秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

昭和天皇

1345/資料・史料-近衛上奏文/1945.02.14(2)。

 近衛上奏文 昭和20年2月14日 (2)
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 〔09〕
 かくの如き形勢より推して考うるに、「ソ」連は、やがて日本の内政に干渉し来る危険十分ありと存ぜられ侯。(即ち共産党の公認、「ドゴール」政府、「バドリオ」政府に要求せし如く、共産主義者の入閣、治安維持法及び、防共協定の廃止等)
 〔10〕
 翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件、日々具備せられ行く観有之侯。
 即ち生活の窮乏、労働者の発言の増大、英米に対する敵慨心昂揚の反面たる親「ソ」気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動及びこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍等に御座侯。
 右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に御座候。
 〔11〕
 少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存侯。
 皇族方の中にも、 此の主張に耳を傾けられるる方あり、と仄聞致し侯。
 職業軍人の大部分は、中流以下の家庭出身者にして、其の多くは共産主義主張を受け入れ易き境遇にあり、又彼等は軍隊教育に於て、国体観念だけは徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て、 彼等を引きずらんとしつつあるものに御座侯。
 抑々満洲事変、支那事変を起し、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、是ら軍部内の意識的計画なりしこと、今や明瞭なりと存侯。
 満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座侯。
 支那事変当時も、「事変永引くがよろしく、事変解決せば国内革新はできなくなる」と公言せしは、此の一味の中心的人物に御座侯。
 〔12〕
 是ら軍部内一部の者の革新論の狙いは、必ずしも、共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云うも可、左翼と云うも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は、 意識的に共産革命にまで引ずらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存侯。
 此の事は過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到違したる結論にして、此の結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思い当る節々頗る多きを、感ずる次第に御座侯。
 不肖は、此の間三度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんがため、出来得るだけ是ら革新論者の主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座侯。
 〔13〕
 昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声、次第に勢を加えつつありと存侯。
 かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目釣を達せんとする共産主義分子なりと睨み居り候。
 一方に於て徹底的米英撃滅を唱う反面、親「ソ」的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座侯。
 軍部の一部はいかなる犠牲を払いても「ソ」連と手を握るべしとさえ論ずる者もあり、又延安との提携を考え居る者もありとのごとに御座侯。
 以上の如く、国の内外を通じ、共産革命に進むべき凡ゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともならばこの形勢は急速に進展致すべくと存侯。
 〔14〕
 戦局の前途につき、何か一縷でも打開の望みありと云うならば、格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之れ以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存侯。
 随って国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信致し侯。
 〔15〕
 戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし軍部内のかの一味の存在なりと存候。
 彼等は已に戦争遂行の自信を失い居るも、今迄の面目上、飽くまで抵抗致すべき者と存ぜられ侯。
 もしこの一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志、此の一味と対応して国内に一大波乱を惹起し、所期の目的を達成し難き恐れ有り侯。
 従って、戦争を終結せんとすれば、先ず其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座侯。
 此の一味さえ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに右翼左翼の民間分子も影を潜むべく候。
 蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに他ならざるが故に、其の本を絶てば、枝葉は自ら枯るるものとなりと存侯。
 〔16〕
 尚、これは少々希望的観測かは知れず侯えども、もし是ら一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、米英及び重慶の空気は緩和するに非ざるか。
 元来米英及び重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、その政策が改らぱ、彼等としても戦争の継続につき考慮する様になりはせずやと思われ侯。
 〔17〕
 それは兎も角として、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提、先決条件と存すれば、非常の御勇断をこそ願わしく奉り存侯。
 以上。
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 以上

1344/資料・史料-近衛上奏文/1945.02.14(1)。

 いわゆる<近衛上奏文>は秦郁彦も重きを置いておらず、「陰謀史観」を示す一つとして取り扱われている。
 しかし、数十年後には、異なる評価がなされることもありうるのではないか。
 もちろん、近衛文麿自身に変化がありえただろうことを意識しなければならないと思われる。
 以下、読みやすくするために、一文ごとに改行した。
 また、本来の改行場所との間の一段落を、山口富永・近衛上奏文と皇道派-告発・コミンテルンの戦争責任-(2010、国民新聞社)所収の資料を参考にして、〔01〕、〔02〕のような頭書を付した。
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 近衛上奏文 昭和20年2月14日 (1)
 〔01〕
 敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存侯。
 以下此の前提の下に申述べ侯、
 敗戦は我国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)随て、敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存ず。
 国体護持の建前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座侯。
 〔02〕
 つらつら思うに、我国内外の情勢は、今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存侯。
 即ち国外に於ては、「ソ」連の異常なる進出に御座侯。
 我国民は「ソ」連の意図は的確に把握し居らず、 かの一九三五年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近「コミンテルン」解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且つ安易なる見方と存侯。
 「ソ」連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座侯。
 〔03〕
 ソ連は欧州に於て其の局辺諸国には「ソヴィエート」的政権を、爾余の諸国には少くとも親「ソ」容共政権を樹立せんとし、着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之侯。
 〔04〕
 「ユーゴー」の「チトー」政権は、その最も典型的な具体表現に御座侯。
 波蘭〔ポーランド〕に対しては、 予め「ソ」連内に準備せる波蘭愛国者連盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切申し侯が、羅馬尼〔ルーマニア〕、勃牙利〔ブルガリア〕、芬蘭〔フィンランド〕に対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつ「ヒットラー」支持団体の解散を要求し、実際上「ソヴィエート」政権に非ざれば、存在し得ざる如く強要致し侯。
 〔05〕
  「イラン」に対しては、石油利権の要求に応ぜざるの故を以て、内閣総辞職を強要致し侯。
 端西〔スウェーデン〕が「ソ」連との国交開始を提議せるに対し、ソ連は端西政権を以て、親枢軸的なりとて一蹴し、之がため外相の辞職を余儀なくせしめ侯。
 〔06〕
 占頷下の仏蘭西〔フランス〕、白耳義〔ベルギー〕、和蘭〔オランダ〕に於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる斗争が続けられ、且つ是ら諸国は、何れも政治的危機に見舞われつつあり。
 而して是ら武装団を指導しつつあるものは、主として共産系に御座侯。
 独逸〔ドイツ〕に対しては波蘭に於けると同じく已に準備せる自由ドイツ委員会を中心に、新政権を樹立せんとする意図なるべく、これは英米に取り今日頭痛の種なりと存ぜられ侯。
 〔07〕
 「ソ」連はかくの如く、欧州諸国に対し、表面は内政不干渉の足場を取るも、事実に於ては、極度の内政干渉をなし、国内政治を親「ソ」的方向に引きずらんと致し居り候。
 〔08〕
 「ソ」連の此の意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安には「モスコー」より来れる岡野〔野坂参三〕を中心に、日本解放連盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。
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 <つづく>

1244/鳥居民評論集・昭和史を読み解く(2013.11)の一部。

 鳥居民評論集・昭和史を読み解く(草思社、2013.11)は著者の逝去後に編まれたようで、未公開だったものも含んでいる。
 その一部、p.110以下のうち、さらに一部のみをメモしておきたい。
 ・矢部貞治・近衛文磨は近衛の時代の不可欠の文献だが、「都留、ノーマンの記述は一行もない」。この本の刊行時、「ノーマンが近衛を戦争犯罪人だと告発した意見書」をGHQに「提出していたという事実は明らかにされていなかったから」だ。そして「ノーマンの協力者が都留であったという事実にも目は向けられることがなかった」。
 ・工藤美代子・われ巣鴨に出頭せずは「ノーマンと都留重人の役割を指摘していて画期的」だ。
 ・私(鳥居)は著書・近衛文磨黙して死すで、「近衛の死は都留重人とノーマンを利用して木戸が仕掛けたものだと論じた」。
 ・吉田茂は知っていたにもかかわらず、近衛を擁護しなかった。その理由は「天皇が近衛を嫌ったからだ」。「なぜ、天皇は近衛を嫌ったのか、内大臣の木戸が近衛を悪く言ったからだ」。/以上
 終戦・敗戦前のことに大きな関心は持たないのだが、共産主義勢力・コミンテルンが日本を戦争に巻き込み、拡大させた、アメリカ政府内にもコミュニストが根を張っていた等の話は当然に関心を持っている。上にいう「木戸」とは、当然に木戸孝允の孫・木戸幸一。
 鳥居民の所論も、今のところ得心している。
 そして、戦前にアメリカに留学してコミュニズム、アメリカ共産党の影響を受けた都留重人が、戦後は一橋大学の学長にまでなり、1960-70年代の論壇を代表する<進歩的文化人>であったこと、そして、日本国憲法を含む「戦後体制」の確立・維持を図った重要な人物であったことに、今さらながら戦慄を覚えざるをえない。

1171/<憲法は国民が国家を縛るもの>考。

 〇現憲法9条の「アクロバット」な解釈(読売4/17)を用いて、政府により自衛隊は「軍その他の戦力」に該当しない合憲の存在とされ、「自衛戦争」はできないが(国際法上または国家の自然権として認められる)「自衛権の行使」は(集団的自衛権のそれでなければ)許される、そのための核兵器の保有も禁止されていない、とされた。
 この常識的には苦しい解釈を政府が採ってこざるをえなかった大きな理由の一つは、正規の憲法改正・9条2項の改定が、国会内の1/3以上の「護憲」=少なくともかつては明確な親コミュニズム・親社会主義勢力の存在によってずっと不可能だったことによる。

