レフとスヴェトラーナ、No.25。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.139〜p.148。一部省略している。
 ——
 第7章①。
 (01) スヴェータが離れた後すぐに、ペチョラに冬が来た。
 レフには、この二つの出来事は結びついていると思えた。
 10月13日に、スヴェータにこう書いた。/
 「今夜、初雪が降りました。
 2日間地面は凍ったままで、全てが突然に冬になりました。
 書くことができなかった。…
 冬自体のせいではなく、スヴェータ〔「光」〕がいないためで、これは冬と一緒に生じました。
 冬は無感情です。
 思考は、明敏さ、活発さ、刺激を失い、衰退しています。
 時間すらゆっくりと進み、白い広がりの中で凍っています。」/
 レフの気持ちはスヴェータの訪問で高まった。
 しかし、彼女と別れて、以前よりも悲しくなった。
 どれほど孤独だったのかが明らかだった。—彼女なしで今はどう生きなければならないのか。
 別れて6日後に、スヴェータに書き送った。
 「スヴェティンカ(Svetinka)、きみについて考えるほど、きみの顔をますます忘れる。
 僕の想像の中できみを想い描くことができない。ーきみをほんの少しだけ見る。
 涙を流して泣きたいと思う。」
 自己憐憫はレフにはないものだったが、彼は明らかに苦しんでいた。
 書き続けた。
 「さあ、これで十分だ。
 もうめそめそして泣くのはやめる。本当は、僕のしたいことは、スヴェータ、形式的な方法や親密な方法などの全ての書き方で、きみの名前を書くことなのだけれど。
 何とかして、生き抜こう。」
 (02) 3週間後、レフはなお、解放されるという希望を諦めた自分の運命を受容していた。
 「きみはかつて、希望をもって生きるのと希望なしで生きるのとどちらが易しいかと訊ねた。
 どんな希望も呼び起こすことができない。でも、希望なしでも静穏に感じている。
 少しばかりの論理と観察では、幻想の余地は生まれない。
 こんなことを書いた訳が分からないけど、こう書いたのだから、幻想の余地を生もう。
 これは、僕が正確に何を、どのように感じているかではない。でも、今ここでは、何も伝えることができない。ー考えるのは必要だが、考えない方がはるかによい。」/
 しかしそのあと彼は、別の手紙で、幸福についての思い、スヴェータが彼とともにいたときに再発見した感情を示した。
 彼の考えを促進したのは、叔父のNikita とその妻のElizaveta は軍事休暇中の息子のAndrei が訪問して失望した、という報せだった。
 「人々は稀にしか利用できず、それ以上に稀にしか自分たち自身の幸福に気づくことができない、というのは自明のことだ。
 きみ自身を外から見て、ー直感的にではなく自覚的にー自分に報告するのがときには必要だ。
 今僕にあるのは幸福だ、と言おう。かつてなかったほどで、これからのどんな変化も、たぶん悪い方向にだろう。…
 運命と自然に、感謝している。きみに、僕自身に。与えられた幸福を感じることができたのだから。過ぎてしまっていたときだけではなくて、あのときに。」
 (03) レフは、労働収容所の日常の仕事へと落ち着いた。
 12月初め、人員の変化が発電施設であった。
 古い主任で元受刑者のVladimir Aleksandrovich が、町の中央発電所へと移動した。
 代わりに配置されたのはBoris Arvanitopulo で、やはり元受刑者だった。
 レフは二人ともに、うまくやってきた。
 1938年に逮捕される前は有望な経歴をもつ電気技師だったAleksandrovich は、大酒飲み、感傷的タイプで、一人娘の死を嘆き悲しみ、経歴を失ったために自分を憐れむ傾向があった。しかし、レフの見方では、「善良」で、「教養があった」。 
 Aleksandrovich は、妻のTamara と一緒に、工業地帯内部の居住区画に住んでいた。
 彼は、レフのために手紙を密送(smuggle)した、自由労働者たちの一人だった。
 また、衣類やスヴェータがモスクワから送るその他の家庭用具と交換に、レフに金を与えることにもなる。
 Aleksandrovich が町の発電所に移ったとき、彼は加わるようにレフを説得しようとしたが、レフは申し出を断った。スヴェータに説明したように、「僕はここにいる方が安全だ」というのが理由だった。
 レフは、新しい上司のArvanitopulo を好んだ。この人物は「聡明で、素敵で、教養があり過ぎでなく、分別がある」。
 収容所当局は、北の森に新しく開設された第四入植地区へと収監者たちを送っていた。
