秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

文春新書

1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。

  日本会議の役員の長谷川三千子・からごころ(中公叢書、1986)の「まえがき」を一瞥していると、何やら息苦しくなる。
 「日本」、「日本人」、「日本的なもの」とかへの拘泥あるいは偏執が強すぎ、かつ同時にこれれらを事実や経験からではなく<観念>的に理解しようとしているからだと思われる。
 こういう一文がある。「われわれ日本人のなかには、確かに、何か必然的に我々本来のあり方を見失わせる機構、といったものがある」。p.8-9。
 日本、日本人あるいは「日本的なもの」を想定してさまざまに論じるのは否定されるべきことではないし、この欄でもそうした作業に関連することは行っているだろう。
 しかし、「我々本来のあり方」という表現・観念には違和感が湧く。
 日本、日本人、「我々」についての「本来のあり方」とは何か?
 そんなものはあるのか? その存在を想定し、前提とすることから始めると、最終的結論も中間的結論も出ない、迷妄の闇の中に入ってしまうような気がする。
 日本会議は、「本来の」が好きだ。「天皇の…に関する、本来のあり方は、……だ」といったふうに語られる。
 だが<天皇の…本来のあの方>とは何か。誰が、どうやって決定するのか。
 日本会議が主張する、または認識するそれが決定的で、<正しい>ものである保障など、どこにもない。むしろ日本会議は、<本来のあり方>と称しつつ<ウソ>をばら撒いている可能性もある。
 なお、長谷川の上の著は全体を熟読しているわけではない。念のため。
  かつて一時期、天皇家の「菩提寺」だった泉涌寺に関連して、言及しておきたいことがまだある。
 大きな一つは、明治維新後の変化、神仏分離・判然政策にかかわる。
 前回も利用させてもらっている泉涌寺作成・頒布の小冊子は、月輪陵について、こう記述している。後月輪陵も含めてよいかと思われる。
 「ここに鎮まる方々の御葬儀は泉涌寺長老が御導師をお勤め申し上げ、御陵もすべて仏式の御石塔でお祀りされている」。
 こここで関心を惹くのは、幕末・明治維新以降、あるいは明治新政権の<宗教政策>上、「…御陵もすべて仏式の御石塔でお祀りされている」という状態が許容されたのか否か、許容されたとすればなぜか、ということだ。
 鵜飼秀徳・仏教抹殺-なぜ明治維新は寺院を破壊したのか-(文春新書、2018)は全国各地の事例に言及しているが、京都(市内)については、こんなことを書いている(第8章「破壊された古都-奈良・京都」)。
 ・「多くの仏教行事」、「例えば『五山の送り火』や地蔵盆、盆踊りも軒並み、『仏教的だ』という理由で禁止になっていた。
 ・1871年10月の京都府府令によるもので、この「府令は、京都市内の各町内の路傍における地蔵や大日如来像などは無益で、怪しく、人を惑わすものであるから、早々に撤去するよう命じた」。
 ・1872年7月にはつぎのような布令が出された(前のものとともに原文が引用されているが、ここでは略。なお、「府令」・「布令」は鵜飼著のママ)。
 「夏のむし暑いさなか、地蔵盆などで地域住民が集まって飲食しては、食中毒になりかねない。送り火と称して無駄な焚き火をし、ほかの仏事もまったく科学的根拠のない迷信だから今後は一切禁止する、という内容である」。
 ・愛宕神社はかつては神仏混淆で、700年代に役行者(修験道)が開いたとされ、781年に和気清麻呂が勅命により境内に白雲寺を建立した。
 だが1868年「神仏分離令」発布により、白雲寺等は「軒並み廃寺処分」となり、愛宕山麓での「鳥居形」の送り火も中止になった。
 ・四条大橋の鉄橋化に際して、寺院内の仏具・金属製什器類が「供出」された。p.209-p.210.
 ・五条大橋欄干の金属製装飾の「擬宝珠」が、「仏教的」であるとの理由で撤去・売却された。 
 ・「石塔婆などが道路の敷設に使われたり、…石仏が踏み石にされた事例は数多い」。p.211.
 ・1871年の「第一次上知令」により、寺領等が「国に取り上げられ」、大幅に縮小した。以下、単位は坪、一部は秋月が1000未満を四捨五入。
 高台寺9万5千→1万6千、平等寺3千→2千、清水寺15万6千→1万4千、東本願寺4万7千→1万9千、大徳寺6万9千→2万4千、鞍馬寺35万7千→2万4千、知恩院6万→4万4千、など。
 のちに「仏教式」ということの関係で触れることのほか、泉涌寺について、こうある。
 ・「泉涌寺における天皇陵の墓域がすべて上知され、官有地とされた」。p.233.
 なお、泉涌寺作成・頒布の小冊子の年表には、1878年(明治10年)のこととして、「御陵、宮内省の所管となる」、と書かれている。
 陵墓地の所有権は版籍奉還とは制度的に別の「上知」により早くに「国」に移り、1878年になって「管理」もまた国に移管した、という意味だろうか。
  現在の月輪陵・後月輪陵の様相は後述するとして、神仏判然、神仏分離の基本理念からすると、事もあろうに天皇の御陵が「仏教式」で供養されたり、その陵墓の築造様式が「仏教式」であってはならない、という発想が容易に出てきたはずだろう。
 二年前は今ほどの関心と問題意識はなかったが、この点についての興味深い史料を紹介して論評する文献を、この欄で取り上げていた。2017/05/03、№1527で、その文献は、以下。
 外池昇・幕末・明治期の陵墓(吉川弘文館、1997)。
 1968年6月の明治新政権「政体書」により律令上の「神祇官」が復活して太政官のもとに置かれて天皇陵の祭祀も担当するようになり(のちに1871年に神祇省に格下げ?)、その中の「諸陵寮」が陵墓地の管理を所管するようになった。
 上の外池著によると、祭祀の施行のほかに陵墓の維持・管理も含めるかどうかという議論があったようだが、陵墓は「穢れ」でないとの前提でこれの管理も含めて神祇官が所掌するとされ、陵墓(山陵)事務については独立の官署「諸陵寮」を設置すべきとの考え方がのちに政府・神祇官内でも出てきて、翌1869年9月に神祇官の「下部」機関として「諸陵寮」が置かれた、とされる。
 以下、二年前の投稿内容をそのまま再掲しないであらためて書き直す。
 1871年(明治3年)8月-御陵御改正案写/諸陵寮。上掲書、おおむねp.330以下。
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 「諸陵寮」はとくに泉涌寺周辺の多数の陵墓の存在とそこでの祭祀について注目していたようだ。
 1870年(明治3年)8月の「諸陵寮」の一文書「御陵御改正案写」はつぎのように書く(p.332-4。漢字カナ候文、直接引用も混ぜる。厳格な正確さはない可能性はある)。
 ・「御一新復古」となり、「神仏混淆不相成旨」を先般布告し、「僧侶ども還俗復飾」等を「仰せ付け」た。
 ・「御陵御祭典」が全て「神祇道」でもって行われることになり誠に「恐悦至極」だ。
 ・しかるところ(「然処」)、御陵に関係している「泉涌寺其外」が依然として「巨刹を構え」「そのままに」されているのは(其儘被差置候者)、恐れ入ることだ(「何共恐入候次第」)。
 ・「皇国に来たりしより既に二千有余年」、「禍害は四隅に蔓延」していて「もとより一朝一夕の事」ではないが、「即今の御回復」は「重大」なことで、「僧侶ども生活の道」が相立たないこともあるだろうが「千緒万端」の手を尽くしたにもかかわらず、このような「重大の事件」は「御一新」のときにあってはならない。
 ・「御盛業」の「確然」相立っており、「諸国の神社の社坊社僧」に比べると「誠に瑣々たる」ことなので「容易に御成功」できないかもしれない。
 ・しかしながらそもそも、「神世以来の御一統」の「皇室御歴代」の「御追孝の御祭典御陵の御取扱」方法は「上親王華族より下億万の庶民まで」の「模範」であるべきで、「断然と浮屠混淆」をしてはならない旨を「神社」に「普く「御布告」した。
 ・「泉涌寺等全御陵に関係の寺院」は、一山残らず「還俗」すること(「一山還俗))人選の上で「相当の職務」に就かせることをを「仰せ付け」た。
 ・「寺院境内ニ御陵」がある寺院は「僧徒」から「還俗」の出願があればよいが、そうでなければ「塔中一院」であっても「還俗」しなければならない。
 -以下つづけるが、以下の諸項が興味深い(なお、原文が項立てしているのではない)。
 ・…。しかし、「九重石御塔あるいは法華堂杯」をそのままに「御建置」したままで「御祭典」をしているのは、「浮屠混淆の一端」なので、少しずつ是正される(「順々其辺御改正」))のは「理の当然」のことだ。
 ・「御陵」とはすなわち「御霊の所在」で、これが「御是正」されるべきは「自然」だ。「寺院ニモ往年格別」の「勅諚」は「叡慮」によって下されなかったけれども、その理由は…ということであった。
 ・「万民の方向」は「御定め」られているのに「肝要の御陵の御取扱」が「浮屠混淆」であっては、「寮官」にはじつに堪えざる懸念がとくに心を苦しめる(「不堪懸念殊更苦心」)。
 ・「先」ずは「泉涌寺御改正」を「別紙」のとおり行うように「寮儀」を差し出すので、すみやかに「御評決」していただきたい。
 -この「別紙」は全文が掲載されていないが、外池著p.334は、つぎの部分を引き、「泉涌寺における神仏分離と陵墓管理の徹底について、極めて具体的かつ厳しい見通しを述べている」と注釈している・
 ・(<別紙>)「御歴代御陵祭祀神典に被為依候上は、泉涌寺をも被廃候儀当然の御儀と奉存候
 =「御歴代御陵祭祀」は「神典」によるべきところ、「泉涌寺をも」「廃」=廃止するのは「当然の御儀」だと申し上げさせていただく。 
 以上、終わり。
 ***
 これは明治政府全体の1871年の政策方針でも、神祇官の見解でもない。しかし、その直下の「諸陵寮」の見解・意見の具申文書だ。
 「九重石御塔」等が存置されたままであるのを批判し、泉涌寺の「廃止」すら提案されている。その根拠は「ご一新」であり、「神仏混淆不相成」であり、「浮屠混淆」の禁止=仏教を含む汚らわしいものとの「混淆」の禁止、だ。
  しかし、現在、泉涌寺は残存しており、御陵もその直近に残っている。
 「九重石御塔」とは<九重石塔>とか<九重石仏塔>とか呼ばれるもので、どうやら仏教様式のものらしい。
 思い出すと、奈良県桜井市の談山神社の本殿の前に立って、ここは寺院だったか神社だったかと一瞬迷ってしまった理由の一つは、石製でなく木造ではあっても13重の、<九重仏塔>のようなものがきちんと存在していたことにあったようだ(神仏混淆の名残りだと思われる)。
 <九重石仏塔>ではなく、実際に多くあると思われるのは<十三重石塔>だ。
 清水寺(京都)、泉涌寺塔頭の新善光寺、長岡京市の乙訓寺、奈良県平群町の千光寺、京都・三十三間堂東の法住寺、神戸市北区の三田に近い鏑射寺には、間違いなく<十三重石塔>があり、京都市・東山の長楽寺には、建礼門院(安徳天皇の実母)の供養塔として、かなり古びた小ぶりの<十三重石塔>がある。但し、これらは御陵または陵墓とは直接の関係がないと見られる。つまり、墓碑の直近に立っているわけではないようだ。なお、建礼門院徳子は天皇ではないものの、その御陵はあって宮内庁が管理している。その位置からして、少なくともかつての「菩提寺」は京都・大原の寂光院だったと見られる。
 もっとも、(五重石塔もあるようなのだが)、これら<九重石塔>や<十三重石塔>の意味、9や13という数字の意味はよく分からない。関心をもって情報を探しているが、簡便な方法によっては手がかりが得られない。ひょっとすると、きちんと説明することのできる仏僧たちすら少ないのではないか、とすら感じている。
 四での前置きが長くなったが、上の1871年諸陵寮改正案が批判・攻撃の対象にしていた「九重石御塔」は、現在でもそのまま残っていると見られる。
 この一年以内に、ネット上で近年または最近の月輪陵(+後月輪陵)を撮影している写真を見つけた。一般人も撮影地点まで入れるかと思ってその後に(そのためだけでもないが)陵の告知板辺りから右上方につづく「道」を入りかけると、そこは立入禁止になっていた。ネット上の写真は特別の資格があるか特別の許可を得た人が掲載しているのだろう(あるいは禁を破った人か)。
 先日にこの陵を西北方向から撮った映像を数秒間流していたテレビ局があった。相当に珍しいフィルムなのではないかと思われる。
 これで泉涌寺関連が終わるのではない。
 各御陵の「向き」(泉涌寺自体の「向き」とほとんど同じ)や孝徳天皇(・英照皇太后)陵の、他陵との違いについて、さらに言及する。
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 以下、ネット上より。月輪陵。後月輪東山陵は写っていない。

