秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

日弁連

1314/安保法案「違憲」論は憲法学者の「学問」か-2。

 一 今次の平和安保法案は<集団的自衛権の行使>を容認する憲法解釈に立つものだとされる。
 その場合に前提とされる<集団的自衛権>とは何か。そこでいかなるものが想定されているのか。
 産経新聞6/10の「正論」欄の中西輝政「安保法案は日本存立の切り札だ」は「護憲派」長谷部恭男にも言及のあるタイミングのよい論考だが、そこには1960年「3月に当時の岸信介首相が…答弁しているように」、「一切の集団的自衛権を(憲法上)持たないというのは言い過ぎ」で、「現憲法の枠内での限定的な集団的自衛権の成立する余地」を(日本政府は)認めてきた、という一文がある。
 この岸首相答弁を私は確認することができなかった。但し、1960年3月に当時の林修三内閣法制局長官は、憲法と<集団的自衛権>について、以下のことを述べている。すなわち、①「…外国が武力攻撃を受けた場合に、それを守るために、たとえば外国へまで行ってそれを防衛する」こと、これが「集団的自衛権の内容として特に強く理解されている」が、これは憲法は認めていない。②「現在の安保条約」で「米国に対して施設区域を提供…」、あるいは米国が他国から侵略された場合の「経済的な援助」、こういうことを「集団的自衛権」という言葉で理解すれば、これを憲法が「否定しておるとは考えません」。いずれも、1960.03.31参議院予算委員会答弁。
 また、3月ではなく4月の20日に、岸首相は衆議院安保委員会で、上の①と②と同旨のことを述べている。
 ①「自分の締約国…友好国であるという国が侵略された場合に、そこに出かけていって、そこを防衛する」、これは憲法は認めていない。②「ただ、集団的自衛権というようなことが、そういうことだけに限るのか」。「基地を貸すとか、あるいは経済的な援助をするとか」、それらを内容とするものは、「日本の憲法の上から」いってできる、「それを集団的自衛権という言葉で説明するならばしてもよい」。
 但し、今次に問題になっている<集団的自衛権(の行使)>とは、1960年の時点で政府(岸信介首相ら)が憲法も容認しているとも語っていた基地提供や経済的援助の類を含むものではなく、やはり何らかの<実力の行使>を意味すると考えられる。
 二 近時の国会等での議論では必ずしも表立っては言及されていないように見えるが、<政府解釈>は、以下のような意味での<集団的自衛権(の行使)>は憲法上容認されていないとしてきており、かつそのような解釈は今次の安保法案、およびそれの前提の重要な一つになっている「集団的自衛権行使容認」解釈によっても変更されていない、と解される。否定されていることに変わらない<集団的自衛権(の行使)>とは、次のようなものだ。そして、昨年の閣議決定により<政府解釈>を変更して、容認することとなったそれは、以下のものに<限定>を加えたもので、同一ではない、と解される。
 1.「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている」。しかし、「集団的自衛権を行使することは、…憲法上許されない」(1981.05.29政府答弁)。
 2.「集団的自衛権とは、国際法上、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化される権利と解されて」いる。「これは、我が国に対する武力攻撃」への対処ではなく「他国に加えられた武力攻撃を実力でもって阻止することを内容とする」ので、「その行使は憲法上許されないと解してきた」(2004.06.18政府答弁書)。
 自国に対する(直接の)武力攻撃に対処するのが「個別的自衛権」の行使、密接な関係にある外国に対する武力攻撃に対処するのが「集団的自衛権」の行使、と相当に単純にまたは簡単に理解されてきた、と見られる。
 このような理解を前提として、いわゆる<新三要件>にもいっさい論及することなく、<集団的自衛権行使容認>に対する反対声明を出したのが、何と、日弁連会長・村越進だった。
 三 また、今回、政府が「論理的整合性」があるとし、<政府解釈>変更に際して前提にしている1972.10.14の参議院決算委員会提出文書のうち、行使が否定されるとする<集団的自衛権>について語っている部分は、以下のとおりだ。
 ①憲法九条は一定の場合に「自衛の措置」をとること禁じてはいない。②「しかしながら、…無制限に認めているとは解されない」。「あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認される」のだから、「その措置は、右の事態を排除するためにとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである」。③そうだとすれば、「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」。④「したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」。
 結論的に言って、2014.07.01閣議決定による<政府解釈>の変更は、上の①・②・③の「基本的な論理」は維持していると見られる。この閣議決定が、(①はもう省略するが)上の②・③についての次の部分は「従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理」であると、述べているとおりだ。すなわち、「この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の『武力の行使』は許容される」。
 だが、閣議決定および今次の法案は、上の④の具体的な適用または結論を<限定または修正>したものと解される。どのように「変更」したのか。2014.07.01閣議決定文書は、次のように述べている。
 「これまで政府は、…『武力の行使』が許容されるのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきた。しかし、…わが国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。…。こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った」。
 つまり、1.「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に<自衛>権行使を限っていたのを、この場合に限らず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」にも認める、というわけだ。かつ、2.その場合でも実際の行使は「我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないとき」に限るとされ、3.その態様は「必要最小限度の実力」だとされた。この2.3.は従来の解釈で語られてきたのとほとんど同旨であるので、重要なのは1.ということになる。
 四 上に二で言及したような意味での<集団的自衛権>の行使が容認されたわけではないことは明らかだ、と考えられる。<外国に対する武力攻撃>の発生という要件だけではなく、「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」という要件(新三要件の第一)もまた加えられている。その意味で、国際法上のまたは国連憲章が想定する<集団的自衛権>そのものの行使ではないことに注意しなければならない。
 五 長谷部恭男は憲法審査会で、今次の法案(<解釈変更>)は(従来の政府解釈と)「論理的整合性を欠く」と発言したらしい。
 結論が同じではないのだから、まったく「整合性」がとれているわけではないことは当たり前のことだ。この批判は、要するに、<解釈変更は許されない>、<解釈変更自体が違憲だ>と主張していることに究極的にはなるのかもしれない。しかし、そのような批判は成り立たない。
 また、政府側は「自衛措置」をとることの合憲性・違憲性について最も詳しく語っていると見られる1972年の答弁文書をふまえて、そこでの「自衛」権の行使に関する基本的な考え方・論理を維持しようとしている、とは言えるだろう。この点について、安倍内閣を、あるいは自民党中心政府を、批判したい者たち、あるいはアメリカとともに安倍内閣・自民党中心政権を「敵」と見なしている者たちは、何とでも言うだろう。疑うつもりならば、批判したいならば、最初からそういう立場に立てば、何とでも言える。
 もっとも、長谷部恭男は、前回に触れた読売オンライン上の論考では、「論理的整合性」の問題には明示的には触れていない。むしろ、1972年政府答弁文書等々による<集団的自衛権行使否認>解釈を変更すること自体への嫌悪、あるいは安倍内閣に対する不信・悪罵の感情の表明が目立つようだ。さらに続ける。
 

