秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

戦時共産主義

1506/日本共産党の大ペテン・大ウソ34-<ネップ>期考察01。

○ 志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)p.173-4はこう書く。
 レーニンの1918年夏~1920年の経済政策は「戦時共産主義」と呼ばれ、農民から「余剰穀物のすべてを割当徴発する」ものだった。レーニンが「この戦時の非常措置」を「共産主義」への「直接移行」と「勘違いして位置づけ」たことから、「農民との矛盾が広がってい」った。
 レーニンが「共産主義」への「直接移行」と観念していたことはそのとおりだろうが、しかし、「勘違いして位置づけ」た、という表現の中に、日本共産党(幹部会)委員長・志位和夫の人間的な感情は、認められない。
 この「勘違い」によって、のちに1921年秋にレーニン自身が「生の現実はわれわれが過っていたこと(mistake, Fehler)を示した」と明言した<失敗>によって、いかほどの人間が犠牲になったのか。
 ○ 志位和夫は<戦時共産主義>という言葉を使い、多くの歴史書もこの概念を使っている。
 おそらくは、スターリン時代におけるソ連・ロシアの公式的歴史叙述によって、レーニン時代をおおよそこの<戦時共産主義>時代と<ネップ=新経済政策>時代に分けるということが定着して、そのまま現在にまで続いているようにも思われる。
 最近にほんの少し触れたように、<戦時共産主義>という語は、志位が「この戦時の非常措置」と書いているように、<戦時>のやむをえない措置だったかのように誤解させる。
 また、<戦時>とはまるで第一次大戦とその後の勝利諸国による対ロシア<干渉戦争>を意味するかのように誤解されうる。
 日本共産党は、そのように理解したい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。
 しかし、ロシアが第一次大戦から離脱したのは1918年3月の「中央諸国(ドイツ等)」との間のブレスト・リトフスク条約によってだ。また、1918年~1919年に戦闘終結とベルサイユ講和条約締結があった。
 そこで、日本共産党によると、英仏らによる<干渉戦争>と闘った、と言いたい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。しかし、大戦終結と英仏らの対ドイツ等との講和まで、およびその後のほんの数年間、英仏らが新生?ロシアと「戦争」をすべき理由がいかほどあっただろうか。
 たしかに、ボルシェヴィキ「赤軍」に対する「白軍」への物的・資金的援助はあったのだろう。だが、今のところの知識によれば、戦争といっても、対ロシアについては、英国軍が北方のムルマンスクまで来たということと、日本がいわゆる<シベリア出兵>をしたといった程度で、いかほどに<干渉戦争>という「戦争」に値する戦闘があったのかは疑わしい。日本軍は地方軍または「独立共和国」軍と戦闘したのだろうが、モスクワ・中央政府とその軍にとっては「極東」の遠いことだったのではないかとの印象がある(それよりも<東部>での農民反乱等の方に緊迫感があったのではないか)。
 誰もが一致しているだろうように、<戦時共産主義>とは、ロシアの「内戦」という「戦時」のことをさしあたりは意味している。「内戦」とは civil war, Buergerkrieg で(直訳すると「市民(・国民)戦争」で)、まさに「戦争」の一種なのだ。ボルシェヴィキの政府と軍は、国民・民衆と戦争をしていた。
 しかしさらに、<内戦>中の「非常措置」(志位和夫)という理解の仕方すら、相当に政治的な色彩を帯びている、と考えられる。
 後掲のL・コワコフスキの1970年代の書物も、<戦時共産主義>という語はmislead する(誤解を招く、誤導する)ものだと述べている。
 ○ 既述のように、秋月の今のところの理解では、10月「革命」後のレーニン・共産党(ボルシェヴィキ)の経済政策は、マルクスの文献に従った、かつレーニンがそれに依って具体的に1917年半ばに『国家と革命』で教条化した<共産主義>そのものだった。当時の「非常措置」だったのではない。