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1308/中西輝政の憲法<改正>論。

 中西輝政・中国外交の大失敗 (PHP新書、2014.12) の最終の第八章のタイトルは「憲法改正が日中に真の安定をもたらす」であり、その最終節の見出しは「九条改正にはもはや一刻の猶予もならない」だ。そして、「九条改正という大事の前では、集団的自衛権の容認など、取るに足らない小事」で憲法九条を改正すれば「集団的自衛権の是非などそもそも問題にはなりえない」等ののち、「日本人はいまこそ一つの覚悟を固めて」、「日本国憲法の改正、とりわけ第九条の改正」にむけて「立ち上がらなければならない」等と述べて締めくくられている。
 このように中西輝政は憲法「改正」論者であり、<改正というべきではない、廃棄だ>とか<明治憲法に立ち戻ってその改正を>とか主張している<保守原理主義>者あるいは<保守観念主義(観念的保守主義)>者ではない。
 ではどのような憲法改正、とくに九条改正を、中西は構想または展望しているのだろうか。中西輝政編・憲法改正(中央公論新社、2000)の中の中西輝政「『自己決定』の回復」の中に、ある程度具体的な内容が示されている。
 すなわち、「九条の二項を削除し代わりに、自衛のための軍隊の保有と交戦権の明示、シビリアン・コントロールの原則と国際秩序への積極的関与に、それぞれ一項を立てる、というのが私の提案である。そして慎ましい『私の夢』である」(p.98)。
 そして、このような「九条二項の逐条改正を『最小限目標』とすべきである」ともされている(p.96)。
 この中西の案はいわば九条1項存置型で、同2項削除後の追加条項も含めて、基本的には、自民党改正案(第二次)や読売新聞社案とまったくか又はほとんど同じもののようだ。
 注目されてよいのはまた、「一括改憲」か「逐条改憲」かという問題にも言及があることで、「戦略」的な「現実の改憲」の容易性(入りやすさ)が意識されている。
 中西によれば、私学助成、環境権、プライバシー権など(の追加による逐条改憲)は「入りやすく」とも「『自己決定』の回復」とは到底いえず、一方、一括改憲は「改憲陣営の分裂を生じさせる」可能性があり、「何よりも時間がかかる」(p.96)。
 昨年末に田久保忠衛の論考(月刊正論(産経)所収)を読んで、ただ憲法改正を叫ぶだけではダメで、どの条項から、どういう具体的内容へと改正するのかを論じる必要がある、<保守派の怠惰>だと書いたのだった。しかし、中西輝政はさすがによく考えていると言うべきで、上のような議論を知ると、中西輝政を含めた<保守派>全体にあてはまる指摘ではなかったようだ(この中西編の著も読んだ形跡があるのだが、少なくともこの欄で取り上げたことはなく、-よくあることだが-中西論考の内容も忘れていた)。
 なお、上の2000年の中西論考は、中西輝政・いま本当の危機が始まった(集英社、2001)p.214以下、およびその文庫版(文春文庫、2004)p.196以下にも収載されている。
 とくに中西輝政と西尾幹二の諸文献、諸論文を、読む又はあらためて読み直すことをするように努めている。この稿はその過程でしたためることになった。

1143/中島岳志という「保守リベラル」は憲法九条改正に反対する①。

 中島岳志月刊論座2006年10月号(朝日新聞社)の<安倍晋三「美しい日本へ」を読む>特集の中で、安倍晋三著の文春新書の内容を批判し、「多くの国民の心を揺さぶる作品を利用し、論理的な飛躍を通じてナショナリズムを煽る手法に、我々は今後、注意深くならなければならない」と結んでいた(p.33)。
 中島岳志はしかし、自称「保守」派でもあるらしく、西部邁・佐伯啓思ら編・「文明」の宿命(NTT出版、2012)の中で、「保守思想に依拠して思考している」がゆえに「漸進的に脱原発を進めていくへきだ」と主張し(p.143-144)、「左翼が反原発」を唱えているのでそれに反対するのが「保守」だという論理を超えるべきだ、とも述べている(p.162)。
 中島岳志はまた、西部邁と佐伯啓思を顧問とする、自民党の西田昌司もときどき登場する隔月刊雑誌「表現者」39号(ジョルダン、2011)に、「橋下徹大阪府知事こそ保守派の敵である」と題する論考を書き、「大阪市を解体し、国家まで解体しようとする」「自称改革派」の橋下徹を「保守派」は支持すべきではない、と主張する。結論的に月刊正論(産経)編集長・桑原聡と似たようなことを先んじて書いていたわけだ。
 すでに言及したこともあるが、またここでこれ以上長く紹介したり論じたりしないが、上のような中島の主張内容から、中島岳志の「保守派」性に疑問を持っても不思議ではないと思われる。
 これまたごく簡単に言及したことがあるが、中島岳志は、月刊論座2008年10月号(朝日新聞社)の座談会の中で、現憲法9条改正反対論を述べている。すなわち、「今は間違いなく、9条を保守すべきだ」と「保守に向かって」言っている、と発言している。
 憲法9条に限ってではあるが、憲法改正に反対なのであり、結論的には、社民党・日本共産党等の「左翼」と変わりはない。
 中島は、つぎのように理由・根拠を語っている(p.37)。
 「なぜならいま9条を変えると、日本の主権を失うことに近づくからです。これだけ強力な日米安保体制の下で、アメリカの要求を拒否できるような主権の論理は、今や9条しかないと言ってもいい。アメリカへの全面的な追従を余儀なくされる9条改正は、保守本来の道から最も逸れると思います」。
 原発問題ほどには大きな根拠としていないようだが、やはり「保守の道」から逸れないためには憲法9条を保守すべきだと言っており、「保守」の立場かららしき憲法改正反対論だ。
 ますます中島岳志というのは奇矯な論者だと感じるとともに、上のような理由づけ自体も理解することができない。
 憲法9条2項を削除して国防軍を正規に持つことが、なぜ「主権を失うことに近づく」のか、9条があるからこそ「アメリカの要求を拒否できる」というのは、いかなる理屈なのか、がよく分からないからだ。
 中島は上の雑誌・論座では上のように述べるにとどまる。不思議な理屈だと感じていたが、論座編集部編・リベラルからの反撃(朝日新聞社、2006)を見ていて、中島と同じ理由づけを、中島よりは詳しく書いてある論考にでくわした。
 その論考は典型的な「左翼」ではなくとも「保守派」の論者では決してない者によって書かれており、中島岳志も読んでいる、そして参照しているように思われた。
 そして、朝日新聞社発行の雑誌や書物であること(だけ)を理由にするのではないが、やはり中島岳志は「保守派」ではない、と感じられる。中島も自らについて称したことのあるように、朝日新聞または「論座」的概念・用語法によると、せいぜい「保守リベラル」という、ヌエ的な存在なのだろうと思われる。中島はそこに、論壇における自らの「売り」を見出し、最近に読んだ竹内洋の本の中の言葉を借りると、論壇における自らの「差別化」を図っているのだろう、と思われる。
 西部邁らは中島岳志を「飼う」ことをやめるべきだ、と再び言いたい。
 それはともあれ、憲法改正反対=憲法護持論者は、いろいろな理屈を考えつくものだと感心する。論座編集部編・リベラルからの反撃(朝日新聞社)の中の一論考にはつぎの機会に論及する。

