秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

文藝春秋

2447/西尾幹二批判035—「日本に迫る最大の危機」。

  西尾幹二の諸君!2008年12月号によると、日本の「論壇誌」は「イデオロギー」に嵌まらないで、「現実」に目を開き、「現実」を回復しなければならない。
 しかし、まさにその同じ論考の中で、雅子皇太子妃(当時)に関する「現実」をおそらくは完全に無視する文章を書いている。
 西尾によると、「自分の好むひとつの小さな現実を見て、他のすべての現実に目を閉ざそうとする怠惰な心の傾き」がイデオロギーの意味のようなのだが、この「怠惰な心の傾き」は、西尾幹二にも厳然と存在するようだ。
 西尾は、皇室問題での自分の主張を非難する二つの立場について、こう反駁する。
 「二つの立場の、どちらも方々も、あれほど明白になっている東宮家の危機を、いっさい考慮にいれないのです。
 問題は何もない、と言い張るのです。
 目を閉ざしてしまうのです。」
 <危機>というのは評価または解釈が混じる言葉だ。では、<日本に迫る最大の危機>という中見出しのあとのつぎの文章はどうだろうか。
 「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける。
 というか、明確に拒否されて、すでに五年がたっている。
 <見受ける>だけだと、厳密には、あくまで「推測」なのかもしれない、とも言える。
 しかし、上を全体として読むと、<雅子妃は宮中祭祀を『なさる』意思がなく、拒否し続けている>ということを、西尾が「事実」または「現実」だと受け取っていることは明確だろう。
 なお、その原因にはここでは西尾はいっさい触れていない。
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  元に戻って記すと、西尾『皇太子さまへの御忠言』による「提言」は、西尾によると「典型的な二種類の反応」を惹起した。
 一つは、多くの選択権・無制約をよしとする「いわば平和主義的、現状維持的イデオロギー」で、将来の皇后にも「もっと自由を」、「新しいご公務を」、とするもの。
 もう一つは「むしろ古風な、がちがちに硬直した、皇室至上主義的イデオロギー」で、例えば「臣下の身」で「不敬の極み」だとするもの。自称「旧皇族」から国学院大・皇學館大学の教授まで、「伝統保守イデオロギー」からの反発も「熾烈」だった。
 これら二つ、一方は「新しい時代の自由」、他方は「旧習墨守」という「固定観念への執着」を見て、西尾幹二はこう感じた、という。
 「私は思わず笑いがこみあげてきました」。
 そのあと、既述の「あれほど明白になっている東宮家の危機」をめぐって、「自由派」も「伝統派」も、「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいい」、「自分たちの観念や信条の方が大切なのです」と批判する。
 「論壇誌」に対しては、あらためてこう指弾する。
 「イデオロギーに頼って『ことなかれ主義』に手を貸し、揺れ動く世界の現実から目を逸らしているうちに、日本に迫る最大の危機すら曖昧になってしまう
 それが今の雑誌ジャーナリズムを覆う、いちばんの病弊なのではないですか。」
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  西尾幹二の議論が雅子皇太子妃に宮中祭祀を「なさる」意思がなく、それを拒否している、という西尾にとっての「現実」から出発していることは疑い得ない。
 その理由は一般に「ご病気」とされていたが、西尾の別の発言によるとそれは「仮病」だ。そのような「行動と思想」をもつ人物が将来に皇后になるかもしれない、これは「日本に迫る最大の危機」だ、そのような危険性を、「自由派」も「伝統派」も見ていない(自分はちゃんと見ている)、というわけだ。
 その後の事態の推移をも踏まえてということにはなるが、詳細は省いて、西尾幹二の以上のような指摘・主張は、いささか異様、異常ではないだろうか。
 「つくる会」分裂後の八木秀次に対する「人格攻撃」も凄いものだったが、皇太子妃問題をめぐって自分を批判する両派に対する反批判も、なかなかのものだ。
 「私は思わず笑いがこみあげてきました」。
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  ところで、西尾は、皇太子妃の宮中祭祀を「なさる」意思の欠如を問題にしている。
 ここでは、皇太子妃も宮中祭祀を「行う」主体の一人であることが前提とされている。このような表現をする点は、天皇退位問題に関する「5バカ」の一人、妄言者の加地伸行も同じ。
 そうだとすると、少なくとも天皇・皇后、皇太子・同妃の四名は、宮中祭祀の場所である宮中三殿で、全員で一緒に?、三殿またはいずれかの「殿」の祭神に対して「祭祀」を行う、ということなのだろうか。
 西尾幹二は、宮中祭祀とはどういうものであるのか、その際に皇太子妃はどうある「べき」かをいったい何がどのように定めているのか、正確に知っているのだろうか。明治時代、大正時代、さらには「皇太子妃」がいたとして江戸時代とそれより以前は、どうだったのか?
 不十分な理解のままであったとすれば、西尾の議論のほとんど全てが、ガラガラと崩れることになるだろう。
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  ついでに。この西尾論考は、諸君!12月号の実質的には巻頭に置かれている。
 月刊雑誌・諸君!は、その後一年以内に廃刊となった。以上のような西尾論考を重視したこととその反応は、小川榮太郎が新潮45(新潮社)の廃刊の引き金を引いた程ではかりにないとしても、諸君!編集部と文藝春秋の判断に影響を与えたのではなかろうか。
 また、西尾も明記するように、<保守>派内でも異論があり、西尾幹二(や中西輝政)はその中でも少数派だっただろう。
 いずれにせよ、<保守>派内に亀裂を生んだことは間違いない。
 翌2009年8月末実施の総選挙で自民党は大敗し、政権は民主党に移る。
 西尾幹二に限らないが、<保守>派論者はいったい何をしていたのだろう。政権交替は、自民党だけの「責任」ではあるまい。
 雅子皇太子妃・皇室問題が「日本に迫る最大の危機」だと!?
 西尾幹二は、「ねごと」を書いていたのだ。他にも多数書いている(編集者はきちんと読むべし)。
 それにもかかわらず、産経新聞出版(編集者・瀬尾友子)、新潮社(同・冨澤祥郎)、筑摩書房(同・湯原法史)らは、近年にも西尾の本を出版している。こちらも、大いに不思議だ。
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2415/西尾幹二批判030。

  西尾幹二が2005年初めに、面白いことを書いていた。
 このとき、首相は小泉純一郎、「つくる会」はまだ分裂していなかった。
 同「行動家・福田恆存の精神を今に生かす」諸君!2005年2月号(文藝春秋)196頁以下。
 2004年11月の講演「福田恆存の哲学」(福田没後10年記念講演)を「大幅に加筆した」ものらしい。
 2017年になって西尾が福田恆存には「反共」だけがあって「反米」がなかった、と語ったこととの関係等には今回は立ち入らない。関連部分はあるが、この2004-5年時点では、この旨の明記はいっさい存在しない。福田の晩年から西尾は福田から<離れた>、という旨は書いている。
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  興味深いのは、「知識人」論だ。
 1 福田恆存の「知識人」批判を肯定的に評価し、かつ西尾自身の言葉で敷衍しているのだが、福田の「知識人」批判を、ーある論考からーこう簡単にまとめる。
 福田は、「日本の知識階級の政治的権力から外された精神主義の歪み、政治の悪を自ら犯せない立場にある教養人の卑屈な自尊の心のなかに潜む反体制、反政府心理に、弱者の宗教の見果てぬ夢と同じものを見届けました」。
 2 上も福田の引用ではなく西尾の文章だが、直後に、西尾自身の見解のごとく、つぎのように書いている。一文ごとに改行する。
 「知識人は日本の社会のなかで選ばれた民ー選民でありました。
 文士や学者は自己表現という欲望を満たす特権を与えられて来ました。
 これは大事なポイントになりますからよく聞いてください。
 自己表現とは権力欲の一面です。
 その自己表現にそこはかとなく漂う自己英雄視に『知識人』は気がついているのか。
 実行よりも芸術を、政治よりも文学を主張する、閉ざされた精神をつくって、大衆を見下し、政治権力にひたすら悪の烙印を押して、自らを中間に置いて純潔と見る一種の自己神聖化。
 日本の純文学意識や学者知識人の教養主義は、このような精神に毒されていなかったでしょうか。」
 3 そして、このような「知識人」の時代は「今もなおそう」だが、「完全に終わったと」福田は「告げ知らせている」ようだ、とする。
 「『知識人』の社会的関心とは要するに日本の現状をいつもシニカルに批判することと同義であり、自らが国家を担おうとする昂然たる気概、責任感情を持っていません。
 『知識人』はつねに弱者のねじくれた卑屈な復讐心理につき動かされてきています。
 そして閉ざされた自己英雄視の内部で鬱屈し、健全な一般社会に毒ある言葉を偉そうに上からまき散らしてきましたし、今もなおそうです。
 もうその時代は完全に終わった、と福田氏の批判は告げ知らせているように思います。」
 4 このあと、「今の日本」について語られるが、まとめて引用したり要約的叙述を見出すのは困難だ。「保守」への言及もある長い文章から、気のつく断片を抜粋しよう。
 「ふと気がつくと、今の日本において、福田氏が指弾した知識人の自己欺瞞は、もはやすでに、知識人の自己欺瞞ではなくて、国民一般大衆の自己欺瞞となってしまいました」。
 福田が「知識人に当てはめた思考の枠は、もはや存在しません。なぜなら特権を持った知識人など今どこにも存在しないからです」。
 福田の予言は当たった。「誰もが氏と同じ現実戦略を気楽に語るようになりました。同じような保守的思想が世に溢れ、言葉だけ気やすく語って、現実を変えようとする激しい意思がない点においても、あの当時と何にも変わっておりません」。
 「昭和35年の当時、福田氏が」「嘲った進歩的知識人とは、たしかに違った世界観を今の多くの学者知識人、読書階級は言葉にしている」。しかし、「気休めの希望の見取り図を作成して、現実を改変しようとする意思のないこと、…ことにおいて、今日の保守的言論人の言葉もまた『お呪い』か『呪文』めいたものであって、言葉のための言葉、その無意味さ、ナンセンスさ、無力さ、これはあの当時の進歩的知識人と何も変わっていないのであります」。
 「…、保守的言論は世を風靡しておりますが、それでいて平和、民主主義、平等、自由への安易な信仰が政治や教育を現実に歪めている程度は、福田氏の生きていた時代よりもはるかに悪化しているということが起こっている」。
 以上、p.217-p.220.
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  さて、西尾幹二は福田恆存が批判した「特権を持った知識人」は「今どこにも存在しない」、と明記している。
 しかし、西尾自身の言葉として、「今の多くの学者知識人、読書階級」とか、「保守的言論人」とかを用いている。
 言葉の用い方の問題ではあるが、西尾自身が「学者知識人」、「言論人」、少なくとも<知識人の末裔>という「階層」にいることを、かりに潜在的にせよ自覚し意識していることは、明白だと思われる。
 西尾の多数の文章にみられるニーチェ的?<反大衆>性には今回も触れない。上の文章の中には、「弱者の宗教の見果てぬ夢」、「弱者のねじくれた復讐心理」という言葉はある。
 すこぶる興味深く、面白いのは、かつての?「知識人」を叙述するその内容、形容は、西尾幹二自身に、そのまま当てはまると考えられる、ということだ。以下、列挙する。なお、西尾は小泉純一郎を「狂気の宰相」と称し、安倍晋三首相も批判した(例えば、その改憲案は安倍が出したからいけないんです旨を書いた)〈反政権〉的評論家でもあった。
 ①「(日本の知識階級の)政治的権力から外された精神主義の歪み」。
 ②「政治の悪を自ら犯せない立場にある教養人の卑屈な自尊の心のなかに潜む反体制、反政府心理」。
 ③「権力欲の一面」である「その自己表現にそこはかとなく漂う自己英雄視」。
 ④「実行よりも芸術を、政治よりも文学を主張する、閉ざされた精神をつくって、大衆を見下し、政治権力にひたすら悪の烙印を押して、自らを中間に置いて純潔と見る一種の自己神聖化」。
 ⑤そのような「精神に毒され」た、「日本の純文学意識や学者知識人の教養主義」。
 ⑥「社会的関心」は「要するに日本の現状をいつもシニカルに批判することと同義であり、自らが国家を担おうとする昂然たる気概、責任感情を持ってい」ない。
 ⑦「閉ざされた自己英雄視の内部で鬱屈し、健全な一般社会に毒ある言葉を偉そうに上からまき散らしてき」ている。
 ⑧「気休めの希望の見取り図を作成して、現実を改変しようとする意思のない」点で、(今日の保守的言論人の言葉も)「『お呪い』か『呪文』めいたものであって、言葉のための言葉、その無意味さ、ナンセンスさ、無力さ、これはあの当時の進歩的知識人と何も変わっていない」。
 以上、西尾幹二自身それ自体に(も〉、きわめてよくあてはまっているのではないか。
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  今回の最初に記したように、福田恆存には「反米」がなかったが、自分には「反共」に加えて「反米」もある、という2017年になって初めて?述べた旨は書かれていない。
 但し、つぎの文章は、関連性のある西尾の<時代認識>を示しているので、今後のためにメモしておく。中国も、北朝鮮もここには出てこない。p.222.
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけられました
 おかしくなったのは、西側諸国で革命の恐怖が去って、余裕が生じたからで、さらに一段とおかしくなったのは西側が最終的にソ連に勝利を収め、反共ではもう国家目標を維持できなくなって以来です。
 日本が毀れ始めたのは冷戦の終結以降です。」
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1445/天皇譲位問題-「観念保守」派の誤り・無知、つづき①。

 天皇生前譲位問題について。
 一 基本的論点の一つは、日本の天皇(の歴史)をどう見るかだろう。
 <摂政活用>派または生前譲位否定論は、これを根拠にしているからだ。
 しかし、前回も触れたように、この論を<歴史>でもって正当化することはできない。
 また、「観念保守」派の多くが-たぶん産経新聞社の菅原慎太郎も桑原聡も-抱いてるようにみえる、つぎのような<権力・権威>論も日本の歴史の事実に即していない、と考えられる。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号。
 「鎌倉幕府も徳川幕府も、時の権力者といえども、皇室の権威には服せざるをえませんでした。俗世の権力は常に皇室の権威の下にあり、……は実権を握りながらも、究極の権威は彼らの手にはありませんでした。一方、皇室には権威はあっても権力はなかったのです」。p.86。
 よくぞこんなに簡単に言えるものだ。しかも「常に」と断定しているのは、相当にアホだと言える。
 ここにあるのは、<思い込み>であり、<観念>だ。
 勝手に思い込むのはよいが、歴史の事実であるかのような書き方をしてはいけない。あるいは、<こうであってほしい>という願望や<こうであったはずだ>というはず・べき論と歴史的事実を混同してはいけない。少なくとも、自らの言明の「真実」性・事実性を疑ってみる謙虚さが必要だ。
 すでに前回に本郷和人著に言及した。
 既読だが、本郷和人「天皇を知れば日本史がわかる」文藝春秋スペシャル2017冬・皇室と日本人の運命(2017)もある。なお、本郷は、黒田俊雄のような<マルクス主義史観>のもち主ではない。
 ○「権門体制論」は形式はともかく実態を示さず、後鳥羽の承久の変以降「次の天皇を誰にするか」を朝廷の一存で決められず「鎌倉幕府の承認」が要った。
 ○四条天皇後、朝廷の意向とは違った後継者を鎌倉幕府は立てた(後嵯峨天皇)。
 ○鎌倉幕府は後鳥羽本流の皇子の即位を「認めなかった」。
 ○天皇・朝廷は「鎌倉幕府を利用するどころか、それに依存して」いた。
 ○元寇の際に戦ったのは幕府で、「何もしてい」ない朝廷が「国家権力を担っていると言える」のか。
 なお厳密な議論を要するのだろうが(<権門体制論>等について)、世俗権力と天皇の関係は、櫻井よしこが単純に描く上のようなものではないことを、示しているだろう。
 鎌倉時代の<例外>ということはできない。前回した紹介でも上でも本郷は江戸時代にも触れている。
 問題はそもそもは「権力」・「権威」という概念の意味なのだが、櫻井よしこは、これを明らかにした上で、少なくとも、平安時代および鎌倉時代以降幕末までの、上の理解の適正さを歴史的に論証・実証すべきだ。
 また、明治憲法下の天皇・政府関係についても、<権力と権威>如何・これの関係をどう理解すべきかの問題はある。櫻井よしこはこれに厳密に論及はしていない。例えば、戦前の昭和天皇に「権力」は(全く)なかったのか。例えば、<ご聖断>とは何なのか。
 二 つぎに、引用を省略するが、アホ4人組の多くは、生前譲位を認めると、新天皇と前天皇の二つの<権威>の並立・衝突が生じるので、避けるべきだ、と主張して、根拠づけている。
 しかし、こんなバカバカしい、いやアホらしい議論・論拠はない。
 すなわち、では<摂政>を置けば、これを回避できるのか。
 天皇在位のままでいる現天皇と「摂政」就任者との間で、二つの<権威>の並立・衝突もまた生じうる。
 いや、現皇室典範上の摂政就位の要件ならばまだよいが、<摂政制度活用派>はこの要件を緩和することを明示的に主張・提案しているので、(現皇室典範が想定していると解される)ほとんど意思表明能力を失った天皇ではなく、まだなお(意思表明はもちろん)ある程度の行為・活動の能力のある現天皇と新設置される摂政との間に、現実的な<権威>の並立・衝突がより発生する可能性がある。
 また、「上皇」=前天皇の存在を認めると、制度的・財政的手当ての問題が生じるなどと立論する者もいるが、同じ問題は、摂政を置いた場合でも全く同じように生じる。
 現憲法・現皇室典範のもとでは摂政設置の例はなく、そのための具体的な制度的・財政的しくみは、きちんと詰められては全くいないのだ。 
 アホな<脅迫>は、しない方がよい。
 三 あまりつきあいたくないが、明らかに書き残しがあるので、回を改める。

1241/宮崎哲弥が「リベラル保守」という偽装保守「左翼」を批判する。

 宮崎哲弥が週刊文春1/16号(文藝春秋)で「リベラル保守」を批判している。正確には、以下のとおり。
 「最近、実態は紛う方なき左翼のくせに『保守派』を偽装する卑怯者が言論界を徘徊している」。「左派であることが直ちに悪いわけではな」く、「許し難い」のは、「『リベラル保守』などと騙って保守派を装う性根」だ(p.117)。
 宮崎は固有名詞を明記していないが、この批判の対象になっていることがほぼ明らかなのは、中島岳志(北海道大学)だろうと思われる。
 中島岳志は自ら「保守リベラル」と称して朝日新聞の書評欄を担当したりしつつ、「保守」の立場から憲法改正に反対すると明言し、特定秘密保護法についてはテレビ朝日の報道ステ-ションに登場して反対論を述べた。明らかに「左派」だと思われるのだが、西部邁・佐伯啓思の<表現者>グル-プの一員として遇されているようでもあり、また西部邁との共著もあったりして、立場・思想の位置づけを不明瞭にもしてきた。だが、「左翼」だと判断できるので、西部邁らに対して、中島岳志を「飼う」のをやめよという旨をこの欄に記したこともあった。
 「リベラル保守」または「保守リベラル」と自称している者は中島岳志しかいないので、宮崎の批判は、少なくとも中島岳志に対しては向けられているだろう。
 適菜収も、維新の会の協力による憲法改正に反対すると明言し、安倍晋三を批判しているので、月刊正論(産経)の執筆者であるにもかかわらず、「実態は紛う方なき左翼」である可能性がある。但し、宮崎哲弥の上の文章が適菜収をも念頭においているかは明らかではない。なお、産経新聞「正論」欄執筆者でありながら、その「保守」性に疑問符がつく政治学者に、桜田淳がいる。「保守」的という点では、さらに若い岩田温の方にむしろ期待がもてる。
 ところで、宮崎哲弥は「自らのポリティカルな立ち位置」を明確にするために、「リベラル保守」を批判しており、自らは「保守主義者」を自任したことはなく、「あえていえばリベラル右派」だと述べている。そして、安倍政権を全面的に支持するわけでは全くないが、特定秘密保護法に対する(一定の原理的な)「反対論には到底賛同できない」とする。単純素朴または教条的な?「保守」派論者よりは自分の頭で適確によく考えているという印象を持ってきたところでもあり、自称「保守主義者」でなくとも好感はもてる。また、「仏教」・宗教に詳しいのも宮崎の悪くない特徴だ。もっとも、彼のいう「リベラル」の意味を必ずしも明確には理解してはいないのだが。
 同じ「リベラル」派としてだろう、宮崎は護憲派でありながら特定秘密保護法に賛成した(反対しなかった)長谷部恭男(東京大学法学部現役教授)に言及している。この欄で長谷部は「志の低い」護憲論者(改憲反対論者)としてとり上げたことがある。長谷部が特定秘密保護法反対派に組みしなかったのは、この人が日本共産党員または共産党シンパではない、非共産党「左翼」だと感じてきたことと大きく矛盾はしない。長谷部恭男が特定秘密保護法に反対しなかったことは、憲法学界で主流的と思われる日本共産党系学者からは(内心では)毛嫌いされることとなっている可能性がある。その意味では勇気ある判断・意見表明だったと評価しておいてよい。
 宮崎哲弥が長谷部恭男の諸議論をすべてまたは基本的に若しくは大部分支持しているかどうかは明らかではない。
 ヌエ的な中島岳志を気味悪く感じていたことが、この一文のきっかけになった。

1222/錯乱した適菜収は自民+維新による憲法改正に反対を明言し、「護憲」を主張する。

 10/04に、適菜収が月刊正論2013年8月号で、「反日活動家であることは明白」な橋下徹を「支持する『保守』というのが巷には存在するらしい」のは「不思議なこと」とだと書いていることを紹介し、「適菜収によれば、石原慎太郎、佐々淳行、加地伸行、西尾幹二、津川雅彦らは、かつ場合によっては安倍晋三も、『不思議』な『保守』らしい。そのように感じること自体が、自らが歪んでいることの証左だとは自覚できないのだろう、気の毒に」とコメントした。「保守」とされているのが「不思議」だ(「語義矛盾ではないか」)という言い方は、橋下徹を支持する人物の「保守」性を疑っている、ということでもあるだろう。

 それから一週間後の10/11に、明確に安倍晋三の「保守」性を疑問視する適菜収の文章を読んでしまった。週刊文春10/17号p.45だ。適菜収は「連載22/今週のバカ」として何と安倍晋三を取り上げ、「安倍晋三は本当に保守なのか?」をタイトルにしている。その他にも、驚くべきというか、大嗤いするというというか、そのような奇怪な主張を適菜は行っている。

 ①まず、簡略して紹介するが、橋下徹と付き合う安倍晋三を以下のように批判する。

 ・付き合っている相手によって「その人間の正体」が明らかになりうる。橋下徹の「封じ込めを図るのが保守の役割のはず」、日本の文化伝統破壊者に対して「立ち上がるのが保守」であるにもかかわらず、「こうした連中とベタベタの関係を築いてきたのが安倍晋三ではないか」。
 ②また、安倍晋三個人を次のように批判する。

 ・組んでよい相手を判断できない人間は「バカ」。「問題は見識の欠片もないボンボンがわが国の総理大臣になってしまったこと」だ。

 ③ついで、安倍内閣自体をつぎのように批判する。

 ・「耳あたりのいい言葉を並べて『保守層』を騙しながら、時代錯誤の新自由主義を爆走中」。
 ④さらには、次のように自民+維新による憲法改正に反対し、「護憲」を主張する。
 ・「維新の会と組んで改憲するくらいなら未来永劫改憲なんかしなくてよい。真っ当な日本人、まともな保守なら、わけのわからない野合に対しては護憲に回るべきです」。

 ビ-トたけしあたりの「毒舌」または一種の「諧謔」ならはまだよいのだが、適菜収はどうやら上記のことを「本気」で書いている。

 出発点に橋下徹との関係がくるのが適菜の奇怪なところだ。与えられた原稿スペ-スの中にほとんどと言ってよいほど橋下徹批判の部分を加えるのが適菜の文章の特徴だが、この週刊文春の原稿も例外ではない。よく分からないが、適菜は橋下徹に対する「私怨」でも持っているのだろうか。何となく、気持ちが悪い。

 それよりも、第一に、安倍晋三を明確に「バカ」呼ばわりし、第二に、安倍晋三の「保守」性を明確に疑問視し、第三者に、「野合」による憲法改正に反対し、「護憲に回るべき」と説いているのが、適菜収とはほとんど錯乱状態にある人間であることを示しているだろう。

 少し冷静に思考すれば、憲法改正の内容・方向にいっさい触れることなく、「維新の会と組んで改憲するくらいなら」と憲法改正に反対し、「野合」に対して「護憲に回るべき」と主張することが、憲法改正に関するまともな議論でないことはすぐ分かる。

 適菜収は論点に即して適切な文章を書ける論理力・理性を持っているのか?

 適菜といえば「B層」うんぬんだが、そのいうA~D層への四象限への分類も、思想・考え方または人間の、ありうる分類の一つにすぎない。容共・反共、親米・反米(反中・親米)、国家肥大化肯定的・否定的(大きな国家か小さな国家か)、自由か平等か、変革愛好か現状維持的か、等々、四象限への分類はタテ軸・ヨコ軸に何を取り上げるかによってさまざまに語りうる。適菜のそれの特徴は「IQが高い・低い」を重要な要素に高めていることだが、少なくとも、ある程度でも普遍的な分類方法を示しているわけではない。
 さらにまた、適菜のいうA~D層への四象限への分類は、適菜自身が考えたのではないことを適菜自身が語っている。適菜はある程度でも普遍的だとはまったくいえない「B層」・「C層」論等を、「借り物の」基準を前提にして論じているのだ。
 そしてどうやら適菜は自らは規制改革に反対(反竹中平蔵・反堺屋太一)で「IQが高い」という「C層」に属すると考えているようなのだが、この週刊文春の文章を読むと、「D層」ではないかと思えてくる。

 また、自民党・維新の会による憲法改正に反対し、「護憲」を主張しているという点では辻元清美、山口二郎等々々の「左翼」と何ら変わらない(中島岳志とも同じ)、安倍晋三を「バカ」と明言するに至っては、かつて第一次内閣時代の安倍について「キ〇〇〇に刃物」とも称していた、程度の低い「左翼」(またはエセ保守)文筆家(山崎行太郎だったか天木直人だったか)とも類似するところがある。

 この適菜が「橋下徹は保守ではない!」という論考で月刊正論(産経)の表紙をよくぞ飾れたものだ。

 もう一度10/04のこの欄のタイトルを繰り返しておこうか。

 <月刊正論(産経)・桑原聡は適菜収のいったい何を評価しているのか。> 

1125/西尾幹二が「『気分左翼』による『間接的な言論統制』」を語る。

 西尾幹二全集第2巻(国書刊行会、2012)に所収の「『素心』の思想家・福田恆存の哲学」は2004年の福田恆存没後10年記念シンポでの講演が元になっているようで、月刊諸君!2005年2月号(文藝春秋)に発表されている。全集の二段組みで48頁もあるので(p.359-406)、本当に月刊雑誌一回に掲載されたのかと疑いたくなるような長さ・大作だ。
 内容はもちろん福田恆存に関係しているが、西尾幹二の当時の世相の見方等を示していて相当に興味深い。講演からは8年ほど経っているが、今日でもほとんど変わっていないのではないか。
 6頁め(p.364)にある「『気分左翼』による『間接的な言論統制』」という節見出しが、目につく。「間接的な言論統制」には「ソフト・ファシズム」というルビが振られている。「気分左翼」も「間接的な言論統制」も、福田恆存かかつて使った語のようだ。
 なぜ目を惹いたかというと、私は「何となく左翼」という語をこの欄でも使ったことがあるし、田母神俊雄の「日本は侵略国家ではない」論文に対する政府(当時は自民党政権)や<保守>論壇の一部にすらよる冷たい仕打ちに対して<左翼ファシズム>の成立を感じ、この欄でもその旨を書いたからだ。
 「何となく左翼」(意識・自覚はしなくとも「左翼」気分のメディアや人々)による「左翼」的全体主義がかなり形成されているのは間違いないと思われる。
 メディア・世間一般ではなく、特定の学界・学問研究分野では、より牢固たる「ファシズム」、<特定のイデオロギーによる支配>がほぼ成立しているのではないかとすら思われる(日本近現代史学、社会学、教育学、憲法学等)。
 さて、西尾幹二の叙述(福田恆存ではなく西尾自身の文章)を以下に要約的に紹介しておく。
 ・昭和40年の福田恆存「知識人の政治的言動」は「現在ただいまの日本を論じているに等しい」。「今の日本を覆っているのはまさに思想以前の気分左翼、感傷派左翼、左翼リベラリズムと称するもののソフトファシズムのムード」だ。「政府、官公庁、地方自治体、NHK、朝日、毎日、日経、共同通信、民放テレビ等を覆い尽くしているもの」がある。福田恆存にいう「間接的な言論統制」だ(p.366)。
 ・「真綿で首を絞められるような怪しげなマスコミの状況に今われわれ」はいる。それは「平和というタブー」に由来し、「最初はアメリカが日本全土に懸けた呪いであり、やがて革新派が親米的政権に同じ呪いをかけて身動きできなく」なった。これが「今の日本の姿」で、「呪いは全国を覆い尽くして」いる(同上)。
 ・2004年には経済界の一部が首相に靖国参拝中止を言いだし、「共産国家の言いなりになるように資本家が圧力をかけている」。NHKは1992年頃まで「政治的撃論の可能なメディア」だったが、今や「衛生無害」の「間接的な言論統制」機関になっている。文部省はかつては「保守の牙城」だったが、いつしか「次官以下の人事配置においても日教組系に占められ、”薄められたマルクス主義”の牙城」になっている(同上)。
 ・「男女に性差はないなどという非科学的奇論、ジェンダーフリーの妄想が…官僚機構の中枢に潜りこ」み、地方自治体に指令が飛び、「あちこちの地方自治体で、同性愛者、両性具有者を基準に正常な一般市民の権利を制限する」という「椿事」が、「従順な地方自治体の役人の手で次々と条例化されて」いる。「全国的な児童生徒の学力の急速な低落は、過激な性教育と無関係だとはとうてい言えない」だろう(同上)。
 ・「官庁の中心が左翼革命勢力に占領」されるという事態を福田恆存は予言しており、福田が新聞批判を開始した頃から「日本は恐らくだんだんおかしくなり」、福田の予言の「最も不吉な告知が、今日正鵠を射て当たり始めているのではないか」(p.367)。
 以上。もう少し、次回に続けよう。 

