秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

教育基本法

0997/中川八洋・国が滅びる(徳間書店、1997)の「教育」篇。

 一 たしか西尾幹二が書いていたところによると、日本の「社会学」は圧倒的にマルクス主義の影響下にあるらしい。歴史学(とくに日本近現代史)も同様と見られるが、「教育学」もまた<左翼>・マルクス主義によって強く支配されていることは、月刊諸君!、月刊正論に<革新幻想の…>を連載している竹内洋によっても指摘されている。戦後当初の東京大学教育学部の「赤い」3Mとかにも論及があったが振りかえらない。狭義の「文学畑」ではない<文学部>分野および<教育学部>分野には(にも?)、広くマルクス主義(とその亜流)は浸透しているわけだ。
 二 中川八洋・国が滅びる―教育・家族・国家の自壊(徳間書店、1997)p.48-によると、日本の「狂った学校教育」は、①「反日」教育、②「人権」教育(「人間の高貴性や道徳」の否定)、③「平等」教育(「勤勉や努力」の否定・「卑しい嫉妬心」の正当化)、を意味する。

 生存・労働権を中核とする「人権」のドグマは人間を「動物視」・「奴隷視」する考えを基底にもち、ロシア革命後にも人間の「ロボット」改造化が処刑の恐怖(テロル)のもとで進められた。さらに、「人権」のドグマは、①地球上の人間を平等に扱うがゆえに「民族固有の歴史・伝統・祖先」をもつことを否定し、②「善悪(正邪)の峻別を原点とする道徳律や自生的な社会規範」を否定する(p.50-52)。

 ①の魔毒は「反日キャンペーン」となり、日本国民ではなく「地球人」・「地球市民」に子供たちを改造しようとする。②の魔毒は「生存」の絶対視を前提として「どんな悪逆な殺人者に対する死刑の制度」も許さず、殺された被害者は「すでに生存していない」ので「人権」の対象から除外される。「人権」派弁護士とは生存する犯罪者に動物的「生存」を享受させようとする「人格破綻者」だ(p.52-53)。

 かかる「教育」論に影響を与えている第一はルソーの、とくに『エミール』だ。日本の教育学部で50年以上もこれを必読文献としている狂気は「日本共産化革命」を目的としている。ルソーは、『社会契約論』により目指した全体主義体制を支える人間を改造人間=ロボットにせんとするマニュアルを示すためにこれを執筆した。ルソーは『人間不平等起源論』に見られるように「動物や未開人」を人間の理想とするので、『エミール』を学んだ教師は生徒を精神の「高貴性」・高い「道徳観」をもたない「動物並み」に降下させる(p.55-59)。

 第二はスペンサーで、その著『教育論』は「人間と動物に共通する」普遍の教育原理を追求し、人間を野生化させる「自然主義・放任主義」を是とし、「道徳律の鍛錬」や「倫理的人間のへ陶冶」を徹底的に排除した(p.59-60)。

 第三は戦後日本教育を攪乱したデューイで、スペンサーの熱烈な継承者、実際の実験者だった。

 これら三大「悪の教育論」を排斥しないと、日本の教育は健全化しない(p.60)。

 以上は、中川八洋の上掲書の「Ⅰ・教育」のごく一部。
 三 八木秀次「骨抜きにされる教育基本法改正」(月刊正論3月号(産経)p.40-41)は安倍内閣時の教育基本法改正にもかかわらず、教育実態は変わらないか却って悪くなっていると嘆いているが、教育「再生」のためには、多数の教師が学んできた戦後日本の「教育学」・「教育」理論そのもの、そしてそれを支えた(中川八洋の指摘が正しいとすれば)ルソー、デューイらの教育「理論」にさかのぼって、批判的に検討する必要もあると強く感じられる。教育基本法という法律の改正程度で「左翼」・「反日」(<「国際」化)教育が死に絶えることはありえない。 

