうかは「英雄」の意味も含めてこの欄の筆者にも分からないが、橋下徹について「口が達者らしいこと」しか知らないとは、(政治)評論家としてはお粗末だろう。但し、おそらくはそれ以上の知識は持ちつつも、(櫻井よしこと同様に?)評価を「逃げて」いる、という方が正確だろう。

 判断材料が乏しいのはこれまでの橋下の経歴からしても仕方がなく、従って確定的な評価をし難いのはやむをえない、とは言える。天皇・憲法(九条)・防衛(・中国)等について、橋下徹は明言したことがないのは確かだ。
 だが、かなりの程度の想像はできる。例えば、朝鮮学校無償化に反対する動きを迅速に見せたのも自治体首長の中では橋下徹だった。上の「護国神社」参拝も一つの材料にはなるだろう。

1074/中西輝政「米中対峙最前線という決断―米軍が日本から消える日」(月刊正論)と産経。

 〇月刊正論2月号(産経)の中西輝政「米中対峙最前線という決断―米軍が日本から消える日」(p.86-98)は、米オバマ大統領の2011.11演説によるアメリカの対中強硬政策への明示的な転換、その具体的内容を軍事面を中心に月刊WiLL上よりも詳細に述べている。その代わり、日本自体についての言及は少ない。
 印象に残る部分二つのみを、以下に紹介。
 ・「中国が共産党一党独裁のまま市場経済に移行すれば国際社会にとってかつてない深刻な脅威となる」という二〇年前に生じた懸念は脳裏から離れず、国際社会や日本はいつそれに気づくのかと訴え続けてきた。「ようやくアメリカがそのことに気付」いたが、遅すぎたかもという懸念もある。中国が持ってしまった力を思えばこそだが、「責任はひとえに”日中友好”に浮かれ、何の国家戦略も持たずに中国をここまで強大化させてきた日本人の側にある」(p.87-88)。
 ・「アメリカの戦略転換」に対する中国の「巻き返し戦略」に日本はどう対処すべきか。「現状では殆どその能力を欠いている」。「対日工作に対する日本の政治と世論の抵抗力は極めて脆弱」で、「政治の決断」、「防衛力の顕著な増強」が不可欠だ。もう遅いかもしれないが、緊急性が高いのは「財政危機よりも社会保障よりも」「防衛力の増強」だ。併せて、集団的自衛権行使・憲法改正という体制・精神の整備をしての「国家戦略の大転換」が必要だ(p.98)。
 このあと、月刊WiLLで書いていたような条件つきの「楽観」的文章で終わっている。
 〇ところで、月刊正論2月号の表紙の最大の見出しは石原慎太郎の立川談志に関する文章で、中西輝政の上の論考名もあるが、屋山太郎(!)の文章のタイトルの下に小さく?書かれている。また、目次欄でも、リーダー・英雄論を主テーマ(特集)するかのような記載がされている(実際にそのような扱いだ)。
 石原慎太郎や立川談志を蔑視するわけでは全くないが、この二人に関係するものを最も大きく目立たせるとは、月刊正論の編集部はセンスがない。それとも、<お堅い>政治・社会論壇誌とのイメージを払拭したいのだろうか。また、「英雄」・「リーダー」特集も、あまり面白くない。
 産経新聞(社)や月刊正論は「保守」の側に立つ最大の、または少なくとも重要なメディアのはずなのだが、経営的にも岩波書店や朝日新聞社の方が安定しているだろうし、堅い芯と執拗さという点でも岩波や朝日新聞には劣っていそうだ。そして、的確に政治状況を把握しての的確な編集のセンスという点でも「左翼」メディアに負けているのではないだろうか。
 「保守」は相対的な少数派であり、今後も<勝てそうにない>のでないか、という悲観的見通しを持たざるをえないのも、(産経の個々の社員を論難はしないが)「保守的」雑誌・新聞等々の有力なまたは中心的な戦略・司令塔のような媒体が存在していないことにある。むろん、ゲリラ的なもの(?)を含む多数の「保守」系雑誌等のあることは知っているが、おそらくは(「大衆的」な)広がりに乏しい。
 中西輝政論考を冒頭に持ってき、また、<解散・総選挙>の実施を煽るような編集方針でないと、(本来は)いけないのではないだろうか。ないものねだりかもしれないような期待を、産経新聞(社)に寄せつつ(1/4記)。

1072/米中冷戦時代への突入-中西輝政論考。

 〇大した数を読んではいないが、昨年末に読んだ論壇誌類中の論考の白眉は、月刊WiLL2月号(ワック)の中西輝政「二〇二〇年は日本の時代」(p.30-47)だろう。実質的に巻頭論文であり、表紙でもこのタイトルが最右翼に掲示されている。もっとも、産経新聞を含む大手メディアは無視または軽視するかもしれない。
 「二〇二〇年は日本の時代」は文末の(条件つきの)楽観的予測から取ったものだろうが、内容的には、中西輝政が類似のことも指摘・主張している、月刊正論2月号(産経)中の、「米中対峙最前線という決断」(p.86-)というタイトルの方がよいかもしれない。
 以下は、月刊WiLLの方の要約的紹介。
 ・「非常に優れた保守の論客」との会話で中国の脅威を軽視しているのに驚き、日本の「保守の分岐点」はここにある、と感じた。「中国の脅威をどう考えるか」で保守の立ち位置も極北・極南ほどに離れる(p.30)。
 ・アメリカが日本に及ぼす害悪は日本「文明」に対するものである一方、中国のそれは、日本「国家」の存立を劇的に脅かしている。また、深刻度は同じでも切迫度に大きな差がある。日本の「保守」は「国家の危機」にこそ敏感になるべきだ(p.31)。
 ・近年の中国の軍事・外交動向に欧米諸国は「あらたな国家モデル」の提示と「世界覇権」への意図を感じ取った。多くの途上国は前者に影響を受けている。リビアも「中国モデル」継承者だったが、この国に介入した英米軍等にはそのモデルは「許さない」との意志があった。これは<米中新冷戦>構図の北アフリカ版で、「世界秩序」は歴史的に重大なとば口に立っている。この「中国の脅威」に「世界中で一番鈍感なのは、日本人」だ(p.32-33)。

 ・尖閣事件等々は中国の本質を分からせるに十分だった。「軍部による中国の国家支配がはじまっている」。アメリカ・オバマ大統領の2011.11.16演説は東シナ海・インド洋へと広がる「中国の動きを軍事的に牽制するため」のもの。かかる変化は遅すぎるものだが、「アメリカが中国との対峙を明言」したことは、それだけ「中国の脅威が増した」ことを意味する。「米中は間違いなく、冷戦時代に突入した」(p.34-35)。

 ・日本の政治家・官僚・国民はかかる「歴史の転換」を「正しく感じ取って」いるか。与野党もマスコミも「自らの生活が第一」と、「現状にしがみついて」いるのではないか(p.35-36)。
 ・日本が現状のままで2015年まで推移すれば、日本「国家」の存立自体が「非常に困難な状況に陥る」=「破局が到来する」可能性が大きい。理由はつぎの三つ。  ①財政・経済問題。経済力、世界競争力は凋落したまま。  ②安保・外交。遅くとも2020年代頃に尖閣は中国に奪われているだろう。現状を客観的に見れば、すでに尖閣の実効的支配権は中国が持っているとも言える。現状はすでに「平時」ではないが、日本政府の動きは鈍い。中国を囲むロシアも韓国もアジア諸国も軍備増強させている中で、「中国包囲網」の「もっとも弱い環」は日本だ。中国は当然に日本をターゲットにして包囲網打破を図るが、それは「軍事だけではなく、政治工作や世論工作など、あらゆる手段」を使ったものになろう。  ③「政党構造が融解し、国内政治がまったく機能していないこと」。これの最大の原因は政治家を含む国民全体が「生活が第一」と、「腐敗した個人主義の暴走に身を委ね、民主主義がまったく機能していない」ことだ。
 これで2/3くらいまで。

 〇反米=自立の主張はあってよいが、対中国を含む「反共」を無視・軽視してはならず、むしろ後者をこそ優先すべき旨は、これまで何度も書いてきた。  佐伯啓思の冴えた分析に感心しながらも(最近も読んではいるがこの欄で言及するのは少なくなっている)、なぜこの人は(アメリカまたは近代欧米思想を批判的に語るのに)コミュニズム・共産主義批判または(現存する社会主義国である)中国に対する批判的叙述が乏しいのだろうとも感じてきた。
 反米・自立が達成されたとしても、同時に別の国(中国)に従属した形式的「自立」に変わったのでは元も子もなくなる、とも最近に書いた。
 アメリカは防衛線を東南方向へと移し、朝鮮半島と日本は中国に任せる、従って日米安保条約は廃止される(日本が対中国防衛をするためには自主軍備によることが必要になる)との情報または予測も語られている。
 日々の生活に、それなりの既得権益の維持に、それぞれの国民やマスコミを含む会社・団体が汲々としている間に、日本「国家」自体が消滅する(これは日本の中国の一州・自治州化か北朝鮮の如き中国傀儡政権の日本における誕生を意味する)危機にあるのではないか。
 そのような中国「共産主義」国家の脅威を、中西輝政のように語る論者がもっと増えなければならない。親中・媚中・屈中の朝日新聞や同新聞御用達の大学教授・評論家等に期待できないことだけははっきりしているが。
 中国は「社会主義的市場経済」の国で共産主義国家でもそれを目指す国家でもない、という認識があるとすれば、それは根本的に間違っている。日本共産党・不破哲三が中国を「現存する社会主義国」と見なして中国の今後に期待していること(この欄でいつか触れた)は一つの例証ではあるだろう。
 上の続きの紹介は別の回で試みる。

1055/中西輝政「大東亜戦争の読み方と民族の記憶・上」より。 

 月刊正論12月号(産経)の中西輝政「大東亜戦争の読み方と民族の記憶・上」より。
 ・「歴史は本来、つねに書き換えられねばならない。なぜなら、歴史の本質とは、いかにすぐれた歴史書であっても、それが書かれた時代的制約を逃れることはできないものだからである」。(p.142)

 ・「もしも日本の内政がしっかりしていて、政府と軍部、陸軍と海軍の意思疎通や合意がしっかりとできていれば、あるいはアメリカに〔反日主義者だった〕ルーズベルト大統領が誕生していなかったら、さらには〔ゾルゲ、尾崎秀実等々による〕各種の対日工作が、天皇陛下にまで誤った情報が吹きこまれるほど日本の中枢を完全に巻き込んで成功裏に進んでいなかったら、事態は大きく異なっていただろう。このうちどれか一つの要因でも欠けていれば、おそらく日米開戦はなかったと思われる。日米開戦は、それほど『例外中の例外』の出来事だった」。(p.152)

 ・但し、「日米開戦は、……マクロ・ヒストリーの視点からは、やはり『宿命の出来事』だったと言うしかない」。(p.153)

1046/親北朝鮮・酒井剛の「市民の党」と菅直人・民主党。

 菅直人が存外にあっさりと首相を辞任したのは、北朝鮮と関係の深い団体への献金問題が明るみに出て、この問題が広く騒がれ出すと「もうもたない」と判断したかにも見える。もう少しは「粘る」=しがみつく可能性があると思っていた。
 その献金問題につき、隔月刊・ジャパニズム第03号(青林堂)に、野村旗守「菅直人/謀略の正体-亡国首相の原点を読み解く」、西岡力「菅直人首相の北朝鮮関連献金問題の本質」がある。
 両者から事実を確認しておくと、菅直人事務所と菅直人代表・民主党東京都連は2007-2009の三年間に、「市民の党」(後記)の「派生団体」(西岡p.146)である「政権交代をめざす市民の会」に6850万円の献金をした。また、鳩山由紀夫・小宮山洋子等の民主党国会議員の政治団体も計8740万円の献金をした。「市民の党」自体へも、上記三年間に小宮山洋子等の政治団体から計1693万円の献金があった。これらを合計すると、6850+8740+1693で、1億7283万円になる。野村p.70は「民主党関係団体」から三年間で「計2億5000万円も」と書いている。
 「市民の党」 は本名・酒井剛、通称?・斎藤まさしを代表とする。この男は除籍前の上智大学で「ブント系ノンセクト」ラジカル、退学後に「日本学生戦線」を結成、逮捕された1977年に社会市民連合の江田三郎(・のち江田五月)の選挙を手伝う。1979年に毛沢東主義を標榜する「立志社」を設立しカンボジアのポル・ポト派支援運動を展開、同年に社市連と社会クラブが合同した社会民主連合の初代代表・田英夫の娘と結婚する。1983年、田英夫・横路孝弘らと「MPD・平和と民主運動」を結成。野村によると、「過激派学生組織と市民派左翼政党の合体」だった(p.71)。
 MPD→「大衆党」→「新党護憲リベラル」のあと、1996年に酒井(斎藤)は「市民の党」を結成、1999年の広島市長・秋葉忠利、2001年の千葉県知事・堂本暁子、2006年の滋賀県知事・嘉田由紀子、2007年の参議院議員・川田龍平らの選挙を「勝手に応援」して結果としてすべて当選させた。
 「市民の党」機関紙は1988年に北朝鮮にいた田宮高麿のインタビュー記事を掲載したりしていたが、2011年4月の三鷹市議選候補として、田宮高麿と森順子(松本薫・石岡亮両名を欧州で拉致)を父母とする、2004年に日本帰国の森大志を擁立(落選)。
 かかる政治団体に対して民主党が三年間で1億円以上を、菅直人(都連を含む)がその「派生団体」に約7000万円を献金していたとは、相当に「いかがわしい」。また、そのような献金をする人物が日本国家の首相だったという歴然とした事実に、愕然とせざるをえない。まがうことなく、日本は「左翼」に乗っ取られていたのだ。
 江田五月は衆院議長・法相を経験し、横路孝弘は現在の衆院議長だ。酒井(斎藤)という「いかがわしい」人物は<権力>の側にいて、議会・選挙を通じた「革命」を展望しているらしい。あらためて戦慄する。
 恐ろしいのは、菅直人ら民主党による「市民の党」への献金問題は(それ自体は違法性が明瞭ではないためか?)、産経新聞・関西テレビの某番組とチャンネル桜しか報道していない(野村p.71)ということだろう。違法ではなくとも、菅直人や民主党の「左翼」性または親北朝鮮ぶりを明確に示すもので、ニュース価値はあると思うが、日本の主流派マスメディアは、自らが「左翼」的だからだろう、民主党には甘い。
 この問題を月刊正論はどう取り扱っているかと見てみると、10月号(産経新聞社)に、野村旗守「市民の党代表『斎藤まさし』の正体と民主党」、西岡力「拉致と『自主革命党』、そして『市民の党』の深い闇」と、同じ二人の論考が載っていた。ひょっとすれば、こちらを先に見ていたかもしれない(なお、北朝鮮の「自主革命党」に森大志は所属していた(いる)とされる。ジャパニズム上掲・西岡p.149-150におぞましい「綱領」?が紹介されている)。
 ところで、ジャパニズム第03号には、毎日新聞にも定期的に寄稿している西部邁の連載ものもある。さすがに「左翼」の文章ではないし、「民主主義を振りかざしてきた戦後日本は、多数制原則という民主主義のギロチンによって、おのれの首を刎ねようとしている」(p.168)という表現の仕方も面白い。
 但し、末尾にある「菅直人」の名前をもじった文章などは、言葉遊び的な要素の方が強い感じで、とても好感はもてない。

