秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

日ロ戦争

1804/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑤。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第5回。
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 第一章・初期設定/第3節・1905年革命とその後/第一次大戦。
 かつてのツァーリ・ロシアは膨大な帝国で、ヨーロッパ諸大国の中で最大の常備軍を持っていた。
 その外部世界に対する強さは誇りの源であり、国内の政治的、社会的諸問題を静めることのできる達成物だった。
 20世紀初めのある内務大臣の言葉によれば、「勝利した小戦争」は国内の不安を抑える最良の治療薬だった。
 しかしながら、歴史的に見ると、これはかなり疑わしい命題だ。
 過去の半世紀の間、ロシアの戦争は成功したものでなければ、政府への社会の信頼を強くする傾向にあるものでもなかった。
 クリミア戦争での軍事的屈辱によって、1860年代の急進的な内政改革が行われた。
 1870年代遅くのバルカン地域への軍事介入の後でロシアは外交上の敗北を喫したが、それは国内の政治危機を生み、アレクサンダー二世暗殺でようやく終わった。
 1900年代の初め、ロシアは極東にまで膨張し、その地域のもう一つの膨張国家である日本と衝突した。
 ニコライ二世の閣僚たちの何人かは警告を発したけれども、宮廷や上層官僚層は、極東で簡単に略奪できる、日本-結局は劣った非ヨーロッパ勢力だ-は恐れるほどの敵ではないだろう、という雰囲気で覆われた。
 日本が始めたが、ほとんど同等にロシアの極東政策が挑発して、1904年1月にロシア-日本戦争が勃発した。//
 ロシアには、この戦争は陸と海での一連の敗北と屈辱だった。
 社会に初期にあった愛国主義的熱狂は急速に静まり、そして、ゼムストヴォのような公的組織が非常時の政府を助けようとしても-1891年飢饉の間にそうだったように-、官僚層との対立や不満だけが生じた。
 このことはリベラルな運動に油を注いだ。無能で不完全だときわめて明白に感じられているときに、官僚層は最も弱いように思えたからだ。
 そして、ゼムストヴォ上層と専門家たちは非合法の自由主義運動の背後に集まり、ペーター・ストルーヴェその他のリベラルな活動家によってヨーロッパから指導された。
 1904年の最後の数ヶ月、戦争はまだ進行中だったが、ロシアのリベラルたちは(1847年にフランス国王ルイ・フィリップに対して用いられたのを摸倣して)祝宴運動を行い、これによって社会的エリートたちは、立憲的改革という考えを支持することを強く表現した。
 同時期に政府は、官僚へのテロリストの攻撃、学生の示威行進および労働者のストライキを含む、その他の種々の圧力を受けていた。
 1905年1月、ペテルブルクの労働者は、彼らの経済的不満にツァーリの注意を向けようと、平和的な示威行動を行った(戦闘的な者や革命的な者にではなく、警察との関係をもつ背教的聖職者の父ガポン(Father Gapon)によって組織された)。
 血の日曜日(1月9日)、軍隊は冬宮の外から示威行進者に対して発砲し、1905年革命が始まった。(18)//
 専制体制に対する国民的連帯意識は、1905年の最初の9ヶ月はきわめて強かった。
 革命運動の指導をリベラル派が行うことについては、真剣な反対がなかった。
 そして、体制側と交渉する彼らの地位は、ゼムストヴォや中層専門家の新しい同盟からの支持のみならず、学生の示威行動、労働者のストライキ、農民の騒擾、軍隊での反逆および帝国の非ロシア領域での動揺に由来する多様な圧力にももとづいていた。
 体制の側は一貫して防御的で、恐慌と混乱に陥り、明らかに秩序を回復することができなかった。
 ウィッテがやっと、1905年8月遅くにきわめて有利な条件で日本との講和条約(ポーツマス条約)の交渉をはじめたときを画期として、体制は生き残る展望をもち得た。
 しかし、体制には数百万人の兵団が満州に残っており、ストライキをしている鉄道従業員たちが再び統制のもとにおかれるまで、彼らはシベリア横断鉄道で故郷に戻ることはできなかった。//
 リベラルな革命の頂点だったのは、ニコライ二世の十月宣言(1905年)だった。ニコライ二世はそれによって、立憲制原理へと譲歩し、全国的に選出される議会であるドゥーマの設置を約束した。
 この宣言書はリベラルたちを分断した。十月主義者たち(Octobrists)はこれを受容したが、立憲民主党(カデッツ)は受容を拒絶して、いっそうの譲歩を望んだ。
 しかしながら、実際には、このときにリベラルたちは革命運動から撤退し、その活動力を新しい十月主義者やカデットを組織いること、および近づいているドゥーマ選挙の準備へと集中させた。//
 一方で、その年の末まで労働者は積極的で革命的なままでいて、以前よりもいっそう知名度を獲得し、ますます戦闘的にになった。
 10月に、ペテルブルクの労働者たちは「ソヴェト」、あるいは工場で選出された労働者代表の評議会、を組織した。
