秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

月刊正論

1413/日本の保守-正気の青山繁晴・錯乱の渡部昇一。

 多くはないが、正気の、正視している文章を読むと、わずかながらも、安心する。
 月刊Hanada12月号(飛鳥新社)p.200以下の青山繁晴の連載もの。
 昨年末の慰安婦問題日韓合意最終決着なるものについて、p.209。
 「日韓合意はすでに成された。世界に誤解をどんどん、たった今も広めつつある」。
 p.206の以下の文章は、じつに鋭い。最終決着合意なるものについて、こういう。
 「日韓合意のような嘘を嘘と知りつつ認める……のではなくて嘘と知りつつ嘘とは知らない振りをして、嘘をついている相手に反論はしないという、人間のモラルに反する外交合意」。
 青山繁晴は自民党や安倍政権の現状にも、あからさまではないが、相当に不満をもっているようだ。そのような筆致だ。
 できるだけ長く政権(権力)を維持したい、ずっと与党のままでいたい、総選挙等々で当選したい、という心情それら自体を批判するつもりはないが、それらが自己目的、最大限に優先されるべき関心事項になってしまうと、<勝つ>ためならば何でもする、何とでも言う、という、(1917-18年のレーニン・ボルシェヴィキもそうだったが)「理念」も「理想」も忘れた、かつ日本国家や日本人の「名誉」に対して鈍感な政治家や政党になってしまうだろう。
 今年のいくつかの選挙で見られるように、自民党もまた<選挙用・議員等当選用>の政党で、国会議員レベルですらいかほどに<歴史認識>や<外交姿勢>あるいは<反共産主義意識>が一致しているのか、はなはだ疑わしい。
 二 月刊正論2016年3月号(産経)の対談中の阿比留瑠比発言(p.100)、「今回の合意」は「河野談話」よりマシだ旨は、全体の読解を誤っている。産経新聞主流派の政治的立ち位置をも推察させるものだ。
 三 すでに書いたことだが、昨年末の日韓最終合意なるものを支持することを明言し、「国家の名誉」という国益より優先されてよいものがあると述べたのが渡部昇一だった。
 同じ花田紀凱編集長による、月刊WiLL4月号(ワック)p.32以下。
 この渡部昇一の文章は、他にも奇妙なことを述べていた。
渡部昇一によると、かつての「対立軸」は<共産主義か反共産主義か>だったが、1991年のソ連解体により対立軸が「鮮明ではなくなり」、中国も「改革開放」によって「共産主義の理想」体現者でなくなり、「共産主義の夢は瓦解した」。
 このように書かれて喜ぶのは、日本共産党(そして中国共産党と共産チャイナ)だ。ソ連解体や中国の「改革開放」政策への変化により<共産主義はこわくなくなった。警戒しなくてよい> と言ってくれているようなものだからだ。
 長々とは書かない。基本的な歴史観、日本をめぐる国際状況の認識それ自体が、この人においては錯乱している。一方には<100年冷戦史観>を説いて、現在もなお十分に「共産主義」を意識していると見られる論者もいるのだが(西岡力、江崎道朗ら。なお、<100年冷戦史観>は<100年以上も継続する冷戦>史観の方が正確だろう)。
 また、渡部昇一が<共産主義か反共産主義か>に代わる対立軸だと主張しているのが、「東京裁判史観を認めるか否か」だ(p.37)。
 これはしかし、根幹的な「対立軸」にはならない、と秋月瑛二は考える。
 「東京裁判史観」問題が重要なのはたしかだ。根幹的な対立の現われだろう。しかし、「歴史認識」いかんは、最大の政治的な「対立軸」にはならない。
 日本の有権者のいかほどが「東京裁判」を意識して投票行動をしているのか。「歴史認識」は、最大の政治的争点にはならない。議員・候補者にとって「歴史」だけでは<票にならない>。
 ついでにいえば、重要ではあるが、「保守」論壇が好む憲法改正問題も天皇・皇室問題も、最大の又は根幹的な「対立軸」ではない、と考えられる。いずれまた書く。
 渡部昇一に戻ると、上記のように、渡部は「東京裁判史観を認めるか否か」が今や鮮明になってきた対立軸だとする。
 しかし、そもそも渡部昇一は、昨年の安倍戦後70年談話を「100点満点」と高く評価することによって、つまり「東京裁判史観」を基本的に継承している安倍談話を支持することによって、「東京裁判史観」への屈服をすでに表明していた者ではないか。
 上の月刊WiLL4月号の文章の最後にこうある。
 「特に保守派は日韓合意などにうろたえることはない」。「東京裁判史観の払拭」という「より大きな課題に」取り組む必要がある。「戦う相手を間違えてはならない」。
  ? ? ーほとんど意味不明だ。渡部昇一は、戦うべきとき、批判すべきときに、「戦う相手を間違えて」安倍70年談話を肯定してしまった。その同じ人物が、「東京裁判史観の払拭」という「より大きな課題に」取り組もう、などとよくぞ言えるものだ。ほとんど発狂している。
 四 天皇譲位問題でも、憲法改正問題でも、渡部昇一の錯乱は継続中だ。
 後者についていうと、月刊正論2016年4月号(産経)上の「識者58人に聞く」というまず改正すべき条項等のアンケート調査に、ただ一人、現憲法無効宣言・いったん明治憲法に戻すとのユニークな回答を寄せていたのが、渡部昇一だった(この回答集は興味深く、例えば、三浦瑠麗が「たたき台」を自民党2012年改憲案ではなく同2005年改憲案に戻すべきと主張していることも、「保守」派の憲法又は改憲通 ?の人ならば知っておくべきだろう。2005年案の原案作成機関の長だったのは桝添要一。桝添の関連する新書も秋月は読んだ)。
 探し出せなかったのでつい最近のものについてはあまり立ち入れないが、つい最近も渡部昇一は、たしか①改正案を準備しておく、②首相が現憲法の「無効宣言」をする、③改正案を明治憲法の改正手続によって成立させ、新憲法とする(②と③は同日中に行う)、というようなことを書いていた。同じようなことをこの人物は何度も書いており、この欄で何度も批判したことがある。
 また書いておこう。①誰が、どうやって「改正案」を作成・確定するのか、②今の首相に(国会でも同じだが)、現在の憲法の「無効」宣言をする権限・権能はあるのか。
 渡部昇一や倉山満など、「憲法改正」ではなく(一時的であれ)<大日本帝国憲法(明治憲法)の復活>を主張するものは、現実を正視できない、保守・「観念」論者だ。真剣であること・根性があることと<幻想>を抱くこととはまるで異なる。
 この人たちが、日本の「保守」を劣化させ、概念や論理の正確さ・緻密さを重んじないのが「保守」だという印象を与えてきている。

1398/日本の「保守」-奇書・月刊正論11月号(産経)02。

 一 あくまでかつての月刊正論(産経)の主論調・特集設定を示す例だが、二年前2014年7月号の背表紙には「歴史・外交・安保/中国・韓国への反転大攻勢」とあり、同年8月号のそれには、「日本を貶めて満足か! 朝日新聞へのレッドカード」とあった。他の「保守」系雑誌と同じく「中国」や「韓国」がしばしばでてくるのはいかがかという気もしていたが、(朝日新聞が「虚報」の一部を認めたこともあり)論調自体はかなり明確だった。
 2016年11月号の背表紙は「昭恵・蓮舫・クリントン」
 これはいったい何が言いたいのか、何の特集なのか ? ? 女性政治家特集なのか。いや安倍昭恵は政治家ではないはずだが。
 と思ったりして目次を見て少し捲ってみると、三人について計4論考があるだけで、統一したテーマがあるのでもなさそうだ。
 しかも表表紙と目次冒頭には「特集/安倍政権の敵か味方か」とある。
 この特集名に即した論考は、熟読していないので断言はできないが、何と渡部昇一のもの一つだけのようだ。
 なるほど客観的には、安倍昭恵インタビューも八木秀次・潮匡人の蓮舫ものも、ヒラリー・クリントンについての三浦瑠麗論考も、安倍政権を支持していることになるのかもしれない(熟読していないので確言しかねる)。
だが、少なくとも、これらは「安倍政権の敵か味方か」という問題設定のもとで、これを主テーマとして、執筆または構成された文章ではない、と見られる。
 このような編集部(代表・菅原慎太郎)設定の「特集」名そのものが、じつはかなり政治的で、読者を(そして日本国民を)幻惑させるものになっている。それは、この「特集」に最も近い問題関心のもとで書かれたとみられる渡部昇一の文章の「意図」と同様に、<卑劣な>ものだという印象を拭えない。
 二 前回にかなり引用した水島総は、連載ものの執筆者ということもあり、月刊正論編集部の意図におそらく反して、「正論」を書いている。
 当該編集部と渡部昇一が主張し、意図しているのは、<日本の「保守」派のみなさん、安倍政権を支持しないのですか ?、みなさんは安倍政権の「敵か味方か」どちらなのですか ?>という問いかけを発することだろう。
 これは問題のスリカエだ。
 西尾幹二、伊藤隆らが理解し主張しており(秋月瑛二も同様)、また中西輝政が「さらば、…」とする契機となった理解は、<安倍晋三戦後70年談話は、戦後体制の基本的歴史観を維持している>、<…、(当の月刊正論や産経新聞も批判してきたはずの)村山富市戦後50年談話を踏襲している>、<…、東京裁判史観を継承している>ということなのであり、安倍晋三・自民党内閣を全体として支持しない、安倍政権は「敵」だということではない。
 中西輝政の言いたいことの中心もまた、当面の<安倍内閣の当否>ではない、と思われる。なるほど中西は安倍晋三を「敵」とするような表現の仕方をしているが、中西輝政の敵は言うまでもなく、「戦後レジーム(体制)」であり日本国民が自主的な歴史観を育めない根因にある「東京裁判史観」にある、と考えられる。水島総が驚くほど明瞭に語っているように、「東京裁判史観」にまだ拘束されざるをえない、現在の日本国総理大臣の<宿命>・<哀しさ>を感じなければならない(むろん、アメリカというものの存在にかかわる)。
 問題は安倍晋三個人にあるのではなく、談話に誰も反対しなかった内閣の閣僚にもあり、自民党そのものにあり、あのような内容の安倍談話を許してしまった(阻止できなかった)月刊正論や産経新聞を含む「保守」系メディア・論壇にもある。
 問題を、<安倍政権を支持しますか ?>、<安倍政権の敵と味方のどちらですか ?>に歪曲してはならない。これは、卑劣な問題設定、主題設定だ。
 渡部昇一にも、月刊正論編集部(代表・菅原慎太郎)にも念のために言っておきたいが、<安倍談話は東京裁判史観(と言われるもの)を維持しているか否か>という問題には、比較的容易に答えることができる。
 いろいろな装飾・アクセサリーやレトリックが安倍談話には介在しているので幼稚な者には見抜けないのかもしれないが(その装飾・レトリック部分を朝日新聞等の「左翼」は批判し、一方でそれらを産経新聞は好意的に論評する根拠にした)、素直に読めば、東京裁判史観や村山談話等の「これまでの内閣」の立場との関係での基本的趣旨は明らかだ。
 しかし、<安倍政権を支持するか否か(安倍政権は味方か敵か)>という問題には、単純には答えられない。それは、貴方は<自民党を支持するか ?>、<自民党は味方か敵か>という質問に簡単には、つまり二者択一的には答えられないのと同じだ。
 月刊正論編集部や渡部昇一は、上の質問に<支持>・<味方>と答えるのかもしれない。
 だが、問題は、政治・政策の当否は、そのように二者択一的に判断できるとは限らない。選挙の投票に際して、いずれかの政党を一つだけ選択するのともさらに異なる、多様な評価がありうることを知らなければならない。
 つまり安倍政権であれ、自民・公明連立政権であれ、自民党という政党であれ、例えば100点満点の評価から、80、60、…20点、といった多様な評価がありうるのだ。
 上に月刊正論編集部や渡部昇一は、安倍政権を<支持>し<味方>するのかもしれないと書いたが、自民党・安倍政権が進めようとしているようでもある配偶者関連税制の「改正」も、<消費税>関連政策・方針も、種々の労働政策も、<女性を含む一億総活躍>方針も-あくまでまったくの例示にすぎないが-、<すべて>支持するのか ? 自民党が、したがって安倍政権もまた継承している<男女共同参画>行政もすべて支持するのか ? 自民党の文教政策あるいは例えば安倍政権・文科省が行っている<大学再編>政策もすべて支持するのか ?
 渡部昇一や月刊正論編集部にとって、安倍政権は「100点満点」の政権なのか ? ?
 真面目に又は厳密に考慮すれば、<分からない>とか<支持しかねる>という政治方針・政策もあるはずだ。
 渡部昇一や月刊正論編集部に訊きたいものだ。
 安倍政権はかりに<保守>政権だとして、そして自分たちをかりに<保守>派だと考えているとして、安倍首相や安倍政権の言動・政策・行政を<すべて>支持しなければならないのか ? つねに、あらゆる論点について、安倍政権の「味方」でないといけないのか ?
 農業・水産業等々の国民、タクシー事業従事者、「非正規」労働の人、コンビニの経営者あるいは個々の従業員、…、それぞれの利害は多様だ。高齢者と若者という違いもある。
 そのような多様な国民が、あるいは雑誌読者が、「保守」系と自らを感じている者が多いかもしれないとしても、いったいなぜ、渡部昇一や雑誌編集部によって、「安倍政権の敵か味方か」と問われなければならないのだ ? ?
 渡部昇一は卑劣にも、自らが1年前に<安倍談話は100点満点>、<戦後体制を脱却した談話>、<大宰相の談話>とか「手放しで」褒め称えたことについては全く触れないままで、「安倍政権の敵か味方か」という特集名のもとで、安倍晋三首相を支持し<信頼する(信頼し続ける)>ということを長々と述べているだけだ。
 しかも、最後の方を捲ると、例えばつぎのような一文の末尾は、いかなる(実証的 ?)論拠にもとづくものなのだろう。笑わせるではないか。
 94頁-「安倍さんはそういう可能性を感じているかもしれません」。
 95頁-「彼はそう考えを変えたのだと思っています」。
 同-「安倍さんは…を手にすべく精を出しているのだと考えています」。
 同-「彼は機をうかがっているのだと思います」。
 同-「…かもしれません。そうした兆候は…、明白に表れていると思います」。
 同-「…時、粛々と変えるべく安倍氏は動くものと信じています」。
 渡部昇一は、可能であるならば、自らが1年前に<安倍談話は100点満点>等々ときわめて高く評したことの論拠を、再度詳細に述べるべきだ。渡部昇一をめぐる争点・問題は、まさに1年余り前の自らの文章の適否にある。<安倍政権は敵か味方か>などと問題をスリカエて、逃げてはいけない。
  三 同じ雑誌の同じ号にほとんど真反対の方向の理解・主張の文章が別の論者によって書かれていること、「特集」名にかかわらず、それに対応していると思えるのは渡部昇一の文章一つにすぎないこと、背表紙の「昭恵・蓮舫・クリントン」という意味不分明の文字の羅列、そして「特集」名設定から推察される編集部の意図…。
 月刊正論11月号(産経)が「奇書」だという理由が、判っていただけただろうか。
 このような雑誌に、あるいは渡部昇一も登場する号にだけでも(一緒には)、論考を執筆したくない、という「先生」方が現れることを期待したい。
 四 このような投稿に時間を費すのは、本当は愚かなことだ。
 渡部昇一は、かつて、その清水幾太郎の<右>旋回に関する発言で、福田恒存によって「売文業者」と称されて批判されたことがある。
 福田恒存評論集・第12巻(麗澤大学出版会、2008)の中の107頁以下の「問い質したき事ども」の半ば辺り以降を参照(原文は1981)。
 このことを、私と同じく渡部昇一の安倍談話支持を厳しく批判する、千葉展正・「売文業者」渡部昇一の嘘八百を斬る(kindle版、2016)によって知った。
 この電子書物( ?)は渡部昇一による安倍談話支持を、この秋月の欄よりもはるかに詳細に「斬って」、批判している。千葉展正には、反フェミニズムの本もある。

1397/日本の「保守」-奇書・月刊正論11月号(産経)01。

 水島総は、月刊正論2016年11月号(産経)p.286-でつぎのように書く。
よく分かるし、少しは感覚が異なるところはあるが、2015年安倍晋三戦後70年談話に関する部分は圧倒的に<正しい>。以下、「」は直接の引用。
 「戦後日本」と異なる「日本」の生起・露出・噴出という「異変」が起きている。「戦後レジームに安住する戦後左翼や戦後保守」は理解していないが、「米国と中国など外国政府の情報機関」は「異変」の「本質を見抜いている」。第一次安倍政権誕生も第二次のそれも「彼ら」からすれば「危険な」「異変」だった。
 「政治的ナショナリズムの復活だけなら、米国政府は戦後保守勢力を巧みに動かして『憲法改正運動』にそのエネルギーを集約させることもできた」。
 「異変」は上のことから「はみ出た」もので、「だからこそ、米国オバマ政権は、…第二次安倍政権を歴史修正主義として疑い、危険視し、中国、韓国の反日歴史キャンペーンを容認し、それを利用しながら、安倍政権に強力な圧力をかけ続けた」。
 「靖国神社への総理参拝に対する…米国政府の本気で強力な圧力」と「中国の尖閣侵略、北朝鮮の核開発等の安全保障問題の連動圧力」を受けて、「安倍総理は自身が『異変』たることを『中断』した」。
 安倍総理は、「戦後体制との妥協の道を選んだのである」。
 「総理は安倍談話で、我が国が大東亜戦争という『間違った道』を歩んだという東京裁判史観を受け入れ、その踏襲を米国に誓った」。
 「危険な歴史修正主義者として国際的圧力で葬られる前に、総理は戦後日本体制への『回帰』と服従を内外に宣言し、その長期政権への道を切り開いた」。
 「これが面従腹背、急がば回れの臥薪嘗胆行為なのか、あるいは政治的延命のための戦後体制への屈服なのか、おそらく両方なのだろうが、左翼からは『化け物』呼ばわりされる安倍総理の実体は、東京オリンピックの頃まで、知ることは出来ないだろう」。
 総理自身の「戦後体制遵守」表明以降、「自称保守政治家たち」も「戦後レジームの脱却」とは一切口にしなくなり、自民党のスローガン「日本を取り戻す」も「雲散霧消」した。親中派とされる「二階俊博幹事長」誕生は「その象徴的出来事」ともいえる。
 「政治の世界では、確かに戦後体制の巻き返しが成功した」。
 以上で引用おわり。以下の「異変」についての叙述は省略。
 このような安倍戦後70年談話(+日韓「慰安婦」最終決着合意文書)の理解・評価・論評こそ、事態を「正視」するものだ。
 しかし、同じ月刊正論11月号(産経)に、相も変わらず「ほとんど発狂」していると思われる、談話の問題と安倍内閣一般の問題とを(厳密には区別できるが)あえて混同させて、<僕ちゃんやっぱり安倍内閣を「信じる」>という渡部昇一の文章が載っている。
 重要な論点についてほとんど真反対の方向の論考・文章を掲載できる月刊正論編集部は<奇怪>というほかはない。
 渡部昇一をなおも採用する月刊正論編集部、そして産経新聞社の主流派は、水島総が上でいう「自称保守政治家たち」と同じ態度をとり、<戦後体制に屈服>しているのだ。
 もはやこの雑誌や(とっくに定期購読を中止している)産経新聞には、「歴史戦」はない。そして月刊正論は、個々には優れた論考も少なくないにもかかわらず、特集の組み方など全体としては<わけの分からない>月刊雑誌に堕してしまった。
 いかに月刊正論11月号(編集長・菅原慎太郎)が錯乱しているかについて、もう一回書く。

1364/日本の「保守」-水島総という勇気ある人、月刊正論(産経)誌上で。

 中西輝政「さらば安倍晋三、もはやこれまで」歴史通2016年5月号(ワック)から再び引用する。
 ・「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景は、保守陣営にも確実に及んでいる」(p.97)。
 ・「心ある日本の保守派」が、「安倍政権の歴史認識をめぐる問題に対し、ひたすら沈黙を守るか、逆に称賛までして」、意味ある批判・反論をしないことに「大きな衝撃を受けた」(p.109)。
 こうした中で、水島総という人物は、勇気がある。
 月刊正論(産経)3月号p.106で水島は言う。「時が経つにつれ、安倍政権が歴史的大愚行を犯してしまったことが明らかになりつつある」。
 このあと2007年のアメリカ下院決議に当時の第一次安倍晋三政権は「反論も抗議も」せず、安倍総理も「残念」だとしたにとどまるという経緯等を、批判的に述べている。
 この2007年7月米国下院決議については、秋月も当時、警戒しなくてよいのか、放置してよいのか等を(たぶん直前に)記していた。その過程で、岡崎久彦が<じっと我慢するしかない>旨を書いていることを知って(正確な文章は最近の中西輝政論考の中にある)、改めて確認しないが、当時、そんなことでよいのか旨の疑問を示したこともあった(はずだ)。
 また、水島総は、2015.12の日韓慰安婦問題「合意は、我が国の安全保障体制にも重大な痛手を与える可能性がある」として、「人心」・「自衛隊員の士気」への影響等に論及している(p.108-9。異なる観点からの安全保障の観点からの疑問・批判は、後出の西尾幹二論考にもある)。
 そして水島総は、安倍政権「打倒」は主張しないが、安倍政権「不支持」を宣言する(p.110-1)。
 同じ3月号の西尾幹二「日韓合意、早くも到来した悪夢」は、最後にこう述べていた(p.81)。
 「日本人の名誉と運命を犠牲にしてこのような決断をあっという間にしたことが成功だったと言えるかどうかは、本当のところまったく分からない」。
 「言論界はいま、この問題で政治的外交的に過度に配慮する必要はなにもない。日本人の名誉を守るために、単純にノーと言えばよい」。
 「政治と言論、政治家と思想界とは立場が違うのだ。…。こちらから政治家に歩み寄るのはもってのほかである。安倍シンパの協力者たちには、そうあえて苦言を呈したい」。
 この言からすれば、水島総は同時期に、西尾幹二の言うような姿勢を示していたことになる。
 一方、別の雑誌の翌4月号で、2015.12日韓慰安婦問題「合意」を擁護、支持していた<保守>派らしき者もいたわけだ。この人物はいつから<安全保障・軍事>評論家になったのだろう。この分野の専門知識はほとんどないはずだが。また、いつから「政治評論家」になったのだろう。
 水島総月刊正論2016年8月号(産経)では、いわゆるヘイトスピーチ法に反対して、「だから言ったじゃないか、一体なぜ…こんな思いを第二次安倍政権樹立以来、もう何度も味わってきた。ざっと思い出しても、…」と書き始める(p.274)。そして言う。
 「『左ウィング』を拡げようとしたとき、安倍政権の根幹が崩壊する」(p.279)。
 成立してしまったこの法律に秋月も反対だ。この法律が責務法・理念法としてあるならば、在日本の「本邦外出身者に対する」<不当な優遇>を解消するための基本法があってもよいだろう。ここでまた?「歴史」とか「謝罪」を持ち出してはならない。
 それはさておき、上のような水島総の主張も、勇気がある。この論点を、産経新聞や月刊正論(産経)はいかほどに取り上げてきたのだろうか。
また、水島総は、上の法律の背景に<外国>があることを指摘しつつ、つぎのように締めくくる。p.279-280。
 「冷戦終結で、ソ連共産党は消失したが、共産主義は依然として、形を変えて生き残り続けている。それを私たちは夢々忘れてはならない。その中心が中国共産党である」。安倍政権を打倒したいのは、「国内の野党勢力だけではない」、「中国共産党政府」だ。「スパイ天国と言われる我が国に、様々な国際共産主義謀略工作組織が深く広く浸透しているのは公然の秘密である」。
 秋月は<保守派>の中でもごく少数派に属していると自覚しているのだが、このような、 (中西輝政、西岡力、江崎道朗らと同様の)明確な<反・共産主義>の主張を読むと、少しは安心する。もっとも、「様々な国際共産主義謀略工作組織が深く広く浸透している」としても、それは決して「公然の秘密」と言われるほどにはなっていないように見える。具体的な指摘と具体的な<暴露>が必要だ。
 なお、以上は、2016年参院選における投票行動をまったく意識しないで書かれている。
 そう言えば、ネット上で、安倍晋三の実際の言葉かどうかは確認していないが、つぎの面白い表現を見かけた。
 <いいですか、皆さん。民進党には、必ず共産党が付いてくるんですよ。

1363/月刊正論8月号(産経)ー江崎道朗から西岡力=中西輝政へと。

 一 月刊正論8月号(産経)で、江崎道朗が与えられた4頁の紙面のうち1頁を使って、中西輝政「さらば安倍晋三、もはやこれまで」(歴史通5月号(ワック)に言及し、中西の分析に「ほぼ同意する」、と書いている(p.241)。
 江崎道朗自身の最後の文章は、こうだ。
 「歴史戦の勝利を望むすべての人々にこの中西論文は読んでいただきたい。//
 厳しい現実から目を背けていては、勝利を手にすることはできない。」
 江崎道朗と中西輝政に「通じる」または「共感しあう」ところがあるだろうことは、中西輝政=西岡力・なぜニッポンは歴史戦に負け続けるのか(日本実業出版、2016)の西岡力による「まえがきにかえて」からもある程度は分かる。
 西岡力によると、産経新聞2015.02.24付「正論」で「冷戦の勝利者は誰かを問いたい」を書いたところ、中西輝政から「見方に賛成だ」との「連絡」があり、それを機縁として、月刊正論2015年5月号の西岡力=島田洋一=江崎道朗の鼎談ができた、という。
 産経新聞紙上のものを読んだ記憶ははっきりしないが、その内容は上の「まえがきにかえて」の中におそらくかなり引用されており、ほとんどか全くか賛同できる。
 というよりも、中西輝政=西岡力の上掲著を読み始めて最後まで了えた(たぶん2016年3月)こと自体、この西岡力の「まえがきにかえて」に引きつけられたことによる可能性が高い。
 その西岡力らの西岡力=島田洋一=江崎道朗鼎談「歴史の大転換『戦後70年』から『100年冷戦』へ」月刊正論2015年5月号p.86以下については、かなり印象に残ったに違いない、秋月はこの欄で2015年5/18から2回に分けて「戦後70年よりも2016末のソ連崩壊25周年」と題し、「面白いし、かつすこぶる重要な指摘をする発言に充ちている」と書き始めて紹介・引用している。
 やや遠回りだが、江崎道朗と中西輝政というとこんな些末なことも思い浮かぶ。
 元に戻って、江崎道朗の文章のうち、「歴史戦」をめぐる「厳しい現実」という言葉が心を打つ。「厳しい現実から目を背けていては、勝利を手にすることはできない」。
 厳しい現実を理解せず、また理解しようとせず、従来の<保守の小社会>で安逸に生きていきたい言論人も多いのだ。
 二 西尾幹二の刺激的な言葉を再引用。月刊正論2016年3月号p.77。
 「本誌『正論』も含む日本の保守言論界は、安倍首相にさんざん利用されっぱなしできているのではないか」、「言論界内部においてそうした自己懐疑や自己批判がない」のは「非常に遺憾」だ。
 三 江崎道朗が読んでほしいという中西輝政論文の最後に、以下の叙述がある(初めて見たのではない)。歴史通5月号p.117-8。
 ・日本政府・日本人が「自前の歴史観」を世界に臆することなく自己主張するには「あと三十年はかかる」。このための条件の整えるのに「それだけの年数」がかかると思うからだ。
 ・条件の一つは、国内または日本国民内で「歴史観」での闘いが、「たとえば東京裁判史観をめぐって、せめて四対六くらいに改善していること」。
 ・「現在は一対九にも及ばない」だろう。「とくに、マスコミや歴史学界においては、この一対九にもはるかに及ばない」。
 なんとも厳しい現実認識なのだが、冷静に日本を俯瞰すると、こんなものかもしれない。中西輝政のそれは悲観的すぎる、とは言えないかもしれない、と感じる。
 中西輝政が感じていることは、日本国民の中で<東京裁判史観>に(明確に)反対する者は10%に及ばず、「マスコミや歴史学界」では10%に「はるかに及ばない」、ということだ。
 さて、と思うのだが、<保守>派とは<東京裁判史観>反対派のはずであり(と思っており)、とすれば例えば産経新聞「正論」や月刊正論(産経)に登場する論壇人・言論人のほとんどは<東京裁判史観>維持に反対の者たちだということになりそうだが、最近、これを強く疑うようになってきている。
 また、産経新聞や月刊正論(産経)のような新聞・雑誌ばかりを読んでいる(幸福な?)人々は、安倍晋三「保守」政権ということもあって、何となく国民の過半数が、少なくとも三分の一程度は<保守的>な「歴史観」を持っていると感じているのかもしれないが、大きな勘違いだろう、と思われる。
 冷厳な現実は、中西輝政の指摘するものに近いのではないか。
 四 ついでに。平川祐弘「『安倍談話』と昭和の時代」月刊WiLL2016年1月号(ワック)p.32以下は昨年夏の「安倍談話」を支持する立場からのものだが、こんな悪罵を投げつけている。誰に対してかの固有名詞はないが、中西輝政や西尾幹二を含んでいるかに見える。
 ・「どこの国にも、自国のしたことはすべて正しいと言い張る『愛国者』はいる」。
 ・とくに日本では「反動としてお国自慢的な見方がとかく繰り返されがちになる」。
 ・「おかしな左翼が多いからおかしな右翼も増えるので、こんな悪循環は避けたい」。
 ・「不幸なことに、祖国を弁護する人にはいささか頭が単純な人が多い」。以上、p.35-36。
 「東京裁判史観」を基本的に批判する立場の者は、私も含めて「自国のしたことはすべて正しいと言い張」っているわけではない筈だ。
 「おかしな右翼」、「いささか頭が単純な人」とはいったいどのような人々なのか、平川祐弘は言論人ならば明瞭にすべきだろう。
 平川うんぬんが主テーマではない。このような内容を含む論考を巻頭に掲載する、花田紀凱編集・月刊WiLLが(今は編集長が替わったので、花田紀凱編集長の新雑誌や月刊WiLLという名の雑誌が)<保守>派を代表する論壇誌(の一つ)として扱われている、という悲惨な現実がある、ということをしみじみ感じている。今なお、渡部昇一の文章を掲載する非「左翼」系のはずの雑誌がある(月刊Will8月号「それでも、やっぱり安倍晋三!」!。産経・月刊正論8月号もその一つ)、という現実も。
 「厳しい現実」を直視して、鱓(ゴマメ)の歯軋りの如く呟きつづけても、「あと三十年はかかる」。

1361/渡部昇一批判3-<東京裁判史観>批判をしない「保守」。

 一 渡部昇一「『安倍談話』は百点満点だ!」月刊WiLL2015年10月号p.32-というものがあり、このタイトルは目次にも、雑誌表紙にも、さらには背表紙にも大きく謳われている。
 別の雑誌のものであるはずだが、月刊正論「メディア裏通信簿」欄に「編集者」として登場する人物は、同2015年11月号の「19」回で、つぎのように渡部昇一をおそらくは「擁護」している、または「庇って」いる。
 「渡部先生の文章には『百点満点』という表現はなく、『首相としての談話においては、これ以上の内容は現時点ではあり得ないだろう』と書かれているだけです。…現状では、首相の立場で出せる談話としては最高だ、と評価されたということでしょう」。
 そして、「弊誌正論10月号にも違う観点から論考をいただきましたが、やはり談話は高く評価されました」と続く。以上、月刊正論2015年11月号p.408-9。
 この「編集者」と月刊正論の実際の編集人・小島新一や同編集部とどう関係しているのか正確には分からないが、ふつうの読み方としては、同一またはほとんど同一であり、月刊正論編集部(・編集人小島)もまた、渡部昇一と同じく安倍「戦後70年談話」を「高く」評価しているのだろう。
 そしてまた、伊藤隆=中西輝政対談と西尾幹二論考を掲載している同号について、まさしく「編集者」は、「同じ正論なのに論調が少し変わっています」と認めている(p.397)。
 さて、月刊WiLL2015年10月号の渡部論考のタイトルがまるで著者の意思と無関係に付けられたかのごとく「編集者」が述べているのは、おそらく実態とは異なるだろう。そうであれば、渡部昇一はさすがに抗議するだろう。了解があった見るのが常識的だ。
 また、渡部昇一は「首相としての談話においては、これ以上の内容は現時点ではあり得ないだろう」と書いているだけなのか。
 月刊正論2015年11月号の「編集者」なるものは、きちんと日本語文章が読めるのだろうか。あるいは、読めても、マズイと思って、無視して=存在しないものとして扱っているのだろうか。
 渡部昇一の月刊WiLL2015年10月号論考の最後のまとめ部分には、こうある。以下、引用する。p.41。何十年先も、何百年先も、この渡部昇一の文章は記憶されるべきだ。
 「おわび」・「植民地支配」・「侵略』・「慰安婦」…。
 「これらの文言を盛り込みながら、村山談話はおろか、東京裁判史観をも乗り越えた安倍総理の、そして日本の大勝利である」。/
 「安倍総理の談話によって、日本はようやく村山談話をふっ切ることができた。安倍総理は悲願だった戦後レジームからの脱却にいよいよケリをつけ、名実ともに戦後を飾る大宰相となったのだ」。/
 「この未来志向の談話があれば、少なくとも『戦後百年』までは新たな総理談話は不要である。…」。/
 「『戦後』は安倍談話をもって終わりを告げることになったと言えるだろう」。/
 なるほどこの渡部論考の冒頭には、上の「編集者」のような理解を導く部分がないではない。しかし、「現時点」であれ「首相の立場」としての評価であれ、以上引用部分のとおり、渡部昇一が、安倍「戦後70年談話」を、村山談話を「ふっ切る」ものと、「東京裁判史観を乗り越え」るものと、そして「戦後(レジーム)」に「終わりを告げる」ものと、評価していることは明白だ。
 二 安倍首相「戦後70年談話」それ自体にここで立ちいることはしない。つまり、たしかに単純に意味が分かる理解しやすいものではないが、「解釈」の仕方・内容を詳しく述べることはしない。
 この安倍談話の内容については、例えば西尾幹二が、月刊正論2015年11月号で、安倍談話の「歴史認識」をかなり詳しく分析して、批判している。
 また、秋月瑛二の「解釈」・理解が決していびつなものでないことは、上にも言及の伊藤=中西対談で伊藤隆が「保守系全体の高い評価に驚き、もう一度読み返しましたが、やはり『歴史解釈が東京裁判と同じだ』と確信しました」(p.74)と述べていることで、おそらく十分だろう。
 はたして、渡部昇一の読み方が適切なのか、中西輝政や伊藤隆の読み方が適切・自然なのか。<(政治的)願望>をもって、日本語文章の意味を理解してはいけない。
 三 渡部昇一はまた、2015年12月の日韓「慰安婦」問題合意をも、擁護する。
 すでに言及したように<共産主義・反共産主義の対立は終わった>旨もこの中で書いていた、月刊WiLL2016年4月号「日韓慰安婦合意と東京裁判史観」においてだ。
 渡部昇一もさすがに、この「最終決着合意」なるものが<当時の日本軍事当局の関与(英訳文)>によって「慰安婦問題」が生じたことを認めていることを否定しようとはしていない。だが、言い方もいろいろあるものだ、渡部は述べる。
 すなわち、今次の日韓合意は、「国の名誉という国益」と「日本国民の生命財産を眼前の軍事的脅威から守る」という「国益」の選択を迫られて後者を、「河野・村山談話の継承によって、日本人の、よりによって嘘から始まった『恥』を末代まで残す危険性を除去しなければならない」という「国益」と「現在の日本国民の生命財産を守る」という「国益」の二つのうち後者を、選択した(選び取った)ものだ(p.34-35)。
 これは誤っている。<保守>派にあるまじき詭弁だ。
 国家や国民(日本と日本人)の「名誉」を守る、あるいは「嘘から始まった恥を末代まで残す危険を除去」する、という利益を捨ててよいほどの<国益・公益>とはいったい何か。
 一般論として、そのような<国益・公益>あるいは抽象的にいう「日本国民の生命財産」がありうるだろうことを否定はしない。
 しかし、渡部昇一がいう「眼前の軍事的脅威」とは何か。おそらく間違いなく、中国や北朝鮮のそれを指している(p.34)。だが、今次の合意は韓国との間でなされたものであってこれらは直接の当事者ではない。
 だが、と、渡部昇一は主張するのだろう。韓国との間の外交関係を良くしておかないと、中国や北朝鮮からの軍事的脅威の現実化の際に、韓国とも共同して防衛できなくなる、日韓だけではなく、アメリカ合衆国の意向も配慮せよ、と。
 一見筋が通ってはいそうだが、問題ははたして、日本国家と日本人の名誉を傷つける歴史認識を示してまで、つまりは「嘘から始まった『恥』を末代まで残す危険性」にあえて浸ってまで、昨年の12月に韓国と「合意」しなければならなかったほどに、「日本国民の生命財産」に対する危機は切迫していたのか、だ。
 このような具体的な「切迫性」はなかった、あるいは少なくとも、韓国との外交関係を良く(正常化?)することによってはじめて回避されるだろうような具体的な「危険」はなかった、と考える。
 問題は「眼前」とか、「切迫」性とか「具体」性とかの<程度>でもありそうだが、渡部昇一とは結論的に、<感覚>が異なる。
 秋月もまた、中国または北朝鮮が核やミサイルを日本列島に向けて発射する具体的な危険がいよいよ明確になった際に、これらに「歴史認識」問題で屈してでもその発射とそれによる日本国民・列島の惨害を防ぐ必要に迫られること、または韓国に対して「歴史認識」問題で屈してでも韓国(・軍)の協力を得なければ中国または北朝鮮による対日本武力攻撃の具体的な開始を阻止できない、という事態が全く生じえないとは思わない。
 だが、そのような<具体的危険>の<切迫>時に、中国・北朝鮮は「歴史認識」問題で態度を変えるのだろうか。同じく、韓国(・軍)は「歴史認識」問題で<有事>の際の対応を変えてしまうのだろうか。
 また、今次の日韓「合意」が上のような危険回避(日本人の生命財産の保護)のために有効であるためには韓国がそれを誠実に履行する意思・意欲を持っているか、も問題になる。渡部は、これを100%大丈夫だと言い切れるのだろうか。
 より重要なのは、韓国との外交(・軍事協力)関係が大切だとしても(さらにアメリカ合衆国の意向に配慮することがかりに必要であるとして)、その外交(・軍事協力)関係を良好なものにする方法は、今次の内容のような「合意」に限られるのか、他に選択肢はないのか、「合意」するとしても他の面での合意もいくらでもあったのではないか、ということだろう。
 なぜ、「慰安婦」問題が現在の日本の安全保障問題と結合されなければならないのか。
 渡部昇一は、きちんと説明してほしい。むろん、韓国(・朴大統領)があれこれと言っているらしいことは知っているが、なぜ「慰安婦」/「歴史認識」問題で屈しないと、日本はその安全を、日本人はその生命・財産の安全を守ることができないのか
 日本のまともな<保守派>は、かりに上のような現実が実際にあるとすれば、それこそ悲劇だと、大惨事だと感じる必要がある。そして、断固として、上のようなことに、つまり「慰安婦」問題を現在の日本の安全保障問題と結びつけることに、反対すべきだ。
 渡部昇一はいみじくも、「嘘から始まった『恥』を末代まで残す危険性」について語った。そして、上の論考で渡部昇一は、より大きな国益のためには、「嘘から始まった『恥』を末代まで残す」のもやむをえない、と明言したに等しいのだ。
 上のように述べて渡部は、「河野・村山談話の撤回」を求める「保守派」の人々に対して(p.34)、我慢せよ、怒るな、闘うな、と主張しているわけだ。この人のいったいどこが、<保守>言論人なのだろう。
 四 安倍首相「戦後70年談話」や昨年末の日韓合意が<村山談話>や<河野談話>を継承するものであることは、そしてより大きくは<東京裁判史観>に従っていることは、存命である村山富市や河野洋平が両談話(・声明)について好意的にコメントしていることでも明らかだ。また、朝日新聞が社説等で上のいずれも批判してはいない(基本的には支持している)ことでも明らかだろう。
 こういうときに、<保守派>の「大物」らしき者の中に「闘い、やめ!」と叫ぶ者が登場してくるのだから、うんざりして、ますます憂鬱になったわけだ。
 さらに追記すれば、産経新聞社(産経新聞出版)・国会議員に読ませたい敗戦秘話(2016.04)は安倍「戦後70年談話」や昨年末の日韓合意のあとで、これらを知っている時期での編集・準備を経て出版されていると見られるが(少なくとも「70年談話」よりは後だ)、全体で<東京裁判史観>を批判的に扱いながら、安倍「70年談話」や安倍・日韓合意には全く言及していない。これまた、うんざりすることだ。
 これら二つは、すでに<東京裁判史観>にもかかわる「歴史」になってもいるのだが、産経新聞(社)は、この無視を、恥ずかしいとは感じないのだろうか。
 産経新聞(社)には「政治家よ!もっと歴史を勉強してほしい!」(同上書オビ)と国会議員たちを説教する資格はあるのだろうか。やれやれ、という感じだ。

