秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

新自由主義

1222/錯乱した適菜収は自民+維新による憲法改正に反対を明言し、「護憲」を主張する。

 10/04に、適菜収が月刊正論2013年8月号で、「反日活動家であることは明白」な橋下徹を「支持する『保守』というのが巷には存在するらしい」のは「不思議なこと」とだと書いていることを紹介し、「適菜収によれば、石原慎太郎、佐々淳行、加地伸行、西尾幹二、津川雅彦らは、かつ場合によっては安倍晋三も、『不思議』な『保守』らしい。そのように感じること自体が、自らが歪んでいることの証左だとは自覚できないのだろう、気の毒に」とコメントした。「保守」とされているのが「不思議」だ(「語義矛盾ではないか」)という言い方は、橋下徹を支持する人物の「保守」性を疑っている、ということでもあるだろう。

 それから一週間後の10/11に、明確に安倍晋三の「保守」性を疑問視する適菜収の文章を読んでしまった。週刊文春10/17号p.45だ。適菜収は「連載22/今週のバカ」として何と安倍晋三を取り上げ、「安倍晋三は本当に保守なのか?」をタイトルにしている。その他にも、驚くべきというか、大嗤いするというというか、そのような奇怪な主張を適菜は行っている。

 ①まず、簡略して紹介するが、橋下徹と付き合う安倍晋三を以下のように批判する。

 ・付き合っている相手によって「その人間の正体」が明らかになりうる。橋下徹の「封じ込めを図るのが保守の役割のはず」、日本の文化伝統破壊者に対して「立ち上がるのが保守」であるにもかかわらず、「こうした連中とベタベタの関係を築いてきたのが安倍晋三ではないか」。
 ②また、安倍晋三個人を次のように批判する。

 ・組んでよい相手を判断できない人間は「バカ」。「問題は見識の欠片もないボンボンがわが国の総理大臣になってしまったこと」だ。

 ③ついで、安倍内閣自体をつぎのように批判する。

 ・「耳あたりのいい言葉を並べて『保守層』を騙しながら、時代錯誤の新自由主義を爆走中」。
 ④さらには、次のように自民+維新による憲法改正に反対し、「護憲」を主張する。
 ・「維新の会と組んで改憲するくらいなら未来永劫改憲なんかしなくてよい。真っ当な日本人、まともな保守なら、わけのわからない野合に対しては護憲に回るべきです」。

 ビ-トたけしあたりの「毒舌」または一種の「諧謔」ならはまだよいのだが、適菜収はどうやら上記のことを「本気」で書いている。

 出発点に橋下徹との関係がくるのが適菜の奇怪なところだ。与えられた原稿スペ-スの中にほとんどと言ってよいほど橋下徹批判の部分を加えるのが適菜の文章の特徴だが、この週刊文春の原稿も例外ではない。よく分からないが、適菜は橋下徹に対する「私怨」でも持っているのだろうか。何となく、気持ちが悪い。

 それよりも、第一に、安倍晋三を明確に「バカ」呼ばわりし、第二に、安倍晋三の「保守」性を明確に疑問視し、第三者に、「野合」による憲法改正に反対し、「護憲に回るべき」と説いているのが、適菜収とはほとんど錯乱状態にある人間であることを示しているだろう。

 少し冷静に思考すれば、憲法改正の内容・方向にいっさい触れることなく、「維新の会と組んで改憲するくらいなら」と憲法改正に反対し、「野合」に対して「護憲に回るべき」と主張することが、憲法改正に関するまともな議論でないことはすぐ分かる。

 適菜収は論点に即して適切な文章を書ける論理力・理性を持っているのか?

 適菜といえば「B層」うんぬんだが、そのいうA~D層への四象限への分類も、思想・考え方または人間の、ありうる分類の一つにすぎない。容共・反共、親米・反米(反中・親米)、国家肥大化肯定的・否定的(大きな国家か小さな国家か)、自由か平等か、変革愛好か現状維持的か、等々、四象限への分類はタテ軸・ヨコ軸に何を取り上げるかによってさまざまに語りうる。適菜のそれの特徴は「IQが高い・低い」を重要な要素に高めていることだが、少なくとも、ある程度でも普遍的な分類方法を示しているわけではない。
 さらにまた、適菜のいうA~D層への四象限への分類は、適菜自身が考えたのではないことを適菜自身が語っている。適菜はある程度でも普遍的だとはまったくいえない「B層」・「C層」論等を、「借り物の」基準を前提にして論じているのだ。
 そしてどうやら適菜は自らは規制改革に反対(反竹中平蔵・反堺屋太一)で「IQが高い」という「C層」に属すると考えているようなのだが、この週刊文春の文章を読むと、「D層」ではないかと思えてくる。