1298/「左翼」団体・日弁連の会長・村越進の2014.07.01声明の異様。

 宇都宮健児が会長だったことでも示されているように、まるで公正・中立でかつ法律関係については専門家の集団であるかのように見えなくもない日本弁護士連合会は、むろん弁護士の全員がそうではないにせよ、幹部あるいは役員たちは明確な「左翼」であり、「左翼」活動家弁護士たちが牛耳っている「左翼」団体に堕している。
 2014年の集団的自衛権行使容認の閣議決定後に発せられた日弁連会長・村越進の「集団的自衛権の行使等を容認する閣議決定に抗議し撤回を求める会長声明」を読んでも上のことは明らかだ。
 さらに、この声明の内容は、弁護士が、しかもその自主団体・個別弁護士会の連合団体・日弁連のトップである弁護士が発したものとして、信じがたいほどに異様で、ずさんでもある。
 以下にそのまま引用して掲載する。
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 <集団的自衛権の行使等を容認する閣議決定に抗議し撤回を求める会長声明>
 本日、政府は、集団的自衛権の行使等を容認する閣議決定を行った。
 集団的自衛権の行使容認は、日本が武力攻撃をされていないにもかかわらず、他国のために戦争をすることを意味し、戦争をしない平和国家としての日本の国の在り方を根本から変えるものである。
集団的自衛権の行使は、憲法第9条の許容するところではなく、そのことはこれまでの政府の憲法解釈においても長年にわたって繰り返し確認されてきたことである。
 このような憲法の基本原理に関わる重大な変更、すなわち憲法第9条の実質的な改変を、国民の中で十分に議論することすらなく、憲法に拘束されるはずの政府が閣議決定で行うということは背理であり、立憲主義に根本から違反している。
 本閣議決定は「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」等の文言で集団的自衛権の行使を限定するものとされているが、これらの文言は極めて幅の広い不確定概念であり、時の政府の判断によって恣意的な解釈がされる危険性が極めて大きい。
 さらに、本閣議決定は、集団的自衛権の行使容認ばかりでなく、国際協力活動の名の下に自衛隊の武器使用と後方支援の権限を拡大することまで含めようとしている点等も看過できない。
 日本が過去の侵略戦争への反省の下に徹底した恒久平和主義を堅持することは、日本の侵略により悲惨な体験を受けたアジア諸国の人々との信頼関係を構築し、武力によらずに紛争を解決し、平和な社会を創り上げる礎になるものである。
 日本が集団的自衛権を行使すると、日本が他国間の戦争において中立国から交戦国になるとともに、国際法上、日本国内全ての自衛隊の基地や施設が軍事目標となり、軍事目標に対する攻撃に伴う民間への被害も生じうる。
 集団的自衛権の行使等を容認する本閣議決定は、立憲主義と恒久平和主義に反し、違憲である。かかる閣議決定に基づいた自衛隊法等の法改正も許されるものではない。
 当連合会は、集団的自衛権の行使等を容認する本閣議決定に対し、強く抗議し、その撤回を求めるとともに、今後の関係法律の改正等が許されないことを明らかにし、反対するものである。
 2014年(平成26年)7月1日
  日本弁護士連合会/  会長 村越  進
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 異様さ・杜撰さ-これらは「左翼」であるがゆえの政治的偏向の結果に他ならないだろうが-は、以下に認められる。
 第一に、安倍晋三内閣による閣議決定の正確な内容に言及することなく、「集団的自衛権の行使容認」は、「日本が武力攻撃をされていないにもかかわらず、他国のために戦争をすること」を意味する、と何とも安直に理解してしまっている。この文章が日弁連会長のものであるとは、その地位・職からすると-通常の感覚では-ほとんど想像もし難いほどだ。
 国際法上はまたは国連憲章の理解としては、集団的自衛権の行使とは、大雑把には、同盟国・友好国に対して第三国から武力攻撃があった場合に、自国は直接の武力攻撃の対象になっていなくとも、その友好国を助けてその第三国の攻撃に共同で対処することのようだ。しかし、集団的にせよ<自衛権>の行使であることに変わりはない。これをただちに「他国のために戦争をすること」と言い切ってしまえる神経は、-何度も使うが-<ほとんど信じがたい>。
 また、昨年の閣議決定を正確に読めば-きちんと理解しようとすれば-簡単に分かるように、閣議決定が容認した集団的自衛権の行使とは、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し」た場合に、①「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」において、②「これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないとき」に、かつ③「必要最小限度の実力を行使すること」という、いわゆる新三要件の充足のもとで容認されるものであり、国際法上のまたは国連憲章の理解としての集団的自衛権の行使の意味よりも相当に厳格に限定されたものだ。
