秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

文春文庫

2187/西尾幹二の境地-歴史通・WiLL2019年11月号別冊⑤。

  言葉・概念というのは不思議なもので、それなくして一定時期以降の人間の生活は成り立ってこなかっただろう。というよりも、人間の何らかの現実的必要性が「言葉・概念」を生み出した。
 しかし、自然科学や医学上の全世界的に一定しているだろう言葉・概念とは違って(例えば、「脳」の部位の名称、病気の種類等の名称のかなりの部分)、社会・政治・人文系の抽象的な言葉・概念は論者によって使用法・意味させているものが必ず一定しているとは限らないので、注意を要する。
  面白く思っている例えば一つは、(マルクスについてはよく知らないが)レーニンにおける「民主主義」の使い方だ。
 レーニンの「民主主義」概念は多義的、あるいは時期や目的によって多様だと思われる。つまり、「良い」評価を与えている場合とそうでない場合がある。
 素人の印象に過ぎないが、もともとは「民主主義」は「ブルジョア民主主義」と同義のもので、批判的に用いられたかに見える。
 しかし、レーニンとて、-ここが優れた?政治運動家・「革命」家であったところで-「民主主義」が世界的に多くの場合は「良い」意味で用いられていること、あるいはそのような場合が少なくともあること、を十分に意識したに違いない。
 そこで彼または後継者たちが思いついた、または考案したのは、「ブルジョア(市民的)民主主義」と対比される「人民民主主義」あるいは「プロレタリア民主主義」という言葉・概念で、自分たちは前者を目ざす又はそれにとどまるのではなく、後者を追求する、という言い方をした。
 「民主主義」はブルジョア的欺瞞・幻想のはずだったが、「人民民主主義」・「プロレタリア民主主義」(あるいは「ソヴェト型民主主義」)は<進歩的>で<良い>ものになった。
 第二次大戦後には「~民主共和国」と称する<社会主義をめざす>国家が生まれたし、恐ろしくも現在でも「~民主主義人民共和国」と名乗っているらしい国家が存続している。
 似たようなことは「議会主義」という言葉・概念についても言える。
 マルクスやレーニンについては知らない(スターリンについても)。
 しかし、日本共産党の今でも最高幹部の不破哲三は、<人民的議会主義>と言い始めた。
 最近ではなくて、ずいぶん前に以下の著がある。
 不破哲三・人民的議会主義(新日本出版社、1970/新日本新書・1974)。
 「議会」または「議会主義」はブルジョア的欺瞞・幻想として用いられていたかにも思われるが(マルクス主義「伝統」では)、日本共産党が目ざすのは欺瞞的議会主義ではなく「人民的議会主義」だ、ということになった。現在も同党の基本路線のはずだ。
 <民主主義革命・社会主義革命>の区分とか<連続二段階革命>論には立ち入らないし、その十分な資格もない。
 ともあれしかし、そうだ、「たんなる議会主義」ではなく「人民的議会主義」なのだ、と納得した日本共産党員や同党支持者も(今では当たり前?になっているかもしれないが)、1970年頃にはきっといたに違いない。
  しかし、元に戻って感じるのだが、これらは「民主主義」や「議会主義」という言葉・概念を、適当に(政治情勢や目的に合わせて)、あるいは戦術的に使っているだけではないだろうか。
 <反民主主義>とか<議会軽視=暴力>という批判を避けるためには、「人民民主主義」・「人民的議会主義」という言葉・概念が必要なのだ。
 たんに言葉だけの問題ではないことは承知しているが、言葉・概念がもつ<イメージ>あるいは<印象>も、大切だ。
 人間は、それぞれの国や地域で用いられる<言葉・概念>によって操作されることがある。いやむしろ、常時、そういう状態に置かれているかもしれない。
 自明のことを書いているようで、気がひける。
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 四 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通・月刊WiLL11月号別冊(ワック)。
 p.222で、西尾幹二はこう発言する。
 ・「女系天皇を否定し、あくまで男系だという一見不合理な思想が、日本的な科学の精神」だ。「自然科学ではない科学」を蘇生させる必要がある。
 ・日本人が持つ「神話思想」は、「自然科学が絶対に及び届くことのない自然」だ。
 ここで西尾は、「自然科学」(または「科学」)と「日本的な科学(の精神)」を対比させている。
 これは、レーニンとて「民主主義」という語が~と上に記したように、西尾幹二とて?、「科学」という言葉・概念が<良い>印象をもつことを前提として、ふつうの?「自然科学」ではない「日本的な科学」が大切だと主張しているのだろう。
 民主主義または欧米民主主義とは異なる「日本的民主主義」というのならば少しは理解できなくはない。しかし、「自然科学」またはふつうの?「科学」と区別される「日本的な科学」とはいったい何のことか?
 これはどうやら日本の「神話(思想)」を指す、又はそれを含むようなのだが、しかし、このような使用法は、「科学」概念の濫用・悪用または<すり替え>だろう。
 ふつうの民主主義ではない「人民民主主義」、ふつうの議会主義ではない「人民的議会主義」という語の使い方と、同一とは言わないが、相当に類似している。
 五 西尾幹二・決定版国民の歴史/上(文春文庫、2009/原著・1999)。
 これのp.169に、つぎの文章がある。この部分は節の表題になってもいる(p.168)。
 「広い意味で考えればすべての歴史は神話なのである」。
 つまり、「神話」は、<狭義の歴史>ではなくとも<広義の歴史>には含まれる、というわけだ。
 「神話、言語、歴史をめぐる本質論を以下展開する」(p.166)中で語られているのだから、西尾としては重要な主張なのだろう。
 あれこれと論述されていて、単純な議論をしているのではないことはよく分かる。
 しかし、上の部分には典型的に、「神話」と「歴史」の両概念をあえて相対化するという気分が表れていると感じられる。
 つまり、「歴史」概念を曖昧にし、その意味を<ずらして>いるのだ。
 こうした概念論法を意識的に用いる文章を書くことができる人の数は、多いとは思えない。
 言葉・概念・文章で<生業>を立ててきた、西尾幹二らしい文章だ。
 相当に単純化していることを自覚しつつ書いているが、このような言い方を明瞭な形ではなくこっそりと何度でもするとすると、こうなる。
 ああ言えばこういう、何とでも言える、という世界だ。
  <文学>系の人々の文章で、フィクション・「小説」・<物語>と明記されて、あるいはそれを当然の前提として書かれているものならばよい。
 そして、いかに読者が「感動」するか、いかほどに読者の「心を打つか」が、そうした文章または「作品」を評価する<規準>となる、ということも、フィクション・「小説」・<物語>の世界についてならば理解できなくはない。
 しかし、そうではなくノン・フィクションの「学問」的文章であるならば、読者が受けた「感動」の質や量とか、どれだけの読者を獲得したか(売れ行き)の「多寡」が評価の規準になるのではないだろう。
 何となしの<情感>・<情緒>を伝えるのが「学問」的文章であるのではない。
 <文学>系の人々の文章も様々だが、言葉の配列の美しさとか思わぬ論理展開とかがあっても、それらはある程度は文章の「書き手」の巧拙によるのであって、「学問」的著作として評価される理由にはならない。
 これはフィクション・「小説」・<物語>ではない、「文学」つまり「文に関する学」または「文学に関する学」でも同じことだろう。
 何となく<よく出来ている>、<よくまとまっている>、<何となく基本的な趣旨が印象に残る>という程度では、小説・「物語」とどこが異なるのだろうか。
 <文学系>の人々が社会・政治・歴史あるいはヒトとしての人間そのものについて発言する場合の、評価の規準はいったい何なのか。
 長い文章を巧く、「文学的に」?書くか否かが規準ではないはずだろう。
 長谷川三千子もきっとそうだが、西尾幹二もまた、日本の社会・政治、あるいは「人間学」そのものにとっていかほどの貢献をしてきたかは、全く疑わしい、と思っている。今後も、なお書く。
 江崎道朗、倉山満ら、上の二人のレベルにすら達していない者たちが杜撰な本をいくつか出版して(日本の新書類の一部またはある程度は「くず」の山だ)、論理的にも概念的にも訳の分からない文章をまとめ、「その他著書多数」と人物紹介されているのに比べれば、西尾幹二や長谷川三千子はマシかもしれない。
 しかし、学者・「学術」ふうであるだけ、却ってタチが悪い、ということもある。
 <進歩的文化人>ではない<保守的文化人>と自認しているかも知れない論者たちの少なくとも一部のいい加減さ・低劣さも、いまの時代の歴史の特徴の一つとして記録される必要があるだろう。

