秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

日清戦争

0908/資料・史料-2010.05.10「韓国併合」100年日韓知識人共同声明。

 史料/「韓国併合」100年日韓知識人共同声明(全文)


 「韓国併合」100年日韓知識人共同声明
 2010年5月10日 東京・ソウル


 「1910年8月29日、日本帝国は大韓帝国をこの地上から抹殺し、朝鮮半島をみずからの領土に併合することを宣言した。そのときからちょうど100年となる2010年を迎え、私たちは、韓国併合の過程がいかなるものであったか、「韓国併合条約」をどのように考えるべきかについて、日韓両国の政府と国民が共同の認識を確認することが重要であると考える。この問題こそが両民族の間の歴史問題の核心であり、われわれの和解と協力のための基本である。
 今日まで両国の歴史家は、日本による韓国併合が長期にわたる日本の侵略、数次にわたる日本軍の占領、王后の殺害と国王・政府要人への脅迫、そして朝鮮の人々の抵抗の圧殺の結果実現されたものであることを明らかにしている。
 近代日本国家は1875年江華島に軍艦を送り込み、砲台を攻撃、占領するなどの軍事作戦を行った。翌年、日本側は、特使を派遣し、不平等条約をおしつけ、開国させた。1894年朝鮮に大規模な農民の蜂起がおこり、清国軍が出兵すると、日本は大軍を派遣して、ソウルを制圧した。そして王宮を占領して、国王王后をとりことしたあとで、清国軍を攻撃し、日清戦争を開始した。他方で朝鮮の農民軍を武力で鎮圧した。日清戦争の勝利で、日本は清国の勢力を朝鮮から一掃することに成功したが、三国干渉をうけ、獲得した遼東半島を還付させられるにいたった。この結果、獲得した朝鮮での地位も失うと心配した日本は王后閔氏の殺害を実行し、国王に恐怖を与えんとした。国王高宗がロシア公使館に保護をもとめるにいたり、日本はロシアとの協定によって、態勢を挽回することをよぎなくされた。
 しかし、義和団事件とロシアの満州占領ののち、1903年には日本は韓国全土を自らの保護国とすることを認めるようにロシアに求めるにいたった。ロシアがこれを峻拒すると、日本は戦争を決意し、1904年戦時中立宣言をした大韓帝国に大軍を侵入させ、ソウルを占領した。その占領軍の圧力のもと、2月23日韓国保護国化の第一歩となる日韓議定書の調印を強制した。はじまった日露戦争は日本の優勢勝ちにおわり、日本はポーツマス講和において、ロシアに朝鮮での自らの支配を認めさせた。伊藤博文はただちにソウルに乗り込み、日本軍の力を背景に、威嚇と懐柔をおりまぜながら、1905年11月18日、外交権を剥奪する第二次日韓協約を結ばせた。義兵運動が各地におこる中、皇帝高宗はこの協約が無効であるとの訴えを列国に送った。1907年ハーグ平和会議に密使を送ったことで、伊藤統監は高宗の責任を問い、ついに軍隊解散、高宗退位を実現させた。7月24日第三次日韓協約により日本は韓国内政の監督権をも掌握した。このような日本の支配の強化に対して、義兵運動が高まったが、日本は軍隊、憲兵、警察の力で弾圧し、1910年の韓国併合に進んだのである。
 以上のとおり、韓国併合は、この国の皇帝から民衆までの激しい抗議を軍隊の力で押しつぶして、実現された、文字通りの帝国主義の行為であり、不義不正の行為である
 日本国家の韓国併合の宣言は1910年8月22日の併合条約に基づいていると説明されている。この条約の前文には、日本と韓国の皇帝が日本と韓国の親密な関係を願い、相互の幸福と東洋の平和の永久確保のために、「韓国ヲ日本帝国ニ併合スルニ如カザル」、併合するのが最善だと確信して、本条約を結ぶにいたったと述べられている。そして第一条に、「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且ツ永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス」と記され、第二条に「日本国皇帝陛下ハ前条ニ掲ゲタル譲与ヲ受諾シ、且全然韓国ヲ日本帝国ニ併合スルコトヲ承諾ス」と記されている。
 ここにおいて、力によって民族の意志を踏みにじった併合の歴史的真実は、平等な両者の自発的な合意によって、韓国皇帝が日本に国権の譲与を申し出て、日本の天皇がそれをうけとって、韓国併合に同意したという神話によって覆い隠されている。前文も偽りであり、条約本文も偽りである。条約締結の手続き、形式にも重大な欠点と欠陥が見いだされる。
