秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

新保祐司

1173/スメタナ「わが祖国」と新保祐司と私・秋月瑛二。

 「新憲法が『歴史的かなづかひ』で書かれ、建国記念の日に発布されれば、それだけでも新憲法の精神の核心は発揮されている」(産経新聞昨年5/08「正論」)というユニ-クな新憲法論(憲法改正論)を、戦前の条文のままだった刑法典や民法典(の財産法部分=家族法部分以外)が近年に「歴史的かなづかひ」を捨てていわゆる平文化されていることを知らず、従ってそれらの法律改正作業に反対しないままで書いていたはずの新保祐司は、産経新聞昨年3/29の「正論」欄では次のように述べていた。
 「スメタナの連作交響詩『わが祖国』は、とても好きな曲で」、「祖国愛というものに思いを致すとき、この曲はますます深い感動を与える」。
 私はウィ-ン(南駅)からプラハ本駅までの「スメタナ」号と冠した特急電車の中の後半に、スメタナ「わが祖国」を携帯プレイヤ-とイアフォンで聴きながら、外の景色を観ていた経験を持っている。

 新保祐司はなかなか想像力が豊かだ。私はチェコのまっただ中でスメタナの曲を聴きながらも(この曲はチェコ国民にとって重要で、一年に一度の記念式典でも演奏されるという知識は有していたが)、「祖国愛」には思い至らず、チェコと日本の違いをむしろ強く感じていた。
 スメタナ「わが祖国」が嫌いなわけではないし、その中の「モルダウ」(ヴルタバ。ドイツのエルベ河の上流)は河川のさざ波をも感じさせる美しい、いい曲でもある。
 だが、海を持たず、モルダウという大河一本に基本的には貫かれ、日本のそれとは異なりなだらかな山々の麓にボヘミア高原が広がる、という、日本と異なる、かつ日本と比べれば変化・多様性に乏しいチェコの自然環境をむしろよく表している音楽だと感じていた。
 国家の、あるいは国民・民族の代表的な曲も、自然や民族性の差異によって異なるものだ、という印象を強く持ちながら、プラハ本駅に到着するまでに最後の直前までを聴いていた。
 とりたてての主張があるわけでもない、新保祐司とは異なる、スメタナの曲についての感想だ。