 また、自民党・維新の会による憲法改正に反対し、「護憲」を主張しているという点では辻元清美、山口二郎等々々の「左翼」と何ら変わらない(中島岳志とも同じ)、安倍晋三を「バカ」と明言するに至っては、かつて第一次内閣時代の安倍について「キ〇〇〇に刃物」とも称していた、程度の低い「左翼」(またはエセ保守)文筆家(山崎行太郎だったか天木直人だったか)とも類似するところがある。

 この適菜が「橋下徹は保守ではない!」という論考で月刊正論(産経)の表紙をよくぞ飾れたものだ。

 もう一度10/04のこの欄のタイトルを繰り返しておこうか。

 <月刊正論(産経)・桑原聡は適菜収のいったい何を評価しているのか。> 

1086/橋下徹を単純かつ性急に批判する愚③―佐伯啓思ら。

 〇佐伯啓思は、新潮45/3月号で「橋下現象」に「イヤなもの」・「嫌悪感」を覚えるとし、それは近年の日本の「必然的帰結」・今日の日本の「象徴」だという。そして、「一歩間違えば、とんでもない事態にわれわれを導きかね」ないと警戒視する(p.323)。このような基本的論調は三点に分けられてより詳しく論述されているが、直感的にこれは誤っている、単純化しすぎていると思われたのは、佐伯のいう第一点だ。第二、第三点の叙述も疑問はあるが、橋下徹の「姿勢」・「手法」への違和感が示されているだけ(?)なので、とりあえず、以下では触れない。
 佐伯啓思によると、以下のとおり。
 ①橋下徹の基本的な「政策」は、90年代以降の「行政の無駄の削減、財政再建、福祉の見直し、地方分権、政治的リーダーシップの強化など」という「改革」論そのもので、それを「とことん徹底したもの」だ。
 ②「徹底した成果主義」・「実力主義、業績主義、強力な指導力」による「徹底した『改革』」こそ、90年代以降の日本を覆ったもので、「民主党現象」もそうだった。「改革」は官僚や既得権者を敵対者と見なした。
 ③これまでの民主党を含む「改革」が不十分だった(と感じられた)ために橋下徹が期待された。
 ④90年代以降の「改革」論は「成果主義や能力主義や財政再建化や自由競争」等の「いわゆる新自由主義政策」だったが、「橋下改革もきわめて新自由主義的傾向の強い」もので、大阪市の場合も「新自由主義によって社会に活を入れるというショック療法が施されている」(p.323-4)。
 おおむね叙述順に要約的に紹介したが、かかる議論あるいは分析は正鵠を射ているのだろうか?
 第一に、上にも出てくる「新自由主義」を筆頭に、「財政再建、福祉の見直し、地方分権」というより具体的でもなおも抽象度の高い諸概念の意味がきちんと明らかにされていないと、よほど忠実にこれまでの佐伯の議論を読んできた者以外には、ほとんど理解不可能だろう。
 第二に、かりにより高いレベルの読者が読んだとしても、にわかに賛同することはできないだろう。それはまずは、90年代以降の「改革」(論)という一色の歴史理解(時代認識)のもとに「橋下現象」を位置づけよう、把握しようとしていることによる。
 佐伯の言うほどに単純なものではなかろう。自民党(末期?)の「小泉」改革・民主党の「改革」・橋下「改革」と、同じ「改革」(論)だと一括りにしてよいものなのか?
 佐伯の時代認識は、学者・「思想家」らしく、抽象度が高すぎる。「左翼(=容共)・反日」政権として登場した民主党政権による「改革」を従来の「改革」路線の延長と捉えるのは妥当ではあるまい。なるほど民主党も「改革」を唱えたようだが、「戦後民主主義」のなれの果てと言える「左翼(=容共)・反日」政権による改革論を自民党のそれと本質的に同一視することはできないと思われる。
 実際にも、労働組合によって支持され、現在は日教組の「親分」が幹事長をしている政党が、いかほどの「改革」を行いえてきているかはきわめて疑問だ。その「民主党現象」と「橋下現象」が似たようなもので、したがって橋下改革も「おおよそロクな結果をもたせさないでしょう」とまで佐伯は断言するのだから、呆れてしまう。
 「地方分権」論といっても、自民党・民主党そして「大阪維新の会」とでは中身が異なる。立ち入らないが、「維新八策」における「国」・「地方」の役割分担に関する叙述を見ても、民主党の曖昧な「地域主権」論よりもまともだと思われる。
 佐伯は「成果主義」等々を批判するが、これを一概に批判することができないことくらいは佐伯だから分かっているだろう。また、佐伯は「新自由主義的」と橋下徹の政策を論定しているが、報道されている大阪市西成区に対する施策の方向を知ると、とても「新自由主義主義的」などと論難できるものではないように思える。
 交通事業の民営化方針も佐伯によると「成果主義や能力主義や財政再建化や自由競争」等の「いわゆる新自由主義政策」なのかもしれないが、大阪市営交通事業の経営主体等の問題は、抽象度の高い、「新自由主義」的か否かといったレベルで決せられるものではあるまい。