 かくして韓国併合にいたる過程が不義不当であると同様に、韓国併合条約も不義不当である。
 日本帝国がその侵略戦争のはてに敗北した1945年、朝鮮は植民地支配から解放された。解放された朝鮮半島の南側に生まれた大韓民国と日本は、1965年に国交を樹立した。そのさい結ばれた日韓基本条約の第二条において、1910年8月22日及びそれ以前に締結されたすべての条約および協定はalready null and voidであると宣言された。しかし、この条項の解釈が日韓両政府間で分かれた。
 日本政府は、併合条約等は「対等の立場で、また自由意思で結ばれた」ものであり、締結時より効力を発生し、有効であったが、1948年の大韓民国成立時に無効になったと解釈した。これに対し、韓国政府は、「過去日本の侵略主義の所産」の不義不当な条約は当初より不法無効であると解釈したのである。
 併合の歴史について今日明らかにされた事実と歪みなき認識に立って振り返れば、もはや日本側の解釈を維持することはできない。 併合条約は元来不義不当なものであったという意味において、当初よりnull and voidであるとする韓国側の解釈が共通に受け入れられるべきである
 現在にいたるまで、日本でも緩慢ながら、植民地支配に関する認識は前進してきた。新しい認識は、1990年代に入って、河野官房長官談話(1993年)、村山総理談話(1995年)、日韓共同宣言(1998年)、日朝平壌宣言(2002年)などにあらわれている。とくに1995年8月15日村山総理談話において、日本政府は「植民地支配」がもたらした「多大の損害と苦痛」に対して、「痛切な反省の意」、「心からのおわびの気持ち」を表明した。
 なお、村山首相は1995年10月13日衆議院予算委員会で「韓国併合条約」について「双方の立場が平等であったというふうには考えておりません」と答弁し、野坂官房長官も同日の記者会見で「日韓併合条約は…極めて強制的なものだった」と認めている。村山首相は11月14日、金泳三大統領への親書で、併合条約とこれに先立つ日韓協約について、「民族の自決と尊厳を認めない帝国主義時代の条約であることは疑いをいれない」と強調した。
 そこでつくられた基礎が、その後のさまざまな試練と検証をへて、今日日本政府が公式的に、併合と併合条約について判断を示し、日韓基本条約第二条の解釈を修正することを可能にしている。米国議会も、ハワイ併合の前提をなしたハワイ王国転覆の行為を100年目にあたる1993年に「不法な illegal 行為」であったと認め、謝罪する決議を採択した。近年「人道に反する罪」や「植民地犯罪」に関する国際法学界でのさまざまな努力も進められている。いまや、日本でも新しい正義感の風を受けて、侵略と併合、植民地支配の歴史を根本的に反省する時がきているのである。
 韓国併合100年にあたり、われわれはこのような共通の歴史認識を有する。この共通の歴史認識に立って、日本と韓国のあいだにある、歴史に由来する多くの問題を問い直し、共同の努力によって解決していくことができるだろう。和解のためのプロセスが一層自覚的に進められなければならない。
 共通の歴史認識をさらに強固なものにするために、過去100年以上にわたる日本と朝鮮半島との歴史的関係に関わる資料は、隠すことなく公開されねばならない。とりわけ、植民地支配の時期に記録文書の作成を独占していた日本政府当局は、歴史資料を積極的に収集し公開する義務を負っている。
 罪の許しは乞わねばならず、許しはあたえられねばならない。苦痛は癒され、損害は償われなければならない。関東大震災のさいになされた朝鮮人住民の大量殺害をはじめとするすべての理不尽なる行為は振り返られなければならない。日本軍「慰安婦」問題はいまだ解決されたとはいえない状態にある。韓国政府が取り組みを開始した強制動員労働者・軍人軍属に対する慰労と医療支援の措置に、日本政府と企業、国民は積極的な努力で応えることが望まれる。
 対立する問題は、過去を省察し、未来を見据えることで、先のばしすることなく解決をはからねばならない。朝鮮半島の北側にあるもうひとつの国、朝鮮民主主義人民共和国と日本との国交正常化も、この併合100年という年に進められなければならない。このようにすることによって、韓国と日本の間に、真の和解と友好に基づいた新しい100年を切り開くことができる。私たちは、この趣意を韓日両国の政府と国民に広く知らせ、これを厳粛に受け止めることを訴える。」