1050/岩波書店・丸谷才一とNHK・坂の上の雲。

 〇<三角地帯>のうち論壇とマスコミに深く関係し、ひいては教育にも影響を与えている「左翼」の司令塔・参謀(戦略)塔の重要な一つは、朝日新聞とともに、岩波「書店」という組織だ。
 その岩波が出している宣伝用小冊子(但し、いちおう定価は付いている)に、『図書』というのがある。その『図書』の2011年10月号で、丸谷才一は次のようなことを書いている(連載の一部らしい)。
 ・「明治政府が、東アジアに領土を拡張しようとする方針」からして天皇の神格化・軍事の重視をしたとき、「軟弱な平安時代」よりも「飛鳥時代と奈良時代」に規範を求めた。これが、正岡子規による「万葉集」の礼賛(文学)、岡倉天心による飛鳥・奈良美術の「発見」(美術)へと作用した。
 ・「もともと、病身なのに従軍記者になって戦地におもむくような子規の軍国主義好きが、親友夏目漱石の徴兵忌避と好対照をなす……」(以上、p.32)。
 最終的には正岡子規による(当時までの日本の)歌・和歌の評価は適切ではない、ということを書きたいようだ。この点と上の前段全体の明治政府の文化政策と子規等との関係については、知識もないので、さておく。
 気になるのは、第一に明治政府は「東アジアに領土を拡張しようとする方針」を持っていたとだけサラリと書いて、そのように断定してしまっていることだ。西洋列強・ロシアとの関係や当時の東アジア諸国の状況などはこの人物の頭の中にないのかもしれない。
 第二に、「もともと、病身なのに従軍記者になって戦地におもむくような子規の軍国主義好き」という、正岡子規についての形容だ。
 日清・日露戦争の時代、「軍国主義」とか「軍国主義好き」などという概念は成立していたのだろうか。また、言葉・概念には厳密であってしかるべき文芸評論家が、こんなふうに簡単に子規の人物評価をしてしまってよいのだろうか。さらに、日清・日露戦争の日本の勝利(少なくとも敗戦回避)を、丸谷は「悪」だったと理解しているように読めるが(「軍国主義好き」という言葉の使い方)、それは、講座派マルクス主義または日本共産党の歴史観そのものではないか。
 ちょうどNHKで「坂の上の雲」の第三回め(三年め)の放映も近づいているようで、丸谷才一は、この時期に正岡子規にケチを付けておきたかったのかもしれない。
 正岡子規自体の正確な評価・論評に関心があるのではない。「…子規の軍国主義好き」という丸谷才一の表現に、単純な「軍国主義嫌い」を感じて、素朴な(かつ骨身に染みこんでいるのだろう)「左翼」情緒の吐露を読んだ気がしたのだ。
 丸谷才一について詳しくは知らない(評論家だが小説を書いたらしく、一度店頭で読みかけたが、読み続ける気にならなかった)。だが、
パージまたは(人物・論考等の内容の)事前チェックの厳しい「左翼」司令塔・参謀塔の岩波の冊子に連載しているのだから、歴然たる「左翼」評論家なのだろう。たまたまだろうが、『図書』の上掲号には大江健三郎の文章も載っている。
 数十頁の冊子においてすら、岩波は「左翼」活動をしているのだ。
 ついでに。夏目漱石の「徴兵忌避」を好意的に書いているが、従軍記者どころか軍人そのものだった森鴎外の小説・文学作品は、丸谷才一によると、「軍国主義」的そのものなのだろう。丸谷による子規についての論述の仕方からすると、そのような「文学」評価になるはずだ。そうではないか?
 〇司馬遼太郎や「坂の上の雲」は商売になりやすい(売れる)らしく、朝日新聞社もよくこれらを扱うが、文藝春秋も再び文藝春秋12月臨時増刊号『「坂の上の雲」・日本人の勇気』を出している(2011.10)。
 個々の論考・記事にいちいち言及しない(カラーページに櫻井よしこが姿を登場させ一文を載せている)。以下の叙述を読んで驚いた。
 ロシアの「外交」の学者か学生(博士課程)らしいS・フルツカヤの一文(タイトル省略)の中にこうある。
 「NHKはこのドラマに込めた主要なメッセージをプレスリリースで発表している。『我々は広大無限な人間ドラマを描き、…日本人の特性の本質を表そうとした。しかし同時に私たちは戦争には否定的である点を決して忘れず強調している。反『軍国主義』こそ、このドラマの主要な思想である』」(p.89)。
 NHKのプレスリリースなるものをネット上で現在確認できるのかどうかは知らず、上を事実として以下を述べる。
 このNHKの上掲作品・ドラマ造りの意図は、少なくとも原作者・司馬遼太郎のそれとは合致していない。司馬は左・右双方から批判されているが、「坂の上の雲」を「反・軍国主義」を「主要な思想」として書いたのではないことは明らかだろう。全体として、軍国主義・反軍国主義などという「イデオロギー」(?)とは別の、より高い次元でこの作品は書かれていると思われる。
 NHKは「右」からの批判に対しては無視するか軽視するが、「軍国主義的だ」、「軍国主義称揚だ」などの「左」からの批判には神経質で、気にしているのだろう(なぜか。NHK自体が「左翼」陣営に属している、あるいは「左傾」化しているからだ)。
 司馬遼太郎は「坂の上の雲」のドラマ化・映画化を「軍国主義(肯定)的」と理解されるのを嫌って、それを許さなかったとも言われる。
 しかし、それはむろん、司馬遼太郎が「反・軍国主義」思想をもってこの作品を書いたことの証左になるわけではない。
 NHKは、あるいはNHKのこのドラマ制作者たちは、原作者の意図から離れた、原著作とは異なる「思想」を持ち込もうとしている、としか思えない。
 これまでのドラマを丁寧に見ていないので再述できないが、月刊正論か月刊WiLLあたりで、原作にはない場面を「捏造」した、「反(・非)戦」思想を肯定するような場面があるという指摘を読んだことがある。
 何と「左」に弱いNHKだろうか。「反(・非)戦」的な部分をあえて挿入して「左翼」陣営からの批判を弱めたいのだろうと推察される。むろん、NHK自体の体質が「左傾化」しており、ドラマ制作者もまたその体質の中にいる(同じ体質をもっている)からに他ならないだろう。
 「マスコミ」に対する「左翼」の支配は、単純で見やすい形ではなく、巧妙な方法・過程をとって、わが「公共」放送局にまで及んでいる。
 なお、「反軍国主義」なるものが当然に正しいまたは善であるかのごとき考え方が蔓延しており、NHKの上の文章もその一つかもしれない。しかし、一般的にこのように言ってしまってはいけない。
 <防衛(自衛)戦争>は「悪」・「邪」なのか?? 「反・軍国主義」を是とし、「反戦」、「反戦がどうして悪い」と簡単に言う者は、上の??にまずきちんと答えなければならない。 

1018/西尾幹二による樋口陽一批判①。

 一 フランス革命やフランス1793年憲法(・ロベスピエール)、さらにはルソーについてはすでに何度か触れた。また、フランスの「ルソー=ジャコバン主義」を称揚して「一九八九年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」(自由と国家p.170)とまで主張する樋口陽一(前東京大学・憲法学)の著書を複数読んで、2008年に、この欄で批判的にとり上げたこともある。以下は、その一部だ。
 ・「憲法学者・樋口陽一はデマゴーグ・たぶんその1」
 ・「樋口陽一のデマ2+……」

 ・「憲法デマゴーグ・樋口陽一-その3・個人主義と『家族解体』論」
 ・「樋口陽一のデマ4-『社会主義』は『必要不可欠の貢献』をした」
 ・「憲法学者・樋口陽一の究極のデマ-その6・思想としての『個人』・『個人主義』・『個人の自由』」
 二 西尾幹二全集が今秋から刊行されるらしい。たぶん全巻購入するだろう。
 西尾『皇太子さまへのご忠言』以外はできるだけ西尾の本を購入していたが、西尾幹二『自由の恐怖―宗教から全体主義へ』(文藝春秋、1995)は今年になってから入手した。
 上の本のⅠの二つ目の論考(初出、諸君!1995年10月号)の中に、ほぼ7頁にわたって、樋口陽一批判があることに気づいた(既読だったとすれば、思い出した)。西尾は樋口陽一の『自由と国家』・『憲法』・『近代国民国家の憲法構造』を明記したうえで、以下のように批判している。ほとんど全く異論のないものだ。以下、要約的引用。
 ・「善かれ悪しかれ日本は西欧化されていて、国の基本をきめる憲法は…西欧産、というより西欧のなにかの模造品」だ。法学部学生は「西欧の法学を理想として学んだ教授に学んで、…日本人の生き方の西欧に照らしての不足や欠陥を今でもしきりに教えこまれている。……西欧人に比べて日本人の『個』はまだ不十分で…たち遅れている、といった三十年前に死滅したはずの進歩派の童話を繰り返し、繰り返しリフレインのように耳に注ぎこまれている」(p.70)。
 ・「例えば憲法学者樋口陽一氏にみられる…偏光レンズが『信教の自由』の憲法解釈…などに影響を及ぼすことなしとしないと予想し、私は憂慮する」(同上)。
 ・「樋口氏の文章は難解で読みにくく…符丁や隠語を散りばめた閉鎖的世界で、いくつかの未証明の独断のうえに成り立っている。それでも私は……など〔上記3著-秋月〕、氏の著作を理解しよう」とし、「いくつかの独断の存在に気がついた」(p.71)。
 ・「『日本はまだ市民革命が済んでいない』がその一つ」だ。樋口によると、「日本では『個人』がまだ十分に析出されていない」。「近代立憲主義を確立していくうえで、日本は『個人』の成立を阻むイエとか小家族とか会社とか…があって、今日でもまだ立ち遅れの著しい第一段階にある」。一方、「フランス革命が切り拓いたジャコバン主義的観念は『個人』の成立を妨げるあらゆる中間団体・共同体を否定して、個人と国家の二極のみから成る『ルソー=ジャコバン型』国家を生み出す基礎となった」。近代立憲主義の前提にはかかる「徹底した個人主義」があり、それを革命が示した点に「近代史における『フランスの典型性』」がある。―というようなことを大筋で述べているが、「もとよりこれも未証明の独断である。というより、マルクス主義の退潮以後すっかり信憑性を失った革命観の一つだと思う」(同上)。
 ・フランス本国で「ルソー=ジャコバン型」国家なる概念をどの程度フランス人が理想としているか、「私にははなはだ疑わしい」。「ジャコバン党は敬愛されていない。ロベスピエールの子孫の一族が一族の名を隠して生きたという国だ」。ロベスピエールはスターリンの「先駆」だとする歴史学説も「あると聞く」。それに「市民革命」経ずして「個人」析出不能だとすれば、「革命」を経た数カ国以外に永遠に「個人」が析出される国は出ないだろう。「樋口氏の期待するような革命は二度と起こらないからである」。「市民革命を夢みる時代は終わったのだ」(p.71-72)。
 ・樋口陽一の専門的議論に付き合うつもりはない。だが、「どんな専門的文章にも素人が読んで直覚的に分ることがある。氏の立論は…今述べた二、三の独断のうえに成り立っていて」、その前提を信頼しないで取り払ってしまえば、「立論全体が総崩れになるような性格のもの」だ(p.72)。
 ・樋口陽一「氏を支えているのは学問ではなく、フランス革命に対する単なる信仰である」(同上)。
 まだあるが、長くなったので、別の回に続ける。  

1017/<保守>は「少子化」と闘ったか?-藤原正彦著を契機として。

 一 最近この欄で言及した二つの雑誌よりも先に読み始めていたのは藤原正彦・日本人の誇り(文春新書、2011.04)で、少なくともp.175までは読み終えた形跡がある(全249頁)。
 藤原が第一章の二つ目のゴチ見出し(節名)以降で記しているのは、現在の日本の問題点・危機だと理解できる。
 ①「対中外交はなぜ弱腰か」、②「アメリカの内政干渉を拒めない」、③「劣化する政治家の質」、④「少子化という歪み」、⑤「大人から子供まで低下するモラル」、⑥「しつけも勉強もできない」(p.11-25。番号はこの欄の筆者)。
 上のうち<保守>論壇・評論家が主として議論してきたのは①・②の中国問題・対米問題で、③の「政治家の質」とそれにかかわる国内政治や政局が加えられた程度だろう。
 つまり、上の④・⑤・⑥については、主流の<保守>論壇・評論家の議論は、きわめて少なかったと思われる(全くなかったわけではない)。
 藤原正彦とともに、「政治、経済の崩壊からはじまりモラル、教育、家族、社会の崩壊と、今、日本は全面的な崩壊に瀕しています」(p.22)という認識をもっと共有しなければならないだろう。
 二 例えばだが、<少子化>が日本崩壊傾向の有力な原因になっていること、そしてその<少子化>をもたらした原因(基本的には歪んだ戦後「個人主義」・男女平等主義にある)について、櫻井よしこは、あるいは西部邁は(ついでに中島岳志は)どのように認識し、どのように論じてきたのだろうか。
 p.175よりも後だが、藤原は、「少子化の根本原因」は「家や近隣や仲間などとのつながり」を失ったことにある、出産・子育てへのエネルギー消費よりも<自己の幸福追求>・社会への報恩よりは「自己実現」になっている、「個の尊重」・「個を大切に」と「子供の頃から吹き込まれているからすぐにそうな」る、とまことに的確に指摘している(p.241)。
 このような議論がはたして、<保守派>において十分になされてきたのか。中島岳志をはじめ?、戦後<個人主義>に染まったまま<保守>の顔をしている論者が少なくないのではなかろうか。
 <少子化>の原因の究極は歪んだ戦後「個人主義」・男女平等主義にあり、これらを称揚した<進歩的>憲法学者等々の責任は大きいと思うが、中間的にはむろん、それらによるところの晩婚化・非婚化があり、さらに<性道徳>の変化もあると考えられる。

 中川八洋・国が滅びる―教育・家族・国家の自壊―(徳間書店、1997)によると、マルクスらの共産党宣言(1848)は「共産主義者は…公然たる婦人の共有をとり入れようとする」と書いているらしく、婚姻制度・女性の貞操を是とする道徳を破壊し、「売春婦と一般婦女子の垣根」を曖昧にするのがマルクス主義の目指したものだ、という。そして、中川は、女子中高生の「援助交際」(売春)擁護論(宮台真司ら)には「過激なマルクス主義の臭気」がある、とする(p.22-)。
 また、今手元にはないが別の最近の本で中川八洋は、堕胎=人工中絶という将来の生命(日本人)の剥奪の恐るべき多さも、(当然ながら)少子化の一因だとしていた(なお、堕胎=人工中絶の多さは、<過激な性教育>をも一因とする、妊娠しても出産・子育てする気持ちのない乱れた?性行動の多さにもよるだろう)。
 私の言葉でさらに追記すれば、戦後の公教育は、「男女平等」教育という美名のもとで、
女性は(そして男ではなく女だけが)妊娠し出産することができる、という重要でかつ崇高な責務を持っている、ということを、いっさい教えてこなかったのだ。そのような教育のもとで、妊娠や出産を男に比べての<不平等・不利・ハンディ>と感じる女性が増えないはずがない。そして、<少子化>が進まないわけがない。妊娠・出産に関する男女の差異は本来的・本質的・自然的なもので、<平等>思想などによって崩されてはならないし、崩れるはずもないものだ。しかし、意識・観念の上では、戦後<個人主義>・<男女対等主義>は女性の妊娠・出産を、女性たちが<男にはない(不平等な)負担>と感じるように仕向けている。上野千鶴子や田嶋陽子は、間違いなくそう感じていただろう。

 上のような少子化、人工中絶等々について、<保守>派は正面からきちんと論じてきたのだろうか?
 これらは、マルクス主義→「個人主義」・平等思想の策略的現象と見るべきものと思われるにもかかわらず、<保守派>はきちんとこれと闘ってきたのだろうか?
 現実の少子化、そして人口減少の徴候・現象は、この戦いにすでに敗北してしまっていることを示しているように思われる。
 このことを深刻に受けとめない者は、<保守>派、<保守>主義者ではない、と考える。 

0965/遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(下)における三島・福田対談。

 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(下)(麗澤大学出版会、2010.04)p.264~は、持丸博=佐藤松男の対談著(文藝春秋、2010.10)が「たった一度の対決」としていた福田恆存=三島由紀夫の対談「文武両道と死の哲学」にも言及している。こちらの方が、内容は濃いと思われるにもかかわらず、すんなりと読める。
 遠藤浩一著の概要をメモしておく。
 「生を充実させる」前提の「死を引きうける覚悟」、「死の衝動が充たされる国家」の再建という編集部の企図・問題意識を福田・三島は共有していると思われたが、二人は①「例えば高坂正堯や永井陽之助あたりの現実肯定主義」 、②「現行憲法」には批判的または懐疑的・否定的という点では同じだったにもかかわらず、福田が現憲法無効化を含む「現状変革」は「結局、力でどうにもなる」と「ドライかつラジカルな現実主義」を突き付けるのに対して、三島は「どういうわけか厳密な法律論」を振りかざす。

 三島は「クーデターを正当ならしめる法的規制がない」、大日本帝国憲法には「法律以上の実体」、「国体」・「社会秩序」等の「独特なもの」がひっついていたために(正当性・正統性を付与する根拠が)あった、という。福田は「法律なんてものは力でどうにでもなる」ことを「今日の新憲法成立」は示しているとするが、三島はクーデターによって「帝国憲法」に戻し、また「改訂」すると言ったって「民衆がついてくるわけない」と反論する。福田はさらに「民衆はどうにでもなるし、法律にたいしてそんな厳格な気持をもっていない」と反応する(この段落の「」引用は、遠藤も引用する座談会からの直接引用)。

 なるほど「力」を万能視するかのような福田と法的正当性を求める三島の問答は「まったく嚙み合っていない」。にもかかわらず、(遠藤浩一によると)「きわめて重要なこと」、すなわち両人の「考え方の基本――現実主義と反現実主義の核心」が示されている。
 現憲法は「力」で制定されたのだから別の「力」で元に戻せばよいとするのが福田の現実主義と反現実肯定主義だ。天皇を無視してはおらず、「法」を超越したところに天皇は在る、「憲法は変わったって、天皇は天皇じゃないか」と見る。
 一方で三島が拘泥するのは「錦の御旗」=正統性であり、正統性なきクーデターが「天皇の存立基盤を脅かす」ことを怖れる。

 福田の対「民衆」観は「現実的で、醒めている」が、三島にとっての「秩序の源泉」は「力」にではなく「天皇」にある。ここに三島の「現実主義と反現実肯定主義」があった。

 このような両者の違いを指摘し、「対決」させるだけで、はたして今日、いかほどの建設的な意味があるのか、とも感じられる。しかし、遠藤浩一は二人は「同じところに立っているようでいて、その見方は決して交わることがない」としつつ、「現実肯定主義への疑問においては完全に重なり合う」、とここでの部分をまとていることに注目しておきたい。三島が「それは全く同感だな」、「そうなんだ」とも発言している二人の若干のやりとりを直接に引用したあと、遠藤は次のように自分の文章で書く。

 福田恆存の「理想に殉じて死ぬのも人間の本能だ」との指摘は三島由紀夫の示した「死への衝動」に通じる。「理想に殉じて死ぬ」のは人間だけの本能だというまっとうな「人間観」に照らすと、「戦後の日本人がいかに非人間的な生き方をしてきたか」と愕然となる。戦後日本人は「現実肯定主義という観念を弄び、あるいはそれに弄ばれつつ、もっぱら生の衝動を満たすことに余念がない」。/「現実肯定主義は個人の生の衝動の阻害要因ともなりうる。生命至上主義に立つ戦後日本人の生というものがどこか浮き足立っていて、『公』を指向していないことはもちろんのこと、『私』も本質的なところで満足させていないのは、福田が言う『人間だけがもつ本能』を無視し、拒絶しているからである。私たちは自分のためだけに、自分の生をまっとうするためだけに生きているようでいて、その実、それさえ満足させていない、それは『私』の中に、守るべき何者も見出せていないからである」(p.269)。

 なかなか見事な文章であり、見事な指摘ではないか。樋口陽一らの代表的憲法学者が現憲法上最高の価値・原理だとして強調する「個人(主義)」、「個人の(尊厳の)尊重」に対する、立派な(かつ相当に皮肉の効いた)反論にもなっているようにも読める。

 なお、このあと「官僚」にかかわる福田・三島のやりとりとそれに関連する遠藤の叙述もあるが省略。また、歴史的かな遣いは新かな遣いに改めた。

 遠藤浩一は、上の部分を含む章を次の文章で結んでいる。

 「三島由紀夫は…『日本』に殉じて自決した。少なくとも彼だけは『死の哲学』を再建したのである」(p.275)。

 以上に言及した部分だけでも、持丸=佐藤の対談著よりは面白い。

 だが、遠藤浩一の著全体を見ると、引用・メモしたいところは多数あり、今回の上の部分などは優先順位はかなり低い。

 櫻井よしこは、どこかの雑誌・週刊誌のコラムで、遠藤浩一の上掲書を「抜群に面白い」と評しているだろうか。
 追記-「生命尊重第一主義」批判・「死への衝動」に関連する、三島由紀夫1970.11.25<檄>の一部。

 「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか」。

0955/週刊新潮12/23号の櫻井よしこ・連載コラムと福田恆存。

 週刊新潮12/23号櫻井よしこ・連載コラムは、持丸博=佐藤松男・証言/三島由紀夫・福田恆存たった一度の対決(文藝春秋、2010)に言及し、自らの文章として、「1960年の安保闘争から70年の安保闘争まで、左翼的思想で満ちていた日本で孤高の闘いを続けた福田恆存と三島由紀夫はたった一度、『論争ジャーナル』という雑誌で対談した」と書く(p.138)。
 持丸博らのミス(?)を引き継いでいるのだろうが、「たった一度」の対決・対談というのは、誤りだと思われる。
 決定版三島由紀夫全集39巻〔対談1〕(新潮社、2004)を見てみる。

 たしかに、論争ジャーナル1967年11月号で三島と福田は「文武両道と死の哲学」と題する対談をしている(全集39巻p.696-728)。

 だが、三島由紀夫・福田恆存・大岡昇平の三者は文芸1952年12月号で「僕たちの実体」ど題する対談をしている(同上p.111~127)。

 これは鼎談であって、対談でも「対決」でもないというならば、三島由紀夫と福田恆存の二人は、中央公論1964年7月号で、「歌舞伎滅亡論是非」と題する対談を行っている(同上p.415-424)。

 持丸らの上掲書を未読なのでどのような注記等がなされているのかは知らないが、「たった一度」の対決というのは事実に反しており、櫻井よしこもその瑕疵を継承しているようだ。

 つぎに、櫻井よしこは福田恆存「滅びゆく日本」(サンケイ新聞1969年02.01。福田恆存評論集第8巻p.261-264)の一部を紹介・言及して福田による「戦後」に対する警鐘・批判に同感する旨を書いている。

 たしかに福田恆存のこの一文からも福田の考えていたことの一端は分かる。しかし、この数頁しかない一文が福田恆存の代表的論文(・評論)とは思えない。いわゆる<進歩的文化人>と対決し、彼らを批判した1950年前後以降のものも含めて、福田恆存が「戦後」を批判的に分析し、批判し、憂慮した文章は、上記の評論集(麗澤大学出版会、刊行中)の中に多数見出すことができる。
 それに、遠藤浩一・三島由紀夫と福田恆存(上)・(下)(麗澤大学出版会、2010)が今年に刊行され、全集に直接に当たらずとも、福田恆存が1950年代以前から反「左翼」の立場で評論活動も行い、1960年前後にはすでに<高度経済成長>の「影」を視ていたことも明らかにされている(この遠藤著に今回は立ち入らない)。

 というわけで、櫻井よしこによる福田恆存発言の紹介の仕方には、たんに紙数の制約によるとばかりは思えない、かなりの不備があると感じられる。ついでながら、おそらくは、福田恆存は櫻井よしこ以上の文筆活動をしたと歴史的に評価されるだろう(たんなる量の問題ではない)。

0910/井上薫・ここがおかしい外国人参政権(2010)読了。

 10/09に、井上薫・ここがおかしい外国人参政権(2010、文春新書)を一気に全読了。
 大きな注意を惹いておきたいことが一点、基本的な疑問点が一点ある。

 第一。傍論でいわゆる「許容説」を採ったと(ふつうは)理解されている最高裁1995年(平成07年)02.28判決につき、百地章らの保守派らしき論者の中には、<傍論にすぎず>、全体として「許容説」ではなく「禁止説」に立っていると理解すべき旨の主張がある。櫻井よしこも百地章らの影響を受けている。

 井上薫の上の本は、ごく常識的に、素直な日本語文の読み方として、上の最高裁判決は「許容説」=法律によって一定の外国人に地方参政権を付与することは憲法上許容されている(付与しないことも許容される=違憲ではない)という説に立つものと理解している(そしてそれを批判し、井上は「禁止説」に立つ)。
 憲法ではなく上記最高裁判決の「解釈」のレベルでの議論として、百地章の読み方(判決の「解釈」)や櫻井よしこの「読み」方にしばしば疑問を呈してきた。

 自らの憲法解釈に添うように憲法に関する最高裁判決を「解釈」したいという気持ちは分からなくはないが、そして上記最高裁判決が<推進派>の「錦の御旗」(井上p.67)になることを阻止したいという気持ちも理解できるが、法的議論としては、無理をしてはいけない。

 井上薫は書く。例えば、①上記最高裁判決の「中核」は「『定住外国人の地方参政権が憲法上禁止されていない』という点にあります」(p.80)。②上記最高裁判決は三段落からなり、「第二段落」は「外国人のうち…〔中略〕に対し、法律により選挙権を付与することは憲法上禁止されていない」という意味だ。「推進派の錦の御旗」は「憲法理論における『許容説』を採用した、第二段落の部分です」(p.89-90)(『』部分も判決の直接引用ではなく、井上による要約)。

 百地章らは(井上のいう)第一段落と第二段落とは「矛盾」しているとし、かつ第二段落は「傍論」として、全体としては、第一段落を重視して<禁止説>に立つ、と最高裁判決を「解釈」するが、同旨をこの欄ですでに述べているとおり、井上の読み方(理解・「解釈」)の方が素直で、常識的だ。

 従って、最高裁判決も<禁止説>だ、と(無理をして)主張するよりも、上記最高裁判決自体を批判すべきだ、ということになる。

 また、上記判決の「第二段落」=いわゆる「傍論」部分を主導したとされる園部逸夫裁判官(当時)の退官後の「証言(?)」を引き合いに出して上記判決の権威を事実上貶めようとすることも政治運動的には結構なことだが、何を当時の裁判官が喋ったところで、かつての最高裁判決の法的意味が消滅したり変化するわけでもない(このこともいつか書いた)。

 第二。井上薫は憲法解釈として「禁止説」を採り、上記最高裁判決を批判する。その結論自体に賛同はするが、論旨・議論の過程には疑問もある。

 井上は、他のこの人の本にすでに書いていることだが、判決理由中の(判決の)「主文を導く関係にない部分」を(関係のある「要部」に対して)「蛇足」と呼び、そのような蛇足を含む判決を「蛇足判決」と称する(p.103)。そして、これこそが重要だが、「蛇足」(を付けること)は「実は違法」で、「蛇足判決は先例にも判例にもならない」、という「蛇足判決理論」なるものを主張する(p.119)。

 そのうえで、上記最高裁判決の「第二段落は蛇足だ」(p.126の小見出し)とし、第二段落は「裁判所の違法行為の産物」で、「後世の人が先例と見なしたり、判例として尊重するということは、許されない」と断じる(p.130)。

 上の結論的部分に全面的には賛同できないのだが、それはさて措くとかりにしても、例えば次の一文は自己の「理論」に対する<買いかぶり>ではないだろうか?

 「こうして〔外国人地方参政権付与〕推進派の根拠は、蛇足判決理論によって完膚なきまでに破壊されました」(p.137)。

 外国人参政権付与法案の上程かという切羽詰まった時期になって、あらためて関係最高裁判決の「読み方」に関する議論やその最高裁判決も一つとする憲法「解釈」論の展開があったりして、外国人地方参政権付与推進派が勢いを減じていることは確かだろうが、推進派の「根拠」が「完膚なきまでに破壊され」ているとはとても思えない。

 また、かりに勢いが大きく減じているとしても、そのことが井上の「蛇足判決理論」による、とはとても思われない。

 以上が、読後に感じた、重要な二点だ。

 「蛇足」をさらに二点。第一に、井上は上記最高裁判決の「第二段落」を「裁判史上永遠に残る大失敗」と断じ、「園部裁判官の空しい弁解」との見出しも付ける(p.129、p.130)。

 すでに述べたことだが、客観的には、園部逸夫は<晩節を汚した>と言ってよいだろう。「韓国や朝鮮から強制連行してきた人たち」を「なだめる意味」、「政治的配慮があった」、日韓関係についての「思い入れ」があった、等と述べたようだが(p.133-4)、判決後にこんなことを(いくら内心で思っていても)口外してしまうこと自体が異様・異常だ。なお、1929年生まれで、私のいう<特殊な世代(1930~1935年生)>(最も強く占領期の「平和・民主主義」・「反日〔>反日本軍国主義〕・自虐」教育を受けた世代)にもほとんど近い。
 第二。判決理由中の「蛇足」部分は(あるいはそれを付けることは)「違法」で、「先例、判例」として無意味だ、と言い切れるのか?

 井上はいくつかの例を挙げており、その趣旨はかなりよく分かるが、しかし、例えば、議員選挙の無効訴訟における請求棄却判決が、理由中で定数配分規定をいったん違憲=憲法14条違反だと述べることは(請求棄却という結論とは無関係だから)「違法」で、<判例>としての意味はないのだろうか?