 「財政再建」も「福祉の見直し」も、似たようなことが言える。
 いっさいの「改革」が悪だ、いっさいの「変化」を許さない、という立場に立たないかぎり、佐伯啓思の議論は支持できるものではない
 第三に、以上とほぼ同旨だが、そもそも90年代以降の「改革」(論)を否定し批判する佐伯啓思の立論の内容および立脚点自体が、十分に説明されていないし、十分に肯定されるものなのかという問題があるだろう。
 佐伯啓思は、「改革」論の帰結は「地域格差」・「所得格差」・「地方のコミュニティの崩壊」・「医療現場の崩壊」・「労働と雇用の不安定化」・「教員や家庭の崩壊」だったとし、「何よりも経済はちっともよくはなせなかった」と、社民党や2009年選挙以前の民主党のようなまとめ方を簡単にしてしまっている(p.324)。
 このような「帰結」をもたらした「改革」論と橋下改革は同じなのかという問題のあることは先に述べたとおりだが、これらの原因をあげて「改革」論に求めることは、きわめて粗雑だと思われる。
 問題は「改革」の具体的中身、その達成手法、そして「改革」論議と実際になされた「改革」の区別、をきちんとふまえて論じられなければならないだろう。
 佐伯啓思は産経新聞2/20付で、「『改革』についての功罪」をこう述べている。
 「グローバル化の功罪、金融自由化の功罪、日本的経営の崩壊の意味、二大政党政治の功罪、小選挙区制やマニフェストの問題、これらを自民も民主も整理できていない。むろん、マスメディアもジャーナリズムとて同様である」。
 <改革の功罪>を誰も整理できていない、というのだ。いやおそらく、佐伯啓思自身は「整理」しているつもりなのだろう。だが、佐伯自自身の「整理」が、つまりは「改革」(論)を総じて批判し否定し消極的に評価するという結論自体の正しさが、十分に論証されていないとまるで説得力がない、
 佐伯にとっての「悪」を橋下徹は継承している、というのが佐伯の論点の一つで、橋下徹が「継承」しているとにわかに論定すべきではない、と上では述べた。いま一つの佐伯の論点は「改革」(論)は悪だった、ということにある。この点がここで批判しているところだ。
 90年代以降の「改革」(論)をこのようにまとめ、あるいは上記のように簡単に「改革」の帰結=「罪」を列挙するだけでよいのだろうか。
 ともあれ、佐伯啓思以外には誰も(?)整理できていない課題の克服を橋下徹らに求めても無理強いであり、整理していないことをもって論難することも橋下徹らにとっては酷というべきだ。佐伯啓思は声を大にして、民主党と自民党のほかに、「マスメディアもジャーナリズムも」批判するがよいだろう。
 簡単に上のことを再述すれば、以下のとおり。
 ①橋下徹らの政策が90年代以降の「改革」(論)の系譜上にあり、それをさらに徹底したものだ、という把握の仕方は、単純で性急すぎる。
 ②90年代以降の「改革」(論)がよいものではなかった、ということ自体が説得的には何ら論証されていない。佐伯啓思の頭の中にはあるのかもしないが、ほとんどの読者には伝わっていない、と思われる。
 いっさいの「改革」や「変化」を許さない、という立場に立たないかぎり、佐伯啓思の議論は容易に支持できるものではないのではないか
 産経新聞2/20付の佐伯啓思論考にはあまり言及しなかったが、上で紹介したのと似たようなことを書いており、ほぼ同じような感想を抱くので、もはや省略しておく。
 〇産経新聞2/23の特集記事中に、橋下徹のつぎの言葉が紹介されている。
 ・「世間の民意とは関係なく、自分の主義主張だけで『世の中の方が間違っている』『衆愚政治だ』『大衆迎合だ』『世論は間違っている』『市民は一時の熱情に狂っている』とか、平気で言えるのが学者だ」。 
 同じ記事によると、田原総一郞はこう言った、という。「橋下さんに対する批判の弱さに、日本のインテリの弱さが出た」、「日本のインテリは権力側を批判はするが、対案を持っていない。『じゃあ、あなたはこの問題をどうしますか』といわれたときに、答えを持っていない」。
 佐伯啓思そして<西部邁・佐伯啓思グループ>の面々は、これらの言葉をどう聞くのだろうか。
 書き忘れていたが、佐伯啓思は90年代以降の「改革」(論)を批判してきているが、「じゃあどうすればよいのか(よかったのか)」という問題には具体的にはほとんど何も答えていない、と思われる。地方分権にせよ財政再建等々にせよ、具体的な「対案」があるわけでもないのだ。論壇・大学のインテリ=「口舌の徒」は楽なものだ、とあらためて感じている。かかる皮肉も、「思想家」には何の痛痒にもならないのかもしれないが。

