安倍首相・自民党の憲法改正に反対して、憲法学界および憲法学者の多くと同様の教科書で同様の教師たちから憲法を学んだ他の分野の法学者たちの多くは、日本共産党か社会民主党に、又は自民党を敗北(議席減少)させるために民主党に投票するのかもしれない。
 しかし、日本共産党員でもマルクス主義者でもない経済学者や政治学者の多くから見ると、参院選前の政策論議とそれを伝えるマスコミ自体がまともなものではない、と映っているのではなかろうか。
 週刊ダイヤモンド野口悠紀夫の連載コラム7/21号の「政策論議を歪めるマスメディアの構造」は、こんなことを書く。
 「テレビの政策論議は単純な二分法」、「善玉と悪玉の戦い」になる、「富者と貧者、大企業と零細企業、都市と地方」等。そして「官僚は常に悪く、民営化は常に望ましい。…扇情的な言葉に影響されやすく、水に落ちたイヌは徹底的にたたかれる(その半面で、鳴き声の大きなイヌには手が出せない)」、「大事件が起きると、右往左往して意見がぶれる」。日本のテレビ界の政策論議は基本的にこのようなレベルで、「床屋談義」・「井戸端会議」だ。「新聞はテレビに比べれば多様な意見が登場しうる」が「全国紙、一般紙という制約から逃れることはでき」ず、「テレビとの差は程度の差でしかない」(p.118-9)。
 私のそれはきっと野口の経済学から見る社会認識と一致しているわけではないと思うが(そもそも野口の議論を殆ど知らない)、経済学の著名な碩学もまた、日本のテレビ・新聞上の「政策論議」は異常だと言っているわけで、同感だ。「大衆」民主主義社会の代表者が「大衆」に媚びるテレビ・新聞だ、とも言える。
 こんな現象はどこの(自由主義)国もそうかと思っていたら、野口は、マスメディアの「多様性」が「アメリカと日本にはかなりの差がある」と言う。
 野口によれば、「アメリカには全国紙はないに等しい」。日本では戦時中の政策により「全国紙の地位が高ま」り、その「全国紙がテレビをも支配する構造になっているため、日本の主要なマスメディアは極端な寡占体制になっている」。日本のテレビはチャンネル数が「ごく少数に制約され」、「それが新聞社とほぼ一対一対応で経営されるため、多様な意見の報道はきわめて難しい」。
 日本のテレビ・新聞等のマスメディアはもともと「歪んだ」ものになりやすい構造をもっている、日本に独特の欠陥がある、ということだろう。私にとって完全な新知見ではないような気もするが、改めて読むと、やはり日本のマスメディアはどこか奇妙だ、と感じる。
 上の野口の文章は政党間対立からは中立と思われる。だが、現時点のマスメディアを一瞥していると、どうやら反安倍首相・反自民党のムード醸成で殆どが一致しているようでもある。少なくとも、安倍首相にとって<暖かい>雰囲気ではない。<年金記録消失問題選挙>といったい誰が決めたのか。<消えた年金>とかのフレーズを誰が作ったのか。自民党が<逆風>にある、と誰が決めつけたのか。
 「日本の主要なマスメディア」ではないネットやブログの世界は、では、多様な意見を反映しているだろうか。少なくとも表面的には、私にはそうにも思わない。<政治的に>ネットやブログを利用してやろうという者のサイトも少なくない、という印象がある(無意味に多いと感じるのは日本共産党員のブログだ。同党のビラと同じことを書くなと言いたい)。但し、一般のテレビ・新聞には出てこない情報や意見を知ることができるのは、選挙とも無関係に、ネットやブログの重要な存在意義だとは感じているが。そして<表現の自由>にとってネットの世界が重要なフォーラムであることも否定はしないのだが。