2107/「邪馬台国」論議と八幡和郎・西尾幹二/安本美典②。

 安本美典著の近年のものは、先だってこの覧で言及した神功皇后ものの一部しか熟読していない。その他の一部を捲っていると、興味深い叙述に出くわした。
 邪馬台国論議や古代史論議に関心をもつ一つの理由は、データ・史資料が乏しいなかで、どういう「方法」や「観点」で歴史・史実に接近するのか、という議論が内包されているからだとあらためて意識した。これも、文献史学と考古学とでは異なるのだろう。
 安本の学問・研究「方法」そのものについては別に触れる。
 ①「私たちは、ともすれは、…、専門性の高さのゆえに難解なのであろうと考える。こちらの不勉強ゆえに難解なのであろう、と思いがちである。
 これだけ、社会的にみとめられている機関や人物が、自信をもって発言しているのであるから、と思いがちである。
 しかし、ていねいに分析されよ。」
 ②「理系の論理で『理解』すべきものを、文系の論理、つまり、言葉による『解釈』にもちこむ」。
 安本美典・邪馬台国全面戦争-捏造の「畿内説」を撃つ(勉誠出版、2017)。p.241.とp.202。
 西尾幹二が「社会的にみとめられている人物」で「自信をもって発言している」ように見えても、「ていねいに分析」する必要がある。さすがに深遠で難解なことを書いている、などと卑下する必要は全くない。
  「理系の論理で『理解』すべきものを、文系の論理、つまり、言葉による『解釈』にもちこむ」というのは、この欄で私が「文学」系評論家・学者に対して-本当は全てに対してではないのだが-しばしば皮肉を浴びせてきたことだ。私自身は「文系」出身者だが、それでも、「論理」や概念の「意味」は大切にしているつもりで、言葉のニュアンスや「情緒」の主観的世界に持ち込んで独言を吐いているような文章には辟易している(江崎道朗の書は、そのレベルにすら達していない)。
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 西尾幹二は2019年の対談で「歴史」に対する「神話」の優越性を語る。しかし、そこでの帰結であるはずの<女系天皇否認>について、<日本神話>のどこに、どのように、皇位を男系男子に限るという旨が「一点の曇りもなく」書かれているかを、具体的に示していないし、示そうともしていない。
 西尾にとって大切なのは、「原理論」・「総論(・一般論)的方法論」の提示なのだろう。
 日本の建国・「国生み」の歴史についても、「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」と(章の表題としても)明記し、日本書記等を優先させよ、とするが、では日本書記等の「神話」によれば、日本ないし日本列島のクニ・国家の成立・発展はどう叙述されているかを具体的に自らの言葉でもって叙述することをしていないし、しようともしていない。
 日本書記と古事記の間に諸「神話」の違いもある。また、日本書記は、ある書によれば…、というかたちで何通りもの「伝承」・「神話」を伝えている。
 <日本神話>を尊重してすら、「解釈」や「選択」を必要とするのだ。そのような地道な?作業を、西尾はする気がないに違いない。そんなチマチマしたことは、自分の仕事ではないと思っているのかもしれない。
 西尾幹二・国民の歴史(産経新聞社、1999)第6章<神話と歴史>・第7章<魏志倭人伝は歴史資料に値しない>。=同・決定版/国民の歴史・上(文春文庫、2009)第6章・第7章。以下は、入手しやすい文庫版による。
 西尾の魏志倭人伝嫌悪は、ひとえに<新しい歴史教科書>づくりのためのナショナリズム、中国に対する「日本」の主張、という意識・意欲に支えられているのかもしれない。
 しかし、かりにそれは是としてすら、やはり「論理性」は重要であって、「暴論」はよくない。
 ・p.209。-「今の日本で邪馬台国論争が果てるところを知らないのを見ても、『魏志倭人伝』がいかに信用ならない文献であるかは立証されているとも言える」。
 ・p.209-210。-岡田英弘によると1735年<明史日本伝>はかくも〔略〕ひどい。「魏志倭人伝」はこれより「1500年も前の文章」なのであり、この項は「本当はここでもう終わってもいいくらいなのだ」。
 ・p.216。-「結論を先にいえば、『魏志倭人伝』を用いて歴史を叙述することははなから不可能なのである」。
 ここで区切る。日本の歴史研究者の誰一人として、魏志倭人伝は正確な当時の日本の史実を伝えており。それに従って古代史の一定範囲を記述することができる、と考えていないだろう。