 そうして、レーニン・共産党による<ネップ>導入は、じつはマルクス主義又は共産主義理論自体の「敗北」を示していた、と考えられる。たんなる暫定的な「退却(retreat)」ではない。
 レーニンが病床にあって、大いに苦悩したというのも不思議ではないだろう。
 ○ 文献実証的に( ?)、1919年半ばにレーニンは何と主張していたかを、日本共産党も推奨するに違いないレーニン全集第29巻(大月書店、1958/1990第31刷)から引用する。
 まず、<校外教育第一回ロシア大会-1919.05.6-19>。
 「マルクスを読んだものならだれでも」、「マルクスが、その全生涯と…の大部分を、まさに自由、平等、多数者の意思を嘲笑することに、…ささげたこと」、こうした嘲笑の対象となる「空文句の裏には、商品所有者が勤労大衆を抑圧するためにつかう、商品所有者の自由、資本の自由の利益があるということの証明」に「ささげたことを知っている」。
 「全世界で、あるいはたとえ一国においてでも、…時機に、また資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅するための被抑圧階級の闘争が前面に現れているような歴史的時機に」、「その自由のためにプロレタリアートの独裁に反対する」者は、「そういう人は、まさに搾取者をたすけるものにほかならない」。p.350。
 後掲のL・コワコフスキの著によると、「資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅する」こととは、英文では、<the complete overthrow of capital and the abolition of commodity production >だ。「commodity production 」の、goods ではない「commodity」=「商品」は、「必需物」・「有用物」という含意もある。
 ともあれ、レーニンはこのとき、マルクスによりつつ「資本」の完全打倒と「商品生産」の完全絶滅を正しいものとして、目標に掲げていた。
 つぎに、<工場委員会、労働組合、…での食糧事情と軍事情勢についての演説-1919.7.30>。
 食糧政策・問題について、「真の勤労大衆の代表者、…人々、彼らは、ここでの問題が、どんな妥協をもゆるさない、資本主義との最後の決戦であることを知っている」。
 「われわれは、ほんとうに資本主義とたたかっており、資本主義がわれわれにどのような譲歩を強いようとも、…やはり資本主義と搾取に反対してたたかいつづけるのだ、と言う」。コルチャコフやデニーキン〔ボルシェヴィキと闘う「白軍」等の指導者-秋月〕などの「彼らを元気づけている力、それは資本主義の力であるが、この力は、…、穀物や商品の自由な売買にもとづくものだ」。「穀物が国内で自由に販売されているなら、こうした事態がつまり資本主義を生み出す主要な源泉であって、この源泉がまた…共和国の破滅の原因であったということを、われわれは知っている。いま資本主義と自由な売買にたいする最後の決闘がおこなわれており、われわれにとってはいま資本主義と社会主義とのもっとも主要な戦闘がおこなわれている」。p.538-9。
 ここでレーニンは、明確に、「穀物や商品の自由な売買」に反対することこそ社会主義の資本主義に対する闘いだと、「最後の決闘」とまで表現して、無限定に、つまり例外を設けることなど全くなく一般的に語っている。
 これら二点等について、以下を参照した。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (仏語1976、英語1978、〔マルクス主義の主要な動向〕), p.741-3。
 ○ むろん引用し切れないが、上の二つともに、レーニンは長々と、得々と喋り、同僚又は支持者たちに向けて力強く(?)演説している。
 日本共産党・志位和夫が言うように、後になって「…と勘違いして位置づけ」た、で済ませることができるだろうか。
 <ネップ>とはつまり、部分的にせよ、「商品生産」を、「穀物や商品の自由な売買」を正面から認めることとなる政策だったのだ。
 こんなふうに<転換>が語られるとすれば、それまでの農業政策等によって辛苦を舐めた農民たち、犠牲者等はやり切れないだろう(しかも、新政策がすみやかに施行又は「現実化」されたわけでもない)。