 (下線は引用・掲載者)

0700/NHKはいかなる陰謀を企んでいるのか-4/05「プロジェクトJAPAN-JAPANデビュー第一回」。

 〇 4/05NHK「プロジェクトJAPAN-JAPANデビュー第一回」が、その「プロローグ」の内容からして奇矯なものになることは予想できた。そしてそのとおり、とくに日本の「台湾統治」に関して、少なくとも<一面的>といえる番組(・報道)内容だった。
 <ディレクター>は、浜崎憲一、島田雄介
 <制作統括>は、田辺雅泰、河野伸洋
 NHKエンタープライズ、同グローバルメディアサービスの名はなかった。
 内容の具体的なことに立ち入らない。日本李登輝友の会という団体の、つぎの抗議内容は至極もっともだと思える。以下、全文(下線・太字は秋月)。
 「NHKスペシャル シリーズ JAPANデビュー 第一回 アジアの〝一等国〟」に対する抗議声明
 貴日本放送協会(以下、NHK)は、去る四月五日午後九時から「NHKスペシャル シリーズ JAPANデビュー 第一回 アジアの〝一等国〟」という番組を放送した。

 私どもは台湾を「日本の生命線」と位置づけ、日本と台湾の交流のシンボルである李登輝元総統の名を冠し、平成十四年に台湾との文化交流を目的に設立した団体であり、台湾の日本統治時代にも深い関心を抱いてこれまで活動してきている。そこで今回の放送は多大の関心を持って観た。

 だが、期待はものの見事に打ち砕かれた。私どもが知る台湾の日本語世代の人々の常日頃の発言と大きくかけ離れており、反日的と思われる発言だけを取り上げた印象は拭えず、日本の台湾統治時代を批判するため、台湾人の証言を都合よく操作し、「反日台湾」を印象付けるためだったのかとしか思えない内容であった。光と影の影のみを強調した印象は否めない。また、日台離間を企図しているのかとさえ思われる内容でもあった。

 番組を観た多くの方からも「実にひどい番組」「偏見に充ちた内容」という感想が寄せられている。台湾からも「大変不快だった」との声が寄せられ、若い世代の間では「僕のおじいちゃんは日本大好きなのに、あの番組は変だよ」「NHKはどうしてこんないい加減な番組を日本人に見せるのだろう」という疑問の声が噴出しているという。

 番組内容には批判すべき点が多々あるが、聞き慣れない「日台戦争」という呼称が出てくるし、後藤新平は出てきても、それは台湾人三千人を処刑した匪徒刑罰令の実行者として出てくる。また、台湾特産の樟脳産業を立て直すために基隆港を大型化し縦貫鉄道を敷いたと説明する。

 しかし、八田與一や後藤新平の事績を高く評価する李登輝氏の総統時代、一九九七年に台湾で刊行された中学校の歴史教科書の副読本『認識台湾』では、第七章に「日本植民統治時期の政治と経済」、第八章に「「日本植民統治時期の教育、学術と社会」を設け、例えば米やサトウキビの生産については「米の増産と糖業王国の確立」との見出しの下、生産量のグラフを掲載していかに生産量が上がったかを示していた。縦貫鉄道については「各地を結ぶ交通運輸を改善した」と記していた。

 確かに台湾統治では同化政策を進めた。差別もあった。この差別について、特に台湾の日本語世代は日本人の前ではあまり語りたがらない一面があることを私どももよく知っている。だが、日本統治を評価していることも事実なのである。それは、八田與一を高く評価していることに如実に現れている。故に、台湾をよく知る人々には、著しくバランスに欠けた内容と映じ、統治時代の歴史に真正面から向き合っていないという印象を強く残したのである。

