秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

月刊正論

1100/月刊正論編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言②。

 〇産経新聞1/24の「正論」欄、藤井聡「中央集権語ること恐るべからず」に対して、2/04に、「揚げ足取りと感じられる部分、橋下らの真意を確定する作業をしないままで批判しやすいように対象を変えている部分が見られ、まともなことを書いている部分が多いにもかかわらず、後味が悪い」から始まる批判的コメントを書いたことがあった。  上の藤井聡の文章について、当の橋下徹自身が、すぐさま1/24の夜に、ツイッターとやらで次のようにコメントしていることをつい最近に知った(私は橋下徹ツイッターの読者・フォローヤーではない)。
 「24日産経『正論』には愕然とした。藤井教授の震災復興で日本を強くするという趣旨の新書を読んでいたが、現実の政治・行政を預かる僕には、何も響かなかった。そして今回の正論。学者論評の典型だが、まず今の中央政府が機能しているという前提から入っている。現在の実態分析が何もない。」
 「行政機構が機能するためには、決定権と責任がはっきりとしていること。そして仕事の役割分担がきちんとなされていること。これが全てである。そして今の中央政府は、これが全くなされていない。だから行政機構を作り直そうと僕は言っているのである。」
 「藤井教授は、一から最適な政体を設計できる万能な人間などこの世にはいないという。確かに世の中に完璧な制度などない。しかし今よりも少しでも良いものを作ることに挑戦するのが政治である。学者は完璧な制度を研究するのが仕事なのであろう。」
 「そして藤井教授は、僕の言うところの地方分権、中央政府の解体が、中央政府の不存在だと曲解している。地方分権とは、中央政府と地方政府の役割分担の明確化である。現在、仕事がオーバーフローして機能していない中央政府を、身軽にして機能するようにする。これが地方分権なのである。」
 「藤井教授は行政機構をマネジメントしたことがない。ゆえに今の中央政府が機能不全に陥っていることが分からない。中央政府がやらなくてもいい仕事を中央政府がやっている。そのことが中央政府を弱くしているのである。」
 「そして国の出先機関を地方に移管することに反対しているが、これは国交省官僚の主張そのものである。まだこんな論を張るのかと愕然とした。確かに今回の東日本大震災において地方整備局は大活躍した。しかし地方へ移管しても同じ機能を発揮させる仕組みを考えれば良いのである。」
 「学者さんが陥るのは、問題提起された新しい制度についての批判点だけを挙げる。現実の政治・行政で重要なのは、現在の制度と新しい制度のどちらが良いのかという比較である。現在の制度の問題点の分析なのである。藤井教授は非常事態に備えて現在の地方整備局を維持せよと言われる。」
 「ところが現在の地方整備局の仕組みで、非常事態ではなく平時において、どれだけの問題点があるのかの分析が全くない。非常事態においては現在の地方整備局の形が必要だ!という主張しかしていない。地方の首長が現実の行政を仕切るにあたって、国の出先機関との関係でどのような問題意識を持っているか」
 「藤井教授の考えの根幹には中央と地方が相互に補完する関係を基調としている。現実の行政とはかけ離れた認識だ。これだけ複雑化した現代日本において行政の仕組みは複雑怪奇になり過ぎた。そして決定権と責任が全く分からなくなってしまった。非常事態が起きたときの行政機構の混乱ぶりは酷過ぎる。」
 「今新しい国づくりとしてやらなければならないことは、国と地方、そして地方部においても広域行政と基礎自治行政の役割分担、決定権と責任の整理・明確化。これが急務である。日本の中央政府を強くするためにも国の仕事をはっきりとさせて決定権と責任を明確化させる。これしかない。
 「行政機構も現実の人間が動かしている。生身の人間ができることなど知れている。藤井教授は中央政府にとてつもない幻想を抱いているがそれは研究室での話しだろう。普通の人間が適切・的確に仕事ができるような行政機構に改める。国と地方の役割分担。これが地方分権である。」
 「藤井教授は現在の体制で中央政府が強くなるとでも思っているのか?政治家を変える?もっと官僚組織を大きくする?組織が大きくなることと強くなることは全く別物。組織が強くなるということは大きさではない。機能することだ。」
 「国の出先機関、特に地方整備局を地方移管しても非常時に対応できるような仕組みを探る。これが現実の政治・行政論である。藤井教授の震災復興の著書が、現実の政治・行政を預かる僕の心に全く響かなかったのは、藤井教授の政府の実態分析の弱さ、そして組織を動かした経験のないことに起因する。」
 以上。1月24日23時54分以降。
 「現実の政治・行政を預かる」者が現実を知らない「研究室」の者に説諭しているようで、大人が子どもを説教するごとく、あるいは教師が学生を教示しているごとく、橋下徹と藤井聡の勝負?がまるで対決になっていないことは明らかだ。
 月刊WiLL4月号に藤井聡「橋下『地方分権論』の致命的欠陥」を掲載した編集長・花田紀凱にも、「地方分権とは、中央政府と地方政府の役割分担の明確化である。現在、仕事がオーバーフローして機能していない中央政府を、身軽にして機能するようにする。これが地方分権なのである」等の橋下徹自身の言葉をしっかり読んでおいていただきたい。
 〇たとえば上のようなことを橋下徹は(おそらくは推敲もしないで一気に)書いているのだが、月刊正論(産経)編集長の桑原聡は、橋下徹が「民意を利用する」「目的は日本そのものを解体することにあるように感じるのだ。なぜ解体するのか? 日本のため? それとも面白いから?」と同誌上で明記した。
 他の橋下徹の文章や政策等も含めて、いったいどこから、橋下徹は「日本そのものを解体」することを目的としている、という判断が出てくるのだろう?
 「左翼」論者の文章・文献の読み過ぎだろうか。
 桑原聡の感覚は<異常>だ。
 こんな感覚の持ち主が、産経新聞社発行の月刊正論の編集長であってよいのか。産経新聞社の多くのメンバーに尋ねたいものだ。

1099/月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言1。

 一 月刊正論(産経)の現在の編集長・桑原聡が、「個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う」と同5月号の末尾に書いている。740円という価格と情報量のCBA分析をして?やはり購入し、いくつかの論考等を読んだあとで見たのだが、喫驚した。
 少なくとも桑原聡が編集長でいる間は、月刊正論を新刊雑誌としては購買しないことにする。この欄の閲覧者にも、そのように呼びかけたい。
 「編集者個人の見解」としてはいるが、一頁分の編集後記にあたるものを一人で書いている、れっきとした編集長の文章であり、上のような、橋下徹を「きわめて危険な政治家」視する意識が、月刊正論の編集に反映されないはずはない。
 5月号の巻頭が先だって広告を見て言及したように、適菜収「橋下徹は『保守』ではない!」であり、表紙にも最大の文字で銘打たれているのも、桑原聡のかかる意識の現われだろう、と得心する。
 個人的にはそれこそどのように考えていてもいいとしても、このように明言するとは大胆で、珍しいと思われる。
 この月刊正論を発行している産経新聞社自体に問い糾したいものだ。
 第一。見解が分かれている中で、貴社の発行している雑誌の編集長が、上のような特定の「政治的」立場・見解を明らかにしてしまってよいのか
 第二。橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと明言する人物を、貴社の発行する雑誌の編集長にとどめているのは何故か
 産経新聞も、月刊正論も、岩波の「世界」や朝日新聞とは異なる、むしろそれらの対極にある「保守」派の、または「保守」的な新聞であり、雑誌であるという印象をもたれてきている、と言ってよいだろう。そして、その点に共感して購読・購入している国民も少なくないはずだと思われる。そしてまた、産経新聞における橋下徹に関係する記事は、したがって彼への注目度は、他紙に比較して多く、大きいような印象もある。
 しかるに、同じ会社が発行する月刊雑誌の編集長が上のように明言してしまうのは、そしてそのような考え方のもとで雑誌が編集されるのは、むろん雑誌編集の裁量がかなり認められているのではあろうが、貴社自身のマスメディアの一つとしての姿勢と整合しているのか
 二 桑原聡自身はなぜ橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと思うかの根拠・理由をほとんど書いていない(根拠にもならないような文章については後で触れる)。
 その代わりに、自分自身の考え方に近い適菜収の(低劣な)論考を巻頭にもってきて、自らの「個人的」な姿勢を反映させた、ということなのだろう。
 ということは、かりに橋下徹を肯定的に評価している編集長であったならば、山田宏「平成の『龍馬伝』がはじまった」から採って、「橋下徹は平成の龍馬だ!」というタイトルで大きく広告され、表紙も作成されていたのかもしれない。
 桑原聡はこの山田宏の論考も加えるなどして、編集の公平さを装っているようだ。そして「特集を読み判断していただきたい」と読者に判断を委ねるかっこうをつけている。
 それはそれで一見公平らしくも見えるのだが、しかし、上の一文は「橋下氏の目的は日本そのものを解体することにあるように感じるのだ。なぜ解体するのか? 日本のため? それともたんに面白いから? 特集を読み判断していただきたい」という文章の一部だ。念押し的に、橋下徹は<日本解体(論)者だ>との桑原聡の考え方を書いた上での言葉なのだ。
 一見読者の判断に委ねつつ、自己の見解の方向へと誘導しようとしている、情報操作・意識操作をしようとしていることは疑いえない。
 それにしても、上の文章の、上野千鶴子ら「左翼」にも似た、気味の悪さはどうだろう。「日本解体」が目的だろうとする論拠を示していないこともあまりにも不誠実で唐突だが、その後の?の連続部分からは、感覚・判断能力の<異常さ>をすら感じてしまう。
 産経新聞社にあらためて問うておこう。こんな内容の文章を唐突に書いてしまう人物は貴社発行の月刊雑誌編集者としてふさわしいのか、と。
 三 桑原聡の情報操作・意識操作の意図(・意識)にもかかわらず、橋下徹関係の四つの論考のうち、最も空虚、最も観念的で低劣なのは適菜収のそれであり、あとは大きな抵抗感なく読めるもので、橋下徹が「きわめて危険な政治家」だとの印象は(桑原の意図に反して?私は)まるで受けない。
 適菜収のものは別に扱いたいが(出発点の「B層」大衆論など、それこそファシスト紛いの気持ち悪いものだ)、山田宏は的確にポイントを衝いている。橋下徹は簡単に前言を翻すとか最近に書いたが、山田宏によると、橋下徹は「実際に会ってみると、じつに謙虚で人の話をよく聴く…。しかも、自説の間違いに気付くと素直に認めて撤回する」と、上手に説明されている(p.61)。

 佐藤孝弘「日本よ、『保守する』ことを学べ」は橋下を肯定的に評価してはいないが、消極的・否定的に論評してもおらず、性急な判断を避けている(あと一つは、内田透「かくて職員組合は落城せり」で、橋下徹を貶すような内容ではなく、むしろ逆かもしれない)。
 四 桑原聡は同じ文章の中でこうも書いている。
 「保守を自任ママ〕する人々まで、印籠を掲げて労働組合を組み伏せようとする橋下氏に喝采を浴びせるが、その矛先がいつか自分たちに向けられると考えたことはないのだろうか」。
 これも産経新聞社発行の月刊正論の現在の編集長の文章だ。
 先に紹介した部分と併せて見ても、どうやら、桑原聡にとっては<反橋下>は<情念>にまで高められているようだ。
 それに、上の文章には反論することが十分に可能だ。橋下徹が攻撃しようとしているのは「戦後体制」・戦後の既得権者たち(官公労働組合も当然に含む)であって、<戦後レジーム>の終焉、日本の「再生」を望む人々にとっては、喝采こそすれ何ら怖いものではなく、橋下徹を怖れているのは、現状に(そこそこ?)満足している、<戦後レジーム>に基本的な疑問を持たない、(そこそこに)利益を得てきている者たちではないか、と。
 桑原聡はどうやら、「左翼」と同様に橋下徹の矛先が自分に向けられることを怖れているようだが、それは、月刊雑誌の編集長にまで登りつめ?、さらに販売部数を伸ばして会社内で「いい気分」を味わいたいと思っている、その現状を「保守」したいからではないのか。
 桑原聡にとっては、現状はそこそこに安住できるもので、その現状・地位を橋下徹によって攪乱されたくない、というのが本音ではあるまいか。
 こういう意識は、昨年秋の大阪市長選で、橋下徹に対立した現職市長を民主党とともに支持した自民党市議団の意識とほとんど等しいと思われる。
 あらためて言っておこう。「右」からという粧いをとってはいるようだが、「右」からか「左」からかは不明なままに、日本共産党・民主党、両党支持の労働組合、そして上野千鶴子、香山リカ、山口二郎、佐高信等々の「左翼」論者と同様に、産経新聞社発行の月刊正論の編集長が、橋下徹は「きわめて危険な政治家」だと明言した。
 山田宏も指摘しているように、<保守>派の最大の課題と言ってもよい憲法改正(をシンボルとする「敗戦後体制」の破棄)の方向で、産経新聞や月刊正論の記事・論考の多くの字数よりもはるかに大きな影響力を、橋下徹の今後のひとこと・ふたことが持つだろう(p.58参照)。そのような人物を「危険」視するとは、とりわけ月刊正論の編集長としては、桑原聡の感覚は<異常>なのではないか。
 五 産経の月刊正論が「橋下市長に日本再生のリセットボタンを押させまいと、イメージ悪化を狙ったさまざまな妨害活動を仕掛けてくる」(山田宏、p.59)ようなことのないように、切に望みたい。
 桑原聡では危ない。月刊正論(産経新聞社)は、編集長が替わるまで、新刊本としては購入するのは避けた方がよい。買うとしても、桑原聡編集長による月刊正論の販売部数が一部でも増えないように、発行後しばらくして、アマゾンあたりのお世話になることにしよう。

1097/安倍晋三は正しく橋下徹を評価している。

 一 安倍晋三は4/02のBS朝日の放送の中で、大阪市の橋下徹市長を「こういう時代に必要な人材だ」と評価したらしい(ネットのの産経ニュースによる)。
 いろいろと問題はあり、あやういところもあるが、<保守>派は、橋下徹という人間を大切にしなければならない、あるいは大切に育てなければならない
 安倍晋三には同感だ。
 これに対して、谷垣禎一は、橋下徹・大阪維新の会への注目度の高まりについて、先月、ムッソリーニやヒトラーの台頭の時代になぞらえた、という(同上)。
 自民党リベラル派とも言われる谷垣と朝日新聞がかつて「右派政権」と呼んだときの首相だった安倍晋三の感覚の違いが示されているのかもしれない。
 ムッソリーニ、ヒトラーを引き合いに出すのは、昨秋の選挙前に、日本共産党の府知事選挙候補者が大阪市長選への独自候補を降ろして民主党・自民党と「共闘」して前市長の(当時の現職の)候補に投票したことについて<反ファシズム統一戦線ですよ>と述べた感覚にほとんど類似している。
 <反ファシズム統一戦線>という「既得(利)権」擁護派に勝利したのが橋下徹・大阪維新の会だった。日本共産党や「左翼」労組がきわめて危険視し警戒した(している)のが、橋下徹だ。
 そういう人物について「保守」ではない、といちゃもんをつけている月刊正論(産経新聞)または適菜収中島岳志の気がしれない。
 別の機会にあらためて書くが、佐伯啓思が「敗戦後体制」の継続を疎み、それからの脱却の必要性を感じているとすれば(佐伯啓思・反幸福論(新潮新書))、その方向にあるのは橋下徹であって、「敗戦後体制」のなれの果てとも言える、自民・民主・共産党に推された対立候補の平松某ではなかったはずだ。その点を考慮せずして、あるいはまったく言及せずして、なぜ佐伯啓思は、橋下徹批判だけを口にすることができるのか。
 優れた「思想家」ではある佐伯啓思は、週刊新潮にまで名を出して(週刊新潮4/05号p.150)「橋下さんのようなデマゴーグ」等と橋下徹を批判している。インタビューを拒むことも出来たはずなのに、佐伯啓思は自分の名を「安売り」している。佐伯啓思のためにもならないだろう。
 なお、橋下徹を批判する(とくに「自称保守」派の)者やメディアは、橋下徹を支持または応援している、石原慎太郎、堺屋太一、中田宏、古賀茂明等々をも批判していることになることも自覚しておくべきだろう。
 二 橋下徹があぶなかしいのは、例えば<脱原発>志向のようでもあることだ。彼は、現時点では福井県大飯原発の再稼働に反対している。
 私はよくは解っていないが、別に書くように、<脱・反原発>ムードの「左翼」臭が気になる(大江健三郎らの大集会の背後に、または平行して、日本共産党の政策と動員があった)。必要以上に危険性を煽り立て、日本の経済の、ひいては、健全な資本主義経済の発展を阻害することを彼らはイデオロギー的に意図しているのではないか。
 コミュニスト・「容共」を含む「左翼」は、基本的に資本主義に対する「呪い」の情念を持っていて、資本主義経済がうまく機能することを邪魔したいし、同じことだが、「経済」がどのようになっても、破綻することになっても(それで自分が餓死することはないとタカを括って)平気でおれる心情にある。枝野幸男経済産業大臣にも、それを少しは感じることがある。
 しかし、橋下徹はそのような<イデオロギー的>脱・反原発論者ではなさそうだ。
 青山繁晴によると、大阪府知事・市長の二人は原発問題について「ダマされている」とナマのテレビ番組で述べたあとで、(楽屋で?)二人と話したとき、橋下徹は<関西電力から情報を出させたいだけですよ>旨を言った、という(某テレビ番組による)。
 けっこう前言を翻すこともある橋下徹は、また<戦術>家でもある橋下徹は、この問題についても、納得ずくで意見を変える可能性はあるだろう。
 ついでにいうと、大阪府市統合本部とやらは関西電力の原発について「絶対的」安全性を求めるようだが、これは無茶だ。この点では、「絶対的」という条件には反対だったという橋下徹の考え方の方が正常だ。
 市販されている薬剤でも使用方法によっては死者を生み出す。売られ、乗られている自動車によって、毎日20人程度は死亡している(かつては一年間の交通事故死亡者は1万人を超えていた)。にもかかわらず、自動車の製造・販売中止の運動または政策があったとは聞いたことがない。<生命最優先>は現実のものにはなっていない。
 「絶対的」に安全なものなどありはしない。<リスク>と共存していく高度の知恵を磨かなければからない。―という、しごくあたり前で抽象的な文章で今回は終える。
 冒頭に戻って繰り返せば、安倍晋三の橋下徹に関する感覚はまっとうだ。

1095/水島総、適菜収、橋下徹、野田内閣。 

 〇水島総が、「撃論+(プラス)」という雑誌(oak-mook。2012.04)で、「今、最も問題なのは、反日メディアや反日政治家、反日財界なのではない『戦後保守』と言われる言論人の一種の頽廃というべき姿である」と書いている(p.171)。
 現在の「保守」派がかなり混乱していることは確かだと思われ、「頽廃」という形容が的確かは悩むが、私とも問題関心に共通するところはあるだろう。
 このようなブログだから「保守」派のあれこれに対して批判的な言辞も吐いてきた。100%信頼できる人物はいないと(残念ながら)感じているので、テーマ、論点に応じて、櫻井よしこ、西尾幹二、佐伯啓思等々を批判したこともある。だが、<このようなプログだから>影響力は微々たるものだとの自覚があるからなのであり、保守派内部の対立・軋轢を拡大する意図はない。
 産経新聞社も(以前から)意図しているようである憲法改正にしても、現憲法を前提にすれば(なお、石原慎太郎の「破棄」論は精神論としてはともかく、現実的には無謀だ)国会内に2/3以上の改憲勢力を作らなければならず、有権者国民の過半数の支持を受けなければならない。
 産経新聞3/31に論説委員・皿木喜久が書いているように(この人にはまともな文章が多い)、かりに憲法を軸にした「保守合同」を展望するとしても、それは命がけ」で取り組まれなければならない課題だ。
 そうした状況において、「保守」派内部において、「自称保守」とか「エセ保守」とか言い合っている余裕は本来は十分にはないはずだ。あるいは個々の論点について対立してもよいが、憲法改正、正確にはとくに現憲法九条2項の削除と「国防軍」の設置(「自衛軍」という語よりもよいと思う)、についてはしっかりと<団結>しておく必要があろう。

 憲法・国防といった国家の基本問題に比べれば、橋下徹・現大阪市長をどのように評価するかなどという問題は「ちんまい」テーマだ。
 にもかかわらず、産経新聞社の月刊正論5月号は、3/31の大きな広告欄によると、「橋下徹は『保守』ではない!」という一論考のタイトルを最大の文字の惹句にしている。
 「国民の憲法」起草委員会を作ったのだったら憲法改正大特集でも不思議ではないが、上の文字を最大の謳い文句にする感覚は(私には)尋常とは思えない。
 上の論考の執筆者らしい適菜収は冒頭掲記の「撃論+」にもたぶん似たようなことを書いているので、―今回は立ち入らないが―主張内容はおおよその推察ができる。「評論家」の佐伯啓思にもむつかしい問題に「哲学者」が適切に対応できるとはとても思えないが、この、よく知らない適菜収という「哲学者」にとっては、またとない「売名」の機会になったことだろう。あるいはまた、橋下徹をテーマにすれば(とくに批判すれば)<売れる>という月刊正論編集部の<経営的>判断に乗っかかっているだけなのかもしれない。
 ついでだから立ち入るが、「撃論+」の中の小川裕夫「検証/橋下改革は本当か?」(p.150-)の方が、橋下徹について冷静にかつ客観的に判断しようとしており、性急な結論づけをしていない。
 このような性急に単純な結論・予測を述べない姿勢の方が好感をもてる。「撃論+」よりも数倍の(十倍以上の?)読者をもつだろう月刊正論の編集部が、<橋下徹は保守ではない!>と訴えたいらしいのはいったいどうしてなのだろうか。まだ民主党政権のゆくえや解散・総選挙問題を直接のテーマにする方が時宜にかなっているように思われる。
 〇水島総の文章に戻ると、しかし、水島がいう「戦後保守」の「頽廃」の意味、したがってまた水島の考えている「(真の)保守」の意味は必ずしも明確ではない。水島は次のように書く。
 ・保守を標榜しつつも「TPP参加や増税、女性宮家創設等で分かるように、GHQ日本国憲法内閣と言ってもいいほど」なのが野田民主党内閣の本質であり、「日本の国体そのものの解体を目ざしている」にもかかわらず、「戦後日本意識」を脱し切れず、有効に批判できていない。「戦後保守と呼ばれる言論人は、野田内閣の『改革路線』を批判出来ず、野田内閣に一定の支持を与えたり、政権権力にすり寄る、まことに見苦しい迷走を続けている」(p.171)。
 ここで批判されている「戦後保守」言論人とはいったい誰々なのだろうか。
 「TPP参加」を批判されるべき野田内閣の政策の一つとして挙げているところを見ると、櫻井よしこ、竹中平蔵あたりなのだろうか(きちんと確認しないが、岡崎久彦もこれに反対ではなかったようだ)。政権権力に「すり寄る」とは厳しいが、櫻井よしこは野田内閣への期待を明確に(産経新聞紙上で)述べたことがある。
 だが、「TPP参加」に反対するのが「(真の)保守」とは私は考えないし、「保守」か否かで簡単に判断できるものでもないように思っている。
 月刊正論に連載欄を持っている水島総の「保守」派性を(その内容から見て)微塵も疑いはしないが、具体的問題となると、私とまったく同じように考えているわけでもなさそうだ。
 急いで書かれただろう文章にあまり拘泥するのもどうかとは思うが、いま一つ、水島の論述には分かりにくいところがある。
 水島は、「アメリカ拝跪から中国拝跪へ」という時代の変化を語りつつ、いずれも「主権国家意識の欠如した戦後意識」に由来する点で共通する、と批判的に指摘している。
 この点はまだ分かるのだが、次の文章との関係はどうなるのだろう。
 ・「親米反中だから、保守内閣であるとの誤解は、冷戦構造が世界的に終焉した現在にあっては全く通用しない」(p.171)。
 後半の冷戦構造の終焉うんぬんは、そのままでは支持できないことは何度もこの欄で書いた。よく分からないのは、野田内閣を「親米反中」内閣と性格づけていることだ(なお、「保守」内閣だなどと私は「誤解」したことはない)。
 まず、「中国拝跪」意識を水島が批判しているところからすると、野田内閣の「反中」性を批判し難いのではないだろうか。
 つぎに、野田・民主党内閣は本当に「反中」内閣なのだろうか。なるほど、鳩山由紀夫、菅直人と比べると<中国拝跪>性は弱いようにも思えるが、「反中」とまで言いきれるのかどうか。具体的に<南京大虐殺>の存在を肯定しているわけでもない村山談話を継承すると(河村たかし名古屋市長発言問題に関連して)官房長官が答えるような内閣は「反中」なのだろうか。
 〇「保守」派を攪乱する意図はないし、そのような力もないが、いろいろと考え方あるいは表現の仕方が異なるのはやむを得ない。ひょっとすれば、水島総における「反米」性(TPP参加反対はこちらだろう)と「反中」性との関係がよく分からない、ということかもしれない。
 だが、早晩憲法改正の具体的展望が出て来たときには、水島総が、その先頭に立つ運動家の一人だろうことは疑いえないだろう。この点では「思想家」佐伯啓思らよりもはるかに信頼が措けそうだ。余計ながら、西部邁と中島岳志はまるであてになりそうもない、という印象を抱いている。中島岳志は、憲法改正、正規の軍隊保持などという「ラディカル」な変化の追及は、「保守主義」と適合しない、などと言い始めるのではないか(??!)。
 〇西部邁・佐伯啓思グループの隔月刊・表現者(ジョルダン)は、橋下徹批判特集の最新号からは購読しないこととした。駄文につき合っているヒマはない。前の「発言者」時代の古書を購入したことすらもあったのに、ある意味では寂しく、ある意味では爽快でもある。
 このグループの橋下徹批判よりもレベルが落ちていると疑われる適菜収論考が<売り>の論文として宣伝されている月刊正論5月号(産経)も購入したくないが、はて、どうしたものだろう。

1090/撃論第4号-中川八洋の東口暁・月刊WiLL批判。

 昨年10/26と11/08のエントリーで、雑誌・撃論第3号(オークラ出版)に言及している。
 同・撃論第4号(2012.04)を最近に概読した。
 前号では背中に<月刊WiLLは国益に合致するか>と書かれていて、その特集が主張したいほどではあるまいと感じた。但し、今回の号を読んで、月刊WiLL批判が当たっていると感じる程度は、少しは大きくなった。
 それは、月刊WiLL(ワック)が東谷暁や藤井聡という<西部邁・佐伯啓思グループ>メンバーに橋下徹批判を書かせていることに関係しているが、この撃論は再び(背表紙に謳ってはいないが)、橋下徹批判をしている東口暁の<TPP亡国論>を指弾する中川八洋の論考を掲載しており、かつ中川は「民族系月刊誌『WiLL』」をも大々的に批判しているからだ。
 中川は「TPP賛成派はバカか売国奴」とまで銘打ったこともある月刊WiLLにお馴染みの雑談話の堤堯と久保紘之も批判していて、久保を「テロリスト願望のアナーキスト」、堤を「無国家主義者・非国民であるのを公然と自慢」などと批判している。また、よりまともな?TPP反対論者の中野剛志も批判している。
 堤らに大した関心はないし、中野の議論には関心はあるがその本を読んでいないので、ここでは紹介はしない。
 といって東口暁のTPP亡国論批判をそのまま紹介するつもりもないが、中川八洋は東口について、こう言う。
 「TPP加盟を『日本は米国の属国になる』などと叫びながら、大中華主義に従った、日本の中共属国化である『東アジア共同体』を批判しない論など、非国民の危険な甘言にすぎない」(p.109)。
 また、「左右に巧妙に揺れる”マルクス主義シンパ”東口暁」、「『中共の犬』が本性か?」などと題して東口の論述内容を批判している(p.119-)。
 もともと東口の経済論議を信頼性が高いとは思ってはいなかったが、関心をとくに惹くのは、橋下徹はTPP賛成論者である一方、東口暁は同反対論者であり、その東口を中川八洋が、「非国民」、「マルクス主義シンパ」等と批判している、ということだ。
 中川は月刊WiLLには論及しているが、<西部邁・佐伯啓思グループ>に言及しているわけではない。だが、西部邁は橋下徹と違ってTPPに反対だと明言してもいるのだ(最近の週刊現代3/17号p.183                                          も参照
 グループとして一致しているかは確認していないが、西部邁と東口暁はTPPについて(も)同じような考え方に立っていると理解してよく、従って中川八洋は西部邁(さらに佐伯啓思らとのグループ?)とも対立している、ということになろう。
 さらに関心を惹くのは、中川八洋は東口を、米国には厳しく中国(中共)には甘い、反共よりも反米を優先している、という観点から糾弾しているのであり、このような批判または疑問は、<西部邁・佐伯啓思グループ>に対して私が感じてきたものと基本的に同じだ、ということだ。
 「東口は”中共の犬”で、日本国の安全保障を阻害する本物の売国奴と考えてよいだろう」(p.122)とまで論定してよいかどうかは別としても、西部邁、佐伯啓思、東口暁らは、反米自立(または反近代西欧)の重要性をそのかぎりではかりに適切に強調してきているとしても、中国またはコミュニズムに対する批判を全くかほとんど行わない、という点で見事に?共通している。
 彼らについて、「左翼」と通底しているのではないかと(やや勇気をもって)書いたこともあった。この点を、中川八洋は明確に指摘し、論難しているのだ。中川からすると、東口などは「マルクス主義シンパ」の「左翼」そのものであるに違いない。
 中川八洋が共産党員・共産主義者(コミュニスト)というレッテル貼りを多くの者に対してし続けているのは、少なくともにわかには賛同できないが、しかし、中川の「反共」(少なくとも中川にとっては=「保守」)の感覚は鋭くかつ適切ではないかと私は感じている。
 <西部邁・佐伯啓思グループ>は、「保守」主義を自称しつつもじつは「反米的エセ保守」ないし「民族的左翼」、もしくは「合理主義的(近代主義的)保守」とでもいうような(同人誌的)カッコつき「思想家集団」であって、本来の<保守>陣営を攪乱している存在なのではないか、という疑念を捨て切れない。
 別に佐伯啓思にからめて書きたいが、西部邁・佐伯啓思らは、「日本的なもの」・「日本の伝統・歴史」なるものを抽象的ないし一般論としては語りつつも、国歌・国旗問題に、あるいは「天皇制」の問題に(皇統継嗣問題を含む)、じつに見事に、具体的には論及してきていない。中共、北朝鮮問題についても同じだ。
 なお、このグループの橋下徹批判、TPP反対論、これら自体は、日本共産党の現在の主張と何ら異なるところがない。ついでに、このグループの中島岳志は依然として、「左翼」週刊金曜日の編集委員のままだ。
 中川八洋の批判は月刊WiLLにも向けられていて、月刊WiLL=世界=前衛=しんぶん赤旗であり、「赤色が濃く滲む、保守偽装の論壇誌」と「断定して間違ってはいまい」とまで書いている(p.113)。
 これをそのまま支持するものではないが、月刊WiLLは、そして同編集長・花田紀凱は、かかる批判・見方もあることを自覚し、かつ中川八洋もまた執筆陣に加える(中川に執筆依頼をする)ことを考慮したらどうか。
 蛇足ながら、東口暁は月刊正論の「論壇時評」の現在の担当者でもある。月刊正論(産経新聞社)だからといって、すべてがまっとうな「保守」論客の文章であるわけではないことを、言わずもがなのことだが、読者は意識しておく必要がある。