 「蛇足判決理論」についての、井上以外の他の専門家の意見も知りたいものだ。

0907/遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫1945-1970(麗澤大学)①。

 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫/1945-1970(麗澤大学出版会、2010)、上・下巻、計650頁余を、10月上旬に、全読了。
 まとまった、ある程度長い書物を読了して何がしかの「感動」を受けたのは、おそらく2008年の佐伯啓思・日本の愛国心(NTT出版)以来で、かつ、佐伯啓思のものよりも大いに感心した。

 いわゆる旧かな遣いは慣れていない者にはいささか読みにくいが、何と言っても、カタカナ名の人名が(おそらく)まったく出てこず、福田恆存と三島由紀夫を中心とする日本人の文章のみが紹介・引用ないし分析されていることが―本当は奇妙な感心の仕方なのだが―新鮮だ。
 また、著者によると、「『戦後』という時代を俯瞰的に眺めて」みることが「基本的なモティーフ」だとされるが(下巻p.292)、書名からする印象以上に、(ほぼ1970年くらいまでだが)「戦後史」の本になっている。
 この欄で触れたように、半藤一利・昭和史/戦後篇(文藝春秋)は、売れているらしいが、とても歴史書とは言えない、訳の分からない紛い物。林直道・強奪の資本主義-戦後日本資本主義の軌跡(新日本出版社)はマルクス主義の立場からする、日本共産党的な(教条的な)戦後日本「資本主義」史の叙述。

 中村政則・戦後史(岩波新書)は、多少は工夫しているが、マルクス主義(史的唯物論・発展段階史観)を基礎にしては、まともに歴史を描きえないことの証左のような作品。

 これら三冊についてそれぞれ、既にコメントした。

 これらに比べて、遠藤著は、1970年頃までの「昭和戦後史」と謳っているわけではないものの、随所に出てくる各時代・時期の認識・評価等は本格的で、ほとんどまっとうなものだ、と感じる。三島由紀夫と福田恆存に特段の関心はなくとも、両者を絡めての正当な戦後25年史(1945-1970)に関する書物としても読めるだろう。細部の個々の論点に関する理解・認識について議論の余地はあるとしても。

 <左翼>は、この本のような時代叙述に反発し批判するのだろうが、私にはほとんど常識的なことをきちんと文章にしている、と感じられた。まっとうで常識的なことを書くことはむつかしい時代が現在でもあるので、このような本の存在意義は大きいだろう。

 さらに、著者によると、書名にある二人の仕事を再読するのは「過去を振り返るためではなく、現在について考えるためである」(下巻p.292)。ここにも示されているが、叙述の対象は1970年頃でほぼ終わってはいるものの、日本の現在と、なぜそのような現在に至ったのか、ということにも認識・分析が言及されていて、それらを読者に考えさせる本にもなっている。

 やや褒めすぎかもしれないが、率直な感想だ。遠藤浩一は、並々ならぬ文章力・表現力と、じつにまともな(素直で常識的な)歴史を観る力をもっていると感じざるをえない。後者には、戦後「政治」史を観る力も当然に含まれている。

 福田恆存と三島由紀夫が論じ、考えていたことについてもあらためて教えられるところが多い。

 今回はこれくらいにして、別の機会にこの本(上下、二冊)により具体的に言及してみる。

0854/小林よしのりの皇位継承論(女系天皇容認論)・その3、旧宮家・限定皇族復帰案。

 平成17年11月24日の皇室典範に関する有識者会議報告書には、「(補論)旧皇族の皇籍復帰等の方策」と題して次のように書く部分がある。
 「旧皇族は、〔①〕既に六〇年近く一般国民として過ごしており、また、〔②〕今上天皇との共通の祖先は約600年前の室町時代までさかのぼる遠い血筋の方々であることを考えると、これらの方々を広く国民が皇族として受け入れることができるか懸念される。…このような方策につき国民の理解と支持を得ることは難しいと考えられる」(〔 〕は引用者)。
 まだ悠仁親王ご誕生前のことだったが、上の①については<たかが六〇年ではないか>と思ったし、また、②についても違和感をもった。全体として、有識者会議の意見としてではなく「国民の理解と支持」を得難いとして、「国民」に責任転嫁(?)しているようなニュアンスも気になった。
 小林よしのりも、次のように、上の②と全く同様の主張をしている。
 <男系主義者>の「唯一の代案」が「旧宮家」の皇族復帰だが、これは「トンデモない主張」だ。「旧宮家」が「男系でつなっているという天皇は、なんと室町時代の北朝3代目、崇光天皇である。あきれたことに20数世代、600年以上も離れている!」(月刊WiLL5月号p.197)。
 このような感想・見解を他にも読んだか聞いたことはあるので、有識者会議が書くほどではかりになかったにしても、かかる懸念をもつ者も少なくないようではある。
 しかし、<男系主義者>たちがどのように反論または釈明しているのかは知らないが、女系天皇容認論者あるいは<(男女を問わない)長子優先主義>者がこのような主張をするのは(有識者会議の文章もそうだが)、じつは奇妙なことだと私は感じている。
 すなわち、将来において男女対等に<女性天皇>・<女系天皇>を容認しようとしながら、旧皇族(11宮家)については、なぜ<男系>でのみたどって今上天皇との「血」の近さを問題視するのか、同じことだが、今上天皇と共通の祖先をなぜ<男系>でのみたどって探そうとするのか。
 これは、無視できない、重要な論点だと考える。
 とりあえず、祖父(・祖母)が旧皇族(旧宮家)だった、竹田恒泰がこう書いていることが、同・語られなかった皇族たちの真実(小学館、2006)を読んだとき、私には印象的だったことを記しておこう。
 「私は明治天皇の玄孫〔孫の孫〕であることを誇りに思っている」(p.23。〔〕は原文ママ)。
 竹田恒泰にとって、室町時代の北朝の天皇・崇光天皇(今上天皇が125代とされるその間の代数には含まれていない)の遠い子孫(男系)であることよりも、まずは明治天皇の玄孫だとの意識の方が強いと思われ、かつそのことを彼は「誇りに思っている」のだ。
 正確に書けば、竹田恒泰の父方(・祖父方)の曾祖母は明治天皇の第六女・昌子内親王だ。女性を介して、彼は明治天皇の血を引いている(男系だけでたどると、既出の崇光天皇の孫の貞成親王が、今上天皇との共通の祖先になる)。なお、今上陛下は、男系でのみたどって、明治天皇の曾孫であられる。男女(息子と娘)の違いを無視すれば、今上天皇陛下と竹田は、明治天皇の曾孫と玄孫の違いでしかない。
 女性を介せば、竹田恒泰よりも現皇室に近い血縁の旧皇族およびその子ども・孫たちはいる。竹田から離れて、一般的に記す。
 最も近いのは<東久邇宮>家だ。男系では、他の宮家と同じく、崇光天皇の子で<伏見宮>家の祖の栄仁親王の子の上掲・貞成親王(後崇光院、1372~1456)が今上天皇との共通の祖先になる。
 しかし、まず第一に、<伏見宮>家から分かれた(伏見宮邦家の子の)<久邇宮>朝彦の子で<東久邇宮>家の初代となった東久邇宮稔彦(元内閣総理大臣)の妻は明治天皇の第九女・聡子(としこ)内親王だ。その二人の間の子どもたち、さらに孫・曾孫たちは、明治天皇の(女性を介しての)子孫でもある。
 第二に、東久邇宮稔彦と聡子の間に生まれた長男の盛厚は、昭和天皇の長女の成子(しげこ)と結婚している。従って、盛厚・成子の子どもたちは、昭和天皇の孫であって、現皇太子・秋篠宮殿下(・清子元内親王)と何ら異ならない。母親は、今上天皇陛下の実姉、という近さだ。
 東久邇宮盛厚と成子の結婚は、竹田恒泰も書くように、「明治天皇の孫(盛厚)と曾孫(成子)との結婚」だったのだ(p.243)。
 何も室町時代、14世紀まで遡る必要はない。現在の「東久邇宮」一族は、今上天皇の実姉の子孫たちなのだ(上掲の二人の子どもから見ると、父方でも母方でも明治天皇へと「血」はつながる)。
 男女対等に?<女性天皇>・<女系天皇>を容認しようという論者ならば、上のようなことくらい知っておいてよいのではないか。いや、知った上で主張すべきなのではないか。
 室町時代にまで遡らないと天皇と血が繋がらない、そんな人たちを<皇族>として崇敬し尊ぶ気になれない、などとして<女系天皇容認>を説く者たちは、小林よしのりも含めて、将来については<女性>を配慮し、過去については<女性>の介在を無視する、という思考方法上の矛盾をおかしている、と考える。
 将来について<女性>を視野に入れるならば、同様に、過去についても<女性>を視野に入れるべきだ。
 「東久邇宮」一族、東久邇宮盛厚と成子を父母・祖父母・曾祖父母とする人々は、「皇籍」に入っていただいてもよいのではないか。そして、男子には皇位継承資格も認めてよいのではないか。たしかに最も近くは昭和天皇の内親王だった方を祖とするので、その意味では<女系>の宮家ということになるかもしれない。また、その昭和天皇の内親王だった方は明治天皇の皇女だった方を母とする東久邇宮盛厚と結婚していて、これまた<女系>で明治天皇につながっていることにはなる。
 だが、将来について女性皇族に重要な地位を認めようとするならば、この程度のことは十分に視野に入れてよいし、むしろ考慮対象とされるべきだ。
 くり返すが、室町時代!などと「あきれ」てはいけない。自らが将来において認めようとする「女系」では、昭和天皇、そして明治天皇に「血」が明確につながっている旧皇族(旧宮家)もあるのだ。
 昭和天皇との血縁はなくとも、かりに明治天皇への(女性を介しての)「血」のつながりでよいとするならば、上記のように<竹田宮>一族の「皇籍」復帰も考えられる。竹田恒泰は明治天皇の玄孫であり、その父は曾孫であって、決して「600年以上も離れている!」ということにはならない。
 竹田宮家以外に、北白川宮家と朝香宮家も、明治天皇の皇女と結婚したという血縁関係がある。但し、今日まで子孫(とくに男子)がいるかは今のところ私には定かではない。
 以上のあわせて4つの宮家以外は、明治・大正・昭和各天皇との間の<女性>を介しての血縁関係はないようだ。やはり、男系でのみ、かつての(室町時代の)皇族の「血」とつながっているようだ。
 従って、上記の4つ、または少なくとも「東久邇宮」家一つだけでも、<皇籍>をあらたに(又は再び)付与してもよいのではないか。
 こうした<限定的皇族復帰案>を書いている、あるいは唱えている者がいるのかどうかは知らない。
 だが、11宮家すべての<皇籍復帰>よりは、有識者会議の言を真似れば、「国民の理解と支持を得ること」がたやすいように思われる。
 小林よしのりにはここで書いたことも配慮して再検討してほしい。また、<男系主義>論者にも、こうした意見があることも知ってもらいたいものだ。
 以上、竹田恒泰の上掲の本のほか、高橋紘=所功・皇位継承(文春新書、1998)のとくに資料(系図)を参照した。
 他にも皇位継承に関する書物はあり、旧宮家への皇籍付与を主張する本はあるだろうが、上の二冊だけでも、この程度のことは書ける。
 他の書物―例えば、櫻井よしこ=大原康男=茂木貞純・皇位継承の危機はいまだ去らず(扶桑社新書、2009.11)は所持はしているが全くといってよいほど目を通していない―については、あらためて十分に参照し直して、何かを書くことにしよう。

0831/<保守>言論人・<保守>論壇の不活発さも深刻だ。

 一 民主党政権の成立による<左翼・売国>政策実施の現実化の可能性が高いことは、じつに深刻な事態だ。
 とこれまでも書いたが、深刻な事態の第二は、あるいはさらに深刻なのは、朝日新聞やテレビ朝日等の報道ぶりにもよるのだろう、多くの国民が現政権の「危険性」を理解していないことだ。
 先日、たしか10/31の夜のNHKスペシャルの中で、御厨貴・東京大学教授は、古い55年体制を打破しようと小沢一郎は1993年に行動を起こしたが、当時は多くの者が小沢のスピード感に従いていけず、細川政権崩壊・自社連立政権成立を許したが、自社両党は55年体制の利得者だったところ、ようやく時代に即応しない55年体制が2009年総選挙で崩壊した旨をのたまい、もともとは日本社会党のブレインだった山口二郎・北海道大学教授も反論していなかった。
 NHKが収集した各「証言」自体は興味深いものもあったが、上のような御厨貴の簡単な総括でぶち壊しになった。1993年・1994年政変と2009年「政変」(政権交代)を上のようにしかまとめられない御厨貴は政治学者か、しかも東京大学所属の政治学研究者か、と問いたい。
 民主党御用学者ぶりはいい加減にしてもらいたい。また、小沢一郎の1993年の行動を素晴らしいものと積極的に評価しているが、小沢らの離党は、自民党内部、とくに旧田中派内部での「私憤」にすぎないとの見方があるくらい、政治学者ならば知っているだろう。田中-金丸の「金権」体質を継承しつつ、のちには彼の「自由党」は自民党と連立したという事実もまた、政治学者ならば記憶しているだろう。小沢が1993年以降は終始一貫して<古い55年体制>との闘争者だったなどとは、とんでもない話だ。
 今や明瞭な「左翼」の立花隆ですら、小沢離党・新生党設立の際に、小沢が<改革(・清潔)>派ぶるのは「ちゃんちゃらおかしい」と朝日新聞に書いた。理念なき選挙・政局好みこそ小沢の体質・政治感覚だろう。御厨貴はいったい何を観ているのか。それこそ「ちゃんちゃらおかしい」。
 こんな人物にまとめらしき発言をさせるのも、NHKらしいとも言える。
 二 深刻な第三、あるいはさらに深刻なのは、民主党<左翼・売国>政権にとって代わるべき政党が存在するかが疑わしいことだ。
 自民党に期待できそうにない。衆議院の予算委員会(第一日め)での質問者に、党内<リベラル左派>で有名な、安倍政権を(「右寄り」で)「危ない」とマスコミを前に語った加藤紘一や、同じ傾向の、<日本国憲法のどこが悪いんだ>とやはりマスコミの前で公言した後藤田正純を起用するようでは、まともな「保守」政党ではない。だからこそ、鳩山由紀夫のブレ等々にもかかわらず、少なくとも来年の参院選挙くらいまでは、鳩山政権が続きそうだとの予想が出てくる。
 現政権もダメ、自民党にも大きな期待をとてもかけられないそうにない、ということこそ、じつに深刻な事態だと認識すべきだろう。
 三 深刻な第四、あるいはさらに深刻なのは、<保守>言論人または<保守>論壇において、現状を打破するための建設的で具体的な議論が、ほとんどか全く、存在しないようにみえることだ。
 自民党が頼りなくとも、しっかりとした言論が小さくとも存在していれば、それを手がかりにして、多少は明るい未来を展望できそうなものだが、それもなさそうであることが、じつに深刻だと思われる。
 ①隔月刊・表現者27号(ジョルダン)、佐伯啓思「『民主主義の進展』による『政治の崩壊』」(p.52-)。
 「民主党を批判することはきわめて容易」、自民党に<保守>再生能力があるとは言えない(p.53)、等々、佐伯啓思の主張の趣旨はよく分かる。
 だが、ではどうすればよいのか。佐伯は、「プラトンの政治論に立ち返るのが適切」だとし、「善き国家」=市民が「善き生」を送れる国家の実現を説き、かかる国家は「民主」政では生まれない旨を書く。民主主義は目ざすべき「価値」とは無関係との旨は佐伯が繰り返し書いてきている。
 しかし、「われわれは、仮に民主主義者でなくとも、民主政治の社会秩序のもとで生活していることは事実である。とすれば、…できることはと言えば、あのプラトンの言葉の危惧を絶えず思い起こすことであろう。保守とは古典の精神に学ぶことにほかならないからである」、との文章だけで結ばれたのでは、何の慰めにもならず、何の建設的で具体的な展望も出てこないだろう。
 なぜプラトンかとの疑問はさて措くとしても、「あのプラトンの言葉の危惧を絶えず思い起こすこと」をしていれば、民主党政権を打倒することができ、「保守」再生政権を生み出すことが可能になるのか。この程度の抽象性の高い主張では、ほとんど何の役にも立たないと思われる。<思想家>・佐伯啓思に期待しても無理なのかもしれないが。
 なお、上掲誌同号の諸論考は(西部邁「保守思想の辞典/役人」も含めて)、民主党批判と現状分析が中心で、<保守>派の現在と今後の具体的あり方については説き及ぶところがほとんどないようだ。
 ②月刊・文藝春秋11月号(文藝春秋)、中西輝政「英国『政権交代』失敗の教訓」(p.94-)。
 1994年の自社さ連立内閣以降の自民党は「政権にしがみつくこと自体」を自己目的化した、という御厨貴に近いニュアンスの批判(p.96)はまぁよいとしよう、また、鳩山・菅直人「団塊世代」の対米屈折心理の存在の指摘(p.98)やフランス・イギリスを例にしての、<脱官僚>等の民主党政権への懸念・不安もそれぞれに参考にはなる。
 だが、それらは民主党政権継続を前提とする議論だ。そして、「民主党による政権奪取は、より大きな日本政治の大移行期の『第一幕』に過ぎないのかもしれない。今後十年、いやもっと長いスパンでの日本の命運が、そこにかかっている…」(p.103)という結びだけでは、建設的で具体的な展望は何も出てこない。「今後十年、いやもっと長いスパンでの日本の命運」がかかっているとは、すべての(基本的な?)政治事象について言えることではないのか?
 執筆を依頼されたテーマが「日本政治の大移行期」の具体的な展開内容の想定・予想あるいは<あるべき移行の姿>ではなかったためかもしれないが。
 なお、文藝春秋同号の立花隆の文章(p.104-)はこれまでとほとんど同じ内容の小沢一郎批判で、御厨貴よりもマシかもしれないが、新味に乏しい。立花隆、ますます老いたり、の感がますます強い。
 ③西村幸祐責任編集・撃論ムック/迷走日本の行方(オークラ出版)の中の、西村幸祐=三橋貴明=小林よしのり=城内実(座談会)「STOP!日本解体計画―抵抗の拠点をどこに置くのか」(p.6-)。
 これの方がまだ将来の具体的なことを語り合っている。
 しかし、小林よしのりが「『伝統保守』という理念の再生」の必要を語りつつ、「地道なやり方をつなげていって、大きな流れにするしかない…。一人二人が四人五人になる。そういう核が全国各地でいくつもできて、それがやがて大きなうねりになる。…」と(p.23)、日本共産党・民青同盟の拡大あるいは「九条の会」会員拡大の際してと似たような話ではないかと思われる程度の発言しかできていないのは、やはりなお大きな限界と歯がゆさを感じる。
 むろん抽象的には上のとおりかもしれないし、小林よしのりは一人で「『伝統保守』という理念の再生」のために数十(数百?)人以上の仕事をしているので、引き続いての健闘を彼には期待しておくので足りるとは思われるのだが。
 この座談会で城内実は、将来はA「日本の国益と伝統を大事にする保守主義の政党」、B「個人主義や新自由主義を打ち出す自由主義政党」、C「平和主義のリベラル政党」に「分かれていくのではないか」と発言している(p.21-22)。
 これ以上の詳細な展開はないが、この辺りを、その具体的な過程・方策も含めて、<保守>言論人または<保守>論壇には論じてもらいたいものだ。
 他人のことをとやかくいう資格はないかもしれないが、民主党(政権)を(厳しく?)批判しつつ、将来については何となく<様子見>の議論が多すぎるような気がする。その意味では、<保守>言論人・<保守>論壇にも大きく失望するところがある。  

0790/小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)を一部読んで。

 〇たぶん7月中に、水島総(作画・前田俊夫)・1937南京の真実(飛鳥新社、2008.12)を読了。
 〇1.小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)は一件を除いて最近三年間の『わしズム』の巻頭コラムをまとめたもので、既読のため、あらためてじっくりと読み直す気はない。
 
 但し、第六章「天皇論」とまとめられた三論考は昨日に書いたこととの関係でも気になる。また、①「天皇を政治利用するサヨクとホシュ」(初出2006秋)、②「皇太子が天皇になる日」(初出2009冬)につづく③「天皇論の作法」は、この本が初出(書き下ろし)だ。
 2.上の②は月刊文藝春秋2009年2月号のとくに保阪正康の文章を批判したもの。保阪正康をまともに論評する価値があるとは考えなくなっているが、あえて少し引用すると、「戦前の日本を悪とする蛸壺史観の保阪正康」、「馬鹿じゃないか! そんな妄想ゴシップは女性誌で書け!」、「天皇とは何かが全くわかっていない輩の戯れ言」、「…人格評価に至っては、自分の戦前否定史観に合わせて天皇を選ぶつもりかと、怒りを覚える」。とこんな調子だ。
 この論考の主眼は、「徳があるか否かが皇位継承の条件にはならない」、ということだろう(p.209)。
 さらには、「今上陛下が特に祭祀に熱心であるのは有名だが、皇太子殿下もその際には立派に陪席されているという。〔妃殿下への言及を省略するが-秋月〕そうなると皇太子夫妻共に何も問題はないのである」。
 これらに異論はない。次の文章もある。
 「70歳も過ぎた老知識人が、天皇について何ら思想した形跡もなく、大人が読むのであろう雑誌にゴシップ記事を書いていたり、祭祀は創られた伝統だとか、天皇の戦争責任を追及したげな岩波新書がやたら評価を得ていたり、低レベルな天皇観が横行している…」。
 前者は保阪正康、「祭祀は創られた伝統だとか、天皇の戦争責任を追及したげな」岩波新書の著者は原武史だろう。
 3.上を書いたのち小林よしのり・天皇論(ゴーマニズム宣言スペシャル、小学館、2009.06)が刊行された。これもすでに既読(この欄に記したかどうか?)。
 上の③「天皇論の作法」は上の本のあとの文章ということになる。そして、以下の<保守派知識人>批判が印象に残る。
 「日頃『歴史』と『伝統』を保守すべしと主張している保守派の知識人」は(少なくとも一部は)「自分は一般参賀に混じるような低レベルの庶民ではないと思っている。自分のような知的な人間は、天皇を論じるが、敬愛はしないといかにも冷淡である。敬宮殿下(愛子内親王)や悠仁親王殿下のご誕生の時も率直に寿ぐ様子がない。自分は庶民より上の存在だと思っている。庶民を馬鹿にしている」。
 「保守を自称する知識人たちとて、しょせんは戦後民主主義のうす甘い蜜を吸いすぎて頽落したカタカナ・サヨクに過ぎない」。皇太子妃・皇太子両殿下をバッシングして「秋篠宮の方がいい」と「言い出すのは、現行憲法の『国民主権』が骨がらみになっていることの証左である。戦後民主主義者=国民主権論者は、世論を誘導して皇位継承順位まで変えられると思っている」(以上、p.215-6)。
 なかなかに聞くべき言葉だと思われる。
 <保守派知識人>の中に「天皇論の作法」をわきまえず、天皇陛下や皇太子殿下(・同妃殿下)を<畏れ多く>感じることのないままに、<対等に>あるいは<民主主義・個人主義>的に論じる又は叙述する者がいることは間違いない。それは、彼らが忌避しているはずの<戦後民主主義>・<国民主権>・<平等原理>が彼らの中にもある程度は浸透してしまっているためだ、と小林とともに言うことは、ある程度はできそうに見える。
 小林よしのりは特定の氏名を記してはいないが、想定されているのは、まず、この本の途中でも批判の対象としている西部邁ではないか。ついで、西尾幹二ではないか(直接に西尾の皇室論を批判する小林の文章を読んだ記憶は今はないのだが)。
 この二人は博識だが、とくに西部はやたら外国の思想(・外国語・原語)に言及する傾向があり、その天皇・皇室観ははっきりしない。西尾幹二は現皇太子殿下等に対して、<上から目線>で説教をしているような印象の文章を書いており、(内容もそうだがこの点でも)違和感をもつ。私を含む<庶民>の多くもそうではないか。
 この二人は自らを<庶民>とは考えていないだろう。あるいは<庶民>の中の<特別の>存在とでも思っているだろう。
 他に、小林よしのりが想定しているかは不明だが、実質的には、昨年の月刊諸君!7月号における中西輝政や八木秀次も挙げることができる。
 中西自身が「畏れ多きことながら」旨を書いたような、現皇太子妃の皇后適格性を疑問視する言葉を中西輝政は明記した。
 八木秀次は、皇太子妃の「現状」?を理由として現皇太子が天皇に就位すれば宮中祭祀をしなくなると決めつけて(又は推測して)、天皇就位適格性を疑問視し、その方向での現皇室典範の解釈をも示した。
 上の二人の部分は、昨年に書いたことのほとんど繰り返し。
 何度も書いているのは、この二人の発言は必ずや「歴史」に残すべきだと思われるからだ。
 この中西輝政・八木秀次の二人にすら、<戦後民主主義・平等・個人主義>教育の影響が全くないとは言えないだろう。
 なお、前回言及した橋本明は<保守派知識人>とはいえず、共同通信の記者・幹部という経歴からすると、むしろ「左翼」心情性が疑われる。

0749/毎日新聞5/02の岩見隆夫の勇気、6/22の戦後論壇史の無謀。

 〇毎日新聞、7週間以上前だが、5/02付朝刊。OBの岩見隆夫の連載「近聞遠見」は「改めて『マッカーサー憲法』」という見出し。そして、現憲法制定過程を素描して最後にこう書く。
 「現憲法は完全にマ元帥ペースで作られた。評価はともかく、占領中の<押しつけ>であることははっきりしている」。
 毎日新聞紙上にしては(?)率直な断定で、文句はない。
 <押しつけ>との指摘に護憲論者、とくに憲法九条二項護持論者は敏感なようで、①日本国憲法は鈴木安蔵ら日本人の民間研究会の案を参考にしたとか、②九条は幣原喜重郎が提案したとか、言っている。このような主張・詮索にほとんど意味はないことを知るべきだ。上の②
とおらく将来も断定できない。①は日本人の諸種の、例えばA~Hの案の中にGHQの案と類似のものが偶々あったというだけのこと。さらには、GHQの示唆によって鈴木安蔵らが行動したらしいとの事実も明らかにされている。
 もともと、かりに<押しつけ>でなくとも、憲法に不備・状況不適合な条項があれば改正するのは当たり前のことだ。
 〇毎日新聞6/22付朝刊。
 何を思ったか、今頃になって、1面で諸君!(文藝春秋)廃刊の理由につき、「保守系雑誌に扇情的な言葉が広がり」、<基本は保守だが「反論も含め幅のある議論を」>という姿勢が風潮に抗しきれなかったのも「遠因」とされる、と推測している。
 「保守」論壇側に問題があると指摘し、「保守」が自らの首を絞めたという「逆説」を語りたいようだ。
 いったい毎日新聞の社説・論説委員の「思想」は何なのか? 記者内部の噂話・雑談程度のことを活字にしないでほしい。
 14-15面で、なんと戦後論壇の概観! 図表等を入れると、2面分活字で埋まっているわけでもない。よくぞまぁ、新聞記者というのは、大胆なことができるものだ。多少の勉強や聞きかじりで、対米関係を軸にした「戦後論壇史」を書けると考えた記者がいるのだから、驚きだ。
 その中央の図表?によると、左から「共産党、新左翼」、「進歩派(リベラル)」、「現実主義」、「保守派」、「歴史見直し派」と並んでいる。
 研究論文、専門書だとそれぞれの<定義・意味>を明記しないと無意味・無謀のはずだが、そんな期待を新聞記事に期待してはいけないのだろう。
 「現実主義」という<思潮>があるとはほとんど知らなかった。その意味も問題だが、あったとして、5つうちの一つに位置づけられるのか? そこに含まれている人々を「現実主義」で一括するのはかなり無理がありそうだ。
 東京大学法学部の現役憲法学教授・長谷部恭男は、この「現実主義」の最左端あたりに位置づけられている。はて? 五百旗頭真もこの仲間?の右の方にいるからまぁいいか。
 しかし、高坂正堯あたりから始まり、岡崎久彦、田久保忠衛も、寺島実郎佐々木毅も、坂元一哉福田和也も「現実主義」派なのだから、ほとんど無意味なグループ分けではないか、との強い印象を覚える。
 さて、では毎日新聞の社説・論説委員の「思潮」はいずれに属するのか? 朝日新聞と同じだと、図表では幅狭くなってきている「進歩派(リベラル)」に違いない。

0728/ルソーの「人生」を小林善彦は適切に叙述しているか。

 <有名な>思想家、フランスのルソー(1712~1778)について、「思想」どころか、その「人生」についても、叙述又は見方が異なる。
 渡部昇一=谷沢永一・こんな「歴史」に誰がした(文春文庫、2000)の谷沢によると、ルソーは、①「生まれてすぐに母に死なれ、10歳のときに父に棄てられた」、②「家庭」を知らず、「正規の学校教育」を受けなかった、③「子どもが五人いた」が、「全員を棄ててしまった」(p.218)。
 中央公論新社の中公クラシックスの中のルソー・人間不平等起源論/社会契約論(2005)の訳者の一人・小林善彦は、この著のはじめに「テクストを読む前に」と題する文章を書いて、ルソーの「人生」をたどっている。
 小林は、上の①のうち母の死亡については、「生まれて十日後にシュザンヌ〔母親〕が死ぬと…」と言及する(p.3)。触れてはいるが、父親の行動に関する一文に付随させているだけで、成育のための「家庭」環境とは結びつけていない。この文章の最初の見出しは「成育環境」だが、まず小林が語っているのは、両親ともに「市民の階級の人」であり、これが「ルソーの思想形成にひじょうに大きな影響を及ぼしたと思われる」、ということだ(p.2)。少なくとも、生後10日後に死去した「市民の階級の」母親がルソーの「思想」に直接に影響を与えることはできなかったことは明らかなのだが。
 上の①のうち「一〇歳のときに父に棄てられた」については、明確な言及はない。もっとも、巻末の「年譜」には、1722年に父親が(ルソーの生地)ジュネーヴを「出奔」し、ルソーが伯父、次いで「新教の牧師」に「預けられた」、とあるので(p.413-4)、父親と生別していることは分かる。
 小林善彦は、父親は仕事(時計職人)に熱心ではなかったが、「ジュネーヴの時計職人」は特権的職業で比較的に余暇もあり「しばしば教養があって」市政等に関心をもち、蔵書も多かった、という。これは「ジュネーヴの時計職人」の話のはずだが、小林は「というわけで、幼い…ルソーは父親から本を読むことを習った」と書く(p.4-5)。これが事実であるとしても、明記はされていないが、父親が「出奔」するルソー10歳のときまでのことと理解されなければならない。
 上の②の「家庭」を知らず、「正規の学校教育」を受けなかった、というのは事実だろうと考えられる。しかし、小林善彦はこれを明記はしておらず、上記のように「教養ある」「市民」の一人に「本を読むことを習った」という叙述の仕方をしている。さらに、「われわれにはおどろきであるが、小説を全部読んでしまうと、ルソー父子は堅い内容の本にとりかかった。それは…新教の牧師の蔵書」だった、とも書いている(p.5)。だが、上記のとおり、これもあくまでルソー10歳のときまでのことと理解されなければならない。教育熱心の父親が、10歳の男児と離れて(-を残して)別の都市へ「出奔」するだろうか、とも思うが。10歳のときまでに「新教の牧師の蔵書」を一部にせよ読んでいたのが事実だとすると、たしかに「われわれにはおどろき」かもしれない。
 上の③の<子棄て>および彼らの母親である妻又は愛人を<棄てた>ことについては、これらを別の何かで読んだことはあるが、小林善彦は一切触れていない
 小林善彦はルソーの人間不平等起源論・社会契約論について肯定的・積極的に評価することも書いている。そして、そしてルソーの「人生」についても、あえて<悪い>(少なくともその印象を与える)事柄は知っていても、書かなかったのではないか。
 小林も(表現の仕方は別として)事実としては否定しないだろうと思われる、「生まれてすぐに母に死なれ、一〇歳のときに父に棄てられた」、「家庭」を知らず、「正規の学校教育」を受けなかった、ということは、谷沢永一も指摘するように、ルソーのその後の「思想」と無関係ではないのではないか。
 小林善彦は1927年生、東京大学文学部仏文科卒、東京大学教養学部教授等歴任。ルソーに関する<権威>の一人とされているかもしれない。そして、こういう人に、同じ学界の者またはルソー研究者が、ここで書いたような程度の<皮肉>を加えることすら困難なのかもしれない。
 アカデミズム(大学世界)が<真実>・<正義>を追求しているいうのは、少なくとも社会系・人文系については、真っ赤なウソだ。あるいは、彼らに独特の(彼らにのみ通用する)<正義>の追求はしているかもしれないが。