0788/資料・史料-2006.12.25朝日新聞・若宮啓文<風考計>コラム。

 資料・史料-2006.12.25朝日新聞・若宮啓文<風考計>コラム
 平成18年12月25日

 
//言論の覚悟 ナショナリズムの道具ではない
 教育基本法に「愛国心」が盛り込まれ、防衛庁が「省」になることも決まった日の夜だった。
 「キミには愛国心がないね」学校の先生にそうしかられて、落第する夢を見た。
 いわく、首相の靖国神社参拝に反対し、中国や韓国に味方したな。
 卒業式で国旗掲揚や国歌斉唱に従わなかった教職員の処分を「やりすぎ」だと言って、かばったではないか。
 政府が応援するイラク戦争に反対し続け、自衛隊派遣にも異を唱えて隊員の動揺を誘うとは何事か。
 自衛隊官舎に反戦ビラを配った者が75日間も勾留(こうりゅう)されたのだから、よからぬ記事を全国に配った罪はもっと大きいぞ、とも言われた。「そんなばかな」と声を上げて目が覚めた。
 月に一度のこのコラムを書いて3年半。41回目の今日でひとまず店じまいとしたいのだが、思えばこの間、社説ともども、小泉前首相や安倍首相らに失礼を書き連ねた。夢でよかったが、世が世なら落第どころか逮捕もされていただろう。
    ◇
 「戦争絶滅受合(うけあい)法案」というのを聞いたことがあるだろうか。
 条文を要約すれば、戦争の開始から10時間以内に、国家の元首(君主か大統領かを問わない)、その親族、首相や閣僚、国会議員らを「最下級の兵卒として召集し、出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実戦に従わしむべし」というものだ。
 いまならまずブッシュ大統領に読んでもらいたいが、長谷川如是閑(にょぜかん)がこの法案を雑誌『我等(われら)』で書いたのは1929年のこと。第1次世界大戦からしばらくたち、再び世界がキナ臭くなり始めたころである。
 デンマークの陸軍大将が起草して各国に配ったという触れ込みだったが、それはカムフラージュの作り話。「元首」と「君主」は伏せ字にしてきわどく検閲をパスした。
 それより11年前、日本のシベリア出兵や米騒動をめぐって寺内正毅内閣と激しく対決した大阪朝日新聞は、しばしば「発売禁止」の処分を受けた。さらに政府糾弾の集会を報じたところ、記事にあった「白虹(はっこう)日を貫けり」の表現が皇室の尊厳を冒すとして筆者らが起訴され、新聞は廃刊の瀬戸際に立たされた。ついに大阪朝日は村山龍平社長らが辞職して謝罪し、政府に屈することになる。
 これが「白虹事件」である。かつて「天声人語」の筆者でもあった如是閑は、このとき大阪朝日の社会部長だった。言論の敗北に無念を抱きつつ退社して『我等』を創刊したのだ。
    ◇
 こんな古い話を持ち出したのも、いま「言論の自由」のありがたみをつくづく思うからにほかならない。現代の世界でも「発禁」や「ジャーナリスト殺害」のニュースが珍しくない。
 しかし、では日本の言論はいま本当に自由なのか。そこには怪しい現実も横たわる。
 靖国参拝に反対した経済人や天皇発言を報じた新聞社が、火炎ビンで脅かされる。加藤紘一氏に至っては実家が放火されてしまった。言論の封圧をねらう卑劣な脅しである。
 気に入らない言論に、一方的な非難や罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせる風潮もある。それにいたたまれず、つい発言を控える人々は少なくない。この国にも言論の「不自由」は漂っている。
 私はといえば、ある「夢想」が標的になった。竹島をめぐって日韓の争いが再燃していた折、このコラムで「いっそのこと島を韓国に譲ってしまったら、と夢想する」と書いた(05年3月27日)。島を「友情島」と呼ぶこととし、日韓新時代のシンボルにできないか、と夢見てのことである。
 だが、領土を譲るなどとは夢にも口にすべきでない。一部の雑誌やインターネット、街宣車のスピーカーなどでそう言われ、「国賊」「売国」「腹を切れ」などの言葉を浴びた。
 もとより波紋は覚悟の夢想だから批判はあって当然だが、「砂の一粒まで絶対に譲れないのが領土主権というもの」などと言われると疑問がわく。では100年ほど前、力ずくで日本に併合された韓国の主権はどうなのか。小さな無人島と違い、一つの国がのみ込まれた主権の問題はどうなのか。
    ◇
 実は、私の夢想には陰の意図もあった。日本とはこんな言論も許される多様性の社会だと、韓国の人々に示したかったのだ。実際、記事には国内から多くの共感や激励も寄せられ、決して非難一色ではなかった。
 韓国ではこうはいかない。論争好きなこの国も、こと独島(竹島)となると一つになって燃えるからだ。
 そう思っていたら、最近、発想の軟らかな若手学者が出てきた。東大助教授の玄大松(ヒョン・デソン)氏は『領土ナショナリズムの誕生』(ミネルヴァ書房)で竹島をめぐる韓国の過剰なナショナリズムを戒め、世宗大教授の朴裕河(パク・ユハ)氏は『和解のために』(平凡社)で竹島の「共同統治」を唱えた。
 どちらも日韓双方の主張を公平に紹介・分析しているが、これが韓国でいかに勇気のいることか。新たな言論の登場に一つの希望を見たい。
 日本でも、外国の主張に耳を傾けるだけで「どこの国の新聞か」と言われることがある。冗談ではない。いくら日本の幸せを祈ろうと、新聞が身びいきばかりになり、狭い視野で国益を考えたらどうなるか。それは、かつて競うように軍国日本への愛国心をあおった新聞の、重い教訓ではないか。
 満州へ中国へと領土的野心を広げていく日本を戒め、「一切を棄つるの覚悟」を求め続けた石橋湛山の主張(東洋経済新報の社説)は、あの時代、「どこの国の新聞か」といわれた。だが、どちらが正しかったか。
 最近では、イラク戦争の旗を振った米国のメディアが次々に反省を迫られた。笑って見てはいられない。
 だからこそ、自国のことも外国のことも、できるだけ自由な立場で論じたい。ジャーナリズムはナショナリズムの道具ではないのだ。//

 *ひとことコメント-いわゆる村山談話は「独善的なナショナリズム」を排すべきと述べるが、この若宮コラムでは「ナショナリズム」にそのような限定すらない。

0397/朝日新聞2/16社説と新学習指導要領。

 新学習指導要領の内容が発表された。よりよき方向への改正であり、多くの教師たちの努力によって現実化してもらいたいと思う。
 関連していえば、かかる改正の契機の重要な一つは前安倍晋三内閣による教育基本法の抜本改正(の提案と国会による議決)だった。
 マスメディア・論壇の一部にすでに<安倍政治>の全面否定(その証左又は援用材料としての2007参院選の自民党敗北)を当然視する論調もあるが、彼のしたことの意味・評価は、少なくとも将来の歴史的判断に俟つべきだろう。
 朝日新聞2/16社説はいう-「忘れてならないのは、教育基本法が改正されて初めての改訂だということだ。改正基本法に「愛国
心」が盛り込まれ、今回の指導要領には道徳教育の充実が定められた。/教育再生会議が強く求めていた道徳の教科化はさすがに見送られたが、道徳教育推進教師が学校ごとに指定され、全教科を通じて道徳心を教えることになった。武道の必修化もその流れにある。/道徳心を子どもに教えることは必要だが、特定の価値観を画一的に押しつけるようになっては困る。どのように教えるかは教師たちにまかせた方がいい。
 改正基本法上の「愛国心」(正確にはかかる語ではない)涵養を批判する観点から、「道徳教育推進教師」「学校ごと」「指定」を批判し、「武道の必修化もその流れにある」という。さすがに<朝日>らしい、で済ませておくが、「道徳心を子どもに教えることは必要だが、特定の価値観を画一的に押しつけるようになっては困る。どのように教えるかは教師たちにまかせた方がいい」の部分は、いちゃもんを付けるに値するだろう。
 これまでの公教育は「
特定の価値観を画一的に押しつける」ことはなかったのか?。朝日新聞の虚報・誤報・捏造記事が、「特定の価値観を画一的に押しつける」公教育を推進したことはなかったのか。このことに反省の気持ちを示すことなく「特定の価値観を画一的に押しつける」ことを批判するのは欺瞞だ。
 有り体に言ってしまえば、朝日新聞が支持する「特定の価値観」は画一的に広く教えられる(=押しつける)べきだが、「愛国心」・「道徳心」といった朝日新聞が支持しない「特定の価値観」の画一的押しつけには反対だ、と主張しているのだ。
 朝日新聞において珍しくも何ともない。これをダブル・スタンダード(二重基準)とか「ご都合主義」という。