 このような容易に知り得ることに目を瞑り、日本共産党と同様に<戦争>に道を拓くものという、レッテル貼りをしているか、悪罵を投げつけているにほとんど等しい。これでも日弁連の会長の声明なのか。
 第二に、専門法曹あるいは法律家ならば、もう少しは丁寧に概念の意味を明確にして諸概念を用いるべきだろう。
 すでに「戦争」という言葉が特段の定義なく使われているが、「戦争をしない平和国家」とか「徹底した恒久平和主義」などという言葉・概念がほとんど情緒的に使われている。
 日弁連は、あるいは日弁連会長・村越進は、現憲法九条のもとで、「戦争をしない平和国家」・「徹底した恒久平和主義」のゆえに、現在の自衛隊の存在そのものが違憲だと解釈(・適用)しているのだろうか。かりにそうであるならば、その旨を明確に記して、違憲の組織の行動範囲・要件を論じること自体が憲法違反だと断じるべきだろう。そうではなく、自衛権・自衛力を行使する実力組織としての(「戦力」ではない)自衛隊は合憲的に存在していると解釈(・適用)するのならば、自衛権の行使としての武力行使を簡単には「戦争」と称することはできないはずであり、簡単に「徹底した恒久平和主義」に反するなどと断じることはできないのではないか。
 第三に、「憲法に拘束されるはずの政府が閣議決定で行うということは背理であり、立憲主義に根本から違反している」と述べるが、「憲法に拘束される」という場合のその憲法の規範的意味内容が問題になっているのだから、憲法違反という前提を先に置くのは背理であって、何の意味も持たない。法律家ならば、このくらいのことは分かるだろう。「立憲主義」違反という点も同じだ。
 また、内閣が憲法解釈の変更を行うことを捉えて「立憲主義」違反と言っているようだが、最近にもこの欄で述べたように、裁判所・司法部による確定した憲法解釈が存在しない論点については、内閣は憲法解釈を行なって当然だし、また戦後何度か見られたように、その変更も実際には行われてきた。
 さらに、昨年の閣議決定時にも語られていたが、限定された集団的自衛権の行使を実際に容認するためには法律の制定・改正が必要だ。そして、かりに内閣提出の法案が国会で成立したとすれば、集団的自衛権行使は現憲法下で許容されるという憲法解釈は、もはや内閣どまりのものではなく、国民代表議会である国会の解釈になることを意味する。あくまでかりの話だが、その場合でも、すなわち国会が内閣・閣議決定の解釈を支持して、その解釈にもとづく法律案を成立させた=法律を制定・改正したとしても、日弁連は、あるいは同会長・村越進は、なお「立憲主義に根本から違反」すると主張するのだろうか。かりにそうだとすれば、それこそが国会軽視・(議会制)民主主義の軽視であって、<立憲主義>を逸脱するものだろう。
 第四に、新三要件の一部に触れつつ「これらの文言は極めて幅の広い不確定概念であり、時の政府の判断によって恣意的な解釈がされる危険性が極めて大きい」と述べるが、これはしばしば見受けられる陳腐な批判の仕方だ。
 国会により指名された内閣総理大臣等により構成される内閣を信頼していない書きぶりだ(日本共産党・社民党の連立内閣ならば信頼するのだろうか?)。その点はともかくとしても、とくに安全保障の領域では、ことの性質上、あらかじめ詳細で具体的な定めをしておくことの困難性の程度は高いものと思われる。「恣意的」な解釈というが、だからこそ、しっかりとした(例えば鳩山由紀夫や菅直人ではない首班を戴く)内閣を作っておかなければならない、とも言える、また、この部分の批判は、国会による(昨年の段階では「原則」として)事前の承認が必要とされていることを無視している。具体的認定については国会による事前チェックがかかるのだ。自民党等が与党だからそれは無意味だ、とか日弁連が言い始めたら、きっときわめて恥ずかしいことになるだろう。
 まだあるが、長くなったので、この程度にする。
 この声明は会長名だが、中身では「当連合会は、集団的自衛権の行使等を容認する本閣議決定に対し、強く抗議し、その撤回を求めるとともに、今後の関係法律の改正等が許されないことを明らかにし、反対するものである」と、日弁連を主体とする表現で終えている。
 弁護士たちが、安全保障・軍事に関する知見をいかほど有するかは、もともときわめて疑わしい(ついでに言えば、日本の歴史における<天皇制度>の伝統についての関心も知識もおそらくほとんどないのだろう)。そして、日本弁護士連合会とは、現実を直視することのできない<幻想と妄想>をもって、そして狭く固定した<観念>に縛られて活動している「左翼」団体に他ならないようだ。むろん、このような言い方に反発を覚える弁護士たちも少なくないだろうが、しかし、会を代表する会長の声明を読むかぎり、そのように判断せざるをえない。

