秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

戦時共産主義

2567/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第二節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。
 ——
 第8章/ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
 第二節・1920-21年の農民大反乱。
 (01) 1921年3月までに、共産党員たちは努力をして、何とかして国民経済を国家の制御のもとにおくことに成功していた。
 この政策はのちに、「戦時共産主義」として知られることになる。—レーニン自身が、1921年4月に、これを廃棄するときに初めて用いた言葉だ。(注08)
 これは、言うところの内戦や外国による干渉という非常事態でもって、経済的実験作業の大厄災的な結果を正当化するためにこしらえられた、間違った名称だった。
 そうではなく、当時の諸記録を精査してみると、この政策は実際には、戦争状態への緊急的対応というよりも、できるだけ速く共産主義社会を建設する試みだった、ということに、疑いの余地はない。(注09)
 戦時共産主義は、生産手段および他のほとんどの経済的資産の国有化、私的取引の廃止、金銭の排除、国民経済の包括的計画への従属化、強制労働の導入といったものを、内容としていた。(注10)//
 ---- 
 (02) こうした実験は、ロシア経済を混乱状態に陥ち入れた。
 1913年と比較して、1920-21年の大規模工業生産額は82パーセントを失った。労働者の生産性は74パーセントが減り、穀物生産は40パーセントがなくなった。(注11)
 住民が食料を求めて農村地帯へと逃げ出して、都市部には人がいなくなった。ペテログラードはその人口の70パーセントを失い、モスクワは50パーセント以上を失った。
 その他の都市的なおよび工業の中心地域でも、減少があった。(注12)
 非農業の労働力は、ボルシェヴィキによる権力掌握の時点の半分以下にまで落ちた。360万人から、150万人へ。
 労働者の実際の賃金は、1913-14年の水準の3分の1にまで減った。(*)
 ヒドラのような闇市場が、必要なために根絶されず、住民たちに大量の消費用品を供給した。
 共産党の政策は、世界で15番めに大きい経済を破滅させることになり、「封建主義」と「資本主義」の数世紀で蓄積した富を使い果たした。
 当時のある共産党経済学者は、この経済崩壊は人類の歴史上前例のない大災難(calamity)だと言った。(注13)//
 ----
 脚注(*) E. G. Gimpelson, Sovetskii rabochii klass 1918-1920 gg (1974), p.80; Akademia Nauk SSSR, Instiut Ekonomiki, Sovetskoe harodnoe khoziaistvo v 1921-1925 gg (1960), p.531, p.536.
 これらの統計の詳細な研究は、1920年のソヴィエト国家には93万2000人の労働者しかいなかった、労働者と計算された被雇用者の三分の一以上は実際には一人でまたは単一の助手、しばしば家族の一員、をもって仕事をする芸術家だったから、ということを明らかにした。Gimpelson, loc, cit., p.82., Izmeneniia sotsial'noi struktury sovetskogo obschestva: Okiabr' 1917-1920 (1976), p.258.
 ----
 (03) 種々の実際的目的のために、内戦は1919-20年の冬に終わった。そして、これらの政策の背後の駆動力として戦争が必要だったとするなら、今やそれらを放棄すべきときだったはずだろう。
 そうではなく、白軍を粉砕した後の数年間、労働の「軍事化」や金銭の排除のような、最も乱暴な実験が行なわれ続けた。
 政府は、農民がもつ穀物「余剰」の強制的没収を維持した。
 農民たちは政府の禁止に果敢に抵抗し、隠匿、播種面積の減少、闇市場での産物の販売を行なって反応した。
 1920年に天候が悪くなったので、パンの供給不足はさらに進行した。
 それまでは食糧供給の点では都市部と比べて相対的には豊かだったロシアの農村地域は、飢饉の最初の兆候を経験し始めた。//
 ----
 (04) このような失敗の影響は経済的だけではなく、社会的なものだった。ボルシェヴィキを支持する薄い基盤をさらに侵食し、支持者を反対者に、反対者を叛乱者に変えた。
 ボルシェヴィキのプロパガンダは「大衆」に対して、1918-19年に被った苦難は「白衛軍」とその外国の支援者が原因だ、と言ってきた。「大衆」たちは、対立が終わって、正常な状態が戻ることを期待していた。
 共産党はある程度は、軍事的必要を正当化の理由とすることで、その政策の不人気を覆い隠してきた。
 内戦が過ぎ去ってしまうと、このような説明で請い願うことはもはや不可能だった。
 「人々は今や確信をもって、厳格なボルシェヴィキ体制の緩和を望んだ。
 内戦終了とともに、共産党は負担を軽くし、戦時中の制限を廃止し、いくつかの基礎的な自由を導入し、より正常な生活のための組織づくりを始めるだろう。…
 だが、きわめて不幸なことに、こうした期待は失望に転じる運命にあった。
 共産主義国家は、軛を緩める意思を何ら示さなかった。」(注14)//
 ----
 (05) 今や、ボルシェヴィキを支持しようとする人々にすら、つぎのような疑問が現われ始めた。すなわち、新しい体制の本当の目的は自分たちの運命を改善することではなく権力を保持し続けることではないか、この目的のためには自分たちの幸福を、そればかりか生命すらをも犠牲にしようと準備しているのでないか。
 このことに気づいて、その範囲と凶暴さで先例のない反乱が、全国的に発生した。
 内戦の終わりは、すぐに新しい戦いの発生につながった。赤軍は、白軍を打倒した後、今ではパルチザン部隊と闘わなければならなかった。
 この部隊は一般には「緑軍」として知られたが、当局は「蛮族」(bandits)と名づけたもので、農民、逃亡者、除隊された兵士たちで構成されていた。(注15)//
 ----
 (16) 1920年と1921年、黒海から太平洋までのロシアの農村地帯で見られたのは、蜂起の光景だった。これらの蜂起は、巻き込んだ人数でも影響を与えた領域の広さでも、帝制下でのStenka Rajin やPugachev の農民叛乱を大きく凌駕するものだった。(注16)
 その本当の範囲は、今日でも確定することができない。関連する資料が適切にはまだ研究されていないからだ。
 共産党当局は懸命に、その範囲を小さくしようとした。かくして、チェカによると、1921年2月に118件の農民反乱が起きた。(注17)
 実際には、そのような反乱は数百件起き、数十万人のパルチザンが加わっていた。
 レーニンは、この内戦の前線から定期的に報告を受け取っていた。全国にまたがる地図があり、巨大な領域に叛乱があることを示していた。(注18)  
 共産党歴史家はときたま、この新しい内戦の範囲について一瞥していて、いくつかのクラクの「蛮族」は5万人を数え、もっと多くの反乱があったことを認めている。(注19)
 戦闘の程度や激烈さのイメージは、反乱への対抗に従事した赤軍による公式の死者数から得ることができる。