1116/憲法・「勤労の義務」と自民党憲法改正草案。

 〇憲法や諸法律の<性格>について、必ずしも多くの人が、適確な素養・知識をもっているわけではない。
 憲法についての、「最高法規」あるいは<最も重要な法>・<成文法のうち国家にとって重要な事項を定めたもの>といった理解は、例えばだが、必ずしも適切なものではない。
 また、憲法に違反する法律や国家行為はただちに無効とは必ずしもいえない(そのように表向きは書いてある現憲法の規定もあるが)。そして、国民間(民間内部)の紛争・問題について、憲法が直接に適用されるわけでも必ずしもない。これらのことは、おそらく国民の一般教養にはなっていないだろう。
 塩野七生・日本人へ/リーダー篇(文春新書、2010)は「法律と律法」について語り(p.42-)、憲法はこれらのうちいずれと位置づけるのかといった議論をしているが、ボイントを衝いてはいないように思われる。失礼ながら、素人の悲しさ、というものがある。
 保守系の論者の中に、現憲法は国民の権利や自由に関する条項が多すぎ、それに比べて「義務」(・責務)に関する規定が少なすぎる、との感想・意見を述べる者もいる。櫻井よしこもたしか、そのような旨をどこかに書いていた。
 宮崎哲弥週刊文春5/17号の連載コラムの中で、「憲法の眼目は政府や地方自治体など統治権力の制限にあり、従って一般国民に憲法に守る義務はない」と一〇年近く主張してきたと書いている。この主張は基本的な部分では適切だ。
 もっとも、憲法の拘束をうける「統治権力」の範囲は、少なくとも一部は、実質的には「民間」部門へも拡大されていて、その境界が問題になっている(直接適用か間接適用かが相対的になっている)。
 上の点はともあれ、国家(統治権力)を拘束することが憲法の「眼目」であるかぎり、<国民の義務>が憲法の主要な関心にはならないことは自明のことで、「義務」条項が少なすぎるとの現憲法に対する疑問・批判は、当たっているようでいて、じつは憲法の基本的な性格の理解が不十分な部分があると言えるだろう。
 〇その宮崎哲弥の文章の中に、面白い指摘がある。この欄ですでに言及した可能性がひょっとしてなくはないが、宮崎は、現憲法27条の国民の「勤労の権利」と「勤労の義務」の規定はいかがわしく、「近代憲法から逸脱した、むしろ社会主義的憲法に近い」と指摘している。宮崎によると、八木秀次は27条を「スターリン憲法に倣ったもの」と断じているらしい(p.135)。
 現憲法24条あたりには、「個人」と「両性の平等」はあるが「家族」という語はない。上の27条とともに、現憲法の規定の中には、自由主義(資本主義)諸国の憲法としては<行きすぎた>部分があることに十分に留意すべきだろう。
 自民党の憲法改正草案の現憲法27条対応条項を見てみると(同じく27条)、何と「義務を負ふ」が「義務を負う」に改められているだけで、ちゃんと「勤労の義務」を残している(同条1項)。
 もともとこの憲法上の「勤労の権利・義務」規定がいかなる具体的な法的意味をもちうるかは問題だが、<社会主義>的だったり、<スターリン憲法>的だとすれば、このような条項は削除するのが望ましいのではないか。
 旧ソ連や北朝鮮のように<労働の義務>が国家によって課され、国家インフラ等の建設等のための労働力の無償提供が、こんな憲法条項によって正当化されては困る(具体化する法律が制定されるだろうが、そのような法律の基本理念などとして持ち出されては困る)。また、女性の子育て放棄を伴う<外で働け(働きたい)症候群>がさらに蔓延するのも―この点は議論があるだろうが―困る。
 自民党の憲法改正意欲は、九条関係部分や前文等を別とすれば、なお相当に微温的だ。<親社会主義>な部分、<非・日本>的部分は、憲法改正に際して、すっぱりと削除しておいた方がよい。

1017/<保守>は「少子化」と闘ったか?-藤原正彦著を契機として。

 一 最近この欄で言及した二つの雑誌よりも先に読み始めていたのは藤原正彦・日本人の誇り(文春新書、2011.04)で、少なくともp.175までは読み終えた形跡がある(全249頁)。
 藤原が第一章の二つ目のゴチ見出し(節名)以降で記しているのは、現在の日本の問題点・危機だと理解できる。
 ①「対中外交はなぜ弱腰か」、②「アメリカの内政干渉を拒めない」、③「劣化する政治家の質」、④「少子化という歪み」、⑤「大人から子供まで低下するモラル」、⑥「しつけも勉強もできない」(p.11-25。番号はこの欄の筆者)。
 上のうち<保守>論壇・評論家が主として議論してきたのは①・②の中国問題・対米問題で、③の「政治家の質」とそれにかかわる国内政治や政局が加えられた程度だろう。
 つまり、上の④・⑤・⑥については、主流の<保守>論壇・評論家の議論は、きわめて少なかったと思われる(全くなかったわけではない)。
 藤原正彦とともに、「政治、経済の崩壊からはじまりモラル、教育、家族、社会の崩壊と、今、日本は全面的な崩壊に瀕しています」(p.22)という認識をもっと共有しなければならないだろう。
 二 例えばだが、<少子化>が日本崩壊傾向の有力な原因になっていること、そしてその<少子化>をもたらした原因(基本的には歪んだ戦後「個人主義」・男女平等主義にある)について、櫻井よしこは、あるいは西部邁は(ついでに中島岳志は)どのように認識し、どのように論じてきたのだろうか。
 p.175よりも後だが、藤原は、「少子化の根本原因」は「家や近隣や仲間などとのつながり」を失ったことにある、出産・子育てへのエネルギー消費よりも<自己の幸福追求>・社会への報恩よりは「自己実現」になっている、「個の尊重」・「個を大切に」と「子供の頃から吹き込まれているからすぐにそうな」る、とまことに的確に指摘している(p.241)。
 このような議論がはたして、<保守派>において十分になされてきたのか。中島岳志をはじめ?、戦後<個人主義>に染まったまま<保守>の顔をしている論者が少なくないのではなかろうか。
 <少子化>の原因の究極は歪んだ戦後「個人主義」・男女平等主義にあり、これらを称揚した<進歩的>憲法学者等々の責任は大きいと思うが、中間的にはむろん、それらによるところの晩婚化・非婚化があり、さらに<性道徳>の変化もあると考えられる。

 中川八洋・国が滅びる―教育・家族・国家の自壊―(徳間書店、1997)によると、マルクスらの共産党宣言(1848)は「共産主義者は…公然たる婦人の共有をとり入れようとする」と書いているらしく、婚姻制度・女性の貞操を是とする道徳を破壊し、「売春婦と一般婦女子の垣根」を曖昧にするのがマルクス主義の目指したものだ、という。そして、中川は、女子中高生の「援助交際」(売春)擁護論(宮台真司ら)には「過激なマルクス主義の臭気」がある、とする(p.22-)。
 また、今手元にはないが別の最近の本で中川八洋は、堕胎=人工中絶という将来の生命(日本人)の剥奪の恐るべき多さも、(当然ながら)少子化の一因だとしていた(なお、堕胎=人工中絶の多さは、<過激な性教育>をも一因とする、妊娠しても出産・子育てする気持ちのない乱れた?性行動の多さにもよるだろう)。
 私の言葉でさらに追記すれば、戦後の公教育は、「男女平等」教育という美名のもとで、
女性は(そして男ではなく女だけが)妊娠し出産することができる、という重要でかつ崇高な責務を持っている、ということを、いっさい教えてこなかったのだ。そのような教育のもとで、妊娠や出産を男に比べての<不平等・不利・ハンディ>と感じる女性が増えないはずがない。そして、<少子化>が進まないわけがない。妊娠・出産に関する男女の差異は本来的・本質的・自然的なもので、<平等>思想などによって崩されてはならないし、崩れるはずもないものだ。しかし、意識・観念の上では、戦後<個人主義>・<男女対等主義>は女性の妊娠・出産を、女性たちが<男にはない(不平等な)負担>と感じるように仕向けている。上野千鶴子や田嶋陽子は、間違いなくそう感じていただろう。

 上のような少子化、人工中絶等々について、<保守>派は正面からきちんと論じてきたのだろうか?
 これらは、マルクス主義→「個人主義」・平等思想の策略的現象と見るべきものと思われるにもかかわらず、<保守派>はきちんとこれと闘ってきたのだろうか?
 現実の少子化、そして人口減少の徴候・現象は、この戦いにすでに敗北してしまっていることを示しているように思われる。
 このことを深刻に受けとめない者は、<保守>派、<保守>主義者ではない、と考える。 

0983/「自由」は「民主主義」の根本か-櫻井よしこ・月刊正論3月号。

 屋山太郎の名も表紙に掲げる月刊正論3月号(産経新聞社)は、第26回正論大賞受賞記念論文と銘打って、櫻井よしこ「国家としての大戦略を確立せよ」を掲載する。

 内容に大きなまたは基本的な異論はないが、インドも同じ立場に立つ「価値観外交」をせよ、そのための「憲法、法制度の改正」を急げ、というのが確立すべき「国家としての大戦略」だとの基本的趣旨のようで、新味はない。

 また、気になる部分もある。以下はその例。

 第一に、「日本人として、中国や韓国では勿論のこと、米国においてさえも時に感じる歴史認識の相違は、インドには存在しない」とある(p.61)。
 インドうんぬんを問題にしたいのではない。「米国においてさえも時に感じる歴史認識の相違」とは、アメリカに対して相当に甘い見方ではなかろうか。

 同じ月刊正論3月号の書評欄にアーミテージ=ナイ・日米同盟vs.中国・北朝鮮(文春新書)が採り上げられているが(この新書は未読)、紹介(・書評)者の島田洋一はこの本の中で、J・S・ナイ(クリントン政権CIA国家情報会議議長・国防次官補、ハーバード大学教授)は「2010年は民主党政権の閣僚は1人も靖国参拝をしていませんね。それはとても良いステップであり、重要だと思います」と述べていると紹介して「余計な」「アドバイス」だ(アーミテージは賢明にも沈黙を保っている)とコメントしている。

 これは一例だと思うが、かの戦争や東京裁判、首相靖国参拝等にかかわる米国と日本の間の「歴史認識の相違」は、少なくとも日本の<ナショリスト派保守>(と中川八洋の「民族派」との語を意識して呼んでおく)にとっては、「米国においてさえも時に感じる」というようなものではなく、より根本的なものがあるのではなかろうか。