 ペテルブルク・ソヴェトの実践的な役割は、他の諸装置が麻痺してゼネラル・スイライキが行われているときに、市に一種の非常時都市政府を提供することだった。
 しかし、そのソヴェトは革命諸党からの社会主義者の政治的なフォ-ラムになった(そのときメンシェヴィキだったトロツキーは、ソヴェトの指導者の一人になった)。
 数ヶ月の間、帝制当局はソヴェトを慎重に扱い、そして同様の機関がモスクワや他の都市で出現した。
 しかし、12月の初めに警察の作戦が巧くいって、それは解散させられた。
 ペテルブルク・ソヴェトが攻撃されたとの報せを受けて、モスクワ・ソヴェトは武装蜂起を起こした。ボルシェヴィキはこれに対して相当の影響力をもっていた。
 この蜂起は兵団によって弾圧されたが、労働者は闘い直したため、多数の犠牲者が出た。//
 1905年の都市革命は、18世紀遅くのプガチェフ一揆以来の最も深刻な農民蜂起をまき起こした。
 しかし、都市の革命と農村のそれは同時に発生したのではなかった。
 農民の反乱は-大家屋の破壊と燃焼、地主や役人に対する攻撃で成っていた-1905年の夏に始まり、秋遅くに頂点に達し、沈静化し、また1906年に大規模に再開した。
 しかし、1905年遅くですら体制は強大で村毎の静穏化運動に兵団を使い始めることができた。
 1906年の半ばまでに全兵団が極東から戻り、軍隊の紀律は回復した。
 1906-7年の冬、農村ロシアの多くは戒厳令下にあり、略式の司法手続(千を超える処刑を含む)が現地での軍事裁判所によって実施された。//
 ロシアの土地所有上層者は1905-6年の事態から教訓を得た。すなわち、その利害は専制体制とともにあり(それは復讐心に満ちた農民層からおそらく守ってくれる)、リベラルたちとではない。(19)
 しかし、都市では、1905年革命によってこのような階級分極化の意識は生まれなかった。すなわち、多くの社会主義者にとってすら、これは1848年のロシアではなく、リベラル派の裏切り体質とブルジョアジーとプロレタリア-トの間の本質的な敵対意識をあからさまにした。
 リベラル派-資本主義中産階級ではなくて職業人をむしろ代表する-は、十月には傍らに離れて立っていたが、労働者の革命に対する激しい攻撃をする体制側にも加わらなかった。
 彼らの労働者と社会主義運動に対する態度は、多くのヨーロッパ諸国でのリベラル派たちのそれよりもはるかに温和で優しいものだった。
 労働者の側では、リベラル派について、裏切る同盟者ではなくて臆病な同盟者だと気づいたように見える。//
 1905年革命の政治的結果は両義的で、全ての関係者にとっていくぶんは不満足だった。
 1906年の基本的諸法律-閉ざされたロシアが立憲体制へと至る-によってニコライは、ロシアはまだ専制体制だという彼の信念を知らしめた。
 確かに、僭政者は今や選出された議会に諮問するようになり、諸政党が合法になった。
 しかし、ドゥーマの権能は限定されていた。大臣たちは依然として君主に対してのみ責任を負った。そして、最初の二回のドゥーマは命令に従わないことが判明して恣意的に解散された後で、社会主義派を事実上は選出されにくくし、土地所有上層者を過大に反映させる新しい選挙制度が導入された。
 ドゥーマの主要な意味は、おそらく、政治的討論のための公共のフォーラムを提供して、政治家の基礎を訓練することにあった。
 1905-7年の政治改革は、1860年代の司法改革が法曹を生んだのと全く同様に議会政治家を生み育てた。
 そして二つのグループには、専制体制が不変のままでは残ることができない価値と希望を発展させるという内在的な傾向があった。//
 1905年革命が変え<なかった>一つは、1880年代に完成に至っていた警察体制だった。
 法の適正な手続は(野戦軍事裁判所の場合のように)まだ当時のほとんどの民衆にとっては宙に浮いたままだった。
 もちろん、このことについては理解できる根拠があった。
 比較的に平穏だった1908年に1800人の官僚たちが殺戮され、2083人が政治的動機をもつ攻撃によって負傷した (20) ということは、社会がいかほどに騒然としていたのかを、そして体制がいかほどに防御の側に回ったままであったかを、示している。
 しかし、このことは、政治改革が多くの点で表面的なものにすぎなかったことを意味した。
 例えば、労働組合は、原理的に合法化されたが、警察によってしぱしば閉鎖させられた。
 政党は合法になったが、そして革命的社会主義諸政党ですらドゥーマ選挙で争って若干のの議席を得たが、しかし、革命的社会主義政党の党員は以前よりも拘束されやすくなり、党の指導者たち(多くは1905年革命の間に帰還していた)は、収監や流刑を避けるために国外逃亡を再び強いられた。//
 後になって見れば、1905年を体験して1917年にすでに地平上で活躍していたマルクス主義革命家たちは労働者たちの劇的な革命家としてのデビューを祝福し、自信をもって将来へと向かっていたように思えるかもしれない。
 しかし、実際には、彼らの雰囲気は全く違った。
 ボルシェヴィキもメンシェヴィキも、1905年労働者革命では足がかりすらなかった。すなわち、労働者たちは彼らと同じように進むことを拒絶した。これは、深刻に考えるべきことだった。とくに、レーニンには。