1246/稲田朋美が語る日本の法曹界の「左翼」性。

 稲田朋美が、伝統と革新(たちばな出版)という雑誌の2013年秋号(9号)で、「自主憲法制定の大切さ」と題して、この雑誌の編集責任者である四宮正貴によるインタビューに答えている。この中で、わが国の法曹界について語っている部分には全面的に同意したい気分なので、以下引用しておく。
 ・<大学の法学部での憲法教育には>「非常に問題がある」、「現行憲法の…根本的な問題点、つまり押し付けられたものであるとか、主権が制限されているときにできたものであって正統性に疑義があるというようなことは、まったく教えないです」。
 ・「しかも、憲法は絶対に正しいものとして、…、また絶対に守らなくてはいけないものだというところから出発して学びます。法曹界が非常に左派なのは、”憲法教”という新興宗教が蔓延っているからだ…。法曹界は一般社会以上に、非常に左派、左翼的な人が多いようにも思います。それは、そうした憲法を大学時代に一所懸命に勉強して、正しいと思い込んで、そうして難しいと言われている司法試験に合格した人の集まりだから…」(p.54)
 日本共産党・社会民主党等の支持を得て今年の東京都知事選挙に立候補した宇都宮健児は、何と正式に日本の弁護士たちによって選挙で選出された日本弁護士連合会(日弁連)の元会長であったことは、記憶に新しい。個別弁護士会や日弁連の執行部にいる「活動家」の中には日本共産党員もいると思われるが、そうでなくとも親日本共産党であること、または少なくとも反日本共産党(反共)ではないこと、は容易に推測できる。
 現在の司法試験に合格するためには、日本になぜ<天皇制度>が長く続いてきたか等の日本に固有の歴史問題や日本を他国から防衛するためにはどうすればよいか等の国防・安全保障問題などに関する知識はゼロであってもかまわない。従って、象徴天皇制度についてすら、「世襲」制は平等原則と矛盾して合理的でないと潜在的には意識しているような暗黙の<共和制>支持者の方が、法曹界には多いように見える。
 なぜ、そうなったのか。稲田朋美も指摘しているように、大学における憲法教育に大きな原因があるのだろう。その憲法教育は大学の憲法担当の教授たち(憲法学者)が担っていて、かつ彼らが例えば高校の日本国憲法に関する記述を含む現代社会や政治経済の教科書を書いているのだから、日本国憲法を真面目に学べば学ぶほど高校生も大学生(法学部生)も<左傾>していくことになっている。あまり真面目に勉強しない方がよいかもしれないとすら思える。司法試験に合格するような優等生こそが、真面目に勉強して<左翼>として巣立っていくのだ。
 そうした影響は、じつは法曹界に限らず、外務省を含む上級国家公務員についてもある程度は言えるかもしれない。マスコミに入社する法学部生たちは、彼らほど法学を勉強していないが(官僚バッシングはある程度は<コンプレックス>によるのではないかと思っている)、日本国憲法についての、稲田朋美が上に簡単に述べているような程度のイメージは持っているはずだ。朝日新聞社説は何と<憲法は国家を縛り、法律は国民を縛る、ベクトルが違う>という珍論を吐いたのだったが、単純素朴な(立憲主義なるものについての)憲法観・法律観も、法学部出身者であるならば、大学における憲法・法学教育の(日本国憲法の制定経緯・背景をまるで教えないような)影響を受けているのだろう。
 憲法改正をめぐって護憲派として登場して有力な論者の一人になっている、司法試験予備校?も経営している弁護士・伊藤真もいる。護憲・「左翼」の憲法学者には、青井三帆や木村草太などの社会的にも名前を出してきた若手もいる。。法曹界が<まとも>になるのは、いつになるのだろう。憂うべきことの一つだ。