 近年の情報によると、ほとんどがもっぱら農民その他の家族的反乱に対して向けられた、1921-22年の運動での赤軍側の犠牲者の数は、23万7908人に昇る。(注20)
 反乱者側の損失は、ほとんど確実に同程度で、おそらくはより多かった。//
 -----
 (17) ロシアは、農民反乱のようなものに関しては、何も知ってこなかった。かつては、農民たちは伝統的に武器を大地主たちに向かって取り、政府に対しではなかった。
 帝制当局が農民騒擾を〈kramola〉(扇動)と名づけたのと全く同様に、新しい当局は、それを「蛮族」と呼んだ。
 しかし、抵抗したのは、農民に限られなかった。
 かりにより暴力的でなかったとしても、もっと危険だったのは、工業労働者たちの敵対だった。
 ボルシェヴィキは、1918年の春までに1917年10月には得ていた工業労働者たちの支持のほとんどを、すでに失っていた。(注21)
 白軍と闘っているあいだは、メンシェヴィキとエスエルの積極的な助けもあって、ボルシェヴィキは、君主制の復活の怖れを吹聴することで労働者たちを何とか結集させることができた。
 しかしながら、いったん白軍が打倒され、君主制復活の危険がもはやなくなると、労働者たちは大挙してボルシェヴィキを捨て去り、極左から極右までの全ての考えられ得る選択肢のいずれかへと移行した。
 1921年3月、ジノヴィエフは、第10回党大会の代議員に対して、労働者、農民大衆はどの政党にも帰属していない、そして、彼らの相当の割合は政治的にはメンシェヴィキまたは黒の百人組を支持している、と言った。(注22)
 トロツキーは、つぎのような示唆に、衝撃を受けた。彼が翻訳したところでは、「労働者階級の一部が、残りの99パーセントの口封じをしている」。これは、ジノヴィエフの言及を記録から削除されるよう求めた部分だった。(注23)
 しかし、事実は、否定できなかった。
 1920-21年、自らの部隊を除いて、ボルシェヴィキ体制は全国土を敵にしていた。自らの部隊すらが、反乱していた。
 レーニン自身がボルシェヴィキについて、国民という大海の一滴の水にすぎない、と叙述しなかったか?(注24)
 そして、その海は、激しく荒れていた。//
 ----
 (18) 彼らは、制約なき残虐さと新経済政策に具体化された譲歩を、弾圧と強いて連結させることによって、生き延びた。
 しかし、二つの客観的要因から利益も得ていた。
 一つは、敵がまとまっていないことだった。新しい内戦は、共通する指導者または計画のない多様な個人の蜂起で成っていた。
 あちこちで自然発生的に炎が上がったが、職業的に指揮され、十分な装備のある赤軍とは、戦いにならなかった。
 もう一つの要因は、反乱者側には政治的な選択をするという考えがなかったことだった。ストライキをする労働者も、反乱している農民も、政治的観点からの思考をしなかった。
 同じことは、多数の「緑軍」運動についても言えた。(注25)
 農民の心情に特徴的なもの—変更可能なものと政府を見なすことができないこと—は革命とそ後の多くの革命的変化の後も存続した。(注26)
 労働者と農民は、ソヴィエト政府が行なったことで、きわめて不幸だった。つまり、政府がしたこととそれが把握し難かったことのあいだには、帝制期に急進的でリベラルな扇動には彼らは耳を貸そうとしなかったのとまさに同様の関係があった。
 そうした理由で、当時のように今も、他の全てのものが残ったままでいるかぎりは、直接的な苦情を満足させることで宥めることができる、ということにはならなかった。
 これが、NEP の本質だった。人々がいったん平穏になれば奪い返す、そのような経済的恵みでもって自分たちの政治的な生き残りを獲得しようとすること。
 ブハーリンは、あからさまにこう述べた。
 「我々は、政治的な譲歩を回避するために、経済的な譲歩を行なっている」。(注27)
 これは、ツァーリ体制から学んだ実務だった。主要な潜在的挑戦者である地主階層(gentry)を、経済的利益でもって骨抜きにすることで、その専横的特権を守った、という実際。(注28)
 ----
 後注
 (08) Lenin, PSS, XLIII, p.205-245.
 (09) RR, p.671-2.〔RR=R. Pipes, Russian Revolution, 1990〕 
 (10) Ibid., p.673.
 (11) Ibid., p.696. この主題についてはさらに、V. Sarabianov, Ekonomika i ekonomicheskaia politika SSSR, 2.ed., とくにp.204-247.
 (12) Desiatyi S"ezd RKP(b) :Stenograficheskii Otchet (1963), p.290. さらに、Paul Avrich, Kronstdt 1921 (1970), p.24 を見よ。Krasnaiagayeta,1921.2.9 を引用している。また、League of Nations, Report on Economic Conditions in Russia (1922), p.16n.
 (13) L. N. Kritsman, Geroicheskii period velikoi russkoi revoliutsii 2.ed. (1926), p.166.
 (14) Alexander Berkman, The Kronstadt Rebellion (1922), p.5.
 (15) Oliver H. Radkey, The Unknown Civil War in Soviet Russia (1976), p.32-33.
 (16) Vladmir Brovkin の近刊著、Behind the Front Lines of the Civil War を見よ。
 (17) Seth Singleton in SR, No. 3 (1966.9) , p.498-9.
 (18) RTsKhIDNI, F. p.5, op.1, delo 3055, 2475, 2476. それぞれ、1919年5月、1920年下半期、1921年全体。Ibid., F. p.2, op. 2,delo 303. これは、1920年5月の前半。
 (19) I. Ia. Trifonov, L¥Klassy i klassovaia bor'ba v SSSR v nachale NEPa, I (1964), p.4.
 (20) B. F. Krivosheev, ed., Grif sekretnosti sniat (1993), p.54.
 (21) RR, p.558-565.
 (22) Desiatyi S"ezd, p.347.
 (23) Ibid., p.350.
 (24) 上述、p.113.
 (25) Radkey, Unknown Civil War, p.69.
 (26) R. Pipes, Russia under the Old Regime (1974), p.157-8 を見よ。RR, p.114. p.118-9.
 (27) 1921年7月8日、コミンテルン第3回大会での Bukharin。The New Economic Politics of Soviet Russia (1921) , p.58.
 (28) R. Pipes, Old Regime, p.114.