 ネップ導入は政策表明上の、つまるところ、レーニンによる「敗北」宣言だった。
 では、ネップという新政策導入時期に、<市場経済を通じて社会主義へ>という基本方針を、レーニンは確立したのかどうか。
 ずいぶんと前この欄でに設定したこの問題については、まだ本格的には立ち入っていない。あせる必要はない。現今の<時局>・<時流>のテーマではない。

1495/食糧徴発廃止からネップへ③-R・パイプス別著8章6節。

 前回のつづき。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発の廃止とネップへの移行③ 〔p.393~p.394〕
 1922年と1924年の間に、モスクワは貨幣なき経済という考え方を放棄し、伝統的な会計実務を採用した。
 政府は予算上の欠損を充たす山積みの紙幣を必要としていたので、会計上の責任体制への移行は困難だった。
 ネップ(新経済政策)の最初の三年間、ソビエト同盟では実際には、二種類の通貨が並んで流通していた。
 一つは、denznaki とか sovznaki とか呼ばれる、実際には無価値の『引換券(token)』、もう一つは、chervonets と呼ばれる、金を基礎にした新しいルーブルだ。//
 ルーブル紙幣は、印刷機が作動するかぎりで急いで製造された。
 1921年にその発行数は16トリリオン(trilliom、16兆)だったが、1922年には2クヴァドリリオン(quadrillion=1000 trilliom、2000兆)に昇った。これは、『16桁の数字をもつ量、財務というよりも晴天の空での天文学を連想させる量』だった。(98)
 無価値の紙券が、洪水のように国を覆いつづけた。政府は一方で、新しい安定した通貨を生み出し始めた。
 財政改革は、ニコラス・カトラー(Nicholas Kutler)に託された。この人物は、銀行家、セルゲイ・ウィッテ内閣の大臣で、政府の仕事から引退したあとは、カデット(立憲民主党)の国会下院議員だった。
 カトラーの奨めで1921年10月に作られた国有銀行(Gosbank)の理事会の一員に、彼は指名された。
 政府が新通貨を発行することや国家予算を帝政時代のルーブルで表記することも、彼の助言によっていた。(99)
 (類似の改革は二年後に、ヒャルマール・シャハト(Hjalmar Schacht)のもとでのドイツでなされることになる。)
 国有銀行は1922年11月に、chervontsy 、5種類の銀行券を発行する権限を与えられた。これら銀行券は、25%は金塊と外国預金、残りは農産物や短期の借款で支えられた。
 新しい各ルーブルは純金7.7グラムに相当し、金の価値は帝制時代の10ルーブルと同じだった。(+)
 Chervontsy は法的な弁済よりも国有企業間の大規模の取引や決済に用いられることが想定されたが、古い引換券(token)と一緒に流通した。後者は、天文学的数字にかかわらず、小規模の小売り取引で必要とされた。
 (レーニンは、貨幣政策としては金を伝統的な地位に復活させる必要があると批判されて、共産主義が世界中で勝利するやいなや、ルーブル紙幣の使用は手洗所の建設に限られることになる、と約束した。)(100)
 1924年2月までに、Chervontsy で表記された貨幣量は10分の9になった。(101)
 引換券(token)ルーブルは1924年に流通しなくなり、帝制時代のルーブルの金の内容をもつ『国家財務省券』が取って代わった。
 このとき、農民は、国家への納税義務を一部又は全部、生産物ではなく金銭で履行することが認められた。//
 租税制度もまた、伝統的な方向で改革された。
 金ルーブルで計算される国家予算は、定期的に作成された。
 1922年に総支出の半分以上に達していた欠損は、次第に小さくなった。
 1924年に公布された法令は、欠損を埋めるための手段として銀行券を発行することを禁止した。(102)//
 国有企業の経営者は抵抗したにもかかわらず、小規模の私企業や協同企業を推進する布令が裁可された。これら企業は、法人格を付与され、限られた数の有給労働者を雇用することが許された。