 レフは、この移送に全く選ばれたくなかった。今の仕事にとどまれるならば、配置換えされたくなかった。
 (04) 彼はスヴェータに書いた。
 「工場に少し変化があった。
 第四入植地に送る者が選ばれている。そこ(15キロ)の途上に木材を運び建設するためだ。そして、彼らの代わりに、女性たちがここに到着していて、その数は増えるばかりだ。
 彼女たちは第三入植地区に入れられいる。
 そのうちある程度は、もう作業場で働いている。」
 レフがこんなに多数の女性を見るのは久しぶりだった。—戦争中にいた収容所には、別に女性収容地区があった。そして、手作業を強いられているのを見て、彼は「不安な感情」を持った。
 彼の女性観の中には、今なお、戦前の尊敬を示す態度やロマンティックな礼節さが混じっていた。
 こうした女性たちに話しかけることは、さらに面倒なことだった。
 レフは、スヴェータにこう報告した。
 「ここに着いた女性たちの多くは、どこ(の労働収容所や流刑入植地)から来たかを、恐れながら話題にしている。
 恐怖なしでそれらの場所を思い出せる少数の人たちは、観察者の気持ちを掻き立てる力を持っている。恐怖でないとしても、本能的に不安な感情をだ。
 見るのは、とても痛ましい。」//
 (05) スヴェータは、ペチョラから戻って、しぼんだような気持ちだった。
 たぶん彼女は、レフと逢ったことの情緒的影響を感じていた。—レフが警告していたような結果だった。「他の人々は幸せでいるときに」、逢うことで「そこで幸せでいるのがより困難になるのではないか」、とレフは懸念したのだった。
 (06) スヴェータは、忙しくし続けることで、別離に対処した。
 仕事に集中した。心はそこになかったとしても。
 彼女は、Tobilisi とErevan の工場を検査した。モスクワ・ソヴェトの地区選挙の運動をした。労働組合の会合で講演した。研究所の壁新聞を編集した。新人研究員の研修をした。博士論文を執筆した。論文を翻訳した。フランス語と英語のレッスンに出た。合唱で歌った。ピアノを練習した。そして、数学クラブを組織した。
 レフには、こうした彼女の姿を思い描くのは困難だった。
 1948年2月3日、彼はこう書いた。
 「きみのことを考えるとき、自由になっていつもきみのことを思うとき、ある状況でだけきみを明瞭に見ることができる。
 何かをじっくり考えた後、きみが目を向けて突然に答える姿。
 誰かに話しかけながら座っている様子。
 寝ている姿(おおよそにしても、きみは想像できないだろう !!)。
 す早く自分の髪を結んでいる様子(僕には理解できない技術だ)。
 でも、きみの声をほとんど思い出すことができない。—ときたまの笑い、ある語句、そしてきみの口調だけだ。
 恐怖があって、想像しても、よく知らない環境にいるきみを思い描くことができない。悪くなる以外にはない、全く良くない何かが起きるのではないか、という恐怖からだ。
 (07) スヴェータには、レフのための多数の知らせがあった。
 政府はルーブルの価値を10分の9に切り下げ、配給制を廃止した。
 <以下、略>
 (08) スヴェータはこの新しい報賞〔給料の上昇—試訳者〕を、小包をもっと定期的に送ることで、レフや彼の仲間の収監者たちと分かち合いたかった。
 レフが抗議しても、聞く耳を持たなかった。
 〔1948年〕3月30日に こう書き送った。
 「私の大切な人、お馬鹿なレフ、来年まで何も必要がないと、あなたは言えるの? 乾いたパン皮と同じ。…
 私がジャム付きのおいしいお茶を飲みながらここに座っておれると、あるいはミルクを飲みながらビスケットを齧っておれると、そしてあなたに何かを送ることを全く考えていないと、本当に思っているの?」//
 (09) レフは食料を送ってくれることに抗議し続けたが、病気の友人や収監者たちのために医薬品を求めた。
 Strelkov はまだ胃痛で苦しんでいた。スヴェータが医師の友人であるShura から診断を受け、適切な医薬品を送れるように、レフはこのことを彼女に詳細に説明していた。/
 「患者は49歳で、概して陽気な気質をもち、若く見える。…
 1939年以降、ヘルニアに罹った(ガチョウの卵の大きさ)。
 1920年に胸部を撃たれた。見れば分かるように、5センチの射撃口の傷痕が右の乳首下にあり、出た際の4センチの傷痕が同じ右の肋骨の間の脊柱近くにある。
 1947年10月、胃やその周りの鋭い痛みで、定期的に苦しみ始めた。— 七番と八番の肋骨の間の平らな所に二、三本の指の幅のバンドを着けている。それは中央からだいたい手のひらの幅の右腕横から始まり、中央から左に二、三本の指の長さの所までつづいている。…