 魏志倭人伝だけを用いて叙述できるはずはなく、また、その倭人伝の中の部分・部分の正確さの程度も論じなければならない。日本のはじまりに関する歴史書を全て見ているわけではないが、かりに「倭国」から始めるのが西尾大先生のお気に召さないとしても、魏志倭人伝のみに頼り、日本書記や古事記に一切言及していない歴史書はさすがに存在しないだろう。
 西尾幹二は、存在しない「敵」と闘っている(つもり)なのだ。
 上の範囲の中には、他にも、まことに興味深い、面白い文章が並んでいる。
 石井良助(1907-1993)の1982年著を紹介してこう書く。p.214以下。
 ・石井は「古文書に書かれている文字や年代をそのままに信じる素朴なお人柄」だ。「全文が書かれているとおりの歴史事実であったという前提に少しの疑いももたない」。
 ・「伝承や神話を読むに必要な文学的センスに欠けているし、『魏志倭人伝』もとどのつまりは神話ではないか、というような哲学的懐疑の精神もゼロである」。
 ・石井は「東京大学法学部…卒業、法制史学者、…」。「世代といい、専門分野といい」、「日本の『戦後史』にいったい何が起こったか」がすぐに分かるだろう。
 ・「文学や哲学のメンタリティを持たない単純合理主義者が歴史にどういう改鋳の手を加えてきたかという、これはいい見本の一つである」。
 以上。なかなか<面白い>。石井良助はマルクス主義者ではなかったが、津田左右吉流の文献実証主義者だったかもしれない。「法制史」の立場からの歴史叙述が一般の歴史叙述とは異なる叙述内容になることも考慮しなければならないのだが、それにしても、「文学や哲学のメンタリティを持たない単純合理主義者」等の人物評価はスゴい。書評というよりも、人格的価値評価(攻撃)に近いだろう。
 そして、西尾幹二にとって、いかに「文学や哲学のメンタリティ」、あるいは「哲学的懐疑の精神」が貴重だとされているかが、きわめてよく分かる文章だ。
 とはいえじつは、西尾のいう「文学的センス」・「文学や哲学のメンタリティ」・「哲学的懐疑の精神」なるものは、今日での世界と日本の哲学の動向・趨勢に対する「無知」を前提としていることは、多少はこれまでに触れた。
 「哲学のメンタリティ」・「哲学的懐疑の精神」と言えば響きがよいかもしれないが、その内実は、「西尾にとっての自己の思い込み・観念の塊り」だろう、と推察される。
 さて、後の方で、西尾は別の意味で興味深い叙述をしている。こうだ。
 p.220。神話と「魏志倭人伝」の関係は逆に理解することも可能だ。つまり、魏の使者に対して日本の官吏は<日本神話>=「日の神の神話」を物語ったのかもしれない。
 しかし、これはきわめて苦しい「思いつき」だろう。「邪馬台国」も「卑弥呼」も、「日の神の神話」には直接には出てこない。イザナキ・イザナミ等々の「神々」の物語=<日本神話>を歴史として「この国の権威を説明するために」魏の使者に語ったのだとすれば、「日の御子」と「女王国」くらいしか関係する部分がないのは奇妙だ。それに、詮索は避けるが、のちに7-8世紀にまとめられたような「神話」は、「魏志倭人伝」編纂前に、日本(の北九州の官吏が知るようになるまで)で成立していたのか。
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 西尾幹二によると、「『魏志倭人伝』は歴史の廃墟である」。p.226。
 このようには表現しないが、八幡和郎のつぎの著もまた、日本ナショナリズムを基礎にして、可能なかぎり日本書記等になぞりながら、可能なかぎり中国の史書を踏まえないで、日本の古代史を叙述している。もとより、日本書記等と魏志倭人伝 では対象とする時代の範囲が同一ではない、ということはある。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない-新皇国史観が中国から日本を守る-(扶桑社新書、2011)。
 冷静に、理知的に歴史叙述をするという姿勢が、副題に見られる、現在において「中国から日本を守る」という実践的意欲、プロローグから引用すれば「皇室」とその維持の必要性を理解する「論理と知識を、おもに保守的な読者に提供しよう」という動機(p.17)、によって弱くなっている。
 この書物もまた、古代史およびそれを含む日本史アカデミズムによって完全に無視されているに違いない。この欄では、あえて取り上げてみる。