1020/国歌斉唱起立条例と日弁連会長・「左翼」宇都宮健児。

 産経新聞7/01付に、いわゆる大阪府国歌斉唱起立条例につき、賛成の百地章と反対の日弁連会長・宇都宮健児のそれぞれの発言が載っている。
 語ったことが正確に文字化されているとすれば、宇都宮健児は、「左翼」週刊紙・週刊金曜日の編集委員を務めていることからも明らかな、明瞭な<左翼>だし、論理・概念も厳密でないところがある。
 ①国歌の起立斉唱を「義務」とすることと「強制」することを同義に用いている部分がある。
 「強制」は行きすぎだ等のかたちで使われることがあるが、「左翼」の使う<強制>概念には注意が必要だ。すなわち、この条例問題に即していうと、条例によって「義務」とすることは、実力をもって起立させ、(口をこじ開けて?)歌わせることを意味するわけではないので、(もともと罰則もないのだが)「強制」概念には含まれないものと考えられる。より悪いまたはより厳しいイメージで対象を把握したうえで批判する(そして同調者を増やす)のは「左翼」活動家の常道だ。
 ②「戦前と同じ国旗国歌だから、軍国主義とか天皇制絶対主義といった社会のあり方と強く結びついている、と考える人もいるし、……」。
 ここでは、宇都宮が「天皇制絶対主義」という語(概念)を何気なく使っていることに注目したい。
 「天皇制絶対主義」とは、講座派マルクス主義(日本共産党ら)による戦前の日本の性格に関する基本認識・基本用語ではないか
 お里が知れる、というか、宇都宮はどういう歴史学を勉強してきたか、どういう歴史認識をもっているかを、はからずも示したものだろう。
 ③「起立・斉唱を強制するということは、その人の思想・良心の自由を侵害することになるから憲法違反ということだ」。
 何という単純な<理屈>だろう。すでに最高裁の三つの小法廷ともで起立・斉唱職務命令の合憲性を肯定する判決が出ており、もう少しは複雑で丁寧な論理を展開しているのだが、宇都宮はこれらの判決を知らないままでこの発言をしているのだろうか。
 といった批判的コメントをしたいが、問題なのは、かかる発言者が、日本弁護士連合会のトップにいる、という怖ろしい事実だ。
 戦前の日本を<天皇制絶対主義>と簡単に言ってのける人物が、弁護士業界のトップにいて、弁護士(会)を代表しているのだ。
 おそらくは長年にわたってそうだが、「弁護士」の世界(・組織)の中枢・最上級部分は「左翼」に握られ続けている。怖ろしいことだ。
 宇都宮は、誰にまたは誰の教科書で憲法を学習して司法試験に合格したのだろう。宮沢俊義だろうか、日本社会党のブレインでもあった小林直樹(かつて東京大学)だろうか。専門法曹、とりわけ弁護士は、特段の(司法試験以外の)勉強をしたり、一般的な本を読んでいないと、自然に少なくとも<何となく左翼>にはなっている。そして、宇都宮健児のごとく、日弁連の会長にまでなる人物も出てくるわけだ。再び書いておこう、怖ろしいことだ。
 ところで、月刊正論8月号(産経)の巻頭の新執筆者・宮崎哲弥は、思い切ったことを書いている。賛成・反対の議論のいずれにも物足りなさ・違和感を感じるとし、次のように言う。
 「いま問われ、論じられるべきは、ズバリ『愛国心を涵養するため、学校で国旗掲揚、国歌斉唱を生徒たちに強制してはならないか』ではないのか」(p.48)。
 日本の国旗国歌の沿革(それがもった歴史)を度外視して一般論としていえば、まさに正論だろう。また、沿革(それがもった歴史)がどうであれ、国会が法律で特定の国歌・国旗を決定している以上は、度外視しなくても、今日、少なくとも公立学校の「生徒たち」への「強制」(この語は厳格なまたはきちんとした「教育」・「指導」・「しつけ」等の別の表現にした方がよいが)がなされても何ら問題はないし、むしろすべきだ、という主張も成り立つ、と考えられる。