 ——
 第二節、終わり

2554/O.ファイジズ・内戦と戦時共産主義①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 この著のうち、第7章の試訳。
 第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
 ——
 第7章・内戦とソヴィエト・システムの形成①。
 第一節。
 (01) ブレスト=リトフスク条約によって、Czech とSlovak の兵士たちの大勢力—戦争捕虜とAustro-Hungary 軍からの脱走者—は、ソヴィエト領域内に取り残された。
 ナショナリストたちは自分たちの国のAustro-Hungary 帝国からの独立のために戦うと決心したので、戦争でロシア側に付いた。
 しかし、今ではフランスで戦っているチェコ軍の一部として戦闘を継続したかった。
 彼らは、敵の戦線を横切る危険を冒すのではなく、東方へと進み、世界をまさに一周して、Vladivostok とアメリカ合衆国を経てヨーロッパに着こうとした。
 〔1918年〕3月26日、ソヴィエト当局とPenza で合意に達した。それによれば、チェコ軍団の3万5000人の兵士は、自衛のための明記された数の武器をもつ「自由な市民」としてシベリア横断鉄道で旅をすることが認められた。//
 ----
 (02) 5月半ばまでに、ウラルのCheliabinsk にまで到達し、そこで、地方ソヴィエトやその赤衛隊との戦闘に巻き込まれた。後者は彼らの銃砲を没収しようとした。
 軍団は、自由ソヴィエト・シベリアを通過して進もうと決め、グループに分かれ、軍備も紀律も乏しい赤衛隊から次から次へと町々を奪取した。赤衛隊は、よく組織されたチェコ軍団を見るやパニックに陥ってただちに逃げ去った。
 6月8日、チェコ軍団の8000人がヴォルガのSamara を奪った。そこは右翼エスエル(the Right SRs)の要塞地で、指導していたのは立憲会議〔憲法制定議会〕の閉鎖の後に当地へと逃亡した者で、Komuch(立憲会議議員委員会)という政府を形成していた。その政府で、チェコ軍団は力を握った。
 右翼エスエルは、フランスとイギリスがボルシェヴィキを打倒してドイツとオーストリアに対する戦争に再び戻るのを助けるつもりだ、と約束した。
 こうして、内戦—赤軍と白軍の間の軍事隊列で組織されていた—は、新しい段階に入った。それには最終的には、14の連合諸国が関わることになる。//
 ----
 (03) 南ロシアのドン河地方で、すでに戦闘は始まっていた。その地方で、Bykhov 修道院を脱出していたコルニロフ(Kornilov〉と彼の白軍は、4000人の義勇軍を設立した。ほとんどは将校たちで、2月に氷結した平原を南へKuban 地方へ退却する前に、赤軍からRostov を短期間で奪った。
 コルニロフは4月13日に、Ekaterinodar 攻撃の際に殺された。
 将軍Denikin が指揮権を受け継ぎ、白軍を再びドン地方に向かわせた。そこではコサック農民たちがボルシェヴィキに対して反乱を起こしていた。ボルシェヴィキは銃で脅かして食料を奪い取り、コサック居住地で大暴れしていた。
 6月までに、4万人のコサック兵が将軍Krasnov のドン軍に合流した。
 その軍は、白軍とともに、北のヴォルガ地方を睨む強い位置にあり、モスクワを攻めるべくチェコ軍団と連係した。//
 -----
 第二節。
 (01) 内戦の物語はしばしば、白軍と連合諸国のロシアへの干渉によってボルシェヴィキが闘うことを強いられた戦闘だった、と語られている。
 事態に関するこのような左翼史観では、赤軍は「非常手段」の行使について責められるべきではない、そのような措置は内戦で用いるよう余儀なくされたのだ—専断的命令とテロルによる支配、食糧徴発、大衆徴兵、等々—、なぜなら、ボルシェヴィキは反革命に対して革命を防衛するために決然とかつ迅速に行動しなければならなかったからだ、ということになる。
 しかし、このような見方は、内戦の全体像や内戦のレーニンとその支持者にとっての革命との関係を把握することができない。//
 ----
 (02) レーニンらの見方では、内戦は階級闘争の必要な段階だった。
 彼らにとっては、内戦は革命をより激しく軍事的な態様で継続させるものだった。
 トロツキーは6月4日にソヴェトに対してこう言った。
 「我々の党は、内戦のためにある。
 内戦、万歳!
 内戦は、労働者と赤軍のためにあった。内戦は反革命に対する直接的で仮借なき闘いの名において行われた。」(注1)//
 ----
 (03) レーニンは、内戦に備えており、おそらくは歓迎すらした。自分の党の基盤を確立する機会として。
 この闘争の影響は予見し得るものだっただろう。「革命」側と「反革命」側への国内の両極化。国家の軍事的および政治的な権力の拡張、反対者を抑圧するテロルの行使。
 レーニンの見方では、これら全てがプロレタリアート独裁の勝利のために必要だった。
 彼はしばしば、パリ・コミューンが敗北した理由はコミューン支持者たちが内戦を起こさなかったことにある、と言った、//
 ----
 第三節。
 (01) チェコの勝利の平易さによって、今は戦争大臣のトロツキーに明らかになったのは、赤軍は、赤衛隊に代わる常備軍、職業的将校、指揮系統の中央集権的階層制を備え、帝政時代の徴兵軍をモデルにして再編成されなければならない、ということだった。
 この政策方針には、多数の反対が党員内部にあった。
 赤衛隊は労働者階級の軍と見られたが、ボルシェヴィズムの見方では、大衆徴兵は敵対的な社会勢力である農民層に支配された軍をつくることになる。
 党員たちはとくに、トロツキーの考えにある帝制時代の元将校の徴兵に反対した(内戦中に7万5000人がボルシェヴィキによって徴兵されることになる)。
 党員たちはこれは古い軍事秩序への元戻りであって、「赤軍将校」として彼らが昇進するのを妨害するものだと見た。
 いわゆる軍部反対派は、下層部にある不信と職業的将校やその他の「ブルジョア専門家」へのルサンチマンをあちこちで明確にしていた。
 しかし、トロツキーは、批判者たちの論拠を嘲弄した。革命的熱狂では、軍事的専門知識の代わりにならない。//
 ----
 (02) 大衆徴兵は、6月に導入された。
 工場労働者や党活動家は最初に召集された。
 地方には軍事施設がなかったので、農民たちを動員するのは予想したよりもはるかに困難だった。
 最初の召集による募兵で想定していた27万5000人の農民のうち、4万人だけが実際に出頭した。
 農民たちは、収穫期に村落を去りたくなかった。
 徴兵に対しては農民蜂起が発生し、赤軍からの大量脱走もあった。
 ----
 (03) ソヴィエトの力が地方で強くなるにつれて、農民の徴兵の割合は改善した。
 赤軍は、1919年春までに100万人の兵士をもち、1920年までに300万人に大きくなった。
 1920年の内戦の終わりまでには、500万人になった。
 赤軍は多くの点で大きすぎて、効率的でなかった。
 赤軍は荒廃した経済が銃砲、食糧、衣類を供給できる以上の早さで大きくなった。
 兵士たちは士気を失い、数千人の単位で、武器を奪って脱走した。その結果、新規の兵士たちが、十分な訓練を受けることなく、戦闘に投入されなければならなかった。そのことだけでも、脱走兵をさらに増やしそうだった。