0728/ルソーの「人生」を小林善彦は適切に叙述しているか。

 <有名な>思想家、フランスのルソー(1712~1778)について、「思想」どころか、その「人生」についても、叙述又は見方が異なる。
 渡部昇一=谷沢永一・こんな「歴史」に誰がした(文春文庫、2000)の谷沢によると、ルソーは、①「生まれてすぐに母に死なれ、10歳のときに父に棄てられた」、②「家庭」を知らず、「正規の学校教育」を受けなかった、③「子どもが五人いた」が、「全員を棄ててしまった」(p.218)。
 中央公論新社の中公クラシックスの中のルソー・人間不平等起源論/社会契約論(2005)の訳者の一人・小林善彦は、この著のはじめに「テクストを読む前に」と題する文章を書いて、ルソーの「人生」をたどっている。
 小林は、上の①のうち母の死亡については、「生まれて十日後にシュザンヌ〔母親〕が死ぬと…」と言及する(p.3)。触れてはいるが、父親の行動に関する一文に付随させているだけで、成育のための「家庭」環境とは結びつけていない。この文章の最初の見出しは「成育環境」だが、まず小林が語っているのは、両親ともに「市民の階級の人」であり、これが「ルソーの思想形成にひじょうに大きな影響を及ぼしたと思われる」、ということだ(p.2)。少なくとも、生後10日後に死去した「市民の階級の」母親がルソーの「思想」に直接に影響を与えることはできなかったことは明らかなのだが。
 上の①のうち「一〇歳のときに父に棄てられた」については、明確な言及はない。もっとも、巻末の「年譜」には、1722年に父親が(ルソーの生地)ジュネーヴを「出奔」し、ルソーが伯父、次いで「新教の牧師」に「預けられた」、とあるので(p.413-4)、父親と生別していることは分かる。
 小林善彦は、父親は仕事(時計職人)に熱心ではなかったが、「ジュネーヴの時計職人」は特権的職業で比較的に余暇もあり「しばしば教養があって」市政等に関心をもち、蔵書も多かった、という。これは「ジュネーヴの時計職人」の話のはずだが、小林は「というわけで、幼い…ルソーは父親から本を読むことを習った」と書く(p.4-5)。これが事実であるとしても、明記はされていないが、父親が「出奔」するルソー10歳のときまでのことと理解されなければならない。
 上の②の「家庭」を知らず、「正規の学校教育」を受けなかった、というのは事実だろうと考えられる。しかし、小林善彦はこれを明記はしておらず、上記のように「教養ある」「市民」の一人に「本を読むことを習った」という叙述の仕方をしている。さらに、「われわれにはおどろきであるが、小説を全部読んでしまうと、ルソー父子は堅い内容の本にとりかかった。それは…新教の牧師の蔵書」だった、とも書いている(p.5)。だが、上記のとおり、これもあくまでルソー10歳のときまでのことと理解されなければならない。教育熱心の父親が、10歳の男児と離れて(-を残して)別の都市へ「出奔」するだろうか、とも思うが。10歳のときまでに「新教の牧師の蔵書」を一部にせよ読んでいたのが事実だとすると、たしかに「われわれにはおどろき」かもしれない。
 上の③の<子棄て>および彼らの母親である妻又は愛人を<棄てた>ことについては、これらを別の何かで読んだことはあるが、小林善彦は一切触れていない
 小林善彦はルソーの人間不平等起源論・社会契約論について肯定的・積極的に評価することも書いている。そして、そしてルソーの「人生」についても、あえて<悪い>(少なくともその印象を与える)事柄は知っていても、書かなかったのではないか。
 小林も(表現の仕方は別として)事実としては否定しないだろうと思われる、「生まれてすぐに母に死なれ、一〇歳のときに父に棄てられた」、「家庭」を知らず、「正規の学校教育」を受けなかった、ということは、谷沢永一も指摘するように、ルソーのその後の「思想」と無関係ではないのではないか。
 小林善彦は1927年生、東京大学文学部仏文科卒、東京大学教養学部教授等歴任。ルソーに関する<権威>の一人とされているかもしれない。そして、こういう人に、同じ学界の者またはルソー研究者が、ここで書いたような程度の<皮肉>を加えることすら困難なのかもしれない。
 アカデミズム(大学世界)が<真実>・<正義>を追求しているいうのは、少なくとも社会系・人文系については、真っ赤なウソだ。あるいは、彼らに独特の(彼らにのみ通用する)<正義>の追求はしているかもしれないが。