 櫻井よしこは民主党閣僚が誰一人として靖国参拝をしなかったことを諒とし、「良いステップ」だと評価する評論家だったのだろうか。アメリカを含む(非中国・反中国の)<価値観外交>の重要性を説きたいがために、ここではアメリカの主流派的「歴史認識」への批判・警戒を薄めすぎているように見える。

 第二に、「民主主義の根本は人間の自由である。言論、思想信条の自由、信教の自由を含む基本的人権の確立である」とある(p.52)。

 中国の「民主主義」の観点からの「異質さ」を語る中で述べられている文章だが、この簡単な叙述には、率直に言って、非常に驚いた。

 「基本的」がつく「基本的人権」という語は欧米にはない日本的なもので同じ<価値観>の欧米諸国に普遍的なものではない(「人権」や「基本権」はある)、田母神俊雄が事実上免職された際に櫻井よしこ(や国家基本問題研究所)は「言論、思想信条の自由」のためにいかなる論陣を張ったのか、「シビリアン・コントロール」という概念の使い方に文句をつけていたが田母神俊雄を擁護しはしなかったのではないか、といった点は細かなこととして、今回はさて措くこととしよう。

 驚いたのは、「民主主義」と「自由」の関係に関する簡単な叙述だ。<「民主主義」の根本は「自由」だ>というように簡単に両者を関係づけるのは、「民主主義」や「自由」というものに対する深い洞察・知見のないことを暴露していると思われる。

 この両概念をどのような意味で用いようと自由勝手だとも言えるが、この両者は別次元のもので、どちらかがどちらかの「根本」にある、というような関係にはないのではないか。正論大賞受賞者ならばいま少し慎重な用語法をもってしてもよかったのではないか。

 より詳しくは(といってもこの欄に書く程度の長さだろうが)、別の機会に述べる。

0917/西村幸祐・メディア症候群―なぜ日本人は騙されているのか?(2010、総和社)を一部読む。

 1.西村幸祐・メディア症候群―なぜ日本人は騙されているのか?(2010.08、総和社)における「メディア症候群(メディア・シンドローム)」とは、西村によると、「外国の手先と堕すメディアとその報道に翻弄される日本人の姿を、すなわち、私たちが<現実>を直視できないその症状」を意味する(p.3)。
 「外国の手先と堕す」という形容に納得しない者もいるだろうが、さて措く。

 2.西村は、民主党に期待して投票した「国民の大半」には裏切られた想いが強く、「閉塞感と虚脱感」をもち、「いったい、いつからこうなったのか」と途方に暮れているのが「多くの人の本音」ではないか、とまず書いている(p.1)。

 上の点はまぁよい。しかし、次の認識には疑問がある。-「恐らくほとんどの日本人は、テレビや新聞の報道に疑いを持っているはずである。既存メディアが偏向報道や『報道しない自由』を駆使し情報操作を行っていることも、政治や社会の動きに少しでも関心がある人ならインターネットで情報を収集して知っている」(p.1-2)。

 「恐らく」という留保は付いているが、「ほとんどの日本人は、テレビや新聞の報道に疑いを持っているはずである」とは希望的観測にすぎないか、西村幸祐が日常的に接している日本人にのみ当てはまるように思われる。すなわち、まだ過半の、やや大袈裟にいうと<大半の>日本人は、「テレビや新聞の報道に疑い」など持ってはいない。メディアによって多少の論調の差異があることくらいは知っているだろうが、基本的にまだ<信じて>いる。

 そうでないと、2005年総選挙、2007年参院選挙、2009年総選挙、2010年参院選挙が各々示した結果にはなっていない、と思われる。

 また、政治・社会に関して「インターネットで情報を収集して」いる国民はいったい何%いるのだろうか。西村幸祐の周辺では過半数または圧倒的多数なのかもしれないが、一般国民だとまだ半数に満たないはずだ。インターネット利用者と、それを使った政治・社会情報収集者の数は、もちろん同じではない。

 3.…と些細な表現の一部に楯突いてみたが、全体としては、有意義な書物だろう。

 すでに知っていて思い出したことだが、小泉首相の靖国参拝の是非が日本で(アメリカでも?)話題になっていた2006年、6/29のTBS「NEWS23」は、ハイド米国下院議員の「首相が靖国に行くべきではないと強く感じているわけではない」(I don't  feel strongly that …)との発言に、「…行くべきではないと強く思う」との字幕をつけた(p.317)。これを「誤訳」としてのちにTBSは「詫び」たのだったが、「誤訳」ではなく、意図的な趣旨の改竄(捏造)で、ハイド氏の英語発言が聞き取れなかったら発覚しなかった可能性があっただろう。

 この辺りの詳細は忘れているが、ハイド氏は首相靖国参拝に消極的ではあり、ハイド氏の下院議長宛書簡を、日本の「靖国参拝反対派」、とくに朝日新聞(・若宮啓文論説主幹)は大きくとり上げていたらしい。この朝日新聞の記事・社説等をじかに読みたかったものだ。

 たぶん知らなかったが、同年8/15のNHKによるリアルタイム携帯調査で、首相靖国参拝につき「賛成63%、反対37%」という、番組制作者を慌てさせる数字が出た、という。面白いのは、その数字も、賛成63.5%を63%に切り下げ、反対36.5%を37%に切り上げたものだった、ということだ(p.318)。また、「慰霊」場所として靖国神社は「ふさわしいか」との設問に対するイエスの画面上の「46.0%」を別に「41%」と表示し、ノーの画面上の「25.1%」を「29%」と「言い放った」らしい(p.318)。

 TBS「NEWS23」と筑紫哲也の<捏造>体質については中宮崇・天晴れ!筑紫哲也NEWS23(文春新書、2006)が実証的かつ詳細に明らかにしており、愉快に読める(そして慄然として恐怖を感じる)。NHKも似たようなものであることは、プロジェクトJAPANシリーズの内容と、その一つに対する台湾人等の多数原告の訴訟の被告になりながら、その訴訟については一秒も報道したことがないこと、にも示されているだろう。

 司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」の作り方にも、関川夏央が内容のチェック役の一人の筈であるにもかかわらず、原作者の意図に忠実ではない、制作者の<政治的・思想的>思惑が出ている箇所がある。

 4.離れかけたが、西村幸祐の本には、できるだけ月日と(可能なかぎりでの正確な引用をした)内容が明記されていることを期待したい。いつか書いたことがあるが、週刊新潮高山正之の連載コラム(とそれをまとめた書物)には、データのソース・月日等が(紙数の制約のためだろうが)ほとんど明記されておらず、第一次史料・資料をフォローできないのが残念なところなのだ。

0910/井上薫・ここがおかしい外国人参政権(2010)読了。

 10/09に、井上薫・ここがおかしい外国人参政権(2010、文春新書)を一気に全読了。
 大きな注意を惹いておきたいことが一点、基本的な疑問点が一点ある。

 第一。傍論でいわゆる「許容説」を採ったと(ふつうは)理解されている最高裁1995年(平成07年)02.28判決につき、百地章らの保守派らしき論者の中には、<傍論にすぎず>、全体として「許容説」ではなく「禁止説」に立っていると理解すべき旨の主張がある。櫻井よしこも百地章らの影響を受けている。

 井上薫の上の本は、ごく常識的に、素直な日本語文の読み方として、上の最高裁判決は「許容説」=法律によって一定の外国人に地方参政権を付与することは憲法上許容されている(付与しないことも許容される=違憲ではない)という説に立つものと理解している(そしてそれを批判し、井上は「禁止説」に立つ)。
 憲法ではなく上記最高裁判決の「解釈」のレベルでの議論として、百地章の読み方(判決の「解釈」)や櫻井よしこの「読み」方にしばしば疑問を呈してきた。

 自らの憲法解釈に添うように憲法に関する最高裁判決を「解釈」したいという気持ちは分からなくはないが、そして上記最高裁判決が<推進派>の「錦の御旗」(井上p.67)になることを阻止したいという気持ちも理解できるが、法的議論としては、無理をしてはいけない。

 井上薫は書く。例えば、①上記最高裁判決の「中核」は「『定住外国人の地方参政権が憲法上禁止されていない』という点にあります」(p.80)。②上記最高裁判決は三段落からなり、「第二段落」は「外国人のうち…〔中略〕に対し、法律により選挙権を付与することは憲法上禁止されていない」という意味だ。「推進派の錦の御旗」は「憲法理論における『許容説』を採用した、第二段落の部分です」(p.89-90)(『』部分も判決の直接引用ではなく、井上による要約)。

 百地章らは(井上のいう)第一段落と第二段落とは「矛盾」しているとし、かつ第二段落は「傍論」として、全体としては、第一段落を重視して<禁止説>に立つ、と最高裁判決を「解釈」するが、同旨をこの欄ですでに述べているとおり、井上の読み方(理解・「解釈」)の方が素直で、常識的だ。

 従って、最高裁判決も<禁止説>だ、と(無理をして)主張するよりも、上記最高裁判決自体を批判すべきだ、ということになる。

 また、上記判決の「第二段落」=いわゆる「傍論」部分を主導したとされる園部逸夫裁判官(当時)の退官後の「証言(?)」を引き合いに出して上記判決の権威を事実上貶めようとすることも政治運動的には結構なことだが、何を当時の裁判官が喋ったところで、かつての最高裁判決の法的意味が消滅したり変化するわけでもない(このこともいつか書いた)。

 第二。井上薫は憲法解釈として「禁止説」を採り、上記最高裁判決を批判する。その結論自体に賛同はするが、論旨・議論の過程には疑問もある。

 井上は、他のこの人の本にすでに書いていることだが、判決理由中の(判決の)「主文を導く関係にない部分」を(関係のある「要部」に対して)「蛇足」と呼び、そのような蛇足を含む判決を「蛇足判決」と称する(p.103)。そして、これこそが重要だが、「蛇足」(を付けること)は「実は違法」で、「蛇足判決は先例にも判例にもならない」、という「蛇足判決理論」なるものを主張する(p.119)。

 そのうえで、上記最高裁判決の「第二段落は蛇足だ」(p.126の小見出し)とし、第二段落は「裁判所の違法行為の産物」で、「後世の人が先例と見なしたり、判例として尊重するということは、許されない」と断じる(p.130)。

 上の結論的部分に全面的には賛同できないのだが、それはさて措くとかりにしても、例えば次の一文は自己の「理論」に対する<買いかぶり>ではないだろうか?