 大企業は依然として国家の手のうちにあり、政府からの助成金で利益を確保し続けた。
 レーニンは、社会主義の国家的基礎を、彼の権力基盤とともに徐々に破壊するという危険(リスク)がネップにある、ということを十分に察知した。そして、経済の『管制高地』の支配権は政府が維持することを確かなものにした。輸送はもとより、銀行、重工業および貿易(=外国との取引)についてだ。(103)
 中規模の企業は、健全な会計実務に従うように命じられ、自立的になった。その会計実務は、Khozrazchet として知られる。
 怠惰な又は非生産的な中規模企業は、賃貸借の対象になる第一次の候補だと指示された。
 4000以上のこのような企業は、その大部分は小麦製粉業だったが、以前の所有者か又は協同企業に賃貸された。(105)
 こうしたことを容認したことは、設定した基本的考え方で、とくに社会主義の実務ではきわめて嫌悪された被雇用労働者を許した点で、主として重要だ。
 生産に対する実際の影響は、限られていた。
 1922年に国有企業は、価額を規準として、全国家産業生産高の92.4%を占めた。(106)//
 Khozrazchet への移行は、自由な業務や商品の綿密な構造を放棄することを強いた。そのために、およそ380万人の国民は、1920年と21年の間の冬に、政府の費用でもってその基本的な必需品を与えられた。(107)
 郵便と輸送は、〔政府から〕支払われるものとされた。
 労働者は金銭で給料を受け取り、公開の市場で必要な物を何でも購入した。
 配給もまた、次第に少なくなった。
 小売取引は、一歩一歩、私営化されていった。
 国民は、都市の不動産を売買すること、印刷業社を所有すること、薬品や農機具を製造すること、を許された。
 1918年に廃棄されていた相続する権利は、部分的に復活した。(108)//
 ネップは、魅力的でないタイプの起業家、古典的な『ブルジョア』とはきわめて異質な者たちを培養した。(109)
 私企業にとってロシアの環境は根本的に非友好的で、かつその将来は不安定だったので、経済自由化を利用した者たちは、得た利益を明日のことなど考えないで費やした。
 政府やそれと似た社会にパリア人のごとく取り扱われて、『ネップマンたち(Nepmen)』は、現物でもって返報した。
 貧窮のど真ん中で、彼らは贅沢にかつ目立って生活し、高価なレストランやナイトクラブに群らがった。毛皮のコートで身を包んだ愛人たちを見せびらかしながら。//
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  (98) Arthur Z. Arnold, ソヴェト・ロシアの銀行、信用、貨幣 (1937), p. 126。
  (99) カー, ボルシェヴィキ革命, Ⅱ, p.350-352。
  (+) 帝制時代の『chervonets 』とは、金貨の名前だった。ソヴェトのchervontsy は多くは紙幣で、ある程度は新たに鋳造されたけれども。
  (100) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p. 225。
  (101) N. D. Mets, Nash rubl' (1960), p. 68。
  (102) ソ連の国民経済・1921-23以降〔統計年鑑〕, p.495-6, p. 498。
  (103) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p. 289-290。
  (104) RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 27, list 34。
  (105) Genkina, Perekhod, p. 232-3。
  (106) カー, ボルシェヴィキ革命, Ⅱ, p.302-3。
  (107) リチャード・パイプス, ロシア革命, p. 700〔第二部第15章「戦時共産主義」第8節「市場廃棄の努力と陰の経済の成長」〕。
  (108) Allan M. Ball, ロシアの最後の資本家 (1987), p.21-22。
  (109) 同上の各所。
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 ④につづく。