1151/自主憲法制定と維新の会・橋下徹、橋下徹をヒトラ-扱いした新保祐司。

 一 日本維新の会は11/29発表の衆院選公約「骨太2013-2016」で「自主憲法の制定」を明記したようだ。
 おそらくは現憲法の改正というかたちをとると思われる「自主憲法の制定」をし、「…軍その他の戦力」を保持しないと明記する現9条2項を削除して正式に「国防軍」または「自衛軍」(前者の方がよいだろうといつぞや書いた)を保持するようにしてこそ、中国・同共産党とより強く対決できるし、アメリカに対する自主性も高めることができる、と考えられる。「自主憲法の制定」は、<戦後レジ-ムからの脱却>の重要な、かつ不可欠の徴表であるに違いない。
 今から10年以内に、ということは2022年末までに、現9条改正を含む「自主憲法の制定」ができないようでは、「日本」はずるずると低迷し、やがて<消滅>してしまう、という懸念をもつ。
 来月の総選挙を除いて3~4回の総選挙があるだろう。2013、2016、2019、2022年には参議院選挙がある。最も遅くて、2022年には改正の発議と国民投票が行われなければならない。
 先立って改正の発議条件を2/3以上から過半数に改正しようとの主張も有力にあるようだが、それをするにしても、国会各議院の議員の2/3以上の賛成が必要だ。
 問題は、したがって、どのようにして憲法改正賛成2/3以上の勢力を国会内に作るか、にある。
 かりに自民党が第一党になり維新の会がかなりの議席を獲得したとしても、来月の総選挙の結果として憲法改正派2/3以上の勢力が衆議院の中にできるとは想定しがたい(この予測が外れれば結構なことだ)。
 従って、何回かの総選挙、参議院選挙を通じて、徐々に各院で2/3以上になるように粘り強く闘っていくしかない。
 改憲案をもつ自民党以外に(必ずしも改憲内容は明確でないが)「自主憲法制定」を目指すとする日本維新の会が誕生していることは貴重なことだ。これに加えて、現在の新党改革やみんなの党の他、現民主党内の松原仁のような「保守」派をも結集して、何とかして2/3以上の勢力確保を達成しなければならない。
 二 かかる時代状況の中で、日本維新の会の要職(代表代行)を占める橋下徹を「きわめて危険な政治家」などと評していたのでは(月刊正論編集長・桑原聡)話にならない。
 ましてや、純然たる「左翼」ならばともかく、橋下徹を「ファシスト」と呼んで攻撃している(自称)保守派がいるのだから、「自主憲法制定」への径は険しいと感じざるを得ないし、そのような感覚を誤った保守派らしき者は、改憲への闘いを混乱させるだけだろう。
 新保祐司は産経新聞「正論」欄に登場するなど<保守派>らしいが、産経新聞社発行・桑原聡編集長の月刊正論の2012年6月号の遠藤浩一との対談の中で、橋下徹の言動を眺めて小林秀雄「ヒットラアと悪魔」を思い出した、「やはりヒトラ-の登場時とよく似ている」、ヒトラ-と同様に「高を括れるような人物じゃない」、「橋下ブ-ムは、構造改革のどん詰まりに咲いた徒花」かもしれない、等と語っている(p.139-140、p.143)。
