秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

批判理論

2011/L・コワコフスキ著第三巻第10章第2節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第2節・批判理論の諸原理(principles)②。
 (7)分かるだろうように、「批判理論」の主要な原理はルカチ(Lukács)のマルクス主義だ。但し、プロレタリアートがない。
 この相違は、この理論をより柔軟でかつ教条的でないものにしているが、それを曖昧でかつ一貫していないものにもしている。
 ルカチは、理論をプロレタリアートの階級意識と同一視し、ついでそれを共産党の知見と同一視することによって、彼の真実に関する規準を明確に定めた。すなわち、社会を観察する際には、真理は自然科学にも有効な一般的科学の規準を適用すること以上に進んではならず、その発生源でもって明らかにされるものだ。
 共産党が誤謬に陥ることは、あり得ない。
 このような発生起源論は少なくとも、真理が一貫しており完全に明確だ、という長所をもつ。
 しかし、発生論的規準がどのようにして理論の知的自立性と結合されるのか、どこからその正しさを統御する規則が生じてくるのか、を批判理論から知ることはできない。なぜなら、批判理論は「実証主義」的規準を拒み、かつプロレタリアートとの自己一体視も拒否しているからだ。
 一方では、Horkheimer は、思考するのは人間であってエゴ(自我)や理性ではないというフォイエルバハ(Feurebach)の言明を繰り返す(「現在の哲学での合理性論争」1934年で)。
 そうすることで彼は、科学的手続に関する規準と科学で用いられる蓄積された観念はいずれも歴史の創造物であって実際的な必要性の所産だ、そして知識の内容はその発生起源と分離することができない-換言すれば、先験論的主体は存在しない-、ということを強調する。
 これにもとづけば、理論は「社会進歩」のためにあるならば「善」だまたは正しい、あるいは、知的な価値はその社会的機能によって明らかになる、ということになりそうに見える。
 他方で、しかし、この理論は現実<に対する>自立性を維持するものと想定されている。
 その理論の内容は、現存するある運動との何らかの一体視に由来するものであってはならず、社会階級は言うまでもなく、人間という種の観点からすらしても、実用主義的(pragmatistic)であってはならない。
 ゆえに、どのような意味で「真実だ」と主張しているのかは、明瞭ではない。現実をそのままに叙述するがゆえになのか、あるいは「人間の解放のために奉仕する」がゆえにか?
 Horkheimer が提示する最も明確な回答は、おそらく、つぎの文章のようなものだろう。
 「しかし、開かれた弁証法は真実の痕跡を失うことがない。
 人が自分の思考、あるいは他人の思考に限界や一方性のあることに気づくことは、知的な過程の重要な側面だ。
 ヘーゲルも唯物論者の彼の継承者も、批判的で相対主義的接近方法は知識の一部だということを正しく強調した。
 しかし、自分自身の確信は確かだとか肯定できるとか考えるためには、観念と客体の統合が達成された、あるいは思考は終点に到達することができる、と想定する必要はない。
 観察と推論、方法論的検討や歴史的出来事、全ての作業と政治的闘争、こうしたものから得られる結果は、我々が用いることのできる認識手法に耐えることができるならば〔この句のドイツ語原語は省略-試訳者〕、真実だ。」
 (「真実の問題について」同上、第一巻p.246.)