1044/石井聡と櫻井よしこ論考+政治部記者の法的感覚。

 〇すでに批判的に言及した月刊正論9月号巻頭の櫻井よしこ論考(談)を、産経新聞8/21の「論壇時評」で、石井聡は、こう紹介している。
 「『菅災』が大震災や原発事故対応にとどまらず、外交面でも国益を大きく損なったと批判するジャーナリストの櫻井よしこは『希望がないわけではありません』という〔出所略〕。民主、自民両党の保守系議員らが『衆参両院の各3分の2』という憲法改正の高いハードルを2分の1に下げることを目指す『憲法96条改正を目指す議員連盟』で既成政党の枠を超えた活動を始めており、これが日本再生への起爆剤となると期待しているからだ。/同時に櫻井は『不甲斐ないのは自民党現執行部』と、菅の延命を見過ごした野党第一党の責任を問うている。谷垣禎一総裁の下で『相も変わらず、元々の自民党の理念を掲げていない』と憲法改正に取り組む熱意の薄さを批判し、民主党政権と『大差のない政策しか提示し得ていない』と言い切る」。
 以上が全文で、「時評」と掲げるわりには論評部分はない。
 この石井聡や最近に吉田茂の「軍事参謀」だった辰巳栄一に関する著書(産経新聞連載がもと)を刊行した湯浅博等々のように、産経新聞社内には、屋山太郎や某、某等々の知名度はよりあると思われる者たち以上の知見と文章力を持った論客がいると、とくに最近感じているのだが、上の後半部分、とくに櫻井よしこが自民党は「民主党政権と『大差のない政策しか提示し得ていない』と言い切」ったことについて石井聡は、あるいは産経新聞編集委員たちは、どう評価しているのかを知りたいものだ。
 産経新聞は民主党を厳しく批判してきたが、自民党を積極的に支持してきたわけでもなさそうだ。それは、産経新聞が自民党の機関紙のごとく世間的に印象づけられることが経営的にもマズいと判断しているからかもしれないが、よく分からない。
 だが、もともと産経新聞は自民党よりも「右」だという印象を持つ者も少なくはないだろう。一方また、西部邁や西尾幹二のように、産経新聞に対する批判を明言する「保守」派論者もいる。
 ともあれ、櫻井よしこに対する遠慮などをすることなく、個人名であるならば、自民党は民主党と「大差がない」という櫻井の理解が適切なものかどうかくらいにはもう少し立ち入ってみてもよかったのではないか。日本の今後にとっても基本的な論点の一つだろうから。
 〇産経新聞の8/14社説は「非常時克服できる国家を」等と題うち、菅直人政権の非常時対応について、こう書いた。
 「戦後民主主義者が集まる国家指導部は即、限界を露呈した。緊急事態に対処できる即効性ある既存の枠組みを動かそうとさえしなかったからだ。安全保障会議設置法には、首相が必要と認める『重大緊急事態』への対処が定められているが、菅直人首相は安保会議を開こうとしなかった。重大緊急事態が認められれば、官僚システムは作動し、国家は曲がりなりにも機能したはずである」。
 菅政権を「戦後民主主義者が集まる…」と規定していることも興味深い(誤りではないだろう)。さらに、菅首相(当時)の「不作為」として、安全保障会議設置法にもとづく同会議の招集の不作為のみを挙げ、一部?に見られた、①災害対策基本法による<緊急政令>発布の不作為、②武力攻撃事態等国民保護法の震災・原発事故への適用の不作為、を挙げていないのは、私と同じ適切な法的理解に立っているように思われる。このような社説(産経の「主張」)の中でこれらの①②も問責していれば、おそらく産経新聞は大恥をかいていただろう。
 さらに遡るが、但木敬一(元検事総長)は産経新聞7/27でこう論じていた(一部要約)。
 ・内閣法6条は「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する」と定めるが、同法5条の1999年改正により閣議を内閣総理大臣が主宰する旨の規定に、「この場合において、内閣総理大臣は、内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議することができる」という文言が追加された。
 ・菅直人首相が「特に7月13日、官邸に記者を集め、脱原発を提唱したのは、内閣法の精神にもとるように思われる。エネルギー政策の転換は、国民生活、経済活動に幅広く、かつ深刻な影響を与える。従来の内閣の方針に明示的に反する政策の大転換は、まさに『内閣の重要政策に関する基本的方針』そのものではないのか。各国務大臣がそれぞれの観点から複眼的に閣議で論議すべき典型的事例であり、閣議を経ずして総理が独断で口にすべきことではない」。
 このように但木は、菅による「脱原発」との基本政策の表明を、内閣法(法律)違反ではないか旨を述べている。
 首相のあらゆる言動が(浜岡原発稼働中止要請も含めて)閣議による了解(または閣議決定)を必要とするかは、上の内閣法6条「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する」の射程範囲の理解または解釈にかかわる議論が必要だし、すでにあるものと思われる。「内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議」する権限が、「重要政策に関する基本的な方針」の決定・表明に関する<義務>なのかどうかも議論する余地はなおあるだろう。
 むろん政治的・政策的な検討や議論はなされてよいのだが、上で指摘しているのは「法的」検討の必要性であり、「法的」論点の所在だ。
 菅直人による(閣議を経ない)浜岡原発稼働中止要請や(閣議を経ない)「脱原発」基本政策表明がはたして法的にあるいは法律上許容されるのか、という問題があるはずなのだが、産経新聞の阿比留瑠比も含めて、どの新聞社の政治部記者たちも、そうした法的問題があるという意識自体をほとんど欠落させたままで日々の記事を書いているのではないか。これはなかなか恐ろしい事態だ、というのが先日に書いたことでもある。

1039/櫻井よしこの政治感覚は研ぎ澄まされているだろうか。

 一 月刊正論9月号(産経新聞社)の巻頭、櫻井よしこ「国家は誰のものか」(談)は主として菅直人批判に費しつつ、谷垣自民党批判と一定の議員グループへの期待をも語っている。
 7/15の民主党議員グループの行動に流れの変化を感じるとしつつ、櫻井は続ける。-「一方、不甲斐ないのは自民党現執行部」で、菅直人が延命できるのは「現在の自民党執行部の責任でも」ある。谷垣禎一を次期首相にとの世論が少ない「理由は明らか」で、「相も変わらず、元々の自民党の理念を掲げていないから」だ。「憲法改正、教育改革、国家の自立など」の点について、「民主党の菅、鳩山政権と大差のない政策しか提示し得ていない…」(p.60-61)。
 このような叙述には、首を傾げざるをえない。
 自民党(谷垣自民党でもよい)の「憲法改正、教育改革、国家の自立など」の「政策」は「民主党の菅、鳩山政権と大差のない」、という認識または評価は、いったいどこから、どのような実証的根拠をもって、出てくるのだろうか。谷垣「リベラル」自民党との距離感をずっと以前にも示していた櫻井よしこだが、櫻井もまた「相も変わらず」何らかの固定観念にとらわれてしまっているのではないか。
 自民党のしていることを無条件に擁護するわけではないが、親中・「左翼」の「菅、鳩山政権と大差のない」などと論評されたのでは(しかも上記のような基本的論点について)、さすがの自民党「現執行部」も文句の一つでも櫻井に言いたくなるだろう。
 この冷たい?自民党に対する態度は、2009年総選挙の前後にも櫻井よしこに見られたところだった。
 櫻井よしこが上の部分の後に書いているところによれば、彼女が期待するのは「谷垣自民党」ではなく、6/07に初会合があった憲法96条改正議員連盟に賛同しているような、「既成政党の枠を超えた」議員グループのようだ。
 櫻井よしこは、この議員連盟こそが「真に日本再生に向けた地殻変動の起爆剤になる」ことを期待し、「彼らの議論から党を超えた連帯意識が生まれ、真の意味で政界再編の機運が高まる」ことを願っている。その際、「民主党、自民党、そのほかどの政党に身を置」いていようと関係がない(p.61)。
 櫻井よしこが現自民党に対して<冷たい>のはこういう代替的選択肢を自らのうちに用意しているからだろう。
 しかし、思うのだが、かかる期待や願望を全面的に批判する気はないが、櫻井は見方が少し甘いのではないだろうか。
 2009年の時点でも、明言はなかったようでもあるが、自民党よりも<真の保守>に近いと感じていたのだろう、櫻井よしこには自民党ではなく「たちあがれ日本」や「創新党」に期待するような口吻があった。しかして、その結果はいったいどうだったのか?。
 反復にもなるが、当時に自民党への積極的な支持を明言しなかった保守論客は、客観的・結果的には、民主党への「政権交代」に手を貸している。現時点ではより鮮明になっただろう、民主党政権の誕生を断固として阻止すべきだったのだ。保守派は2009年に敗北したのだ。この二年前の教訓は、今年中にでも衆議院解散・総選挙がなされる可能性のある現時点で、生かされなければならないだろう。
 党派を超えた動き、それによる「真の政界再編」を夢見るのは結構だが、それらは次期総選挙までに間に合うのか??
 櫻井よしこは、とりあえずにでも現執行部の自民党を中心とした政権が成立するのがお好きではないようだ。そんな態度をとり続けていると、民主党「たらい回し」政権があと二年間も延々と(!)続いてしまうのではないか。
 二 櫻井よしこの週刊新潮8/25号の叙述の一部にも気になるところがある。
 民主党あるいは鳩山・菅政権の「政治主導」が失敗し、むしろ消極的で悪い効果をもたらしたことは、多言しないが、明らかだ、と思われる。政治主導あるいは官僚排除の姿勢によって、政治・行政運営に「行政官僚」をうまく活用することができなかったのだ。
 ところが、そういうより広い観点からではなく、櫻井よしこは「政治主導の確立と官僚主導の排除」を「公務員制度改革」の問題に矮小化し、「以前と比較にならない官僚の勝手を許す結果に陥った」と菅政権を総括している(p.139)。
 行政官僚をうまく使いこなせなかったことではなく、櫻井によると、<以前よりも官僚が強くなった(以前よりも「勝手を許」した)>のが問題だ、というのだ。
 このような事態の認識は、全体を見失っている。そして、このような認識と評価は、政官関係について「相も変わらず」屋山太郎から情報と意見を入手していることに原因があるようだ。
 「天下り禁止」の有名無実化を批判するのはとりあえず結構だが(なお、古賀利明の本にいつか言及する)、この問題に焦点を当てているようでは、議論の対象が「ちんまい」。問題把握のレベルが小さすぎ、視野狭窄があり、優先順位の序列化の誤りもある。
 すぐれた政治感覚と政治・行政実務に関するしっかりした知識をもった、信頼できる<保守>論客はいないものだろうか。憂うこと頻りだ。    

1020/国歌斉唱起立条例と日弁連会長・「左翼」宇都宮健児。

 産経新聞7/01付に、いわゆる大阪府国歌斉唱起立条例につき、賛成の百地章と反対の日弁連会長・宇都宮健児のそれぞれの発言が載っている。
 語ったことが正確に文字化されているとすれば、宇都宮健児は、「左翼」週刊紙・週刊金曜日の編集委員を務めていることからも明らかな、明瞭な<左翼>だし、論理・概念も厳密でないところがある。
 ①国歌の起立斉唱を「義務」とすることと「強制」することを同義に用いている部分がある。
 「強制」は行きすぎだ等のかたちで使われることがあるが、「左翼」の使う<強制>概念には注意が必要だ。すなわち、この条例問題に即していうと、条例によって「義務」とすることは、実力をもって起立させ、(口をこじ開けて?)歌わせることを意味するわけではないので、(もともと罰則もないのだが)「強制」概念には含まれないものと考えられる。より悪いまたはより厳しいイメージで対象を把握したうえで批判する(そして同調者を増やす)のは「左翼」活動家の常道だ。
 ②「戦前と同じ国旗国歌だから、軍国主義とか天皇制絶対主義といった社会のあり方と強く結びついている、と考える人もいるし、……」。
 ここでは、宇都宮が「天皇制絶対主義」という語(概念)を何気なく使っていることに注目したい。
 「天皇制絶対主義」とは、講座派マルクス主義(日本共産党ら)による戦前の日本の性格に関する基本認識・基本用語ではないか
 お里が知れる、というか、宇都宮はどういう歴史学を勉強してきたか、どういう歴史認識をもっているかを、はからずも示したものだろう。
 ③「起立・斉唱を強制するということは、その人の思想・良心の自由を侵害することになるから憲法違反ということだ」。
 何という単純な<理屈>だろう。すでに最高裁の三つの小法廷ともで起立・斉唱職務命令の合憲性を肯定する判決が出ており、もう少しは複雑で丁寧な論理を展開しているのだが、宇都宮はこれらの判決を知らないままでこの発言をしているのだろうか。
 といった批判的コメントをしたいが、問題なのは、かかる発言者が、日本弁護士連合会のトップにいる、という怖ろしい事実だ。
 戦前の日本を<天皇制絶対主義>と簡単に言ってのける人物が、弁護士業界のトップにいて、弁護士(会)を代表しているのだ。
 おそらくは長年にわたってそうだが、「弁護士」の世界(・組織)の中枢・最上級部分は「左翼」に握られ続けている。怖ろしいことだ。
 宇都宮は、誰にまたは誰の教科書で憲法を学習して司法試験に合格したのだろう。宮沢俊義だろうか、日本社会党のブレインでもあった小林直樹(かつて東京大学)だろうか。専門法曹、とりわけ弁護士は、特段の(司法試験以外の)勉強をしたり、一般的な本を読んでいないと、自然に少なくとも<何となく左翼>にはなっている。そして、宇都宮健児のごとく、日弁連の会長にまでなる人物も出てくるわけだ。再び書いておこう、怖ろしいことだ。
 ところで、月刊正論8月号(産経)の巻頭の新執筆者・宮崎哲弥は、思い切ったことを書いている。賛成・反対の議論のいずれにも物足りなさ・違和感を感じるとし、次のように言う。
 「いま問われ、論じられるべきは、ズバリ『愛国心を涵養するため、学校で国旗掲揚、国歌斉唱を生徒たちに強制してはならないか』ではないのか」(p.48)。
 日本の国旗国歌の沿革(それがもった歴史)を度外視して一般論としていえば、まさに正論だろう。また、沿革(それがもった歴史)がどうであれ、国会が法律で特定の国歌・国旗を決定している以上は、度外視しなくても、今日、少なくとも公立学校の「生徒たち」への「強制」(この語は厳格なまたはきちんとした「教育」・「指導」・「しつけ」等の別の表現にした方がよいが)がなされても何ら問題はないし、むしろすべきだ、という主張も成り立つ、と考えられる。

1013/竹内洋の「テレビ支配社会」と渡辺えり子・6/23NHKニュース。

 一 月刊正論7月号(産経)の竹内洋「(続)革新幻想の戦後史」は最終回。その最後の前の段落のタイトルは「幻想としての大衆とテレビクラシー」だ。そして、「エリート」・「知識人」は溶解しこれらの対概念の「大衆」も実体を喪失しているが、「想像された」・「幻想」としての大衆が猛威をふるっている、そのような大衆は「テレビカメラ」そのもので(「現代の大衆や知識人は…大衆幻想に媒介されたメディア大衆であり、メディア知識人」で)、「メタ大衆」を表象し代表する「テレビ文化人」によって「大衆的正当化」=「テレビ的正統性」の強化がなされ、「デレビクラシー」(テレビ支配)社会になる、等々と述べている。「滅びへの道」と題する最後の段落の最後の文章は、「幻想としての大衆にひきずられ劣化する大衆社会」によって日本は滅ぼうとしているのではないか、という旨だ。
 二 かつて大宅壮一はテレビによる<一億総白痴化>を予想したが、それを超えて、(日本のテレビ局は総体として日本の)社会と国家を解体しようとしている。
 戦後の悪弊の最大のものは、コマーシャル料で経営する民間放送会社かもしれない。この民放問題は別の機会にまた触れる。
 NHKも含めたテレビの影響力の大きさは、有権者の政治(・投票)行動への誘導力を見ても明らかで、それはほとんどのテレビ局が大手新聞社と(資本的・経営的にも)密接な関係にある、ということによって拡幅されている。
 NHK・全国的民間放送会社・大手全国紙の<政治>関係番組・記事に関与しているのはいったいどのような(政治的)素養・見識をもった者たちなのか。よくも悪くも、日本のこれまでの戦後・現在・将来はこの点にかかっているとすら感じる。
 むろん新聞社と結びついたテレビ局の違いは多少ともある。大まかにいって、テレビ朝日・朝日新聞やTBS・毎日新聞と、フジ・産経、日テレ・読売とでは傾向が同じでないことは、少しは見比べて(読み比べて)いると、分かってしまう。
 出てくる「テレビ文化人」にも違いかある。例えば、TBS系の日曜夜10時頃の報道系番組には、現在でも、渡辺えり子という女優(・劇作家?)が出ている。
 この渡辺えり子は、まだ鳩山由紀夫内閣の頃、<民主党政権は「国民」が作ったのだから、「国民」は暖かく見守り、育てていくようにしなければならないのではないか>とか(正確には記憶していないが)の旨を単純に(浅はかにも?)堂々と語っていた。

 なぜこんな人物を数人しかいないコメンテイター・「テレビ文化人」の一人にしたのかと訝ったものだが、のちに知ったところでは、渡辺えり子とは、吉永小百合等とともに、岩波ブックレット・憲法を変えて…という世の中にしないための18人の発言(岩波、2005)に出ている18人の一人(吉永小百合の他に、姜尚中・井上ひさし・井筒和幸・香山リカ等々)で、「憲法が最後の砦」、「戦争をしないという憲法を守れなかったら、もう世界共倒れです」ということを、浅はかにも?「反戦活動家じゃなくたって誰でも思う普通のこと」と付記しつつ書いているような人物だった(上掲ブックレットp.55)。日本共産党系の<九条の会>呼びかけ賛同者だろう。
 このような<思想(ないし信条)あるいは憲法観>を持っている人物だからこそ、おそらくはTBSの担当者はコメンテイターに起用したのだろう。
 最近はメインが北野たけしに代わったようで、「渡辺」色は強くは出ていないようにも見えるが(毎回観るヒマはない)、上のような人物を平気であえて起用するという<政治傾向>を持っているのがTBSだ、という印象に間違いはないと思われる(いちいち触れないが、土曜6時からの金平茂紀もじつはかなり露骨な(じっくりとニュアンスを感知しないと分かりにくいが)「左翼」信条の持ち主(政治活動家)だ)。
 あらためて述べるのも新鮮味はないが、このように、GHQ史観に基本的に立つ<日本国憲法体制>の擁護者、戦後<平和と民主主義>イデオロギーの信奉者、そして親中国・親「社会主義」・反国家・「反日」心情者が支配する放送局・新聞社が強い力をもって<体制化>し、多数派を形成していると見られることを、深刻かつ悲痛な思いで、<戦後レジーム>解体派=<保守>は認識しておく必要があろう。
 三 こと歴史認識に関するかぎり、あるいは「戦争」に関連するかぎり、NHKもまた、明瞭に「左翼」だ。田母神俊雄論文事件の際に<左翼ファシズム>の形成・存在を感じたが、NHKも、その一角を担っている。
 6/23の夜9時からのNHKニュースもひどかった。
 かつての沖縄での戦争(地上戦)による被害・戦没者問題と、現在の米軍基地の存在とをつなげて、まるで米軍基地の存在が「平和」=善ではなく「戦争」=悪に接近するものだということを前提とするような報道ぶりだった。それは、かつて1945年に姉を失い、戦後は米軍基地によって苦労させられたという話を、特定の同じ一人の人物に長々と語らせていた(または紹介していた)ことでも明瞭だ。NHKがあえて取材対象として一人だけ選択したその人物は、姉を殺した(米軍との)戦争を憎み、引き続いて、沖縄に駐留し続けている米軍をも嫌悪している。NHKはその人に<共感>を寄せて紹介し、そうした姿勢を前提として報道していたのが明らかだ。
 だが、言うまでもなく、現在の沖縄の米軍基地については多様な見方がある。「戦力」不保持の現憲法のもとでは、米軍基地がなかったら、沖縄はすでに中華人民共和国の一部になっていて(沖縄への侵攻を日本政府はオタオタして何もできなかったために)、現在よりも<悲惨な>状況に置かれていた可能性が高い、などということは、NHKのこの番組制作者の頭の中にはないのだろう。
 米軍基地を使ってアメリカが(アメリカのための)戦争をする、あるいは米軍基地の存在のゆえに<日本が戦争に巻き込まれる>というのは「左翼」の主張であり、デマだ。あるいは少なくともそういう批判的な見解・認識は成り立ちうるものだ。米軍基地の存在は沖縄、ひいては日本全体の「平和」のために寄与している、という見方は、少なくとも成り立ちうるものだ。
 NHKは(じつは菅内閣・日本政府の公式的見解でもある)そのような後者の見方をあえて排除し、それとは異なる考え方の持ち主一人だけを、意見表明者として長々と紹介した。NHKはとても、公正・客観的な報道機関ではない。
 原発問題についても、NHKだけを見ていたのでは、あるいは他のテレビ局を見てもそうだが、基本的・本質的なことはまるで分からない。NHKとの間の強制的な受信契約締結義務の規定(放送法)は削除し、民間放送(とくにその収益の方法)のあり方も含めて、抜本的な再検討をしないと、「テレビクラシー」によって本当に日本「国」は滅亡するに違いない。