 「こうして〔外国人地方参政権付与〕推進派の根拠は、蛇足判決理論によって完膚なきまでに破壊されました」(p.137)。

 外国人参政権付与法案の上程かという切羽詰まった時期になって、あらためて関係最高裁判決の「読み方」に関する議論やその最高裁判決も一つとする憲法「解釈」論の展開があったりして、外国人地方参政権付与推進派が勢いを減じていることは確かだろうが、推進派の「根拠」が「完膚なきまでに破壊され」ているとはとても思えない。

 また、かりに勢いが大きく減じているとしても、そのことが井上の「蛇足判決理論」による、とはとても思われない。

 以上が、読後に感じた、重要な二点だ。

 「蛇足」をさらに二点。第一に、井上は上記最高裁判決の「第二段落」を「裁判史上永遠に残る大失敗」と断じ、「園部裁判官の空しい弁解」との見出しも付ける(p.129、p.130)。

 すでに述べたことだが、客観的には、園部逸夫は<晩節を汚した>と言ってよいだろう。「韓国や朝鮮から強制連行してきた人たち」を「なだめる意味」、「政治的配慮があった」、日韓関係についての「思い入れ」があった、等と述べたようだが(p.133-4)、判決後にこんなことを(いくら内心で思っていても)口外してしまうこと自体が異様・異常だ。なお、1929年生まれで、私のいう<特殊な世代(1930~1935年生)>(最も強く占領期の「平和・民主主義」・「反日〔>反日本軍国主義〕・自虐」教育を受けた世代)にもほとんど近い。
 第二。判決理由中の「蛇足」部分は(あるいはそれを付けることは)「違法」で、「先例、判例」として無意味だ、と言い切れるのか?

 井上はいくつかの例を挙げており、その趣旨はかなりよく分かるが、しかし、例えば、議員選挙の無効訴訟における請求棄却判決が、理由中で定数配分規定をいったん違憲=憲法14条違反だと述べることは(請求棄却という結論とは無関係だから)「違法」で、<判例>としての意味はないのだろうか?

 「蛇足判決理論」についての、井上以外の他の専門家の意見も知りたいものだ。

0873/山内昌之・歴史の作法(文春新書、2003)中の「アカデミズム」。

 山内昌之・歴史の作法-人間・社会・国家(文春新書、2003)を何となく捲っていると、面白い叙述に出くわした。
 「一般(純粋)歴史学」・<歴史学者>の存在意義にかかわるような文章だが、社会・人文系の<学>・<学者(研究者)>にも一般にあてはまりそうだ。
 「アカデミズムとは、職人的な『掘鑿』に頼りながら『専門家』であることを根拠に、現在と過去から超然とし、人びとや社会に向かって客観的な評価を下せると妙な自信をもたせる制度といえるかもしれません。『権力』の場とは別に『権威』の場ができたわけです。反『権力』を自負する学者たちが専門家としての『権威』を自明のものとし、自分たちの閉ざされた世界で『権力』を誇示する現状に無自覚なのは、あまりにもアカデミズムの環境にどっぷりと浸っているからでしょう。/…によれば、『専門家』であることは『公平』であるという事実を意味せず『仕事に対して報酬を受けている』だけの事実を意味するとのことです」(p.164-5)。
 アカデミズムとは耳慣れない言葉だが、要するに、<学問・学者の世界>またはそれを<世俗(俗世間)>よりも貴重で、超然として優越したものとする考え方(「主義」)もしくはそのような考え方にもとづく「制度」を指すものと思われる。
 そのような<アカデミズム>からの「人びとや社会」に対する影響力は、かつてと比べると格段に落ちているだろう。だが、それにもかかわらず、上に使われている表現を借りれば、「『専門家』であることを根拠に、現在と過去から超然とし、人びとや社会に向かって客観的な評価を下せると妙な自信」をもっている学者・研究者(要するに、大学教授たち。但し、社会・人文系を念頭に置いている)はなおも多いのではないか。
 また、閉ざされた<アカデミズム>内部での「権威」が「権力」をもちうることは、教育学の分野に関する竹内洋の(生々しい?)叙述でも明らかだろうと思われるが、その「権威」・「権力」は必ずしも一般社会(俗世間)の、または<客観的>な評価にもとづくわけではないことを知らず、その「権威」・「権力」的なものに(無意識にではあれ)追従し、依存して生きて(学問研究なるものをして)いる学者・研究者も少なくはないと思われる。
 やはり指摘しておくべき第一は、日本の<アカデミズム>(社会・人文系)内部での「権威」・「権力」は(現在でもなお)コミュニズム・マルクス主義または親コミュニズム・親マルクス主義、あるいは少なくとも反コミュニズム・反マルクス主義=<反共>ではないという意味で「左翼的」な彩りをもっていることが多いと想定されることで、意識的・自覚的にではなくとも、学界内部に入った者は自然に少なくとも「左翼的」になってしまうという仕組み・制度があるのではないか、ということだろう。
 そして、そのような「左翼的」学者・研究者(大学教授たち)によって教育され指導を受けた少なくない者たちが例えば高校・中学等の教師になり、官僚になり、マスメディア等へと輩出されてきている、ということに思いを馳せる必要があろう。
 現在の民主党政権の誕生とその後の愚劣さ(または現実感覚から奇妙に遊離していること)は、戦後のそのような「左翼的」学問・研究にもとづく教育の<なれの果て>でもあるように考えられる。
 第二に、かつてほどの影響力はなくとも、マスメディアあるいは政治の世界は何らかの目的をもって「学者・研究者(大学教授たち)」を利用しようとすることがあり、現にそうしている。そして、上に書かれている(または示唆されている)ように、「学者・研究者(大学教授たち)」・「専門家」たちの発言・コメント類は決して「公平」でも「中立的」でもない、ということだ。言うまでもなく、朝日新聞に多用されているような<識者コメント>は信頼できない。そうでなくとも、大学教授・何らかの専門家(社会系・人文系)というだけで社会的な権威があるものと見なしてはいけない。
 以上のとくに第二は、当たり前のことを書いてしまったようだ。

0854/小林よしのりの皇位継承論(女系天皇容認論)・その3、旧宮家・限定皇族復帰案。

 平成17年11月24日の皇室典範に関する有識者会議報告書には、「(補論)旧皇族の皇籍復帰等の方策」と題して次のように書く部分がある。
 「旧皇族は、〔①〕既に六〇年近く一般国民として過ごしており、また、〔②〕今上天皇との共通の祖先は約600年前の室町時代までさかのぼる遠い血筋の方々であることを考えると、これらの方々を広く国民が皇族として受け入れることができるか懸念される。…このような方策につき国民の理解と支持を得ることは難しいと考えられる」(〔 〕は引用者)。
 まだ悠仁親王ご誕生前のことだったが、上の①については<たかが六〇年ではないか>と思ったし、また、②についても違和感をもった。全体として、有識者会議の意見としてではなく「国民の理解と支持」を得難いとして、「国民」に責任転嫁(?)しているようなニュアンスも気になった。
 小林よしのりも、次のように、上の②と全く同様の主張をしている。
 <男系主義者>の「唯一の代案」が「旧宮家」の皇族復帰だが、これは「トンデモない主張」だ。「旧宮家」が「男系でつなっているという天皇は、なんと室町時代の北朝3代目、崇光天皇である。あきれたことに20数世代、600年以上も離れている!」(月刊WiLL5月号p.197)。
 このような感想・見解を他にも読んだか聞いたことはあるので、有識者会議が書くほどではかりになかったにしても、かかる懸念をもつ者も少なくないようではある。
 しかし、<男系主義者>たちがどのように反論または釈明しているのかは知らないが、女系天皇容認論者あるいは<(男女を問わない)長子優先主義>者がこのような主張をするのは(有識者会議の文章もそうだが)、じつは奇妙なことだと私は感じている。
 すなわち、将来において男女対等に<女性天皇>・<女系天皇>を容認しようとしながら、旧皇族(11宮家)については、なぜ<男系>でのみたどって今上天皇との「血」の近さを問題視するのか、同じことだが、今上天皇と共通の祖先をなぜ<男系>でのみたどって探そうとするのか。
 これは、無視できない、重要な論点だと考える。
 とりあえず、祖父(・祖母)が旧皇族(旧宮家)だった、竹田恒泰がこう書いていることが、同・語られなかった皇族たちの真実(小学館、2006)を読んだとき、私には印象的だったことを記しておこう。
 「私は明治天皇の玄孫〔孫の孫〕であることを誇りに思っている」(p.23。〔〕は原文ママ)。
 竹田恒泰にとって、室町時代の北朝の天皇・崇光天皇(今上天皇が125代とされるその間の代数には含まれていない)の遠い子孫(男系)であることよりも、まずは明治天皇の玄孫だとの意識の方が強いと思われ、かつそのことを彼は「誇りに思っている」のだ。
 正確に書けば、竹田恒泰の父方(・祖父方)の曾祖母は明治天皇の第六女・昌子内親王だ。女性を介して、彼は明治天皇の血を引いている(男系だけでたどると、既出の崇光天皇の孫の貞成親王が、今上天皇との共通の祖先になる)。なお、今上陛下は、男系でのみたどって、明治天皇の曾孫であられる。男女(息子と娘)の違いを無視すれば、今上天皇陛下と竹田は、明治天皇の曾孫と玄孫の違いでしかない。
 女性を介せば、竹田恒泰よりも現皇室に近い血縁の旧皇族およびその子ども・孫たちはいる。竹田から離れて、一般的に記す。
 最も近いのは<東久邇宮>家だ。男系では、他の宮家と同じく、崇光天皇の子で<伏見宮>家の祖の栄仁親王の子の上掲・貞成親王(後崇光院、1372~1456)が今上天皇との共通の祖先になる。
 しかし、まず第一に、<伏見宮>家から分かれた(伏見宮邦家の子の)<久邇宮>朝彦の子で<東久邇宮>家の初代となった東久邇宮稔彦(元内閣総理大臣)の妻は明治天皇の第九女・聡子(としこ)内親王だ。その二人の間の子どもたち、さらに孫・曾孫たちは、明治天皇の(女性を介しての)子孫でもある。
 第二に、東久邇宮稔彦と聡子の間に生まれた長男の盛厚は、昭和天皇の長女の成子(しげこ)と結婚している。従って、盛厚・成子の子どもたちは、昭和天皇の孫であって、現皇太子・秋篠宮殿下(・清子元内親王)と何ら異ならない。母親は、今上天皇陛下の実姉、という近さだ。
 東久邇宮盛厚と成子の結婚は、竹田恒泰も書くように、「明治天皇の孫(盛厚)と曾孫(成子)との結婚」だったのだ(p.243)。
 何も室町時代、14世紀まで遡る必要はない。現在の「東久邇宮」一族は、今上天皇の実姉の子孫たちなのだ(上掲の二人の子どもから見ると、父方でも母方でも明治天皇へと「血」はつながる)。
 男女対等に?<女性天皇>・<女系天皇>を容認しようという論者ならば、上のようなことくらい知っておいてよいのではないか。いや、知った上で主張すべきなのではないか。
 室町時代にまで遡らないと天皇と血が繋がらない、そんな人たちを<皇族>として崇敬し尊ぶ気になれない、などとして<女系天皇容認>を説く者たちは、小林よしのりも含めて、将来については<女性>を配慮し、過去については<女性>の介在を無視する、という思考方法上の矛盾をおかしている、と考える。
 将来について<女性>を視野に入れるならば、同様に、過去についても<女性>を視野に入れるべきだ。
 「東久邇宮」一族、東久邇宮盛厚と成子を父母・祖父母・曾祖父母とする人々は、「皇籍」に入っていただいてもよいのではないか。そして、男子には皇位継承資格も認めてよいのではないか。たしかに最も近くは昭和天皇の内親王だった方を祖とするので、その意味では<女系>の宮家ということになるかもしれない。また、その昭和天皇の内親王だった方は明治天皇の皇女だった方を母とする東久邇宮盛厚と結婚していて、これまた<女系>で明治天皇につながっていることにはなる。
 だが、将来について女性皇族に重要な地位を認めようとするならば、この程度のことは十分に視野に入れてよいし、むしろ考慮対象とされるべきだ。
 くり返すが、室町時代!などと「あきれ」てはいけない。自らが将来において認めようとする「女系」では、昭和天皇、そして明治天皇に「血」が明確につながっている旧皇族(旧宮家)もあるのだ。
 昭和天皇との血縁はなくとも、かりに明治天皇への(女性を介しての)「血」のつながりでよいとするならば、上記のように<竹田宮>一族の「皇籍」復帰も考えられる。竹田恒泰は明治天皇の玄孫であり、その父は曾孫であって、決して「600年以上も離れている!」ということにはならない。
 竹田宮家以外に、北白川宮家と朝香宮家も、明治天皇の皇女と結婚したという血縁関係がある。但し、今日まで子孫(とくに男子)がいるかは今のところ私には定かではない。
 以上のあわせて4つの宮家以外は、明治・大正・昭和各天皇との間の<女性>を介しての血縁関係はないようだ。やはり、男系でのみ、かつての(室町時代の)皇族の「血」とつながっているようだ。
 従って、上記の4つ、または少なくとも「東久邇宮」家一つだけでも、<皇籍>をあらたに(又は再び)付与してもよいのではないか。
 こうした<限定的皇族復帰案>を書いている、あるいは唱えている者がいるのかどうかは知らない。
 だが、11宮家すべての<皇籍復帰>よりは、有識者会議の言を真似れば、「国民の理解と支持を得ること」がたやすいように思われる。
 小林よしのりにはここで書いたことも配慮して再検討してほしい。また、<男系主義>論者にも、こうした意見があることも知ってもらいたいものだ。
 以上、竹田恒泰の上掲の本のほか、高橋紘=所功・皇位継承(文春新書、1998)のとくに資料(系図)を参照した。
 他にも皇位継承に関する書物はあり、旧宮家への皇籍付与を主張する本はあるだろうが、上の二冊だけでも、この程度のことは書ける。
 他の書物―例えば、櫻井よしこ=大原康男=茂木貞純・皇位継承の危機はいまだ去らず(扶桑社新書、2009.11)は所持はしているが全くといってよいほど目を通していない―については、あらためて十分に参照し直して、何かを書くことにしよう。