 この説明には不明瞭なところがない、というわけでは全くない。
 社会環境がどのようなものであれ、批判理論は最終的には経験的な正当性証明の規準に従うものであり、それに従ってその真偽が判断される、ということをかりに意味しているとすれば、認識論的には、この理論が「伝統的」と非難する諸理論と何ら異ならない。
 しかしながら、かりに何かそれ以上のことを、すなわち理論が真実であるためには経験上の吟味に耐え、かつ同様に「社会的に進歩的」でなければならない、ということを意味しているのだとすれば、Horkheimer は、二つの規準が衝突している場合にはどうすべきかを我々に語ることができない。
 彼はたんに、「前(supra)歴史的」なものではない真実や知識の社会的条件、あるいは観念とその客体の間の「社会的媒介項」と彼が称するもの、に関する一般論を繰り返しているにすぎない。 
 Horkheimer は、この理論は「静態的」でない、主体と客体のいずれも絶対化しない、等々と請け負う。
 全く明らかなのは、「批判理論」はルカチの党教条主義を拒み、正当性証明に関する経験的規準を承認することも一方では拒んで、理論としてのその地位を主張しようとしていることだ。
 言い換えると、批判理論は、それ自体の曖昧さのおかげで存立している。//
 (8)このように理解される批判理論は、明確なユートピアを構成することはない。
 Horkheimer の予言は、ありふれた一般論に限定されている。すなわち、普遍的な幸福と自由、自分の主人となる人間、利潤と搾取の廃棄、等々。
 「全てのもの」は変化しなければならない、社会改良ではなく社会変革の問題だ、と語るが、どのようにしてこれを行うのか、あるいは何が実際に生じるのだろうか、については語らない。
 プロレタリアートはもはや歴史の無謬の主体とは位置づけられない。その解放は依然として、この理論の目標であるけれども。
 しかしながら、この理論は一般的解放のための有効な梃子だと自らを主張しないがゆえに、思考の高次の様式であって人類の解放に寄与するだろうという確信だけを除いて、明瞭に残されているものは何もない。//
 (9)社会の選好と関心に関してHorkheimer が述べていることは、社会に関する多様な理論が用いる観念上の諸装置にすでに含まれていた。そして、確かに本当のことだが、彼の時代ですら新しくはなかった。
 しかし、社会科学は異なる利益と価値を反映する、ということは、Horkheimer がそう(ルカチ、コルシュおよびマルクスに従って)考えたと思われるように、経験的判断と評価的判断の相違は超越された(transcended)ということを意味していない。
 (10)「批判理論」は、このような意味で、プロレタリアートとの自己一体視を受け入れることなくして、真実に関する階級または党の規準を承認することなくして、マルクス主義を保持しようという一貫した試みだった。また、このようにマルクス主義を縮減すれば生じる困難さを、解消しようともしなかった。
 批判理論はマルクス主義の部分的な形態であり、それが無視したものを補充することがなかった。//
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 第2節おわり。次節・第3節の表題は、<否定弁証法>。

2010/L・コワコフスキ著第三巻第10章第2節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.352-p.355.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第2節・批判理論の諸原理(principles)①。
 (1)「伝統的」理論に対する意味での「批判的」理論の規準は、Horkheimer の1937年の綱領的論考で定式化された。その主要なものは、以下のとおりだ。
 (2)現在までの社会現象の研究では、つぎのいずれかを前提として想定するのがふつうだった。第一は、社会現象研究は推論に関する通常の規則にもとづかなければならず、可能なかぎり量的に表現される、一般的観念や法則を公式化することを意図しなければならない、というものだ。第二は、現象主義者たちが考えるもので、経験的な結果から独立した「本質的」法則を発見するのは可能だ、というものだ。
 上のいずれの場合も、観察の対象となる事物の状態は、それに関する我々の知識から切り離されている。ちょうど、自然科学の研究主題が「外部から」与えられるように。
 知識(knowlege)の発展はそれ自体の内在的論理によって統御される、そして何らかの理論が他の理論のために無視されるとすれば、前者には論理的困難さがあるか、経験上の新しいデータと合致しないことが分かったからだ、とも想定されてきた。
 しかしながら、現実には、社会的変化は理論に変化を与える最も強力な要因だ。
 科学は、生産に関する社会過程の一部であり、その変化に応じて変化を受けざるを得なかった。
 ブルジョア哲学は、人々が知識の社会的由来や社会的機能を認識することを妨げる、そのような多様な先験論的(transcendentalist)諸教理でもって、科学とは別個に、誤りへと導く信念を表現してきた。
 ブルジョア哲学はまた、科学が与えることのできない評価的判断を要するがゆえに、凌いだり批判したりするのではなくて世界を叙述する、そのような活動だとして、知識に関する像を主張した。
 科学の世界は、観察者が一定の秩序へと切り縮めようとする、既製の事実の世界だった。まるで、そうした事実を感知すること(perception)は、その内部で生起する社会的外殻とは全く独立しているかのごとくに。//
 (3)しかしながら、批判理論にとって、そのような意味での「事実」は存在しない。
 感知を、その社会的発生源から切り離すことはできない。
 感知もその対象のいずれも、社会的で歴史的な産物だ。
 個々の観察者は客体<に対して>受動的だが、しかし、全体としての社会は過程のうちにある能動的な要素だ。無意識にそうであるかもしれないけれども。
 確定される事実は、考察者が用いる観念上の諸道具を修繕する人間たちの集団的な実践によって、部分的には決定される。
我々が知る対象たる客体は、部分的には諸観念と集団的諸実践の産物だ。そうした起源に気づいていない哲学者たちは、前個人的で先験論的な意識へと自らを間違って硬直化させている。//
 (4)批判理論は、社会観察者の一形態だと自らを見なし、そのような自分たちの機能と起源を自覚している。しかし、そうであっても、言葉の真の意味での理論ではない、と意味させているのではない。
 この理論の特有の機能は、つぎのことにある。すなわち、現存する社会-労働の分割、知的活動に割り当てられる場所、個人と社会の区別等々-にある規準は、自然で不可避のものだと、伝統的理論がそうするようには、単純に理解することを拒否すること。
 批判理論は、社会を全体として理解しようと追究する。そしてその目的のためには、ある意味では社会の外部の立場をとらなければならない。一方では、自らを社会の産物だと見なすのだけれども。
 現存社会は、その社会の構成員の意思とは別個の「自然の」所産のごとく行動する。そして、このことを理解することは、構成員たちが被っている「疎外」を認識することだ。
 「批判思考は、本当に緊張状態を超越し、かつ個人の合目的性、自発性および合理性と社会の基礎である労働の条件の間の対立を除去すべく努める、という動機をいまや有している。
 これは、人間はこの自己一体性(identity)を回復するまでは自分自身と対立する、という観念をもつことを、その意味に包含する。」
 (A. Schmidt 編, <批判理論>第二巻, p.159.)