1010/中谷巌は産経6/14「正論」で<脱原発>と言うが…。

 〇中谷巌が、産経新聞6/14の「正論」欄で最後にこう主張している。
 「文明論的にいえば、『脱原発』は、自然は征服すべきものだというベーコンやデカルトに始まる西洋近代思想を乗り越え、『自然を慈しみ、畏れ、生きとし生けるものと謙虚に向き合う』という、日本人が古来持っていた素晴らしい自然観を世界に発信する絶好の機会になるのではないだろうか」。
 知識人らしく?「文明論」的に語るのはけっこうだが、これはあまりにも単純でナイーヴな議論ではなかろうか。
 少しだけ具体的に思考してみよう。原子力(発電所)によるエネルギー供給が「ベーコンやデカルトに始まる西洋近代思想」の所産で、今やそれを「乗り越え」、日本古来の「素晴らしい自然観」を発信するときだ、と言うのならば、日本では毎年少なくとも1万人程度は死亡者(事故後3日を超えての死亡者を含む)を生む<凶器>でもある自動車の発明も「近代」の所産で、今やその製造も止めるべきではないのか。
 正確な統計は知らないが毎年必ず少なくない人命を奪っているはずの事故の原因となっている航空機の発明も「近代」の所産で今やその製造も止めるべきではないのか。きりがないが、交通事業に供されている鉄道という近代文明の利器もまた、殺人凶器になりうる「近代」の所産で、今やその供用も利用も止めるべきではないのか。さらにまた、IT技術自体も「近代」の最先端のものかもしれないが、<秘密の私的事項>の狭隘化とでもいうべき危険も内包しているというべきだろう。他にも<危険性>が(本来的・内在的に)付着した、「近代思想」の所産はあり、中谷巌も産まれたときからそれらの恩恵を受けているだろう。
 <脱原発>と言うならば、そしてそれを<西洋近代思想>の限界(または終焉の兆し?)と結びつけて何らかの<文明論>を語るならば、原発と自動車・航空機・鉄道等との<質的な>違いをきちんと明らかにしたうえで主張すべきだろう。
 もともと中谷巌の書いたものをまともに読んだことはなく、信頼するに足る人物とは全く思ってはいないのだが。
 〇脱原発・反原発といえば、西尾幹二(月刊WiLL7月号)や竹田恒泰(新潮45・7月号)はこちらの側の論者であるらしい。きちんと読んだうえで、何かをメモしよう。
 〇小林よしのりの変調とともに隔週刊・サピオ(小学館)を読まなくなったあと、その代わりにというわけでもないが、月刊・新潮45(新潮社)を読むことが多くなった。佐伯啓思の「反・幸福論」の連載があるからでもある。その他、月刊WiLL(ワック)や月刊正論(産経新聞社)も毎号手にしているので、すべてを読むことはできていないにしても、佐伯啓思の論考とともに、何がしかの感想をもち、コメントしたくなった点もあったはずだが、けっこう重たい、簡単にはコメントしたり概括したりできないものもあるので、この欄にいちいち書き込めてはいない。隔月刊・表現者(ジョルダン)の諸論考等も同様。

 それにしても、日本の政治(・政界)の、あるいは「国家中枢」の<溶解ぶり>(メルト・ダウンだ)の中で、上に挙げたような雑誌の<言論>はいったいいかなる程度の影響力を現実的に持っているのだろうか、という虚しい気分もなくはない。そんな現実的効用とは別に、何かを語り、論じたくなるのが、知的生物としての人間の性なのかもしれないが。但し、各雑誌(・発行会社)の<そこそこの>収益のための原稿・論考にすぎなくなっているのであれば、それに付き合わされる読者は何というバカだろう。 

0995/月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは。

 月刊正論4月号(産経新聞社)で編集長・桑原聡いわく-「…民主党内閣が、憲政史上最低最悪の内閣であることは多くの国民が感じているところだろうが、かりに解散総選挙が行われ、自民党が政権を奪回したとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも、わが国を元気にする知恵も力もないように思える」(p.326)。
 同誌の宣伝紹介記事(産経3/01付)で同じく桑原聡いわく-「国民の大半が期待しているのは、この党〔民主党〕が一日も早く政権の座から降りてくれることだけだ。しかし、かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」。
 産経新聞社内の出世コースを歩んでいるのかもしれないこの桑原聡のこのような<政治的>判断を基準にして、産経新聞全体は別としても、当面の月刊正論は編集されていくものと見られる。

 はたして、かかる立場を編集長が明記することはよいことなのかどうか。それよりも、その<政治的>判断は適切なものなのかどうか。

 2009年総選挙前に、自民党はダメだ、(よくは分からないが、新しい)民主党は期待できそうだ、というムードを煽ったのは朝日新聞を含む大手メディアだった。櫻井よしこすら、自民党に対して冷たかった(民主党内閣成立後も<期待と不安が相半ばする>旨を書いていた)。

 現時点で、自民党を「賞味期限の過ぎた政党」と断定して叙述するこの桑原聡のような、大(?)雑誌、しかも<保守系>とされる雑誌の姿勢は、どのような政治的効果をもたらすだけだろうか。

 2009年に自民党離れが生じ、かりに民主党に投票しなくとも<保守派>国民の中に<棄権(無投票)>行動がある程度は生じたと推測されるように、上のような断定は、反民主党(同党政権)の見解をもった国民に対して、自民党にも投票せず、<棄権(無投票)>するという行動を誘発する方向に機能するだろう。そしてそれは、民主党に有利に働くだろう。

 かりに現在のような政党状況のままで解散・総選挙が行われた場合、そのような投票行動は、日本を<良い>方向に導くのだろうか? 民主党の延命を助けるだけではないのか。
 それに、上のような断定は、<右>からの自民党は「第二民主党」、「民主党と同根同類のリベラル」という批判と共鳴しているとももに、<左>からの、例えば日本共産党(・社民党)のいう、民主党(内閣)は<第二自民党(内閣)>だ、という批判とも共振している。

 桑原聡は、上のように、その主張は、日本共産党(・社民党)のそれとも共通することを、いかほど意識しているのだろうか。代表的<保守系>雑誌が、こんな感覚の編集長に率いられているのだから、内容に奇妙な部分が出てくるのもやむをえないだろう。

 月刊正論4月号のウリは「保守論客50人が提言~これが日本再生の救国内閣だ!」で、屋山太郎のような「保主論客」とは思えぬ者を含む人々に、それぞれが構想する内閣の布陣(構成)を語らせている。

 まじめによく考えられており、かつ現実味がなくはないと感じられる「構想」もあるが、雑誌の全体としていえば、<お遊び>の類だ。保守的論者による保守派政治家・評論家類の「人気投票」のような観もある(一部には文章を書かせているが、じっくりと読みたいものがあるものの、1.5頁~2頁に過ぎず、短か過ぎる)。

 八木秀次は「公務員制度改革担当相」に屋山太郎をあてる。筆坂秀世は法務大臣に長谷部恭男(東京大学教授)、「領土問題担当相」に志位和夫(日本共産党委員長)をあてる。野口健は外務大臣に岡本行夫、防衛大臣に前原誠司、環境大臣にC・W・ニコルをあてる。河添恵子は首相に出井伸行、官房長官に辛坊治郎をあてる。……。

 重ねて桑原聡はこの雑誌の最後でこう書く-「筆坂秀世氏が領土問題担当大臣に志位和夫氏を指名しているが、現在の国難は、これぐらいの大胆さがないと乗り越えられないのではないか。いかがだろうか」(p.326)。「賞味期限の過ぎた」自民党(中心)内閣よりも、志位和夫を閣僚の一人とする<救国>内閣の方が、桑原には「よりまし」であるらしい。

 現実的実現可能性はさておくとしても、この桑原聡は正気で、「いかがだろうか」などと暢気に訊いているのだろうか。

 (少なくとも日本の)ジャーナリズム・ジャーナリストの類は(マスメディア一般がそうだが)、総じては、または基本的には、国家・社会・国民を「正」・「善」・「美徳」の方向に導こうなどという気構えはなく、そもそもが何が「正」・「善」・「美徳」かなどという思考をめぐらしもせず(価値相対主義・一種のニヒリズムに陥るとこうなる)、何が<話題になるか>、何が<面白いか(興味を惹くか)>、そして何が<相対的によく(多く)売れるか(儲かるか)>を基準にして雑誌等を編集しているように見える。

 例えば「適切さ」はもちろん現実の実現可能性よりも、<面白い>かどうか、<話題になる>かどうか、が基準になっているように見える。

 産経新聞社の新(?)編集長のもとでの月刊正論も(いい論考も少なくないのに)、そのような弊を免れていないようだ。

0983/「自由」は「民主主義」の根本か-櫻井よしこ・月刊正論3月号。

 屋山太郎の名も表紙に掲げる月刊正論3月号(産経新聞社)は、第26回正論大賞受賞記念論文と銘打って、櫻井よしこ「国家としての大戦略を確立せよ」を掲載する。

 内容に大きなまたは基本的な異論はないが、インドも同じ立場に立つ「価値観外交」をせよ、そのための「憲法、法制度の改正」を急げ、というのが確立すべき「国家としての大戦略」だとの基本的趣旨のようで、新味はない。

 また、気になる部分もある。以下はその例。

 第一に、「日本人として、中国や韓国では勿論のこと、米国においてさえも時に感じる歴史認識の相違は、インドには存在しない」とある(p.61)。
 インドうんぬんを問題にしたいのではない。「米国においてさえも時に感じる歴史認識の相違」とは、アメリカに対して相当に甘い見方ではなかろうか。

 同じ月刊正論3月号の書評欄にアーミテージ=ナイ・日米同盟vs.中国・北朝鮮(文春新書)が採り上げられているが(この新書は未読)、紹介(・書評)者の島田洋一はこの本の中で、J・S・ナイ(クリントン政権CIA国家情報会議議長・国防次官補、ハーバード大学教授)は「2010年は民主党政権の閣僚は1人も靖国参拝をしていませんね。それはとても良いステップであり、重要だと思います」と述べていると紹介して「余計な」「アドバイス」だ(アーミテージは賢明にも沈黙を保っている)とコメントしている。

 これは一例だと思うが、かの戦争や東京裁判、首相靖国参拝等にかかわる米国と日本の間の「歴史認識の相違」は、少なくとも日本の<ナショリスト派保守>(と中川八洋の「民族派」との語を意識して呼んでおく)にとっては、「米国においてさえも時に感じる」というようなものではなく、より根本的なものがあるのではなかろうか。

 櫻井よしこは民主党閣僚が誰一人として靖国参拝をしなかったことを諒とし、「良いステップ」だと評価する評論家だったのだろうか。アメリカを含む(非中国・反中国の)<価値観外交>の重要性を説きたいがために、ここではアメリカの主流派的「歴史認識」への批判・警戒を薄めすぎているように見える。

 第二に、「民主主義の根本は人間の自由である。言論、思想信条の自由、信教の自由を含む基本的人権の確立である」とある(p.52)。

 中国の「民主主義」の観点からの「異質さ」を語る中で述べられている文章だが、この簡単な叙述には、率直に言って、非常に驚いた。

 「基本的」がつく「基本的人権」という語は欧米にはない日本的なもので同じ<価値観>の欧米諸国に普遍的なものではない(「人権」や「基本権」はある)、田母神俊雄が事実上免職された際に櫻井よしこ(や国家基本問題研究所)は「言論、思想信条の自由」のためにいかなる論陣を張ったのか、「シビリアン・コントロール」という概念の使い方に文句をつけていたが田母神俊雄を擁護しはしなかったのではないか、といった点は細かなこととして、今回はさて措くこととしよう。

 驚いたのは、「民主主義」と「自由」の関係に関する簡単な叙述だ。<「民主主義」の根本は「自由」だ>というように簡単に両者を関係づけるのは、「民主主義」や「自由」というものに対する深い洞察・知見のないことを暴露していると思われる。

 この両概念をどのような意味で用いようと自由勝手だとも言えるが、この両者は別次元のもので、どちらかがどちらかの「根本」にある、というような関係にはないのではないか。正論大賞受賞者ならばいま少し慎重な用語法をもってしてもよかったのではないか。

 より詳しくは(といってもこの欄に書く程度の長さだろうが)、別の機会に述べる。

0966/櫻井よしこはいつから民主党政権を「左翼」と性格づけたのか?

 〇月刊正論2月号(産経新聞社)の中宮崇「保存版/政治家・テレビ人たちの尖閣・延坪仰天発言録―そんなに日本を中国の『自治区』にしたいですか」(p.184-191)に「仰天発言」をしたとされている者の名を資料的にメモしておく。

 田中康夫(新党日本)、福島瑞穂(社民党)、服部良一(社民党)、小林興起(民主党、元自民党)、田嶋陽子(元社民党)、大塚耕平仙石由人(民主党)、浅井信雄(TBSコメンテイター)、山口一臣(週刊朝日編集長)、三反園訓(テレビ朝日)、高野孟伊豆見元(静岡県立大学)、田岡俊次(朝日新聞)、金平茂紀(TBS)、NEWS23X(TBS)。
 なお、CNN(中国)東京支局は「テレビ朝日」と「提携関係」にあるが、この事実を記す「ウィキ」等のネット上の書き込みは「即座に削除隠ぺい」されてしまう、という(p.189)。
 〇隔月刊・表現者34号(ジョルダン、2011.01)の中で西部邁は、戦後日本人が「平和と民主」というイデオロギー(虚偽意識)で「隠蔽」した、その「自己瞞着の行き着く先」に「左翼のダラカン(堕落幹部)たち」による「民主党政権」が登場した、と書く(p.181)。
 戦後憲法体制の「行き着いた」果てが現民主党政権で、自民党→民主党への政権交代に戦後史上の大きな<断絶>はない、というのが私の理解で、西部邁もきっと同様だろう。だが、民主党政権は自民党のそれと異なり、明瞭な「左翼」政権だ。この旨も、西部邁は上で書いていると見られる。
 「左翼」政権といえば、櫻井よしこ週刊新潮12/23号(新潮社)の連載コラムの中で、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」と書いている(p.138)。
 はて、櫻井よしこはいつから現在の民主党政権を「左翼政権」と性格づけるようになったのだろうか?

 この欄で言及してきたが、①櫻井よしこは週刊ダイヤモンド11/27号で「菅政権と谷垣自民党」は「同根同類」と書いた。→ http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/1950116/

 自民党ではなくとも、少なくとも「谷垣自民党」は<左翼>だと理解しているのでないと、それと「同根同類」のはずの「いま堂々と日本に君臨する」菅政権を「左翼政権」とは称せないはずだ。では、はたしていかなる意味で、「谷垣自民党」は「左翼」なのか? 櫻井よしこはきちんと説明すべきだろう。
 ②昨年の総選挙の前の週刊ダイヤモンド(2009年)8/01号の連載コラムの冒頭で櫻井よしこは「8月30日の衆議院議員選挙で、民主党政権が誕生するだろう」とあっさり書いており、かつ、民主党批判、民主党に投票するなという呼びかけや民主党擁護のマスコミ批判の言葉は全くなかった。

 ③民主党・鳩山政権発足後の産経新聞10/08付で、櫻井よしこは、「鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」と書いた。「期待と懸念」を半分ずつ持っている、としか読めない。

 ④今年に入って、月刊WiLL6月号(ワック)で、櫻井よしこは、こう書いていた。-「「自民党はなすべきことをなし得ずに、何十年間も過ごしてきました。……そこに登場した民主党でしたが、期待の裏切り方は驚くばかりです」。期待を持っていたからこそ裏切られるのであり、櫻井よしこは、やはり民主党政権に「期待」を持っていたことを明らかにしているのだ。→ http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/1603319/

 それが半年ほどたっての、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」という櫻井よしこ自身の言葉は、上の①~④とどのように整合的なのだろうか。
 Aもともとは「左翼」政権でなかった(期待がもてた)が菅政権になってから(?)「左翼」になった。あるいは、Bもともと民主党政権は鳩山政権も含めて「左翼」政権だったが、本質を(迂闊にも?)見ぬけなかった。
 上のいずれかの可能性が、櫻井よしこにはある。私には、後者(B)ではないか、と思える。

 さて、櫻井よしこに2010年の「正論大賞」が付与されたのは、櫻井よしこの「ぶれない姿と切れ味鋭い論調が正論大賞にふさわしいと評価された」かららしい(月刊正論2月号p.140)。

 櫻井よしこは、「ぶれて」いないのか? あるいは、今頃になってようやく民主党政権の「左翼」性を明言するとは、政治思想的感覚がいささか鈍いか、いささか誤っているのではないか? 