0500/昭和30年代末・東京五輪の年の映画「愛と死をみつめて」と関川夏央等。

 吉永小百合・浜田光夫主演映画「愛と死をみつめて」は池田勇人首相時代、昭和三〇年代の末、東京五輪の前月の1964年9月に上映された。私は観なかったが、1964年末の紅白歌合戦でも歌われた「マコ、甘えてばかりで…」とのはやり歌の影響か、1965年に原本の書簡集を読んで、当時の少年らしい感動を受けた。
 のちに上記の映画を観ることがあったが、私の好みの文筆家・関川夏央・昭和が明るかった頃(文春文庫、2004)は、「女性の結婚への希望と家庭への願望の方に重心を大きく傾けた」のが映画ヒットの主因の一つとする(p.376)。
 これは間違いだろう。原作もそうだが、「結婚への希望と家庭への願望」は付随的テーマにすぎない。むしろ、青山和子の歌った上記の歌や吉永小百合歌唱の映画主題歌としての「愛と死のテーマ」こそが、フェミニストから見れば許されない程に?、「弱い女」・「慕う女」のイメージで歌詞が作られていて、大島みち子氏の強さと逆に河野実氏の(実在の方に申し訳ないが)弱さを感じさせる原作から見れば違和感がある。
 関川はまた言う。大島が死ぬ前に下さいといっている三日のうち、恋人といたいというのはたった一日にすぎない、と。二人の「愛」も、女性の気持ちもそんなものだと言いたげだが、これも間違っている。かりに自由な(そして健康な)三日間が与えられたとすれば、一日を父母・兄妹と過ごし、一日を一人で「思い出と遊ぶ」というのは至極当たり前の気持ちではないか。関川は恋愛至上主義者でもあるまいし、三日間とも恋人と一緒にいたいと書いてほしかったのか。いや、大切な三日のうち一日を「あなた」と過ごしたいと思うだけでも、素晴らしい恋愛であり、河野青年への「愛」だった、と私は思う。この物語、そして映画の主題は20~21歳の男女に実際に成立した恋愛そのものであったからこそヒットしたのであり、「結婚への希望と家庭への願望」に重きを置いたからでは全くないと私は思っている。
 一方、関川の、「男性側の『子供っぽさ』『成熟への拒絶』と、期せずして母親の役割を果たさざるを得なかったオトナの女性の『みごとな覚悟』といったすぐれて戦後的な対比をあえて排除」という指摘はほぼ同感で、映画上の浜田は原作の青年の苦しみと弱さをうまく演じてはいないが、これは浜田の責任というより脚本のなせる技だろう。
 なお、読書中の浅羽通明・昭和三十年代主義(幻冬舎、2008)には「愛と死をみつめて」は二回しか登場せず(索引による)、しかも「純愛」ものというだけの言及で、本格的な分析・論及は何もない。この本のアヤシゲさの一つの現れでなれればよいのだが。

