「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 むろん秋月瑛二の概念の使い方で、一般的ではないことは承知している。この問題には別に触れる。
 日本・天皇の歴史やこれに関連して日本の「宗教」、したがって、神道や仏教、そして当然ながら「神仏混淆」・「神仏習合」等々に、気ままに言及する。
 立ち入らないが、最近に何かで、天皇の「代替わり」、つまり新天皇就位の際には(おそらく明治維新以前の「仏教伝来」したある時期以降は)、<仏教式の>儀礼も仏教寺院で執り行われていた、という文章を読んだ。
 江戸時代の幕末までは、強弱はあれ、またそれぞれの役割分担があったとはいえ「神仏混淆」だったとすると、それも当然だっただろう。
 大嘗祭は「神道」式だと言われているが、神道といっても、その中には「皇室(天皇家)神道」という一種の分類も把握できるのではないか(しかも時代によって儀式内容等は一定していない)、という「しろうと」考えを持っている。
 また、そもそも新天皇就位(・皇位継承)に際して、「仏教」が全く無関係だった、ということは(明治期以降よりも長い)日本の歴史からするとあり得ないだろう。
 日本会議派諸氏が「本来は」とか言いつつ、天皇関連のことを語ったり、主張していたりしても、<本来は>という日本の歴史・伝統が明治期以降に新たに形成されたものもあるのだから、十分に注意して、騙されないようにしないといけない。
 近年の類似した典型例は、天皇は「終身在位」だとする櫻井よしこ等々の主張で、櫻井よしこはこれを明治期以降だということくらいは知っていて、「明治の元勲たち」の知恵に学ぶべきだとした。その際に、明治天皇即位後にすみやかにそうになったかのごとく理解される書き方をしていたが、実際の旧皇室典範は旧明治憲法の施行とともに策定されたのだった。
 この櫻井よしこも、江崎道朗と同様に、なぜか「聖徳太子の憲法十七条」を重視して、1868年の「五箇条の御誓文」以前で最も大切なもののごとくこの聖徳太子のものに論及している。
 他の日本会議派の者の文章にも、同種のものがある。
 これはいったい何故なのだろうと感じ、これら二人が自分で考えたり「発見」 したりした筈はないので、彼らなりの「経典」・「教典」的な指導的文献があるのだろう、と想像している。
 こんなことも、この連載?を始めようかという気になった、ごく小さなきっかけだ。
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 京都市に現在でも二条城の南にある「神泉苑」という寺院は、そこが発行している小冊子内によると、平安京創建時より「洛中」に現存している、東寺(教王護国寺)とともに数少ない二つのうちの一つらしい。
 その小冊子内の地図・図面と説明にとりあえず従うと、かつて平安京造営時は内裏の東南に「神泉苑」の大きな一画があった。これは別の本でも見て、その古さと往時の広さに驚いたことがある。
 京都の街の(中心部の)「通り」は現在でもかなりの程度、平安時代(平安京造営時以降)の道路区画あるいは道路にかかる「都市計画」の影響を残している。8-9世紀以降、今で1000年以上経っているので、このこと自体も驚くべきことではある。
 上の小冊子によると、当初の神泉苑は、東西は「大宮」通りと「壬生」通りの間、南北は「三条」通りと「二条」通りにまで及ぶ。
 これは、現在でも(!)ほぼそのまま区画としては残っている東寺(教王護国寺)と全く同じだ。現在の東寺(教王護国寺)は東西は「大宮」通りと「壬生」通りの間で、上と同じ南北は「九条」通りと「八条」通りの間で(数字でほぼ推定できるように各「条」の間で)「三条」通りと「二条」通りの間の懸隔と同じ(洛南高校や塔頭寺院を含む)。但し、北端の八条通り沿い等は宅地化されていて、往事の90パーセントくらいか。