0975/小泉純一郞「構造改革」を<保守>はどう評価・総括しているのか。

 自民党・小泉純一郞内閣の時代、とりわけその「経済政策」は、<保守>派論者によってどのように評価され、総括されているのだろうか。あるいはどのように評価され、総括されるべきなのだろうか。この点について、<保守>派にきちんとした定見はあるのだろうか。
 2005年総選挙(小泉「郵政解散」選挙)で自民党が獲得した議席数に期待した<憲法改正>への期待は脆くも崩れ去り、議席数の政治的意味に浅はかにも?過大に期待してしまった<保守>派論者は反省すべきだろう。

 ここでの問題はそうした論点ではなく、<構造改革>とも称された、経済(・財政)政策の当否だ。

 佐伯啓思は基本的に消極的な評価をしていると思われる。
 例えば、佐伯啓思・日本という「価値」(NTT出版、2010)の第四章「グローバル資本主義の帰結」では、小泉時代に限られないが、主としては<若者の労働環境>にかかわって、こんなことが書かれている(原論文は2009年03月)。

 「新自由主義的な経済政策…とりわけ日本の場合には、九〇年代の構造改革……」。「労働市場の規制緩和や能力主義が格差を生み、派遣やフリーターを生み出したことは間違いなく、この新自由主義、構造改革を改めて問題にするのは当然…」。「新自由主義の市場擁護論はあまりにもナイーブ…」(p.66)。

 「市場競争主義は…日本的経営を解体しようとした。しかし、今日の大不況は、市場中心主義の限界を露呈させ、雇用の安定と労働のモティベーションの集団的意義づけを柱とする日本型経営の再評価へと向かうであろう」(p.70)。

 郵政民営化に反対票を投じた、平沼赳夫とも近いようである城内実は、そのウェブサイトの「政策・理念」の中で、次のように書く。

 「行き過ぎた規制緩和や急激な競争原理が招いたのは、強い者だけが一人勝ちする弱肉強食の殺伐とした社会でした。急速に広がる格差社会、働いても働いても楽にならないワーキングプア。そういった社会問題の根源には、経済に対する政治の舵取りが密接に関係していることはいうまでもありません」。

 城内実は「新政策提言」の中ではこうも書いている。
 「自民党小泉政権下でとられてきた構造改革路線や新自由主義的政策は、郵政・医療・福祉など、国民の生活を支えてきた制度をことごとく破壊し、また、この時代に地方経済や地域共同体は経済的にも社会的にも崩壊の危機に陥ってしまいました。共助の精神に綿々と支えられてきたわが国の社会も、いまや自殺率で世界4位、相対貧困率で世界2位と、惨憺たる有様です。私は、このような結果をもたらした時代と政策をきっちりと総括し、根本的な見直しをしてまいります」。
 こうして見ると、<保守>派は「新自由主義」・「構造改革」に消極的な評価をしているようだ。2009年の<政権交代>は小泉・構造改革路線による<格差拡大>等々が原因のようでもある。
 だが、そのように<保守派>論者は、自民党自身も含めてもよいが、一致して総括しているのだろうか。明確にはこの問題について語っていない者も多いのではなかろうか。

 中川八洋も<保守>派論者だと思われるが、中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)の第七章は英国のサッチャー「保守主義革命」を高く評価し、またハイエクやフリードマン(の理論の現代への適用)を支持する。その中で付随的に<小泉改革>にも次のように言及している。

