中川八洋・保守主義の哲学を読んでいて、そのままでは従(つ)いて行けないと感じたのは本の最後の残り1/5の中にある。すでにその一つを書いたが、もう一つは「社会的正義」の扱いだ。
 中川は、ケインズ経済学を「自由否定/道徳否定のベンサムの狂気から生まれた」、「ベンサム功利主義を継承するものの一派」で、マルクス経済学と「祖先が同じ血のつながった親類」だとし、日本では「マルクスだけでなく、ケインズからも自らを解放することが急務」だとする(p.338-345)。
 このあたりで既に私には理解が殆ど不能になるのだが、その後中川は、法や法律と「自由」の関係を論じたりしつつ、ハイエクの著・社会正義の亡霊(1976年)に依って、こう書いている。
 <ハイエクの「社会的正義という概念が空虚であり無意味である」との説は正しい。>(p.361)
 <社会正義との概念はJ・S・ミルの本(功利主義、1863)が初出で、「英国のマルクス」で「レーニンと寸分も変わらぬ冷酷で残忍な性格」のミルは「すべての制度も、すべての道徳的な市民の努力も、できるかぎりこのものさし」、すなわち「社会的正義と分配の正義の最高の抽象的ものさし」を「目標にしたものであるべきである」と書いたのだが、ミル・自由論をよく読むと「道徳の放棄と、伝統・慣習を破壊するよう呼びかける」以上の何物でもなく、さらにはミルは「個人の幸福追求を社会全体のために犠牲にすることを目論んでいた」。>(p.362-4)
 <ハイエクの言うとおり、「「社会的正義」の大義名分の下での「所得の再分配」」は「異なった人びとにたいするある種の差別と不平等なあつかいとを必要とするもので、自由社会とは両立しない。…福祉国家の目的の一部は、自由を害する方法によってのみ達成しうる」。>(p.365)
 これはすでに殆ど一種の経済政策論だと思うが、次のようにも書く。
 <「「社会正義」という”亡霊”が迷信の信仰のごとく狂信されている状況のひどさは、そもそも所得の格差が正義に適うとか正義に悖るとかいえないのに、また正義に適うとか正義に悖るとかは人間の道徳的な個人行動に関する用語であるのに、国家(社会)の行政上の権力行使(命令)にそれを期待し要求することでもわかる」。>(p.366)
 「正義」とは「道徳的な個人行動」関係概念で、「所得の格差」とは無関係だ、というわけだ。
 このあと「社会的正義」という語への(中川ではなく)ハイエクによる侮蔑の表現が並んでいる。
 「デマゴギーであり、三文ジャーナリズムであり、責任ある思想家が使用するに恥ずかしい用語」。
 社会的正義に「訴えているのは、その要求が実際には何らの道徳的正当性をもたないのに、道徳的なものだと承認してもらおうとの一種の誘惑行為」。
 社会的正義という「福音は、はるかに野卑な劣情に基づいている場合が多い。…自分より豊かな暮しをしている人々への嫌悪であり、あるいは単なる嫉妬である」。
 これらの主張が全く理解できないのではない。たしかに「「社会的正義」は「平等主義」の母胎から誕生した子どもの一人」だろう。今日の最も重たい問題にかかわる叙述だとも思う。問題又は疑問は「所得の格差」を多少とも是正するための立法者そして行政府による「所得の再分配」政策を一切否定しているのだろうか、ということだ。
 だとすれば、「福祉国家」も現憲法25条の理念も一切が排斥されることになってしまう。
 「社会的正義」という名分によってそれがなされるのを厳しく批判しているのだろうか。このあたりはハイエクそのものを読まないと解らないかもしれない。
 ところで、上のような考え方を知ると、中川も指摘のとおり、規制緩和・民間活用とか言われて「自由」=自己責任の領域が拡大しているかにもみえるが、日本の現状とはまだまだ相当な懸隔がある。「格差」が大きな話題になり、自民党系の候補者までが「格差是正のために~をします」とか演説していることがあるのを先月聞いたところだ。
 中川からすれば恐らく、自民党もまた「福祉」を重視した、半分は「社会民主主義」政党であるような気がする。同党は田中角栄等々によって「ばらまき」もしてきた。決してハイエク的「自由主義」の政党でないことは間違いないだろう。まして、社民党、共産党をや。
 予定どおり、次の読書のベースは、自称ハイエキアンの憲法学者・阪本昌成のリベラリズム/デモクラシー(勁草書房)になる。