 革命はやって来た。しかし、体制は闘いから立ち直って、生き延びた。
 知識人層の間では、革命的夢想と社会の完全性という旧い幻想を放棄しようかとの会話が多くなされた。
 革命家の立場からすれば、法的な政治制度という表向きや尊大でお喋りのリベラルな政治家たち(これに関するレーニンの見方を要約すると、ニコライ二世のそれと大きくは異ならなかった)を新しく育てただけでは、何の収穫もなかった。
 革命的指導者たちにとって慣れてはいるが殺伐としたエミグレ生活に戻ることもまた、深い、かつほとんど耐えがたい失望だった。
 エミグレたちは、1905年と1917年の間ほど、簡単に怒り、かつ論争好きだったことはない。
 実際に、ロシア人が小さな口論をし続けていることは、ヨーロッパの社会民主主義のスキャンダルの一つになった。そして、レーニンは、最悪の反則者の一人だった。//
 戦争前の悪い報せの中にあったのは、体制側が農業改革の大きな綱領の設定に着手した、というものだった。
 1905-7年の農民一揆によって、政府は、<ミール>は農村的安定の最良の保障だとの初期の前提を放棄すべきことを理解した。
 政府の望みは今では、小さい自立した農民階層-ニコライの首相であるペトロ・ストリュイピン(Petr Stolypin)が述べた、「穏健で強い」ものへの保障-を生み出すことにあった。
 農民たちは今や土地保有を確固たるものにして<ミール>から離れることができると勇気をもち、土地委員会がその手続を容易にするために各地方に設置された。
 この前提にあるのは、貧しい者は売り払って都市へ行くだろう、豊かな者は保有地を改良し拡大して保守的な、言ってみればフランスの農民のようなプチ・ブルジョアジーの心性をもつだろう、という考えだった。
 1915年までには、ロシアの農民が何らかの形での個人的な保有権(tenure)を持っていたのは全農民の四分の一と半分の間くらいだった。法的および実際的な手続が複雑で、およそ十分の一だけが手続を完了させ、土地を囲い込んだけれども。(21)
 ストリュイピンの改革はマルクス主義用語では「進歩的」だった。農業の資本主義的発展の基礎を設定するものだったのだから。
 しかし、都市的資本主義の発達とは対照的に、ロシア革命の短期および中期的見通しから見て意味するところは、きわめて憂うつなものだった。
 ロシアの伝統的農民層は、反抗しがちだった。
 ストリュイピンがもしも改革を実行していれば(誰よりもレーニンがそうなりはしないかと恐れたように)、ロシアのプロレタリア-トは革命のための重要な同盟者を失っていただろう。//
 1906年、ロシアの経済は多額の借款(22億5000万フラン)で支えられていた。これについてウィッテは、国際銀行団と交渉したのだった。
 そして自国および外国所有の産業が、戦争前の年月には急速に膨張していた。
 このことはもちろん、工場労働者階級もまた膨張したことを意味した。
  しかし、1905-6年の労働者革命的運動が激しく弾圧された後の数年間は労働者騒擾は大きく落ちこみ、ようやく1910年頃に再び発生し始めた。
 戦争直前の年には大規模なストライキがますます頻発し、1914年夏のペテログラードでの一斉ストライキがその絶頂だった。このゼネ・ストは、何人かの観察者がロシアはその軍を戦争むのために総動員する危険を冒すのではないかと疑うほどに十分に深刻だった。
 労働者の要求は、経済的であるとともに政治的だった。
 彼らの体制に対する不満は、労働者自身に対して強制力を用いることについてはもちろんだが、ロシアの多くの産業部門で外国が支配していることについての責任をも含んでいた。
 ロシアでは、労働者が暴力的で戦闘的になるにつれて、メンシェヴィキはその支持を失っていくのを意識した。一方でボルシェヴィキは、支持を獲得しているのに気づいた。
 しかし、このことは、国外にいるボルシェヴィキ指導者の気持ちを顕著に亢進させはしなかった。なぜなら、ロシアとの連絡通信は不足し、おそらくはそのことを十分には知らなかった。また、彼ら自身の地位が、ヨーロッパでのエミグレ・ロシア人と社会主義者の社会でますます弱くなり、より孤立していたからだ。(22)//
 1914年8月、ヨーロッパで大戦が勃発し、ロシアはフランスとイギリスと同盟してドイツとオーストリアに対抗したとき、政治的エミグレはほとんど完全にロシアから遮断された。一方で、戦時中の異邦人たる生活についての通常の諸問題にも直面した。
 全体としてのヨーロッパ社会主義運動では、以前の大多数の国際主義者が、戦争が布告されるや、一夜にして愛国者になった。
 ロシア人は他国人と比べて完璧な愛国主義者になることは少なかったが、たいていは「防衛主義」(defensists)の立場を採った。それは、戦争がロシアの領土を守っているかぎりで、ロシアの戦争努力を支持する、というものだ。
 しかしながら、レーニンは、自国の大義を全体として非難する「敗北主義」(defeatists)の小集団に属した。すなわち、レーニンから見ると帝国主義戦争であり、最良の展望はロシアが敗北することであって、それは内戦と革命とを刺激して生み出すかもしれない。
 これは社会主義運動内部ですらきわめて論争を巻き起こす立場で、ボルシェヴィキは、きわめて冷たくあしらわれていることを感じた。