1075/東谷暁・南木隆治・遠藤浩一と橋下徹。

 〇東谷暁は月刊正論2月号(産経)の連載「論壇時評」で、2頁を使って、橋下徹を批判している、または、警戒視している(p.196-)。後半は産経新聞に書いていたのと同じ内容で、<一粒で二度おいしい>(同じことを書いて2回原稿料を稼ぐ)とはこのことを言うのだろう。
 橋下徹を無条件に支持はしないし、彼の勝利はある程度は一種の「ポピュリズム」の結果だとも思うが(なお、対立候補も民放のローカルニュース・キャスターの経歴を持っていた)、有権者は、当選者が一人の場合、候補者が2人の場合は<どちらがよりましか>で、3人以上の場合は<いずれが最もましか>で判断せざるをえない。
 当選者を批判するのはよいが、では対立候補(大阪市の場合は平松某)が当選した方がよかったのか、対立候補だった者(平松某)についてはどう評価し、論評するのか、と東谷暁には問いたいものだ。

 〇同じ月刊正論2月号の南木隆治「橋下前知事が教育改革で見せた凄み」の中に、―この論考全般への言及は省略する―興味深い記述がある。
 ほとんど報道されていないと思うが、これによると、橋下徹は知事辞任直前の2011年10月20日に、「大阪護国神社秋季例大祭」に「公式参拝」している(p.77)。
 福岡政行は隔週刊・サピオ1/11・18号で「次の次の」総選挙に橋下徹は出馬して「橋下政権」が「誕生する可能性さえある」という(p.34)。こんな予測のが当たるかどうかは全く不明だが、万が一(?)橋下徹が首相になったとすれば、この人物は靖国神社「公式参拝」をするのではないか。
 〇再び月刊正論2月号に戻ると、遠藤浩一「維新前夜―英雄の条件」は、次のように橋下徹に言及している。
 「口が達者らしいことを除いて橋下氏について判断材料を持ち合わせていない小生としては、英雄に大化けするかの判断は留保」する(p.55)。
 <英雄に大化け>するかどうかは「英雄」の意味も含めてこの欄の筆者にも分からないが、橋下徹について「口が達者らしいこと」しか知らないとは、(政治)評論家としてはお粗末だろう。但し、おそらくはそれ以上の知識は持ちつつも、(櫻井よしこと同様に?)評価を「逃げて」いる、という方が正確だろう。

 判断材料が乏しいのはこれまでの橋下の経歴からしても仕方がなく、従って確定的な評価をし難いのはやむをえない、とは言える。天皇・憲法(九条)・防衛(・中国)等について、橋下徹は明言したことがないのは確かだ。
 だが、かなりの程度の想像はできる。例えば、朝鮮学校無償化に反対する動きを迅速に見せたのも自治体首長の中では橋下徹だった。上の「護国神社」参拝も一つの材料にはなるだろう。

1074/中西輝政「米中対峙最前線という決断―米軍が日本から消える日」(月刊正論)と産経。

 〇月刊正論2月号(産経)の中西輝政「米中対峙最前線という決断―米軍が日本から消える日」(p.86-98)は、米オバマ大統領の2011.11演説によるアメリカの対中強硬政策への明示的な転換、その具体的内容を軍事面を中心に月刊WiLL上よりも詳細に述べている。その代わり、日本自体についての言及は少ない。
 印象に残る部分二つのみを、以下に紹介。
 ・「中国が共産党一党独裁のまま市場経済に移行すれば国際社会にとってかつてない深刻な脅威となる」という二〇年前に生じた懸念は脳裏から離れず、国際社会や日本はいつそれに気づくのかと訴え続けてきた。「ようやくアメリカがそのことに気付」いたが、遅すぎたかもという懸念もある。中国が持ってしまった力を思えばこそだが、「責任はひとえに”日中友好”に浮かれ、何の国家戦略も持たずに中国をここまで強大化させてきた日本人の側にある」(p.87-88)。
 ・「アメリカの戦略転換」に対する中国の「巻き返し戦略」に日本はどう対処すべきか。「現状では殆どその能力を欠いている」。「対日工作に対する日本の政治と世論の抵抗力は極めて脆弱」で、「政治の決断」、「防衛力の顕著な増強」が不可欠だ。もう遅いかもしれないが、緊急性が高いのは「財政危機よりも社会保障よりも」「防衛力の増強」だ。併せて、集団的自衛権行使・憲法改正という体制・精神の整備をしての「国家戦略の大転換」が必要だ(p.98)。
 このあと、月刊WiLLで書いていたような条件つきの「楽観」的文章で終わっている。
 〇ところで、月刊正論2月号の表紙の最大の見出しは石原慎太郎の立川談志に関する文章で、中西輝政の上の論考名もあるが、屋山太郎(!)の文章のタイトルの下に小さく?書かれている。また、目次欄でも、リーダー・英雄論を主テーマ(特集)するかのような記載がされている(実際にそのような扱いだ)。
 石原慎太郎や立川談志を蔑視するわけでは全くないが、この二人に関係するものを最も大きく目立たせるとは、月刊正論の編集部はセンスがない。それとも、<お堅い>政治・社会論壇誌とのイメージを払拭したいのだろうか。また、「英雄」・「リーダー」特集も、あまり面白くない。
 産経新聞(社)や月刊正論は「保守」の側に立つ最大の、または少なくとも重要なメディアのはずなのだが、経営的にも岩波書店や朝日新聞社の方が安定しているだろうし、堅い芯と執拗さという点でも岩波や朝日新聞には劣っていそうだ。そして、的確に政治状況を把握しての的確な編集のセンスという点でも「左翼」メディアに負けているのではないだろうか。
 「保守」は相対的な少数派であり、今後も<勝てそうにない>のでないか、という悲観的見通しを持たざるをえないのも、(産経の個々の社員を論難はしないが)「保守的」雑誌・新聞等々の有力なまたは中心的な戦略・司令塔のような媒体が存在していないことにある。むろん、ゲリラ的なもの(?)を含む多数の「保守」系雑誌等のあることは知っているが、おそらくは(「大衆的」な)広がりに乏しい。
 中西輝政論考を冒頭に持ってき、また、<解散・総選挙>の実施を煽るような編集方針でないと、(本来は)いけないのではないだろうか。ないものねだりかもしれないような期待を、産経新聞(社)に寄せつつ(1/4記)。

1072/米中冷戦時代への突入-中西輝政論考。

 〇大した数を読んではいないが、昨年末に読んだ論壇誌類中の論考の白眉は、月刊WiLL2月号(ワック)の中西輝政「二〇二〇年は日本の時代」(p.30-47)だろう。実質的に巻頭論文であり、表紙でもこのタイトルが最右翼に掲示されている。もっとも、産経新聞を含む大手メディアは無視または軽視するかもしれない。
 「二〇二〇年は日本の時代」は文末の(条件つきの)楽観的予測から取ったものだろうが、内容的には、中西輝政が類似のことも指摘・主張している、月刊正論2月号(産経)中の、「米中対峙最前線という決断」(p.86-)というタイトルの方がよいかもしれない。
 以下は、月刊WiLLの方の要約的紹介。
 ・「非常に優れた保守の論客」との会話で中国の脅威を軽視しているのに驚き、日本の「保守の分岐点」はここにある、と感じた。「中国の脅威をどう考えるか」で保守の立ち位置も極北・極南ほどに離れる(p.30)。
 ・アメリカが日本に及ぼす害悪は日本「文明」に対するものである一方、中国のそれは、日本「国家」の存立を劇的に脅かしている。また、深刻度は同じでも切迫度に大きな差がある。日本の「保守」は「国家の危機」にこそ敏感になるべきだ(p.31)。
 ・近年の中国の軍事・外交動向に欧米諸国は「あらたな国家モデル」の提示と「世界覇権」への意図を感じ取った。多くの途上国は前者に影響を受けている。リビアも「中国モデル」継承者だったが、この国に介入した英米軍等にはそのモデルは「許さない」との意志があった。これは<米中新冷戦>構図の北アフリカ版で、「世界秩序」は歴史的に重大なとば口に立っている。この「中国の脅威」に「世界中で一番鈍感なのは、日本人」だ(p.32-33)。

 ・尖閣事件等々は中国の本質を分からせるに十分だった。「軍部による中国の国家支配がはじまっている」。アメリカ・オバマ大統領の2011.11.16演説は東シナ海・インド洋へと広がる「中国の動きを軍事的に牽制するため」のもの。かかる変化は遅すぎるものだが、「アメリカが中国との対峙を明言」したことは、それだけ「中国の脅威が増した」ことを意味する。「米中は間違いなく、冷戦時代に突入した」(p.34-35)。

 ・日本の政治家・官僚・国民はかかる「歴史の転換」を「正しく感じ取って」いるか。与野党もマスコミも「自らの生活が第一」と、「現状にしがみついて」いるのではないか(p.35-36)。
 ・日本が現状のままで2015年まで推移すれば、日本「国家」の存立自体が「非常に困難な状況に陥る」=「破局が到来する」可能性が大きい。理由はつぎの三つ。  ①財政・経済問題。経済力、世界競争力は凋落したまま。  ②安保・外交。遅くとも2020年代頃に尖閣は中国に奪われているだろう。現状を客観的に見れば、すでに尖閣の実効的支配権は中国が持っているとも言える。現状はすでに「平時」ではないが、日本政府の動きは鈍い。中国を囲むロシアも韓国もアジア諸国も軍備増強させている中で、「中国包囲網」の「もっとも弱い環」は日本だ。中国は当然に日本をターゲットにして包囲網打破を図るが、それは「軍事だけではなく、政治工作や世論工作など、あらゆる手段」を使ったものになろう。  ③「政党構造が融解し、国内政治がまったく機能していないこと」。これの最大の原因は政治家を含む国民全体が「生活が第一」と、「腐敗した個人主義の暴走に身を委ね、民主主義がまったく機能していない」ことだ。
 これで2/3くらいまで。

 〇反米=自立の主張はあってよいが、対中国を含む「反共」を無視・軽視してはならず、むしろ後者をこそ優先すべき旨は、これまで何度も書いてきた。  佐伯啓思の冴えた分析に感心しながらも(最近も読んではいるがこの欄で言及するのは少なくなっている)、なぜこの人は(アメリカまたは近代欧米思想を批判的に語るのに)コミュニズム・共産主義批判または(現存する社会主義国である)中国に対する批判的叙述が乏しいのだろうとも感じてきた。
 反米・自立が達成されたとしても、同時に別の国(中国)に従属した形式的「自立」に変わったのでは元も子もなくなる、とも最近に書いた。
 アメリカは防衛線を東南方向へと移し、朝鮮半島と日本は中国に任せる、従って日米安保条約は廃止される(日本が対中国防衛をするためには自主軍備によることが必要になる)との情報または予測も語られている。
 日々の生活に、それなりの既得権益の維持に、それぞれの国民やマスコミを含む会社・団体が汲々としている間に、日本「国家」自体が消滅する(これは日本の中国の一州・自治州化か北朝鮮の如き中国傀儡政権の日本における誕生を意味する)危機にあるのではないか。
 そのような中国「共産主義」国家の脅威を、中西輝政のように語る論者がもっと増えなければならない。親中・媚中・屈中の朝日新聞や同新聞御用達の大学教授・評論家等に期待できないことだけははっきりしているが。
 中国は「社会主義的市場経済」の国で共産主義国家でもそれを目指す国家でもない、という認識があるとすれば、それは根本的に間違っている。日本共産党・不破哲三が中国を「現存する社会主義国」と見なして中国の今後に期待していること(この欄でいつか触れた)は一つの例証ではあるだろう。
 上の続きの紹介は別の回で試みる。

1055/中西輝政「大東亜戦争の読み方と民族の記憶・上」より。 

 月刊正論12月号(産経)の中西輝政「大東亜戦争の読み方と民族の記憶・上」より。
 ・「歴史は本来、つねに書き換えられねばならない。なぜなら、歴史の本質とは、いかにすぐれた歴史書であっても、それが書かれた時代的制約を逃れることはできないものだからである」。(p.142)

 ・「もしも日本の内政がしっかりしていて、政府と軍部、陸軍と海軍の意思疎通や合意がしっかりとできていれば、あるいはアメリカに〔反日主義者だった〕ルーズベルト大統領が誕生していなかったら、さらには〔ゾルゲ、尾崎秀実等々による〕各種の対日工作が、天皇陛下にまで誤った情報が吹きこまれるほど日本の中枢を完全に巻き込んで成功裏に進んでいなかったら、事態は大きく異なっていただろう。このうちどれか一つの要因でも欠けていれば、おそらく日米開戦はなかったと思われる。日米開戦は、それほど『例外中の例外』の出来事だった」。(p.152)

 ・但し、「日米開戦は、……マクロ・ヒストリーの視点からは、やはり『宿命の出来事』だったと言うしかない」。(p.153)

1046/親北朝鮮・酒井剛の「市民の党」と菅直人・民主党。

 菅直人が存外にあっさりと首相を辞任したのは、北朝鮮と関係の深い団体への献金問題が明るみに出て、この問題が広く騒がれ出すと「もうもたない」と判断したかにも見える。もう少しは「粘る」=しがみつく可能性があると思っていた。
 その献金問題につき、隔月刊・ジャパニズム第03号(青林堂)に、野村旗守「菅直人/謀略の正体-亡国首相の原点を読み解く」、西岡力「菅直人首相の北朝鮮関連献金問題の本質」がある。
 両者から事実を確認しておくと、菅直人事務所と菅直人代表・民主党東京都連は2007-2009の三年間に、「市民の党」(後記)の「派生団体」(西岡p.146)である「政権交代をめざす市民の会」に6850万円の献金をした。また、鳩山由紀夫・小宮山洋子等の民主党国会議員の政治団体も計8740万円の献金をした。「市民の党」自体へも、上記三年間に小宮山洋子等の政治団体から計1693万円の献金があった。これらを合計すると、6850+8740+1693で、1億7283万円になる。野村p.70は「民主党関係団体」から三年間で「計2億5000万円も」と書いている。
 「市民の党」 は本名・酒井剛、通称?・斎藤まさしを代表とする。この男は除籍前の上智大学で「ブント系ノンセクト」ラジカル、退学後に「日本学生戦線」を結成、逮捕された1977年に社会市民連合の江田三郎(・のち江田五月)の選挙を手伝う。1979年に毛沢東主義を標榜する「立志社」を設立しカンボジアのポル・ポト派支援運動を展開、同年に社市連と社会クラブが合同した社会民主連合の初代代表・田英夫の娘と結婚する。1983年、田英夫・横路孝弘らと「MPD・平和と民主運動」を結成。野村によると、「過激派学生組織と市民派左翼政党の合体」だった(p.71)。
 MPD→「大衆党」→「新党護憲リベラル」のあと、1996年に酒井(斎藤)は「市民の党」を結成、1999年の広島市長・秋葉忠利、2001年の千葉県知事・堂本暁子、2006年の滋賀県知事・嘉田由紀子、2007年の参議院議員・川田龍平らの選挙を「勝手に応援」して結果としてすべて当選させた。
 「市民の党」機関紙は1988年に北朝鮮にいた田宮高麿のインタビュー記事を掲載したりしていたが、2011年4月の三鷹市議選候補として、田宮高麿と森順子(松本薫・石岡亮両名を欧州で拉致)を父母とする、2004年に日本帰国の森大志を擁立(落選)。
 かかる政治団体に対して民主党が三年間で1億円以上を、菅直人(都連を含む)がその「派生団体」に約7000万円を献金していたとは、相当に「いかがわしい」。また、そのような献金をする人物が日本国家の首相だったという歴然とした事実に、愕然とせざるをえない。まがうことなく、日本は「左翼」に乗っ取られていたのだ。
 江田五月は衆院議長・法相を経験し、横路孝弘は現在の衆院議長だ。酒井(斎藤)という「いかがわしい」人物は<権力>の側にいて、議会・選挙を通じた「革命」を展望しているらしい。あらためて戦慄する。
 恐ろしいのは、菅直人ら民主党による「市民の党」への献金問題は(それ自体は違法性が明瞭ではないためか?)、産経新聞・関西テレビの某番組とチャンネル桜しか報道していない(野村p.71)ということだろう。違法ではなくとも、菅直人や民主党の「左翼」性または親北朝鮮ぶりを明確に示すもので、ニュース価値はあると思うが、日本の主流派マスメディアは、自らが「左翼」的だからだろう、民主党には甘い。
 この問題を月刊正論はどう取り扱っているかと見てみると、10月号(産経新聞社)に、野村旗守「市民の党代表『斎藤まさし』の正体と民主党」、西岡力「拉致と『自主革命党』、そして『市民の党』の深い闇」と、同じ二人の論考が載っていた。ひょっとすれば、こちらを先に見ていたかもしれない(なお、北朝鮮の「自主革命党」に森大志は所属していた(いる)とされる。ジャパニズム上掲・西岡p.149-150におぞましい「綱領」?が紹介されている)。
 ところで、ジャパニズム第03号には、毎日新聞にも定期的に寄稿している西部邁の連載ものもある。さすがに「左翼」の文章ではないし、「民主主義を振りかざしてきた戦後日本は、多数制原則という民主主義のギロチンによって、おのれの首を刎ねようとしている」(p.168)という表現の仕方も面白い。
 但し、末尾にある「菅直人」の名前をもじった文章などは、言葉遊び的な要素の方が強い感じで、とても好感はもてない。

1044/石井聡と櫻井よしこ論考+政治部記者の法的感覚。

 〇すでに批判的に言及した月刊正論9月号巻頭の櫻井よしこ論考(談)を、産経新聞8/21の「論壇時評」で、石井聡は、こう紹介している。
 「『菅災』が大震災や原発事故対応にとどまらず、外交面でも国益を大きく損なったと批判するジャーナリストの櫻井よしこは『希望がないわけではありません』という〔出所略〕。民主、自民両党の保守系議員らが『衆参両院の各3分の2』という憲法改正の高いハードルを2分の1に下げることを目指す『憲法96条改正を目指す議員連盟』で既成政党の枠を超えた活動を始めており、これが日本再生への起爆剤となると期待しているからだ。/同時に櫻井は『不甲斐ないのは自民党現執行部』と、菅の延命を見過ごした野党第一党の責任を問うている。谷垣禎一総裁の下で『相も変わらず、元々の自民党の理念を掲げていない』と憲法改正に取り組む熱意の薄さを批判し、民主党政権と『大差のない政策しか提示し得ていない』と言い切る」。
 以上が全文で、「時評」と掲げるわりには論評部分はない。
 この石井聡や最近に吉田茂の「軍事参謀」だった辰巳栄一に関する著書(産経新聞連載がもと)を刊行した湯浅博等々のように、産経新聞社内には、屋山太郎や某、某等々の知名度はよりあると思われる者たち以上の知見と文章力を持った論客がいると、とくに最近感じているのだが、上の後半部分、とくに櫻井よしこが自民党は「民主党政権と『大差のない政策しか提示し得ていない』と言い切」ったことについて石井聡は、あるいは産経新聞編集委員たちは、どう評価しているのかを知りたいものだ。
 産経新聞は民主党を厳しく批判してきたが、自民党を積極的に支持してきたわけでもなさそうだ。それは、産経新聞が自民党の機関紙のごとく世間的に印象づけられることが経営的にもマズいと判断しているからかもしれないが、よく分からない。
 だが、もともと産経新聞は自民党よりも「右」だという印象を持つ者も少なくはないだろう。一方また、西部邁や西尾幹二のように、産経新聞に対する批判を明言する「保守」派論者もいる。
 ともあれ、櫻井よしこに対する遠慮などをすることなく、個人名であるならば、自民党は民主党と「大差がない」という櫻井の理解が適切なものかどうかくらいにはもう少し立ち入ってみてもよかったのではないか。日本の今後にとっても基本的な論点の一つだろうから。
 〇産経新聞の8/14社説は「非常時克服できる国家を」等と題うち、菅直人政権の非常時対応について、こう書いた。
 「戦後民主主義者が集まる国家指導部は即、限界を露呈した。緊急事態に対処できる即効性ある既存の枠組みを動かそうとさえしなかったからだ。安全保障会議設置法には、首相が必要と認める『重大緊急事態』への対処が定められているが、菅直人首相は安保会議を開こうとしなかった。重大緊急事態が認められれば、官僚システムは作動し、国家は曲がりなりにも機能したはずである」。
 菅政権を「戦後民主主義者が集まる…」と規定していることも興味深い(誤りではないだろう)。さらに、菅首相(当時)の「不作為」として、安全保障会議設置法にもとづく同会議の招集の不作為のみを挙げ、一部?に見られた、①災害対策基本法による<緊急政令>発布の不作為、②武力攻撃事態等国民保護法の震災・原発事故への適用の不作為、を挙げていないのは、私と同じ適切な法的理解に立っているように思われる。このような社説(産経の「主張」)の中でこれらの①②も問責していれば、おそらく産経新聞は大恥をかいていただろう。
 さらに遡るが、但木敬一(元検事総長)は産経新聞7/27でこう論じていた(一部要約)。
 ・内閣法6条は「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する」と定めるが、同法5条の1999年改正により閣議を内閣総理大臣が主宰する旨の規定に、「この場合において、内閣総理大臣は、内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議することができる」という文言が追加された。
 ・菅直人首相が「特に7月13日、官邸に記者を集め、脱原発を提唱したのは、内閣法の精神にもとるように思われる。エネルギー政策の転換は、国民生活、経済活動に幅広く、かつ深刻な影響を与える。従来の内閣の方針に明示的に反する政策の大転換は、まさに『内閣の重要政策に関する基本的方針』そのものではないのか。各国務大臣がそれぞれの観点から複眼的に閣議で論議すべき典型的事例であり、閣議を経ずして総理が独断で口にすべきことではない」。
 このように但木は、菅による「脱原発」との基本政策の表明を、内閣法(法律)違反ではないか旨を述べている。
 首相のあらゆる言動が(浜岡原発稼働中止要請も含めて)閣議による了解(または閣議決定)を必要とするかは、上の内閣法6条「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する」の射程範囲の理解または解釈にかかわる議論が必要だし、すでにあるものと思われる。「内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議」する権限が、「重要政策に関する基本的な方針」の決定・表明に関する<義務>なのかどうかも議論する余地はなおあるだろう。
 むろん政治的・政策的な検討や議論はなされてよいのだが、上で指摘しているのは「法的」検討の必要性であり、「法的」論点の所在だ。
 菅直人による(閣議を経ない)浜岡原発稼働中止要請や(閣議を経ない)「脱原発」基本政策表明がはたして法的にあるいは法律上許容されるのか、という問題があるはずなのだが、産経新聞の阿比留瑠比も含めて、どの新聞社の政治部記者たちも、そうした法的問題があるという意識自体をほとんど欠落させたままで日々の記事を書いているのではないか。これはなかなか恐ろしい事態だ、というのが先日に書いたことでもある。

1039/櫻井よしこの政治感覚は研ぎ澄まされているだろうか。

 一 月刊正論9月号(産経新聞社)の巻頭、櫻井よしこ「国家は誰のものか」(談)は主として菅直人批判に費しつつ、谷垣自民党批判と一定の議員グループへの期待をも語っている。
 7/15の民主党議員グループの行動に流れの変化を感じるとしつつ、櫻井は続ける。-「一方、不甲斐ないのは自民党現執行部」で、菅直人が延命できるのは「現在の自民党執行部の責任でも」ある。谷垣禎一を次期首相にとの世論が少ない「理由は明らか」で、「相も変わらず、元々の自民党の理念を掲げていないから」だ。「憲法改正、教育改革、国家の自立など」の点について、「民主党の菅、鳩山政権と大差のない政策しか提示し得ていない…」(p.60-61)。
 このような叙述には、首を傾げざるをえない。
 自民党(谷垣自民党でもよい)の「憲法改正、教育改革、国家の自立など」の「政策」は「民主党の菅、鳩山政権と大差のない」、という認識または評価は、いったいどこから、どのような実証的根拠をもって、出てくるのだろうか。谷垣「リベラル」自民党との距離感をずっと以前にも示していた櫻井よしこだが、櫻井もまた「相も変わらず」何らかの固定観念にとらわれてしまっているのではないか。
 自民党のしていることを無条件に擁護するわけではないが、親中・「左翼」の「菅、鳩山政権と大差のない」などと論評されたのでは(しかも上記のような基本的論点について)、さすがの自民党「現執行部」も文句の一つでも櫻井に言いたくなるだろう。
 この冷たい?自民党に対する態度は、2009年総選挙の前後にも櫻井よしこに見られたところだった。
 櫻井よしこが上の部分の後に書いているところによれば、彼女が期待するのは「谷垣自民党」ではなく、6/07に初会合があった憲法96条改正議員連盟に賛同しているような、「既成政党の枠を超えた」議員グループのようだ。
 櫻井よしこは、この議員連盟こそが「真に日本再生に向けた地殻変動の起爆剤になる」ことを期待し、「彼らの議論から党を超えた連帯意識が生まれ、真の意味で政界再編の機運が高まる」ことを願っている。その際、「民主党、自民党、そのほかどの政党に身を置」いていようと関係がない(p.61)。
 櫻井よしこが現自民党に対して<冷たい>のはこういう代替的選択肢を自らのうちに用意しているからだろう。
 しかし、思うのだが、かかる期待や願望を全面的に批判する気はないが、櫻井は見方が少し甘いのではないだろうか。
 2009年の時点でも、明言はなかったようでもあるが、自民党よりも<真の保守>に近いと感じていたのだろう、櫻井よしこには自民党ではなく「たちあがれ日本」や「創新党」に期待するような口吻があった。しかして、その結果はいったいどうだったのか?。
 反復にもなるが、当時に自民党への積極的な支持を明言しなかった保守論客は、客観的・結果的には、民主党への「政権交代」に手を貸している。現時点ではより鮮明になっただろう、民主党政権の誕生を断固として阻止すべきだったのだ。保守派は2009年に敗北したのだ。この二年前の教訓は、今年中にでも衆議院解散・総選挙がなされる可能性のある現時点で、生かされなければならないだろう。
 党派を超えた動き、それによる「真の政界再編」を夢見るのは結構だが、それらは次期総選挙までに間に合うのか??
 櫻井よしこは、とりあえずにでも現執行部の自民党を中心とした政権が成立するのがお好きではないようだ。そんな態度をとり続けていると、民主党「たらい回し」政権があと二年間も延々と(!)続いてしまうのではないか。
 二 櫻井よしこの週刊新潮8/25号の叙述の一部にも気になるところがある。
 民主党あるいは鳩山・菅政権の「政治主導」が失敗し、むしろ消極的で悪い効果をもたらしたことは、多言しないが、明らかだ、と思われる。政治主導あるいは官僚排除の姿勢によって、政治・行政運営に「行政官僚」をうまく活用することができなかったのだ。
 ところが、そういうより広い観点からではなく、櫻井よしこは「政治主導の確立と官僚主導の排除」を「公務員制度改革」の問題に矮小化し、「以前と比較にならない官僚の勝手を許す結果に陥った」と菅政権を総括している(p.139)。
 行政官僚をうまく使いこなせなかったことではなく、櫻井によると、<以前よりも官僚が強くなった(以前よりも「勝手を許」した)>のが問題だ、というのだ。
 このような事態の認識は、全体を見失っている。そして、このような認識と評価は、政官関係について「相も変わらず」屋山太郎から情報と意見を入手していることに原因があるようだ。
 「天下り禁止」の有名無実化を批判するのはとりあえず結構だが(なお、古賀利明の本にいつか言及する)、この問題に焦点を当てているようでは、議論の対象が「ちんまい」。問題把握のレベルが小さすぎ、視野狭窄があり、優先順位の序列化の誤りもある。
 すぐれた政治感覚と政治・行政実務に関するしっかりした知識をもった、信頼できる<保守>論客はいないものだろうか。憂うこと頻りだ。    

1020/国歌斉唱起立条例と日弁連会長・「左翼」宇都宮健児。

 産経新聞7/01付に、いわゆる大阪府国歌斉唱起立条例につき、賛成の百地章と反対の日弁連会長・宇都宮健児のそれぞれの発言が載っている。
 語ったことが正確に文字化されているとすれば、宇都宮健児は、「左翼」週刊紙・週刊金曜日の編集委員を務めていることからも明らかな、明瞭な<左翼>だし、論理・概念も厳密でないところがある。
 ①国歌の起立斉唱を「義務」とすることと「強制」することを同義に用いている部分がある。
 「強制」は行きすぎだ等のかたちで使われることがあるが、「左翼」の使う<強制>概念には注意が必要だ。すなわち、この条例問題に即していうと、条例によって「義務」とすることは、実力をもって起立させ、(口をこじ開けて?)歌わせることを意味するわけではないので、(もともと罰則もないのだが)「強制」概念には含まれないものと考えられる。より悪いまたはより厳しいイメージで対象を把握したうえで批判する(そして同調者を増やす)のは「左翼」活動家の常道だ。
 ②「戦前と同じ国旗国歌だから、軍国主義とか天皇制絶対主義といった社会のあり方と強く結びついている、と考える人もいるし、……」。
 ここでは、宇都宮が「天皇制絶対主義」という語(概念)を何気なく使っていることに注目したい。
 「天皇制絶対主義」とは、講座派マルクス主義(日本共産党ら)による戦前の日本の性格に関する基本認識・基本用語ではないか
 お里が知れる、というか、宇都宮はどういう歴史学を勉強してきたか、どういう歴史認識をもっているかを、はからずも示したものだろう。
 ③「起立・斉唱を強制するということは、その人の思想・良心の自由を侵害することになるから憲法違反ということだ」。
 何という単純な<理屈>だろう。すでに最高裁の三つの小法廷ともで起立・斉唱職務命令の合憲性を肯定する判決が出ており、もう少しは複雑で丁寧な論理を展開しているのだが、宇都宮はこれらの判決を知らないままでこの発言をしているのだろうか。
 といった批判的コメントをしたいが、問題なのは、かかる発言者が、日本弁護士連合会のトップにいる、という怖ろしい事実だ。
 戦前の日本を<天皇制絶対主義>と簡単に言ってのける人物が、弁護士業界のトップにいて、弁護士(会)を代表しているのだ。
 おそらくは長年にわたってそうだが、「弁護士」の世界(・組織)の中枢・最上級部分は「左翼」に握られ続けている。怖ろしいことだ。
 宇都宮は、誰にまたは誰の教科書で憲法を学習して司法試験に合格したのだろう。宮沢俊義だろうか、日本社会党のブレインでもあった小林直樹(かつて東京大学)だろうか。専門法曹、とりわけ弁護士は、特段の(司法試験以外の)勉強をしたり、一般的な本を読んでいないと、自然に少なくとも<何となく左翼>にはなっている。そして、宇都宮健児のごとく、日弁連の会長にまでなる人物も出てくるわけだ。再び書いておこう、怖ろしいことだ。
 ところで、月刊正論8月号(産経)の巻頭の新執筆者・宮崎哲弥は、思い切ったことを書いている。賛成・反対の議論のいずれにも物足りなさ・違和感を感じるとし、次のように言う。
 「いま問われ、論じられるべきは、ズバリ『愛国心を涵養するため、学校で国旗掲揚、国歌斉唱を生徒たちに強制してはならないか』ではないのか」(p.48)。
 日本の国旗国歌の沿革(それがもった歴史)を度外視して一般論としていえば、まさに正論だろう。また、沿革(それがもった歴史)がどうであれ、国会が法律で特定の国歌・国旗を決定している以上は、度外視しなくても、今日、少なくとも公立学校の「生徒たち」への「強制」(この語は厳格なまたはきちんとした「教育」・「指導」・「しつけ」等の別の表現にした方がよいが)がなされても何ら問題はないし、むしろすべきだ、という主張も成り立つ、と考えられる。