0653/日本国憲法制定と宮沢俊義-あらためて・その1。

 一 昨年11/06に記したように、西修・日本国憲法を考える(文春新書、1999)p.33によると、①東京帝国大学教授兼貴族院議員だった宮沢俊義は、1945年10月01日、貴族院帝国憲法改正案特別委員会の席上で、「憲法全体が自発的に出来ているものではない。重大なことを失った後でここで頑張ったところで、そう得るところはなく、多少とも自主性をもってやったという自己欺瞞にすぎない」と発言した。
 また、同書p.45によると、②宮沢俊義は、1945年09月28日に外務省で、「大日本帝国憲法は、民主主義を否定していない。ポツダム宣言を受諾しても、基本的に齟齬はしない。部分的に改めるだけで十分である」という趣旨を述べた。
 二 佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)は第三章「戦後民主主義という擬装」の中でやはり西修の上掲書を示しつつ上の①発言を紹介している(p.203)。
 また、佐伯は同書で、宮沢俊義の師だった美濃部達吉が朝日新聞1945.10.20紙上で次のように語ったと紹介もしている(p.202)。
 「民主主義の政治の実現は現在の憲法の下において十分可能であり、憲法の改正は決して現在の非常事態において即時に実行せられねばならぬほどの窮迫した問題ではないと確信する」。
 要するに、宮沢・美濃部らの主な又は多数の憲法学者は1945年秋の時点では、明治憲法の若干の改正で十分、天皇制と民主主義は矛盾しない、「天皇主権の維持こそが最も重要な課題」だ、と考えていた(正確には、最後の点は宮沢俊義についての佐伯啓思p.203のコメント)。
 しかし、実際には、国民主権原理に立つとされる新憲法が制定・施行された(ほぼ1年後の1946.11.03にすでに公布されるまでに至った)。
 この間の変化に関し、佐伯啓思は宮沢俊義について次のように述べる。
 ・宮沢は天皇主権の維持は国民の願望と考えていたが、新憲法はその国民の名で天皇主権を廃止した。元来の宮沢の見方とは異なり、「天皇主権の廃止」こそが「国民の総意」だと「装った」ものだった。しかるに、のちに宮沢は「新憲法の最も啓蒙的な擁護者となる」、「いわば戦後の護憲主義の元祖」となる(p.204)。
 ・家永三郎は新憲法を「押しつけられた」のは国民ではなく支配層で国民は新憲法を待望していたと書いたが、このような素朴で浅薄な「欺瞞」が必要だった。「この必要な欺瞞にイデオロギー的な同調」をできたからこそ家永のような「教条的左翼主義が戦後の歴史観をリードできた」。そして「戦後」を成立可能にするためには「この欺瞞が不可欠であることに気づいたために、宮沢は態度を一変させて、新憲法護持にまわったのだった。かかる欺瞞の根底にあるのは「無垢な」民衆・国民の措定で、宮沢の当初の判断とは異なり、国民は「天皇主義者ではなく民主主義者でなければならなかった」(p.204-5)。
 三 かかる宮沢俊義の変化・転身?の背景について、西修の上掲書は言及していたのだが、参照されている本の現物を見て紹介しようと思っていたため、昨年11/06にはあえて記さなかった。
 引用又は参照要求されていたのは、江藤淳責任編集・憲法制定経過(占領史録第3巻)(講談社、1982)だ。正確には、この本の巻末の、江藤淳による「解説」だ。
 この「解説」は、美濃部達吉、宮沢俊義、佐々木惣一(京都大学)らの1945年秋の発言をより詳しく資料として引用している。宮沢俊義に限定すれば、江藤淳は次のように書いている。経緯も含めてやや詳しく立ち入る。
 ・1945.09.28の外務省での講演・質疑応答〔今回冒頭の②がその要旨〕を読んで「一驚を禁じ得ない」。所謂「八・一五革命説」と「単に整合しないのみならず全く相容れない」からだ(p.384)。「八・一五革命説」は雑誌「世界文化」1946年5月号で初めて述べられた。
 ・宮沢が09.28に外務省での講演を依頼されたのは、1945.09.22に「米国の初期対日基本方針」が公表され、外務省がその内容がかなりポツダム宣言を逸脱していると重大視して「自主改革」の推進の必要を感じたからだろう。
 ・1945.10.04の近衛文麿・マッカーサー会談でマッカーサーは憲法改正の「指導の陣頭に立たれよ」と示唆したという「事態の急展開」があった。これを受けて、外務省は10.09にポツダム宣言遵守を連合国側に求める文書を公表したが、近衛文麿は10.11から佐々木惣一とともに「憲法改正調査」に当たった。12月に高木八尺(東京帝大法学部)が発表した天皇制を維持する主張の論考も資料の一つだった。
 宮沢俊義は毎日新聞1945.10.16紙上で、憲法改正案を政府と内大臣府(近衛文麿ら)で別々に検討することは「不穏当」と批判した。だが、「積極的な憲法改正を支持」していたのではなかった。宮沢は、毎日新聞1945.10.19紙上で、「現在のわが憲法典が元来民主的傾向と相入れぬものではないことを十分理解する必要がある」等と書いた。
 美濃部達吉も内大臣府(近衛文麿ら)による憲法改正調査を批判したが、そこには近衛・佐々木改正案がGHQの意向を反映しすぎて「極端に走る」ことへの危惧もあったかもしれない。
 ・佐々木惣一は1945.10.21毎日新聞紙上で、近衛文麿は10.25の声明で、上の批判に反論又は釈明した。だが、GHQは11.01に近衛文麿との(正式の)関係を否定する声明を発した(これとの関係性は薄いだろうが、近衛は12.06に服毒自殺)。
 1945.10.27に政府・松本丞治国務相の憲法問題調査委員会は第一回総会。宮沢俊義は委員の一人であり、かつ入江俊郎・佐藤達夫とともに「最も活躍した」委員になった。
 1945.11.26招集の臨時帝国議会の幣原喜重郎首相施政方針演説は憲法改正に言及しなかったが、質問があったため、松本委員会は12.08に「天皇が統治権を総覧せらるの原則には変更なきこと」等の四原則を明らかにした。
 ・宮沢俊義は松本委員会の小委員会の委員でもあり、これは12.24~1946.01.23に8回開催され、本委員会は12.27~1946.01.26に7回開催された。宮沢は積極的に参加したのみならず「中心的な役割を果たした」。
 宮沢は松本が1946.01.01~01.04に書いた「私案」を要綱化し、「憲法改正要綱」(のち「甲案」と呼ばれる)草案を作成した、まさにその人物だった。この「甲案」とは別に宮沢ら小委員会は改正の幅を大きくした「乙案」もまとめた。いずれも、上に触れた四原則の範囲内の案だったこと(当初の宮沢の考えと矛盾しなかったこと)には変わりはない(p.381-394)。
 長くなりそうだ。別の回に続ける。 