1437/R・パイプスの大著『ロシア革命』(1990)の内容・構成。

 1.Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)は、表紙、新聞書評の抜粋、著者の他の著書の紹介、扉、著作権記述、献辞(「犠牲者たちに」)、内容〔=目次〕、写真・地図の一覧、謝辞、略語表、まえがき、本文p.1-p.840、あとがきp.841、用語集〔ロシア語/英語〕p.842-p.846、年表p.847-p.856、注記p.857-p.914、参考文献〔ロシア革命に関する100の著作〕p.915-p.920、索引p.921-p.944、文献への謝辞〔9文献・資料集〕p.945、著者紹介p.946、裏表紙、から成る。p.は、記載された頁数。
 2.「内容」=目次のうち、細節を除いて、部と章のタイトル、始めの頁数を記すとつぎのとおり。
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 第一部 旧体制の苦悶 p.1
  第01章 1905年-予震 p.3
  第02章 帝国ロシア p.53 
  第03章 田園ロシア p.91
  第04章 知識人 p.121
  第05章 立憲主義の実験 p.153
  第06章 戦時ロシア p.195
  第07章 崩壊へ p.233
  第08章 二月革命 p.272
 第二部 ボルシェヴィキによるロシアの征圧 p.339
  第09章 レーニンとボルシェヴィズムの起源 p.341
  第10章 ボルシェヴィキの権力への欲求 p.385
  第11章 十月のクー p.439
  第12章 一党国家の建設 p.506
  第13章 ブレスト=リトフスク p.567
  第14章 革命の世界輸出 p.606
  第15章 『戦時共産主義』 p.671
  第16章 農村に対する戦争 p.714
  第17章 皇帝家族の殺戮 p.745
  第18章 赤色テロル p.789
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 上のうち、第9章『レーニンとボルシェヴィズムの起源』は、目次の細目部によると、以下の諸節から成っている。但し、「節」の旨の言葉も「数字番号」も、原著にはない。原著の本文では、これら(以下の各節)の区切りは、一行の空白を挿むことによってなされている。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第1節 レーニンの青少年期
  第2節 レーニンと社会民主党 
  第3節 レーニンの個性
  第4節 レーニンの社会民主党への失望
  第5節 ボルシェヴィズムの出現
  第6節 メンシェヴィキとの最終決裂
  第7節 レーニンの農業問題・民族問題綱領
  第8節 ボルシェヴィキ党の財政事情
  第9節 マリノフスキーの逸話
  第10節 ツィンマーヴァルト、キーンタールおよび敵工作員との接触
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 以上。

1410/ロバート・W・デイヴィス・現代ロシアの歴史論争(岩波、1998)を一部読む。

 一 ロバート・W・デイヴィス(イギリス人学者)は、同〔内田健二=中嶋毅訳〕・現代ロシアの歴史論争(岩波書店、1998/原書1997)で、主として1988年半ば~1996年半ば-すなわちソ連崩壊後の時期を含む-のソ連又は主としてロシアでのソ連史・ロシア史の「見直し」の状況を紹介し、また論じている。
 その「第11章/レーニン、スターリンと新経済政策」は「第10章/レーニンと内戦」に続くものだが、その第11章の最後の段落でまず、こう述べている。邦訳書からの引用。p.266。
 「総じて内戦とネップの初期についての新たな史料は、世界が『人間の顔をした社会主義』に向かう動きを再び始めると考えている私自身のような時代遅れの人間にはほとんど慰めを与えてくれない」。
 彼自身は「人間の顔をした社会主義」への再出発を期待しながらも、そのような希望に、新しい、レーニンやスターリン等に関する、従来は「秘密」だった史料は「ほとんど慰めを与えてくれない」、というわけだ。