 赤軍はこうして、大衆徴兵、供給不足、脱走の悪循環に陥っていった。これはつぎには、戦時共産主義(War Communism)という苛酷なシステムを生んだ。この戦時共産主義というシステムは、命令経済を目指すボルシェヴィキの最初の試みで、その主要な目的は全ての生産を軍隊の需要に向かって注ぎ込むことだった。//
 ----
 (04) 戦時共産主義は、穀物の独占で始まった。
 しかし、包括的射程で経済の国家統制を含むように拡大した。
 戦時共産主義は、私的取引の廃止、全ての大規模産業の国有化、基幹産業での労働力の軍事化を目指した。そして、1920年のその絶頂点では、金銭を国家による一般的な配給制に換えようとした。
 これはスターリン主義経済のモデルだったので、その起源を説明し、どの点が革命の歴史に適合するかを判断することは、重要なことだ。//
 ----
 (05) 一つの見方は、こうだ。戦時共産主義は内戦という緊急事態への実践的な対応だ。—推測するにレーニンが1918年春に構想し、1921年の新経済政策で回帰することになる混合経済からの一時的な逸脱だ。
 この見方は、この二つの時期にボルシェヴィキが追求した社会主義の「ソフト」な範型は、内戦期やスターリン時代の「ハード」な、または反市場・社会主義と対置される、レーニン主義の本当の顔だ、と考える。
 別の見方は、こうだ。戦時共産主義の根源はレーニンのイデオロギーにある。—布令によって社会主義を押し付ける試みであり、ボルシェヴィキが大衆的抗議を受けて1921年にやむなくようやく放棄したものだ。//
 ----
 (06) どちらの見方も、正しくない。
 戦時共産主義は、内戦へのたんなる反応ではなかった。
 内戦を闘うための手段であり、農民その他の社会的「敵」に対する階級闘争のための一体の政策体系だった。
 こう説明することで、この政策が白軍を打倒したあと一年間も維持された理由が明らかになる。
 ボルシェヴィキは明確なイデオロギーを有していた、と言うこともできない。
 ボルシェヴィキは政策方針に関して分かれていた。—左翼は資本主義システムの廃棄へと直接に向かうことを望んだが、レーニンは、経済の再建の為に資本主義の手段を用いることを語った。
 この分裂は、内戦のあいだを通じて何度も浮上し、そのために戦時共産主義の政策は絶えず中断し、党の統一という関心に変わった。//
 ----
 (07) 戦時共産主義は本質的には、都市部の食料危機と彼らの権力の基盤があった都市部の飢餓からの労働者の脱出に対する、ボルシェヴィキの政治的反応だった。
 ボルシェヴィキ体制の最初の6ヶ月間で、およそ100万人の労働者が大きな工業都市から脱出し、食料供給地で生活することのできる農村地帯へと移動した。
 ペテログラードの金属工業は最も悪い影響を受けた。—この6ヶ月間で、その労働者数は250万からほとんど5万に落ちた。
 ボルシェヴィキがかつては最強だったNew Lessner とErickson の工場施設には、10月にはそれぞれ7000人以上の労働者がいたが、4月までに200人以下になった。 
 Shliapnikov の言葉によれば、ボルシェヴィキ党は「存在していない階級の前衛」になっていた。(注2)//
 ----
 (08) 危機の根源は、紙幣を使って買えるものは何もないときに、農民たちは紙の金のために食糧用品を売ろうとはしないことにあった。
 農民は生産を減らし、余剰を貯え、家畜を太らせるために穀物を用いるか、都市部からやって来る商売人との間の闇市場でそれを売った。
 都市部の商売人は農民たちと取引するために農村地帯を旅行した。
 彼らは、衣類や家庭用品を詰めた袋を持って都市部を出発し、地方の市場でそれらを売るか交換し、今度は食料を詰めて帰っていった。
 労働者たちは、彼らが工場で盗んだ道具類で農民たちと取引をし、あるいは物々交換すべく、斧、鋤、簡易ストーブ、煙草ライターのような簡単な用具を製造した。
 このような大量の「袋運び屋」によって、鉄道は占められた。
 モスクワと南方の農業地帯の間の主要な接合地であるOrel 駅では、毎日3000人の「袋運び屋」が通り過ぎた。
 彼らの多くは、列車を乗っ取った武装集団とともに旅行した。//
 ----
 (09) ボルシェヴィキは、5月9日に、穀物を彼らが独占することを発表した。
 農民たちの収穫の余剰は全て、国家の所有物になった。
 武装集団が村落へと行って、穀物を徴発した。
 (余剰がないために)穀物を見つけられない場合に彼らが想定したのは、「富農」(クラク、kulak)—ボルシェヴィキが考案した「資本主義」的農民層という正体不明(phantom)の階級—が隠している、「穀物を目ざす戦争」が始まった、ということだった。//
 -----
 (10) レーニンは、衝撃的な激烈さをもつ演説で、戦いの火蓋を切った。
 「クラクは、ソヴィエト政権に対する過激な敵対者だ。…
 この吸血鬼どもは、人民の飢えにもとづいて富裕になった。…
 仮借なき戦いを、クラクに対して行え!」(注3)
 部隊は、必要な穀物量が手放されるまで、村民たちを打ち叩いて、苦痛を与えた。—しばしば、次の収穫のために絶対不可欠の種苗までが犠牲になった。
 農民たちは、貴重な穀物を部隊から隠そうとした。
 徴発に抵抗する数百の農民蜂起が発生した。//
 ----
 (11) ボルシェヴィキは政策を強化することで対応した。
 1919年1月に、穀物独占に代えて、一般的な食糧賦課(Food Levy)を導入した。これによって、独占は全ての食糧品に拡大され、地方の食料委員会は収穫見込み量に従って賦課する権限を剥奪された。これ以降、モスクワは、農民たちの最後の食料や種苗を奪っているのかどうかについて何ら考慮することなく、必要としたもの全てを農民たちから剥奪することになる。//
 ----
 (12) 食糧賦課の目的は、赤軍の増大する需要に合わせることだけではなかった。
 カバン人の商売を根絶することで、労働者たちが工場にとどまり続けるのを助けた。
 労働力の統制は、戦時共産主義の本質部分だった。—トロツキーはこう言った。「国家の計画に適合するために必要とされる場所へと全ての労働者を配置するのは、独裁者の権利だ」。(注4)
 この計画経済に向かう一歩が、1918年6月の大規模産業の国有化だった。
 国家が指名する管理者に、工場委員会と労働組合の権限(1917年11月の布令で工場が担った)が移し換えられた。これは産業との関係に混乱をもたらし、1918年春のボルシェヴィキに対する労働者反対運動の契機となった。
 国有化布令は、ペテログラードで計画されていた総ストライキの3日前に発せられた。これは新しい工場管理者に、行動につき進む労働者に対しては解雇でもって威嚇することを許した。//
 ----
 (13) 配給制度は、戦時共産主義の最後の構成内容だった。
 左翼ボルシェヴィキは、配給券発行は共産主義秩序を創設する行為だと見た。—金銭の代替物。彼らは間違って、金銭の消滅は資本主義システムの終焉を意味すると考えた。
 配給制度を通じて、ボルシェヴィキ独裁制はさらに、社会の統制を強めた。
 配給のクラス分けは、新しい社会階層秩序での人の位置を明らかにした。
 赤軍兵士と官僚層は第一等級の配給を得た(粗末だが十分だった)。
 ほとんどの労働者は第二等級だった(十分ではなかった)。
 一方で階層の底にいる〈ブルジョア(burzhooi)〉は、第三等級の配給で対応しなければならなかった(ジノヴィエフが回想した言葉によると、「匂いを忘れない程度のパンだけ」だった (注5))。//
 ——
 第四節。
 (01) 全体主義国家の起源は、戦時共産主義にあった。戦時共産主義が行ったのは、経済と社会の全ての側面の統制だった。