 ロシアでは、名のあるボルシェヴィキは全員が-ドゥーマ代議員を含む-、戦争を継続するために拘禁された。//
 1914年に、ロシアの宣戦布告は急速で広い愛国主義の熱狂、勝利を願う旗振り、国内の論争の一時停止を生み出した。また、ふつうの社会分野や非政府組織が政府の戦争努力を助けようとする真面目な取り組みも。
 しかし、また再び、雰囲気はすぐに悪くなった。
 ロシア軍の遂行能力と志気は、今や学者たちが感じていた以上に悪くなっているように見えた。また、軍は破滅的な敗北を喫し、損失を被った(1914-1917年の総計で500万の死傷者)。一方でドイツ軍は、帝国の西方深部に侵攻し、避難民がロシア中央へと混乱して流入するに至った。(23)
 敗北は上層部に裏切り者がいるのではないかとの懐疑心を生んだ。主要な対象の一つは皇妃アレクサンドラで、彼女は生まれはドイツの王女だった。
 醜聞はアレクサンドラのラスプーチン(Rasputin)との関係にも及んだ。この人物はいかがわしいがカリスマ性があり、皇妃はその子息の血友病を統御できる神のごとき者として信頼していた。
 ニコライがロシア軍の最高司令官の任を引き受け、長いあいだ首都から離れているとき、アレクサンドラとラスプーチンは各大臣の任命について大きな影響力を行使し始めた。
 政府と第四ドゥーマの関係が、劇的に悪化した。ドゥーマや全体としての知識人界の雰囲気は、政府の欠陥を批判する演説でカデット〔立憲民主党〕のパヴェル・ミリュコフが何度も口にした語句、「これは愚劣なのか、それとも裏切りか」でうまく表現されていた。
 1916年の遅く、帝室に近い若い貴族たちとドゥーマの右派代議員によって、ラスプーチンは殺害された。彼らの動機は、ロシアとその皇帝体制の名誉を救うことだった。//
 第一次大戦の圧力は-そして疑いなくニコライとその妻の個性や子息の血友病という家族の悲劇は (24)-、ロシア専制体制の無政府的特質には大きな休息になった。そして、ニコライは専制的伝統を期せずして執筆する風刺作家ではなくてその専制的伝統の保持者であるとは見えにくくなった。
 内閣での無能な人気者による「大臣への飛び級」、帝室での無教養な農民の信仰療法者、ラスプーチン殺害を指導した上層貴族の策略、そして毒薬、銃弾や溺水による殺害に強硬に抵抗するラスプーチンの英雄的物語ですら-これら全ては昔にあったことのように思われ、兵団の列車、塹壕での戦闘、大量動員という20世紀の現実に対する奇妙でとるに足らない随伴物であるように見えた。
 ロシアにはこのことに気づく教養ある公民がいたばかりではなく、ドゥーマ、諸政党、ゼムストヴォおよび産業家たちの戦時産業委員会のような組織もあった。これらは、古い体制から新世界への移行を行う潜在的な主導者だった。//
 専制体制の状況は、第一次大戦の前には危なかしいものだった。
 社会は大きく分裂し、政治と官僚機構の構造は脆弱で、無理をしすぎていた。
 体制は急な揺らぎや後退で容易に傷つきやすかったので、かりに戦争がなくともそれが長く生き延びただろうと想像するのは困難だ。情況が違っていれば明らかに、1917年に実際に起こったのよりも暴力的ではなく、かつ過激な帰結を伴わないで変化が起こったかもしれないけれども。//
 第一次大戦は、ロシア旧体制の脆さを暴露し、かつ増大させた。
 民衆は勝利を賞賛したが、敗北を耐え忍ぶつもりはなかった。
 敗北をしたとき、社会は政府を支持して集結することがなかった(これは、とくに敵が故郷に対する侵略者になるならば正常な反応で、1812年およびのちに再び1941-2年にあったロシア社会の反応だ)。しかし、政府に厳しく対抗するのではなくて、侮蔑心と道徳的優越さをもつ調子で、無能さと後進性を批判した。
 これが意味するのは、体制の正統性はきわめて脆弱であり、その存続は目に見える成果か、そうでなければ完璧な幸運に密接に関係している、ということだった。
 相対的には素早くかつ名誉を保って戦争から脱出したがゆえに、敗戦が革命へと突入したかつての1904-6年の場合には、旧体制は好運だった。また、ヨーロッパから多額の戦後借款を得ることができ、そして講和に至った。
 1914-17年には、そのように好運ではなかった。
 戦争は長く続き、ロシアだけではなくてヨーロッパ全体を消耗させた。
 ヨーロッパでの休戦協定より一年以上も前に、ロシアの旧体制は亡んでいた。//
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 (18) 1905年革命につき、Abraham Ascher, <1905年の革命/二巻本>(Stanford, CA, 1988 & 1992)を見よ。
 (19) Roberta Thompson Manning, 'Zemstvo and Revolution: The Onset of the Gentry Reaction, 905-1907' in : Leopold Haimson, ed., <農村ロシアの政治-1905-1914>(Bloomington, IN, 1979)を見よ。
(20) Mary Schaeffer Conroy, <ペトロ・アルカデヴィチ・ストリュイピン-帝制ロシア晩年の政治の実際>(Boulder, CO, 1976), p.98.