 従って、日本が一方的に台湾人を弾圧したとするような史観で番組を制作することは、公共放送として許されるべきではない

 ついては、ここに今回の放送内容に厳重抗議する。それとともに、この番組の脚本を作成する上で参考にした書籍など全資料の開示を要求する。
 平成二十一年四月九日
 日本李登輝友の会
  会長 小田村四郎
  副会長 石井公一郎
      岡崎久彦
      加瀬英明
      田久保忠衛
      中西輝政
 日本放送協会 会長 福地茂雄殿」
 この抗議に対してNHK広報局は、「歴史を振り返り、未来へのヒントにしたいという番組の趣旨を説明し、理解していただきたいと考えています」と反応したという。
 これでは誠実な対応に全くなっていない。
「歴史を振り返り、未来へのヒントにしたい」という、その具体的な内容・方法をこそが批判されているからだ。抗議者を嘲笑し、抗議内容を無視する、おざなりの文章としか思えない。NHK広報局には、理屈・論理・日本語文章を理解できる<ふつうの>人間はいないのか。
 一点だけ付記する。日本の「台湾統治」を<悪>として一面的に描くことは、台湾が日本領土になったこと、その原因としての日清戦争の勝利の評価と無関係ではない。
 NHKは日清・日ロ戦争を含む司馬遼太郎「坂の上の雲」をドラマ化しているようで、前宣伝にも熱心だが、そのことと、この「プロジェクトJAPAN-JAPANデビュー」で訴えたいことと整合性はあるのか?
 司馬史観うんぬんはどうでもよい。<東京裁判史観>が<悪>と見なしているのは1930年代以降の日本の軍事行動・戦争だと思うが、いつかも触れたように、昭和の戦争=<侵略>戦争=<悪>(謝罪の対象)という<村山談話>史観=<東京裁判史観>を支持する者たち(「左翼」)は、日清・日ロ戦争をどう「歴史認識」するのか?? これはさらに明治維新の評価にも関連してくる。単純な是非論はできないだろうが、少なくともこれらとの関係も総合的に論じないと、「台湾統治」の評価も適切なものにはならないのではないか。
 さらに関連して。4/04にNHK解説委員・五十嵐公利は「日本は開国によって独立を確保した」旨を語ったが、その「独立」を維持し続けることができたのは日清・日ロ戦争の勝利(少なくとも不敗)があったからで、これらのいずれかに敗戦していれば、1945年を待たずして日本の「独立」は危うかったのではないか。
 五十嵐公利がまともな人間ならば、この問いにもどこかで答えてほしい。