0850/2009年秋~2010年03月の本。

 本・雑誌・新聞を読んでの「備忘録」(覚え書・メモ)というのが、元来の、いや途中から明確にしたこのブログ欄の利用目的のはずだった。しかし、残念ながらそのようにはなっておらず、全部または一部を読んでもこの欄では(まだ)言及していない書物等が多数ある。
 新聞記事(論文調のものも含む)はたぶんもう遅いが、また雑誌も逐一挙げるのは面倒だが、昨年の秋(9~10月頃)から今年3月末までに購入して(「はしがき」であれ「あとがき」であれ)一部は読んだ記憶があるものを、年度末でもあるので、以下にメモしておく。
 購入したが少しも目を通していないものもあるようだが、これはいちおう除く。また、大雑把に昨年の秋(9~10月頃)以降のものに限るので、それ以前に購入して全部または一部を読んだもの(かつこの欄では取り上げなかったもの)は含まない。但し、上の二点のいずれも、曖昧なところがある。(全読了のものを除き、順不同。本の体裁の大きい順をむしろいちおうの基準にしている。)
 ・小林よしのり・昭和天皇論(幻冬舎、2010.03)<5晩ほどかけて全読了>
 ・小林正啓・こんな日弁連に誰がした?(平凡社新書、2010.02)<購入日に全読了>
 ・西尾幹二=平田文昭・保守の怒り(草思社、2009.12)<忘れかけていたが全読了の痕跡があった>
 ・水島総原作・1937南京の真実(飛鳥新社、2009.01第二刷)<たぶん全読了>
 ・西村幸祐編・激論ムック/迷走日本の行方(オークラ出版、2009.11)<かなり読んだ>
 ・西村幸祐編・激論ムック/外国人参政権の真実(オークラ出版、2010.04)
 ・田中健之編・別冊宝島/「靖国」に祀られざる人々(宝島社、2007.08)
 ・新潮45別冊/櫻井よしこ編集長・「小沢一郎」研究(新潮社、2010.04)
 ・藤井厳喜・NHK捏造事件と無制限戦争の時代(総和社、2009.11)
 ・三橋貴明・民主党政権で日本経済が危ない!本当の理由(アスコム、2009.12)
 ・櫻井よしこ編・日本よ、「戦闘力」を高めよ(文藝春秋、2009.10)
 ・西尾幹二・三島由紀夫の死と私(PHP、2008.12)
 ・竹内修司・創られた「東京裁判」(新潮選書、2009.08)
 ・田母神俊雄・真・国防論(宝島社、2009.05)
 ・竹内洋・立身出世主義〔増補版〕(世界思想社、2005.03)
 ・福田恆存評論集第一巻(麗澤大学出版会、2009.09)
 ・安本美典・真説・邪馬台国/天照大御神は卑弥呼である(心交社、2009.12)
 ・富山太佳夫編・現代批評のプラクシス3/フェミニズム(研究社出版、1995.12)
 ・不二龍彦・天皇・皇室ファイル(学研、2010.02)
 ・宮崎正弘・朝日新聞がなくなる日(ワック、2009.11)
 ・遠藤浩一・小澤征爾-日本人と西洋音楽(PHP新書、2004.10)
 ・三橋健・神道の常識がわかる小辞典(PHP新書、2007.05)
 ・日暮吉延・東京裁判(講談社現代新書、2008.01)
 ・根井雅弘・市場主義のたそがれ-新自由主義の光と影(中公新書、2009.06)
 ・武光誠・一冊でつかむ天皇と古代信仰(平凡社新書、2009.05)
 ・鈴木貞美・戦後思想は日本を読みそこねてきた(平凡社新書、2009.12)
 ・鈴木貞美・日本の文化ナショナリズム(平凡社新書、2005.12)
 ・西尾幹二・決定版/国民の歴史/上・下(文春文庫、2009.10)<単行本で既読のものの「決定版」の再読>
 ・W・ゾンバルト(金森誠也訳)・恋愛と贅沢と資本主義(講談社学術文庫、2008.12第七刷)
 まだ他に買って読みたいもののそれに至っていないものが多いにもかかわらず、こうして書き並べて見ると、とても全部は読み切れない(他に週刊誌・雑誌・新聞もある)とあらためて感じて、げんなりした。 