 小泉純一郞は自民党の中で例外的に「ましな」政治家だったが、「中途半端」だったがゆえに「基本的にはまっとうであった、せっかくの小泉改革」はひっくり返された。
 「貧困」・「格差」キャンペーンは反自民党ムード作り(→自民党つぶし)に「実に絶大な効果」があった。しかし、「小泉構造改革」によって「貧困」・「格差」が拡大したというのは「出鱈目な因果関係のでっち上げ」でしかない。だが、自民党にはこのキャンペーンに対抗する能力はなく、そうしようとする「意識すら皆無」だった。

 日本での「貧困率の増大」・「悪性の格差社会」発生は主として次の三つの原因による。「小泉構造改革とは何の関係もない」。①過剰な社会保障政策(→勤勉さ・労働意欲の喪失・低下)、②「男女平等」政策による日本の労働市場の攪乱、一部での「低賃金化」の発生・その加速、③ハイエク、フリードマンらが批判する「最低賃金法の悪弊」(→最低賃金以下でもかまわないとする者からの労働機会の剥奪)。以上、p.249-251。

 はて、どのように理解し、総括しておくべきなのか。佐伯啓思や城内実も否定はしないように思われるが、「格差」増大等々は<小泉構造改革>のみを原因とするものではないだろう。また、議論が分かれうるのだろうが、はたして「新自由主義」とか「市場原理主義」といったものに単純に原因を求めて、理解し総括したつもりになってよいものかどうか。
 <新自由主義>を「悪」と評価するのは辻村みよ子ら<左翼>もほぼ一致して行っていることであり、それだけでは<保守>派の議論としては不十分なのではないか。こんなところにも、近年の<保守>論壇あるいは<保守>派の論者たちの議論にまどろこしさと不満を感じる原因の一つがある。 