1013/竹内洋の「テレビ支配社会」と渡辺えり子・6/23NHKニュース。

 一 月刊正論7月号(産経)の竹内洋「(続)革新幻想の戦後史」は最終回。その最後の前の段落のタイトルは「幻想としての大衆とテレビクラシー」だ。そして、「エリート」・「知識人」は溶解しこれらの対概念の「大衆」も実体を喪失しているが、「想像された」・「幻想」としての大衆が猛威をふるっている、そのような大衆は「テレビカメラ」そのもので(「現代の大衆や知識人は…大衆幻想に媒介されたメディア大衆であり、メディア知識人」で)、「メタ大衆」を表象し代表する「テレビ文化人」によって「大衆的正当化」=「テレビ的正統性」の強化がなされ、「デレビクラシー」(テレビ支配)社会になる、等々と述べている。「滅びへの道」と題する最後の段落の最後の文章は、「幻想としての大衆にひきずられ劣化する大衆社会」によって日本は滅ぼうとしているのではないか、という旨だ。
 二 かつて大宅壮一はテレビによる<一億総白痴化>を予想したが、それを超えて、(日本のテレビ局は総体として日本の)社会と国家を解体しようとしている。
 戦後の悪弊の最大のものは、コマーシャル料で経営する民間放送会社かもしれない。この民放問題は別の機会にまた触れる。
 NHKも含めたテレビの影響力の大きさは、有権者の政治(・投票)行動への誘導力を見ても明らかで、それはほとんどのテレビ局が大手新聞社と(資本的・経営的にも)密接な関係にある、ということによって拡幅されている。
 NHK・全国的民間放送会社・大手全国紙の<政治>関係番組・記事に関与しているのはいったいどのような(政治的)素養・見識をもった者たちなのか。よくも悪くも、日本のこれまでの戦後・現在・将来はこの点にかかっているとすら感じる。
 むろん新聞社と結びついたテレビ局の違いは多少ともある。大まかにいって、テレビ朝日・朝日新聞やTBS・毎日新聞と、フジ・産経、日テレ・読売とでは傾向が同じでないことは、少しは見比べて(読み比べて)いると、分かってしまう。
 出てくる「テレビ文化人」にも違いかある。例えば、TBS系の日曜夜10時頃の報道系番組には、現在でも、渡辺えり子という女優(・劇作家?)が出ている。
 この渡辺えり子は、まだ鳩山由紀夫内閣の頃、<民主党政権は「国民」が作ったのだから、「国民」は暖かく見守り、育てていくようにしなければならないのではないか>とか(正確には記憶していないが)の旨を単純に(浅はかにも?)堂々と語っていた。

 なぜこんな人物を数人しかいないコメンテイター・「テレビ文化人」の一人にしたのかと訝ったものだが、のちに知ったところでは、渡辺えり子とは、吉永小百合等とともに、岩波ブックレット・憲法を変えて…という世の中にしないための18人の発言(岩波、2005)に出ている18人の一人(吉永小百合の他に、姜尚中・井上ひさし・井筒和幸・香山リカ等々)で、「憲法が最後の砦」、「戦争をしないという憲法を守れなかったら、もう世界共倒れです」ということを、浅はかにも?「反戦活動家じゃなくたって誰でも思う普通のこと」と付記しつつ書いているような人物だった(上掲ブックレットp.55)。日本共産党系の<九条の会>呼びかけ賛同者だろう。
 このような<思想(ないし信条)あるいは憲法観>を持っている人物だからこそ、おそらくはTBSの担当者はコメンテイターに起用したのだろう。
 最近はメインが北野たけしに代わったようで、「渡辺」色は強くは出ていないようにも見えるが(毎回観るヒマはない)、上のような人物を平気であえて起用するという<政治傾向>を持っているのがTBSだ、という印象に間違いはないと思われる(いちいち触れないが、土曜6時からの金平茂紀もじつはかなり露骨な(じっくりとニュアンスを感知しないと分かりにくいが)「左翼」信条の持ち主(政治活動家)だ)。
 あらためて述べるのも新鮮味はないが、このように、GHQ史観に基本的に立つ<日本国憲法体制>の擁護者、戦後<平和と民主主義>イデオロギーの信奉者、そして親中国・親「社会主義」・反国家・「反日」心情者が支配する放送局・新聞社が強い力をもって<体制化>し、多数派を形成していると見られることを、深刻かつ悲痛な思いで、<戦後レジーム>解体派=<保守>は認識しておく必要があろう。
 三 こと歴史認識に関するかぎり、あるいは「戦争」に関連するかぎり、NHKもまた、明瞭に「左翼」だ。田母神俊雄論文事件の際に<左翼ファシズム>の形成・存在を感じたが、NHKも、その一角を担っている。
 6/23の夜9時からのNHKニュースもひどかった。
 かつての沖縄での戦争(地上戦)による被害・戦没者問題と、現在の米軍基地の存在とをつなげて、まるで米軍基地の存在が「平和」=善ではなく「戦争」=悪に接近するものだということを前提とするような報道ぶりだった。それは、かつて1945年に姉を失い、戦後は米軍基地によって苦労させられたという話を、特定の同じ一人の人物に長々と語らせていた(または紹介していた)ことでも明瞭だ。NHKがあえて取材対象として一人だけ選択したその人物は、姉を殺した(米軍との)戦争を憎み、引き続いて、沖縄に駐留し続けている米軍をも嫌悪している。NHKはその人に<共感>を寄せて紹介し、そうした姿勢を前提として報道していたのが明らかだ。
 だが、言うまでもなく、現在の沖縄の米軍基地については多様な見方がある。「戦力」不保持の現憲法のもとでは、米軍基地がなかったら、沖縄はすでに中華人民共和国の一部になっていて(沖縄への侵攻を日本政府はオタオタして何もできなかったために)、現在よりも<悲惨な>状況に置かれていた可能性が高い、などということは、NHKのこの番組制作者の頭の中にはないのだろう。
 米軍基地を使ってアメリカが(アメリカのための)戦争をする、あるいは米軍基地の存在のゆえに<日本が戦争に巻き込まれる>というのは「左翼」の主張であり、デマだ。あるいは少なくともそういう批判的な見解・認識は成り立ちうるものだ。米軍基地の存在は沖縄、ひいては日本全体の「平和」のために寄与している、という見方は、少なくとも成り立ちうるものだ。
 NHKは(じつは菅内閣・日本政府の公式的見解でもある)そのような後者の見方をあえて排除し、それとは異なる考え方の持ち主一人だけを、意見表明者として長々と紹介した。NHKはとても、公正・客観的な報道機関ではない。
 原発問題についても、NHKだけを見ていたのでは、あるいは他のテレビ局を見てもそうだが、基本的・本質的なことはまるで分からない。NHKとの間の強制的な受信契約締結義務の規定(放送法)は削除し、民間放送(とくにその収益の方法)のあり方も含めて、抜本的な再検討をしないと、「テレビクラシー」によって本当に日本「国」は滅亡するに違いない。

1010/中谷巌は産経6/14「正論」で<脱原発>と言うが…。

 〇中谷巌が、産経新聞6/14の「正論」欄で最後にこう主張している。
 「文明論的にいえば、『脱原発』は、自然は征服すべきものだというベーコンやデカルトに始まる西洋近代思想を乗り越え、『自然を慈しみ、畏れ、生きとし生けるものと謙虚に向き合う』という、日本人が古来持っていた素晴らしい自然観を世界に発信する絶好の機会になるのではないだろうか」。
 知識人らしく?「文明論」的に語るのはけっこうだが、これはあまりにも単純でナイーヴな議論ではなかろうか。
 少しだけ具体的に思考してみよう。原子力(発電所)によるエネルギー供給が「ベーコンやデカルトに始まる西洋近代思想」の所産で、今やそれを「乗り越え」、日本古来の「素晴らしい自然観」を発信するときだ、と言うのならば、日本では毎年少なくとも1万人程度は死亡者(事故後3日を超えての死亡者を含む)を生む<凶器>でもある自動車の発明も「近代」の所産で、今やその製造も止めるべきではないのか。
 正確な統計は知らないが毎年必ず少なくない人命を奪っているはずの事故の原因となっている航空機の発明も「近代」の所産で今やその製造も止めるべきではないのか。きりがないが、交通事業に供されている鉄道という近代文明の利器もまた、殺人凶器になりうる「近代」の所産で、今やその供用も利用も止めるべきではないのか。さらにまた、IT技術自体も「近代」の最先端のものかもしれないが、<秘密の私的事項>の狭隘化とでもいうべき危険も内包しているというべきだろう。他にも<危険性>が(本来的・内在的に)付着した、「近代思想」の所産はあり、中谷巌も産まれたときからそれらの恩恵を受けているだろう。
 <脱原発>と言うならば、そしてそれを<西洋近代思想>の限界(または終焉の兆し?)と結びつけて何らかの<文明論>を語るならば、原発と自動車・航空機・鉄道等との<質的な>違いをきちんと明らかにしたうえで主張すべきだろう。
 もともと中谷巌の書いたものをまともに読んだことはなく、信頼するに足る人物とは全く思ってはいないのだが。
 〇脱原発・反原発といえば、西尾幹二(月刊WiLL7月号)や竹田恒泰(新潮45・7月号)はこちらの側の論者であるらしい。きちんと読んだうえで、何かをメモしよう。
 〇小林よしのりの変調とともに隔週刊・サピオ(小学館)を読まなくなったあと、その代わりにというわけでもないが、月刊・新潮45(新潮社)を読むことが多くなった。佐伯啓思の「反・幸福論」の連載があるからでもある。その他、月刊WiLL(ワック)や月刊正論(産経新聞社)も毎号手にしているので、すべてを読むことはできていないにしても、佐伯啓思の論考とともに、何がしかの感想をもち、コメントしたくなった点もあったはずだが、けっこう重たい、簡単にはコメントしたり概括したりできないものもあるので、この欄にいちいち書き込めてはいない。隔月刊・表現者(ジョルダン)の諸論考等も同様。

 それにしても、日本の政治(・政界)の、あるいは「国家中枢」の<溶解ぶり>(メルト・ダウンだ)の中で、上に挙げたような雑誌の<言論>はいったいいかなる程度の影響力を現実的に持っているのだろうか、という虚しい気分もなくはない。そんな現実的効用とは別に、何かを語り、論じたくなるのが、知的生物としての人間の性なのかもしれないが。但し、各雑誌(・発行会社)の<そこそこの>収益のための原稿・論考にすぎなくなっているのであれば、それに付き合わされる読者は何というバカだろう。 

0995/月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは。

 月刊正論4月号(産経新聞社)で編集長・桑原聡いわく-「…民主党内閣が、憲政史上最低最悪の内閣であることは多くの国民が感じているところだろうが、かりに解散総選挙が行われ、自民党が政権を奪回したとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも、わが国を元気にする知恵も力もないように思える」(p.326)。
 同誌の宣伝紹介記事(産経3/01付)で同じく桑原聡いわく-「国民の大半が期待しているのは、この党〔民主党〕が一日も早く政権の座から降りてくれることだけだ。しかし、かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」。
 産経新聞社内の出世コースを歩んでいるのかもしれないこの桑原聡のこのような<政治的>判断を基準にして、産経新聞全体は別としても、当面の月刊正論は編集されていくものと見られる。

 はたして、かかる立場を編集長が明記することはよいことなのかどうか。それよりも、その<政治的>判断は適切なものなのかどうか。

 2009年総選挙前に、自民党はダメだ、(よくは分からないが、新しい)民主党は期待できそうだ、というムードを煽ったのは朝日新聞を含む大手メディアだった。櫻井よしこすら、自民党に対して冷たかった(民主党内閣成立後も<期待と不安が相半ばする>旨を書いていた)。

 現時点で、自民党を「賞味期限の過ぎた政党」と断定して叙述するこの桑原聡のような、大(?)雑誌、しかも<保守系>とされる雑誌の姿勢は、どのような政治的効果をもたらすだけだろうか。

 2009年に自民党離れが生じ、かりに民主党に投票しなくとも<保守派>国民の中に<棄権(無投票)>行動がある程度は生じたと推測されるように、上のような断定は、反民主党(同党政権)の見解をもった国民に対して、自民党にも投票せず、<棄権(無投票)>するという行動を誘発する方向に機能するだろう。そしてそれは、民主党に有利に働くだろう。

 かりに現在のような政党状況のままで解散・総選挙が行われた場合、そのような投票行動は、日本を<良い>方向に導くのだろうか? 民主党の延命を助けるだけではないのか。
 それに、上のような断定は、<右>からの自民党は「第二民主党」、「民主党と同根同類のリベラル」という批判と共鳴しているとももに、<左>からの、例えば日本共産党(・社民党)のいう、民主党(内閣)は<第二自民党(内閣)>だ、という批判とも共振している。

 桑原聡は、上のように、その主張は、日本共産党(・社民党)のそれとも共通することを、いかほど意識しているのだろうか。代表的<保守系>雑誌が、こんな感覚の編集長に率いられているのだから、内容に奇妙な部分が出てくるのもやむをえないだろう。

 月刊正論4月号のウリは「保守論客50人が提言~これが日本再生の救国内閣だ!」で、屋山太郎のような「保主論客」とは思えぬ者を含む人々に、それぞれが構想する内閣の布陣(構成)を語らせている。

 まじめによく考えられており、かつ現実味がなくはないと感じられる「構想」もあるが、雑誌の全体としていえば、<お遊び>の類だ。保守的論者による保守派政治家・評論家類の「人気投票」のような観もある(一部には文章を書かせているが、じっくりと読みたいものがあるものの、1.5頁~2頁に過ぎず、短か過ぎる)。

 八木秀次は「公務員制度改革担当相」に屋山太郎をあてる。筆坂秀世は法務大臣に長谷部恭男(東京大学教授)、「領土問題担当相」に志位和夫(日本共産党委員長)をあてる。野口健は外務大臣に岡本行夫、防衛大臣に前原誠司、環境大臣にC・W・ニコルをあてる。河添恵子は首相に出井伸行、官房長官に辛坊治郎をあてる。……。

 重ねて桑原聡はこの雑誌の最後でこう書く-「筆坂秀世氏が領土問題担当大臣に志位和夫氏を指名しているが、現在の国難は、これぐらいの大胆さがないと乗り越えられないのではないか。いかがだろうか」(p.326)。「賞味期限の過ぎた」自民党(中心)内閣よりも、志位和夫を閣僚の一人とする<救国>内閣の方が、桑原には「よりまし」であるらしい。

 現実的実現可能性はさておくとしても、この桑原聡は正気で、「いかがだろうか」などと暢気に訊いているのだろうか。

 (少なくとも日本の)ジャーナリズム・ジャーナリストの類は(マスメディア一般がそうだが)、総じては、または基本的には、国家・社会・国民を「正」・「善」・「美徳」の方向に導こうなどという気構えはなく、そもそもが何が「正」・「善」・「美徳」かなどという思考をめぐらしもせず(価値相対主義・一種のニヒリズムに陥るとこうなる)、何が<話題になるか>、何が<面白いか(興味を惹くか)>、そして何が<相対的によく(多く)売れるか(儲かるか)>を基準にして雑誌等を編集しているように見える。

 例えば「適切さ」はもちろん現実の実現可能性よりも、<面白い>かどうか、<話題になる>かどうか、が基準になっているように見える。

 産経新聞社の新(?)編集長のもとでの月刊正論も(いい論考も少なくないのに)、そのような弊を免れていないようだ。

0983/「自由」は「民主主義」の根本か-櫻井よしこ・月刊正論3月号。

 屋山太郎の名も表紙に掲げる月刊正論3月号(産経新聞社)は、第26回正論大賞受賞記念論文と銘打って、櫻井よしこ「国家としての大戦略を確立せよ」を掲載する。

 内容に大きなまたは基本的な異論はないが、インドも同じ立場に立つ「価値観外交」をせよ、そのための「憲法、法制度の改正」を急げ、というのが確立すべき「国家としての大戦略」だとの基本的趣旨のようで、新味はない。

 また、気になる部分もある。以下はその例。

 第一に、「日本人として、中国や韓国では勿論のこと、米国においてさえも時に感じる歴史認識の相違は、インドには存在しない」とある(p.61)。
 インドうんぬんを問題にしたいのではない。「米国においてさえも時に感じる歴史認識の相違」とは、アメリカに対して相当に甘い見方ではなかろうか。

 同じ月刊正論3月号の書評欄にアーミテージ=ナイ・日米同盟vs.中国・北朝鮮(文春新書)が採り上げられているが(この新書は未読)、紹介(・書評)者の島田洋一はこの本の中で、J・S・ナイ(クリントン政権CIA国家情報会議議長・国防次官補、ハーバード大学教授)は「2010年は民主党政権の閣僚は1人も靖国参拝をしていませんね。それはとても良いステップであり、重要だと思います」と述べていると紹介して「余計な」「アドバイス」だ(アーミテージは賢明にも沈黙を保っている)とコメントしている。

 これは一例だと思うが、かの戦争や東京裁判、首相靖国参拝等にかかわる米国と日本の間の「歴史認識の相違」は、少なくとも日本の<ナショリスト派保守>(と中川八洋の「民族派」との語を意識して呼んでおく)にとっては、「米国においてさえも時に感じる」というようなものではなく、より根本的なものがあるのではなかろうか。

 櫻井よしこは民主党閣僚が誰一人として靖国参拝をしなかったことを諒とし、「良いステップ」だと評価する評論家だったのだろうか。アメリカを含む(非中国・反中国の)<価値観外交>の重要性を説きたいがために、ここではアメリカの主流派的「歴史認識」への批判・警戒を薄めすぎているように見える。

 第二に、「民主主義の根本は人間の自由である。言論、思想信条の自由、信教の自由を含む基本的人権の確立である」とある(p.52)。

 中国の「民主主義」の観点からの「異質さ」を語る中で述べられている文章だが、この簡単な叙述には、率直に言って、非常に驚いた。

 「基本的」がつく「基本的人権」という語は欧米にはない日本的なもので同じ<価値観>の欧米諸国に普遍的なものではない(「人権」や「基本権」はある)、田母神俊雄が事実上免職された際に櫻井よしこ(や国家基本問題研究所)は「言論、思想信条の自由」のためにいかなる論陣を張ったのか、「シビリアン・コントロール」という概念の使い方に文句をつけていたが田母神俊雄を擁護しはしなかったのではないか、といった点は細かなこととして、今回はさて措くこととしよう。

 驚いたのは、「民主主義」と「自由」の関係に関する簡単な叙述だ。<「民主主義」の根本は「自由」だ>というように簡単に両者を関係づけるのは、「民主主義」や「自由」というものに対する深い洞察・知見のないことを暴露していると思われる。

 この両概念をどのような意味で用いようと自由勝手だとも言えるが、この両者は別次元のもので、どちらかがどちらかの「根本」にある、というような関係にはないのではないか。正論大賞受賞者ならばいま少し慎重な用語法をもってしてもよかったのではないか。

 より詳しくは(といってもこの欄に書く程度の長さだろうが)、別の機会に述べる。

0966/櫻井よしこはいつから民主党政権を「左翼」と性格づけたのか?

 〇月刊正論2月号(産経新聞社)の中宮崇「保存版/政治家・テレビ人たちの尖閣・延坪仰天発言録―そんなに日本を中国の『自治区』にしたいですか」(p.184-191)に「仰天発言」をしたとされている者の名を資料的にメモしておく。

 田中康夫(新党日本)、福島瑞穂(社民党)、服部良一(社民党)、小林興起(民主党、元自民党)、田嶋陽子(元社民党)、大塚耕平仙石由人(民主党)、浅井信雄(TBSコメンテイター)、山口一臣(週刊朝日編集長)、三反園訓(テレビ朝日)、高野孟伊豆見元(静岡県立大学)、田岡俊次(朝日新聞)、金平茂紀(TBS)、NEWS23X(TBS)。
 なお、CNN(中国)東京支局は「テレビ朝日」と「提携関係」にあるが、この事実を記す「ウィキ」等のネット上の書き込みは「即座に削除隠ぺい」されてしまう、という(p.189)。
 〇隔月刊・表現者34号(ジョルダン、2011.01)の中で西部邁は、戦後日本人が「平和と民主」というイデオロギー(虚偽意識)で「隠蔽」した、その「自己瞞着の行き着く先」に「左翼のダラカン(堕落幹部)たち」による「民主党政権」が登場した、と書く(p.181)。
 戦後憲法体制の「行き着いた」果てが現民主党政権で、自民党→民主党への政権交代に戦後史上の大きな<断絶>はない、というのが私の理解で、西部邁もきっと同様だろう。だが、民主党政権は自民党のそれと異なり、明瞭な「左翼」政権だ。この旨も、西部邁は上で書いていると見られる。
 「左翼」政権といえば、櫻井よしこ週刊新潮12/23号(新潮社)の連載コラムの中で、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」と書いている(p.138)。
 はて、櫻井よしこはいつから現在の民主党政権を「左翼政権」と性格づけるようになったのだろうか?

 この欄で言及してきたが、①櫻井よしこは週刊ダイヤモンド11/27号で「菅政権と谷垣自民党」は「同根同類」と書いた。→ http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/1950116/

 自民党ではなくとも、少なくとも「谷垣自民党」は<左翼>だと理解しているのでないと、それと「同根同類」のはずの「いま堂々と日本に君臨する」菅政権を「左翼政権」とは称せないはずだ。では、はたしていかなる意味で、「谷垣自民党」は「左翼」なのか? 櫻井よしこはきちんと説明すべきだろう。
 ②昨年の総選挙の前の週刊ダイヤモンド(2009年)8/01号の連載コラムの冒頭で櫻井よしこは「8月30日の衆議院議員選挙で、民主党政権が誕生するだろう」とあっさり書いており、かつ、民主党批判、民主党に投票するなという呼びかけや民主党擁護のマスコミ批判の言葉は全くなかった。

 ③民主党・鳩山政権発足後の産経新聞10/08付で、櫻井よしこは、「鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」と書いた。「期待と懸念」を半分ずつ持っている、としか読めない。

 ④今年に入って、月刊WiLL6月号(ワック)で、櫻井よしこは、こう書いていた。-「「自民党はなすべきことをなし得ずに、何十年間も過ごしてきました。……そこに登場した民主党でしたが、期待の裏切り方は驚くばかりです」。期待を持っていたからこそ裏切られるのであり、櫻井よしこは、やはり民主党政権に「期待」を持っていたことを明らかにしているのだ。→ http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/1603319/

 それが半年ほどたっての、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」という櫻井よしこ自身の言葉は、上の①~④とどのように整合的なのだろうか。
 Aもともとは「左翼」政権でなかった(期待がもてた)が菅政権になってから(?)「左翼」になった。あるいは、Bもともと民主党政権は鳩山政権も含めて「左翼」政権だったが、本質を(迂闊にも?)見ぬけなかった。
 上のいずれかの可能性が、櫻井よしこにはある。私には、後者(B)ではないか、と思える。

 さて、櫻井よしこに2010年の「正論大賞」が付与されたのは、櫻井よしこの「ぶれない姿と切れ味鋭い論調が正論大賞にふさわしいと評価された」かららしい(月刊正論2月号p.140)。

 櫻井よしこは、「ぶれて」いないのか? あるいは、今頃になってようやく民主党政権の「左翼」性を明言するとは、政治思想的感覚がいささか鈍いか、いささか誤っているのではないか? 

 厳しい書き方をしているが、櫻井よしこを全体として批判しているのではない。例えば、憲法改正(とくに九条2項削除)のための運動・闘いの先頭に立ってもらわなければならない人物の一人だと承知している。

 佐伯啓思に対しても、西尾幹二に対しても、西部邁に対しても、盲目的に従うつもりは全くない(それにもともとこれら三人の論調は同じではない)。<保守教条>主義者・論者であってはならないとの基本的立場は、櫻井よしこ等の他の<保守>論客に対しても、変わりはない。
 さらには、<保守>論壇・論客の中に、ひょっとして中国あるいは米国の<謀略>として送り込まれた人物もいるのではないか、くらいの警戒心をもって、<保守>系雑誌等の執筆者の文章や発言は読まれるべきであろうとすら考えている。
 

0964/「ミニ・インテリ」層=高学歴・ホワイトカラー・都市居住勤労者の政治責任。

 月刊正論(2011年)2月号(2010.12、産経新聞社)の連載、竹内洋「続・革新幻想の戦後史」は引き続いて石坂洋次郎に言及しているが、その中で、藤原弘達の1958年の著にある一農村青年の言葉を引用している。

 ・社会党支持の方が「何だかスマートでハイカラなような」気がする。保守党は「古さ」を連想させて「ツマラナイ」気がする。都会の若者たちは「皆社会党を支持しているそうですね」。

 竹内洋はこの発言こそ「草の根革新幻想の正体」を示したものだとする(p.278)。あえて佐伯啓思・日本の「思想」(NTT出版)の二分(p.164)を借りれば、戦後の「公式的価値」となった「顕教としての普遍的価値」を「古い」「日本的」観念=「密教としての日本的習慣」よりも愛好しようとするメンタリティが「革新幻想」でもあろう。

 (なお、竹内も意識しているだろうように、「革新幻想」の中核は、「社会主義幻想」だ。あるいは、「革新幻想」は「社会主義幻想」につながっていく性質をもつ。)

 竹内洋は、綿貫譲治の論文(1976年著に所収)の、データにもとづく次のような知見も引用している(p.278-9)。

 ・「ホワイト・カラー層」の「左翼政党(とくに日本社会党)」支持の高さは「顕著」。欧米の「ホワイト・カラー層」は大半が「右派社会党」を支持し、「保守党や自由党」支持率がもっと高いのと異なる。

 ・所得階層と政党支持の間に明確な関係はない。「教育程度と政党選択」の間には「ほぼ明瞭な相関関係」がある

 ・1930年~1940年に生まれた者(調査当時は二十歳台)や「戦後教育を受けた」者の間には日本社会党の支持率が高い。

 以上の諸指摘は、感じてきたこととも合致しており、きわめて興味深い。

 1930年以降に生まれ、「戦後教育」も受け、「教育程度」が高く、「ホワイト・カラー層」には日本社会党支持率が高い、というわけだ。

 戦後に「顕教としての普遍的価値」となったものは日本国憲法が示しているような諸原理だが、この<新憲法>教育を受けた者は、それ以前の者たちよりも「左翼的」になった、というのは傾向としては間違いないだろう。<新憲法>教育を受けたということは(とりわけそれが占領期であれば)、日本はかつて悪いことをした(日本軍国主義は<侵略戦争>をした)ということを客観的な事実として<信じ込まされた>ということを意味する。このような人々が、<護憲>の(日本軍国主義復活阻止の)社会党の支持に傾斜するのは自然だったともいえる。

 もちろん、今日的に見れば、日本国憲法は必ずしも日本の伝統・歴史につながらない「借り物」で、非武装条項も米国の占領初期の政策による「押しつけ」であることは明らかになってはきている。

 しかし、いわば<ミニ・インテリ>たち、農漁村というよりも都市在在の、「教養・学歴」があるとの自意識をもつ者たち、が社会党を支持するという形で示した「革新幻想」(>社会主義幻想)は、今日まで続いてきている、と思われる。
 いわゆる<団塊世代>(狭くは1947-49年生)よりもそのすぐ上の世代において社会党(または日本共産党を含む「革新」政党)支持率は一貫して高かった、というのが何回も新聞で見てきた世論調査の結果だった。この世代には、この欄で何回か用いた、1930年代前半=昭和一桁後半生まれ(1930-1935生)という、感受性の豊かな青少年期に<過去の日本=悪>との占領期教育にどっぷりと浸った<特殊な世代>の者たちが含まれる(典型として、大江健三郎)。小林よしのりは(教科書スミ塗りを経験した)「<小国民>世代」と言っているが、「国民学校」生徒経験者という意味では、こちらの方が厳密かもしれない。

 さて、今日まで日本国憲法の改正が行われていないのは、日本社会党等の改憲反対政党(日本共産党を含む)が国会で1/3以上の議席を占め続けたからであり、ひいては、上記の<ミニ・インテリ>たち、戦前に比べれば飛躍的に量を増した都市勤労大衆のうちの、学歴が相対的に高い「ホワイト・カラー層」等、が日本社会党等を支持したからだ。

 日本国憲法改正ができなかったのは、上のような<ミニ・インテリ>たちの選好政党に基本的原因があった、と言って過言ではない。彼らは、高度経済成長のもとで、自分と自分の家族のための物質的豊かさの向上を享受しつつ、その<安逸>(および努力すれば報いられるとの達成感)を守るために、<戦争・軍事>に関する問題については真摯に考えることなく思考停止させ、<戦争・軍事>問題を活性化させそうな、キナくさく「古い」と感じられた保守党=自民党には投票しなかったのだ。

 そのような<ミニ・インテリ>たちの購読する新聞はたいていは朝日新聞で、朝日ジャーナルがあった頃はそれも読み、かりに自分の勤務・仕事とは無関係であっても、少なくとも頭の中だけでは(観念的には)「進歩的」気分に浸り、意識の中だけでは<ミニ・エリート>たることができた。

 そのような世代または「層」は<団塊世代>をもまたいで、なお広範に存在するように見える。「古い」自民党政治からの訣別に拍手を送り、「新しい」民主党政権を大歓迎したの国民たちの中に、このようなかつての<ミニ・インテリ>たち(および彼らの影響を受けた者たち)は多かったように見える。

 民主党政権の成立とその後の成りゆきの責任を負うのはむろん最終的には有権者国民であり、民主党に投票した者たちだが、その民主党支持者(投票者)の中にはオールド「社会党支持者」たちも少なくなかったと見られる。

 戦後日本の歴史を概括しようとするとき、日本が<衰亡>に向かっているとすれば、上記のような<ミニ・インテリ>たち=オールド「社会党支持者」たちの<責任>はきわめて大きい。このことは特筆しておきたい。

 もちろん、そのような<ミニ・インテリ>たちを生んだ、学校教育(=教師)、マスメディア、そしてこれらをも指導した(一時期はGHQの占領政策に「迎合した」)本来の「知識人」たち、あるいは学者・文化人の類の<責任>は厳しく指弾されなければならない。

 <責任>が追及されるべきいわゆる<進歩的文化人>の特定と言動内容、GHQや「社会主義」諸国との関係等を明らかにしておくことは、「戦後日本」の総括にとっての重要な課題の一つに他ならないと思われる。

0957/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」。

 一 佐伯啓思・日本という「価値」(NTT出版、2010.08)の第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」は、月刊正論2010年6月号(産経新聞社)の「『保守』が『戦後』を超克するすべはあるのか」に「多少の加筆修正」をしたもの。

 月刊正論の原論考ついては、この欄の5/07、5/17、5/18の三回ですでに紹介・言及している。不十分なコメントしかできていないが、単行本の一部となって読み直しても、<保守派>志向の者にとって、無視できない、重要な論点・問題を提起しているようだ。

 日本の「国民精神」は「西欧的なもの」と「日本的なもの」の間の、「もはや深刻なディレンマとして受け止めることができなくなってしまった」ディレンマとして表象されてきた。この「葛藤を引きうけること」によるしか「精神の活力もバランスもえることはできない」ので、「保守の立場とは、まずはこのディレンマを自覚的に引き受けるということから始めるほかない」(p.202-3)。

 日本の保守派(志向者)ははたして、「このディレンマを自覚的に引き受けるということから始める」ことをしているのだろうか? そしてまた、なぜ、この佐伯啓思論考を手がかりにしたような議論や論争が<保守論壇>で起きないのか?

