秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

新日本新書

1371/日本共産党(不破哲三)の大ペテン・大ウソ22。

 不破哲三・対話/科学的社会主義のすすめ(新日本新書、1995.07)という本がある。
 興味深いのは、「赤旗」日曜版の1月号に掲載されたそれぞれ三人の若い共産党員との<対話>が二つ収載されていて、かつその1月号というのが1994年の1月(正確には1/02=09、1/16連載)と1995年の1月(1/01=08、1/15連載)であること、つまり、1994年7月の日本共産党第20回大会でソ連は<社会主義国ではなかった、社会主義国ではない国家として崩壊した>と新しく規定し直した時期の前と後に発行されていることだ。
 やはり不破哲三は、ソ連やスターリン等について、この二つの<対話>で微妙に異なることを喋っている。
 まず(おそらくは1993年12月に実際には語られた)1994年1月号では、林紀子(民青同盟愛媛県委員長)・森実一広(民青同盟京都府委員長)・金谷あゆみ(民青同盟石川県委員長)を前にして、不破哲三はこう語っている。
 ・マルクスは、イギリス、フランス、ドイツなど「資本主義の発達がもっとも進んだ国ぐに」で「社会主義革命」が起きると「予想」していた。
 ・レーニンも同じで、民主主義革命はともかく社会主義革命は西欧で先に起こるのが「当然の道筋」で、ロシアはそれと手を携えて社会主義へ前進すると「見通して」いた。
 ・しかし歴史は複雑で「社会主義をめざす国としては、おくれたロシアだけが残る」という「だれも予想しなかった」状況になった。
 ・レーニンは、おくれたロシアを社会主義へと前進させる困難さを「よく心得ていた」し、「いろいろ試行錯誤も」して、「ロシアが生き残って、国内の団結をかためながら、社会主義にむかって着実に進んでゆくというレールを苦労して敷いた」。
 ・ところが、後継者のスターリンは、レーニンが敷いたレールを「乱暴にはずし」、「外に向かってはツァーリ時代の領土拡張欲を復活させた覇権主義、国内では上からの命令で政治や経済を動かす官僚主義の国づくり」というレールに切り替えた。そして、「せっかく実現した革命が、社会主義という社会をつくるにいたらないまま」解体した。
 ・ソ連を見るとき、一つは、「非常におくれた条件」で革命が起きたこと、二つは、社会主義への道を進もうとしてレーニンが健全なレールを敷いた時代」と、「スターリンがそのレールをくつがえして、覇権主義、官僚主義の道に突き進んだ時代」を区別すること、が大切だ。
 ・レーニン時代は「民族自決権の尊重」を世界で初めて宣言して諸外国との領土紛争を「模範的に解決」し、国内でも「社会保障制度をはじめてつくり、男女平等を実現する」等の社会改革を行なって、この点でも「世界の模範」になった。
 ・日本共産党は「ソ連の覇権主義者たちと」闘ってきたので、「ソ連共産党が崩壊しても」影響を受けず、逆に「覇権主義の害悪の解体」として歓迎する声明」を出した。それだけの「力と成果をもった運動」を展開してきている。
 以上、p.143-5、p.154。
 以上の不破哲三の発言のうち重要なのは、この時点ではソ連は「社会主義国」ではなくなっていた、という認定を行なっていないことだ。
 すなわち、「せっかく実現した革命が、社会主義という社会をつくるにいたらないまま」解体した、と言うだけで、社会主義国家建設が完了していないことは(1991年以前と同じく)認めているが、<社会主義という社会をつくる>過程で解体したのか、とっくにそのような過程は終わっていたのか、については曖昧なままにしている。
 上のことを言い換えると、スターリン時代に「覇権主義、官僚主義の道に突き進んだ」こととソ連の「社会主義(国)」性との関係は、明確には語られていない、ということだ。
 また、この時点では、スターリンに対する批判は、上に引用・紹介した部分・内容だけにとどまる、ということも興味深い。スターリンへの悪罵よりも、レーニンに対する褒め(?)言葉の方が、分量は多い。 