0346/民衆政治のどたばた喜劇-西部邁・正論10月号論文

 一ヶ月以上前に読んだはずだが、西部邁「民主喜劇の大舞台と化した日本列島」(正論10月号p.48以下)において、憂色は濃い。
 同趣旨の文章が、たぶん次の3つある。
 ①「平成デモクラシーの紊乱は、…民衆という名の政治観客が自分らの醜行に茫然自失するに至るまでは、止むことがないのである」(p.49)。
 ②「社会のあらゆる部署の権力が大衆の代理人によって掌握されたという意味での『高度』な大衆社会は、大衆が自分らの無能無策に嫌気がさして沈黙に入るまでは出口なしなのだと、諦めておかなければならない」(p.53)。
 ③「大衆にできるのは『有能な人材をすべて引きずり下ろしたあとで、”人材がいなくなった”と嘆いてみせる』ことくらいなのだ。大衆の演出し享楽する『残酷な喜劇』には終わりがない。そうなのだと察知する者が増えること、それだけが、大衆喜劇としての民主主義に衰弱死をもたらしてくれる唯一の可能性である」(p.58)。
 そして、①「民衆という名の政治観客が自分らの醜行に茫然自失する」こと、②「大衆が自分らの無能無策に嫌気がさして沈黙に入る」ことはあるのだろうか、という想いに囚われざるをえない。ある程度はレトリックなのだろうが、③「大衆喜劇としての民主主義」が「衰弱死」することなど、未来永劫ありえないのではないか、と思わざるをえない。
 だとすれば、私の人生などいつ果てても不思議ではないとしても、日本人は末永く、③「大衆喜劇としての民主主義」と、多少は工夫を凝らして、かつ「民主主義」を神聖化することなく、付き合っていかざるをえないのではないか。
 なお、この西部邁の文章を読んでも、デモクラシーとは「民衆政治」と訳す、又は理解するのが適切のようだ。
 長谷川三千子・民主主義とは何なのか(文春新書)にも書かれていたと思う(確認の手間を省く)。イズムではないのだから<-主義>ではなく<民主制>又は<民主政>の方がよいのだろうが、さらには「民主」という語も、<主>の意味は元来はなかったと思われるので不適切だろう。もっとも、概念は語源・原意にとらわれる必要はなく、日本には、「民主主義」という、デモクラシー(democracy、Demokratie)とは異なる、日本産の概念・言葉がある、というべきか。

0231/文藝春秋の元編集者は「ウソ」を書いてはいないか。

 延吉実・司馬遼太郎とその時代/戦中篇同・-戦後篇(青弓社、2002、2003)という本がある。著者は戦後篇の奥付によると本名・藤田佳信、1950年生れ、早稲田大学社会科学部卒、藍野学院短期大学助教授、専攻・英米文学・比較文学。
 上のうち戦後篇p.27、p.138-9、p.202-226には、司馬遼太郎の「私事」が書かれている。最大の驚きは、司馬にはみどり夫人の前に婚姻関係にあった女性がいて、実子(男性)もいる、という事実の指摘だ。
 再読してみると、月刊誌・噂の真相1998年6月号で「…司馬遼太郎が歴史から抹殺した私生活の過去」とのタイトルで「暴露」されたというから(p.138)、<知る人ぞ知る>話なのかもしれない。だが、私は知らなかったし、司馬遼太郎全集も含めて、公式の?司馬の履歴には一切書かれていない。
 真相探索というミステリー的興味をそそらないわけではないが、一方で何故こんなに詮索するのかという気分も湧いてきて、読んで楽しいものではない。だが、延吉著に依ってもう少し細かく書くと、司馬の「年譜」には1959年1月に「…みどりと結婚」とあるが、1948年5月に産経新聞社(京都支局)に入社後、1949年(26歳になる年)に某女性(個人名の記載があるが省略)と結婚し左京区某地(同)に借家住まいし、男子(個人名は書かれていない)をもうけた後1952年に守口市に転居し、離婚した(p.204。司馬は大阪からずっと通勤だったとして京都居住の事実を語ったことはないという)。なお、その頃(1952年)大阪本社に転勤、1959年(36歳の年)に再婚、ということになる。
 延吉実の指摘をふまえて、短篇「白い歓喜天」も読んでみた。司馬遼太郎全集には登載されていないが、司馬遼太郎短篇全集第二巻(文藝春秋、2005)p.141以下に収載されている。なお、「白い歓喜天」を含む同名の短編集は1958年(司馬35歳の年)刊行だが、この小説は1948-49年頃(司馬25-26歳)の執筆らしい。
 そしてなるほど、この作品はたぶん、結婚経験がないと書けないものではないか、と私は感じた。結婚経験がなければ、「七年間も続いたあの退屈な結婚生活」とか「妻と自分の不幸が身のうちを腐らせてゆくように思えた」などの文を含む小説はなかったように私にも思える。但し、「白い歓喜天」が司馬の結婚生活そのままであったのではないことは勿論だろう。あくまで「小説」・「創作」なのだから。
 水上勉(1919-2004)は貧苦のために別れた最初の妻との間に子どもがいたことも隠してはいなかった。その子どもとのちに、最初は実子とは気づかないまま、つまり成人した窪島誠一郎とのちに出逢うという実話は、水上勉の人生そのものの如く感動的なものだった。だからといって司馬遼太郎を貶めるつもりは全くなく、彼は「私事」を知られたくなかった、それを厳格に終生貫いた(いや貫こうとした)のであり、そうした考え方を非難することは勿論できない。ましてや、司馬遼太郎の多数の小説の価値に影響があるわけでは全くない。
 ところで、前回言及した半藤一利・清張さんと司馬さん(文春文庫、2005)には、司馬の上のような「私事」には全く触れていない。元文藝春秋社編集者の和田宏・司馬遼太郎という人(文春新書、2004.10)も半藤著と同じく延吉著(2003.09)より後に刊行されているが、同じく論及はない。むしろ後者の和田の本が「はじめに」でこう書いているのが目を惹いた。
 「編集者に守秘義務があるとしたら、その作家にとってマイナスになるイメージを提示することだろう。それは男女関係であったり…さまざまであろうが、…私は司馬さんについてそのようなことはなにも知らない。というよりそんな噂も聞かない。…陰で声をひそめて話さなければならないことなど、少なくとも私は持たない」(p.5)。
 これを読んでやや奇異な感に打たれた。出版業界に生きた人が、半藤もそうだが、上に言及の雑誌・噂の真相の記事やすでに発刊されていた(タイトルに「司馬遼太郎」をずばり含む)延吉実の著書の存在を本当に全く知らなかったのだろうか
 かりにだが、雑誌「噂の真相」や「青弓社」の出版物程度なら多くの一般読者をゴマカせると考えていたとすれば、「大手」の文藝春秋社関係者の傲慢だとも思える。
 上に「かりにだが」と書いたが、おそらく、半藤や和田は<噂>があること、その<噂>は真実らしいことに気づいていたのではなかろうか(だが、たぶん、司馬本人の前で話題にしたりはしなかったのだろう)。だとすると、上の和田宏の文章は「ウソ」だと思われる。上のような話題の文章をわざわざ書いたために、「ウソ」をつかざるを得なくなったのだ。司馬遼太郎個人のことよりも、むしろこちらの方がはるかに気になる。
 社会的には些細なことかもしれないが、文藝春秋という出版社は好みであるにもかかわらず、元編集者の和田宏は信用できない。別の意味で信頼できない面が同じく同社の元編集者の半藤一利にあることは、前回に述べた。

0202/稲田朋美・百人斬りから南京へ(文春新書)は未読だが。

 稲田朋美・百人斬りから南京へ(文春新書、2007.04)は出版されるとすみやかに購入したが、きちんとは読んではいない。というのは、きちんと読まなくとも、<百人斬り問題>・<南京事件>については殆ど知識がある、と思っているからだ。所謂<百人斬り報道名誉毀損訴訟>については櫻井よしこ・週刊新潮5/17号も扱っており、原告側訴訟代理人・稲田朋美にも触れている。
 月刊・正論7月号(産経新聞社)の目次にはテーマも氏名も出ていないが、<Book Lesson>というコーナーで、著者・稲田が4頁ほど喋っている。昨年12月に<百人斬り名誉毀損訴訟>の最高裁判決が出て原告敗訴で法的には確定したが、これについては3月中に言及した。

 また、驚くべきことに<南京虐殺はあった>旨の事実認定をしつつ損害賠償請求権なしとして棄却した判決について、たしか同じ日に、その裁判官名を挙げて批判・疑問視する長い文も書いたところだ。
 上の月刊・正論7月号の稲田氏の言葉で関心を惹いたのは、「戦後補償裁判では、請求が棄却される。それは当然ですが、判決理由のなかで個別の事実認定は全部認定されてしまっている。…これは訟務検事が法理論による請求棄却だけを求めて個別の事実認定を全く争わないからです」という部分だ。
 今年4月27日の最高裁判決(西松建設強制労働事件等)もそうだと思うのだが、事実認定は基本的に高裁までで終わりなので、高裁までの事実認定に最高裁すら依拠せざるをえない。そこで、まるで最高裁が積極的に「強制連行」等の事実を認定したかの如き印象を少なくとも一部には与えているようだ。今回は省略するが、高裁(原審)の事実認定によりかかって、井上薫・元裁判官のいう「司法のしゃべりすぎ」を最高裁すら行っているのではないか、と思える最高裁判決もある。
 稲田の指摘のとおり、由々しき自体だ。「この国には国家や日本人の名誉を守るという考えが欠落している」。
 私よりも若い、かつ早稲田大学法学部出身のわりにはよくも<単純平和左翼>の弁護士にならなかったものだと感心する稲田朋美だが、弁護士として、自民党衆議院議員としてますますの活躍を期待しておきたい。