 ソヴィエト官僚制度は、この理由で、内戦のあいだに劇的に膨れ上がった。
 帝制時代の国家の古い問題—国の大多数の上に位置する能力のなさ—は、ソヴィエト国家では継承されなかった。
 1920年までに、540万の人々が政府のために働いた。
 ソヴィエト・ロシアにいた労働者数の二倍の数の役人がいた。そして、この役人たちは、新しい体制の主要な社会的基盤だった。
 プロレタリアート独裁ではなく、官僚層の独裁制だった。//
 ----
 (02) 党に加入することは、官僚制の階位を通って昇進するための最も確実な方法だった。
 1917年から1920年までの間に、140万人が入党した。ほとんど全員が下層または農民の背景をもち、多くが赤軍出身者だった。赤軍での経験は、数百万の徴兵者たちに、紀律ある革命的前衛の下級兵士であるボルシェヴィキの思考と行動の様式を教えた。
 党指導部は、この大量の流入が党の質を落とすだろうと懸念した。
 識字能力の水準はきわめて低かった(4年間の基礎学校の課程以上の教育を受けていたのは、1920年に党員の8パーセントだけだった)。
 党員たちの政治的能力に関して言うと、未熟だった。文筆業のための党学校では、学生の誰一人としてイギリスやフランスの指導者の名前を言うことができず、何人かは帝国主義とはイギリスのどこかにある共和国だと思っていた。
 しかし、別の観点からは、この教育不足は党指導部にとっての利益になった。教育不足は支持者の自分たちへの政治的従属性を支えるものだったからだ。
 教育が不足する党員たちは党のスローガンを鸚鵡返しで言ったが、全ての批判的思考を政治局と中央委員会に委ねていた。//
 ----
 (03) 党が大きくなるにつれて、党は地方ソヴェトを支配するようにもなった。
 これが意味したのは、ソヴェトの変質だった。—議会によって統制される地方的革命組織からボルシェヴィキが全ての現実的権力を行使する党国家(Party-State)の官僚制的機構への変質。そこでは執行部が優越的地位をもった。
 上級のソヴェトの多く、とくに内戦で重要と見なされた地域でのソヴェトでは、執行部は選挙で選出されなかった。モスクワの党中央委員会が、党官僚の中からソヴェトを管理させるべく派遣した。
 田舎の(rural, 〈volost'〉)ソヴェトでは、執行部は選挙で選出された。
 この場合は、ボルシェヴィキの勝利は部分的には、投票制度と投票者の意向に依存していた。
 しかし、ボルシェヴィキの意思の貫徹は、第一次大戦で村落を離れて内戦中に帰郷した、青年やより学識のある村民たちの支持をも理由としていた。
 この者たちは、軍事技術や軍事組織に近年に熟達し、社会主義思想もよく知っていて、ボルシェヴィキに加入する心づもりがあり、内戦が終わるまでには田舎のソヴェトを支配していた。
 例えば、この問題が詳しく研究されているVolga 地域では、〈volost'〉ソヴェトの執行部構成員の三分の二は、35歳以下の識字能力ある農民男性で、1919年秋にボルシェヴィキ党員として登録されていた。その前の春には、この割合は三分の一だった。
 この意味で、独裁制は農村地帯での文化革命に依拠していた。
 農民世界の至るところで、共産主義体制は、公務階層(official class)に加わりたいとする、教養ある農民の息子たちの野心にもとづいて築かれていた。//
 ——
 第五節以下へ、つづく。

2282/L. Engelstein, Russia in Flamesー第6部第1章第一節②。

 L. Engelstein, Russia in Flames—War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 第6部第1章の試訳のつづき。
 第1章・プロレタリア独裁におけるプロレタリアート。
 ——
 第一節②。
 (9)もちろん、移行を瞬時に行うことはできない。
 1918年にはずっと、私的所有制がなおも一般的で、様々な当事者—起業者、労働組合、国家—の間で交渉が継続した。
 工場委員会は、私的所有の事業体の中でまだ活動しており、政治的な番犬のごとく振る舞っていた。
 1920年4月の第9回党大会になってようやく、委員会は労働組合に従属した。労働組合はいまや国家の腕になっていた。(11)
 トロツキーが技術的専門家の利用、職場紀律の賦課、そして実力による強制—赤軍の勝利の背後にあったモデル—を強調したのは、このときだった。
 この党大会で、そしてその後の労働組合大会で採択された決定は、労働者委員会を権限ある管理者に服従させた。(12)
 レーニンが観察したように、労働者には工場を稼働させる能力がなかった。
 国家は、その本来の利益からして、「階級敵」との協働を必要とした。
 あるいは、マルクス主義の用語法で言うと、(理論上は)政治権力をもつ階級(プロレタリアート)は、経済的権力を行使することができない。
 プロレタリアートの地位は、1789年のフランスのブルジョアジーとは対照的だ。彼らは、政治的権力を獲得する前に経済を先ず支配した。
 (10)上意下達の支配と草の根の(プロレタリア)民主主義の間に元々ある緊張関係は、真にプロレタリアートの現実の利益を代表する国家の働きによって解消される、と想定されていた。
 ソヴィエトの場合は、この緊張関係は、民衆の主導性の抑圧とプロレタリアートによる支配というフィクションによって究極的には解消された。
 しかしながら、その間に、「国家」自体が緊張で引き裂かれた。
 中央による支配の達成は、中央においてすら、容易なことではなかった。
 市民の主導性をやはり抑圧した、そして戦争をするという挑戦にも直面した君主制のように、ボルシェヴィキの初期(proto)国家は、中央と地方、上部と下部の間のみならず、経済全体の管理と軍隊に特有な需要との間の緊張関係も経験した。
 1917年以前と同様に、制度上の観点からする対立が明らかになった。
 今では、中央の経済権力(VSNKh)は、生産の動員と物的資源を求める赤軍と競っていた。
 実際、軍はそれ自身の経済司令部を設け、VSNKhとともに生産の監督を行なっていた。
 中央や諸地方にある多様な機関が、希少な原料と燃料を求めて競争していた。
 金属の供給が再び始まったのは、ようやく1919年のウラルの再奪取があってからだった。(14)
 (11)経済の崩壊という圧力のもとで出現したもう一つの不安は、労働力不足だった。
 人々が食糧を求めて田園地域へと逃亡するにつれて、都市は縮小した。
 配給は十月の直後から導入されていたが、配達は不確実で、量は乏しかった。
 1917年と1920年の間に、ペテログラードは人口の3分の2を喪失した。モスクワは2分の1を。(15)
 全体としては、産業労働力は60パーセント減少して、360万人から150万人になった。
 最も気前のよい配給を好む労働者たちの苦痛は、食糧不足と都市部での生活水準の低下を示す指標となった。
 工場を去った労働者たちのおよそ4分の1は、赤軍に入隊した。(16)
 志願兵は最も未熟な労働者の出身である傾向があった。彼らは、赤軍が提供する多様な物質的な刺激物によって最大の利益を得た。—とくに、食事と金銭手当。
 概して言って、多数の労働者は単純に、どんな戦争でも戦闘をしたくなかった。(17)
 とどまった熟練労働者たちは、教育を受けたイデオローグたちの政治的見解を共有している傾向にあった。
 彼らはしたがって、草の根権力からの逸脱が含んでいる政治的裏切りをより十分に理解することができた。また、ボルシェヴィキ支配により抵抗しがちだった。