0725/西尾幹二は何故、「左翼」週刊朝日1/16号に寄稿して、皇太子ご夫妻を批判したのか。

 大まかな記憶では昨年の4~6月頃に西尾幹二の皇室(とくに現皇太子妃殿下)論に言及したのち、昨秋以降のこの問題に関する西尾の諸発言は(読んでも)この欄では触れないできた。
 前回に再び言及してしまったので、さらに続ける。
 西尾幹二は、週刊朝日1/16号(朝日新聞出版)の<天皇陛下と美智子さまの20年>との特集の中に、「ご自覚欠ける皇太子ご夫妻・『民を思う心』をお持ち下さい」と題する文章を寄せている。
 ここでは批判(諫言)の対象の中心は雅子妃殿下(・小和田家)ではなく、「皇太子ご夫妻」になっている。そして西尾は昨年来、「皇太子殿下と雅子殿下に皇族としてのご自覚が欠けているのではないか、天皇制度そのものが傷ついているのではないかと問題提起した」とも書いている(p.22)。
 この部分での問題は、「皇族としてのご自覚が欠けている」とする、その根拠・材料の真否にあるだろう。歴史上もいろいろな皇太子妃殿下(・皇后陛下)がおられた筈で、雅子妃殿下の、西尾が言うような宮中祭祀へのご態度などは、「天皇制度そのもの」にとっては些末な問題だと私は理解している。現皇太子殿下が宮中祭祀に粗雑に対応されているとは、西尾も語っていないはずだ。
 また、西尾幹二は、羽毛田宮内庁長官の「妃殿下にとって皇室そのものがストレス」等とする「論があることによって」、「両陛下が深く傷つけられた」という指摘は、「妃殿下を弁護する論者に対する批判」であり、「形を変えた妃殿下に対する明確な批判」だ、と「私はみています」と述べている(p.22)。
 この叙述又は論理はおかしいのではないか。<左翼・反日分子>たる「妃殿下にとって」、特有の日本文化の象徴・継承者である「皇室そのものがストレス」なので宮中祭祀へのご参加・同席も熱心ではなくなっている、とするのが、雅子妃殿下に対する批判者たちの<論旨>ではないのか。
 前回も書いたように、そうだとすると、「妃殿下にとって皇室そのものがストレス」等とする「論」を提起しているのは西尾幹二らであり、そうした「論」によって「両陛下」を「深く傷つけ」ているのは、西尾ら自身ではないのか。
 西尾によると、「妃殿下にとって皇室そのものがストレス」等とする「論」が出現していることの原因は「元をただせば」、雅子妃殿下の「公務と祭祀の長期ご欠席」が「様々な憶測を呼んでいる」ことで、皇太子殿下こそが両陛下に「謝罪の意を伝えるべき」なのだそうだ(p.23)。雅子妃殿下こそが「論」発生の元凶、というわけだ。
 だが、これもおかしい。「様々な憶測を呼んでいる」と西尾は書くが、客観的な事実だと誰もが認めているわけでもないデータを提出したり推測を語ったりして「憶測」をし、かつ、<左翼・反日分子>が<獅子身中の「虫」>になっているとほぼ断定するかのような書き方をしてきたのは、西尾ら自身なのではないか。
 「様々な憶測」をし、勝手な(部分を少なくとも含む)主張をしている者たちの側には、両陛下のご心痛に対して、いかなる責任もないのか
 西尾は最後に言う-「妃殿下の問題一つをとっても、両殿下には『公』の自覚がなさすぎます」。「今のうちに、どうかご姿勢をお改めになるよう努力して下さい」(p.23)。
 問題は、前者のように簡単に<断定>してしまってよいのか、だ。また、最後の一文については、皇太子ご夫妻に対して「…努力して下さい」と小学校の教師の言の如き書き方がなされていることに驚く。せめて、<…ご努力をお願いしたい>くらいにはならないものか。
 私自身の皇室の方々への言葉遣いにも多数の問題があるだろう。何しろ、学校・家庭で、そんなことは教育されずに育ってきた。だが、<愛国・忠君>?の筈の西尾幹二ならば、教師が生徒に、あるいは先輩が後輩に諭すような言葉遣いは慎むべきではないのか。言葉遣いは必ずしも本質的問題ではないとは思うが、西尾幹二の、皇室又は皇太子ご夫妻に対する叙述には、ある種の<冷たさ>を感じるところがある。
 あらためて観て確認はしないが、4/05のテレビ番組の中でも、皇太子殿下に対して、一般人に対するのと全く同様の言葉遣いがなされていたことがあり、一瞬驚きを感じた。
 ところで、これまた正確な内容を確認はしないが、西尾幹二は、文藝春秋は(月刊文藝春秋も(株)文藝春秋)も)立場が明確ではない、<左翼>に引き摺られているのではないか、との旨の論考を何かに書いていた。
 今回取り上げた西尾の文章は、文藝春秋とは異なって明確に「左翼」の朝日新聞系会社(子会社)の出版する週刊誌に掲載されている。しかも、西尾が望んだことではないとしても、「20の証言」の中でただ一つ別枠(罫線囲い込み)の扱いを受けており、かつ、表紙の「週刊朝日」の文字の上に、「西尾幹二」とその文章のタイトルが(他の19名とは異なり)特記されている
 このような特別扱いを朝日新聞系週刊誌によって受けたこと、さらにはそもそも「左翼」系週刊誌に(依頼を受けてだろうが)執筆したことを、西尾幹二はどう考えているのだろうか。
 20名の文章のうち皇太子ご夫妻を批判するのは西尾幹二ただ一人だ。西尾は、朝日新聞的な、どちらかと言うと「左翼」的な読者が多いとも推察される週刊誌に執筆して、「左翼」的な者たちにも支持を拡げたい、自らの問題提起を知ってほしい、と考えたのかもしれない。
 だが、西尾幹二は文藝春秋以上に朝日新聞を嫌ってきたはずだ。これまでの経緯は、むしろ<天敵>どおしであったのではないか。だとすると、西尾が週刊朝日による執筆依頼を拒否しても、何ら不思議ではなかった、と思われる。
 何故、週刊朝日に「保守」論客・西尾幹二が登場するのか(曾野綾子らも同じ号に書いてはいるが…)、奇妙でなくはない。
 そして、西尾の主観的な気持ちが、上記のように、「左翼」的な者たちにも支持を拡げたい、自らの問題提起を知ってほしい、ということだったとしても、客観的には、西尾幹二は「左翼」と手を組んで皇室内に<混乱>を生じさせようとしている(又は拡大しようとしている)、という疑念を生じさせても、即時に一笑に付されるようなものではない、と考えられる。
 また、週刊朝日編集部の側が西尾幹二の名を「利用」しようとした、との疑いには、より十分な理由があるようにも思われる。
 70歳を超えてまだまだ髙い知的水準を維持しておられるようである西尾幹二には、別の方面でもっと活躍していただきたい、と願っている。同・私の昭和史(新潮社)も早く完結させていただきたい。

0722/<どっちつかず>で<大勢・体制順応>・<勝ち馬乗り>だった月刊諸君!(文藝春秋)。

 〇佐伯啓思・大転換-脱成長社会へ(NTT出版、2009)を全て読了。この本の出版に気づくのが遅れて、初版第二刷のものだった。
 読売新聞5/18朝刊に、この本の一部(ケインズ等)の内容を佐伯啓思が語る部分を含む記者構成記事が出ている。
 内容と重要度の現代性からいって、注目されてよいし、多くの人々に読まれるのがよい。日本の「構造改革」の背景・内容の批判的分析だけでも(それも「グローバリズム」と無縁ではないが)、現代的かつ<日本的>だ。それにしては、題名が少し<軽い>気もするが…。
 いずれそのうち、一部に言及する。但し、佐伯啓思・日本の愛国心(NTT出版、2008)や同・現代日本のリベラリズム(講談社)等についてそうだったように、全体を紹介・コメントし切れないままで次の本・雑誌・テーマに移ってしまう可能性も高い。
 なお、前回、前々回の名越の中公新書についてもそうだが、この欄に書いて閲覧者の参考に供することを第一次的目的とはしていない。それならば、直接に関係文献を読んでいただく方が早い。
 産経新聞200万、月刊正論6.8万は少ないとか書いたことがあるが、イザ!のこのブログの読者の数は、月6.8万と比べてもはるかに少ない、微々たるもので、何らかの影響力を期待してはいない。
 最低限度、自分の読書録、考えたことのメモ書きとして残しておくことで満足する他はない。
 そうとでも考えておかないと、コスト・パフォーマンスからいってもCBA分析からいっても、「パフォーマンス」はほとんどなく、経済的「ベネフィット(Benefit)」はゼロなのだから、ブログを続けることはできない。所詮は自己満足と割り切る他はないのだ。プラス・アルファがあれば、望外の慶び、というところ。
 〇田母神俊雄・田母神塾-これが誇りある日本の教科書だ(双葉社、2009.03。これも第二刷だ)を2/3ほど読了。内容は新鮮なことばかり、というわけではない。だが、村山談話・河野談話等の全文を(たぶん)正確に掲載している資料欄(左側頁)が役立ちそうだ。資料確認的価値のゆえに座右に置いておいてもよい。
 〇田母神俊雄論文問題に関係するが、あらためて、月刊諸君!(文藝春秋)という雑誌について書く。
 田母神俊雄はその論文の内容ゆえに2008年10月末で事実上の解任・解職を受けた。
 時期的に言って、総合誌・論壇誌が取り上げるとすれば、今年の1月号(原稿締め切りは11月半ばか?)、2月号あたりになる。
 月刊WiLL(ワック)の1月号・2月号の背表紙の大きなタイトルはそれぞれ「総力特集・田母神論文のどこが悪い!」、「総力特集・田母神論文を殺すな!」。前者には田母神の原論文のほか、田母神の「独占手記」、中西輝政・渡部昇一・西村真悟・荒木和博・西尾幹二の各関係論考が並び、後者には田母神と小林よしのりの対談、櫻井よしこ・渡部昇一・潮匡人等の論考がある(秦郁彦の一文も)。
 月刊正論(産経)の1月号は「総力特集・誰も語らぬ田母神問題の本質」と背表紙・表表紙で謳い、やはり田母神の原論文とともに、日下公人・佐藤守・花岡信昭・百地章ら計6人の論考を掲載。同・2月号は背表紙からは外しているが、「続・誰も語らぬ田母神問題の本質」との特集を組んでいて、別宮暖朗・石平・花岡信昭・高森明勅の論考を掲載。
 以上はすべて、結論的には田母神俊雄を擁護する趣旨又はその効果をもつものだ。
 これに対して、月刊諸君!(文藝春秋、編集人・内田博人)はどう対応したか。かつてすでに<傍観者の立場を採った>と書いたような気がする。
 同誌の1月号は「防衛省大研究」と目次中に大きな文字を打ちつつ、塩田潮「自衛隊は『暴走』する」と佐瀬昌盛「田母神論文には、秘められた『救い』がある」の二つの、田母神論文を契機に自衛隊を問題視・疑問視する論考とどちらかといえば擁護する論考の二つを並べた。
 同誌2月号は、保阪正康と黒野耐の「暴発の論理-田母神論文と二・二六事件」と題する対談を用意した。
 同誌4月号では秦郁彦と西尾幹二に対談させているが(その題は「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する/重鎮・直接対決!」)、「捨て身の問題提起か、ただの目立ちたがりか」とのキャッチ・コピー文を付けている。
 かくのごとく、月刊WiLL(ワック)・月刊正論(産経)と月刊諸君!(文藝春秋)とでは、田母神問題に関する立場・スタンスが全く異なっていた、と言ってよい。
 月刊諸君!(文藝春秋)のよく言えばジャーナリスティックな、悪く言えば<やじ馬根性>ぶりは、田母神俊雄について「ただの目立ちたがりか」と書いて、そうである可能性を否定していないことでも明らかだ。
 要するに、月刊諸君!(文藝春秋)は<どっちつかず>の立場を採ったのだ。文藝春秋本誌を確認しないが、月刊諸君!ほどにも、問題自体をとりあげなかっただろう。
 なお、月刊現代(講談社)今年1月号は最終号で、石原慎太郎批判(佐野眞一)を巻頭に置き、立花隆・保阪正康・斉藤貴男等々の文章を載せつつも、田母神俊雄論文に触れる論考は一つもない。
 月刊諸君!(文藝春秋)の最終号で、<保守派>雑誌の一つの消滅を惜しむ文章が多数並んでいた。(株)文藝春秋からの原稿料・印税による、あるいは顕名化(著書発行等による有名人化)による利得者たちは、(株)文藝春秋発行の雑誌を無碍に批判することはできなかったのだろう。
 だが、少なくとも近年の月刊諸君!(文藝春秋)はまともな<保守派>の雑誌だったのか
 <保守>か否か(「左翼」か)の基準にはいくつかの考え方があるだろうが、<東京裁判史観>に批判的であるか、そうでないか、との対立軸を少なくともその一つとして立てるという考え方・整理の仕方はひどく乱暴なわけではないだろう。
 上の基準からすると、そもそも近年の月刊諸君!(文藝春秋)は<保守>ではなかった。(皇室問題とともに)テーマとして取り上げることだけはして読者の興味を惹く、「ただの目立ちたがり」ではなかったのか。
 だが、結果的には「村山談話」=東京裁判史観に対する疑問を公にしてはならない、とのスタンスに、浜田靖一防衛相・麻生太郎首相をはじめ自民党の国会議員のかなりの部分が立っていたと見られるのは、何度も書くが、<左翼ファシズム>の成立を思わせ、気味が悪く、怖さを感じるものだった。
 上掲の田母神俊雄・田母神塾(双葉社)でも触れられているが、石原伸晃もまた田母神批判者だった(p.98)。
 録画していないが、ほとんど観ていない夜の某テレビ番組で(たぶん12月)、石原伸晃は田母神俊雄論文問題発覚の際に、<自衛隊の(言論)クーデター>を連想した旨を述べた。山本一太とかのテレビによく登場する若手議員も平沢勝栄も、同席していた民主党議員に比べて、口数は少なく、更迭・(実質的)解職に対する批判的な言葉は一つもなかった(唯一、擁護的な発言をしたのは、読売出身の評論家・三宅久之だった)。
 田母神俊雄が上掲書で言うように、「自民党はもはや保守政党とは言えない」(見出し、p.96)のだろう(といって、他により「保守的な」政党があるわけではない。いや、国民新党は?
)。
 石原伸晃の「クーデター」という感覚はヒドいものだと思うが(私もそうではあるが、二・二六事件等を現実に知らない世代の者が、簡単にこんな概念を使うべきではない)、その感覚は、月刊諸君!(文藝春秋)の、上記のような、この雑誌の編集者が選択したと思われる、「暴発」・「暴走」という言葉にも通底していると考えられる。
 <文民>に従わない軍部(・自衛隊)の「暴発」・「暴走」を許すな>との、「戦後民主主義」的な、暗黙の考え方・意識に、自民党国会議員の大勢や月刊諸君!(文藝春秋)もまた陥ったままであるかに見える。自民党国会議員の「大勢」というのが適切だとすれば、月刊諸君!(文藝春秋)は、結局は、少数派になることを恐れる、ただの<大勢・体制順応>・<勝ち馬乗り>の雑誌ではなかったか、(株)文藝春秋も結局は、そういう出版社ではないか、と感じている。
 もっとも産経新聞は最近、半藤一利雨宮処凜という明確な「左翼」(九条護持派)を登場させたりしているので、(株)文藝春秋だけを批判してもほとんど意味がない。怖ろしい時代だ。佐伯啓思の本を読んでいるのは、知的刺激もあり、<イデオロギー>過剰では全くないので、なかなかの楽しい時間だが。

0714/諸君!最終・6月号(文藝春秋)-徳岡孝夫、佐伯啓思、竹内洋、八木秀次、西尾幹二等々。

 諸君!6月号(文藝春秋)と月刊正論6月号(産経)を手にする。
 最終号なので先に前者を開いて巻頭を追っていると、「紳士と淑女」欄筆者は徳岡孝夫だったと明らかにされている。この人は三島由紀夫が自決した際、直前に文章(檄文)を預かった者で(これはたぶん間違いない)、かつ当時は毎日新聞の記者ではなかっただろうか。後段も記憶が正しいとかりにすると、毎日新聞と諸君!は結びつき難いので少しは驚きがある。
 好みに従い、佐伯啓思「アメリカ型改革から<桂離宮の精神>を守れ」竹内洋「革新幻想の戦後史・最終回」を読む。後者は全体が戦後<進歩的文化人>の分析・批判だった気がする。いずれ単著になるだろう。<進歩的文化人>とはもはや死語のようでもあるが、しかし、そのDNAを継承する者は学界・法曹界・官界・マスコミ等にうんざりとするほどいて、まだ<多数派>かもしれない(「進歩的」・「文化人」の理解の仕方にもよる)。
 続いて、「リベラル右派」と自称している(p.242)宮崎哲哉の司会による彼も含めて八名の座談会。仕切っている宮崎はなかなか賢いと思うが、八木秀次は宮崎からツッこまれている(p.239)ほどに発言がやや少なく、精彩を欠く。とくに、自衛隊を律令制下の「令外の官」に譬える説を紹介して、宮崎に「立憲主義」の重要性を説かれ、現状では「憲法ニヒリズム」に堕すと指摘されている辺りは(p.216-7)、八木の自説でもなく十分な言及をする時機を失っているとしても、どちらが憲法学者なのかが分からないくらいだ。
 「立憲主義」そのものは、それが欧州近代の所産だとしても、法律制定者を拘束・制約する「メタ・ルール」の存在を肯定するという意味で日本でも妥当すると見てよいだろう。問題は「憲法」=「メタ・ルール」の具体的内容、それが<日本(人)>の歴史・伝統等をふまえた適切なものかどうか、だ。
 この座談会でも西尾幹二はよく発言しているし、注意・興味を惹く内容もある。
 順番としてはもっと後で読んだが、月刊正論6月号の連載コラム欄で八木秀次は、「ある雑誌の座談会」に「違和感を持ちながら」いた、「保守」はイデオロギーではなく生活・生き方等と「言う人に限って、人を押し退けてしゃべり続ける。その姿勢が他人との協調や謙虚さを重んずる日本の良き伝統に反する」と感じたからだ、と書いている(p.44)。
 「ある雑誌の座談会」とは諸君!6月号のそれで、「人を押し退けてしゃべり続ける」人とは西尾幹二なのだろう。西尾の発言内容を全面的に支持するつもりはないが、また八木が「違和感を持」ち温和しかった(?)理由らしきものに同情するとしても、別の雑誌でこんな私憤(?)を活字にするとはいかがなものか。または、どうせ書くなら雑誌名・人物名もきちんと書くべきではないのか。さらに、「人を押し退けてしゃべり続ける」と感じるか否かは人によって異なることで、それを根拠として「保守」ではないとか「日本の良き伝統に反する」、と断じることもできないのではないか。
 西尾と八木の<個人的>確執は一読者・一国民としては全く些細なことだ。むしろ、八木は上のコラムで天皇・皇后両陛下のご成婚五〇年の記者会見でのご発言を完全にそのまま肯定的に理解しているのに対して、月刊正論6月号の方の西尾幹二「日本の分水嶺-危機に立つ保守」は(是非はともあれ)<深い>理解を示しており、天皇制度の今後のあり方に関して重要とも思われる問題提起をしている、ということの方が大切だと考えられる。但し、今回はこれ以上は触れない。
 元の諸君!6月号の座談会に戻ると、村田晃嗣が田母神俊雄(論文)を何回か<親米>すぎる・切り貼り等と批判しているのが目についた。しかし、村田の少なくとも後者の批判は厳しすぎる。田母神は長い<研究論文>を紙数の制限を受けずに書いたのではない。新聞や雑誌が全文を登載したり、結果としては自著の一部として活字になることなど想定していなかっただろう。せいぜい(かりに入選すれば)論文募集会社の何らかの会報類に掲載されることくらいを予想していたにすぎないのではないか。この欄でも既述のとおり、あの程度の字数で詳細・厳密に論じるのは不可能だ。
 田野神にとっての<不注意・不用意>は、その論文が内局のトップ・増田好平事務次官に<悪用>される可能性を考えていなかったことだろう。
 もっとも、田母神俊雄論文への反応につき昨秋に<左翼ファシズム>成立又はその怖れを指摘したことがあるが、それに向かってのもっと深く広い<策略・陰謀>が背景があるのかもしれない(よく分からない。西尾・月刊正論6月号論考はその旨を指摘している)。
 西尾幹二が座談会で、竹中平蔵と野口悠紀夫を名指しして、アメリカ帰りの親米(「新自由主義」)経済学者と批判しているのも目についた(p.223)。別の何かでは、郵政民営化議論に関して問題は財投資金だと選挙直前に正しく指摘していたと、「勇気」ある経済学者として野口悠紀夫を褒めていたからだ。
 宮崎哲哉はなかなかの人物・論者だとあらためて思う。論壇又は議論・思想状況全体を広い観点から掴んでいるように見える(例えば、p.229)。
 このあと、たぶん月刊正論の方に移った。次回に。
 諸君!についてのあれこれの賛辞(p.155-。渡辺恒雄、立花隆、井上章一まで書いている)を多少は読んで思うのだが、この雑誌はそれほど立派な<保守>系雑誌だったのだろうか。「左翼」・保阪正康が最終回まで43回も連載しているのは何故なのか。不思議だ。 

0682/小林よしのりのサピオ3/25号・わしズム2009冬号(小学館)。

 一 サピオ3/25号(小学館)の小林よしのり「天皇論・第四章」計10頁は、月刊文藝春秋2月号の保阪正康「秋篠宮が天皇になる日」の全面批判だ。少しは単純化されているのだろうが、読んでいない保阪の文章の趣旨がよくわかった。小林によると、保阪正康は「『個性』を至上とする戦後民主主義的価値観を無条件に信じ、『ゆとり教育』的な馬鹿げた価値判断で人格評価」をしている。そして、その「人格評価」からすると秋篠宮殿下の方が現皇太子殿下よりも天皇に相応しいと保阪は示唆しているようだ。
 保阪正康は相も変わらず馬鹿なことを書いていると見られる。皇太子とその弟殿下で、皇室・歴史等々に関する発言の内容が異なるのは当たり前ではないか。平板に比較しているようでは、文言実証主義?には即していても、まともな<皇室論>にはならない。
 月刊文藝春秋の最新号でも同誌編集部は「秋篠宮が天皇になる日を書いたわけ」とかを保阪正康に書かせて、原稿料を支払っている(未購入・未読)。(株)文藝春秋はやはりおかしいのではないか。
 月刊諸君!4月号(文藝春秋)の秦郁彦・西尾幹二の対談「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」には「捨て身の問題提起か、ただの目立ちたがりか」という惹句が付いていた(表紙・目次・p.76)。
  こうした謳い文句自体、読者大衆の<下世話な興味>を煽るがごときであるし、(株)文藝春秋は田母神俊雄論文は「捨て身の問題提起」か「ただの目立ちたがり」かのいずれの立場にも(公平にも?)立っていない、ということを姑息にもこっそりと表明しているかのごときでもある。
 二 小林よしのりは、同責任編集・わしズム2009冬号(最終号)(小学館)に、「田母神論文を補強、擁護する!」も書いている(p.121~、計13頁。漫画部分はなし)。そこで批判されている人物は、順番に、秦郁彦、保阪正康、ジョン・ダワー、櫻田淳、森本敏、八木秀次、杉山隆男、石破茂、五百旗頭真、麻生太郎、浜田靖一
 ジョン・ダワーは別として、多くは日本の保守・中道派だと見られるが、「左翼」も含まれ、かつ保守・中道派であるような印象を与えている、客観的には「左翼」もいそうだ。少なくとも広義での<保守>は、田母神俊雄論文をめぐって、二つに分裂した。<戦後民主主義>を基本的なところでは疑わない「保守」もいるわけだ。麻生首相・浜田防衛相も、この問題では「左翼」と同じ立場に回った。「左翼」の<体制化>(左翼ファシズムの成立?)を意味し、何度も書くが、怖ろしい。  

0672/諸君!(文藝春秋)が廃刊。6月号(5月初旬発売)で終わり。

 (株)文藝春秋の月刊諸君!が6月号(5月初旬発売)で廃刊になることが決まったようだ。
 前回・前々回に言及した櫻田淳論考は諸君!4月号のもの。
 2月号を買って竹内洋の連載ものにあらためて興味をもち、数号を古書で買い求めた(従って文藝春秋の利益になっていない)のは諸君!だった。それ以前の諸君!は昨年初めくらいまではほぼ毎号新規購入して読んでいたが、昨年途中からどうもおかしいと思い始めた。
 記憶するかぎりでは、①「左翼」・保阪正康の連載を延々と続けさせている、②皇室問題につき<興味>を優先させる(対立を煽り立てるような)編集をしていると感じた、③文藝春秋本誌(月刊文藝春秋)もそうだが、田母神俊雄論文問題につき、完全に<傍観者>の位置に立った
 文藝春秋本誌では「左翼」・保阪正康の「秋篠宮が天皇になる日」とやらの論考が最大の売りであるかの如き編集・宣伝をしていた(そんなこともあって昨年末以降、文藝春秋本誌も購入していない)。
 諸君!は最近部数が落ちていたらしい。昨年平均は6万数千部に落ちた、という。これが多いか少ないかは判断がつきかねるが、自分自身が昨年途中から定期的購入者でなくなったのだから、同様の人が少なからずいても不思議ではない。
 西尾幹二は何かの雑誌上で、左傾化(・朝日新聞化?)する「文藝春秋」を批判・分析する文章を書いていた。
 廃刊の理由は様々あるだろうし、(株)文藝春秋の経営的判断・分析の正確な内容は分からない。
 ただ、他の「保守」系月刊誌(論壇誌)とは異なり、上記の如く、<左にもウィングを拡げようとした>ように感じられることが本来の読者層をある程度は失ったのは確かだと思われる。
 田母神俊雄論文をバッシングするか擁護するか、この雑誌と(株)文藝春秋は、明確な立場を表明できなかったのだ。また、諸君!に限っての記憶によると、「左翼」・保阪正康の論考(連載ものでなかったかもしれない)が大変よかった旨の読者投稿をあえて掲載したこともあった。そうした編集方針が部数減につながったのだとすると(その可能性は十分にある-講談社・月刊現代の廃刊の原因の一つも(こちらの場合はより明瞭な)「左傾化」だと思う)、「編集人」・内田博人の責任は少なくないだろう。「左傾化」又は「大衆迎合」化に舵を切りつつ、中西輝政、西尾幹二(あるいは4月号では長谷川三千子)あたりで巻頭を飾ってもらえば「保守」層は離れないだろうと判断していたとすれば(仮定形をとらざるをえないが)、読者を馬鹿にしていたとしか言いようがないものと思われる。
 40年続いた雑誌が休刊という名前の廃刊。保阪正康の名を見る機会が減るのは嬉しいが、竹内洋らの優れた、連載ものの論考・文章はどうなるのだろう。6月号で無理にでも終焉させるのだろうが、その点は残念なことだ。

0671/福田恆存に関する二つの連載もの(竹内洋・遠藤浩一)と再び櫻田淳。

 一 偶然なのかどうか、福田恆存に論及する連載ものが二つの雑誌で数ヶ月続いている。月刊諸君!(文藝春秋)の竹内洋「革新幻想の戦後史」(4月号は17回「『解ってたまるか!』と福田恆存」)と月刊正論(産経新聞社)の遠藤浩一「福田恆存と三島由紀夫の『戦後』」(4月号で31回)だ。
 前者の4月号も面白い。①金嬉老事件(1968)にかかわっての、中嶋嶺雄、鈴木道彦、日高六郎、中野好夫、金達寿、伊藤成彦ら(当時の)「進歩的文化人」の<右往左往>も、その一つ。
 ②朝日新聞の顕著な<傾向>を示す次の叙述も。-福田恆存が発表した論文が朝日新聞「論断時評」欄でどう扱われたか。「昭和四一年まで」は比較的多く言及されたが、昭和26年~昭和55年の間での「肯定的言及」数は福田恆存は28位で肯定的言及数でいうと中野好夫・小田実・清水幾太郎の「半分にも達していない」。一方、総言及数のうち「否定的言及」数は福田恆存の場合31%で、林健太郎(21%)、清水幾太郎(15%)を上回り、三一名中のトップ。「昭和四二年あたりから」は、福田恆存論文への言及そのものが「ほとんどなくなる」(p.234。竹内は辻村明の論考を参考にして書いている)。朝日新聞「論断時評」欄のこの偏り・政治性は、今も続いているだろう。
 なお、月刊WiLL4月号(ワック)の深澤成壽「文藝春秋/福田恆存『剽窃疑惑』の怪」(p.236~)は「左傾」?メディアの一つ・文藝春秋批判という位置づけなのか、この竹内連載中の福田恆存・清水幾太郎「剽窃」問題のとり挙げ方を批判している。そうまで目くじらを立てるほどではあるまいと感じたが、当方の読みが浅いのかもしれない。
 一方、後者(月刊正論の遠藤浩一)の4月号では、文学座の杉村春子の暴走、「女の一生」の中国迎合改作(改演)の叙述(p.269-273)が興味深い。演劇界にも戦後<進歩主義・対中贖罪意識>は蔓延したようで、「札付きの左翼劇団」だった民芸や俳優座だけでなく、政治と一線を画してきた文学座も「昭和三十代」に入ると「反安保」・「日中友好」を通じて「左翼観念主義」・「左翼便宜主義」に取り憑かれた(p.269)。
 滝沢修も日本共産党員らしき者(少なくとも70年代に「支持者」以上)だったが、どの劇団だったか、すぐには思い出せない。仲代達矢もそうした傾向の劇団を経ていたのかもしれないが(「左翼」五味川原作の「人間の条件」の主役もした)、そうした<傾き>をほとんどか全く感じられないのは(実際にも<傾き>がないのかもしれないが)好印象をもつ。
 杉村春子(1906-97)といえば、意外に知られていないかもしれないが、大江健三郎が受賞を拒否した翌年に文化勲章受章をやはり拒否した人物でもある。こじつけ理由の差異はともあれ、少なくとも拒否の点では、大江健三郎のエピゴーネン。
 二 ところで、櫻田淳は福田恆存につき、戦前の「古き良き日本」を思慕した言説主だとの前提に立っているようだ(月刊諸君!4月号p.52-53)。そうした面はあっただろうが、はたしてそう単純に福田恆存を概括してよいのだろうか。杉村に対する福田恆存の「助言」を読んでも、<昔(戦前)は良かった>を骨子とする<保守・反動>ではないことは明らかだ。
 櫻田には三島由紀夫や福田恆存の世代とは異なるんだという意識が透いて見える。それはよいとしても、-前回に記し忘れているが「戦後の実績」を「明確に肯定する」ことを前提にしてこそ「保守・右翼」言説は「拡がりを持つ」だろうとの指摘(p.53)には唖然とした。これは、「保守・右翼」言説の<左傾化>を推奨しているようなものだ。<左傾化>すれば「拡がり」を持つだろうが、もはや「保守」言説でなくなっている可能性が大だ。
 むろん、何が「戦後の実績」かという問題はある。<日本国憲法体制>あるいはGHQ史観・東京裁判史観の(基本的に)肯定的な評価までも含意させているとすれば、この人は「真正保守」どころか、「保守」だとも思われない(なお<日本国憲法体制>=1947年体制への私の疑問・批判は、同憲法無効論を前提としてはいない)。
 三 さらに前回記し忘れたことだが、産経新聞2/26「正論」欄の櫻田淳「『現在進行形の努力』と保守」の中には、一部、大きな過ちがある。すなわち、櫻田は、「定額給付金」は減税の一種だと理解し、<定額か定率か>つまり<定額減税か定率減税か>が問題だったはず、等と述べている。
 「定額給付金」は減税ではなく、所得税・住民税の非課税者(減税があっても利益にはならない人たち)にも給付される。このことは常識だと思っていたが、櫻田は理解できていない。まさに「右か左かはどうでもいい」(月刊諸君!4月号、櫻田p.55)基礎的知識レベルの問題なのだが。この人は信頼してはいけないように思える。