0381/朝日新聞における「個人」と国家・公共。

 いつ何でであったか、近年に、「国家主義」という言葉を、当然に非難されるべき、悪い「主義」・考え方であることを前提として、何の定義も説明もなく使っている文章を読んだことがあった。「個人」を抑圧・弾圧する「国家」の方を重視する考え方、とでも理解されていたのだろうか。
 だが、むろん、きちんと定義され、説明されないと、「国家主義」なるものをどう評価すべきかは判りはしない。
 偶々月刊現代1月号(講談社、2007.12)をめくって田原総一朗の原稿を見ていたら、冒頭で次のような一文に出くわした。-2006年12月15日に新教育基本法が成立したとき(安倍前首相が国会で成立させたとき)、翌16日の朝日新聞は「『個』から『公』重視へ-国家色強まる恐れ」という見出しをつけて新教育基本法に批判的だった(p.228)
 朝日新聞によると、「『個』から『公』重視へ」が、あるいは「国家色強まる」ことが、すでにそれ自体で批判の対象になるようだ。あるいはこういうレッテルを貼ることで批判を合理化できる、と考えているようだ。
 ここには、「国家」や「公」の介入を受けない自立的『個』人の<自由>の尊重、という戦後日本を支配してきた教条的な個人・国家観がしぶとく21世紀になっても生き残っていることを、確認することができるだろう。
 時代により、状況により、個人と公共・国家のあるべき関係は一様ではない。「国家色強まる」ことが一概に悪いことだと言えるはずもない。朝日新聞は、「国家主義」=悪だという、教条的・単純(かつ幼稚)な「主義」を牢固として維持しているのだろう。
 なお、説明は省くが、「国家」を掘り崩し、骨抜きにしている「主義」には、<個人主義>と<グローバリズム>とがある。朝日新聞の<地球市民主義>は後者の一つ又は亜流で、この二つでもって、朝日新聞は日本「国家」を弱体化させようとしている、というのが私の見方だ。
 話題を変える。今日1/31の読売朝刊には、明日からの統合インターネットニュースの開始を前に、新聞三紙の論説主幹(委員長)の対談が掲載されている。
 竹島をいっそ韓国に譲ったら、とか、新聞はナショナリズム(国家主義?)の道具じゃないんだ、とか叫んだことでおなじみの朝日論説主幹・若宮啓文は、次回の衆議院選挙で冷戦崩壊後の20年の「総決算して、次の秩序に向けた大きな節目」にすべきだと発言している。
 よく分からないのは、朝日・若宮が想定する「次の秩序」とはいかなるものかだ。国会の政党構成の新編成に限ってなのか、国家・社会全体を含む「秩序」なのかも明確ではないが、いずれにせよ、朝日新聞は、将来の日本のあるべき姿とは隔たったところで、<安倍晋三的>あるいは<ナショナリズム的>な動向を(ときには「アサヒって」)その都度潰そうとしつつ、適当に口先だけで綺麗事を言って、経済的利益を稼いで生きていくつもりの新聞社のように見える(将来の日本像が明確でないのは自民党も同様だが、民主党の方がより甚だしい。朝日新聞は民主党レベルかそれ以下だろう)。
 久しぶりに朝日新聞批判を書いた。