 つぎに、(おそらくは1994年12月に実際には語られた)1995年1月号では、川上弘郁(党山梨県郡内地区委員会機関紙部長)・水谷一恵(党埼玉県委員会組織部副部長)・加藤靖(党京都府北地区委員会機関紙部員)を前にして、不破哲三はこう語っている。
 ・「民族自決にせよ、女性の平等にせよ、…、ロシアの十月革命は、世界の推進力として、衝撃的とも言える役割をはたし」た。
 ・「レーニンは、世界の進歩に貢献する仕事とともに、社会主義の『夜明け』に近づく仕事をいろいろとしたが、スターリンによってそれが投げ捨てられちゃった」。
 ・「旧ソ連をどう見るかという問題」があるが、「スターリンからゴルバチョフに至るソ連は、社会主義の『実験』どころか、社会主義を裏切ったものでしかなかった。そこをしっかりつかむことが、本当に大事」だ。
 ・日本共産党は「旧ソ連の覇権主義」に対して「三十年にわたってたたかい、これは社会主義とは縁もゆかりもない、反社会主義だと徹底的に批判してきました。//
 昨年〔1994年〕の第二十回党大会では、さらにすすんで、旧ソ連の社会体制そのものが、反社会主義の体制だったことを、歴史的な事実を基礎に明らかにしたんです」。
 ・「だいたい対外政策であれだけ帝国主義的な行動をやるものが、国内ではまともだというはずはないんです」。
 ・「ソ連では、…経済の土台はともかく『社会主義』だ、『腐っても社会主義』(笑)なんていう議論もありました。でも、…。『国有化』だから社会主義という理屈にはならないんです」。
 ・旧ソ連では、「工業でも農業でも、はたらく人民の無権利状態がひろがり、経済への発言権もうばわれた。生産手段が人民の手に移されるどころか、人民を経済の管理からしめだした専制主義の体制でした。こんなものは、社会の体制としても社会主義の反対物ですよ」。
 ・「おまけに大量弾圧による囚人労働が、何百万人という規模に広がって、ソ連経済の柱の一つになっていました。これはもう、資本主義以前の野蛮な制度ですよ」。
 以上、p.182-184。
 同じ書物に収載された二つの<対話>だが、第20回党大会を間に挟んで、微妙に、のつもりであるかもしれないが、しかし、明確に、ソ連に対する見地を変更していることが分かる。
 上で不破哲三は、旧ソ連は「反社会主義の体制」だったと明言し、「社会主義の反対物」、囚人労働を前提とする「資本主義以前の野蛮な制度」とまで言い切っている。
 このような強い批判は、わずか1年前の2014年1月には全く見られなかったものだ。
 もしも1994年の初めにこのように不破哲三が考えていたとすれば、1994年1月「赤旗」日曜版で語った内容は実際とは大きく変わっていなければならなかったはずだ。党幹部として、というよりむしろ、ソ連に対する見を明確に変更する綱領改定を指導していたはずの不破哲三であっても、党常任幹部会等の了解がないままに、ひょっとすれば個人的には考えていたかもしれないソ連の見方の変更を「赤旗」紙上で明らかにすることはまだできなかった、ということだろう。
 また、不破哲三は上で明かなウソをついていることも指摘しておく必要がある。
 不破は、「旧ソ連の覇権主義」と「三十年にわたってたたかい」、それは「社会主義とは縁もゆかりもない、反社会主義だと徹底的に批判してき」た、とヌケヌケと語っている。
 しかし、ソ連(・ソ連共産党)の<覇権主義・大国主義>を「社会主義」から逸脱した明確に「反社会主義」、「社会主義とは縁もゆかりない」などの言い方で批判してきたわけではまったくない。