0670/櫻田淳は「真正保守」主義者か?等。

 〇一週間前に出した名前の小牧薫、高嶋伸欣でネット検索してみると、この二人がただの某裁判支援事務局長、名誉教授ではないことがよくわかった。逐一資料は挙げないが、れっきとした「左翼」組織員だ。日本共産党員である可能性もある。小牧薫は大江健三郎の本につき、「一定の」批判はある、と発言していたが、この「一定」(ある程度又はある側面)という表現の仕方は、日本共産党活動家に特有なものだ。あるいは、「左翼」活動家に広く使われている独特の表現方法・語彙の使い方かもしれない。
 〇産経新聞3/02の「正論」欄で、大原康男「保守派は『正念場』を迎えた」と書いている。
 政権交代が現実味を帯びており、民主党中心政権が誕生すると、①選択的夫婦別姓法案、②「戦時性的強制被害者問題解決」法案、③<定住外国人への地方参政権付与>法案、④<靖国神社に代わる国立追悼施設設置>法案などが成立する可能性がある。「保守派はこれまでにない難局に直面し、まさに正念場を迎えることになるだろう」。……
 そして大原は言う。-政治家だけではなく「民間の実力・器量も問われる」、「…党派を超えて真正保守の政と民が今まで以上に緊密かつ強力な戦線を構築することが望まれる」。
 大原に積極的に反対するつもりはないし、むしろきっとそうだろうとは思う。だがやはり、上の「真正保守」とはどういう考え方又はそれにもとづく団体・組織なのかは、不明瞭なままだろう。
 同じく産経新聞「正論」欄に登場し、「保守」派らしい月刊諸君!4月号(文藝春秋)に「保守再生は<柔軟なリベラリズム>から」を書いている櫻田淳は自らを「保守」主義者だと疑っていないようだが、大原のいう(いや誰が言ってもよい)「真正保守」の立場にあるのだろうか。
 櫻田によると、現在「保守」言論は「敗北」し、それは自らの「堕落」の帰結だ。櫻田は必ずしも解り易くはなくかつ決定的に重要とも思われない「福祉価値」と「威信価値」の二つを持ち出して、昨今の「保守・右翼」言説の特徴は後者の価値への「過度の傾斜」だとし、例として(日本)核武装論を挙げる。そして、この論は「核」廃絶による平和実現を説いた昔日の「進歩・左翼」言説と「何ら質的な差を見出せない」とする(諸君!4月号p.46-48)。
 さらに注目されることには又は驚かされることには、次のようにも言う。
 「村山談話」は、「現時点では日本の国益に資する『盾』や『共感の縁』としての効果を持つに至っていると評価している」。「村山談話」を、2005.04に小泉純一郎首相はバンドン演説で「対日批判」に対する「盾」として転用し、その演説は中韓以外のアジア・アフリカ諸国との「共感の縁」としても作用した(p.48-49)。
 こうした櫻田の主張は「保守」ではないのではないか。「盾」として転用せざるを得なかった?中韓の「反日」姿勢に対する批判的・警戒的な言葉はどこにもない。
 櫻田はつぎのようにも言う。-「村山談話」発表が世界での日本の「声望」への著しい害悪を及ぼしたのならば再考・破棄を提起したいが、「そうした事実を客観的に裏付ける根拠はない」(p.50)。
 かかる認識もまた(「保守派」としては)異様なのではないか。「そうした事実を客観的に裏付ける根拠はない」などと暢気に言っておれる神経が理解できない。また、論理的には、<日本の「声望」への著しい害悪>があったか否かが第一次的に重要なのではなく、「村山談話」の内容そのものの適否こそをまずは問題にしなければならないのではないか。
 櫻田は「保守・右翼」知識層の言説に種々の状況判断をふまえての<政治性>を求めているようだ。かかる姿勢は、不可避的に現状追認、過度の?摩擦・軋轢の回避の方向に親和的だ。それは、どこかで誰かが、あるいは広く朝日新聞等の「左翼」も含めて主張している、対中国・対韓国(・北朝鮮)関係は<できるだけ穏便に>・<不必要に刺激しないように>という、首を出すのを恐れるかたつむりか亀のような意識・神経をもて、という主張に近いように思われる。
 櫻田によると、高坂正嶤やかつての自民党は「福祉価値」を重視し、それの着実な充足によって多くの日本人の支持を得た。戦後生まれの者が三島由紀夫や福田恆存のように戦前の「古き良き」日本を思慕するのならば、それは「共産主義」社会を夢想した「進歩・左翼」の観念論に似た趣きをもつ。この「観念論の趣きこそが」、「保守」言論の「堕落」を招いている一因だ(p.51-53)。
 紹介は面倒なのでこのくらいにしたいが、まず第一に、「必ずしも解り易くはなくかつ決定的に重要とも思われない」とすでに上で記したが、櫻田が何やら新味を提出していると思っているらしい「福祉価値」と「威信価値」の区別は、多少の説明はあるが、また別の本か何かで書いているのかもしれないが、その意味・重大性の程度がきわめて曖昧だ。
 第二に、櫻田は「保守・右翼」言論が「進歩・左翼」のごとき「観念論の趣き」を持つと批判しているが、櫻田淳のこの論考自体が、私がこれまで読んできた「保守・右翼」言論の多くよりもはるかに「観念論」的だ。要するに、観念・言葉の<遊び>が多すぎる。日本の現実、日本をとり巻く国際情勢の現実を、この人は<リアル>に見ているのか。それよりも、「保守・右翼」言論の<方法・観点>を批判してやろうという主観的意図(これを一概に批判するわけではない)を、優先させているとしか思えない。
 このような櫻田淳は「真正保守」か?
 月刊正論4月号(産経新聞社)には潮匡人の「リベラルな俗物たち」の連載が続いている(今回の対象は、保阪正康という「軽薄な進歩主義を掲げた凡庸な歴史家」)。櫻田が「保守再生は<柔軟なリベラリズム>から」というときの「リベラル」と潮匡人の「リベラル」とは意味が違っているに違いない。違っていないとすれば、櫻田淳もまた客観的には「リベラルな俗物たち」の一人である可能性がある。
 「真正保守」・「リベラル」についての自らの見解を提示していないことは承知している。ただ<保守>論壇らしきものの危うさを懸念して、以上を書きたくなった。

0665/遅れて月刊諸君!2月号(文藝春秋)の一部。

 諸君!2月号(文藝春秋)を遅れて入手。
 一 田母神俊雄論文に関する編集の仕方は、さすがに(株)文藝春秋らしい(褒めているのではない)。
 二 竹内洋「革新幻想の戦後史15/『進歩的文化人』と『保守反動』」p.272以下を併せて読むと要するに、福田恆存「平和論の進め方についての疑問」(中央公論1954.12号)は清水幾太郎の剽窃(的)だと大熊信行は論評したが、事実は逆で、清水が福田の真似をした、ということのようだ。
 京都市立旭丘中学校事件のことをほとんど知らないので、興味深い。また遡って、未購入の1月号を入手しようか。
 同事件に関連して懲戒処分を受けた「左翼」教員側は、寺島洋之助、山本正行、北小路昴(北小路敏の父)ら。最高裁判決1974.12.10で懲戒免職処分は適法視された。これら教員側を応援した「進歩的」文化人・学者は、太田嶤(東京大学)、末川博(立命館)。市教委を支持して「左翼」側を批判したのは、臼井吉見(評論家)、坂田期雄(京都大学)。
 このあと、竹内洋はじつに興味深いことを書いている。
 坂田期雄が「進歩的」京都文化人等と対立したのは「かなり勇気のいる」ことだった。そして、この事件以来、坂田は「保守反動のレッテル」を貼られ、その「禍はその弟子」に及び、「有名国立大学」に転出する話が出ていた弟子(助手)の人事が「流れて」しまい、その弟子は結局は京都の某私立大学に就職した。坂田は、自分がレッテル貼りされたことは甘受するとしても、「弟子の就職の邪魔をした」ことになり慚愧に堪えないと語っていたとか(p.269-270)。
 政治学の分野で、<保守反動>の指導教授は大学院生たちを早く又はより有利に就職させられない状況にあったことを、中西輝政がたぶんほぼ2年前のやはり諸君!の座談会で語っていた(指導教授は高坂正嶤)。坂田期雄は当時京都大学人文研究所所属で専攻は日本史だが、広く思想史や政治学の「弟子」もいたようだ。
 中西輝政や竹内洋の証言?にかかる時代はだいぶ前だが、歴史学、教育学、政治学、法学、経済学等々の社会・人文系分野では、似たようなことが現在でも程度の差はあれあるのではないか。「左翼」的=学界<体制派>でないと、就職がむつかしいか、<よい>大学等には就職できないのではないか。逆に、平均的な業績があれば、例えば日本共産党員であるということは就職や転任にとって決定的に有利な要因になるような学問分野、科目、大学や特定の学部もあるのではないか。<大学の自治>、<学問の自由>の名のもとで、世間相場よりも多くの<左翼>たちが、そして日本共産党員を含む多くの左翼<組織員>たちが、大学には(社会系・人文系学部では)今なお棲息しているのではないかと思われる。そういう者たちの圧倒的な影響のもとで、学生たちは公務員(官僚)やマスコミ社員等となるべく卒業してきたことに、あらためて瞠目しておくべきだろう。
 三 中西輝政「日本自立元年」は巻頭の計13頁ぶん。ふつうならこの中西論考を読むだけでも購入するに値しただろうが、田母神俊雄論文に関する唯一の企画である対談の一人が保阪正康だと知って買わなかったのだった。
 2007年秋には中西はすでに「政界再編」への期待を語っていたと記憶する。この論考でも、最後の部分はこうだ。
 「日本生存のためには、どうしても劇的な政界再編を経て、真の保守勢力が結集されなければならない」。次の総選挙は「その第一歩となるはず」で、「そうならなければ、日本の明日はない」(p.36)。
 「真の保守勢力」の意味や核となるべき政治家集団が必ずしも明確になってはいないと思うが、かかる主張に反対するつもりはない。
 ただ、その現実的可能性を楽観視はできないと感じる。また、「そうならなければ」という条件つきの「日本の明日はない」との表現は、そうならないことがあれば文字通り「日本の明日はない」との意味で、じつはかなり悲壮な訴えかけなのではないか。

0662/月刊諸君!3月号(文藝春秋)を一部読む。

 久しぶりに月刊諸君!3月号(文藝春秋)を買う。以下、読んだもの。順不同。
 ・西尾幹二「米国覇権と『東京裁判史観』が崩れ去るとき」
 西尾幹二は皇室論以外では、至極まともだし、視野が広く、鋭い。
 ・佐伯啓思(聞き手・片山修)「<アメリカ型=自動車文明>の終焉」
 上の西尾論考と併せて、昨今に始まったことではないが、大きな変化の時期にあることを感じる。そこから何がしかの希望も出てくる筈なのだが、本質的・基礎的なところに立ち入らないマスメディア等に冒された人々が大多数では、日本の未来は決して明るくない。
 ・山村明義「いま、神社神道が危ない」
 由々しきことだ。中国による日本占領又は日本の中国の属国化により(「天皇」制度とともに)神道・神社が否定され、物的にも神社の施設が(チベットにおけるチベット仏教のように)破壊されるという<悪夢>を空想したことがある。それよりも先に、自壊してもらっては困る。
 ・山際澄夫「宮崎駿監督、どさくさ紛れの嘘八百はやめてください」
 宮崎駿が「左翼」らしいことはすでに他の何かで読んだ。この人の年齢くらいのインテリ又はインデリぶった人や芸術関係者には、新聞は朝日という人、そして単純素朴な「左翼」(・護憲主義者)が多いようだ。
 ・竹内洋「革新幻想の戦後史16/剽窃まがいは福田恆存か清水幾太郎か」
 標題の福田・清水問題は2月号を読んでいないため、やや分かりにくい。
 福田恆存は月刊・中央公論1954年12月号に「平和論の進め方についての疑問」を書いた。当時の<進歩主義>言説の「思考様式と行為様式をえぐった」もの(p.240)。これに対する批判的反応の大きさが興味深い。<論壇>がまだ成立していた時代なのだろう。
 福田論考を批判・攻撃したのは、竹内の言及によると、平野義太郎、新村猛、花田清輝、中島健蔵、佐々木甚一、(推測で)中野好夫。佐々木を除き、少なくとも氏名は知っている。また、この論考のあと、「民藝と俳優座」という二つの劇団との「交流も途絶えた」。福田恆存支持=「右翼」で、竹内ら当時の大学院生の間ではそれは「バカ」に近い意味だったとか。戦後いつまで、かかる<左翼・進歩主義>知識人・文化人の「論壇」支配は続いたのだろう。
 今日でもそうだろうが、月刊の<論壇>誌を読むような者がエラいとは限らない(私も含めて)。とくに月刊・世界(岩波)の読者であることを「インテリ」・「良心的知識人」の一つの証拠と思っているような者たちは、本当は<バカ>に違いない。
 その他は、余裕と気まぐれいかんによって読むかも(保阪正康の連載を除く)。

0647/西尾幹二・真贋の洞察(2008.10)の一部を読む-戦後「左翼」の権威・大塚久雄の欺瞞。

 前回使った言葉とあえて結びつけていえば、西尾幹二・真贋の洞察(文藝春秋、2008.10)p.107には、「講座派マルクス主義」の「お伽話」という語がある。
 西尾幹二の上の本によると、「戦後進歩主義」又は「戦後左翼主義」の代表者は丸山真男大塚久雄だ(p.94)。
 政治学が丸山真男、経済(史)学が大塚久雄だったとすると、歴史学や法学は誰だったのだろう。歴史学は井上清か、それとも羽仁五郎か。日本共産党の要素を加味すると古代史だが石母田正か。法学は、横田喜三郎(国際法)か宮沢俊義(憲法)ではないか。次いで川島武宜戒能通孝あたりか。日本共産党的には平野義太郎の名も挙げうるかもしれないが、社会的影響力は横田喜三郎や宮沢俊義の方が大きかっただろう。
 脱線しかかったが、西尾の上掲書は大塚久雄について面白いことを書いている。少なくとも一部は、知る人ぞ知るの有名な話なのかもしれない。
 ・大塚久雄によると、「絶対王制」と「結びついた」「特権的『商業資本』」が「新しい『産業資本』によって打倒されたかどうか」が、「市民革命」成立の有無の基準になる。
 ・大塚によると、フランスでブルボン王朝と結びついたいくつかの「特権的『商業資本』」が打倒されたことがフランス革命の「市民革命」性の証拠になる。日本(の明治維新)にはこのような例がない。
 ・しかし、-西尾は小林良彰の著書・明治維新とフランス革命(三一書房)を参照して以下を言う-江戸時代に栄えたいくつかの「特権的大商人」は明治維新を境に「廃絶」した。一方、大塚が挙げる具体の「商業資本」は、「フランス革命で廃絶」しておらず、むしろ「二十世紀の代表的企業に発展」した(以上、p.109)。
 ・大塚は「イギリスの農村におけるマニファクチャーの存在」の根拠として英仏二つの著書を挙げていたが(ここでは書名・著者名省略)、1952年に矢口孝次郎(関西大学)、次いで1956年に角山栄(和歌山大学)が、これら二著を大塚久雄が読んでいないことを「突きとめた」。大塚の論文当時に翻訳書はなかったが、角山栄が洋書不足時代に「隅から隅まで」原書を読んでみると、「驚くべきことにマニファクチャーのことなんか」何ら書かれていなかった。
 ・西尾は角山の本を参照して以下を書くが、大塚は学生に「角山の本は読むな」と警告し、「地方大学からの批判に中央のマスコミは関心を示さなかった」(以上、p.110-111)。
 以上を記したのち、西尾幹二はこう書く-「驚くべき事実」だ。「コミンテルンの指令な忠実な東大教授を守るために、中央のマスコミは暗黙の箝口令を敷いたのに相違ない」(p.111)。
 大塚久雄について、このような事実があったとしてみる。すると容易に推測できるのは、大塚に限らず、政治学(政治思想史学)の丸山真男についても、歴史学や法学の上に挙げたような学者たちについても(とくに丸山を含む東京大学(助)教授については)、類似のことがあった可能性がある、ということだ。
 <昭和戦後「進歩的」知識人>の「権威」は、(時期によってやや異なるだろうが)コミンテルン又はGHQの歴史観・「歴史認識」との共通性の有無・程度と「東京大学」等の有力大学教授かどうかによって、一口で言えば<非学問的に>(つまりは<政治的に>)築かれたのではないか。
 さらに言えば、今日の(とくに社会・人文系の)各学界の「権威」者たちは、本当に学問的・「科学的」に立派な学者・研究者なのだろうか、という疑問が生じても不思議ではない。

0619/文藝春秋本誌は「左」に立とうとして保阪正康・半藤一利・立花隆らを愛用し続ける-西尾幹二。

 一 最近の11/08に、西尾幹二が月刊諸君!(文藝春秋)12月号p.27に、文藝春秋はかつての中央公論と似てきており、朝日・論座、講談社・現代を欠く中で、文藝春秋と中央公論(=読売)は「皮肉なことに最左翼の座を占め、右側の攻勢から朝日的左側を守る防波堤になりつつある」と書いていることに触れた。
 西村幸祐責任編集・撃論ムック/猟奇的な韓国(オークラ出版2008.10)を捲っていたら、p.140で西尾幹二が上の旨をもう少し詳しく語っている。以下のごとし。
 文藝春秋(月刊)は「いよいよ怪しくなりだして」いる。この「本誌」は、「諸君!」とは別だとして距離を保とうとし、「ほんの少し左に」立とうとしている。そのため、「保阪正康、半藤一利、福田和也、立花隆といった面々を長々使い続けている」。今や明らかに「中央公論」の方へ寄っており、「知らないうちに朝日新聞の側に堕ちようとしている」。「『諸君!』とは違うんだ」と言っているうちに「朝日の側にどんどん傾いてしまっている」。
+  上で明記されている固有名詞のうち、保阪正康・半藤一利・立花隆の三人が紛れもなく「左翼」であることは私も確認している。例えば、半藤は「九条の会」賛同者、保阪は首相の靖国参拝糾弾者等々で、立花隆については論を俟たない。福田和也については、中川八洋が厳しい批判の本を出版しているようだが(所持はしていても)読んでいないこともあり(それ以上に福田の書いたものをほとんど読んでいないために)、私自身の判断・評価は留保する他はない。
 それでも、保阪正康・半藤一利に対して批判的であることは、西尾と私の間に違いはない。もっとも、文藝春秋(本誌)が叙上のようにヒドくなっているか否かは俄かには賛成しかねるが。
 「ほんの少し右」かもしれないが、月刊諸君!だって、保阪正康の文章を長々と連載している(12月号で38回め!)。月刊諸君!もまた、産経新聞以上に、「<保守>派としての<純度>」はとっくに薄れていると思われる。<保守>派論壇の力量自体が低下しているのかもしれないが。
 なお、月刊諸君!の連載のうち秀逸なのは、竹内洋「革新幻想の戦後史」だろう。完結と単行本化を期待して待ちたい。
 二 保阪正康・半藤一利に対して批判的であるのは小林よしのりも同じで、意を強くした記憶がある。
 古いサピオ(小学館)を見てみると(といってもまだ今年)、既述の可能性もあるが、小林よしのりは①3/12号で「中島岳志や保阪正康ら」を「薄らサヨク」と呼び(p.62)、②4/09号で、「保阪正康や半藤一利あたりの連中」も日本に戦争責任ありとの思い込みから逃れられない「被占領民」だとし(p.60)、③10/08号では「保阪の歴史観の異常さ」をかなり長く言及し(描写し)ている(p.55-59、この「31章」のほとんど全て)。
 これら以外に、保阪正康・半藤一利の二人は戦前の個々の軍人・政治家や個々の政策決定・戦術等の評価にかまけて<大局的>判断をしていない旨の指摘も読んだ(見た)記憶があるが、今は確認できなかった。
 保阪正康・半藤一利の二人は、戦時中のコミンテルンや中国共産党について、あるいはルーズベルト政権と「コミュニズム」との関連について、いかほどの知識と関心があるのだろうか。<敗戦>の責任者は誰かとその責任の度合いを日本国内の軍人・政治家について検討し論じているようでは、いかに個々の人物・事件や戦局の推移に詳しくとも、全体的なまともな歴史を語り得ないだろう。
 そのような保阪正康・半藤一利を(も)<愛用>しているのが文藝春秋(本誌も諸君!も)だ、と言って今回の当初の話題と結びつけておこう。

0618/公務員制度改革基本法の具体的実施への姿勢は総選挙の最大の争点か-屋山太郎。

 一 櫻井よしこ・いまこそ国益を問う(ダイヤモンド社、2008)の本文末尾p.318は、「追記」として208.06.06に公務員制度改革基本法が国会で成立したことを書き、この「基本法の成立に関して、私は福田政権に高い評価を与えたい」と述べる。この法律の骨子は櫻井によると、①「官僚主導から政治家主導政治への立て直し」、②「縦割りの各省人事の弊害の打破」、③「キャリア制度の廃止」で(p.313)、<過去官僚>たちが成立に抵抗した、という。
 この法律の成立と着実な実施に私も反対はしない。
 だが、この法律の具体的実施への姿勢は<政権選択>の唯一の判断基準ではないだろう。
 二 屋山太郎はまるで上のようなことを書いている。
 産経新聞11/11「正論」欄の屋山太郎の文章の見出しは「公務員改革に消極的な麻生政権」。中見出しだけ挙げると「政官癒着理解しない首相」・「民主党顔負けのバラ撒き」・「無知ゆえの消費税引き上げ」の三つ。消費税問題とも絡ませて、官僚制度の刷新・無責任解消、政官利権構造の絶滅をしないと「国民は増税話に耳を傾けるわけがない。麻生氏や与謝野氏にはその自覚が全くない」と締め括っている。
 ここではとくに総選挙との関係は書かれていないが、月刊諸君!12月号(文藝春秋、2008)の屋山「目標はただひとつ。官僚支配の打破」(p.58-59)は、<任せていいのか、小沢一郎に>という特集の中の一つの論稿であり、かつまた内容的に見ても自民党(麻生政権)を批判し、民主党・小沢一郎に期待するものになっている。小沢一郎には任せられないという結論の執筆者の方が多いだけに、<保守派>(のはず)の屋山の主張はおやっと思わせる。
 要約的・断片的紹介だが、屋山はいう。・「小沢氏の行動原理は一貫している。…目標は一つ。政権交代のできる政治状況を作ること」だ。
 ・小沢は「政府委員制度の廃止と副大臣、政務官設置」に固執し、実現させた。
 ・小沢は「先の国会では公務員制度改革基本法を民主党主導で成立させた」。この法律は「明治以来の官僚内閣制にとどめをさそうというもの」だ。
 ・「二大政党による政権交代、官僚内閣制からの脱却という目標に向って小沢氏はこの二十年間、一直線に歩いてきた」。
 ・小沢は、「とにもかくにも、官僚内閣制の打破、自民党打倒の旗のもとに勢力を結集することに成功している」。「一般国民」の「期待も高まっている」。
 ・「天下分け目のこの時節に」麻生首相は奇妙なことを言っている。「麻生氏の時代になって、突如、政治は後ろ向きになった。だからこそ麻生氏は人気が上がらず選挙を打つに打てなくなった」。
 このように、小沢一郎を批判する・疑問視する部分は一つもなく(むしろ褒めることだけをして)最後に麻生首相を批判するとあっては、近い?総選挙では自民党にではなく、小沢一郎・民主党に投票しよう、と主張しているに等しい。
 ちょっと待て、と言いたい。公務員制度改革基本法の具体的実施への姿勢は<政権選択>の唯一の判断基準なのか。
 屋山は「官僚内閣制」というやや抽象度の高い概念を用いているが、かりにその実態があり弊害があるとして(そのことを一般的に否定はしない)、小沢一郎政権によって本当にそれの打破は具体的に実現されるのか。今でも<過去官僚>たちは「人事局」設置等に反対し又はその権限に制限をかけようとしている。小沢・民主党政権ならば必ずできる、と言い切れるのか。
 さらにもともと、「官僚内閣制」なるものの打破は次期選挙の、唯一の(又は最大の)争点なのか。
 三 
・「バラ撒き」政策度は、農家への「所得補償」も含めて、民主党の方がよりヒドい。一方、消費税率上げの明言はないようだ。
 ・民主党の1998年の基本政策によると「社会のあらゆる分野で男女の固定した役割分担や差別、不平等な状態の解消を促す。多様な生き方を可能にする家族法の整備、女性のからだと健康、性と生殖に関する権利(リプロダクティブ・ヘルス/ライツ)の保障、性的ないやがらせや暴力を防止する諸施策、女性政策を強化するための総合的な立法措置などによって、男女共同参画社会を実現する」とある。これは多分に<(左翼)フェミニズム>の影響を受けている。こうした影響の受け方の程度は自民党よりも民主党の方が「ヒドい」だろう。

 ・上記基本政策によると、「定住外国人の地方参政権などを早期に実現する」ともある。
 
・民主党2007年マニフェストには、<人権擁護法案>の成立をめざす旨が、「内閣府の外局」として「中央人権委員会」を設置する等と書かれてある

 ・中国・北朝鮮に対する姿勢は、民主党の方が自民党よりも<甘い>のはよく知られているとおりだ。民主党のHPには、2007年12月の(民主党・中国共産党間の)日中「交流協議機構」第2回会議(北京)の胡錦涛・小沢を含む写真が大きく載っている(多数参加のため一人一人は小さいが)。 
 ・民主党の安全保障政策に不明なところ・問題なところのあることも周知のとおり。

 以上の他にもあるだろう。公務員制度改革基本法に対する姿勢が(かりに屋山の指摘のとおりだとしても)唯一の又は最大の争点となって総選挙が行われるべきだ、とはとても思えない。
 四 自民党を100%支持しているわけでは全くない。

 西尾幹二は月刊WiLL12月号(ワック)p.101で、自民党議員の「三分の一ぐらいは福島瑞穂と同じじゃないか」と書いている。加藤紘一・河野洋平・後藤田正純ら、民主党か社民党へ出ていけ、と言いたい者もいる(河野は今期で引退)。片山さつきも大臣をした猪口某女史も「保守主義」に関する知識はあっても「保守主義」者だとはとても思えない。だが、西尾は同頁で、「民主党に至っては九割が『福島瑞穂』化している」のではないか、とも書いている。1/3も9割も感覚的な数字だろうが、親コミュニズム・親「社会主義」(あるいは「容共」)の程度において、民主党の方が高い、つまり<より左翼>であることに間違いはないものと思われる。
 近時の防衛省(航空自衛隊)高官論文<事件>との関連でいえば、そもそもが、日本社会党委員長・村山富市が首相になり、客観的とは言い難い<自虐的>談話を発表したこと自体を問題にする必要がある。社会党を政権につかせたことの弊害が、現今にも(おそらく近い将来にも)禍根を残しているわけだ。その日本社会党の「血」を最も引いているのは社民党よりもむしろ民主党だ。
 民主党系活動家は国家・地方の公務員労組のかなりの部分を支配している。そのような公務員活動家が支持する政権が出来れば、その政権はかりに上級官僚には厳しい人事政策を採っても、一般公務員にはきっと<やさしい>政府になるだろう。
 また、日教組(部分的には日本共産党系・全教?)が支持する政党が政権を担えば、再び文科省・日教組は<癒着>し、日教組が教育行政に影響を与えそうだ。
 政党の数に限りがあるかぎり、いずれが<よりまし>か、で判断せざるを得ない。民主党が<最もまし>又は<よりマシ>とは思わない。
 また、民主党に一度やらせた方が<政党再編>が早まる、という議論があるかもしれないのだが、<政党再編>が今よりましな政党状況になる保障はないし、また<政党再編>の可能性がより高くなるという根拠も何もないのではないか。
 五 以上、屋山太郎には、もっと<大局>を見ていただきたい。岩波書店の月刊雑誌・世界12月号の表紙にはたしか、大きく「政権交代選挙へ」と書かれていた。誘導・煽動以外の何物でもないだろう。岩波や朝日新聞の主張どおりに日本が動くとロクなことはない、というのはほぼ確立した歴史的教訓なのだが…。
 なお、屋山は月刊WiLL12月号(ワック)にも似たようなことをやや穏便に書いていることに気付いたが、言及は省略する。

0615/西尾幹二の月刊諸君!12月号論稿を読む。やはりどこかおかしい。

 月刊諸君!(文藝春秋)12月号西尾幹二「雑誌ジャーナリズムよ、衰退の根源を直視せよ」。p.26-37でけっこう長い。
 一 「論壇」という観点等からの戦後史の理解に参考になる指摘がある。
 1.「1960年代の終わりから1970年代なかば」は「決定的分岐点」。「大学知識人」の地位は失墜した。丸山真男の力も「雲散霧消」した。p.27。
 2.1970年代以後、朝日新聞対文藝春秋の対立の構図があり、やがて朝日対産経の構図にとって代わられた。
 産経の「保守的姿勢」は純度を欠くにいたっている。また、文藝春秋はかつての中央公論と似てきており、朝日・論座、講談社・現代を欠く中で、文藝春秋と中央公論(=読売)は「皮肉なことに最左翼の座を占め、右側の攻勢から朝日的左側を守る防波堤になりつつある」。p.27。
 挿むと、なかなか興味深いが、かかる論壇の現状認識は適確なのだろうか。「右側の攻勢」が「朝日的左側」に対して実際に有効に加えられているのなら、よいのだが。
 3.論壇誌は経済に弱い。経済誌は政治に弱い。後者から出た野口悠紀夫の「一九四〇年体制論」はかつての「戦時協力体制」が支配しつづけて、日本経済の「自由主義的発展」を阻害しているとするが、「戦時体制」による「日本社会の合理化」が戦後日本経済(の成長・強さ)に関係あるのではないか。p.29-30。
 挿むと、高度経済成長の終焉後の議論としては噛み合っていないところがあるようでもある。
 4.ロッキード事件・田中角栄逮捕は、「ソ連主導の共産主義」の経済的「足踏み」の時期と重なる。1970年代半ば、日本国内の「革命幻想の嵐」は終息に向かい、自民党・社会党の「馴れ合い進行」へと移っていた。国際的なある種の「雪解けムード」が田中角栄逮捕→角栄の闇権力の残存・政権たらい回しにも反映したのでないか。p.31。
 5.1993年の細川政権誕生、その翌年の自社連立政権という「想像を絶する愚劣な政権」の誕生も、「冷戦終焉、ベルリンの壁崩壊による安堵感」という世界史的背景を見てこそ、本質がわかるだろう。p.32。
 6.いま、今日の日本の政治状況も「国際政治」の「なんらかの反映」がある筈だが、「答えることができ」ず、「ぜひ教えてもらいたい」。
 上の4.5.は興味深い。社会主義国の状況はやはり日本の国内政治と関係ではない筈だ。
 「いまの政治状況」をどう理解しどう叙述するか自体が難問だ。だが、今後の方向を考える場合には、「公務員制度改革」も「地方分権」も、<格差是正>も(「国民生活」も)大切かもしれないが、やはり「社会主義」国である中国・北朝鮮との関係にかかる見解・政策こそが最大または第一の論争点でなければならない、と私は考えている。
 相対的にだろうが、親中国派・親北朝鮮派のより多い政党への<政権交代>を主張する又は期待するのは、反コミュニズムを最大の基本理念とする「保守主義」者ではないだろう。この点で怪しい「保守」論客もいるようだが別の機会に書こう。
 二 西尾幹二は論壇における「皇室論」、又は自らの「皇室論」への論壇の反応についても触れる。p.36-37。
 二つの「皇室論」があったという。第一は、「皇太子殿下ご夫妻に、もっと多くの自由を」と説く、「ソフトで、制約がないことが望ましい」とする「平和主義的、現状維持的イデオロギー」(「自由派」)、第二は、「古風な、がちがちに硬直した、皇室至上主義的なイデオロギー」で、皇室に「もの申す」のは「不敬の極み」などと西尾を論難した(「伝統派」)。
 そして、これらいずれも「東宮家の危機を、いっさい考慮にいれていない」、「目を閉ざしてしまう」点では「一致している」。
 こうしたまとめ方・語句の使い方には必ずしも賛同できないところがあるが、とりあえず措く。
 問題だと思うのは次の文章だ(p.37上段)。
 「私が危惧するのは、いまのような状態をつづければ、あと五十年を経ずして、皇室はなくなるのではないかということです。雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける。というか、明確に拒否されて、すでに五年がたっている。…皇太子殿下はなすすべもなく見守っておられるばかりなのではないか。これはだれかがお諫めしなければならない。…なら、言論人がやらなきゃいけない」。
 西尾はどうしてこうまで<焦って>いるのだろうか? よく分からない。「あと五十年を経ずして、皇室はなくなるのではないか」との懸念が「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける」ということを根拠にしているとすれば、それは当たっていないと思われる。
 そもそもが「雅子妃」は「宮中祭祀をなさる(なさらない)」と書いて、雅子妃殿下が宮中祭祀の主体(の少なくとも一人)であるかのごとき認識をもっているようだが、これは誤りだろう。すなわち、皇太子妃は宮中祭祀の主体ではなく参加しても「同席者」・「列席者」にすぎず、「主体」はあくまで天皇陛下だと思われる。
 また、これまでの歴史においていろいろな皇太子妃や皇后がいたはずで、雅子妃と同様に(?)宮中祭祀に関心を示さない皇太子妃や皇后もいたのではなかろうか。美智子前皇太子妃・美智子皇后を基準にしてはいけない。
 さらには、確認はしないが、財政不如意のために皇位継承後の大嘗祭(新嘗祭)というきわめて重要な宮中祭祀を行えず、数年後になってそれをようやくなしえた天皇がかつて複数いたはずなのだ。
 にもかかわらず、そういう時代があっても、天皇家と天皇制度は存続し続けてきた。雅子妃の件が<皇室消滅>の原因になるとは思われない。いろいろな皇太子妃・皇后がいた、ということだけになるではないのか。
 再確認はしないが、宮中祭祀の主体は天皇陛下おん自らであり(代拝等はありうる)、皇太子妃等は<付き添い>・<見守り>役にすぎないことは、西尾よりも皇室行事・宮中祭祀に詳しいと考えられる竹田恒泰が明言していたことだ。
 竹田恒泰は(そしてついでに私も)、西尾幹二が上にいう第二の「伝統派」にあたるのだろうが、皇太子妃・皇后と宮中祭祀の関係についての竹田恒泰の文章を西尾は読んでいるはずなのに、その後も全く触れるところがない。
 「伝統派」は畏れ多いとだけ言っているのではなく、<大げさに心配するほどの問題ではない>と言っているのだ、と思う。この点でも、西尾幹二は正確に論議を把握していないか、知っていても無視しているのではないか。
 以前に、かりに本当に皇太子妃殿下が<反日・左翼分子>に囚われてしまっているのだとすると<もう遅い>、現皇太子の婚姻の前にこそ西尾は発言すべきだった、と書いたことがある。
 <もう遅い>というのは、極めて遺憾なことだがやむをえない(いろいろな皇族がいても不思議ではない)という意味であり、そのこと(皇太子妃殿下の心情や行動)と皇太子殿下(将来の天皇)のそれらとを同一視してはいけない、又は同一になるはずがない、ということを前提にしている。
 このような同一視の傾向は、再引用は省略するが、八木秀次の文章の中にも見られたところだった。
 西尾幹二の全ての仕事を否定する(消極視する)つもりはないのだが、やはり今年の西尾の皇室論はいくぶんエキセントリックだったと思われる。その意味では、今日の「雑誌ジャーナリズム」・「論壇」を奇妙なものにし、「衰退」させている一因は、西尾幹二にもあるのではないか。
 なお、現皇太子はもっぱら戦後の<空気・雰囲気>の中で生きてこられた。戦後に生まれ、戦後の「教育」を受けてこられた。昭和天皇や今上天皇と全く同じことを期待するのは酷だ。「自由派」の主張には全く反対だが、悠久の歴史を引き継ぎつつ、独自の新しい面もある天皇像が示されることとなってもやむをえないのではないか。むろんこれは宮中祭祀不要論・否定論では全くない。伝統は伝統として(神道形式も含めて)間違いなく継承されるはずだ、と信頼している。