 厳しい書き方をしているが、櫻井よしこを全体として批判しているのではない。例えば、憲法改正(とくに九条2項削除)のための運動・闘いの先頭に立ってもらわなければならない人物の一人だと承知している。

 佐伯啓思に対しても、西尾幹二に対しても、西部邁に対しても、盲目的に従うつもりは全くない(それにもともとこれら三人の論調は同じではない)。<保守教条>主義者・論者であってはならないとの基本的立場は、櫻井よしこ等の他の<保守>論客に対しても、変わりはない。
 さらには、<保守>論壇・論客の中に、ひょっとして中国あるいは米国の<謀略>として送り込まれた人物もいるのではないか、くらいの警戒心をもって、<保守>系雑誌等の執筆者の文章や発言は読まれるべきであろうとすら考えている。
 

0964/「ミニ・インテリ」層=高学歴・ホワイトカラー・都市居住勤労者の政治責任。

 月刊正論(2011年)2月号(2010.12、産経新聞社)の連載、竹内洋「続・革新幻想の戦後史」は引き続いて石坂洋次郎に言及しているが、その中で、藤原弘達の1958年の著にある一農村青年の言葉を引用している。

 ・社会党支持の方が「何だかスマートでハイカラなような」気がする。保守党は「古さ」を連想させて「ツマラナイ」気がする。都会の若者たちは「皆社会党を支持しているそうですね」。

 竹内洋はこの発言こそ「草の根革新幻想の正体」を示したものだとする(p.278)。あえて佐伯啓思・日本の「思想」(NTT出版)の二分(p.164)を借りれば、戦後の「公式的価値」となった「顕教としての普遍的価値」を「古い」「日本的」観念=「密教としての日本的習慣」よりも愛好しようとするメンタリティが「革新幻想」でもあろう。

 (なお、竹内も意識しているだろうように、「革新幻想」の中核は、「社会主義幻想」だ。あるいは、「革新幻想」は「社会主義幻想」につながっていく性質をもつ。)

 竹内洋は、綿貫譲治の論文(1976年著に所収)の、データにもとづく次のような知見も引用している(p.278-9)。

 ・「ホワイト・カラー層」の「左翼政党(とくに日本社会党)」支持の高さは「顕著」。欧米の「ホワイト・カラー層」は大半が「右派社会党」を支持し、「保守党や自由党」支持率がもっと高いのと異なる。

 ・所得階層と政党支持の間に明確な関係はない。「教育程度と政党選択」の間には「ほぼ明瞭な相関関係」がある

 ・1930年~1940年に生まれた者(調査当時は二十歳台)や「戦後教育を受けた」者の間には日本社会党の支持率が高い。

 以上の諸指摘は、感じてきたこととも合致しており、きわめて興味深い。

 1930年以降に生まれ、「戦後教育」も受け、「教育程度」が高く、「ホワイト・カラー層」には日本社会党支持率が高い、というわけだ。

 戦後に「顕教としての普遍的価値」となったものは日本国憲法が示しているような諸原理だが、この<新憲法>教育を受けた者は、それ以前の者たちよりも「左翼的」になった、というのは傾向としては間違いないだろう。<新憲法>教育を受けたということは(とりわけそれが占領期であれば)、日本はかつて悪いことをした(日本軍国主義は<侵略戦争>をした)ということを客観的な事実として<信じ込まされた>ということを意味する。このような人々が、<護憲>の(日本軍国主義復活阻止の)社会党の支持に傾斜するのは自然だったともいえる。

 もちろん、今日的に見れば、日本国憲法は必ずしも日本の伝統・歴史につながらない「借り物」で、非武装条項も米国の占領初期の政策による「押しつけ」であることは明らかになってはきている。

 しかし、いわば<ミニ・インテリ>たち、農漁村というよりも都市在在の、「教養・学歴」があるとの自意識をもつ者たち、が社会党を支持するという形で示した「革新幻想」(>社会主義幻想)は、今日まで続いてきている、と思われる。
 いわゆる<団塊世代>(狭くは1947-49年生)よりもそのすぐ上の世代において社会党(または日本共産党を含む「革新」政党)支持率は一貫して高かった、というのが何回も新聞で見てきた世論調査の結果だった。この世代には、この欄で何回か用いた、1930年代前半=昭和一桁後半生まれ(1930-1935生)という、感受性の豊かな青少年期に<過去の日本=悪>との占領期教育にどっぷりと浸った<特殊な世代>の者たちが含まれる(典型として、大江健三郎)。小林よしのりは(教科書スミ塗りを経験した)「<小国民>世代」と言っているが、「国民学校」生徒経験者という意味では、こちらの方が厳密かもしれない。

 さて、今日まで日本国憲法の改正が行われていないのは、日本社会党等の改憲反対政党(日本共産党を含む)が国会で1/3以上の議席を占め続けたからであり、ひいては、上記の<ミニ・インテリ>たち、戦前に比べれば飛躍的に量を増した都市勤労大衆のうちの、学歴が相対的に高い「ホワイト・カラー層」等、が日本社会党等を支持したからだ。

 日本国憲法改正ができなかったのは、上のような<ミニ・インテリ>たちの選好政党に基本的原因があった、と言って過言ではない。彼らは、高度経済成長のもとで、自分と自分の家族のための物質的豊かさの向上を享受しつつ、その<安逸>(および努力すれば報いられるとの達成感)を守るために、<戦争・軍事>に関する問題については真摯に考えることなく思考停止させ、<戦争・軍事>問題を活性化させそうな、キナくさく「古い」と感じられた保守党=自民党には投票しなかったのだ。

 そのような<ミニ・インテリ>たちの購読する新聞はたいていは朝日新聞で、朝日ジャーナルがあった頃はそれも読み、かりに自分の勤務・仕事とは無関係であっても、少なくとも頭の中だけでは(観念的には)「進歩的」気分に浸り、意識の中だけでは<ミニ・エリート>たることができた。

 そのような世代または「層」は<団塊世代>をもまたいで、なお広範に存在するように見える。「古い」自民党政治からの訣別に拍手を送り、「新しい」民主党政権を大歓迎したの国民たちの中に、このようなかつての<ミニ・インテリ>たち(および彼らの影響を受けた者たち)は多かったように見える。

 民主党政権の成立とその後の成りゆきの責任を負うのはむろん最終的には有権者国民であり、民主党に投票した者たちだが、その民主党支持者(投票者)の中にはオールド「社会党支持者」たちも少なくなかったと見られる。

 戦後日本の歴史を概括しようとするとき、日本が<衰亡>に向かっているとすれば、上記のような<ミニ・インテリ>たち=オールド「社会党支持者」たちの<責任>はきわめて大きい。このことは特筆しておきたい。

 もちろん、そのような<ミニ・インテリ>たちを生んだ、学校教育(=教師)、マスメディア、そしてこれらをも指導した(一時期はGHQの占領政策に「迎合した」)本来の「知識人」たち、あるいは学者・文化人の類の<責任>は厳しく指弾されなければならない。

 <責任>が追及されるべきいわゆる<進歩的文化人>の特定と言動内容、GHQや「社会主義」諸国との関係等を明らかにしておくことは、「戦後日本」の総括にとっての重要な課題の一つに他ならないと思われる。

0957/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」。

 一 佐伯啓思・日本という「価値」(NTT出版、2010.08)の第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」は、月刊正論2010年6月号(産経新聞社)の「『保守』が『戦後』を超克するすべはあるのか」に「多少の加筆修正」をしたもの。

 月刊正論の原論考ついては、この欄の5/07、5/17、5/18の三回ですでに紹介・言及している。不十分なコメントしかできていないが、単行本の一部となって読み直しても、<保守派>志向の者にとって、無視できない、重要な論点・問題を提起しているようだ。

 日本の「国民精神」は「西欧的なもの」と「日本的なもの」の間の、「もはや深刻なディレンマとして受け止めることができなくなってしまった」ディレンマとして表象されてきた。この「葛藤を引きうけること」によるしか「精神の活力もバランスもえることはできない」ので、「保守の立場とは、まずはこのディレンマを自覚的に引き受けるということから始めるほかない」(p.202-3)。

 日本の保守派(志向者)ははたして、「このディレンマを自覚的に引き受けるということから始める」ことをしているのだろうか? そしてまた、なぜ、この佐伯啓思論考を手がかりにしたような議論や論争が<保守論壇>で起きないのか?

 二 あらためて、この論考を最初から、メモをしながら読み直す。なお、今年2010年の4月頃に初出論文は執筆されたと見られることは留意されてよいかもしれない(まだ鳩山由紀夫首相で、まだ2010参院選民主党敗北も明らかでなかった。むろん尖閣問題も起きていない)。

 ・鳩山政権の支持率は下がっているが、自民党への期待が高まってもいない。その理由は「この政党の依って立つ軸のありかが全くもって不明な点」にある。但し、民主党も「同じ」で、「経済政策や外交政策の基本的な立場が見えない」(p.178)。

 ・民主党=リベラル、自民党=保守との図式ぱありうるが、「リベラル」・「保守」の意味自体が明快ではない。福祉重視=リベラル、市場競争重視=保守という「何とも大ざっぱで、しかも誤った通念」が流通した。これによると、「構造改革」をした自民党は保守、民主党は「その反動でリベラル」ということになる。だが、「構造改革」という「急進的改革」者を保守と称するのは奇妙で、それに「抑制をかける」ものこそを「保守」というべきだ。また、「過度にならない福祉」は「保守」の理念に含まれているはずだ(p.179-180)。

 ・下野した自民党の一部で「保守の原点」、「保守の再定義」、「真正の保守」等が語られているのは結構なことだ。では、「保守の原点に立ち戻る」とはどういうことなのか?(p.180)

 ・「保守」の立場の困難さの一つは、「改革」・「チェインジ」の風潮と現実のもとにあることだ。だが、現在の「変化が望ましい方向のものだという理由はどこにもない」。「変化」の意味を見極め、「変転著しい」「変化」に「振り回されない軸を設定する」ことこそが今日の政治の課題=「保守」という立場、だ(p.180-1)。

 とりあえず、以上(つづく)。

0927/<左翼・売国>政権打倒のための総選挙実施を-月刊正論12月号一読後に。

 1.月刊正論12月号(産経新聞社)内をいくつか読んでいて、とくに中西輝政論考によってだろうか、尖閣諸島に非正規の中国実力部隊とともに多数中国人が上陸し始める、海上保安庁は、あるいは自衛隊は何をできるか、中国の正規軍(・軍艦)が(中国にとっての領海内に)入ってくる、という事態や問題が現実になりうるようで、いくぶんかの戦慄を感じざるをえない。

 2.月刊正論12月号は西部邁、中西輝政、西尾幹二、櫻井よしこの4人揃い組。これに渡部昇一、佐伯啓思あたりも加わっていれば、<保守>論者の大御所のオン・バレードだ。多少は皮肉も含まれており、似たような名前がいつも出てくるなぁ、と思いもする。

 <左翼>の側には、いろいろな戦線・分野で、いろいろな幅をもって、もっと多様な書き手、論者がいるのではないか。どうも心許ない。

 といったことを書いている余裕は本当はないのかもしれない。

 3.よく見る名前だが、<尖閣>または<9・24>をテーマとする論考に、主張内容の違いがあるのが分かる。むろん、基本的なところでは(対中国、対民主党政府等)、一致があるのだろう。だが、現在において何に重点を置いて主張したいかが論者によって同じではない。
 頁の順に、巻頭の西部邁「核武装以外に独立の方途なし」(p.33)は、タイトルに主眼があり、アメリカへの不信感を述べつつ、「自分らの国家を核武装させ、…他国への屈従から逃れてみせるしかない」と主張する。その過程で、「日米同盟の強化なしには尖閣の保守もなし」と唱える言説は、「いわゆる親米保守派」のそれで、「本当の噴飯沙汰」と明記している(p.36)。
 中西輝政「対中冷戦最前線、『その時』に備えはあるか」(p.48~)は、中国による「実際の軍事力の行使」=「危機の本番」は「年末から年明けにも」と予想する(p.50)。詳細には触れないが、具体的な想定等には、冒頭に記したように、戦慄と恐怖を覚えるところがある。

 中西によると、「日本人の精神の目覚め」を阻止するための、中国による「対日世論工作」が今後、活発化する。より具体的には、①「反米基地闘争」の「さらなる高揚」による「日米同盟」関係の「離間」、②「日本の言論界そのものに対する統制」、③与党・民主党に「親中利権派議員」を大量に作ること、だ(p.54-55)。

 ①~③のすべてがすでにある程度は、②に至ってはすでに相当程度に、奏功しているのではないか。

 中西輝政がまとめ・最後に述べるのは、次のようなことだ。

 <「民主主義」や「人権」は中国(・共産党)の「最大の弱点」なので、「同じ民主主義体制の国々」とともに中国にこれらの重視を対中政策の第一とすべき。「中国の民主化」という「人類社会」の「大義」に向かって協力するのが重要で、それは「大きな武器」になる。>(p.56)

 西部邁のいう「親米保守」派に中西輝政が入っているのかどうかは知らないが、中西輝政も憲法改正や核武装論に反対ではないだろうにせよ(むしろ積極的だ)、西部邁と中西輝政では、同じ状況・時期における具体的な主張は同じではない、と理解せざるをえないだろう。

 西尾幹二「日本よ、不安と恐怖におののけ」(p.74-)は、中国の分析、日本のマスメディア批判のあと、日本人の精神の対米従属性(+アメリカは本気で尖閣を守る気はない)を嘆いて終わっている。いわく-「この期に及んで自分で自分の始末をつけられない日本国民」をアメリカ人は「三流民族」だと見ているだろう、「否、…私も、日本国民は三流民族だとつくづく思い、近頃は天を仰いで嘆息しているのである」(p.81)。

 西尾のものは、同感するところなきにしもあらずだが、一種の精神論のごときで、最もリアリスティックなのは中西輝政の論考だ。西部邁は<核武装>に至る、または<核武装論>を議論するに至る、必要不可欠の過程を具体的に示してもらいたい。今どきのこの主張は、正しくとも、時宜にはかなっていない<空論>になるおそれが高そうに見える。

 もっとも、佐伯啓思ならば決して書きそうにない中西輝政の最後の主張も、正しくとも、やや綺麗事にすぎる、あるいは、米国も欧州諸国もそれぞれの国益を最優先するとすれば、多少は非現実的なところがあるかもしれない。「民主主義」と「人権」の主張の有用性・有効性を否定はしないが、はたして現実に<自由主義>諸国はそのように協力してくれるだろうか。

 中西輝政論考のポイントはむしろ、究極的(最終的)には<自衛隊の「超法規的」な軍事行動に期待するしかない>という想定または主張にあるように思われる(p.53-54)。

 4.上の三人ともに現民主党政府に批判的だろうが、誰もひとことも書いていないことがある。

 それは民主党(菅直人)政権を変えて<よりましな>内閣を作る、という、核武装や憲法改正よりも、現実的な論点・課題だ。

 朝日新聞の社説ですら、菅直人への首相交代時に<できるだけ早く>国民の信を問う(=総選挙する)必要性を(いちおうは)書いていた。

 尖閣問題への対応を見ても、この内閣が<左翼・売国>性をもつことは、ますます明瞭になっている。

 参加しないで言うだけするのも気が引けるが、10/02と10/16の二回の集会・デモのスローガンはいったい何だったのだろう。その中に<菅内閣打倒!>・<売国政権打倒!>・<即時総選挙実施!>などは入っていたのだろうか。

 現実的には、対中「弱腰」以上の、「親中」・「媚中」以上の<屈中>政権をこれ以上継続させず、外務大臣も官房長官も代えることの方が具体的な<戦略>だと思われる。そのためには、総選挙を!というムードをもっと盛り上げていく必要があるのではないか。

 いわゆる<政権交代>からもう一年以上経った。今の内閣が現在の<民意>に添ってはいないこともほぼ明らかだ。マスコミの主流は現内閣の困惑と混迷ぶりばかり報道しているようで、かつ産経新聞も含めて、<あらためて民意を問う>必要性を何ら主張していないのではないか。非現実的なのかもしれないし、上記の三人もそのように考えているのかもしれない。しかし、重要なこと、より現実的に必要なことは、やはり(憲法改正等と同等に)主張し続けなければならない、と考える。

 <左翼・売国>政権打倒!という表現では過半の支持は得にくいかもしれないが、形容・表現は極端に言えば何でもよい、現在の民主党政権を一日でも早くストップさせ、<よりましな>政権に変える、このことがとりあえずは日本の将来と現在の国益に合致している(もちろん国民の利益でもある)、と考えるべきだ。

0906/三島由紀夫1970年7月エッセイを読んで-月刊正論11月号。

 月刊正論11月号(産経、2010)が1970年7月7日付サンケイ新聞夕刊に掲載された三島由紀夫の「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」と題する(「私は口をきく気にもなれなくなっているのである」で終わる、有名な)寄稿に対する6人の感想文的なものを載せている。なかなかよい企画だ。
 三島由紀夫の文章自体はむろん、今回の各氏の文章に対するコメントをさらにすることも避けて、印象に残った文・表現のみメモしておく。

 長谷川三千子-「日本人がとことん戦い抜いて全滅」して「焦土にひゅうひゅうと風が吹き渡っている」光景こそが「あるべきかたちだったのだ、という戦慄すべき考えに恐れ、おののきながら、その風の音を聞く」、「そこから出発するのでなければ、日本の再生などありえないということを、三島由紀夫はよく知っていた」(p.123-4)。

 井上豊夫-三島が自衛隊に体験入隊をした頃財界人と接触したが、「資本家たちは一見『天皇主義者』のように見えますが、利益のためなら簡単に裏切る人々だと実感したそう」だ(そして、「盾の会」等への財界の資金援助をいっさい受けなかった)(p.125)。

 渡辺京二-「現代において肝要なのは、死んでみせることではなく、生きのびてみせることなのである。生きのびることは、時代への嫌悪に耐え、自分の課題を最後まで追究しつつ中道で斃れることである」(p.127)。