 なるほど(前回に引用・紹介したように)覇権主義等を「社会主義の原則に反する誤り」と評する部分はあるが、第一に、これ自体について言えば「社会主義の原則」違反であって<反社会主義>だと明言しているわけではない。また第二に、全体の文章は、「ソ連などの大国主義、覇権主義をはじめ、社会主義の原則に反する誤りとその蓄積が、社会主義の事業が本来もっている…威信と優越性をはてしなく傷つけている」、「大国主義克服のための闘争は、世界と日本の社会主義の事業にとって、決定的といってよい重み」をもっている、「いっさいの大国主義、覇権主義、ヘゲモニー主義を国際共産主義運動…から根絶することをめざす」、といったものであり、旧ソ連がすでに「社会主義(国)」ではなかったことを前提とする意味には全くなっていない。
 にもかかわらず、不破が「覇権主義」と「三十年にわたってたたかい」、「反社会主義だと徹底的に批判してきた」と語っているのは、1994年7月以降に新たに吐きだした大ウソであり、大ペテンに他ならない。
 後で一部再引用しておく不破哲三・現代前衛党論(新日本出版社、1980)によれば、不破哲三は1979年に、ソ連の大国主義・覇権主義等の「誤り」について「わが党」は「それを社会主義の国におこった誤りとしてとらえる」と明言している。
 不破は、自分の本をもう一度見てみるがよい(なお、この後は、中国共産党はソ連は「社会主義国」から「ブルジョア独裁国家に変質してしまった」という見方をとった、…と続く)。
 よくも平気で言えるなと思うのだが、不破哲三は厚かましくも、少なくとももう一つ、重要なウソをついている。
 すなわち、経済的土台はまだ「社会主義」だとする議論が旧ソ連にあったなどと言って笑いとばしているが、じつは不破哲三こそが、ソ連共産党・ソ連の崩壊以前のある時期には、上部構造はともかく土台(下部構造)はまだ変質しているとは言えないので、ソ連を<社会主義(国)ではなくなった>と理解してはいけない、という旨主張していたのだ。
 息を吐くようにウソをつくとは、日本共産党、とりわけ不破哲三にあてはまる。
 一部は再度の引用になるが、不破哲三は現代前衛党論(新日本出版社、1980)に1979年に行なった報告/のち「前衛」1979.09号掲載)を収載していた。この著のp.74-76によれば、不破哲三はこう語っていた。
 ・「レーニンは、上部構造での民主主義の徹底的な確立と実行という条件を提起している」。
 ・スターリンは「大国排外主義の民族抑圧傾向をもっとも強くあらわした」。レーニンは死の直前にこうした「傾向との闘争」を行なった、その際、レーニンは「社会主義国無謬論」に立たず、「社会主義の土台のうえでも、誤りの如何によっては他民族の抑圧という社会主義の大義に反する事態までおこりうることを理論的に予見」していた。
 ・しかし、「社会主義国の党や政府」に「あれこれの重大な誤り」があるからといって「その国が社会主義でなくなったなどの結論」を簡単に出す「社会主義変質論」も日本共産党のとるところではない。
 ・上のことは、「レーニンの使った言葉を採用すれば、国家の上部構造のうえで誤りがおきたからといって、ただちに社会主義の土台がなくなったとみるわけにはゆかない、ということです」。
 1979年に以上で不破が述べたことは、当時にソ連の性格づけに関して中国共産党と日本共産党が対立していたという文脈の中で読んでも、(当時の)ソ連は「上部構造のうえで誤りがおき」ているかもしれないが、「ただちに社会主義の土台がなくなったとみるわけにはゆかない」、つまりソ連はなおも「社会主義(をめざしている)国」だ、という見解の表明に他ならない、と解される。
 にもかかわらず、1995年1月には不破哲三は、旧ソ連には、「経済の土台」はまだ「社会主義」だ、「腐っても社会主義」だなんていう「議論」があった、と笑い飛ばしている(前掲・対話/科学的社会主義p.184)。
 笑い飛ばされなければならないのは、間違いなく、不破哲三自身だろう。

1369/日本共産党の大ペテン・大ウソ21ー不破哲三・新日本新書(2007)。

 不破哲三・スターリンと大国主義(新日本新書、1982.03)は、1982年1-2月に「赤旗」に連載されたものを注を付してまとめたものだとされる。ソ連共産党およびソ連の解体前の書だ。