 (12)労働者を規律に服させることは、最優先の課題になった。
 最も熟練した者であっても、プロレタリアートは、経済はむろんのこと工場を運営する能力がなかったということでは済まない。彼らは今や、労働を強いられなければならなかった。
 労働人民委員部は、建設、輸送その他の緊急の業務のために人的資源を用いた。
 1919年6月に、モスクワとペテログラードで労働カードが導入された。
 雇用されていることの証明が、配給券を獲得するには必要とされた。
 一般的な労働徴用は、1920年4月に始まった。(18)
 だが、長期不在(逃亡)や低い生産性が持続した。
 食物は、武器になった。
 配給は、労働の種類、熟練の程度、生産率によって割り当てられた。
 いわゆる専門家には報償が与えられ、欠勤や遅刻には制裁が伴った。
 労働組合は、社会主義原理の侵犯だとして、賃金による動機付けや特別の手当の制度に異議を申し立てた。
 1920年頃には、インフレがあって、労働者たちは現物による支払いを要求した。
 彼らは、国家に対する犯罪だと見做されていたことだが、工場の財産を盗んで、物品を自分たちのものにした。(19)
 労働徴用に加えて、当局はまた別の強制の形態に変えもした。
 1920年初めに始まったのだが、多くは非熟練の農民労働者だった動員解除されていた兵士が労働部隊に投入され、鉱山や輸送、工業および鉄道の、燃料のための木材を集めるために使われた、
 トロツキーは、第9回党大会で、工場労働力の軍事化も呼びかけた。
 労働人民委員部への登録は義務となり、不出頭は脱走だとして罰せられた。(20)
 (13)どこでもあることだが、しかし彼らの支持層との関係では驚くことに、ボルシェヴィキは、実力(force)の行使について取りすましてもおらず、かつ釈明的でもなかった。
 ブハーリン(Nikolai Bukharin)は1920年に、「プロレタリア独裁のもとでは、強制は初めて本当に、多数派の利益のための多数派の道具となる」と誇った。
 レーニンは述べた。「プロレタリアート独裁は強制(compulson)に、そして国家による最も苛酷で決定的な、容赦なき強制(coercion)に訴えることを、いささかも恐れない。先進的階級、資本主義により最も抑圧された階級は、強制を用いる資格がある」。(21)
 思うのだが、この場合は、(本当にプロレタリアートであるならば)プロレタリアートは、そのゆえに、自分たち自身に対して強制力を行使していた。
 (14)強制はかくして、戦時共産主義として知られるようになったものの基礎的で逆説的な要素だった。—産業の国有化、労働徴用、労働の軍事化、穀物挑発。
 これは、彼らが与えようとはしたくない、またはそれを躊躇するものを労働する民衆から絞り出させるというシステムだった。—適正な補償なくして、労働やその果実を奪う、という。
 また、民衆の一階層(飢えた労働者)を他者(屈強だか、やはり飢えた農民)に反対するように動員するシステムだった。
 労働者たちはある範囲では、赤衛軍や食糧旅団で、国家権力の装置となった。国家権力は彼らを代表するとされたものだったが、ますます彼らを制約した。
 農民たちは、兵士であるかぎりでは自ら国家装置に加入したことになる。
 農民と労働者のいずれも、抵抗という暴力的形態でもって、この装置に対応することもした。
 (15)労働者組織(委員会、組合、ソヴェト、党内からの指導者)—これらは、生まれようとする資本主義秩序に対する反対派を構成し、反対はあらゆる党派の革命的な活動家によって形成された—は、ボルシェヴィキが闘争を策略でもって勝利する基盤となった。
 しかし、労働者組織はまた、ボルシェヴィキ支配に対する社会主義者の抵抗の基盤ともなった。
 左翼側にあるこの批判は、経済的社会的危機に直面した労働者自身の絶望と怒りに、構造を付与した。
 従前のように、土台にある労働者たちはしばしば、自分たちの指導者に反対した。
 要するに、帝政を打倒するのを助け、ボルシェヴィキによって培養されて権力奪取に利用されたのと同じ怒りと熱情が、ひとたび彼らが自分たちで権力を振る舞おうとするや、難題を突きつけたのだ。
 (16)本質を突き詰めていえば、社会主義の基礎的な諸命題は、労働者や農民が共鳴するものだった。—搾取者と被搾取者の二分論、「民主主義」対「ブルジョアジー」、防衛側にいる者と攻撃する側にいる者の対立、賃金労働者対上司たち。
 イデオロギーの素晴らしい点は、抽象的にはほとんど違いをもたらさない。
 メンシェヴィキ、エスエル(これらはいずれも内部で分裂した)およびボルシェヴィキの様々な訴えは、特有な状況を反映していた。
 工場労働者は、実際には、自分たち自身の制度を創設し、自分たちの指導者を生み出す能力を持っていた。
 社会主義知識人たちは、たんに騙されていたのではなかった。しかし、労働者大衆は、激しくて規律のない暴力(violence)を行使することも、自分たちの利益を代表するとする代弁者に反対することもできた。
 (17)1917年十月の後で、集団的行動は継続した。—今度は、体制に対して向かった。その体制は、経済生活の最高の主人だと自分たちを位置づけていた。
 この最高の主人は、しかしながら、自分の国家装置に対する差配をできなかった。
 政策の適用と影響は場所によって、地方的支配の態様によって異なった。
 最も先進的な企業や優れた労働組合の所在地であるペテログラードでは、
地方ボルシェヴィキは、労働者組織に対して厳しい統制を敷いた。
 モスクワでは、レーニンのプラグマティックな考えによって、妥協はより容易だった。
 ウラル地方では、左翼ボルシェヴィキ、左翼エスエル、メンシェヴィキが、影響力を目指して闘った。—その雰囲気は、激烈だった。
 そしてじつに、ソヴィエト当局に対する最も激しい労働者反乱が発生したのは、このウラルでだった。(22)
 (18)ウラルでの十月の影響は、厄災的だった。
 市議会(City Duma)やzemstvo のような市民組織は、瓦解した。
 ボルシェヴィキは、非常措置を用いた。—残虐な徴発、身柄拘束、食糧を求めての村落の略奪、私的取引の禁止(没収)。これらは全て、歴史家のIgor Narskii が述べるように、農民たちの抗議の波を誘発しつつも、「枯渇に至るまでの人口の減少」をもたらした。
 どの都市も、どの大工業施設も、自ら閉鎖した。そして、窮乏(deprivation)という別の世界に変わった。(23)
 ——
 第一節、終わり。

1817/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑩。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第10回。
 第3章・内戦。
 ----
 第2節・戦時共産主義(War Communism)。
 ボルシェヴィキは、崩壊に近い状態で戦争中の経済を引き継いだ。その最初でかつ重大な課題は、経済を作動させることだった。(12)
 これは、内戦時の経済政策という現実的な脈絡の中で、のちに「戦時共産主義」という名称が与えられた。
 しかし、イデオロギー上の意味ももっていた。
 ボルシェヴィキは、長期的観点からは、私有財産と自由市場の廃止および必要に応じての生産物の配分を意図していた。そして、短期的には、これらの理想に近いものを実現させる政策を望んだかもしれなかった。
 戦時共産主義における現実主義とイデオロギーの間の均衡関係は、長いあいだ論争の対象になってきた。(13)