 〇さて、<憲法は国民が国家を縛るもの>という正しそうな命題を肝心のわが日本国憲法にあてはめると、まずは、「国民」がこの憲法を制定したのか、という問題にぶちあたる。そして制定時の衆議院・貴族院は当時の国民を代表していたのか、前者の衆議院に限っても、実際には「制憲議会」となった衆議院議員選挙において国民や議員立候補者は「新憲法」案の内容をいかほどに知っており、いかほどの知識にもとづいて選挙運動や投票行動をしたのか等の疑問が生じる。結果として支持され、定着した、というだけでは、国民または国民代表が憲法を制定したことにはならないはずだ。
 現憲法が明治憲法(大日本帝国憲法)の改正手続にのっとり、新憲法施行と同時に廃止された貴族院での議論も経て、天皇(昭和天皇)により公布されたこと、そのかぎりで天皇が旧憲法を「改正」したといっても決して誤りではないことをどう見るか、という問題もある。
 日本国民でも昭和天皇でもなく、GHQが作った、という理解が、実態には最も近いように見える。たしかに一院制から参議院を含む二院制への変更など日本側の意見も採用されてはいるが、より基本的なところは<マッカ-サ-が1週間で作った>、憲法には素人のベア-テ・シロタや、法学部を出ていても憲法の専門家では決してないGHQの軍人たちが、応急的かつ大胆な原案を作ってそれが基本的にそのまま維持された、と言ってよいだろう。
 <憲法は国民が国家を縛るもの>というとき、日本国憲法のかかる出自に関する疑念・問題意識が湧かないようでは困る。
 上の諸論点には立ち入らない。「八月革命説」によるとその八月から新憲法施行までの期間はいかなる法状態だったのか、旧憲法は生きていたのか、少なくとも「非民主的」部分は失効していたのか等々の問題が生じる。学界では多数説になったらしいこの説の主唱者だった東京帝国大学教授・宮沢俊義は、この問題等々をじつに巧妙に説明または回避しているのだが、それの紹介も別の機会に譲る。
 そもそも「国民」は現憲法制定時に存在したのか、という大きな問題が、悲しくも、わが現憲法には付着している。
 つぎに、<国民が国家を縛る>というときの「国民」とは、上記の諸問題を一切捨象していうと、制定・施行時の「国民」に他ならない。日本についていうと、かつての、60年以上前に存在した国民が現在の国家を縛っていることになる。
 現在の「国家」のうち、最も意識されなければならないのは国民代表議会である国会だ。そうすると、憲法は国家を縛るとは、60年以上前の国民が現在(まで)の国会を拘束している、ということであり、国会が制定する法律を縛っている、ということを意味する。
 上のことは、憲法の決定的に重要な機能が、そのときどきの国民によって選出される議員によって構成される国会が制定する法律を「縛る」ことであることを意味している。要するに、法律は憲法に違反してはいけない、そのときどきの主権者国民の代表者でも超えられない、違反できない、枠あるいは基本的基準を憲法を定めている、ということだ。これをたんなる理念・理論で終わらせないために、司法部に法律に対する違憲審査権が与えられている(仕組みは憲法裁判所をもつドイツや韓国もあるなど種々だが、中国等とは異なる自由主義・三権分立国家では法律の合憲性が審査される)。
 ということは、さらにいえば、60年以上前の国民の意思が現在までの国民(および国民代表議会)を拘束してきたことになる、といえる。
 実際にも、法律を違憲とした(一部規定を無効とした)最高裁判決がいくつかある。

 <憲法は国民が国家を縛るもの>とは、平たくいえば、制定時の国民の意思がその後の国民(代表議会)の意思決定を制約するということだ。そして、前回書いたように、憲法を遵守している法律は、行政部や司法部を拘束する。そのようにして憲法は「国家」各部門を縛っていることになる。
 一般論としていうと上のとおりだが、問題ははたして60年以上前の国民の意思(とされているもの)がその後、そしてとくに現在においても絶対的なものなのか、だ。絶対的・永久的な拘束ではないことは、現憲法が(諸外国憲法と同様に)「憲法改正」に関する条項をもつことでも明らかだ。
 憲法改正は実際上困難だったが(96条の要件)、しかしつねに<よりマシな、よりよい憲法>を追求する姿勢を失ってはならなかった。だが、しかし、日本の憲法学の学者もマスメディアもほとんどと言ってよいほど、それを怠ってきた。まことに恥ずかしいことだ。

 いいかげんに目を覚まして、まともでふつうの国民に、あるいはまともでふつうの憲法学者やマスコミ等にならなければならない。
 以上、2013年4月時点での述懐。

0843/建国記念日(2/11)の産経新聞社説。

 産経新聞2月11日付社説は「建国記念の日」をとり挙げており、よい意味で異彩を放っている。
 朝日・毎日はもちろん日経・読売新聞もこの日の社説のテーマにしていない。社説どころか、朝日や毎日のこの日の朝刊には、「建国記念の日」に関する記事そのものが全くなかったのではないか。こんなことが朝日等において他の祝日(記念日)についてはあるのだろうか。
 かかる新聞の大勢の現状こそがむしろ異様と言うべきなのだろう。
 「神話が生きる国誇りたい」を大見出しとする産経新聞社説は「日本のように連綿と歴史が続き、神話的な物語に基づいて国の誕生を祝うという例は、むしろ例外なのである」とする。そういえばそうだと意表を突かれた感じで納得する。
 建国記念日の復活等は「多くの国民」が「日本の国づくりの歴史を通して、日本や日本人の生き方を考えようとしたからだ」という指摘にも納得する。「多くの国民」と言えるかどうかを(朝日新聞的立場のように)大いに疑問視する向きもあろうが、主権者・「国民の皆さま」を<代表>する国会が法律で決定したのだから、「多くの国民」と表現するのは決して僭称ではない。
 そして、建国以来の歴史に「国民はもっと誇りを持ってよいのではないか。その誇りがひいては、日本の国を愛し、日本の伝統文化や国語を大切にする心を養うことにもつながるだろう」との最後の一文にもほとんど違和感はない。
 <ナショナルなもの>を忌避し嫌悪しあるいは無視しようとする<(容共)左翼>の広範な存在によって、あるいはすでに長くなった<戦後の平和と民主主義(・国際協調主義)>風潮の継続の中で、日本の(長い)歴史への「誇り」を正面から語ることは困難になってきたという面があることを完全には否定できないだろう。
 そうした中では、産経新聞のあたり前のような主張がむしろ新鮮に感じられる。どこかが奇妙で倒錯した時代になってきている、と言うべきだろう。
 産経新聞社説も言うように、「神話というのは、そっくり史実ではあり得ない」、「しかし、記紀につづられた神話は、民族の生活や信仰、世界観が凝縮されたもので、単なる作り話ではない」、「神話は民族の貴重な遺産なのである」。
 私にとってはしごく当たり前の指摘だが、たとえば朝日新聞の論説委員等は、このように<日本神話>や日本の歴史を捉えないのだろう。明治以降はおろか古代についても、日本独特の<誇り>ある歴史ではなく、むしろ中国や朝鮮半島からの影響や<恩恵>を強調したい気分であるに違いない、と推測する。
 「神話というのは、そっくり史実ではあり得ない」のだが、産経新聞社説は日本国家の長い歴史に触れる中で、「建国当初の国家がそのまま現在につながり、神武天皇以来125代の長きにわたって皇統も継承されてきた」と書いている。
 この文章のうち「神武天皇以来125代の長きにわたって皇統も継承されてきた」という部分は、少し気になる。
 現在の日本史学界の支配的な理解だと、皇統が長く続いていることは認めるとしても、「神武天皇以来125代の長きにわた」る継承という部分は否定されるのではないか。
 マルクス主義史学がなお支配的な現在の日本史学界に従わないとしても、つまり私のような者でも、本当に「125代」なのか、そもそも「神武天皇」は実在したのか、という疑問は持っている。
 神武天皇(神日本磐余彦命)とのちに呼ばれた「天皇」が2600余年前に<建国したということになっている>という叙述ならばよい。だが、「2600余年前」はともかくとしても、「125代」前の初代の「神武天皇」は実在した、と断定するのは私でもいささか躊躇するところがある。
 安本美典説によると、古代(ここではどの天皇から以前かの議論には立ち入らない)の天皇の生没年・在位年数は信じられないが、天皇(にあたる、スメラノミコト?)の<代の数>自体の記憶は日本書記の編纂時あたりまで残り続けただろう、という。
 そうだとすると、「神武天皇」とそれ以降の十代程度の天皇もまた、彼らにあたる人物は実在した、ということになるだろう。
 そのような可能性を私も否定するつもりはない。イザナギ・イザナミに至る複雑な系譜(系図)が、天照大御神も含めて、全くの<捏造>とは思えない。
 だが、たとえば、大友皇子(天智天皇の子)はかつては(いわゆる天武天皇系の時代=ほぼ「奈良時代」には)天皇位継承の事実は否定され、明治になってから、弘文天皇と追号され、皇位を継承したと「認め」られたのではなかっただろうか(明治以前のことだったかもしれないが、そうだとしてもここでの本筋には関係がない)。
 「125代」というのはこの弘文天皇も一代として算入しているはずだ。そうだとすると、大友皇子(弘文天皇)の皇位継承が<正式には>認められなかった時代の理解をかりに継続させると、現在の天皇陛下は「125代」めの天皇ではあられないはずなのではないか?
 南北朝時代の皇位継承(数)に関する議論も全く生じえないとは思われない。要するに、学問的にいえば、天皇の代数は必ずしも絶対的に<正しい>ものではないのではないか?
 こんな意味では、産経新聞社説がてらうことなく(?)あっさりと「神武天皇以来125代の長きにわたって皇統も継承されてきた」と(「神話」ではなく)史実の如く書いていることには、やや驚くとともに、<勇気>すら感じる。
 この<勇気>は、必ずしも肯定的な評価を伴うものではない。
 記紀等をふまえると、「神武天皇以来125代の長きにわたって皇統も継承されてきた」と<されている>、という程度でよいのではないか。
 ちなみに、神功皇后や応神天皇を祭神とする古い神社はいくつもある(天照大御神はもちろん)。神武天皇を祭神とする神社は、明治になって以降に建てられた橿原神宮以外に、あるのだろうか。神武天皇の実在性は神功皇后や応神天皇(・天照大御神)よりも薄いのではないか、という感覚的な根拠として記しただけだが。
 元に戻して続ける。
 建国記念日に現在でも反対している活動家たちや違和感をもっているかもしれない平均的な(?)日本人は、その日が「2月11日」で、神武天皇が旧暦の元旦(1月1日)に「即位」し「建国」したのは<嘘くさい>と感じているだろう。
 たしかに神武天皇(神日本磐余彦命)が<元旦(1月1日)に「即位」した>というのは記紀に書かれてあるだけで客観的な証拠があるわけではない。産経新聞社説も述べるように「神話というのは、そっくり史実ではあり得ない」のだ。
 したがって、上の疑問には理由がある、と思われる。もっとも、そうでなくとも(2月11日でなくとも)、自民党政府に対する反対者、明治以降の日本国家(=「帝国主義」・「軍国主義」国家)によって作られた記念日などは全面否定したい者たち、つまり「左翼」活動家たちや朝日新聞等の「左翼」的マスコミ人士は、「建国記念の日」の設定そのものに反対する(反対した)だろう、と思われるが。
 一方、保守派の人々も、日本「神話」を完全な史実と誤解してはいけない。記紀においてすら、たしか、「神代」という言葉が使われて、「建国」時代のことが書かれているのだ。
 したがって、<元旦(1月1日)=新暦2月11日に神武天皇が即位し建国した>というのは、<神話>あるいは<伝承>であることを認める(少なくともその可能性を否定しない)程度の柔軟性をもっておくべきだろう。
 <神話>あるいは<伝承>によると、初代天皇がその日に即位し「建国」した<ことになっている>という程度で、何ら差し支えないのではないか?
 産経新聞社説の言うように、日本は、「神話的な物語に基づいて国の誕生を祝うという」世界でも例外的な・稀少な国なのだ。
 「連綿と歴史が続」いている、「神話的な物語に基づいて国の誕生を祝うという」国家であることに<誇り>をもって何が悪い、と思っている。そう、朝日新聞の若宮啓文あたりには言ってやりたい。
 最後に、唐突ながら、某神社(神宮)の境内に建てられている石碑に刻まれた、昭和天皇御製。
 「遠つおやの しろしめしたる大和路の 歴史をしのび けふも旅ゆく」
 「しろしめす」という語の意味はひょっとして問題になるかもしれないが、自らの「遠つおやの しろしめしたる…」という感覚は、やはり常人のものではない、とあらためて感慨を覚えるところがあった。「遠つおや」とは1200年以上前の「おや」なのだ…。このような「御製」が詠われる「天皇」(にあたる地位・職)をもつ国は、日本以外にあるのだろうか。こうした点も、日本の<遅れ>・<異様さ>だと、「左翼」人士あるいは反天皇の<合理主義者・インテリ>のつもりの者たちは、考えているのかもしれないが。