 新装版/不破哲三・スターリンと大国主義(新日本出版社、2007.05)というものもあり、これには不破の18頁にわたる「新装版の刊行にあたって」が目次前の冒頭に付いている。そして、この新装版はソ連共産党・ソ連解体後のものだが、上記の1982年の新書版と内容は変わっていない、らしい。逐一の確認はしていないが、どうやらそのとおりのようだ。
 興味深く、かつ厚かましいと感じ、かつまた不破哲三の面の皮はよほど厚いに違いないと思うのは、2007年の本のまえがきで、①「ソ連大国主義をめぐる歴史的追跡において、根本的な訂正が必要だと思われる点が見あたらない」、②「この二十五年の間に」新しい事実も明らかになったが、「ソ連覇権主義への告発に訂正をせまるものではない」等と不破は述べているが、元となった1982年の新書では、ソ連を「社会主義」国の一つと見なしたうえで、その大国主義等を批判していることだ。重大な変化を無視して、表面的な不変性(訂正・修正の不要性)を語っていることだ。  
 そしてその重大と思われる点については、2007年の本のまえがきで、1994年の第20回党大会でソ連は社会主義ではなくなっていたと明確にした、「ソ連で崩壊したのは、社会主義ではありません」、と釈明しかつ強弁している(p.17)。
 以下で紹介しておくように1982年にはソ連を「社会主義」国の一つと見なし、「国際共産主義運動内部」での「大国主義、覇権主義」と明記しながら、2007年には「根本的訂正」は必要なかったとしつつ、1994年に日本共産党はソ連は社会主義国でなかったという見地に立った、とまえがき部分でこっそりと?、いや公然と「訂正・修正」 しているのだ。
 どういう神経をもっているのだろう。どれほどに面の皮は厚いのだろうか。これを「知的傲慢」と言わずして何と言うのだろうか。
 ともあれ、1982年には不破哲三はこう書いていた。2007年の上の①や②と対比していただきたい。1982年新書版、p.240-242。
 ・「今日の社会主義」はまだ「生成期」にあるという「歴史的制約以上に重大なことは、ソ連などの大国主義、覇権主義をはじめ、社会主義の原則に反する誤りとその蓄積が、社会主義の事業が本来もっている…威信と優越性をはてしなく傷つけていることです」。
 ・「この大国主義」は、「社会主義の道にふみだした国ぐにの経済的政治的困難の最大の要因ともなってき」ており、「大国主義克服のための闘争は、世界と日本の社会主義の事業にとって、決定的といってよい重みをもっています」。
 ・「いっさいの大国主義、覇権主義、ヘゲモニー主義を国際共産主義運動と世界政治から根絶することをめざす」闘いはレーニンの継承発展という歴史的意義をもつ。
 ・日本共産党は1981年にソ連共産党中央委員会あて書簡で、「ソ連の現在の…大国主義、覇権主義のあらわれの一つひとつを事実に即して具体的に指摘し、きびしく批判するとともに、これを国際共産主義運動内部から一掃するために最後までたたかう」意思を表明した。
 ・ すなわち、「アメリカ帝国主義」や「日本の反動支配層」とたたかうと同時に「国際共産主義運動の内部における大国主義、覇権主義のいかなるあらわれにも反対して、その是正を求め、…奮闘するでしょう」、と書き送った。
 以上は、2007年の単行本のp.266-8頁にも、同文でそのまま掲載されている。
 このように「ソ連などの大国主義、覇権主義をはじめ、社会主義の原則に反する誤り」だとか、「国際共産主義運動の内部における大国主義、覇権主義」と闘うとか書いておきながら、2007のはしがき・序文では、何と、<訂正・修正>する必要はなかった、と不破哲三は<開き直って>いるわけだ。
 ここまで傲慢になられると、そしてソ連共産党・ソ連自体の解体の意味を全くかほとんど無視されると、巨大なカラクリに眩惑されてしまいそうだ。