0478/朝日新聞・若宮啓文の駄文、産経新聞・武田徹の「サヨク」・反日文。

 (2008年)4月の何日かは特定できないが、朝日新聞紙上で若宮啓文が「風考計」コラムを再開させて、何やら書いている(日付を特定できないのは、切り抜きのコピーでそこには日付が含まれていないため)。
 社説2つ分(従って一日の社説欄)以上の字数を使っていると思うが、「アジアの頼れる受け皿に/地図に見る日本」との大文字のあるこの文章で、若宮啓文はいったい何が言いたいのだろう。趣旨不明のこんな文を月に一つ二つだけ(?)書いて多額の収入が得られるのなら、結構なご身分だ。
 真面目に印象を書いているが、本当に趣旨がつかめない。アジアの地図を逆に見ると日本が「ふた」のようだが、改めて正しく見ると「アジアを支える」「お皿」のようだ、というのがタイトルの由来?らしい。だが、そもそも<アジアの受け皿>とは何の意味か? いちおうは何やら書いてはいるが、言葉又は観念の遊びの文章の羅列だ。
 むしろ、かつて「アジア支配に野望を燃やした」、「台湾や朝鮮を植民地とし」などと簡単に書いているのが若宮らしいし、何となく、日本が「四方に後遺症を抱えた国」であるために現在の周辺諸国との間の懸案もうまく解決できない(つまり今日の諸問題の責任は日本にある)のだ、と言いたいようにも読める。
 「やれやれ…である」、「悩ましき外交である」等とだけ書いて、具体的かつ現実的な解決方途を展開しているわけではない。こんな駄文を頻繁に読まされる朝日新聞の読者は気の毒だ。
 唖然とするのは、産経新聞4/24の「ジャーナリスト」武田徹のコラム(「複眼鏡」)も同様だ。但し、こちらは若宮コラムと違って、趣旨は比較的によく解る。問題は、この、<哲学的新左翼>で<フーコーの言説を引用できる>らしい武田徹の書く内容だ。
 重要ポイントの全文を引用したいし、すべきかもしれないが、二点を要約させていただくと、次のとおりだ。
 1.<「チベット問題の遠因は、実は日本にあるという説」がある。それによると、日清戦争での日本勝利→清国での「国民国家的統一を目指せ」との「ナショナリズム」発生→蒋介石・中華民国や毛沢東・共産中国への継承→「チベット同化政策」という連関があり、最後のものは結局(日本が火をつけた)「ナショナリズムの産物」だ。>
 これは風が吹けば…の類の妄言だろう。そもそも「説がある」とだけ書いて誰の説かも明らかにしていないが、その説に武田は同調的だ。
 疑問はただちに、いくつも出てくる。すなわち、「国民国家的統一」の範囲・対象に民族・宗教・文化等の異なるチベットを何故含めなければならないのか? あったのは「統一」ではなく、<膨張>であり<侵略>ではなかったのか?  かりに日清戦争で日本が敗北していたら、現在のチベットは中国の一部になっていなかったのか? 現在もネパールで<間接侵略>をしているが、ベトナムやインドと戦争を実際にしたりして領土拡張志向を示したのは、日清戦争とは無関係に、1949年に政権を奪取した中国共産党の方針そのものではないか?。
 2.<「今でも親日家の多い台湾は、日本の植民地経営が珍しくうまくいっていた」と評価されることがあるが、それは、「『精神の征服』まで果たされた結果だったのかもしれない」。
 まさに<そこまで言うか>という感想が生じる内容だ。「植民地」(という概念自体に疑問をもつが便宜的に使う)の経営がうまくいかなかったとすればそれはそれで批判し、うまくいけば「精神の征服」まで果たした、とこれまた自虐的に日本を批判しているのだ。台湾の人々はこの文章を読んでどう感じるだろうか。李登輝元総統は、日本に「精神の征服」をされた代表的人物なのだろう、武田から見ると。
 以上のようなことを書きつつ、最後に武田はこういう。-「チベット問題は…だろう。だが、その一方で、翻って自分の『国』がどのように作られてきたか、周辺諸国にどのように働きかけてきたか、この機会にそれを省みることにも意味がある」。
 武田徹は中国(「共産中国」)に対する批判を一切しない。逆に、チベット問題の遠因は日本にあるとの「説」に実質的に同調し、「この機会に」自国=日本の行動を「省みる」ことに意味がある、と主張している。
 このような、何かに「精神の征服」をされたとしか思われない内容は、上に偶々取り上げた若宮啓文のコラムとも通底する所があるようであり、朝日新聞に掲載されていたら、奇妙に思わないかもしれない。
 だが、なぜ、こんな<親中国的・反日的・自虐的>な内容の文章が産経新聞に載っているのだろうか。産経は「この機会に」じっくりと「省みて」=反省していただきたい。
 なお、武田徹のコラムに言及したものとして、以下も参照。→ http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/370928/ 