0126/林香里とは本当に「研究者」なのか-文春新書の最低。

 目を通したことのある文春新書の中で最低の本は、かつ種々の新書類の中でも最低の部類に入る本は、あえて明記するが、林香里・「冬ソナ」にハマった私たち(2005)だ。
 最低だと考える理由の大きな一つは、このタイトルの本の中で、日韓関係に関する自らの「歴史認識」を―多数の、対立しもする議論があるにもかかわらず―、単純素朴に曝し出していることだ。
 例えば、「日本は20世紀初頭に海外を侵略した歴史にきちんとした清算をしていないため、…近隣諸国に心から称賛されるようにはなっていない。これに対して、ドイツは、…
(p.173)。
 日本(前小泉首相等)は「国内においては韓国をはじめとする近隣諸国との歴史認識に対する無知と無関心を先延ばしにし、対外的には日本のアジアでの孤立を招いてきた」(p.209)。
 本来のテーマと直接の関係はないかかる断定的文章を歴史や外交の専門家ではない著者が平然と書いているのだ。
 いま一つは、明らかにフェミニズムの立場でこの本のテーマを扱っており、かつそのテーマとは直接の関係はないフェミニズムの主張を紛れ込ませていることだ。
 例えば、「子どもを生み育てること…などなど、女性として…当然のこととして寄せられる社会的役割」、そういう「期待をしている社会の思想的源泉」は「やっかいな「国家」という社会的そして政治的機能である」(p.196。「子どもを生」むことも、女性差別、「社会的」に期待された「役割」かね?、林くん!ω)。
 このような二つの類の主張を―上野千鶴子鶴見俊輔の名前だけをなぜか出しつつ―しているため、極めて読みにくい本でもある。
 これで著者が助教授として属するという「東京大学大学院情報学環」の修士論文審査に合格するだろうか。
 いま一つ、一文を引用しよう。「韓国は、韓流というパワーでもって、日本の男性が築き、守るべき国家と、それに従属した主婦という女たちを切り崩しつつある…」(p.198)。
 こんな文章を読んでいると頭がヘンになる。
 この本はタイトル等からすると、日本のとくに女性が
「冬ソナ」にハマった原因・背景を分析することが目的だった筈だ。そして、私が要約するが、「冬ソナ」にハマったのは、良妻賢母型教育を受け「古きよき時代」への郷愁と外国(韓国)に関する教養主義的心性をもつ中高年女性だ、というのが結論だ(たぶん。ちなみにタイトルの「私たち」の中に著者は含まれない)。
 しかし、何故か、主題と直接には無関係の上のような文章が<混入>しているのだ。
 私は林氏の文章執筆者・論文執筆者としての資格・能力を疑う。だが、と最近気づいたのだが、過剰とも思える、根拠づけ・理由づけなしの言いっ放しの贅言は、この人の、読者に対するというよりも、仲間に対する<信仰告白>なのではないだろうか。新書を書く機会があったから、ついでにアレコレとちゃんと書いておいたよ、安心して!という類のものではないだろうか(原田敬一・岩波新書についても同旨のことを書いたが、この林の方がヒドい)。

0045/集団自衛権行使ー憲法九条にかかわる内閣見解こそ変更すべきではないのか。

 潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(PHP)は集団自衛権行使否認の不都合な例を先日紹介した以外にいくつか挙げている。
 一つは、テロ対策特別措置法による活動の場合だ。  この法律にもとづき海上自衛隊はインド洋に補給艦・護衛艦を派遣し、多国籍軍の何百という艦船に燃料を補給していて、飛行しながらの高い技量を要する補給活動は諸外国から高い評価を受けているらしいのだが、インド洋上で「戦闘行為」が発生した場合、日本の海上自衛隊は補給活動はむろん直ちに中止し、避難する等をして「危険を回避」することになっている、という。「戦闘行為」になり<味方の>多国籍軍のいずれかが攻撃を受けても援助攻撃をすることはできず、戦闘する多国籍軍を尻目に「逃げて帰るのは日の丸を掲げた海上自衛隊だけである」(p.81-83)。これはテロ対策特別措置法がイラク特別措置法と同様に自衛隊の活動を「武力による威嚇又は武力の行使に当たるものではあってはならない」と定めているからであり、その背景には、自国を守るためだけの最小限の武力行使しか許されないとの憲法九条の解釈がある。
 安倍内閣は現在、集団自衛権行使に関する個別事例の検討をする予定で(4/06読売にも出ている)、先日触れた1.同盟国を攻撃する弾道ミサイル、上に記したような2.海上自衛隊と並走する艦船が攻撃された場合、等が含まれる。但し、これらの場合に正面から集団自衛権行使を認めるのではなく、「警察権」の行使とか、海上での同盟国の「戦闘行為」が正当防衛的な場合は海上自衛隊の反撃も「本格的な自衛権」の行使とまではいえず、従って集団自衛権に該当しない、とかの解釈又は理屈を考えているようだ(上の読売の記事による。イザ記事にはこの点は明確には書かれていない)。
 潮匡人は月刊正論5月号(産経)で、安倍首相の本・美しい国へ(文春新書、2006)の中で、安倍が上の2.のような事例には集団自衛権が行使できないので「自衛隊はその場から立ち去らなければならない」と書いて集団自衛権の問題と捉えていることを示して、<集団自衛権の行使ではなく~に該当するので反撃可能>というような解釈又は理屈を採用することを予め批判している。
 憲法九条二項の改正によって自衛隊が正規の軍隊になれば恐らく、米国との関係でも多国籍軍との関係でも対等な軍隊となり集団自衛権行使も当然に可能なのだろう。問題は憲法改正前に、米国や多国籍軍のいずれかが攻撃を受けた場合に「拱手傍観」して放置又は逃げ去るべきなのか、だ。
 潮匡人の方に説得力があると思うが、内閣・行政権としての連続性というのは、実務上いかほどに重たいものなのか、よく判らない。

-0036/TBS様、筑紫哲也様、「やってくれた」ようですね。

 0909の中宮崇日記によると、6日の親王ご誕生につき、筑紫哲也News23は「生まれてくる子の性別を前もっては知りたくない。…そうおっしゃっていたというのは、いわゆるお世継ぎ問題以前に人の親であろうとする心情をうかがわせるエピソ-ドでありました。ですが!ア-今日ご誕生の男子はいやおうなしに皇位継承論議の中心に利用されることになります」で始め、「めでたい」旨の語は一言も発しなかった、という。
 かつ、放映した「市民」の声は次の3つだったとか。①「皇位継承とか色々問題あるし、雅子さまもほっとされるんじゃないかな」、②「女の子だったらいいねっていってたの。あっはっは。愛子さんがかわいそうだなって」、③「男の子だったら色々悩むこともあるかと思いますけどね」。
 親王誕生については、天皇制・皇室反対の立場や無関心=「どうでもよい」派からの、「興味なし」・「特別の感想なし」旨の回答もあったのではないかと推察されるし、上の3つのような回答もありえただろう。だが、祝意又は安堵の感想を一つも紹介しないというのは「公正」たるべき放送局のニュ-ス番組とは思えない。しかも、筑紫を筆頭に誰も慶祝の意を示さないのは、憲法上の存在でもある天皇と皇族に対して疑いなく非礼だ。TBS又は筑紫は、天皇・皇室の存在そのものに反対です、と断ってから報道せよ。
 数日前の朝日新聞の1面の、本田雅和が配転?された「アスパラ…」の宣伝記事中に、随筆連載(予定)者として名が出ていたのは、加藤登紀子と筑紫哲也。朝日はさすがにこんな末端にまで目を配っている。
 筑紫といえば、岩波新書赤版の、タイトルたて書きとなった1001番以上の最初の数冊の一つに「スロ-ライフのすすめ」(未読、購入予定なし)とやらを書いたようだが、中宮崇の文春新書によるマイナスイメ-ジを岩波が少しは消去せんとしているようで、出版社間の競争?が第三者的には面白く感じた。岩波新書のヒットは某教授の「会社法入門」くらいで、残りはそこそこの低迷ではないか。
 ところで、講談社DVD-BOOK昭和ニッポン全巻、激動の昭和を見る2-4(世界文化社)、ドキュメント昭和史全巻(平凡社)、中村隆英・昭和史1・2、升味準之輔・現代政治1955以後上・下、戦後史開封(産経)なども持ってはいるので、蔵書からすると私は相当の昭和史マニアに見えるはずだ。

-0013/塩崎外務副大臣モスクワへ。筑紫ニュースは見たくない。

 一昨日に安さと目次見出しを見て古書で買った小浜逸郎・「男」という不安(PHP新書、2001)の第三章をその日の夜に読んでいると歯切れもよく面白いので、昨日行った軍艦、イヤ船舶のような形の巨大施設内の書店で同・やっぱりバカが増えている(洋泉社新書、2003)を買い、上野千鶴子批判の全部と立花隆批判の中途まで読んだ。初めての著者だがもっと買い込む予感がする。楽しませる文章が書ける人で、「自由」そうなので歴史・社会の見方についても示唆を得られるだろう。いったい何冊を平行して読んでいるのか、と自問すると恐いが。
 TBS・某氏の番組については、出版後すみやかに読んだ中宮崇・天晴れ!筑紫哲也…(文春新書、2006.02)は超ド級に面白く(ある意味では超気持ち悪く)、一気に読み終えた。TBS・某氏のニュース23はまず観ないので、1年に1度くらい、かかるウォッチング本を貴重な歴史的記録として、文春は(でなくてもよいが)中宮崇によって(でなくてもよいが)発行してほしいものだ。全ての月刊雑誌を読めないのと同様、全てのニュース番組なんて見られないのだから。また、実際に視聴するよりもあとから本で読む方が精神衛生にはまだよさそうだ。中宮崇(でなくてもよいが)と文春さん(でなくてもよいが)、よろしく。
 靖国参拝問題でふと思う。個々の首相の個人的判断で可変的なものであってよいのか。東京裁判、「戦犯」、合祀、憲法等々の意味・関係等々を国・国家として整理し統一させておくのが本来だ。小泉首相の釈明・理由づけも完璧とは思えない。内閣法制局・外務省等々、本来なら行政官僚・外務-・法制-が首相をサポートすべきだ。一政治家・一個人のときどきの判断に重要な事項の決定が委ねられるのは好ましくなく、ときには危険だ。内閣法制局は首相靖国参拝の合憲性につき統一解釈を示せ。
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