0592/八木秀次は不誠実、というより卑劣だ-その1。隠蔽と二枚舌と。

 一 あらためて引用しておくが、諸君!2008年7月号(文藝春秋)p.262で、八木秀次はつぎのように書いた。
 「問題は深刻である。遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生するという、皇室の本質に関わる問題が浮上しているのである。皇室典範には『皇嗣に、……又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、……皇位継承順序を変えることができる」(第三条)との規定がある。祭祀をしないというのは『重大な事故』に当たるだろう」。
 中西輝政の「同妃〔現皇太子妃-秋月〕の皇后位継承は再考の対象とされなければならぬ」との一文(上掲誌p.239-240)とともに、100年後も200年後も活字として残るはずの、<歴史的な>文章だ。
 上の文章は「遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生する」蓋然性又は現実的可能性に言及して、皇室典範上の「皇位継承順序を変えることができる」要件の解釈を示している。字数の制約のためもあるかもしれないが、論理・意味ともに不可解又は曖昧なところもある。しかし、既述のことだが、間違いないのは、上において、八木秀次は、現皇太子妃殿下の現況を理由として(あるいは援用、これに論及、言及して)現皇太子の皇位(天皇たる地位)継承資格を(明確に否定はしていなくとも)疑問視している、ということだ。そうでないと、皇室典範三条に言及し、その一部の文言に関する解釈をとくに示しておくことの意味はないだろう。
 上の文章を含む雑誌は6月初めに出版されているので、執筆は4月末から5月半ばあたりだったのだろうと推察される(雑誌の出版実務に詳しくはない)。
 二 先月・8月に竹田恒泰=八木秀次・皇統保守(PHP、2008)という対談本が出ている(竹田恒泰の月刊WiLL上の西尾幹二批判論文も転載されている)。八木の「あとがき」の期日は7月15日になっている。
 その中で二人で西尾幹二を批判している部分があるが、八木秀次の諸発言を読んで、唖然とせざるをえなかった。
 まず基本的なことをいえば、この本が内容とする対談は上記の諸君!(文藝春秋)の発売やそのための八木の執筆の時期よりも後である筈であるにもかかわらず、自らが上のように近い過去に明言した、ということ、をその内容も含めて、この本の中でいっさい述べていない(!)ということだ。
 まるで竹田恒泰に相当に同調しているような発言の仕方をしている(完全に同じだとは言わない)。八木秀次という人は、適当に(自分の本意を隠して)対談相手に合わせることができる人なのだろう(すでに言及した中西輝政との対談本(PHP)でもそれを感じることがあった)。
 結論的なところを推測するに、私は詳しくない「つくる会」分裂・変容の過程で生じた(原因か結果かは知らないしそれがここで述べていることと直接の関係はない)反西尾幹二感情を基礎にして、皇太子妃殿下問題を中心とする<皇室>問題では反西尾幹二で<共闘>できる竹田恒泰を対談相手として選んだのだろう。
 後述するが、新田均も月刊正論10月号(産経新聞社)で明示的に認めるように、竹田恒泰と八木秀次では皇太子妃殿下(→皇太子・皇位継承)問題に関する考え方は同じではない。というより、むしろ明確に対立する立場にあるとすら言える。そうした二人が連名で本を出すのだから、その共通性は<反西尾幹二>意識にある、としか考えられない。
 三 <反西尾幹二>意識が八木自身のこれまでの発言等とも照らして正当なものであれば、批判することはできない。
 だが、八木の西尾幹二に対する批判は、公平に見て、その<仕方>も内容も、適切ではないところがある。<反西尾幹二>感情の過多が原因ではないか。
 一円の収入にもならない文章を懸命に書いてもほとんど無意味だと感じてきているので、一気に書いてしまわないで次回に委ねる。

0580/八木秀次は客観的には刑法第230条又は第231条に違反する「犯罪者」ではないか。

 戦前の不敬罪や現憲法下でも存立の余地があるとの議論がある象徴(天皇)侮辱罪や皇族(皇室)侮辱罪にいつぞや触れた。
 現法制のもとで法的に又は法論理的にある可能性は、一般国民について適用のありうる<名誉毀損罪>又は<侮辱罪>を皇族個人に対する<名誉毀損>・<侮辱>について適用することだ。
 (現行)刑法第230条と第230条の2は次のように定める。
 「第230条(名誉毀損)
 1
 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀 [き]損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。
 2 死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。」
 第230条の2(公共の利害に関する場合の特例)
 
 前条第一項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
 2 前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。
 3 前条第一項の行為が公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実に係る場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。」
 これらによると、天皇・皇族関係発言や記事のほとんどは「公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める」場合に該当するとされるだろうから、「真実であることの証明があったとき」にのみ加罰性がない、ということになる。
 侮辱罪に関する規定はもっと簡単だ。 

 「第231条(侮辱) 
事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、拘留又は科料に処する。」
 これら名誉毀損罪・侮辱罪によって保護される利益の主体の中に少なくとも「天皇、皇后、太皇太后、皇太后又は皇嗣」が含まれることは、次の条文によっても明らかだ。
 「第232条 (親告罪)
 1 この章の罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。
 2 告訴をすることができる者が天皇、皇后、太皇太后、皇太后又は皇嗣であるときは内閣総理大臣が、外国の君主又は大統領であるときはその国の代表者がそれぞれ代わって告訴を行う。」
 <天皇、皇后、太皇太后、皇太后又は皇嗣>以外の皇族の場合は当該皇族(皇太子妃を含む)個人が「告訴」することが可能だと解される。上の規定は内閣総理大臣等による代理告訴に関する規定であり、上記特定の皇族以外の皇族の個人的・人格的利益が保護されようとはしていない(=名誉毀損や侮辱の対象にはならない)、とは解されない。
 もちろん(代理を含む)告訴には事前の警察・検察との調整が必要だろうし、内閣総理大臣の<政治的>判断も必要なので、戦後ずっとそうだったと思われるが、<天皇、皇后、太皇太后、皇太后又は皇嗣>を含む皇族に対する「名誉毀損」や「侮辱」について告訴がなされることは今後もないだろう。皇室関係の文章を書いている文筆家(売文業者を含む)や関係雑誌・書物を出版する出版社は、そのような知識くらいはもって、執筆し出版しているのだと考えられる。
 だが、現実に告訴される可能性がないからといって、皇室について何を書いてもよいというわけではないことは、すでに示唆したとおりだ。良心・良識感覚による自律が必要になってくる。
 上のようなことをふまえて再度話題にするが、諸君!7月号(文藝春秋)誌上での次の八木秀次の文章はどう評価されるべきなのだろうか(p.262)。
 「遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生するという、皇室の本質に関わる問題が浮上しているのである。皇室典範には『皇嗣に、……又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、……皇位継承順序を変えることができる」(第三条)との規定がある。祭祀をしないというのは『重大な事故』に当たるだろう」。
 「皇位継承順序を変える」ということは文脈上明らかに現皇太子から(その「皇嗣」性を否定して)別の方に「皇位継承順序」を移すことを意味する。これは、現皇太子は皇位継承適格性を欠いていると言っているに等しい。将来の「天皇」適格性を否定している(遠慮して書いても、疑問視している)、と言っても同じだ。
 しかして、その根拠は? 
八木秀次は刑法第230条の2の第一項又は第三項にいう、「真実であることの証明」をすることができるのか。
 便宜的に八木秀次に限っておくが、同誌上の中西輝政の文章も現皇太子妃殿下に対する「名誉毀損」又は「侮辱」に客観的には当たる可能性が高い。
 勝手な推測だが、西尾幹二の現皇太子・現皇太子妃両殿下に対する月刊WiLL(ワック)誌上での論調が後になればなるほど、厳しくなくなっている(いちおうはすべて一読している)のは、基礎的な事実の認定が不十分な中で(いかに皇室の将来を憂慮しての心情からであっても)特定の皇族個人を非難するのは「名誉毀損」又は「侮辱」に客観的に当たる可能性があり、皇室・宮内庁等が<法的>問題化する可能性が100%ないわけではない、ということを誰かにアドバイスされたからではないだろうか。
 別のことをついでに書いておくが、<世すぎのための保守>派、<稼ぐための保守>派、<生活のための保守>派(「派」には文章書き等の個人も編集者・出版社も含む)、には嘔吐が出る。<左翼>についてと同様に。
 いかなる「政治的」組織・団体とも無関係の私にはいかなる義務も責任もない。当然に、一円の収入にもならないこのブログへの記入も含めて。

0573/祝・朝日新聞社『論座』休刊-週刊文春7/10号・宮崎哲弥による。

 週刊文春7/10号p.117、宮崎哲弥のコラム「仏頂面日記93」によると、こうある。
 「朝日新聞社のオピニオン雑誌『論座』の「休刊」が決まったらしい。十月号がファイナル・イシューになるらしい」。
 宮崎は残念そうな言葉も漏らしているが、<左翼政治謀略団体>朝日新聞社の出版物が減ることは、日本の国民と国家にとってよいことだ。「休刊」とは実際は「廃刊」を意味するはずで、<左翼政治謀略団体>発行の月刊論壇誌が消えるとは喜ばしい(別の名前で再登場の可能性はある)。とても気持ちの良いニューースだ。宮崎哲弥の情報の信憑性が高いことを強く期待する。

0567/<皇太子妃批判者・騒ぐマスコミ等、を批判する>7名-月刊・諸君!7月号。

 月刊・諸君!7月号(文藝春秋)の「われらの天皇家、かくあれかし」という大テーマのもとでの計56人のうち、皇太子妃問題(?)に言及している21〔これまで20としてきたのを訂正する。外国人1名を除くと20〕の文章を、大きく5つのグループに分けて言及してきた。
 第一は、皇太子妃を責めることなく、天皇制度の解体・崩壊に言及するもので、森暢平原武史の2(<解体容認派>)。
 なお、森暢平には、同・天皇家の財布(新潮新書)という本もあり(所持していることにあとで気づいた)、それも含めて読むと、ジャーナリステッイクでクールではあるが、天皇制度の解体・崩壊を望んでいる(又はそれで構わないと容認している)論者とするのは、誤りかもしれない。
 第二に、皇太子妃(雅子妃殿下)を批判・攻撃し、制度上の何らかの提言までしているのが、中西輝政、八木秀次、そして西尾幹二の3(<制度論にまで立ち入る批判・攻撃派>)。
 第三に、現皇太子妃に対して批判的、又は皇太子・同妃ご夫妻(もしくは妃殿下との関係で皇太子)に「注文」をつけている、というようにあえて一括できそうなのは、秦郁彦、久能靖、山内昌之、ケネス・ルオフの4(<批判・注文派>)。
 第四に、<中間派>は、すなわち現況に<憂慮>を示しつつ皇太子妃(・皇太子)を批判するわけではない(少なくともその趣旨は感じ取れない)のは、大原康男、佐藤愛子、田久保忠衛、中西進、松崎敏彌の5。
 第五は、<皇太子妃批判者・騒ぐマスコミ等、を批判する>というグループで、つぎの7。そろそろ次月号が発売されそうなので、その前に片付けておく。
 ①笠原英彦(p.196-7)。すでに6/02に紹介した。次のように書く。
 1.西尾の皇室観は「実に卓越」したものだが、「読み進むうちに…正直いって驚いた」。「氏の根拠となる情報源は何処に。いつのまにか西尾氏まで次元の低いマスコミ情報に汚染されていないことを切に祈る」。西尾の論調は
「格調高くスタート」し、「おそらく」を連発し、「思いっきり想像を膨らませ」、ついに妃殿下を「獅子身中の虫」と呼んで、「噂話の類まで権威づけてしまつた」。
 2.西尾は「憂国の士であるが、過剰な心配はご無用」。「天皇といえども十人十色」。
 上の最後の言葉は、おそらく、皇后も、皇太子も、皇太子妃も「十人十色」ということを意味するだろう。
 
竹田恒泰(p.227-8)。当然にこのグループに入る。西尾幹二という固有名詞を使ってはいないが、「畏れ多くも東宮を非難するような心ない意見が飛び交うようになった。しかも、保守系の論客が火に油を注ぐような記事を書き連ねているのは誠に残念」だと、実質的に西尾を批判する(又は苦言を呈する)。そして、かりに報道内容が事実でも「その程度のことで皇室の存在が揺らぐようなことはあり得ない」と「断言」し、歴史的に見ると「平成の皇室の問題など、問題の類に入らない」、「騒ぎ立てるのではなく、静かにお見守り申し上げるのが日本国民としてのあるべき姿」ではないか、と書く。以下は五十音順。
 ③遠藤浩一。共産主義・共産党の問題から始めるのが特徴だろうか。
 次のように言う-東アジアでは中国共産党は生きのび「冷戦」構造はしぶとく今日まで継続している。「敵」の姿は見えにくくなったが、「反日」勢力は地下深く潜行しており「保守」派にまで「浸透」している。平成版「開かれた皇室」論は悪臭を放っているが、昨今の皇太子関連問題も「開かれた皇室」論の影響又は変奏だ。これの「悪質」さは、皇室解体を目的としつつもさも「皇室の将来を慮る」口調で展開されていることにある。
 最後の一文-「本質を歪めるような御為倒(おためごか)しは、厳に慎むべきである」。
 ④岡崎久彦-皇太子妃殿下の御ことは「ご病弱のため公式行事ご出席のお願いはご遠慮申し上げているといえばそれで済むことを、いちいち騒ぎすぎているように思う」。「今後とも、皇室のプライバシーは尊重するように、天皇の政治的利用は慎むように、それさえ心がけて行けば安心して見ていられる」。
 なお、岡崎は国家国民の運命がかかる一大事の際に「天皇制」を「使う」ことができればよい、とややクールな道具視とも取れる見解も述べており、また、「開かれた皇室」論には一貫して反対してきたことを強調してもいる。
 ⑤岡田直樹-「今日の皇室に対する過剰な報道や無責任な論評は常軌を逸しているようにも思う」。「とりわけ、最近、目に余るのは体調を崩した皇太子妃に追い打ちをかけるかのような報道だ」。
 最後にこうも書く-今上天皇・皇后両陛下は「平成という一時代の理想像」で、「次世代を担う皇太子ご夫妻はそのまま真似る必要もないし、多少時間はかかっても焦らずに新たなスタイルを生み出せばよい」。
 ⑥徳岡孝夫-現皇太子妃が今年も歌会始めを欠席されたのは「残念」だが、「さりとてジャーナリズムの報じる彼女の一挙手一投足を、いちいち咎める気にもなれない」。「皇室の伝統は、その一員の行動によって乱されるほど短くも浅くもない」。
 この文章は、あるいは一つ前の<中間派>に含める方が妥当かもしれない。
 ⑦渡邉恒雄-「最近、平成の皇室に対し、心無いマスコミが…、プライバシーの暴露を商品化することが多いのは、まことに遺憾」だ。「多くの興味本位の皇室報道は、その報道機関の商業的利益のためのものに過ぎない。それは汚いジャーナリズム」だ。
 なお、天皇と靖国神社の関係につき、私とは異なる考え方も渡邉は述べている。
 以上。合計21は、2、3、4、5、7、という数字分けになったが、もともと<皇太子妃問題(?)をどう考えるか>というテーマで執筆依頼されて書かれた文章ではない(「われらの天皇家、かくあれかし」が元来のテーマだ)。したがって、こうした数字には大した意味はないし、分類がむつかしいものもあることは既述のとおり。
 以上のうち、私の気分に近いのは最後のグループで、かつ、笠原英彦、竹田恒泰、遠藤浩一の3人の意見に最も近いだろう。
 いつぞや(又はこれまでに何度も)書いたように、<共産主義か反・共産主義か>、これが日本国家の現今の最大の対立点だ。親共産主義とは、親中国、親北朝鮮を意味し、そのような傾向をもつ<左翼>を意味する。皇室に関する問題も、この観点を失ってはならない、と考える。共産主義者(中国共産党を含む)・親共産主義者は<反天皇(制度)主義者>で、<天皇制度解体論者>だ。これらの者たちが喜ぶような議論をしてはいけない。同じことだが、日本が共産主義(・社会主義)国化(>中国共産党の支配下になる又は中国共産党の友党又は傀儡政党が日本国政府を構成する)することに結果として又は客観的には役立つような議論はすべきではない(「共産主義」概念には立ち入らず、中国や北朝鮮は「共産主義」国家又はその後裔であることを前提とする)。
 上に述べた点に関連して、遠藤浩一の問題意識は鋭い。<天皇(・皇室)制度>は共産主義に対する<最後の防壁>たりうる、と考えられる。逆にいうと、憲法改正によって天皇条項が削除され天皇家が普通の一家になっているような状況は、日本が「左翼」国家・親共産主義国家又は現在の中国と(反米)軍事的同盟関係を結ぶような「共産主義」国家になっていることを意味しているだろう。
 また一方、竹田恒泰も同旨のことを繰り返し述べているが、徳岡孝夫の、「皇室の伝統は、…ほど短くも浅くもない」という言葉にも、聴くべきところがある。
 月刊WiLL(ワック)は一時的には部数を増やしたかもしれないが、結果的には、近い将来、発売部数を減らすのではないか(私は毎月の購入の慣例?を止めようと思っている)。余計ながら、勝谷誠彦の文章にもいい加減飽きた。
 同誌8月号には「読者投稿大特集/主婦たちの『雅子妃問題』」などというものがある(らしい)。編集長・花田紀凱よ、何故、(女性週刊誌の如く?)「主婦たち」に限るのか!?? それこそ(あまり好みの人物ではない)渡邉恒雄すら指摘する、「興味本位の皇室報道」を基礎にした、「商業的利益のためのものに過ぎ」ず、「汚いジャーナリズム」ではないのか??

0565/佐藤優における皇室に関する「設計主義」、「構築主義」、「合理主義」とは?

 佐藤優は、月刊・正論7月号(文藝春秋)に、―②の最後の「南朝精神」を取り戻せ旨の主張は私には理解不能だが(反対との趣旨ではない)―こんなことを書いている(p.214)。
 ①「女帝論という形で皇統を内側から壊す危険性がある人権思想、近代的範疇である遺伝子理論によって万世一系を解釈する試みなどの背景には、人間の理性に対する全面的信頼を基礎として、皇室を『設計』し、『構築』しようとする思想が存在する。このような設計主義、構築主義が日本国家を内側から蝕んでいる」。
 ②「皇室を人知によって改革するなどという 合理主義に冒された発想を捨て」、「南朝精神を有識者がとりもどすことが喫緊の課題」だ。
 ①の中にある、「近代的範疇である遺伝子理論によって万世一系を解釈する試み」とは八木秀次のそれを指しているだろう(なお、神武天皇や2代~8代天皇実在説に立っても、神武天皇から今上天皇まで「万世一系」かどうかは、安本美典の関心の外にあるテーマだが、別の議論が必要だ)。
 他に、園部逸夫らが委員として関与した、皇室の将来に関する有識者懇談会の報告書(正式名称を確認していない)を批判しているだろうことは、たぶん間違いない。
 皇太子妃問題(?)に関する最近の一部の有識者の発言も、「設計主義」、「構築主義」、「合理主義」として批判の対象としているのか(又はそうなるのか)否かを、訊ねてみたいものだ。
 なお、佐藤優が引用する南朝側の北畠親房の文章の一部は次のとおり。
 「人はとかく過去を忘れがち」だが、「天は決して正理をふみはずしていないことに気づくだろう」。何故天は現実を「正しい姿」にしないのかとの疑問を持つ者もいようが、「人の幸・不幸はその人自身の果報に左右され、世の乱れは一時の災難ともいうべきものである」。「天も神も」いかんともし難いことはあるが、「悪人は短時日のうちに滅び、乱世もいつしか正しき姿にかえる」。これは「昔も今も変わることなき真理」だ(「神皇正統記」日本の名著9(中央公論社、1971)p.445)。

0559/八木秀次とは何者か・5-現皇太子皇位継承不適格論の主張者。

 一 八木秀次は、月刊・諸君!7月号(文藝春秋)で、「問題は深刻である。遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生するという、皇室の本質に関わる問題が浮上している」と書き、続けて、皇室典範3条の「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる」という定めのうちの「重大な事故があるとき」に、「祭祀をしないこと」は該当する、という法解釈を示した。
 この八木の指摘については、すでに何回か言及した。
 ここでは、あらためてその論理の杜撰さを、より詳しく述べる。
 二 1 渡部昇一=稲田朋美=八木秀次・日本を弑する人々(PHP、2008)で、八木はまず、こう言っている。
 皇太子「妃殿下のご病気の原因が宮中祭祀への違和感にあるという説にはそれなりに信憑性があるのは事実です…」(p.205)。
 皇太子妃殿下が数年にわたって宮中祭祀に<陪席>しておられないのは、皇太子殿下のご発言等から見て事実のようだ。また、妃殿下の心身または体調にすぐれないところがあることも事実のようだ。
 だが、上の如く、八木もまた、「妃殿下のご病気の原因が宮中祭祀への違和感にある」とは断定的には認定していない。あくまで、「それなりに信憑性がある」とだけ自ら述べている。「それなりに信憑性がある」とは、厳密には<たぶん>・<おそらく>の類の推測・憶測であり、その程度が高い方に属する(と判断されている)場合に使われる表現だと思われる。
 2 ところが、「遠からぬ将来に……祭祀に違和感をもつ皇后が誕生する」という「皇室の本質に関わる問題が浮上…」と八木が書くとき、「それなりに信憑性がある」ということが、断定的事実へといつのまにか発展・転換している。「祭祀に違和感をもつ皇后が誕生する」との表現は、現皇太子妃殿下が「祭祀に違和感をも」っておられるということを疑い得ない事実として前提にしている。
 ここに、八木の論理の杜撰さ・いい加減さ、あるいは論理の<飛躍>の第一点がある。
 三 以上のことは、現皇太子妃殿下に関する事柄で、皇太子殿下ご自身に関する事柄ではない。にもかかわらず、八木は、将来における「祭祀に違和感をもつ皇后」の誕生と「祭祀をしない天皇」の誕生とを何故か同一視しているようだ。
 「祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生…」というふうに使い分けている、同一視していないとの反論がありうるが、これは当たっていない。
 何故なら、八木はその直後に、皇太子妃ではなく皇太子にのみ関係する、「皇位継承の順序を変えることができる」要件の解釈について語っているからだ。
 現在、皇太子殿下が皇位継承の第一順位者であることは言うまでもない。八木は現皇室典範に従って論じようとしているので―現皇室典範の有効性や合理性を疑う論者もありうるので、その場合は別の議論の仕方をする必要があるが―、現皇室典範の関係規定を引用しておく。
 皇室典範第2条第1項「皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。一 皇長子 二 皇長孫 …<略>」
 皇室典範第8条「皇嗣たる皇子を皇太子という。…」
 1 つまり、八木はいつのまにか、皇太子妃殿下の「祭祀」への「違和感」問題を皇太子の<皇位継承適格性>問題へとを発展させている。ここには見逃すことのできない、大きくは第二の、論理の杜撰さがあり、論理の<飛躍>がある。
 「祭祀をしない」ことが、「皇位継承の順序を変えることができる」要件に該当するかを論じるためには、そもそも現皇太子が「祭祀をしない」天皇になるのかどうかを認定していなければならない筈だが、このキー・ポイントを八木は脱落させている。
 八木の頭の中を想像すると、現皇太子妃殿下は「祭祀に違和感をも」っており、「祭祀に違和感をもつ」皇后が「誕生する」という問題があり、そのことは同時に、皇太子妃殿下=将来の皇后を<守る>(<護ろうとされる>)皇太子=将来の天皇が「祭祀をしない」こと、つまり「祭祀をしない天皇」の誕生につながる、というのだろう。
 だが、どう考えても、上の論理には無理がある。かりに現皇太子妃殿下が「祭祀に違和感をも」っておられることが100%の事実だとしてすら、なぜそのことが、「祭祀をしない天皇」の誕生の根拠になりうるのか?
 皇太子妃ではなく皇太子殿下については、宮中祭祀に長期間列席されていないとの情報はない、と思われる。
 現皇太子が「祭祀に違和感をも」ち、「祭祀をしない天皇」が誕生することがほぼ絶対的に確実であって初めて、皇室典範3条が定める「皇位継承の順序を変える」可能性の要件該当性を論じることができる筈だ。
 しかるに八木は、「祭祀をしない天皇」が誕生することがほぼ絶対的に確実だとする根拠を何も示していない。皇太子妃殿下が「祭祀に違和感をも」っておられる、という100%事実だと認定されてもいないことを(自ら「それなりに信憑性がある」とだけしか述べていないことを)、根拠らしきものとして挙げているだけだ。
 ここにはきわめて重大な論理の<飛躍>がある。むろん、きわめて杜撰な思考回路が示されてもいる。
 再び書くが、かりに現皇太子妃殿下が「祭祀に違和感をも」っておられることが100%の事実だとしてすら、なぜそのことが、「祭祀をしない天皇」の誕生の根拠になりうるのか?
 ことは皇位継承適格にもかかわるきわめて重大な問題だ。天皇家を、あるいは皇位というものを、大切に考えている筈の八木秀次は、なぜこんな無茶苦茶なことを言い出しているのか。現皇太子、皇位継承第一順位者、将来天皇になられる(皇位を継承される)蓋然性がきわめて高い御方に対して、きわめて失礼・非礼なのではないか。
 2 さらに厳密に考えると、宮中祭祀の少なくとも重要部分の主宰者は天皇ご自身であり、皇太子でも皇后でもない、ましてや皇太子妃でもない、とすれば、現皇太子が天皇として「祭祀をしない」か否かは、現皇太子が皇位を継承されて天皇におなりになって初めて判明することだと思われる。
 そもそも皇太子でいらっしゃる段階で「祭祀をしない天皇」になると断定することはできないし、その蓋然性・可能性を想定することも厳密にはできない。消極的な予想してもよいのかもしれないが、しかし、現皇太子は天皇になられて、宮中祭祀を立派に行われるだろう、と私は想像・推定している。現皇太子が「祭祀をしない天皇」になると、少なくともその可能性が高いと、何故、いかなる理由をもって八木は主張するのか。
 三 上のような諸点がクリアされないかぎりは、そもそも、「祭祀をしないこと」は皇室典範3条が定める「皇位継承の順序を変えることができる」要件の一つとしての「皇嗣に…重大な事故があるとき」に該当するかどうかを論じようとしても、全く無意味なことだ。
 にもかかわらず、八木はこの問題にもさらに踏み込んで、<該当する>と結論的判断を示してしまっている。ここに、論理の杜撰さ、<飛躍>の大きな第三点がある。
 相当にヒドい論理の<飛躍>だ。
 上記のように、①宮中祭祀にとって天皇こそが本質的・不可欠で、皇太子といえども<付き添い>者・<陪席>者であるにとどまるとすれば-但し、たぶん失礼な言葉になるが、実質的には将来に備えての<勉強>・<見習い>という要素が皇太子についてはあるものと思われる-「皇嗣」(皇室典範3条)の段階ではまだ「祭祀をしない」天皇になられるか否かは分からないのだ。
 ②「祭祀をしない」天皇になられるだろうとの予測をかりに関係者(とくに皇室会議構成員)ほぼ全員がもつようになってはじめて、ギリギリ皇室典範3条の問題になりそうに見えるが、現状はそのような状況にはない。皇太子殿下は、現況において、宮中祭祀を<欠席>されていることは基本的にはないはずだ。
 ③反復になるが、皇太子妃(将来の皇后予定者)が「祭祀に違和感をもつ」か否かは、皇太子=皇嗣の宮中祭祀への対応の問題とは別の問題だ。この二つを八木は何とか、レトリック又は<雰囲気>で結びつけようとしている(そこで論理の杜撰さが露わになり、論理の<飛躍>を必要とするに至っている)。
 宮中祭祀が基本的には天皇ご一身の行為であるかぎり、現皇太子=将来の天皇の祭祀行為への積極的対応と、皇太子が現皇太子妃=将来の皇后を<守る>(<護ろうとされる>)こととは、何ら矛盾しない。
 竹田恒泰いわく-皇太子妃殿下が皇后になられたときにまだご病気であれば、「無理に宮中祭祀にお出ましいただく必要はない。またそれによって天皇の本質が変化することもない」。
 西尾幹二、中西輝政とともに八木秀次は、<取り返しのつかない、一生の蹉跌>をしてしまったのではないか。
 皇室に入ってきた<獅子身中の虫>=<左翼>を排除するため、という正義感に燃えて、八木は今回冒頭に引用のことを書いたのかもしれない。しかし、主観的善意が適切な具体的主張につながる保障はむろん全くない。
 八木秀次が、皇太子妃の現状を批判的に問題にし、それを飛躍・発展させて現皇太子の皇位継承適格性を否定することまで明言したことは、皇室に関する混乱が発生し拡大することを喜ぶ<天皇制度解体論者>をほくそ笑ましただろう。そのかぎりで、八木は<保守的「左翼」>とも、<底の浅い保守>とも評されうる。そのくらいのインパクトのある文章を月刊・諸君!7月号に書いてしまった、という自覚・反省の気持ちが八木にあるのかどうか。