0122/日清戦争又は日ロ戦争に日本が敗北していたらどうなったか。

 歴史のイフを語ってはいけないとの言辞を読んだことがあるが、織田信長が本能寺で死んでいなかったらとか、坂本龍馬が明治維新期に生きていたらとかは、興味あるテーマだ。
 日清戦争に日本が負けていたらどうなっていただろう。日本が勝利したからこそ、(李氏)朝鮮国は中国の服属国ではなく、中国(清)と対等の国家になった。ソウルには今でもこれを記念した「独立門」というのがあるらしい。そして、(李氏)朝鮮国は名も改め、大韓帝国になった筈だ。
 とすると、日本が負けていれば、(李氏)朝鮮国に対する中国(清)の影響力はますます大きくなり、服属の度は強まり、「独立」などはできなかったことになる。そして、当時の清はすでに弱体化していたので、遅かれ早かれ、清とロシアの間で朝鮮半島をめぐる争いが生じていたように思われる。
 次に、日清戦争には日本が勝利したが日露戦争には敗北していたらどうなっていただろう
 手元で確認できないが、司馬遼太郎は「坂の上の雲」に関連して、小説自体の中にではなく別の文章の中で、<朝鮮半島はロシアのものになっていた>と明記していた筈だ。もともとが朝鮮半島をめぐっての戦争だったのだから、朝鮮半島全体がロシアの一部になること、又はロシアの傀儡といってよい政権がロシアの介入のもとで成立したことは十分に考えられる。
 当時は朝鮮半島をめぐって、日本、中国(清)、ロシアが対立していたのであり、日本が二つの戦争に勝利せず、大韓帝国を併合さえしなければ、朝鮮(あるいは大韓帝国)は自主的・自立的に発展を遂げることができた、というのは、とんでもない<妄想>だろう。ましてや、世界一の経済大国になっていただろうなどとの想像は噴飯ものだ(izanamiとかいう人は迂闊にも先日見た際にこう想像していた。他の全てがそうかもしれないが、真面目に書いているとすれば本当に気の毒な人だ。虚偽だと解っていてツッパッて書いているとすれば、これまた本当に気の毒な人だ。ご同情申し上げる)。
 以上のような問いに、原田敬一の日清戦争・日露戦争(岩波新書)が答えてくれている筈はない。この本はそうした問いを発してすらいない。
 だが、当時の東アジアの状況を見れば、日本だけを「悪玉」視して済む筈がない。日本がロシアに負けていれば、日本は朝鮮半島に続くロシアの実質的一部化(社会主義化!)の恐怖に怯えなければならなかった筈だ。
 最後に、言及されているのを読んだことがないテーマがある。すなわち、日露戦争の勝利は、ロシア帝国の弱体化を早め、ロシア革命=社会主義国ロシア→ソ連の成立に寄与したのではないか
 日露戦争にロシアが勝利していてもロシア革命は起こった可能性は無論あるが、その時機を少しは早めたのではないだろうか。日露戦争は祖国防衛戦争だったと司馬と同じように私は理解しているが、それがレーニンらを客観的には助けたのだとかりにすると、身体がむず痒い感触も伴う。