 二 あらためて、この論考を最初から、メモをしながら読み直す。なお、今年2010年の4月頃に初出論文は執筆されたと見られることは留意されてよいかもしれない(まだ鳩山由紀夫首相で、まだ2010参院選民主党敗北も明らかでなかった。むろん尖閣問題も起きていない)。

 ・鳩山政権の支持率は下がっているが、自民党への期待が高まってもいない。その理由は「この政党の依って立つ軸のありかが全くもって不明な点」にある。但し、民主党も「同じ」で、「経済政策や外交政策の基本的な立場が見えない」(p.178)。

 ・民主党=リベラル、自民党=保守との図式ぱありうるが、「リベラル」・「保守」の意味自体が明快ではない。福祉重視=リベラル、市場競争重視=保守という「何とも大ざっぱで、しかも誤った通念」が流通した。これによると、「構造改革」をした自民党は保守、民主党は「その反動でリベラル」ということになる。だが、「構造改革」という「急進的改革」者を保守と称するのは奇妙で、それに「抑制をかける」ものこそを「保守」というべきだ。また、「過度にならない福祉」は「保守」の理念に含まれているはずだ(p.179-180)。

 ・下野した自民党の一部で「保守の原点」、「保守の再定義」、「真正の保守」等が語られているのは結構なことだ。では、「保守の原点に立ち戻る」とはどういうことなのか?(p.180)

 ・「保守」の立場の困難さの一つは、「改革」・「チェインジ」の風潮と現実のもとにあることだ。だが、現在の「変化が望ましい方向のものだという理由はどこにもない」。「変化」の意味を見極め、「変転著しい」「変化」に「振り回されない軸を設定する」ことこそが今日の政治の課題=「保守」という立場、だ(p.180-1)。

 とりあえず、以上(つづく)。

0927/<左翼・売国>政権打倒のための総選挙実施を-月刊正論12月号一読後に。

 1.月刊正論12月号(産経新聞社)内をいくつか読んでいて、とくに中西輝政論考によってだろうか、尖閣諸島に非正規の中国実力部隊とともに多数中国人が上陸し始める、海上保安庁は、あるいは自衛隊は何をできるか、中国の正規軍(・軍艦)が(中国にとっての領海内に)入ってくる、という事態や問題が現実になりうるようで、いくぶんかの戦慄を感じざるをえない。

 2.月刊正論12月号は西部邁、中西輝政、西尾幹二、櫻井よしこの4人揃い組。これに渡部昇一、佐伯啓思あたりも加わっていれば、<保守>論者の大御所のオン・バレードだ。多少は皮肉も含まれており、似たような名前がいつも出てくるなぁ、と思いもする。

 <左翼>の側には、いろいろな戦線・分野で、いろいろな幅をもって、もっと多様な書き手、論者がいるのではないか。どうも心許ない。

 といったことを書いている余裕は本当はないのかもしれない。

 3.よく見る名前だが、<尖閣>または<9・24>をテーマとする論考に、主張内容の違いがあるのが分かる。むろん、基本的なところでは(対中国、対民主党政府等)、一致があるのだろう。だが、現在において何に重点を置いて主張したいかが論者によって同じではない。
 頁の順に、巻頭の西部邁「核武装以外に独立の方途なし」(p.33)は、タイトルに主眼があり、アメリカへの不信感を述べつつ、「自分らの国家を核武装させ、…他国への屈従から逃れてみせるしかない」と主張する。その過程で、「日米同盟の強化なしには尖閣の保守もなし」と唱える言説は、「いわゆる親米保守派」のそれで、「本当の噴飯沙汰」と明記している(p.36)。
 中西輝政「対中冷戦最前線、『その時』に備えはあるか」(p.48~)は、中国による「実際の軍事力の行使」=「危機の本番」は「年末から年明けにも」と予想する(p.50)。詳細には触れないが、具体的な想定等には、冒頭に記したように、戦慄と恐怖を覚えるところがある。

 中西によると、「日本人の精神の目覚め」を阻止するための、中国による「対日世論工作」が今後、活発化する。より具体的には、①「反米基地闘争」の「さらなる高揚」による「日米同盟」関係の「離間」、②「日本の言論界そのものに対する統制」、③与党・民主党に「親中利権派議員」を大量に作ること、だ(p.54-55)。

 ①~③のすべてがすでにある程度は、②に至ってはすでに相当程度に、奏功しているのではないか。

 中西輝政がまとめ・最後に述べるのは、次のようなことだ。

 <「民主主義」や「人権」は中国(・共産党)の「最大の弱点」なので、「同じ民主主義体制の国々」とともに中国にこれらの重視を対中政策の第一とすべき。「中国の民主化」という「人類社会」の「大義」に向かって協力するのが重要で、それは「大きな武器」になる。>(p.56)

 西部邁のいう「親米保守」派に中西輝政が入っているのかどうかは知らないが、中西輝政も憲法改正や核武装論に反対ではないだろうにせよ(むしろ積極的だ)、西部邁と中西輝政では、同じ状況・時期における具体的な主張は同じではない、と理解せざるをえないだろう。

 西尾幹二「日本よ、不安と恐怖におののけ」(p.74-)は、中国の分析、日本のマスメディア批判のあと、日本人の精神の対米従属性(+アメリカは本気で尖閣を守る気はない)を嘆いて終わっている。いわく-「この期に及んで自分で自分の始末をつけられない日本国民」をアメリカ人は「三流民族」だと見ているだろう、「否、…私も、日本国民は三流民族だとつくづく思い、近頃は天を仰いで嘆息しているのである」(p.81)。

 西尾のものは、同感するところなきにしもあらずだが、一種の精神論のごときで、最もリアリスティックなのは中西輝政の論考だ。西部邁は<核武装>に至る、または<核武装論>を議論するに至る、必要不可欠の過程を具体的に示してもらいたい。今どきのこの主張は、正しくとも、時宜にはかなっていない<空論>になるおそれが高そうに見える。

 もっとも、佐伯啓思ならば決して書きそうにない中西輝政の最後の主張も、正しくとも、やや綺麗事にすぎる、あるいは、米国も欧州諸国もそれぞれの国益を最優先するとすれば、多少は非現実的なところがあるかもしれない。「民主主義」と「人権」の主張の有用性・有効性を否定はしないが、はたして現実に<自由主義>諸国はそのように協力してくれるだろうか。

 中西輝政論考のポイントはむしろ、究極的(最終的)には<自衛隊の「超法規的」な軍事行動に期待するしかない>という想定または主張にあるように思われる(p.53-54)。

 4.上の三人ともに現民主党政府に批判的だろうが、誰もひとことも書いていないことがある。

 それは民主党(菅直人)政権を変えて<よりましな>内閣を作る、という、核武装や憲法改正よりも、現実的な論点・課題だ。

 朝日新聞の社説ですら、菅直人への首相交代時に<できるだけ早く>国民の信を問う(=総選挙する)必要性を(いちおうは)書いていた。

 尖閣問題への対応を見ても、この内閣が<左翼・売国>性をもつことは、ますます明瞭になっている。

 参加しないで言うだけするのも気が引けるが、10/02と10/16の二回の集会・デモのスローガンはいったい何だったのだろう。その中に<菅内閣打倒!>・<売国政権打倒!>・<即時総選挙実施!>などは入っていたのだろうか。

 現実的には、対中「弱腰」以上の、「親中」・「媚中」以上の<屈中>政権をこれ以上継続させず、外務大臣も官房長官も代えることの方が具体的な<戦略>だと思われる。そのためには、総選挙を!というムードをもっと盛り上げていく必要があるのではないか。

 いわゆる<政権交代>からもう一年以上経った。今の内閣が現在の<民意>に添ってはいないこともほぼ明らかだ。マスコミの主流は現内閣の困惑と混迷ぶりばかり報道しているようで、かつ産経新聞も含めて、<あらためて民意を問う>必要性を何ら主張していないのではないか。非現実的なのかもしれないし、上記の三人もそのように考えているのかもしれない。しかし、重要なこと、より現実的に必要なことは、やはり(憲法改正等と同等に)主張し続けなければならない、と考える。

 <左翼・売国>政権打倒!という表現では過半の支持は得にくいかもしれないが、形容・表現は極端に言えば何でもよい、現在の民主党政権を一日でも早くストップさせ、<よりましな>政権に変える、このことがとりあえずは日本の将来と現在の国益に合致している(もちろん国民の利益でもある)、と考えるべきだ。

0906/三島由紀夫1970年7月エッセイを読んで-月刊正論11月号。

 月刊正論11月号(産経、2010)が1970年7月7日付サンケイ新聞夕刊に掲載された三島由紀夫の「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」と題する(「私は口をきく気にもなれなくなっているのである」で終わる、有名な)寄稿に対する6人の感想文的なものを載せている。なかなかよい企画だ。
 三島由紀夫の文章自体はむろん、今回の各氏の文章に対するコメントをさらにすることも避けて、印象に残った文・表現のみメモしておく。

 長谷川三千子-「日本人がとことん戦い抜いて全滅」して「焦土にひゅうひゅうと風が吹き渡っている」光景こそが「あるべきかたちだったのだ、という戦慄すべき考えに恐れ、おののきながら、その風の音を聞く」、「そこから出発するのでなければ、日本の再生などありえないということを、三島由紀夫はよく知っていた」(p.123-4)。

 井上豊夫-三島が自衛隊に体験入隊をした頃財界人と接触したが、「資本家たちは一見『天皇主義者』のように見えますが、利益のためなら簡単に裏切る人々だと実感したそう」だ(そして、「盾の会」等への財界の資金援助をいっさい受けなかった)(p.125)。

 渡辺京二-「現代において肝要なのは、死んでみせることではなく、生きのびてみせることなのである。生きのびることは、時代への嫌悪に耐え、自分の課題を最後まで追究しつつ中道で斃れることである」(p.127)。

 宮崎正弘-「『日本が日本でなくなる』はあちこちに出現し、未来は漆黒のように暗い。果たし得ない約束を、しかし残された時間にどうやって実現できるか」(p.129)。

 田母神俊雄-「自主憲法の制定と国家の完全独立を忘れたことが高度経済成長の陰で次第に日本を蝕んで行った」。「三島の警鐘」を「受け入れる」感性が日本の「政治家」にあれば、「総理大臣などにもっと洞察力」があれば、「我が国の政治が今日のような惨状を呈することはなかったであろう」(p.129)。

 竹本忠雄-「真の敵は『戦後民主主義とそこから生じる偽善』である、と見据えた明察が、一文の精神である」。/ソ連崩壊後も「日本を呪詛した唯物論者たちは、転向するどころか、哲学者、宗教評論家として、のうのうと託宣を垂れている」。/ロシア系仏作家某は、「ナチズムの犯罪は無慮数千万、共産主義の犯罪は無慮数億であり、前者は裁かれたのに、後者は一人として裁かれず、社会各層にふんぞり返っているのはなぜか」と問うた(p.131-2)。

0905/月刊正論11月号・中西輝政論文等-冷戦。

 一 月刊正論11月号(産経、2010)の巻頭、中西輝政「中国の無法を阻止する戦略はあるか」
 巻頭言にしては長い。p.33-44の二段組み、計12頁。
 「東アジア全体が、…『冷戦』に突入しているのである。今回の新たな冷戦では、東西冷戦とは異なり、日本が否応なくその最前線に立たされる。…」(p.41)

 欧州ではともかくとしても、日本ではソ連崩壊後も<冷戦は継続している>ということは、近時の主張しておきたいところだった。
 同上誌のp.316で水島総は「既に世界は変わり、ポスト冷戦から、ポストポスト冷戦に様変わりした」、と書く。
 ニュアンス、厳密な意味は同一ではなさそうだが、現在の日本が「冷戦」の真っ只中にあるという認識では共通しているだろう。
 水島が言っているだろうように、ソ連崩壊によって「資本主義」あるいは「保守(・自由主義)」が勝利した、と単純に考えている「戦後保守」がいるとすれば、とんでもない間違いだ(但し、この人のこの号の叙述には感覚的に合わないところもある)。
 いずれにせよ、「保守」の側はともかくとしても、中国・北朝鮮(論じ方によっては韓国も)という近隣諸国に断固として立ち向かう必要がある、と漠然としてであれ考えている国民が多数派ではないようであることが、現在の日本の怖ろしいところだ。

 新憲法によって日本は平和で自由なよい国になった、それは基本的には今日までずっと継続している、と何となく考えている(私に言わせれば勉強不足の、あるいは主流派的マスコミに騙されたままの)国民はまだけっこう多いのではないか。

 そのような人々は、中国等の脅威(・異様さ)を正当に指摘し、例えば日本の「ナショナルなもの」の保持の必要性を語るような議論を、<偏っている>とか<右翼・民族派>とか言って無視するか軽蔑しがちだ。
 説明する必要もないほどだが、そのような人々とはもはや「口をきく気にもなれなくなっている」。

0904/「共産党ではないが左翼」の社会・人文系学者たちの多さ-月刊正論11月号・竹内洋を読む。

 月刊正論(産経新聞社)連載の竹内洋「革新幻想の戦後史」は月刊諸君!(文藝春秋)から「続」となって月刊正論に移ってしばらくはもたもたしている感もあったが、先月号あたりから再び(私には)面白くなった。
 1.月刊正論11月号の竹内洋・同上は丸山真男批判(の一部。竹内には丸山真男に関する新書一冊がすでにある)。その基本的趣旨自体も興味深く、1970年代以降の丸山真男の「衰え」を再確認させる。
 丸山真男については著書・全集の一部をじかに読んだことがあり、この欄でも言及した。
 このブログサイトでの「丸山真男」を検索してみると、なんと最初から13個までが「秋月瑛二」によるこの欄がヒットした!。もう忘れたが、丸山真男を主題としたものを20回は書いただろう。

 そして、丸山真男を積極的・好意的に評価する本が今日でも新たになお出ていることも思い出して、あらゆる戦線(?)での<左翼の執拗さ>をあらためて感じる。
 2.さて、p.282-3のデータ(資料)はきわめて興味深いもので、私の推測ともほとんど合致している。
 p.282の表は、ごく大まかに一言でいうと、1973年時点の支持政党調査では、「日本人平均」では自民党が一位で二位・社会党の1.5倍ほどの支持率があるのに対して、「大学教師」の支持政党の一位は社会党、二位は民社党、三位は自民党で(「特になし」を除く)、社会党支持が自民党支持の二倍以上ある、ということだ。
 竹内の関心に即して言うと、「大学」の世界では、(1980年代前半の丸山真男による叙述とは異なり)「進歩的文化人」は「多数派」だった、ということが明瞭に判る。

 これは1973年の数字だが、現在でも、「大学」教員の世界では(「進歩的文化人」という語は今日的用語としてはあまり使われなくなっていると見られるが)、「左翼」または「何となく左翼」が(とくに社会・人文系では)<圧倒的多数派>を形成しているのではないか。
 p.283の表が示す数字の方がさらに興味深い。
 1983年時点での「保守・中間・革新」意識の調査結果によると(出典の再引用は上ととともに省略)、「中間」を割愛して「保守」対「革新」の数字だけ示せば、「一般国民」が34対24、「財界」が74対10、「官僚」が56対23であるのに対して、「マスコミ」(人)は34対46、「学者・文化人」は31対51、ついでに「市民運動」(家)は14対81、「学生」は42対46だった、という。
 27年前の数字だが、「マスコミ」(人)や「学者・文化人」における「革新」または<左翼>性向が明瞭に数字化されている。
 そしてまた、今日でも、その傾向は変わらないものと思われる。

 70年代(とくに前半または初頭までの)「革新」ムードは全体としては80年代には消滅または弱体化していたはずだが、「マスコミ」(人)や「学者・文化人」においては異なることが上の資料からは明らかだ。そしてまた、ソ連が解体し北朝鮮や中国の実態がより明らかになってきている現在でもまた、「マスコミ」(人)や「学者・文化人」の<政治意識>=<左翼・なんとなく左翼>性は(驚くべきことに、また執拗にも)大して変化していないのではなかろうか。
 ここでの「左翼」とは、いつかも書いたように、<容共>志向、換言すると、<反共>の立場に立たない(立てない)政治的意識・主張・見解のことを意味させている。
 3.そういう「左翼」的雰囲気の「学者・文化人」や「マスコミ」(人)の世界において、日本共産党支持またはコミュニズム支持を少なくとも明確に示しはせず、むしろそれとは距離を置きつつも、「保守(・反動)」、ましてや「右翼」と評されないことが最も<安全で・安心な>態度=処世術なのだろう。
 p.283に引用されている、2009年の某雑誌での伊藤隆(東京大学名誉教授)の次の言葉は、十分に納得がいく。
 竹内洋が使った「共産党員ではないけど、いつも共産党員に気兼ねをしている学者」という表現につなげて、伊藤隆は言う。
 「気兼ね学者は大学の人事を握っていて、リベラルということで良心が満たされる気分になると同時に利益もある…。(一文略-秋月) 学者にとって一番理想なのは、東大教授で、共産党ではないが左翼である。そして、ジャーナリズムにどんどん登場するということでしょう」。

 日本共産党を支持はしないが決して「保守(・反動)」、ましてや「右翼」と呼ばれたくはない、という気分の多数の(とくに社会・人文系)「学者・文化人」さまには、上のような言葉も傾聴していただきたいものだ。
 また、「共産党ではないが左翼」で、「ジャーナリズムにどんどん登場」して(世間的)知名度も獲得したいという「東大教授」は、現に多数存在するのではないか(それを現実化している「東大教授」の名を具体的に何人かは挙げることができる)。
 くり返せば、「共産党ではないが左翼」で、学界内部でも、共産党そのものに<染まっている>わけではないが決して<反共>の立場に立たない(少なくともそれを明言しない=日本共産党に「気兼ね」する)大学教員たち、そして東京大学教授たちは、世間一般の相場に比べれば著しく多い、と想定される。現在の日本の<異常さ>はこんなところにもある。あるいは、こんなところにも起因している。 

0888/高池勝彦「ケルゼンを知らねばパール判決は読み解けないか」(月刊正論2009年2月号)再読。

 月刊正論2009年2月号(産経、2008.12)の高池勝彦「ケルゼンを知らねばパール判決は読み解けないか」(p.278-)によって、一連のパール判決・ケルゼニズム(・法実証主義)論争は終熄したかに思えた。
 内容を引用・紹介していないが、この高池勝彦の論考について、私は「このタイトルは、この欄で既述の私見と同じ」。「東谷暁や八木秀次のパール・ケルゼン関係の文章よりもはるかに私には腑に落ちる」とだけかつてコメントした。
 高池は中島岳志=西部邁・パール判決を問い直す(講談社現代新書、p.15、p.30、p.60)を挙げ、「パル判決の論理構成に関して、『パールを援用した自称保守派の東京裁判批判は、全面的に法実証主義に依拠している』とか、『法実証主義が果たして本来保守派が立つべき立場なのか』とか、『法律条文を金科玉条とする』といった批判がある」、と紹介していた(p.284)。そして、次のように批判または反論している。かつて紹介・引用していないので、ここではほぼ全文を引用しておく(p.285、旧かなづかいは改めた)。
 ①「なぜパル判事が法実証主義に依拠してはいけないのかわからない」。
 ②「そもそも本当にパル判事が…全面的に法実証主義に依拠しているのか、疑問」だ。
 ③「法実証主義が法律文を金科玉条としているというのは少なくともいい過ぎ」だろう。「ごく常識的な法実証主義」とは「法解釈にあたって…、存在と当為、事実と規範を分けて、判断することをいう」と理解するので、「これは現代の法解釈において多かれ少なかれとらざるを得ないのではないか」。「法実証主義は、実定法を解釈の対象」とし、「実定法を離れてイデオロギーや教義によって法を解釈することを拒否する」。「ただ、極端な法実証主義はそれこそ法律文を金科玉条とすることになりかねないというだけのこと」ではないか。
 ④「そもそも、国際法は、…慣習法が重要な法源であり、パル判事もそれを強調している」ので、「法律文を金科玉条とすることなど不可能」だ。
 ⑤西部・中島両氏が強調するのは「平和に対する罪」は「事後法の禁止に反する」旨をパル判事が述べているのを指すと思われるが、「パル判事はそれこそ平和の罪が犯罪ではないことを様々な条約や学説、事件などを引いて論証しているのであり、とても単なる法律文だけを根拠にしているのではない」。
 ⑥「パル判事が主としてケルゼンの学説に依拠しているといわんばかりの主張にも同意できない」。パル判事は「ケルゼンの学説をかなり理解し、必要な部分は取り入れているかもしれない」が、「それのみに依拠しているわけではなく、パル判決はそれ自体として判断する必要がある」。
 ケルゼンを批判することによってパール判事(の意見書)(の基礎的考え方・「法律観」)をも批判しようとする西部邁や中島岳志の論法には、無理があり、こじつけがある。西部邁によると「主として」制定法(法律)を基準として仕事をしている現在の日本の多くの専門法曹(裁判官・弁護士等)は「法匪」になるのかもしれないが、かつてパール意見書を読んだことがあるとも言う(p.278)、弁護士・高池勝彦の理解・主張の方が<素人>の西部邁・中島岳志よりもはるかに信頼が措ける。
 西部邁・中島岳志らによる、議論の不要な紛糾は避けた方がよく、「法」、とくに「制定法(法律)」に関する考え方について、西部邁が述べるところを信頼あるいは参照してはいけない。
 なお、かつての論争の中心点はパール判事意見書(パール判決)は<日本「無罪」論>だったのか否か、だったようだ(高池p.278)。
 この論点について高池は次のように述べて、中島岳志・西部邁とは異なる理解を示している(p.284)。
 ①<講談社学術文庫・パル判決書(上)の解説者・角田順はパール判決は「日本無罪論ではない」ことを強調しているが、小林よしのりが指摘するように仮定形の論述で、1.「仮定文の中身を真実であると認めたわけではない」、又は2.弁護側の無反論のゆえに仮定を「前提に議論を進めた」、という部分が「多い」のであり、私(高池)は「パル判決は全体として、日本が無罪であると主張しているとしか読めない」。>
 ②<但し、「無罪」とは「有罪と認定する証拠がない」ことを意味し、日本のすべての行動に「何の問題もなかった」ことを意味しはしない。「刑事上の無罪」は「道義的に無罪であるという意味ではない」とよく主張されるが、それは「当然のこと」だ。>
 高池は日本の「道義」上の問題の具体的評価に立ち入っていないが、パール判決や中島岳志=西部邁・パール判決を問い直す(講談社現代新書)をきちんと読んではいないものの、上の論旨にも「納得がいく」。
 その後、西部邁または中島岳志は、この高池勝彦論考に対してきちんと反論したのかどうか。

0883/佐伯啓思「『保守』が『戦後』を超克するすべはあるのか」(月刊正論6月号)のメモ。

 佐伯啓思「『保守』が『戦後』を超克するすべはあるのか」(月刊正論6月号、産経)のメモ。
 ・財政再建か景気拡張か、日米関係をどうするか、構造改革を促進するのか否か、消費税をどうするか。自民党は具体的な方向を指示しておらず、民主党も同じ。「その時々の情緒やムードに敏感に反応」する「世論」が「政治を翻弄」していて、真の「二大政党政治からはほど遠い」。  ・自民党=保守、民主党=リベラルと簡単に図式化できない。「福祉重視」派=リベラル、「市場競争」派=「保守」というのは大雑把で「誤った通念」。「構造改革」なる「急進的改革」の推進者が「保守」というのは「いかにも奇妙」で、それに「抑制をかけるものをこそ保守というべき」。また、「過度にならない福祉は保守の理念に含まれる」。自民党は以前は「一種の福祉政策」も行っていた。(以上、p.80-81)  ・「保守」とは、「保守の原点に立ち戻る」とは、いかなる意味なのか。「保守」の困難さの第一は、圧倒的に<改革・変革・チェンジ>ムードの影響下にあること。アメリカの時代→中国の時代、IT革命→環境・エコ革命、テロとの戦い→「核廃絶に向けて」、「自由に能力が発揮できる社会」→「格差を是正する社会」。凄まじい変化だが、現在の「変化が望ましい方向のものだという理由はどこにもない」。  ・「『変化』に振り回されない軸を設定すること」が、「保守」の立場の「政治的課題」だ。  ・第二は、「戦後日本という特殊な空間」の形成にかかわる。「日本の近代化」は①「王政復古」等の「伝統的日本への回帰」と②「西欧列強の制度や価値の模倣もしくは導入」により遂行された。「外発的」近代化、「憧憬」することによる近代化だった。この事情は「戦後」に「さらに著しくも緊張感を欠いた漫然たる」ものとなり、無自覚・無反省な「アメリカ的なものへの傾斜、追従」になった。  ・上に異論はあろうが、「戦後日本人」は「ほとんど無意識のうち」にであれ、「アメリカ的なもの」=「個人的自由、民主主義、物的な豊かさと経済成長、人権思想、市場経済、合理的で科学的・技術的な思考、市民社会など」に「寄りかかった」。これらに対立する「日本的なもの」=「家族的紐帯、地域共同体、社会を構成する権威」、「日本的自然観、美意識、仏教的・儒教的・神道的なものを背景とした宗教意識」などは「ことごとく否定的に理解された」。ここに「戦後日本」の「大きな精神的空洞」がある。(以上、p.82-83)  ・「日本的なもの」を否定的に理解して「アメリカ的なもの」を受け容れる、つまりは「倒錯した価値をしごく当然のごとく受け入れてきた戦後日本」には、「公式的」には「保守」の「居場所はない」。アメリカ的「戦後思想」が「日のあたる場所」を占拠したので、「保守」は戦後日本の「公式」の「重要な価値」の疑問視から始める必要があった。
 ・「軍事力」抜きの「戦前」に戻ればよいということにはならない。「日本の近代化そのもののはらむ問題」だ。「戦後日本」への「根源的な違和感」を前提にしてこそ「保守」という「精神態度」は成立する。ゆえに「戦後憲法の精神は保持したまま」で「保守の原点に戻る」というのは無意味
 ・だが、ここで「困難はいっそう倍加する」。「戦後」を懐疑しても「現憲法や下位の法体系」の下で言論等をしており、「戦後日本」の「外」には出れない。「戦後日本の公式的価値空間」での=「アメリカ的価値観の受容」をしての、「保守」提唱自体が「矛盾をはらんでいるのではないか」。
 ・上の事実に自称「保守主義者」たちは「どこまで自覚的」なのか。立脚点についての「引き裂かれた自覚」がまずは必要。
 ・反「社会主義」の「日米同盟」の強化は、下手をすると日本をますますアメリカの「保護領」にする。だが、誰もが「戦後体制」=「平和憲法と日米安保体制」の下で守られて生きていて、「日米同盟」破棄はできない。「状況そのもの」が「日本を日本でなくする危険に満ちている」。このことを今は「受け入れるほか」はない。この「苦渋に満ちた矛盾と亀裂の只中にいるという自覚」だけが、今日の「保守」に道を開く。このことに無頓着な者は、「親米であれ反米であれ」、真の「保守」たりえない。(以上、p.83-84) 

0881/櫻井よしこと「国家基本問題研究所」。

 櫻井よしこによると鳩山由紀夫は「戦後教育の失敗例」らしい(産経新聞5/13付1・2面の見出し)。そのとおりだと思う。いや、正確には、戦後「左翼」教育、戦後「平和」教育、「戦後民主主義」教育の成果であり、立派な成功例だと言うべきだろう。
 その櫻井よしこは-この欄で既述だが-昨年の2009総選挙前の8/05の集会の最後に「
民主党は…。国家とは何かをわきまえていません。自民党もわきまえていないが、より悪くない方を選ぶしかないのかもしれません」とだけ述べて断固として民主党(中心)政権の誕生を阻止するという気概を示さず、また、鳩山由紀夫内閣の誕生後も、「…鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」(産経新聞10/08付)と書いていた。文字通りには「期待と懸念」を半分ずつ持っている、と言っていたのだ!。
 鳩山由紀夫の月刊ヴォイス上の論考を読んでいたこともあって、私は民主党と鳩山由紀夫に対しては微塵も<幻想>を持たなかった、と言っておいてよい。<総合的によりましな>政党を選択して投票せざるをえず、民主党(中心)政権になれば決して良くはならない、ということは明らかだったように思えた。外交・安保はともあれ<政治手法>では良い面が…と夢想した屋山太郎のような愚者もいただろうが、基本的発想において<国家>意識のない、またはより正確には<反国家>意識を持っている首相に、内政面や<政治手法>面に期待する方がどうかしている。
 しかし、櫻井よしこ月刊WiLL6月号(ワック)p.44-45でなおもこう言っている。
 「自民党はなすすべきことをなし得ずに、何十年間も過ごしてきました。その結果、国家の基本というものが虫食い状態となり、あちこちに空洞が生じています。/そこに登場した民主党でしたが、期待の裏切り方は驚くばかりです」。
 前段はとりあえず問題にしない。後段で櫻井よしこは、何と、一般<日和見>・<流動>層でマスコミに煽られて民主党に投票した者の如く、民主党・鳩山政権に「期待」をしていたことを吐露し、明らかにしているのだ!
 何とまあ「驚くばかり」だ。これが、<保守系シンクタンク>とされる「国家基本問題研究所」の理事長が発言することなのか!? そのように「期待」してしまったことについて反省・自己批判の弁はどこにもない。 
 「国家基本問題研究所」の理事・屋山太郎も、相変わらず、2009総選挙の前から民主党支持気分を煽った一人なのに、そのことについての反省・自己批判の言葉を発してはいないようだ。
 そして、屋山太郎は、上掲の月刊WiLL6月号では、昨年に渡辺某の「みんなの党」の結成時に、渡辺某のすぐ近くに立つか座って一緒にテレビに映っていたときの気分と同じままで、そもそもこの党の結成自体に多少の関与をしたと見られることを隠して、「みんなの党」をヨイショする文章を書いている(p.23)。それによると、民主党に失望した票は、自民党ではなく、「第三党に躍り出てきた」「みんなの党」に流れそうだ、とのニュアンスだ。
 また、屋山太郎は、平沼赳夫・与謝野馨の「立ち上がれ日本」につき、「現下の国民の要求とは完全に外れている」と断言していることも、きちんと記憶しておく必要があろう。
 「国家基本問題研究所」といえば、その「評議員」・「企画委員」なるものを潮匡人が務めているらしい(同ウェブサイトによる)。
 その潮匡人の、月刊正論6月号(産経)のコラム「時効廃止は保守の敗北」(p.44-45)は、法学・法律に詳しいところを再び(?)見せたかったのかもしれないが、気持ちだけ焦っての<大きな空振り三振>というところ。
 ごく簡単に触れれば、権利(刑事罰の場合は公訴権)または義務の発生または消滅の原因となる一定の期間の経過=<時効>と、保守主義者・バークが使っている<時効>とは似ている所もあるだろうが、前者の比較的に法技術的な意味での<時効>概念と後者の比較的に思想的な意味での<時効>概念とを混同してはいけない
 結論的には(馬鹿馬鹿しいので長々とは書かない)、国家「刑罰権力」の行使の余地を広げる・時間的に長くする(公訴)「時効廃止」は、「左翼」論者・心情者は(被害者・遺族の心情を考慮して明確には語らない者もいるだろうが)<反対>のはすだ。潮匡人は、結論的にはそうした「左翼」と同じ主張をしている。殺人罪等についての「時効廃止は保守の敗北」とは、いったい誰が支持してくれている見解なのだろう。
 このような、屋山太郎や潮匡人を抱えたシンクタンク「国家基本問題研究所」とはいったいいかなる団体・組織なのか。
 上では省略したが、櫻井よしこらの自民党批判は理解することはできる。同意できるところ大きい、と言ってもよい。
 だが、選挙前からのかつての自民党批判は同党支持<保守>層の自民党離れを促進し、却って、民主党(中心)政権の誕生を後押しした、という面があることを否定できないように考えられる。
 それに、民主党も自民党もダメというならば、<シンク>することなどはもう止めて、自分たちが政治活動団体を立ち上げて、選挙に立候補したらどうか。国会議員になって言いたいことを国会・各委員会で発言し、国会議員として文章も書いたらどうなのか。その方が、影響力は大きいだろう。
 櫻井よしこをはじめ、年齢的にも国会議員としての活動はできそうにない、という者もいるだろう。だが、潮匡人などは、まだ若そうだ。
 そういう、現実的な政治的行動を採る気概を示すことなく、ただ<シンク(think)>して文章を書き「評論」しているだけでは、<湯だけ(言うだけ)>の「左翼」人士と基本的には何ら異ならないのではないか。この点では、上掲月刊WiLL6月号p.52以下に(自民党からの)<立候補宣言>文書を掲載している三橋貴明は偉い。「言うだけ」人士に対してよりは、敬意を表したい。
 正しいことは言った、しかし負けた、と言うのは、日本共産党だけにしてほしい。もっとも、日本共産党と同じく、「国家基本問題研究所」の面々が「正しい」ことを言っているか否かは吟味されなければならないのだが。
 <保守>的論者・団体の活発化・まっとう化を願って書いている。