 問題は、国有化と国家による配分といった政策は戦争という非常事態への現実的な対応だとするか、それとも共産主義が指示するイデオロギー上の要求だとするか、これらのいずれによって、もっともらしくし説明することができるのか、だった。
 この論議では、両派の学者たちが、レーニンや他のボルシェヴィキ指導者の公的文章を引用することができる。ボルシェヴィキたち自身が、確実な回答をすることができないからだ。
 新しい経済政策のために戦時共産主義が頓挫した1921年時点でのボルシェヴィキの見方からは、明らかに現実的な解釈が選好された。すなわち、戦時共産主義がいったん失敗したとするなら、そのイデオロギー上の土台に関してはなるべく語らない方がよかったのだ。
 しかし、初期のボルシェヴィキの見方からは-例えば、Bukharin と Preobrazensky の<共産主義のイロハ>の見方からは-、それの反対が真実(true)だった。
 戦時共産主義が実施されている間、ボルシェヴィキがその政策にイデオロギー上の正当化を与えるのは自然だった。-マルクス主義という科学的イデオロギーで武装した党は、たんに保ち続けるようもがいているのではなく、事態を完全に掌握している、と主張するために。//
 論議の背後にある問題は、ボルシェヴィキはどの程度すみやかに共産主義へと移行できると考えていたのか、だ。
 これに対する答えは、1918年について語るのか、それとも1920年について語るのか、によって異なる。
 ボルシェヴィキの最初の歩みは用心深く、将来に関する公式説明もそうだった。
 しかしながら、1918年半ばでの内戦勃発から、ボルシェヴィキに初期にあった用心深さは消え失せ始めた。
 絶望的な状勢を見渡して、ボルシェヴィキはより急進的な政策へと変化し、徐々に中央政府の支配がおよぶ範囲を、元々は意図していたよりも広くかつ急速に拡張しようとした。
 1920年、ボルシェヴィキが内戦での勝利と経済での崩壊へと向かっていたとき、高揚感と絶望感とが定着した。
 多くのボルシェヴィキには、古い世界が革命と内戦の炎の中へと消え失せるとともに、新しい世界がその燃え滓の中から不死鳥のごとく起ち上がるように思えた。
 この希望はおそらく、マルクス主義というよりも無政府主義的イデオロギーにもとづくものだった。しかし、そうではあっても、マルクス主義の言葉遣いで表現された。すなわち、プロレタリア革命の勝利と共産主義への移行は、おそらく数週間後あるいは数箇月後にまで切迫している、と。//
 経済政策の領域で最重要なものの一つである国有化は、このような帰結を例証するものだ、とされた。
 優秀なマルクス主義者として、ボルシェヴィキは、十月革命後にきわめて速やかに銀行と信用機関を国有化した。
 しかし、工業全体の国有化に、ただちには着手しなかった。すなわち、最初の国有化布令は、プチロフ工業所のような、防衛生産と政府契約を通じて国家に緊密に関与していた個々の大コンツェルンにのみ関係するものだった。//
 しかしながら、情勢は多様で、ボルシェヴィキの元来の短期的意図をはるかに超える範囲で、国有化が行われることになった。
 地方ソヴェトは、その権限にもとづいて工場施設を収奪した。
 ある範囲の工場施設は、所有者または経営者が放棄した。別のいくつかの工場施設は、かつて経営から排除されていたその労働者たちの請願によって、あるいは無秩序の労働者たちからの保護を求める経営者の請願すらによって、国有化された。
 1918年夏、政府は、全ての大規模工業を国有化する布令を発した。そして、1919年秋までに、この布令の対象となった企業の80パーセントが実際に国有化された、と推算された。
 これは、新しい経済最高会議(Supreme Ecconomic Council)の組織能力をはるかに超えるものだった。すなわち、実際には、かりに労働者たち自身が原料の供給や最終製品の配分を調整して工場施設を作動させ続けることができなければ、その工場施設はしばしばすぐに閉鎖された。
 だが、そのようであっても、ボルシェヴィキは、さらに進めなければならないと感じていた。
 1920年11月、政府は少なくとも紙の上では、全ての大規模工業を国有化した。
 もちろん実際には、ボルシェヴィキには、それらを管理することはもとより、新しい獲得物をどう呼び、どう分類するかも困難だった。
 しかし、理論上は、生産の領域全体が今やソヴィエト権力の手中にあり、工芸品店舗や風車ですら、中央が指揮する経済の一部になった。//
 同じような経緯によって、ボルシェヴィキは内戦が終わる頃まで、自由取引のほとんど完全な廃絶と事実上の貨幣なき経済に向かって進んだ。
 町での配給(1916年に導入)、および理論上は農民層がその余剰の全てを渡すことが必要な穀物の国家独占(臨時政府が1917年春に導入)を、先任者たちから継承していた。
 しかし、町にはパンや他の食糧がまだ不足していた。市場で買える工業製品がほとんどなかったので、農民たちが穀物等を売りたくなかったからだ。
 十月革命のすぐ後でボルシェヴィキは、金銭ではなく工業製品を農民たちに代わりに提供して、穀物の配達量を増加させようとした。
 彼らはまた、取引き全体を国有化し、内戦勃発後は、基礎的な食糧および工業製品の自由な小売り販売を禁止し、消費者協同組合を国家の配分組織網の中に編入しようとした。(14)
 これらは、町での食糧危機および軍隊への供給の問題を見ての緊急措置だった。
 しかし、明らかにボルシェヴィキは、これらをイデオロギー上の言葉で正当化できた-また、実際にそうした。//
 町での食糧危機が悪化するにつれて、物々交換が取引の一般的形態になった。そして、貨幣は、その価値を失った。
 1920年までに、労賃と給料は部分的には現物(食糧と製品)で支払われており、貨幣ではなく商品を基礎にした予算を案出する試みすらなされた。
 衰亡していく都市でまだ機能していた範囲でも、公共サービスは個々の利用者が対価を支払う必要がもうなかった。
 ある範囲のボルシェヴィキは、これをイデオロギー上の勝利だとして褒め讃えた。-この「貨幣に対する見下し」は、社会がすでに共産主義にきわめて接近していることを示すものだったのだ。
 しかしながら、楽観的ではない観察者には、それは悪性のインフレのように見えた。//
 ボルシェヴィキにとっては不運なことに、イデオロギー上の命題と現実上のそれは、つねにそう都合よく一つになるものではなかった。
 それらの分裂は(そのイデオロギーが実際にはどういう具体的な意味をもつのかに関して、ある範囲のボルシェヴィキには曖昧さがあったこととともに)、とりわけ、労働者階級に関する政策について明確だった。
 例えば労賃に関して、ボルシェヴィキには実務での厳格な平等主義的(egalitarian)政策以上の平等主義志向があった。
 生産を最大限にまで高めるために、ボルシェヴィキは、工業での出来高払いを維持しようとした。しかし労働者たちは、そうした支払い制度は本質的に不平等で不公正だと考えた。
 不足分と配給制によっておそらく、内戦期の都市内の不平等さは減らされていった。しかし、そのことがボルシェヴィキによる成果だとは、ほとんど見なされなかった。
 実際に、戦時共産主義のもとでの配給制度は、赤軍の兵士、重要工業の熟練労働者、共産党員の行政公務員およびある範囲の知識人など、一定の範疇の国民の利益になった。//
 工場の組織は、別の厄介な問題だった。
 工場は、中央の計画や調整機関の指導に従って、労働者たち自身によって(「労働者による統制」に対するボルシェヴィキの1917年の是認が示唆すると思われるように)、それとも、国家が任命した経営者によって、運営されることとされたのだろうか?