 宮崎正弘-「『日本が日本でなくなる』はあちこちに出現し、未来は漆黒のように暗い。果たし得ない約束を、しかし残された時間にどうやって実現できるか」(p.129)。

 田母神俊雄-「自主憲法の制定と国家の完全独立を忘れたことが高度経済成長の陰で次第に日本を蝕んで行った」。「三島の警鐘」を「受け入れる」感性が日本の「政治家」にあれば、「総理大臣などにもっと洞察力」があれば、「我が国の政治が今日のような惨状を呈することはなかったであろう」(p.129)。

 竹本忠雄-「真の敵は『戦後民主主義とそこから生じる偽善』である、と見据えた明察が、一文の精神である」。/ソ連崩壊後も「日本を呪詛した唯物論者たちは、転向するどころか、哲学者、宗教評論家として、のうのうと託宣を垂れている」。/ロシア系仏作家某は、「ナチズムの犯罪は無慮数千万、共産主義の犯罪は無慮数億であり、前者は裁かれたのに、後者は一人として裁かれず、社会各層にふんぞり返っているのはなぜか」と問うた(p.131-2)。

0905/月刊正論11月号・中西輝政論文等-冷戦。

 一 月刊正論11月号(産経、2010)の巻頭、中西輝政「中国の無法を阻止する戦略はあるか」
 巻頭言にしては長い。p.33-44の二段組み、計12頁。
 「東アジア全体が、…『冷戦』に突入しているのである。今回の新たな冷戦では、東西冷戦とは異なり、日本が否応なくその最前線に立たされる。…」(p.41)

 欧州ではともかくとしても、日本ではソ連崩壊後も<冷戦は継続している>ということは、近時の主張しておきたいところだった。
 同上誌のp.316で水島総は「既に世界は変わり、ポスト冷戦から、ポストポスト冷戦に様変わりした」、と書く。
 ニュアンス、厳密な意味は同一ではなさそうだが、現在の日本が「冷戦」の真っ只中にあるという認識では共通しているだろう。
 水島が言っているだろうように、ソ連崩壊によって「資本主義」あるいは「保守(・自由主義)」が勝利した、と単純に考えている「戦後保守」がいるとすれば、とんでもない間違いだ(但し、この人のこの号の叙述には感覚的に合わないところもある)。
 いずれにせよ、「保守」の側はともかくとしても、中国・北朝鮮(論じ方によっては韓国も)という近隣諸国に断固として立ち向かう必要がある、と漠然としてであれ考えている国民が多数派ではないようであることが、現在の日本の怖ろしいところだ。

 新憲法によって日本は平和で自由なよい国になった、それは基本的には今日までずっと継続している、と何となく考えている(私に言わせれば勉強不足の、あるいは主流派的マスコミに騙されたままの)国民はまだけっこう多いのではないか。

 そのような人々は、中国等の脅威(・異様さ)を正当に指摘し、例えば日本の「ナショナルなもの」の保持の必要性を語るような議論を、<偏っている>とか<右翼・民族派>とか言って無視するか軽蔑しがちだ。
 説明する必要もないほどだが、そのような人々とはもはや「口をきく気にもなれなくなっている」。

0904/「共産党ではないが左翼」の社会・人文系学者たちの多さ-月刊正論11月号・竹内洋を読む。

 月刊正論(産経新聞社)連載の竹内洋「革新幻想の戦後史」は月刊諸君!(文藝春秋)から「続」となって月刊正論に移ってしばらくはもたもたしている感もあったが、先月号あたりから再び(私には)面白くなった。
 1.月刊正論11月号の竹内洋・同上は丸山真男批判(の一部。竹内には丸山真男に関する新書一冊がすでにある)。その基本的趣旨自体も興味深く、1970年代以降の丸山真男の「衰え」を再確認させる。
 丸山真男については著書・全集の一部をじかに読んだことがあり、この欄でも言及した。
 このブログサイトでの「丸山真男」を検索してみると、なんと最初から13個までが「秋月瑛二」によるこの欄がヒットした!。もう忘れたが、丸山真男を主題としたものを20回は書いただろう。

 そして、丸山真男を積極的・好意的に評価する本が今日でも新たになお出ていることも思い出して、あらゆる戦線(?)での<左翼の執拗さ>をあらためて感じる。
 2.さて、p.282-3のデータ(資料)はきわめて興味深いもので、私の推測ともほとんど合致している。
 p.282の表は、ごく大まかに一言でいうと、1973年時点の支持政党調査では、「日本人平均」では自民党が一位で二位・社会党の1.5倍ほどの支持率があるのに対して、「大学教師」の支持政党の一位は社会党、二位は民社党、三位は自民党で(「特になし」を除く)、社会党支持が自民党支持の二倍以上ある、ということだ。
 竹内の関心に即して言うと、「大学」の世界では、(1980年代前半の丸山真男による叙述とは異なり)「進歩的文化人」は「多数派」だった、ということが明瞭に判る。

 これは1973年の数字だが、現在でも、「大学」教員の世界では(「進歩的文化人」という語は今日的用語としてはあまり使われなくなっていると見られるが)、「左翼」または「何となく左翼」が(とくに社会・人文系では)<圧倒的多数派>を形成しているのではないか。
 p.283の表が示す数字の方がさらに興味深い。
 1983年時点での「保守・中間・革新」意識の調査結果によると(出典の再引用は上ととともに省略)、「中間」を割愛して「保守」対「革新」の数字だけ示せば、「一般国民」が34対24、「財界」が74対10、「官僚」が56対23であるのに対して、「マスコミ」(人)は34対46、「学者・文化人」は31対51、ついでに「市民運動」(家)は14対81、「学生」は42対46だった、という。
 27年前の数字だが、「マスコミ」(人)や「学者・文化人」における「革新」または<左翼>性向が明瞭に数字化されている。
 そしてまた、今日でも、その傾向は変わらないものと思われる。

 70年代(とくに前半または初頭までの)「革新」ムードは全体としては80年代には消滅または弱体化していたはずだが、「マスコミ」(人)や「学者・文化人」においては異なることが上の資料からは明らかだ。そしてまた、ソ連が解体し北朝鮮や中国の実態がより明らかになってきている現在でもまた、「マスコミ」(人)や「学者・文化人」の<政治意識>=<左翼・なんとなく左翼>性は(驚くべきことに、また執拗にも)大して変化していないのではなかろうか。
 ここでの「左翼」とは、いつかも書いたように、<容共>志向、換言すると、<反共>の立場に立たない(立てない)政治的意識・主張・見解のことを意味させている。
 3.そういう「左翼」的雰囲気の「学者・文化人」や「マスコミ」(人)の世界において、日本共産党支持またはコミュニズム支持を少なくとも明確に示しはせず、むしろそれとは距離を置きつつも、「保守(・反動)」、ましてや「右翼」と評されないことが最も<安全で・安心な>態度=処世術なのだろう。
 p.283に引用されている、2009年の某雑誌での伊藤隆(東京大学名誉教授)の次の言葉は、十分に納得がいく。
 竹内洋が使った「共産党員ではないけど、いつも共産党員に気兼ねをしている学者」という表現につなげて、伊藤隆は言う。
 「気兼ね学者は大学の人事を握っていて、リベラルということで良心が満たされる気分になると同時に利益もある…。(一文略-秋月) 学者にとって一番理想なのは、東大教授で、共産党ではないが左翼である。そして、ジャーナリズムにどんどん登場するということでしょう」。

 日本共産党を支持はしないが決して「保守(・反動)」、ましてや「右翼」と呼ばれたくはない、という気分の多数の(とくに社会・人文系)「学者・文化人」さまには、上のような言葉も傾聴していただきたいものだ。
 また、「共産党ではないが左翼」で、「ジャーナリズムにどんどん登場」して(世間的)知名度も獲得したいという「東大教授」は、現に多数存在するのではないか(それを現実化している「東大教授」の名を具体的に何人かは挙げることができる)。
 くり返せば、「共産党ではないが左翼」で、学界内部でも、共産党そのものに<染まっている>わけではないが決して<反共>の立場に立たない(少なくともそれを明言しない=日本共産党に「気兼ね」する)大学教員たち、そして東京大学教授たちは、世間一般の相場に比べれば著しく多い、と想定される。現在の日本の<異常さ>はこんなところにもある。あるいは、こんなところにも起因している。 

0888/高池勝彦「ケルゼンを知らねばパール判決は読み解けないか」(月刊正論2009年2月号)再読。

 月刊正論2009年2月号(産経、2008.12)の高池勝彦「ケルゼンを知らねばパール判決は読み解けないか」(p.278-)によって、一連のパール判決・ケルゼニズム(・法実証主義)論争は終熄したかに思えた。
 内容を引用・紹介していないが、この高池勝彦の論考について、私は「このタイトルは、この欄で既述の私見と同じ」。「東谷暁や八木秀次のパール・ケルゼン関係の文章よりもはるかに私には腑に落ちる」とだけかつてコメントした。
 高池は中島岳志=西部邁・パール判決を問い直す(講談社現代新書、p.15、p.30、p.60)を挙げ、「パル判決の論理構成に関して、『パールを援用した自称保守派の東京裁判批判は、全面的に法実証主義に依拠している』とか、『法実証主義が果たして本来保守派が立つべき立場なのか』とか、『法律条文を金科玉条とする』といった批判がある」、と紹介していた(p.284)。そして、次のように批判または反論している。かつて紹介・引用していないので、ここではほぼ全文を引用しておく(p.285、旧かなづかいは改めた)。
 ①「なぜパル判事が法実証主義に依拠してはいけないのかわからない」。
 ②「そもそも本当にパル判事が…全面的に法実証主義に依拠しているのか、疑問」だ。
 ③「法実証主義が法律文を金科玉条としているというのは少なくともいい過ぎ」だろう。「ごく常識的な法実証主義」とは「法解釈にあたって…、存在と当為、事実と規範を分けて、判断することをいう」と理解するので、「これは現代の法解釈において多かれ少なかれとらざるを得ないのではないか」。「法実証主義は、実定法を解釈の対象」とし、「実定法を離れてイデオロギーや教義によって法を解釈することを拒否する」。「ただ、極端な法実証主義はそれこそ法律文を金科玉条とすることになりかねないというだけのこと」ではないか。
 ④「そもそも、国際法は、…慣習法が重要な法源であり、パル判事もそれを強調している」ので、「法律文を金科玉条とすることなど不可能」だ。
 ⑤西部・中島両氏が強調するのは「平和に対する罪」は「事後法の禁止に反する」旨をパル判事が述べているのを指すと思われるが、「パル判事はそれこそ平和の罪が犯罪ではないことを様々な条約や学説、事件などを引いて論証しているのであり、とても単なる法律文だけを根拠にしているのではない」。
 ⑥「パル判事が主としてケルゼンの学説に依拠しているといわんばかりの主張にも同意できない」。パル判事は「ケルゼンの学説をかなり理解し、必要な部分は取り入れているかもしれない」が、「それのみに依拠しているわけではなく、パル判決はそれ自体として判断する必要がある」。
 ケルゼンを批判することによってパール判事(の意見書)(の基礎的考え方・「法律観」)をも批判しようとする西部邁や中島岳志の論法には、無理があり、こじつけがある。西部邁によると「主として」制定法(法律)を基準として仕事をしている現在の日本の多くの専門法曹(裁判官・弁護士等)は「法匪」になるのかもしれないが、かつてパール意見書を読んだことがあるとも言う(p.278)、弁護士・高池勝彦の理解・主張の方が<素人>の西部邁・中島岳志よりもはるかに信頼が措ける。
 西部邁・中島岳志らによる、議論の不要な紛糾は避けた方がよく、「法」、とくに「制定法(法律)」に関する考え方について、西部邁が述べるところを信頼あるいは参照してはいけない。
 なお、かつての論争の中心点はパール判事意見書(パール判決)は<日本「無罪」論>だったのか否か、だったようだ(高池p.278)。
 この論点について高池は次のように述べて、中島岳志・西部邁とは異なる理解を示している(p.284)。
 ①<講談社学術文庫・パル判決書(上)の解説者・角田順はパール判決は「日本無罪論ではない」ことを強調しているが、小林よしのりが指摘するように仮定形の論述で、1.「仮定文の中身を真実であると認めたわけではない」、又は2.弁護側の無反論のゆえに仮定を「前提に議論を進めた」、という部分が「多い」のであり、私(高池)は「パル判決は全体として、日本が無罪であると主張しているとしか読めない」。>
 ②<但し、「無罪」とは「有罪と認定する証拠がない」ことを意味し、日本のすべての行動に「何の問題もなかった」ことを意味しはしない。「刑事上の無罪」は「道義的に無罪であるという意味ではない」とよく主張されるが、それは「当然のこと」だ。>
 高池は日本の「道義」上の問題の具体的評価に立ち入っていないが、パール判決や中島岳志=西部邁・パール判決を問い直す(講談社現代新書)をきちんと読んではいないものの、上の論旨にも「納得がいく」。
 その後、西部邁または中島岳志は、この高池勝彦論考に対してきちんと反論したのかどうか。

0883/佐伯啓思「『保守』が『戦後』を超克するすべはあるのか」(月刊正論6月号)のメモ。

 佐伯啓思「『保守』が『戦後』を超克するすべはあるのか」(月刊正論6月号、産経)のメモ。
 ・財政再建か景気拡張か、日米関係をどうするか、構造改革を促進するのか否か、消費税をどうするか。自民党は具体的な方向を指示しておらず、民主党も同じ。「その時々の情緒やムードに敏感に反応」する「世論」が「政治を翻弄」していて、真の「二大政党政治からはほど遠い」。  ・自民党=保守、民主党=リベラルと簡単に図式化できない。「福祉重視」派=リベラル、「市場競争」派=「保守」というのは大雑把で「誤った通念」。「構造改革」なる「急進的改革」の推進者が「保守」というのは「いかにも奇妙」で、それに「抑制をかけるものをこそ保守というべき」。また、「過度にならない福祉は保守の理念に含まれる」。自民党は以前は「一種の福祉政策」も行っていた。(以上、p.80-81)  ・「保守」とは、「保守の原点に立ち戻る」とは、いかなる意味なのか。「保守」の困難さの第一は、圧倒的に<改革・変革・チェンジ>ムードの影響下にあること。アメリカの時代→中国の時代、IT革命→環境・エコ革命、テロとの戦い→「核廃絶に向けて」、「自由に能力が発揮できる社会」→「格差を是正する社会」。凄まじい変化だが、現在の「変化が望ましい方向のものだという理由はどこにもない」。  ・「『変化』に振り回されない軸を設定すること」が、「保守」の立場の「政治的課題」だ。  ・第二は、「戦後日本という特殊な空間」の形成にかかわる。「日本の近代化」は①「王政復古」等の「伝統的日本への回帰」と②「西欧列強の制度や価値の模倣もしくは導入」により遂行された。「外発的」近代化、「憧憬」することによる近代化だった。この事情は「戦後」に「さらに著しくも緊張感を欠いた漫然たる」ものとなり、無自覚・無反省な「アメリカ的なものへの傾斜、追従」になった。  ・上に異論はあろうが、「戦後日本人」は「ほとんど無意識のうち」にであれ、「アメリカ的なもの」=「個人的自由、民主主義、物的な豊かさと経済成長、人権思想、市場経済、合理的で科学的・技術的な思考、市民社会など」に「寄りかかった」。これらに対立する「日本的なもの」=「家族的紐帯、地域共同体、社会を構成する権威」、「日本的自然観、美意識、仏教的・儒教的・神道的なものを背景とした宗教意識」などは「ことごとく否定的に理解された」。ここに「戦後日本」の「大きな精神的空洞」がある。(以上、p.82-83)  ・「日本的なもの」を否定的に理解して「アメリカ的なもの」を受け容れる、つまりは「倒錯した価値をしごく当然のごとく受け入れてきた戦後日本」には、「公式的」には「保守」の「居場所はない」。アメリカ的「戦後思想」が「日のあたる場所」を占拠したので、「保守」は戦後日本の「公式」の「重要な価値」の疑問視から始める必要があった。
 ・「軍事力」抜きの「戦前」に戻ればよいということにはならない。「日本の近代化そのもののはらむ問題」だ。「戦後日本」への「根源的な違和感」を前提にしてこそ「保守」という「精神態度」は成立する。ゆえに「戦後憲法の精神は保持したまま」で「保守の原点に戻る」というのは無意味
 ・だが、ここで「困難はいっそう倍加する」。「戦後」を懐疑しても「現憲法や下位の法体系」の下で言論等をしており、「戦後日本」の「外」には出れない。「戦後日本の公式的価値空間」での=「アメリカ的価値観の受容」をしての、「保守」提唱自体が「矛盾をはらんでいるのではないか」。
 ・上の事実に自称「保守主義者」たちは「どこまで自覚的」なのか。立脚点についての「引き裂かれた自覚」がまずは必要。
 ・反「社会主義」の「日米同盟」の強化は、下手をすると日本をますますアメリカの「保護領」にする。だが、誰もが「戦後体制」=「平和憲法と日米安保体制」の下で守られて生きていて、「日米同盟」破棄はできない。「状況そのもの」が「日本を日本でなくする危険に満ちている」。このことを今は「受け入れるほか」はない。この「苦渋に満ちた矛盾と亀裂の只中にいるという自覚」だけが、今日の「保守」に道を開く。このことに無頓着な者は、「親米であれ反米であれ」、真の「保守」たりえない。(以上、p.83-84) 