1360/渡部昇一批判2-<保守>の危機。産経の「歴史戦」はどうなったか?。

 一 今年2016年4月16日に、半年以上ぶりのこの欄で、こう書いた。
 「安倍晋三首相は、昨年(2015年・平成27年)8月、そして12月、いったい何のために誤りを含む歴史認識を示してしまったのだろう。秋月瑛二はうんざりしてますます憂鬱になっている。こんな歴史理解をする政権のもとで、自分は生き、そしてやがて死んでいかなければならないのか。/憂いは深い。ひどくいやな時代だ。」
 この、いやで憂鬱な気分は変わらないが、何とか生き続けて、日本共産党批判等をしようとなおも思っているのが不思議だ。
 二 見たくない、読みたくない、というものは「保守」派の人々にもあるだろう。しかし、つぎのような重要な発言を、無視してよいのか。
 ①中西輝政発言・伊藤隆との対談/月刊正論2015年11月号(産経)。
 「歴史問題には、戦後日本が抱え続けてきた『闇』が伏在しているように思えてなりません」。(p.76)
 「戦後日本の政治経済のエスタブリッシュメントが日米関係を最重視する特定の価値観を『…動かさないぞ』という、非常に強い意思があるように思います」。(p.78)
 ②中西輝政「さらば安倍晋三、もはやこれまで」歴史通2016年5月号(ワック)。
 「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景は、保守陣営にも確実に及んでいるのである」(p.97)。
 「保守派のオピニオン・リーダーたちが8月の『70年談話』を、しっかりと批判しておけば、安倍首相はあの慰安婦合意に至ることはなかったであろう」(p.101)。
 「この半年間、私が最も大きな衝撃を受けたのは、心ある日本の保守派とりわけ、そのオピニオン・リーダーたる人々が、…安倍政権の歴史認識をめぐる問題に対し、ひたすら沈黙を守るか、逆に称賛までして、全く意味のある批判や反論の挙に出ないことだった」(p.109)。
 ③西尾幹二「日韓合意、早くも到来した悪夢」月刊正論2016年3月号。
 「90年代に日本の名誉を守るために一生懸命調査し議論し論証を重ねてきた人たちは、悲しみが身に染みているに違いない。…言論のむなしさをひたすら痛恨の思いで振り返らざるを得ないであろう」(p.75)。
 「私は本誌『正論』も含む日本の保守言論界は、安倍首相にさんざん利用されっぱなしできているのではないか、という認識を次第に強く持ち始めている。言論界内部においてそうした自己懐疑や自己批判がないのを非常に遺憾に思っている」(p.77)。
 三 渡部昇一自身の文章に今回は言及しないが、上のいずれも、少なくとも渡部昇一の「言論」をターゲットにしていると見られる。
 渡部昇一はその戦前史に関する著書で、定義することなく一軍人グループを「右翼社会主義者」または「右翼共産主義者」とか称していた。日本共産党という少なくとも自称では「共産主義者」たちは、安倍内閣に<河野談話>・<村山談話>を継承させることを方針とし、少なくとも安倍内閣や自民党に対する関係では、いわゆる<東京裁判史観>(これと共産主義が無関係だと理解しているごとくである渡部昇一は愚かだ)を維持させようとしている。渡部昇一は、客観的には、<右翼社会主義(・共産主義)者>ではないのだろうか。
 「保守」言論界の<八方美人>・櫻井よしこは、櫻井よしこを支えてもいる「日本会議」会長・田久保忠衛は、この一年間、いったい何と発言してきたのだろうか。
 さらに、産経新聞は比較的最近まで一面等で「歴史戦」特集の連載をしており、月刊正論の背表紙にもしばしば「歴史」という言葉が載る。産経新聞社主流派や月刊正論の編集部に対して問いたい。「歴史戦」は続いているのか、どのような状況(戦況)で続いているのか。あるいは、「歴史戦」に敗北しているのか、勝利しているのか? それとも決着はついて、敗北したのか、勝利したのか?
 <たぶんあと1回だけ、つづける。>

1356/共産主義と闘ってこそ「保守」だ-渡部昇一批判1。

 一 今年2016年春に、目覚めて再び秋月瑛二になろうかと考える契機になった、既述のほかのもう一つは、中西輝政=西岡力・なぜニッポンは歴史戦に負け続けるのか(日本実業出版社、2016.03)および中西輝政「『さらば、安倍晋三』-政治に譲った歴史認識・完」歴史通2016年5月号(ワック)だった。
 判る人には判然としているテーマ・論点にかかわる。
 いくつかのテーマを平行させているが(2015年以来の残し物も二つある)、このテーマもようやく?扱うすることにする。
 二 「大物保守」と称されている(月刊正論2015年11 月号p.408)人物は、呆れたことに、こんなことを書いている。渡部昇一「日韓慰安婦合意と東京裁判史観」月刊WiLL2016年4月号(ワック)p.37。
 「戦後、言論界における対立軸は明らかに『共産主義を信奉するか、反共産主義か』であった」。
 「1991年、ソ連が崩壊してからは対立軸が鮮明ではなくなり、中国は台頭してきたが、改革開放によって延命している中国は『共産主義の理想』を体現する存在ではなかった。『最後の楽園』であった北朝鮮の厳しい現実も知られるようになった。共産主義の夢は瓦解したのである」。
 「次に鮮明になってきたのが、『東京裁判史観を認めるか否か』という対立軸なのである」。
 これを含む文章の雑誌表紙のタイトルには、上の表題に「保守分裂の愚」と追記されている。
 この雑誌の号は花田紀凱編集長最後のものだが、同編集長自体の意向も上の渡部昇一論考に反映されているのだとすれば、月刊Hanadaの購読も警戒しなければならない。
 中国についての理解とか、<共産主義・反共産主義>から「東京裁判史観を認めるか否か」へという対立軸の認識の問題には、書き出すと長くなるだろうので、立ち入らない。
 結論的に言っておきたいのは、共産主義との闘いをしない、共産主義との闘いは必要がない、共産主義はもはや敵ではない、という主張をするのは、「保守」言論人ではない、ということだ。
 「保守分裂の愚」という<左翼>が喜びそうな言葉が表紙についているのも気になるが、渡部昇一が昨年2015年夏以降に行なっているのは<保守崩壊の愚>だ。つまり「保守」の名前で、「保守」論壇を崩壊させようとしている。「暗愚」もひどすぎる。
 三 中西輝政「共産主義と日米戦争-ソ連と尾崎がやったこと・上」月刊正論2016年7月号には、つぎの文章がある。
 「日本人が冷戦を忘れてはならぬもう一つの理由は、軍備や核戦力の増強に励み、核兵器を使用する意図をちらつかせて他国を威嚇する現旧の共産主義国が日本を囲むように存在している、ということである」。
 「彼ら〔中国、北朝鮮、ロシア-秋月〕の体制は、いまや十全な意味での共産主義とは言えないかもしれない。しかし、彼らの体制が依拠しているのは、間違いなく『共産主義的価値観』である。…。この全体主義的ナショナリズムは、今日の中国、ロシア、北朝鮮のいずれにもはっきりと見られる価値観である」。
 「東アジア、日本周辺においては、冷戦は終わったとは到底言えない。マルクス流に言えば、 "ネオ共産主義" ともいうべき妖怪が、アジア・太平洋、特に東アジア、西太平洋といった日本周辺を徘徊しているのである」。以上、p.150.
 「にもかかわらず、日本人はなぜ、共産主義の脅威とそれによって起こされた冷戦を忘れ、それ以前の戦争について一方的で無条件の反省と謝罪を強いられ続けるのか」。p.151.
 「日本のアカデミズムに籍を置く近現代史研究者や昭和史家たちはこうした共産主義の裏面史や謀略工作の歴史をいっさい視野から除外して研究してこなかった。戦後長年にわたり左翼・リベラルが牛耳ってきた日本の知的風土は、共産主義や『進歩派』の思想にきわめて寛容で、共産主義の脅威などは存在しないかのように振る舞ってきたのである。それどころかソ連や共産中国を『平和陣営』などと呼び、逆に……」。p.153-4.
 「さすがにいま、ロシアや中国、北朝鮮のネオ共産主義国家・体制を『平和陣営』と呼ぶ知識人はいないしメディアもない。しかし、『平和陣営』を奉った勢力の系譜につらなる現代日本の左派・リベラルは、それらの脅威になぜか全く目を背け、あたかも『ないもの』とし、加えて、そうした脅威に適切に対処しようとする動きを『戦争を招く動き』と、かつてと同様、"ネオ共産主義" 陣営を利するかのように喧伝している」。//
 「こうした知的空間の中で出来上がったのが、『冷戦忘却』あるいは『冷戦隠蔽』史観である。安倍首相の『70年談話』が、全く冷戦体験に触れなかったのは、今も日本に残る、こうした『冷戦隠蔽史観』に屈したからである」。以上、p.154。//は原文では改行ではない。
 この中西輝政の文章のうち「いまや十全な意味での共産主義とは言えないかもしれない」という部分については、「十全な…」の意味が不明確ではあるものの、ロシアと北朝鮮には当てはまるかもしれない。しかし、市場経済政策を採用している中国も、少なくともわが日本にある日本共産党によれば、レーニンが見つけ出した<市場経済を通じて社会主義へ>の道を歩んでいる国家として(今のところは、かつ全体としては)肯定的に評価されているのであり、その意味では、れっきとした<社会主義国>であることに注意しなければならない、と蛇足的には考える。
 しかしともあれ、中西の基本的趣旨には全面的に賛同できる。中国は「改革開放によって延命して」おり、社会主義(・共産主義)国ではなくなっているかのごとき渡部昇一の認識と比べて、天地の差があるほどに優れている。
 渡部昇一は、「冷戦隠蔽史観」に、まさしく立っているのだ。本来の「保守」からすれば、敵の側にある。
 四 渡部昇一は「東京裁判史観を突破した『縦の民主主義』の歴史力」月刊正論2015年10月号(産経)p.64以下で、安倍晋三首相「戦後70年談話」について、「高く評価したい」、「大変良かった」、「眼前の歴史戦に大きくプラスに働く」等と高く評価した。
 また、渡部昇一は、「『安倍談話』百点満点だ!-東京裁判史観を克服」月刊WiLL2015年10月号p.32以下でも、「これ以上の内容は現時点ではありえない」、「全体として『東京裁判史観』を払拭する」等々と述べ、「村山談話はおろか、東京裁判史観をも乗り越えた安倍総理の、そして日本の勝利である」、「『戦後』は安倍談話をもって終わりを告げることになった」、とまで言い切った。
 2015年8月、「安倍談話」の内容を初めて知ったとき、秋月瑛二が感じたあの<違和感>を、今でも覚えている。談話の文章内容に即して立ち入りはしない。
 だが、月刊正論2015年11月号p.396に掲載されている、同誌読者の一人の「安倍談話」(正確にはその一部)に対する感想に、まさしく共感を覚える。
 すなわち、「これでは靖国で眠る英霊は、浮かばれない」。
 渡部昇一は「東京裁判史観」を乗り越えたとか払拭したとか評価しているが、いったいどこからそのような言葉が出てくるのだろう。例えば、まさしく「東京裁判」判決によって死刑判決を受け、「首を吊られて」死んだ7人のいわゆる「A級戦犯」たちの<霊>は、「戦後70年談話」によって癒されただろうか、名誉が回復したと喜んだだろうか。
 渡部昇一は、静岡県熱海の伊豆山・興亜観音にまで行って、松井石根らにまともに向き合うことができるのか。あの「談話」では、処刑された「戦犯」たち、かつての戦争を闘った「英霊」たちは「浮かばれない」。これが、まっとうな、日本人の感覚だ、と思う。
 五 いわずもがなだが、とくに渡部昇一には申しておきたい。
 かりに自民党を支持しているとしても、自民党のすべての政策に賛同しているとは限らない。かりに安倍内閣を支持しているとしても、安倍内閣のすべての政策を支持しているとは限らない。かりに安倍晋三を全体として支持しているとしても、安倍晋三のすべての個々の発言・行動を支持しているとは限らない
 これらは、多少は理屈の分かる中学生・高校生であれば、当たり前のことではないか?
 「安倍談話」を支持しなければ安倍内閣支持者(・自民党支持者?)ではないかの如き主張の仕方であるとすれば、論理的にも誤っている。
 ましてや、「安倍戦後70年談話」を基本的に又は全体として支持しなければ、あるいは一部についてであれ批判するような者は<保守>派ではない、と言いたいかの主張をしているとすれば、<ほとんど発狂している>。
 言葉はきついだろうが、論理的には、上のとおり、のはずだ。
 「安倍戦後70年談話」に盲従して?それを賛美せよ、と言うのは、<教祖>または<何とか党の最高指導者>を批判するな、と言っているに等しい。花田紀凱なのか渡部昇一なのか知らないが、何が「保守分裂の愚」だ。笑ってしまう。
 まっとうな<保守派>の人々は、冷静に物事を見て、思考しなければならない。
 六 安倍晋三の「戦後70年談話」や2015年12月の<慰安婦問題最終決着>文書についての、以上に言及した文献以外のものも、当然に読んでいる。
 秋月瑛二は、この論点について、断固として、中西輝政・西尾幹二・西岡力等の側に立ち、渡部昇一・産経新聞社主流派(?)等に反対する。
 <このテーマ、つづける。>

1355/共産主義の罪悪とナチス②ークルトワ=ヴェルト。

 クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書<ソ連篇>〔外川継男訳〕(恵雅堂出版、2001)の「序・共産主義の犯罪」の中のp.25-26に、以下の文章がある。
 「ナチスの犯罪の研究」は多いのに(また『夜と霧』・『ソフィーの選択』・『シンドラーのリスト』等の映画も成功したのに)、「共産主義の犯罪については、このような〔秋月-「ユダヤ人の殺害方法の詳細」についてのラウル・ヒルバークの著のような〕タイプの研究は存在しない。//
 ヒムラーやアイヒマンの名前は現代の蛮行の象徴として世界中に知られているのに、ジェルジンスキーやヤゴーダやエジョフ〔三人はいずれもソ連秘密警察の長官〕の名は大部分の人にとって未知である。レーニン、毛沢東、ホー・チ・ミン、そしてスターリンさえ、驚くべきことに依然として尊敬の念をもって語られている。〔/改行〕
 ヒトラーの犯罪に対して向けられた並はずれた注目は、完全に正当な裏付けのあるものだった。〔中略〕それなのに、共産主義の犯罪についての世論や証言の反響が、こんなに弱々しいのは、いったいなぜなのだろうか? とりわけ、八〇年にわたって人類の約三分の一を四大陸において襲った共産主義の大惨事に関して、なぜ『学会』はこのように沈黙しているのだろうか?
 このあと、一文を省略して、つぎのように続く。「我々がこれらの問題を理解することが、どうしてもできないというのだろうか? それよりも、むしろ絶対に知りたくない、理解するのが恐ろしいからではないだろうか?」
 上の「学会」は「学界」の方が適訳かもしれない。
 さて、アウシュビッツ/ホロコーストはよく知られているだろうが、一方で、カティン(の森)事件やポル・ポト派(カンボジア/クメール・ルージュ)の大量殺戮の実態等は、いかほどに日本人の教養的?知識になっているのだろう。日本<軍国主義>の悪行を頻りにいい募る者たちがいるが、その者たちはいったい何故、旧ソ連による強制連行と労働強制を日本国民に対する犯罪として指弾しないのだろうか?(「シベリア抑留」!)
 カティンの森事件について、①ザスラフスキー〔根岸隆夫訳〕・カチンの森-ポーランド指導階級の抹殺(みすず書房、2010)、②ザヴォドニー〔中野五郎=朝倉和子訳〕・消えた将校たち-カチンの森虐殺事件(みすず書房、2012)などがある。
 この事件は、どこかの高校教科書に名前だけでも記載されているのだろうか。上のいずれも読了していないが、互い違いに(頭の方向を逆に)積み重ねられた何段・何列もの発掘された死体群の写真が付いたりしているので、愉しく読み続けられるものではなく、ナチスの場合と同様に、人間はこんなことまでできるのかと戦慄させられる。
 なお、前回紹介したヘインズとクレアの本の一部の文章を訳出した部分以外も含めて多少読むと、コミュニズム・コミュニストはほとんどか全く消滅して<反共>一本槍だろうという単純な印象を持っていたアメリカにおいて、コミュニズムの影響はまだ(とくに知識人層に)あり、アメリカ共産党の評価に対立があることも分かる。ヘインズ=クレアは反共「伝統主義者」だが、ローゼンバーグ夫妻やH.D.ホワイトらの旧ソ連協力者(コミュニスト)を理想主義者として擁護する反・反共「修正主義者」も学界では有力であるらしい。仔細はむろん知らないが、このような雰囲気がアメリカのとくに民主党員たちに影響を与えていないはずはないとも思われる(バーニー・サンダースは「民主社会主義者」とか自称しているらしい)。
 とくにアメリカ共産党やコミンテルン諜報者に関するアメリカの歴史学界の動向については、月刊正論(産経)昨年・2015年9-10月号に、福井義高の連載論稿がある(それぞれ、p.228-「リベラルの欺瞞・上」、p.258-「同・下/元KGB工作員が持ち出した…の衝撃」)。 

1322/日本共産党こそ主敵-<悪魔の100年史>刊行を。

 月刊WiLL(ワック)は5月号で、日本共産党批判の特集を組んでいた。
 その他、雑誌Japanism等でも特集がある。
 しかし、一瞥のかぎりだが、私は不十分だと感じている。それについては近いうちに言及する。
 さて、月刊正論6月号(産経新聞社)の藤岡信勝論考の最後にこうある。正確には「若者」に対してだが。
 「日本共産党の歴史を、戦前は立花隆、戦後は兵本達吉の本を読んで知ってもらいたい」(p.135)。
 この二つを当然ながら秋月は読んでいるが、考えさせられることがある。
 それは、そう言えば、日本共産党の歴史(と現在)に関する詳細で学問的でもある(かつ分かりやすい)文献はなさそうであることだ。上の二つは、人文社会系の学者・研究者によるものではない。
 共産主義一般に関する(日本人による)批判的文献はないではない。また、ソ連や中国(・北朝鮮)の実態等に関する書物は多いとは言えないかもしれないが、まだある。
 しかし、日本の共産主義者たち、または肝心の日本共産党についての(むろんその歴史を含む)体系的・包括的な文献はひょっとすればまったく存在しないのではないか。
 研究者あるいは評論家と言われる人たちの中に、まともな(体系的・理論的も含む)日本共産党批判書を刊行している人はいるのだろうか。これは、日本の保守派=反共産主義派の大きな怠慢ではないか。
 人文社会系の学者たち、あるいはいわゆるアカデミズムが大きくコミュニズムに汚染されていて、現に日本にあったし、ある日本共産党の客観的分析、とりわけ批判的分析ができないだろうことは理解できる。だが、そのような実態こそ、いったい保守派は、とくに保守派とされる学者・研究者たちはいったい何をしてきたのかを疑問視させるものでもある。
 日本共産党自体の「社会科学的」研究こそが望まれる。処世・世渡りのために日本共産党自体の研究と公表をおろそかにしているとすれば(自民党についてはいくつかあるはずだ。55年体制とか「吉田ドクトリン」等々について)、本来は「社会科学」の精神・学問の自由の理念から離れている。
 日本共産党は2022年、6年後に創立100年になる。現在の状況では、大々的に<日本共産党の100年>とかの書物を「党史」として刊行する可能性が高いだろう。
 まだ6年ある。共同作業でもよいから、日本共産党自身が宣伝するような歴史と実態を同党はもつものではないことを、詳しく包括的に(かつできるだけ分かりやすく) 叙述する書物を保守派=反共産主義の学者あるいは論壇人たちは出版してほしいものだ。

1290/戦後70年よりも2016年末のソ連崩壊25周年-2

 西岡力=島田洋一=江崎道朗「歴史の大転換『戦後70年』から『100年冷戦』へ」月刊正論2015年5月号(産経新聞社)の諸指摘のうち重要な第二は、<2015年は戦後70年>ということのみを周年・区切り年として語るべきではない、ということだろう。
 <戦後70年>ということ自体、平和条約=講和条約によって正式に戦争が終了するのだとすると、サ講和条約発効の1952年を起点として、今年は<戦後64年>であるはずだ。
 それはともかくとしても、1945年の8-9月以降も日本や世界にとって重要な画期はいくつもあった。
 1947年の日本国憲法の施行、1952年のサ講和条約発効もそうだが、1950年の朝鮮戦争もそうだった。
 この戦争勃発によって、日本の歴史も変化している。警察予備隊・保安隊、そして1954年に自衛隊発足となる。そしてまた、この戦争に正規の中国軍も北朝鮮側に立って参加し、実質的にはアメリカ軍だとも言えた国連軍と戦火を交えた。すでに成立していた中華人民共和国の軍隊は、国連軍、そしてアメリカ軍の「敵」だったのだ。
 中国はまた、ソ連とともに<東側陣営>に属して、西欧やアメリカにとってのソ連ほどではなかったとしても、<冷戦>の相手方だった。アメリカとは基本的に異質の国家・社会のしくみをもつ国家だった。
 中国は、2015年を<反ファシズム戦争勝利70周年>として祝うらしい。そして、アメリカに対しても、同じく<反ファシズム戦争>を戦った仲間・友人ではないかとのメッセージを発しているらしい。GHQ史観・東京裁判史観に立たざるをえないアメリカがこれになびいている観もなくはなく、このような行事を批判・峻拒していないのは嘆かわしいことだ。
 しかし、第一に、上述のように、<反ファシズム戦争>なるものの時期よりもあとに、中国はアメリカと対決してきている。仲間・友人だった時代よりも、対戦相手・「敵」だった時期の方が新しく、かつ長い。
 第二に、先の大戦を<反ファシズム戦争>と性格づけるのは、日本共産党はぜひともそういう性格づけを維持したいだろうが、正しくはない。つまり、ソ連はそもそも<反ファシズム>国家だったのか、という根幹的な問題がある。
 上の鼎談で島田洋一は言う-「ソ連は一党独裁で、しかもスターリンは二十世紀でも指折りの人権弾圧者」、「経済は市場メカニズムを排除する点でファシズム以上に抑圧的」、「政治的な自由度も当時の日独伊を遙かに下回って」いる(p.88)。
 このようなソ連を<反ファシズム>の「民主主義」国家だとはとても言えないはずだ。
 アメリカがソ連と「組んだ」こと、そして当時の中国よりも日本を警戒・敵視したこと、結果として<共産中国>を生み出してしまったことについては、当時のアメリカの大きな判断ミスを指摘できるとともに、なぜそのような「誤った」判断ミスに至ったかに関係するアメリカ内部の共産主義者の動向をさらに把握しておく必要がある。だが、この点は、ここでのテーマではない。
 第三に、<反ファシズム戦争>なるものの当事者では中国共産党はなかった。実際に日本と戦争したのは中国国民党で、毛沢東らの中国共産党ではない(p.88の西岡力発言も同旨)。
 さらに、毛沢東らの中国共産党によって建国された中国が<反ファシズム>の戦いを祝える資格がそもそもあるのか、という問題もある。
 上の鼎談で再び島田は言う-中国は「政治・経済体制として典型的なファシズム」で、少数民族弾圧の点では「ナチズムの要素」もある。一言では「帝国主義的ファシズム」国家ではないか(p.89)。
 <ファシズム>についての厳密な定義が語られているわけではないが、ハンナ・アーレントがナチズムや社会主義(・少なくともスターリニズム)を<左翼全体主義>と性格付けていることを知っていたりするので、中国を「ファシズム」国家とすることに違和感はまったくない。
 そのような現在の中国がアメリカやフランス・英国等とともに<反ファシズム戦争勝利>70年を祝おうとするのは狂気の沙汰だと感じる必要がある。島田洋一によれば、「ファシズムに加えて、ナチズムの要素を持ち、ヒトラリズムの傾向をも見せている中国が、反ファシズム戦争の勝利を祝うのは倒錯の極み」だ、ということになる(p.89)。
 もともと戦前・戦中の日本が「(天皇制?)ファシズム」国家だったのかという問題もあるのだが、さて措く。
 さて、いわゆる戦後の忘れてはならない重要な画期は、1989年11月のベルリンの壁の「崩壊」(物理的には「開放」だが)等につづく、ソ連邦の崩壊であり、「独立国家共同体」の成立をその日と理解すれば、それは1991年12月21日のことだった。
 この1991年末をもって、少なくともソ連-さらには東欧旧「社会主義」諸国-との関係での<冷戦>は終わったのであり、かりにソ連等に限るにせよ、ソ連のかつての力の大きさを考慮すれば、<自由主義(資本主義)の社会主義に対する勝利>が明瞭になった、じつに重要な画期だった。
 20世紀を地球上での<社会主義>の誕生とそれを奉じた重要な国家の崩壊による消滅過程の明瞭化の時代と理解するならば、この1991年という年を忘れてはいけない。そして、時期的な近さから見ても、1945年よりも(1989年や)1991年の方が重要だという見方をすることは十分に可能だと思われる。
 「冷戦」に敗北したのはソ連だったとしても、同じ<社会主義>(を目指す)国家である中国もまた、<冷戦>の敗戦国と言うべきだろう。また、日本はドイツ等とともにアメリカと協力して<冷戦勝利>の側にいたのだ。
 まさしくこの点を、上の鼎談で江崎道朗は次のように言う。
 「日本は戦後、自由主義陣営の一員であることを選択し、アメリカと共にソ連と戦い、勝利した戦勝国であることを誇るべきであった」(p.92)。
 さらに、日本国内でかつて全面講和を主張したり、日米安保条約改訂に反対したりしてソ連(や中国)の味方をした「左翼」論者・マスコミ等は、日本社会党等とともに、現実の歴史では<敗北した>のだ(p.92の西岡発言参照)。日本共産党も<敗北>の側にいたと思うが、この点は、日本共産党が、ソ連は「社会主義」国ではなかった、崩壊を歓迎するなどと<大がかりな詐言>を言い始めたことにかかわって、別に扱う(この点に、この欄ですでに批判的に論及したことはある)。
 1991年末から2016年末で25年が経つ。戦後70年における反省とか謝罪を話題にするよりも、<冷戦勝利>25周年の祝賀をこそ祝い、なお残る<社会主義>国の廃絶に向けた誓いの年にすべきだろう。
 西岡力は、次のように言っている。至言だと考えられる。
 「今年から来年にかけ、一九九一年の冷戦勝利二十五周年を記念する行事を日米が中心となって開催すべき」だ(p.91)。
 

1289/戦後70年よりも2016年末のソ連崩壊25周年-1。

 月刊正論2015年5月号(産経新聞社)p.86-の鼎談、西岡力=島田洋一=江崎道朗「歴史の大転換『戦後70年』から『100年冷戦』へ」は面白いし、かつすこぶる重要な指摘をする発言に充ちている。
 第一に、日本にとっては「冷戦」は今も継続しているということが、明確に語られている。
 この欄を書き始めた頃、強調したかったことの数少ない一つは、この点だった。なぜなら、保守派論者の文章の中でも、<冷戦は終焉したが…>とか、しばしば書かれていたからだ。なるほどくに西欧の国々・人々にとってはソ連邦の解体によって冷戦は終わったと感じられてよいのかもしれないが、日本と日本人にとってはそんなに暢気なことを言うことはできない、と考えていた。もちろん、近隣に、中華人民共和国、北朝鮮などの共産党(・労働党)一党独裁の国家がなおも存在するからであり、これらによる日本に対する脅威は依然としてあったからだ。
 中国や北朝鮮について、その「社会主義」国家性または<社会主義を目指す>国家であることの認識は意外にも乏しいような印象もある。とくに北朝鮮の現状からすれば「…主義」以前の国家であるとも感じる。しかし、この国がソ連・コミンテルンから「派遣」されたマルクス・レーニン主義者の金日成(本名ではない)を中心にして作られた国家であることは疑いなく、1950年には資本主義・「自由主義」国の南朝鮮(韓国)へと侵攻して朝鮮戦争が始まった。中国の現在もたしかに中国的ではあるが、日本共産党・不破哲三が<市場経済を通じて社会主義へ>の道を通っている国と認めているように、また毛沢東がマルクス主義者であったことも疑いないところで、日本やアメリカ・ドイツ等々と基本的に拠って立つ理念・しくみが異なっている。
 日本にとっての最大の矛盾・対立は、石原慎太郎のように毛沢東・矛盾論に傚って言えば、これら<社会主義>の国々との間にある。アメリカとの間にもむろん対立・矛盾はあり日本の「自立」が図られるべきだが、この<社会主義(・共産主義)>との対抗という点を絶対に忘却してはならない、とつねづね考えてきた。アメリカと中国に対する<等距離>外交・<正三角形>外交などはありえないし、中国が入っての<東アジア共同体>など、中国の政治・経済の仕組みが現状であるかぎりは、語ってはいけないことだ。
 上記鼎談で、島田と西岡は言っている(p.91)。
 島田-冷戦は「終わったのはヨーロッパにおいてだけで、アジアでは終わっていません」。
 西岡-1989年の中国共産党は「ファシズムを続ける選択」をした、「アジアでは…対ファシズム中国という構図を中心にした冷戦は終わっていない…」。ここでの「ファシズム」という語の使用にも私は賛成だが、しばらく措く。
 また、江崎は次のように語る。-アメリカの「共産主義犠牲者財団」は2014年に、「アジアでは。…北朝鮮と、…中国がいまなお人権弾圧を繰り返しており、アジアでの共産主義との戦いはまだ続いている」というキャンペーンを繰り広げているなど、アメリカの保守派の中には戦後70年ではなく「アジアの冷戦という現在進行形の課題」への強い問題意識をもつ人たちがいる。
 かかるアメリカの一部の動向と比べてみて、日本の状況は<対共産主義>・<反共>という視点からの問題関心が乏しすぎると感じられる。
 さて、いちおうここでの第一点に含めておくが、20世紀は二つの世界大戦によって象徴される世紀であるというよりも、ロシア革命の勃発によるソ連<社会主義>国家の生成と崩壊の世紀だったということの方がより大きな世界史的意味をもつ、といつぞや(数年以上前だが)この欄に書いたことがある。こういう観点から歴史を把握する必要があるのではないか。
 このような問題関心からすると、鼎談最後にある江崎道朗の以下の発言も、十分によく理解できる。重要な問題意識だと思われる。
 すなわち、「日本にとっての冷戦はわが国に共産主義思想が押し寄せてきた大正期に始まり、大東亜戦争に影響を与えて現在も続いている」、と考える。2017年はロシア革命100年、2019年はコミンテルン創設100年、こうした100年を見通した「100年冷戦史観」とでも言うべき「歴史観」の確立に向けて今後も議論したい。
 70年後に反省・謝罪したりするのではなく25周年を祝え、という意味の第二点は、別に続ける。
 
 