 欧州ではヒトラ-呼ばわり、ファシストとの形容は最大限の悪罵の言葉で、通常は用いないのが良識的な人間らしいが、新保祐司は、実質的に、橋下徹を「ヒトラ-」呼ばわりしている(なお、最初に読売の渡邊恒雄が橋下徹を「ファシスト」と呼び、遠慮していた者たちも安心してその語を使うようになったとか何かで読んだが、確認できない)。
 それはともかく、そのような新保祐司を、あるいはかつてこの欄で批判的に記したように<旧かなづかひ>を使った憲法改正でないと真の憲法改正とは言えない旨を「正論」欄で述べていた新保祐司の諸写真を、月刊正論の2012年9月号の「私の写真館」でとりあげ、まるでまともな保守派知識人のごとく扱っている月刊正論の編集方針もまた、きわめて奇怪なもので、ある意味では「奇観」ですらある。
 現実に「自主憲法の制定」が叶わなくとも、マスコミ人として、文筆業者として、あるいは国会議員としてすら、それなりに、そこそこに現状が保たれればよい、ささやかな「既得権」が守られればよい、と思っている保守派の者たちもいるのだろう。
 大切なのは言葉や観念ではない。綺麗事の世界ではない。現実に国会内に改憲勢力を作り出していくことだ。それこそ<小異を捨てて大同につく>姿勢で、真に<戦後体制の終焉>を意欲する者たちは結集する必要がある。
 三 なお、面白くもない話題だから書かないできているが、上の対談を読んで、遠藤浩一という大学教授はひどいものだと感じ、それまでのこの人の論調へのかなりの共感も、すっかり消え失せた。遠藤自身はよく憶えているだろう。同時期の別の雑誌上では橋下徹による憲法改正の可能性をいくつかの条件をつけつつ肯定的に叙述しながら(この点はこの欄で記したことがある)、上の対談では橋下徹の登場等による政治状況を「厄介な事態だなぁ」と感じるのが「正直」なところだ(p.136)などと述べつつ、新保祐司に同調する多々の発言をしている。編集者からの依頼内容によって、どのようにでも(ほぼ真反対の内容でも)書き、語るというのが、この拓殖大学教授のしていることなのだ。
 四 というわけで、自主憲法制定への道は紆余曲折せざるをえないと思われる。しかし、日本維新の会代表・石原のほか、佐々淳行など、保守派の中ではどちらかというと政治・行政実務の経験者の中に橋下徹支持者または期待者が多いのは興味深いし、心強いことだ。安倍晋三もこれに含めてよいかもしれない。
 政治・行政の経験者である岡崎久彦も、産経新聞11/28の「『戦後レジーム脱却』に、再び」と題する「正論」欄の中で、「教育基本法の、教育の現場における徹底は安倍内閣の課題であるが、これについては、今や日本維新の会が大阪における実績によって頼もしい友党となっている。これには期待できよう」と述べて、教育行政分野に限ってにせよ、大阪維新の会・橋下徹に好意的な評価を寄せている。
 中島岳志、適菜収らの保守とも「左翼」ともつかない売文業者は勿論だが、桑原聡らの出版業界人や新保祐司らの自称保守論者もいる中で、まともな保守派論客もいることを将来への希望がまだあることを確認するためにも、記しておきたい。
 