0881/櫻井よしこと「国家基本問題研究所」。

 櫻井よしこによると鳩山由紀夫は「戦後教育の失敗例」らしい(産経新聞5/13付1・2面の見出し)。そのとおりだと思う。いや、正確には、戦後「左翼」教育、戦後「平和」教育、「戦後民主主義」教育の成果であり、立派な成功例だと言うべきだろう。
 その櫻井よしこは-この欄で既述だが-昨年の2009総選挙前の8/05の集会の最後に「
民主党は…。国家とは何かをわきまえていません。自民党もわきまえていないが、より悪くない方を選ぶしかないのかもしれません」とだけ述べて断固として民主党(中心)政権の誕生を阻止するという気概を示さず、また、鳩山由紀夫内閣の誕生後も、「…鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」(産経新聞10/08付)と書いていた。文字通りには「期待と懸念」を半分ずつ持っている、と言っていたのだ!。
 鳩山由紀夫の月刊ヴォイス上の論考を読んでいたこともあって、私は民主党と鳩山由紀夫に対しては微塵も<幻想>を持たなかった、と言っておいてよい。<総合的によりましな>政党を選択して投票せざるをえず、民主党(中心)政権になれば決して良くはならない、ということは明らかだったように思えた。外交・安保はともあれ<政治手法>では良い面が…と夢想した屋山太郎のような愚者もいただろうが、基本的発想において<国家>意識のない、またはより正確には<反国家>意識を持っている首相に、内政面や<政治手法>面に期待する方がどうかしている。
 しかし、櫻井よしこ月刊WiLL6月号(ワック)p.44-45でなおもこう言っている。
 「自民党はなすすべきことをなし得ずに、何十年間も過ごしてきました。その結果、国家の基本というものが虫食い状態となり、あちこちに空洞が生じています。/そこに登場した民主党でしたが、期待の裏切り方は驚くばかりです」。
 前段はとりあえず問題にしない。後段で櫻井よしこは、何と、一般<日和見>・<流動>層でマスコミに煽られて民主党に投票した者の如く、民主党・鳩山政権に「期待」をしていたことを吐露し、明らかにしているのだ!
 何とまあ「驚くばかり」だ。これが、<保守系シンクタンク>とされる「国家基本問題研究所」の理事長が発言することなのか!? そのように「期待」してしまったことについて反省・自己批判の弁はどこにもない。 
 「国家基本問題研究所」の理事・屋山太郎も、相変わらず、2009総選挙の前から民主党支持気分を煽った一人なのに、そのことについての反省・自己批判の言葉を発してはいないようだ。
 そして、屋山太郎は、上掲の月刊WiLL6月号では、昨年に渡辺某の「みんなの党」の結成時に、渡辺某のすぐ近くに立つか座って一緒にテレビに映っていたときの気分と同じままで、そもそもこの党の結成自体に多少の関与をしたと見られることを隠して、「みんなの党」をヨイショする文章を書いている(p.23)。それによると、民主党に失望した票は、自民党ではなく、「第三党に躍り出てきた」「みんなの党」に流れそうだ、とのニュアンスだ。
 また、屋山太郎は、平沼赳夫・与謝野馨の「立ち上がれ日本」につき、「現下の国民の要求とは完全に外れている」と断言していることも、きちんと記憶しておく必要があろう。
 「国家基本問題研究所」といえば、その「評議員」・「企画委員」なるものを潮匡人が務めているらしい(同ウェブサイトによる)。
 その潮匡人の、月刊正論6月号(産経)のコラム「時効廃止は保守の敗北」(p.44-45)は、法学・法律に詳しいところを再び(?)見せたかったのかもしれないが、気持ちだけ焦っての<大きな空振り三振>というところ。
 ごく簡単に触れれば、権利(刑事罰の場合は公訴権)または義務の発生または消滅の原因となる一定の期間の経過=<時効>と、保守主義者・バークが使っている<時効>とは似ている所もあるだろうが、前者の比較的に法技術的な意味での<時効>概念と後者の比較的に思想的な意味での<時効>概念とを混同してはいけない
 結論的には(馬鹿馬鹿しいので長々とは書かない)、国家「刑罰権力」の行使の余地を広げる・時間的に長くする(公訴)「時効廃止」は、「左翼」論者・心情者は(被害者・遺族の心情を考慮して明確には語らない者もいるだろうが)<反対>のはすだ。潮匡人は、結論的にはそうした「左翼」と同じ主張をしている。殺人罪等についての「時効廃止は保守の敗北」とは、いったい誰が支持してくれている見解なのだろう。
 このような、屋山太郎や潮匡人を抱えたシンクタンク「国家基本問題研究所」とはいったいいかなる団体・組織なのか。
 上では省略したが、櫻井よしこらの自民党批判は理解することはできる。同意できるところ大きい、と言ってもよい。
 だが、選挙前からのかつての自民党批判は同党支持<保守>層の自民党離れを促進し、却って、民主党(中心)政権の誕生を後押しした、という面があることを否定できないように考えられる。
 それに、民主党も自民党もダメというならば、<シンク>することなどはもう止めて、自分たちが政治活動団体を立ち上げて、選挙に立候補したらどうか。国会議員になって言いたいことを国会・各委員会で発言し、国会議員として文章も書いたらどうなのか。その方が、影響力は大きいだろう。
 櫻井よしこをはじめ、年齢的にも国会議員としての活動はできそうにない、という者もいるだろう。だが、潮匡人などは、まだ若そうだ。
 そういう、現実的な政治的行動を採る気概を示すことなく、ただ<シンク(think)>して文章を書き「評論」しているだけでは、<湯だけ(言うだけ)>の「左翼」人士と基本的には何ら異ならないのではないか。この点では、上掲月刊WiLL6月号p.52以下に(自民党からの)<立候補宣言>文書を掲載している三橋貴明は偉い。「言うだけ」人士に対してよりは、敬意を表したい。
 正しいことは言った、しかし負けた、と言うのは、日本共産党だけにしてほしい。もっとも、日本共産党と同じく、「国家基本問題研究所」の面々が「正しい」ことを言っているか否かは吟味されなければならないのだが。
 <保守>的論者・団体の活発化・まっとう化を願って書いている。

0865/外国人(地方)参政権問題-あらためて、その2・憲法学界。

 1.外国人(地方)参政権問題に関して不思議に思っていることの一つは、すぐれて憲法問題で(も)あるにもかかわらず、現在の日本の憲法学者(研究者)による発言等が雑誌や新聞上でほとんど報道されないことだ。

 産経新聞紙上では、百地章・長尾一紘と近藤敦(名城大学)くらいで、保守系論壇ではほとんど百地章が一手に引き受けて憲法学者としての反対論(外国人参政権否定論)を述べているようだ。

 かかる状況は、憲法学界または憲法学者の対社会影響力、世論形成力の弱さを示しているとも感じられ、果たしてよいことなのかどうか、気になるところだ。

 また、マスメディア(新聞を含む)に従事する人々の<法学>オンチ、または苦手意識からする<法学(・法律)・何となく嫌い>気分が表れているようでもある。

 産経新聞紙上で少なくとも二度は目にした近藤敦(名城大学)は、賛成論者として登場している。

 この問題についての学説はさまざまな観点から分類できるが、被選挙権を含まず、かつ「地方」参政権に限って、長尾一紘は月刊正論5月号(産経)p.55で、3分類(禁止説・要請説・許容説)を示している。

 このうち「要請説」とは、憲法は法律で付与することを「許容」しているのみならず付与を「要請」しているとするもので、厳密にはさらに、①この要請に違反すれば憲法違反になるとする説(付与していない現行法律=公選法は違憲になる)と②立法者=法律制定者に付与するよう努力義務(政治的義務・責務)を課しているだけで、この違反はただちに憲法違反にならないとする説に分けられる。

 長尾は上の①の意味のものを「要請説」と称している。

 2.辻村みよ子(東北大学)、近藤敦(名城大学)の見解はより正確にはどのようなものなのか。その一端だけを、辻村みよ子・憲法〔第三版〕(日本評論社、2008=A)、同・同〔第一版〕(日本評論社、2000=B)によって、見ておく。

 辻村A・Bによると、「学説は、外国人参政権を一切認めない従来の禁止説から脱して、しだいに地方参政権を認める見解(許容説)が有力になった」とされる(Ap.148、Bp.167)。

 辻村Bによると、国政選挙ではなく、地方選挙に限ると、a「禁止(否定)説」、b「積極的肯定説」、c「消極的肯定説(許容説)」に分けられる。ここでのb「積極的肯定説」は「要請説」とほぼ同義のようであり、上記の①の、違憲判断を導く「要請・違憲説」と、上記の②の、ただちに違憲とはしない「要請・政治的義務説」とに分けられている。

 辻村自身の説はいずれか。辻村A・Bによると、「要請説」だ。その中のいずれか、というと、辻村Bは、<「政治的義務説」(ないし「違憲説」)>だという書き方をしている(Bp.167-8)。この部分は、辻村Aにはない。

 ともあれ、辻村みよ子説は、「禁止説」でも<有力な>「許容説」でもなく、「要請説」だ。

 現在の代表的な「左翼」憲法学者の一人・辻村みよ子は、平成7年最高裁判決の「傍論」以上に、一定の外国人の地方参政権付与に積極的であることに、とりあえず注目しておく必要がある。

 なお、「要請・政治的義務説」か「要請・違憲説」かは不明だが、「要請説」であるかぎりで、近藤敦も同じのようだ(辻村著の文献参照による)。

 かかる見解の持ち主だと、民主党(中心)政権は今のところは国会提出を見送っているようだが、一定の外国人への地方参政権付与法案を歓迎しているだろう。

 3.興味深いのは、一定の外国人の「国政」参政権についての辻村等の見解だ。辻村は(上のAでもBでも)「要請説」に立っている。そして辻村Bでは、「地方」の場合と同様に<「政治的義務説」(ないし「違憲説」)>という書き方をしている(Bp.168)。

 「国政」参政権について、「禁止(否定)説」ではない。さらに「許容説」でもなく、それを超えた「要請説」を採っているのだ。辻村著によると、近藤敦も同じ。

 さすがに、「左翼」憲法学者の面目躍如というところだろう。外国人「国政」参政権を法律で付与することが「要請」されるという考え方(憲法解釈?)なのだ。

 「地方」はともあれ平成7年最高裁判決のように「国政」参政権を憲法上否定するのが(「禁止(否定)説」が)憲法学界でも一般的だ、と即断してはいけない。

 上に地方参政権について「許容説」が「有力」との辻村の認識を紹介したが、「国政」参政権についてもかなりあてはまりそうだ。

 辻村著によると、「国政」についての「許容説」論者に、九条の会呼びかけ人の一人・奥平康弘(元東京大学)がおり、「国政」についての「要請説」論者に、辻村・近藤のほかに、浦部法穂(神戸大学→名古屋大学)、後藤光男(早稲田大学)がいる。

 4.後藤光男は、ロ-スクールを含む学生(・同業者?)向けと思われるジュリスト増刊・憲法の争点(有斐閣、2008)の「外国人の人権」の項の中で、以下のように述べる。

 平成7年最高裁判決は「外国人は国政レベルの参政権は有しない」という前提に立っているが「なぜ外国人には地方参政権だけしか認められないのか、…疑問が生じる」。この見解は「住民自治」と「国民主権」を「別個の原理」と見ていて「妥当ではない」。「民主主義」=「共同体の自治」と考えれば「生活の本拠をもつ住民」を「単位」とすることの方が「当然」。「基本的」なのは「共同体の一員」であるか否かであり、「国籍」の有無は「それに付随した技術的なものである」(p.74)。

 何とも見事な、反国家・<ナショナルなもの否定>、そして「左翼」の文章だ。

 百地章は平成7年最高裁判決の「本論」の「禁止説」と「傍論」での地方参政権についての「許容説」を、前者の立場で一貫させよ、という観点から「論理的に矛盾」等と批判していた。一方、後藤光男は、<地方>につき「許容説」を採るならばなぜ<国政>でも採れないのか、と矛盾(?)を指摘しているわけだ。

 後藤と似たようなことを、辻村みよ子も書いていた。(*次回へと続く*)

0863/月刊正論5月号と週刊新潮4/15号(新潮社)から。

 〇潮匡人のコラムの後半(月刊正論5月号、p.51)をあらためて読んでいて、この人が言いたいのは、次のようなことなのだろうか、とふと思った。

 <兼子仁著は、新地方自治法によって国と自治体が「対等」になったとする、つまり地方自治体も国と同様に、かつ国と対等の「権力」団体になった。とすれば、外国人に「国政」参政権が認められないならば、国と「対等」の地方自治体についても、国の場合と同様に外国人参政権は認められないのではないか。>
 これは分かり易い議論・主張のようでもある。だが、かりに潮匡人の主張の趣旨がこのようなものであるとすれば、基本的なところで、やはり無理がある。

 第一に、地方公共団体が国と同様の「統治団体」(または「権力」行使ができる)団体・法人であること、広い意味では地方公共団体もまたわが国の<統治機構>・<国家機構>の一つであること、は戦後(正確には日本国憲法施行後または独立回復後)一貫して認められてきたことであり、2000年施行の改正地方自治法によってはじめてそうなったのではない。
 第二に、地方公共団体と国の「対等」性とは、基本的にそれぞれの行政機関は上下関係には立たないということを意味し、立法権能レベルでは国の法令は地方公共団体の条例に対して優位に立つので(憲法94条参照)、そのかぎりでは決して「対等」ではない。法律自体が「地方自治の本旨」に沿うように旨の注意書き規定が2000年施行の改正地方自治法で新設されたが、合憲であるかぎりは法律の方が条例よりも「上」位にあることは、改正地方自治法の前後を通じて変わりはしない。

 第三に、国と地方自治体(地方公共団体)の「対等」性が、それぞれの議会の議員等の選挙権者の範囲を同一にすべし、という結論につながるわけでは必ずしもない。法律のもとでの「対等」性、とりわけ法的にはそれぞれの行政機関間に上下の指揮監督関係はないということ、と議会議員(や地方自治体の長)の選挙権者の範囲の問題は直結していない。

 かりに潮匡人が上の第一、第二のことを知らないとすれば、幼稚すぎる。かりに日本の地方自治制度を岩波新書(兼子仁著)あたりだけで理解しているとすれば、あまりに勉強不足だろう。
 かりに潮匡人が上の第三のように考えているとすれば、単純素朴すぎる。結論はそれでよいかもしれないが、(いつか何人かの憲法学者の議論を紹介するが)外国人地方参政権付与に賛成している論者に反駁するには弱すぎる。議論はもう少しは複雑だと思われる。

 〇期待もした、長尾一紘「外国人参政権は『明らかに違憲』」(月刊正論5月号)はかなり不満だ。しばしば言及されてきた当人の文章なので読む前には興味を惹くところがあった。しかし、最初の方だけが憲法学者らしい文章で、あとは、政治評論家の如き文章になっている。つまり、憲法研究者としての分析・検討・叙述がほとんどない。最高裁平成7年2月28日判決への言及すらない。

 憲法学者ならばそれらしく、憲法学界での「外国人選挙権」問題についての学説分布などを紹介してほしかったものだ。民主党の政策を批判するくらいは、長尾でなくともできるだろう。1942年生まれで今年に68才。もはや<現役>ではないということだろうか(だが、現在なお中央大学教授のようだ)。

 〇週刊新潮(新潮社)はもっとも頻繁に購入する週刊誌。4/15号もそうだが、また、他の週刊誌についても同様だが、まず初めにすることは、広告および渡辺淳一の連載コラム等々で表裏ともに不要と考える部分を<ちぎって破り捨てる>こと。半分程度に薄くなり軽くなったものを(主要部分を読んだあとで)保存するようにしている。

 渡辺淳一のコラムをいっさい読まず<破り捨てる>対象にし始めたのは、渡辺の田母神俊雄問題に関するコメントがヒドかった号以来。したがって、一昨年秋以降ずっと、になる。この週刊誌を買っても、それ以降は渡辺の文章はまったく読んでいない。

 田母神俊雄論文を渡辺は、<日本は侵略戦争という悪いことをした>という<教条的左翼>の立場で罵倒していた。その際に<戦争を私は知っているが…>ということを書いていた。

 なるほど私と違って、戦時中の苦しさを実感として知っているのかもしれない。だが、1933年10月生まれで敗戦時にまだ11才の少年だった渡辺に、あの戦争の<本質>の何が分かる、というのだ。この人も、占領下の<日本は悪かった>史観の教育によって左巻に染められた、かつての「小国民」だったのだろう。

 〇渡辺淳一の2頁分のコラムに比べて、昨年あたりから始まった1頁に充たない、藤原正彦の文章(巻頭の写真付き連載の「管見妄語」)の、内容も含めての美しさ、見事さ、そして(とくに皮肉の)切れ味は、ほとんどの号において素晴らしい。
 渡辺淳一と、別の週刊誌にコラムを連載している宮崎哲弥と、週刊新潮・新潮社は交代させてほしい。

 〇4/15号の櫻井よしこ連載コラムは「朝鮮高校の授業料無償化は不当だ」。

 こんなまともな意見もあるのに、朝日新聞は仕方がないとしても、読売や毎日新聞の社説は問題視していない(朝鮮高校も対象とすることに賛成している)らしいのはいったい何故なのだろう。

 これまた、<ナショナルなもの>の忌避・否定、<日本(人)だけ>という排他的?考え方をもちたくない、という現代日本の<空気>的な心情・情緒に依っているのではないだろうか。

 社民党・福島瑞穂的な<反ナショナリズム>・<平等主義>には、じつは<ナショナルな>部分をしっかりと維持している点もある、という矛盾がある、ということをいつか書く(こんな予告が最近は多い)。

 〇週刊新潮の、並みの?用紙部分の最後にある高山正之の連載コラム「変見自在」は、ときに又はしばしば、こちらの前提的な知識の不足のために、深遠な?内容が理解不十分で終わってしまうときがある。いつかも書いた気がするが、関係参照文献の掲記(頁数等を含む)がないことと、字数の制約によることも大きいと思われる。