0865/外国人(地方)参政権問題-あらためて、その2・憲法学界。

 1.外国人(地方)参政権問題に関して不思議に思っていることの一つは、すぐれて憲法問題で(も)あるにもかかわらず、現在の日本の憲法学者(研究者)による発言等が雑誌や新聞上でほとんど報道されないことだ。

 産経新聞紙上では、百地章・長尾一紘と近藤敦(名城大学)くらいで、保守系論壇ではほとんど百地章が一手に引き受けて憲法学者としての反対論(外国人参政権否定論)を述べているようだ。

 かかる状況は、憲法学界または憲法学者の対社会影響力、世論形成力の弱さを示しているとも感じられ、果たしてよいことなのかどうか、気になるところだ。

 また、マスメディア(新聞を含む)に従事する人々の<法学>オンチ、または苦手意識からする<法学(・法律)・何となく嫌い>気分が表れているようでもある。

 産経新聞紙上で少なくとも二度は目にした近藤敦(名城大学)は、賛成論者として登場している。

 この問題についての学説はさまざまな観点から分類できるが、被選挙権を含まず、かつ「地方」参政権に限って、長尾一紘は月刊正論5月号(産経)p.55で、3分類(禁止説・要請説・許容説)を示している。

 このうち「要請説」とは、憲法は法律で付与することを「許容」しているのみならず付与を「要請」しているとするもので、厳密にはさらに、①この要請に違反すれば憲法違反になるとする説(付与していない現行法律=公選法は違憲になる)と②立法者=法律制定者に付与するよう努力義務(政治的義務・責務)を課しているだけで、この違反はただちに憲法違反にならないとする説に分けられる。

 長尾は上の①の意味のものを「要請説」と称している。

 2.辻村みよ子(東北大学)、近藤敦(名城大学)の見解はより正確にはどのようなものなのか。その一端だけを、辻村みよ子・憲法〔第三版〕(日本評論社、2008=A)、同・同〔第一版〕(日本評論社、2000=B)によって、見ておく。

 辻村A・Bによると、「学説は、外国人参政権を一切認めない従来の禁止説から脱して、しだいに地方参政権を認める見解(許容説)が有力になった」とされる(Ap.148、Bp.167)。

 辻村Bによると、国政選挙ではなく、地方選挙に限ると、a「禁止(否定)説」、b「積極的肯定説」、c「消極的肯定説(許容説)」に分けられる。ここでのb「積極的肯定説」は「要請説」とほぼ同義のようであり、上記の①の、違憲判断を導く「要請・違憲説」と、上記の②の、ただちに違憲とはしない「要請・政治的義務説」とに分けられている。

 辻村自身の説はいずれか。辻村A・Bによると、「要請説」だ。その中のいずれか、というと、辻村Bは、<「政治的義務説」(ないし「違憲説」)>だという書き方をしている(Bp.167-8)。この部分は、辻村Aにはない。

 ともあれ、辻村みよ子説は、「禁止説」でも<有力な>「許容説」でもなく、「要請説」だ。

 現在の代表的な「左翼」憲法学者の一人・辻村みよ子は、平成7年最高裁判決の「傍論」以上に、一定の外国人の地方参政権付与に積極的であることに、とりあえず注目しておく必要がある。

 なお、「要請・政治的義務説」か「要請・違憲説」かは不明だが、「要請説」であるかぎりで、近藤敦も同じのようだ(辻村著の文献参照による)。

 かかる見解の持ち主だと、民主党(中心)政権は今のところは国会提出を見送っているようだが、一定の外国人への地方参政権付与法案を歓迎しているだろう。

 3.興味深いのは、一定の外国人の「国政」参政権についての辻村等の見解だ。辻村は(上のAでもBでも)「要請説」に立っている。そして辻村Bでは、「地方」の場合と同様に<「政治的義務説」(ないし「違憲説」)>という書き方をしている(Bp.168)。

 「国政」参政権について、「禁止(否定)説」ではない。さらに「許容説」でもなく、それを超えた「要請説」を採っているのだ。辻村著によると、近藤敦も同じ。

 さすがに、「左翼」憲法学者の面目躍如というところだろう。外国人「国政」参政権を法律で付与することが「要請」されるという考え方(憲法解釈?)なのだ。

 「地方」はともあれ平成7年最高裁判決のように「国政」参政権を憲法上否定するのが(「禁止(否定)説」が)憲法学界でも一般的だ、と即断してはいけない。

 上に地方参政権について「許容説」が「有力」との辻村の認識を紹介したが、「国政」参政権についてもかなりあてはまりそうだ。

 辻村著によると、「国政」についての「許容説」論者に、九条の会呼びかけ人の一人・奥平康弘(元東京大学)がおり、「国政」についての「要請説」論者に、辻村・近藤のほかに、浦部法穂(神戸大学→名古屋大学)、後藤光男(早稲田大学)がいる。

 4.後藤光男は、ロ-スクールを含む学生(・同業者?)向けと思われるジュリスト増刊・憲法の争点(有斐閣、2008)の「外国人の人権」の項の中で、以下のように述べる。

 平成7年最高裁判決は「外国人は国政レベルの参政権は有しない」という前提に立っているが「なぜ外国人には地方参政権だけしか認められないのか、…疑問が生じる」。この見解は「住民自治」と「国民主権」を「別個の原理」と見ていて「妥当ではない」。「民主主義」=「共同体の自治」と考えれば「生活の本拠をもつ住民」を「単位」とすることの方が「当然」。「基本的」なのは「共同体の一員」であるか否かであり、「国籍」の有無は「それに付随した技術的なものである」(p.74)。

 何とも見事な、反国家・<ナショナルなもの否定>、そして「左翼」の文章だ。

 百地章は平成7年最高裁判決の「本論」の「禁止説」と「傍論」での地方参政権についての「許容説」を、前者の立場で一貫させよ、という観点から「論理的に矛盾」等と批判していた。一方、後藤光男は、<地方>につき「許容説」を採るならばなぜ<国政>でも採れないのか、と矛盾(?)を指摘しているわけだ。

 後藤と似たようなことを、辻村みよ子も書いていた。(*次回へと続く*)

0863/月刊正論5月号と週刊新潮4/15号(新潮社)から。

 〇潮匡人のコラムの後半(月刊正論5月号、p.51)をあらためて読んでいて、この人が言いたいのは、次のようなことなのだろうか、とふと思った。

 <兼子仁著は、新地方自治法によって国と自治体が「対等」になったとする、つまり地方自治体も国と同様に、かつ国と対等の「権力」団体になった。とすれば、外国人に「国政」参政権が認められないならば、国と「対等」の地方自治体についても、国の場合と同様に外国人参政権は認められないのではないか。>
 これは分かり易い議論・主張のようでもある。だが、かりに潮匡人の主張の趣旨がこのようなものであるとすれば、基本的なところで、やはり無理がある。

 第一に、地方公共団体が国と同様の「統治団体」(または「権力」行使ができる)団体・法人であること、広い意味では地方公共団体もまたわが国の<統治機構>・<国家機構>の一つであること、は戦後(正確には日本国憲法施行後または独立回復後)一貫して認められてきたことであり、2000年施行の改正地方自治法によってはじめてそうなったのではない。
 第二に、地方公共団体と国の「対等」性とは、基本的にそれぞれの行政機関は上下関係には立たないということを意味し、立法権能レベルでは国の法令は地方公共団体の条例に対して優位に立つので(憲法94条参照)、そのかぎりでは決して「対等」ではない。法律自体が「地方自治の本旨」に沿うように旨の注意書き規定が2000年施行の改正地方自治法で新設されたが、合憲であるかぎりは法律の方が条例よりも「上」位にあることは、改正地方自治法の前後を通じて変わりはしない。

 第三に、国と地方自治体(地方公共団体)の「対等」性が、それぞれの議会の議員等の選挙権者の範囲を同一にすべし、という結論につながるわけでは必ずしもない。法律のもとでの「対等」性、とりわけ法的にはそれぞれの行政機関間に上下の指揮監督関係はないということ、と議会議員(や地方自治体の長)の選挙権者の範囲の問題は直結していない。

 かりに潮匡人が上の第一、第二のことを知らないとすれば、幼稚すぎる。かりに日本の地方自治制度を岩波新書(兼子仁著)あたりだけで理解しているとすれば、あまりに勉強不足だろう。
 かりに潮匡人が上の第三のように考えているとすれば、単純素朴すぎる。結論はそれでよいかもしれないが、(いつか何人かの憲法学者の議論を紹介するが)外国人地方参政権付与に賛成している論者に反駁するには弱すぎる。議論はもう少しは複雑だと思われる。

 〇期待もした、長尾一紘「外国人参政権は『明らかに違憲』」(月刊正論5月号)はかなり不満だ。しばしば言及されてきた当人の文章なので読む前には興味を惹くところがあった。しかし、最初の方だけが憲法学者らしい文章で、あとは、政治評論家の如き文章になっている。つまり、憲法研究者としての分析・検討・叙述がほとんどない。最高裁平成7年2月28日判決への言及すらない。

 憲法学者ならばそれらしく、憲法学界での「外国人選挙権」問題についての学説分布などを紹介してほしかったものだ。民主党の政策を批判するくらいは、長尾でなくともできるだろう。1942年生まれで今年に68才。もはや<現役>ではないということだろうか(だが、現在なお中央大学教授のようだ)。

 〇週刊新潮(新潮社)はもっとも頻繁に購入する週刊誌。4/15号もそうだが、また、他の週刊誌についても同様だが、まず初めにすることは、広告および渡辺淳一の連載コラム等々で表裏ともに不要と考える部分を<ちぎって破り捨てる>こと。半分程度に薄くなり軽くなったものを(主要部分を読んだあとで)保存するようにしている。

 渡辺淳一のコラムをいっさい読まず<破り捨てる>対象にし始めたのは、渡辺の田母神俊雄問題に関するコメントがヒドかった号以来。したがって、一昨年秋以降ずっと、になる。この週刊誌を買っても、それ以降は渡辺の文章はまったく読んでいない。

 田母神俊雄論文を渡辺は、<日本は侵略戦争という悪いことをした>という<教条的左翼>の立場で罵倒していた。その際に<戦争を私は知っているが…>ということを書いていた。

 なるほど私と違って、戦時中の苦しさを実感として知っているのかもしれない。だが、1933年10月生まれで敗戦時にまだ11才の少年だった渡辺に、あの戦争の<本質>の何が分かる、というのだ。この人も、占領下の<日本は悪かった>史観の教育によって左巻に染められた、かつての「小国民」だったのだろう。

 〇渡辺淳一の2頁分のコラムに比べて、昨年あたりから始まった1頁に充たない、藤原正彦の文章(巻頭の写真付き連載の「管見妄語」)の、内容も含めての美しさ、見事さ、そして(とくに皮肉の)切れ味は、ほとんどの号において素晴らしい。
 渡辺淳一と、別の週刊誌にコラムを連載している宮崎哲弥と、週刊新潮・新潮社は交代させてほしい。

 〇4/15号の櫻井よしこ連載コラムは「朝鮮高校の授業料無償化は不当だ」。

 こんなまともな意見もあるのに、朝日新聞は仕方がないとしても、読売や毎日新聞の社説は問題視していない(朝鮮高校も対象とすることに賛成している)らしいのはいったい何故なのだろう。

 これまた、<ナショナルなもの>の忌避・否定、<日本(人)だけ>という排他的?考え方をもちたくない、という現代日本の<空気>的な心情・情緒に依っているのではないだろうか。

 社民党・福島瑞穂的な<反ナショナリズム>・<平等主義>には、じつは<ナショナルな>部分をしっかりと維持している点もある、という矛盾がある、ということをいつか書く(こんな予告が最近は多い)。

 〇週刊新潮の、並みの?用紙部分の最後にある高山正之の連載コラム「変見自在」は、ときに又はしばしば、こちらの前提的な知識の不足のために、深遠な?内容が理解不十分で終わってしまうときがある。いつかも書いた気がするが、関係参照文献の掲記(頁数等を含む)がないことと、字数の制約によることも大きいと思われる。

 4/15号の「不買の勧め」は朝日新聞批判で、これはかなり(又はほとんど)よく理解できた。

0862/外国人(地方)参政権問題-月刊正論・長尾一紘論考と産経新聞4/11記事。

 月刊正論5月号(産経)の長尾一紘「外国人参政権は『明らかに違憲』」p.55に以下の趣旨がある。
 <「許容説はドイツにおいて少数説」だ。当時(1988年)も現在も「禁止説が通説」。マーストリヒト条約によりEU内部での「地方選挙権の相互保障」を認め合うこととなり、ドイツでは「憲法改正が必要」となった。その結果、「EU出身の外国人」の地方参政権は「与えてよい」ことになった。「その他の国からきた外国人」については現在でも「憲法上禁止されていると考えられて」いる。>

 この叙述とはニュアンスと内容のやや異なる情報が、産経新聞4/11付に載っている。「外国人参政権/欧米の実相」の連載の一つだ。「『招かれざる客』めぐり二分」との見出しの文章の中に以下がある(署名、ベルリン・北村正人)。

 <ドイツでは80年代にトルコ人が地方選挙権を求めて行政訴訟を起こし、「法改正により外国人に地方…選挙権を与えても」違憲ではないとの判決があった。そこで、社民党政権の2つの州で外国人地方参政権付与の「法改正」があった。

 だが、保守系〔CDU・CSU、ちなみにメルケル現首相はCDU〕連邦議会議員らが「違憲訴訟」を起こし、連邦憲法裁判所は90年に「国民」=「国籍保有者」として、2州の「法改正」を「違憲」とした。

 現在、「左派党」政権の3つの州が「定住外国人に地方参政権を付与する」連邦憲法(基本法)改正案を連邦参議院(秋月注-ベルリンに連邦議会とは別の場所にある第二院で各州の代表者たちから成る)が「発議」している。>

 現在は憲法裁判所判決の結果として憲法(基本法)の解釈による付与の余地がないので、付与の方向での憲法(基本法)自体の改正の動きが一部にはある、ということのようだ(その運動議員の考えと写真も紹介されている)。

 なるほど「少数説」だったかもしれないが、かつて西ドイツ時代の11州のうち2州は(連邦憲法裁判所の「違憲」判決が出るまでは)外国人に「地方選挙」の「選挙権」を認める、という<実績>まであったのだ。当然に、それを支える法学者たちの見解もあったに違いない。また、<左派>の社民党(ドイツ社会民主党)や現在の「左派党」〔または「左翼党」、die Linke〕が付与に熱心だということも、日本と似ていて興味深い。

 この「記事」中、「法改正」とは「州法律」の「改正」のことだろう。「地方選挙」が何を指しているかはよく分からない。「州」議会議員選挙は含まず、記事中に引用の連邦憲法中の「郡および市町村」〔Kreis、Gemeindeの訳語だと思われる〕の議会の議員の選挙なのだろう。ドイツの州は連邦を構成する「国」ともいわれ、「地方」ではなさそうなので。また、「選挙権」とだけ書いているので、被選挙権を含んでいないのだろう。

 ともあれ、上の二つの種類の情報を合わせて、ドイツのことはある程度詳しく分かった。

 両者には、とくにドイツの現在の法的状況について、異なるとも読めるところがあるようだ。現在ベルリンにいるらしい産経・北村の方が正確または詳細かもしれない。
 以上は感想のみだが、この外国人参政権問題についてはさらに別の機会に触れる。

0861/潮匡人が月刊正論5月号で外国人地方参政権問題に論及するが…。

 外国人(地方)参政権問題につき、最高裁平成7年2月28日判決の「傍論」が述べた、法律で付与することも<できる>(付与しても、しなくとも違憲ではない)という所謂<許容説>は、元東京大学法学部教授の芦部信喜(故人)の説の影響が大きいと言われることもある。

 一度は芦部信喜の本(教科書)を見て確認しておかねば、と思っていたら、月刊正論5月号(産経)の潮匡人の連載コラム(この号は「リベラル派の二枚舌」との題)が芦部信喜『憲法』(岩波書店)の関係部分をそのまま引用してくれていた(何版、何年刊かは不明)。2頁のコラム中に全文引用できるほどに短く、簡単だ。
 「参政権は、国民が自己の属する国の政治に参加する権利であり、その性質上、当該国家の国民にのみ認められる権利である。したがって、狭義の参政権は外国人には及ばない。しかし、地方自治体、とくに市町村という住民の生活に最も密着した地方自治体のレベルにおける選挙権は、永住資格を有する定住外国人に認めることもできる、と解すべきであろう」。
 このあと、「判例も」として、「傍論」と注記をすることなく、上記の最高裁判決の所謂「傍論」部分を紹介しているらしい。
 以上の紹介は有益だ。もっとも、芦部信喜の代表的教科書は有斐閣版だったかとも思うので、あらためて調べて(=探して)みよう。
 しかし、潮匡人が兼子仁・新地方自治法(岩波新書)を挙げて、同著が改正地方自治法(2000年施行)は国・自治体の「『対等』原則を定め、まさに地方自治法制を一新したと言える」等と書いているとし、芦部信喜と兼子仁の二つの著は同じ岩波書店刊なのに、両者の「リベラル」な部分だけを援用する学者らは「二枚舌」だと述べているのは、いかなる意味・趣旨なのか理解に苦しむ。
 両人ともにたしかに<リベラル>で、その「左翼」性は兼子仁の方が高いというイメージ・印象はある。だが、芦部信喜もまた、東京大学の憲法学教授として(?)、<左翼・リベラル>だったと思われるので、潮匡人は<日本を惑わすリベラル教徒たち>の続編には是非、芦部信喜も対象としていただきたいものだ。また、「経済的自由」と「精神的自由」の保障の所謂「二重の基準」に言及するなどして潮匡人は憲法学(理論)にも造詣が深いようだから、新憲法制定時に東京大学の憲法学教授だった宮沢俊義の<思想>もまた、「リベラル教徒」批判の観点からでも、分析・検討していただきたいものだ。
 脱線しかけたが、かつての地方自治法のもとでは、都道府県や市町村の機関(知事や市町村長など)は当該都道府県・市町村自体の仕事ではなく「国」の仕事もかなりしていた。都道府県(の機関)で半分以上、市町村(の機関)で1/3程度とも、言われてきた。これを「機関委任事務」と称した。
 この時代には、知事や市町村長を選挙することは、「国」の仕事も相当程度に任されていた、「国」の下級行政機関を選任することでもあった。したがって、地方参政権は(とくに知事・市町村長選挙の選挙権は)、「国政」と直接に関係する、と言い易かった。あるいは、そのように簡単に断定できた。
 しかし、兼子仁のいう「『対等』原則」を定めた新地方自治法によって、「機関委任事務」は廃止され、都道府県や市町村(の行政機関)の仕事には「国」のものはなくなった。それぞれの仕事は「自治事務」と「法定受託事務」に分けられ、後者は少数だが「国」(の行政部)の仕事ではなく、あくまで地方公共団体の事務であることに変わりはなくなった(以上、改正地方自治法2条参照)。
 それでもなお、地方公共団体の仕事と「国政」との密接な関係を語ることができる。別の機会にこの論考にはもっと言及するが、月刊正論5月号(産経)所載の長尾一紘「外国人参政権は『明らかに違憲』」のp.55-57はそのような例を示している。
 だが、「機関委任事務」を廃止した「新地方自治法」は法的タテマエとしては法律のもとでの国・地方自治体の「対等」を定め、従来の「機関委任事務」の実施に際してのように国の行政機関(要するに中央省庁)の指示・指揮に地方自治体の知事や市町村長等が<法的に>拘束されることはなくなったのは確かなので、兼子仁の叙述は客観性を欠く、<リベラルに偏向>したもの、では全くないと思われる。
 新地方自治法によって<地方分権>が従来よりも進められたのは確かな事実なので(これの評価は多様でありうるとしても)、岩波刊の芦部信喜著と並べて兼子仁の著(の潮匡人の引用部分)に論及する意味は全くわからない。
 潮匡人の文章をもう一度読み直すと、兼子仁著が述べるように新地方自治法による国・自治体の「『対等』原則」の定め、「地方自治法制」の「一新」があったので、「芦部の生きていた時代はともかく」、参政権付与が「自治体レベルなら許される」というのは、「現在では成り立たない見解」だ、ということのようだ(こうしか読めない)。

 しかして、上の叙述の趣旨はやはり???だ。どうしてこんな論理(?)になるのか? 何らかの勘違いがあるとしか思えない。あるいは、叙述ないし説明不足か?
 嫌いではない潮匡人のコラムなので、「程度の軽い瑕疵」(p.51末尾参照)だと見なしておくことにしようか。

 外国人地方参政権問題および関係最高裁判決について、より書きたかったことは別にある。別の機会にする。

0860/月刊正論5月号(産経新聞社)を一部読む。

 1.月刊正論5月号(産経新聞社)が表紙に掲げる「総力特集」は「民主党よ、どこまで日本を壊したいのか」。「日本」と「壊」だけは赤文字になっている。
 上の文の意味は私は解るが、少なくとも民主党・代表(首相)の鳩山由紀夫(その他の民主党の主流派の面々)には理解不可能ではなかろうか。
 「日本を壊」そうなどとしていない、とムキになって反論してくるのならまだマシだが、「日本」などという(偏狭な・排他的な)国家意識をこそ民主党は破壊して、「国民」ではない「(地球)市民」による共生の社会を目指そうしているのだから、「日本を壊し」てどこが悪いのか、むしろ「日本を壊したい」のだ、と開き直るのではないか。
 そういう人物には、月刊正論の表紙の言葉は、馬に念仏、蛙のツラに何とか、とやらで、何ら心に響かないと思われる。編集者を批判しているのでは(必ずしも)ない。言葉・文章でもって議論なり説得なりをしても、決して判らない、納得しない人々もいる、ということだ(判り、納得して<反省>する人が皆無ではない、ということを否定はしないが)。
 2.さて、最近の各号についての通例として、まず、竹内洋「続・革新幻想の戦後史」を読む(p.254~)。
 小田実が「新手の右」と思われていた時期もあった(またはそう思っていた人も一部にはいた)こと、石原慎太郎は60年安保の頃、「江藤淳や大江健三郎などと『若い日本の会』をつくって安保改定反対の行動をしていた」こと(p.256)などは、初めて知った。
 全体としては、竹内の小田実との接触(?)体験の叙述等が生々しく記憶に残る一方で、「小田実」は「鬱と躁」をかけめぐった、というまとめ方(p.254、p.263)はあまり面白くない。個人の「心理」・「情緒」の揺れに焦点を当てて、「戦後史」全体につなげられるのだろうか、と思いもする。
 ともあれ、いずれ単行本になるだろう。まとめて読んでみたい。

 3.いくつかを一部ずつ読んだあと、石川水穂「マスコミ走査線」の連載(p.162~)。多数の新聞等をすべて読むことはできないので、こういう記事(?)は重宝する。
 これによると、高校授業料無償化につき朝鮮学校も対象とするかという問題については、全国紙社説等で朝日・毎日・読売は賛成、産経のみが反対または疑問視らしい。

 これでは全国紙レベルでは(そしておそらく地方紙も)、<世論>の勝敗はほとんど明らかだろう。青木理は週刊現代4/10号で、「日本ではまたぞろ憂鬱極まりないニュースが飛び交っていた」などと述べて産経新聞(だけ?)の主張を大きく受け止めて、感情的に反発する文章を書く必要はないのではないか。
 4.前回言及した筆坂英世の本には、日本共産党機関紙「赤旗」(日刊)の発行部数は<約130万に落ちた>旨の文章がある。
 週刊現代4/10号p.54、p.56によると、「大手」新聞各社の2009年下半期の発行部数は以下のとおり(()内は前年比?)。

 ①読売1001万(+)、②朝日801万(-14000)、③毎日373万(-96000)、④産経166万(-460000)(日経の数字は紹介されていないようだ)。
 これを信じるとすると、産経新聞の166万は、日本共産党「赤旗」130万と、あまり変わらないではないか。
 新聞では産経新聞、月刊政治(総合)雑誌では月刊正論、だけを読んでいたのでは、<KY>になりそうだ(日本国民全体の<空気は読めない>)。
 もちろん、その<空気>に、産経新聞社記者・山本雄史のかつての見解のように、<従う>必要はまったくないのだが。
 今回の文章は産経新聞(社)に対する嫌味に満ちていると感じられるかもしれない。

 5.次いで、竹田恒泰「政治家が『大御心』を語る危うさ」(p.208~)。

 これに書かれている天皇陛下等の「お考え」はおそらくは事実に相違ない、と私は感じた(つまり<女系容認>というご意向を「忖度」できない)。
 タイトルでは「政治家」になっているが、この文章の最後は、「政治家や官僚、そして学者や言論人までもが自由に天皇の大御心を語り、…を正当たらしめようとすることを、国民は許してはいけない」、だ。
 小林よしのりの名は一言も出てきていないが、最近の小林よしのりの論に対する明確な批判になっている(と感じた)。

0836/渡部裕明・産経新聞論説副委員長・11/14の「歴史的」大失態。

 一 奈良県の桜井市教委が、纒向遺跡内から大規模建物跡が発見された、と発表したらしい。
 産経新聞11/11は「卑弥呼の居館か」との大見出しを打って邪馬台国=近畿説の石野博信(香芝市二上山博物館長・元奈良県立橿原考古学研究所副所長兼附属博物館館長・関西大院卒)の「…卑弥呼の館の可能性はある」との言葉を伝え、辰巳和弘(同志社大教授)は「高床式建物はまさに卑弥呼の居室」と「明言」したと報道する一方で、邪馬台国=九州説の高島忠平(佐賀女子短大学長、元佐賀県教育委員会)は「大型建物跡は4世紀で卑弥呼の時代より50年以上も新しい」として「邪馬台国との関連を否定」した、と伝える。
 (なお、石野博信コメントは「可能性はある」というだけで断定するものではない。辰巳和弘コメントも「高床式建物」は「卑弥呼の居室」という一般論を示すだけで、今回発掘された建物跡の建物が「卑弥呼の居室」だったという趣旨ではないと解される)。
 産経新聞11/12は邪馬台国=近畿説の白石太一郎(大阪府近つ飛鳥博物館長、元奈良県立橿原考古学研究所所員、同志社大院卒)は邪馬台国所在地論争は「だんだん決着に近づいてきた」と「強調」した、と伝え、かつ赤塚次郎(愛知県埋蔵文化財センター調査課長、白石太一郎らとの共著あり)は「畿内説が有利になった」と「指摘」した、とする。
 同新聞は11/14から<卑弥呼いずこに・激論、邪馬台国>の連載を始めるが、第一回(上)に登場の、邪馬台国=近畿説だと思われる寺沢薫(橿原考古学研究所総務企画部長)は、「卑弥呼の宮殿として問題ないか」との先走った(幼稚な)質問に対して、単純な回答を避け、「卑弥呼が調査した辺りにいた可能性は高い」とだけ述べる。この部分を、記事は寺沢の顔写真の下にも引用している。
 11/15(日)に登場の七田忠昭(佐賀県教育・文化財課参事)は、邪馬台国=九州説の立場から「有明海沿岸が最有力」とし、纒向遺跡が示すのは「魏志倭人伝には登場しない別の勢力」ではないか、としている。
 11/16の第三回(下)はまだ読んでいない。
 二 以上、比較的長々と引用したのは、11/14の産経新聞「土曜日に書く/纒向遺跡と国家誕生」を書いた、産経新聞論説副委員長なる肩書きの渡部裕明の文章を奇異に感じたからだ。
 渡部裕明はこの文章(記事)の最後の方で「邪馬台国は大和で決着」との小見出しを付け、こう書いている。
 「邪馬台国九州説を唱える人はまだいる。しかし、それは学問的な発言ではなく、もはや『お国自慢』のレベルでしかないと筆者は感じている」。
 どのように「感じて」いようと勝手だし、それを全くの個人的・私的見解として公にするのも目くじらを立てることではないだろう。
 だが、産経新聞論説副委員長と明記したうえで、このようなことを書いてよいのか。内心で「感じる」ことや個人的・私的に語ることと、このような肩書きを付けて公式に活字にすることとの間には大きな懸隔がある。渡部裕明は、そう思わないか?
 第一に、自らの産経新聞に登場させている、邪馬台国九州説論者、すなわち、高島忠平や七田忠昭に対して失礼ではないか。「学問的な発言ではなく、もはや『お国自慢』のレベルでしかない」などと書いてしまうのは。
 なるほどこの二人は佐賀県に所縁があるのかもしれないが、それを言うならば、産経新聞が登場させている邪馬台国=近畿(畿内)説論者は、赤塚次郎を除く全員が「近畿」地域で仕事をしてきた者たちだ。
 第二に、この「産経新聞論説副委員長」氏は、いったいどの程度、所謂邪馬台国論争についての知識・素養があるのだろうか。
 同じ産経新聞社発行の月刊正論12月号は珍しく邪馬台国問題を取り上げ、黒岩徹「皆既日蝕が明かす卑弥呼の正体」を掲載しているが(p.232~)、この黒岩の文章は明確に邪馬台国=九州説を前提としている。そして、卑弥呼=天照大御神説でもある。
 まさかとは思うが、渡部裕明・産経新聞論説副委員長は、この月刊正論12月号の文章すら知らないまま、読まないままで、堂々と自信たっぷりに新聞紙上で邪馬台国=九州説は「学問的な発言ではなく、もはや『お国自慢』のレベルでしかないと…感じている」などと傲慢不遜な言葉を活字にしてしまったのではないか。
 長年の議論の蓄積があり、多様な論点がある問題について、いくら大(?)新聞の論説副委員長だとしても、上のように簡単に「決着」を付ける能力・資格などありはしない、と考える。
 三 素人の私ですら感じるのだが、産経新聞の11/12の一般記事が書く、纒向遺跡の中の「箸墓古墳」は「かつては4世紀の築造といわれたが、木の年輪幅の違いを利用して伐採年代を割り出す年輪年代測定法の成果などによって、3世紀の邪馬台国時代にさかのぼる可能性が高まった」、かかる研究により「今回の大型建物跡で出土した土器も、3世紀とほぼ特定できたという」こと自体が、まだ確立した学説にはなっておらず、争い・疑問があるところだろう。
 上の記事の文章すら正確には、「可能性が高まった」、「ほぼ特定できた」と叙述しているのであり、高まる「可能性」や「ほぼ…」というだけでは、何ら学問的に確立した考え方・認識にはなっていないことを認めた書き方だ。
 渡部自身も箸墓「築造の時期は、土器の編年や放射性炭素による年代測定などから3世紀半ばから後半と考えられるようになった。卑弥呼の没年と限りなく近づいた」と(こちらは断定的に)書く。
 しかし、これまた何ら学問的に確立した考え方・認識ではない。たしか国立歴史民俗博物館の研究者が見出したとかいう「放射性炭素による年代測定」方法なるものも、いかほどに科学的で信頼がおけるものかについて、専門家の間でも争いがあるはずだ。
 こんな曖昧な自社の記事や研究成果の影響を受けて、渡部裕明・産経新聞論説副委員長が、「箸墓」=卑弥呼の墓、今回遺跡出土の建物=卑弥呼の宮殿と「ほぼ」理解して、「邪馬台国は大和で決着」などという小見出しをつけたのだとすれば、大いにそそっかしいし、後世に、専門家でもないのに日本古代史上の問題に口を出して「結論」まで書いてしまった愚かなジャーナリストとして嗤われ続けるだろう。
 四 渡部裕明が書くように、纒向遺跡の地域=奈良盆地の東南地域が「ヤマト王権発祥の地」だったことは疑いなく、渡部が「もはや動かしがたいだろう」と書くまでもない。
 問題はそのあとに続けて、「邪馬台国(倭国連合)から古墳時代への移行はこの地〔纒向遺跡の地域=奈良盆地の東南地域〕で、直接的に行われたのである」と断定して書いたことだ。そのあとの一段落の文章(省略)では、こう言うための十分に説得的な根拠には全くならない。立ち入らないが、例えば、渡部は、記紀上の神話の記述、<神武東遷>伝承等、との関係をどう理解しているのだろう??