1281/「保守原理主義」者の暗愚1-渡部昇一・月刊正論2015年5月号の日本国憲法「廃止」論。

 渡部昇一の主張・議論のすべてではないが、その日本国憲法「廃止」論については、「保守原理主義」らしきものを感じ、「暗愚」はおそらく言い過ぎだろうが、間違いなく「意味不明」な議論だと感じる。
 南出某ら等々の日本国憲法「無効」論・「廃止」論にはこの欄ですでに論及しているので、参照していただきたい。以下は、渡部昇一「反日との我が闘い」月刊正論5月号p.60-63の叙述に対する批判的コメントだ。渡部のこのような叙述が月刊正論(産経)の実質的な「巻頭」を飾っているのだから、戦慄を覚えないではない。
 渡部昇一は、敢えて「憲法改正」とは言わないようにしてきた、それは「憲法改正」は「今の憲法を承認したうえで、それを改正する」ことを意味するからで、「占領統治基本法」である、「嘘に塗り固められ、国家の恥に満ちた」日本国憲法という認識にもとづけば、「今の憲法はまず廃止されるべき」である、とする(p.62)。
 このあたりは、これまで読んできた日本国憲法「廃止」論(・「無効」論)とほとんど変わりはなく、渡部の主張としてとくに目新しいものではない。また、最初の小見出しになっている「日本国憲法は憲法ではないという認識を」(p.61)も、<日本国憲法はまともな憲法ではないという認識を>というふうに改めていただければ、賛同することができる。問題は、p.63上段の半ば以降の叙述にある。
 渡部昇一は、「とにかく、まず一度、明治憲法に戻って今の憲法を廃止し、皆がつくった憲法を廃止する」、これが「筋の通ったやり方だ」とする。ここにもすでにその意味内容が分かりにくいところがあるが、決定的には、つぎの文章には唖然としてしまった。
 渡部はいう。日本国憲法を「廃止」すれば「大混乱に陥る」という反論があるかもしれないが、「新憲法のもとで一つ一つを変えていくまでは、現行憲法が効力を維持するとすればいいのです」。
 「現行憲法が効力を維持する」とはいったいいかなることを意味するのか。渡部は、新憲法のもとでの「法改正」が一つ一つできるまでは、「今までどおりでOKとすれば、何の混乱も生じない」とも書く。
 これまで、日本国憲法「無効」論は同「廃止(廃棄)」論と基本的趣旨は同じだと理解して、「無効」・「廃止」の宣言・確認の主体や手続に関する主張は非現実的だ、論理矛盾がある、等と指摘してきた。
 上の渡部昇一の主張からすると(渡部の諸文献での主張をここで網羅的に参照することはできないので、上記部分に限る)、この人の主張は日本国憲法「廃止」論であっても「無効」論ではない。なぜなら、「廃止」後の一定の時期までは日本国憲法は「効力を維持する」と明瞭に述べているからだ。
 小児に語るようなことだが、「効力を維持する」とは<無効ではない>、<有効である>ということを意味する。「有効」であるとは「効力をもつこと」、「効力を維持」していることを意味する。「効力を維持する」とは、「無効」とはしない、ということを意味しているのは明らかなことだ。
 では、渡部のいう日本国憲法の「廃止」とはいったい何のことなのか。
 通常、法律等の成文法の「廃止」とは、<効力を否定する>こと、<効力を失わせる(=失効させる)>こと、つまりは<効力がないことにする>=<無効とする>ことを意味するはずだ。
 日本国憲法を「廃止」はしても同憲法は「効力を維持する」とは、いったい何のことなのか? いったい、何が言いたいのか? これが唖然としてしまった点だ。渡部において、効力の有無とは無関係なものとして語られている「廃止」とは、いったい日本国憲法に対するいかなる働きかけのことを意味しているのだろうか。
 なるほど、違憲な法律、違憲の行為であっても効力は維持する、つまり無効ではない、とすることはありうる。国会議員選挙の違憲・無効訴訟の諸判決の中にも、このような論法を示すものがある。
 では、日本国憲法を<無効とする(無効を確認する)>のではないが、<廃止>する、とはいったいどういう論法なのだろうか。問題は法律や具体的行為の<合憲性・無効性>ではなく、日本国憲法を<廃止>するということの意味だ。
 明治憲法に違反すること、あるいは国際法(?)に違反することを「確認」することを意味するのだろうか。
 しかし、成文法の「廃止」とは上述のとおり<無効とする>=<効力を維持させない>ことを意味させるのが通常であるはずなので、渡部昇一における「廃止」は、新奇な意味をもたされていると理解するほかはない。そして、その意味はほとんど理解不可能だ。
 渡部昇一においても、概念の混乱・不明瞭さがある。「無効」を、制定時にさかのぼってではなく、<将来にむかってのみ>効力をなくするという意味で用いている「無効」論者にも、通常の意味での「無効」とは異なる「無効」概念の誤用があると思われるが、渡部は、日本国憲法が将来において「効力を維持する」ことを一定時期までは認めつつ、「廃止」を語っている。上の意味での「無効」論以上に意味不明だと言わざるをえない。
 先に留保したところだが、p.63の半ばでは、国会の承認を得ての「憲法草案」策定→政府による明治憲法に「帰る」ことの宣言=日本国憲法の「廃止」→新憲法の発布、という手続・過程が想定されている。
 この辺りもよく分からないことが多い。①「政府」とは何か、それが「内閣」のことだとすれば、日本国憲法の規定にもとづいて同憲法下の国会によって指名された内閣総理大臣とそれの任命した大臣によって構成される「内閣」=政府に、自らの生誕の母体ともいえる日本国憲法を「廃止」する権限・権能がそもそもあるのか、②明治憲法に「帰る」べきと主張しながら、天皇に何ら論及がないのはなぜか、新憲法を「発布」する権限は政府にあるかのごとき書き方だが(①のような問題がすでにあるが)、天皇陛下の少なくとも何らかの関与を明示的には認めていないのはなぜか、という疑問が容易に生じる。
 p.61-62あたりの叙述にも首を傾げる部分があるが、省略する。
 厳密にはとても採用できそうもない議論がごく少数の論者によってなされているならば、無視しておいてよいかもしれない。しかし、月刊正論の冒頭に置かれている渡部の論稿の少なくとも一部は、倉山満の日本国憲法「改正」=<恥の上塗り>論等とも共鳴しつつ、憲法「改正」運動を批判するもので、客観的には妨害する可能性がある。
 「保守」派意識の旺盛な人が、現憲法の制定過程の不正常さを知るのはよいが、そのことで(知ったかぶりをして?)<現憲法は無効>あるいは<現憲法はいったん廃止>と簡単に言ってしまうことがあるのを知っている。無駄な手続を要求することによって、またあえて<廃止>論や<無効>論を主張することによって、憲法「改正」を遅らせることがあってはならないだろう。現在の憲法「改正」運動の主軸は自民党内にあると見るほかなく、「美しい日本の憲法をつくる会」にあるのではない。そしてまだ決戦の火蓋は切られていない。自民党の船田元、保岡興治、磯崎陽輔
らは渡部昇一らの「観念的・原理的」議論の影響を受けていないようであることは、安心できることだ。

1277/山際澄夫が産経新聞に注文-月刊WiLL3月号。

 〇 山際澄夫が産経新聞を批判している、または産経新聞に注文をつけている。月刊WiLL3月号(ワック)の山際「朝日と産経"角度"のつけ方」だ(p.98-)。第一次的には朝日批判の文章の中で、山際は次のように産経にも論及する。
 ・「産経新聞にも朝日新聞に劣らず角度のついた記事が多い」。産経新聞のOBで産経を購読していない者が言うには、「読まなくても何を書いているのか分かる」、「民主党を叩くのはいいのだが、記者の思いが前面に出過ぎてニュースなのか、記者の主張なのかが分からないこともある」。
 ・産経新聞を称賛して余りあるが、「報道が単色」との批判もある。例えば、「安倍政権について批判的なニュースはほとんどない」。
 ・自民党は選挙公約から竹島の日式典政府主催等を削り、安倍首相は一昨年末以降靖国参拝をせず、村山談話・河野談話を継承するとしている。これらに自民「党内や支持層に動揺や批判はないのだろうか。批判がないとしたらそれはなぜなのか」。産経新聞にはこうした疑問に答える記事がほとんどない。
 ・「安倍政権を支持することとキチンと批判することは、別なはずだ」。
 ・産経新聞の経営体質は「古くて弱い」。フジテレビの支援が不可欠らしいし、幹部が政治部出身者で固められているのも「どうかと思う」。誤報についての責任のとり方も、威張れたものではないことがある。
 山際澄夫のような<保守派>論客が<保守派>産経新聞について上のように書くのは、けっこう勇気のいることだと推察される。但し、その内容には同感する点が多い。私自身、2007年参議院選挙前に朝日新聞等による内閣打倒・安倍バッシングのキャンペーンが始まるまでは、アメリカでの「慰安婦」決議等々に対する第一次安倍内閣の姿勢・不作為について、この欄で疑問を書いたことがある。
 私も安倍政権を支持し、久しぶりに宰相らしい首相が日本にも出てきたと感じているが、山際の言うように「安倍政権を支持することとキチンと批判することは、別なはずだ」。安倍政権のしていることを100%支持し賛同しないと<保守派>ではない、とでもいうような<教条主義>に陥ってはいけない。<反共>は当然に「自由」を尊重する。個々の「自由」を圧殺するような雰囲気を作ることは<反共>(=「自由封殺」の<共産主義>に断固として反対すること)の考え方とは相容れないものだ。
 〇 上に指摘されているような、「安倍政権について批判的」な記事がほとんどないこと、安倍政権擁護ぶりは、産経新聞社刊の月刊正論にもあると見られる。例えば、月刊正論1月号(産経)の末尾には、次のような読者の「編集者へ」の意見と編集部の「編集者から」と題する回答?(コメント)がある(p.366-7)。
 ・読者の意見-産経新聞を読んで安倍政権が河野談話を撤回しないのはアメリカに遠慮しているためだと分かった。米国への遠慮は「歴史修正主義」と受け止められることを怖れてのことらしい。それでも、疑問が残る。撤回はなぜ「歴史修正」なのか。さらに、「歴史修正主義」と見られないように取り繕うことは正しい姿勢か。「歴史修正主義」でないように装うことは「戦後レジームからの脱却」の大義を放擲することで、安倍政権の自己否定ではないか。
 これは編集部に回答を求める性質のものではないとも思われるが、編集部はあえて次のように書いて「説得」?している。編集部の誰が書いているかは不明だが、編集長・小島新一は了承しているのだろう。
 ・編集部の見解-歴史観の修正の必要はそのとおりだが、欧米各国から「歴史修正主義者」と見なされることは「避けなければならないということは強調させて下さい」。「歴史修正主義者」とはたんに歴史の修正意図者ではなく「ナチスやその種の思想や行動を肯定しようとする者という語感を持つ言葉だそうです」。日本の指導者がそのような者だと受取れられれば日本は国際社会から敵視され孤立する。「国際社会が欧米中心の秩序で成り立っている限り」、その中でどう誤解を解くのかを考えざるを得ない。以上。
 あらためて書けば、上の読者の意見はもっともだ。これに対して、まるで安倍内閣を代表して、いや「代わって」回答しているかのごとき編集部の文章の方に疑問が多い。
 まず、「歴史修正主義」なるものの意味について、読者-「先の大戦を『ファシズムと民主主義の戦い』ととらえ、大戦の責任を全て日本に負わせ、日韓合邦も朝鮮への不当な支配とみなす歴史認識」、編集部-「ナチスやその種の思想や行動を肯定しようとする者という語感を持つ言葉」、という違いがある。この語の意味をまともに考えたことはないが、編集部が「だそうです」などと曖昧に述べているかなり狭い意味での捉え方よりも、読者の理解の方が的確だと思われる。後者<前者、という関係になるだろう。また、フランス革命を従来のように美化せず、問題も多かったことを認める考え方がそのフランスでも出てきていて「歴史修正主義」というらしいと何かで読んだが、そこでの「歴史修正主義」はナチスとはむろん関係がない。基本的に言って、これまでの通説的または支配的な<欧米近代>を起点・中心とする歴史観を疑うのが「歴史修正主義」で、どちらが適切かは今後数十年後か100年後には変化している可能性がある、と思う。月刊正論編集部は、安倍政権を擁護したいあまり、不正確な、又は狭すぎる「歴史修正主義」の理解を持ち出しているのではないか。
 編集部の最後の文章は、その卑屈さに驚く。「国際社会が欧米中心の秩序で成り立っている」ので、じっと我慢せよ、と言いたいかの如くだ。
 争点は、河野談話を撤回すべきか否かだ。産経新聞をきちんと読んではいないが、上記のようなやりとりがあることからすると、産経新聞は河野談話を撤回せよ、と主張してはいないようだ。月刊正論編集部によれば、それは安倍内閣が「歴史修正主義」に立っていないことを示すためのようだが、さほどに大袈裟な問題ではないだろう。言うまでもなく「慰安婦」問題に関する談話なのであり、先の大戦全体の認識・評価に直接は関係がない。すなわち、「歴史修正主義」に立たなくとも、河野談話を否定・撤回することができる(そうはいかず、深刻なのは村山談話だ)。
 具体的な問題は、とくにアメリカとの関係で(韓国や中国とも関係はするが)どのような<外交>戦術をとるべきか、だ。ここで、中西輝政の言う<保守原理主義>か<戦略的現実主義>のいずれを、この案件について、とるべきか、の問題が生じるのかもしれない。この観点から、後者に立って安倍政権を擁護するならばまだよいが、「歴史修正主義」や「欧米中心の秩序」を持ち出して擁護するのは、安倍晋三首相の本意ともおそらくは違っているように考えられる。
 <保守派>の代表らしき月刊雑誌の編集者が(いや、代表は月刊WiLLに変わっただろうか)上のようなことを書いて、それ自体はまともだと考えられる読者の意見を<切り捨て>、<説教>しているのは、多少は情けなく感じてしまう。

1269/安倍首相は大阪都構想に好意的で、橋下徹は改憲のため「何でもする」。

 安倍晋三首相は昨年10/06の衆議院予算委員会で、維新の党の「大阪都構想」について「二重行政の解消と住民自治拡充を図ろうとするものだ。その目的は重要だ」と述べていた。
 昨日の1/14の大阪・関西テレビでの生発言でも、「二重行政をなくし住民自治を拡充していく意義はある。住民投票で賛成多数となれば必要な手続きを粛々と行いたい」と述べたらしい。
 これは重要なニュースだ。
 第一に、大阪市・府の自民党議員団は(したがって大阪府本部も)「大阪都構想」に反対で、住民投票にも反対している。公明党は住民投票実施には賛成に(なぜか?)回ったので、大阪の自民党は公明党よりも<反・橋下>姿勢が強固なのだ。にもかかわらず、公明党の姿勢が変化し、大阪・自民党は従来のままである中で、首相であり自民党総裁でもある安倍晋三が上記のごとく、「大阪都構想」には「意義」があるとし、「住民投票で賛成多数となれば必要な手続きを粛々と…」と語ったのだから、かりに一般論であり、かつ仮定形の発言だったとしても、ふつうであれば、驚くべきことだ。
 安倍首相は昨年10月には大阪府連の姿勢について質問されて「地方自治のことなので、そこまで私が『ああせよ、こうせよ』ということは差し控える」とだけ述べたようだが、大阪の自民党とは真っ向から異なる見解を明らかにしているに等しいだろう。
 安倍首相には、自民党大阪府連を困らせてもかまわない、という大局的判断があるものと思われる。そしてまた、この欄ですでに記したように、大阪の自民党は、橋下徹・維新の党よりも民主党や共産党と<仲良く>するような愚行をいま以上続けるな、と言いたい。大阪の自民党は<保守政党>の支部なのか、それとも<容共>の「左翼」的支部なのか。あるいは、そんなことはどうでもよい、面子と自分の選挙当選にのみ関心を持って周囲を見渡している<日和見>者たちの集団なのか。
 第二に、安倍首相の親維新・親橋下徹の姿勢だ。橋下徹は1/15に「ありがたい。僕はうれしくてしょうがない」と述べて喜び、憲法改正について、「絶対に必要で、〔安倍〕総理にしかできない。何かできることがあれば何でもする」と語ったらしい。
 安倍首相が出演したと思われる関西テレビの夕方の番組の水曜のゲスト・コメンテイターの青山繁晴はいつぞや、安倍から直接に<橋下徹をどう思うか>と尋ねられたことがあり、安倍は橋下徹に期待をもっているようだ、という旨を語っていた。
 安倍首相の、橋下徹に期待し、少なくとも<反・橋下>姿勢を示さない、という感覚、政治的センスは優れていて、1/14の発言も、大局的かつ戦略的な判断にもとづいている、と思われる。すなわち<保守>勢力を糾合し、拡大し、ひいては憲法改正を成就するためには、橋下徹あるいは現維新の党の協力が必要だ、少なくとも<敵に回す>ようなことをしていいけない、と判断しているものと思われる。地方議会議員を中心とする、自民党大阪府連の面々とは、考えていることの次元・レベルがまるで異なる。
 産経新聞社・月刊正論1月号p.377の「編集者から」はかなり露骨な安倍晋三政権擁護の回答をしており、質問者・意見者である読者を斬って捨てている観があり、気になる。この点はあらためて触れるとして、ここにも見られるように、月刊正論編集部は親・安倍晋三、親安倍自民党姿勢を採っているように見える。
 しかるに、前編集長の桑原聡は橋下徹を「危険な政治家」だ、日本を「解体」しようとしている、と明言した。そして、「今週のバカ」を某週刊誌(週刊文春)に書いて<毎週のバカ>ぶりを示し、安倍+橋下徹による憲法改正には反対だと明言した適菜収に<反・橋下徹>論考を巻頭に書かせ、さらには適菜を「賢者」の一人として扱っていさえした。
 このかつての編集長の文章は取消しされていないし、むろん謝罪の言葉があるはずもない。むろん政治家等について月刊雑誌またはその編集長がどのような評価をしようと自由なのだが、自由に評価したその結果は誤っていることを認め、自覚しておくくらいはしておいてもらいたいものだ。
 なぜなら、むろん、簡単に言って、安倍晋三擁護・支持と橋下徹批判・悪罵が両立することはありえない。安倍晋三の橋下徹に対する姿勢だけは誤っている、という見解もありうるが、そうならば、そのような趣旨を含む文章を掲載すればよいだろう。
 月刊正論の出版母体・産経新聞社は橋下徹に対して決して暖かくないし(例、1/15社説)、松本浩司のように皮肉まじりの文章を書いている者もいる。
 産経新聞社、そして月刊正論には、<堅い>読者層の支持と購読さえ得られればよい、<そこそこに>収益が出ればよい、といった程度の気構えで仕事をしてほしくない、と思っている。できるならば、<憲法改正>のための情報センターのような役割を果たすことを期待して、産経新聞には厳しいことも書いているのだが、月刊正論の執筆者に見られると感じられる偏りや(おそらくは産経新聞が想定していない定期購読者だろう)橋下徹のような人物まで<取り込む>姿勢がないように見られることは、残念なことだ。
 ついでながら、上に<憲法改正>という語を何度か使っているが、それでは本来はいけないことは別に述べる。また、産経新聞社「国民の憲法」案の地方自治条項について、橋下徹は<これではダメだ>と言い放ったが、これは橋下徹の感想の方が適切だ。いずれも、別の機会に触れる。
 安倍首相と橋下徹の関係から、産経新聞社に論点が移ってしまった。
 さらについでに、私自身は維新の「大阪都構想」に双手を上げて賛同しているわけではない。
 大都市制度がどうあるべきかは、現地方自治法制定時にも、基本的には都道府県のもとにある一市とする、どの都道府県にも属さない「特別市」とする、の二案があったところ、妥協・折衷の結果として、<政令指定市>制度ができた。近時にも、名称・細かい制度設計は違うが、似たような議論・政策提言があった。そして、砂原庸介・大阪-大都市は国家を越えるか(中公新書、2012)p.223-が述べるように、「仮に彼〔橋下徹〕がはじめから大阪市長になっていれば、現在とは異なるかたちで特別市構想が復活していたかもしれない」、と言える。橋下徹は最初に府知事になったからこそ、政令指定市・大阪市域について知事の権限が及ばない部分があることに疑問を持ったのだと推測される。最初に市長になっていれば、府知事が大阪市に関与・介入できる余地を削減し又はゼロにする運動すらしたかもしれない、とも思われる。
 「大阪都構想」の是非は、イデオロギーの問題ではなく、日本における大都市制度のあり方という、法制度・行政制度の設計にかかわる、すぐれて政策的・技術的な問題だ。それに、「大阪都構想」の具体的な制度内容はまだ詳細には詰められていないように見える。それでも、「ファシスト」であり安倍首相とも親しい憲法改正派だというだけで、橋下徹・維新提案の「大阪都構想」に絶対反対の姿勢をとる日本共産党などもいるに違いない。大阪の自民党が親橋下か反橋下かだけで態度を決めるとすれば、愚かしいことだ。

1261/月刊正論1月号・柳本卓治論考を読む。

 月刊正論(産経新聞社)2015年1月号に柳本卓治「世界最古の『憲法の国』日本の使命」がある(p.168-)。
 自民党議員で参議院の憲法審査会会長に就任したという人物が書いているもので、共感するところもむろんあるが、大いに気になることもある。
 この論考は大きく五つの柱を立てているが、その二は「国家や国民という歴史と文化・伝統を縦軸に、国民主権・基本的人権・平和主義の三大原理を横軸に据えた憲法を」だ。「国民主権・基本的人権・平和主義の三大原理」を基軸の一つにする、と言うのだが、より詳しくは次のように語られている(p.170)。
 「現行の日本国憲法は、占領下の翻訳憲法ではあるが、その根幹には、国民主権、基本的人権、そして平和主義(戦争の放棄)という三大原理が謳われてい」る。「国民主権(主権在民)も基本的人権も、自由と民主主義に立脚する近代国家には、普遍的な原理」だ。「また、戦争放棄と平和主義も、人類国家として実現していかなければならない理想でもあ」る。
 これはいけない。第一。すでにこの欄で述べたことがあるが、まず、現憲法が「国民主権・基本的人権・平和主義」を「三大原理」とするというのは、多くの高校までの教科書には採用されている説明かもしれないが、<左翼>憲法学者たちが説いてる一つの解釈または理解の仕方にすぎない。阪本昌成のように七つの<後日訂正-六つの>原理を挙げる憲法学者もあり、大学レベルでの憲法教科書類が一致して説いているわけでは全くない。少なくとも、権力分立原理と「象徴」天皇制度の維持・採用も、現憲法の重要な原理だろう。前者には、司法権により立憲主義を維持・確保しようとしていること(立法を含む国家行為の憲法適合性の審査)も含めてよい。
 ともあれ、素朴で、幼稚ともいえる「三大原理」の持ち出し方は、適切であるとは思えない。
 つぎに、その「三大原理」を「自由と民主主義に立脚する近代国家」に「普遍的な原理」だと語るのは、まさに<左翼>的な戦後教育の影響を受けすぎており、とても<保守>派の政党・論者が語るものとは思えない。そもそも、日本において、アメリカの独立革命やフランス革命とそれらが生んだ憲法をモデルとして「近代憲法」を語ることの意味が問われなければならないだろう。西欧+アメリカの「近代」原理を日本も現憲法で採用し、それは「普遍的原理」だ、というのは、典型的な<左翼>の主張であり、理解である、と考えられる。
 欧米を「普遍的」原理を提供しているモデルと見るのではなく、日本的な国政あるいは国家統治の原理を創出しなければならず、「自由と民主主義」といっても、それは日本的な「自由と民主主義」でなければならない。
 柳本のような論調だと、欧米的「近代」・「普遍的な原理」によって、「国家や国民という歴史と文化・伝統」は害され、決して両者は調整・調和されないことになるのではないか。
 柳本の教養・素養の基礎は経歴によると経済学にあるようだが、上のようなことを書く人が参議院憲法審査会会長であるというのは、かなり怖ろしい。
 さらにいえば、柳本・参議院憲法審査会会長は、「戦争の放棄」とか「平和主義」をどのような意味で用いているのだろうか。いっさいの「戦争の放棄」をしてはならず、正しい又は正義の戦争=自衛戦争はある、と私は考える。
 また、<左翼>が「平和憲法」などと称して主張する場合の「平和主義」とは、決して戦後および現在の世界諸国において一般的・普遍的なものではなく、「戦力の保持」をしないで他国を信頼して「平和」を確保しようとする、きわめて非常識かつ異常な「平和主義」に他ならない。
 にもかかわらず、柳本は次のように書く-「いま最も大切なことは、この憲法9条の精神を今後も高々と掲げると共に、同時に、…独立国としての自衛権と、自衛のための自衛軍の整備をきちんと明文化すること」だ。
 ここには現9条の1項と2項の規範内容の違いへの言及がまるでないし、「憲法9条の精神を今後も高々と掲げる」という部分は、実質的に日本共産党の別働団体になっている「九条の会」の主張と何ら異ならない。せめて、9条1項の精神、とでも書いてほしいところだ。
 柳本は「憲法9条とは、先の大戦を通して、国民が流し続けた血と涙の池に咲いた、大輪のハスの花である」とまで言い切る。憲法9条は、その2項も含めて全体として、このように美化されるべきものでは全くない、と私は考える。このような言い方も「九条の会」と何ら異ならない。
 繰り返すが、現憲法の文言から素直に読み取れる「平和主義」とは、「軍その他の戦力」の不保持・「交戦権」の否認を前提とする、それを重要な構成要素とする<世界でも稀な、異様な>「平和主義」だ。その点を強調しないままで、現9条は「大輪のハスの花」だとか、「戦争放棄と平和主義」は「人類国家として実現していかなければならない理想」だ、などと自民党かつ参議院の要職者に語られたのでは、げんなりするし、憲法改正・自主憲法制定への熱意も薄れそうだ。
 第二。五つめの柱の「日本人は世界初の『憲法の民』」も、そのまま同感はしかねるし、また議論のために不可欠の論点だとは思われない。
 柳本は、聖徳太子の「十七条の憲法」を持ち出して、「近代国家の憲法とは、一律には比較でき」ないと断りつつも、「日本人は、世界初の『憲法の民』なの」だ、という(p.175)。
 日本と日本人が<世界初>・<世界で一つ>のものを有することを否定はしない。しかし、日本の明治期に欧米の近代「憲法」の原語(Constitution, Verfassung)がなぜ「憲法」と訳されたのかという歴史問題にもかかわるが、柳本も留保を付けているように、日本が世界初の「憲法」を持った、というのはいささか牽強付会の感を否めない。これはむろん「憲法」という概念・用語をどう理解するかによる。今後の憲法改正にあたっては、この点の指摘または強調はほとんど不要だろう。
 憲法改正に向けての多少の戦術的な議論の仕方を一切否定しようとするつもりはないが、柳本の基本的論調はあまりに<左翼>の影響を受けた、あるいは、表現を変えると<左翼>に媚びたものではないか。稲田朋美ならば、このような文章にならないのではないか。
 問題は、現憲法の諸条項を、どのように、どのような順序で改正するか(新設も含む)、そのための勢力を国会両議院内および国民・有権者内でどのように構築していくか、にある。

1259/「危険な思想家」発想がなお残る今日の知的世界。

 ・前回言及の竹山道雄の文章は、朝日新聞が日本の継続性肯定の<明治100年>か敗戦による新たな<戦後20年か>という対立があるとして両側の諸論者の文章を掲載したものの一つで、前者の論者は平川祐弘によると竹山道雄・林健太郎・江藤淳・林房雄、後者のそれは野間宏・遠山繁樹・小田実・加藤周一、のそれぞれ4名だ。作家・野間宏は少なくとも戦後の一時期は日本共産党員だった者、日本史学者・遠山茂樹は日本共産党だったと推測される者、あとの後者の二人は非日本共産党「左翼」だろう。そして、平川の言に俟つまでもなく、朝日新聞は後者の立場を支持することをを少なくとも示唆した特集だったと思われる。
 ところで、平川祐弘によると、同じ1965年に山田宗睦が「危険な思想家」というタイトルのカッパ・ブックスを出していて、上の前者の4名は山田のいう「危険な思想家」だったらしい。平川によればほかに安倍能成が明記されているが、三島由紀夫や石原慎太郎もまた当然に?「危険な思想家」だったようだ。平川によると、この山田の著に朝日新聞が「飛びつい」て、上に言及の特集になったらしい。
 この論争に立ち入るつもりはないが、上の両派?のいずれの立場が日本国家と日本国民にとって本当は「危険な」ものだったかは、今日ではほとんど明らかだと思われる。
 だが、60-80年代くらいまでかなり広く<保守・反動>という言葉でレッテリ貼りされた考え方・歴史の見方を今日でもやはり「危険」と感じている者は今日でも少なくないし、憲法学界では前回に言及した某憲法学者も含めて圧倒的多数派を占めているという印象がある。
 「危険な」の反対は「安全な」だが、いわゆる<進歩>派あるいは「左翼」こそが、憲法学界では「安全な」立場・立ち位置なのだ。したがって、学界や各大学・各学部の多数派=「安全な」立場に属していることが、就職・昇格やその他の人間関係上<有利>であると感覚的に判断する者は、深く考えることなく、無自覚に「左翼」になってしまう憲法学者も出てくることになる(別に憲法分野に限りはしないが)。あるいはまた、<右・左>、<保守・左翼>のいずれかの立場を鮮明にしない方が「安全」だと感じる大学や学部にいる間は<温和しく>しているが、「左翼」性を明確にしても「安全」だと感じる大学・学部に移れば、例えば平気で「九条(2項)を考える会」に属して報告をしたり、特定秘密保護法や集団的自衛権容認に反対する声明に堂々と名を連ねたりすることになる。
 ・憲法学界を例にしての以上のことが決して的外れではないことは、月刊WiLL1月号(ワック)冒頭の座談会で、政治学の中西輝政が語っていることでも明らかだろう。<保守派>であることは大学院生がどこかの大学に就職する(採用される)ために不利だったことは指導教師だった高坂正堯の言葉を紹介しながら中西輝政がすでに述べていた(この欄でも触れた)。
 上の座談会の中で中西輝政は、「いまでも特殊な知識人の世界」では「朝日的であること」が「知的権威そのもの」だ、「朝日に対する信仰」は「いまでもテレビ界の報道関係では、NHKも含め…根強く残っていて、一般の社会と大きくズレている」と述べたりしつつ(p.37)、つぎのようにも語っている。
 「学会ではいままでずっと地雷原を歩いているようなものでした(笑)」。大学では「最も大変な時期は、校門をくぐった瞬間から一瞬たりとも警戒心を解くことができ」なかった。メディアで「靖国参拝に賛成」と言ったら「授業を暴力で潰しに来かねない状況で、教員たちも露骨に反発して私一人、全く孤立無援」だった。大学の校門を出た方が安全で、「むしろ大学に入ると『学問の自由』は保障されてい」なかった。
 学生の反応はともかくとしても、「教員仲間」から「そもそも中西さんの言動に問題がある」として「取り合ってもらえなかった」(以上、p.40)という、学部または教員たちの雰囲気に関する発言の方が重要だし、興味深い。
 もっとも、具体的にいかなる時期のどの大学(京都大学?)のことを述べているのかは明確ではない。余計ながら、中西輝政が退職した大学・学部には佐伯啓思も同僚としていたはずだ。
 上の最後の些細な点は別として、「学問の自由」といいながら、人文・社会系の大学に所属する研究者たちは、テーマ設定や研究内容について、本当に自分の頭で「自由」に考え、結論を出しているのだろうか、という疑問をあらためてもたざるをえない。それは「靖国参拝」や「慰安婦」についての彼らの意見や認識についても言える。それぞれの学界・学会の<空気>を読みながら、「黒い羊」と目されないように、多数派に属するように、あるいは「安全」であるように、取捨選択しているのではあるまいか。無意識にそのように行動させるシステムができ上がっているとすれば、もはや大学でも「学問」でも「自由な」研究者でもないだろう。ややテーマがそれたかもしれない。

1258/月刊正論を最近は毎号きちんと読んでいる。

 ・前編集長時代とは異なり、交替後の月刊正論(産経新聞社)は「メディア裏通信簿」も含めて、なかなか面白い。何よりも、くだらない、又は反発を覚えるような論考や記事がほとんどなくなった。
 とは言っても、なぜか、日本共産党、社民党、生活の党(小澤一郎は見事に?変身した)という「左翼」政党、とりわけ日本共産党の現状の紹介や批判的検討が全くと言ってよいほどないことは相変わらずで、中国(中国共産党)を熱心にかつ批判的に分析しても、なぜ日本の月刊雑誌は日本の「共産党」を、あるいは日本のコミュニズムを正面から扱わないのだろうというもどかしさは依然として残る。
 ・月刊正論1月号もおそらく90%以上読み終えた。最近と同様に、かつてほどに逐一言及する余裕はない。
 門田隆将の文章も小浜逸郎(この人は一時期は信用していなかったのだが)の文章も、印象に残ったが、平川祐弘が紹介している、竹山道雄の、朝日新聞1965.04.05号の文章の一部が目を惹いた。
 「私には戦後の進歩主義がほんものの平和と民主主義であるとは思われない。それはむしろ、人々の平和と民主主義をねがう気持ちにつけこんで、別なものが進歩主義を利用して浸透する手段としたのだった」。(p.347)
 ビルマの竪琴という小説の作家としてしかほとんど知らない竹山道雄だが(もっとも、同・昭和の精神史は所持していていずれ読みたいと思っているし、著作集も半分以上所持している)、60歳をすぎた時期に朝日新聞紙上でこんな文章等でもって論争しているとは、相当な人物だったに違いない。
 「人々の平和と民主主義をねがう気持ちにつけこんで、…進歩主義を利用して浸透する手段」としている「別なもの」は現在も厳然として存在するし、「別なもの」に「平和と民主主義をねがう気持ちにつけこ」まれていることを知らずに、戦争と<全体主義・ファシズム>の復活?を許さず「平和と民主主義」の理想を追求していると自らを評価しているものも厳然として多数存在している。
 すでに「別なもの」になっているのかどうかは知らないが、個人的に知る某憲法研究者は、<日本の自衛隊(軍事組織)は信用できない。正式に軍として認知すれば何をしでかすか分からない>という旨を<公言>していた。
 日本軍国主義=日本のかつての軍部は<悪>でありかつ<拙劣>であったので、そのDNAを継承している自衛隊、そして日本人そのものが<正規の軍として位置づけられるものを保持するとアブない>というわけだ。
 かかる戦後・占領期の<時代精神>を、日本の憲法学者の多くはなおも有し続けているのだろう。
 開いた口がふさがらないし、そのような感覚を平然と語るれっきとした<おとな>らしき人物などとは、もはやとっくに、「口をきく気にもなれなくなっている」のだが。
 

1252/朝日新聞を読むとバカになるのではなく「狂う」。

 一 桑原聡ではなく上島嘉郎が編集代表者である別冊正論Extra20(2013.12)は<NHKよ、そんなに日本が憎いのか>と背表紙にも大書する特集を組んでいた。月刊WiLL(ワック)の最新号・9月号の背表紙には<朝日を読むとバカになる>とかかれている。
 こうした、日本国内の「左翼」を批判する特集があるのはよいことだ。月刊正論にせよ、月刊Willにせよ、国内「左翼」批判よりも、中国や韓国を批判する特集を組むことが多かったように見えるからだ。中国や韓国なら安心して?批判できるが、国内「左翼」への批判は反論やクレームがありうるので産経新聞やワック(とくに月刊WiLLの花田紀凱)は中国・韓国批判よりもやや弱腰になっているのではないか、との印象もあるからだ。昔の月刊WiLLを見ていると、2005年11月号の総力特集は<朝日は腐っている!>で、2008年9月号のそれは<朝日新聞の大罪>なので、朝日新聞批判の特集を組んでいないわけではないが、しかし、中国等の特定の<外国>批判よりは取り上げ方が弱いという印象は否定できないように思われる。
 それに、「本丸」と言ってもよい日本共産党については批判的検討の対象とする特集など見たことがないようだ。日本共産党批判は、同党による執拗な反論・反批判や同党員も巻き込んだ<いやがらせ>的抗議を生じさせかねないこともあって、<天下の公党>の一つを取り上げにくいのかもしれない。しかし、中国共産党を問題にするならば、現在の中国共産党と日本共産党の関係はどうなっているのか、日本共産党は北朝鮮(・同労働党)をどう評価しているのかくらいはきちんと報道されてよいのではないか。しかるに、上記の月刊雑誌はもちろん、産経新聞や読売新聞でも十分には取り上げていないはずだ。
 特定の「外国」だけを批判していて、日本国内「左翼」を減少または弱体化できるはずがない。むろん報道機関、一般月刊雑誌の範疇にあるとの意識は日本共産党批判を躊躇させるのかもしれないが、1989年以降のソ連崩壊・解体によって、欧州の各国民には明瞭だった<コミュニズムの敗北>や<社会主義・共産主義の誤り>の現実的例証という指摘が日本ではきわめて少なく、その後も日本共産党がぬくぬくと生き続けているのも、非「左翼」的マスメディアの、明確にコミュニズムを敵視しない「優しい」姿勢と無関係ではないように見える。
 二 さて、<朝日を読むとバカになる>だろうが、「バカになる」だけならば、まだよい。あくまで例だが、月刊WiLL9月号の潮匡人論考のタイトルは「集団的自衛権、朝日の狂信的偏向」であり、月刊正論9月号の佐瀬昌盛の「朝日新聞、『自衛権』報道の惨状」と題する論考の中には、朝日新聞の集団的自衛権関係報道について「企画立案段階で本社編集陣そのものが狂っていた」のではないか、との文章もある。すなわち、「バカ」になるだけではなく、本当の狂人には失礼だが、朝日新聞は<狂って>おり、<朝日を読むと狂う>のだと思われる。昨年末の特定秘密保護法をめぐる報道の仕方、春以降の集団的自衛権に関する報道の仕方は、2007年の<消えた年金>報道を思い起こさせる、またはそれ以上の、反安倍晋三、安倍内閣打倒のための<狂い咲き>としか言いようがない。
 むろんいろいろな政治的主張・見解はあってよいのだが、種々指摘されているように、「集団的自衛権」の理解そのものを誤り、国連憲章にもとづく「集団(的)安全保障」の仕組みとの違いも理解していないようでは、不勉強というよりも、安倍内閣打倒のための意識的な「誤解」に他ならないと考えられる。
 一般読者または一般国民の理解が十分ではない、又はそもそも理解困難なテーマであることを利用して、誤ったイメージをバラまくことに朝日新聞は執心してきた。本当は読者・国民をバカにしているとも言えるのだが、集団的自衛権を認めると「戦争になる」?、「戦争に巻き込まれる」?、あるいは「徴兵制が採られる」?。これらこそ、マスコミの、国民をバカにし狂わせる「狂った」報道の仕方に他ならない。
 長谷部恭男が朝日新聞紙上でも述べたらしい、<立憲主義に反する>という批判も、意味がさっぱり分からない。長谷部論考を読んではいないのだが、立憲主義の基礎になる「憲法」規範の意味内容が明確ではないからこそ「解釈」が必要になるのであり、かつその解釈はいったん採用した特定の内容をいっさい変更してはいけない、というものではない。そもそも、1954年に設立された自衛隊を合憲視する政府解釈そのものも、現憲法施行時点の政府解釈とは異なるものだった。「解釈改憲」として批判するなら、月刊正論9月号の中西輝政論考も指摘しているように、多くの「左翼」が理解しているはずの「自衛隊」は違憲という主張を、一貫して展開すべきなのだ。
 安倍首相が一度言っているのをテレビで観たが、行政権は「行政」を実施するために必要な「憲法解釈」をする権利があるし、義務もある(内閣のそれを補助することを任務の一つとするのが内閣法制局だ)、むろん、憲法上、「行政権」の憲法解釈よりも「司法権」の憲法解釈が優先するが、最高裁を頂点とする「司法権」が示す憲法解釈に違反していなければ、あるいはそれが欠如していれば、何らかの憲法解釈をするのは「行政権」の責務であり義務でもあるだろう。
 1981年の政府解釈が「慣行」として通用してきたにもかかわらず、それを変更するのが立憲主義違反だというのだろうか。一般論としては、かつての解釈が誤っていれば、あるいは国際政治状況の変化等があれば、「変更」もありうる。最高裁の長く通用した「判例」もまた永遠に絶対的なものではなく、大法廷による変更はありうるし、実際にもなされている。それにもともと、1981年の政府解釈(国会答弁書)自体がそれまでの政府解釈を変更したものだったにもかかわらず、朝日新聞はこの点におそらくまったく触れていない。
 三 そもそも論をすれば、「戦争になる」、「戦争に巻き込まれる」、「徴兵制が採られる」あるいは安倍内閣に対する「戦争準備内閣」という<煽動>そのものが、じつは奇妙なのだ。日本国民の、先の大戦経験と伝承により生じた素朴な<反戦争>意識・心情を利用した<デマゴギー>に他ならないと思われる。
 なぜなら、一般論として「戦争」=悪とは言えないからだ。<侵略>戦争を起こされて、つまりは日本の国家と国民の「安全」が危殆な瀕しているという場合に、<自衛戦争>をすることは正当なことで、あるいは抽象的には国民に対する国家の義務とても言えることで、決して「悪」ではない。宮崎哲弥がしばしば指摘しているように<正しい戦争>はあるし、樋口陽一も言うように、結局は<正しい戦争>の可能性を承認するかが分岐点になるのだ。むろん現九条⒉項の存在を考えると、自衛「戦争」ではなく、「軍その他の戦力」ではない実力組織としての自衛隊による「自衛」のための実力措置になるのかもしれないが。
 朝日新聞やその他の「左翼」論者の顕著な特徴は、「軍国主義」国家に他ならない中国や北朝鮮が近くに存在する、そして日本と日本国民の「安全」が脅かされる現実的可能性があるという「現実」に触れないこと、見ようとしないことだ、それが親コミュニズムによるのだとすれば、コミュニズム(社会主義・共産主義)はやはり、人間を<狂わせる>。
 四 率直に言って、「狂」の者とまともな会話・議論が成り立つはずがない。政府は国民の理解が十分になるよう努力しているかという世論調査をして消極的な回答が多いとの報道をしつつ、じつは国民の正確な理解を助ける報道をしていないのが、朝日新聞等であり、NHKだ。表向きは丁重に扱いつつ、実際には「狂」の者の言い分など徹底的に無視する、内心ではそのくらいの姿勢で、安倍内閣は朝日新聞らに対処すべきだろう。
 朝日新聞が「狂」の集団であることは、今月に入ってからの自らの<従軍慰安婦問題検証>報道でも明らかになっている。