1145/石原新党と橋下徹・維新の会-憲法「破棄」か否かで対立するな。

 1 石原慎太郎、都知事辞職、新党結成・代表就任・総選挙立候補を表明。
 これについての、みんなの党・渡辺某と比べて、維新の会の国会議員団代表・松野頼久の反応ないしコメントの方がよかった。自民党も含めて「近いうち」の衆議院選挙の結果はむろんまだ不明だが、連携・協力の余地は十分に残しておいた方がよい。
 2 石原慎太郎と橋下徹(・維新の会)との違いの一つは、現憲法の見方にあり、石原は憲法<破棄>論であるのに対して、橋下は<改正>論である、らしい。つまり、石原は、渡部昇一の影響を受けてか、現憲法を<無効>と考えているのに対して、橋下は<有効>であることを前提にしているようだ(彼らの発言を厳密にフォローすることを省略するので、<ようだ>と記しておく)。
 おそらくこの違いもあるのだろう、橋下徹は、代表を務める日本維新の会の「傘下」にあるはずの東京維新の会の東京都議会議員が「憲法破棄」・旧かな遣いの大日本帝国憲法復活の請願に賛成したことについて、大きく問題視はしないとしつつも、クレームをつけた、という(10/09。都議会全体としては請願を否決)。
 石原慎太郎が産経新聞紙上で述べていた「憲法破棄」論については、この欄で疑問視したので子細を反復しないが、橋下徹の「憲法改正」論の方が適切だ。現実性はないと思うが、かりに国会で「憲法破棄」決議をしたところで法的には無意味で、そのことによって大日本帝国憲法が復活するわけでもない。国会についてすらそうで、現憲法によってはじめて府県レベルでも設置することとされた住民公選議員により構成される都道府県議会が、橋下も言っていたように、現憲法「破棄」決議をする権限はなく、かりに決議または請願採択をしてもまったく無意味だ。
 3 上のことをとくに指摘しておきたいのではない。あとでも触れるかもしれないが、この問題は今日ではほとんど決着済みの、議論する必要がないと思われる論点だ。
 なぜあえてこの論点に触れているかというと、この問題についての石原新党と維新の会の違いが強調されまたはクローズアップされて、両党の連携に支障が生じることを、あるいは支障の程度が大きくなることを危惧しているからだ。
 安部晋三内閣時代に2007年に成立しのちに施行された憲法改正手続法=正確には「日本国憲法の改正手続に関する法律」は、名称どおり、現憲法の有効性を前提にして、同96条によるその「改正」のための国民投票等の手続を定めたものだ。自民党の第一次、第二次の新憲法案も<憲法改正案>であり、ずっと前の読売新聞案も同様だったかと記憶する。
 橋下徹は 「日本維新の会としての方針としては、憲法破棄という方針はとらない。あくまで改正手続きをとっていく。理論上は憲法破棄ということも成り立ちうるのかもしれないが、その後現実的に積み重ねられてきた事実をもとにすると、簡単に憲法について破棄、という方法はとれないのではないのか」と発言したらしい。この発言のとおり、「理論上は憲法破棄ということも成り立ちうるのかもしれない」とかりにしても、上のような法律が安部晋三の新憲法制定の意欲のもとに作られ、重要な「改正案」も発表されているのであり、石原慎太郎・石原新党は、政治的・現実的に判断し、<憲法破棄>論に拘泥すべきではない、だろう。実質的に日本国民による新憲法の制定がなされる方向で、両党(と自民党)は連携・協力すべきだ。
 4 上の論点についての見解の相違が<保守勢力の結集>を妨げるようなことがあってはならない。
 この点、産経新聞(社)はどういう立場を採っているのだろうか。