 痛みは強烈で、鋭く、しつこいもので、休みなく8〜14時間つづく。
 痛みがあるとき背中を下にして横たわっていると、痛みが増す。
 膝を胸部にまで握り寄せると、痛みが和らぐ。
 彼のふつうの食事は、(最近の数年間は)つぎのようだ。新しい黒パン、良質大麦から取った薄いスープ、精白大麦かオートミールと塩、水付き。全く同じ「成分」だがはるかに薄いカーシャ。茶と砂糖付きかなしのいずれかのコーヒー。
 こうした食物の中で、新しいパンだけが痛みをもたらす。…
 彼の食事を変える機会は、ほとんどない。」/
 スヴェータは、Shura からの診断書を付けて返書を送った。Shura はモスクワ第一病院の医師たちに相談し、最も高い可能性としては彼の肝臓に問題がある、ということに同意していた。 
 彼女はまた、一揃いの薬品、肝汁の標本を採取するための検査具、および食べ物に関する助言を送り、かつ乾いた白パンを送ることを約束した。//
 (10) レフの寝台仲間のLiubomir Terletsky も、病気だった。
 彼は壊血病に罹っていた。それは、労働収容所での8年間の結果だった。そして、精神的にも弱っていた。
 <以下、略>
 (11) 1948年5月、やはり体調の悪かった、Aleksandovich の妻のTamara が、医師に会うためにモスクワにやって来た。
 スヴェータは首都で、そしてペチョラへの帰りについて、Tamara を助けた。また、レフの友人たち用に集めた薬箱を渡した。
 (12) スヴェータ自身の体調が、良くなかった。
 体重が減り、よく眠れず、苛立つ感情をもち、涙もろかった。—これらは全て、抑鬱状態の徴候だった。ソヴィエト同盟ではそんなことについて、誰も語らなかったけれども。この国では楽観主義に立つのが義務的で、問題を抱えた人々は、自分で頑張って、その問題と折り合いを付けるのが求められていた。
 Ivanov 一家〔スヴェータの家ー試訳者〕は知り合いの中に多数の医師があり、スヴェータはその医師たちの多くに会いに行った。
 医師たちはみな、問題は身体的なものだと推測した。
 血液検査をし、甲状腺肥大を見つけたと考えた。そして、内分泌科にスヴェータを送った。そこの医師は、ヨードとBarbiphen(フェノバルビタール)を与えた。
 しかし、誰も、彼女の感情の状態について訊かなかった。
 スヴェータは、医師たちが言ったことをどう理解すればよいか、分からなかった。
 身体上に何か悪いものがあるのか否かは、不確かだと思った。
 分かることはただ、体調が良くないと感じ、またそう見える、ということだった。
 レフに、こう書き送った。/
 「内分泌科の医師は、疑いなく甲状腺の活動の増加が見られる、と言いました(頭痛、発熱、心臓痛、体重減少、神経過敏、等々。私の眼の、ある種独特な輝きを含む。—私の見方ではたんに発熱が理由なのだけど)。
 こんな診断で、私は幸せなのでしょう。—本当に、不明確なのは嫌いです。
 純粋なヨード錠剤を処方してくれました。ヨード・カリウム、Barbiphen、ブロム・カンフル、そしてカノコ草抽出剤と一緒に服用するように。
 私は20日間それらを飲まなければならず、そのあと10日間は休み、またつぎの20日間は服用しなければなりません。そして、また行きます。
 今はカノコ草抽出剤がなくて治療を始められないことを除けば、全ては順調です。
 今日また医師に会いに行って、検査結果を渡し、内分泌科医師への訪問についてその医師に告げました。
 彼は私のSed 率に、本当に驚いていました。〔原書注記—Sed 率とは赤血球の沈降(sedimentation)割合。〕
 その医師はたぶん、私の疾患の全ての原因は神経にあると考えたでしょう。でも、神経だけではSed 率は増加しません。
 彼は、見下すように、内分泌科の処方箋に言及しました。「それらを服用するのがあなたには良い。だが、私の意見では最も重要なものではない」(何が最重要なものなのか、言わなかった)。
 「私の助言は、夏まできちんと鱈油を摂ることだ」(それでも助けにならなければ?)。
 私は体重を測る目盛りが分かりません。それで、私は現実に体重を減らしているのか、それとも体重減少は結局は他人の主観的意見なのかを、客観的に確認することができません。
 前よりも痩せていないと、私には思えます。去年の夏にはもっと痩せていました。でも、私の顔がやつれていると見えるのは本当です。これは実際、私に似つかわしくなくて、みんなが嘆息して驚きます。
 『どうしたの?』