 五 箸墓=卑弥呼の墓説を有力視?させた、国立歴史民俗博物館の研究発表後に、安本美典・「邪馬台国=畿内説」・「箸墓=卑弥呼の墓」説の虚妄を衝く!(宝島社新書)は刊行されている(2009.09)。同・「邪馬台国畿内説」徹底批判(勉誠社、2008.04)もある。
 月刊正論12月号の黒岩徹「皆既日蝕が明かす卑弥呼の正体」は、安本美典の著作等を参考にしており、安本から「貴重な助言」を受けた、と明記している(p.239)。
 渡部裕明・産経新聞論説副委員長は大(?)新聞紙上に傲慢不遜な文章を書くのならば、安本美典の著作等も「参考」にしたらどうか(きっと一度も一冊も読んでいないだろう)。あるいは、安本美典の「貴重な助言」を受けて記事を執筆したらどうか。
 なお、安本は京都大学文学部・院卒、出身も九州ではない。<「お国自慢」のレベルでしかない>などと渡部が書けば、渡部自身が恥を掻くだけだ。
 六 日本史上の大問題に(箸墓=卑弥呼の墓説に関する朝日新聞と同様に)乏しい知識のみで簡単に決着をつけたつもりでいるのが「論説副委員長」なのだから、産経新聞紙上の「論説」のレベルの高さ(=低さ)も分かろうというものだ。何ともヒドく、情けない。

0834/渡部昇一の「裁判」・「判決」区別論は正しいのか?

 1952年4月発効の日本国との平和条約、いわゆるサンフランシスコ講和条約の11条第一文前段につき、「受諾」=accept したのは「裁判」ではなく「(諸)判決」(judgements)だとの旨を、渡部昇一は強調し続けている。
 月刊正論11月号(産経新聞社、2009)の巻頭、渡部「社会党なき社会党の時代」p.42は、田母神俊雄更迭←村山談話←東京裁判史観と系譜をたどった上で、日本の外務省は平和条約11条の「判決」を「裁判」と混同したため、日本政府・自民党は「卑屈」になった、外務省・小和田恒の国会答弁には「裁判と判決をごっちゃにした致命的な誤り」がある、等と説く。
 渡部昇一ら・日本を讒する人々(PHP、2009)p.149でも同旨を語り、11条の「…の受諾」という「部分の解釈をしっかりしておくことが、日本が独立として起つために不可欠の『知』だと思います」とも述べる。
 月刊ボイス10月号(PHP、2009)の渡部「東アジア共同体は永遠の幻」p.77では、次のようにすら述べる。
 「判決の受諾か、裁判の受諾か。これをどう考えるかで、じつは恐ろしい違いがある。『裁判を受諾する』といった場合には、東京裁判の誤った事実認定に基づく不正確な決め付け――南京大虐殺二十数万人や日本のソ連侵略というものまで――に日本が縛られつづけるということになるからだ。/げんに、『東京裁判を受諾した』ということが強調されるようになる一九八〇年前後から日本の外交は全部ダメになっていく。…」。
 講和(平和)条約11条第一文前段につき、「判決の受諾か、裁判の受諾か」を問題にする渡部昇一の問題意識とその結論的叙述は適切なのか?
 なるほど「裁判」ではなく「諸判決」の方がより適切な訳語であるように思われる。だが、そのことで、いったい何が変わるというのか?
 かねて、かかる疑問を持ってきた。だが、櫻井よしこも-渡部昇一の影響を受けてだろう-、とくに「左翼」による日本国・東京裁判「肯定」説に対して、「裁判」ではなく「判決」にすぎない旨を言って反論しているのを読んだことがある。
 また、法学者であるはずの八木秀次も、上のPHPの鼎談本の中で、渡部昇一の言い分をそのまま聞いていて、疑問を発しようともしていない。
 渡部昇一は①いかに「裁判」と「判決」を定義しているのだろう? いちおう別だが、重なり合うところの多い概念ではないか? あるいは、渡部昇一は②「判決」を判決「主文」のことだと誤解しているのではないか? 「判決」は「主文」と「理由」(・「事実」)から成り立っていることを知ったうえで語っているのだろうか?(かつては「主文」・「事実」・「理由」の三分だったが、後二者は「事実及び理由」に括られるようになっている-正確な叙述は別の機会に行ってみよう)。
 上の②の疑問からして、「裁判」と理解すれば、「東京裁判の誤った事実認定に基づく不正確な決め付け――南京大虐殺二十数万人や日本のソ連侵略というものまで――に日本が縛られつづける」が、「(諸)判決」と理解すれば「誤った事実認定に基づく不正確な決め付け」から免れる、などと簡単に言えるはずはない、と考えられる。
 また、上の①の疑問を基礎づけうるある法律用語辞典による「裁判」と「判決」の説明も、紹介したことがある(この欄の10/19)。再掲する。
 以下、有斐閣・法律用語辞典(第三版)による。それぞれ全文。
 「裁判」=「通常は、司法機関である裁判所又は裁判官が具体的事件についてする公権的な判断。訴訟事件の本案に関する判断はもとより、訴訟に付随しこれから派生する事項についての判断も含まれる。判決、決定及び命令の三種類がある。なお、両議院がその議員の資格に関する争訟について判断する場合及び弾劾裁判所が判断する場合にも、裁判という語が用いられる。」
 「判決」=「(1)民事訴訟法上、原則として口頭弁論に基づき裁判所がする裁判で、特別の場合を除き法定の事項を記載する文書(判決書)に基づく言渡しによって効力を生ずるもの。①確認判決、給付判決、形成判決、②終局判決、中間判決、③本案判決、訴訟判決、④全部判決、一部判決、追加判決等と講学上分類される。(2)刑事訴訟法上は、特別の場合を除き口頭弁論に基づいて裁判所がする裁判で、公判廷で宣告によって告知されるもの。すべて終局裁判である。」
 再度いうが、「裁判」ではなく「(諸)判決」と理解して(訳して)、いったいどういう違いが出てくるのか??
 <保守>の代表的論客の指摘だからといってつねに適切だとは限らない。上の問題を疑問視する<保守>知識人がいないようであることこそ奇妙というべきだ。
 渡部昇一は「裁判」(trial、tribunal)と「判決」(judgement)の違いに関する<英文学者>としての何らかの根拠をもっているのかもしれない。だが、その根拠自体がすでに危うい可能性がある。英米語(とくにアメリカ語)でも、「裁判」と「判決」は上の日本の辞典のようにやはり解されている可能性が高い。また、より適切に議論するためには<英米法>学者の知識も必要だろう。「裁判」・「判決」区別論には、あらためて論及する。   

0818/<左翼・売国>政権の成立と<保守>系メディア・論者等。

 一 2009年8月末総選挙の結果は、産経新聞、月刊正論(産経)、月刊WiLL(ワック)等々の<保守>系と見られているマスメディアがいかに<大衆的>影響力を持っていないか、を如実に明らかにした、と思われる。
 産経新聞200万程度の発行部数では、あるいは遙かにそれを下回る発行部数の雑誌等では、民主党に300議席超を与えるような有権者の投票行動を阻止できなかったわけだ。
 だが、<保守>系メディアはいちおうは民主党批判で一致していたとしても、<自民党へ>の投票行動を促すこととなるような報道や論調であったかというと、そうとは必ずしも言えないだろう。
 国家基本問題研究所の理事である屋山太郎がむしろ民主党支持の文章を産経新聞に掲載していたのはかりに極めて例外的であるとしても、選挙前の<保守>系メディアにおいても自民党批判はけっこう見られた。
 麻生太郎前首相・内閣が<集団的自衛権行使>の容認に踏み切らなかったこと、靖国神社参拝をしなかったこと等は、<保守>系メディアや<保守>系論者・評論家等によって批判されてもいた。
 選挙前ではないが、昨秋に田母神俊雄論文問題が発生したとき、<保守>系メディア・論者・評論家等の論調は分かれた。
 麻生太郎前首相・内閣の側を批判する者もいたが、明確に立場表明しない者や産経新聞上ですらむしろ田母神俊雄を批判する(論文内容そのものの他に発表方法等も含めて)者もいた。
 櫻井よしこが理事長である国家基本問題研究所は田母神を擁護するか否かの立場を明確にしなかった、と記憶する。そして、もっぱら、(田母神批判者側が用いた)<文民統制>という概念の用法・理解を問題にしていた。
 二 やや脇にそれたが、<保守>系メディア・論者・評論家等において<自民党(中心)政権>に対する評価は必ずしも一致していないことがあり、かつ、問題によっては強く麻生・自民党(中心)政権を批判する論調もあった。
 麻生・自民党(中心)政権は、朝日新聞を先頭とする<左派>からはもちろん、<保守>の側からも批判されていたのだ。あるいは少なくとも、<保守>系メディア・論者・評論家等は積極的に自民党を支持し、同党への投票行為を促すような発言をすることに、かなり又はきわめて消極的だった、と言えるだろう。
 これでは自民党が勝てるわけがない。民主党が大勝利して当然の事前の、<保守>系メディアを含めての、マスメディアの雰囲気だっただろう。簡単にいうと、自民党は<左>からも<右>からも批判されたのだ。<右>からも、かなりの程度は見放されたのだ。
 産経新聞を含む<保守>系メディア・論者・評論家等の記事や発言があったからこそ、民主党は308にとどまり、自民党は100以上の議席を確保できた、という見方もあるだろう(なお、今回のこの文章では、冒頭から、候補者個人の個性・能力・知名度等の問題は度外視している)。
 だが、自民党の100以上の議席の多くが<保守>系メディア等の力によるとはおそらく言えないだろう。
 むしろ、朝日新聞等の<左派>系メディア等の影響を何ら受けないで投票行動をしたという有権者がまだある程度はいた、ということであり、産経新聞や月刊正論・月刊WiLLの力はごく僅かにすぎないのではなかろうか。
 明瞭であるのは、産経新聞等ではかりに<社会>動向のポイントを他新聞よりも正確に認識できても、その<社会>動向を一般国民がどう認識し評価しているかは、ほとんど分からない、ということだ。むろん、<世論>の大勢や時代の「空気」・「風」など気にする必要はないとして、超然としていることはできるし、そのような態度を非難することはできないだろうとしても。
  三 選挙で投票をするからには、絶対的に理想的な政党がある筈はなく、相対的に<よりましな>・<より悪くない>政党を選択するしかなかった、と思われる。
 その意味ではいかに「正論」ではあっても、とくに選挙前に<よりましな>・<より悪くない>政党を批判することがどういう実際的・政治的効果をもつかを<保守>系メディア・論者・評論家等は考慮すべきだった、と思われる。
 真っ当な「保守」言論家として正しく自民党・麻生内閣を批判した、というだけで済ませてはいけないのではないか。
 国家基本問題研究所は今年8/05に講演会・月例会を開催しているが(以下も含めて同研究所のウェブサイトによる)、民主党に対する批判がより強いが、自民党批判も当然に見られる。
 櫻井よしこはシンポ全体の最後で、「民主党は…。国家とは何かをわきまえていません。自民党もわきまえていないが、より悪くない方を選ぶしかないのかもしれません」と発言し、これが最後の言葉になっている。
 屋山太郎等を理事に抱える同研究所の理事長たる立場もあるのかもしれないが、「より悪くない方を選ぶしかないのかもしれません」では、あまりにも弱いメッセージだろう。「より悪くない方を選ぶしかありません。従って、(問題はありますが)自民党を選びましょう」となぜ発言できなかったのか。
 櫻井よしこに限られるわけではないが、民主党内閣の成立可能性を低く見ていたのだろうか。そうだとすると少なくとも結果としては、その判断は甘かった。
 あるいは、これも櫻井よしこに限らない<保守>系メディア・論者・評論家等についていえることだが、民主党内閣ができてもさほど「左翼的(>容共的)」政策を実現しようとはしないだろうとでも考えていたのだろうか。かりにそうだとすると、その判断も甘い。
 実際には民主党(中心)政権が成立し「左翼的(>容共的」政策を実施しようとしているし、すでに実施しているものもある。
 今さら、もう少し自民党に肩入れしておけば、と思っても、もう遅い
 <左翼・売国>政権の成立を、<保守>系メディア・論者・評論家等は深刻に受け止めるべきだ。そして、自分たちの<大衆的>影響力の乏しさについても、深刻に自覚すべきだ。
 四 櫻井よしこは、産経新聞10/08の一面の文章の冒頭でこう書いている。
 「…鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」。
 なんと、すでに10月になって、文字通りには、「期待」を50%もち、「懸念」を50%もつ、と言っているのだ。
 「期待」 は「…官僚制度を、本来の国益追求に向かわせるための立て直し」だ、という。
 屋山太郎の影響を受けすぎているのではないか。「懸念は、外交、国防政策全般に及ぶ」らしいが、「外交、国防政策全般」が「本来の国益追求に」向かう「官僚制度」によって支えられればかなり問題は少なくなるのであり、上の二つは決して異なる次元の問題ではないのではないか。
 民主党(・社民党等)の政治(家)主導によって、「官僚制度」が「本来の国益追求に向かわ」ないことこそ深刻に心配・懸念しなければならないのではないか。
 かりに10年後、20年後に「本来の国益追求に」向かう「官僚制度」ができ上がった、としよう(1年やそこらで「官僚制度」が大変換するとは考えられない)。しかし、10年後、20年後までに日本国家そのものがさらに「左翼」化し、親中どころか屈中・隷中になり、「人権擁護」委員会が例えば中国人・韓国人批判の言論を<民族差別的>(「東アジア共同体」構想の理念に反する)として抑圧し、発言者を取り調べ<糾弾し>・<反省を求める>ような決定・勧告文書を発するような国家になっていたら、いったいどうなるのか。
 「外交、国防政策全般」に懸念をもちつつ、一方で「本来の国益追求に」向かうための「官僚制度」の立て直しに期待する、というのは、じつは矛盾した、論理整合性を欠く文章・論述なのだ。
 既述のように「外交、国防政策全般」等の具体的政策内容をまず第一に問題にすべきであり、公務員(官僚)制度改革うんぬんは、そうした政策内容実施のためのシステム・手段にすぎない。
 前者が悪くて、後者はよい、ということはあり得ない。
 むろん櫻井よしこが「本意」をそのまま書いて書いているとは限らないが、<保守>言論人が民主党(中心)政権に幻想をもっていると解さざるを得ない文章を公にしているとは、ますます日本の将来が思いやられる。じつに、泣きたいほどに、深刻な事態だ。
 五 ついでに書いておくが、自民党を全面的に、あるいは70%以上も、支持はしていない。田母神俊雄の「言論の自由」を石破茂や麻生太郎が守ろうとしなかったことには大いに失望したし、谷垣禎一や河野太郎あたりしか総裁選挙に出てこないようでは、この政党に未来はあるのだろうか、と感じてもいる。
 せめて80議席をもつのでよいから、自民党が壊れてもきちんとした<保守>政党ができればよいとも思っている(本当は民主党主導の憲法改正を避けるために、1/3以上の180(総議席数が民主党案のとおり400になると134)議席が欲しいが)。
 ともあれ、「正しい」ことは言った、しかし「負けた」、で済ませることはできないだろう。むろん、現実・実際がつねに「正しい」わけではまったくない。
 だが、日本共産党の選挙後のいつもの発言のごとく、「正しい」ことは主張した、しかし力足らずで現実にはほとんど受け容れられなかった、と釈明し、狭い空間に閉じ籠もっていてよいのかと、<保守>系メディア・論者・評論家たちには強く問いかけたいものだ。

0817/月刊中央公論10月号(中央公論新社)の一部を読む。

 一 読売系とされている月刊中央公論10月号(中央公論新社)の編集後記は衆院選の結果をふまえて書かれている。
 編集長・間宮淳はこう書く。
 <自民党組織を「政党と呼ぶべきかは…疑問」だった。「一旦、五五年体制の終焉にまで漕ぎ着け」たが、「今回の選挙まで政権与党として生き残ってしまいます。/そのお陰で日本は、経済が限りなく破滅に近い状態に陥り、グローバル化にもポスト冷戦にも乗り遅れ、明らかな没落の中に。/事ここに至って、ようやく日本人は自民党を見限りました。…」>
 間宮淳は、2009年まで自民党が政権与党だった「そのお陰で」経済が破滅に近くなり、「グローバル化」や「ポスト冷戦」に「乗り遅れ」た、と言っている。
 「ポスト冷戦」と簡単に書くあたりにも、まだ「冷戦」は終わっていない東アジアに関する状況認識の薄さを感じることもできる。
 また、選挙結果を<大>歓迎していることについても、むろん異論はある。
 だが、もっと怖ろしいのは、自民党政権が原因となって「経済…破滅」があり、「グローバル化」や「ポスト冷戦」に「乗り遅れ」た、といとも簡単に原因・結果を叙述していることだ。
 字数に限界があるなどという言い訳は成立しない。「経済が限りなく破滅に近い状態に陥り、グローバル化にもポスト冷戦にも乗り遅れ、明らかな没落の中に」、ということの意味はより詳細にはどういうことなのか? それらの原因は1993年以降も自民党が「政権与党」だったことにある、とする根拠は一体どこにあるのか?。
 この人によると、リーマン・ショックも昨秋以降の経済不況も自民党政権に原因があるのだろう。この人はまともな常識・感覚・経験をもっているのか?
 こんな人が著名な?月刊雑誌の編集長である、ということにこそ、日本の「明らかな没落」の証左がある、と思われる。
 二 同誌同号の巻頭、北岡伸一=御厨貴(対談)「政権交代で始まる不可逆的な地殻変動」もひどいものだ。
 二人とも、東京大学の現役の「政治学」の教授。
 すでに指摘されてはいるが(月刊正論11月号、東谷暁「寸鉄一閃」p.160)、とくに御厨貴のひどさは、著しい。
 細かい、具体的なことを捨象して感じるのは、この二人、とくに御厨貴の視野の<狭さ>だ。
 第一に、「政治学」者ならば、個別の専門ではなくとも、政治「思想(史)」の観点からの分析・総括もあってよいと思うが、何もない。表象的な日本政治・日本人の政治意識に関する言葉だけだ。
 第二に、アメリカには若干の言及はあるが、中国・北朝鮮には何の言及もなく、民主党と<東アジア共同体>構想に関する言及もない。
 御厨貴の民主党に対するヨイショぶりは、「学者」の域を超えている。
 怖ろしいのは、こんな人物が、現役の東京大学教授だということだ。行政官僚にしろ裁判官・弁護士等の専門法曹にしろ、少なくとも教養としての「政治」を、こういう人に教えられて育っていっているのだから、日本のいわば<エスタブリッシュメント>的なものが、戦後<平和と民主主義>思考に浸されるのは当然だ、という気がする。
 三 さらに言うと、国際法の横田喜三郎、憲法の宮沢俊義、政治学(広義)の丸山真男らのDNAを継承していないと、あるいはこれらの戦後の先達たちを直接にせよ間接にせよ<批判する>ような研究を決してしない、そういう論文等を決して書かない人物ではないと、東京大学教員には残れない、又は他大学から東京大学に戻れない(招聘されない)という、牢固とした<慣習>のようなものが、東京大学(とくに)法学部にはあるのではなかろうか。
 上はたんに憶測にすぎない。憲法学者にせよ政治学者にせよ、明瞭に<戦後を疑う>、<戦後民主主義を疑う>者は(社会・人文系の)東京大学教員にはなっていないのではないか。
 東京大学(社会・人文系)がアンシャン・レジームとしての<戦後>(1947年憲法体制ともいえる)の擁護者、司祭者たちの集まりでないとよいのだが…。
 樋口陽一、上野千鶴子……。なぜ、東京大学卒業でもないこの人たちは、、東京大学教授になれたのか…?。研究「業績」以外の何かがあるような気がしてならない。

0816/月刊正論11月号(産経)と産経新聞10/14書評欄の宇野常寛。

 一 正論11月号(産経新聞社)の渡部昇一「社会党なき社会党の時代」は些か分かりにくいタイトルだが、基本的な趣旨に異論はない(受諾したのは「判決のみ」で東京「裁判」ではないという主張は、既述のように殆ど無意味だが)。先日書いたように、現代日本の基本的対立軸は、容共か反共かにある。
 渡部昇一は、「マルクス主義…との闘いは終わっていない」、「マルクス主義は日本で優勢になってきている」等と書く(p.42)。「マルクス主義」も共産主義も<コミュニズム>も同じ(と私は理解して使っている)。
 マルクス主義者又は容共主義者は、むろん(日本共産党およびごく一部の団体や個人を除いて)、かつてのように、資本主義→社会主義(・共産主義)という発展段階史観を説きはしないだろうし、かつてのソ連や現在の中国・北朝鮮を手放しで擁護しはしないだろう。
 だが、形を変え品を変えて執拗にマルクス主義・容共「心情」にもとづいて発言し行動する者が多いのが日本の特徴だ。中には、親コミュニズムという意識を持たず、たんに<合理的・進歩的(・「民主主義」的)と自分を考えている者も少なくないかもしれない。
 二 ①月刊正論同号の西村真悟「百難不屈!我が新たなる闘争に向けて」は、<友愛>・<東アジア共同体>に関連して、M・ウェーバー(職業としての政治)の次の言葉を引用している(p.55)。なかなか的確で、印象に残る。
 「善からは善のみが生まれ、悪からは悪のみが生まれると考えるのは、政治のイロハも判らない政治的未熟児である」。
 ②「善・悪」の使い方は違うが、次の表現も気に入った。言いたいが巧く表現できないことを、適切かつ簡潔に述べている。
 産経新聞10/04付の書評欄での宇野常寛の表現だ(「批評家」という肩書きのこの人の名は初めて知った)。
 「個人主義と価値相対主義が浸透し、美醜は趣味の、善悪は法の問題に矮小化されざるを得ない現代…」。
 「すべての価値が『~より勝った/売れた/支持された』という結果でしか決まらないのだという開き直りが支配的な現代…」
 いずれも簡潔だが、鋭くかつ含蓄に富む。
 頭の悪い、戯言を垂れ流している<ネット・サヨク>(ネットサヨ)たちには、いかなる意味なのか、さっぱり判らないに違いない。

0813/竹田恒泰は安易に「真正保守」と語ることなかれ。

 月刊正論11月号(産経新聞社)に竹田恒泰による渡部昇一ら・日本を讒する人々(PHP)の書評がある(p.332-3)。
 この本は未読だし、内容は問題にしない。だが、気になることがある。
 竹田恒泰は、渡部昇一・金美齢・八木秀次という三人の著者(対談者?)のこの本につき、「…真正保守の立場から緻密に検証を加えている」と書く(p.332)。
 「本書は、日本の保守はどのようにあるべきかの指針を与えてくれる」(p.333)というのは過大なリップサービスくらいに理解しておけばよいだろうが、<真正保守>という語を上のように簡単に用いるべきではない。
 竹田恒泰は自らを<真正保守>と考えている(又はそれを志向している)のかもしれないが、その前に、どこかで<真正保守>なるものの意味、似非・不真正の<保守>との違いを明瞭にしておいてもらいたいものだ。
 皇室に関するかつての議論からして、竹田は西尾幹二は<真正保守>だとは見なしていないかもしれない。
 では、三人の一人、八木秀次は<真正保守>なのか?、という疑問がある。八木秀次が<真正保守>であるとして、そのような者が、皇太子妃の宮中祭祀忌避を事実だと断定して(又は強く推定して)、そのことを理由として現皇太子の皇位就任適格を疑問視するような皇室典範の解釈を示したりするのだろうか。
 現皇太子妃を理由として現皇太子の皇位就任適格を疑う者が<真正保守>なのか?
 竹田恒泰は、八木秀次の<保守>論者としての底の浅さに気づいてもいないのではないか? 竹田恒泰のために、余計ながら、かついかほどの効果があるかも自信がないままに、ご助言申し上げる。
 なお、既述だが、渡部昇一がサンフランシスコ講和条約の一部の解釈につき、東京「裁判」ではなく「諸判決」だとまだ繰り返し主張しているのは(櫻井よしこもこれの影響を受けている)、「遵守」対象批判としては必ずしも的確ではなく、有効性に欠ける(なお、文献または記事を明記できないが、坂元一哉も何かの文章の中で私と同様に「裁判」か「諸判決」かの違いを軽視-または無視-していた)。
 また、渡部昇一は日本国憲法「無効」論の影響をうけ、それを支持しているようでもある。
 かりに渡部昇一が<真正保守>だとしても(私はこの人のものを多数は読んでいない)、そのことが、この人のすべての主張・見解の正しさ・適確さを保障するものでは全くない。念のため。

0794/月刊正論9月号の長谷川三千子による朝日新聞、竹本忠雄による「厄災としてのフランス革命」論。

 一 二年前の朝日新聞による安倍晋三(内閣)攻撃のひどさは、月刊正論9月号(産経新聞社)の長谷川三千子「難病としての民主主義/いま日本国民は何を自戒すべきか」では、こう叙述されている。
 「安倍首相に対する朝日新聞の『言葉』は、徹頭徹尾『感情的』であり、ハイエナの群れが、これぞと狙ひをさだめた獲物の、腹といはず足といはず、手あたり次第のところにかじり付き、喰い破ってゆくのを思はせる、『残酷』さにみちていた。そして、それは少しも『無力』ではなかったのであり、朝日新聞の『言葉のチカラ』は、つひに安倍首相の体力・気力を奪ひ去つて、首相の座から追ひ落とすことに成功したのであつた。政権の『投げ出し』だと言って騒ぎたてた、あの時の朝日新聞のはしゃぎぶりはまだ記憶に生々しい」(p.58)。
 なお、ここに触れられているように朝日新聞が一時期喧伝していた<ジャーナリズム宣言>の中の「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを」とのフレーズが、上では意識されている。「言葉のチカラ」によって虚偽でも真実に変えてみせるという朝日新聞の宣言かとも受け取れ、気味悪く感じたものだった。
 また、長谷川は、「もっとも厄介なこと」は「言葉」による「感情的で、残酷」な政府攻撃こそが「民主主義イデオロギーにかなつたことだ」ということだ、ということを指摘する中で上を述べているが、この「デーモクラティア」にかかわる論点には立ち入らない。
 
 二 月刊正論9月号では、編集者が民主党・鳩山由紀夫の「友愛」論と関係づけているのか否かは分からないが、それとは独自に、竹本忠雄「厄災としてのフランス革命/博愛は幻想-ルイ16世の遺書を読み解く」(p.200-)が目を惹く。
 1791年にパリから(ヴァレンヌを経て)オーストリアへ「逃亡」しようとしたが「逮捕」され、1793年に「斬首」されたルイ16世の政治的遺書にあたる「告辞」(1791.06.20付)が発見されたらしい。そして、その内容の概略の紹介や一部の邦訳が載せられている。
 詳細な引用はしかねるが、「革命と共和制の『大義』を誇大に評価する一方、恐怖政治の残虐と、それに対して抵抗する反革命運動の民衆を相手に各地で展開された大虐殺の事実とを、無視または隠蔽しようとする進歩主義史観が、これまで日仏間の言論界を制してきた」(p.204)状況の中で、フランス最後の絶対君主=悪、フランス革命=善という「日本における共和制論者、すなわち進歩主義史観の持主たち」(p.203)の通念を少なくともある程度は揺るがしうる。
 また、王妃アントワネットも「斬首」されたとともに、よく知らなかったが、わずか10歳の長子ルイ17世(カペー・ルイ)も「両親の処刑のあと獄中で革命政府の手により残酷な殺され方をした」(p.201)、「残酷な獄中死」をした(p.204)、「残酷な犠牲者となった」(p.205)、らしい。
 元国王夫妻の処刑やその長子のかかる処遇は<革命>の成就にとってもはや無意味だったと思われる。また、ヴァンデやシュアンの「戦い」に対する弾圧=大虐殺の実態につき、フランスでも、「ナチによるユダヤ人虐殺」のみならず「われわれフランス人もジェノサイドをやった」との事実を認めようとする運動があるらしい(p.205)。
 日本の明治維新の際の<残虐さ>の程度と比較したくもなる。また、竹本忠雄は「フランスでは立憲君主制は一夜にして崩壊し、日本ではいまなお保持されているが、主権在民を基本とする以上、法的に〔な?〕危うさは変わらない。昨今の日本政府の舵取りは奇妙に、フランス革命の初期の一連の出来事とパラレル」だ、と述べて日本の<天皇制度>へも論及していて興味深いが、これ以上は立ち入らないでおこう。

0780/7/21TBS「ニュース23」、月刊正論8月号の潮匡人による上野千鶴子論評。

 〇たぶん衆院解散の7/21の夜のTBS系「ニュース23」にTBS政治部長とかの岩田(と聞こえた)某が登場し、その日に麻生太郎首相が民主党について党大会や議員総会の会場に日本国旗を掲げない政党だと批判的に指摘したことを捉えて、<保守層に訴えたいのだろうが、国旗掲揚は(国民の)義務ではないと言っていた筈なので違和感をもった>旨の、頓珍漢な民主党擁護発言をしていた(記憶による)。
 「国家」機構以外には日本国旗掲揚の義務はないとはいえるだろうが、大会等の場所に日本国旗を掲揚しているか否かは、どのような政党かを知るための参考材料にはなる。国旗不掲揚の真偽は確認していないが、事実だとすれば、民主党の<無国籍>ぶり、あるいは反<国歌・国旗>運動をしている日教組等との「連帯」ぶり、という民主党の性格を知る上でなかなか有益だ。
 <日本国旗を掲揚できない民主党>、これは自民党等によるアンチ・キャンペーンの一つにしてよいのではないか
 それにしても、上のようなことを言って自民党・首相批判するのが、東京キー局の「政治部長」なのだ。こんな程度の人物たちがテレビの「政治」報道や「政治」関係番組を作っているのだから、日本の政治が、そして有権者の行動が歪められないわけはない、と奇妙に納得する。

 〇月刊正論8月号(産経新聞社)の潮匡人の連載「リベラルな俗物」は今回は上野千鶴子をターゲットにし、「私怨が蠢く不潔で卑猥なフェミニスト」と題する(p.188-)。
 ご苦労な文章で、なるほど上野は「私怨が蠢く不潔で卑猥な」人物なのだろうが、潮匡人の手の負えない対象でもあるようだ。
 上野千鶴子を論じるならば、その「遊び」本は除いて、上野・家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平(岩波・1990)、上野・ナショナリズムとジェンダー(青土社、1998)あたり、とくに前者を対象にし、その<フェミニズム>の具体的内容自体を批判すべきだろう。
 上野千鶴子は、<非日本共産党系、マルクス主義的フェミニスト>だ。少なくとも、マルクス主義を利用して自らの「フェミニズム」体系?を構築しようとした人物だ。<非日本共産党系>又は<非組織系>だからこそ、マルクス主義的又は「左翼」であっても(あるいは、だからこそ)東京大学が受容したのだ。
 こうしたより本質的部分に、潮匡人の分析等は説き及んでいない。
 