0081/日本史学界ではまだ「信仰告白」が必要なのか-原田敬一の岩波新書。

 1974年頃、東京大学社会科学研究所編で『戦後改革』全8巻の講座ものが出ていて、「占領」期に関心があるものには必読の文献かにも見えるが、その第1巻・課題と視角(東京大学出版会、1974)の巻頭論文は大内力「戦後改革と国家独占資本主義」というタイトルで、その他の所収論文も見事にマルクス主義者又はそのシンパが書いているようだ。
 従ってとても読む気にならないのだが、大内兵衛の子息のその大内力は、経済学者だが1960年代後半に中央公論社から出た日本史通史もの(焦茶色の函入。売れ行き良好だった筈だ)の24巻・ファシズムへの道(1967)を書いていた。同じシリーズの20巻・明治維新(1966)の著者はあの井上清だったのだから、全執筆者でないにせよ、この1960年代後半の通史シリーズのおおよその「傾向」はわかる。
 新しい世代の歴史研究者もそうした「マルクス主義的」歴史学者の指導を受けたのだから、「社会主義国」ソ連等の崩壊があったりしたにもかかわらず、「ふつうの」社会や分野に比べて、まだ<日本史学界>(たぶん西洋史学界も)は、総じてより「マルクス主義的」だろうとは想像はつく。
 何しろ、諸君!2007年2月号の座談会で伊藤隆は「大学の歴史・社会科学系では…共産主義系の勢力が圧倒的多数派なんですね」と言い、中西輝政は「近年、むしろ増えているのではないですか。現在は昭和二十年代以上に、広い意味での「大学の赤化」は進んでいる…」とまで反応しているのだ(p.50)
 上のような想像があたっているかどうか、また司馬遼太郎はどう扱われているかに関心をもって、原田敬一(1948-)・日清/日露戦争(岩波新書、2007.02)を入手した。全部読んでいないし、たぶんそうはならないが、いくつか驚き、面白く感じるところがある。
 1.このテーマ又は時代だと、いかに小説とはいえ、今の時点で書かれる歴史だとすれば司馬遼太郎の「坂の上の雲」への言及は不可欠だと思うが、索引に「司馬遼太郎」、「坂の上の雲」はなく、本文の中にも一切の言及がない。司馬自身はその呼称を厭がったようだが、<司馬「史観」>-日清・日露戦争は「祖国防衛戦争」だった、その後日本はおかしくなった-に対して、批判的にでも言及してもよさそうなものだが、完全無視だ。
 藤岡信勝は汚辱の近現代史(徳間書店、1996)の中の「「司馬史観」の説得力-「東京裁判=コミンテルン史観」を覆す「坂の上の雲」」で、「坂の上の雲」を読んで「戦後歴史教育の呪縛」から抜け出せた、それまでは日清・日露戦争は「まぎれもない帝国主義戦争」で当時の政治家は「帝国主義的侵略主義者」だと思っていた、と告白している(p.52-53)。
 私は藤岡とは違って不勉強だったからか、そこまでの思い込みはなく明治維新以降1945年までの日本史全体を暗黒視してはいなかった。明治維新以降の「近代」化をすべて消極的に評価することはできない、と感じていた。
 それはともかく、国民の「歴史認識」に与えた司馬の本の影響は、どんな精緻な専門的歴史書よりも極めて大きかっただろう。
 そんな本も歴史学の研究書でなく小説にすぎないとなると無視されるのだろうか。また、小説でなく研究書といえるものであっても、歴史学プロパーの、要するに日本史アカデミズムの範囲内の本でないと無視されるのだろうか。例えば、産経新聞取材班編・日露戦争(扶桑社、2004)は当然に無視され、黄文雄は日本史学者と見なされていないのか、同・偽造された日本史(日本文芸社、1997)、同・台湾は日本の植民地ではなかった(ワック、2005)等も無視されている。
 もっとも、横手慎二(1950-)・日露戦争史(中公新書、2005)は「おわりに」の中で、「日露戦争と聞くと、すぐに司馬遼太郎の『坂の上の雲』を想いだす」、学生時代に、「たんなる小説と思いつつ、そこに書かれている日本の「歴史」に惹かれて一気に読んだ」、自分が日露戦争史を書くとは考えもしていなかった、と率直に記している。
 横手も大学教授なのだが「日本史」専攻でないようであり、外務省調査員という職歴もあって、原田よりは学界=アカデミズムの<様式>から「自由」なのかもしれない。
 2.同じ時代を扱った通史ものはふつうは参考文献として挙げられている筈と思っていたら、中央公論社の2000年頃の『日本の近代』シリーズの3巻の、御厨貴・明治国家の完成1890-1905(2001)は無視されており、佐々木隆の1992年の著は挙げられながら、講談社の2000年頃の通史シリーズ・『日本の歴史』の21巻の、佐々木隆・明治人の力量(2002)は無視されている。
 本を書く場合に先行業績を全て列挙する必要はなく「参考」にした文献のみを挙げるので足りるから、上のような形式的なことを原田著の欠点と評することはできないだろう。大江志乃夫・靖国神社(岩波新書、1984)が参考文献とされながらその他の靖国神社関係文献が挙がっていないと批判しても無意味なのかもしれない。だが、かかる形式的なことは原田著の内容にもつながっているようだ。
 3.原田著の「はじめに」p.9は書く-「近代日本が欧米文化の学習で優等生だったことが、1945年の破滅を呼ぶことになる…」。この文を読んで、この人は基本的な「論理」を判っている人なのかと疑問に思った。