0244/原武史・滝山コミューン1974(講談社、2007)を読んで。

 原武史・滝山コミューン1974(講談社、2007.05)の書評文に刺激を受けて何か書いたことがあったが、この本そのものを全読了した。
 東久留米市の滝山団地近くにあった七小(第七小学校)という公立小学校での著者の「特異な」経験体験をノンフィクションとしてまとめたもの。
 「特異な」というのは、日教組の影響下にあったと見られる全生研(「全国生活指導研究協議会」)の「学級集団づくり」を実践した教師が同学年の著者とは別の組を担当していて、同組を中心に学年・学校全体が1974年には(大げさにいうと)「コミューン」化した(その翌年には崩壊した)というもの。
 著者によれば、全生研は1959年に日教組教研で生まれた民間教育研究団体で、「人間の尊厳と個性の尊重、平和と民主主義の確立」とともに「個人主義、自由主義的意識を集団主義的なものに変革する」という「社会主義からの影響が濃厚にうかがえる」ものを目的とし、集団=学級は「民主集中制を組織原則とし、単一の目的に向かって統一的に行動する自治的集団」になるべし等と説いた。
 日本共産党員か日本社会党員か、それともいずれかのシンパだったかは分からないが、これを熱心に実践する教師が実際にいて、著者のいた小学校のとくに児童活動を殆ど「乗っ取った」、という話だ。なお、2004年のヒアリングでその教師は、全共闘運動の影響を明確に否定した、という。
 全体を要約することはしない。この経験は、東京郊外の所謂新住民(団地住民)の子供だけで殆ど構成されている「特異な」公立小学校で、「特異な」教師とそれを支持する親たち(そして少なくとも表向きは生徒たち)によって生じたものと思われ、1970年代の教育について一般化はできない(著者の小学校時代は1969~1974年)。
 全生研の運動はクラスを班に分け、班に異なる任務を与えつつ競争させることがまずは出発点のようだが、私には次の点が印象深い。
 全生研は「議会主義的な児童会・生徒会活動」には批判的で「民主と集中直接民主主義と間接民主主義の統一を追究するなかで児童会・生徒会民主主義を発展させようとしてきた」(全生研文献による)(p.107)。
 上の点を象徴するのが、4-6年生の3年間、同じ生徒の組を担当し続けたという熱心な教師の組の生徒が「代表児童委員会」の委員長等に立候補するときに演説の中で言ったという、「代表児童委員会をみんなのものにする」という言葉だ、と思う。
 抽象的で意味不明で何となくニュアンスだけは分かるという表現でもあるが、これこそ、「民主と集中直接民主主義と間接民主主義の統一
」を目指す言葉だと思われる(著者は明記してなかったと思うが、演説原稿に担任教師は筆を入れていると見られる)。
 そしてまた、ルソーの人民主権論をかじった後だからこそ言うと、この言葉は、委員長その他の役員は児童全体と一体のもの、「代表児童委員会」の意見=児童全体の意見というように両者を同一視したいという意味でもあるだろう。すなわち、児童全体の意見と一致した「代表児童委員会」の意見はルソーにおける<一般意思>なのだ。代議制を疑問視し直接民主主義にできるだけ接近させたいとの言葉こそ、「代表児童委員会をみんなのものにしたい」なのだ。
 私の印象・感想は以上に殆ど尽きる。資本主義的又はブルジョア民主主義的な「代議制」又は「間接民主主義」ではない、児童全員=「代表児童委員会」を追求する直接民主主義の方がより「進歩的」との<思い込み>を全生研および上記教師はしていた、と思われる。ルソーの影響が後年の日本の小学校にも残っていた、とも言える。そしてまた、筆者が比喩的にいう「滝山コミューン」という<全体主義>の被害者として、これを批判的に見ていたというのも、ルソーの人民主権論→全体主義(共産主義)という構造が具体的に証明されているようで興味深い。
 この小学校では著者のいた間は君が代斉唱・日章旗掲揚はなされていないようだ。1960年代の前半に小学校生活を終えた私の小学校ではいずれもなされていた(と思う)。「仰げば尊し」も毎年歌った気がする。5-6年のときクラスが班に分割され班長とかがいたが、任務分掌や競争とは無関係だった。私が5-6年生のときの教師はたぶん「全生研」の「学級づくり」運動とは無関係だっただろう。
 それにしても、私よりも10歳以上若い著者は、小学校時代の記録と記憶をよく残していたものだ。また、著者は学者らしいのだが(専門も経歴も調べていない)、自らの小学校時代(とくに4-6年)の話で一冊の本を出版してしまうことに感心するとともに羨望する。振り返ってみて、余程印象深い「滝山コミューン」生活だったのだろう。
 ないものねだりをすればキリがないかもしれない。東久留米市等の区域は「左翼」、とくに日本共産党が強かったというが、教師の運動やそれを支えた親たちと政党の関係をもっと調べて欲しかった、という気もする。
 筆者は最後に、旧教育基本法のもとで「「個人の尊厳」は強調されてきたのか」と問い、「自由よりは平等、個人よりは集団を重んじるこのソビエト型教育」につき語っているが(p.276-7)、やはり筆者の体験は特異なもので一般化できないだろう。戦後教育において「個人の尊厳
」が強調されすぎたとの私の考えに変わりはない。一方でまた、旧軍隊的又は戦時中の「集団主義」教育が「ソビエト型教育」=<社会主義国の教育>と近似していることも忘れてはならないことだろう。

0191/夫婦別姓・家族-宮崎哲弥・石坂啓。

 フェミニズムは「家」における男による「女」の搾取を糾弾し子どもの利益よりも母親という「女」個人のそれを優先するもので、女性の立場からの戦後的「個人主義」の一つと見てよいだろう。
 宮崎哲弥・正義の見方(新潮OH文庫)p.25-26等は「父母のどっち側であれ、親の姓が終生つきまとう合理的な根拠とはいったい何か」と問いかけ、福島瑞穂を批判して夫婦別姓ではなく「家」と結びついた「姓氏全廃を叫ぶべき」と説いてる。
 「個人主義」を貫くならば、宮崎の言うとおり、なぜ「姓氏」又は「苗字」が必要なのか、という疑問が生じる筈だ。宮崎はさらに「個人主義の原則に立つ限り、人は、自ら決したただ一つの「名」で生きるべきではないか」とも書くが、この指摘は、とても鋭い。
 私は若かりし頃、親から引き継いだ又は与えられた氏名を18歳くらいで本人が変更する自由又は権利を認めることを「夢想」し、何かに書いたこともあった。「個人の尊厳」(憲法13条)というなら、個人の名前くらいは自分で選び又は決定できるべきだ、親が決めたものを一生名乗るべき合理的理由はない、と考えたからだ。いま再び構想すれば、18歳~20歳と期間を限って姓名の変更を認め、その旨を戸籍や住民基本台帳に反映させることとなる(中学卒業後の就職者は16歳まで下げてもよい)。
 だが、上のような主張は大勢の支持をおそらく得られないだろう。「個人主義」とは別に「家」又は「家族」という観念は-「戸主」を伴う戦前的家族制度と結合していなくとも-やはり残り続けているのだ(欧米でも、いやたぶんほぼ全世界でそうだ)。それは親-子という人間関係がある限り、永続する(すべき)ように思われる。
 話を変えるが、改正教育基本法は「家庭教育」にも言及している。昨年11月の某番組で、週刊金曜日編集者・九条の会賛同者の石坂啓(女性)は教育基本法改正前のタウンミーティング問題に関連して「家庭教育が大事だと思うと女性に言わせてましたね。これね、それもありだよなと一見異を唱える人はいらっしゃらないと思います。家も大事だし親御さんたちにも参加してもらって子供の教育を一生懸命にやりますよと見せかけていますが、私はその場にいると異を唱えると思います。というのは、そのように巧妙に(不明)ますが、結局は国が都合のよいように女性であったりお母さんであったり子供への役割というのをもっと色々と強いてくる法律なんです非常に危険だというか、根本から変わるんです、教育内容が。」とコメントしていた。  こんなことを平然とテレビでのたまうフェミニストがいるからこそ、日本の「教育」はおかしくなったのでないか、と思っている。