0828/鳩山由紀夫「私の政治哲学」に見るアメリカ・「経済」観等。

 一 有名になった鳩山由紀夫「私の政治哲学」月刊ボイス9月号(PHP、2009)に、この欄で8/28と9/18に既に二回言及した。
 → 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/1192822/
 → 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/1227260/
 前者では、鳩山が紹介するカレルギーの「友愛」理念のように、鳩山は「左右の全体主義との激しい戦い」(p.133)をする気が本当にあるのかを疑問視し、後者では「東アジア共同体」構想を疑問視した。
 これらとは別の論点に触れる。鳩山は上掲の文章で次のように書く。
 「友愛」は「グローバル化する現代資本主義の行き過ぎを正し、伝統の中で培われた国民経済との調整をめざす理念」で、「それは、市場至上主義から国民の生活や安全をめぐる政策に転換し、共生の経済社会を建設すること」を意味する。
 「いうまでもなく、今回の世界経済危機は、冷戦終了後アメリカが推し進めてきた市場原理主義、金融資本主義の破綻によってもたらされた」。「米国のこうした市場原理主義や金融資本主義は、…グローバリズムとか呼ばれた」。
 「米国的な自由市場経済が、普遍的で理想的…であり、諸国は…経済社会の構造をグローバルスタンタード(じつはアメリカンスタンダード)に合わせて改革していくべきだという思潮だった」。
 「日本の国内でも、…、これを積極的に受け入れ、すべてを市場に委ねる行き方を良しとする人たちと、これに消極的に対応し、社会的な安全網(セーフティネット)の充実や国民経済的な伝統を守ろうとする人たちに分かれた。小泉政権以来の自民党は前者であり、私たち民主党はどちらかというと後者の立場だった」。
 「グローバリズムは、…経済外的諸価値や環境問題や資源制約などをいっさい無視して進行した」。
 「冷戦後…の日本社会の変貌を顧みると、グローバルエコノミーが国民経済を圧迫し、市場至上主義が社会を破壊してきた過程といっても過言ではないであろう。郵政民営化は、…をあまりにも軽んじ、…、郵便局のもつ経済外的価値や共同体的価値を無視し、市場の論理によって一刀両断にしてしまったのだ」(p.136)。
 <郵政民営化>問題に立ち入らない(立ち入れない)。
 上の文を読んで感じる一つは、この鳩山<論文(?)>がどのように要約されて英訳されたのかは知らないが、明瞭に<反米>的なことだ(なお、鳩山の上掲の文章に<反中国>的言辞はない)。
 「アメリカが推し進めてきた市場原理主義、金融資本主義」=「グローバリズム」=「市場至上主義」が日本を含む諸国の国民経済を「圧迫し」、社会を「破壊し」てきた、と明確に論難している。これは明らかにアメリカ(の経済政策)批判だ。当否はさて措くとしても、<反米>的だと受け止められても仕方がない。
 第二の感想は、近年のアメリカの経済政策あるいはその「資本主義」を、「市場至上主義」・「市場原理主義」などという概念で簡単に理解して(しまったつもりになって)よいのか、ということだ。また、「小泉政権以来の自民党」は「すべてを市場に委ねる行き方を良しとする人たち」だった、と簡単に言ってしまってよいのか。「すべてを市場に委ねる行き方」とは、いくら何でもいい過ぎだろう。
 ついでにいえば、鳩山自身あるいは「私たち民主党はどちらかというと」上とは違う、「社会的な安全網の充実や国民経済的な伝統を守ろうとする」立場だったとするが、これはマスメディアが騒いだ<格差拡大>等々の<小泉(構造)改革>の結果らしきもの(いかほどに証明されているのか?)を受けての<後づけ>的なものである疑いが強い。
 この文の中心的テーマにしないが、鳩山由紀夫や民主党は<小泉(構造)改革>のための法律案に<すべて>反対してきたのか? 派遣業法の改正等々に賛成したのではなかったのか?
 さらに離れて言えば、現在民主党(鳩山政権)を支持し擁護している朝日新聞は、<自民党をぶっ壊す>と叫んだ小泉を、<郵政民営化>が争点とされた2005年総選挙での小泉(自民党)をむしろ支持し、少なくとものちの安倍晋三内閣に対する態度とは全く異なる好意的評価をしていたのではないか。
 二 共生」の経済社会論とか、最近に国会で鳩山由紀夫が強調している<NPO・市民の方々の(国政)参加>の積極的推進論は、従来からの<左翼>の主張であり、また彼らが好む言葉・概念だ。この点にも、鳩山由紀夫の「左翼」性は露見している。これを自覚していないとすれば、よほどの勉強不足か、もともと「左翼」的(=容共的)心情の人物なのだろう。
 三 上の点は再び触れることがあるだろう。
 上の一で言及した、「市場至上主義」・「市場原理主義」などという概念で簡単に理解して(しまったつもりになって)よいのか、という疑問(・批判)に関連して、根井雅弘・市場主義のたそがれ(中公新書、2009.06)の以下の指摘は興味深い。鳩山由紀夫は読んでいないだろう。以下、要約又は抜粋的引用。
 〇<ソ連・東欧社会主義国崩壊後に「資本主義」の勝利が「市場メカニズム」の勝利とされ、「市場主義」・「市場原理主義」との言葉が頻繁に使われ始めたが、これらは「厳密な学術用語」ではない。伊藤元重(東京大学教授)は『市場主義』との本を出したが(1996年)、「市場メカニズム」を「軽視してきたようにみえる日本の経済システムに活を入れる意図」なのだろう。伊藤は決して「市場万能論者」ではない。>(p.92-93)
 〇<フリードマンは「ほとんど『自由市場至上主義』に近い立場」から「市場の失敗」よりも「政府の失敗」をはるかに「深刻」視した。この点では、「独自の知識論」にもとづき、「市場メカニズム」(ハイエクのいう「価格システム」)を排した「計画経済は必ずつまづくだろう」と社会主義批判をしたハイエクの方が「本質を突いていた」のではないか。>(p.94-95)
 〇<ケインズの受容以降、「純粋な『資本主義』・『市場』」なるものは存在せず、「各国は、程度の差こそあれ、『混合経済』になっている」ことを等閑視すべきではない。サミュエルソン教科書の読者なら容易に分かるだろう。にもかかわらず、「市場メカニズム」・「市場主義」・「市場経済」
等々の「大合唱」が生じた。>(p.95-96)
 以下、長くなるので省略。または別の回に書く。
 根井雅弘著を論評する気はない。要するに、鳩山由紀夫は、「市場至上主義」・「市場原理主義」等をいかなる意味で用いているつもりなのかという疑問をもつし、これらの意味を十分に理解したうえで書いているのか、という批判をしたい。同じことは、<新自由主義>という、日本共産党系の学者・評論家等を含む「左翼」が(かつ経済学の専門家でも何でもない者たちが)、批判するために近年しばしば用いてきている言葉・概念についても言える。
 「混合経済」というか否かは別として(経済学者に任せるとして)、「市場」も「政府」(計画)のいずれも万能ではないことは常識的なことだ。<自由と(公的)規制>の間の具体的な調整こそが<現代国家(自由主義国家・資本主義国家)>の基本的な役割だろう。国と時期によって、どちらにどのように傾斜するかは異なりうる。「市場原理主義」なるものを今は批判している者が、いつかは<政府(公的介入)の失敗>を慨嘆することにならなければよいのだが。

0733/週刊東洋経済6/06号(東洋経済新報社)で野口悠紀雄が書くこと-経済思潮ではなく「技術」?