 現在の東寺の区域(境内)を想像すると、現在の神泉苑はそれに比べて大幅に狭くなっている。
 一般の地図を見ると、まず南北は「御池」通りと「押小路」通りとの間に狭くなっている。
 かつての「三条」と「二条」の間はまず二つに分かれ、それぞれがさらに二つに分けられて、間に三つの通りがあった(名称は現在と同じではない場合があるようだ)。上の二つの旧<大路>間は三つの通りによって四つの区画に分けられていたことになる。そして、南から(現在は)「姉小路」、「御池」、「押小路」各通りなので、現在の「御池」通りと「押小路」通りとの間というのは、かつての「三条」と「二条」の間の四分の一になる。
 つぎに東西はきちんとした現在の「基幹」道路にすら沿っていなくて、東は「大宮」通りよりも西、西は「壬生」通りよりも東に、区画の境界がある。
 かつての(平安京・「都市計画」図面による)「大路」は上に触れたように、東西・南北ともに四つの区画に(三つの「小路」等によって)分けられていた。
 それぞれを「一コマ」と言うとすると、かつては、神泉苑も東寺も、東西は2コマ、南北は4コマあった。
 こういう表現の仕方を採用すると、南北は現在の東寺はほぼ4×0.9コマであるのに対して、現在の神泉苑は(「御池」通りと「押小路」通りとの間の)1コマしかない。
 東西は、現在の東寺は2コマを維持しているのに対して、現在の神泉苑は1コマ分もなく、1×0.8コマくらいだろう。
 往時は南北×東西が4×2=8だったとすると、ほぼ、現在の東寺は3.6×2コマ、現在の神泉苑は1×0.8コマになる。つまり、7.2に対して0.8しかない。
 つまりかつては東寺とほぼ同じ広さを誇った?神泉苑は現在は前者の9分の1くらいの広さしか持っていないことになる。
 これはもともと、神泉苑はきちんとした独立の寺院等(いわば宗教法人)ではなくて東寺の「預かり」地とされたこと(正確な言葉ではたぶんない。この由緒からだろう、現在の神泉苑の宗派は「東寺真言宗」だ)、北に秀吉により<聚楽第>が造営され、さらに家康がその南に<二条城>を建造したことによって(聚楽第も破棄されたが)、神泉苑の区域も相当に減じられたこと、によるのではないか、と「しろうと」は推測している。
 なお、余計なことを書くと、聚楽第の建築物の一部が竹生島神社(滋賀県・琵琶湖内)で使われて、今でも残っているらしい。実際にこの神社で見たはずだが、そのときはこの知識がなく、説明書き・掲示もまともに読まなかった)。
 さらについでに。朱雀大路(現在の「千本」通りの位置だとされる)のほかに、大路とか小路で道路の横幅が異なっていたようなので、単純に計算できないのだが、「しろうと・歴史好き」の地図の検討によると、1コマ(基幹道路間の距離)は<約135メートル>だ。京都御所の広さもこれでおおよその見当はつく。そして、間違っていると思われる御所の南北・東西の距離を記載している書物もある(御所は、東西が「寺町」と「烏丸」の間の5コマ、南北が「丸太町」と「今出川」の間のおよそ10コマのように思える)。
 さて、このように古く、かつかつてよりは狭くなった神泉苑だが、「くろうと」には著名なことであるらしいのは、ここで(日本で)初めて<御霊会>(ごりょうえ)が催された、ということだ。
 これは<怨霊>に、あるいは<怨霊信仰>に関係する。<御霊会>とは、いわば<怨霊>封じ、<祟り>封じの儀礼・儀式、あるいは宗教的?行事だからだ。
 上の小冊子によると、863年(貞観5年)。今から1150年余前という、気の遠くなるような?前の話。
 この「怨霊」関係の話題には、かつてから関心がある。
 人間は、日本人も、「理性」、「理屈」だけでは動かない。<死後の霊魂>の「存在」を感じて、行動することもある。自分がそうだ、というのではない。ヒト・人間、そして日本人の「心」、「精神」あるいは「感性」というのは面白いものだ、と想うことの一つであるからだ。第1回は、ここまで。