 〇月刊WiLL9月号(ワック)で櫻井よしこ(「自民党に求められる覚悟」、p.60-)が「…突発的なことでもない限り、八月の選挙で民主党政権が誕生するのは避けられないだろう」とすでに書いているくらいだから(?)、八月末選挙の結果はすでにほとんど明らかなのだろう。
 自民党等政権のままで日本がよくなる保障は全くないが、民主党政権又は民主党中心政権が誕生すれば日本が<ますます悪くなる=消尽し・解体していく>のはほとんど明らかだ。当たり前のごとく、「民意・ミンイ」あるいは「民主主義」が<最善の・最も合理的な・最も正しい>選択・決定をもたらすわけではないことを指摘しておく必要がある。朝日新聞が推進し、日本共産党が容認している方向なのだから、なおさらだ。些か単純化しすぎだろうが、朝日新聞や日本共産党が主張又は容認する方向に日本が向かえば日本にロクなことはない、というのが<戦後日本の普遍的な鉄則>であることを想起する必要がある。
 多数派になるだろうと又は当選者が増加するだろうと<マスコミ>等で予想されている、そのような<空気を読んで>投票先政党を決める有権者が投票者の少なくとも5%はいそうだ(ひょっとすれば20%程度だろうか)。その5~20%によって、選挙の当落が決せられる-こんな馬鹿馬鹿しい現象はない。「民主主義」には、「国民の皆様」の判断にはとっくに幻滅しておくべきだろう。しかし、政治家もマスコミも「国民の皆様」にそんなことを公言できない。
 マニフェストの基本的項目に「防衛」の項がない政党・民主党が中心となった政権ができる……、まともな状況になるために、あと何年かかるのだろうか。取り返しがつくのならばまだよいのだが。
 日本共産党社会民主党の議席減少(ますますの「泡沫政党化」)だけが楽しみであるとは、何とつまらない選挙だろう。

0748/大月隆寛「『論壇』は歴史的限定を超えられるか」(月刊正論7月号)と「左翼」・日本共産党。

 月刊正論7月号(産経新聞社)のp.240~、大月隆寛「『論壇』は歴史的限定を超えられるか」
 本当にメモ、引用したいのは以下の第三だが、他にもついでに触れる。
 第一に、月刊・諸君!廃刊にかかわり、実質的には(株)文藝春秋批判がある。以下のごとし。 
 (株)文藝春秋は雑誌「文学界」はなお維持する。赤字は同様で経営的視点からは同じ。「文学」畑の老舗との「意地」があるのだろうが、それは「諸君!」には何故機能しなかったのか。
 月刊WiLL(ワック)の如き編集方針でやってみる可能性もあったはず。それができないのは(株)文藝春秋の「プライド」で、「そこまではしたくない、堕ちたくはないという一線」を感じていた。
 「なりふり構わず『保守』ブランドでまだしぶとく商売」するとの<論壇馬鹿>の「心意気など、良くも悪くも初手から無縁」の会社だった。等々。
 大月の指摘のとおり、(株)文藝春秋はこの程度の会社だったと思われる。同業(同様傾向?)各誌・各社による<内輪褒め>・<楽屋褒め>に通じる月刊・諸君!廃刊への<残念>ぶりは白々しい。
 第二に、とくに「論壇」誌編集者と執筆者の<共同体>幻想への批判。
 ノンフィクション・ライターと雑誌編集者が「仲間」・「同志」という気分が感じられるのは気持ちが悪い。大手出版社の編集者ともの書きは「共闘」相手などではとっくになくなっている。
 「学生運動的な、文化祭チックな」「内輪」気分の「共同体」があるとの「勘違い」、出版・ジャーナリズムはただの商売ではない「文化」的事業との「勘違い」。そんな状況は「内側から確実に腐り始めて」いた。
 さて、第三。月刊・諸君!の廃刊とは無関係に、時代認識・時代表現として、興味深い文章が並んでいる。
 ・「ある時期以降」メディアの「左翼的」「もの言い」は、書き話す当人たちにとって「そういうものだから」というだけで「習い性としてやっている程度のこと」。
 ・「学校とその延長線上に連なる空間で、世渡りの作法としてのサヨク/リベラル系言説」は「必須」だった。「ある時期までは確実に」。
 ・「学校」や「その繋累の場であるマスコミ周辺」ではその「世渡り作法は長い間温存されて」いた。「実利があればこそ温存されていた」。「サヨク/リベラル系言説を身につけておれば、ひとまずいらぬ摩擦や軋轢を回避しながら、…超伝導のようにあらかじめ設定されたチューブの中を滑走」できたのだ。
 ・小中学校のホームルームでの「耳ざわりのいい」「もの言い」や「立ち居振る舞い」こそが、「反日マスコミ」に象徴される「サヨクぶり」・「プロ市民的もの言い」の発生地点。それは「ある意味で『優等生』の身だしなみ」。「学校」と「その延長線上の世界」、例えば「マスコミ、大学などの学者・研究者から学校の教員、そして役所に医者、弁護士…」、何のことはない、「勝ち組」とも称される「職種の多くは」、「学校民主主義の型通りが跋扈するにふさわしいものになっている」。「反日」の「身振り」はかかる「優等生」たちの「身だしなみ」で、戦後日本の「エリートカルチャー」の「あるコアの部分、でもあった」。
 ・「身だしなみ」である限りいちいち考える必要はない。「マナーとしてのサヨク、…『反日』」。「反日マスコミ」の「反省のなさ」、世間の視線についての「自覚の欠如」は、それほどまでに彼らの「反日」が「単なる習い性」で、「深く考えた上で自覚的に選択されたものではとうになくなっていることの、雄弁な証拠にすぎない」。
 ・「サヨク」は、「特に高度成長期の大衆化をくぐっていく過程」で、「ある『自由』の表象」、「『個人』であることを最も手軽にかつ効率的に身にまとうことのできるアイテムと化して」いった。「お手軽なジーンズみたいなものになった」。
 以上。このあと、「保守」は「大衆アイテム」になれなかった。だが、「少数派」だから「正義」だとの倒錯も生じた、との叙述や「田母神現象」の捉え方等への言及もあるが、省略。
 上の引用・紹介部分は、感じていたことを巧く言葉で表現してくれているようだ。
 法曹(弁護士・裁判官等)・行政官僚・大学教授等の多くが戦後教育の「優等生」である、日本国憲法の下での<平和・民主主義>教育によって彼らはほとんど自然に<何となく左翼>になっている、というような旨は、この欄で私もいく度か述べた。
 大月は「身だしなみ」・「マナー」としての「左翼」(・「反日」)という表現を用い、かつ、「世渡りの作法としてのサヨク/リベラル系言説」という表現も使っている。

 「左翼」がかなりの程度において広く「世渡りの作法」になっているという現実は事実として確認しておく必要がある。換言すると、<処世のための左翼>だ。
 だが、それ以上に、あるいは「処世」の中身として、昔風にいうと<立身出世>あるいは<著名人化>するための「左翼」、という者もいることも確認しておく必要があるだろう。
 この場合はたんに「左翼」というよりも、「確信左翼」・「組織左翼」と称してもよく、「左翼」思想ではなく、マルクス主義又は親マルクス主義という語を使った方がより理解しやすくなる。
 そして結局は<処世のため>に、そして<立身出世>・<著名人化>するために、(「綱領」をきちんと理解しているか、「マルクス主義」を本当に<正しい>と言えるかの自信は本当にはないままで)日本共産党に入党するような研究者・文化人等々もいる、ということも広く知られてよいだろう。
 「文化人」ならまだよいかもしれないが、大学に所属する研究者の場合、真の意味における「学問の自由」が彼らにある筈はない。固い枠の中で、真否の判断や発言・執筆内容に<政治的な>考慮を加える「共産党員」研究者は、(米国・英国・ドイツ等に比べると日本には)ウジャウジャと棲息していると思われる。
 少なくとも「深く考えた上で自覚的に選択されたものではとうになくなっている」、「サヨク」・「反日」の<身だしなみ>を持つ者として、NHKの日本デビューの制作者たち(浜崎憲一・島田雄介ら)及び放送総局長・日向英実や会長・福地茂雄挙をげることができよう。
 そういう「左翼」たちを生み出すことに役立っているのが、執筆者に日本共産党員も紛れもなく含まれていると推定される、実教出版の教科書、高校/政治・経済(宮本憲一・山口定・加茂利男・浦部法穂ほか執筆)でもある。
 大月隆寛の文章を読んで、こんなことまで書きたくなった。

0732/月刊正論7月号(産経新聞社)とNHK。

 月刊正論7月号(産経新聞社)の特集は<NHKよ、そんなに日本が憎いのか>。
 この問題を取り上げるのはよいことに決まっているが、発売部数7万弱の月刊雑誌に、いかほどの世論形成能力があるのだろうと考えると、かなり悲観的にはなる。
 「かなり悲観的」の根拠では全くないが、ネット上でNHKの今年4/28の「理事会議事録」を見ると、NHKの「考査室」が同理事会で、「プロジェクトJAPAN NHKスペシャルシリーズ『JAPANデビュー』第1回『アジアの“一等国”』(4月5日(日)放送)は、一等国をめざした日本による台湾の植民地政策の変遷をテーマに、膨大な史料と海外の研究者による解説をもとに、日本や列強の思惑をわかりやすく読み解いていたと考えます」、と報告している。  確認しないが、NHK会長・福地茂雄は「問題ない」旨を語った、と(たぶん少なくとも産経新聞で)報道されていた。
 ネット上の<産経ニュース>5/14によると、こうある。
 「NHKの
福地茂雄会長は14日の会見で『あの番組はいいところも随分言っていると思った』と、内容に問題はないとの認識を示した。/福地会長は『(当時の)産業・インフラの芽が今の台湾の産業につながっているという気がしたし、教育でも規律正しい子供たちが映っており、一方的とは感じなかった。文献や証言に基づいているし、(取材対象の)発言の“いいとこ取り”もない』と評価した」。
 問題の番組の製作者もそうだが、
福地茂雄という人物は、台湾や日本の台湾統治に関する知識など殆ど持っていないのだろう。問題の番組の製作者は<無知>のみではなく、特定の<意図>があったと考えられるが。
 月刊正論7月号の水島総の連載記事(p.282~)によると、「NHKスペシャル『JAPANデビュー』」批判の新聞「意見広告」は産経新聞の東京版・大阪版だけだったようだ。
 広告費の問題もあるだろうが、産経新聞に載せるだけでは、朝日新聞の出版物の広告記事を<週刊金曜日>に載せるのに近いのではなかろうか。問題の所在自体を知らせるだけにでも朝日新聞にも、少なくとも(部数の面で広告費も安いと思われる)日本経済新聞くらいには掲載してほしかったものだ。
 それにしても、やはりとも思うのは、水島総によると、5/16の集会と1000名を超える人々のNHK抗議デモ(中村粲の連載記事p.163も参照)について、当日のNHKニュースは「原発プルサーマル計画に反対する十数人のデモを報道」したにもかかわらず、完全に黙殺した、ということだ。
 NHKばかりではなく、産経新聞を除く全マスメディアがそうだと思われる。
 これでは勝負にならない。田母神俊雄論文問題と同様で、田母神更迭等を政府・防衛大臣が反省しないのと同様に、<一部の批判・反対はあったが…>というだけで、NHKが反省・自己批判することは、客観的にはありえそうにない。
 だからといって、むろん、今後も批判する、あるいは批判的に番組を検討することを続けることを無意味だとは思っていない。重要だ。だが、客観的情勢を観ると、たぶんに歯痒い思いがする。
 朝日新聞(系)と読売新聞(系)とが結託していれば、同じ報道姿勢を続ければ、<世論>はほぼ決定的なのではないか。潮匡人が「リベラルな俗物たち」の一人として取り上げている(p.204-)渡辺恒雄の読売新聞(系)への影響力が完全になくなり、読売新聞(系)が(今でも問題によっては朝日・毎日対読売・産経という構図になるようだ)、より産経新聞に接近することを期待する他はない(といって、産経新聞や産経新聞社出版物を全面的に信頼しているわけではない)。
 潮匡人の巻頭の方の連載コラム(p.48-49、今回のタイトルは「続・NHKの暴走」)を読んで、いつか頭に浮かんだことを思い出した。
 NHKは「LGBT」(省略)、「いろんなセクシャリティ-のかたちや価値観」があること、に好意的で、「虹色」という語を使うサイトもあるという。
 では、と思うのだが、NHKの年末の<紅白歌合戦>は男でも女でもない、男のような女、女のような男等々の存在を無視するもので、「紅組」と「白組」の二つだけではなく中間の「ピンク(桃)組」も作るべきではないのか(「虹色」でもよいが、この色はどんな色か分かりにくい)。<紅・桃・白歌合戦>、にすべきではないのか(「こうとうはく歌合戦」。虹組だと「こうこうはく歌合戦」になる)。
 <紅白歌合戦>という(「男」と「女」に分かれた)長く続く番組の名称こそ、「いろんなセクシャリティ-のかたちや価値観」を結果として排する方向のものとして、なかなか意味がある、と感じているのだが。 

0722/<どっちつかず>で<大勢・体制順応>・<勝ち馬乗り>だった月刊諸君!(文藝春秋)。

 〇佐伯啓思・大転換-脱成長社会へ(NTT出版、2009)を全て読了。この本の出版に気づくのが遅れて、初版第二刷のものだった。
 読売新聞5/18朝刊に、この本の一部(ケインズ等)の内容を佐伯啓思が語る部分を含む記者構成記事が出ている。
 内容と重要度の現代性からいって、注目されてよいし、多くの人々に読まれるのがよい。日本の「構造改革」の背景・内容の批判的分析だけでも(それも「グローバリズム」と無縁ではないが)、現代的かつ<日本的>だ。それにしては、題名が少し<軽い>気もするが…。
 いずれそのうち、一部に言及する。但し、佐伯啓思・日本の愛国心(NTT出版、2008)や同・現代日本のリベラリズム(講談社)等についてそうだったように、全体を紹介・コメントし切れないままで次の本・雑誌・テーマに移ってしまう可能性も高い。
 なお、前回、前々回の名越の中公新書についてもそうだが、この欄に書いて閲覧者の参考に供することを第一次的目的とはしていない。それならば、直接に関係文献を読んでいただく方が早い。
 産経新聞200万、月刊正論6.8万は少ないとか書いたことがあるが、イザ!のこのブログの読者の数は、月6.8万と比べてもはるかに少ない、微々たるもので、何らかの影響力を期待してはいない。
 最低限度、自分の読書録、考えたことのメモ書きとして残しておくことで満足する他はない。
 そうとでも考えておかないと、コスト・パフォーマンスからいってもCBA分析からいっても、「パフォーマンス」はほとんどなく、経済的「ベネフィット(Benefit)」はゼロなのだから、ブログを続けることはできない。所詮は自己満足と割り切る他はないのだ。プラス・アルファがあれば、望外の慶び、というところ。
 〇田母神俊雄・田母神塾-これが誇りある日本の教科書だ(双葉社、2009.03。これも第二刷だ)を2/3ほど読了。内容は新鮮なことばかり、というわけではない。だが、村山談話・河野談話等の全文を(たぶん)正確に掲載している資料欄(左側頁)が役立ちそうだ。資料確認的価値のゆえに座右に置いておいてもよい。
 〇田母神俊雄論文問題に関係するが、あらためて、月刊諸君!(文藝春秋)という雑誌について書く。
 田母神俊雄はその論文の内容ゆえに2008年10月末で事実上の解任・解職を受けた。
 時期的に言って、総合誌・論壇誌が取り上げるとすれば、今年の1月号(原稿締め切りは11月半ばか?)、2月号あたりになる。
 月刊WiLL(ワック)の1月号・2月号の背表紙の大きなタイトルはそれぞれ「総力特集・田母神論文のどこが悪い!」、「総力特集・田母神論文を殺すな!」。前者には田母神の原論文のほか、田母神の「独占手記」、中西輝政・渡部昇一・西村真悟・荒木和博・西尾幹二の各関係論考が並び、後者には田母神と小林よしのりの対談、櫻井よしこ・渡部昇一・潮匡人等の論考がある(秦郁彦の一文も)。
 月刊正論(産経)の1月号は「総力特集・誰も語らぬ田母神問題の本質」と背表紙・表表紙で謳い、やはり田母神の原論文とともに、日下公人・佐藤守・花岡信昭・百地章ら計6人の論考を掲載。同・2月号は背表紙からは外しているが、「続・誰も語らぬ田母神問題の本質」との特集を組んでいて、別宮暖朗・石平・花岡信昭・高森明勅の論考を掲載。
 以上はすべて、結論的には田母神俊雄を擁護する趣旨又はその効果をもつものだ。
 これに対して、月刊諸君!(文藝春秋、編集人・内田博人)はどう対応したか。かつてすでに<傍観者の立場を採った>と書いたような気がする。
 同誌の1月号は「防衛省大研究」と目次中に大きな文字を打ちつつ、塩田潮「自衛隊は『暴走』する」と佐瀬昌盛「田母神論文には、秘められた『救い』がある」の二つの、田母神論文を契機に自衛隊を問題視・疑問視する論考とどちらかといえば擁護する論考の二つを並べた。
 同誌2月号は、保阪正康と黒野耐の「暴発の論理-田母神論文と二・二六事件」と題する対談を用意した。
 同誌4月号では秦郁彦と西尾幹二に対談させているが(その題は「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する/重鎮・直接対決!」)、「捨て身の問題提起か、ただの目立ちたがりか」とのキャッチ・コピー文を付けている。
 かくのごとく、月刊WiLL(ワック)・月刊正論(産経)と月刊諸君!(文藝春秋)とでは、田母神問題に関する立場・スタンスが全く異なっていた、と言ってよい。
 月刊諸君!(文藝春秋)のよく言えばジャーナリスティックな、悪く言えば<やじ馬根性>ぶりは、田母神俊雄について「ただの目立ちたがりか」と書いて、そうである可能性を否定していないことでも明らかだ。
 要するに、月刊諸君!(文藝春秋)は<どっちつかず>の立場を採ったのだ。文藝春秋本誌を確認しないが、月刊諸君!ほどにも、問題自体をとりあげなかっただろう。
 なお、月刊現代(講談社)今年1月号は最終号で、石原慎太郎批判(佐野眞一)を巻頭に置き、立花隆・保阪正康・斉藤貴男等々の文章を載せつつも、田母神俊雄論文に触れる論考は一つもない。
 月刊諸君!(文藝春秋)の最終号で、<保守派>雑誌の一つの消滅を惜しむ文章が多数並んでいた。(株)文藝春秋からの原稿料・印税による、あるいは顕名化(著書発行等による有名人化)による利得者たちは、(株)文藝春秋発行の雑誌を無碍に批判することはできなかったのだろう。
 だが、少なくとも近年の月刊諸君!(文藝春秋)はまともな<保守派>の雑誌だったのか
 <保守>か否か(「左翼」か)の基準にはいくつかの考え方があるだろうが、<東京裁判史観>に批判的であるか、そうでないか、との対立軸を少なくともその一つとして立てるという考え方・整理の仕方はひどく乱暴なわけではないだろう。
 上の基準からすると、そもそも近年の月刊諸君!(文藝春秋)は<保守>ではなかった。(皇室問題とともに)テーマとして取り上げることだけはして読者の興味を惹く、「ただの目立ちたがり」ではなかったのか。
 だが、結果的には「村山談話」=東京裁判史観に対する疑問を公にしてはならない、とのスタンスに、浜田靖一防衛相・麻生太郎首相をはじめ自民党の国会議員のかなりの部分が立っていたと見られるのは、何度も書くが、<左翼ファシズム>の成立を思わせ、気味が悪く、怖さを感じるものだった。
 上掲の田母神俊雄・田母神塾(双葉社)でも触れられているが、石原伸晃もまた田母神批判者だった(p.98)。
 録画していないが、ほとんど観ていない夜の某テレビ番組で(たぶん12月)、石原伸晃は田母神俊雄論文問題発覚の際に、<自衛隊の(言論)クーデター>を連想した旨を述べた。山本一太とかのテレビによく登場する若手議員も平沢勝栄も、同席していた民主党議員に比べて、口数は少なく、更迭・(実質的)解職に対する批判的な言葉は一つもなかった(唯一、擁護的な発言をしたのは、読売出身の評論家・三宅久之だった)。
 田母神俊雄が上掲書で言うように、「自民党はもはや保守政党とは言えない」(見出し、p.96)のだろう(といって、他により「保守的な」政党があるわけではない。いや、国民新党は?
)。
 石原伸晃の「クーデター」という感覚はヒドいものだと思うが(私もそうではあるが、二・二六事件等を現実に知らない世代の者が、簡単にこんな概念を使うべきではない)、その感覚は、月刊諸君!(文藝春秋)の、上記のような、この雑誌の編集者が選択したと思われる、「暴発」・「暴走」という言葉にも通底していると考えられる。
 <文民>に従わない軍部(・自衛隊)の「暴発」・「暴走」を許すな>との、「戦後民主主義」的な、暗黙の考え方・意識に、自民党国会議員の大勢や月刊諸君!(文藝春秋)もまた陥ったままであるかに見える。自民党国会議員の「大勢」というのが適切だとすれば、月刊諸君!(文藝春秋)は、結局は、少数派になることを恐れる、ただの<大勢・体制順応>・<勝ち馬乗り>の雑誌ではなかったか、(株)文藝春秋も結局は、そういう出版社ではないか、と感じている。
 もっとも産経新聞は最近、半藤一利雨宮処凜という明確な「左翼」(九条護持派)を登場させたりしているので、(株)文藝春秋だけを批判してもほとんど意味がない。怖ろしい時代だ。佐伯啓思の本を読んでいるのは、知的刺激もあり、<イデオロギー>過剰では全くないので、なかなかの楽しい時間だが。

0717/月刊正論6月号(産経)・西尾幹二論考における天皇条項論、稲田朋美等。

 一 稲田朋美は、渡部昇一=稲田朋美=八木秀次・日本を弑する人々(PHP、2008)のp.207-8で、現憲法1条の「象徴天皇」は「成文憲法以前の不文の憲法として確立していると見なすべき」として、憲法改正の限界を超える(改正できない)と主張する(この本については、昨年に言及したことがある。但し、上の点には言及しなかった筈だ)。
 また、稲田は同書p.209で、現皇室典範(法律)1条が「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定めていることに注目し、ここでの「皇統に属する…」は2条以下の「皇族」に限られないとして、現在「皇族」でなくとも、「皇統に属」しているかぎりは皇位の継承資格がある(したがって、現在の法律上では「皇族」でなくとも「皇統に属する男系の男子」が存在するかぎりは皇位継承者も存在し、皇統断絶の懸念又は皇位継承者欠如の問題は生じない)旨を主張する。
 これらは憲法問題でもあるが、憲法学者であるはずの八木秀次は稲田朋美のこれらの主張に何ら反応していない。
 上の点はともかく、稲田朋美の主張(解釈)はいずれも成り立つ可能性がある。もっと議論されてよいだろう。
 だが、いずれも現在の通説・政府解釈ではないようだ。とくに皇位継承資格者の問題は、それが「皇族」に限られることを前提として、旧宮家一族の皇族籍復活等が論じられてもいる。
 かかる現在の通説・政府解釈を前提にすると、現皇太子・秋篠宮両殿下の下の世代の男子(親王)は悠仁親王しかおられないことをふまえて、「皇族」の範囲を拡大して、皇位継承者・「皇統」の安定的確保の途を早急に検討しなければならないと思われる。この問題は、現皇太子妃殿下に関するあれこれの議論よりもはるかに重要だ。
 二 さて、月刊正論6月号(産経)で八木秀次はご成婚50年記者会見(4/08)での天皇・皇后両陛下のご発言を「誰よりも保守主義を正確に理解されている」とそのままに全面的に尊重・尊敬するコメントを述べている(p.44)。
 結果的には大きな異存はないが、両陛下のご発言はある意味ではきわめて政治的で、あるいは非常によく準備されたものだ、という感想も私は持った。八木秀次ほどには私は単純・素朴ではないのかもしれない。
 また、美智子皇后陛下が「一方で、型のみで残った伝統が社会の発展を阻んだり、伝統という名の下で古い慣習が人々を苦しめていることもあり、この言葉が安易に使われることは好ましく思いません」等と「伝統」について述べられた内容はある意味で新鮮であり、ある意味では刺激的でもあった。<保守すべき伝統>というものがあるはずなのだが、<保守>派はどちらかというと日本の<伝統>を丸ごと維持・保守しようという言説・主張に傾きやすかったのではないか。その意味で、皇后陛下が「伝統」の消極的な面・弊害も明言されたことは、注目されてよいと思われる(その内容自体に反論するつもりはない。問題は「社会の進展を阻」む「型のみで残った伝統」とは具体的に何か、になる)。
 三 月刊正論同号西尾幹二論考は、両陛下、とくに天皇陛下の発言を(八木秀次は勿論)私よりも<深く>解釈しているようだ。西尾は、「陛下の…お言葉はじつは相当に政治的であり、政治的役割を果たしておられるとも思います」と書いている。
 天皇陛下のお言葉とは、簡単には、日本国憲法の「象徴」規定に「心を致」す、日本国憲法の天皇条項は「天皇の長い歴史で見た場合、天皇の伝統的な天皇のあり方に沿う」、というものだ。
 西尾幹二は、十分な展開は見られないと思われるが、こうしたご発言を手がかりにして、天皇制度の将来には次の二つの方向があると主張していると見られる(天皇条項改正論でもあると思われる)。この点にも安倍晋三・中曽根康弘による日本「再占領」政策加担・追随論とともに、斬新さがある。
 一つは、政治的責任をより負担する、その点を明文化した「元首」になっていただくことだ。
 いま一つは、「京都にお住居をお移し下さり」、一段と「非政治的存在に変わっていく方針をおとり下さる」ことだ。
 これらは天皇条項の憲法改正をほとんど不可避的に伴うものと思われる。もっとも、「国」と「日本国民の統合」の「象徴」である旨の現1条を改正する必要はない可能性はあるので、冒頭に記した稲田朋美説と完全に矛盾するわけではないかもしれない。
 憲法改正は必要ではないとしても、前者の方向をとる場合、例えば、天皇の<宮中祭祀>は正式の「国事行為」(現憲法だと7条10号「儀礼を行うこと」)か、少なくとも「公的行為」としてきちんと位置づけられる必要が出てくるだろう(憲法20条と皇室の「神道」の関係についての解釈論の整理も必要だ)。
 後者の方向をとる場合、西尾は言及していないが、現行憲法の大幅な改正が必要になるものと思われる。
 現憲法6条・7条によると、天皇に最終的・形式的な権能があるのは、次のように幅広く、かつ重要なものばかりだ。
 ①内閣総理大臣の任命、②最高裁長官の任命、③法律・政令・条約の公布、④国会の召集、⑤衆議院の解散、⑥総選挙施行の公示、⑦国務大臣等の任免、⑧「全権委任状及び大使及び公使の信任状」の「認証」、⑨外国の大使・公使の「接受」、等々。
 これらの行為は、天皇のお住まいが現在の皇居のように、国会・首相官邸・諸外国大使館等に近い場所にあるからこそ容易にかつ速やかに行うことが可能なものではないか。
 したがって、天皇(・皇后)陛下が京都にお戻りになるということは、まさしく西尾の言葉どおりに、上のような<政治(・外交)>に関わらない、「非政治的存在」に変わることを意味することにほとんどつながるものと考えられる。例えば首相が衆議院解散を決意し記者会見等で公にしても、天皇陛下による正式の(最終的・形式的な)衆議院解散は、かりに天皇陛下が京都におられれば、その後早くても6時間程度は要するのではないか。同じことは、多数あるはずの、法律・政令等の「公布」についても言える(「公布」にはさらに官報掲載が必要な筈だが、その前提として現行憲法上は天皇陛下の御名・御璽が不可欠なのだ)。
 こう見ると、天皇の明確な政治的「元首」化にしても純粋な「非政治的存在」化にしても、憲法条項の具体的内容にかかわるもので、本来、憲法改正論議のなかで丁寧に議論すべきものと思われる。
 そういう問題提起を含んでいるので、西尾幹二は憲法学者・八木秀次よりも<鋭い>し、よく考えていると思わざるをえない。かりに明確な「元首」化を想定せず、「象徴」規定を維持するとしても、憲法が天皇に認める国事行為又は「公的」行為の範囲いかんによって、天皇は現在よりもより政治的にもなりうるし、非政治的にもなりうる。憲法改正をゼロ・ベースから、すなわち「白紙」の出発点から考えるのなら、この点は留意されておくべきだ。
 とは言っても、今後いかほどの熱心な議論が上に示した論点について生じるかは、心もとない。ほとんど現九条二項問題だけに関心が集まる可能性は高い。また、西尾幹二のいう二つの方向(現状のままだと三つの方向)のいずれが適切かについて、既述のこと以外には、述べるほどの私見は現在のところは殆どないというのが率直なところだ。

0716/西尾幹二「日本の分水嶺―危機に立つ保守」(月刊正論6月号)を読む-1。

 月刊正論6月号(産経)の西尾幹二「日本の分水嶺―危機に立つ保守」(p.96-)は、NHKスベシャル「JAPANデビュー/第一回」にもさっそく言及している。
 具体的批判内容はともあれ、西尾のユニークなのは、こんな番組が罷り通る<背景>を洞察していることだ(とりあえず結論的にはp.101-2)。
 少し遡れば(p.100-1)、NHKの中枢にはどういう人物がいて「何が起こっているの」か、と西尾は問い、「共産主義イデオロギー」になおしがみつく者たちと「今の時局に便乗し、中国のために(あるいはアメリカのために)日本を押さえ込む再占領政策を意識的に」推進せんとする者たちの二種が「重なり合い、不分明に混ざり合っているケースが考えられ」る、とする。
 前者は日本(資本主義・自由主義)「国家」を敵視し、貶めて弱体化を目指すので、もともと後者と共通する基盤があると言える。そして西尾も言うように、「自国破壊に道徳感や清浄感」を覚える「不思議な心理」に陥っている者たちは、朝日新聞・NHKに限らず、「官界にも、司法界にも、学界や教育界にも、いたる処に蟠踞している」(p.101)。
 だが、と西尾は続ける。中核は「共産主義イデオロギー」で、欧米では共産主義と「何度かに分けて…ケジメをつけて」きたにもかかわらず、日本では、大学のマルクス主義系歴史や経済学や哲学の教授たちは九〇年代前半こそ「穏和しく」していたが、その後は「環境学だの平和学など女性学だのといった新分野の衣装を纏って」、政府審議会委員等になったり大学人事を占拠している。かかる状態等を「マスメディア」が問題にすることはない。「メディアを支配しているのは依然として旧党員、ないしはそのシンパだから」だ。
 以上のことに、全くと言ってよいほど異論はない(他分野ほどは目立たないかもしれないが、歴史学・経済学・哲学のほかにマルクス主義系「教育学」と「法学」も加えてよい)。日本は、(日本人が何かと参考にしたがる)欧米に比べて、「共産主義イデオロギー」が占める比重が<異様に>大きいのだ。NHKの最近の問題番組もかかる状況の中に位置づけうる。