0131/別冊宝島・日本国憲法特集号の「奇怪」と新潟大学准教授・世取山洋介の「愚劣」。

 一昨日、軽い読み物のつもりで、大和撫吉・日狂組の教室(晋遊舎、2007)と別冊宝島1421・施行60年!ビジュアル日本国憲法(宝島社、2007.05)を買い、前者は夕食までのあっという間に半分程読んでしまった。
 後者が問題で、元イラク先遣隊長・佐藤正久のインタビュー記事があったりするのだが(未読)、全体として何が主張したいのか、どのような観点から日本国憲法の今日的問題点を整理しているのか、さっばり分からない。
 例えば、兵頭二十八・文となっている「シミュレーション小説・日本が攻められる時/沖縄にある日、C国軍が」は、首相が現憲法は無効と声明しさえすれば、自然法に基づく自衛権により「正規の武力」によってC国軍に対抗できるのに、「誰にも理性と度胸がない」から、沖縄の一小島をC国軍が「実力占拠」するのを「指をくわえて見ているしかない」、と最後の方に書いている(p.98)。
 何と、日本国憲法「無効」論に依って書かれているのだ(兵頭二十八の名は知っていたが、現憲法「無効」論者とは知らなかった)。しかも、実際の防衛が現在の法制と自衛隊によってもこうではないだろうと考えられるデマを紛れこませている(本当に軍事専門の人が書いたのかとの疑いがある)。
 と思ったら、木附千晶「教育基本法改正の真の姿」は、日本で教育基本法が改正された頃の、日本が「取り組もう」としているのと「そっくり」の米国の教育改革はジョージ・オーウェルの小説「一九八四年」の世界そっくりでないか、から始まる。そして、日本の教育基本法改正と将来の憲法改正に明瞭に反対の論調で終わっている。
 だが、この一文はとてもまともな「論文」などではなく、上に紹介した冒頭も含めて、ガサツな思考と論理で喚(わめ)いているだけだ。
 その中で新潟大学の「教育法」専攻者としての「世取山洋介助教授」(4月より助→准)のコメントがけっこう長々と紹介されているが、私は大いに笑って(同時に「嗤って」)しまった。
 彼は、例えばいう。現憲法13条の「公共の福祉」を削り「公益及び公の秩序」に代える自民党憲法草案のように改正されれば、「何が「公益」で何が「公の秩序」を決めるのは国会(国)です。つまり、国会の裁量で個人の自由を伸縮できるのです。これでは明治憲法に逆戻りです」(p.105-6)。
 馬鹿ではないか。現憲法のもとでも何が「公共の福祉」であるかは国会が裁量的に判断しており、その「立法裁量」の合憲性は最終的には最高裁が決定する。「公益及び公の秩序」に変わっても同じことだ。それに、憲法の範囲内で国民代表たる国会が制定する法律が「個人の自由を伸縮」しているのは、これまでも今後も、行われてきたし、行われるだろうことなのだ(規制の強化・緩和によって自由も縮小・拡張する)。
 本当にこんな人がいるのかと思って新潟大学のHPを調べて見たら、たしかに、「世取山洋介」という准教授がいた。しかし、法学部ではなく教育人間科学部。出身大学院は教育学研究科で、要するに「法」には素人なのだ。助言しておくが、「教育法」などという専攻を雑誌に記載させない方がよい。また、このような人に話を聞いた木附千晶の立場も自ずから分かる。
 それにしても、この「世取山」某という人は東京大学大学院教育学研究科で学んだようなのだが、この人と執筆者の木附某の教育観・国家観のヒドさは何だろう。教育学もまた、マルクス主義・共産主義・反権力(国家)幻想に相当に冒された学問分野で、そうした傾向を支持する教育関係運動もあるのだろう(木附某氏は教育関係団体関係者のようだ)。
 木附某によると、今の政府が進める「新自由主義的教育改革をひと言で表現するなら「教育の国家統制」である」らしい(p.106)。また、小泉政権下の2005年の「規制改革・民間開放推進3か年計画」によって「日本の教育は、憲法原理と完全に訣別した」、その後「準憲法」としての教育基本法まで「改正」されたのだ、という(p.108)。
 木附某に尋ねてみたいものだ。今の教育のままで放っておいて貴氏のいう「人間性と個人の尊厳のある「自由な国」」(p.109)は生まれるのか、上記の大和撫吉・日狂組の教室が描くような問題は貴氏には一切見えないのか、「教育の国家統制」はなく
「教育の組合(日教組・全教)統制」なら満足なのか、と。
 というようなわけで、日本国憲法「無効」論者と<極左的>国家観・教育観の持ち主の書いたものが同居している、訳の分からない出版物が別冊宝島1421だ、と思われる(全部を読んでいないが、読む気を失った)。
 憲法問題なら売れると思って、適当に編集したとしか思えない。あるいは全体として「左」の印象だが、議論の質は低い。「創刊人・蓮見清一、共同発行人 富永虔一郎、藤澤英一」とは別冊宝島全体についてなのだろうか。とすると、この本(ムック)については「編集・小林大作」、「制作責任者・伊藤俊之」だ。
 「世取山洋介」とともに、この辺りの人は自らを「恥ずかしく」思った方がよい、と思う。