 上記のように維新の会・東京都議会議員団は旧かな遣いの憲法に戻したいようだが、この主張およびそのもととなった都民の請願が産経新聞「正論」欄に掲載された新保祐司のそれの影響を受けているとすると、新保祐司と産経新聞は、極論すれば<保守派>の中に分裂を持ち込むものだ。そして、国民の過半数の支持による新憲法制定を妨害する役割を客観的には果たすものだ。また、石原の<憲法破棄論>が渡部昇一らの<現憲法無効論>の影響を受けているか支えの一つになっているのだとすると、渡部昇一らの議論もまた、極論すれば<保守派>の中に分裂を持ち込むものだ。そして、国民の過半数の支持による新憲法制定を妨害する役割を客観的には果たすものだ。
 念のため確かめてみると、産経新聞社に置かれたという数名による委員会の議論について、同新聞は「新憲法起草」とか「国民の憲法」起草とかと見出しを立てていて、<改正>と明記していないようだ。つまり、<破棄>論に配慮したとも解釈できる言葉遣いを採用しているように見える。
 また、「産経新聞出版」ではなく産経新聞社発行の月刊雑誌・正論(編集長・桑原聡)の今年8月号p.232-は、渡部昇一と大原康男の「対論/改正か無効か~日本が『日本』であるための憲法論」を掲載して、「改正か無効か」が大きな論点であるかのごとくとりあげている。この問題に関心を持つことや月刊正論上で取り上げること自体を批判はしないが、このとり上げ方は、月刊正論、そして産経新聞が少なくとも<憲法無効・破棄論>を一顧だにしないという立場ではない、ということを示しているだろう。
 また、上の二人のうち大原は実質的には有効・改正論者だと読めるが、大原が渡部に敬意を表して遠慮しているせいか、法学に「素人」だと自認している渡部にしゃべらせ過ぎており(大原は京都大学法学部卒でもある)、<憲法無効・破棄論>の無意味さを明確にするものには(私には残念ながら)なっていない。
 こうしたことも併せ考えると、産経新聞社・月刊正論(編集長・桑原聡)は、石原・同新党と橋下・維新の会の協力・連携を阻害する役割を果たしている可能性、そして今後も果たす可能性があると危惧される。
 月刊正論の編集長・桑原聡は橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと判断しているので、上の両党の協力・連携が阻害されるのは、少なくとも桑原聡の意図には即しているのかもしれない
 だが、産経新聞も月刊正論も少なくとも強くは批判していない安部晋三・現自民党総裁は、憲法改正のためには橋下徹・維新の会と連携する必要がある、あるいはそういう時期が来る可能性がある、という旨を発言している。橋下徹が現憲法96条の要件緩和に賛成していることは周知のことだ。
 大局を見ない、または国民の過半数の支持という重要なハードルを考慮しない主張や議論は(旧仮名遣い復活論も含めて)、新憲法の制定に賛成する立場の新聞や雑誌からは排されるべきだ。 
 5 <憲法無効・破棄論>はむろん、自民党の立場でもないと考えられる。この論に固執することは、石原新党と自民党との対立も深めることとなり、<保守派の結集あるいは連携・協力>を妨げることとなるだろう。自民党全体を<リベラル>または「左翼」と考えるならば話は別だが。

 憲法「破棄」論に立ち、<旧かな遣い>の憲法に戻すべきだ、という見解こそが「真の保守」だ、などという大きな、かつ危険な勘違いをしてはいけない。
 なお、中島岳志のごとき、現憲法9条改正(2項削除・国防軍明記)反対論は、言うまでもなく「保守派」のそれではない。
 6 上の渡部・大原対論も含めて、産経新聞や月刊正論の記事・主張・議論に、この欄で最近はほとんど言及していない。だからといって、何の感想も持っていないわけではない。以上で書いたものの中には、その一部は含まれているだろう。