 日本共産党は、ソ連と三〇年以上にわたって闘ってきたと、さも自慢そうに言い、そのついでに?、崩壊したのはソ連であって社会主義ではない、とも1994年以降は明確に言い始めたのだった。しかし、日本共産党は、「社会主義」国ソ連の「社会主義の原則」に反する「大国主義、覇権主義」を、「国際共産主義運動内部」の誤りとして三〇年以上闘ってきたのだった。もはや社会主義国ではないとしてソ連(の大国主義・覇権主義)と闘ってきたわけでは全くない。
 ソ連(・ソ連共産党)は誤ったが、日本共産党は「正しい」。落胆することなく、確信をもって前進しよう。-こう党員やシンパ(・同調者たち)を説得し、煽動するために、日本共産党幹部たちは<(わが党は)ソ連の(誤った)大国主義・覇権主義と三〇年にわたって闘ってきた>ということを持ち出す。これは<大ペテン>だ。
 追記-いったんレーニンとスターリンの異同の問題に立ちいって、稲子恒夫著にも言及した。それは、産経新聞政治部・日本共産党研究( 産経新聞出版、2016.05)が発売される予定であることがその当時分かっていたので、その前に稲子恒夫著を資料として用いていることを明らかにしておく意味が個人的にはあった。この産経新聞の本には結果としては稲子恒夫著への言及がなかったので、急ぐ必要はまったくなかったことになる(産経本には、「研究」と称しつつ、参考文献の参照頁の詳しい摘示が全くない)。

0504/式年遷宮と大嘗祭の<復活>。

 伊勢神宮の由来又は設立年代については、日本共産党系と見られる藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書、1991)で、直木が「七世紀の天武天皇の頃に天照大神を祭る神宮が伊勢にあったこと」は「間違いない」と書くくらいだから、1300年前にすでに存在したことは「間違いない」。現代人にとっては気の遠くなるような昔だ。
 七世紀後半からさらにいつ頃まで遡れるかだが、安本美典の簡単な文章に即して既述のように、記紀等によれば崇神天皇の御代に皇祖・天照大神を宮中とは別の場所に祀るために造営された。
 所功・伊勢神宮(講談社学術文庫、1993)は記紀等の記述に添ったより詳しい説明をしつつ、崇神天皇朝を三世紀後半としている。但し、古代の天皇・国王の平均在位年数は約10年という安本美典説に従い、かつ崇神天皇は第一〇代ということは正しい、ということを前提にすれば、崇神天皇朝は三世紀後半ではなくもっと後だろう(所功は西暦〇年前後に神武天皇即位、三世紀後半は大和朝廷の故地・九州では「壱与」の時代だろうと推測する。安本美典とはかなり異なる)。
 それはともかく、所功の上の本によっても、神宮の式年遷宮が、天武天皇の遺志を継いだ持統天皇(645-702)の時代に始まることは「間違いない」ようだ(所によると内宮の第一回は690年)。式年遷宮自体も1300年以上の歴史をもつ。2013年は第62回。前回・1993年の遷宮に至る、各祭儀についての(最重要な祭儀は「遷御」だと思われる)、昭和天皇に始まり今上天皇に継承された「御治定」の月日は、神宮司庁監修編集/伊勢神宮崇敬会発行・お伊勢まいり(2005.07改訂7版)の末尾に一覧表として掲載されている。
 1320年以上で62回という回数からも判るように、式年遷宮は20年毎にきちんと行われてきたのではなかった。戦後最初のそれ(第59回)は1949年の筈だったが、財源難等があったのだろう、4年遅れて1953年に行われている。
 そんな4年遅れてどころではなく、所功の上の本や高野澄・伊勢神宮の謎―なぜ日本文化の故郷なのか(祥伝社ノンポシェット、1992)によると、所謂「戦国時代」に、120~140年もの間、中断している。
 式年遷宮ではなく「大嘗祭」の挙行となると、田中卓「天皇と神道の関係」同=所功=大原康男=小堀桂一郎・平成時代の幕明け(新人物往来社、1990)p.54によれば、何と「約220年」の中断があり、江戸時代初期の1687年に再挙行された、のだという。
 120~140年あるいは220年ということは、停止と再開の両方を現実に知る人は一人もおらず、一般国民の一世代を30年とすると、4代から7代くらいが交替するだけの時間が過ぎたことを意味する。