 「1945年の破滅」の原因の一つは「近代日本が欧米文化の学習で優等生だったこと」だ、と言うなら解らなくはない。だが、「近代日本が欧米文化の学習で優等生だったこと」が「1945年の破滅」の原因だ、と短絡的かつ単純に言い切れるのか。相当に太い(そして粗い)神経をもつ学者のようだ。
 4.計6頁の「おわりに」に限っても、奇妙な点が多い。
 ア.韓国併合条約締結の日に寺内正毅が山県有朋に送った手紙の中に併合後の「一大骨折りの仕事」は腐敗した日本人官吏の処分だ旨書いてあることを、「支配者である日本人が驕っており、自省は困難だった事実」を示す一つだという(p.239) 。なぜこう言えるのか私には解らない。原史料を使っているようだが、腐敗→驕慢、とりわけ腐敗→自省困難という論理の正しさはどうして実証されているのか、不思議だ。
 イ.台湾、朝鮮という「植民地」経営の実際をこの著者は文献上でもいかほど知っているのか。欧米の如き極悪な支配をしてはいないという「言い訳」はこの人によると「一笑に付される低い水準のものでしかないらしい(p.238)。だが、そのための根拠・資料は示されていない。言いっ放しだ。
 ウ.「韓国併合は、腐敗していた朝鮮王朝に責任がある、と…積極的に植民地化へ動いたことを隠蔽して、…正当化する意見を批判している(p.239)。だが、「腐敗していた朝鮮王朝」に「韓国併合」に至った「責任」の一片もないのだろうか。「ない」と考えていそうに理解できる文章だ。本当にそう考えているなら、この人にはこの時期の朝鮮・韓国史を語る資格はない。(なお「植民地」概念が簡単に使われるのも気になるが、ここでは省略しておこう)。
 エ.日本が「1945年の敗戦」という「外圧」により「植民地問題」を「解決した」という「歴史的経緯」の「出発点が「日清戦争から日露戦争へ」の時期にあった」と、最後にまとめ的な文章がある(p.240)。
 この本は「近代日本が欧米文化の学習で優等生だったこと」→「1945年の破滅」という論理を採用していることに上に触れたが、ここでも「日清戦争から日露戦争へ」の時期から「1945年の敗戦」までを一直線の歴史として捉えているのが明瞭だ。日清戦争前の「欧米文化の学習」の時期まで含めると明治維新から昭和の敗戦までが、ひと続きの不可避的な歴史の流れと理解されている如くだ。
 そうだとすれば、まさしく、明治になって以降敗戦までずっと「日本は帝国主義国化して悪いことをしてきました」という史観であり、昭和になって以降に限っての「東京裁判史観」を超えた、「コミンテルン史観」的なものに著者が浸かっていることがほぼ明らかになる。
 歴史研究者ではない素人が何をほざくかと思われるかもしれないが、歴史はそう簡単又は単純に語れるものではないだろう。
 じっくりと本体を読んで印象が変われば改めることを厭わないが、新しい文献・史料を使いつつも、またマルクス・レーニン主義的概念の使用を注意深く避けつつも結局は、明治以降敗戦までの日本を「悪」又は「非」と見る伝統的なマルクス主義史観に依っているのではないだろうか。ちなみに、p.240は、マルクス亜流の、あるいはマルクス主義者が正面から同主義を語れなくなった場合に逃げ込むとも言われることがある、サルトルに肯定的に言及してもいる。
 某書籍ネット販売サイトにこの本についての「レビュー」が2つ載っている。記入者名(ハンドル名)は省略するが、1つは、「なかなか面白いし、読ませてくれます」と肯定的なタイトルをつけつつ、「司馬史観に代表される「輝かしい明治」というテーゼを学術的に壊しておこう、という明確な意図が感じられます」。この点に賛成かは不明だが、この指摘どおりだろう。
 2つは、こう書く。「日清・日露戦争というのは、司馬遼太郎に代表される素朴保守的な近代史観や、保守・右派的な史観では、日本の安全保障上の脅威からの自存自衛戦争であり、「輝かしい」「近代の成功」を象徴するものであり、時には「アジア諸国民の独立運動を勇気づけた」などと肯定的に語られることが多い。/しかし本書ではこのような観点はとらず、一連の対外戦争を通じて、日本が植民地を獲得し、これらの地域・国民を統合し、いかに「大日本帝国」への道をたどっていったかを示していく。また、近年の「台湾・朝鮮に『極悪な植民地支配』をしたわけではない」という「言い訳」は、近年の研究によると「一笑に付される低い水準」のものだとしている。/新書という形式上、十分掘り下げた議論は難しいが、当然これらの見方に対しては猛烈な反発が予想される。いずれにしても、「岩波的」「進歩的」なこの時期の研究の成果が凝縮された一冊であるといえよう」。なかなか適確に要約・論評している。
 ところで、原田著の「あとがき」に説明や根拠素材提示不十分の断片的で「言いっ放し」の奇妙な叙述があると上に書いたが、上の4のとくにイ.とウ.は、この著者の「信仰告白」のようなものではないか、と、自信はないが、ふと感じた。
 つまり、本文で十分に扱っているわけではないが、自分はこういう「立場」の人間ですよ(だから安心して下さいよ)、ということを、読者にというよりも、同業者たちに、とりわけ「仲間」の同業者たちに確認的に明示しているわけだ。
 もしそうならば、そういうことをしなければならない「日本史学界」とは、かなり窮屈な、「学問の自由」ではなく「政治」が横溢している世界のように思えてしまうのだが…。

ギャラリー
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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