 そのあと、「慰め」になるかもしれない「傾向」がいくつか(これら自体興味深いがここでは省略)見出される、としつつ、こう続けて、この章を終える。p.266-7。
 「しかし、ここで見た証拠によれば、こうした傾向は弱いものであり、容易に打倒された。そしてレーニン自身が-〔略〕-他のすべての政治集団を容赦なく抑圧する一党制に傾倒しつづけていたとりわけオ・ゲ・ペ・ウ〔ゲペウの前身、チェカーの後身/国家保安秘密警察〕によって与えられた『証拠』は党指導者たちの政策に影響を与えた。そして秘密警察の政治的役割は絶えず膨張していったのである」。
 日本共産党、または党員学者の文献にはレーニンは多党制を容認・支持していたかのごとく書いているものがあるかもしれないが、事実に反するデマだ。たしかに1917年10月の「革命」時点で共産党(ボルシェヴィキ)だけが実質的な国家最高権力の指導部を構成していたわけでは(辛うじて)ないが、すみやかに共産党=国家になったことは広く(少なくともロシア・ソ連史の日本を含む研究者には一致して)認められている、と思われる。
 この点や、チェカーなどには、別の機会にまた触れるだろう。なお、「革命」時点でロシア<全国>あるいは<農民>を掌握したわけでも全くない。のちに「戦時共産主義」時代ともいわれる「内戦」が長く続き、レーニン指導のボルシェヴィキ対する<農民>の激しい抵抗等もあった。
 二 リチャード・パイプスらの<反共産主義>が明確な学者や論者の叙述を紹介しても、日本共産党員や同党支持者または日本の「左翼」は、<反共>主義者ということでもってその叙述を疑う、または容易には信頼しないかもしれない。
 注意を惹いておきたいのは、上の書物は、ほとんど「左翼」的または「容共」的な、すくなくとも<反共産主義的ではない>本・雑誌ばかりを日本で出版している、岩波書店が出版している、ということだ。
 この欄では-すでにある程度は意識してきたのだが-、<岩波書店(または朝日新聞社等)発行の文献ですら、~と述べている>、という紹介や言及の仕方をすることがある。

1404/日本共産党の大ウソ27-02-不破哲三・平凡社新書02。

 不破哲三・マルクスは生きている(平凡社新書、2009)は、「ソ連とはいかなる存在だったか」という節見出しのもとで、レーニンについて、つぎのように書く。日本共産党2004年綱領のレーニン関係部分を説明していることになろう。
 この欄は<反共デマ宣伝>を意図してはいないので、これまでと同様に、客観的に、日本共産党・不破哲三らの文章も引用または紹介する。
 ・日本共産党は「ソ連の歴史を見るとき」、「レーニンが指導した初期の時代と、スターリンの指導に移って以降の時代」とを、「はっきり区別」している。
 ・「レーニンは、…革命のあと、経済的には遅れていたロシアを社会主義への道に導くために、真剣な努力を行いました」。
 ・「初期、とくにイギリス、日本など14の資本主義諸国が軍隊を送り込んだ内戦の時期には、『戦時共産主義』などの誤った模索もあ」った。
 ・だが、「戦争終結のあと、内外の諸政策の抜本的な転換をおこない、内政面では、市場経済を通じて漸進的に社会主義に進む『新経済政策=ネップ』路線を、対外面では資本主義諸国との平和共存および周辺の諸民族の独立の尊重を基本とする外交路線をうちだし、それを基本路線として社会主義の道にふみだし」た。
 ・「しかし、不幸なことに」、「確立した路線にそっての前進を開始したばかり」の1923年にレーニンは「重い病に倒れ、翌24年1月、生涯を閉じ」た。
 以上、p.198。
 ここでは、「戦時共産主義」を「誤った模索」と明記していることのほか、レーニンの積極面として、①内政における「新経済政策=ネップ」、対外面での②「資本主義諸国との平和共存」と③「周辺の諸民族の独立の尊重」を基本路線としたこと、を挙げていることを、確認しておく必要がある。また、1923年には「確立した路線にそっての前進を開始した」とされていることも、関心を惹く。
 以上のあとはスターリンの時期の叙述だが、そのはじめに、「レーニンの最後の時期に」、つぎの点について、スターリンはレーニンと「激しい論争を交わしてた」と書かれていることも確認しておく必要があろう。