 そして思うのは、<天皇制度>が続いている限りは、かりに100年、200年の<中断>があり、廃止されたかの如き外観を呈した時期があったとしても、<歴史的・伝統的なもの>は<復活>している、ということだ。
 多少のゴタゴタはよい。また、日本「文明」は同一ではなく変化してきたし、これからも変化はしていくだろう(固有の何かまでなくなるとの趣旨ではない)。だが、<天皇制度>とともに、自分の死後も続く「日本」の<悠久>というものを信じたいものだ。

0477/日本共産党系の藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書)-2。

 藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書、1991)の藤谷執筆部分によると、1950年代末から、伊勢神宮の<国家的保護>を求める動きが「神宮関係者や神職を中心とする保守的勢力」から起こり、「〔伊勢〕神宮国有化論」まで出てきたという。
 藤谷自身が「伝えられている」とか「いわれている」とか書いているのだから、どの程度の信憑性があるのか疑えないこともないが、「神宮国有化論」者の論点は次の二点にあると「いわれている」、らしい。
 ①「伊勢神宮は天皇の祖先をまつる神社」で、「皇室・国家と不可分」だから、少なくとも「天皇祭祀に必要な神殿や、敷地は国有とすべき」。
 ②「天皇の神宮に対する祭祀は私事」とされているが、「国家の象徴としての天皇の行為」で、「国家の公事としてみとめるべき」。
 ここでの「天皇の神宮に対する祭祀」とは何を意味するのか必ずしも明瞭でないが、伊勢神宮による祭祀への援助や天皇(・皇室)又はその代理者(勅使)が主宰者となる伊勢神宮での祭祀のことだろう。
 以上の二点は、「国有化」に直結する論拠に当然になるかは別としても、しごく当然の問題提起だ、と考えられる。
 (皇居内の「天皇祭祀に必要な神殿」・「敷地」の所有者は誰かは、別の回に記述する。)
 この欄でいく度か書いたように、伊勢神宮が天皇(・皇室)(のとくに「祭祀」)と不可分で天皇もまた国家と不可分(少なくとも「日本国の象徴」)だとすれば、伊勢神宮という一宗教法人の「私産」や天皇の「私的」行為と位置づけるのは奇妙であり、政教分離原則を意識するがゆえの「大ウソ」ではないかと思われる。
 だが、上の①・②を藤谷俊雄はつぎのように一蹴する。
 「まったく時代逆行の意見であることは、本書の読者には明らかなことと思う」(p.212)。
 「時代逆行」性が「明らか」だとは読者の一人となった私には思えないが。
 以上を叙述のほぼ最終的な主張としつつ、藤谷は以下のことをさらに付記している。
 1.「全知全能の神」があるならそれは「ただ一つ」でなければならず、「すべての人間を公平無私に愛する神」でなければならないのに、「特定の国家」・「民族」(・「種族」)だけを守る「神」は「未開人の神と大差ない」。「文化国家」の人々は「いいかげんに利己的な神信心〔ママ〕から目覚めていい」(p.212-3)。
 これはのちに「日本」と呼ばれるに至った地域に発生した「八百万の神々」があるという神道に対する厭味・批判なのだろう。だが、私は熱心な神道信者では全くないが、それでもバカバカしくて、反論する気にもなれない。この藤谷という人は、<宗教>をまるで理解できていないのではないか。マルクス主義者=唯物論者なら当然かもしれない(なお、神道は本当に「宗教」の一つなのかという問題があることはすでに触れている)。
 2.「天皇がどのような宗教を信じようとも天皇の私事である」。だが、それを「公事として全国民におしつければ、国民の信教の自由が失われることは歴史のしめす」ところ。「明治以後の国家がおかした過誤」が再び「繰り返され」てはならない(p.213)。