0466/北朝鮮という「国家」のイメージ形成の思い出。

 思い出すに、北朝鮮という国の異常さを知ったのはたぶん1992年に崔銀姫=申相玉・闇からの谺―北朝鮮の内幕―(上・下、文春文庫、1989)を読んでだ。北朝鮮の映画を「向上」させるために韓国の映画監督・女優夫妻を金正日の指令で「拉致」したというのだから、その「人間」・「個人」無視の精神には唖然とした。続いて、1994年頃に姜哲煥=安赫・北朝鮮脱出(上・下、文藝春秋、1994、単行本)によって北朝鮮の印象は決定的になった。デマの可能性はあったが、これだけの全てを捏造することはできず、少なくとも大半は真実だろうと感じ、こんな国がすぐ近くに存在していることについて信じ難い思いをした。これらを出版した文藝春秋の勇気?は称えたい。
 他にも、関川夏央・退屈な迷宮―「北朝鮮」とは何だったのか(新潮社、1992、単行本)等の若干の本も読んでいて、平均的日本人よりは北朝鮮の実態を知っていただろう。従って、日本人拉致問題には詳しくはなかったものの、2002年の09/17に金正日自身が拉致の事実を認めたとき、驚天動地の思いではなかった。この国なら何でもする、と感じていたからだ(むしろ認めたことの方に驚いた)。
 北朝鮮の歴史の知識もすでに持っていて、種々の金日成・金正日伝説は「ウソ」らしいと知っていた。市井の一日本人が若干の文献から「ふつうの感覚」でそう思っていたのに、より多くの情報に接する可能性があるはずの日本社会党等々の政治家たちが北朝鮮に「騙され」、日本共産党もまた「疑惑の程度に応じた」交渉を、などと能天気なことを言っていたのはこれまた信じ難い。社会主義幻想と朝鮮総連との接触の成した業だっただろうか。今でも北朝鮮にはできるだけ甘く、米国や日本政府にはできるだけ批判的又は揶揄的に、という姿勢が垣間見える人々がいるしメディアがあるのは困ったものだ。
 そうしたメディアの代表は朝日新聞だが、読売新聞論説委員会編・読売VS朝日・社説対決/北朝鮮問題(中公新書ラクレ、2002)の中で作家・柘植久慶いわく―「一方の朝日新聞の社説となると、悲惨なくらい過去の主張や見通しの外れているのがよく判る。これは…空想的社会主義と共産主義諸国に対してのダブルスタンダードが、ベルリンの壁の崩壊とソ連―社会主義の終幕によって、一気に価値を喪失したから…」、「地盤沈下の著しい左翼政党―共産党や社民党と同じように、朝日もまた地盤沈下の同じ轍を踏む危険性が大きい」(同書「解説にあたって」)。本当にこうなっていればよいのだが。