 (21) Judith Pallot, <ロシアの土地改革 1906-1917年-ストリュイピンの農村改革への農民層の対応>(Oxford, 1999),p. 8.
 (22) この孤立が心理状態に対してもった意味を小説で生々しく描写したものとして、Alexander Solzhenitsyn, <チューリッヒのレーニン>(New York, 1976)を見よ。
 (23) Peter Gatrell, <全帝国の歩み-第一次大戦の間のロシア難民>(Bloomington, IND, 1999)を見よ。犠牲者の数については、Peter Gatrell, <ロシアの第一次大戦-社会経済史>(Harlow, 2005), p.246 を見よ。軍の戦争中の実績の再評価について、David R. Stone, <大戦でのロシア軍-東部戦線・1914-1917>(Lawrence, KS, 2015)を見よ。
 (24) 家族の悲劇は、同情と理解をもって Robert K. Masse, <ニコライとアレクサンドラ>(New York, 1967)で描かれている。
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 第一章・初期設定の全体が終わり。
 

1433/ロシア革命史年表②-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.849-p.850。
 /の左右に日付(月日)がある場合、左は旧暦、右は新暦。
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 1906年
  3月 4日 集会と結社の権利を保障する法令発布。
   4月16日 ウィッテが閣僚会議議長を退任、ゴレミュイキンと交代。
  4月26日 新基本法(憲法)公布される。ストルイピン、内務大臣に。
  4月27日 ドゥーマ、開会。
  7月 8日 ドゥーマ、閉会。ストルイピン、閣僚会議議長に指名される。
  8月12日 社会主義革命党原理主義者、ストルイピンの生命を狙う。
  8月12日・27日 ストルイピンの第一次農業改革。
  8月19日 民間人対象の軍法会議の提案。
 11月 9日 ストルイピンの共同体的土地所有に関する改革。
 1907年
  2月20日 第二ドゥーマ、開会。
  3月    ストルイピン、改革綱領を発表。
  6月 2日 第二ドゥーマ、閉会。新選挙法。
 11月 7日 第三ドゥーマ、開会。1912年までの会期。
 1911年
  1月-3月 西部のZemstvo の危機。
  9月 1日 ストルイピン、射撃され、4日後に死亡。ココフツォフが後継者。
 1912年
 11月15日 第四(そして最後の)ドゥーマ、開会。
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキの最終的な分裂。
 1914年
  1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長に。
  7月15日/28日 ニコライ、部分的な戦争動員を命令。
  7月17日/30日 ロシア総動員令。
  7月18日/31日 ドイツ、ロシアに対する最後通告。
  7月19日/8月1日 ドイツ、ロシアに戦争を宣言(宣戦布告)。
  7月27日 ロシア、ルーブルの交換を停止。
  8月    ロシア軍、東プロシャおよびオーストリア・ガリシアへと侵攻。
  8月末   ロシア軍、東プロシャで敗退。
  9月 3日 ロシア軍、オーストリア・ガリシアの首都、レンベルク(ルヴォウ)を奪取。
 1915年
  4月15日/28日 ドイツ、ポーランドでの攻撃に着手。
  6月11日 スコムリノフ、戦争大臣を解任され、ポリワノフに交替。
  6月    さらに内閣人事の変更。
  6月-7月 進歩的ブロックの形成。
  7月    国家防衛特別会議の創設。軍需産業委員会を含むその他の会議・委員会が、戦争行動の助力のため従う。
  7月9日/22日 ロシア軍、ポーランドからの撤収を開始。
  7月19日 ドウーマが6週間、再開される。ロシア兵団、ワルシャワから逃亡。
  8月21日 ほとんどの大臣、ニコライにドゥーマによる内閣の形成を要望。
  8月22日 ニコライ、個人的にロシア軍団司令権を握り、モギレフの総司令部へと出発。
  8月25日 進歩的ブロック、9項目綱領を公表。
  8月    政府、全国Zemstvo と地方会議組織の設立を承認。
  9月 3日 ドゥーマ、閉会。
  9月    戦争反対社会主義者のツィンマーヴァルト(Zimmerwald)会議。
 10月    中央労働者集団の設立。
 11月    Zemstvoの全国統一委員会(Zemgor)が創設される。
 1916年
  1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長を、ステュルマーと交代。
  3月13日 ポリワノフ、戦争大臣を解任され、シュヴァエフと交代。
  4月    戦争反対社会主義者のキーンタール(Kiental)会議。    
  5月22日/6月4日 ブルシロフの攻撃、開始。
  9月18日 プロトポポフ、内務大臣代行に。12月に内務大臣に昇格。
 10月22-24日 カデット党大会、来るドゥーマ会期での論争戦術を決定。
 11月 1日 ドゥーマ、再開会。ミリュコフ、政府中枢での裏切りを示唆。
 11月8-10日 ステュルマー、解任される。
 11月19日 A・F・トレポフ、閣僚会議議長に。ドゥーマに協力要請。
 12月17日 ラスプーチンの殺害。
 12月18日 ニコライ、マギレフを離れ、ツァールスコエ・セロに向かう。
 12月27日 トレポフ、解任され、ゴリツィンと交代。」
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 *1917年以降につづく。