 このあとの西尾の指摘が、まずは興味深い。
 「あからさまウソ」を「ためらいなく」放送するNHKの「自信は何か」。田母神俊雄論文問題で月刊WiLLと月刊正論を除く「すべての言論界を蔽った同一音調」=「田母神叩き」は、「どこかに司令塔があるのではと思わせるほど不自然」で「言論ファシズムの匂い」がある。「ウソを声高に語るNHKの今度のシリーズ」にも「同じ匂い」がある(p.101-2)。
 とりあえずは、<鋭い嗅覚>と言うべきではないか。
 だが、「どこかに司令塔があるのではと思わせる」という関心から導かれる最終的な西尾の推測は、考えさせはするものの、はてはてという感じで、なおも説得力が十分ではない。
 西尾の推測に至る論述はこうだ(p.102-3)。
 1.東欧の「自由化」と全く同様のことは東アジアでは起こらず、親中(・親韓)派はむしろ強く生き延び、「教科書、拉致、靖国のいわば歴史問題」は解決していない。「南京、慰安婦、竹島、尖閣、チベット、核問題」も加えて、困難の度は増している。
 2.安倍晋三首相は中国・韓国、とくに前者との「関係修復」を率先したが、「どこか外から(恐らく米国と中国の両方から、そして日本の財界から)強い要請を受けて企てられた気配」がある。2007年4月に靖国参拝を済ませていたが、「不思議なのは中国が騒がなかったこと」だ。その後の福田・麻生首相も「民族問題にはほぼ完全に背を向け、安倍氏の敷いた路線」を歩んでいる。
 3.安倍も麻生も「村山談話や河野談話」を振り捨てられないのは、「米中」による「再占領政策」の「轍の中にはめこまれて」しまったからだ。NHKのスペシャル番組は、見事に、「米国と中国という旧戦勝国の要請に応え」、日本国民にあらためて「罪の意識」を植え付けようとしている。
 つぎが、結論的推測。
 4.上の米中の「再占領」政策の「大筋に日本で最初に着手したのは安倍晋三」。「背後で支えているのは恐らく…中曽根康弘」。NHKは「必ずしも左翼だけ」ではなく、「日本の保守の方針」に忠実
でもあるのだろう。
 こう書かれると、<左翼>・<保守>の概念もますます混乱してくる。結局は、日本のかつての<保守>は「左翼」化して「民族」問題を放棄し=ナショナリストでなくなり、「米中」による「再占領政策」に追随している、という趣旨なのだろう。そして、その文脈の中で、安倍晋三、(福田、麻生、そして)中曽根康弘の名前が出てくる。
 上記のとおり、この推測は俄には納得し難い。安倍晋三は<戦後レジームからの脱却>を掲げ、(対中は勿論)対米「自立」を目指したのではなかったのだろうか。むしろ、その点は、アメリカ(の少なくとも一部)に警戒感を与えたのではなかったのだろうか。そのかぎりで、アメリカは、渡辺恒雄=読売新聞もそうだったと勝手に推測しているが、2007年参院選での安倍晋三=自民党の<後退>をむしろ望んでいたとも推測される。そのかぎりでは、心情的には朝日新聞と同様の立場にあったアメリカの有力政治家・学者もいたと思われるのだが。
 というわけで、西尾幹二の主張は真面目に考えると、じつに大きな問題提起・論争提起だ。だが、繰り返すが、あれあれ、はてはて、ととりあえずは感じる他はない。
 上記の西尾幹二論考は、ご成婚50年会見の際の天皇(・皇后)陛下のご発言に関連して、八木秀次とは異なる、将来の天皇(・皇室)制度論にも言及している。別の回にしよう。

0715/月刊正論6月号(産経)を読む-浜崎憲一ら制作の4/05NHKスペシャル等。

 一 NHK4/05のスペシャル「日本デビュー・第一回」については、産経新聞4/30付で湯浅博「くにのあとさき/歴史を歪曲する方法」、同5/03付の無署名「検証・NHKスペシャル/台湾統治めぐり『一面的』」も批判的に書いている。
 この欄でこのNHKスペシャル関連番組に最初に言及したとき「一面的」とコメントしたのだったが、それはともかく、産経以外の他紙が全く記事にしていないので、NHKが<偏向した>又は<問題ある>番組を放映したらしいとの知識を持っている人は、多くて、販売部数の3~4倍、600~800万人程度、つまり多くて全有権者の10%程度にすぎないのではないか。産経新聞が報道しないよりは勿論マシだが、こうして書いていても、多少は徒労感をもつ。
 二 月刊正論となると発行部数はもっと少なくて、産経新聞5/04によると平成20年10-12月平均で66,575部らしい。朝日新聞は月刊・論座を廃刊させて朝日ジャーナルを復刊させたようだ。月刊誌ではたぶんないので単純に比較できないが、月刊・論座よりも、憲法改正阻止等のためには、<左翼>にとっての有力な媒体=ビラまき・煽動用紙になるのではないか。
 さて、月刊正論6月号(産経)。NHKスペシャル関係の、河添恵子「『NHKに騙された!』-”反日台湾”を捏造した許されざる取材方法」をまず読む(p.118-)。背景事情や具体的問題点がますます詳細に明らかになる。
 河添によると、「柯さんが電話を『待っていた』番組責任者H氏から連絡があったのは、オンエアーから四日後」、弁解し始めたので柯氏が「君は上司の意向を受けて編集したのか?」と訊ねると「H氏」は「否定」。その後「二度ほど連絡を取ろうとした」が、「H氏は電話口に出ず、コールバックもない」、という。
 問題の番組の<ディレクター>は、浜崎憲一、島田雄介、<制作統括>は、田辺雅泰、河野伸洋、だった。河添が明記していない「H氏」とは、ほぼ間違いなく、浜崎憲一(濱崎憲一)だと思われる。
 あんな番組を制作し放映させておいて、浜崎憲一は恥ずかしくはないのだろうか。濱崎憲一よ、君は「人間」か??
 中村粲の連載「NHKウォッチング」でも当然のごとく、小見出し「嘘だらけの<NHKスペシャル>」から始めて批判している。
 予期していなかったが、潮匡人の連載コラム(p.48-49)でも「日本『反日』協会の暴走」と題して取り上げていた。NHK=日本「反日」協会、か。なるほど。
 このあと、八木秀次連載コラムとの先後は忘れたが、杉原誠四郎「『研究者としての五百旗頭真氏に問う」(p.250-)を読む。
 これによると、五百旗頭真は、杉原誠四郎の研究業績を無視して剽窃まがいの記者会見をしたりするなど、「研究者」としてはあるまじき行動をしているようだ。だからこそ五百旗頭は神戸大学を(たしか)定年前に辞めて=「研究者」を廃業して防衛大学校長になったのだろうか(皮肉のつもりだ)。
 なお、杉原誠四郎によると、秦郁彦が日米開戦・真珠湾攻撃ルーズベルト予知説を「陰謀史観」として一蹴したことも、「歴史家としてその資格の根幹を揺るがす問題」だという(p.255)。

 三 このあと、「『村山談話』をいかに克服するか」と題する屋山太郎・大原康男・長谷川三千子ら7名の報告・座談会を読み、安倍晋三の文章(p.52-)を概読した。
 前者では、安倍晋三による「村山談話」踏襲に関する1994年まで外務官僚の村田良平の報告・発言(後者はp.243-4)が関心を惹く。「今の私の思い」は結構だし、のちの(安倍首相当時の)外務官僚から「安倍総理は誇張された説明を受けられたとしか思われない」と感想を述べる(p.233)のも結構だが、外務省官僚時代に事務次官にまでなった村田良平には、現役時代の仕事について、全く恥じるところはないのだろうか。
 なお、北村稔も上の中で「『NHKスペシャル史観』の傲慢」と題して報告している。
 四 今のところ最後に、西尾幹二「日本の分水嶺-危機に立つ保守」を読む(p.96-)。
 是非はともかく刺激的で、論議の的とされそうな部分を含む。別途、論及することにする。

0676/憲法九条第一項・第二項の「解釈」。坂元一哉のそれは大勢の反映か。

 先日、坂元一哉の憲法九条の解釈―正確には憲法九条に関する解釈論についての現況認識かもしれない―は怪しい旨を書いた。
 学説等の状況については比較的に客観的な叙述をしていると見られる、芦部信喜監修・注釈憲法(1)(有斐閣、2000)を参照して、簡単に整理しておこう。憲法九条部分の執筆者は高見勝利。
 九条解釈といっても、第一項につき例えば4つの論点と対立があり、第二項についても4つの論点の対立があるとすれば、論理的には16とおりの解釈に分岐する。仔細に立ち入る意味はさして大きくないので、坂元一哉の叙述を意識しつつ、とくに第一項の「国際紛争を解決する手段として」の(戦争等)、第二項の芦田修正(「前項の目的を達するため」)に留意して、以下要約的に紹介する。
 第一項中の「国際紛争を解決する手段として」の戦争・武力行使とは「侵略」戦争又は「侵略的な」武力行使を意味し、パリ不戦条約で違法とされた戦争・武力行使にあたる、従って、正当防衛行為とされる「自衛戦争ないし自衛行動」はこれに含まれない(また、「非当事国や国連などが」行う制裁戦争・制裁措置も含まれない)。「これが通説」である(p.400)。この欄で便宜的に「通説」又はA説と称しておく。
 一方、「侵略戦争」のみならず「自衛・制裁戦争」も「国際紛争」の「解決」のためのものとして、上に含める学説もある。B説と称しておく。。
 A説は「従来の国際法上の通常の用語例」に従うのに対して、B説は九条の「世界にさきがけ」た「画期的な意義」を強調する(p.401)。
 第二項の「前項の目的を達するため」の解釈いかんによって、九条全体の意味、とくに「すべての戦争ないし武力行使を放棄するものか否か」、の解釈も変わってくる。全体としていえば、<大別>して次の三説がある。a、b、cの呼称は原文のまま。
 a説=「限定放棄説」-第一項につきA説に立ち、第二項の「前項の目的を達するため」とは「侵略戦争」放棄という目的を意味し、そのための「戦力」や「交戦権」を第二項は否定していると解する。従って、この説によると、「自衛」等(+制裁)のための「戦力」保持・「自衛戦争」の際の国際法上の「交戦権」は、九条によって否定(放棄)されていない。百里基地訴訟第一審判決(水戸地裁1977.02.17判決)はこのa説を採った(p.402-3)。
 b説=「遂行不能説」-第一項につきA説に立ちつつ、第二項の「前項の目的」を第一項中の「国際平和を誠実に希求し」を指す、又は第一項全体の<国際平和の誠実な希求>目的だと解し(「達成するため」とは前項の定めの経緯・動機を意味すると解し)、第二項により「戦力」保持・「交戦権」は「無条件に」否定され、従って「自衛戦争」(+制裁戦争)を遂行することは結果として不可能となる、と解釈する。「事実上、すべての戦争が放棄されていると解するもの」で、「多数説を形成する」。長沼事件第一審判決(札幌地裁1973.09.07判決)がこの説を採った。
 c説=「峻別不能説」-第一項につきB説をとり、第二項をまつまでもなく第一項により「一切の戦争が放棄されているとする」。その主な論拠は、「国際紛争を解決する手段として」の戦争か否か、侵略戦争か自衛戦争かの区別の困難さにある(p.404)。
 著者の高見勝利は、「基本的にb説を妥当とし、b説的に理解してもc説との間にさほど径庭はないものと考える」とする(p.408)。
 高見説がどうであれ、日本政府の現在の解釈も(新憲法当初は第一項に関するB説的答弁もあったが)、上の三説の中ではb説だと思われる。自衛「戦争」はできないが「自衛権」行使まで憲法上は否定されておらず、「自衛権」行使のための自衛隊は第二項でいう「…軍その他の戦力」に該当しない、だから違憲の存在ではない、と「解釈」してきているのだ(今回扱っている論点に関する最高裁判決はない。今後も出ない可能性が高い)。
 すでに簡単には一部を紹介したが、坂元一哉は憲法九条につき、こう説明する。-「国際紛争を解決する手段としての武力の行使(又は威嚇)を永久に放棄し(第一項)、…戦力を保持しない(第二項)ことをうたっている。この第一項は…戦前の失敗を反省し、平和国家に生まれ変わることを誓った条項である。戦前の…失敗は…中国大陸における…国際紛争を解決するため、武力の行使に訴えたことに起因している。第一項は…そうしたことは二度としないという誓いである。/第二項は…『前項の目的を達するため』との文言が付いていることからも分かるように、第一項の規定をより確実なものにするための条項である」(月刊正論3月号(産経新聞社)p.216-7)。
 上の坂元において、「侵略」戦争か「自衛」戦争かという問題意識は見られない。また、「前項の目的」とは(パリ条約の文言とは別にほとんど日常用語として理解されている)<国際紛争解決のための>「武力の行使」等の放棄という目的だと無自覚的に理解されているようだ。上の学説分類に当てはめると、これはc説であって、決して「多数説」又は「通説」ではない。
 なぜ坂元がこのような杜撰と評してもよい叙述を何気なく行っているのかの理由はむろんよく分からない。だが、京都大学法学部出身の坂元が学習した可能性が高い、元京都大学憲法学教授による、佐藤幸治・憲法〔新版〕(青林書院、1990)の影響があるかにも思われる。というのは、佐藤は、この本で、通説又は多数説とは異なる九条の文言解釈を示しているからだ(とくにp.567-)。
 佐藤幸治によると、「戦争」と<武力威嚇・行使>は区別され、第一項の「国際紛争を解決する手段としては」は(「武力行使」等にはかかるが)「戦争」にはかからず、「戦争」に限定はつかない、従って上記のB説が結果として採られ、「自衛戦争を含めてすべての戦争が放棄されて」おり、「そのような戦争を遂行するための…『戦力』をもたないことを明らかにしたのが二項前段」だ、と述べられる(p.572)。
 この佐藤説は細かな分岐点を省略して大別すれば上のc説であり、かつ坂元一哉の叙述にも親和的だ。
 この佐藤説(的「読み方」)は「多数説」又は「通説」ではない。佐藤説との関係は別としても、坂元一哉は、自らの九条に関する叙述・説明が決して「多数説」・「通説」のそれではないことくらいは意識しておいてもよいだろう。
 些末な問題に触れたようでもある。だが、憲法九条・「戦争放棄」条項について坂元一哉的な単純素朴な読み方・理解をする人がけっこう多いようであるのは、困ったことだ。
 ついでに書くと、自民党の憲法改正案は現九条第一項はそのまま残し、第二項を全面削除して別の条項に改めるものだ(「九条の二」の新設)。かりに九条第一項が「すべての」戦争を、従って「自衛」戦争をも否認しているとすれば、自民党の改正案どおりに正規の「自衛軍」が設けられたとしても、その「自衛軍」は九条第一項〔改正後はたんに九条〕により「自衛戦争」を行うことができないことになる。九条第一項につき(資料で確認しないが)上のA説=「侵略」戦争限定放棄説に立っているがゆえにこそ、自民党改憲案は現九条第一項をそのまま維持しているのだ、と考えられる。このくらいのことは、国民一般の<常識>になっていた方がよいと思う。

0671/福田恆存に関する二つの連載もの(竹内洋・遠藤浩一)と再び櫻田淳。

 一 偶然なのかどうか、福田恆存に論及する連載ものが二つの雑誌で数ヶ月続いている。月刊諸君!(文藝春秋)の竹内洋「革新幻想の戦後史」(4月号は17回「『解ってたまるか!』と福田恆存」)と月刊正論(産経新聞社)の遠藤浩一「福田恆存と三島由紀夫の『戦後』」(4月号で31回)だ。
 前者の4月号も面白い。①金嬉老事件(1968)にかかわっての、中嶋嶺雄、鈴木道彦、日高六郎、中野好夫、金達寿、伊藤成彦ら(当時の)「進歩的文化人」の<右往左往>も、その一つ。
 ②朝日新聞の顕著な<傾向>を示す次の叙述も。-福田恆存が発表した論文が朝日新聞「論断時評」欄でどう扱われたか。「昭和四一年まで」は比較的多く言及されたが、昭和26年~昭和55年の間での「肯定的言及」数は福田恆存は28位で肯定的言及数でいうと中野好夫・小田実・清水幾太郎の「半分にも達していない」。一方、総言及数のうち「否定的言及」数は福田恆存の場合31%で、林健太郎(21%)、清水幾太郎(15%)を上回り、三一名中のトップ。「昭和四二年あたりから」は、福田恆存論文への言及そのものが「ほとんどなくなる」(p.234。竹内は辻村明の論考を参考にして書いている)。朝日新聞「論断時評」欄のこの偏り・政治性は、今も続いているだろう。
 なお、月刊WiLL4月号(ワック)の深澤成壽「文藝春秋/福田恆存『剽窃疑惑』の怪」(p.236~)は「左傾」?メディアの一つ・文藝春秋批判という位置づけなのか、この竹内連載中の福田恆存・清水幾太郎「剽窃」問題のとり挙げ方を批判している。そうまで目くじらを立てるほどではあるまいと感じたが、当方の読みが浅いのかもしれない。
 一方、後者(月刊正論の遠藤浩一)の4月号では、文学座の杉村春子の暴走、「女の一生」の中国迎合改作(改演)の叙述(p.269-273)が興味深い。演劇界にも戦後<進歩主義・対中贖罪意識>は蔓延したようで、「札付きの左翼劇団」だった民芸や俳優座だけでなく、政治と一線を画してきた文学座も「昭和三十代」に入ると「反安保」・「日中友好」を通じて「左翼観念主義」・「左翼便宜主義」に取り憑かれた(p.269)。
 滝沢修も日本共産党員らしき者(少なくとも70年代に「支持者」以上)だったが、どの劇団だったか、すぐには思い出せない。仲代達矢もそうした傾向の劇団を経ていたのかもしれないが(「左翼」五味川原作の「人間の条件」の主役もした)、そうした<傾き>をほとんどか全く感じられないのは(実際にも<傾き>がないのかもしれないが)好印象をもつ。
 杉村春子(1906-97)といえば、意外に知られていないかもしれないが、大江健三郎が受賞を拒否した翌年に文化勲章受章をやはり拒否した人物でもある。こじつけ理由の差異はともあれ、少なくとも拒否の点では、大江健三郎のエピゴーネン。
 二 ところで、櫻田淳は福田恆存につき、戦前の「古き良き日本」を思慕した言説主だとの前提に立っているようだ(月刊諸君!4月号p.52-53)。そうした面はあっただろうが、はたしてそう単純に福田恆存を概括してよいのだろうか。杉村に対する福田恆存の「助言」を読んでも、<昔(戦前)は良かった>を骨子とする<保守・反動>ではないことは明らかだ。
 櫻田には三島由紀夫や福田恆存の世代とは異なるんだという意識が透いて見える。それはよいとしても、-前回に記し忘れているが「戦後の実績」を「明確に肯定する」ことを前提にしてこそ「保守・右翼」言説は「拡がりを持つ」だろうとの指摘(p.53)には唖然とした。これは、「保守・右翼」言説の<左傾化>を推奨しているようなものだ。<左傾化>すれば「拡がり」を持つだろうが、もはや「保守」言説でなくなっている可能性が大だ。
 むろん、何が「戦後の実績」かという問題はある。<日本国憲法体制>あるいはGHQ史観・東京裁判史観の(基本的に)肯定的な評価までも含意させているとすれば、この人は「真正保守」どころか、「保守」だとも思われない(なお<日本国憲法体制>=1947年体制への私の疑問・批判は、同憲法無効論を前提としてはいない)。
 三 さらに前回記し忘れたことだが、産経新聞2/26「正論」欄の櫻田淳「『現在進行形の努力』と保守」の中には、一部、大きな過ちがある。すなわち、櫻田は、「定額給付金」は減税の一種だと理解し、<定額か定率か>つまり<定額減税か定率減税か>が問題だったはず、等と述べている。
 「定額給付金」は減税ではなく、所得税・住民税の非課税者(減税があっても利益にはならない人たち)にも給付される。このことは常識だと思っていたが、櫻田は理解できていない。まさに「右か左かはどうでもいい」(月刊諸君!4月号、櫻田p.55)基礎的知識レベルの問題なのだが。この人は信頼してはいけないように思える。

0670/櫻田淳は「真正保守」主義者か?等。

 〇一週間前に出した名前の小牧薫、高嶋伸欣でネット検索してみると、この二人がただの某裁判支援事務局長、名誉教授ではないことがよくわかった。逐一資料は挙げないが、れっきとした「左翼」組織員だ。日本共産党員である可能性もある。小牧薫は大江健三郎の本につき、「一定の」批判はある、と発言していたが、この「一定」(ある程度又はある側面)という表現の仕方は、日本共産党活動家に特有なものだ。あるいは、「左翼」活動家に広く使われている独特の表現方法・語彙の使い方かもしれない。
 〇産経新聞3/02の「正論」欄で、大原康男「保守派は『正念場』を迎えた」と書いている。
 政権交代が現実味を帯びており、民主党中心政権が誕生すると、①選択的夫婦別姓法案、②「戦時性的強制被害者問題解決」法案、③<定住外国人への地方参政権付与>法案、④<靖国神社に代わる国立追悼施設設置>法案などが成立する可能性がある。「保守派はこれまでにない難局に直面し、まさに正念場を迎えることになるだろう」。……
 そして大原は言う。-政治家だけではなく「民間の実力・器量も問われる」、「…党派を超えて真正保守の政と民が今まで以上に緊密かつ強力な戦線を構築することが望まれる」。
 大原に積極的に反対するつもりはないし、むしろきっとそうだろうとは思う。だがやはり、上の「真正保守」とはどういう考え方又はそれにもとづく団体・組織なのかは、不明瞭なままだろう。
 同じく産経新聞「正論」欄に登場し、「保守」派らしい月刊諸君!4月号(文藝春秋)に「保守再生は<柔軟なリベラリズム>から」を書いている櫻田淳は自らを「保守」主義者だと疑っていないようだが、大原のいう(いや誰が言ってもよい)「真正保守」の立場にあるのだろうか。
 櫻田によると、現在「保守」言論は「敗北」し、それは自らの「堕落」の帰結だ。櫻田は必ずしも解り易くはなくかつ決定的に重要とも思われない「福祉価値」と「威信価値」の二つを持ち出して、昨今の「保守・右翼」言説の特徴は後者の価値への「過度の傾斜」だとし、例として(日本)核武装論を挙げる。そして、この論は「核」廃絶による平和実現を説いた昔日の「進歩・左翼」言説と「何ら質的な差を見出せない」とする(諸君!4月号p.46-48)。
 さらに注目されることには又は驚かされることには、次のようにも言う。
 「村山談話」は、「現時点では日本の国益に資する『盾』や『共感の縁』としての効果を持つに至っていると評価している」。「村山談話」を、2005.04に小泉純一郎首相はバンドン演説で「対日批判」に対する「盾」として転用し、その演説は中韓以外のアジア・アフリカ諸国との「共感の縁」としても作用した(p.48-49)。
 こうした櫻田の主張は「保守」ではないのではないか。「盾」として転用せざるを得なかった?中韓の「反日」姿勢に対する批判的・警戒的な言葉はどこにもない。
 櫻田はつぎのようにも言う。-「村山談話」発表が世界での日本の「声望」への著しい害悪を及ぼしたのならば再考・破棄を提起したいが、「そうした事実を客観的に裏付ける根拠はない」(p.50)。
 かかる認識もまた(「保守派」としては)異様なのではないか。「そうした事実を客観的に裏付ける根拠はない」などと暢気に言っておれる神経が理解できない。また、論理的には、<日本の「声望」への著しい害悪>があったか否かが第一次的に重要なのではなく、「村山談話」の内容そのものの適否こそをまずは問題にしなければならないのではないか。
 櫻田は「保守・右翼」知識層の言説に種々の状況判断をふまえての<政治性>を求めているようだ。かかる姿勢は、不可避的に現状追認、過度の?摩擦・軋轢の回避の方向に親和的だ。それは、どこかで誰かが、あるいは広く朝日新聞等の「左翼」も含めて主張している、対中国・対韓国(・北朝鮮)関係は<できるだけ穏便に>・<不必要に刺激しないように>という、首を出すのを恐れるかたつむりか亀のような意識・神経をもて、という主張に近いように思われる。
 櫻田によると、高坂正嶤やかつての自民党は「福祉価値」を重視し、それの着実な充足によって多くの日本人の支持を得た。戦後生まれの者が三島由紀夫や福田恆存のように戦前の「古き良き」日本を思慕するのならば、それは「共産主義」社会を夢想した「進歩・左翼」の観念論に似た趣きをもつ。この「観念論の趣きこそが」、「保守」言論の「堕落」を招いている一因だ(p.51-53)。
 紹介は面倒なのでこのくらいにしたいが、まず第一に、「必ずしも解り易くはなくかつ決定的に重要とも思われない」とすでに上で記したが、櫻田が何やら新味を提出していると思っているらしい「福祉価値」と「威信価値」の区別は、多少の説明はあるが、また別の本か何かで書いているのかもしれないが、その意味・重大性の程度がきわめて曖昧だ。
 第二に、櫻田は「保守・右翼」言論が「進歩・左翼」のごとき「観念論の趣き」を持つと批判しているが、櫻田淳のこの論考自体が、私がこれまで読んできた「保守・右翼」言論の多くよりもはるかに「観念論」的だ。要するに、観念・言葉の<遊び>が多すぎる。日本の現実、日本をとり巻く国際情勢の現実を、この人は<リアル>に見ているのか。それよりも、「保守・右翼」言論の<方法・観点>を批判してやろうという主観的意図(これを一概に批判するわけではない)を、優先させているとしか思えない。
 このような櫻田淳は「真正保守」か?
 月刊正論4月号(産経新聞社)には潮匡人の「リベラルな俗物たち」の連載が続いている(今回の対象は、保阪正康という「軽薄な進歩主義を掲げた凡庸な歴史家」)。櫻田が「保守再生は<柔軟なリベラリズム>から」というときの「リベラル」と潮匡人の「リベラル」とは意味が違っているに違いない。違っていないとすれば、櫻田淳もまた客観的には「リベラルな俗物たち」の一人である可能性がある。
 「真正保守」・「リベラル」についての自らの見解を提示していないことは承知している。ただ<保守>論壇らしきものの危うさを懸念して、以上を書きたくなった。

0666/週刊ダイアモンド2/07号・産経新聞2/12の櫻井よしこ、月刊正論3月号の坂元一哉ほか。

 一 週刊ダイアモンド2/07号(ダイアモンド社)のコラム「自公連立で力を失った自民党/麻生首相は本来の価値観に戻れ」(p.137)と産経新聞2/12朝刊2面のコラム「歴史観持ち使命果たせ」で、櫻井よしこは似たようなことを書いている。執筆時期が重なってもいたのだろう。
 関心を惹いた一つは、軽軍備・経済優先の(主権回復後の)戦後日本の基本路線について、それを採用した吉田茂(麻生太郎の祖父)がのちに自身が「誤りだと吐露」した(産経)、「経済優先で軍事を置き去りにした」が首相辞任後「…軍事力を退けた選択を悔いている」(週刊ダイアモンド)と叙述していることだ。
 これは現9条2項の削除を含む憲法改正のし忘れもおそらく意味しているだろう。だが、吉田自身がそう言った、または書いたということを示す文献を読んだことがないので、何らかの方法で探索し確認しておきたい。
 第二は、いずれも、集団自衛権行使に関する判断をせよ、それが政治家としての真価や支持回復につながる、と主張していることだ。
 「使命の筆頭は、9条の実質的改正につながる集団自衛権の行使以外にない」(産経)、「首相として、事実上の憲法改正につながる集団自衛権行使を可能にする内閣解釈を打ち出すのがよい」(週刊ダイアモンド)。
 田母神俊雄の更迭を簡単に了解して、防衛省事務次官の発意を阻止しなかったことで、麻生太郎の「歴史観」、本来の「保守的」立場には疑問符が付いている。そのために、麻生政権は、本来の「保守」層からの支持も失っていると思われる。櫻井よしこを批判するわけではないが、今からの急激な変化は期待できそうにない。あるいは、そもそもそんな余力があるのかどうか自体が疑問になってきた。
 二 集団的自衛権といえば、2週間前には手にしていた月刊正論3月号(産経新聞社)に、坂元一哉「今こそ憲法解釈の隘路を抜け出せ-集団自衛権行使へ・具体的事例で現実的に提言する」(p.215以下)がある。
 結論に反対はしないが、違和感が残るのは、この人(坂元)による憲法9条の基本的な解釈に関する理解の曖昧さ又は(おそらくは)誤謬だ。
 第一に、1項の「国際紛争を解決するため」の戦争とは所謂<侵略>戦争を意味する、つまり1項だけだと<自衛「戦争」>は否定されていない、と解するのが憲法学の通説の筈だが(樋口陽一は<より進歩的に>後者も否定されていると解釈する余地を残しているが少数説だ)、そのような理解・認識が伺われる叙述はなく、たんにふつうの日本語として「国際紛争を解決するため」を読んでいるように見える。
 従って第二に、2項の冒頭にある「前項の目的を達するため」(所謂「芦田修正」)を通説は実質的には意味がないものとして無視している筈なのだが、坂元はこの文言を手がかりにして「第一項の規定をより確実にするための条項」が第2項だ、とする(p.216-7)。このような理解は正確な学説状況(・内閣法制局)をふまえているとは思われない。1項を「より確実にする」のが2項なのではなく、1項と2項にはもっと大きな差異・断絶がある(だからこそ、自民党の改正案も1項はそのまま残し、現2項を全面削除しているのだ)。
 政治学者であっても憲法9条に関係する論文を書いているわりには、あるいは法学部出身の法学研究科(大阪大学)所属の学者にしては、憲法9条に関する詳細な議論の蓄積に関する知識・理解はかなり怪しいのではないか。
 中沢新一=太田光の本(集英社新書・憲法九条を世界遺産に)が理解しているような9条解釈をやはり前提として議論しているようでは、せっかくの集団自衛権行使に関する法律制定の提言も、価値又は説得力が減少するのではあるまいか。
 なお、上に少し触れたが、樋口陽一は第一項ですでに<自衛戦争>も否定されている、(「国際紛争を解決するため」という1928年パリ不戦条約以来の歴史的意味をもつ文言にかかわらず)そう解釈しないと戦前の一定の時期のままで、日本国憲法の<進取性>がない旨を述べつつ、2項で「戦力」の保持禁止、「交戦権」否認が明記されているので、まぁいいか、という書き方をしているのだ。2項の通説的解釈によると、かりに<自衛>のためでも「戦力」保持は許されず(従って、自衛隊は2項でいう「…軍その他の戦力」ではないとの<虚構>が維持されることとなっている)、自衛「戦争」もできない、ということになる。但し、国家の<自衛権>自身が(1項によっても2項によっても)否定されているわけではないので、「戦力」によらない、かつ「戦争」とは言えない<武力行使>まで妨げられているわけではない。
 一冊も(樋口陽一のものも含めて)憲法学の本を手元に置かないで書いた。いずれ、文献を示してもっときちんと説明しておく必要があるだろうか。
 直接の焦点は、憲法によっても否定されていない<自衛権>のうち<集団的自衛権>は国際法上は認められても日本国憲法上は行使できないとする内閣法制局見解なのだが、これは憲法9条の「解釈」というよりも、実質は、政府の(内閣法制局見解に従った)<政策表明>にすぎない、というのが、私の理解だ。憲法<解釈>なのではなく、<政策>宣言だ。しかも、それは今日のような軍事情勢ではないまだ牧歌的?だった時代に内閣法制局によって示された。内閣と内閣法制局とはどちらが上級行政機関なのか? 憲法にかかわるかぎりは内閣法制局の見解が優先するなどという解釈?は憲法のどこからも出てこない、ということを確認しておきたい。
 ついでに、月刊正論3月号で他に読んだものは、たぶん以下。
 田母神俊雄「やむにやまれぬ『防人』の思い」。
 匿名座談会「『村山談話』に押し潰される国防の士気」。
 稲田朋美「『国籍法改正』-私がDNA鑑定に反対する理由」。この稲田論考の趣旨は理解できたつもりだ。
 潮匡人「リベラルな俗物たち第5回/半藤一利・軽薄な進歩主義を掲げた凡庸な歴史家」。もう2週間は経ったが、最初に読んだのは潮匡人のこれ。知らなかったこともあった。評価にはほんとんど全面的に賛同する。月刊文藝春秋の元編集長が<左翼・進歩派>・<九条の会>賛同者なのだから、(株)文藝春秋の<体質>もある程度はわかるのかもしれない。立花隆も文藝春秋が主な仕事場だったようだ。もつとも花田紀凱(ワック・月刊WiLL編集長)も文藝春秋出身のようだが。
 以上のほか、連載ものの複数のマスコミ監視?コラムなど。
 三 章ごとに前後しながら、第一章を最後に潮匡人・やがて日本は世界で「80番目」の国に堕ちる(PHP、2008.12)を本日、全読了。経済問題に関して、この本にもう一度触れるかも。 

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