 すなわち、「国内の少数民族政策と党の民主的運営の問題について」。同じく、p.198。
 この欄では大きな第二の論点として「ネップ」導入は<市場経済を通じて社会主義へ>の路線の発見・確立だったのかを取り上げるが、その他の不破が上で言及しているような問題・事項についても、余裕があれば断片的にではあれ、論及する。例えば、資本主義諸国との「平和共存」 ?、「周辺諸民族の独立尊重」 ?(「国内の少数民族政策」 ?)。
 なお、このような日本共産党・不破哲三によるソ連またはレーニン・スターリンにかかる歴史の認識について、近年または最近の-いや1994年以降の-産経新聞社発行等のいくつかの<日本共産党研究>本は、きちんと批判的にとりあげているだろうか。反共産主義または「反共・保守」派の論壇は、日本共産党の主張・議論を詳しくかつ個別に反駁しておくことをしてきたのだろうか。相当に怪しく、心もとない。

1347/日本共産党の大ペテン・大ウソ16。

 二(つづき)
 E・H・カーのロシア革命-レーニンからスターリンへ1917~1929年〔塩川伸明訳〕(岩波現代新書、1979)には、ネップ(新経済政策)とその時期について、次のような叙述もある。抜粋的に紹介・引用する。
 ・ネップが目指した「農民との結合」の必要性を疑う者は数年間は稀で、1921-22年の「悲惨な飢餓」ののちの農業の回復等によりネップの正当性は立証された。しかし、危機が去って「戦時共産主義」の窮乏が忘れられてくると、「社会主義」からの徹底的な離脱への不安感が生じた。結局「誰かが」農民への譲歩の「犠牲を払った」のであり、「ネップの直接、間接の帰結のあるものは、予期も歓迎もされない」ものだった。2年以内に、新たな危機が生じ、農業以外の全経済部門に影響を与えた。(p.70)
 ・工業への影響は「主として消極的」だった。重要な修正はあったが、レーニンのいう「管制高地」である大規模工業は「国家の手に残った」。
 ・ネップ導入後、想定された現物的商品交換は売買に変化したため、商業過程への「公的統制」が図られた。それはむしろ「ネップマン」=新商人階級の活動を容易にし、小売商業が活発になり、「繁栄の空気が資本の裕福な方面」に戻ってきた、ネップの受益者には、「未来はバラ色」に見えた。(以上、p.71-73)
 ・しかし、「ネップのより深い含意が、相互に関連する危機」を伴って現れた。最初は、狂気じみた価格変動による「価格危機」だった。農産物価格の高騰・工業製品価格の下落は「労働の危機を招来」し「失業」を生んだ。雇用者は労働者に現金支払いではなく「現物支給」をした。
 ・労働組合と雇用者又は経済管理者の間の交渉で紛争解決が図られたが、労働者の不満は「赤い経営者」=かつてのツァーリの将校あるいはかつての工場経営者・工場所有者に向けられた。彼らは高い給料をもらい、工業経営・政策への発言権も持ち始めた。彼らへの非難は、<革命>とは逆転した状況への「嫉妬と憤慨の徴候」だった。(以上、p.74-77)
 ・「失業の到来」は労働者に、「ネップ経済におけるその低下した地位を最も強く意識させた」。ネップは農民を厄災から救ったが、「工業と労働市場」は「混沌寸前の状況」だった。「革命の英雄的旗手たるプロレタリアートは、内戦と産業混乱の衝撃の下で、離散、解体、極端な数的減少」を被っていた。「工業労働者はネップの継子になっていた」。
 ・「金融上」の危機が別の側面だった。ルーブリの価値が急落したため、1921年末の党協議会決定により「金ルーブリ」を貨幣単位とする紙幣等が発行されたものの、実際上の効果は少なかった。こうした状況の結果として、1923年に「大きな経済危機」が起き、労働者の不満は同年の「夏から冬に、不穏な状態とストライキの波をひきおこした」。(以上、p.77-79)
 まだ叙述は続いていくが、このくらいにしよう。
 1923.03.03-レーニン、3度目の脳梗塞により言語能力を失う。
 1924.01.21-レーニン死去。
 省略しつつも、かつ上の部分以降には全く言及しないものの、かなり長く引用・紹介したのは、日本共産党は、レーニンが「ネップ(新経済政策)」導入を通じて、「市場経済を通じて社会主義へ」という<新しく正しい>路線を明確にした、この「正しい」路線をスターリンが覆した、と理解しているからだ。