1248/オリンピックを<ナショナリズム発揚>と忌避する「左翼」。

 月刊正論(産経新聞社)は編集長・編集部が変わってかなりマシになってきたようだ。
 部員として安藤慶太・上島嘉郎という、信用の措けそうなベテランが入っていることも大きいのかもしれない。
 そろそろ数ヶ月遅れて中古本を読むのはやめようか、という気にもなってきた。
 月刊正論7月号で目に付くのは、元週刊朝日編集長・川村二郎の朝日への「決別」文だ。だが、読んで見るとほとんど朝日新聞社グループ内のもめ事の程度のようだ。すなわち、川村二郎は、朝日新聞社の「左翼」性あるいは「容共」性を日本国家・日本国民の立場から批判しているのでは全くない。せいぜいのところ、論説委員等の文章力への嘆きとか自分に対する処遇のうらみごと程度では、まったく迫力がない。
 それよりも、朝日新聞を毎日読むという精神衛生に良くない習慣のないところ、朝日新聞の昨年10/13付けの曽我豪(当時、政治部長)のコラムが一部引用されていて。その内容に興味を持った。川村によると、2020年東京五輪について曽我はこう書いた、という。
 「国民の和合の礎となる」よう「昇華していけるのか、国威発揚の道具に偏して無用な対立や混沌を生むのか」、これがこの7年の「日本の政治の課題なのだろう」。
 川村の批判に含まれているかもしれないように、二つの選択肢を挙げて、どちらを主張することもなく、「日本の政治の課題」だと言うのは、日本語文としても厳密には奇妙だ。「無用な対立や混沌」なるものの意味もよく分からない。
 そのことよりも、朝日新聞の政治部長がオリンピックについて「国威発揚の道具に偏して無用な対立や混沌を生む」可能性に言及していることが興味深い。明確に書くことなく(例のごとく?)曖昧にはしているが、オリンピックを「国威発揚の道具」に少なくともなりうるものとして批判的に捉える、という朝日新聞らしい感覚が見てとれる。
 オリンピックは、あるいはサッカー・ワールドカップは、客観的には「国威発揚」の場となり、国民「統合」の方向に働くことは否定できないと思われる。いちいち述べないが、やはりかなりの程度は、オリンピックでの成績(メダル数等)は<国力>に比例していることを否定できないと思われる。スポーツをできる余裕のある国民の数やスポーツに財政的にも援助できる金額等々は、国(国家)によって異なり、<格差>のあることはほとんど歴然としていると思われる。
 だが、そのことをもって「国威発揚の道具」視するのは、何についても平等でなければならず、<競争>の嫌いな、従ってまた<国家間の競争>についても批判的・諧謔的に捉えようとする「左翼」のイデオロギーに毒されている、と感じざるをえない。
 国家間の武力衝突・戦争に比べれば、平和的でルールに則った、可愛い「競争」ではないか。
 だが、「日本」代表とかいうように、個別「国家」を意識させざるをえないことが、朝日新聞的「左翼」には不快であるに違いない。
 先日言及した、<共産主義への憧れをやはり持っている>と吐露した人物は、<国威発揚の場となるようなオリンピックはやらない方がよい>と言い切った。あとで、オリンピック一般ではなく「国威発揚のために使われる」それに反対だと言い直していたのだが、趣旨はほとんど変わらないだろう。上述のように、客観的に見て、オリンピック等の「国家」を背負ったスボーツ大会は「国威発揚の場」にもならざるをえないからだ。
 何年かに一度、「日本」代表選手又は選手団の勝敗や成績に関心をもち、応援して一喜一憂する国民が多くいることは悪いことではないと思う。
 「地球」や「世界」ではなく個別の「国家」を意識させざるをえないオリンピック等に朝日新聞的「左翼」はもともと警戒的なのだ。彼ら「左翼」は、むろん日本国民の中にもいる「左翼」は、サッカー・ワールドカップのパプリック・ビューイングとやらに何万人、何千人もの人々が集まることに批判的、警戒的であるかもしれず、あるいは<ナショナリズムを煽られた>現象だと理解するのかもしれない。
 だが、そのように感じる意識こそが、どこか<倒錯>しているのだ。「国家」を意識したくなく、(本来のコミュニストはそうだが)「国家」を否定したい、というのは<異常な>感覚なのだ。「日本」代表を応援するのが<ナショナリズム>だとすれば、それは何ら批判されるものではないし、批判的に見る<反・ナショナリズム>の方がフツーではない。しかし、一部にはそういう者もいて、<大衆は…>などと批判していそうなのだから、異様で、怖ろしい。

1239/朝日新聞による「倒閣」運動としての特定秘密保護法反対キャンペーン。

 〇「政治結社」朝日新聞のヒドさは何度も書いたことで、それは、そもそもこのブログサイト開設の動機の重要な一つだった。
 月刊WiLL2月号(ワック)の山際澄夫「『秘密保護法反対』朝日のデマ報道」は近時の朝日新聞(正確には朝日新聞「等」)の「デマ報道」ぶりを社説等(大野博人の論説を含む)を引用しつつ具体的に指摘しており、資料的価値も高い。いくつか、紹介またはコメントする。
 ・山際も書くように、「一般人が特定秘密であることを知らないで情報を受け取っても処罰されることはない。暴行、脅迫。不法侵入、有線傍受などによって特定秘密を不正に取得した場合に限り、罪になる」(p.248)。しかるに、山際に依拠しておけば、朝日新聞10/26社説は「国民の知る権利」・「報道の自由」を制約し「その影響は市民社会にも広く及ぶ」と、同11/08社説は米軍基地・原発等の情報を得ようと「誰かと話し合っただけでも、一般市民が処罰されかねない」と書いた。
 処罰対象に「特定秘密」を知る(政府から業務委託を受けた会社従業員等の)民間人や上記のような態様でそれを不正に取得した民間人が含まれるのは確かだが、朝日新聞が書くように「影響は市民社会にも広く及ぶ」ことはないし、特定秘密に関心をもった「一般市民」がそれだけで刑罰を課されることはない。
 上のような朝日新聞社説は、意見・主張ではなく「デマ」の撒き散らしに他ならない。
 ・この欄でも既に書いたが、民主党政権時代の尖閣中国船衝突事件のビデオの「公開」に関する意見・姿勢と今次の朝日新聞のそれはまるっきり違う。山際が見出しとするように、「朝日、いつもの二重基準(ダブルスタンダード)」なのだ(p.248)。
 ・朝日新聞12/07社説は(私もデータ保存している可能性があるが山際に従って書くと)、12/06に成立した特定秘密保護法をかつてのドイツの全権委任法や日本の国家総動員法になぞらえ、この法律によって日本が「戦前」に戻るかのごとき主張をしている。
 また、朝日12/08の「天声人語」いわく-「国の行く末がどうなるか、考えるよすがもないまま戦争に駆り立てられる。何の心当たりもないまま罪をでっち上げられる。戦前の日本に逆戻りすることはないか」。これまた、「デマ」の撒き散らしだ。そして、悪質の<被害妄想>症に罹患している。あるいは、このような<被害妄想>をかりに一部でも本当に持っているとすれば、それだけの<やましさ>を朝日新聞が感じているのではないか、と推測することもできる。
 朝日新聞は日本の防衛・安全保障等に関する情報(特定秘密)を取得して、日本のそれらを害するように報道して「公開」したい、そして積極的にか結果としてか、「共産党」中国や北朝鮮に知らせたいのではなかろうか。いちおう疑問形で書いたが、<反日・売国>の政治結社・朝日新聞ならば、これらの疑いは肯定される可能性が十分にある。
 ・上のコラムはまた、この法律は日本版NSC設置と併せ、「その先」の武器輸出三原則の見直し・集団的自衛権行使容認という「安倍政権の野望」が成就すれば、「平和国家という戦後体制(レジーム)は終わる」と書いたようだ。
 「平和国家」なるものの厳密な意味を知りたいところだが、それはともかく、このような基本的な「思想・思考フレーム」は、戦前は悪、日本国憲法九条二項等をもつ「平和と民主主義」の戦後は善、その好ましい「戦後体制」を<保守・反動・好戦>勢力が終わらせ(そして悪しき戦前に逆戻りさせ)ようとしており、その先頭に安倍内閣・安倍晋三首相がいる、という、最近に紹介した刑事法学者・憲法学者等の声明等も抱いている、共通のものだろうと考えられる。
 いいかげんに覚醒せよ、と言いたい。そして、そのような「思想・思考フレーム」の種は元来はアメリカが作ったものであり、今日では客観的には「共産主義」中国の利益になる、あるいは中国共産党が喜ぶものであることを、知らなければならない。日本共産党(員)や朝日新聞社説子のごとき確信者または「嵌まった人々」以外のまだまっとうな「思想フレーム」に立ち戻ることのできる可能性がある人々はじっくりと、自らの現在の基礎的な<思想・思考フレーム>が適切なものであるかを疑ってみてほしいものだ。
 〇月刊WiLL同号の青山繁晴「『秘密保護法』全否定論に欺されるな」(p.76-)にも言及する予定だったが、割愛する。
 なお、青山繁晴が生出演してコメント等をする水曜日夕方の番組は毎回録画している。青山は、今年(2013年)の8月末にはその番組で、特定秘密保護法案の概要を紹介し、コメントしていた。8月末にすでに少なくとも自民党内において原案がほぼ確定していたのだとすると、10月末または11月初めに発売される月刊雑誌12月号において、スパイ防止法の機能もある程度はもちうるこの法律(案)の重要性・必要性について特集を組むか、そうでなくとも詳細な論考を掲載できたのではないか、と思われる。
 しかるに、10月末・11月初めに発売の月刊WiLLや月刊正論(産経新聞社)12月号は(そして翌月の1月号も)秘密保護法についてほとんど何も掲載しなかったのではないか。朝日新聞等による<大騒ぎ>を許し、安倍内閣の支持率を一時にせよ10%ほども減らした原因の一つは、<保守>メディア(および<保守>論者)のだらしなさにもある、と言ったら、言いすぎだろうか。

1226/月刊正論・桑原聡編集長等に対する批判的コメント一覧。

 桑原聡が月刊正論編集長になって半年も経っていないとき、民主党政権下の月刊正論2011年3月号で、桑原はこう書いていた。-「かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」。

 ということは現在の自民党も「多くを期待できない」のか。桑原聡という人は「政治感覚」がどこかおかしかったように感じる。
 上のことを以下で記した。

 ①2011.04.06

 「月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは。」

 ほかに、月刊正論の編集方針等について書いたものに以下がある。存外にたくさん、非生産的なことに時間を費やしてきた想いが生じ、あまり楽しくはないが。再度同旨のことを繰り返すのはやめにし、リストアップにとどめておくことにする。

 ②2012.04.06 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言1。」

 ③2012.04.09 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言2。」 

 ③2012.04.10 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言3。」

 ④2012.04.11 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言4。」 

 ⑤2012.04.13 「『B層』エセ哲学者・適菜収を重用する月刊正論(産経)。」

 ⑥2012.04.15  「『保守』は橋下徹に『喝采を浴びせ』たか?」

 ⑦2012.05.17  「月刊正論の愚-石原慎太郎を支持し、片や石原が支持する橋下徹を批判する。」

 ⑧2012.06.06 「月刊正論編集部の異常-監督・コ-チではなく『選手』としても登場する等。」

 ⑨2012.08.06 「憲法改正にむけて橋下徹は大切にしておくべきだ。」

 ⑩2012.08.21 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?①」

 ⑪2012.08.29 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?②」

 ⑫2012.09.03 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?③」

 ⑬2013.09.08 「適菜収が『大阪のアレ』と書くのを許す月刊正論(産経新聞社)」

 ⑭2013.10.04 「月刊正論(産経)・桑原聡は適菜収のいったい何を評価しているのか。」

 ⑮2013.10.13 「錯乱した適菜収は自民+維新による憲法改正に反対を明言し、『護憲』を主張する。」

1225/月刊正論(産経)の編集長が交代-桑原聡は退任。

 〇桑原聡が月刊正論(産経)の編集長になったのは、2010年12月号からだった。それから3年、古本で求めた月刊正論の11月号の末尾を見て、思わず心中で快哉を叫んだ。編集長執筆欄によると、桑原は「この号をもって編集長を退任」する。後任が川瀬弘至でなければ、安心して月刊正論の新刊本を毎月初めに購入できそうだ。

 この交代は桑原の何らかの「責任」が社内で問われたのではなく、定期の人事異動のようなものと思われる。だが、この3年間で、同じ保守派月刊雑誌・月刊WiLL(ワック)との比較において、月刊正論が販売部数=読者数で完全に負けるに至った。完全に、決定的に引き離されてしまった。正確な時期の記憶はないが、以下に紹介しておくようなコメントを書く前にすでに月刊正論の内容が何となく(違和感を感じる方向へと)変わったと感じたことがあった。その印象と桑原聡の「編集方針」は無関係ではないのではないか。

 〇桑原聡は同欄で、「保守のみなさん、…、内ゲバのような貶し合いは左翼にまかせ、おおらかに共闘していきましょうよ」、と書いている。

 この文章には甚だしい違和感を持つ。よくぞ言えたものだ、自分こそが「おおらかに共闘しよう」という姿勢でもって編集してきたのかどうかを、厳しく総括し、反省すべきだ、と感じる。
 この点の詳細は別の機会にもう一度書くだろう。きちんとした再確認を必要としない以下のことだけを、とりあえず書いておく。

 第一。私によれば、「反共」は「保守」であるための不可欠・重要な要素だ。八木秀次は橋下徹を「素朴な保守主義者」と評し、「保守」派であることをほとんど誰も疑わないだろう(但し天皇観を疑問視する者もいる)石原慎太郎は橋下徹とともに同じ政党の共同代表になっている。私の見るところでも、橋下徹は明白な「反共」主義者であり、明確に反日本共産党の立場でいる。だからこそ、二年前の大阪市長選において、日本共産党(大阪府委員会)は自党の候補を降ろしてまで、民主党・自民党(大阪市議団)等が推した当時の現役市長・平松某を支持し、その幹部は<反ファシズム統一戦線>だ、とまで言ったのだった。

 しかるに、桑原聡編集長の月刊正論は適菜収に「橋下徹は保守ではない」との巻頭論文を書かせ、自らは橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと思うと明言し、「日本を解体しよう」としているとまで明記した。かりに適菜収も桑原も「保守」だとして、このような編集方針および編集長自身の考え方自体が橋下徹との間での<保守の中での内ゲバ>そのものであり、あるいは少なくともそれを誘発したものであることは明らかだろう。何が「保守のみなさん、おおらかに共闘しましょうよ」だと言いたい。大笑いだ。

 しかも、適菜収は別の雑誌上で、安倍晋三を「バカ」呼ばわりしたうえで(橋下徹憎さのあまり?)自民党が日本維新の会と共闘するくらいなら憲法改正に反対すると明記したのだから、少なくとも憲法改正問題に関するかぎり、適菜収は日本共産党や朝日新聞と同じく「左翼」だ。桑原聡は自らは「保守」だと意識しているようだが、そのような適菜収を重用し続けたかぎりにおいて「左翼」に加担したことになるのではないか。

 桑原聡は「自信をもって」「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」と言える、とも同欄で書いている。瑣末な揚げ足取りのようだが、<天皇のもとでの共産制>を夢想し、構想した者は戦前にもいた。

 第二。正確な確認をしないまま記憶に頼って書き続けるが、桑原聡編集長時代の月刊正論は、「保守」であると考えてよいと思われる田中卓に対して罵詈雑言を浴びせる(と評してよい)論文を掲載している。そしてそれ以来、田中卓の弟子筋だとされている所功に対しても冷たく、所功を末尾近くの「読者欄」または「投稿欄」の書き手として(素っ気なく?)遇したことがあるが、所功の論文を掲載したことはないはずだ。
 所功は「左翼」だと位置づけているのならば理解できなくはない。だが、所功を「左翼」と評することはおそらく間違いなくできない。そうだとすれば、桑原聡編集長時代の月刊正論は、「保守」の中の対立の一方に立ち、まさしく<保守の中での内ゲバ>を展開したのではないか。

 編集部員の川瀬弘至は自らを「真正保守」と考えているようだが、読者への回答欄で「日本と日本人を間違った方向に導くと判断した時には、我々は異見を潰しにかかります」と書いたことがあった。かかる姿勢は傲慢であるとともに、<保守のおおらかな共闘>の精神とは真逆のものだと思われる。すなわち、いかに「保守」派の者の意見でも一定の場合には「潰しにかかる」という意味を含む意気込みを示しており、<保守のおおらかな共闘>などは考えていない書きぶりだ、と感じる。そして、桑原聡編集長はこの川瀬の文章を何ら修正することなく掲載させたと見られる。

 何が「保守のみなさん、おおらかに共闘しましょうよ」だ。自らの編集方針・編集意図を冷静に振り返っていただきたい。

 〇「保守」の「おおらかな共闘」は私も強く望むところだ。しかし、桑原聡編集長時代の月刊正論こそが、これに反する編集方針・記事の構成をしていたことは、以上の二点の他にもあったと感じている。再確認のうえで、別に機会をもちたい。

1223/西尾幹二・憂国のリアリズム(2013)を全読了。

 西尾幹二・憂国のリアリズム(ビジネス社、2013)を、10/12~10/13に、数回に分けながら、すべて読んだ。

 〇最終章(第五章「実存と永遠」)の最後の節のタイトルは「宗教とは何か」。

 その中で自然科学者や社会科学者は「実在」を対象としていて、「自己」をとくに問題にしない、一方、人文科学はそうはいかない、と書いているのは興味深い。たしかに、経済・政治・法等を対象とする学部・学科に所属するまたは出身の「評論家」・論者に較べて、西尾幹二の文章には「自己」というものが相対的には色濃く現れているように感じるからだ。
 西尾は続けて、歴史学に言及し、歴史研究の認識対象たる「実在」は「過去」だが、「歴史は記述されて初めて歴史になる」、記述には過去の「特定の事実の選択」が先行し、この選択には記述者の「評価」が伴う、歴史研究の対象たる「客観世界」は「自己」が動くことによって「そのつど違って見える」、というようなことを書いている(p.321)。
 そのとおりだろう、と思われる。但し、瑣末で余計なことだが、歴史学は現在の大学での学部・学科編成とは異なり、元来は「社会」系の学問分野ではないか、と感じている。そして、おそらくは西尾の論述の仕方とは逆に、「社会科学」なるものも厳密には「自己」なるものの立場を抜きにしては語られえないのではないか、とも感じている。

 さて、西尾幹二は「宗教」を、「過去」なる具体的・有限の「実在」を前提としたりするのではなく、「何もない世界、死と虚無を『実在』とする心の働き」だと、ひとまず定義している。ここに学問と宗教の違いがある、ということだろうか。そしてまた、「何もない世界、死と虚無を『実在』とする」のは「途方もないこと」で、「死ではなく永遠の生、虚無ではなく永遠の実存を信じ」る多くの宗教組織・教団類があるが、「どれか一つの宗派の選択だけが正道である」とする強靱さを自分は持てない、「特定の宗教に心を追い込むことがどうしてもできない」と西尾が告白?しているのも(p.322-4)、興味深い。

 最も最後の段落の文章は、なかなか難解だ。-学問と宗教は相反概念だが、明治以来日本人は欧州から「近代の学問の観念を受け入れ、死と虚無を『実在』として生きているのが現実であるにもかかわらず、このニヒリズムの自覚に背を向け、誤魔化しつづけて生きている。そのため宗教とは何かを問われたり問うたりしたりして平然と『自己』を疑わないでいるのである」(p.325)。

 〇ところで、この著書は西尾幹二の2010年~2013年6月に諸雑誌に発表した論考をまとめたものだ。五つの章に分類されてはいるが、数えてみると全部で26本の論考から成り立っている。
 どの雑誌に発表されたものかを「初出一覧」(p.330-)で見てみると。月刊WiLLまたは歴史通(いずれも、ワック)が計7で最も多く、ついで、言志(これは知らなかったのでネットで調べてみると、ブクログが発行所、編集長・水島総、編集者・井上敏治・小川寛大・古谷経衡)が5。第三位なのが月刊正論(産経新聞社)で3、続いてサピオ(小学館)と週刊新潮(新潮社)が各2ジャパニズム・週刊ポスト・テーミス等が各1、になっている。

 言志なる雑誌(メールマガジン?)に関心をもった。同時に、西尾幹二は現在は月刊正論(産経)に連載しているようだが、月刊WiLL+歴史通と言志で12/26を占めており、月刊正論掲載は3論考しかないので、とても<産経文化人>とはいえない、ということが明確になってもいる。産経新聞の「正論」執筆グループの一人でもないはずだ。些細なことかもしれないが、こんなことも興味深くはある。

 「産経」を批判または皮肉っている部分も数カ所あった。この本の内容についてはさらに言及する(今回に上で言及したのは最も非政治的な論考かもしれない)。

1218/月刊正論(産経)・桑原聡は適菜収のいったい何を評価しているのか。

 〇何度も書いたことだが、月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡は同2012年5月号の末尾の編集長欄とでもいえる「操舵室から」一頁の中で、「編集長個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う」、「橋下氏の目的は日本そのものを解体することにあるように感じるのだ。なぜ…特集を読み判断していただきたい」、とほとんど理由・論拠を示すこともなく明言した。
 以下はたぶんまだ触れていないと思うので、記録に残しておきたい。

 月刊正論の翌月号、つまり2012年6月号の「編集者へ/編集者から」の欄で内津幹人という人が、前号の「操舵室から」について、「民意」という語が8回、百文字に一回以上出てきた、「こういう書き方もあるのか、と学んだ」と皮肉っぽく記したのち、次のように感想を記した。
 「編集長個人の見解だが--これほど自信を感じさせる書き方はない。”個人”以外何百万人が異議を唱えても、俺は勝つ。/特集を読み判断していただきたい--と結ぶ。/編集長はいいなあ、と思う。よく、
男は一度は野球の監督をやりたい、というが、編集長と較べたら子どもの遊びだ」。

 どう読んでも、この文章は前号の桑原聡編集長の文章に対する<皮肉>であり、かつ隠してはいるがかなり批判的な感想の文章だ。

 これに対して、同号の「編集者から」は、上に引用した部分に言及せず、投書者(内津幹人)の後半の叙述の一部を採用して「新聞が橋下氏を取り上げなければ『大阪のバカ騒ぎは収まる』というご指摘はその通りですね。無視こそが最強の意思表示であることは分かりますが、それではメディアの責任は果たせないと思います。悩ましいところです」と書いている。これが全文で、上に引用した「編集長個人の見解だが」、「編集長はいいなあ、と思う」等を含む文章への反応は全くない。

 編集者は「編集者から」応えやすい部分のみを扱ったようで、<皮肉>まじりの部分には反応を避けているのだ。
 それとも批判的感想を含む「皮肉」であるということが、まったく理解できていないのだろうか。そうだとすれば、月刊正論編集者は日本語文章の意味・含意を理解できない、きわめて低能力の「編集者」だろう。

 〇上記の月刊正論2012年5月号は適菜収「理念なきB層政治家…橋下徹は保守ではない」を大阪維新の会特集の最初に置き、かつ雑誌表紙に最も大きい文字でそのタイトルを表示していたのだが、相変わらず、月刊正論は適菜収を重用しているようだ。
 月刊正論2013年8月号では「正論壁新聞」執筆者4人の1人として登場し(最近の他号でもそうかもしれない)、内容のきわめて空虚な文章で1頁余りを埋めたあとで、橋下徹慰安婦発言に言及したあと、次のように断じる。
 「橋下の……を見れば、反日活動家であることは明白である。/不思議なことに、こうした人間を支持する『保守』というのが巷には存在するらしい。これも…語義矛盾ではないか」(p.47)。

 月刊正論という産経新聞社発行の「保守系」雑誌の冒頭近くに適菜収が出てくること自体が奇妙なのだが、上の文章も不思議だ。
 橋下徹に批判的な佐伯啓思らもいるが、橋下徹を支持しているまたは彼に好意的であることを明らかにしている人物に、佐々敦行、加地伸行、西尾幹二、津川雅彦らがいる。また、産経新聞社から個人全集を発行しかつ同新聞紙上に連載欄も持っている石原慎太郎は同じ政党の共同代表だ。

 なお、①中島岳志は憲法改正に反対し、週刊金曜日の編集者の一人でもあるという「左翼」または「かくれ左翼」なので、中島が橋下を「保守ではない」と批判したところで、何の意味もない。

 ②安倍晋三は首相になる前も後も橋下徹と個人的に会話等をしているようだ。政治家どうしだから単純に支持か反対かを分けられないが、安倍晋三は橋下徹を「敵」と見ていないことは間違いないだろう。
 さて、適菜収によれば、石原慎太郎、佐々敦行、加地伸行、西尾幹二、津川雅彦らは、かつ場合によっては安倍晋三も、「不思議」な「保守」らしい。そのように感じること自体が、自らが歪んでいることの証左だとは自覚できないのだろう、気の毒に。

 適菜は、月刊正論誌上でこれから毎号、上記のような人物を批判して「改心」させる文章を書き続けたらどうか。
 〇元に戻ることになるが、上記の月刊正論2012年6月号の「編集者へ」の投稿者(内津幹人)は次のようにも書いていた。

 「執筆者たちは、どんなに偉そうに書くときも、チラッと操舵室が浮かぶだろう。そりゃそうだ。原稿料は生活の糧だ。ボクはどの人を読んでも、操舵室が浮かんだ文字をみつけるのが好きだ。編集長がいなければ、こう書きたいのだろうな、と」。

 この投稿者はかなりの書き手であると見える。この文章は、編集者(・編集長)の顔色をうかがいながら、「生活の糧」である「原稿料」を稼ぐために、編集者(・編集長)の意向に添った文章を書かざるをえない雑誌原稿執筆者の性(さが)または苦労を指摘している。

 適菜収は、週刊新潮上では「保守系」論壇雑誌を批判している文章を書いていることはこの欄でたぶん先月に触れた。適菜は、月刊正論に書かせてもらうときは、編集長・桑原聡の顔色(・意向)をうかがいながら原稿を執筆しているに違いない。
 適菜収は「哲学者」という肩書きしかない。大学や研究所等からの給与はなさそうだ。日本の大学は信頼できないが、まともな研究論文が書けて、ある程度の研究業績があれば、日本の大学の教員の職を見つけることは決して困難ではないだろう。おそらく適菜にはそのような研究業績がなく、当然に博士号すら持っていないのだろうと思われる。

 日本の大学も博士号も決して信頼できるものではなく、アカデミズムの世界以外で大学研究者以上の仕事をした人もあるだろうが(小室直樹ら)、適菜収にはそれだけの実力がないことは、二頁を埋めるだけの内容と密度のある文章が書けていないことでも分かる。

 どのような背景・経歴の人物かよく知らないが、あまり大言壮語は吐かない方がよい。もちろん、そのような人物を重用する月刊正論編集部もおかしい。とても40周年とやらを祝う気になれないし、最新号を購入する気もないのである。

1204/適菜収が「大阪のアレ」と書くのを許す月刊正論(産経新聞社)。

 〇適菜収をいつぞや「C層哲学者」と書いた。それは、適菜がよく使う「B層」よりも下、低劣という趣旨だったのだが、週刊新潮8/15・22号(新潮社)の適菜の文章によると、「B層」とは近代的価値に肯定的(構造改革に肯定的)・IQは低い、「C層」とは近代的価値に否定的(構造改革に否定的)でIQは高い、のだそうだ。そして、「C層」とは簡単には「真っ当な保守」である。という(p.47)。
 こういう意味であるとすれば、適菜収を「C層」哲学者と称するわけにはいかない。

 ところで適菜は、自らは上の意味での「C層」と自認している様子なのだが、「最近の保守系論壇誌は面白くない」と強調し、また、参院選自民党勝利を「保守」の勝利と称することを疑問視している。

 何が「真っ当な保守」なのか、むろん適菜は詳細に論じているわけではないし、そもそも適菜の理解が正しい保障はまったくない。

 はっきりしているのは、上の週刊新潮によるかぎり、現在の日本で<保守>といわれている論壇や人々とは適菜は距離を置いている、ということだ。

 〇だが、しかし、定期購読していないので真面目に読んでいないのだが、月刊正論(産経新聞社)の今年4月号あたりから、適菜収は、「正論壁新聞」という比較的に冒頭の欄で、田母神俊雄らとともに常連の執筆者になっている。

 適菜の議論の基調はだいたい決まっている。<大衆はバカだ>、<大衆迎合の政治家は危険だ>、…。

 最近の月刊正論10月号では適菜は「生理的に受け付けない」、「紋切り型」の文章やその書き手を批判する退屈な文章を書いているが、某評論家(おそらく屋山太郎)や「紋切り型ライター」を批判したあと、最後に次のように書く。

 「大阪のアレに倣って言えば、一度彼らを『グレートリセット』をしたらどうか?」(p.53)。

 「大阪のアレ」とは橋下徹のことだとは容易に分かる。
 〇さて、日本の代表的な、とは言わなくとも、<保守>系論壇誌としては著名な産経新聞社発行の月刊正論が、「大阪市長」または「日本維新の会代表」という名前を冠することもなく、それらがなくとも橋下徹という固有名詞を明示することもなく、「大阪のアレ」という表現で橋下徹を意味させる文章を掲載するのは、橋下に対してきわめて失礼であり、また読者に対しても品性を欠く印象を与えるものではないか。

 字数の制限によって「大阪のアレ」とせざるをえなかったわけではない(橋下徹の三文字の方が短い)。
 月刊正論の編集部の誰かはこの適菜の文章を事前に見たはずだが、「大阪のアレ」という言葉遣いに違和感を感じず、修正を求めることはしなかったと見える。
 雑誌原稿の文章ははむろん依頼した執筆者の言葉遣いが優先はされるだろうが、問題があると考える場合には編集者(編集部)として「要望」くらいのことはできるはずだ。

 もともと適菜収の文章は「生理的に受け付けない」ところがあり、<気味が悪い>のだが、上のような月刊正論編集部の対応も「気味が悪い」。<~のアレ>で済ますような言葉遣いを含む文章を、新聞でも週刊誌でもその他の雑誌でも見たことがない。

 〇もともと、月刊正論が適菜収をまるで自らの雑誌に親近的な論者として使っていること自体が異様だ(田母神俊雄らに失礼でもあろう)。だが、昨年に同誌・桑原聡編集長が適菜に「橋下徹は保守ではない」と大きく宣伝したタイトルの文章を書かせ、橋下徹は「きわめて危険な政治家」と編集長自体が編集後記の中で明記した。そのような考え方を、桑原聡と同誌編集部(産経新聞社員)は現在でも維持している、ということだろう

 最近に産経新聞内にあるように見られる、橋下徹に対するアレルギー・嫌悪感にこの欄で触れたが、その潜在的な背景の一つは、昨年の<橋下徹は保守ではない>という表紙上および雑誌の新聞広告の大きな見出しにあるのではないか

 このような効果を適菜論考がもたらしたとすれば、犯罪的にも、日本維新の会を妨害し、そして憲法改正を妨害している。

 〇適菜についていえば、彼は上記週刊誌上で「毎号同じような見出しが並び、同じような論者が同じようなテーマについて執筆」、「基本的には、中国や韓国、北朝鮮、朝日新聞はケシカランみたいな話」等と「最近の保守系論壇誌」を批判しているが、これによくあてはまるのは、月刊正論そのものだろう。

 月刊正論の特徴の一つは、<憲法改正>に関する特集をしないこと、少なくとも表紙の見出しを見るかぎりは、憲法改正を重視してはいないことだ。
 月刊正論編集部または桑原聡に尋ねたいものだ。
橋下徹を批判することと、憲法改正に向けて世論を活性化することと、いったいどちらが重要なのか。

 適菜収が週刊新潮に書いていることを全面的に支持するわけではむろんないが、月刊正論という雑誌は、少なくとも<保守>派の国民ならば誰でも読みたいと感じる「保守系論壇誌」になっているだろうか。

 金美齢が産経新聞について言った「深刻な『質の低下』」は月刊正論にも、そして同誌編集部にも言えそうに見える。

1191/憲法改正のために「歴史認識」問題を棚上げする勇気-中西輝政論考。

 昨日、中西輝政が<憲法改正(とくに9条2項)を最優先し、そのためには「歴史認識」問題を犠牲にしてもよい>、というきわめて重要な(そして私は賛同する)主張・提言をしていたと書いたが、雑誌数冊をめくっているうちに、この主張・提言のある文章を見つけた。
 月刊ボイス7月号(PHP)、中西「憲法改正で歴史問題を終結させよ-アジアの勢力均衡と平和を取り戻す最後の時が来た」だ。

 その末尾、p.57には-本来は前提的叙述にも言及しないと真意を的確には把握できないのだが、それには目を瞑ると-、こうある。
 「具体的には、いっさいの抵抗を排して憲法九条の改正に邁進することである。その手段として、九六条の改正に着手することも選択肢の一つであり、他方もし九条改正の妨げとなるならば、『歴史認識』問題をも当面、棚上げにする勇気をもたなければならない。」

 このあと続けて簡単に、「日本が九条改正を成就した日には、対日歴史圧力は劇的に低下するからである」という理由が書かれている。
 「歴史認識」問題について中国や韓国(そして米国?)に勝利してこそ憲法9条2項削除(「国防軍」の設置)も可能になるのではないかという意見の持ち主も多いかもしれない。
 しかし、中西輝政の結論的指摘は、私が感じていたことと紛れもなく一致している。中西と同じでではないだろうが、私が思い浮かべていたことは以下のようなことだった。
 国会(両議院)の発議要件がどうなろうと、有権者国民の「過半数」の支持がないと憲法改正は成就しない。しかして、産経新聞社の月刊正論をはじめとする(?)<保守派>が提起している「歴史認識」問題のすべて又はほとんどについて、国民の過半数が月刊正論等の<保守派>と同じ認識に立つことはありうるのだろうか。ありうるとしても、それはいつのことになるなのだろうか。
 田母神俊雄の<日本は侵略国家ではない>との主張・「歴史認識」が、問題になった当時、国民の過半数の支持を受けたとは言い難いだろう。当時の防衛大臣は現在の自民党幹事長・石波茂だったが、自民党の閣僚や国会議員すら明確に田母神を支持・擁護することが全くかほとんどなかったと記憶する。
 先の戦争にかかる基本的評価には分裂があり、2割ずつほどの明確に対立する層のほかに、6割ほどの国民は関心がないか、または歴史教科書で学んだ(人によっては「左翼」教師によって刷り込まれた)日本は悪いことをしたという<自虐>意識を「何となく」身につけている、と私には思える。
 昭和天皇も「不幸な」時代という言葉を使われた中で、さらには<村山談話>がまだ否定されていない中で、いくら産経新聞社や月刊正論が頑張ろうと、
国民の過半数が<日本は侵略国家ではない>という「歴史認識」に容易に達するだろうか。
 上は基本的な歴史問題だが、<南京大虐殺>にせよ<首切り競争>にせよ、あるいは<沖縄住民集団自決>にせよ、さらには<朝鮮併合(「植民地化」?)>問題にせよ、これらを含む具体的な「歴史認識」問題について、国民の過半数は<保守派>のそれを支持しているのだろうか、あるいは近い将来に支持するに至るのだろうか。