0782/資料・史料-2006.08.13「戦争責任」朝日新聞社説。

 資料・史料-2006.08.13「戦争責任」朝日新聞社説

 平成18年8月13日
//朝日新聞社説
  「「侵略」と「責任」見据えて 親子で戦争を考える
 「日本は侵略戦争をしたの?」「A級戦犯って、なあに?」「首相が靖国神社に参拝すると、なぜ問題になるの?」
 子供に問われ、困っているお父さん、お母さんも多いことだろう。
 戦後61年の夏。今や親も子も戦争を直接には知らない。しかし、戦争の体験がないからこそ、わだかまりなく歴史を見つめることもできる。
 日本の敗戦で終わった、あの戦争は何だったのか。その責任は、だれにあるのか。いろいろな本を手がかりに、親子で語り合ってみてはどうか。

 ●満州事変から泥沼へ
 最近は、左右のイデオロギーにとらわれずに戦争を直視する本が目につく。
 たとえば、評論家の松本健一さんの「日本の失敗」(岩波現代文庫)という本がある。1945年の敗戦に至るいきさつを豊富な資料で追っている。
 日本は明治維新の後、日清、日露の戦争に勝つ。朝鮮半島を植民地にし、中国に進出していく。
 15年近くも続く泥沼の戦争の始まりになったのは、日本軍が仕掛けた31年の満州事変だ。日本は現在の中国東北部にあたる満州を占領し、満州国を建てる。37年からは中国と全面戦争に入った。
 松本さんは、日本が第1次大戦中に中国への野心をむきだしにした「21カ条の要求」が転機だったと見る。米国との対立も深まり、41年に日本は「自存自衛」と「アジア解放」を掲げて、米英などとの「大東亜戦争」に踏み切った。これが戦後、「太平洋戦争」と呼ばれる。
 日本のアジアへの侵略だったのか、自衛の戦争だったのか。今も論争が続いているところだ。
 朝日新聞の4月の世論調査で、あの戦争の性格を聞いたところ、「侵略戦争」という答えが31%、「自衛戦争」が7%、「両方の面がある」が45%だった。両面性があるにせよ、侵略性を重視する人が多いということだろう。
 「大東亜戦争」は、中国への侵略戦争の延長・拡大だった。そうとらえる松本さんは「満州事変が世界戦争の序曲の役割を果たしたのは、それがまぎれもなく『侵略』であったからだ」と書く。
 私たちも同感だ。あの戦争で日本人は300万人、アジアで2千万人が亡くなったといわれる。日本の侵略を認め、それがもたらした惨状を見つめるところからしか、「戦後」は始まらない。

 ●大きかった戦争への憎悪
 こうした侵略戦争の罪を問うたのが、極東国際軍事裁判(東京裁判)だった。A級戦犯のうち、太平洋戦争を始めた東条英機元首相ら7人が絞首刑になった。
 東京裁判は、勝者の一方的な裁きだった。東条元首相らが問われた「平和に対する罪」は、終戦直前に戦勝国が定めたものだ。そうした問題はいくつもある。これをどう考えるか。
 作家の保阪正康さんは「昭和の戦争を読み解く」(中公文庫)で「勝者が裁くとはこういうことか、なるほど西洋文明とはこういう形の裁きを行うのか、と私たちは冷徹に見ればいい」と書いた。その上で、「六十年を経て改めて、あの時代と関わった国民一人一人が政治・軍事の裁判を行ってみたらどうだろうかと提言したいほどである」とつづる。
 もし日本人が自ら終戦直後に裁判をやっていたら、どうなっていたか。ベストセラーになった「昭和史」に続く「昭和史 戦後篇」(平凡社)で、作家の半藤一利さんはそう自問し、「もっとずっと多くの死刑判決が出たでしょう」と答えている。それほど戦争に対する悲惨な思いや憎悪が大きかったというのである。
 いま戦争責任を改めて問えば、どうなるだろうか。
 まず、罪の軽重はともかく、A級戦犯になった人たちの責任は免れまい。軍人や政治家として、中国を侵略し、その延長上に、無謀な太平洋戦争を進めた。その結果がおびただしい犠牲である。
 軍人ではほかに責任を問われるべき人もたくさんいるだろう。たとえば、満州事変を起こした中心人物だった石原莞爾元参謀らである。
 政治家では、軍人以外でただ一人死刑になった広田弘毅元首相よりも、日中戦争を始めた時の近衛文麿首相の方が、責任が重いのではないか。2度も首相を務め、戦争の拡大を防がなかった。戦犯容疑者になって服毒自殺したため、本人の貴重な言葉が法廷で語られなかったのは残念なことだった。

 ●天皇や新聞の責任
 実質的な権限はともあれ、昭和天皇は陸海軍を統帥し、「皇軍」の兵士を戦場に送り出した。終戦直後、何らかの責任を問う声があったのは当然だが、東京裁判には出廷さえ求められなかった。その権威が戦後の統治に必要だと米国が考えたからである。
 だからこそ、天皇は戦後の新憲法のもと、平和国家の象徴として生きることを重い任務として自らに課したのだろう。
 新聞も戦争をあおった責任を忘れてはいけない。失敗を再び繰り返さないことで罪を償うしかないと考えている。
 過去の歴史を素直に学べば、おのずと答えは出てくるはずだ。そんな共同作業を現代の親子に勧めたい。//

 *ひとくちコメント-「朝日新聞の4月の世論調査で、あの戦争の性格を聞いたところ、『侵略戦争』という答えが31%、『自衛戦争』が7%、『両方の面がある』が45%だった」とする。この叙述(・数字)はいわゆる<村山談話>が示す「(あの)戦争」観を国民の過半数が支持していないことを実質的には意味すると考えられるが、この社説より二年余り後、田母神俊雄論文の内容につき、朝日新聞社説は「ゆがんだ考え」と断定し、そんな考えの持ち主が「自衛隊組織のトップにいたとは。驚き、あきれ、そして心胆が寒くなる…」と書いた(次回に掲載)。