0231/文藝春秋の元編集者は「ウソ」を書いてはいないか。

 延吉実・司馬遼太郎とその時代/戦中篇同・-戦後篇(青弓社、2002、2003)という本がある。著者は戦後篇の奥付によると本名・藤田佳信、1950年生れ、早稲田大学社会科学部卒、藍野学院短期大学助教授、専攻・英米文学・比較文学。
 上のうち戦後篇p.27、p.138-9、p.202-226には、司馬遼太郎の「私事」が書かれている。最大の驚きは、司馬にはみどり夫人の前に婚姻関係にあった女性がいて、実子(男性)もいる、という事実の指摘だ。
 再読してみると、月刊誌・噂の真相1998年6月号で「…司馬遼太郎が歴史から抹殺した私生活の過去」とのタイトルで「暴露」されたというから(p.138)、<知る人ぞ知る>話なのかもしれない。だが、私は知らなかったし、司馬遼太郎全集も含めて、公式の?司馬の履歴には一切書かれていない。
 真相探索というミステリー的興味をそそらないわけではないが、一方で何故こんなに詮索するのかという気分も湧いてきて、読んで楽しいものではない。だが、延吉著に依ってもう少し細かく書くと、司馬の「年譜」には1959年1月に「…みどりと結婚」とあるが、1948年5月に産経新聞社(京都支局)に入社後、1949年(26歳になる年)に某女性(個人名の記載があるが省略)と結婚し左京区某地(同)に借家住まいし、男子(個人名は書かれていない)をもうけた後1952年に守口市に転居し、離婚した(p.204。司馬は大阪からずっと通勤だったとして京都居住の事実を語ったことはないという)。なお、その頃(1952年)大阪本社に転勤、1959年(36歳の年)に再婚、ということになる。
 延吉実の指摘をふまえて、短篇「白い歓喜天」も読んでみた。司馬遼太郎全集には登載されていないが、司馬遼太郎短篇全集第二巻(文藝春秋、2005)p.141以下に収載されている。なお、「白い歓喜天」を含む同名の短編集は1958年(司馬35歳の年)刊行だが、この小説は1948-49年頃(司馬25-26歳)の執筆らしい。
 そしてなるほど、この作品はたぶん、結婚経験がないと書けないものではないか、と私は感じた。結婚経験がなければ、「七年間も続いたあの退屈な結婚生活」とか「妻と自分の不幸が身のうちを腐らせてゆくように思えた」などの文を含む小説はなかったように私にも思える。但し、「白い歓喜天」が司馬の結婚生活そのままであったのではないことは勿論だろう。あくまで「小説」・「創作」なのだから。
 水上勉(1919-2004)は貧苦のために別れた最初の妻との間に子どもがいたことも隠してはいなかった。その子どもとのちに、最初は実子とは気づかないまま、つまり成人した窪島誠一郎とのちに出逢うという実話は、水上勉の人生そのものの如く感動的なものだった。だからといって司馬遼太郎を貶めるつもりは全くなく、彼は「私事」を知られたくなかった、それを厳格に終生貫いた(いや貫こうとした)のであり、そうした考え方を非難することは勿論できない。ましてや、司馬遼太郎の多数の小説の価値に影響があるわけでは全くない。
 ところで、前回言及した半藤一利・清張さんと司馬さん(文春文庫、2005)には、司馬の上のような「私事」には全く触れていない。元文藝春秋社編集者の和田宏・司馬遼太郎という人(文春新書、2004.10)も半藤著と同じく延吉著(2003.09)より後に刊行されているが、同じく論及はない。むしろ後者の和田の本が「はじめに」でこう書いているのが目を惹いた。
 「編集者に守秘義務があるとしたら、その作家にとってマイナスになるイメージを提示することだろう。それは男女関係であったり…さまざまであろうが、…私は司馬さんについてそのようなことはなにも知らない。というよりそんな噂も聞かない。…陰で声をひそめて話さなければならないことなど、少なくとも私は持たない」(p.5)。
 これを読んでやや奇異な感に打たれた。出版業界に生きた人が、半藤もそうだが、上に言及の雑誌・噂の真相の記事やすでに発刊されていた(タイトルに「司馬遼太郎」をずばり含む)延吉実の著書の存在を本当に全く知らなかったのだろうか
 かりにだが、雑誌「噂の真相」や「青弓社」の出版物程度なら多くの一般読者をゴマカせると考えていたとすれば、「大手」の文藝春秋社関係者の傲慢だとも思える。
 上に「かりにだが」と書いたが、おそらく、半藤や和田は<噂>があること、その<噂>は真実らしいことに気づいていたのではなかろうか(だが、たぶん、司馬本人の前で話題にしたりはしなかったのだろう)。だとすると、上の和田宏の文章は「ウソ」だと思われる。上のような話題の文章をわざわざ書いたために、「ウソ」をつかざるを得なくなったのだ。司馬遼太郎個人のことよりも、むしろこちらの方がはるかに気になる。
 社会的には些細なことかもしれないが、文藝春秋という出版社は好みであるにもかかわらず、元編集者の和田宏は信用できない。別の意味で信頼できない面が同じく同社の元編集者の半藤一利にあることは、前回に述べた。