1432/ロシア革命史年表①-R・パイプス著(1990)による。

 ロシア革命の歴史年表については、昨年10/22の<日本共産党の大ウソ30>の中にその一部を記しているが、研究者による本格的で詳しい年表があるので、以下に、そのまま翻訳して記載しておく。
 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)。これは本文842頁、その後の注・索引等を含めて946頁、最初の目次等を含めると計960頁を超えそうな大著で、邦訳書はない。
 以下は、この著のうち、p.847-p.856の「年表」の一部で、今回①は、p.847からp.849の一部まで。
 なお、上の著はおよそ1919年くらいまでを対象としており、別著の、Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995、<ボルシェヴィキ体制下のロシア>)と併せて、おおよそスターリン期開始まで(あるいはレーニン死去まで)の、Richard Pipes の広義の<ロシア革命史>叙述が完成している。
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 「年表(Chronology)
 この年表は、この本で対象とする主要な諸事象を列挙する。別のことを記載しないかぎり、1918年2月以前の月日は、ユリウス暦(『旧暦』)により記す。この日付は、19世紀の西洋暦よりも12日遅く、21世紀のそれよりも13日遅い。1918年2月からの月日は、西洋暦に一致する『新暦』で記される。
 1889年
  2月-3月 ロシアの大学生たちのストライキ。
  7月29日 不穏学生を軍隊に徴用する権限を付与する「暫定命令」。
 1900年 
 政府、Zemstva の課税権を制限。
 11月 キエフ、その他の大学で騒乱。
 1901年
  1月11日 183名のキエフの学生を軍隊に徴用。
  2月    教育大臣・ボゴレポフの暗殺。警察支援の(Zubatov)商業組合が初めて設立。
 1902年 
 1901-2年の冬 ロシア社会民主党(PSR)の結成。
  6月    リベラル派、ストルーヴェの編集により隔週刊雑誌 Osvobozhdenie(解放)をドイツで発行。
  3月    レーニン『何をなすべきか ?』
  4月 2日 内務大臣・シピアギンの暗殺。プレーヴェが後継者。
 1903年
  4月 4日 キシネフの大量殺害。
  7月-8月 ロシア社会民主党第二回(創設)大会。メンシェヴィキ派とボルシェヴィキ派に分裂。
   7月20-22日 解放同盟、スイスで設立される。
1904年
  1月 3-5日 解放同盟、ペテルスブルクで組織される。
  2月 4日  プレーヴェ、ガポンの集会開催を承認。
  2月 8日 日本軍、旅順を攻撃。露日戦争の開始。
 7月15日 プレーヴェの暗殺。
  8月    ロシア軍、遼陽で敗戦。
 8月25日 スヴィアトポルク-ミルスキー、内務大臣に。
 10月20日 解放同盟第二回大会。
 11月 6-9日 Zemstvo 大会、ペテルスブルクで。  
 11-12月 解放同盟が全国的な夕食会宣伝活動を組織。
 12月 7日 ニコライと高官が改革綱領を討議。国家評議会に被選挙代議員を加える考えを拒否。
 12月12日 改革を約束する勅令公布。
 12月20日 旅順、日本軍に降伏。
 1905年
  1月 7-8日 父ガポンによりペテルスブルクで大産業ストライキが組織される。
  1月 9日 血の日曜日。
  1月18日 スヴィアトポルク-ミルスキー解任、ブリュイギンに交代。
  1月10日以降 ロシア全域で産業ストライキの波。
  1月18日 政府がドゥーマの招集を約束し、苦情陳述請願書を提出するよう国民に求める。
  2月    ペテルスブルクの工場で政府後援の選挙。   
  2月    ロシア軍、瀋陽(ムクデン)を放棄。
 3月18日 全高等教育機関が在籍年限を超えた者に対して閉鎖。 
 4月     第二回Zemstvo 大会、憲法制定会議を要求。
  春     6万の農民請願書が提出される。
  5月 8日 組合同盟がミリュコフを議長として設立される。
  5月14日 ロシア艦隊、対馬海峡の戦闘で破滅。D・F・トレポフ、内務大臣代行に。
 6月    オデッサでの反乱と虐殺。戦艦ポチョムキンでの暴動。
 8月 6日 ブリュイギン、(諮問機関的な)ドゥーマ開設を発表。
  8月27日 政府が寛大な大学規制を発表。
  9月 5日(新暦) 露日講和条約に署名、ニューハンプシャー・ポーツマスで。
  9月    学生が労働者に大学施設を開放。大衆煽動。
  9月19日 ストライキ活動の再開。
 10月 9-10日 ウィッテ、ニコライに大きな政治的譲歩を強く求める。
 10月12-18日 立憲民主党(カデット、Kadet)結成。
 10月13日 ペテルスブルクで中央ストライキ委員会設立、まもなくペテルスブルク・ソヴェトと改称。
 10月14日 ストライキにより首都が麻痺。
 10月15日 ウィッテ、十月マニフェストの草案を受諾。
 10月17日 ニコライ、十月マニフェストに署名。
 10月18日以降 反ヤダヤ人・反学生の虐殺。地方での暴乱が始まる。
 10月-11月 閣僚会議議長・ウィッテ、内閣に加入すべき民間人との討議を開始。
 11月21日 モスクワ・ソヴェト設立。
 11月24日 定期刊行物の事前検閲を廃止。
 12月 6日 ペテルスブルク・ソヴェト、ゼネ・ストを指令。
 12月 8日 モスクワ武装蜂起が鎮圧される。
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*1906年以降につづく。
 

1351/資料・史料ー安倍晋三首相・戦後70年談話。

 安倍晋三首相/戦後70年談話 2015.08.14
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 平成27年8月14日 内閣総理大臣談話