0225/サピオ6/27号の橋下徹・稲田朋美各弁護士の文を読む。

 弁護士・橋下徹が語るのは聞いたことがあるが、文章を読んだことはなかった。「「日本の裁判」亡国論」と表紙に大書してあるサピオ6/27号(小学館)で法曹改革・弁護士会等について書いているのを読んだ。
 ロースクール(法科大学院)制度につき、次のように言う。-この制度創設の趣旨は、旧来の司法試験では「マニュアル的法律家」、「特に人間的教養の身に付いていない受験技術だけを持った法律家」しか生まれないことを危惧して「素晴らしい人間的素養に溢れる法律家」を養成することだった。
 こういう面もあるだろうが、「人間的教養(素養)」の涵養のみがこの制度の趣旨ではないと想像している。例えば、法学部の大学教員に空理空論を研究し講義することを許さず、日本の司法実務や判例に即した研究・講義を促すとか、専門法曹の養成に法学部の大学教員を従来よりもはるかに関与させるとかの意味もあるだろう。
 しかし、次の言葉は適切だろうと推測する。-「ロースクールごときで、人間的素養など身に付くはずがない。ロースクールの教授を見れば一目瞭然。人間的に魅力のある教授など皆無。…ロースクールで、人間の幅が広がると考えているのは、自分たちは教養に溢れていると勘違いをしている傲慢な法学関係者のみ」(p.22-23)。
 日弁連の元会長・土屋公献弁護士が朝鮮総連の代理人になり、まずは日朝の国交回復などと公言していることもたぶん一つの証左だろうが、個々の弁護士会や日弁連の幹部又は役員はどうも「左翼的」臭い、という印象はあった。橋下徹も、日弁連のHPに<憲法改正手続法の抜本的見直し>・<共謀罪反対>等の「政治的主張が堂々と掲げられている」と、批判している。法律にもとづき設置される、いわば強制加入制の弁護士会とその連合体に許容される活動範囲についての法的定めは知らないが、たぶん、形式的には「民主主義」的に、<間接>が複数回続いて形成された<多数派>が特定の政治的主張をしているのだろう。
 裁判官も含む専門法曹は戦後教育の「優等生」だといつか書いたことがある。戦後教育の「優等生」だということは、歴史・政治そして例えば日本国憲法や国家・個人観について、高校までの教科書や大学教員の書いた本によって<戦後>的価値観を平均的日本人以上に、ふんだんに身に付けていることを意味する。少なくともある程度は<警戒>が必要な人たちでもあるのだ、たぶん。
 そうした懸念にも関係することを述べているのが、同じサピオ6/27号稲田朋美「「戦後補償裁判」で次々濫訴する市民団体・弁護団の「負けて勝つ」法廷戦術に躍らされるな」だ(p.15-20)。
 私自身が3/25に一審・土肥章大、田中寿生、古市文孝、二審・石川善則、井上繁規、河野泰義各裁判官による百人斬り虚偽報道謝罪広告請求事件判決に簡単に言及し、また、3/25と6/08に伊藤剛、本多知成、林潤の三裁判官による「南京大虐殺はあった」と判決理由中で明言した東京地裁平成11.09.22判決(南京事件被害者中国人による日本国相手の損害賠償請求訴訟)にやや詳しく論及したので(また、6/07には稲田氏の別の一文に言及した)、よく分かる。
 稲田が強調している一つは次のことで、同感だ。すなわち、一連の<戦後補償裁判>での国(法務省)の方針は誤っている。彼女は書く-「戦後補償裁判で事実関係を争わない国の訴訟方針は、国益を大きく損ねている」。「大竹たかし法務省大臣官房訴訟総括審議官」は「事実関係を確定するまでもなく請求が棄却されるべきもの」であり「国は事実関係については認否、主張、反対尋問をしない」と「答弁した」が、これは「法律家だけに通じる議論」だ。
 「国は事実関係については認否」もしないとは、原告の一定の事実(戦時中の被害の原因・背景を含む)の主張に対して肯定も否定もせず「知らない」と答え、誤った事実の主張に対して反論するための証人採用等の活動を一切していない、ということだろうか。
 これは肌が寒くなる方針だ。法務省官僚に一般に「政治的」になれとは言わない。しかし、<戦後補償裁判>では原告中国人・韓国人、そして支援する弁護士を含む日本人は、稲田の表現では
「負けて勝つ」法廷戦術を、すなわち、本案の結論では請求棄却でもよく、判決理由中の事実認定の中で国の加害行為によって被害が生じた等を明文で書かせること、さらにはそれを「違法」と評価させることを目的とする「政治的」戦術をとっていると見られる。そして、上のような訴訟方針だと、事実についてはほとんど原告側の言いっ放しによって認定されることになり兼ねない。戦時中の日本国家の行為がかりに誤って事実認定されるということは、歴史の改竄と国益の損失に司法判決が加担するということでもあり、国・法務省官僚は「政治的」意識を持って断固として反論し、判決による誤った事実認定を阻止すべきだ。
 稲田が強調しているいま一つは、かなり知られてきた、所謂<司法のしゃべりすぎ>だ。稲田はp.17で、「「余計なこと」をいいたがる裁判官がいる…」と表現している。
 上の法務省官僚の答弁の如く「事実関係を確定するまでもなく請求が棄却されるべきもの」だとしても、事実関係に立ち入り、原告に有利な事実認定と「違法」との評価を(上のような国の訴訟方針もあって)してしまう裁判所・裁判官がいるわけだ。
 すでに書いたことの反復になってきているが、戦後教育の「優等生」である裁判官がどのような<歴史認識>を持っているか、形成してきたかは、興味深い問題だ(明瞭になる資料もデータもないだろうが…)。大きな対立があることを知らないまま、又は知っていても贖罪的な、<日本は悪いことをした>史観に立つことが<良心的だ>と判断してしまう、無邪気な「良心的」裁判官が、余計な<おしゃべり>をしているかにも見える。
 なお、稲田のこの一文によると、尾山宏という弁護士は、百人斬り虚偽報道謝罪広告請求事件での元朝日新聞・本多勝一被告の弁護人で、かつ、日本に損害賠償を請求した「南京虐殺」被害者の一人・某の弁護人で、かつ<戦後補償裁判>の一つの「毒ガス訴訟」の原告側弁護士団長だった。そして、中国の中央電視台から2003年度の「中国を感激させた10人」の1人に選ばれた、という(p.17)。中国(の国営放送局)に褒められる奇特な?日本人弁護士がいるわけだ。