 4/15号の「不買の勧め」は朝日新聞批判で、これはかなり(又はほとんど)よく理解できた。

0862/外国人(地方)参政権問題-月刊正論・長尾一紘論考と産経新聞4/11記事。

 月刊正論5月号(産経)の長尾一紘「外国人参政権は『明らかに違憲』」p.55に以下の趣旨がある。
 <「許容説はドイツにおいて少数説」だ。当時(1988年)も現在も「禁止説が通説」。マーストリヒト条約によりEU内部での「地方選挙権の相互保障」を認め合うこととなり、ドイツでは「憲法改正が必要」となった。その結果、「EU出身の外国人」の地方参政権は「与えてよい」ことになった。「その他の国からきた外国人」については現在でも「憲法上禁止されていると考えられて」いる。>

 この叙述とはニュアンスと内容のやや異なる情報が、産経新聞4/11付に載っている。「外国人参政権/欧米の実相」の連載の一つだ。「『招かれざる客』めぐり二分」との見出しの文章の中に以下がある(署名、ベルリン・北村正人)。

 <ドイツでは80年代にトルコ人が地方選挙権を求めて行政訴訟を起こし、「法改正により外国人に地方…選挙権を与えても」違憲ではないとの判決があった。そこで、社民党政権の2つの州で外国人地方参政権付与の「法改正」があった。

 だが、保守系〔CDU・CSU、ちなみにメルケル現首相はCDU〕連邦議会議員らが「違憲訴訟」を起こし、連邦憲法裁判所は90年に「国民」=「国籍保有者」として、2州の「法改正」を「違憲」とした。

 現在、「左派党」政権の3つの州が「定住外国人に地方参政権を付与する」連邦憲法(基本法)改正案を連邦参議院(秋月注-ベルリンに連邦議会とは別の場所にある第二院で各州の代表者たちから成る)が「発議」している。>

 現在は憲法裁判所判決の結果として憲法(基本法)の解釈による付与の余地がないので、付与の方向での憲法(基本法)自体の改正の動きが一部にはある、ということのようだ(その運動議員の考えと写真も紹介されている)。

 なるほど「少数説」だったかもしれないが、かつて西ドイツ時代の11州のうち2州は(連邦憲法裁判所の「違憲」判決が出るまでは)外国人に「地方選挙」の「選挙権」を認める、という<実績>まであったのだ。当然に、それを支える法学者たちの見解もあったに違いない。また、<左派>の社民党(ドイツ社会民主党)や現在の「左派党」〔または「左翼党」、die Linke〕が付与に熱心だということも、日本と似ていて興味深い。

 この「記事」中、「法改正」とは「州法律」の「改正」のことだろう。「地方選挙」が何を指しているかはよく分からない。「州」議会議員選挙は含まず、記事中に引用の連邦憲法中の「郡および市町村」〔Kreis、Gemeindeの訳語だと思われる〕の議会の議員の選挙なのだろう。ドイツの州は連邦を構成する「国」ともいわれ、「地方」ではなさそうなので。また、「選挙権」とだけ書いているので、被選挙権を含んでいないのだろう。

 ともあれ、上の二つの種類の情報を合わせて、ドイツのことはある程度詳しく分かった。

 両者には、とくにドイツの現在の法的状況について、異なるとも読めるところがあるようだ。現在ベルリンにいるらしい産経・北村の方が正確または詳細かもしれない。
 以上は感想のみだが、この外国人参政権問題についてはさらに別の機会に触れる。

0861/潮匡人が月刊正論5月号で外国人地方参政権問題に論及するが…。

 外国人(地方)参政権問題につき、最高裁平成7年2月28日判決の「傍論」が述べた、法律で付与することも<できる>(付与しても、しなくとも違憲ではない)という所謂<許容説>は、元東京大学法学部教授の芦部信喜(故人)の説の影響が大きいと言われることもある。

 一度は芦部信喜の本(教科書)を見て確認しておかねば、と思っていたら、月刊正論5月号(産経)の潮匡人の連載コラム(この号は「リベラル派の二枚舌」との題)が芦部信喜『憲法』(岩波書店)の関係部分をそのまま引用してくれていた(何版、何年刊かは不明)。2頁のコラム中に全文引用できるほどに短く、簡単だ。
 「参政権は、国民が自己の属する国の政治に参加する権利であり、その性質上、当該国家の国民にのみ認められる権利である。したがって、狭義の参政権は外国人には及ばない。しかし、地方自治体、とくに市町村という住民の生活に最も密着した地方自治体のレベルにおける選挙権は、永住資格を有する定住外国人に認めることもできる、と解すべきであろう」。
 このあと、「判例も」として、「傍論」と注記をすることなく、上記の最高裁判決の所謂「傍論」部分を紹介しているらしい。
 以上の紹介は有益だ。もっとも、芦部信喜の代表的教科書は有斐閣版だったかとも思うので、あらためて調べて(=探して)みよう。
 しかし、潮匡人が兼子仁・新地方自治法(岩波新書)を挙げて、同著が改正地方自治法(2000年施行)は国・自治体の「『対等』原則を定め、まさに地方自治法制を一新したと言える」等と書いているとし、芦部信喜と兼子仁の二つの著は同じ岩波書店刊なのに、両者の「リベラル」な部分だけを援用する学者らは「二枚舌」だと述べているのは、いかなる意味・趣旨なのか理解に苦しむ。
 両人ともにたしかに<リベラル>で、その「左翼」性は兼子仁の方が高いというイメージ・印象はある。だが、芦部信喜もまた、東京大学の憲法学教授として(?)、<左翼・リベラル>だったと思われるので、潮匡人は<日本を惑わすリベラル教徒たち>の続編には是非、芦部信喜も対象としていただきたいものだ。また、「経済的自由」と「精神的自由」の保障の所謂「二重の基準」に言及するなどして潮匡人は憲法学(理論)にも造詣が深いようだから、新憲法制定時に東京大学の憲法学教授だった宮沢俊義の<思想>もまた、「リベラル教徒」批判の観点からでも、分析・検討していただきたいものだ。
 脱線しかけたが、かつての地方自治法のもとでは、都道府県や市町村の機関(知事や市町村長など)は当該都道府県・市町村自体の仕事ではなく「国」の仕事もかなりしていた。都道府県(の機関)で半分以上、市町村(の機関)で1/3程度とも、言われてきた。これを「機関委任事務」と称した。
 この時代には、知事や市町村長を選挙することは、「国」の仕事も相当程度に任されていた、「国」の下級行政機関を選任することでもあった。したがって、地方参政権は(とくに知事・市町村長選挙の選挙権は)、「国政」と直接に関係する、と言い易かった。あるいは、そのように簡単に断定できた。
 しかし、兼子仁のいう「『対等』原則」を定めた新地方自治法によって、「機関委任事務」は廃止され、都道府県や市町村(の行政機関)の仕事には「国」のものはなくなった。それぞれの仕事は「自治事務」と「法定受託事務」に分けられ、後者は少数だが「国」(の行政部)の仕事ではなく、あくまで地方公共団体の事務であることに変わりはなくなった(以上、改正地方自治法2条参照)。
 それでもなお、地方公共団体の仕事と「国政」との密接な関係を語ることができる。別の機会にこの論考にはもっと言及するが、月刊正論5月号(産経)所載の長尾一紘「外国人参政権は『明らかに違憲』」のp.55-57はそのような例を示している。
 だが、「機関委任事務」を廃止した「新地方自治法」は法的タテマエとしては法律のもとでの国・地方自治体の「対等」を定め、従来の「機関委任事務」の実施に際してのように国の行政機関(要するに中央省庁)の指示・指揮に地方自治体の知事や市町村長等が<法的に>拘束されることはなくなったのは確かなので、兼子仁の叙述は客観性を欠く、<リベラルに偏向>したもの、では全くないと思われる。
 新地方自治法によって<地方分権>が従来よりも進められたのは確かな事実なので(これの評価は多様でありうるとしても)、岩波刊の芦部信喜著と並べて兼子仁の著(の潮匡人の引用部分)に論及する意味は全くわからない。
 潮匡人の文章をもう一度読み直すと、兼子仁著が述べるように新地方自治法による国・自治体の「『対等』原則」の定め、「地方自治法制」の「一新」があったので、「芦部の生きていた時代はともかく」、参政権付与が「自治体レベルなら許される」というのは、「現在では成り立たない見解」だ、ということのようだ(こうしか読めない)。

 しかして、上の叙述の趣旨はやはり???だ。どうしてこんな論理(?)になるのか? 何らかの勘違いがあるとしか思えない。あるいは、叙述ないし説明不足か?
 嫌いではない潮匡人のコラムなので、「程度の軽い瑕疵」(p.51末尾参照)だと見なしておくことにしようか。

 外国人地方参政権問題および関係最高裁判決について、より書きたかったことは別にある。別の機会にする。

0860/月刊正論5月号(産経新聞社)を一部読む。

 1.月刊正論5月号(産経新聞社)が表紙に掲げる「総力特集」は「民主党よ、どこまで日本を壊したいのか」。「日本」と「壊」だけは赤文字になっている。
 上の文の意味は私は解るが、少なくとも民主党・代表(首相)の鳩山由紀夫(その他の民主党の主流派の面々)には理解不可能ではなかろうか。
 「日本を壊」そうなどとしていない、とムキになって反論してくるのならまだマシだが、「日本」などという(偏狭な・排他的な)国家意識をこそ民主党は破壊して、「国民」ではない「(地球)市民」による共生の社会を目指そうしているのだから、「日本を壊し」てどこが悪いのか、むしろ「日本を壊したい」のだ、と開き直るのではないか。
 そういう人物には、月刊正論の表紙の言葉は、馬に念仏、蛙のツラに何とか、とやらで、何ら心に響かないと思われる。編集者を批判しているのでは(必ずしも)ない。言葉・文章でもって議論なり説得なりをしても、決して判らない、納得しない人々もいる、ということだ(判り、納得して<反省>する人が皆無ではない、ということを否定はしないが)。
 2.さて、最近の各号についての通例として、まず、竹内洋「続・革新幻想の戦後史」を読む(p.254~)。
 小田実が「新手の右」と思われていた時期もあった(またはそう思っていた人も一部にはいた)こと、石原慎太郎は60年安保の頃、「江藤淳や大江健三郎などと『若い日本の会』をつくって安保改定反対の行動をしていた」こと(p.256)などは、初めて知った。
 全体としては、竹内の小田実との接触(?)体験の叙述等が生々しく記憶に残る一方で、「小田実」は「鬱と躁」をかけめぐった、というまとめ方(p.254、p.263)はあまり面白くない。個人の「心理」・「情緒」の揺れに焦点を当てて、「戦後史」全体につなげられるのだろうか、と思いもする。
 ともあれ、いずれ単行本になるだろう。まとめて読んでみたい。

 3.いくつかを一部ずつ読んだあと、石川水穂「マスコミ走査線」の連載(p.162~)。多数の新聞等をすべて読むことはできないので、こういう記事(?)は重宝する。
 これによると、高校授業料無償化につき朝鮮学校も対象とするかという問題については、全国紙社説等で朝日・毎日・読売は賛成、産経のみが反対または疑問視らしい。

 これでは全国紙レベルでは(そしておそらく地方紙も)、<世論>の勝敗はほとんど明らかだろう。青木理は週刊現代4/10号で、「日本ではまたぞろ憂鬱極まりないニュースが飛び交っていた」などと述べて産経新聞(だけ?)の主張を大きく受け止めて、感情的に反発する文章を書く必要はないのではないか。
 4.前回言及した筆坂英世の本には、日本共産党機関紙「赤旗」(日刊)の発行部数は<約130万に落ちた>旨の文章がある。
 週刊現代4/10号p.54、p.56によると、「大手」新聞各社の2009年下半期の発行部数は以下のとおり(()内は前年比?)。

 ①読売1001万(+)、②朝日801万(-14000)、③毎日373万(-96000)、④産経166万(-460000)(日経の数字は紹介されていないようだ)。
 これを信じるとすると、産経新聞の166万は、日本共産党「赤旗」130万と、あまり変わらないではないか。
 新聞では産経新聞、月刊政治(総合)雑誌では月刊正論、だけを読んでいたのでは、<KY>になりそうだ(日本国民全体の<空気は読めない>)。
 もちろん、その<空気>に、産経新聞社記者・山本雄史のかつての見解のように、<従う>必要はまったくないのだが。
 今回の文章は産経新聞(社)に対する嫌味に満ちていると感じられるかもしれない。

 5.次いで、竹田恒泰「政治家が『大御心』を語る危うさ」(p.208~)。

 これに書かれている天皇陛下等の「お考え」はおそらくは事実に相違ない、と私は感じた(つまり<女系容認>というご意向を「忖度」できない)。
 タイトルでは「政治家」になっているが、この文章の最後は、「政治家や官僚、そして学者や言論人までもが自由に天皇の大御心を語り、…を正当たらしめようとすることを、国民は許してはいけない」、だ。
 小林よしのりの名は一言も出てきていないが、最近の小林よしのりの論に対する明確な批判になっている(と感じた)。

0836/渡部裕明・産経新聞論説副委員長・11/14の「歴史的」大失態。

 一 奈良県の桜井市教委が、纒向遺跡内から大規模建物跡が発見された、と発表したらしい。
 産経新聞11/11は「卑弥呼の居館か」との大見出しを打って邪馬台国=近畿説の石野博信(香芝市二上山博物館長・元奈良県立橿原考古学研究所副所長兼附属博物館館長・関西大院卒)の「…卑弥呼の館の可能性はある」との言葉を伝え、辰巳和弘(同志社大教授)は「高床式建物はまさに卑弥呼の居室」と「明言」したと報道する一方で、邪馬台国=九州説の高島忠平(佐賀女子短大学長、元佐賀県教育委員会)は「大型建物跡は4世紀で卑弥呼の時代より50年以上も新しい」として「邪馬台国との関連を否定」した、と伝える。
 (なお、石野博信コメントは「可能性はある」というだけで断定するものではない。辰巳和弘コメントも「高床式建物」は「卑弥呼の居室」という一般論を示すだけで、今回発掘された建物跡の建物が「卑弥呼の居室」だったという趣旨ではないと解される)。
 産経新聞11/12は邪馬台国=近畿説の白石太一郎(大阪府近つ飛鳥博物館長、元奈良県立橿原考古学研究所所員、同志社大院卒)は邪馬台国所在地論争は「だんだん決着に近づいてきた」と「強調」した、と伝え、かつ赤塚次郎(愛知県埋蔵文化財センター調査課長、白石太一郎らとの共著あり)は「畿内説が有利になった」と「指摘」した、とする。
 同新聞は11/14から<卑弥呼いずこに・激論、邪馬台国>の連載を始めるが、第一回(上)に登場の、邪馬台国=近畿説だと思われる寺沢薫(橿原考古学研究所総務企画部長)は、「卑弥呼の宮殿として問題ないか」との先走った(幼稚な)質問に対して、単純な回答を避け、「卑弥呼が調査した辺りにいた可能性は高い」とだけ述べる。この部分を、記事は寺沢の顔写真の下にも引用している。
 11/15(日)に登場の七田忠昭(佐賀県教育・文化財課参事)は、邪馬台国=九州説の立場から「有明海沿岸が最有力」とし、纒向遺跡が示すのは「魏志倭人伝には登場しない別の勢力」ではないか、としている。
 11/16の第三回(下)はまだ読んでいない。
 二 以上、比較的長々と引用したのは、11/14の産経新聞「土曜日に書く/纒向遺跡と国家誕生」を書いた、産経新聞論説副委員長なる肩書きの渡部裕明の文章を奇異に感じたからだ。
 渡部裕明はこの文章(記事)の最後の方で「邪馬台国は大和で決着」との小見出しを付け、こう書いている。
 「邪馬台国九州説を唱える人はまだいる。しかし、それは学問的な発言ではなく、もはや『お国自慢』のレベルでしかないと筆者は感じている」。
 どのように「感じて」いようと勝手だし、それを全くの個人的・私的見解として公にするのも目くじらを立てることではないだろう。
 だが、産経新聞論説副委員長と明記したうえで、このようなことを書いてよいのか。内心で「感じる」ことや個人的・私的に語ることと、このような肩書きを付けて公式に活字にすることとの間には大きな懸隔がある。渡部裕明は、そう思わないか?
 第一に、自らの産経新聞に登場させている、邪馬台国九州説論者、すなわち、高島忠平や七田忠昭に対して失礼ではないか。「学問的な発言ではなく、もはや『お国自慢』のレベルでしかない」などと書いてしまうのは。
 なるほどこの二人は佐賀県に所縁があるのかもしれないが、それを言うならば、産経新聞が登場させている邪馬台国=近畿(畿内)説論者は、赤塚次郎を除く全員が「近畿」地域で仕事をしてきた者たちだ。
 第二に、この「産経新聞論説副委員長」氏は、いったいどの程度、所謂邪馬台国論争についての知識・素養があるのだろうか。
 同じ産経新聞社発行の月刊正論12月号は珍しく邪馬台国問題を取り上げ、黒岩徹「皆既日蝕が明かす卑弥呼の正体」を掲載しているが(p.232~)、この黒岩の文章は明確に邪馬台国=九州説を前提としている。そして、卑弥呼=天照大御神説でもある。
 まさかとは思うが、渡部裕明・産経新聞論説副委員長は、この月刊正論12月号の文章すら知らないまま、読まないままで、堂々と自信たっぷりに新聞紙上で邪馬台国=九州説は「学問的な発言ではなく、もはや『お国自慢』のレベルでしかないと…感じている」などと傲慢不遜な言葉を活字にしてしまったのではないか。
 長年の議論の蓄積があり、多様な論点がある問題について、いくら大(?)新聞の論説副委員長だとしても、上のように簡単に「決着」を付ける能力・資格などありはしない、と考える。
 三 素人の私ですら感じるのだが、産経新聞の11/12の一般記事が書く、纒向遺跡の中の「箸墓古墳」は「かつては4世紀の築造といわれたが、木の年輪幅の違いを利用して伐採年代を割り出す年輪年代測定法の成果などによって、3世紀の邪馬台国時代にさかのぼる可能性が高まった」、かかる研究により「今回の大型建物跡で出土した土器も、3世紀とほぼ特定できたという」こと自体が、まだ確立した学説にはなっておらず、争い・疑問があるところだろう。
 上の記事の文章すら正確には、「可能性が高まった」、「ほぼ特定できた」と叙述しているのであり、高まる「可能性」や「ほぼ…」というだけでは、何ら学問的に確立した考え方・認識にはなっていないことを認めた書き方だ。
 渡部自身も箸墓「築造の時期は、土器の編年や放射性炭素による年代測定などから3世紀半ばから後半と考えられるようになった。卑弥呼の没年と限りなく近づいた」と(こちらは断定的に)書く。
 しかし、これまた何ら学問的に確立した考え方・認識ではない。たしか国立歴史民俗博物館の研究者が見出したとかいう「放射性炭素による年代測定」方法なるものも、いかほどに科学的で信頼がおけるものかについて、専門家の間でも争いがあるはずだ。
 こんな曖昧な自社の記事や研究成果の影響を受けて、渡部裕明・産経新聞論説副委員長が、「箸墓」=卑弥呼の墓、今回遺跡出土の建物=卑弥呼の宮殿と「ほぼ」理解して、「邪馬台国は大和で決着」などという小見出しをつけたのだとすれば、大いにそそっかしいし、後世に、専門家でもないのに日本古代史上の問題に口を出して「結論」まで書いてしまった愚かなジャーナリストとして嗤われ続けるだろう。
 四 渡部裕明が書くように、纒向遺跡の地域=奈良盆地の東南地域が「ヤマト王権発祥の地」だったことは疑いなく、渡部が「もはや動かしがたいだろう」と書くまでもない。
 問題はそのあとに続けて、「邪馬台国(倭国連合)から古墳時代への移行はこの地〔纒向遺跡の地域=奈良盆地の東南地域〕で、直接的に行われたのである」と断定して書いたことだ。そのあとの一段落の文章(省略)では、こう言うための十分に説得的な根拠には全くならない。立ち入らないが、例えば、渡部は、記紀上の神話の記述、<神武東遷>伝承等、との関係をどう理解しているのだろう??