 (5)批判理論は、知識に関する絶対的な主体は存在しないこと、その過程は実際には社会の自分に関する知識なのだが、主体と客体は社会に関するその思考の過程でまだ合致していないこと、を承認する。
 この合致は、将来のことだ。しかし、それは将来のたんなる知的な進歩の結果ではなくて、社会生活から擬似自然的な「外部」性を剥ぎ取ることによって人間を再びその運命を宰どる主人に変える、そのような唯一の社会過程の結果だ。
 この過程は、理論の性質に、また思考の機能およびその客体との関係に生じる変化を含んでいる。//
 (6)これから見るように、ここでのHorkheimer の見解は、ルカチ(Lukács)のそれに近い。すなわち、社会に関する思考はそれ自体が社会的事実であり、理論は不可避的にそれが叙述する過程の一部になる。
 しかし、重要な違いは、つぎのことにある。
 ルカチは、歴史に関する主体と客体の完全な統合は、したがってまた社会的実践とそれを「表現する」理論の統合は、プロレタリアートの階級意識の中で実現される、そのことからして、観察者のプロレタリアートの階級観(つまり共産党の方針)との自己一体化は理論的な正しさ(correctness)の保障となるということになる、と考えた。
 Horkheimer は、プロレタリアートの状態は知識の問題では何の保障をも提供しないと宣告して、これを明示的に拒否する。
 批判理論はプロレタリアートの解放に賛成だが、プロレタリアートが自立性を保持するのも望む。そして、プロレタリアートの見地を受動的に受容すると決することを拒む。
 そうでなければ、批判理論は社会心理学に、所与のときに労働者が考えたり感じたりすることをたんに記録することに、変質するだろう。
 正確にいえば「批判的」であるがゆえにこそ、理論は、全ての現存する社会意識の諸形態<に向かいあって>自立したままでなければならない。
 理論は、より良き社会を創造しようとする実践の一側面だ。
 理論は戦闘的性格をもつが、単純に現存の闘争によって作動するのではない。
 社会システムの「全体性」に対するそれの批判的態度は、理論上の発見物に重ねられた価値判断の問題ではなく、暗黙のうちにマルクスから継承されている、観念上の諸装置のうちにある。つまり、階級、搾取、剰余価値、利潤、貧困化のような諸範疇は、「その目的が社会を現状のままに再生産することではなく正しい(right)方向へと変革することである観念体系全体のうちの諸要素だ」(同上、p.167.)。
 理論はかくしてそれ自体の観念上の枠組みにおいて、能動的で破壊的な性格をもつ。しかし、現実のプロレタリアートの意識とは反対になり得るということを考慮しなければならない。
 批判理論は、マルクスに従って、抽象的諸範疇を用いて社会を分析する。しかし、いかなるときでも批判理論は、理論<として(qua)>、それが描写する世界の批判論であり、その知的行為は同時に社会的行為であり、かくしてマルクスの意味での「批判」である、ということを忘却していない。
 それの研究主題は、単一の歴史社会だ。すなわち、人間の発展を妨害し、世界を野蛮さへの回帰でもって脅かしている現在の形態での、資本主義世界だ。
 批判理論は、人間男女が自分自身の運命を決定し、外部的な必然性に服従しないもう一つの社会を展望する。
 そのようにして、批判理論は、そのような社会が出現する蓋然性を増大させるのであり、かつこのことに気づいている。
 将来の社会では、必然性と自由の間には何の違いも存在しなくなるだろう。
 この理論は人間の解放と幸福および人間の能力と必要に適応した世界の創造に奉仕する。そして、人類は現存する世界で他の者たちが表明している以上の潜在的能力をもつ、と宣言する。//
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 第2節②につづく。
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