0781/資料・史料-2006.08.04「首相靖国参拝」朝日新聞社説。

 資料・史料-2006.08.04「首相靖国参拝」朝日新聞社説

 平成18年8月4日//朝日新聞社説
 
靖国参拝 嘆かわしい首相の論法
 靖国神社参拝にこだわり続けた5年間の、小泉首相なりの最終答案ということなのか。それにしては、なんともお粗末と言うほかない。
 3日付で配信された小泉内閣メールマガジンで、首相は年に1度の参拝に改めて意欲を示した。
 そのなかで「私の靖国参拝を批判しているマスコミや有識者、一部の国」に、こう反論している。「戦没者に対して、敬意と感謝の気持ちを表すことはよいことなのか、悪いことなのか」
 悪いなどとは言っていない。私たちを含め、首相の靖国参拝に反対、あるいは慎重な考えを持つ人々を、あたかも戦没者の追悼そのものに反対するかのようにすり替えるのはやめてもらいたい。
 首相はこうも述べている。「私を批判するマスコミや識者の意見を突き詰めていくと、中国が反対しているから靖国参拝はやめた方がいい、中国の嫌がることはしない方がいいということになる」
 これもはなはだしい曲解である。
 日本がかつて侵略し、植民地支配した中国や韓国がA級戦犯を合祀(ごうし)した靖国神社への首相の参拝に反発している。その思いにどう応えるかは、靖国問題を考えるうえで欠かすことのできない視点だ。
 ただ、それは私たちが参拝に反対する理由のひとつに過ぎない。首相の論法はそれを無理やり中国に限定し、「中国なにするものぞ」という人々の気分と結びつけようとする。偏狭なナショナリズムをあおるかのような言動は、一国の首相として何よりも避けるべきことだ。
 その半面、首相が語ろうとしないことがある。あの戦争を計画・実行し、多くの日本国民を死なせ、アジアの人々に多大な犠牲を強いた指導者を祀(まつ)る神社に、首相が参拝することの意味である。
 戦争の過ちと責任を認め、その過去と決別することが、戦後日本の再出発の原点だ。国を代表する首相の靖国参拝は、その原点を揺るがせてしまう。だから、私たちは反対しているのである。
 昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を抱き、それが原因で参拝をやめたという側近の記録が明らかになった。国民統合の象徴として、自らの行動の重みを考えてのことだったのだろう。もとより中国などが反発する前の決断だった。
 国政の最高責任者である首相には、さらに慎重な判断が求められる。
 憲法に関する首相の強引な解釈もいただけない。憲法20条の政教分離原則は素通りして、19条の思想・良心の自由を引き合いに、こう主張した。「どのようなかたちで哀悼の誠を捧(ささ)げるのか、これは個人の自由だと思う」
 19条の規定は、国家権力からの個人の自由を保障するためのものだ。国家権力をもつ首相が何をやろうと自由、ということを定めた規定ではない。
 こんなずさんな論法で、6度目の参拝に踏み切ろうというのだろうか。15日の終戦記念日に行くとも取りざたされるが、私たちはもちろん反対である。//

 *ひとことコメント-「憲法20条の政教分離原則」を持ち出すならば、歴代首相の正月の<伊勢神宮参拝>をも批判しないと論旨一貫しないのでは。

0711/朝日新聞4/23社説の<ご都合主義>-政教分離原則と靖国神社・伊勢神宮。

 一 新聞(一部?)報道によると、麻生太郎首相は、「集団的自衛権」に関する従来の政府解釈を改め、「集団的自衛権」の行使を肯定する方向の意向を明言した、という(この麻生発言以前の執筆と見られるが、この問題につき、月刊WiLL6月号の岡崎久彦「集団的自衛権を行使できるこれだけの理由」(p.50-)も参照)。
 結構なことだ。他にも、<非核三原則>、<武器輸出禁止三原則>などの、内閣法制局見解(解釈)に依拠したのかもしれない、政策方針が首相談話(国会での答弁)又は閣議決定(?)等で語られてきている。こんな基本的問題について国会による法律制定も議決もなく、内閣総理大臣の「一存」的なものを継続してきているのは奇妙だとは思うが、その点はとりあえず別として、そもそも憲法から導かれ出されないとも十分に考えられる上のような<-原則>の変更を思い切って行うべきだ。内閣法制局官僚が戦後当初又は占領期の「精神状態」・メンタリティでもってこうした基本的問題についての政策方針を左右しているとすれば(仮定形)、これも改めるべきだ。
 二 新聞・テレビ報道によると、麻生太郎首相は、靖国神社の春季例大祭に「真榊(まさかき)」を奉納した(私費を使って、かつ内閣総理大臣の肩書きを明記して)。
 参拝してもよいとは思うが、真榊奉納もまた結構なことだ。
 麻生首相・同内閣は、支持を高めたいならば、本来の「保守」層又は「ナショナリスト」(愛国派・国益重視派)による支持の拡大をこそ目指すべきだろう。
 三 麻生首相は今年初め、伊勢神宮を参拝した。前年は福田首相もそうしたし、その前年は安倍晋三もそうした。それ以前の首相も含めて、歴代の首相にとっての慣例にすでになっているように見える。今年正月の記憶はないが、昨年正月には、首相とは一日違いで、民主党・小沢一郎代表も伊勢神宮を参拝した、との報道があった。
 政党(野党)党首と内閣総理大臣とでは性格は異なる。
 重要なことは、あるいはここで言いたいのは、内閣総理大臣(首相)による伊勢神宮参拝について、憲法上の<政教分離>の観点からこれを疑問視したり批判するような論調は(一部の?憲法学者はともかくとして)マスコミには見られない、ということだ。少なくとも、マスコミの大勢が首相の伊勢神宮参拝を<政教分離>原則との関係で批判・疑問視することは全くなかった、と言ってよいだろう。
 朝日新聞が上のような批判・疑問視をしたという知識はないし、同社の記者が伊勢神宮参拝は「公人としてか、私人としてか」という質問を首相に対して発したという記憶はない(そういう報道はなされていないと思われる)。
 以上のことは、首相の伊勢神宮参拝を憲法(政教分離条項)との関係でも問題視しない雰囲気・論調が、朝日新聞も含む日本のマスコミにはある、ということを示している。
 四 上のことの論理的帰結は、内閣総理大臣の靖国神社参拝を、朝日新聞を含む日本のマスコミは、<政教分離>原則違反(又はその疑い)という理由では批判できない、ということの筈だ。
 伊勢神宮も靖国神社も、同じ神道の宗教施設だからだ。(厳密には、天皇家の「宗教」でもある神社神道が憲法20条で禁止される「宗教活動」という場合の「宗教」に当たるかという論点はある筈だと考えているが、今回は立ち入らない)
 前者の参拝は憲法20条(政教分離)に違反せず、後者は違反する(又は適合性は疑問だとする)、などと主張することは、論理一貫性を欠く、<ご都合主義>そのものだろう。
 ところが、朝日新聞の今年4/23社説は、麻生首相の真榊奉納は総選挙を意識した「ご都合主義」ではないかとの皮肉で結びつつ(最後部分の引用-「近づく総選挙を意識してのことなのだろうか。自ら参拝するつもりはないけれど、参拝推進派の有権者にそっぽを向かれるのは困る。せめて供え物でメッセージを送れないか。そんなご都合主義のようにも見えるのだが」)、上述の<ご都合主義>をまさしくさらけ出している
 朝日新聞の上の社説は、その一部で明確にこう書く。
 「いくら私費でも、首相の肩書での真榊奉納が政治色を帯びるのは避けられない。憲法の政教分離の原則に照らしても疑問はぬぐえない
 麻生首相はじめ歴代の首相はおそらくは私費を使ってであっても「首相」として伊勢神宮に参拝しているのだと思われる(具体的な奉納物等については知らないが、少なくとも「お賽銭」に該当するものは納めているはずだ)。
 そうだとすると、朝日新聞は、首相の伊勢神宮参拝についても、「憲法の政教分離の原則に照らしても疑問はぬぐえない」と書き、社説等で論陣を張るべきではないのか? こうした批判を、首相の伊勢神宮参拝について朝日新聞はしているのか!?
 朝日新聞の首相伊勢神宮参拝に関する全紙面を見ているわけではないので仮定形にしておくが、首相の伊勢神宮参拝を「憲法の政教分離の原則」に照らして疑問視していないとすれば、靖国神社についても同じ姿勢を貫くべきであり、靖国神社参拝・奉納についてのみ「憲法の政教分離の原則に照らしても疑問はぬぐえない」と社説(!)で書くのは、まさに<ご都合主義>そのものではないか?
 心ある者が、あるいはまともな神経・精神をもつ者が朝日新聞(社)の中にいるならば、上の疑問に答えてほしい。
 4/23社説の執筆者も含めて誰も答えられないとすれば、朝日新聞の<社説>などもう廃止したらどうか。あるいは、<政教分離>に関する記事を書く又は報道をする資格は
朝日新聞にはないことを自覚すべきではないか。
 朝日新聞がまともな・ふつうの新聞ではないことを改めて確認させてくれた4/23社説だった。こと靖国神社に関することとなると朝日新聞はますます頭がおかしくなって、論理・見解の首尾一貫性などはどうでもよくなるのだろう。
 五 なお、朝日新聞による首相靖国参拝・奉納批判の主な根拠は、4/23社説によると、「戦前、陸海軍が所管した靖国神社は、軍国主義の象徴的な存在であり、日本の大陸侵略や植民地支配の歴史と密接に重なる」ということにある。
 古いが朝日新聞2006年8/04社説はもう少し詳しく、あるいは中国・韓国関係をより強調して、「日本がかつて侵略し、植民地支配した中国や韓国がA級戦犯を合祀した靖国神社への首相の参拝に反発している。その思いにどう応えるかは、靖国問題を考えるうえで欠かすことのできない視点だ」、「あの戦争を計画・実行し、多くの日本国民を死なせ、アジアの人々に多大な犠牲を強いた指導者を祀る神社に、首相が参拝することの意味である。/戦争の過ちと責任を認め、その過去と決別することが、戦後日本の再出発の原点だ。国を代表する首相の靖国参拝は、その原点を揺るがせてしまう。だから、私たちは反対しているのである」と書いていた。
 このあたりの(朝日新聞が行うように上のように単純に判断できる問題とは断じて思えない)論点は一回では書ききれないし、多くの人がすでに議論していることなのでここでは立ち入らない。
 六 ついでに、この3年近く前の社説でも、「憲法に関する首相の強引な解釈もいただけない。憲法20条の政教分離原則は素通りして、…」と書いてもいて、やはり<政教分離>原則の関係で(靖国神社については)疑問視していることも明らかにしている。
 もう一度書くが、では首相の伊勢神宮参拝はどうなのか? その他の神社への「内閣総理大臣」の参拝・奉納等はどうなのか?
 さらについでに。今年4/23社説では「先の大戦の責任を負うべきA級戦犯を合祀したことで、天皇の参拝も75年を最後に止まった」と、2006年8/04社説では「昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を抱き、それが原因で参拝をやめたという側近の記録が明らかになった」と書いて、<いわゆるA級戦犯合祀>が天皇陛下のご親拝中断の原因だと断定する書き方をしている。しかし、これはまだ100%明確になっていることではない、と私は理解している。
 また、先帝陛下も今上天皇も「ご親拝」はされなくとも、春秋の例大祭等の際に何らかの「奉納」(という言葉は正式には適切ではないかもしれない)はなされているのであり、それは<いわゆるA級戦犯合祀>後も続いている。天皇(皇室)と靖国神社の関係が<A級戦犯合祀>によって途絶えた、と誤解しているとすれば、又はそういう誤解を意識的に読者に広めようとしてしているのだとすれば、それは誤りであるか、一種の悪辣な<誘導>に他ならない、と付記しておかねばならない。