0222/安倍首相、朝鮮総連構成員は犯罪関与、中国のサミット参加認めず、と明言。

 安倍晋三首相は6/12に、朝鮮総連中央本部の土地・建物元公安調査庁長官が社長を務める投資顧問会社に売却されていたこと関連して、「朝鮮総連はその構成員が拉致をはじめ犯罪に関与してきたことが明らかになっている」と記者団の前で明言した(イザ!6/12、21:06)。
 また、安倍晋三首相は、産経6/14によると、独・ハイリゲンダムでの独メルケル首相との会談の際に、サミットへの中国の参加につき、「日本は認めない」と明言し、1.軍事費不透明で19年間2桁の伸び率、2.スーダン・ダルフールでの大量虐殺を黙認し、スーダン政府を支援、3.国際的ルール不遵守、の三点を挙げた(メルケル首相も「よく理解する」と同調した)、という。
 朝鮮総連(=北朝鮮)や中国について、これだけきちんと明確に、堂々と公言できる内閣総理大臣はこれまでの中でも珍しいのではないか
 朝日新聞等の論調の影響を受けた、又は受けそうな首相又は自民党議員はたくさんいたし、いる。
 現在、安倍氏が首相であることによる国家的、国民的利益の大きさを、国民はもっと感じてよい、と思う。
 それにしても、緒方重威という元公安調査庁長官が<朝鮮総連の本部の建物は在日朝鮮人の権利擁護のための大使館のようなもの>と発言していたのには驚いた。日本国内での諸工作の出発点、謀議の場所でもあったのでないか。
 さらには、元日弁連会長土屋公献氏が朝鮮総連側代理人になっていて、彼が「北朝鮮との国交を回復するため、私自身の信念に基づいて行動している。中央本部は在日朝鮮人にとって大使館のようなもの。なくなると、在日の人たちはよりどころをなくしてしまう」と述べたらしいことにも驚いた。
 北朝鮮の工作は公安調査庁の幹部にまで、さらには日弁連の幹部にまで及んでいたことを容易に想像させるものだ。改めて活発な<情報工作>がなされていたことを感じる。容易ならざる状況だ、と考えておく必要があろう。

ギャラリー
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  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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