 朝日新聞、岩波書店、日本共産党等々の「左翼」の残存状況では、これは容易ではないだろうというのが、筆者の見通しだ。いつぞや書いたが、「seko」というハンドルネイムの女性らしき人物が「在日」と見られる人物に対して、「本当にすみませんでした」という謝りの言葉を発しているのを読んだことがある。産経新聞や月刊正論の影響力など全体からすれば<微々たる>ものだ、というくらいの厳しい見方をしておいた方がよいだろう。

 そうだとすると、憲法改正をするためには、日本はかつて<侵略>をした、<南京大虐殺>という悪いことをした、と(何となくであれ)考えている国民にも、憲法改正、とくに9条2項削除を支持してもらう必要があることになる。
 そういう観点からすると、<保守派>内部に、あるいは<非左翼>内部に対立・分裂を持ち込んでいては憲法改正が成就するはずはないのであり、「歴史認識」に違いはあっても、さらについでに言えば<女性宮家>問題を含む<皇室の将来のあり方>についての考えについて対立があっても、憲法改正という目標に向かっては、「団結」する必要があるのだ。「左翼」用語を使えば、いわば<憲法改正・統一戦線>を作らなければならない。
 日本共産党はずいぶんと前から「九条の会」を作り、又はそれに浸入して、憲法9条の改正にかかる「決戦」に備えている。実質的・機能的には日本共産党に呼応しているマスメディアも多い。
 そうした中では<保守派>にも「戦略・戦術」が必要なのであり、残念ながら「戦略・戦術」を考慮して出版し、そのための執筆者を探すというブレイン的な人物が岩波書店の周辺にはいそうな気がするのに対して、<保守派>の中の「戦略」家はきわめて乏しいのではないか。中西輝政は-安倍晋三と面と向かえる行動力も含めて-貴重な、「戦略」的発想のできる人物だと思われる。

 かつて皇室問題、より正確には雅子皇太子妃問題に関する中西輝政の発言を批判し、国家基本問題研究所の理事を辞めたらどうかと書いたこともあるのだが(なお、むろん私の書き込みなどとは無関係に、中西はのちに同理事でなくなっている)、中西は、相対的・総合的には、今日の日本では相当にレベルの高い<保守派>論客だと思われる。

1190/中西輝政の主張・見解は熟読されてよい。

 一 中西輝政の、自民党と日本維新の会の連携の必要を説いた文献(雑誌)は何だったかと探しているうちに、中西輝政の主張はたんなる両党の連携等というよりも、遠藤浩一の今年最初の<保守合同>論でもない、両党による<二大保守政党>成立への展望だったように思い出してきた。その場合、維新の会を自民党よりも<右>または<より保守的>と位置づけていたような気がする。
 また、同じ論文においてだったかは定かではないが、中西は、<憲法改正(とくに9条2項)を最優先し、そのためには「歴史認識」問題を犠牲にしてもよい>、というきわめて重要な(そして私は賛同する)主張・提言を行っていたことも思い出した。細部の内容に自信はないが、執筆者を間違えている筈はないと思っている。
 二 ところで、故三宅久之らが安倍晋三に対して自民党総裁選への立候補を勧めるために、そして激励するために安倍に文書を手渡しているシ-ンをテレビで何度か見たが、数少ないものの、三宅久之の隣に座っていたのは中西輝政であることが明確に分かる(視野のやや広い)撮り方をしたビデオを流していたテレビ番組もあった。
 京都大学を退職していたことと関係があるのかは知らないが、もっぱら「語る」または「書く」だけの、まだ京都大学教授である佐伯啓思と比べて(同じ研究科所属だったのに)、現実の政治へのかかわり方はずいぶんと違うものだ。
 そして、佐伯啓思よりもあるいは櫻井よしこ等よりも、政治的感覚が鋭いのは、あるいは大局的見地から適切な現実政治にかかわる戦略的思考をしているのは(そしてそれを文章化しているのは)、逐一この欄に書いてはいないが、中西輝政だろう、と判断している。
 このことを例証するためにも一で触れた内容の中西輝政論考を見つけ出さなければならず、その時点であらためて詳しく紹介しよう。以下は、探索過程でいくつかあらためて見た(すべて一度は読んだ)中西輝政の最近の論考だ。読書録のつもりで、列挙しておこう。
 A 月刊WiLL(ワック)
 ①「私が安倍総理に望むこと/『国家観の再生』を」(2013年1月号)

 ②「中国の奥の手は『敵国条項』」(2月号)

 B 歴史通(ワック)

 ③「中国という狂気」(2013年3月号)

 ④(阿比留瑠比との対談)「米中韓『歴史リンケ-ジ』の何故?」(7月号)

 C 月刊ボイス(PHP)

 ⑤「次期政権は大義の御旗を掲げよ」(2013年1月号)

 ⑥「憲法改正で歴史問題を終結させよ」(7月号)

 ⑦「中国は『革命と戦争』の世紀に入る」(8月号)

 D 月刊正論(産経新聞社)

 ⑧「現代『歴史戦争』のための安全保障」(2013年2月号)

 以上。

 産経新聞お気に入りの?櫻井よしこよりも、月刊正論で「大物扱い」の?遠藤浩一よりも(ついでに新潮45お気に入りの佐伯啓思よりも)、中西輝政諸論考の方が視野が広く、複眼的・総合的だ(かつ現実的だ)。そして上のように列挙してみると、中西は産経以外の媒体にむしろ多く執筆しているようだ。質量ともに中西に匹敵する仕事を依然として行っているのは、こちらは最近の月刊正論によく登場している(アメリカという国家の本質を探っている)西尾幹二くらいではあるまいか。

1189/櫻井よしこは民主党政権について当初は何と論評していたか。

 かつてのこの欄での記述の(各回のうちの)一部をそのまま再掲しておく。二つのいずれも、櫻井よしこに関するものだ。
 一 2010年5月14日

 「櫻井よしこは-この欄で既述だが-昨年の2009総選挙前の8/05の集会の最後に「民主党は…。国家とは何かをわきまえていません。自民党もわきまえていないが、より悪くない方を選ぶしかないのかもしれません」とだけ述べて断固として民主党(中心)政権の誕生を阻止するという気概を示さず、また、鳩山由紀夫内閣の誕生後も、「…鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」(産経新聞10/08付)と書いていた。文字通りには「期待と懸念」を半分ずつ持っている、と言っていたのだ!。
 鳩山由紀夫の月刊ヴォイス上の論考を読んでいたこともあって、私は民主党と鳩山由紀夫に対しては微塵も<幻想>を持たなかった、と言っておいてよい。<総合的によりましな>政党を選択して投票せざるをえず、民主党(中心)政権になれば決して良くはならない、ということは明らかだったように思えた。外交・安保はともあれ<政治手法>では良い面が…と夢想した屋山太郎のような愚者もいただろうが、基本的発想において<国家>意識のない、またはより正確には<反国家>意識を持っている首相に、内政面や<政治手法>面に期待する方がどうかしている。
 しかし、櫻井よしこは月刊WiLL6月号(ワック)p.44-45でなおもこう言っている。
 「自民党はなすすべきことをなし得ずに、何十年間も過ごしてきました。その結果、国家の基本というものが虫食い状態となり、あちこちに空洞が生じています。/そこに登場した民主党でしたが、期待の裏切り方は驚くばかりです」。
 前段はとりあえず問題にしない。後段で櫻井よしこは、何と、一般<日和見>・<流動>層でマスコミに煽られて民主党に投票した者の如く、民主党・鳩山政権に「期待」をしていたことを吐露し、明らかにしているのだ!
 何とまあ「驚くばかり」だ。これが、<保守系シンクタンク>とされる「国家基本問題研究所」の理事長が発言することなのか!? そのように「期待」してしまったことについて反省・自己批判の弁はどこにもない。」

 二 2010年12月31日 

 「「左翼」政権といえば、櫻井よしこは週刊新潮12/23号(新潮社)の連載コラムの中で、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」と書いている(p.138)。
 はて、櫻井よしこはいつから現在の民主党政権を「左翼政権」と性格づけるようになったのだろうか?

 この欄で言及してきたが、①櫻井よしこは週刊ダイヤモンド11/27号で「菅政権と谷垣自民党」は「同根同類」と書いた。

 自民党ではなくとも、少なくとも「谷垣自民党」は<左翼>だと理解しているのでないと、それと「同根同類」のはずの「いま堂々と日本に君臨する」菅政権を「左翼政権」とは称せないはずだ。では、はたしていかなる意味で、「谷垣自民党」は「左翼」なのか? 櫻井よしこはきちんと説明すべきだろう。
 ②昨年の総選挙の前の週刊ダイヤモンド(2009年)8/01号の連載コラムの冒頭で櫻井よしこは「8月30日の衆議院議員選挙で、民主党政権が誕生するだろう」とあっさり書いており、かつ、民主党批判、民主党に投票するなという呼びかけや民主党擁護のマスコミ批判の言葉は全くなかった。

 ③民主党・鳩山政権発足後の産経新聞10/08付で、櫻井よしこは、「鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」と書いた。「期待と懸念」を半分ずつ持っている、としか読めない。

 ④今年に入って、月刊WiLL6月号(ワック)で、櫻井よしこは、こう書いていた。-「「自民党はなすべきことをなし得ずに、何十年間も過ごしてきました。……そこに登場した民主党でしたが、期待の裏切り方は驚くばかりです」。期待を持っていたからこそ裏切られるのであり、櫻井よしこは、やはり民主党政権に「期待」を持っていたことを明らかにしているのだ。→ <略>

 それが半年ほどたっての、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」という櫻井よしこ自身の言葉は、上の①~④とどのように整合的なのだろうか。
 Aもともとは「左翼」政権でなかった(期待がもてた)が菅政権になってから(?)「左翼」になった。あるいは、Bもともと民主党政権は鳩山政権も含めて「左翼」政権だったが、本質を(迂闊にも?)見ぬけなかった。
 上のいずれかの可能性が、櫻井よしこにはある。私には、後者(B)ではないか、と思える。

 さて、櫻井よしこに2010年の「正論大賞」が付与されたのは、櫻井よしこの「ぶれない姿と切れ味鋭い論調が正論大賞にふさわしいと評価された」かららしい(月刊正論2月号p.140)。

 櫻井よしこは、「ぶれて」いないのか? あるいは、今頃になってようやく民主党政権の「左翼」性を明言するとは、政治思想的感覚がいささか鈍いか、いささか誤っているのではないか?」

 なお、屋山太郎については再掲しないでおく。この人物が靖国神社の総代会か崇敬奉賛会の役員に名を出している筈であるのは異様であると、靖国神社のためにも言っておきたい。

 以上は、先月の<民主党政権成立を許したことについての保守派の責任をきちんと総括すべきだ>旨のエントリーの続きの意味ももっている。

1187/憲法改正に向けて維新の会や橋下徹は大切にしておくべきだ。

 遠藤浩一月刊正論2月号(2013、産経新聞社)の「保守合同こそが救国への道」で、次のことを述べていた。

 戦後の日本政治は昭和24年のように保守合同によって局面を打開してきた。憲法改正のためにも、民主党に匹敵する議席を獲得した「日本維新の会との連携を緊密にする必要がある」。安倍首相が本気で<戦後レジ-ムからの脱却>を目指すのなら、「自公政権」ではなく、「あくまでも、より厚みのある本格的保守政権の確立をめざす」べきではないか(p.37-38)。

 みんなの党への言及はないようで、タイトルにいう「保守合同」とはまずは自民党と日本維新の会の「合同」を意味させていると読める。

 大阪の維新の会が太陽の党と合併したことについては批判もあったが、既述のように両党にとってよかったと思っている。合併=橋下徹と石原慎太郎の結合がなければ、衆院選54議席の獲得はなかった。この点を、ジャパニズム11号(2013.02、青林堂)の田口圭「日本維新の会/その歴史と未来を徹底分析」は次のように適確に指摘している。
 石原慎太郎の維新の会への合流という<正しい判断>は、たちあがれ日本→太陽の党の「いわゆる愛国保守系の落選議員を多数当選させた」ことによって証明された(p.97)。
 また、田口は触れていないが、日本維新の会が全国的に多地域から支持を受けて比例区票数では民主党をも上回ったのは、大阪中心の、橋下徹らだけの維新の会ではなしえなかったことだろう。

 上の点はさておき、参院選直前にも、日本維新の会支持を明確にしていたのが、撃論シリ-ズ・大手メディアが報じない参議院選挙の真相(2013.08、オ-クラ出版)の冒頭の無署名(編集部)「反日マスコミの自民・維新の会包囲網を打ち破れ」で、つぎのように書いている。
 「維新の会は、歴史、外交、安全保障において、明らかに自民党以上に正当な保守政党としての理念を表明している」。

 残念ながら数ヶ月前に読んだためか文献を確認できないが、中西輝政もまた、<リベラル系>をなお含んでいる自民党に比べて日本維新の会は<保守性>が高いという旨を書き、上記の遠藤浩一のごとく、とくに憲法改正向けての自民党と日本維新の会の協力・連携を期待する旨をこの数カ月以内にどこかで書いていた。
 このような意見もあり、上記撃論の冒頭は、「維新の拡大なくして憲法改正はありえない、この認識が現在の政治を取り巻くもっとも重要な鍵である。…参院選は、自民党の安定した勝利、そして維新の凋落ーせき止めること、この二点に懸かっている」とも書いていた。
 そしてまた、同文章は、「一部保守派」による橋下徹批判をたしなめてもいる(p.3)。
 完全・完璧な人間や政党は存在するはずがないのであり、何が相対的に最も重要な論点・争点なのかについての間違いのない判断を前提として、橋下徹についても日本維新の会についても論評される必要がある。重要な政治的課題が憲法とくに9条2項の改正であることはほとんど言うまでもないだう。そして、日本維新の会は(橋下徹個人のこれまでのいちいちの発言ではなく政党の政策表明に着目すれば)9条2項の改正を支持している。
 このような状況において関心を惹くのは、月刊正論も出版している産経新聞社の維新の会・橋下徹に対する「社論」ははたして一致しているのか、だ。
 何度か書いたが、何しろ産経新聞社発行の月刊正論とは、その昨2012年5月号において、編集長・桑原聡が「編集長個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う。…橋下氏の目的は日本そのものを解体することにあるように感じる」と、その「個人」による詳細な理由づけ・説明もないまま明記してしまっている雑誌だ(末尾、p.336)。そして、同号の表紙には、その編集者の見解に添ってだろう、C級哲学者・適菜収の論考タイトル、「理念なきB層政治家…橋下徹は『保守』ではない!」が一番目立つように大書されているのだ。そしてまた、月刊正論の公式ブログ内で「あなたの保守度」を点検などという読者に対する<上から目線>の設問を書いて遊んでいたりした編集部の川瀬弘至は、この適菜収論考を「とてもいい論文です」と好意的に評価してもいたのだ。
 産経新聞本紙が維新の会に対して少なくとも全面的に批判し敵対視しているというわけではないだろう。但し、少し怪しい記事もあるようだし、ネット上ではとくに関西発のニュ-ス・評価の発信の中に橋下徹や維新の会に対して厳しいまたは不要に批判的すぎると感じられるものもある。
 産経新聞社の維新の会・橋下徹に対する「社論」ははたして一致しているのか。少なくとも一部には、上記にいう「一部保守派」のごとき記事や論考もあるように感じられる。
 そして、そのような姿勢・「社論」では日本のためにならないだ
ろう。橋下徹に多少は?批判的なのが<真の保守>だ、などという勘違いはしない方がよい。
 桑原聡や川瀬弘至は見解を改めたのかどうか(後者は適菜に対してむしろ批判的になったのか)は知らない。たぶん明示的には何も書いていないだろう。
 その他の気になる「一部保守派」たちもいるので、さらに書き継ぐ必要があるようだ。
 なお、上記の撃論本で遠藤浩一は、「第三極の失速・減速」を理由として、先の「保守合同」論を改めている。この点も別の機会に扱う。

1184/久しぶりに月刊正論を読む-西尾幹二論考。

 産経新聞も月刊正論も定期購読しなくなって、かなり経過した。

 月刊正論8月号(産経新聞社)の西尾幹二「日本民族の偉大なる復興・上/安倍総理よ、我が国の歴史の自由を語れ」は、まったくかほとんどか、違和感なく読める。

 論旨の一部ではあるが、橋下徹のいわゆる慰安婦発言に対するコメントも-「旧日本軍だけを責めるのはおかしい、とくりかえし主張したことは正論で、良く言ってくれたと私は評価している。/ただ橋下氏は多くを喋り過ぎることに問題があった」等々-穏当またはおおむね公平な評価と批判だと思われる。

 西尾自身が自らの月刊WiLL6月号(ワック)上の論考に言及しているが、おそらく橋下徹はその西尾論考を読んでいただろう。記者の質問に対する咄嗟の応答の過程で西尾論考の基本的な内容も頭をよぎっていたのではないかと想像している。なお、質問をして橋下発言のきっかけを作ったのは朝日新聞の記者のようだ。「歴史認識」にかかわる質問をして十分な用意のないままでの<妄言>を引き出し、韓国政府・マスコミ等に批判させて日本国内で騒ぐ(そのために辞任した閣僚もこれまで何人もいた)、というのは、今回がそのまま該当するかは不明だが、朝日新聞がよくやってきた陰謀・策略的手口で、橋下徹もその他の「保守」政治家も<用心>するにこしたことはない。

 ところで、これまた西尾幹二の月刊正論論考の重要部分でないかもしれないが、そこで紹介されている渡辺淳一の週刊新潮上の連載随筆の一つ(橋下徹発言批判)には、それを読んでいなかったこともあり、あらためて驚愕した。この人物がこの随筆欄で50~60年代の「進歩的・左翼知識人」が言っていたような奇妙で単純なことを現在でも自信をもって書いているらしきことに驚きかつ呆れていたものだが、西尾はこう断じる-渡辺淳一は「日教組教育に刷り込まれた頭のままで成人して、以後人間と世界のことは新しく何も学ばずに成功し、太平楽を並べ、身すぎ世すぎができた幸福なご仁だ…」。
 西尾は「成功」と書いているが、けっこうな収入を得て有名にもなった、ということだけのことで、渡辺は日本国家・社会、日本人にとっては何事もなしてはいない人物にすぎないだろう。それはともかく、渡辺淳一、1933年生まれ。西尾幹二にも近いが、大江健三郎にも近い、私のいう、1930年代前半生まれの<特殊な世代>の一人だ。そして、西尾幹二の指摘する、「日教組教育」あるいはその基礎・背景にあるGHQまたはアメリカによる<自虐史観>教育を受け、成人後も、あるいは日本再独立後も、「人間と世界のことは新しく何も学ばずに」戦後の日本社会で生きてきた人間たちが、この世代には「塊」となってまだ残存している、と思われる。彼らは、いわゆる「団塊」世代よりもタチが悪い(大江のほかに同じく9条の会の樋口陽一や奥平康弘もこの世代だ)。
 大江、樋口、奥平あたりにはまだ「確信犯」的なところがあるだろうが、「新しく何も学ばずに」、現在で言えば、月刊WiLLや月刊正論「的」な論調があることやその正確な中身を知らず、そうした論調の一部を知るや<脊髄反射的>に、「保守・反動」だ、<偏っている>、と決めつけてしまう「単純・素朴な(バカの)」人たちがまだ多数いる。

 西尾幹二にはまだもっと活躍していていただく必要があるが、そういう人たちは、日本のためにも早く消え去っていただきたいものだ。

1153/西尾幹二が橋下徹について語る-月刊正論1月号。

 橋下徹を擁護する文章をこの欄に書いてはいるが、いつかも触れたように、この人物のすべてを、この人物の主張・言動のすべてを手放しで賞賛しているわけではない。
 ただ、橋下徹を「保守ではない」とか「ファシスト」・「ヒットラ-」だとか、あるいは佐伯啓思のごとくロベスピエール(の再来の懸念あり)>だとか、簡単または単純に決めつける論調が自称<保守派>の中にすらあることに強い危惧を覚えているのだ。
 佐伯啓思の名を先に挙げてしまったが、中島岳志-本質が「左翼」ならば当然だが-、適菜収、新保祐司、月刊正論編集長・桑原聡らがこれに該当する(藤井聡もこれらに近い)。
 月刊正論2013年1月号(産経)に、西尾幹二「救国政権誕生の条件と保守の宿命-危機克服のリ-ダ-に誰を選び、何を託すのか」がある。
 西尾論考全体の趣旨の方が重要だろうが、橋下徹への言及もあるので、ここでも触れておく。西尾が橋下徹に論及するのを読むのは初めてでもあるからだ。
 結論的に言って、西尾の橋下評は穏便で、無難なものだ。
 西尾幹二の橋下評は、「橋下氏は毀誉褒貶が激しいが、私は早くから好意を抱いてきた」から始まる(p.80)。続けて述べる-「言葉は激しく時に辛辣だが、意外に柔軟性がある。自分に対して謙虚なところもあって、彼からは決して傲慢なイメ-ジは受けないのである」。
 基本的に私と異ならない。はっきりと意見を述べることと、「ファシスト」・「独裁者」とはまるで異なる。そのような論評の仕方をする者またはグル-プの中に私は「左翼」を見い出してもきたのだ。
 西尾幹二が「都」は天皇のおられるところ一つで、「大阪都構想」はおかしいという点も同感できる。ただ、言葉遣いのレベルの問題で、東京都制のように政令指定都市ではない特別区をうちに含む大都市制度というイメ-ジで用いられている可能性はあるだろう。
 西尾幹二はまた、橋下に「地方」のイデオロギ-に「過度にこだわらないでほしい」と助言し、道州制には反対だと述べている。
 果たして橋下徹が<地方のイデオロギ->を持っているかは、とくに「イデオロギ-」という語が適切かは疑問で、コメントし難い。また、道州制の問題は種々の具体的制度設計にかかる議論が今後なされなければならない。「アメリカ式」の「州政府」を持つものに必ずなるのかは疑問だし、アメリカやドイツのように州憲法までもつ「道州」が日本で構想されているわけでもないだろう。
 「国家観の根幹がぼやけている危ういと思うこともある」、というコメントも理解できる範囲内だ。ついでながら、石原慎太郎・橋下徹らの日本維新の会は、できるだけ早く、制定を目指すという「自主憲法」の具体的内容を明らかにすべきだろう。
 西尾幹二の橋下徹への言及はつぎの文章で終わる。
 「どうかもっと勉強してほしい。若いのだから、歴史も法律も国際関係もいくら学んでも学び足りない謙虚さを一方ではもちつづけてもらいたい」。
 何と暖かい言葉だろう。40歳すぎそこそこの人間に過大な注文をつけるな、若造に高いレベルのものを要求した上で物足りないと言って批判・攻撃するな、というのは、単純で乱暴な橋下徹批判論に対して感じてきたことでもある。

 西尾幹二は安倍晋三、石原慎太郎についても興味深いコメントを明確にしている。紹介は省略して、今回はここまで。

1145/石原新党と橋下徹・維新の会-憲法「破棄」か否かで対立するな。

 1 石原慎太郎、都知事辞職、新党結成・代表就任・総選挙立候補を表明。
 これについての、みんなの党・渡辺某と比べて、維新の会の国会議員団代表・松野頼久の反応ないしコメントの方がよかった。自民党も含めて「近いうち」の衆議院選挙の結果はむろんまだ不明だが、連携・協力の余地は十分に残しておいた方がよい。
 2 石原慎太郎と橋下徹(・維新の会)との違いの一つは、現憲法の見方にあり、石原は憲法<破棄>論であるのに対して、橋下は<改正>論である、らしい。つまり、石原は、渡部昇一の影響を受けてか、現憲法を<無効>と考えているのに対して、橋下は<有効>であることを前提にしているようだ(彼らの発言を厳密にフォローすることを省略するので、<ようだ>と記しておく)。
 おそらくこの違いもあるのだろう、橋下徹は、代表を務める日本維新の会の「傘下」にあるはずの東京維新の会の東京都議会議員が「憲法破棄」・旧かな遣いの大日本帝国憲法復活の請願に賛成したことについて、大きく問題視はしないとしつつも、クレームをつけた、という(10/09。都議会全体としては請願を否決)。
 石原慎太郎が産経新聞紙上で述べていた「憲法破棄」論については、この欄で疑問視したので子細を反復しないが、橋下徹の「憲法改正」論の方が適切だ。現実性はないと思うが、かりに国会で「憲法破棄」決議をしたところで法的には無意味で、そのことによって大日本帝国憲法が復活するわけでもない。国会についてすらそうで、現憲法によってはじめて府県レベルでも設置することとされた住民公選議員により構成される都道府県議会が、橋下も言っていたように、現憲法「破棄」決議をする権限はなく、かりに決議または請願採択をしてもまったく無意味だ。
 3 上のことをとくに指摘しておきたいのではない。あとでも触れるかもしれないが、この問題は今日ではほとんど決着済みの、議論する必要がないと思われる論点だ。
 なぜあえてこの論点に触れているかというと、この問題についての石原新党と維新の会の違いが強調されまたはクローズアップされて、両党の連携に支障が生じることを、あるいは支障の程度が大きくなることを危惧しているからだ。
 安部晋三内閣時代に2007年に成立しのちに施行された憲法改正手続法=正確には「日本国憲法の改正手続に関する法律」は、名称どおり、現憲法の有効性を前提にして、同96条によるその「改正」のための国民投票等の手続を定めたものだ。自民党の第一次、第二次の新憲法案も<憲法改正案>であり、ずっと前の読売新聞案も同様だったかと記憶する。
 橋下徹は 「日本維新の会としての方針としては、憲法破棄という方針はとらない。あくまで改正手続きをとっていく。理論上は憲法破棄ということも成り立ちうるのかもしれないが、その後現実的に積み重ねられてきた事実をもとにすると、簡単に憲法について破棄、という方法はとれないのではないのか」と発言したらしい。この発言のとおり、「理論上は憲法破棄ということも成り立ちうるのかもしれない」とかりにしても、上のような法律が安部晋三の新憲法制定の意欲のもとに作られ、重要な「改正案」も発表されているのであり、石原慎太郎・石原新党は、政治的・現実的に判断し、<憲法破棄>論に拘泥すべきではない、だろう。実質的に日本国民による新憲法の制定がなされる方向で、両党(と自民党)は連携・協力すべきだ。
 4 上の論点についての見解の相違が<保守勢力の結集>を妨げるようなことがあってはならない。
 この点、産経新聞(社)はどういう立場を採っているのだろうか。
 上記のように維新の会・東京都議会議員団は旧かな遣いの憲法に戻したいようだが、この主張およびそのもととなった都民の請願が産経新聞「正論」欄に掲載された新保祐司のそれの影響を受けているとすると、新保祐司と産経新聞は、極論すれば<保守派>の中に分裂を持ち込むものだ。そして、国民の過半数の支持による新憲法制定を妨害する役割を客観的には果たすものだ。また、石原の<憲法破棄論>が渡部昇一らの<現憲法無効論>の影響を受けているか支えの一つになっているのだとすると、渡部昇一らの議論もまた、極論すれば<保守派>の中に分裂を持ち込むものだ。そして、国民の過半数の支持による新憲法制定を妨害する役割を客観的には果たすものだ。
 念のため確かめてみると、産経新聞社に置かれたという数名による委員会の議論について、同新聞は「新憲法起草」とか「国民の憲法」起草とかと見出しを立てていて、<改正>と明記していないようだ。つまり、<破棄>論に配慮したとも解釈できる言葉遣いを採用しているように見える。
 また、「産経新聞出版」ではなく産経新聞社発行の月刊雑誌・正論(編集長・桑原聡)の今年8月号p.232-は、渡部昇一と大原康男の「対論/改正か無効か~日本が『日本』であるための憲法論」を掲載して、「改正か無効か」が大きな論点であるかのごとくとりあげている。この問題に関心を持つことや月刊正論上で取り上げること自体を批判はしないが、このとり上げ方は、月刊正論、そして産経新聞が少なくとも<憲法無効・破棄論>を一顧だにしないという立場ではない、ということを示しているだろう。
 また、上の二人のうち大原は実質的には有効・改正論者だと読めるが、大原が渡部に敬意を表して遠慮しているせいか、法学に「素人」だと自認している渡部にしゃべらせ過ぎており(大原は京都大学法学部卒でもある)、<憲法無効・破棄論>の無意味さを明確にするものには(私には残念ながら)なっていない。
 こうしたことも併せ考えると、産経新聞社・月刊正論(編集長・桑原聡)は、石原・同新党と橋下・維新の会の協力・連携を阻害する役割を果たしている可能性、そして今後も果たす可能性があると危惧される。
 月刊正論の編集長・桑原聡は橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと判断しているので、上の両党の協力・連携が阻害されるのは、少なくとも桑原聡の意図には即しているのかもしれない
 だが、産経新聞も月刊正論も少なくとも強くは批判していない安部晋三・現自民党総裁は、憲法改正のためには橋下徹・維新の会と連携する必要がある、あるいはそういう時期が来る可能性がある、という旨を発言している。橋下徹が現憲法96条の要件緩和に賛成していることは周知のことだ。
 大局を見ない、または国民の過半数の支持という重要なハードルを考慮しない主張や議論は(旧仮名遣い復活論も含めて)、新憲法の制定に賛成する立場の新聞や雑誌からは排されるべきだ。 
 5 <憲法無効・破棄論>はむろん、自民党の立場でもないと考えられる。この論に固執することは、石原新党と自民党との対立も深めることとなり、<保守派の結集あるいは連携・協力>を妨げることとなるだろう。自民党全体を<リベラル>または「左翼」と考えるならば話は別だが。

 憲法「破棄」論に立ち、<旧かな遣い>の憲法に戻すべきだ、という見解こそが「真の保守」だ、などという大きな、かつ危険な勘違いをしてはいけない。
 なお、中島岳志のごとき、現憲法9条改正(2項削除・国防軍明記)反対論は、言うまでもなく「保守派」のそれではない。
 6 上の渡部・大原対論も含めて、産経新聞や月刊正論の記事・主張・議論に、この欄で最近はほとんど言及していない。だからといって、何の感想も持っていないわけではない。以上で書いたものの中には、その一部は含まれているだろう。

1141/月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切なのか③。

 月刊正論9月号(産経)の「編集者から」(p.327)の文章で驚いたのはつぎの言葉だ。
 一読者が「いたずらに異見を責めるのではなくて、国民の落着点を求め」る姿勢が大切ではないかと(前回に紹介にしたことを書いて)「編集者へ」述べたことに答えて、それが「必要な場合もあるでしょうが…」と述べているのは一般論としては誤っていないだろうが、問題は、それに続くつぎの文章だ。
 「それ〔異なる意見〕が日本と日本人を間違った方向に導くと判断した時には、我々は異見を潰しにかかります」。
 月刊正論編集部は「日本と日本人を間違った方向に導くと判断し時には」「潰しにかかる」、そういう編集方針を明らかにしたわけだ。
 善意に解釈して、その気分ないし意気込み?は理解できなくもないが、ただちに、次のような疑問が生じる。
 第一。「日本と日本人を間違った方向に導く」意見かどうかを判断するのは、明らかに月刊正論編集部(「我々」)だとされている。
 しかして、そもそも月刊正論編集部に、諸意見・考え方等々のいずれが「日本と日本人を間違った方向に導く」か否かを適切に判断する資格または能力があるのだろうか。
 主観的に、そのような気概?を持って何らかの「判断」をするのは結構だし、妨げることもできないだろうが、そもそもその「判断」が正しいまたは適切か否かの客観性は何ら保障されていない。
 奥付?によると月刊正論「編集部」には、「編集人」の桑原聡のほかに「小島新一・永井優子・川瀬弘至・上島嘉郎」の4名しかいない。政治・社会系の研究者・学者としても、政治・社会系評論家としても何らその地位を確立しているとは思えない、長の桑原を含めてこれら5名に、「日本と日本人を間違った方向に導く」か否かの判断を、読者は委ねることができるだろうか。一般論として、とても不可能だ、と考えられる。
 「我々」が「日本と日本人を間違った方向に導くと判断した時には」、という書き方は、まるで「我々」がその判断を客観的ないし的確に行うことができるということを前提にしているごとくで、誤っている可能性がきわめて高く、ひどく<傲慢>だ。
 読者は、「日本と日本人を間違った方向に導く」意見・考え方か否かの判断を、上の5名が客観的にかつ適切になしうるとは考えていないし、期待もしていないだろう。
 そもそも月間
発行部数2万程度の雑誌の、たった5名の「編集者」にそのようなことができるわけがない、と考える方が常識的だ。
 百歩譲って、編集者としての気分・気概を宣明しただけだ、と理解するとしても、そのような気分・気概は、ある意味では、すべての政治・社会系雑誌の編集者が持っていても不思議ではないもので、わざわざ文章にし、活字にしておくような類のものではない。
 あえて上のようなことを活字にしていること自体が、やはりどこかおかしい、と感じざるをえない。
 第二。「日本と日本人を間違った方向に導く」意見・考え方を「我々」は「潰しにかか」る、という。
 その前提的判断の客観性・適切性に疑問がありうることは上に記したが、そのような前提的判断に立っての、上のような「異見」は「潰しにかかります」、という表現は尋常ではない。
 具体的には、そのような「異見」は掲載せず(執筆を依頼せず)、それを批判・攻撃する論考のみを掲載していく、という編集方針を宣言していることになるのだろう。
 一般論として、何らかの編集方針を持つことはありえ、それに基づいて具体的な雑誌編集を行うことはむろんあるだろう。どの雑誌もそうしている、とも言える。
 だが、上のような「異見」は「潰しにかかります」、という表現は、穏やかではない。
 客観的にまたは結果的にそのような機能を持つことがあっても、あるいは持つことを意図していたとしても、ふつうは、上のように「潰しにかかります」とまでは、文章化しない、活字にはしない、のではないか。
 この点でも、現在の月刊正論編集部は、やはり、どこかおかしい。
 それにまず、自分(たち)の気にくわない意見は「潰しにかかる」という姿勢・態度を明らかにすることは、多分に気味が悪いものだ。月刊正論編集部は、政治・社会問題にかんする諸意見についての<思想警察>のつもりなのだろうか。そういう立場に立つつもりなのだろうか。右向きか左向きか知らないが、どこか<ファシスト>的匂いを感じる表現であることに、実際の書き手は注意した方がよいと思われる。
 つぎに、そもそも、月刊正論という雑誌の力で、「日本と日本人を間違った方向に導く」意見を同誌編集部が「潰しにかかる」ことができると本当に考えているのだろうか。
 そうだとすれば、尋常ではないし、やはりひどく<傲慢>だ。
 月間発行部数2万程度の雑誌に、朝日新聞の数分の1しか読者のない産経新聞のさらに100分の1程度の読者数の雑誌に、その雑誌編集部の「判断」と異なる意見を<潰す>ことができるとはとても思えない。<潰せる>と考えているとすれば、その自信過剰さは、尋常な感覚ではないだろう。
 実際問題として、月刊正論(編集部)が「日本と日本人を間違った方向に導く」意見だと判断するかもしれない諸意見は種々の、別の雑誌に溢れているし、今日ではブログやツイッター等の表現手段もある。
 月間発行部数2万程度の雑誌の「編集者」が、気にくわない「異見」を「潰しにかかります」などと、かりに内部でそう考えていたとしても、正規に、雑誌上に文章とし、活字にするようなことはしない方がよいだろう。
 ごく常識的な感想を書いたつもりだ。内容的にも疑問があり、「潰しにかかる」という言葉には<思想警察>的な気味悪さを感じる。と同時に、そのような文章を平気で活字にし、正規に残しておく、という姿勢・態度・感覚に、尋常ではない、戦慄すべき<怖ろしさ>を感じる。
 余計ながら、ひょっとして具体的には皇位継承問題(女系天皇の是非)を念頭に置いて「編集者」の上の文章は書かれたのかもしれない。しかし、そのような特定・限定はなく、一般的な宣明のかたちで、上の文章は書かれている。
 さらに余計ながら、「日本と日本人を間違った方向に導く」、日本国内のマルクス主義者・親マルクス主義者あるいは「左翼」の諸意見・考え方を「潰しにかかる」という編集方針を、月刊正論編集部は採っているのだろうか?、かりに採っているとしても、それは十分なものだろうか?、という疑問がある。
 「保守」派内の「内ゲバ」に主要な関心を向けたり、その一方に加担することに熱心な月刊雑誌は、少なくとも「保守」派一般の、またはその代表的な雑誌になることすらできないだろう。ましてや、憲法改正に必要な国民・有権者の過半数に支持される、あるいは関心をもたれる雑誌に成長することは決してないだろうと思われる。
 月刊正論の親会社の発行する産経新聞8/14加地伸行と竹内洋の対談中に、こんな部分があった。
 「加地 今の保守系は論壇というよりも、悪口を言うことで終わってしまっている。……
  竹内 それと内ゲバ。左翼…が、保守論壇も。仲間内でやるのが一番見苦しい」。
 この秋月の文章も一種の「内ゲバ」かもしれないが、秋月瑛二のブログにそのようなものの一方当事者となる資格(・読者数)はないものと自覚している。