0669/2009年2/15(日)午後の某テレビ番組における小牧薫と高嶋伸欣。

 2/22ではなく2/15(日)午後の読売系「そこまで言って委員会」。沖縄住民集団自決問題で、田嶋陽子が相変わらずバカを晒していたが、珍しいと思われる「左翼」団体の事務局長と「左翼」大学関係者が登場していた。
 事実を知りたいだけ、とか、イデオロギーとは無関係、とかぬけぬけと言っていた。嘘をつくな、恥を知れ、と言いたい。以下の「」は録画を見ながらの引用。
 まず、小牧薫。大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会事務局長。
 ・「過去の日本軍のことを考えても、軍隊は住民を守らない、国民を守らない。国民を守るのは警察であり、消防だ」。
 「過去の日本軍」のことが現在の「軍隊(・自衛隊)」に一般的にあてはまるような、論理的にも間違った主張だ(「過去の日本軍」の諸問題を肯定しているわけではない)。警察・消防で外国軍の武力侵入・武力攻撃から国民を守れるかどうかを論じること自体愚かなことだ(だから、こんな点には立ち入らない)。かかる<反軍隊>意識は、事実にもとづかない、<イデオロギー>以外の何物でもない。「自衛隊」は他国から国民を守るのではなく、外国に戦争を仕掛けにいく組織だ、という先入観・偏見も、ためらいなく述べていた。
 ・戦後日本が「直接外国から侵略を受けたことがなかったのは、まさしく憲法九条があったからだ」。
 こうした考え方の持ち主を、たしか井沢元彦によると<憲法真理教>信者とでもいうのだろうか。
 テレビに出てきて以上のようなことを躊躇せずに発言できるというのは、ほとんど内輪・仲間うちの見解や議論だけを詳しく知っていて、異なる主張・見解もあるということを観念的には知っていても具体的にはそうした異論と接したことのない、子供のように無垢な<左翼>なのかもしれない。明らかに60歳を超えていて、上のような理解に凝り固まっているとはなかなか珍しい、ある意味では「幸福な」お方だ。
 ついで、高嶋伸欣。琉球大学名誉教授。別の教授の本(岩波だ!)を援用しつつ、戦後・講和時の日米安保条約を対等なものから従属的なものにしたのは昭和天皇の意見・示唆による、とその本を信じたらしく語った。なぜ昭和天皇はそういう意見だったのかにつき、高嶋はこう言った。
 ・「朝鮮半島まで共産勢力が出てきた」ことを考えると、沖縄も含めて米軍は自由な立場で動いてもらわないと日本は「共産勢力の脅威にさらされつづける」、「天皇にとっては天皇制を存続させることが最大の使命ですから」、その脅威が重くのしかかっていた。
 事実関係も問題だとしても、気になったのは、この人は、「天皇にとっては天皇制を存続させることが最大の使命ですから」と言い切ったことだ(「陛下」との敬称は当然にない)。つまり、日本国家・国民ではなく自分を中心とする「天皇制」維持のみが、あるいは少なくともそれが最大の、昭和天皇の関心事だった、と言ったわけだ。
 ここには昭和天皇に対する畏敬の念などがある筈もなく、昭和天皇は<天皇制>維持を最優先したエゴイスティックな人間だった、という心象の表明があるように感じられる(なお、そもそも、この高嶋伸欣個人は、かつての「共産勢力の脅威」と米国との安保条約をどう考え、どう評価しているのか??)。
 あえて他人の本をとり上げて昭和天皇批判(と言ってよいだろう)をテレビでするのもどうかと思うが、それはかりによいとしても、<昭和天皇に対する(何らかの)怨嗟>を背景にして、この高嶋は上のような発言をした、と感じられる-このような意識の教授が琉球大学(国立)にはほとんどだったのかもしれない(いや、今でも?)。自分たちに都合のよい本・研究書だけはちゃんと利用し、宣伝することも含めて-。
 <反軍隊>心性とともに<反天皇>心情もまた、古典的・典型的な「左翼」意識の証左だ。
 以上のことは、沖縄住民「集団自決命令」問題とは直接には無関係に語られている。この問題については、上の二人ともに「(日本)軍の強制あり」という理解・主張だ。上のような基本的な心性・心情・意識の者は、簡単にこの説に飛びつくだろう。何が「事実を知りたいだけ」、「イデオロギーとは無関係」だ。嗤ってしまう。

0637/竹内洋・学問の下流化(2008)、猪瀬直樹・作家の誕生(2007)、サピオの小林よしのり「天皇論」。

 〇12/16に竹内洋・学問の下流化(中央公論新社、2008)を全読了。気が向いたらいつか言及する。「下流化」とは「大衆社会の中での…ポピュリズム化」を言い、「ういてしまう学問のオタク化」に対する概念のようだ(p.13)。どちらに対しても憂いていると思われるが。
 〇途中まで読んでいたことに気づいた猪瀬直樹・作家の誕生(朝日新書、2007(古書))を、やはり一気に全読了。かなり前に太宰治や三島由紀夫らごとの著書(著作集2~4など)を読んでいたので、多分に重なっている感もある。
 この人は東京都副知事をしているようだが元来は政治・法律系ではなく文学・文芸系の素養の人だろう。道路公団民営化の議論もきちんとした基礎的「理論」があったとは思えない。もっとも、経済・政治(・行政)・法律、いずれの学者・専門家も、役立つ「理論」をいかほど提供したかはきわめて疑わしい。
 この本のp.120によると、大宅壮一は1955年(55歳のとき)にこう書いた。
 「平和主義などというものは、誰でもほしがるチョコレートみたいなもので『思想』でもなんでもない」。
 <日本の知識人は「デパートの食堂の前に立たされた子供」で、つぎつぎと輸入される舶来思想のどれを身に纏ったらよいか迷い、帽子の如くあれこれと被っては悩んでいる。外国の最新のカタログに眼を通していないと安心できない。……>
 次は、大宅壮一に好意的な猪瀬自身の言葉。
 「日本の近代は輸入思想の堆積物にあふれ、その断面の縞模様…〔には〕知識人の死骸が貝殻のように詰まっている。流行思想に帰依し自己喪失に陥る現象は、今後もずっとつづくのだろう。思想が帽子…〔ならば〕責任はともなわないのだから」(p.121)。
 〇サピオ・新年合併特別号(小学館、2008.12)。「輸入思想」によって「自己喪失」に陥ってはいないようである小林よしのり・ゴーマニズム宣言スペシャルは「天皇論」を開始している。
 p.71-元日の「午前5時30分、天皇は皇居内の神殿の前庭にお出ましになり、地面に敷いた畳にお座りになって、伊勢神宮をはじめ、四方の天神地祇、神武天皇陵、昭和天皇陵、ならびにいくつかの神社を遙拝される」。これが一年で最初の「宮中行事」。
 ほとんど毎号買ってきたが、当面は講読を欠かせそうにない。