 Khromnik 〔原書注記—1943年に彼女が働いていたSverdlovsk 近くの研究所〕に通っていた頃はどうだったかと(魅力的な女の子)、そして今はどうなっているかと、前でも後ろでも話しています(明らかに、今は年とってぼろぼろだ、醜い老女になったと示唆している)。」//
 (13) レフは、スヴェータがどう感じているかを語ることのできる唯一の人物だった。
 1948年2月、ペチョラから帰って数週間後に、スヴェータは彼にあててこう書いた。
 「私の大切なレヴィ、とてもあなたと一緒にいたい。でも、手紙すらもらっていない。
 水面に向かって浮き上がろうと、そして怒るのはやめようと努めています。
 『できない』という言葉が、私の語彙の中に再び出現しました。
 幸福であるために必要なものを客観的には持っているのに幸福ではない、そういう人々を見るのに耐えることができない。
 そんな人々に共感することはできない。
 辛辣だったり苛立ったりするのを、やめることができない。
 Irina が土曜日に電話をかけてきて、その日にLosinka へ行こうと誘いました。でも、断りました。
 友人たちが提供する慰みを受け入れることができない。
 私には必要か、必要でないか、のどちらかです。
 再びもう一度、全ては白か黒かです。
 でも、『できない』は、『したい』の一語だけで説明することができます。
 私の内にある全てが固くなっていて、それを止める術がありません。
 こんな訳で、Irina に厳しく対応しました。そして、受話器を掛けて、泣き始めました。」//
 (14) レフに手紙を書くことは、スヴェータの抑鬱状態からの捌け口だった。
 彼は、彼女の気分を理解した。
 3月2日、スヴェータは彼にあてて書いた。
 「N. A.(Gleb の母)が先日電話をかけてきて、元気かと尋ねました。私は悲しみを隠して、元気よと言いました。
 でも、本当は、この落胆した気分で自分をどう処理すればよいのかすら分かりません。
 レヴィ、私の大切な人、ときどき乱暴な手紙を書くことがあっても、自分には何の正しさもないことは分かっている。
 でも、あなた以外に、他の誰が一緒に泣いてくれますか?
 あなたに宛てて書いていると、緊張が和らぎます。
 そう、もう一度言う。レヴィ、こんな手紙を受け取っても、怒らないで。
 ともあれ、あなたがこの手紙を受け取るまでには、私は今の気分ではもうなくなって、愉しみに向かって跳び上がっているでしょう。
 私の大切な人、これでいい?
 あなたを怒らせたり、苦しみを大きくするようなことは決してしません。
 この数日間続けて、嘆き悲しんでいました。就寝するときだけではなく、朝早く目覚めるとすぐに、また昼食前も、午後も。
 レヴィ、最も重要なことは、最も重要なこと。そう、あなたは、それが何か自分で分かっている。/
 レヴィ、私たちは互いに悪いことをしているとは感じないようにしたい。また、重要なことのためには互いに許し合いたい。重要なことでなければ、怒らないようにしましょう(矢面に立つのはいつも最も親しい人たちだけれども)。」//
 (15) スヴェータは、自分の抑鬱が彼が収監されていることと関係があるという考えを、レフに抱かせたくなかった。
 彼は、そうだとして十分に対処していた。
 将来にわたって彼を助けるよう強くなければならないことを、スヴェータは分かっていた。
 彼女はその手紙の多くで、気持ちが落ち込んでいる別の原因について語った。
 レフに対してこう書いた。
 「抑鬱状態になると、それが終わるのを待ちます。
 なぜ一月がとても辛いのか、分からない。
 たぶん一月は一度に幸せな月だからでしょう。ママの誕生日、クリスマス、そして新年。
 たぶん新年の前だから、体調が悪いと感じています。」
 しかし、スヴェータの抑鬱状態は、彼女の母親の誕生日とは何も関係がなかった。関係があったのは、彼女とレフが切り離されているという事実こそだった。ときに彼女は、そのことを行間で明らかにした。/
 「全種の薬を飲み込んで(比喩的な意味でなく、本当の薬)、泣き方を忘れました(比喩的意味のものを飲む必要があれば、その用意はあります)。
 最近は、あまりよく眠っていません。たぶん、私たちの部屋は換気が悪いからです。—夜は外が寒くて、パパが隙間風を嫌がるので、窓を閉めたままにしています。
 私の小さな窓は、どんなにしても広くは開きません。
 あなたを夢の中で、少なくとも5回見ました。
 たぶん、あなたの判決期間が終わるのが現実的になって、近づいているからでしょう。
 私が今はあなたに逢いに行こうとしないのは、たぶん迷信です。でも、何らかの理由で秋まで待たなければならないでしょう。ともかく、その方がよいかもしれない。」//
 ——
 第7章①、終わり。