 [閣議決定]
 終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。
 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
 そして七十年前。日本は、敗戦しました。
 戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。
 先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。
 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。
 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。
 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。
 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。
 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。
 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。
 ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。
 ですから、私たちは、心に留めなければなりません。
 戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。
 戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。
 寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。
 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。
 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。
 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。
 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。
 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。
 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。
 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。

 平成二十七年八月十四日
 内閣総理大臣  安倍 晋三
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0908/資料・史料-2010.05.10「韓国併合」100年日韓知識人共同声明。

 史料/「韓国併合」100年日韓知識人共同声明(全文)


 「韓国併合」100年日韓知識人共同声明
 2010年5月10日 東京・ソウル


 「1910年8月29日、日本帝国は大韓帝国をこの地上から抹殺し、朝鮮半島をみずからの領土に併合することを宣言した。そのときからちょうど100年となる2010年を迎え、私たちは、韓国併合の過程がいかなるものであったか、「韓国併合条約」をどのように考えるべきかについて、日韓両国の政府と国民が共同の認識を確認することが重要であると考える。この問題こそが両民族の間の歴史問題の核心であり、われわれの和解と協力のための基本である。
 今日まで両国の歴史家は、日本による韓国併合が長期にわたる日本の侵略、数次にわたる日本軍の占領、王后の殺害と国王・政府要人への脅迫、そして朝鮮の人々の抵抗の圧殺の結果実現されたものであることを明らかにしている。
 近代日本国家は1875年江華島に軍艦を送り込み、砲台を攻撃、占領するなどの軍事作戦を行った。翌年、日本側は、特使を派遣し、不平等条約をおしつけ、開国させた。1894年朝鮮に大規模な農民の蜂起がおこり、清国軍が出兵すると、日本は大軍を派遣して、ソウルを制圧した。そして王宮を占領して、国王王后をとりことしたあとで、清国軍を攻撃し、日清戦争を開始した。他方で朝鮮の農民軍を武力で鎮圧した。日清戦争の勝利で、日本は清国の勢力を朝鮮から一掃することに成功したが、三国干渉をうけ、獲得した遼東半島を還付させられるにいたった。この結果、獲得した朝鮮での地位も失うと心配した日本は王后閔氏の殺害を実行し、国王に恐怖を与えんとした。国王高宗がロシア公使館に保護をもとめるにいたり、日本はロシアとの協定によって、態勢を挽回することをよぎなくされた。
 しかし、義和団事件とロシアの満州占領ののち、1903年には日本は韓国全土を自らの保護国とすることを認めるようにロシアに求めるにいたった。ロシアがこれを峻拒すると、日本は戦争を決意し、1904年戦時中立宣言をした大韓帝国に大軍を侵入させ、ソウルを占領した。その占領軍の圧力のもと、2月23日韓国保護国化の第一歩となる日韓議定書の調印を強制した。はじまった日露戦争は日本の優勢勝ちにおわり、日本はポーツマス講和において、ロシアに朝鮮での自らの支配を認めさせた。伊藤博文はただちにソウルに乗り込み、日本軍の力を背景に、威嚇と懐柔をおりまぜながら、1905年11月18日、外交権を剥奪する第二次日韓協約を結ばせた。義兵運動が各地におこる中、皇帝高宗はこの協約が無効であるとの訴えを列国に送った。1907年ハーグ平和会議に密使を送ったことで、伊藤統監は高宗の責任を問い、ついに軍隊解散、高宗退位を実現させた。7月24日第三次日韓協約により日本は韓国内政の監督権をも掌握した。このような日本の支配の強化に対して、義兵運動が高まったが、日本は軍隊、憲兵、警察の力で弾圧し、1910年の韓国併合に進んだのである。