 「天皇がどのような宗教を信じようとも天皇の私事である」とは、さすがに、かつての一時期には<天皇制打倒>を唱えた日本共産党の党員(又は少なくとも強い支持者)の言葉だ。天皇(・皇室)の<信仰の自由>という問題・論点も出てきそうだが、立ち入らない(歴史的・伝統的な諸種の祭祀が「神道」という<宗教>が付着したものならば、天皇(・皇室)には<信仰の自由>はない、<天皇制度>とはそもそもそういうもので、<基本的人権>の類の議論とは別次元の存在だ、と解するほかはないだろう、と考えられる)。
 上の点よりも、<神道>を「公事として全国民におしつけ」る、ということの正確な意味が解らないことの方が問題だ。<国家神道化>を意味するのだろうか。そして<神道>を「公事として全国民におしつけ」れば、「明治以後の国家がおかした過誤」を再び繰り返すことになる、という論理も随分と杜撰だ。
 <国家神道化>は必然的に、あるいは論理的に、<明治以後の国家の過誤>につながった、あるいは、その不可欠の原因になった、のだろうか。
 むろん「明治以後の国家がおかした過誤」というものの厳密な内容が書かれていないので、上の適否を正確に検証することは不可能だ。しかし、神道の(少なくとも)<公事>化が戦前日本の「過誤」につながるというという指摘は、歴史学者・研究者の認識・それにもとづく主張ではなく、<政治>活動家のアジ演説的叙述であることに間違いはなく、この書物は上の2.を書いて全体を終えている。
 以上、近日中の読書メモの一つ。 

0476/日本共産党系の藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書)-1。

 藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書、1991)は、三一書房から1960年に刊行されていた同一タイトル・内容の本の「新版」だが、「新版のあとがき」(直木)を除いて、三一書房版と異ならない。こんな経緯はともかく、新日本新書とは有田芳生日本共産党員だった時代に勤務していた新日本出版社の「新書」で、有田の企画・編集した本が日本共産党中央の不興を買って有田が日本共産党を除籍されたことでも明らかなように、実質的には日本共産党の出版物だと言っても誤りではない。少なくとも、日本共産党に都合の悪いことやその主義・主張に矛盾する内容は書かれていないものと推測される。さらに、執筆者の一人の藤谷俊雄は元・部落問題研究所(日本共産党系)の理事長で、日本共産党員だったと推測できる人物だ。
 そのような新日本新書が「伊勢神宮」について書いているとなれば、興味を惹かないわけがない。1960年時点ですでにあった「まえがき」で藤谷は「伊勢神宮の真実」を語る旨を書いているが(p.10)、ある面では、日本共産党系の出版物ですら、伊勢神宮について、~のことは肯定している、という形で利用することもできる。例えば、直木孝次郎執筆部分では、日本書記の記述は疑う必要があるが、「七世紀の天武天皇の頃に天照大神を祭る神宮が伊勢にあったこと」は「間違いない」、とある(p.13)。神社本庁又は(伊勢)神宮の言っている歴史がいかほど信用できるのか、という疑問をもつ者も、<日本共産党系の出版物ですら>認めているとなれば、疑念を解消するだろう。
 もちろん私の関心は敗戦後から現在に至る伊勢神宮に関するこの本の叙述内容にある。
 最近に読んだ本と比べて、まず、GHQの<神道指令>の前文をそのまま詳しく引用しつつ肯定的評価を与え、かつ憲法20条(政教分離条項)も全文を引用して歓迎的に叙述している点が異なる。
 憲法20条については、はたして適切かと疑問をもつが、以下の文章がある。-「無神論者だけではなく、宗教についてもっともまじめに考える宗教者たちが、この憲法の信教の自由に関する規定を心から歓迎したのは明らかである」(p.205)。
 このあたりですでにさすが日本共産党又は日本共産党系という感想が生じるが、伊勢神宮に対して<冷淡な>感覚をもって記述していることは、次のような文章(藤谷俊雄)からもうかがえる。
 ・「戦後数年間の神宮の荒廃はめだつものがあった」。