 週刊東洋経済6/06号(東洋経済新報社)には、野口悠紀雄の<変貌をとげた世界経済/変われなかったニッポン>との連載がある。
 1.このタイトル自体が、「世界経済」に対する「日本」の拙劣さを示唆しているようだが、それで適切なのかどうか。
 2.上の号で野口悠紀雄は、80年代、90年代につき、次のように簡単にまとめる(p.107)。
 <80年代、「経済思潮上の大きな変化」があり、イギリスでサッチャーが、アメリカでレーガンが「国営企業の民営化、規制緩和、税制改革」をし、日本でも「民営化」がなされた。「社会主義経済」が崩壊し「市場経済への道」を進んだ。『新自由主義』との考えがそれまでの「福祉国家」・「ケインズ主義」・「社会主義」等に取って代わった。
 このことが、①「90年代の繁栄の原因」であり、かつ②「いま生じている経済危機はその路線の破綻」による、とされている。
 たしかに変化の「大きな原因」になっただろうが、それだけではなく、主としてITの面で生じたもあった。
 「技術上の変化」と「経済政策の思潮上の変化」とどちらが重要だったか? 私(野口)は「技術」だと思う。但し、新しい「情報技術」は「分権」・「自由」と密接に結びつき、さらに「アメリカ社会の成り立ち」とも密接に関連している。>
 ネオリベ・ネオコンといった経済政策(・政治)上の「思潮」ではなく、野口は<IT等の「情報技術」の変化・革新>を重視している。
 はてはて、この議論はどの程度的適切なのだろうか。
 3 野口はこうも書いている。-「日本では、『進歩=マルクス主義、保守=自由主義』という枠組みが80年代にもまだ強固に残っていた」。「マルクス経済学者の力は、大学の人文系学部では圧倒的に強かったし、論壇も『進歩的文化人』に支配されていた」。「しかし、…。日本社会党が消滅し、マルクス主義者の影響力は、大学でも論壇でも顕著に低下した」(p.106)。
 野口悠紀雄が例えばいずれかの政治組織に属しているようなマルクス主義者でないことはほぼ明らかで、その野口が上のような<変化>を1980年代(末?)に求めていることに止目しておきたい。その後、つまりほぼ1990年代から今日まで、かつての<マルクス経済学者たちは何をしてきたのだろう、あるいは何をしているのだろう。

0694/関岡英之・目覚める日本-泰平の世は終わった(PHP、2009.02)全読了。

 関岡英之・目覚める日本-泰平の世は終わった(PHP、2009.02)を、4/05に全読了。この人の本は所持していても読むのは初めて。すこぶる面白く、lehrreich だった。
 いちいちの紹介はしない。関岡によると、「日本の保守政治」はつぎの「三つの極」に収斂しようとしている。p.97-98(初出、Voice/2008.07号)。
 一つは、小泉純一郞、小池百合子、前原誠司など、「アメリカ的な市場原理を信奉する新自由主義派」。塩崎恭久渡辺喜美も「イデオロギー的に近い」。「アメリカの軍事力と資本力に頼ろうとする」傾向があり、この点で次の第二のグループとは「違いがない」。関岡は、渡辺喜美には「日本の国益より外国の利益を優先する姿勢」がある(p.46)、などとして厳しい。
 二つは、加藤紘一、山崎拓、仙谷由人など。「親中リベラル」という点で、古賀誠、二階俊博、公明党も「近い」。「中国、韓国・北朝鮮との結びつきやそのマンパワーに頼ろう」とする傾向が感じられる。第一とイデオロギー的には「反対」だが、「日本の自立を志向する」のではなく「外国頼み」という点では「違いがない」。
 三つは、「日本の主権と伝統を重んじる」、平沼赳夫、麻生太郎、中川昭一、安倍晋三
 関岡は第三の極を「日本を再生してくれる真の保守政治家として」支持しているようだ。