 また、既に紹介のとおり、志位和夫は、1921年10月のレーニン報告は「市場経済を正面から認めよう」、「市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しよう」という路線を打ち立てていくもので、「『市場経済=敵』論と本格的に手を切る」ものだった、「そこで本格的な『ネップ』の路線が確立」した、「レーニンがこの時期に確立した『市場経済を通じて社会主義へ』という考え方」は、「画期的な新しい領域への理論的発展」で、レーニンが「情勢と格闘し、模索しながらつくった」ものだ、などと書いているからだ。
 志位和夫がエピゴーネンとして依拠している不破哲三の本も一瞥しているが、いわゆる戦時共産主義とレーニンの死の間の時期、ネップ期とも言われることもある時期・時代の歴史は、上のコンパクトなカーの書物においてもすでに明らかなように、日本共産党や志位和夫・不破哲三が描くような単純なものではない。
 また、個人、例えばレーニンが「頭の中」で考えて手紙等で記したことと、党の会議での発言内容(・提出文書)と、そして党(ボルシェヴィキ)の公式・正式決定として承認されたもの(レーニンの原案であれ)は、党にとってもロシアにとっても意味は同じではないと思われ、それぞれ区別しておく必要があると思われる。
 上の点での厳密な史料処理はなされていないと思われるし、また、「観念」・「意識」と「現実」は違うはずだ、という基本的な点が日本共産党、不破哲三らにおいてどう理解され、方法論的に処理されているのかについても疑問がある。
 つまり、いくら<考え>あるいは<党決定>がかりに適切な(正しい)ものであったとしても、<現実>とは異なるのであり、前者に応じて後者も変わったということを、別途叙述または論証する必要があるだろう。
 不破哲三らはレーニンが何と言ったか、書いたかの細かな(文献学的な)詮索をしているが、かつての、1920年くらいから1924年くらいまでの現実の具体的な歴史の変遷を細かく確認する作業は怠っているように見える。
 そして、レーニンの生前と死後とで政策方針と現実が質的に大きく変わったかのごとき単純化は、誤っている、とほとんど断じてよいものと思われる。なお、レーニン生前の、「革命」後の党決定等には、スターリンも党幹部として関与している。
 三 ネップ期に限っても別の文献を紹介することはできるが、当然のことだが、ネップ期の前や10月「社会主義革命」まで(さらには2月「ブルジョワ革命」まで?)遡らないと、レーニンとロシア(・ソ連)についての理解は困難だ。
 今のところ所持している関係文献に、以下がある。すでに言及しているものも含む。
 ①稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)。
 ②D・ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/上・下(1995、日本放送出版協会)。
 ③M・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史1917~1991/上・下(1997、草思社)
 ④R・パイプス(西山克典訳)・ロシア革命史(2000、成文社)。
 ⑤クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書/ソ連篇(2001、恵雅堂出版/文庫版もある)。
 ⑥E・H・カー・ボリシェヴィキ革命1~3(1967・1967・1971、みすず書房)。
 ⑦E・H・カー(塩川伸明訳)・ロシア革命-レーニンからスターリンへ1917~1929年(1979、岩波現代新書)。
 カーの書物はソ連解体前のもので、それ以降に明らかになった史料は使われていない。
 カーは、「ソ連型社会主義」が<失敗>したと理解したとすれば、その原因をスターリンに求めるのだろうか、「革命」後のレーニンに求めるのだろうか、それとも「ロシア革命」自体に求めるだろうか、あるいはマルクス自体に?
 上の諸文献を利用しつつ、さらに、レーニンとスターリンの異同をめぐる日本共産党の<大ペテン>・<大ウソ>に論及していくこととする。
ギャラリー
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