 五 箸墓=卑弥呼の墓説を有力視?させた、国立歴史民俗博物館の研究発表後に、安本美典・「邪馬台国=畿内説」・「箸墓=卑弥呼の墓」説の虚妄を衝く!(宝島社新書)は刊行されている(2009.09)。同・「邪馬台国畿内説」徹底批判(勉誠社、2008.04)もある。
 月刊正論12月号の黒岩徹「皆既日蝕が明かす卑弥呼の正体」は、安本美典の著作等を参考にしており、安本から「貴重な助言」を受けた、と明記している(p.239)。
 渡部裕明・産経新聞論説副委員長は大(?)新聞紙上に傲慢不遜な文章を書くのならば、安本美典の著作等も「参考」にしたらどうか(きっと一度も一冊も読んでいないだろう)。あるいは、安本美典の「貴重な助言」を受けて記事を執筆したらどうか。
 なお、安本は京都大学文学部・院卒、出身も九州ではない。<「お国自慢」のレベルでしかない>などと渡部が書けば、渡部自身が恥を掻くだけだ。
 六 日本史上の大問題に(箸墓=卑弥呼の墓説に関する朝日新聞と同様に)乏しい知識のみで簡単に決着をつけたつもりでいるのが「論説副委員長」なのだから、産経新聞紙上の「論説」のレベルの高さ(=低さ)も分かろうというものだ。何ともヒドく、情けない。

0834/渡部昇一の「裁判」・「判決」区別論は正しいのか?

 1952年4月発効の日本国との平和条約、いわゆるサンフランシスコ講和条約の11条第一文前段につき、「受諾」=accept したのは「裁判」ではなく「(諸)判決」(judgements)だとの旨を、渡部昇一は強調し続けている。
 月刊正論11月号(産経新聞社、2009)の巻頭、渡部「社会党なき社会党の時代」p.42は、田母神俊雄更迭←村山談話←東京裁判史観と系譜をたどった上で、日本の外務省は平和条約11条の「判決」を「裁判」と混同したため、日本政府・自民党は「卑屈」になった、外務省・小和田恒の国会答弁には「裁判と判決をごっちゃにした致命的な誤り」がある、等と説く。
 渡部昇一ら・日本を讒する人々(PHP、2009)p.149でも同旨を語り、11条の「…の受諾」という「部分の解釈をしっかりしておくことが、日本が独立として起つために不可欠の『知』だと思います」とも述べる。
 月刊ボイス10月号(PHP、2009)の渡部「東アジア共同体は永遠の幻」p.77では、次のようにすら述べる。
 「判決の受諾か、裁判の受諾か。これをどう考えるかで、じつは恐ろしい違いがある。『裁判を受諾する』といった場合には、東京裁判の誤った事実認定に基づく不正確な決め付け――南京大虐殺二十数万人や日本のソ連侵略というものまで――に日本が縛られつづけるということになるからだ。/げんに、『東京裁判を受諾した』ということが強調されるようになる一九八〇年前後から日本の外交は全部ダメになっていく。…」。
 講和(平和)条約11条第一文前段につき、「判決の受諾か、裁判の受諾か」を問題にする渡部昇一の問題意識とその結論的叙述は適切なのか?
 なるほど「裁判」ではなく「諸判決」の方がより適切な訳語であるように思われる。だが、そのことで、いったい何が変わるというのか?
 かねて、かかる疑問を持ってきた。だが、櫻井よしこも-渡部昇一の影響を受けてだろう-、とくに「左翼」による日本国・東京裁判「肯定」説に対して、「裁判」ではなく「判決」にすぎない旨を言って反論しているのを読んだことがある。
 また、法学者であるはずの八木秀次も、上のPHPの鼎談本の中で、渡部昇一の言い分をそのまま聞いていて、疑問を発しようともしていない。
 渡部昇一は①いかに「裁判」と「判決」を定義しているのだろう? いちおう別だが、重なり合うところの多い概念ではないか? あるいは、渡部昇一は②「判決」を判決「主文」のことだと誤解しているのではないか? 「判決」は「主文」と「理由」(・「事実」)から成り立っていることを知ったうえで語っているのだろうか?(かつては「主文」・「事実」・「理由」の三分だったが、後二者は「事実及び理由」に括られるようになっている-正確な叙述は別の機会に行ってみよう)。
 上の②の疑問からして、「裁判」と理解すれば、「東京裁判の誤った事実認定に基づく不正確な決め付け――南京大虐殺二十数万人や日本のソ連侵略というものまで――に日本が縛られつづける」が、「(諸)判決」と理解すれば「誤った事実認定に基づく不正確な決め付け」から免れる、などと簡単に言えるはずはない、と考えられる。
 また、上の①の疑問を基礎づけうるある法律用語辞典による「裁判」と「判決」の説明も、紹介したことがある(この欄の10/19)。再掲する。
 以下、有斐閣・法律用語辞典(第三版)による。それぞれ全文。
 「裁判」=「通常は、司法機関である裁判所又は裁判官が具体的事件についてする公権的な判断。訴訟事件の本案に関する判断はもとより、訴訟に付随しこれから派生する事項についての判断も含まれる。判決、決定及び命令の三種類がある。なお、両議院がその議員の資格に関する争訟について判断する場合及び弾劾裁判所が判断する場合にも、裁判という語が用いられる。」
 「判決」=「(1)民事訴訟法上、原則として口頭弁論に基づき裁判所がする裁判で、特別の場合を除き法定の事項を記載する文書(判決書)に基づく言渡しによって効力を生ずるもの。①確認判決、給付判決、形成判決、②終局判決、中間判決、③本案判決、訴訟判決、④全部判決、一部判決、追加判決等と講学上分類される。(2)刑事訴訟法上は、特別の場合を除き口頭弁論に基づいて裁判所がする裁判で、公判廷で宣告によって告知されるもの。すべて終局裁判である。」
 再度いうが、「裁判」ではなく「(諸)判決」と理解して(訳して)、いったいどういう違いが出てくるのか??
 <保守>の代表的論客の指摘だからといってつねに適切だとは限らない。上の問題を疑問視する<保守>知識人がいないようであることこそ奇妙というべきだ。
 渡部昇一は「裁判」(trial、tribunal)と「判決」(judgement)の違いに関する<英文学者>としての何らかの根拠をもっているのかもしれない。だが、その根拠自体がすでに危うい可能性がある。英米語(とくにアメリカ語)でも、「裁判」と「判決」は上の日本の辞典のようにやはり解されている可能性が高い。また、より適切に議論するためには<英米法>学者の知識も必要だろう。「裁判」・「判決」区別論には、あらためて論及する。   

0818/<左翼・売国>政権の成立と<保守>系メディア・論者等。

 一 2009年8月末総選挙の結果は、産経新聞、月刊正論(産経)、月刊WiLL(ワック)等々の<保守>系と見られているマスメディアがいかに<大衆的>影響力を持っていないか、を如実に明らかにした、と思われる。
 産経新聞200万程度の発行部数では、あるいは遙かにそれを下回る発行部数の雑誌等では、民主党に300議席超を与えるような有権者の投票行動を阻止できなかったわけだ。
 だが、<保守>系メディアはいちおうは民主党批判で一致していたとしても、<自民党へ>の投票行動を促すこととなるような報道や論調であったかというと、そうとは必ずしも言えないだろう。
 国家基本問題研究所の理事である屋山太郎がむしろ民主党支持の文章を産経新聞に掲載していたのはかりに極めて例外的であるとしても、選挙前の<保守>系メディアにおいても自民党批判はけっこう見られた。
 麻生太郎前首相・内閣が<集団的自衛権行使>の容認に踏み切らなかったこと、靖国神社参拝をしなかったこと等は、<保守>系メディアや<保守>系論者・評論家等によって批判されてもいた。
 選挙前ではないが、昨秋に田母神俊雄論文問題が発生したとき、<保守>系メディア・論者・評論家等の論調は分かれた。
 麻生太郎前首相・内閣の側を批判する者もいたが、明確に立場表明しない者や産経新聞上ですらむしろ田母神俊雄を批判する(論文内容そのものの他に発表方法等も含めて)者もいた。
 櫻井よしこが理事長である国家基本問題研究所は田母神を擁護するか否かの立場を明確にしなかった、と記憶する。そして、もっぱら、(田母神批判者側が用いた)<文民統制>という概念の用法・理解を問題にしていた。
 二 やや脇にそれたが、<保守>系メディア・論者・評論家等において<自民党(中心)政権>に対する評価は必ずしも一致していないことがあり、かつ、問題によっては強く麻生・自民党(中心)政権を批判する論調もあった。
 麻生・自民党(中心)政権は、朝日新聞を先頭とする<左派>からはもちろん、<保守>の側からも批判されていたのだ。あるいは少なくとも、<保守>系メディア・論者・評論家等は積極的に自民党を支持し、同党への投票行為を促すような発言をすることに、かなり又はきわめて消極的だった、と言えるだろう。
 これでは自民党が勝てるわけがない。民主党が大勝利して当然の事前の、<保守>系メディアを含めての、マスメディアの雰囲気だっただろう。簡単にいうと、自民党は<左>からも<右>からも批判されたのだ。<右>からも、かなりの程度は見放されたのだ。
 産経新聞を含む<保守>系メディア・論者・評論家等の記事や発言があったからこそ、民主党は308にとどまり、自民党は100以上の議席を確保できた、という見方もあるだろう(なお、今回のこの文章では、冒頭から、候補者個人の個性・能力・知名度等の問題は度外視している)。
 だが、自民党の100以上の議席の多くが<保守>系メディア等の力によるとはおそらく言えないだろう。
 むしろ、朝日新聞等の<左派>系メディア等の影響を何ら受けないで投票行動をしたという有権者がまだある程度はいた、ということであり、産経新聞や月刊正論・月刊WiLLの力はごく僅かにすぎないのではなかろうか。
 明瞭であるのは、産経新聞等ではかりに<社会>動向のポイントを他新聞よりも正確に認識できても、その<社会>動向を一般国民がどう認識し評価しているかは、ほとんど分からない、ということだ。むろん、<世論>の大勢や時代の「空気」・「風」など気にする必要はないとして、超然としていることはできるし、そのような態度を非難することはできないだろうとしても。
  三 選挙で投票をするからには、絶対的に理想的な政党がある筈はなく、相対的に<よりましな>・<より悪くない>政党を選択するしかなかった、と思われる。
 その意味ではいかに「正論」ではあっても、とくに選挙前に<よりましな>・<より悪くない>政党を批判することがどういう実際的・政治的効果をもつかを<保守>系メディア・論者・評論家等は考慮すべきだった、と思われる。
 真っ当な「保守」言論家として正しく自民党・麻生内閣を批判した、というだけで済ませてはいけないのではないか。
 国家基本問題研究所は今年8/05に講演会・月例会を開催しているが(以下も含めて同研究所のウェブサイトによる)、民主党に対する批判がより強いが、自民党批判も当然に見られる。
 櫻井よしこはシンポ全体の最後で、「民主党は…。国家とは何かをわきまえていません。自民党もわきまえていないが、より悪くない方を選ぶしかないのかもしれません」と発言し、これが最後の言葉になっている。
 屋山太郎等を理事に抱える同研究所の理事長たる立場もあるのかもしれないが、「より悪くない方を選ぶしかないのかもしれません」では、あまりにも弱いメッセージだろう。「より悪くない方を選ぶしかありません。従って、(問題はありますが)自民党を選びましょう」となぜ発言できなかったのか。
 櫻井よしこに限られるわけではないが、民主党内閣の成立可能性を低く見ていたのだろうか。そうだとすると少なくとも結果としては、その判断は甘かった。
 あるいは、これも櫻井よしこに限らない<保守>系メディア・論者・評論家等についていえることだが、民主党内閣ができてもさほど「左翼的(>容共的)」政策を実現しようとはしないだろうとでも考えていたのだろうか。かりにそうだとすると、その判断も甘い。
 実際には民主党(中心)政権が成立し「左翼的(>容共的」政策を実施しようとしているし、すでに実施しているものもある。
 今さら、もう少し自民党に肩入れしておけば、と思っても、もう遅い
 <左翼・売国>政権の成立を、<保守>系メディア・論者・評論家等は深刻に受け止めるべきだ。そして、自分たちの<大衆的>影響力の乏しさについても、深刻に自覚すべきだ。
 四 櫻井よしこは、産経新聞10/08の一面の文章の冒頭でこう書いている。
 「…鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」。
 なんと、すでに10月になって、文字通りには、「期待」を50%もち、「懸念」を50%もつ、と言っているのだ。
 「期待」 は「…官僚制度を、本来の国益追求に向かわせるための立て直し」だ、という。
 屋山太郎の影響を受けすぎているのではないか。「懸念は、外交、国防政策全般に及ぶ」らしいが、「外交、国防政策全般」が「本来の国益追求に」向かう「官僚制度」によって支えられればかなり問題は少なくなるのであり、上の二つは決して異なる次元の問題ではないのではないか。
 民主党(・社民党等)の政治(家)主導によって、「官僚制度」が「本来の国益追求に向かわ」ないことこそ深刻に心配・懸念しなければならないのではないか。
 かりに10年後、20年後に「本来の国益追求に」向かう「官僚制度」ができ上がった、としよう(1年やそこらで「官僚制度」が大変換するとは考えられない)。しかし、10年後、20年後までに日本国家そのものがさらに「左翼」化し、親中どころか屈中・隷中になり、「人権擁護」委員会が例えば中国人・韓国人批判の言論を<民族差別的>(「東アジア共同体」構想の理念に反する)として抑圧し、発言者を取り調べ<糾弾し>・<反省を求める>ような決定・勧告文書を発するような国家になっていたら、いったいどうなるのか。
 「外交、国防政策全般」に懸念をもちつつ、一方で「本来の国益追求に」向かうための「官僚制度」の立て直しに期待する、というのは、じつは矛盾した、論理整合性を欠く文章・論述なのだ。
 既述のように「外交、国防政策全般」等の具体的政策内容をまず第一に問題にすべきであり、公務員(官僚)制度改革うんぬんは、そうした政策内容実施のためのシステム・手段にすぎない。
 前者が悪くて、後者はよい、ということはあり得ない。
 むろん櫻井よしこが「本意」をそのまま書いて書いているとは限らないが、<保守>言論人が民主党(中心)政権に幻想をもっていると解さざるを得ない文章を公にしているとは、ますます日本の将来が思いやられる。じつに、泣きたいほどに、深刻な事態だ。
 五 ついでに書いておくが、自民党を全面的に、あるいは70%以上も、支持はしていない。田母神俊雄の「言論の自由」を石破茂や麻生太郎が守ろうとしなかったことには大いに失望したし、谷垣禎一や河野太郎あたりしか総裁選挙に出てこないようでは、この政党に未来はあるのだろうか、と感じてもいる。
 せめて80議席をもつのでよいから、自民党が壊れてもきちんとした<保守>政党ができればよいとも思っている(本当は民主党主導の憲法改正を避けるために、1/3以上の180(総議席数が民主党案のとおり400になると134)議席が欲しいが)。
 ともあれ、「正しい」ことは言った、しかし「負けた」、で済ませることはできないだろう。むろん、現実・実際がつねに「正しい」わけではまったくない。
 だが、日本共産党の選挙後のいつもの発言のごとく、「正しい」ことは主張した、しかし力足らずで現実にはほとんど受け容れられなかった、と釈明し、狭い空間に閉じ籠もっていてよいのかと、<保守>系メディア・論者・評論家たちには強く問いかけたいものだ。

ギャラリー
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