1127/文芸批評家・新保祐司のユニークな憲法改正(新憲法制定)論。

 〇産経新聞5/08の「正論」欄で「文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司」の「憲法と私/日本人の精神的欺瞞を問いたい」を読んで、かつて文章のヒドさを指摘したことのある文芸評論家兼大学教授らしき者がいたが、誰だったのだろうと思い返した。1000回以上も書いていると、自分の文章であっても少なくとも詳細・細目は忘れてしまっているのがほとんどだ。
 調べてみると、やはり、批判した文章(「正論」欄)は新保祐司のものだった。
 1年も経っていない、昨年の8/09に、新保の産経新聞7/05の文章を批判し、8/17に簡単にポイントを再述している。
 後者によると、こうだ。引用する。  「新保祐司の産経7/05『正論』欄は、『戦後体制』または『戦後民主主義』を『A』と略記して簡潔にいえば、大震災を機に①Aは終わった、②Aはまだ続いている、③Aは終わるだろう(終わるのは「間違いない」)、④Aを終わらせるべきだ、ということを同時に書いている。レトリックの問題だなどと釈明することはできない、『論理』・『論旨』の破綻を看取すべきだ(私は看取する)」。
 こういう批判を受けながらも、大学教授先生、文芸評論家様は、依然として、産経新聞で「正論」をぶっていたようだ。あるいは、産経新聞は、そのような機会を、よく読めば訳の分からないことを書いている人物に与えていたようだ。
 〇今年5/08の上記の新保の「正論」には、文章ではなく、内容的な疑問を大いに持つ。
 新保の主張の要点は、新憲法の「本質を左右する根本的な」のは「形式に関わる問題」で、①新憲法は「歴史的かなづかひ」で書かれるべき、②新憲法は2/11の紀元節(建国記念日)に発布されるべき、ということだ。
 上の②にとくに反対はしないが、強く拘泥する問題でもないだろうと私は考えている。なお、現憲法は昭和天皇によって「公布せしめ」られたものであり、現憲法7条1号によれば、憲法改正は天皇によって「公布」される。新憲法制定が現憲法改正のかたちをとるかぎりは(その可能性がきわめて高いだろう)、「発布」ではなく「公布」という語が選ばれるだろう。これくらいのことは、知っておいた方がよい。
 問題なのは上の①だ。この点にこだわり、「歴史的かなづかひ」の条文でないと憲法改正または新憲法制定を許さない、という主張を貫徹するとすれば、憲法改正・新憲法制定はおそらく不可能になるだろう。なぜなら、もはやほとんどの国民が「歴史的かなづかひ」を読めないか理解できない可能性が高いからだ。いわゆる現代かなづかいの新憲法案と「歴史的かなづかひ」の同案を同時に示されれば、条文内容が同じであれば、ほとんどの国民が現代かなづかいの方を選択するのではないか。
 それではだめなのだ、ということを新保は主張したいのだろうが、その主張を貫きたければ、何年先の将来になるのか分からないが、新保には、現代仮名遣いの憲法改正・新憲法制定案に、その点を根拠とする「反対」の清き一票を投じていただく他はないだろう。
 新保の主張はもはや時代錯誤的で、現代仮名遣いによる教育が半世紀以上続いた、という現実を(頭の中で)無視している。頭の中・観念のレベルではいくらでも<元に戻せる>が、現実はそう旨くはいかない。
 それに、最近に自民党の新憲法改正案等が出され、いずれの案も「現代かなづかい」によっていることは、新保も知っている筈だ。上の文章を書くに際して、何故、自民党等の案が「歴史的かなづかひ」によっていないことを、強く批判しないのか
 また、「歴史的かなづかひ」が学校教育で教えられておらず、学んでいない国民が今やほとんどだという現実を、新保も知っている筈だ。新保は何故、学校教育(>義務教育)における「歴史的かなづかひ」教育導入の必要性や成人に対する「歴史的かなづかひ」教育(・研修?)の必要性を、具体的に強く主張しないのか
 ただ自己満足的に言っておきたいだけで、現実に少しでも影響を与えるつもりがないのならば、わざわざ「正論」欄に書くな、と言いたい。
 もともと興味深いのは、新憲法(憲法改正)の内容よりも、新保は「形式」が重要だ、と主張していることだ。より正確には、新保は最後にこう書いている-「逆にいえば、新憲法が『歴史的かなづかひ』で書かれ、建国記念の日に発布されれば、それだけでも新憲法の精神の核心は発揮されているというべきである」。
 きわめてユニークな主張だ。
 <「戦後民主主義」という「日本人の精神的欺瞞」こそまずは徹底的に問われるべきで、その厳しい過程を経ない限り、憲法の自主制定はできない。「議論百出の果てに、せいぜい、現行憲法の一部(例えば9条とか)の改正にとどまってしまうのではないか」>という観点から、「精神的欺瞞」を克服して新しく「内発的」に新憲法の制定をするためにも、上の二つの「形式」が重要だ、と新保は言う。
 気分・情緒は理解できなくはないが、この主張を推し進めると、例えば、現憲法九条二項の削除・国防軍の設置といった現九条の改正がなくとも、新保のいう二つの「形式」さえ満たせば、「それだけでも新憲法の精神の核心は発揮されている」ということになってしまう。
 上の①は現実的には不可能と見られる(実現されそうにない)主張なのだが、それをさておいても、いかなる内容の改正(新憲法制定)かを問題にしない憲法改正・新憲法制定議論は、今日的にはほとんど無意味だと思われる。
 新保祐司にどのような「文芸評論家」としての実績があるのかを全く知らないのだが、さすがに「文芸」畑の人は、面白い憲法論を(まじめに)展開するなぁ、というのが率直な感想だ。