0612/宮沢俊義(深瀬忠一補訂)・新版補訂憲法入門(勁草書房、1993)を一部読む。

 一 宮沢俊義(深瀬忠一補訂)・新版補訂憲法入門(勁草書房)を見ていると、唖然とし、驚愕する。
 この本は1950年第一版、1954年改訂版、1973年新版で、深瀬忠一(元北海道大学)補訂の新版補訂は1993年が第一刷。長きにわたって出版されたものだ。補訂は「最少限の補正」にとどまる(p.2、深瀬)とのことなので、以下すべて、宮沢俊義自身の考えが述べられていると理解して紹介する。
 ①民主主義と自由主義-「自由主義」とは、「個人の尊厳をみとめ、できるだけ各個人の自由、独立を尊重しようとする主義」。「特に国家の権力が不当に個人の自由を侵すことを抑えようとする主義」。
 国家権力による個人の自由の不当な侵害を防止するには、「権力分立主義」採用のほか、「すべての国民みずからが直接または間接に、国の政治に参加すること」が必要。すなわち、「国家の権力が直接または間接に、国民の意思にもとづいて運用されること」が必要。このように国家が「運用されなければならないという原理」を、「特に、民主主義」という。
 「つまり、自由主義も民主主義も、その狙いは同じ」。「いずれも一人一人の人間すべての価値の根底であるという立場に立って、できるだけ各個人の自由と幸福を確保することを理想とする主義」。
 「消極的」な国家権力の不当な干渉の排除の側面が「自由主義」で、「積極的」な個人の国政参加の主張の側面が「民主主義」。
 「両方をひっくるめて、ひろく民主主義といっても、さしつかえありません。ふつう世間で民主主義という場合は、このひろい意味です」。
 以上、p.11-12。
 ここでは、まず「自由主義」と「個人主義(個人の尊厳)」が同義のごとく語られ、これに仕えるのが「民主主義」だとの理解も示される。そして、消極的・積極的と区別できるが、「民主主義」と「自由主義」は「狙いは同じ」で、一括して「民主主義」と言って差し支えない、とされる。
 呆れるほどに、<自由主義・個人主義・民主主義>は渾然一体のものとして説明されている、と評してよいだろう。
 ②民主主義と平和主義-「平和主義というものは、結局は、民主主義の外に対するあらわれにすぎませんから、これを、民主主義とまとめて、いってもいいでしょう」。
 これは、p.88。宮沢において、「平和主義」も「民主主義」の一種又は顕れの一つなのだ。
 ③民主主義と平等-「民主主義」は「人間の自由」・「人間の個性」を尊重する。「民主主義」は大勢の「人間を、みな同じように尊重」する。「民主主義が、平等を原理とするというのはこれです」。
 これは、p.89-90。ここでは、「平等」原理も「民主主義」によって説明されている、と言ってよい。「平等」原理自体が、「民主主義」の内容の一つなのだ。
 かくして、以下の叙述も出てくる。
 ④「民主主義」は「自由および平等の二つの原理にもとづく」結果として、「民主主義における自由」は「わがまま」・「放縦」を意味しない。「民主主義」はすべての人間が「平等な価値」をもつものと考えるので、「人間の自由は、他の人間の自由において、限界をもっている」。p.90。
 「民主主義における自由」という語も奇妙だとは思うが、「民主主義」・「自由」・「平等」の三者がほとんど一体のものとして説明されている。
 二 諸「理念」又は諸「主義」をそれぞれ関連づけあいながら説明すること一般を否定・批判しはしないが、上のような宮沢俊義の叙述は、いささか、いや過分にそれが酷(ひど)すぎるのではないだろうか。
 以上のような説明では、民主主義・自由主義・平等主義・平和主義の違いは明瞭にならないのではないか。
 それそれが循環論証的関係にあるか、又は結局は「民主主義」がその他のものを内包している関係にあると理解されているようだ。
 「ふつう世間で民主主義という場合は、このひろい意味」、すなわち「民主主義」と「自由主義」を一括したものだ(p.12)という説明の仕方が典型的だろう。
 法学部生向けの教科書ではなく一般国民むけの「入門書」だからといって、このようなヒドさは看過できないはずだったものと思われる。
 そして、このような内容の本が当時は現役の東京大学法学部の憲法担当教授によって書かれていたということに唖然とさせられる。この人は、東京大学所属の憲法研究者でありながら、諸概念を厳格に定義することのできていた人なのだろうか。
 また、大江健三郎が自分は「戦後民主主義」者だという理由で、昭和天皇名による叙勲を拒否したことにも何となく納得がいく。これの決定的な理由は(既述のように)大江は昭和天皇の前に立つ度量・勇気がなかったということだと思うが、大江における「戦後民主主義」とは、「自由主義」・「個人主義」・「平等」原理・「平和主義」をすべて含んだものだったのだろう。私が理解している「民主主義」とは異なる。そして、それらすべてと矛盾するかに彼には思えた天皇の存在・天皇制度の存続自体が彼には許されなかったのだろう(自衛隊もそうだろうが)。
 東京大学教授・宮沢俊義の単純・素朴な叙述から同大学出身の「高名な」作家・大江健三郎に思いを馳せてしまった。

0549/相変わらず<異様な>朝日新聞6/13社説-バウネット期待権・最高裁判決。

 被取材者の「期待権」の有無等を争点とする最高裁判決が6/12に出て、当該権利の侵害を主張してNHKに損害賠償を請求していた団体側が敗訴した(確定)。
 産経新聞6/13社説は言う-「この問題では、訴訟とは別に、朝日新聞とNHKの報道のあり方が問われた。/問題の番組は平成13年1月30日にNHK教育テレビで放送され、昭和天皇を『強姦と性奴隷制』の責任で弁護人なしに裁いた民間法廷を取り上げた内容だった。〔二段落省略〕/朝日は記事の真実性を立証できず、「取材不足」を認めたが、訂正・謝罪をしていない。/NHKも、番組の内容が公共放送の教育番組として適切だったか否かの検証を行っていない。/朝日とNHKは最高裁判決を機に、もう一度、自らの記事・番組を謙虚に振り返るべきだ」。
 しごく当然の指摘で、朝日新聞をもっと批判してもよいし、北朝鮮の組織員が検事役を務めていた等の「民間法廷」の実態をもっと記述してもよかっただろう。配分された紙幅・字数に余裕がなかったのだろうが。
 一方の朝日新聞の6/13社説。相変わらずヒドい、かつ<卑劣な>ものだ。
 第一に、原告のことを「取材に協力した市民団体」とだけしか記していない。正確には「『戦争と女性への暴力』日本ネットワ-ク」で、略称「バウネット」。第一審提訴時点での代表は松井やより(耶依)で、元朝日新聞記者(故人)。この団体主催の集会に関する番組を放送したNHKに対して安倍晋三と中川昭一が<圧力>をかけたとして、4年も経ってから政治家批判記事を朝日新聞に書いた二人のうち一人は本田雅和で、この松井やよりを尊敬していたらしく、松井の個人的なことも紙面に載せたりしていた。「訴訟とは別に」問われた朝日新聞の「報道のあり方」の重要な一つは、この記者と取材対象(団体代表者)の間の<距離>の異常な近さだった。
 第二に、原告ら主催の集会の内容について、朝日新聞は直接には説明しておらず、「旧日本軍の慰安婦問題を取り上げたNHK教育テレビの番組」と、番組内容に触れる中で間接的に触れるにすぎない。昭和天皇を「性奴隷」の犯罪者として裁こうとする(そして「有罪」とした)異常な(むしろ「狂った」)集会だったのだ。
 上の二点のように、朝日新聞は自分に都合が悪くなりそうな部分を意識的に省略している。
 第三に、「勝訴したからといって、NHKは手放しで喜ぶわけにはいくまい」と書いて、広くはない紙面の中で異様に長くかつての高裁判決に言及して(「安倍晋三」の名も出している)、「政治家」の影響に注意せよとの旨を述べている。
 「勝訴したからといって、NHKは手放しで喜ぶわけにはいくまい」というのはそのとおりだと思うが、NHKが反省すべきなのは、北朝鮮も関与した<左翼>団体による<昭和天皇有罪・女性国際法廷>の集会の内容をほとんどそのまま放映するような番組製作とそれを促進したディレクターを放映直前まで放置してしまったことだ。朝日新聞社説は全く見当違いのことを主張している。
 第四。朝日社説は最後にNHKについてこう書いた。-「NHKは予算案の承認権を国会に握られており、政治家から圧力を受けやすい。そうであるからこそ、NHKは常に政治から距離を置き、圧力をはねかえす覚悟が求められている。/裁判が決着したのを機に、NHKは政治との距離の取り方について検証し、視聴者に示してはどうか。/『どのような放送をするかは放送局の自律的判断』という最高裁判決はNHKに重い宿題を負わせたといえる」。
 よくぞまぁ他人事のようにヌケヌケと語れるものだ。自社について、次のように書いてもらいたい。
 <朝日新聞(社)は幹部・論説委員等を<旧マルクス主義者又は左翼>に握られており、<左翼>から圧力を受けやすく、また自らが<左翼>団体そのものになる可能性がつねにある。そうであるからこそ、朝日新聞(社)は常に<左翼>的「市民団体」から距離を置き、圧力をはねかえす覚悟が求められている。/裁判が決着したのを機に、朝日新聞(社)は<左翼>的「市民団体」を含む<左翼>との距離の取り方について検証し、読者に示してはどうか。/『どのような報道をするかは報道機関の自律的判断』という旨の最高裁判決は朝日新聞(社)に重い宿題を負わせたといえる。
 以上、とくに珍しくもない、相変わらず<異様な>朝日新聞社説について。