 ・「あるときは占領軍のジープが…殿舎の前まで乗りつけて、アメリカ兵が五十鈴川に釣り糸をたれて魚をとり、手あたり次第に神域の大木を切り倒したりしても、…衛士たちは、だまってひっそりと、遠まきにこの光景をながめているだけであった」。
 引用だけでは感じ取れないかもしれないが、こうした文章からは、<愉快に感じて>書いている気分が染み出ており、決して伊勢神宮を<気の毒に感じて>書いているのではないことがわかる。上の第二の文などは、いったい何のために挿入されているのか、と訝しく感じざるをえないものだ。
 上のように荒廃しかつ参拝者の激減や式年遷宮の延期もあったが、藤谷は次のように言う。
 ・「日本国家および軍国種主義とかたくむすびついてきた神社が、この程度の打撃をこうむったことは当然であって、…むしろ打撃は少なすぎた」(p.207)。
 もっと打撃を被り、(伊勢神宮等の各神社と神社制度の)衰退そして解体・崩壊があればよかった(その方が望ましかった)、という書き方だ。さすがに日本共産党又は日本共産党系。
 ついで、参拝者数の復活・増大、式年遷宮(1953年)の成功裡の実施等について、こんなことが指摘されているのが目を惹く。
 第一。<遷宮のための「奉賛会」による募金活動が活発になされ、旧町内会・隣組組織による「半強制的な寄付」があちこちであった。かかる組織の募金活動をGHQは禁止したが「一向にききめがなかった」のは、①「保守勢力が、意識的にサボタージュしたこと」、②「地方の神社の氏子組織が解体されずに残っていた」による。>(p.209)
 旧町内会・隣組組織にあたる又は近いものは今日でも町内会・自治会として残存している。簡単には論じられないが、一般的に<古いもの>・<国家・行政に利用されるもの>と認識するのは間違いだろう(そこまでこの本が踏み込んで書いているわけではないが)。
 また、上の②のように、「地方の神社の氏子組織が解体されずに残っていた」ことを消極的に評価していることが興味深い。現在でも「神社の氏子組織」は強固さの程度の差はあれ、残存していると思われる。そして、上の<町内会・自治会>の問題も含めて、戦後又は近年に喪失・崩壊しつつあるとされ、その喪失・崩壊がむしろ批判的に又は憂慮的に捉えられることが多いと見られる<地域共同体・地域コミュニティ>問題にかかわっている。
 日本共産党又は日本共産党系の本は「地方の神社の氏子組織が解体されずに残っていた」ことを否定的に評価していた、ということを記憶しておこう。
 第二。<「戦後の神社復興」に手を貸したものとして「交通資本や観光の産業資本」を無視できない。近鉄(近畿日本鉄道)は「奉賛会」に500万円もの寄付をした。「もうけんがための神社参拝の宣伝」か゜中世以来の「巡礼運動」を「再生産」している事実を「見直す」必要がある。>(p.210)
 藤谷は「無責任な大衆煽動」という表現まで使っているが、遅れてであれ式年遷宮が実施され、参拝者数も回復してきたことについて、その背景の重要な一つを「もうけんがための」「産業資本」の動きに求めているわけだ。
 さすがに…、というところだが、これはあまりに卑小で、一面的な見方だろう。敗戦直後は日々の生活に忙しくて神宮参拝をできなかった人々がある程度落ちついてのちに伊勢神宮を参拝をするようになったことは「交通資本や観光の産業資本」による「もうけんがための神社参拝の宣伝」による、とは、あまりにも参拝者の心情を無視している、と考えられる。
 私にはおそらく理解不可能だが、敗戦・国土の荒廃という衝撃のあと、伊勢神宮に赴き、再び手を合わせる人々の心中は、いかなるものだっただろうか。たんなる遊興や観光の気分でなかったことは明らかだろう。そんな国民大衆の心情を、日本共産党員又はマルクス主義者もしくは親マルクス主義者は理解できないに違いない。
 一回で終える予定だったが、さらに別の回で続ける。

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