1037/「戦後」は終わった(御厨貴)のか?

 再述になるが、新保祐司の産経7/05「正論」欄は、「戦後体制」または「戦後民主主義」を「A」と略記して簡潔にいえば、大震災を機に①Aは終わった、②Aはまだ続いている、③Aは終わるだろう(終わるのは「間違いない」)、④Aを終わらせるべきだ、ということを同時に書いている。レトリックの問題だなどと釈明することはできない、「論理」・「論旨」の破綻を看取すべきだ(私は看取する)。
 上の点はともあれ、東日本大震災発生によって「戦後」は終わり、「災後」が始まった、ということを最初に述べたのは、菅直人に嫌われてはいない、東京大学教授・御厨貴だったようだ(月刊文藝春秋?)。
 たしかに「災後」ではあるが、「戦後」はまだ終わってはいない、というのが私の認識だ。
 井上寿一は産経8/03の「正論」欄の中で、「『8月15日』から始まった戦後日本の歴史のサイクルは『3月11日』に終わった」という一文を挿入している。「戦後日本の歴史のサイクル」という表現の意味が必ずしもよく判らないので断定できないが、3/11を戦後日本の最大の画期の如く(御厨貴と同様に?)理解しているとすれば、支持することはできない。
 今年の3/11を語るならば、1993年の細川護煕を首相とする非自民連立内閣の成立も、その翌年94年の村山富市を首相とする自社さ連立政権の成立も、大きな歴史の画期だった。これらよりも重要な画期は、2009年総選挙後の民主党「左翼・売国」政権の誕生だったかもしれない。これらの内閣の変遷から視野を外しても、1995年のオウム事件・サリン事件は、戦後「民主主義と自由主義(個人主義)」の行き着いたところを示した、とも言いうる(当時にそんな論評はたくさんあったのではないか)。
 誰でも自分が経験した目下の事象を(たんなる個人的にではない)社会的・歴史的に重要に意味を持つものと理解したがる傾向にあるかもしれないが、今年の3/11をもって「戦後」が終わったなどと論じるのは(あるいはそういう時代認識を示すのは)、「戦後」はまだ続いている、ということを糊塗・隠蔽する機能をもつ、犯罪的な言論だと考える。
 1947年日本国憲法はまだ存続している。自衛隊の憲法上の位置づけに関する議論に画期的な変化が生じたわけではない。日米安全保障条約もそのままだ。なぜ、「戦後の終焉」を語ることができるのか。
 3/11を機会に、「戦後レジーム」の終焉へと、あるいは憲法改正へとさらに奮闘すべきだ、という議論ならば分かる。
 だが、「なすべき」次元の目標と客観的な現実とを混同してはならない。
 根拠論考が(今の時点で)定かでないので引用し難いが、佐伯啓思は、この度の大震災を「戦後」の終わりを超えた、<近代>または(原発に象徴される)<近代文明>の終焉を示すもの(それの限界・欠陥を示すもの)と理解しているように見える(とりあえずは関係文献を参照要求できないが)。
 かりに上のことがあたっているとすれば、反論は可能だ。
 専門家ではないが、ニーチェ、キェルケゴールらは「近代」の限界・欠陥を強く意識したとされる。それは19世紀末だ。グスタフ・クリムトらの<世紀末>芸術運動も時期的には重なっている。何よりも、その後の第一次「世界」大戦こそがすでに、「近代」の終わりの象徴だったのではないか。第二次大戦の勃発も同様かもしれないが、その戦争の最後に「核兵器」が使われて十万人以上が一瞬にして生命を剥奪された、ということはまさしく「近代」(文明)の終わりそのものではなかったのだろうか。もう少し後にずらしても、1989年以降のソビエト解体・東欧「社会主義」諸国の終焉もまた、「近代」の終焉の徴表と理解することが不可能ではない。
 「近代(文明)」の終わりなるものは、もう100年にわたって続いているのではないか? ついでながら、アンドロイド・スマートフォンとやらを含む近年のIT技術の深化・変容は、どのように歴史的に(文明史的に)位置づけられるのだろうか。
 といったわけで、佐伯啓思のいくつかの文章をまじめに(?)読んではいるが(産経新聞、月刊正論、雑誌「表現者」内のものであれば必ず読む。ウェッジを買ったときまたは東海道新幹線のグリーン・カーを利用したときも読む(但し、連載は最終回を迎えた))、全面的に賛同しているわけではない。
 余計ながら、最近のサピオ(小学館)で小林よしのりが、佐伯啓思の産経新聞6/20の佐伯「日の蔭りの中で/原発事故の意味するもの」を、佐伯啓思が<反原発>に立つものとして「さすが」と高く評価している。そのように<反原発>論者に理解されて、佐伯は不満を感じないのだろうか。

1032/新保祐司の産経7/05「正論」-文芸評論家は文章に「厳密」か?