0004/朝日新聞の若宮啓文さん、返答できるなら返答してみなさい。

 朝日新聞のサイトの「コラム」にはまだ、恥ずかしげもなく、2006年12月25日の若宮啓文・風考計「言論の覚悟・ナショナリズムの道具ではない」が載っている。
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 教育基本法に「愛国心」が盛り込まれ、防衛庁が「省」になることも決まった日の夜だった。
 「キミには愛国心がないね」
 学校の先生にそうしかられて、落第する夢を見た。
 いわく、首相の靖国神社参拝に反対し、中国や韓国に味方したな。
 卒業式で国旗掲揚や国歌斉唱に従わなかった教職員の処分を「やりすぎ」だと言って、かばったではないか。
 政府が応援するイラク戦争に反対し続け、自衛隊派遣にも異を唱えて隊員の動揺を誘うとは何事か。
 自衛隊官舎に反戦ビラを配った者が75日間も勾留(こうりゅう)されたのだから、よからぬ記事を全国に配った罪はもっと大きいぞ、とも言われた。「そんなばかな」と声を上げて目が覚めた。
 月に一度のこのコラムを書いて3年半。41回目の今日でひとまず店じまいとしたいのだが、思えばこの間、社説ともども、小泉前首相や安倍首相らに失礼を書き連ねた。夢でよかったが、世が世なら落第どころか逮捕もされていただろう。
 「戦争絶滅受合(うけあい)法案」というのを聞いたことがあるだろうか。
 条文を要約すれば、戦争の開始から10時間以内に、国家の元首(君主か大統領かを問わない)、その親族、首相や閣僚、国会議員らを「最下級の兵卒として召集し、出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実戦に従わしむべし」というものだ。
 いまならまずブッシュ大統領に読んでもらいたいが、長谷川如是閑(にょぜかん)がこの法案を雑誌『我等(われら)』で書いたのは1929年のこと。第1次世界大戦からしばらくたち、再び世界がキナ臭くなり始めたころである。
 デンマークの陸軍大将が起草して各国に配ったという触れ込みだったが、それはカムフラージュの作り話。「元首」と「君主」は伏せ字にしてきわどく検閲をパスした。
 それより11年前、日本のシベリア出兵や米騒動をめぐって寺内正毅内閣と激しく対決した大阪朝日新聞は、しばしば「発売禁止」の処分を受けた。さらに政府糾弾の集会を報じたところ、記事にあった「白虹(はっこう)日を貫けり」の表現が皇室の尊厳を冒すとして筆者らが起訴され、新聞は廃刊の瀬戸際に立たされた。ついに大阪朝日は村山龍平社長らが辞職して謝罪し、政府に屈することになる。
 これが「白虹事件」である。かつて「天声人語」の筆者でもあった如是閑は、このとき大阪朝日の社会部長だった。言論の敗北に無念を抱きつつ退社して『我等』を創刊したのだ。
 こんな古い話を持ち出したのも、いま「言論の自由」のありがたみをつくづく思うからにほかならない。現代の世界でも「発禁」や「ジャーナリスト殺害」のニュースが珍しくない。
 しかし、では日本の言論はいま本当に自由なのか。そこには怪しい現実も横たわる。
 靖国参拝に反対した経済人や天皇発言を報じた新聞社が、火炎ビンで脅かされる。加藤紘一氏に至っては実家が放火されてしまった。言論の封圧をねらう卑劣な脅しである。
 気に入らない言論に、一方的な非難や罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせる風潮もある。それにいたたまれず、つい発言を控える人々は少なくない。この国にも言論の「不自由」は漂っている。
 私はといえば、ある「夢想」が標的になった。竹島をめぐって日韓の争いが再燃していた折、このコラムで「いっそのこと島を韓国に譲ってしまったら、と夢想する」と書いた(05年3月27日)。島を「友情島」と呼ぶこととし、日韓新時代のシンボルにできないか、と夢見てのことである。
 だが、領土を譲るなどとは夢にも口にすべきでない。一部の雑誌やインターネット、街宣車のスピーカーなどでそう言われ、「国賊」「売国」「腹を切れ」などの言葉を浴びた。
 もとより波紋は覚悟の夢想だから批判はあって当然だが、「砂の一粒まで絶対に譲れないのが領土主権というもの」などと言われると疑問がわく。では100年ほど前、力ずくで日本に併合された韓国の主権はどうなのか。小さな無人島と違い、一つの国がのみ込まれた主権の問題はどうなのか。
 実は、私の夢想には陰の意図もあった。日本とはこんな言論も許される多様性の社会だと、韓国の人々に示したかったのだ。実際、記事には国内から多くの共感や激励も寄せられ、決して非難一色ではなかった。
 韓国ではこうはいかない。論争好きなこの国も、こと独島(竹島)となると一つになって燃えるからだ。
 そう思っていたら、最近、発想の軟らかな若手学者が出てきた。東大助教授の玄大松(ヒョン・デソン)氏は『領土ナショナリズムの誕生』(ミネルヴァ書房)で竹島をめぐる韓国の過剰なナショナリズムを戒め、世宗大教授の朴裕河(パク・ユハ)氏は『和解のために』(平凡社)で竹島の「共同統治」を唱えた。
 どちらも日韓双方の主張を公平に紹介・分析しているが、これが韓国でいかに勇気のいることか。新たな言論の登場に一つの希望を見たい。
 日本でも、外国の主張に耳を傾けるだけで「どこの国の新聞か」と言われることがある。冗談ではない。いくら日本の幸せを祈ろうと、新聞が身びいきばかりになり、狭い視野で国益を考えたらどうなるか。それは、かつて競うように軍国日本への愛国心をあおった新聞の、重い教訓ではないか。
 満州へ中国へと領土的野心を広げていく日本を戒め、「一切を棄つるの覚悟」を求め続けた石橋湛山の主張(東洋経済新報の社説)は、あの時代、「どこの国の新聞か」といわれた。だが、どちらが正しかったか。 
 最近では、イラク戦争の旗を振った米国のメディアが次々に反省を迫られた。笑って見てはいられない。
 だからこそ、自国のことも外国のことも、できるだけ自由な立場で論じたい。ジャーナリズムはナショナリズムの道具ではないのだ。
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 やはり若宮啓文という人は「おかしい」。こんな人が論説主幹の朝日も「おかしい」。教育基本法改正・防衛省設置法成立の日の夜、「キミには愛国心がないね」/学校の先生にそうしかられて、落第する夢を見た。」だと。-ウソを書くな。最低限の心得だろう。
 古い話を持ち出したあと言う。「では日本の言論はいま本当に自由なのか。そこには怪しい現実も横たわる。…気に入らない言論に、一方的な非難や罵詈雑言を浴びせる風潮もある。それにいたたまれず、つい発言を控える人々は少なくない。この国にも言論の「不自由」は漂っている」。-ヌケヌケと書いているが、朝日は「気に入らない言論に、一方的な非難や罵詈雑言」を浴びせたことはないのだろうか。朝日の論調のために「つい発言を控える人々」はいなかったのだろうか。そもそも歴史の捏造をし事実の虚報を放って「言論の「不自由」」以前の状態を作り出して、例えば慰安婦問題につき政府(河野)談話まで出させてしまったのはどの新聞社だったのか。若宮さん、恥を知りなさい。
 「100年ほど前、力ずくで日本に併合された韓国の主権…」。-平気でこんなことを簡単に書けるとは呆れる。若宮さん、歴史を勉強しなさい。竹島を「いっそ…韓国に譲ってしまったら、と夢想する」と書いた有名な(いや悪名高い)050327コラムを、韓国の某氏も「共同統治」を唱えたと言い訳するが、その人は韓国の大統領・首相・外交通商相それとも大手新聞論説主幹のうちいずれに含まれる人なのか。はっきりさせて貰いたい。一若手学者にすぎないではないか。
 ほぼ最後にこう言う。「自国のことも外国のことも、できるだけ自由な立場で論じたい。ジャーナリズムはナショナリズムの道具ではないのだ」。-この文に彼の真骨頂が表れている。日本人ではない「無国籍」者であることの宣言だ。かつ、ナショナリズムに一切の限定を付けずに自分=ジャーナリストは「ナショナリズムの道具ではない」という。これは、いかなる意味においても「ナショナリズム」には反対する、との宣言だろう。若宮さんはきっと北朝鮮拉致被害者家族会に何ら共鳴しない「冷酷」な人物に違いない。このコラム欄は今回で最後らしい。朝日新聞の減紙のきっかけが少なくなって、朝日には喜ばしいのではなかろうか。
 週刊新潮1/18号(新潮社)によると、若宮啓文さんは社長を狙っており、一方現秋山社長は若宮を切ると後任がさらに左派になる怖れがあり躊躇しているのだ、とか。恐るべし、いや驚くべき朝日だ。東京大学卒かつ長年の経験で、あの程度の文章しか書けない人物が、社長を狙えるとは!!
 万が一、上の「ジャーナリズムはナショナリズムの道具ではない」との言明が適切だとしても、次のようにも語って貰いたい。「ジャーナリズムは左翼運動の道具ではないのだ」、「マルクス主義及びその亜流の道具ではないのだ」、「空想的・観念的平和主義の道具ではないのだ」、「国家を忘れた地球環境主義の道具ではないのだ」、「フェミニズム(又はジェンダー・フリー運動)の道具ではないのだ」。これらのどこに誤りがあるだろうか。若宮さんは、何故、なぜ「ナショナリズム」のみを問題にするのか。返答できるなら返答してみなさい。朝日新聞社の言論の「政治」的偏向又は極偏は、このコラムで典型的に吐露されている。