1140/月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切なのか② 。

 〇8/21に月刊正論による自民党批判を今年8月号と書いたのは誤りで、正しくは7月号。
 6月号以降は月初めに購入せず、のちに古書で手に入れることにしており、かつ従来のように月刊正論を手元に置いておく癖をなくしたまま、確認しないで書いたがゆえの誤りだ。
 月刊正論7月号は<徹底検証/誰が殺した自民党>という特集を組んでいる。10本もの論考から成っていて、編集部が設定したはずのこのテーマは、自民党を「殺した」者がいること、つまり自民党は「殺されている」=「死んでいる」ことを前提として、犯人を探索させる、という趣旨になっている。自民党は「死んだ」という前提に月刊正論編集部は立っているわけだ(ちなみに、このテーマと必ずしも正面からは一致しない論考もあるが、執筆者と犯人とされた者は誰かは、田久保忠衛→谷垣禎一、田母神俊雄→麻生太郎、適菜収→小沢一郎、佐伯啓思→小泉純一郞、上念司→竹下登、倉山満→三木武夫、西尾幹二→中曽根康弘、阿比留瑠比→野中広務、中宮崇→河野洋平、潮匡人→安倍晋三)。
 このような前提的認識自体に疑問がある。少なくとも、疑問を差し挟む余地がある。このような認識をもつとすれば、自民党ではなく現在の民主党こそが、とっくに自壊・分裂して?「死んでいる」という認識・見解も、月刊正論編集部は示さなければならないのではないか。
 民主党政権の三年間の批判的総括の特集がないのは先日に書いたとおり。6月号に<特集/左翼諸君よ、反省しなさい!>があって4本の論考を載せているが、このテーマに即しているのは佐々淳行「進歩主義者の知的退嬰を糾す」くらいで、河添恵子らの「女3人言いたい放題/保守の男と革新のオトコを比べてみれば」という、<遊び>の企画も含んでいる。そして、この特集も、「左翼」・民主党政権の具体的批判とはまるで関係がない。
 「保守派」らしき月刊雑誌が、「保守」・「右」の立場から自民党批判の特集を組むことはありうるだろうが、より熱心でなければならないのは、現実に政権=権力を持っている「左翼」・民主党に対する批判でなければならないのではないか。
 〇月刊正論9月号の「編集者へ/編集者から」の中には、目を剝く「編集者」の文章がある。
 目を剝いた、驚きかつ戦慄を覚えた部分は後回しにして、読者と編集部のやりとりを簡単に要約しておこう。
 ある80歳を超えている読者が、月刊正論には「時々、違和感のある内容の文章も散見されるので、あえて苦言と希望を併せて述べる」という観点から、月刊正論8月号の伊藤悠司「田中卓先生、それを詭弁と言うのです」(p.256-)を読んで「貴誌の姿勢というか、見解を疑いました」と書き始め、「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」に「甚だしい違和感を覚えた」、「名のある他人に対する非礼な書きぶり」を掲載している月刊正論に「失望を禁じえない」と続けている。内容的にも「いたずらに異見を責めるのではなくて、国民のための落着点を求めようとする姿勢」が月刊正論のような「日本護持の気持ちの強い月刊誌」には「大切」ではないか、と書き送っている(9月号p.325-6)。
 これに対する「編集者」の応答は、素っ気なく、冷たいものだ。
 「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」という「指摘はどうでしょう」、「編集者は冷静で落ち着いた筆の運びと感じました」。
 一毫も一読者の感想・意見を容認・受容することなく、バッサリと切り捨てている。せっかく投稿してくれた読者に対して、こんな姿勢・態度でよいのだろうか、という感想がまず湧く。
 ここで問題になっているのは、女系天皇容認論者らしき田中卓(元皇學館大学教授・学長)に対する伊藤悠司の「書きぶり」だ。
 論争の中身にはさしあたり立ち入らずに、「書きぶり」ははたして「編集者」が言うように「冷静で落ち着いた」ものかどうか、という観点から、8月号の伊藤論考を見てみた。
 結論的には、月刊正論「編集者」が言うように全面的に「冷静で落ち着いた」ものとはいえず、感情的な文章を含み、読者によっては(とくに田中卓に同調したり、彼に敬意を感じている読者には)、「悪意と誹謗に満ちた…」と感じてもやむをえない文章もある、ということだ。
 例を引用しておく。
 ・「…というのは…無頼漢のサカシラゴトである」(p.259)。
 ・「…とは恐れ入る。ラーメンでも寿司でも昼飯は何でもいいというような口ふりで皇室を語っていることに〔田中卓は〕気がつかないのだ」(同上)。
 ・「これほど理を非に言い曲げるこじつけが上手な人もそうはいない。田中氏のは一級品である」(同上)。
 ・「こんな人物が皇學館大学の学長をつとめていたとは驚かざるをえない。神宮の神域に立ち入ることを禁じたらどうか」(p.260)。
 ・「この人はよく皇室を言祝ぐ」が、そうしながら「皇室を貶めるのに成功している文章に接してあきれてしまう。民族的信仰心とでもいうべき精神性からは遠い。傲慢な手つきしか見えない」(p.261)。
 ・「この人〔田中卓〕が眺めている日本の将来像や風景には、ふつうの神経の人が正視できないものが映っているのかもしれない」(p.266)。
 これらの文章を含む論考を月刊正論「編集者」は、「冷静で落ち着いた筆の運びと感じました」と評している。
 月刊正論「編集者」の感覚は、やはり少しおかしいのではないか。とくに上のp.266は対象者を(「かもしれない」としつつも)<狂人>扱いしているごとくであり、かなりの、「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」と称しても、差し支えないように感じる。
 月刊正論編集長・桑原聡、編集部員・川瀬弘至らは、やはり、どこかおかしい。まともな、月刊雑誌編集者と言えるのだろうか。
 驚きかつ戦慄を覚えた部分については、さらに後回しにする。
 なお、この文章は女系天皇容認論を支持する立場からのものではまったくない。

1138/月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切なのか?①

 〇「Weekly 雑誌ニュース」というサイトによると、各雑誌の月間発行部数は、文藝春秋約60万、潮約40万、WEDGE-約16万、サピオ約12万、月刊WiLL-11万、エコノミスト8万、月刊ボイス-約3万、らしい。
 月刊正論、新潮45、世界等については「調査中」とある。
 但し、この欄で既述のように、雑誌・撃論3号(2011.11)の編集部による文章によると、<月刊WiLLの販売部数は月平均約10万部、産経新聞社の月刊正論は実売2万部以下>らしい。
 月刊WiLLについての上の両者の数字が11万・10万とほぼ同数であることからすると、月刊正論についての数字も、信頼してよさそうに見える。
 歴史があり、新聞社に支えられている(はずの)月刊正論(産経)よりも、後発の、同じく一般には
<保守>派とされていると思われる月刊WiLL(ワック)や月刊ボイス(PHP)の方が、よく売れているわけだ。
 とくに、月刊正論は月刊WiLLの5ないし6分の1程度しか読まれていない(売れていない)、ということは興味深い。
 以上のことは、以下に述べることと直接の関係はない。但し、現在の編集方針だと(つまりは現在の編集長・編集部員だと)、販売部数は増えそうにない、という気はする。
 〇月刊正論やその個々の論考については言及したいことは多い。さしあたり、月刊正論全体ないしその編集方針について、まず、いくつかをごく簡単にコメントする。
 ①「近いうち」の衆議院解散・総選挙という時期なので、あるいはずっと前から今年(2012年中)の解散・総選挙の可能性は高いと言われてきたので、政治・社会系総合雑誌がすべきことは、私見では、<(2009年誕生の)民主党政権とは何であったか・民主党政権はいったい何をしてきたか>という総括だろう。
 これが月刊正論にはほとんど見られないようだ。少なくとも「特集」は組まれていない。
 この点では、月刊文藝春秋8月号が「政権交代は何をもたらしたのか―民主解体『失敗の本質』」という特集を組んでいることの方が(p.116-)が、決して「保守派」雑誌でないにせよ、時代的・時期的センスが(月刊正論編集部よりも)優っている。

 また、月刊WiLL9月号は「総力大特集/醜悪なり民主政権」と銘打つ特集を組んで、4本以上の論考を載せている。山際澄夫「朝日新聞は土下座して読者に詫びよ」(p.84-)などは、反民主党、反朝日新聞の読者を少しは痛快な気分にさせるだろう。
 ②朝日新聞や岩波・雑誌「世界」らは、2009年の民主党政権樹立へとムード・空気を煽ってきた。2009年の投票日に並んでいた月刊世界の表紙のタイトルは「政権選択選挙へ」だったと記憶する。さすがに「政権交代選挙へ」とは打てなかったのだろう。だが、総選挙とはつねに「政権選択選挙」たる性格をもつことからすると、月刊世界のタイトルの含意は明瞭だった。
 政権交代を朝日新聞等は「歴史的」と表現して歓迎した。自分たちの世論誘導は見事に効を奏したのだった。
 従って成立した民主党政権を罵倒するはずはないのだが、残念ながら民主党内閣の「失点」は相次ぎ、叱咤激励はするものの、政権交代の現実的なプラスの成果を、朝日新聞らは提示できなかった、と思われる。
 だが、朝日新聞らが意図したことは、<民主党政権は批判されるべきだが、自民党政権に戻してもダメだ>という世論形成だった。民主党がダメだとしても、自民党が良いわけではない、というのが彼らの<矜持>あるいは<面子>からする主張だった、と思われる。そして、これまた、そのような世論形成は、相当に成功したように見える。
 「保守派」のはずの月刊正論(産経)も、そのような雰囲気に対抗することはせず、むしろ、その編集長は、2011年4月号に、次のように書いていた。あの3.11の起こった時点の、編集長・桑原聡の文章だ。 
 「…民主党内閣が、憲政史上最低最悪の内閣であることは多くの国民が感じているところだろうが、かりに解散総選挙が行われ、自民党が政権を奪回したとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも、わが国を元気にする知恵も力もないように思える」(p.326)。
 解散・総選挙の現実的可能性が高まった現在でも、桑原聡はこう考えているのだろうか。このような見解は、<民主党はもちろん、自民党にも投票するな>と言っているに等しい。
 どちらがよりマシか、どちらがより「保守的」か、どちらが現憲法改正草案を持っているか(九条2項削除を明確な方針としているか)、どちらに靖国神社参拝をする議員が多いか、などを考えれば、編集長・桑原聡の上の文章は、ほとんど、朝日新聞らの「左翼」と同じだ。
 自民党よりも「保守的」な有力政党の結成・誕生を見ていない現在では、多少は異なる見解に至っていることを期待したい。だが、月刊正論の(2012年)8月号は、<自民党批判>の特集を組んでいる。解散・総選挙が近づいていることは客観的に明瞭だった時期に、月刊正論は、<民主党政権の総括的批判>ではなく<自民党批判>の特集を打ったのだ。
 この雑誌は、あるいはこの雑誌の編集長、その編集方針は、やはりどこかおかしい。とても<保守派>の雑誌とは思えない。
 ③今年2012年は、日本共産党創立90周年の年だ。産経新聞でもまともにこれを採り上げた記事は少なかった(あっても大きな紙面を用いたものではなかった)が、きちんと日本の「共産主義」政党の過去と現在を分析し、批判的に総括しておくことは、新聞ではなくむしろ「保守派」雑誌の役割だっただろう。
 しかるに、月刊正論は、これを怠っている、と見られる。月刊正論(編集部)は、いったい何と闘っているのか? いったい日本をどうしたいのか?
 編集長・桑原聡が早々に(今年初めの時点で)、橋下徹を「きわめて危険な政治家」、日本「解体」を意図している、と論定してしまったように、まるで政治的センスに乏しく、<いったい日本をどうしたいのか>について多少とも錯乱しているのではないだろうか?
 憲法改正は重要なテーマだが、この問題についての(大きな論点ごとでもよいが)特集は組まれていない。
 従来の、「固い」読者層を掴んでいれば大丈夫だという感覚なのだろうか。そのような感覚では、国民・有権者の過半数の支持が必要な憲法改正のために情報発信するメディアの中の中心に位置することはとてもできないだろう。
 以上のほか、9月号をごく最近に見ていて、月刊正論の「編集方針」に、あるいは編集部自身の文章に、<戦慄すべき>怖ろしさを感じた。
 長くなったので、次回に譲る。 
 

1130/適菜収・世界(岩波)・月刊正論(産経)と変説?した川瀬弘至。

 〇月刊正論5月号(産経、2012.04)の適菜収論考は「理念なきB層政治家」を副題として橋下徹を批判・罵倒している。
 冒頭の一文は、「橋下徹大阪市長は文明社会の敵です」。この一文だけで改行させて次の段落に移り、「アナーキスト」、「国家解体」論者、「天性のデマゴーグ」等々と、十分な理由づけ・論拠を示さないままで<レッテル貼り(ラベリング)>をしていることはすでに触れた。
 この論考では「B層」という概念が重要な役割を果たしているはずだが、これの意味について必ずしも明確で詳細な説明はない。いくつか「B層」概念の使い方を拾ってみると―。
 ・「B層」=「近代的理念を妄信する馬鹿」(p.51)。
 ・橋下徹は「天性のデマゴーグ」なので「B層の感情を動かす手法をよく知っている」(p.52)。
 ・橋下徹の「底の浅さ」は「B層の『連想の質』を計算した上で演出されている」(p.53)。
 ・橋下徹・維新の会をめぐる言説は「B層、不注意な人、未熟な人の間で現在拡大再生産されている」(p.53)。
 ・「B層は歴史から切り離されているので、同じような詐欺に何度でも引っかかります」(p.54)。
 ・「マスメディアがデマゴーグを生みだし、行列があればとりあえず並びたくなるB層…」(p.54)。
 ・「小泉郵政選挙に熱狂し、騙されたと憤慨して民主党に投票し、再び騙されたと喚きながら、橋下のケツを追いかけているのがB層です」(p.55)。
 このくらいだが、要するに適菜のいう「B層」とは<馬鹿な大衆>を意味していると理解して、ほとんど間違っていないだろう。
 産経新聞5/04の「賢者〔何と!―秋月〕に学ぶ」欄でも適菜収は、「B層」とは、「マスメディアに踊らされやすい知的弱者」、ひいては「近代的諸価値を妄信する層」を指す、と明確に述べている。「知的弱者」、つまりは「馬鹿」のことなのだ。
 またニーチェのいう「畜群人間」はまさに「B層」だとし、この「B層」人間は「真っ当な価値判断ができない人々」で、「圧倒的な自信の下、自分たちの浅薄な価値観を社会に押し付けようとする。そして、無知であることに恥じらいをもたず、素人であることに誇りをもつ」、そして、「プロの領域、職人の領域」を浸食し、「素人が社会を導こうと決心する」、「これこそがニーチェが警鐘を鳴らした近代大衆社会の最終的な姿だ」、とも書いている。
 適菜において「B層」とは「知的弱者」=「馬鹿」で、「畜群」と同義語なのだ。
 そして、こうした「B層」を騙し、かつこうした「B層」に支持されているのが橋下徹だ、というのが、適菜の主張・見解の基調だ。前回に少し述べたが、決して、「伝統」か「理性」かを対置させて後者の側(「理性の暴走」)に橋下を置いているのではない。
 さて、月刊世界7月号(岩波)は「橋下維新―自治なき『改革』の内実」という特集を組んでいるが、その中の松谷満「誰が橋下を支持しているのか」(p.103-)は興味深い。
 松谷は、多段無作為抽出にもとづく有効回答数772のデータを基礎にして、次のように述べている(逐一のデータ紹介は省略する)。
 ①一部の論者が「社会経済的に不安定な人びと」が橋下を支持している、「弱い立場にいる人びと」が「その不安や不満の解消を図るべくポピュリズムを支えている」という<弱者仮説>を提示しているが、「少なくとも調査結果をみる限り、妥当性は低い」。
 ②橋下徹に対する支持は「若年層」で高いというわけではなく、「強い支持」は「六〇代がもっとも多い」。
 ③六〇才以下の男性について雇用形態・職業から5つに分類すると、「管理者職層、正規雇用者で支持率が高く、自営層、非正規雇用、無職層」で支持率が低い。
 ④自身の「階層的位置づけ」意識との関係では、「上・中上」、「中下」、「下」の順で「強い支持」が高い=前者ほど<強く支持>している。(以上、p.106)
 これらにより松谷は、「マスコミや知識人の『空論』は、ポピュリズムを支持する安定的な社会層を不問に付し、その責任を『弱者』に押しつけているのではないか」と問題提起している(p.107)。
 その他、次のような結果も示している。
 ⑤「高い地位や高い収入を重視する者のほうが、それらを重視しない者に比べて、橋下を支持している」(p.109)。
 適菜収のいう「知的弱者」と松谷のいう「弱者」は同じではないし、無作為抽出とはいえ772の母数でいかほどの厳密な結論が導出できるのかはよく分からないが、それにしても、上のとくに③・④・⑤あたりは、橋下徹は(先に述べたような意味での)「B層」を騙し、かつ「B層」に支持されているとの、「仮説」とも「推測」とも断っていない適菜収の「決め付け」的断定が、松谷のいう「知識人の空論」である可能性を強くするものだ、と考えられる。そのような意味で、興味深い。
 隔週刊サピオ5/09・16号の中の小林よしのり・中野剛志の対談とともに、月刊正論の適菜収論考は、橋下徹に対する悪罵・罵倒の投げつけにおいて、最悪・最低の橋下徹分析だったと思われる(立ち入らないが、小林よしのりは研究者ではないからある程度はやむをえないとしても、中野剛志の、学者とは思えない断定ぶり・決めつけ方には唖然とするものがあった―下に言及の新保祐司の発言も同様―。橋下徹がツイッターで中野剛志に対して激しく反応したのも―ある程度は―理解できる)。
 この機会に記しておけば、佐藤優はいろいろな媒体で橋下徹に対する見解・感想等々をたくさん書いていて、批判的・辛口と見えるものもあるが、週刊文春5/17号の特集「橋下徹総理を支持しますか?」の中の、つぎの文章は、多数の論者の文章の中で、私には最もしっくりくるものだった。
 「国政への影響を強める過程で……外交、安全保障政策について勉強する。その過程で…確実に国際水準で政治ゲームを行うことができる政治家に変貌する。…府知事、市長のときと本質的に異なる安定した政治家になると私は見ている。言い換えると橋下氏の変貌を支援するのが有権者の責務と思う」(p.48)。
 中西輝政とは異なり、橋下徹・維新の会の政策に「殆ど賛成」とは言い難い私も、このような姿勢・期待は持ちたいと考えている。
 〇だが、橋下徹を暖かく見守り、「変貌を支援する」どころか、早々と「きわめて危険な政治家」、橋下徹の「目的は日本そのものの解体にある」と(理由・論拠も提示することなく)断定したのが、産経新聞社発行・<保守>系と言われている月刊正論の編集長桑原聡だった。
 また、同編集部員の川瀬弘至は、上記の適菜収論考を「とってもいい論文です」と明記し、自民党の石破茂に読むことを勧めるまでした(月刊正論オフィシャルブログ4/04)。  ところが、何とその同じ川瀬弘至は、同ブログの5/29では、橋下徹の憲法関係発言を知って
、「橋下市長、お見逸れいたしました。これまで国家観がみえないだとか歴史観があやふやだとか批判してきましたが、自主憲法制定に意欲を示してくれるんなら全面的に応援しますぞ。どうか頑張っていただきたい」と書いている。
 この契機となった発言よりも前の2月中に橋下徹は現憲法九条を問題視する発言をしているし、3月には震災がれきの引きうけをしないという意識の根源には憲法九条がある旨を発言している。月刊正論4月号の編集期間中には、橋下徹は今回に近い発言をすでにしていたのだ。月刊正論5月号の山田宏論考は、橋下徹による改革の先に「憲法改正」が「はっきり見えている」と明言してもいる(p.58)。
 今頃になって、川瀬弘至は何を喚いているのだろう。それに、「全面的に応援しますぞ。どうか頑張っていただきたい」と書くのは結構だが、それが本心?だとしたら、橋下徹に対する悪罵を尽くした論考だったも言える適菜収論考を「とってもいい論文です」と評価していたことをまずは反省し、この言葉を取消し又は撤回して、読者に詫びるのが先にすべきことだと思われる。
 だが、しかし、この川瀬の言葉とは別に、月刊正論6月号(産経、2012.05.01)は、依然として、橋下徹を批判し罵倒する、遠藤浩一と「文芸評論家」新保祐司の対談を掲載している。<反橋下徹>という編集方針を月刊正論(産経)は変えていないと見られる。
 この対談、とくに遠藤浩一については書きたいこともある。同号の「編集者へ/編集者から」欄への言及も含めて、再びあと回しにしよう。

1129/月刊正論編集部の「異常」-監督・コーチではなく「選手」としても登場する等。

 月刊正論(産経)は、発売日(毎月1日)から二週間経てば、送料を含めても150-200円安く、一ヵ月も過ぎれば約半額で購入することができることが分かった。
 そのようにして入手した月刊正論6月号(産経)を見て、驚き、あるいは唖然とした点がいくつかある。とりわけ「編集者へ/編集者から」という読者・編集部間のやりとりは、注目に値する。
 月刊正論5月号の適菜収論考には読者からの疑問・反論も多かったようで、そのうちの一つを紹介し(p.324-5)、「編集者」が簡単に答えて(コメントして?)いる。適菜は自らの考える「保守の理想形」を提示していないという疑問(の一つ)に関して、「編集者」は以下のように書いている(p.325)。
 「おそらく適菜さんは、人間の理性には限界があり、その暴走を食い止めるために伝統を拠り所としようという態度こそが保守であると考えているのだと思います。その立場から見ると、橋下氏には理性暴走の傾向が感じられませんか。」
 これには驚き、かつ唖然とした。
 第一。「…が感じられませんか」という質問形・反問形での文章にしているのもイヤらしい。それはさておくとしても、この読者はもっと多くの疑問・批判を適菜収論考に対して投げかけている。
 それらを無視して、ただ一点についてだけ答える(コメントする)というのは、紙面の限界等もあるのかもしれないが、到底誠実な「編集者」の態度だとは言えないように思われる。紙面の関係で一点だけに限らせていただく、といった断わりも何もないのだ。
 第二。月刊正論編集部は橋下徹に「理性の暴走の傾向」を感じているようだが、その根拠・理由は全く示されていない。編集長・桑原聡の前月号の末尾の文章と同じく、理由・根拠をいっさい述べないままの、結論のみの提示だ。こんな回答(コメント)でまともで誠実な対応になると思っているのだろうか。
 なるほど適菜収論考の中に、橋下徹には「理性暴走の傾向」がある旨が書かれていたのかもしれない。そのように解釈できる部分が(あらためて見てみたが)ないではない。
 だが、「伝統を拠り所」にするか「理性の暴走」かという対置を適菜は採っていない。従って、上の短い文章は「編集者」自身が新たに作ったもので、適菜論考の簡潔な要約ではない。
 あらためて適菜「橋下徹は『保守』ではない!」の橋下徹に対する罵倒ぶりを見てみたが、適菜は橋下徹を「文明社会の敵」、「アナーキスト」、「国家解体」論者、「天性のデマゴーグ」等と断じている。
 明らかな敵意・害意を感じるほどに異常な文章であり、「決めつけ」だ。何段階かの推論(・憶測)を積み重ねて初めて導き出せるような結論を、適菜はいとも簡単に述べてしまっている。
 ともあれ、「伝統を拠り所」にするか「理性の暴走」か、という対立軸を立てて、適菜は書いているのではない。とりわけ、「伝統を拠り所」に、という部分は適菜の文章の中にはない。
 第三。読者の(省略するが)これらの疑問に対しては、本来、適菜本人が答えるか、別の新しい論考の中で実質的に回答するのが、正常なあり方だと思われる。
 しかるに、これが最も唖然としたことなのだが、月刊正論「編集者」は、「おそらく」という副詞を使いつつ、適菜収に代わって、適菜の「保守」観を述べ、読者に回答(コメント)しているのだ。適菜論考から容易に出てくる文章ではないことは上の第二で述べた。
 雑誌、とくに月刊正論のような論壇誌の編集部というのは、「監督」または「コーチ」であって、自らが「プレイヤー(選手)」も兼ねてはいけないのではないだろうか。にもかかわらず、月刊正論「編集者」はプレイヤー(執筆者)に代わって、自らブレイヤーとして登場として、自らの見解を述べてしまっている。
 雑誌編集者のありようについての詳細な知見はないが、これは編集者としては<異様>な行動ではないだろうか。しかも、「執筆者」の考え方を代弁して自ら回答(コメント)するという形をとりながら、上に述べたように、結論らしきものを語っているだけで、いっさいの理由づけ、論拠の提示を割愛させてしまっているのだ。
 「編集者」・「編集長」に用意された短い文章の中で、特集を組んでいるような重要なテーマについての編集者・編集長自らの(特定の)「結論」を、執筆者に代わって、理由づけをすることもなく明らかにしてよいのか??
 雑誌出版・編集関係者のご意見を伺いたいところだ。
 第四。適菜は(おそらく)「伝統を拠り所」にする態度を「保守」と考えており、橋下徹にはこれとは異なる「理性の暴走の傾向」があるのではないか、というのが月刊正論(産経)「編集者」の見解のようだ。
 このような対置が「保守」と「左翼」の間にはある、という議論・説明があることは承知している。
 だが、少しでも立ち入って思考すれば容易に分かるだろう。いっさいの<変化>やいっさいの<理性>を否定しようとしないかぎり、維持すべき「伝統」とそうでない「伝統」、必要な「理性」と危険視すべき「理性の暴走」の区別こそが重要であり、かつ困難で微妙な問題でもあるのだ。
 もちろん、月刊正論「編集者」の文章(p.325)はこの点に触れていない。全ての<変化>・<理性>を否定しないで、かつ「伝統を拠り所」とする態度と「理性暴走の傾向」とを明確に区別するメルクマール・基準・素材等々を、何らかの機会に、月刊正論編集部(編集長・桑原聡)は明らかにしていただきたい。
 第五。月刊正論「編集者」の文章に乗っかるとして、そもそも橋下徹に「理性暴走の傾向」はあるのだろうか。
 むろん「理性暴走」の正確な意味、それと断じる基準等が問題なのだが、それはさておくとしても、例えば橋下徹における次の二例は、「理性暴走」というよりもむしろ日本の「伝統」を重視している(少なくとも軽視していない)ことの証左ではないか、と考えられる。
 ①橋下徹は5/08に、公務員が国歌(・君が代)を斉唱するのは「当たり前」のこと、「ふつうの感覚」、「理屈じゃない」と発言している。
 ②橋下徹は大阪府知事時代の最後の時期、昨年秋の、大阪護国神社秋季例大祭の日に(知事として)同神社に参拝している。
 推測にはなるが、上の②は、大阪府出身の、「国家のために」死んだ(そして同神社の祭祀の対象になっている)人々を「慰霊する」(とさしあたり表現しておく)のは大阪府知事としての仕事・「責務」でもあると橋下は考えたのではないかと思われる。
 これらのどこに「理性暴走の傾向」が
あるのだろうか。月刊正論編集部(編集長・桑原聡)は、何らかの機会に回答してほしいものだ。
 なお、この欄で既述のとおり、産経新聞や月刊正論でもお馴染みの八木秀次は、隔週刊サピオ5/09・16号の中で、橋下徹は「間違いなく素朴な保守主義者、健全なナショナリスト」だ等と述べている(p.16)。
 八木秀次のあらゆる議論を支持するのではないが、上の指摘は、適菜収や月刊正論編集部とはまるで異なり、素直で的確な感覚を示していると思われる。
 第六。そもそも、「保守」か否かの基準として、「伝統」重視か「理性」重視(「理性暴走」)かをまず提示する、という(適菜ではなく)月刊正論「編集者」の考え方自体が正しくはない、と考えられる。
 上でも少し触れたように、この基準は明確で具体的なものになりえない。
 「保守主義の父」とか言われるE・バークもこうした旨を説いたようだが、私の理解では、上のような<態度>・<姿勢>という一種の<思考方法>ではなく、バークは、その結果としての<価値>に着目している。つまり、フランス革命によって生じた「価値」(の変化)の中身にバークは嫌悪感を持ったのであり、たんに「ラディカルさ」・「急激な変化」を批判したのではない、と言うべきだと思っている。
 「保守」か否かは、第一義的には、「伝統」か「理性」かといった<思考方法>のレベルでの対立ではないだろう、と思われる。
 E・バークの時代には、まだ「共産主義」思想は確立していなかった(マルクスらの「共産党宣言」は1848年)。従って、余計ながら、いくらバークを「勉強」しても、今日における「保守」主義の意味・存在意義を十分には明らかにすることはできないだろう。
 この問題は、「保守」という概念の理解にかかわる。月刊正論編集部がいかなる「保守主義」観をもっているのかきわめて疑わしいと感じているのだが、この問題には、何度でも今後言及するだろう。
 なお、関連して触れておくが、月刊正論編集部が「保守」の論客だと間違いなく認定していると思われる中西輝政は、月刊文藝春秋6月号(文藝春秋)の中の橋下への「公開質問状」特集の中で、「私は橋下徹氏の率いる『大阪維新の会』が唱える政策の殆どに賛成である」と明記し、橋下の「中国観」についてのみ質問する文章を書いている(p.106-7)。
 どう読んでも中西輝政が橋下徹を「保守ではない」と見なしているとは思えないのだが、中西の橋下徹観が誤っており、橋下は「保守ではない!」「きわめて危険な政治家」だと言うのならば、月刊正論編集長・桑原聡は、末尾の編集長コラム頁に書くなりして、中西輝政を「たしなめる」ことをしてみたらどうか。 
 いずれにせよ、上に六つ並べたように、月刊正論編集部はどこか<異常>なのではないか。今回言及した以外にもある。月刊正論6月号の上記冒頭の欄についてはもう一度言及する。

1121/月刊正論の愚―石原慎太郎を支持し、片や石原が支持する橋下徹を批判する。

 〇月刊正論(産経新聞社)編集部の川瀬弘至は、既述のように、自らを「保守主義者」と称し、「今後は『真正保守』を名乗らせていただきます」とまで明言していた(イザ・ブログ4/04)。
 その川瀬弘至は同じ文章の中で月刊正論5月号の、橋下徹を批判する適菜収論考を「とってもいい論文」と紹介してもいたのだが、産経新聞4/03の月刊正論の紹介(宣伝広告)記事の中で、次のように書いていた。
 「橋下市長は、自分に対する批判にツイッターなどでいつも手厳しく反論する。今回の適菜氏による『保守』の視点からの批判には、どんな反応を示すだろう…」。
 その答えは、無視だった。4月初めの数日間の橋下ツイートは空白になっているので、何か事情があったのかもしれない。
 だが、月刊正論5月号とほぼ同じ頃に出た、「橋下首相なら日本をこう変える」と表紙に大きく銘打ったサピオ5/09・16号(小学館)の中の(特集・諸論考の中では少数派の辛口の)小林よしのり中野剛志の対談(p.20-)については、橋下徹は反応して、小林よしのり・中野剛志への批判・反論をツイッターで書いているので、橋下徹は月刊正論の方は(おそらくは知ったうえで)<無視>したのではないか、と思われる。
 小林よしのり・中野剛志と適菜収では、まるでネーム・バリュー(・影響力)が違う。加えて、適菜の主張内容は、小林よしのりらのそれと比較して、まるで話にならない、相手にするのも馬鹿馬鹿しい、というのが、無視したと仮定したとしての私の推測だが、その理由でなかったかと思われる。橋下徹は自ら「しつこい」とも書いているので、気に食わず、反論しておくべきと感じたとすれば、月刊正論5月剛の適菜論考にも触れただろう。
 しかし、何の反応もしなかった。それだけ、適菜収論考の内容はひどい(と橋下は判断したのだろう)。
 〇この適菜収については、これまた既述のように、「産経新聞愛読者倶楽部」という名のウェブサイトが、適菜の前歴も指摘しつつ、「産経新聞は適菜を今後も使うかどうか、よく身体検査したほうがいいでしょう」と助言?していた。
 しかし、産経新聞は―何ヶ月か一年かの約束でもしたのかどうか―適菜収を使うのをやめていない。
 産経新聞4/04に続いて5/04の「賢者に学ぶ」欄に適菜は再び登場して、橋下徹の名こそ出さないものの、「閣僚から地方首長にいたるまで政治家の劣化が急速に進んだ背景には、《偽装した神=近代イデオロギー》による価値の錯乱という問題が潜んでいる」を最後の一文とする文章を書いている。
 批判されている「地方首長」の中に橋下徹・大阪市長を含意させていることは明らかだろう。
 ところで、執筆者名は不明(明記なし)だが、産経新聞5/14の月刊正論紹介記事は「尖閣・石原発言を支持する!」 という特集が組まれていることに触れていて、一色正春の主張をかなり紹介している。その前にある次の文章は、月刊正論編集部の見解だろうと思われる。 
 「自分の国は自分で守る―。この当たり前の意識が、戦後70年近くも置き去りにされてきた。それが諸悪の根源だ。もしも石原発言に何かリスクがあるとしても、喜んで引き受けよう。私達は石原発言を断固支持する」。
 一色正春の主張内容との区別がつきにくいところが大きな難点だが、以下の文章は、月刊正論編集部の言葉のようにも読める。
 「繰り返す。私たちは今、スタートラインに立った。石原都知事が号砲を鳴らした。さあ、胸を張って走り出そう。続きは正論6月号でお読みください」(途中に改行はない)。 
 (なお、産経新聞本紙は購読しておらず、もっぱら電子版(無料)に依っている。この部分以外も同様)。
 このように石原慎太郎発言・行動を支持するのは結構なことだが、月刊正論編集部は、石原慎太郎産経新聞5/14の連載「日本よ」で書いている内容は支持するのだろうか??。
 石原のこの文章は大きな見出しが「中央集権の打破こそが」で、「……東の首都圏、大阪を芯にした関西圏そして中京圏と、この三大都市圏が連帯して行おうとしているのは中央集権の打破、国家の官僚の独善による国家支配の改善に他ならない」、から始まっている。
 また、「志のある地方の首長たちが地方の事情に鑑みた新規の教育方針を立てようとしても、教育の指針はあくまで文部科学省がきめるので余計なことをするなと規制してかかるが、その自分たちがやったことといえば現今の教育水準の低下を無視した『ゆとり教育』などという馬鹿げた方針で…」とか、「日本の政治の健全化のためには多少の意見の相違はあっても、地方が強い連帯を組むことからしか日本の改革は始まりはしない」とかの文章もある。
 「地方」の中に大阪市(・大阪市長/橋下徹)も含めていることは、石原慎太郎は橋下徹を支持して選挙の際には応援演説までしたこと等々からも疑いえないことだ。
 適菜収は月刊正論5月号で「地方分権や道州制は一番わかりやすい国家解体の原理ですと書いていた(p.51)。
 一般論・超時代的感覚での適菜の<中央集権>志向と、具体的・現実的な現在の状況をふまえての石原の<地方の連帯>等の主張は嚙み合ってはいないだろうが、ともあれ、ほぼ真反対の議論・主張であることは間違いない。
 これら石原と適菜の、矛盾する二つの文章を掲載する産経新聞というのは、はたして、いったい何を考えているのだろうか。何らかの一致した編集方針はあるのだろうか。
 適菜の言葉を借用すれば、「価値の錯乱」は、産経新聞においても見られるのではなかろうか。
 「価値の錯乱」は産経新聞社の一部の、月刊正論編集部においても見られる
 一方で橋下徹を批判・攻撃しておいて、一方で、その橋下徹を支持し、連携しようとしている石原慎太郎の(別の点での)発言を大々的に支持する特集を組むとは、少しは矛盾していると感じないのだろうか。
 橋下徹を批判する適菜収論考を(も)掲載するくらいならばまだよい。月刊正論の編集長・桑原聡自身が、自分の言葉として、橋下徹について、「きわめて危険な政治家」だ、「目的は日本そのものの解体にある」と明言したのだ。
 こんな単純で粗っぽい疑問・批判を加えることにより、産経新聞や月刊正論の購読者を一人でも失うとすれば、それは、産経新聞・月刊正論の<価値の錯乱>、いいかげんな編集方針に原因があるのではないかと思われる。
 私のような者の支持・支援を大きく失うようでは、<保守>メディアとしては立ちゆかないだろう、少なくとも日本の「体制派」・「多数派」になることはありえないだろう、と私は秘かに自負している。
 〇「保守」・「右派」、「左翼」・「共産主義」といった言葉は使わなくともよい。
 橋下徹は毎日放送・斉加尚代ディレクターの質問に対して、公立学校の教職員が入学式等で日本(国家)の国歌である君が代を歌うのは、<国歌だから。式典だから。君が代を歌うときに、起立斉唱するのは当たり前のこと。感覚で、「理屈じゃない」。>等と答えている。
 こうした橋下の答えが虚偽の、あるいはパフォーマンス的なものではないことは、<囲み取材>の雰囲気等々からも明らかだろう。
 しかるに、月刊正論編集長・桑原聡は―繰り返すが―橋下の「目的は日本そのものの解体にある」と思うと明記した(月刊正論5月号)。
 上のような<国歌・君が代観>の持ち主が、<日本そのものの解体>を目的として行動しているのだろうか??
 何度でも書いておきたい。何の、誰の影響を受けたのか知らないが、月刊正論編集長・桑原聡の<感覚>は異常なのではないか