 産経新聞7/05の「正論」欄の、新保祐司の論考。「文芸批評家」等の肩書きで、文学部畑だろう。少なくとも、法学部出身者ではないだろう。
 「決起」と天皇との関係に関する三島由紀夫と福田恆存の対談内容の一部についても感じたことだが、「法的」思考の残る三島と<勝ってしまえば法的理屈など後からどうにでもつく>旨を語っていた福田とを較べれば、やはり法学部出身者でもあった三島由紀夫の思考方法になじみがある。三島由紀夫は<法的連続性>あるいは<法的正当性>というものを意識していたと思われる。
 以上は以下に書くことと直接の関係はない。ただ、「文芸」評論家なるものにあまり信頼を置いていない、という日頃の感想を記しただけだ。さらに贅言すれば、石原慎太郎は小説も書き文芸評論のようなこともしているが、法学部出身で、かつ国会議員でもあったし、さらには東京都知事という<行政実務>すら経験し、熟知している。たんなる文芸評論家や大学教授の言よりは、総じていって、石原慎太郎の発言の方に信を寄せたい(と書きつつも、あまりこの欄で取り上げていないが)。
 さて、上記の新保祐司論考についてだが、違和感があるし、また文章・「論理」も相当に奇妙なのではないか。
 ①新保によると、3月大震災以降の「今日」・「現在」において、日本人の生き方の根本的見直しが必要になっているが、それは、「戦後的な国家観や人間観は、破綻したからである」。
 また、新保によると、「東日本大震災は、まさに時代を画するものであり、『戦後民主主義』の息の根を止める威力を持つものであった」。
 以上は、(自らが客観的な事実だとするところの)客観的な「認識」の叙述のはずだ。つまり、新保において、「戦後的な国家観や人間観」は「破綻」し、「戦後民主主義」は「息の根を止め」られた、と認識されているのだ(直接引用のとおりで、そう理解して誤っていないはずだ)。
 ②しかるに、新保はこうも書く。「戦後民主主義」に対する批判あったし、「戦後レジームからの脱却」を唱えた政治家もいたが、「『戦後民主主義』というものはなかなかしぶとく、結局、今日まで慣性の法則で惰性的に続いている」。
 あれれ? 「戦後的な国家観」等は「破綻」し、「戦後民主主義」は息の根を止められたのではなかったのか? ①とは矛盾する「認識」が叙述されている。
 ③さらに、新保はこういう書き方もする-大震災が「結果として『戦後民主主義』を終わらせることになるのは間違いない」。
 これは、主観的要素を含まざるをえないと通常は考えられる、<将来予測>だ。
 ④つぎを読んで、ますます(少なくとも私は)混乱する。新保はこうも書く-「この非常時には、それを支えてきた現行憲法や戦後的な諸制度が虚妄であることが暴露された……。だから、『戦後民主主義』はできる限り早急に退場すべきである」。
 これは<将来予測>でもなく、現時点での<べき>論を語っている。新保の主観において、「戦後民主主義」を「退場」させるべく、彼や読者(国民)は努力あるいは運動す「べき」なのだ(そう理解して、大きく誤っているとは思えない)。
 何となく感じられる言いたいだろうことの当否は別として、上のような、「論理」の次元の異なる、率直に言って<矛盾した>文章を読まされると、とてもついていけない。
 「文芸評論家」だから許される、というものではないはずだ。むしろ「評論家」を名乗るからには、一体何を言っているのかを、曖昧にして言外に覚らせるようなことをすることなく(これにも失敗しているが)、明確にすべきだ。
 A客観的な現在の事実・事態の「認識」と、B将来の事実の「予測」とC現在から将来にかけてこう「あるべき」・「すべき」という論とは、それぞれ別のものであり、明確に区別すべきだ。
 これらの混淆した文章を一流の?新聞で読まされたのでは、たまったものではない。
 かつて習ったものだ。Sein (存在)と Sollen(当為) の区別を知らなければならない。二つのいずれを語っているかを理解しなければならず、自ら語る(叙述する)場合には、二つのいずれの次元の問題を扱っているかを明瞭にしておかねばならない。
 「戦後体制」・「戦後民主主義」は終焉しておらず、なおも続いている。その点では、大震災自体が画期になるものではない。かかる「認識」にかかわって他に言及したいこともあったが、長くなったのでやめる。
  

0390/読書履歴2/11付。佐伯啓思・福田恆在ら。

 たぶん2/07夜に、佐伯啓思・イデオロギー/脱イデオロギー(岩波、1995)を全読了。同・現代日本のイデオロギーは未読の部分がまだある。
 2/09夜に福田恆存・同評論集第八巻(麗澤大学出版会、2007)の一部を読む。
 既読の月刊正論3月号(産経)の新保祐司「伝統を大切にするという事」は、保守とは、たんに「守る」のではなくつねに「伝統を新鮮にし、蘇らせ」る営為だ(p.99)、旨の主張をしているようだ。反対はしないが、しかし、現在の日本と日本人にとっての「伝統」とはそもそも何なのか。この点を明瞭にしてもらわないと隔靴掻痒の感あり(この人の他の文章は読んだことがない)。
 戦後60年余、現在70歳(1937~38年生)未満の者は、ほとんど又は全く、戦後教育しか受けず、戦後の空気しか吸っていない。<戦後民主主義>もまた(あるいはこれこそが)、<保守>すべき日本の<伝統>と考えている(又は感じている)人々が既に多数いるのではないか。

ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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