-0070/山崎正和―平和を守るために何をできるかを考えよ。

 本の他に新聞・雑誌、さらにテレビ番組についても感想等を書いていくと、とても約1000字では足りず、時機を失してしまう。かといって本格的な「ブログ」サイトを維持していく時間的余裕はなく、たぶん能力もない。
 10月29日(日)午前のサンプロの録画の後半を観たが、朝日が「安心」するような安倍首相の「君子豹変」につき櫻井よしこや岡崎久彦に不信又は戸惑いを番組制作者(テレビ朝日だ)は語らせかったのかもしれないが、見事に失敗していたのが面白かった。中川昭一の核武装検討発言も、それと矛盾するかのごとき安倍の発言をフリップでいったん示していながら、塩川、山本も含めて全く当然のことという雰囲気になった。あとで制作者と田原総一朗は少しは後悔したのでないか。スタンスは全く同じではないが、櫻井と岡崎の発言の趣旨はよく分かった。いずれも了解の範囲内だ。
 それにしても、北朝鮮の核実験に関する諸々の問題、周辺事態法適用問題、教育基本法改正問題等もあるのに、「村山談話」と安倍の「歴史認識」の変化?といったテーマを設定する(そしてひょっとして安倍に厭味を言おうとする)とは、テレビ朝日も田原も、いま何が大切な問題かを忘れているのでないか。
 読売1~2面の山崎正和の論稿は予想外に非常によい。この人のは昔、柔らかい個人主義とかを少し囓った程度だが、ここまでハッキリと書ける人とは思ってなかった。
 「ほんとうの危機はこれからである」、法的問題も含めて議論すべき課題が多々ある、憲法のいう「『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼』しようにも、それのできない国が目前にある」、「『国の交戦権』を否定したくとも、相手がかってに宣戦布告をしたと認定してくる状況がある」、「『水と平和はただ』という通念を改め、平和を守るために一人ひとりが何をできるかを考えなければならない」、「治安のために市民的自由をどこまで犠牲にできるか、論議を深める必要がある」等々。その通りだ。
 今までとは質的に異なる安全保障環境の時代に入っていることを多くの人々が認識すべきでないか。リアルな把握ができず、観念と言葉を弄び、自分たちの面子がとりあえず立てばよいと考えている(朝日のような)人々を除いて。産経社説は<従軍慰安婦強制連行>肯定の93年「河野談話」の見直しを主張する。この中の「一部マスコミ」は朝日新聞で、これまた内容的に異論はない。

-0064/高山正之・歪曲報道(2006)-マスコミの広告主は? 