1113/憲法改正・現憲法九条と長谷部恭男・岡崎久彦。

 一 自由民主党が日本国憲法改正草案を4/27に発表した。この案については別途、何回かメモ的なコメントをしたい。
 翌4/28の朝日新聞で、東京大学の憲法学教授・長谷部恭男は、<強すぎる参議院>が日本国憲法の「最大の問題」だとして、この問題(二院制・両院の関係・参議院の権能)に触れていない自民党改正草案を疑問視している。
 長谷部恭男はやはり不思議な感覚の持ち主のようだ。現憲法の「最大の問題」は、現九条2項なのではないか。
 潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(PHP、2007)という本もある。橋下徹も最近、趣旨はかなり不明確ながら、日本の諸問題または「諸悪」の根源には憲法9条がある旨を述べていた(ツイッターにもあった)。
 忖度するに、長谷部恭男にとっては、自衛隊は憲法「解釈」によって合憲的なものとしてすでに認知され、実質的に<軍隊>的機能を果たしているので、わざわざ多大なエネルギーを使って、九条改正(九条2項削除と「国防軍」設置明記)を主目的とする憲法改正をする必要はない、ということなのかもしれない。
 「護憲論の最後の砦」が長谷部恭男だと何かで読んだことがあるが、上のようなことが理由だとすると、何と<志の低い>現憲法護持論だろう(この旨はすでに書いたことがある)。
 二 外務官僚として政治・行政の実務の経験もある岡崎久彦はかなりの思想家・評論家・論客で、他の<保守>派たちと<群れて>いないように見えることも、好感がもてる。
 月刊正論5月号に岡崎久彦「21世紀の世界はどうなるか」の連載の最終回が載っている。
 「占領の影響と、そして冷戦時代の左翼思想の影響がその本家本元は崩壊したにもかかわらず、まだ払拭されていないという意味では、日本の二十世紀は、ベルリンの壁の崩壊でもまだ終わっていないのかもしれない」(p.261)という叙述は、まことに的確だと思われる。多くの(決して少数派ではない)評論家・知識人らしき者たちが平気で「冷戦終結後」とか「冷戦後」と現在の日本の環境を理解し表現しているのは、親中国等の<左翼>の策略による面があるとすら思われる、大きな錯覚だ。中国、北朝鮮という「社会主義」国が、すぐ近隣にあることを忘れてしまうとは、頭がどうかしている。北朝鮮の金「王朝」世襲交替に際して、金正恩は、「先軍政治」等と並んで、「社会主義の栄華」(の維持・発展)という言葉を使って演説をしたことを銘記しておくべきだ。
 上の点も重要だが、岡崎久彦の論述で関心を惹いたのは、以下にある。岡崎は次のように言う(p.262)。
 婦人参政権農地解放は戦後の日本政府の方針で、GHQも追認した。日本の意思を無視した改革に公職追放財閥解体があったが占領中に徐々に撤廃され、今は残っていない。
 「押しつけられた改革」のうち残ったのは憲法教育関連三法だったが、教育三法は安倍晋三内閣のもとで改正され、実施を待つだけだ。「今や残るのは憲法だけになっている」。
 しかし、軍隊保持禁止の憲法九条は、日本にも「固有の自衛権」があるとの裁判所の判決によって「実質的に解決されている」。自衛隊を国家に固有の「自然権」によって肯定したのだから、「自衛隊に関する限り憲法の改正はもう行われていることとなる」。
 「実質問題として残っているのは集団的自衛権の問題だけ」だ。政府の「頓珍漢な解釈を撤回」して集団的自衛権を認めれば「戦後レジームからの脱却はほぼ完成することになっている」。
 以上。
 きわめて興味深いし、柔軟で現実的な思考が表明されているとも言えるかもしれないが、はたして上のように理解すべきなのだろうか。「集団的自衛権」に関する(それを否認する)政府の<憲法解釈>を変えれば、条文上の憲法改正は必要はない、というのが、上の岡崎久彦の議論の帰結に近いと思われるが、はたしてそうだろうか。
 趣旨はかなり理解できるものの、全面的には賛同できない。「戦車にウィンカー」といった軍事的・技術的レベルの問題にとどまらず、「陸海空軍その他の戦力」の不保持条項(九条2項)は、戦後日本人の心性・メンタリティーあるいは深層意識にも多大な影響を与えてきたように思われる。
 集団的自衛権にかかる問題の解決もなされるべきだろうが、やはり九条2項削除・国防軍保持の明記も憲法典上できちんとなされるべきだろう。

1112/日本国憲法「無効・破棄」論について③。

 月刊正論(産経)6月号が発行されている筈だが、産経新聞の購読を辞めて広告も見ず、新刊雑誌として購入することも、編集長が桑原聡である間は、差し控える。
 一ヵ月前の月刊正論5月号が、わざわざ2頁余を使って、「ハイ/正論調査室」という欄の中で、<憲法
破棄>を可能とする二人の読者の回答を紹介している(p.330-332)。
 二人(A氏、B氏)とも60歳代の元公務員で共通し、日本国憲法(1947施行)は「無効」とする点でも共通している。
 異なるのは、まず、「破棄」または「廃棄決議」・「無効宣言(決議)」をする主体だ。
 A氏は「国会」と考えていて、「過半数の議決」があればよい、とする。
 B氏は「国会で決議」するか「最高裁で『無効』判決」を出せばよいとする。
 これらの回答を生じさせた契機となった石原慎太郎の発言・考え方を、最近の産経新聞3/05の連載「日本よ」から引用すると、次のようだ。 
 「憲法改正などという迂遠な策ではなしに、しっかりした内閣が憲法の破棄を宣言して即座に新しい憲法を作成したらいいのだ。憲法の改正にはいろいろ繁雑な手続きがいるが、破棄は指導者の決断で決まる。それを阻害する法的根拠はどこにもない」。
 このように三者三様で一致がないが、石原慎太郎のいう「しっかりした内閣」とはいかなる意味かは厳密にはよく分からない。但し、「内閣」に「破棄を宣言」する権限があると考えているのだろう。
 いかほどに厳密な法的思索を経ているのかは疑わしいが、天皇や「最高裁」も想定される中で「内閣」を権限主体として想定するのは、<無効>論者の中でもおそらく少数派だろう(主流派?は「国会」だと思われる)。
 そして、「内閣」が日本国憲法のもとでの内閣であり、日本国憲法下の公職選挙法にもとづき選出された衆議院議員・参議院議員から成る国会により選出された内閣総理大臣とそれが任命したその他の国務大臣からなる合議体を意味するかぎり(但し、婦人参政権を認めた等の公職選挙法改正は現憲法公布後・施行前。憲法施行後に頻繁に改正されて憲法とともに「国会」議員等を選出する根拠になっている)、石原説は成立しえない、と思われる。「内閣」を生んだ法規である日本国憲法を内閣が「無効」とし「破棄」するのは、子どもが親を殺すようなものだ。
 親あるいは血を継承した祖先の一人でも殺してしまえば自分自身(子ども)はこの世に存在していない筈なのであり、過去に生じた憲法を、憲法所産の「内閣」が現時点で「破棄」するなどというのは、明らかに背理だ。
 基本的に全く同じことはA氏やB氏のいう「国会」や「最高裁」についても言える。
 旧憲法下では「国会」はなく「帝国議会」だった。参議院はなく、貴族院が所謂第二院として存在した。
 両氏のいう「国会」が日本国憲法のいうそれであり、衆議院・参議院で構成されるものであるかぎり、「国会」なるもの自体が、日本国憲法(とそれに違反していない国会法等の法律)によって生み出されたものであり、「国会」による日本国憲法の「無効宣言」・「破棄」とは、親殺しであり、かつ完全に瞬間的に同時の<自分殺し>に他ならない。日本国憲法を「破棄」したあとまで、日本国憲法下での「国会」が存続するはずがない。
 この議論が現憲法41条が国会を「国権の最高機関」と称していることを根拠(の一つ)にしているとすれば、明らかな矛盾がある。「無効」であるはずの日本国憲法(の一条項)を根拠とする、という<背理>に陥らざるをえない。
 「最高裁判所」となるとますます日本国憲法所産のもので、「最高裁」が自分の親である日本国憲法を「無効」とする判決を出せるはずがない。
 戦前は「大審院」(と「行政裁判所」)で、憲法上の位置づけは大きく異なる。
 というわけで、第一に、いったい誰が(どの機関が)日本国憲法を「無効」宣言=「破棄」できるのか、という問題で、現時点での日本国憲法「無効」論は躓かざるをえない。
 「無効」視したいというセンティメント(気分・情緒)は理解できるが、もはや現時点では「無効」宣言・「破棄」は不可能だ。ありうるとすれば、国民または有権者の少なくとも過半数がそのような認識に立ち、何らかの方法で(数千万の署名を集めて?)意思表明することだろうが、どのような手続および意思表明の方法を採用するのかになると、途方に暮れる(「無効」論者で<国民投票>という手続・方法を提言する者はいないようだ)。
 A氏が述べるように(p.331)、1952年の「主権回復」後ただちに(または「すみやかに」)「無効」・「失効」宣言をして(旧憲法に戻すか)新しい・自主憲法を制定すべきだっただろう。
 その場合の「無効」宣言の主体の問題はやはりある。その場合に、天皇陛下(昭和天皇)の意思・認識も「無効」論を支持するものでなければならないのは不可欠の前提だったと思われる(日本国憲法は、昭和天皇の名において公布されているのだ)。
 主体・手続の問題はかつてもあっただろうが、60年後の現在と比べると、クリアできる可能性はまだ十分にあったと思われる。

 第二に、万が一上記の機関が権限主体たりうるとしても、「無効」宣言・「破棄」をする現実的可能性はあるか、という問題に、日本国憲法「無効」論はぶつからざるをえない。 
 A氏は正当にも次のように述べる-「現実問題として現憲法の廃棄なり無効宣言をするには、現憲法は正統性を有せず無効とする考えを持つ国会議員が衆参両院においてそれぞれ過半数いることが必要です」(p.331)。
 この必要性が充足される可能性に言及してはいないが、B氏がたんに<可能だ>という旨を回答しているにとどまるのに比べると大きな(第二の)違いで、より現実的に考えておられるようだ。
 しかし、上の「必要」性が充足されるとは、到底考えられない。
 現在、いくつかの政党が憲法改正案を発表しているが、<すべて>が、現憲法=日本国憲法は憲法として有効なものであることを前提としている。そしておそらくは、現在の国会議員の全員が(または少なくとも99%)が、日本国憲法を「無効」と考えてはいないものと思われる。
 つまり、「無効」論に立って国会議員を送り出している政党はゼロであり、「無効」と考えている国会議員はゼロか、存在しても1~2名だろう。
 このような状況において、各院の国会議員の「過半数」が日本国憲法「無効」論に与する可能性は皆無(ゼロ)だと言い切ってもよい、と考えられる。
 最高裁判所の裁判官についても同じことが言えるだろう。
 石原慎太郎のいう「内閣」説に立てば、現実的可能性はもう少し高くなりそうではある。しかし、それは法的には一種の<革命>か<クーデター>で、失敗する後者ではなく成功する前者になるためには、少なくとも国民の「過半数」(現実的には最低でも2/3以上)の賛同に支えられていないといけないだろう。
 しかして、国民の意識はどうだろうか。日本国憲法「無効」論の存在自体を知っている国民すら、おそらくは10%以下だろう。
 そのような現実が誤っており、正しい教育、正しい情報提供・言論活動をしていけば、必ず過半数のまたは2/3以上の国民が現憲法は「無効」のものだと認識するはずだ、と考え、主張するのも、論理的には誤っているわけではない。
 しかし、そのような状況に達することを目指して活動するよりも、<憲法改正>というかたちで、実質的に<自主憲法>を制定することの方が、はるかにてっとり早く、現実的可能性もはるかに高い。
 なお、一時期、<維新政党・新風>という政党がこのブログサイトにも登場していて、2007年参議院選挙に候補者を立てたりしていたが、この政党?が、明言してはいないものの、日本国憲法「無効」論に親和的であるようにも感じられた。だが、この政党は一人の当選者(国会議員)も出してはいない。
 ここまで書いてネット上で調べてみると、この政党?も、現憲法を「国際法違反の占領基本法」と(渡部昇一と同様に)称しつつ、憲法「改正」を志向しているようだ。→ 
http://seisaku.sblo.jp/article/3621051.html
 このような状況ではますます、国民の多数が「無効」論を支持し、国会議員の過半数でもって「無効宣言(・決議)」が行われる可能性はほとんどゼロであり、「夢想」にすぎない、というべきだ。
 月刊正論編集部は、こんな問題に2頁余を割くよりも、そんなスペースがあるならば、憲法改正の具体的内容に関する議論を掲載したらどうか。
 石原慎太郎を尊敬してはいるが、「しっかりした内閣」による現憲法「破棄」論だけは、気分・情緒は理解できても、支持することができないものだ(都民により「直接に選出」された東京都知事という地位もまた、日本国憲法の一条項にもとづく)。  

1107/橋下徹は佐々淳行・「正論」にツイッターで答えていた。

 一 佐々淳行産経新聞2/24の「正論」欄で橋下徹・「維新八策」に論及していることはすでに触れた。
 月刊ボイス5月号(PHP)の中に佐々淳行「日米安保条約改定を『八策』に加えよ」があることを知り、「正論」欄と似たようなことを書いているのかと思ったら、何と、上の佐々淳行「正論」に対して、同じ2/24に橋下徹はトゥイッターでコメントしたらしい。
 佐々淳行の文章によると、産経新聞2/24で「国政を担うには外交、安全保障分野への認識が著しく欠けている、と厳しい論調で批判したのだ。そのうえで、『天皇制の護持』や『憲法九条改正』などが必要だと指摘した。/すると同日午後一時過ぎに、橋下氏はツイッターで私に対するコメントを発表した」。
 1カ月以上前のことであり、また、橋下徹ツイッターのフォロヤーには無意味かもしれないが、以下、橋下徹の対佐々淳行コメントの全文をそのまま掲載(転載)しておく。
 二 「佐々さんのご意見も厳しいご意見ではあるが、役立たずの学者意見とは全く異なり、国家の安全を取り仕切ってこられた実務者の視点で迫力あるご意見です。」(posted at 13:09:54、以下省略)

 「佐々さんのご主張はまさに正論。内容自体に反論はありません。ただし、今の日本が動くようにするためにはどうすべきかの観点から、僕は次のように考えています。まだ維新の案として確定したものではありません。佐々さんの言われるように、日本は国家安全保障が弱い。これは全てに響いてきています。」
 「世界では自らの命を落としてでも難題に立ち向かわなければならない事態が多数ある。しかし、日本では、震災直後にあれだけ「頑張ろう日本」「頑張ろう東北」「絆」と叫ばれていたのに、がれき処理になったら一斉に拒絶。全ては憲法9条が原因だと思っています。」
 「この憲法9条について、国民的議論をして結着を付けない限り、国家安全保障についての政策議論をしても何も決まりません。国家の大きな方針が固まっていないのですから。しかし憲法9条議論や国家安全保障議論をしても結局憲法改正は非現実ということで何も動かない。学者議論に終始。」

 「だから僕は仕組みを考えます。決定でき、責任を負う民主主義の観点から。憲法96条の改正はしっかりとやり、憲法9条については国民投票を考えています。2年間の議論期間を設けて国民投票。この2年の間に徹底した国民議論をやる。」
 「これまでの議論は決定が前提となっていないから、役立たず学者議論で終わってしまう。その議論でかれこれ何十年経つのか。決定できる民主主義の議論は決定が前提の議論。そして期限も切る。2年の期間で、最後は国民投票。この仕組みを作って、そして国民的に議論をする。」

 「朝日新聞、毎日新聞、弁護士会や反維新の会の役立たず自称インテリは9条を守る大キャンペーンを張れば良い。産経新聞、読売新聞は9条改正大キャンペーンを張れば良い。2年後の国民投票に向かって。そして国民投票で結果が出れば、国民はその方向で進む。」

 「自分の意見と異なる結果が出ても、それでも国民投票の結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う。9条問題はいくら議論しても国民全員で一致はあり得ない。だから国民投票で国のあり方を国民が決める。そのために2年間は徹底して議論をし尽くす。意見のある者は徹底して政治活動をする。」
 「その上で国民投票の結果が出たら、国民はそれに従う。そんな流れを僕は考えているのです。佐々さん、そう言うことで、今維新の八策にあえて安全保障については入れていません。憲法9条についての国民の意思が固まっていない以上、ここで安全保障政策について論じても画餅に帰するかなと。」

 「憲法9条について国民意思が確定していない日本において、それを確定するというのが僕の考えです。あくまでもシステム論です。まずはその決定できる仕組みを作る。仕組みができれば、次に実体論に入る。実体論から先に入ると、その賛否によって決定できる仕組みすら作ることができません。」

 「まずは憲法9条について国民意思を固める仕組み作りが先決だと思います。佐々さん、またご意見下さい。」
 翌日の2/25にもある。

 「政治は学者や論説委員の議論と違う。決定しなければならない。実行しなければならない。自民党が憲法改正案を出すらしいが、本当にこのようなやり方で憲法問題が結着すると考えているのであろうか?憲法改正案を選挙の公約に掲げて、仮に自民党が勝ったとしても、選挙が全てでないと言われる。」(posted at 09:35:36、以下、省略)

 「自民党に投票したけど、憲法問題は違うと必ず言われる。政策等であれば、選挙結果に従って欲しいと言えるだろうが、憲法の本質的価値に触れるところまでそれを言えるだろうか?首相公選、参議院の廃止は、分かりやすいので選挙になじむ。しかし憲法9条はどうだろう?これは選挙になじまないと思う。」 
 「政治には自分の価値観を前面に出すことと、国民の価値を束ねることの2つの側面があると思う。これは領域、状況によって使い分けるものであり、その使い分けもまた政治と言える。自称インテリは後者ばかりを言う。それでは現実の課題は解決しない。議論ばかり。」

 「しかし憲法9条問題こそは、国民の価値を束ねて行くことが政治の役割だと思う。自らの価値を前面に出すのではなく、国民に潜在化している価値を顕在化していく作業。単なる議論で終わるのではなく一定の結論を出す。そういう意味では、憲法9条問題は選挙で決するのではなく、国民投票にかけるべきだ。」

 「選挙の争点には、憲法9条の中身・実体面・改正案を掲げるのではなく、憲法9条問題に結着を付けるプロセス、仕組み、手法、手続きを掲げるべきだと思う。この点は、今後維新の会で議論していきます。」

 「簡単に言えば、憲法9条は色々な政治公約の一つとして選挙で決めるのではなく、憲法9条だけを取り上げる国民投票で決めましょうということです。この問題はある種の白紙委任で政治家に委ねるわけにはいかないと思う。」 

 「一定期間を定めて国民的大議論。そして国民投票の結果には皆で従う。反対の結果が出た国民も国民投票の結果に従う。だからこそ自分の主義主張がある人は一定期間内に徹底して国民に訴えかける。その上で結果が出たなら潔くその結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う。」

 「憲法9条については国民的大議論を巻き起こす裏方役が政治家の役割だ。政治家が憲法9条について自分の価値観を前面に出せば出すほど、憲法9条問題は決着しない。政治家は学者と違う。自分の考えを控えることが決定のための必要条件なら自分の考えを押し殺す。決定こそ政治だ。」

 「佐々さん、幕末の世は民主主義ではありませんでした。ですから坂本竜馬は船中八策で国家安全保障のことを一人で決しました。しかし、今の世は国民主権です。国家安全保障を決するのも国民です。憲法9条問題は、国民全員が坂本竜馬です。その裏方を引き受けるのが政治だと思います。」

 以上。
 三 ・内容は、憲法9条改正問題が中心になっている。この問題についての橋下徹の考えについて、私はこの欄で「世論の趨勢を測りかねていて、個人的見解を明確にする時期ではまだないと判断しているように…推察している」と書いたことがある(4/11エントリー)が、少し異なるようだ。別の機会にコメントしたい。
 ・佐々淳行は、この橋下徹コメントを読んだうえで、「私は彼を『百年に一度の政治家』とみている。強い正義感と信念をもち、現代においてこれほど政策提言に命を懸ける人物はいないと思うからである」(ボイス5月号p.76)、「この戦闘機」=橋下氏の「敵・味方識別装置」は「有効に機能している」(p.82)等と、高く評価している。
 橋下徹は憲法9条改正に賛成と明言しているわけではなく、厳密には憲法9条改正問題について国民投票で決着をつけたいと考えている、と読めるが、この点も含めて、別にコメントする。
 ・しかしともあれ、一日平均11通(?)というツイッターで発信された橋下徹の文章を眺めていて、大阪市長という公職や維新の会代表を務めながら、よくもこれだけ書けるものだと本当に(それだけでも)、橋下徹に感心する。若い、まだ頭脳明晰、文章作成能力旺盛、むろん政策・行政に対する熱意十分、の証左だ。
 ・ボイス5月号の橋下徹特集(大阪府知事・松井一郎のものを除いて計4本、1つが佐々淳行のもの)のほか、中央公論5月号(中央公論新社)の橋下徹特集(計5本)も、すべて今日(4/16)読んだ。必要に応じて、別の機会に言及したい。
 四 PHP研究所と中央公論新社の上の二つと比べて、産経新聞社の月刊正論5月号の橋下徹特集の「貧弱さ」が目立つ
 上の二特集の計9本の論考(座談も含む)はいずれも面白く読める。観念的で現実感覚に欠けた論考がないからだ(中央公論5月号の北岡伸一論考には少し感じるが)。これらと比べて、月刊正論5月号の適菜収論考は「最低」・「最悪」だ、と言ってよい。すでに言及した、別の雑誌での中島岳志藤井聡の<反橋下>論考と優るとも劣らない「劣悪」さだ。
 中島岳志や藤井聡の論考は各雑誌のメインと位置づけられてはいなかったが、月刊正論5月号は適菜収論考のタイトルを表紙最右翼に大きく印字し、巻頭にもってくる、「売り」の論考と位置づけていたのだから、機能的には最もヒドく、「最悪」だ。
 あまつさえ、月刊正論の編集長自体が、自分自身は何ら詳論することもなく、橋下徹を「きわめて危険な政治家」、「目的は日本そのものを解体することにある」と明記したのだから、始末に負えない。バランスを取るために山田宏の(インタビュー)記事を載せたのだろうが、橋下徹を「デマゴーグ」等と断じる適菜収論考をメインにする編集・広告方針のうえでのものであり、かつまた編集長個人が山田宏とは異なる見解を明示するとは、山田宏に対して非礼でもあろう。
 上記の月刊ボイスや中央公論には、編集長(個人)の特定の考え方などはどこにも書かれていない。産経新聞社の月刊正論が、最も異様なのだ。産経新聞社の人々は、恥ずかしい、あるいは情けないと思わないのだろうか。

1104/「B層」エセ哲学者・適菜収と重用する月刊正論(産経)②。

 〇前回に引用・紹介した丸山真男の文章は、昭和22年(1947年)06月に「東大で行った講演」を母体にしたもので、丸山真男自身の著では、最も古くは、丸山・現代政治の思想と行動/上巻(未来社)の第二論文「日本ファシズムの思想と運動」の一部として、1956年12月に刊行されている(p.25以下、注記はp.190)。
 この講演録の中で、丸山は「まず皆さん方」(東大での聴衆)は「第二の類型」(=「本来のインテリ」)に「入るでしょう」と臆面もなく、言っている(当然に丸山自らもその一員だ)。ここでの「東大」とは、時期からすると、まだ東京帝国大学だったに違いない。
 丸山真男は「インテリ」を「本来の」それと「似非」・「亜」インテリに分けて、後者が「日本ファシズム」の社会的基盤だったするのだが、「日本ファシズム」とともに「インテリ」(インテリゲンチャ)という言葉は昨今ではほとんど使われなくなった。
 適菜収は<A層とB層>あるいは<一流と二・三流>の区別がなくなったことを今日の問題だと捉えているようだ。たしかに、<リーダー>、「ノブレス・オブリージュ」意識のある<エリート>の不存在(または稀少さ)が日本の問題の一つではあろうが、「インテリ」と「一般大衆」の区別の相対化・不明確化は、問題視しても簡単に元に戻るわけがない、客観的な現実だろう。
 同世代の半分もが大学に進学する今日では、少なくとも半分程度は「インテリ」意識を持っているかもしれないし、間違いなく「インテリ」だと自任しているかもしれない者もまた、実際には相当に「大衆」化している。
 そのような時代背景の変化をふまえれば、丸山真男の「似非」・「亜」インテリが「日本ファシズム」の社会的基盤だったとする丸山真男の議論は、「比較的にIQ(知能指数)が低い人たち」=「B層」を問題視し、批判している適菜収の議論と類似性がある。
 適菜収は橋下徹を「ファシスト」とは形容してはいないが、「全体主義」者である旨、民主主義が生む「独裁者」である旨は語っている(月刊正論5月号p.49、p.50)。
 丸山真男については竹内洋水谷三公らによる批判的分析もあり、竹内は丸山「理論」は東京大学の直系の研究者にのみ継承されるだろう、とかどこかで書いていたとか思うが、長谷川宏のように今なお「左翼」知識人・「進歩的文化人」だった丸山真男を称揚する新書を書いている「左翼」もいる(この三人の各文献についてはこの欄で言及している)。
 適菜収はどうやら自らを「保守」派だと、あるいは少なくとも「左翼」ではないと位置づけているようだが、「左翼」・丸山真男の上記のごとき「似非」インテリ論、<相対的にバカな者たち>論の影響を受けているのではなかろうか。丸山真男の議論・「政治思想」論は哲学・思想界にも(少なくともかつては強い)影響力を持っていたのだから。
 〇さて、気は進まないが、行きがかり上、月刊正論5月号の適菜収「橋下徹は『保守』ではない!」に批判的にコメントする。
 すでに最近、橋下徹関係の(月刊正論上の)4つの論考のうち最も空虚で観念的な言葉が並んでいる、と書いた。
 橋下徹を離れて一般論で言うと、間違いではないだろうことを書いてはいる。
 フランス革命時の「ジャコバン派」と「ナチス」を同類視し、ルソーを「全体主義の理論家」と形容しているのもそれにあたる。ハンナ・アレントの議論に肯定的に言及しているのも、よいだろう。
 ついでながら、ジャコバン派はのちにレーニンも明示的に肯定的に論及しており、ルソー→ジャコバン派(・フランス革命)→マルクス→レーニン(・ロシア革命)という系譜を語ることができるものだ。
 しかし、適菜収がその一般的な議論を橋下徹に適用するとき、あるいは「B層」を巧妙に騙す政治家だと断じるとき、実証性や論理の緻密さなどはまるでない。
 この適菜収によれば、選挙を経て、つまり「民意」によって選ばれた者はすべて「デマゴーグ」であり、「独裁者」であるがごとくだ。そんなことはないだろう。
 「橋下はアナーキストなので、イデオロギーは飾りにすぎません」(p.52)、「橋下は天性のデマゴーグです」(p.52)、橋下は「B層の感情を動かす手法をよく知って」おり、「その底の浅さはB層の『連想の質』を計算した上で演出されています」(p.52-53)といった言葉が並んでいる。だが、悪罵の投げつけだけの印象で、橋下徹批判としての説得力はほとんどない。むしろ、「B層」であれ何であれ、有権者大衆の「感情」を捉えることができるのは、今日の政治家としての優れた資質の一つではないかと、いちゃもんをつけたくもなる。
 適菜収の大言壮語・罵詈雑言はさらに続く。-①「この二〇年にわたる政治の腐敗、あらゆる革命思想、反文明主義、国家解体のイデオロギーを寄せ集めたものが、橋下の大衆運動を支えているのです」(p.55)、②「水道民営化、カジノ誘致、普天間基地の県外移転、資産課税、小中学生の留年、市職員に対する強制アンケート…。これはB層を大衆運動に巻き込むための餌です」(同上)。
 呆れたものだ。こんな文章が並んでいるのが、天下の?産経新聞社発行の論壇?誌・月刊正論の巻頭論文なのだ。
 今気づいたが、適菜収は「大衆運動」という語を使っている。この語は、丸山真男が使っていた「ファシズム運動」に似ている。
 この点はともかく、①のようによくぞ大胆に言えたものだ。橋下徹は、それほどでもないよと、却って恐縮するのではないか? ②について言うと、すでに実現しそうなものもある、橋下徹・維新の会の政策・主張はすべて「餌」か? 橋下徹が主張している<敬老パス>(市営交通の老人無料)の見直しもまた「B層」に対する「餌」なのか?
 論文というよりも場末の?喫茶店での雑談レベルで語られるような指摘を、適菜収は行ってもいる。-橋下徹は首相公選を主張しているが、それは「テレビタレントの橋下を首相にするための制度」だ(p.50-51)。これには笑ってしまった。橋下徹はそのようなことを考えている可能性が全くないではないとは思うが、適菜収はこのように何故、断定できるのだろう。
 また、<アホ丸出し>では藤井聡に<優るとも劣らない>次のような叙述もある。
 「地方分権や道州制は一番わかりやすい国家解体の原理です」(p.51)。
 藤井聡の勉強不足・知識不足を指摘する中ですでに書いたことだが、「地方分権・道州制」=「国家解体」とは、アホ(・バカ)が書く命題だ。
 この議論でいくと、国家内に「邦」・「州」を設けている国(アメリカ、ドイツなど)は解体していないといけないのではないか。連邦制は道州制以上に「分権的」だ。
 また、書かなかったが、戦前の日本においてすら、「地方自治」・「地方分権」制度がなかったわけではない。幕藩体制という相当に分権的な国家から明治日本は中央集権的な国家に変わったのだったが、それでも旧憲法のもとでの「市制」・「町村制」といった法律によって、市町村の「自治」がある程度は認められていた。市町村長は(有権者は限定されていたが)選挙で選ばれ、(現行憲法・法令と同様に)法令の範囲内での「自由な」行政・活動もある程度は認められていた。現在の(現憲法上の)「地方自治」も「法律の範囲内」のものであることに変わりはない。「地方分権」の要素は戦前は法律レベルで、現在は憲法レベルで認められているもので、「原理」的に「国家解体」につながるわけではない。
 橋下徹自身も書いていたと思うが、問題は「分権」の程度・内容、国と地方の「役割・機能」の分担のあり方にある。
 法学部・政経学部の学生のレポートでも書かれていないだろうようなことを、適菜収は、恥ずかしげもなく書いている。そんな部分を含む論考を、月刊正論が巻頭論文とし、大々的に宣伝し、編集部員は「とってもいい論文です」とブログ上で明記する。適菜収も自らを恥ずかしいと感じるべきだと思うが、桑原聡や川瀬弘至もまた、赤面すべきなのではないか。
 楽しくもない作業なので、この程度にしておく。
 まことにイヤな時代だ。川瀬弘至が「真正保守」を自ら名乗り、ひょっとすれば月刊正論や産経新聞全体が自分たちは「真正保守」の雑誌・新聞と考えているのだとすれば、日本の「保守」の将来は惨憺たるものだろう。

1103/「B層」エセ哲学者・適菜収と重用する月刊正論(産経)。

 〇月刊正論5月号の巻頭、適菜収「橋下徹は『保守』ではない!」は「保守ではない」と言っているだけで橋下徹を全面的に消極的に評価しているわけではないとの印象を持つ人や、そのように釈明する者もいるかもしれない。しかし、この論考は「橋下徹大阪市長は文明社会の敵です。そして橋下流の政治…の根底には国家解体のイデオロギーがある」という文章から始まっているいるように、全面的な、人格面も含む、橋下徹攻撃・非難の論考に他ならない。したがって、問題はたんに「保守」の意味・内容にとどまるものではない。
 月刊正論編集長・桑原聡が明言している、橋下徹は「きわめて危険な政治家」、「橋下氏の目的は日本そのものの解体することにあるように感じられる」、というのと全く似たようなことを、より長く書いているのが適菜収だ。
 編集部員の川瀬弘至もまた、イザ!内のブログで、適菜論考を「とってもいい論文」と評価し、川瀬が「保守」性を疑っている石破茂に読むことを勧めている(4/04エントリー)。
 ちなみに、川瀬弘至は自ら「保守主義者」と称し、さらに「小生、今後は『真正保守』を名乗らせていただきます」とまで明言している。
 そのような「真正保守」の方にはご教示を乞いたいこともあるので、別の回に質問させていただくことにしよう。
 〇さて、適菜収は月刊正論5月号で「B層」という概念を使い、橋下徹を「理念なきB層政治家」(タイトル副題)と称したりして「B層」を何度か用いているが、その意味をきちんと説明しているわけではない。
 ほぼ同じ時期に公表された、雑誌・撃論+(オークラ出版、2012.05)上の適菜収「B層政治家の見抜き方」(p.142~)の方が「B層」なるものについては詳しいだろう。
 これによると、「B層」とは「マスコミ報道に流されやすい『比較的』IQ(知能指数)が低い人たち」を意味する(p.142)。より簡単には「知能指数の低い者たち」、だ。
 こんな言葉がキーワードとして用いられる論文(?)に、まともなものはない、と思われる。また、自らは「B層」には含まれないことを当然の前提にしているようだが、「知能指数の高い」者ならば、そのこと自体をまずは疑ってみる方がよいように思われる。
 ところで、適菜の「B層」論という<じつに差別的な>議論を気持ち悪く感じながら読んで思いだしたのは、丸山真男の<ファシズムの担い手>論だった。
 この欄でかつて紹介したことがあるが、丸山真男は「日本ファシズム」も「中間層が社会的担い手」だったとし、以下の「層」が(日本ファシズムの)「社会的基盤」だったと断じた。丸山真男はこれを「疑似」又は「亜」インテリと称する。
 「たとえば、小工業者、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校職員、殊に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官
 これに対して、丸山真男によると、以下の「本来のインテリ」は、「ファシズムの社会的基盤」でなかったとする(つまり<免責>する)。
 「都市におけるサラリーマン、いわゆる文化人乃至ジャーナリスト、その他自由知識職業者(教授とか弁護士とか)及び学生層」。
 ここで丸山真男が「学生層」として念頭に置いているのは、彼が「皆さんのような」と呼んだこともある、東京帝国大学の学生(その他、広げても旧制大学の後身大学の大学生)だ。
 丸山真男と適菜収が同一のことを言っているのではなく、適菜の方がはるかに粗くて単純なのだが、丸山真男の上の区別も、何やら<知能指数の程度>による<職業差別>意識を背景にしているように見える。
 丸山真男のこの部分を読んで、アホらしい、まともな学問の結果ではないと思ったものだが、適菜収が書いていることについても、そのまま、あるいはそれ以上にあてはまる。
 適菜は要するに、<バカ>が多いから<バカ政治家>が生まれ、勝利する(=民主主義)、バカは政治家等の甘言にダマされやすい、したがってうまくバカを騙せる政治家等が勝利し、バカの「民意」を背景にして「独裁者」も生まれる、というようなことを、ときどきは外国人や歴史に言及したりしながら、言っているだけのことなのだ。
 じつは、行きがかり上、仕方なくこれを書いているようなところがあって、適菜の文章をまともに取り上げようとすることすら、本当はアホらしい時間潰しだと感じている。
 「大衆民主主義」時代における「大衆」を、私もまた基本的なところでは信頼してはいない。この点では、大衆=有権者は結局のところは適切な判断をするものだ、とかときどき書いている産経新聞の論説委員・コラムニスト等とは少し異なる。
 しかし、騙されやすい「大衆」を「『比較的』IQ(知能指数)が低い人たち」と定義して、思考し叙述する気はまったくない。
 騙しているマスメディア(や政治家)の責任の方がはるかに大きい。また、結果的には読者を騙そうとしている、月刊雑誌等の「論壇」の執筆者=評論家・大学教授たち(・「哲学者」?)の責任も大きいだろう。
 適菜収は、「かつて『B層を騙す側』にいたB層政治家がB層そのものになりつつある」と書いているが(撃論+p.143)、「かつて『B層を騙す側』にいたB層哲学者がB層そのものになりつつある」のではなかろうか。
 適菜収というまだ三〇歳代の自称「哲学者」は、大学・研究機関に所属しているわけでもなく、また、学術研究者(・哲学者)または「評論家」としてのまともな業績は全くかほとんどないようだ。
 こんな人物の「トンデモ」論考を巻頭に持って来て大々的に広告を打つ編集長がおり、また「とってもいい論文」だと評価する編集部員もいる月刊正論という雑誌は、まともな雑誌なのだろうか。
 このような疑問は、当然に産経新聞(社)自体にも向けられうる。

 産経新聞本紙はともあれ、月刊正論には常連の「保守派」の執筆者もいるとは思うが、こんな編集長・編集部員の依頼を受け、唯々諾々と従って文章を提供して金銭をもらって、編集長・編集部員の<考え方>・<質>については何の関心もないのだろうか?? 