0688/鷲田小彌太・日本とはどういう国か(五月書房、2002)の一部と「新自由主義」。

 鷲田小彌太・日本とはどういう国か(五月書房、2002)。
 一 ・マルクス主義文献の研究・著作(「マルクス主義学」)で日本は世界一。経済学-河上肇、猪俣都南雄、宇野弘蔵、歴史学-服部之総、石母田正、網野善彦、哲学-福本和夫、三木清、戸坂潤、廣松渉。
 ・しかし、日本には社会主義革命は起こらなかった。すでに日本は「社会主義」だからだ。「隠れマルクス主義者の手で、社会主義者が権力を握り、社会主義になっていた」。
 ・「戦後社会主義日本」の「徹底した民主化」を主張したのが、「丸山真男(政治学)、川島武宜(法社会学)、内田義彦(経済学)ら」で、これらも「隠れマルクス主義者」。
 ・社会主義崩壊・マルクス主義者大没落後も「隠れマルクス主義者」は健在で「不断に社会主義的意識と行動が再生産されている」。(以上、p.328-330)。
 谷沢永一を最後の「師」とする鷲田小彌 8太だから、冗談か遊びかもしれないが、上の二つ目の・のごとく、日本は「社会主義」国だ、と簡単に書いてもらっては困る。松下幸之助の言とやらもあるが、まさか「社会主義」概念を通例のそれとは異なる意味で使っているのではあるまい。
 二 上につづく以下の叙述の方がじつは興味深い(p.331-2)。
 ・20世紀後半、アメリカが世界の文化の中心になった。この傾向は冷戦構造崩壊後にはますます顕著に。
 ・日本はアメリカを追い、「かなりの部門で…追い越した」。これを「アメリカニズムの追従」というなら、「それはベターなことだ」。「脱欧入米」の気分に日本はようやくなったではないか。
 ・「アメリカニズムへの拝跪」と観る者もいるらしい。だが、自国より優れたものをコピーし独自のものに磨き上げるのこそ「日本式(ジャパニズム)」ではないか。アメリカ一般がよいというのでくなく、アメリカ方式の最先端は「コピーするのに足る」。それは「アメリカ方式がグローバルスタンダードになっているもの」だ。
 ・日本の進化も「世界スタンダードをコピーし、それを自家薬籠中にする」努力によるのではないか。「アメリカ文化に対しても同じ態度をとってどこが悪いのか?」。
 ・コピーと「阿諛追従」は違う。(アメリカニズムとは同じではない)グローバルスタンダードを採用すれば「日本の歴史的伝統が破壊されると考えることこそ、日本の文化的伝統に則さない考えではないだろうか?」
 ・「アメリカニズムのコピーはアメリカへの拝跪」で「日本の固有性の放棄」だとの主張は、「攘夷」思想の「現代版」でなければよい、というのが「私の率直な気持ちだ」。
 ・「アメリカニズム=グローバルスタンダードを受け入れることは、自国滅亡への道だ」との説は、「実のところ、日米開戦からはじまり、いまや構造改革の下で崩壊の危機にさらされている日本的国家社会主義の再構築をめざす主張ではないのか?
 以上の鷲田の文章には素朴で楽観的な<親米保守>の匂いがすこぶる強い。むろん書かれた(公刊された)のが2002年だということは考慮しなければならないが、<アメリカニズムの終焉>を語っていた佐伯啓思や、小泉純一郎を「狂気の首相」と称した西尾幹二とは(かりに「保守」で括れても)対極にある。また、サッチャーやレーガンを「保守」の<再興>者の如く称えていた八木秀次に近いと思われる。
 もともと単純な標語的概念で指し示される現実的具体的意味内容のレベルで議論しないと建設的ではない<空中戦>になるのは分かっていることだが、アメリカ産の<新自由主義>(・「新保守主義」)―「反米」になりやすい「左翼」は<ネオリベ>とか<ネオコン>とかとの蔑称?を作っていた―なるものの評価・総括は、日本ではこれらの概念ではなく上に鷲田が用いている「構造改革」とか、「規制緩和」・「民でできるものは民で」とかの標語で示された日本での<改革>の評価・総括ということになるが、重要だし、(とくに「保守系」の)諸論者がどういう立場に立つか、どういう見解をもつか、には関心を持たざるをえない。
 2009年春の現時点では、鷲田小彌太も上のようには書かないのではなかろうか。また、もともと「グローバルスタンダード」か否かとそれが世界各国にとって「最良」か否かとは別の問題だ、という論理的欠陥を鷲田の上の所論は含むようにも見える。
 鷲田は、ひょっとして(あくまで推測で、あるいは結果的にはだが)野口悠紀夫・一九四〇年体制(東洋経済新報社、初版1995)の影響を受けていたのかもしれない。ともあれ、「構造改革」と「日本的国家社会主義(の再構築)」とを鷲田が2002年に対比させていたのは、あまりにも単純だったのではないか。多数の著書を出版しているわりには、必ずしも<学ぶ>対象という意識を持てなかった原因は、こうした点にもあったようだ。このあたりの、つまり<経済政策>の問題についても関心をもって本や論考を読んでいる。

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