0552/「われらの天皇家、かくあれかし」-<批判・注文>派4と<中間>派5。

  月刊・諸君!7月号(文藝春秋)の「われらの天皇家、かくあれかし」という大テーマのもとでの計56人の文章のうち、現皇太子妃(雅子妃殿下)の現況についての何らかの言及のある文章は―区別がむつかしいものもあるが―20。6/13に続いて、その内訳を瞥見する。
 2 現皇太子妃(雅子妃殿下)に対して批判的、又は皇太子・同妃ご夫妻(もしくは妃殿下との関係で皇太子)に「注文」をつけている、というようにあえて一括できそうなのは、次の4名だ(当然に、区別・分類はむつかしいものであることを繰り返しておく)。
 ①秦郁彦-「雅子妃が…美智子皇后に代わって『国母』としての」役割を果たしうるか。「お病気ならしかたがない。回復を待つしかない」という「国民の思いやりも、そろそろ限界に達しそうな気がしている」(p.243)。
 ②久能靖-雅子妃をかばう皇太子も宮中祭祀の重要性を認識しているはずで、「皇室は祈り」との美智子皇后の言葉を「重く受け止めて欲しい」(p.204)。
 なお、この久能靖は「皇室ジャーナリスト」だが、「ジャーナリスト」は比較的に皇太子等の皇族に対して<対等>の物言いをする傾向にあるのを感じた。
 例えば、皇太子妃(問題?)にとくに言及している中に含めていないが、「ジャーナリスト」との肩書きの奥野修司は、近年「戦後の民主化を象徴した筈の『開かれた皇室』が、急速に『閉ざされた皇室』に変質しはじめた」と書いている。「開かれた皇室」論を微塵も疑っていないようなのは興味深い。また、奥野の「天皇ファミリーは裸のまま、危機にさらされている」(p.194)という<客観的>な表現の仕方も、天皇家を取材(・ジャーナリズム)の対象としてしか見ていない心性を感じさせる。
 ③山内昌之-今上天皇・皇后は「『祈り』の姿勢」をもち、敬愛されている。「皇太子御夫妻」は「この『祈り』の意味と無私の価値」を「継承して欲しい」(p.265)。
 これらの②と③は、とくに③は、<批判的>ニュアンスの少ない、むしろ「期待」を示すものとして、次の<中間派>にも分類できそうだが、何らかの<不満>があるからこそこれらのような「期待」又は「注文」の文章ができている、とも読める。
 外国人の文章を取り上げる意味は疑問なしとしないが、④ケネス・ルオフ-皇太子ご夫妻にはまだ「明確な象徴性がない」。「社会的に有意義なお仕事…に努力を注ぐ道を決心なさるべきだろう」。
 以上の4名は皇太子妃(・皇太子ご夫妻)に批判的だとしても、離婚・皇后位不適格・(皇太子の)皇位継承疑問視、といった議論と結びつけているわけではない。この点で、先に記した中西輝政・八木秀次・西尾幹二のグループとは全く異なっている。
 3 <中間派>とかりに呼んでおくが、現況に<憂慮>を示しつつ皇太子妃(・皇太子)を批判するわけではない(少なくともその趣旨は感じ取れない)人々が5名いる。五十音順に記す。
 ①大原康男-「皇太子妃雅子殿下のご病気とそれに伴って聞こえてくる大内山のざわめきも気がかり」だ(p.189)。
 大原の「気がかり」のあと二つは、皇位継承者(おそらくは悠仁親王以降の)問題と(天皇の)靖国神社ご親拝問題。なお、「大内山のざわめき」という「ざわめき」という言葉に、<騒いでいる>者たちへの批判的なニュアンスを感じ取ることが不可能ではない。その点を強調すると、次の<批判者を批判する>グループに入れてもよいことになろう。
 ②佐藤愛子-皇太子妃問題は「誰が悪いのでもない。時代の変化のゆえの悲劇」だ。「時代の波に揉まれておられる」天皇陛下を「おいたわしく思う」。
 ③田久保忠衛。「雅子妃に環境を合わせるか、…現状を続けるのか、環境と御本人を分離するかのいずれかしか対処方法はない」と書いて、抽象的にせよ制度論・方法論に踏み込んでいるようである点は、西尾幹二らと共通性がある。しかし、皇太子妃に対する批判的な心情は殆ど感じられず、上の文につづけて、「胸が痛む。ましてや天皇、皇后陛下の御心痛はいかばかりか」と書く。
 また、天皇・皇后両陛下と皇太子・同妃一家に<亀裂あり>旨の宮内庁長官発言やその報道ぶりに関して、「世界に例のない日本の皇室に反対する向きはさぞかし喜んでいるだろう。『天皇制打倒』などと叫ぶ必要もなくなるから」と書き、さらに、「スキャンダルを暴くマスコミの集中攻撃」に触れて、「国の中心を寄ってたかってつぶすのか」とも記す。
 これらの後者の部分は西尾幹二らとはむしろ正反対の立場のようでもあり、むしろ次の<批判者を批判する>立場のようにも解釈できる。
 というように分類し難いところがあるが、両方を折衷して無理やり<中間派>としておく。
 ④中西進-「週刊誌の広告」に「心が痛む」。皇太子妃の夢が実現できないのは、「国民および皇室関係者が、…あいまいな皇室観の中で八方塞がりになっている」からだ(p.236、p.238)。
 ⑤松崎敏彌-「雅子さまには、一日も早く、ご体調を回復していただき、お元気な笑顔を再び見せていただきたい」(p.255)。
 4 以上。あと残りは6人。この人たちは<批判者(マスコミを含む)を批判する>というグループとして一括できると思っている。別の回に。

0547/原武史-元日経新聞記者、学者らしくない論理の杜撰さ・単純さ+反天皇感情。

 一 再び、月刊・諸君!7月号(文藝春秋)の「われらの天皇家、かくあれかし」という大テーマのもとでの諸文章について。計56人の文章を全て読み終えた。その際に、現皇太子妃(雅子)妃殿下の現況についての何らかの言及のある文章の数を調べてみたが―区別がむつかしい場合もあったが―20だった(56人の36%)。
 56人の中には外国人2人を含み、またこの56人(又は外国人を除くと54人)でもって現在の日本人の天皇・皇室論や<皇太子妃問題>(なるものがあるとして)についての見方の平均的なところを把握できるかというと、その保障はないだろう。ただし、諸君!(文藝春秋)という雑誌はどちらかというと<保守系>のはずで、文章執筆の依頼もどちらかというと<保守系>の人物に対してなされたのだろう、と言えるものとは思われる(むろん半藤一利保阪正康がしばしば登場するなどの例外はある。7月号についても同様)。
 二 さて、20の中には、皇太子妃問題を想定して、皇太子妃を責めることなく、天皇制度の解体・崩壊に言及するものが2つあった。執筆者は、森暢平原武史
 森暢平は皇太子妃の療養以後皇室は大きく変質したがじつはもっと前から変質していたのだとし、「皇室は国民の規範」たることが困難になり、「象徴天皇制の終焉」がすでにあった、とする。そのことの要因は「メディア環境の変化」でもあり、「現在の在り方を根本的に考え直さないと、ある時、一気に瓦解する可能性さえ秘めている」、と書く。
 上の最後の文は天皇制度の将来を心配しているようでもあるが、天皇・皇室についてのジャーナリステイックな書き方、「サブカル化する平成皇室」というタイトルからして、天皇・皇室制度を貴重なものとして断固守ろうというという気分の現れではないように思われる(誤っていれば、ご容赦を)。
 三 一方、原武史天皇・皇室に対する<悪意>があることは明らかだ。もともと朝日新聞社や岩波書店から本を出すこと自体、この両者は他社とは違って<思想チェック>をしているので原武史の「思想」的又は「政治」的立場はほぼ明らかだが、原武史・昭和天皇(岩波新書、2008)のp.12にはさっそくこんな文章がある。-「天皇が最後まで固執したのは、皇祖神アマテラスから受け継がれた『三種の神器』を死守することであって、国民の生命を救うことは二の次だった」。米軍による日本本土攻撃が予想された時期に「三種の神器」を自らのすぐ側に置こうとされたようだが、それを「国民の生命を救うことは二の次だった」と解釈するところには、原武史の、(昭和)天皇に対する<悪意>・<害意>を感じることができる。
 1 「宮中祭祀の見直しを」と題する諸君!7月号上の原の文章はヒドいものだ。この人は日本経済新聞記者の時代があったようで、ジャーナリステイックな、<面白い>・<話題をまき起こす>文章を書けても、研究者・学者らしい文章を書く力は充分には持っていないように見える。奇妙な点を列挙してみる。
 ①農耕儀礼と結びついた祭祀=「瑞穂の国」のイデオロギーは、日本の都市化・農業人口の減少(1970年で20%を切った)によって「社会的基盤」を失った(p.244)。
 何故このようなことが言えるのか、何故「社会的基盤」を失ったと言えるのか、さっばり分からない。余りに単純な発想をしてもらっては困る。専門家ではないので正確には書けないが、A狩猟民族に対する農耕民族の違いや特性が今なお論じられることがあるが、かりに食糧自給率の低さが問題になるほどに農業の衰弱が現在あるのだとしても、弥生時代以降、農業=主として稲作によってこそ日本人は「生き」、「生活」でき、そして社会と国家を形成したのだとすれば、そのような日本人と日本「国家」の成り立ちにかかわる記憶を将来に永続的に伝えていくためにも、祭祀の意味はある(それが「伝統」の維持というものだ)。
 また、B現代では農業が主産業ではなくなっていても、今日的な諸産業、あるいは社会にかかわる「人間の仕事」のすべてを代表するものとして「農耕」を理解し、「農耕儀礼」を通じて、自然の恵み(「運」も含めればどんな産業にだって「自然」又は「偶然」・「宿命」を逃れられないだろう)を祈り、収穫=成果の多大なことを祈り願う、ということはなお充分に意味があるものと思われる。
 ともあれ、まるで他説を一切許さないような単純な決めつけをしてもらっては困る。
 ②皇居(お濠)の「内側」=「農耕儀礼」、「外側」=都市化のギャップが大きくなっている。解決方法は、「内側」を「外側」に合わせるか、「外側」を「内側」に合わせるしかない。どちらもしなければ、「いずれ重大な局面が訪れることになるに違いない」(p.245)。
 「いずれ重大な局面が訪れることになるに違いない」とは天皇(制度)を心配しての言葉でもあるかもしれないが、突き放した、そうなっても=天皇制度が解体・廃絶しても(自分は)構わない、という意見表明である可能性もある。
 その前に書かれていることも、大学教授とは思えないほどに論理が杜撰だし、天皇(家)の研究者にしては天皇制度の歴史的・伝統的意味を意識的に無視している。
 すなわち、「内側」と「外側」を合わせる必要はない、というもう一つの選択があることが分かっているのに、それに言及していない。「内側」を「外側」に合わせる議論は、国家・国民のための祭祀行為を行っている天皇とそれを支える天皇家を、<ふつうの一般的家庭(の特殊なもの)>にしてしまうものだ。<「瑞穂の国」のイデオロギー>なるものの射程範囲はよく分からないが、それはそれで維持すればよいし、宮中祭祀の中に<「瑞穂の国」のイデオロギー>では説明がつかないものも現にある筈なので、「新たなイデオロギーを構築する必要」もない。
 またそもそも、「内側」と「外側」のギャップが大きくなったことを自然の、不可避的な現象の如く理解しているようだが、例えば「内側」の祭祀行為を天皇家の<私事>扱いして学校教育できちんと教えない、マスメディアもきちんと報道・説明しない、といった、原武史も育ってきた<教育・社会環境>にも重大な一因がある、と思われる。こうした面には、原は全く言及していない。
 2 週刊朝日2007年3/09号を読んでいないので、同じ諸君!7月号上の八木秀次の文章から借りるが、上に述べている「内側」と「外側」の矛盾が皇太子妃の心身に影響を与えていると理解しているようであり、具体的にはA「神武天皇は本当に実在したと考えられるか」、B「天照大神の存在を理屈抜きで受け入れられるか」等、皇太子妃には簡単には受け入れられない→「信じ」られなければ「祈り」もできない(=宮中祭祀への違和感)、ということから、→適応障害→治すために宮中祭祀の簡略化又は廃止、という主張を原はしているようだ(p.261)。
 他にもあるのだろうが、上のAとBくらいならば、何故「信じる」ことができないのかが、よく分からない。日本書記等の記述が全て事実を正しく描写しているとは思えないが、時期はともかくとしても、「神武天皇」とのちに称されたリーダー(+祭祀主?)が「東遷」して大和盆地で大和朝廷の基礎を築いた程度のことは、充分にありえたことだ。また、卑弥呼=天照大神説もあるように、神武天皇に先だって、天照大神とのちに称される日巫女(ひみこ)が祭祀上の中心になってより小さな地域を「国」としてまとめていた、という可能性を完全に否定することはできない。
 おそらくは、妃殿下の内心の推定というかたちをとりつつ、上のAとBは、原武史自身がもつ疑問なのだろう。日本の戦後の日本「神話」教育の欠如は、ついに原武史という大学教授が神武天皇・天照大神の存在を完全に否定する(存在を信じることができないとする)ところまで行き着いた、ということだろう。記載のすべてが真実ではないにせよ、すべてが天武朝を正当化するために作られた虚像=ウソと理解する必要はなく、何らかの史実を反映をしている部分が十分にあり、またウソの場合ではなぜそういうウソが書かれたのかも研究されてよい、というのは今日の日本古代史研究の常識なのではないか。
 3 原武史はそもそも、世襲天皇制度という<非合理>なものを気味悪く思い拒否感を持っているにすぎないのかもしれない。善解すれば、<非合理>なもの(祭祀=農耕儀礼を含む)を捨てて、「新しいイデオロギー」を構築して再出発を、という主張なのだろうが、これはやはり実質的には<天皇制度解体論>だ。朝日選書(『大正天皇』)、岩波新書(『昭和天皇』)、週刊朝日、そして最近の月刊現代(講談社)…、なるほど、この人は明瞭な<左翼>出版社とともに活動している。

0544/天皇・皇室を大切にする<保守>の八木秀次に尋ねてみたい。

 一 産経新聞「正論」欄6/05八木秀次「宮中祭祀廃止論に反駁する」は基本的趣旨に反対ではないし、月刊・諸君!7月号でも奇妙な言説を吐いている原武史については、別に批判的コメントを書く。
 但し、八木秀次の主張はどの程度の正確な理解をもって、厳密な言葉遣いでなされているのか、疑問とする余地がある。
 他の本や雑誌原稿と同様かもしれないが、八木は、「宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ」と書く。「宮中祭祀」をしない「皇室」は「皇室」でなくなる、という具合に。
 だが、そうなのか(天皇と皇室は同じではない)。また、「皇室」という語によってどこまでの皇族を指しているつもりなのか。この後者の点は明確にしていただかないと、趣旨が正確には伝わらないと思われる。
 どうやら、「皇室」の中に皇太子・皇太子妃を含めていることは明らかなようだ。では、秋篠宮と同妃は「宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ」という場合の「皇室」に含めているのか。また、成人して未婚の場合の眞子・佳子各内親王は「皇室」に入るのか。さらに、常陸宮と同妃の問題もあるが、寛仁親王(ヒゲ殿下)・同妃や成人後に未婚の場合の彬子・瑤子各女王は含められているのかどうか。
 二 皇室典範に「皇室」という言葉はないが、「皇族」という概念はあり、その範囲が決められている。皇室典範5条によると「皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃及び女王」が「皇族」と定められている(皇太子は親王のうちのお一人、皇太子妃は親王妃のうちのお一人だと考えられる)。
 天皇とこのような「皇族」を合わせたものが「皇室」なのだとすると、かつ八木秀次が「宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ」として「宮中祭祀」に「皇室」(「皇族」)全員の列席を求めているのだとすると(少なくとも「宮中祭祀」に違和感を持ってもらっては困ると考えているのだとすると-以下同じ)、常陸宮・同妃(華子妃殿下)、秋篠宮同妃(紀子妃殿下)はもちろん、寛仁親王(ヒゲ殿下)・同妃はもちろん成人後の(婚姻するまでの)眞子・佳子各内親王、彬子・瑤子各女王までもが「宮中祭祀」の参加・列席を求められていることになる(なお、<成人後>と限定しているのは、幼児時代にまで求められはしないだろうという常識的発想からする、私の勝手な推測にすぎない)。
 はたして今日の実際の宮中祭祀に、これらの人びとは(皇太子妃を除いて?)参加・列席されているのか?
 特定皇族の「宮中祭祀への違和感」を八木秀次は憂慮し(かつ批判?)しているようだが、その「皇族」又は「皇室」の範囲を明確にし、かつ彼が問題にしている人物以外の方々は宮中祭祀に参加・列席しているのかくらいはきちんと調べたうえで議論してほしいものだ。
 三 皇室典範による「皇族」の範囲の定め方とは別に、「内廷皇族」と「内廷外皇族」という区別もある。
 皇室経済法4条1項によると、「内廷費は、天皇並びに皇后、、皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃及び内廷にあるその他の皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるものとし、別に法律で定める定額を、毎年支出するものとする」。

 この規定は「内廷費」に関する定めだが、ここに列挙されている、いわば天皇陛下の直系の家族が<内廷皇族>だ(妃を含み、婚姻した旧内親王や皇太子以外の旧親王は含まないものと思われる)。
 一方、条文は省略するが、「内廷費」ではなく「皇族費」が支出されている皇族を<内廷外皇族>という。<宮家皇族>とも言うらしい(園部逸夫・皇室制度を考える(中央公論新社、2007等々)。誤っていれば失礼だが、婚姻して独立の宮家を立てられた秋篠宮と同妃・お子さまたちは、上の条文の内容からすると<内廷外皇族>に当たるものと考えられる。皇族がいらしゃる場合の秩父宮家・高松宮家・三笠宮家の人びとの場合は勿論こちらになる。
 さて、八木秀次が「皇室」というとき、<内廷皇族>のみを指しているのかどうか。もしそうならば、その旨を明記しておくべきだろう。そして老齢で病気の可能性もある太皇太后、皇太后やまだ幼年である場合の「皇太孫」や「内廷にあるその他の皇族」に対しても、、「宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ」という理由で宮中祭祀への参加・列席を求める趣旨なのかどうかを知りたいものだ。
 四 八木秀次は月刊・諸君!7月号(文藝春秋)の文章の最後に皇室典範三条を持ち出して、「祭祀をしない」ことは「重大な事故」に「当たるだろう」、という<法解釈>を早々と示した(p.262)。
 皇室典範3条は次のとおり。-「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる。
 この規定は明らかに「皇嗣」に関する定めだ。そして(言葉からして容易に判るが)「皇嗣」の意味に関する規定に次のものがある。
 皇室典範8条皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という。」
 この定めでも明確なように、現在において「皇嗣」とは皇太子殿下お一人であり、同妃は「皇嗣」では全くない。
 しかるに何故、八木秀次は「皇嗣」に関する上の条文に言及して、「祭祀をしない」ことは「重大な事故」に「当たるだろう」と書き記したのか?
 何らかの誤解をしているか、皇太子妃殿下ではなく現在の「皇嗣」=皇太子=将来の天皇が「祭祀をしない」ことを想定して、上のような<法解釈>論を展開しているとしか考えられない。
 ではいっいたどこに(妃殿下ではなく)皇太子が将来において「祭祀をしない」こととなる兆候がある、というのだろうか。また同じことだが、皇太子殿下は「宮中祭祀への違和感」をお持ちになっているのだろうか。そう推測(憶測)しているのだとすれば、その根拠はいったい何か。
 上に述べたことの充分な根拠もなく、「重大な事故があるとき」に該当するものとして「皇位継承の順序を変えること」まで八木秀次は提案している。これはじつに<怖ろしい>ことだ。一介の一国民が「皇嗣」たる皇太子殿下について「祭祀をしない」ことは「重大な事故」に「当た」るので、「皇位継承の順序を変えること」ができるのですよ、と言っているのだ。おそらくは充分な根拠もなく「皇位継承」の順序についてまで口を出しているのだ。
 以上。述べたかったことは基本的には二点。第一、八木秀次は平均的国民よりも天皇・皇室制度について詳しいはずだが(天皇(制度)について八木は前回触れた中西輝政との対談本・保守は何をすべきか(PHP、2008)でも何度も触れている)、「宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ」という場合の「皇室」の意味・範囲が明らかにされていない。
 第二、八木秀次は皇太子=皇太子妃という(学者、いや普通人でもしないような)混同をしているのではないか、そうとでも考えないと、今の時期に「祭祀をしない」ことによる「皇位継承の順序」変更の(少なくとも可能性の)主張をできるはずがない。
 かつまた、このような主張は非礼であり、少なくとも時期的に早まりすぎている。
 これらは、研究者・学者という一面ももつ八木秀次ならば容易に(論理的にも概念的にも)理解できる筈だ。単純な活動家・運動家に堕していないかぎりは。
 今回に書いたことを含めても、書いている趣旨の不明瞭な、かつ天皇・皇室にかかわる正確な知識がないと見られる八木秀次は<保守>のリーダーには(リーダーの一人にも)絶対になれない、ということは明瞭だ。傲慢にならない方がよい、と感じる。

0537/中西輝政、佐藤愛子、曽野綾子、佐伯啓思そして樋口陽一。

 前々回紹介の中西輝政の文章はまだ元気があるが、文藝春秋スペシャル・2008季刊夏号の巻頭エッセイで「身動きのとれないジレンマに陥っている」(p.14)と書いている。
 そして、ウソつきが神に対する罪ではなく(おのが心の清浄さを汚す)自分の心の「つみ」になるのだとしたら、日本人と日本は「到底、外交や国際政治の世界では生きてゆけない」とし、①「外交も下手」、②心も「日本人離れ」、という日本人だらけの日本が「最もありうる」。この際、「外交下手、万歳」で「国際国家・日本」など切って捨てるべき、という(p.15)。つまりは、「日本人」の心(の仕組み)を残すことを優先しよう、という主張と思われる。日本の外交、日本の国際戦略(の能力)についての諦念のようなものが感じられる。それでよいのか、中国、そして米国に対抗しなければ、と思うが、気分だけは何となく分かる。
 四つの巻頭エッセイのうち三つは、中西輝政の上も含めて日本人の「心」・「精神」に関するものだ。
 佐藤愛子は、「今は日本人の中に眠っている強い精神力が蘇ることを念じるばかりである」で終えている。
 曽野綾子は、教育が必要→国家関与→戦争への伏線と主張する人(要するに反権力の「左翼」)が必ずいるので「まず実現できない」としつつ、国が「人々に徳も個性も定着させる」こと(p.17)、(日本が「職人国家」として生きられる)「政治、外交的な力はなくとも、律儀さと正直さと勤勉さに現れるささやかな徳の力」(p.16)の重要性を指摘している(と読める)。
 これは何かを示唆しているだろうか。日本人の「心」・「精神」がかつてよりも崩れてきている、強靱でなくなってきている、「律儀さと正直さと勤勉さ」を失ってきている、ということなのだろう。そして、反論できそうにないように見える(「最近の若い者は…」と年寄りくさく言いたくなることもある)。
 ところで「心」・「精神」の仕組み・あり様は日本人と欧米人とで同じではないことはほとんど常識的であると思われる。産経新聞6/04の報道によれば、佐伯啓思は「正論」講演会で「日本独自の文明を取り戻し、日本の言葉で世界に発信していくことが重要」と強調したらしい。「日本独自の文明」が日本人独特の「心」・「精神」の仕組み・あり様と無関係とは思えず、「日本の言葉で」とは日本語によってというよりも、日本の独特の概念・論理・表現方法で、といった趣旨なのだろう。
 第一に、日本人独特の「心」・「精神」とか「日本独自の文明」の具体的内実は何かとなると、きっと論者によって議論が分かれうる、と思われる。佐伯啓思のいうそれも完璧に明瞭になっているわけではない(最近の著書・論文で書かれているものを参照しても)。
 しかし第二に、樋口陽一らのごとく、西欧近代的な「個人」をつかみ出せ、中間団体によって守られない、国家権力と裸で対峙する「強い個人」の時代を一度はくぐれ、という主張が、日本人には全く適合しておらず、ある意味で教条的でもあり時代錯誤的でもあることも明らかだと思われる。
 欧米人と日本人に共通性がないとは言わない。しかし、永遠に日本人は樋口が理解する<西欧近代>を通過した<普遍的>な人間になるはずはない
 上で言及した人びとはすべて、日本人「独特」のものがあると考えており、それはごく常識的なことに属するように思う。だが、樋口陽一たちは、日本人は早く徹底的に欧米的な(>西欧的な)<自立した自律的で自由な個人>になれ(個人主義)、という(「左翼」にとってはまだ一般的・常識的?)な主張を依然としてしているようだ。
 こんな点にも大きな国論の分裂があり、日本人の「心」・「精神」が歪められてきている一因もありそうだ。

0535/中国共産党の「欺瞞」的外交・情報戦に負けるな-中西輝政。

 中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」同・日本の「岐路」(文藝春秋、2008)のつづき(最後)。
 中国共産党系工作員だった者(=「中国共産党の国際的秘密工作ネットワーク」と結びついていた者)は、スメドレー、ラティモア、セオドア・ホワイトらで、直接にコミンテルン工作員だった者(=「より直接にモスクワのコミンテルンと結びついて」いた者)は、ハリー・ホワイト、ロークリン・カリー、ハーバート・ノーマンだった。前者のネットワークを中西は「チナミンテルン」と称する。
 上の二つのうち、第二次大戦末期には国際共産主義ネットワークのイニシァティブは中国共産党(中共)にあった。アメリカ政府内のコミンテルン工作員の多くは50年代にモスクワではなく北京に逃げた。戦後の日本共産党の伊藤律・徳田球一らの逃亡先もソ連ではなく北京だった。1952年の札幌での白鳥事件に関与したとされた日本共産党員も中国に渡った。2000年逮捕の重信房子も、日本と北京の間を極秘に往復していた。
 近衛内閣のブレインでゾルゲ事件に連座して投獄された西園寺公一は、戦後に参議院議員になったのち北京に「移住」し、「日中国交回復」の旗頭となり中国共産党から「人民友好使者」の称号を付与された。
 ここで挿むと、本多勝一、大江健三郎、立花隆が中国政府(南京「大虐殺」記念館を含む)から厚遇されたことはすでに触れた。これも既述だが、日本の政治家、マスコミ関係者、学者等々に対して、今日でも何らかの「工作」が続けられていることは明らかだと思われる(「工作」とそれに「嵌(はま)る」という意識が生じないことこそが巧い「工作」だ)。共産主義者の本質は、陰謀・謀略・策略・嘘・嘘・…にある
 中西輝政は次のように上の点をまとめている。論文全体の最後ではないが、紹介はこれで終えておく。
 「今日なお共産党一党独裁を維持し、…卓抜な外交手法で世界の資本を引きつけ、そして『冷戦は終わった』といいながら歴史問題で『ブラック・プロパガンダ』を展開して日本国内の分断、さらには日米の分断を謀る中国共産党の言動が、いかに欺瞞に満ちたものかを認識し、中国の仕掛ける『歴史問題』という名の外交・情報戦に対処しなければ、日本は単なる敗戦にとどまらず、いよいよ国家としての存立が危ぶまれることになりかねない」(p.315)。

0533/堀田力「戦争だけはいけない」文藝春秋スペシャル・2008季刊夏号は「いけない」。

 1 報道によると、北朝鮮は5/30に、黄海南道沖の黄海で、短距離ミサイル1発を発射した。これは中国と朝鮮半島の間の海域だが、対日本に照準を合わせたミサイル基地があり、日本海で、また日本列島を越える、ミサイル発射(実験)を行ったことがあることは衆知のこと。
 報道によると、中国は5月下旬、最新鋭潜水艦に搭載予定の弾道ミサイル(SLBM)の発射実験を朝鮮半島西方の黄海で行ったらしい。この国も日本に向けたミサイル発射台を設置している。また、朝鮮半島、ベトナム、インドで実際に「戦争」をしたことがあるのは衆知のこと。チベット、ウィグル等の支配はかりに「戦争」の結果ではないとしても<武力>行使によることは明らかだろう。
 2 ところで、日本語には、英語の定冠詞・不定冠詞にあたるものがない。また英語には名詞に冠詞をつけない場合もある。
 日本で、<戦争だけはいけない>、<戦争はしてはならない>、<戦争を繰り返してはいけない>等々の言葉をしばしば読んだり聴いたりするが、この場合の「戦争」とは、the のついた<特定の>戦争なのだろうか、a の付いた漠然とした一つの(結局はすべての)戦争なのだろうか、冠詞のない一般的に戦争そのものを指しているのだろうか。
 戦争体験者が<二度とごめんだ>、<もう繰り返したくない>とか発言している場合の他に<戦争反対>の旨をより一般的な形で述べていることは多いのだが、厳密には、その場合の「戦争」とは<あのような>戦争、つまり昭和20年までの昭和時代に行われた特定の戦争のことを指しており、絶対的な反戦感情の吐露ではなく、一般的な<戦争反対>論を述べているのではない、ということが多いのではないか、と感じてきた。
 そのような<特定の(自分たちがかつて経験したような戦争>(の反復)に反対という意思や感情を、一般的な反戦感情として報道してきたのが戦後のマスメディアであり、利用してきたのが<反戦>を主張する<左翼たち>ではなかっただろうか。
 <反戦>それ自体は殆どの人が合意できるかもしれない。誰も戦争勃発、戦争として攻撃されることを望んではいない。
 だが、戦争を仕掛けられたら、つまり日本列島が何らかの軍事力によって攻撃されたら(又はされようとしたら)どうするのか? 国土・人命・財産に対する莫大な損失の発生を座視して茫然と見ているだけなのか。国家としての任務はそれでは果たされ得ないのではないか。
 3 文藝春秋スペシャル・2008季刊夏号(2008.07)の<大特集・日本への遺言>の中にある堀田力「戦争だけはいけない」(p.139~140)は、基本的に誤っている。
 タイトルや第一文の「絶対に、戦争はしないでほしい」は、何となく肯定的に読んでしまいそうだが、上記のとおり、ここで堀田のいう「戦争」とはいったいいかなる意味のそれなのか、という問題がある。
 堀田はまた最初の方で、第二次大戦敗戦のとき「もう日本人は二度と戦争をしようとは思うはずがないと確信した」と書いていている。元検察官・現弁護士の堀田ならば、「第二次大戦」の際の日本の「戦争」のような「戦争」のことなのか、「戦争」一般のことなのかを明確にしておいてほしいものだが、どうやら<特定の>戦争から出発して、「戦争」一般、つまりすべての「戦争」へと拡げているようだ。
 上のことの根拠を、堀田は「世界に、もう戦争は要らない」ことに求めているようだ。堀田は言う。
 ①「体制の優劣を決する冷戦は、共産主義体制の敗北が決まり、もはや体制間の戦いを暴力で決着する必要性は消滅した」。
 また、こうも書く-②「独裁国であっても、その経済発展がある段階に達すれば、体制は必然的に民主主義、自由主義体制に移行するという、歴史によって証明された法則がある」。
 この二つの認識又は理解・主張はいずれも間違っている。又は、何ら論証されていない。
 ①について-欧州における「共産主義体制の敗北が決ま」ったとかりにしても、アジアではまだ決着がついていない。専門家・中西輝政も書いているし、私も何度も書いた。冷戦終了こそは、まさに中国の(陰謀的)主張でもあることを知っておく必要がある。第二次大戦後も実際に「侵略」戦争をし、また軍事費を膨張させながら、60年以上の過去の日本の「軍国主義」の咎をなおも政略的に言い立てているのが、中国だ。
 ②について-ソ連・東欧のことを指しているのかもしれないが、それが何故「歴史によって証明された法則」なのか。北朝鮮も中国も、「経済発展がある段階に達すれば、体制は必然的に民主主義、自由主義体制に移行する」というのか? その根拠はいったいどこにあるのか。細かく言うと、「経済発展がある段階に達すれば」という「ある段階」とはどのような段階なのか。そして、中国はその段階なに達しているのか、いないのか。北朝鮮がその段階に達していないとすれば「民主主義、自由主義体制に移行する」筈がないのではないか。等々の疑問ただちに噴出してくる。
 堀田はもう少し冷静に、客観的に世界をみつめ、かつ元検察官・現弁護士ならば、論理的に文章を綴ってもらいたい。
 「絶対に、戦争はしないでほしい」という言葉を<遺言>にしたい、ということは、おそらく日本又は日本人の中に「戦争」をする危険性にあると感じているからだろう。この点についてもまた、その根拠は?と問い糾さなくてはならない。
 私は上述のように<戦争を仕掛けられる>=<日本列島が何らかの軍事力によって攻撃される>危険性の方が圧倒的に(絶対的に)大きいと考えている。その場合、<正しい>戦争=<自衛>戦争はありうる、国土・人命・財産の保全のためにはやむを得ない戦争というものはありうる、と考えている。
 アジアでは冷戦は終わっておらず、現に、中国・北朝鮮という<共産主義体制>又は<共産(労働)党一党独裁の国>は残っていて(ベトナム、ラオスも。ネパールが最近これに加わろうとしている可能性が高い-中国の影響がない筈がない)、日本に対する軍事的攻撃力を有している。
 堀田力は刑事法を中心とする国内法や基本的な国際法の知識はあっても(また福祉問題には詳しくても)、国際情勢を客観的に把握する能力は不十分なのではないか。また、弁護士・裁判官等の専門法曹のほとんどがそうであるように、<共産主義の怖ろしさ>というものを知らない、のではないか
 堀田力の、このような文章がたくさん出ることこそが、コミュニスト、中国や北朝鮮が望んでいることだ。共産主義の策略(それは戦後日本の中に空気のごとく蔓延してきているものだが)、その中に堀田もいる。
 堀田力、1934年生まれ。樋口陽一も1934年生まれ。大江健三郎は1935年生まれだが、いわゆる早生まれなので、小・中の学年は樋口や堀田と同じ。すでに書いたことがあるが(人名もリストアップした)、1930年代前半生まれは<独特の世代>、つまり最も感受性の豊かな頃に<占領下の教育>を受けた世代だ。感受性が豊かで賢いほど、戦前日本=悪、戦後の「民主主義」=正、という<洗脳>をうけやすい傾向があると思われる(あくまで相対的<傾向>としてだが)。