1102/月刊正論編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言④。

 何度めになるのだろう、産経新聞4/06の「正論」欄で田久保忠衛が憲法改正の必要を語っている。そのことに反対はしないが、憲法改正(九条2項の削除、国防軍保持の明記を含む)の必要性をとっくに理解している者にとっては、そんな主張よりも、いかにして<改憲勢力>を国会内に作るかの戦略・戦術、そういう方向での運動の仕方等を語ってもらわないと、「心に響かない」。
 両議院の2/3以上の賛成がないと憲法改正を国民に発議できないのだから(現憲法上そのように定められているのだから)、いくら憲法改正の必要性を説いても、国会内での2/3多数派形成の展望を語ってもらわないと、厳しい言い方をすれば、ほとんど空論になるのではないか。
 現在のところ、憲法改正の具体的案文を持っているのは自民党で、さらに新しいものを検討中らしい。憲法改正にも現憲法第一章の削除を含む、かつての日本共産党の<日本人民共和国憲法案>のようなものもありうるが、自民党のそれは、九条改正・自衛軍設置明記等を含むもので、「左翼的」な改正ではない。
 自分が書いていながらすっかり忘れていたが、1年余り前に(も)、月刊正論編集長・桑原聡を、「月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは」と題して、批判したことがあった。
 月刊正論の昨年2011年の4月号の末尾に、自民党を「賞味期限の過ぎたこの政党」と簡単に断じていたからだ。桑原聡は同時に、「かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、<賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」とも明言していた。
 自民党については種々の意見があるだろうが、「はたして、かかる立場を編集長が明記することはよいことなのかどうか。それよりも、その<政治的>判断は適切なものなのかどうか」、という観点から批判的にコメントしたのだった。背景には、編集長が替わってからの月刊正論は編集・テーマ設定等が少しヘンになった、と感じていたことがあったように思う。
 一年前のこの言葉の考え方を桑原聡がまったく捨てているとは思えないので、彼にとっては、自民党は基本的には、「多くを期待できない」「賞味期限の過ぎた」政党のままなのだろう。
 しかし、産経新聞(社)は「国民の憲法」起草委員会まで設けたのだが、現在のところ、産経新聞社の見解に最も近い憲法改正を構想しているのは、自民党なのではないか。
 将来における<政界再編>によってどのようになるかは分からないが、憲法改正に向けての動きが進んでいくとすれば、現在自民党に所属している国会議員等が担い手になることは、ほとんど間違いはないものと思われる。
 しかるに、桑原聡のように、自民党を「多くを期待できない」「賞味期限の過ぎた」政党と断じてしまってよいのか
 桑原聡はこのように自民党を貶し、かつまた橋下徹を「きわめて危険な政治家だ」と明言する。この人物は、いったいどのような政党や政治家ならば(相対的にではあれ)肯定的・好意的に評価するのだろうか。ただの国民でも雑誌・新聞の記者でもない、<月刊正論>の編集長である桑原聡が、だ。
 読売新聞4/08安倍晋三が登場していて、橋下徹は憲法改正に向けての大きな発信力になるので期待しているといった旨を書いて(答えて?)いた(手元になく、ネット上で発見できないので厳密に正確ではない)。

 憲法改正の内容を橋下徹・大阪維新の会は具体的・明確にはまだ明らかにしていないが、国会議員連盟もあるらしい、憲法改正のための国会発議の要件を2/3超から1/2超に改正することには橋下徹は賛成している。憲法改正の必要性自体は、彼は十分に認識していると思われる。
 桑原聡は憲法改正には反対なのだろうか。大江健三郎、香山リカ、佐高信、立花隆らと同じく<護憲派>なのだろうか。
 そうではないとしたら、橋下徹を「きわめて危険な政治家だ」となぜ簡単に断じてしまえるのか。不思議だ。<異常な>感覚の持ち主の人物だとしか思えない。
 なお、佐々淳行産経新聞2/24の「正論」欄で、「橋下徹大阪市長に申す。国家安全保障問題、国家危機管理の問題こそが国民の龍馬ブームの源であり、物事を勇気を以て改めてくれる強い指導力を貴方に期待している国民の声なのだ。国政を担わないのなら、今の八策でもいいが、命をかけて、先送りされ続けた国家安全保障の諸問題を、貴方の『船中八策』に加え、国策の大変更を含めて平成の日本の国家像を示してほしい」、と書いている。
 この文章の途中で、「船中八策」には「一番肝心の安全保障・防衛・外交がそっくり抜け落ちて」いると批判もしている。
 このような佐々淳行の批判もよく理解できる(九条については、橋下徹は世論の趨勢を測りかねていて、個人的見解を明確にする時期ではまだないと判断しているように私は推察している)。

 だが、佐々淳行は最終的には<期待>を込めた文章で結んでいるのであり(最末尾の文章は「…など橋下市長の勇気ある決断を祈っている」だ)、きわめて穏当だと感じられる。
 大人の、まっとうな<保守>派に少なくとも求められるのは、橋下徹に対する、このような感覚・姿勢ではないだろうか。
 逆を走っているのが、月刊正論(産経)の現在の編集長・桑原聡だ。
 こんな人物が産経新聞発行の政治関係月刊誌の編集長であってよいのか。
 川瀬弘至という編集部員が、イザ!で月刊正論編集部の「公式ブログ」を書いているのに気づいた。この川瀬の文章の内容の奇妙さにも、今後は言及していくつもりだ。

1101/月刊正論編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言③。

 〇「産経新聞愛読者倶楽部」という名のブログサイトがあるようで、月刊正論5月号や産経新聞における適菜収とその内容を批判する投稿を紹介している。
 上の団体が本当に「保守」派なのかは知らないし(「左翼」の立場から産経を批判することはありうる)、他のブログからの引用・紹介はほとんどしたことがないのだが(もともと他のブログを見て読むことがほとんどない)、珍しくそのようなことをしてみる。
 〇4/07付で、「『B層』という嫌な言葉…産経新聞は橋下叩きをやめよ!」とのタイトルのもとで、まず、以下の投稿を掲載している(一部省略)。
 ①「産経新聞社発行の月刊『正論』5月号(3月31日発売)は『【徹底検証】大阪維新の会は本物か 理念なきB層政治家 橋下徹は『保守』ではない!』と題した論文をメーン記事として掲載しました。/筆者は適菜収という37歳の聞いたことのない哲学者です。この中で適菜は『B層』について『近代的理念を盲信する馬鹿』と定義して、橋下市長を『アナーキスト』『デマゴーグ』などと非難しています。/巻末の編集長コラム『操舵室から』でも桑原聡編集長が『編集長個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う』と表明しています。/
 雑誌を売るためにインパクトのある記事を載せているのなら仕方ないなと思っていたら、なんときのう(6日)の産経新聞1面左上(東京本社版)にも適菜収が登場して<【賢者に学ぶ】哲学者・適菜収 「B層」グルメに群がる人>というコラムを書いていました。B級グルメをもじって「B層グルメ」という言葉を紹介しています。『≪B層≫とは、平成17年の郵政選挙の際、内閣府から依頼された広告会社が作った概念で『マスメディアに踊らされやすい知的弱者』を指す。彼らがこよなく愛し、行列をつくる店が≪B層グルメ≫だ』そうです。/締めくくりは『こうした社会では素人が暴走する。≪B層グルメ≫に行列をつくるような人々が『行列ができるタレント弁護士』を政界に送り込んだのもその一例ではないか』です。橋下叩きを書くために、延々と食い物と『B層』の話をしているだけの駄文です。/
 われわれ保守派としては、橋下徹氏が今後どのような方向に進んでいくかはもちろん分かりません。自称『保守』の中には小林よしのりや藤岡信勝のような偽物もいました。しかし、職員組合に牛耳られた役所、教職員組合に支配された教育現場を正常化する試みは橋下氏が登場しなければできませんでした。自民党は組合との癒着構造に加わってきたのです。私は少なくとも現段階では橋下氏を圧倒的に支持します。/

 そもそも『B層』という言葉には非常に嫌な響きがあります。適菜がいみじくも『馬鹿』と書いているように、いろいろな連想をさせる言葉です。/
 ちなみに適菜収はサイモン・ウィーゼンタール・センターから抗議を受けたこともあります。/読売新聞平成19年2月22日付夕刊/徳間書店新刊書の販売中止を要請 米人権団体「反ユダヤ的」/【ロサンゼルス=古沢由紀子】ユダヤ人人権団体の「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)は21日、徳間書店の新刊書「ユダヤ・キリスト教『世界支配』のカラクリ」について、「反ユダヤ主義をあおる内容だ」として、同書の販売を取りやめるよう要請したことを明らかにした。同書の広告を掲載した朝日新聞社に対しても、『広告掲載の経緯を調査してほしい』と求めたという。/同書は、米誌フォーブスの元アジア太平洋支局長ベンジャミン・フルフォード氏と、ニーチェ研究家の適菜収氏の共著で、今月発刊された。サイモン・ウィーゼンタール・センターは反ユダヤ的な著作物などの監視活動で知られている。/
徳間書店は、「現段階では、コメントできない。申し入れの内容を確認したうえで、対応を検討することになるだろう」と話している。/
 産経新聞平成19年2月23日付朝刊/米人権団体『反ユダヤ的陰謀論あおる』本出版、徳間に抗議/【サンフランシスコ=松尾理也】米ユダヤ系人権団体のサイモン・ウィーゼンタール・センター(ロサンゼルス)は21日、日本で発売中の書籍「ニーチェは見抜いていた ユダヤ・キリスト教『世界支配』のカラクリ」(徳間書店)について、「反ユダヤ的な陰謀論の新しい流行を示すもの」と批判する声明を発表した。同センターは同時に、同書の広告を掲載した朝日新聞社に対しても、掲載の理由を調査するよう求めている。/

 問題となった書籍は、米誌フォーブスの元アジア太平洋支局長、ベンジャミン・フルフォード氏と、ニーチェ研究家、適菜収氏の共著。2月の新刊で、朝日新聞はこの本の広告を18日付朝刊に掲載した。/同センターは、同書の中に『米軍は実はイスラエル軍だ』「ユダヤ系マフィアは反ユダヤ主義がタブーとなっている現実を利用してマスコミを操縦している」などとする内容の記載があり、米国人とイスラエル人が共同で世界を支配しているという陰謀論をあおっているとしている。(後略)/
 産経新聞1面左上のコラム(東京本社版)は約30人の『有識者』が日替わりで執筆しています。適菜収がここに登場したのは初めてです。つまり適菜は執筆メンバーになったわけですが、いったい誰が登用したのでしょうか。産経新聞は適菜を今後も使うかどうか、よく身体検査したほうがいいでしょう。」
 この①の投稿文に関して、つぎのコメントが寄せられている。、
 ②「橋下市長を100%支持するわけではありませんが、適菜収の批判は嫌らしさを感じます。」
 ③「正論と産経新聞がこんないやらしい橋下批判をしたら、現場の大阪市役所や府庁の担当記者がどれだけ迷惑するか、産経の幹部は考えてやっているのでしょうか。」
 〇産経新聞本紙までが、「賢者」として適菜収を登用しているらしい。うんざりする。憲法改正、そのための<保守派>の結集のための事務局あるいは情報センターのような役割を、産経新聞に(ましてや桑原聡編集長の月刊正論に)期待することは、とても無理なようだ。
 適菜収という<怪しい哲学者>の文章については、あらためて私自身の言葉でコメントする。

1100/月刊正論編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言②。

 〇産経新聞1/24の「正論」欄、藤井聡「中央集権語ること恐るべからず」に対して、2/04に、「揚げ足取りと感じられる部分、橋下らの真意を確定する作業をしないままで批判しやすいように対象を変えている部分が見られ、まともなことを書いている部分が多いにもかかわらず、後味が悪い」から始まる批判的コメントを書いたことがあった。  上の藤井聡の文章について、当の橋下徹自身が、すぐさま1/24の夜に、ツイッターとやらで次のようにコメントしていることをつい最近に知った(私は橋下徹ツイッターの読者・フォローヤーではない)。
 「24日産経『正論』には愕然とした。藤井教授の震災復興で日本を強くするという趣旨の新書を読んでいたが、現実の政治・行政を預かる僕には、何も響かなかった。そして今回の正論。学者論評の典型だが、まず今の中央政府が機能しているという前提から入っている。現在の実態分析が何もない。」
 「行政機構が機能するためには、決定権と責任がはっきりとしていること。そして仕事の役割分担がきちんとなされていること。これが全てである。そして今の中央政府は、これが全くなされていない。だから行政機構を作り直そうと僕は言っているのである。」
 「藤井教授は、一から最適な政体を設計できる万能な人間などこの世にはいないという。確かに世の中に完璧な制度などない。しかし今よりも少しでも良いものを作ることに挑戦するのが政治である。学者は完璧な制度を研究するのが仕事なのであろう。」
 「そして藤井教授は、僕の言うところの地方分権、中央政府の解体が、中央政府の不存在だと曲解している。地方分権とは、中央政府と地方政府の役割分担の明確化である。現在、仕事がオーバーフローして機能していない中央政府を、身軽にして機能するようにする。これが地方分権なのである。」
 「藤井教授は行政機構をマネジメントしたことがない。ゆえに今の中央政府が機能不全に陥っていることが分からない。中央政府がやらなくてもいい仕事を中央政府がやっている。そのことが中央政府を弱くしているのである。」
 「そして国の出先機関を地方に移管することに反対しているが、これは国交省官僚の主張そのものである。まだこんな論を張るのかと愕然とした。確かに今回の東日本大震災において地方整備局は大活躍した。しかし地方へ移管しても同じ機能を発揮させる仕組みを考えれば良いのである。」
 「学者さんが陥るのは、問題提起された新しい制度についての批判点だけを挙げる。現実の政治・行政で重要なのは、現在の制度と新しい制度のどちらが良いのかという比較である。現在の制度の問題点の分析なのである。藤井教授は非常事態に備えて現在の地方整備局を維持せよと言われる。」
 「ところが現在の地方整備局の仕組みで、非常事態ではなく平時において、どれだけの問題点があるのかの分析が全くない。非常事態においては現在の地方整備局の形が必要だ!という主張しかしていない。地方の首長が現実の行政を仕切るにあたって、国の出先機関との関係でどのような問題意識を持っているか」
 「藤井教授の考えの根幹には中央と地方が相互に補完する関係を基調としている。現実の行政とはかけ離れた認識だ。これだけ複雑化した現代日本において行政の仕組みは複雑怪奇になり過ぎた。そして決定権と責任が全く分からなくなってしまった。非常事態が起きたときの行政機構の混乱ぶりは酷過ぎる。」
 「今新しい国づくりとしてやらなければならないことは、国と地方、そして地方部においても広域行政と基礎自治行政の役割分担、決定権と責任の整理・明確化。これが急務である。日本の中央政府を強くするためにも国の仕事をはっきりとさせて決定権と責任を明確化させる。これしかない。
 「行政機構も現実の人間が動かしている。生身の人間ができることなど知れている。藤井教授は中央政府にとてつもない幻想を抱いているがそれは研究室での話しだろう。普通の人間が適切・的確に仕事ができるような行政機構に改める。国と地方の役割分担。これが地方分権である。」
 「藤井教授は現在の体制で中央政府が強くなるとでも思っているのか?政治家を変える?もっと官僚組織を大きくする?組織が大きくなることと強くなることは全く別物。組織が強くなるということは大きさではない。機能することだ。」
 「国の出先機関、特に地方整備局を地方移管しても非常時に対応できるような仕組みを探る。これが現実の政治・行政論である。藤井教授の震災復興の著書が、現実の政治・行政を預かる僕の心に全く響かなかったのは、藤井教授の政府の実態分析の弱さ、そして組織を動かした経験のないことに起因する。」
 以上。1月24日23時54分以降。
 「現実の政治・行政を預かる」者が現実を知らない「研究室」の者に説諭しているようで、大人が子どもを説教するごとく、あるいは教師が学生を教示しているごとく、橋下徹と藤井聡の勝負?がまるで対決になっていないことは明らかだ。
 月刊WiLL4月号に藤井聡「橋下『地方分権論』の致命的欠陥」を掲載した編集長・花田紀凱にも、「地方分権とは、中央政府と地方政府の役割分担の明確化である。現在、仕事がオーバーフローして機能していない中央政府を、身軽にして機能するようにする。これが地方分権なのである」等の橋下徹自身の言葉をしっかり読んでおいていただきたい。
 〇たとえば上のようなことを橋下徹は(おそらくは推敲もしないで一気に)書いているのだが、月刊正論(産経)編集長の桑原聡は、橋下徹が「民意を利用する」「目的は日本そのものを解体することにあるように感じるのだ。なぜ解体するのか? 日本のため? それとも面白いから?」と同誌上で明記した。
 他の橋下徹の文章や政策等も含めて、いったいどこから、橋下徹は「日本そのものを解体」することを目的としている、という判断が出てくるのだろう?
 「左翼」論者の文章・文献の読み過ぎだろうか。
 桑原聡の感覚は<異常>だ。
 こんな感覚の持ち主が、産経新聞社発行の月刊正論の編集長であってよいのか。産経新聞社の多くのメンバーに尋ねたいものだ。

1099/月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言1。

 一 月刊正論(産経)の現在の編集長・桑原聡が、「個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う」と同5月号の末尾に書いている。740円という価格と情報量のCBA分析をして?やはり購入し、いくつかの論考等を読んだあとで見たのだが、喫驚した。
 少なくとも桑原聡が編集長でいる間は、月刊正論を新刊雑誌としては購買しないことにする。この欄の閲覧者にも、そのように呼びかけたい。
 「編集者個人の見解」としてはいるが、一頁分の編集後記にあたるものを一人で書いている、れっきとした編集長の文章であり、上のような、橋下徹を「きわめて危険な政治家」視する意識が、月刊正論の編集に反映されないはずはない。
 5月号の巻頭が先だって広告を見て言及したように、適菜収「橋下徹は『保守』ではない!」であり、表紙にも最大の文字で銘打たれているのも、桑原聡のかかる意識の現われだろう、と得心する。
 個人的にはそれこそどのように考えていてもいいとしても、このように明言するとは大胆で、珍しいと思われる。
 この月刊正論を発行している産経新聞社自体に問い糾したいものだ。
 第一。見解が分かれている中で、貴社の発行している雑誌の編集長が、上のような特定の「政治的」立場・見解を明らかにしてしまってよいのか
 第二。橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと明言する人物を、貴社の発行する雑誌の編集長にとどめているのは何故か
 産経新聞も、月刊正論も、岩波の「世界」や朝日新聞とは異なる、むしろそれらの対極にある「保守」派の、または「保守」的な新聞であり、雑誌であるという印象をもたれてきている、と言ってよいだろう。そして、その点に共感して購読・購入している国民も少なくないはずだと思われる。そしてまた、産経新聞における橋下徹に関係する記事は、したがって彼への注目度は、他紙に比較して多く、大きいような印象もある。
 しかるに、同じ会社が発行する月刊雑誌の編集長が上のように明言してしまうのは、そしてそのような考え方のもとで雑誌が編集されるのは、むろん雑誌編集の裁量がかなり認められているのではあろうが、貴社自身のマスメディアの一つとしての姿勢と整合しているのか
 二 桑原聡自身はなぜ橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと思うかの根拠・理由をほとんど書いていない(根拠にもならないような文章については後で触れる)。
 その代わりに、自分自身の考え方に近い適菜収の(低劣な)論考を巻頭にもってきて、自らの「個人的」な姿勢を反映させた、ということなのだろう。
 ということは、かりに橋下徹を肯定的に評価している編集長であったならば、山田宏「平成の『龍馬伝』がはじまった」から採って、「橋下徹は平成の龍馬だ!」というタイトルで大きく広告され、表紙も作成されていたのかもしれない。
 桑原聡はこの山田宏の論考も加えるなどして、編集の公平さを装っているようだ。そして「特集を読み判断していただきたい」と読者に判断を委ねるかっこうをつけている。
 それはそれで一見公平らしくも見えるのだが、しかし、上の一文は「橋下氏の目的は日本そのものを解体することにあるように感じるのだ。なぜ解体するのか? 日本のため? それともたんに面白いから? 特集を読み判断していただきたい」という文章の一部だ。念押し的に、橋下徹は<日本解体(論)者だ>との桑原聡の考え方を書いた上での言葉なのだ。
 一見読者の判断に委ねつつ、自己の見解の方向へと誘導しようとしている、情報操作・意識操作をしようとしていることは疑いえない。
 それにしても、上の文章の、上野千鶴子ら「左翼」にも似た、気味の悪さはどうだろう。「日本解体」が目的だろうとする論拠を示していないこともあまりにも不誠実で唐突だが、その後の?の連続部分からは、感覚・判断能力の<異常さ>をすら感じてしまう。
 産経新聞社にあらためて問うておこう。こんな内容の文章を唐突に書いてしまう人物は貴社発行の月刊雑誌編集者としてふさわしいのか、と。
 三 桑原聡の情報操作・意識操作の意図(・意識)にもかかわらず、橋下徹関係の四つの論考のうち、最も空虚、最も観念的で低劣なのは適菜収のそれであり、あとは大きな抵抗感なく読めるもので、橋下徹が「きわめて危険な政治家」だとの印象は(桑原の意図に反して?私は)まるで受けない。
 適菜収のものは別に扱いたいが(出発点の「B層」大衆論など、それこそファシスト紛いの気持ち悪いものだ)、山田宏は的確にポイントを衝いている。橋下徹は簡単に前言を翻すとか最近に書いたが、山田宏によると、橋下徹は「実際に会ってみると、じつに謙虚で人の話をよく聴く…。しかも、自説の間違いに気付くと素直に認めて撤回する」と、上手に説明されている(p.61)。

 佐藤孝弘「日本よ、『保守する』ことを学べ」は橋下を肯定的に評価してはいないが、消極的・否定的に論評してもおらず、性急な判断を避けている(あと一つは、内田透「かくて職員組合は落城せり」で、橋下徹を貶すような内容ではなく、むしろ逆かもしれない)。
 四 桑原聡は同じ文章の中でこうも書いている。
 「保守を自任ママ〕する人々まで、印籠を掲げて労働組合を組み伏せようとする橋下氏に喝采を浴びせるが、その矛先がいつか自分たちに向けられると考えたことはないのだろうか」。
 これも産経新聞社発行の月刊正論の現在の編集長の文章だ。
 先に紹介した部分と併せて見ても、どうやら、桑原聡にとっては<反橋下>は<情念>にまで高められているようだ。
 それに、上の文章には反論することが十分に可能だ。橋下徹が攻撃しようとしているのは「戦後体制」・戦後の既得権者たち(官公労働組合も当然に含む)であって、<戦後レジーム>の終焉、日本の「再生」を望む人々にとっては、喝采こそすれ何ら怖いものではなく、橋下徹を怖れているのは、現状に(そこそこ?)満足している、<戦後レジーム>に基本的な疑問を持たない、(そこそこに)利益を得てきている者たちではないか、と。
 桑原聡はどうやら、「左翼」と同様に橋下徹の矛先が自分に向けられることを怖れているようだが、それは、月刊雑誌の編集長にまで登りつめ?、さらに販売部数を伸ばして会社内で「いい気分」を味わいたいと思っている、その現状を「保守」したいからではないのか。
 桑原聡にとっては、現状はそこそこに安住できるもので、その現状・地位を橋下徹によって攪乱されたくない、というのが本音ではあるまいか。
 こういう意識は、昨年秋の大阪市長選で、橋下徹に対立した現職市長を民主党とともに支持した自民党市議団の意識とほとんど等しいと思われる。
 あらためて言っておこう。「右」からという粧いをとってはいるようだが、「右」からか「左」からかは不明なままに、日本共産党・民主党、両党支持の労働組合、そして上野千鶴子、香山リカ、山口二郎、佐高信等々の「左翼」論者と同様に、産経新聞社発行の月刊正論の編集長が、橋下徹は「きわめて危険な政治家」だと明言した。
 山田宏も指摘しているように、<保守>派の最大の課題と言ってもよい憲法改正(をシンボルとする「敗戦後体制」の破棄)の方向で、産経新聞や月刊正論の記事・論考の多くの字数よりもはるかに大きな影響力を、橋下徹の今後のひとこと・ふたことが持つだろう(p.58参照)。そのような人物を「危険」視するとは、とりわけ月刊正論の編集長としては、桑原聡の感覚は<異常>なのではないか。
 五 産経の月刊正論が「橋下市長に日本再生のリセットボタンを押させまいと、イメージ悪化を狙ったさまざまな妨害活動を仕掛けてくる」(山田宏、p.59)ようなことのないように、切に望みたい。
 桑原聡では危ない。月刊正論(産経新聞社)は、編集長が替わるまで、新刊本としては購入するのは避けた方がよい。買うとしても、桑原聡編集長による月刊正論の販売部数が一部でも増えないように、発行後しばらくして、アマゾンあたりのお世話になることにしよう。

1097/安倍晋三は正しく橋下徹を評価している。

 一 安倍晋三は4/02のBS朝日の放送の中で、大阪市の橋下徹市長を「こういう時代に必要な人材だ」と評価したらしい(ネットのの産経ニュースによる)。
 いろいろと問題はあり、あやういところもあるが、<保守>派は、橋下徹という人間を大切にしなければならない、あるいは大切に育てなければならない
 安倍晋三には同感だ。
 これに対して、谷垣禎一は、橋下徹・大阪維新の会への注目度の高まりについて、先月、ムッソリーニやヒトラーの台頭の時代になぞらえた、という(同上)。
 自民党リベラル派とも言われる谷垣と朝日新聞がかつて「右派政権」と呼んだときの首相だった安倍晋三の感覚の違いが示されているのかもしれない。
 ムッソリーニ、ヒトラーを引き合いに出すのは、昨秋の選挙前に、日本共産党の府知事選挙候補者が大阪市長選への独自候補を降ろして民主党・自民党と「共闘」して前市長の(当時の現職の)候補に投票したことについて<反ファシズム統一戦線ですよ>と述べた感覚にほとんど類似している。
 <反ファシズム統一戦線>という「既得(利)権」擁護派に勝利したのが橋下徹・大阪維新の会だった。日本共産党や「左翼」労組がきわめて危険視し警戒した(している)のが、橋下徹だ。
 そういう人物について「保守」ではない、といちゃもんをつけている月刊正論(産経新聞)または適菜収中島岳志の気がしれない。
 別の機会にあらためて書くが、佐伯啓思が「敗戦後体制」の継続を疎み、それからの脱却の必要性を感じているとすれば(佐伯啓思・反幸福論(新潮新書))、その方向にあるのは橋下徹であって、「敗戦後体制」のなれの果てとも言える、自民・民主・共産党に推された対立候補の平松某ではなかったはずだ。その点を考慮せずして、あるいはまったく言及せずして、なぜ佐伯啓思は、橋下徹批判だけを口にすることができるのか。
 優れた「思想家」ではある佐伯啓思は、週刊新潮にまで名を出して(週刊新潮4/05号p.150)「橋下さんのようなデマゴーグ」等と橋下徹を批判している。インタビューを拒むことも出来たはずなのに、佐伯啓思は自分の名を「安売り」している。佐伯啓思のためにもならないだろう。
 なお、橋下徹を批判する(とくに「自称保守」派の)者やメディアは、橋下徹を支持または応援している、石原慎太郎、堺屋太一、中田宏、古賀茂明等々をも批判していることになることも自覚しておくべきだろう。
 二 橋下徹があぶなかしいのは、例えば<脱原発>志向のようでもあることだ。彼は、現時点では福井県大飯原発の再稼働に反対している。
 私はよくは解っていないが、別に書くように、<脱・反原発>ムードの「左翼」臭が気になる(大江健三郎らの大集会の背後に、または平行して、日本共産党の政策と動員があった)。必要以上に危険性を煽り立て、日本の経済の、ひいては、健全な資本主義経済の発展を阻害することを彼らはイデオロギー的に意図しているのではないか。
 コミュニスト・「容共」を含む「左翼」は、基本的に資本主義に対する「呪い」の情念を持っていて、資本主義経済がうまく機能することを邪魔したいし、同じことだが、「経済」がどのようになっても、破綻することになっても(それで自分が餓死することはないとタカを括って)平気でおれる心情にある。枝野幸男経済産業大臣にも、それを少しは感じることがある。
 しかし、橋下徹はそのような<イデオロギー的>脱・反原発論者ではなさそうだ。
 青山繁晴によると、大阪府知事・市長の二人は原発問題について「ダマされている」とナマのテレビ番組で述べたあとで、(楽屋で?)二人と話したとき、橋下徹は<関西電力から情報を出させたいだけですよ>旨を言った、という(某テレビ番組による)。
 けっこう前言を翻すこともある橋下徹は、また<戦術>家でもある橋下徹は、この問題についても、納得ずくで意見を変える可能性はあるだろう。
 ついでにいうと、大阪府市統合本部とやらは関西電力の原発について「絶対的」安全性を求めるようだが、これは無茶だ。この点では、「絶対的」という条件には反対だったという橋下徹の考え方の方が正常だ。
 市販されている薬剤でも使用方法によっては死者を生み出す。売られ、乗られている自動車によって、毎日20人程度は死亡している(かつては一年間の交通事故死亡者は1万人を超えていた)。にもかかわらず、自動車の製造・販売中止の運動または政策があったとは聞いたことがない。<生命最優先>は現実のものにはなっていない。
 「絶対的」に安全なものなどありはしない。<リスク>と共存していく高度の知恵を磨かなければからない。―という、しごくあたり前で抽象的な文章で今回は終える。
 冒頭に戻って繰り返せば、安倍晋三の橋下徹に関する感覚はまっとうだ。

1095/水島総、適菜収、橋下徹、野田内閣。 

 〇水島総が、「撃論+(プラス)」という雑誌(oak-mook。2012.04)で、「今、最も問題なのは、反日メディアや反日政治家、反日財界なのではない『戦後保守』と言われる言論人の一種の頽廃というべき姿である」と書いている(p.171)。
 現在の「保守」派がかなり混乱していることは確かだと思われ、「頽廃」という形容が的確かは悩むが、私とも問題関心に共通するところはあるだろう。
 このようなブログだから「保守」派のあれこれに対して批判的な言辞も吐いてきた。100%信頼できる人物はいないと(残念ながら)感じているので、テーマ、論点に応じて、櫻井よしこ、西尾幹二、佐伯啓思等々を批判したこともある。だが、<このようなプログだから>影響力は微々たるものだとの自覚があるからなのであり、保守派内部の対立・軋轢を拡大する意図はない。
 産経新聞社も(以前から)意図しているようである憲法改正にしても、現憲法を前提にすれば(なお、石原慎太郎の「破棄」論は精神論としてはともかく、現実的には無謀だ)国会内に2/3以上の改憲勢力を作らなければならず、有権者国民の過半数の支持を受けなければならない。
 産経新聞3/31に論説委員・皿木喜久が書いているように(この人にはまともな文章が多い)、かりに憲法を軸にした「保守合同」を展望するとしても、それは命がけ」で取り組まれなければならない課題だ。
 そうした状況において、「保守」派内部において、「自称保守」とか「エセ保守」とか言い合っている余裕は本来は十分にはないはずだ。あるいは個々の論点について対立してもよいが、憲法改正、正確にはとくに現憲法九条2項の削除と「国防軍」の設置(「自衛軍」という語よりもよいと思う)、についてはしっかりと<団結>しておく必要があろう。

 憲法・国防といった国家の基本問題に比べれば、橋下徹・現大阪市長をどのように評価するかなどという問題は「ちんまい」テーマだ。
 にもかかわらず、産経新聞社の月刊正論5月号は、3/31の大きな広告欄によると、「橋下徹は『保守』ではない!」という一論考のタイトルを最大の文字の惹句にしている。
 「国民の憲法」起草委員会を作ったのだったら憲法改正大特集でも不思議ではないが、上の文字を最大の謳い文句にする感覚は(私には)尋常とは思えない。
 上の論考の執筆者らしい適菜収は冒頭掲記の「撃論+」にもたぶん似たようなことを書いているので、―今回は立ち入らないが―主張内容はおおよその推察ができる。「評論家」の佐伯啓思にもむつかしい問題に「哲学者」が適切に対応できるとはとても思えないが、この、よく知らない適菜収という「哲学者」にとっては、またとない「売名」の機会になったことだろう。あるいはまた、橋下徹をテーマにすれば(とくに批判すれば)<売れる>という月刊正論編集部の<経営的>判断に乗っかかっているだけなのかもしれない。
 ついでだから立ち入るが、「撃論+」の中の小川裕夫「検証/橋下改革は本当か?」(p.150-)の方が、橋下徹について冷静にかつ客観的に判断しようとしており、性急な結論づけをしていない。
 このような性急に単純な結論・予測を述べない姿勢の方が好感をもてる。「撃論+」よりも数倍の(十倍以上の?)読者をもつだろう月刊正論の編集部が、<橋下徹は保守ではない!>と訴えたいらしいのはいったいどうしてなのだろうか。まだ民主党政権のゆくえや解散・総選挙問題を直接のテーマにする方が時宜にかなっているように思われる。
 〇水島総の文章に戻ると、しかし、水島がいう「戦後保守」の「頽廃」の意味、したがってまた水島の考えている「(真の)保守」の意味は必ずしも明確ではない。水島は次のように書く。
 ・保守を標榜しつつも「TPP参加や増税、女性宮家創設等で分かるように、GHQ日本国憲法内閣と言ってもいいほど」なのが野田民主党内閣の本質であり、「日本の国体そのものの解体を目ざしている」にもかかわらず、「戦後日本意識」を脱し切れず、有効に批判できていない。「戦後保守と呼ばれる言論人は、野田内閣の『改革路線』を批判出来ず、野田内閣に一定の支持を与えたり、政権権力にすり寄る、まことに見苦しい迷走を続けている」(p.171)。
 ここで批判されている「戦後保守」言論人とはいったい誰々なのだろうか。
 「TPP参加」を批判されるべき野田内閣の政策の一つとして挙げているところを見ると、櫻井よしこ、竹中平蔵あたりなのだろうか(きちんと確認しないが、岡崎久彦もこれに反対ではなかったようだ)。政権権力に「すり寄る」とは厳しいが、櫻井よしこは野田内閣への期待を明確に(産経新聞紙上で)述べたことがある。
 だが、「TPP参加」に反対するのが「(真の)保守」とは私は考えないし、「保守」か否かで簡単に判断できるものでもないように思っている。
 月刊正論に連載欄を持っている水島総の「保守」派性を(その内容から見て)微塵も疑いはしないが、具体的問題となると、私とまったく同じように考えているわけでもなさそうだ。
 急いで書かれただろう文章にあまり拘泥するのもどうかとは思うが、いま一つ、水島の論述には分かりにくいところがある。
 水島は、「アメリカ拝跪から中国拝跪へ」という時代の変化を語りつつ、いずれも「主権国家意識の欠如した戦後意識」に由来する点で共通する、と批判的に指摘している。
 この点はまだ分かるのだが、次の文章との関係はどうなるのだろう。
 ・「親米反中だから、保守内閣であるとの誤解は、冷戦構造が世界的に終焉した現在にあっては全く通用しない」(p.171)。
 後半の冷戦構造の終焉うんぬんは、そのままでは支持できないことは何度もこの欄で書いた。よく分からないのは、野田内閣を「親米反中」内閣と性格づけていることだ(なお、「保守」内閣だなどと私は「誤解」したことはない)。
 まず、「中国拝跪」意識を水島が批判しているところからすると、野田内閣の「反中」性を批判し難いのではないだろうか。
 つぎに、野田・民主党内閣は本当に「反中」内閣なのだろうか。なるほど、鳩山由紀夫、菅直人と比べると<中国拝跪>性は弱いようにも思えるが、「反中」とまで言いきれるのかどうか。具体的に<南京大虐殺>の存在を肯定しているわけでもない村山談話を継承すると(河村たかし名古屋市長発言問題に関連して)官房長官が答えるような内閣は「反中」なのだろうか。
 〇「保守」派を攪乱する意図はないし、そのような力もないが、いろいろと考え方あるいは表現の仕方が異なるのはやむを得ない。ひょっとすれば、水島総における「反米」性(TPP参加反対はこちらだろう)と「反中」性との関係がよく分からない、ということかもしれない。
 だが、早晩憲法改正の具体的展望が出て来たときには、水島総が、その先頭に立つ運動家の一人だろうことは疑いえないだろう。この点では「思想家」佐伯啓思らよりもはるかに信頼が措けそうだ。余計ながら、西部邁と中島岳志はまるであてになりそうもない、という印象を抱いている。中島岳志は、憲法改正、正規の軍隊保持などという「ラディカル」な変化の追及は、「保守主義」と適合しない、などと言い始めるのではないか(??!)。
 〇西部邁・佐伯啓思グループの隔月刊・表現者(ジョルダン)は、橋下徹批判特集の最新号からは購読しないこととした。駄文につき合っているヒマはない。前の「発言者」時代の古書を購入したことすらもあったのに、ある意味では寂しく、ある意味では爽快でもある。
 このグループの橋下徹批判よりもレベルが落ちていると疑われる適菜収論考が<売り>の論文として宣伝されている月刊正論5月号(産経)も購入したくないが、はて、どうしたものだろう。

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  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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