 以上のとおり、韓国併合は、この国の皇帝から民衆までの激しい抗議を軍隊の力で押しつぶして、実現された、文字通りの帝国主義の行為であり、不義不正の行為である
 日本国家の韓国併合の宣言は1910年8月22日の併合条約に基づいていると説明されている。この条約の前文には、日本と韓国の皇帝が日本と韓国の親密な関係を願い、相互の幸福と東洋の平和の永久確保のために、「韓国ヲ日本帝国ニ併合スルニ如カザル」、併合するのが最善だと確信して、本条約を結ぶにいたったと述べられている。そして第一条に、「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且ツ永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス」と記され、第二条に「日本国皇帝陛下ハ前条ニ掲ゲタル譲与ヲ受諾シ、且全然韓国ヲ日本帝国ニ併合スルコトヲ承諾ス」と記されている。
 ここにおいて、力によって民族の意志を踏みにじった併合の歴史的真実は、平等な両者の自発的な合意によって、韓国皇帝が日本に国権の譲与を申し出て、日本の天皇がそれをうけとって、韓国併合に同意したという神話によって覆い隠されている。前文も偽りであり、条約本文も偽りである。条約締結の手続き、形式にも重大な欠点と欠陥が見いだされる。
 かくして韓国併合にいたる過程が不義不当であると同様に、韓国併合条約も不義不当である。
 日本帝国がその侵略戦争のはてに敗北した1945年、朝鮮は植民地支配から解放された。解放された朝鮮半島の南側に生まれた大韓民国と日本は、1965年に国交を樹立した。そのさい結ばれた日韓基本条約の第二条において、1910年8月22日及びそれ以前に締結されたすべての条約および協定はalready null and voidであると宣言された。しかし、この条項の解釈が日韓両政府間で分かれた。
 日本政府は、併合条約等は「対等の立場で、また自由意思で結ばれた」ものであり、締結時より効力を発生し、有効であったが、1948年の大韓民国成立時に無効になったと解釈した。これに対し、韓国政府は、「過去日本の侵略主義の所産」の不義不当な条約は当初より不法無効であると解釈したのである。
 併合の歴史について今日明らかにされた事実と歪みなき認識に立って振り返れば、もはや日本側の解釈を維持することはできない。 併合条約は元来不義不当なものであったという意味において、当初よりnull and voidであるとする韓国側の解釈が共通に受け入れられるべきである
 現在にいたるまで、日本でも緩慢ながら、植民地支配に関する認識は前進してきた。新しい認識は、1990年代に入って、河野官房長官談話(1993年)、村山総理談話(1995年)、日韓共同宣言(1998年)、日朝平壌宣言(2002年)などにあらわれている。とくに1995年8月15日村山総理談話において、日本政府は「植民地支配」がもたらした「多大の損害と苦痛」に対して、「痛切な反省の意」、「心からのおわびの気持ち」を表明した。
 なお、村山首相は1995年10月13日衆議院予算委員会で「韓国併合条約」について「双方の立場が平等であったというふうには考えておりません」と答弁し、野坂官房長官も同日の記者会見で「日韓併合条約は…極めて強制的なものだった」と認めている。村山首相は11月14日、金泳三大統領への親書で、併合条約とこれに先立つ日韓協約について、「民族の自決と尊厳を認めない帝国主義時代の条約であることは疑いをいれない」と強調した。
 そこでつくられた基礎が、その後のさまざまな試練と検証をへて、今日日本政府が公式的に、併合と併合条約について判断を示し、日韓基本条約第二条の解釈を修正することを可能にしている。米国議会も、ハワイ併合の前提をなしたハワイ王国転覆の行為を100年目にあたる1993年に「不法な illegal 行為」であったと認め、謝罪する決議を採択した。近年「人道に反する罪」や「植民地犯罪」に関する国際法学界でのさまざまな努力も進められている。いまや、日本でも新しい正義感の風を受けて、侵略と併合、植民地支配の歴史を根本的に反省する時がきているのである。
 韓国併合100年にあたり、われわれはこのような共通の歴史認識を有する。この共通の歴史認識に立って、日本と韓国のあいだにある、歴史に由来する多くの問題を問い直し、共同の努力によって解決していくことができるだろう。和解のためのプロセスが一層自覚的に進められなければならない。
 共通の歴史認識をさらに強固なものにするために、過去100年以上にわたる日本と朝鮮半島との歴史的関係に関わる資料は、隠すことなく公開されねばならない。とりわけ、植民地支配の時期に記録文書の作成を独占していた日本政府当局は、歴史資料を積極的に収集し公開する義務を負っている。
 罪の許しは乞わねばならず、許しはあたえられねばならない。苦痛は癒され、損害は償われなければならない。関東大震災のさいになされた朝鮮人住民の大量殺害をはじめとするすべての理不尽なる行為は振り返られなければならない。日本軍「慰安婦」問題はいまだ解決されたとはいえない状態にある。韓国政府が取り組みを開始した強制動員労働者・軍人軍属に対する慰労と医療支援の措置に、日本政府と企業、国民は積極的な努力で応えることが望まれる。
 対立する問題は、過去を省察し、未来を見据えることで、先のばしすることなく解決をはからねばならない。朝鮮半島の北側にあるもうひとつの国、朝鮮民主主義人民共和国と日本との国交正常化も、この併合100年という年に進められなければならない。このようにすることによって、韓国と日本の間に、真の和解と友好に基づいた新しい100年を切り開くことができる。私たちは、この趣意を韓日両国の政府と国民に広く知らせ、これを厳粛に受け止めることを訴える。」

 (下線は引用・掲載者)

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