0547/原武史-元日経新聞記者、学者らしくない論理の杜撰さ・単純さ+反天皇感情。

 一 再び、月刊・諸君!7月号(文藝春秋)の「われらの天皇家、かくあれかし」という大テーマのもとでの諸文章について。計56人の文章を全て読み終えた。その際に、現皇太子妃(雅子)妃殿下の現況についての何らかの言及のある文章の数を調べてみたが―区別がむつかしい場合もあったが―20だった(56人の36%)。
 56人の中には外国人2人を含み、またこの56人(又は外国人を除くと54人)でもって現在の日本人の天皇・皇室論や<皇太子妃問題>(なるものがあるとして)についての見方の平均的なところを把握できるかというと、その保障はないだろう。ただし、諸君!(文藝春秋)という雑誌はどちらかというと<保守系>のはずで、文章執筆の依頼もどちらかというと<保守系>の人物に対してなされたのだろう、と言えるものとは思われる(むろん半藤一利保阪正康がしばしば登場するなどの例外はある。7月号についても同様)。
 二 さて、20の中には、皇太子妃問題を想定して、皇太子妃を責めることなく、天皇制度の解体・崩壊に言及するものが2つあった。執筆者は、森暢平原武史
 森暢平は皇太子妃の療養以後皇室は大きく変質したがじつはもっと前から変質していたのだとし、「皇室は国民の規範」たることが困難になり、「象徴天皇制の終焉」がすでにあった、とする。そのことの要因は「メディア環境の変化」でもあり、「現在の在り方を根本的に考え直さないと、ある時、一気に瓦解する可能性さえ秘めている」、と書く。
 上の最後の文は天皇制度の将来を心配しているようでもあるが、天皇・皇室についてのジャーナリステイックな書き方、「サブカル化する平成皇室」というタイトルからして、天皇・皇室制度を貴重なものとして断固守ろうというという気分の現れではないように思われる(誤っていれば、ご容赦を)。
 三 一方、原武史天皇・皇室に対する<悪意>があることは明らかだ。もともと朝日新聞社や岩波書店から本を出すこと自体、この両者は他社とは違って<思想チェック>をしているので原武史の「思想」的又は「政治」的立場はほぼ明らかだが、原武史・昭和天皇(岩波新書、2008)のp.12にはさっそくこんな文章がある。-「天皇が最後まで固執したのは、皇祖神アマテラスから受け継がれた『三種の神器』を死守することであって、国民の生命を救うことは二の次だった」。米軍による日本本土攻撃が予想された時期に「三種の神器」を自らのすぐ側に置こうとされたようだが、それを「国民の生命を救うことは二の次だった」と解釈するところには、原武史の、(昭和)天皇に対する<悪意>・<害意>を感じることができる。
 1 「宮中祭祀の見直しを」と題する諸君!7月号上の原の文章はヒドいものだ。この人は日本経済新聞記者の時代があったようで、ジャーナリステイックな、<面白い>・<話題をまき起こす>文章を書けても、研究者・学者らしい文章を書く力は充分には持っていないように見える。奇妙な点を列挙してみる。
 ①農耕儀礼と結びついた祭祀=「瑞穂の国」のイデオロギーは、日本の都市化・農業人口の減少(1970年で20%を切った)によって「社会的基盤」を失った(p.244)。
 何故このようなことが言えるのか、何故「社会的基盤」を失ったと言えるのか、さっばり分からない。余りに単純な発想をしてもらっては困る。専門家ではないので正確には書けないが、A狩猟民族に対する農耕民族の違いや特性が今なお論じられることがあるが、かりに食糧自給率の低さが問題になるほどに農業の衰弱が現在あるのだとしても、弥生時代以降、農業=主として稲作によってこそ日本人は「生き」、「生活」でき、そして社会と国家を形成したのだとすれば、そのような日本人と日本「国家」の成り立ちにかかわる記憶を将来に永続的に伝えていくためにも、祭祀の意味はある(それが「伝統」の維持というものだ)。
 また、B現代では農業が主産業ではなくなっていても、今日的な諸産業、あるいは社会にかかわる「人間の仕事」のすべてを代表するものとして「農耕」を理解し、「農耕儀礼」を通じて、自然の恵み(「運」も含めればどんな産業にだって「自然」又は「偶然」・「宿命」を逃れられないだろう)を祈り、収穫=成果の多大なことを祈り願う、ということはなお充分に意味があるものと思われる。
 ともあれ、まるで他説を一切許さないような単純な決めつけをしてもらっては困る。
 ②皇居(お濠)の「内側」=「農耕儀礼」、「外側」=都市化のギャップが大きくなっている。解決方法は、「内側」を「外側」に合わせるか、「外側」を「内側」に合わせるしかない。どちらもしなければ、「いずれ重大な局面が訪れることになるに違いない」(p.245)。
 「いずれ重大な局面が訪れることになるに違いない」とは天皇(制度)を心配しての言葉でもあるかもしれないが、突き放した、そうなっても=天皇制度が解体・廃絶しても(自分は)構わない、という意見表明である可能性もある。
 その前に書かれていることも、大学教授とは思えないほどに論理が杜撰だし、天皇(家)の研究者にしては天皇制度の歴史的・伝統的意味を意識的に無視している。
 すなわち、「内側」と「外側」を合わせる必要はない、というもう一つの選択があることが分かっているのに、それに言及していない。「内側」を「外側」に合わせる議論は、国家・国民のための祭祀行為を行っている天皇とそれを支える天皇家を、<ふつうの一般的家庭(の特殊なもの)>にしてしまうものだ。<「瑞穂の国」のイデオロギー>なるものの射程範囲はよく分からないが、それはそれで維持すればよいし、宮中祭祀の中に<「瑞穂の国」のイデオロギー>では説明がつかないものも現にある筈なので、「新たなイデオロギーを構築する必要」もない。
 またそもそも、「内側」と「外側」のギャップが大きくなったことを自然の、不可避的な現象の如く理解しているようだが、例えば「内側」の祭祀行為を天皇家の<私事>扱いして学校教育できちんと教えない、マスメディアもきちんと報道・説明しない、といった、原武史も育ってきた<教育・社会環境>にも重大な一因がある、と思われる。こうした面には、原は全く言及していない。
 2 週刊朝日2007年3/09号を読んでいないので、同じ諸君!7月号上の八木秀次の文章から借りるが、上に述べている「内側」と「外側」の矛盾が皇太子妃の心身に影響を与えていると理解しているようであり、具体的にはA「神武天皇は本当に実在したと考えられるか」、B「天照大神の存在を理屈抜きで受け入れられるか」等、皇太子妃には簡単には受け入れられない→「信じ」られなければ「祈り」もできない(=宮中祭祀への違和感)、ということから、→適応障害→治すために宮中祭祀の簡略化又は廃止、という主張を原はしているようだ(p.261)。
 他にもあるのだろうが、上のAとBくらいならば、何故「信じる」ことができないのかが、よく分からない。日本書記等の記述が全て事実を正しく描写しているとは思えないが、時期はともかくとしても、「神武天皇」とのちに称されたリーダー(+祭祀主?)が「東遷」して大和盆地で大和朝廷の基礎を築いた程度のことは、充分にありえたことだ。また、卑弥呼=天照大神説もあるように、神武天皇に先だって、天照大神とのちに称される日巫女(ひみこ)が祭祀上の中心になってより小さな地域を「国」としてまとめていた、という可能性を完全に否定することはできない。
 おそらくは、妃殿下の内心の推定というかたちをとりつつ、上のAとBは、原武史自身がもつ疑問なのだろう。日本の戦後の日本「神話」教育の欠如は、ついに原武史という大学教授が神武天皇・天照大神の存在を完全に否定する(存在を信じることができないとする)ところまで行き着いた、ということだろう。記載のすべてが真実ではないにせよ、すべてが天武朝を正当化するために作られた虚像=ウソと理解する必要はなく、何らかの史実を反映をしている部分が十分にあり、またウソの場合ではなぜそういうウソが書かれたのかも研究されてよい、というのは今日の日本古代史研究の常識なのではないか。
 3 原武史はそもそも、世襲天皇制度という<非合理>なものを気味悪く思い拒否感を持っているにすぎないのかもしれない。善解すれば、<非合理>なもの(祭祀=農耕儀礼を含む)を捨てて、「新しいイデオロギー」を構築して再出発を、という主張なのだろうが、これはやはり実質的には<天皇制度解体論>だ。朝日選書(『大正天皇』)、岩波新書(『昭和天皇』)、週刊朝日、そして最近の月刊現代(講談社)…、なるほど、この人は明瞭な<左翼>出版社とともに活動している。