 高山正之・歪曲報道(PHP、2006)を一昨日読了。
 朝日等々の「偉業」のいくつかを新たに知ったし、「義憤」めいたものも改めて湧いた。
 逐一紹介するとキリがないが、2005/05/18のテレビ朝日・報道ステーションではかつての北朝鮮帰還事業を「壮大な拉致」とする「当時の関係者」発言に対し、古館伊知郎は日本での「迫害」と「差別」で「たまらず北に帰る気になったのでしょうか」と言い、朝日新聞社派遣?の加藤千洋はしたり顔で「そうです」とだけ答えた、という(p.94-95)。
 馬鹿言っちゃいけない。朝日も<北は地上の楽園>と喧伝したマスコミ煽動者の一つでないか、と書きたくなる。
 それにテレビでは「スルー」とか言うらしいが、例えば中国に都合の悪いことは書かないという、「ボツ」化・「ネグり」という消極的な虚報も朝日はしばしばしているようだ。
 TBSへの怒りも甦る。知らなかったが(又は忘れたのか)、「成田闘争」の頃、中核派のために「警察の検問を受けない報道車両」で武器を運び込もうとした、という(p.47)。
 TBSはオウムの殺人や過激派の暴力の「協力者」だ。発言内容の一部カットとかの「偉業」もよく知られているが、ニュース23の放送元?であることも含めて、今も放送局でいられるのが信じ難い。
 というような感想も抱かせる本だが、各件の内容は詳細ではないし、少なからず各件の(社説等の)年月日が記載されておらず、資料として用いるには難がある。<朝日新聞「偉業」大全>といった詳細な記録集をどこか・誰かが発行しないだろうか(朝日に限らなくてもいいが)。
 衆院補選の翌日23日に菅直人・亀井静香・辻元清美の3人が同じ選挙カーの上に並んで立っている映像を見た。
 のちに思い出してしまったのは、そのグロテスクさのゆえにだろう。元警察官僚で当初は自民党福田(三塚)派だった亀井が、いくら小泉憎しといえども社民党と「共闘」することはないのではないか。
 詳細な知識はないが、政治「思想」は安倍晋三とも似ているかもしれない、弁も立つ有能な政治家(のように見える人)がこのまま「働き場」をなくすのは勿体ない。余計かもしれないが、国民新党代表代行とかに縛られて民主党候補を支持しているようでは将来は暗い。
 今日の読売新聞社説は、教育基本法改正案の審議に関して他の野党(共産党・社民党!)と同一行動をとる民主党を「かつての社会党と何も変わらない」と厳しく批判する。「日本を愛する心」を盛り込んだ改正案をもつ政党がいったい何をしているのか。

-0039/戦後教育の最優等生・「保守的」立花隆。

 古いが読売新聞9月5日25面-「8月末、米紙の中国人助手が懲役3年を宣告され、シンガポ-ル紙の香港駐在記者にも懲役5年の判決が下された」。
 本日読売3面-「自由主義社会の『有害』なサイトを遮断し、検索語句を制限しているほか、膨大な数のサイバ-警察が…不穏な動きを検索、追跡しているという」、「公安当局は今月6日から8日にかけて、…320以上の違法サイトとネットコラムを閉鎖、1万5000の『有害』情報を削除した」。
 いずれも中華人民共和国に関する報道だ。
 かかる中国の現在を日本の1960年~1964年あたりの時期に相応していると「直感」したのが、あの「大評論家」・立花隆だった。2~5歳に北京にいたとはいえ、荒唐無稽・抱腹絶倒等々と表現できるスゴい分析だ。
 立花は、小泉に対して、中・韓へのひざまずいての「ドイツ」式謝罪も要求する(同・滅びゆく国家p.204等、2006)。杜撰にも中・韓の区別もしていないが、戦後補償・「謝罪」に関する日独比較の基本文献をこの人は読んでいないのでないか。
 この人は、皇室問題では愛子様、女系・女性天皇を支持する(p.112~)。執筆時期から見て宥恕の余地はあるが、しかし、皇太子夫妻が第二・第三子を望まれるなら「高度生殖医療技術の利用に正々堂々と踏み切るべきだ」、「不妊治療に踏み切れば、対外受精で…妊娠することはほとんど約束されている」とほとんど知人夫妻にでも言うがごとく「助言」するに至っては、どこかおかしいと私は感じた。
 上のように活字で明記してしまう感覚は国家・国民統合の「象徴」に対する敬意の欠落の表れで、さらにおそらくは天皇・皇室という「非合理」なものを「国民の総意」で廃止したいというのが彼の本音だろうと推測される。
 立花は教育基本法の改正にも憲法の改正にも反対の旨を明言している。
 勝手に推測するに、「戦後民主主義」のもとで立花(橘隆志)は十分に「成功した」、今のままでよい、という「保守的」気分があるのでないか。現教育基本法の条文を抜き出してこれで何故いけないのかと問う姿勢からは、(中国には存在しない)表現の自由、「個人主義」、反体制的風潮の存在の容認といった「戦後」の恩恵を彼は十分に受けたと感じていることを示しているように思う。
ギャラリー
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