0230/半藤一利とはいかなる人物なのか。

 半藤一利(1930-)という人を、私は信用していない。
 まず、正直、いや率直な人ではない、と思っている。というのは、半藤には清張さんと司馬さん(文春文庫、2005)という本があるが、松本清張の親社会主義・親日本共産党スタンスと司馬遼太郎の反社会主義感情との違いに全く又は明確には触れていないからだ。
 文藝春秋社の元編集者としての同社の営業政策への配慮は理解できるが、個人的に接し、多くの文章を読んでいれば、「戦後の偉大な国民的作家」二人の違いに気づかない筈がない、と思う。
 松本清張は途中から朝日の正社員(広告意匠担当)になり、弱者・下層又は庶民の視覚から高級官僚等の上層・強者・大組織・「権力」を陰に陽に批判するモチーフの小説を書いた。講読紙は第一には朝日だったと確実に推測でき、同・日本の黒い霧は占領軍陰謀史観とでもいえる立場に立つものだったし(推測・結論が誤っていたと主張しはしない。むしろ同意したい点が多い。「占領軍」とはそういう性格のものだとも言える)、日本共産党支持者であることを隠していなかったと思うし、晩年には「創共協定」なるものの締結の立役者だった。
 一方、司馬遼太郎は同全集月報57(文藝春秋、1999)で鶴見俊輔が、若い頃に新聞記者として京都大学回りを続けながら、「京大をひたしていた科学的社会主義の史観からどうして…自由でいられたのだろう」、「イデオロギーを身につけなかったこと」が「珍しい」と書いているくらいだから、鶴見は「イデオロギー」という語を社会主義・共産主義の意味で用いているかもしれないことは別として、司馬の「イデオロギー」は判りにくいのは確かだろう。
 だが、文藝春秋2006年2月臨時増刊号・司馬遼太郎ふたたびp.100-101に紹介されている文藝春秋・この国のかたち編集長あて手紙に次の言葉がある。1.「左翼、疑似左翼猖獗のときに、…水準器の泡のような役割をはたしてきたのが文藝春秋でした。いま相手が消滅して、文春が残ったのです」。2.「岩波のイデオロギー(ドイツ観念論哲学からマルクス主義へ)文春の……」。
 これらでほぼ想像はつき、司馬にしては珍しく「反左翼」心情を示唆していると言えるが、そのような心情形成の背景の一端は、半藤自身の上の本のp.258-9で判る。簡単にいうと1948-49年頃の京都大学の学生・教授たちの「左翼」思想による運動(発言・行動)に対する不信、だ。
 また、司馬は「思想」なるものにつき、現実ではなく「架空の一点」から生まれる等々とも述べている(p.255)。それは殆ど「狂気」と同義でもあるようだ。このような人が、共産主義・マルクス主義に共感できたはずはない。狂信的「皇国主義」にもそうだったかもしれないが。
 というわけで、半藤自身の叙述からも、司馬遼太郎のもつ反共産主義(・反マルクス主義)的感覚を半藤氏が知らなかった筈はなく、松本清張と対比できない筈もない、と考えられるのだ。
 つぎに、半藤一利という人は歴史の観方・視点の明確でない人だ、と思っている。
 同・昭和史-戦後篇(文藝春秋、2006)を既に読んだが、戦後史を一つの又は複雑な「流れ」の物語として語るには「定見」、つまり自分なりの独自の視点からの価値判断がなく、表面的な事象の羅列に終わっているようだ。
 戦前についての同氏の本は未読だが、戦前については「失敗」又は「間違い」の歴史として、問題点・反省点を探る如き観点からそれなりの「流れ」を掴みやすいかもしれない。しかし、戦後については、一定の観方・視点を彼は定立できていないように思う。
 例えば、1.「左翼」勢力の勃興と衰退の歴史として把握することも可能だし、逆に2.「保守」勢力の動向に着目して「危険な」憲法改正への途に向かう歴史と捉えることも不可能ではない。
 半藤は「九条の会」の賛同者の一人だが、勝手に憶測すれば、1.のように描くのは忍び難いし、2.のように明確に書くのも躊躇する、というところではないか。だからこそ、彼の戦後史の叙述は、基本的にこの時代全体をどう評価しているか自体が判りにくいのだ。この点、戦後史をまとまっては叙述していないが、西尾幹二、中西輝政、佐伯啓思らとは違うように思う。これらの人々には、「骨」、「筋」又は「理論」がある。むろん日本共産党には独自の戦後史把握があるが、半藤はたぶんこれにも全面的には寄り掛かれないのだろう。

-0055/某韓国人から金日成は3人いると1980年代に聞いてから。

 北朝鮮という国の異常さを知ったのはたぶん1992年に崔銀姫=申相玉・闇からの谺―北朝鮮の内幕―(上・下、文春文庫、1989)を読んでだ。北朝鮮の映画を「向上」させるために韓国の映画監督・女優夫妻を金正日の指令で「拉致」したというのだから、その「人間」・「個人」無視の精神には唖然とした。
 続いて、1994年頃に姜哲煥=安赫・北朝鮮脱出(上・下、文藝春秋、単行本)によって北朝鮮の印象は決定的になった。デマの可能性はあったが、これだけの全てを捏造することはできず、少なくとも大半は真実だろうと感じ、こんな国がすぐ近くに存在していることについて信じ難い思いをしたものだ。これらを出版した文藝春秋の勇気?は称えたい。
 他にも若干の本は読んでいて、平均的日本人よりは北朝鮮の実態を知っていただろう。従って、日本人拉致問題に詳しくはなかったものの、2002年9月17日に金正日自身が拉致の事実を認めたとき、驚天動地の思いではなかった。この国なら何でもする、と感じていたからだ(むしろ認めたことの方に驚いた)。
 北朝鮮の歴史の知識もすでに持っていて、種々の金日成・金正日伝説は「ウソ」らしいと知っていた。
 市井の一日本人が若干の文献から「ふつうの感覚」でそう思っていたのに、より多くの情報に接する可能性があるはずの日本社会党等々の政治家たちが北朝鮮に「騙され」、日本共産党もまた「疑惑の程度に応じた」交渉を、などと能天気なことを言っていたのはこれまた信じ難い。社会主義幻想と朝鮮総連との接触の成した業だったろうか。今でも北朝鮮にはできるだけ甘く、米国や日本政府にはできるだけ批判的又は揶揄的に、という姿勢がかいま見える人々がいるしメディアがあるのは困ったものだ。
 そうしたメディアの代表は朝日新聞だが、朝日を批判する本又は論文・記事を一部抜粋して引用していくだけでもこの日記は続けていけそうだ。
 読売論説委編・読売VS朝日・社説対決北朝鮮問題(中公新書ラクレ、2002)の中で作家・柘植久慶は言う。
 「一方の朝日新聞の社説となると、悲惨なくらい過去の主張や見通しの外れているのがよく判る。これは…空想的社会主義と共産主義諸国に対してのダブルスタンダードが、ベルリンの壁の崩壊とソ連―社会主義の終幕によって、一気に価値を喪失したから…」、「地盤沈下の著しい左翼政党―共産党や社民党と同じように、朝日もまた地盤沈下の同じ轍を踏む危険性が大きい」(同書「解説にあたって」)。

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