0471/天皇(制度)と佐藤優・原武史・西尾幹二。

 月刊・文藝春秋4月号(文藝春秋)の<総力特集>は<天皇家に何かが起きている>で、6名による座談会もある。
 保阪正康の発言をできるだけ読まないようにして通読したが、なるほど、先日に八木秀次による批判に言及した原武史は、「たとえば祭祀をすべてやめるような抜本的な改革をしなくてはうまくいかないのではないか」(p.111)などと、たしかに発言している。
 同号には偶然なのかどうか、佐藤優による原武史・昭和天皇(岩波新書)の書評も掲載されている。
 佐藤は正面からこの本を批判はせず、日本国家の将来を考えるための「知的刺激に富んだ材料を提供」しているなどと末尾の方で書いている。だが、基本的スタンスが原武史とは異なることは、佐藤優が自分の考え方を示す次のような文章でわかる。
 ・「評者は、天皇がこのような超越性に対する感覚をもっていることが日本人が生き残る上で大きな役割を果たしていると考える」。(「このような」とは簡単には、昭和天皇がアマテラス・伊勢神宮への祈願・祭祀と戦勝・敗戦を結びつけていたことを指す。)
 ・「恐らく筆者〔原武史〕が本書で述べたい結論とは反するだろう」が、「評者は、祭り主としての天皇に対する意識をわれわれが回復することによってのみ、日本国家と日本人が二十一世紀に生き残ることが可能になると思う」。
 ・この本の材料を咀嚼して「二十一世紀の日本がもつべき神話についてよく考えてみる必要がある」。
 これらは原武史の見解とは異なるのだろう。21世紀・将来の日本(国・人)にとっての<天皇制度>の具体的なありように関する佐藤優の考え方と私のそれが一致しているとは限らないし、佐藤優がその多くの著書で書いていることの中には私には理解が困難な所もあるが、<「祭祀を伴う天皇」制度>の継承・維持という点では、私は原武史よりもはるかに佐藤優に近い意見・立場だ。
 雅子皇太子妃に関する問題に立ち入る気は全くない。が、上のようなことを書いていると、月刊WiLL5月号(ワック)で西尾幹二が、「何をしてもいいし何をしなくてもいい」皇室になった「暁には」、「天皇制度の廃止に賛成するかもしれない」(p.43)と書いているのを読んで驚いたことを思い出さずにはおれない。
 八木秀次も同旨を指摘していたことだが、(神道的)祭祀を伴わない<天皇(・皇室)制度>は概念矛盾で、<天皇(・皇室)制度>とはそもそも(日本の歴史的・伝統的な考え方・方法によって)国・祖先のための祭祀を行う、という意味が付着しているものだろう。天皇(・皇室)にかかわる歴史・伝統について<明治期以降のもの>だとしてその歴史的伝統性を否定し揶揄しようとする歴史学者もおり、たしかに明治以降にのみ生じたこともあると思われる。だが、<国・祖先のための祭祀を行う>ということは天皇制度の成立以降の(おそらくはさらに「卑弥呼」の時代にまで遡る)長い、連綿とした伝統だろう。そして、そのような伝統の付着したものとして日本国憲法は「天皇」制度を存置した、という憲法解釈も十分に成立する筈だ。
 そのような<天皇(・皇室)制度>を維持するのかどうか、どのようにして維持するのか、が今日、あるいは近い将来に日本人の全てに問われる(問われている)、ということだろう。本来は、こうした「問い」が発せられること自体が避けられている方が望ましいと思うが。

0468/1945~1947年の神社と昭和天皇。

 先の大戦終了後、GHQによる占領開始期の神社(とくに伊勢の神宮)と天皇(・皇室)の関係やそれに関するそれぞれの対応・行動は現在の日本人に広くは知られていない。
 1.敗戦前において、ということは明治維新以降の所謂<国家神道>の時代だが、神道は「宗教」とは考えられていなかった。戦前に<宗教団体法>という名の法律があったが、「教派神道」と言われたものを除く神道(およびその関係機構)はこの法律の規制対象ではなかった。
 この宗教団体法は1945年12月28日に廃止され、同日に<宗教法人令>が公布・即日施行された。
 2.その約二週間前の12/15に発せられたのがGHQの「神道指令」。その第一項は「伊勢の大廟に関して宗教的式典の指令、ならびに官国幣社その他の神社に関しての宗教的式典の指令はこれを撤廃すること。」だった。GHQは神道も「宗教」と見なし、(日本)国が伊勢の神宮等の神社による式典挙行の指示を出すことを禁じた。
 以上の二点はほとんど、千田稔・伊勢神宮―東アジアのアマテラス(中公新書、2005)p.203-4による。この著の表現によると、「神道指令」により、「…軍国主義、…過激なる国家主義的宣伝」のための再利用の「防止」を目的として「GHQは国家と神道の結びつきを断ち切った」(p.204)。
 3.この「神道指令」が発せられる約1カ月前、したがって神道(と神社)が制度上もまだ「国家」と不可分だった時期の最後に、天皇(昭和天皇)は(伊勢)神宮等を行幸・巡幸された。
 細かく書けば、11/12-皇居出発・神宮内宮「行在所」泊、11/13-外宮(豊受大神宮)・内宮(皇大神宮)参拝、京都・大宮御所泊、11/14-奈良・神武天皇陵(畝傍御陵)参拝、京都・桃山の明治天皇陵参拝、京都・大宮御所泊、11/15-京都駅から東京へ。
 以上も千田・上掲書による(p.201-2)。この際の天皇陛下の心境を私ごときが正しく推測することなどできる筈もないが、この「巡幸」は「終戦奉告」(千田)であり、昭和天皇は<敗戦>を皇祖(天照大神)・神武天皇・明治天皇の順序で、それぞれの御霊に対して<報告>されたのだと思われる(千田は明記していないが、参拝の順序は無意味・偶然では全くなかっただろう)。
 4.敗戦前において、神社の土地(境内地)は国有財産(>「公用財産」)だった。なお、寺院の土地(境内地)は国有財産のうち「雑種財産」とされ、寺院が使用する間は(おそらく「無償」で)国から各寺院に「貸しつけ」られていたが、1939年(昭和14年)に(おそらく「無償」で)「譲与」された。神社境内地はその年以降も国有財産(・「公用財産」)のままであり、土地以外の建物や組織(・人員)を含めた意味での「神社」は、「国の営造物(公共施設)」の一種だった。
 以上は、「おそらく「無償」で」の部分を除いて、神社本庁研修所編・わかりやすい神道の歴史(神社新報社、2005)p.254による(執筆=新田均)。
 5.敗戦後のGHQの国家・神道分離方針のもとでは、上のような法的状態は維持できない。GHQ「神道指令」(1945.12.15)の後で、神社の土地を戦前の昭和14年までの寺院との関係と同様に国有財産としての「雑種財産」に変更したうえで各神社に「貸しつけ」ることが計画された。だが、1946年3月に憲法改正草案(あるいは「新憲法」草案)が発表され、そこには<政教分離>も掲げられていたため、この計画実現は不可能となった。<(無償)貸しつけ>は神社(・神道という宗教)を有利に扱う(特定の宗教に「特権を与える」)ことになるからだった。一方で、<有償での(土地等の)買取り>では、資力のない神社は「自滅する以外に」なかった。
 以上も殆ど新田均執筆部分の神社本庁の上掲書p.254によっている。そして、かかる状況のもとで<無償譲渡>の実現が「緊急の課題」となり、日本国憲法の施行の前日(1947年5月2日)に国から各神社への<無償譲渡>が―<用地等(無償)払い下げ>とも表現できる―実現した、という。
 知らなかったが、何とも際どいドラマが展開されていたものだ。
 もともと書き記しておきたかったことにまだ至っていない。再び回を改める。

0456/八木秀次-天皇制度廃止への道筋をつける原武史・昭和天皇(岩波新書)。

 原武史・滝山コミューン1974(講談社、2007)には、二回触れたことがある。
 この本は日教組の影響下にあったと見られる「全国生活指導研究協議会」に属する教員による「学級集団づくり」に対して批判的なので、著者はどちらかというと<保守的>又は<反左翼>的だと思っていた。
 サピオ4/23号(小学館)の八木秀次「天皇『9時-5時勤務制』まで飛び出した宮中祭祀廃止論の大いなる誤り」(p.83-85)によると、この宮中祭祀廃止論の中心的主張者は明治学院大学教授・原武史らしい。なお、<宮中祭祀>自体が広く知られていないが、八木によると、宮中三殿といわれる「賢所」・「皇霊殿」・「神殿」で行われる祭儀のことで、「大きなものだけで年間30近くある」とのこと。
 「天皇は先祖を祀る『祭祀王』としての性格を持ち、それこそが天皇の本質的要素と言っても過言ではない」(p.83)。
 「祭祀王」という概念がどの程度一般化しているのか、適切なのか(=「王」という語を用いてよいのか)は疑問だが、八木の指摘する趣旨は、そのとおりだろうと私も考える(また、その祭祀とは<神道>によるものでないかと思うが立ち入らない)。そして「宮中祭祀廃止」論は<天皇制度>の否認論と殆ど同じことだろう、と思われる。
 八木によると、「原氏が抱く昭和天皇、いや、天皇制への嫌悪感」は原武史・昭和天皇(岩波新書、2008.01)の「全編からたちのぼってくる」という。その具体的例示も紹介されているが、ここでは侵略する。
 興味をそそられたのは、冒頭に示した本を書いたのと同じ著者が昭和天皇を批判し、天皇制度を「崩壊させる道筋をつける」(八木、p.85)議論を展開している(らしい)ということだ。と同時に、さすがに岩波書店の岩波新書だ、と思いも強い。究極的には<天皇制度を「崩壊させる」>ことは(それは日本が「日本」でなくなることを意味するのではないか)、この出版社の社是、出版活動の(政治的)大目的の一つだと理解しておいて誤りではないだろう。
 岩波新書といえば、中央公論3月号(中央公論新社)の<特集・新書大賞ベスト30>の中の座談会で、宮崎哲弥は、<岩波新書らしいもの>を出せと注文をつけ、西山太吉・沖縄密約につき「単行本でいい…。新書で出す必要性が感じられない」と述べつつ、「これぞ岩波新書」をあえて探せばとして藤田正勝・西田幾太郎丸山勇・カラー版ブッダの旅の二つを挙げ、「岩波らしい」ものとして豊下楢彦・集団的自衛権とは何か二宮周平・家族と法二つを挙げている(p.129-130。出版年月の調査は省略。いずれも未読)。
 宮崎哲弥のいう「これぞ岩波新書」とか「岩波らしい」ということの意味は必ずしも明瞭でないが、何となく雰囲気は理解できる。そして、「これぞ岩波新書」と「岩波らしい」は必ずしも同じ意味ではなく、原武史・昭和天皇は上の二つとともに「岩波らしい」の方に位置づけられる書物のような気がする。
 追記-4/09夜に佐伯啓思・日本の愛国心(NTT出版)を全読了>

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