0531/ハーバート・ノーマン(コミンテルン工作員)の所業-中西輝政による。

 中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」同・日本の「岐路」(文藝春秋、2008)の紹介のつづき。
 中西は「コミンテルン工作員」であるハーパート・ノーマンのしたことを、四点にまとめている(p.312-3)。
 第一。石垣綾子(スメドレーの親友)・冀朝鼎都留重人らとともに、アメリカ国内で、「反日」活動をした。日本に石油を売るな・日本を孤立させよ等の集会を開催し、1939年の日米通商航海条約廃棄へとつなげた。
 第二。GHQ日本国憲法草案に近似した憲法案を「日本人の手」で作らせ、公表させる「秘密工作」に従事した。この「秘密工作」の対象となったのが鈴木安蔵。そして、鈴木も参加した「憲法研究会」という日本の民間研究者グループの案がのちにできる。
 中西によると、現憲法は、「GHQ憲法」というだけではなく、「ディープな」「陰の工作」を基礎にしている点で、「ノーマン憲法」、さらに「コミンテルン憲法」という方が「本質に近い」。
 コメントを挿むと、ここのくだりは<日本国憲法制定過程>にとって重要で、この欄でも複数回にわたって取り上げた、小西豊治・憲法「押しつけ」論の幻(講談社現代新書、2006.07)という本の価値・評価にもかかわる。小西は日本人たる鈴木安蔵らの研究会が当時の日本政府よりも<進歩的な>草案を作っていて(但し、現九条は含まず)GHQはそれを参照したのだから(アメリカ又はGHQによる)<押しつけ>ではない、と主張しているからだ。
 中西輝政が根拠資料としている文献も小西豊治の本を読んだあとに入手しているので、別の回にこの問題にはより詳しく論及する。
 少し先走れば、結論的にいって、中西の叙述は誤りではないが、より詳細な説明が必要かと思われる。小西豊治もノーマン・鈴木の接触に言及しているが(上記講談社現代新書p.126-7)、ノーマンを共産主義者・コミンテルン「工作員」と位置づけていない(又は知っていても隠している)小西は、ノーマンに「甘く」、ノーマン・鈴木の接触の意味を何ら感じていないか、その<解釈>が中西とは大きく異なる。
 第三。都留重人の縁戚の木戸幸一を利用して、近衛文麿の(東京裁判)戦犯指名へとGHQを動かした。近衛文麿は出頭期日の1945.12.16に自殺した。
 第四。「知日派」としての一般的な活動として、GHQの初期の日本占領方針の「左傾」化に大きな影響を与えた。
 以上。あと1回で終わるだろう。
 今回紹介したことに限らず、感じるのは、コミュニスト、当時でいうとコミンテルンやソ連・中国各共産党の謀略・陰謀の<スゴさ>だ。この点を抜きにして、いかなる(アジアの)第二次大戦史も書かれ得ないだろう。終戦直後も同様であり、またコミンテルンがなくなってからは主として各国共産党(とそれらの連携。日本では日本社会党(とくに左派)を含む)が謀略・陰謀を担うようになっていき、現在まで続いている、と考えられる(日本社会党は消失したが社民党・民主党「左派」として残存)。
 文藝春秋・スペシャル2008年季刊夏号/日本人へ-私が伝え残したいこと(文藝春秋、2008.07)というのが出版されていて、半藤一利・保阪正康の二人の名前(対談)が表紙にも目次にも大きく載っている。
 すでに書いたことだが、半藤は松本清張と司馬遼太郎に関する新書を書きながら、松本の親共産主義と司馬の反共産主義には何の言及もせず、骨のない戦後日本史の本を書き、かつ<九条の会>よびかけ賛同者、一方の保阪は朝日新聞紙上で首相靖国参拝によって「無機質なファシズム」が再来したと振り返られたくはないとか書いて小泉首相靖国参拝を強く批判した人物。
 こんな二人に、日中戦争や太平洋戦争についての<本質的な>ことが分かる筈はない。優れた又は愚かな軍人・政治家は誰だったとか等々の個別の些細な問題については比較的詳しくて何か喋れる(出版社にとって)貴重な=便利な人たちかもしれないが、この二人はきっと、<共産主義=コミュニズムの恐ろしさ>を何ら分かっていない
 文藝春秋は自社の元編集長(半藤)を厚遇しすぎるし、小林よしのりも<薄ら左翼>と評している保阪正康をなぜこんなに<昭和史に関する大評論家>ごとき扱いをするのか。不思議でしようがない。商売のために、多少は<左・リベラル>の読者・購買層を確保したいという魂胆のためだろうか。諸君!の出版元だが(そして「天皇家」特集で売りたいのだろうが)、文藝春秋も、言うほどには<とても立派な>出版社ではないな、と思う。

0530/西尾幹二は皇室典範等のどの法律・どの条項に基づく「皇室会議」を指しているのか。

 月刊・諸君!7月号(文藝春秋)の<われらの天皇家、かくあれかし>特集で、西尾幹二は、皇室典範(という法律)29条が内閣総理大臣を「皇室会議」の議長と定めているので、福田康夫現内閣総理大臣に対して、質問・要請する、というスタイルで文章を綴っている。最初の質問・要請事項は、皇太子妃のご病気・宮中祭祀へのご欠席等は「国家」問題・「国家レベルで解決されるべき政治問題」だと思うが、閣下(福田首相)は「そのような認識をお持ちであろうか」、のようだ(p.241)。
 内容的又は実質的問題はすでに(前回に)かなり触れたので、形式的・手続的問題について言及しておく。すなわち、「皇室会議」は「皇室」に関する事項ならば何でもすべて議題として議論することができるのか? 西尾が援用している皇室典範の全条項を、西尾自身は読んでいるのだろうか。
 皇室典範37条
皇室会議は、この法律及び他の法律に基く権限のみを行う」。
 皇室会議の権限は法律に列挙されている事項に限られる。同会議の議長としての内閣総理大臣の権限も(同会議に関する限りは)同じ範囲・事項に限られることとなる。その範囲・事項に該当しないと、議長・内閣総理大臣は「皇室会議」を招集・開催できない。

 やや急いで確認したので、見落としがありうるが、法律のうち皇室典範上の定めに限ると、「皇室会議」の権限は次のとおりだ。以下、特記がない限り、「皇室会議の議を経ることを要する」又は「皇室会議の議により…」と定められている。
 ・同3条/「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるとき」に、2条に定める順序に従つて「皇位継承の順序を変えること」。 
 ・同10条立后及び皇族男子の婚姻」。
 ・同11条
一項/「年齢十五年以上の内親王、王及び女王」が「その意思に基き」、「皇族の身分を離れる」こと。
 ・同・同条二項/「親王(皇太子及び皇太孫を除く。)、内親王、王及び女王」が「前項の場合の外、やむを得ない特別の事由があるとき」に、「皇族の身分を離れる」こと。
 ・同13条但書皇族の身分を離れる親王又は王の妃並びに直系卑属及びその妃は、他の皇族と婚姻した女子及びその直系卑属を除き、同時に皇族の身分を離れる」が、「直系卑属及びその妃」が例外的に「皇族の身分を離れないものとすること」。
 ・同14条二項/「皇族以外の女子で親王妃又は王妃となつた者が、その夫を失つたときは、その意思により、皇族の身分を離れることができる」(第一項)が、これらの者が「その夫を失つたとき」、「その意思に」よらなくとも、「やむを得ない特別の事由があるとき」に「皇族の身分を離れる」こと。
 ・同16条
二項/「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないとき」に、「摂政を置く」こと。 
 ・同18条/「摂政又は摂政となる順位にあたる者に、精神若しくは身体の重患があり、又は重大な事故があるとき」に、一七条が定める「順序に従つて、摂政又は摂政となる順序を変える」こと。
 ・同20条
/上記の「第十六条第二項の故障がなくなつたとき」に、「摂政を廃する」こと。
 西尾幹二は、皇太子妃うんぬんの問題は、上記の皇室会議の権限のうちどの条項に該当すると判断しているのか、皇室典範以外の法律上の権限ならばどの法律の何条が定める権限に属する問題なのか、を明確にしておくべきだ、と思う。冒頭の文を「皇室典範の第二九条に…と書かれてある」から始めているのだから。

0529/月刊・諸君7月号(文藝春秋)の天皇・皇室特集の一部を読んで。

 月刊・諸君!7月号(文藝春秋)の特集<われらの天皇家、かくあれかし>の各人の文章をかなり読んでみた(途中で気付いたが、執筆者名の五十音順で掲載されている)。56人分もあるので、まだ全員は読めていない。
 いくつか感想を述べる。
  皇太子妃殿下問題(?)-と書くのも失礼のような気もするが容赦いただきたい-に関して、私の意見・気分に最も近いのは、次の竹田恒泰の言葉だ。
 「騒ぎ立てるのではなく、静かにお見守り申し上げるのが日本国民としてのあるべき姿」ではないか(p.228)。
 この文の直前の「…など、報道されていることが仮に事実だとしても、その程度で皇室の存在が揺らぐようなことはあり得ないと私は断言する」、もきちんと読むべき(そして感得すべき)文章だと思う。
  なぜかかる立場をとりたいのかの理由の(すべてではないが)きわめて重要な一つは、田久保忠衛が異なる文脈で述べている文章を借りると、皇室内部の問題について騒げば騒ぐほど、「世界に例のない皇室に反対する向き」が「さぞかし喜んで」しまう、なぜなら「『天皇制打倒』などと叫ぶ必要もなくなるから」(p.226)、ということだ。
 皇太子妃殿下問題(?)による皇室内部の混乱、論壇や世論の沸騰・混乱こそ、「左翼」、とりわけ「<天皇制度>解体論者」が望んでいることだと考えられる。正面から表明していなくとも、「左翼」>反・天皇主義者たちがほくそ笑んでいる姿を想像できそうな気がする。
 皇室に関する一切の議論・論評をしてはいけない、とは勿論主張しない(所謂「お世継ぎ」問題・女系天皇の可否問題は重要だ)。しかし、推測・憶測等にもとづく特定の皇族への批判・攻撃あるいは問題提起等は、主観的意図がどうであれ、皇室や<天皇制度>を支持する人々を離反させ、国民の間に亀裂を生み、結果として<天皇制度>廃止・解体につながっていく危険性を秘めている(その方向は「左翼」、とくにマルクス主義者=反「天皇制」主義者が切望していることだ)、ということに留意しておくべきだ、と思う。
 ということから、西尾幹二論文については5/27に書いただけであえて済ましたのだった。
  今回は上記のような特集も出たので感想を述べざるを得ないが(そしてすでに述べているが)、上のような見地からすると、尊敬している西尾幹二に対して厳しい言い方になるが、次のような笠原英彦の西尾に対する反応は尤もだと感じる。笠原は次のように述べる。
 西尾の皇室観は「実に卓越」したものだが、「読み進むうちに…正直いって驚いた」。「氏の根拠となる情報源は何処に。いつのまにか西尾氏まで次元の低いマスコミ情報に汚染されていないことを切に祈る」。西尾の論調は、「格調高くスタート」し、「おそらく」を連発し、「思いっきり想像を膨らませ」、ついに妃殿下を「獅子身中の虫」と呼んで、「噂話の類まで権威づけてしまつた」。
 笠原英彦は私も所持している中公新書・歴代天皇総覧(2001)の著者だが、竹田恒泰とほぼ同様に、西尾は「憂国の士であるが、過剰な心配はご無用」と書き、「天皇といえども十人十色」と続けている。おそらく、皇后も、皇太子も、皇太子妃も「十人十色」ということになるだろう。
  皇太子妃問題(?)に言及している執筆者(過半数というわけではなさそうだ)には、かつての私と同様の、皇室祭祀・宮中祭祀に関する理解・知識の不足があるように思われる。
 5/27に触れたことだが、竹田恒泰同・「西尾幹二
さんに敢えて注〔忠?〕告します/これでは『朝敵』といわれても…」(月刊WiLL7月号(ワック))によると、次のとおり(5/27の一部反復になる)。

 「天皇の本質は『祭り主』であり、祈る存在こそが本当の天皇のお姿」だが、「皇后や東宮妃の本質は『祭り主』ではない」。皇后等の皇族が宮中祭祀に「陪席」することはあり「現在はそれが通例」だが、あくまでも「付き添い役」としてであり、新嘗祭等に内閣総理大臣が陪席するのと同様だ。「大祭」に際して「全皇族方が…陪席」するのは「理想」かもしれないが、「天皇は『上御一人』であり、全ての宮中祭祀は天皇お一人で完成するのが本質」だ。「皇族の陪席を必要」とはしないし、「皇族の一方が陪席されない」からといって「完成しないものではない」。「歴史的に宮中祭祀に携わらなかった皇后はいくらでも例があ」り、「幕末までは皇后が祭祀に参加しないことが通例だった。そもそも皇后の役割は宮中祭祀ではない、まして東宮妃であれば尚更」だ(月刊WiLL7月号p.41)。
 竹田はさらに、次のように言い切っていた。
 東宮妃(=雅子妃殿下)が皇后になられたときにまだご病気であれば「無理に宮中祭祀にお出ましいただく必要はない。またそれによって天皇の本質が変化することもない」。
 かかる理解とそれにもとづく見解が適切なものだとすると、皇太子妃殿下が長期にわたって宮中祭祀に列席されていないことが事実なのだとしても、それは、中西輝政がいうほどに「ことは誠に重大であり、天皇制度の根幹に関わる由々しき問題」(p.239)なのだろうか。
 また、八木秀次も「祭祀に違和感を持つ皇后が誕生するという、皇室の本質に関わる問題」と書いているが(p.262)、これも適切な理解なのだろうか。
 美智子皇后がご立派すぎているのかもしれない。だが、竹田恒泰によると、前述のとおり、「幕末までは皇后が祭祀に参加しないことが通例だった。そもそも皇后の役割は宮中祭祀ではない、まして東宮妃であれば尚更」なのだ。
 従って、中西輝政の「あえて臣下の分を越えて」の提言(p.239-240)も、正鵠を射ていない可能性があるのではないか。八木秀次の皇室典範三条の解釈論(p.262)も不要か、又は少なくとも早すぎるのではないか(なお、雅子妃殿下は「皇嗣」ではなく、また「立后」の時期ではまだない)。
  他にも、上記特集には、感想を付し又はコメントしたい文章がある。回を改める。
 書きたい(そして具体的に予定している)テーマは他に五、六はあるが、いかんせん、書く時間が足りない。

0521/中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」同・日本の「岐路」(文藝春秋)。

 中西輝政・日本の「岐路」(文藝春秋、2008)の中の最後の収載論文である「『冷戦』の勝敗はまだついていない」は、月刊正論2006年9月号(産経新聞社)が初出。その際のタイトルは「ロシア革命から現代まで日本を呪縛し続ける『悪魔』」だった。
 中西輝政「『大いなる嘘』で生き延びるレーニン主義」諸君!2007年5月号(文藝春秋)については1年余り前にこの欄で触れたことがあるが、こちらの方は上記の新刊本には含まれていない。
 いずれもコミンテルン又は「共産主義」国・者の<謀略>を扱う点では共通している。
 もともと「『冷戦』の勝敗はまだついていない」という新しい題名は、私がこの欄で書いてきた主張と同じだ。佐伯啓思が少なくとも「思想的には」<冷戦は(基本的に)終わった>と理解しているようであるのとは異なる。  「思想的には」ともかく、現実のリアルな認識のレベルでは(同じ大学・同じ研究科の)中西輝政の方が優れているのではなかろうか(誰にでも、どの研究者にも、<得意>分野というものがある、ということも分かるが)。
 上のタイトルにかかわる中西の最初の方の文章は次のとおり。
 「冷戦中の歴史責任〔中国のベトナム・インドへの「侵略戦争の責任」等〕が不問に付されたまま、六十年以上前の”歴史問題”がいまだに日本に対して突きつけられるということ自体が、実は冷戦は決して終わっておらず、『共産主義の脅威』が厳然として今も存在することを示している」(p.290)。
 私も、<「共産主義の脅威」は厳然として今も存在する>と、声を大にして主張したい。
 それはともかく、この論文での中西輝政の「共産主義」批判の言葉は厳しく、鋭い。書き写しておく価値が十分にあると感じる。
 共産主義とは何だったか。中西は書く。
 「国家や家族、私有財産を否定する共産主義は、人類の歩みそのものを否定するイデオロギーとその実現をめざす運動であり、人道や文明という人類普遍の価値に対する挑戦だった」。またそれは、「階級闘争理論を持ち込んで人間同士の絆を引き裂くという点で、社会の安定だけでなく、人間性の根幹に対する破壊的意図をもった挑戦だった」(p.292)。
 さらに中西は書く。
 共産主義は国家・家族・私有財産制を無くしさえすれば「全人類がやがて天国にいるような幸せな暮らしができるという『世界観』ないし一種の『宗教』」だった。それは「労働者階級」による「ブルジョア」階級の打倒による「資本主義」の「止揚」が「唯物論で動く歴史の必然」としたことでわかるように、「まさに『逆立ちした』議論を”科学的真理”と称した一種の『カルト宗教』」だった。それらは「言葉の真の意味で大いなる嘘だった」。その本質は「現存秩序を破壊することに目標を置く『反秩序主義』といってもよい」(p.292-3)。
 共産主義は「一種の『カルト宗教』」だ。そのとおり。日本共産党はさしづめ、世界共産「教」日本本部、または世界共産「宗」日本総本山だろうか。いや、コミンテルンはなくなったので、<自立>して、東京・代々木にあるのは、日本共産「教」本部、または日本共産「宗」総本山だろうか。
 中西は「マルクスの定式化した共産主義」は、①「十八世紀から十九世紀の始め〔初め?〕のヨーロッパに広がった急進的な革命思想」の周りに、次の二つを「システマティックかつ壮大に集大成してみせたもの」だ、という。②「イタリアで発祥した秘密結社カルボナリに始まる『謀略至上主義』の運動論」、③「『平等主義者の陰謀』事件で知られる…バブーフの『工作と陰謀』の戦術論・戦略論」(p.293)。
 さらに中西によれば、「『謀略』と『偽装』という共産主義」の第一の本質は、淵源たる「革命思想」も含めて、「自由や平等主義を掲げる『理想主義』を偽装していた」ことにある。
 第二の本質は、その「運動論の構造」にある。すなわち、「必ず『敵』を設定してそれを打倒することに大衆のエネルギーを集中するのが共産主義運動」で、そのためにこそ「階級対立」論が考え出された、「革命という目的のためには手段を選ばないマキャベリズム性」を最大の特徴とし、「道徳やモラルを政治の領域からトータルに排除」した、といったことだ。
 換言すれば、「<…ブルジョア支配階級を倒すには手段を選ぶ必要はなく、どれだけ卑劣な嘘で騙してもよい。…><自分の力が弱いときは相手をだまして利用し、力が強くなれば暴力的に抹殺する>」。かかる「人間性否定」の共産主義運動によって、「人間の絆、家族や共同体の繋がりというものを一切排除すれば、『革命』は自然に成就する」、と教えた(p.294)。
 第三の本質は、「国家の存立と覇権主義の道具」だったことにある。すなわち、スターリンは当初、「ロシアを守るために世界中の共産主義運動を利用した」。ソ連が確立すると「覇権拡大」のために「国際共産主義運動」を展開した。中国も「膨張的領土政策を採り、繰り返し他国に戦争を仕掛ける」。
 以上のような<「共産主義」論>の他にも、興味深くかつ重要と思われる指摘は多い。さらに続ける。 

0515/中西輝政・日本の「岐路」-自滅からの脱却は可能か(文藝春秋、2008.05)を読む。

 中西輝政・日本の「岐路」-自滅からの脱却は可能か(文藝春秋、2008.05)新刊。といっても、計13の個別論考は2005.07~2008.05に文藝春秋(月刊)、諸君!(文藝春秋)、月刊・正論(産経新聞社)にいったん掲載されたものだ。但し、「まえがき」によると各稿について「尚若干の補筆」をしているらしい。たぶん殆どを既に読んだことがあるように思うが、「補筆」の内容、初出論文との違いを逐一確認する暇はない。
 1 「まえがき」の中で中西輝政は、「本音」・「理性」では(日本は)「正直言って、『もうここまで来たら……〔原文ママ〕』という結論めいた所」に落ちつく、「理性では、もう殆ど結論に達している」と述べている。これは、<今のままでは日本は「自滅」する>あるいは<いずれ日本は「日本」でなくなってしまう>という趣旨だろう。
 だがこんな本を出版するのは「私も『日本を信じている』からである」、と中西はいう。
 中西輝政にこんな弱音?と「ぎりぎり『日本を信じる』ことの大切さ」という精神論を語られると、率直に言って<気が滅入る>。
 だが、安倍晋三内閣の崩壊という「第三の敗戦」(上掲書p.74)のあと、明るい見通しを得る特段の材料もなく、このままズルズルと<何となく左翼>・<何となく反権力>の勢力(むろん中核には日本共産党、「政治謀略」朝日新聞、「左翼」学者・文化人らがいる)が日本全体を覆ってしまいそうで、怒り・憤懣を通り越した静かな諦念を感じるほどだから、中西の言葉に反対するわけにもいかない。私も「日本を信じる」ほかはないか?
 2 文藝春秋2007.11の「小泉純一郎が福田を倒す日」が「誰が『安倍晋三』を辞任に追い込んだのか」というタイトルに改められて収載されている(p.55~)。
 初出とどう変わったかを確認しないままたぶん再び読んでみると、新しいタイトルの問いの答えは次のようだ。
 ・安倍首相は小泉純一郎の如き「闘技(ゲーム)」ではなく「本当の戦い」を口に出したため、「国民のサディズム」によって倒され、「わが身を血に飢えた観衆」に差し出した。「政治を楽しみたい人々」には「憲法改正や教育基本法改正」は「抹香臭く、余りにも『場違い』」で、「しかも、年金という名の『パン』さえ、ろくに配られないことが発覚すると、大衆の怒りは頂点に達した」(p.57-58)。
 まず第一に「国民」・「大衆」・「観衆」・「政治を楽しみたい人々」が挙げられているのだろう。
 中西はこの箇所では書いていないが、「剣闘士の血みどろの闘い」に喝采する(「劇場型」から進化?した)「コロシアム型政治」の「大観衆(p.56)を特定方向へのムードへと煽り、酔わせたのは、主権者「国民」(=大観衆)に最も寄り添うことを自負する「政治謀略」朝日新聞を筆頭とする(反安倍で一致した)<左翼>マスメディアだった。別の箇所には次のようにある。
 ・「小泉クーポン選挙の大いなる負の遺産である『血に飢えた観衆が待ち構えて」いたし、「『朝日新聞』を先頭にメディアの大半は団塊左派の『反安倍世代』が牛耳っている。これではとても長期政権は望めない」(p.68)。
 「団塊左派」という言葉は誰がいつから使い始めたのだろう。些か分かりにくいが、とりあえず第二は、「朝日新聞」等のメディアだ。
 ・郵政民営化を否定する平沼赳夫の自民党復党を許そうとした安倍首相・麻生太郎幹事長は、小泉純一郎にとって「許すべからざる叛徒」になった。小泉が自分の後継者・安倍の「首をとらせてもよい」との「最終的な決断」をしたのは、この平沼復党問題が大きい(p.60)。
 第三は小泉。この中西の指摘どおりだとして、小泉はいつその「最終的な決断」をしたのだろうか。すでに2007参院選の前なのか、もっとあとでか?
 ・「最大の反安倍勢力であり、勝者となったのは、霞が関の官僚」だろう。安倍首相は公務員制度改革に乗り出し、「天下り」問題という「虎の尾を踏んだ」(p.66-67)。
 第四に(順番は影響力の大きさの順ではなさそうだ)、<霞が関の官僚>。
 要約的引用はしないが、第五に挙げられているのは、「ワシントンとくに国務省周辺の意図」だ(p.69)。テロ支援国家指定解除・国交正常化の可能性を追求するアメリカ(の一部勢力)にとって「北朝鮮強硬派の安倍」は邪魔だった、というわけだ。
 以上。タイトルが変えられているように、中西のこの論文は他にいろいろなことを書いており、とくに「小泉純一郎の再登場」の必然性を強調しているのが目につく。
 ブログらしきものを書き始めたのは、安倍晋三が小泉後の首相の有力候補になった頃だった。あれから2年は経つ。その間に安倍内閣が成立し、崩壊した。安倍晋三が復活(復権?)するかどうか、中西は「すべては今後の身の処し方にかかっている」、という(p.72)。

0500/昭和30年代末・東京五輪の年の映画「愛と死をみつめて」と関川夏央等。

 吉永小百合・浜田光夫主演映画「愛と死をみつめて」は池田勇人首相時代、昭和三〇年代の末、東京五輪の前月の1964年9月に上映された。私は観なかったが、1964年末の紅白歌合戦でも歌われた「マコ、甘えてばかりで…」とのはやり歌の影響か、1965年に原本の書簡集を読んで、当時の少年らしい感動を受けた。
 のちに上記の映画を観ることがあったが、私の好みの文筆家・関川夏央・昭和が明るかった頃(文春文庫、2004)は、「女性の結婚への希望と家庭への願望の方に重心を大きく傾けた」のが映画ヒットの主因の一つとする(p.376)。
 これは間違いだろう。原作もそうだが、「結婚への希望と家庭への願望」は付随的テーマにすぎない。むしろ、青山和子の歌った上記の歌や吉永小百合歌唱の映画主題歌としての「愛と死のテーマ」こそが、フェミニストから見れば許されない程に?、「弱い女」・「慕う女」のイメージで歌詞が作られていて、大島みち子氏の強さと逆に河野実氏の(実在の方に申し訳ないが)弱さを感じさせる原作から見れば違和感がある。
 関川はまた言う。大島が死ぬ前に下さいといっている三日のうち、恋人といたいというのはたった一日にすぎない、と。二人の「愛」も、女性の気持ちもそんなものだと言いたげだが、これも間違っている。かりに自由な(そして健康な)三日間が与えられたとすれば、一日を父母・兄妹と過ごし、一日を一人で「思い出と遊ぶ」というのは至極当たり前の気持ちではないか。関川は恋愛至上主義者でもあるまいし、三日間とも恋人と一緒にいたいと書いてほしかったのか。いや、大切な三日のうち一日を「あなた」と過ごしたいと思うだけでも、素晴らしい恋愛であり、河野青年への「愛」だった、と私は思う。この物語、そして映画の主題は20~21歳の男女に実際に成立した恋愛そのものであったからこそヒットしたのであり、「結婚への希望と家庭への願望」に重きを置いたからでは全くないと私は思っている。
 一方、関川の、「男性側の『子供っぽさ』『成熟への拒絶』と、期せずして母親の役割を果たさざるを得なかったオトナの女性の『みごとな覚悟』といったすぐれて戦後的な対比をあえて排除」という指摘はほぼ同感で、映画上の浜田は原作の青年の苦しみと弱さをうまく演じてはいないが、これは浜田の責任というより脚本のなせる技だろう。
 なお、読書中の浅羽通明・昭和三十年代主義(幻冬舎、2008)には「愛と死をみつめて」は二回しか登場せず(索引による)、しかも「純愛」ものというだけの言及で、本格的な分析・論及は何もない。この本のアヤシゲさの一つの現れでなれればよいのだが。

0488/「左翼」出版社とその雑誌、講談社と月刊現代-月刊正論6月号(産経)を一部読む。

 月末から月初めは月刊誌の新刊が出るので楽しみだが、感想やメモをこの欄に書ききれないままで月日が経っていった論稿や記事が少なくない。ひょっとして、月刊WiLL6月号(ワック)のいくつかも…?
 講談社の月刊現代といえば、1970年代から80年代の少なくとも前半くらいまでは、月刊・文藝春秋とともに、エンタテイメント性もあり、かつ文藝春秋よりは大衆的・世俗的な愉しいイメージもある総合雑誌だった。
 月刊・正論6月号(産経)の新田均による原武史批判(「『21世紀の皇室』のためにという詭弁」)を読んで、月刊現代は、そして講談社は、ついに「左翼」雑誌・「左翼」出版社に<落ちぶれて>しまったと感じた。
 文藝春秋の月刊・諸君!、中央公論新社の中央公論、PHPの月刊ヴォイスあるいは週刊誌・週刊現代のライバル誌の週刊ポストを発刊している小学館による隔週刊行のサピオに対抗せざるをえないためだろうか。
 月刊現代が立花隆の護憲(改憲反対)のための駄文をまだ連載しているかは知らないが、月刊現代5月号(講談社)は、原武史の皇室・宮中祭祀不要論を「注目論考」として掲載した、という(上記、新田均p.209)。反天皇・反皇室あるいは天皇制度の崩壊につながる議論は<左翼>と称してよい。改憲反対論と天皇制度解体論を掲載していれば立派に「左翼」で、かつ出版社の基本的イメージを決める論壇誌・総合誌がそうでは、講談社自体を「左翼」と見て誤りとはいえないだろう。残念だし、講談社の社員は可哀想だ。
 ついでに、新田均が言及している原武史の本の出版元は、朝日新聞社2、岩波書店1、みすず書房1で、他に朝日新聞社の論座への寄稿も1つある。みすず書房についてはよくは知らないが、朝日・岩波というまさしく顕著な<左翼>出版社が原武史をかつぎ上げ、活躍させようとしていることが分かる。こうまでその傾向が歴然としている著者・出版社関係も珍しいかもしれない。
 内容に立ち入る気は殆どないが、原武史は宮中祭祀の「大部分」は「明治以降」に作られたもので、宮中祭祀を止めても本来の?明治以前に戻るだけ、と主張しているらしい。
 これはおかしいだろう。新田均は「古代そのままではないものの、宮中祭祀の多くは、新嘗祭にしろ、神嘗祭にしろ、賢所御神楽にしろ、古代に行われていたものである」(p.216)等と反論しているが、この論点についてのもっと詳細な叙述と原への反論(原の謬論批判)を書いてほしい。
 それにしても、<左翼>は、性懲りもなく、執拗に、<保守>を、あるいは<日本>を攻撃してくるものだ、と思わざるを得ない。
 日本国憲法はGHQに「押し付けられた」との論が憲法改正論の有力な論拠の一つになっていると感じれば、小西豊治・憲法「押しつけ」論の幻(講談社現代新書、2006)という、国民主権等(現九条は含まず)は日本人研究者(たち)の提言によるものとの本が出てくる。
 あの<戦争>と<戦犯>についての<東京裁判>批判が有力になり、パール判事意見書が一つの拠り所とされていると見るや、中島岳志・パール判事-東京裁判批判と絶対平和主義(白水社、2007)等が出てくる。
 天皇制度が彼らにとっての究極的な障害になるので、今から、実質的に天皇家を歴史的・伝統的な天皇制度とは無関係のものにしようとする原武史の本が数冊も出てくる。
 ついでに言えば、丸山真男はとっくに歴史上(過去)の人物・思想の筈だが、岩波は1995年から全集、書簡集などを刊行して丸山の現在への力を維持しようとしているが如くであり、この欄であえて取り上げなかったが、長谷川宏・丸山眞男をどう読むか(講談社現代新書、2001)などという、素人同然のエピコーネンが丸山真男を賛美するだけの本も生まれている。
 まことに精神衛生に悪い。言論・出版の自由のもと、国論の基本的な分裂を抱えたまま、「日本」は何とか生きながらえていけるのだろうか。憂いは相変わらず、深い。
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