 ボルシェヴィキは後者を支持した。しかし、戦時共産主義の間の事実上の結果は、妥協的な、かつ場所によってかなりの変動のあるものだった。
 ある工場群は、選出された工場委員会によって稼働されつづけた。
 別の工場群は、しばしば共産党員だがときどきは従前の経営者、主任技師である、任命された管理者によって稼働された。任命される者の中には、工場施設の従前の所有者すらがいた。
 だがまた別の場合には、工場委員会または労働組合出身の一人の労働者や労働者集団が、工場施設の管理者に任命された。そして、このような過渡的な編成が-労働者による統制と任命管理者制度の中間が-しばしば、最もうまくいった。//
 農民層に対処するについて、ボルシェヴィキの最初の問題は、食料を取り上げるという現実的なものだった。
 国家による穀物の収奪は、私的な取引を非合法することや金銭に代わる代償として工業製品を提供すること、これらのいずれかで成し遂げられたのではなかった。すなわち、国家には、提供できる品物がほとんどなかった。そして、農民層は生産物を手渡したくないままだった。
 町々や赤軍に食料を供給する緊急の必要があったので、国家には、説得、狡猾、脅迫または実力行使によって農民たちの生産物を取り上げるしか方法はほとんどなかった。
 ボルシェヴィキは、穀物の徴発(grain requisitioning)という政策を選んだ。これは、-通常は武装した、かつ可能ならば物々交換のできる品物をもった-労働者および兵士の部隊を派遣して、退蔵穀物を農民の食料小屋から取り上げる、というものだった。(15)
 明らかにこれは、ソヴィエト体制と農民層の間に緊張関係を生み出した。
 しかし、占拠している軍隊がかつてずっとそうだったように、白軍も同じことをした。
 ボルシェヴィキが土地に頼って生きていかなければならないことは、おそらく農民たちを驚かせた以上に、自分たちを驚かせた。//
 しかし、明らかに農民層を驚かせて警戒させたボルシェヴィキのこの政策には、別の側面があった。
 第一に、ボルシェヴィキは、村落に対立集団を作って分裂させることで、穀物収奪を容易にしようとした。
 村落での資本主義の発展によって農民たちの間にはすでに明確な階級分化が生じていると信じて、ボルシェヴィキは、貧農や土地なき農民からの本能的な支持と裕福な農民に対する本能的な反感を得ることを期待した。
 そのことからボルシェヴィキは、村落で貧農委員会を組織し始め、富裕農民の食料小屋から穀物を取り出していくソヴェト当局に協力するようにその組織に促した。
 この試みはひどい失敗だったことが分かった。一つの理由は、外部者に対する村落の正常な連帯意識だった。別の理由は、以前の貧農および土地なき農民の多数は、1917-1918年の土地奪取とその配分によって彼らの地位を向上させていた、ということにあった。
 さらに悪いことに、田園地帯での革命に関するボルシェヴィキの理解は自分たちのそれと全く異なるということを、農民たちに示してしまった。//
 人民主義者と論争したかつてのマルクス主義者のようにまだ考えているボルシェヴィキにとっては、<ミール>は衰亡している組織であって、帝制国家によって堕落させられ、出現している村落資本主義によって掘り崩されており、そして社会主義の発展にはいかなる潜在的能力も持たないものだった。
 ボルシェヴィキはさらに、村落地域での「第一の革命」-土地奪取と平等な再配分-は、すでに「第二の革命」、つまり貧農の富農に対する階級戦争へと継承されている、と考えた。この階級戦争は、村落共同体の統一を破壊しており、最終的には<ミール>の権能を破壊するはずのものだった。(16)
 一方で農民は、歴史的には国家によって悪用されたが、最終的には国家の権力を放擲して農民革命を達成していた真の農民組織だと、<ミール>を理解していた。//
 ボルシェヴィキは1917-1918年には農民層に好きなようにさせたけれども、田園地帯に関する長期方針は、ストリュイピンのそれと全く同じく破壊的なものだった。
 ボルシェヴィキは、<ミール>および土地を分割する細片地(strips)の仕組みから家父長制的家族まで、村落の伝統的秩序のほとんど全ての点を是認しなかった。
 (<共産主義のイロハ>は、農民家族が各家庭で夕食を摂るという「野蛮」で贅沢な習慣を放棄し、村落共同体の食事室で隣人に加わるときを、期待すらしていた。(17))
 彼らは、ストリュイピンのように、村落への余計な干渉者だった。
 そして、原理的に彼の小農的プチ・ブルジョアジーへと向かわせたい熱意には共感はできなかったけれども、農民の後進性に対する深く染みこんだ嫌悪感を持っていたので、各世帯の分散した細片地を近代的な小農業に適した四角い画地にして安定させようとするストリュイピンの政策を継続した。(18)
 しかし、ボルシェヴィキの本当の(real)関心は、大規模農業にあった。そして、農民層に対する勝利という政治的命題からだけ、1917-18年に起きた大きな土地の分解は大目に見て許した。
 残っている国有地のいくつかで、ボルシェヴィキは国営農場(<ソホージ(sokhozy)>)を始めた。-これは事実上は、大規模な資本主義農業の社会主義的な同等物で、労賃のために働く農業従事者の作業を監督する、管理者が任命されていた。
 ボルシェヴィキはまた、集団的農場(<コルホージ(kolkhozy)>)は伝統的なまたは個人的な小保有農業よりも優れている、と考えていた。
 そして、内戦期に、通常は動員を解除された兵士や食うに困って町々に逃げ込んだ労働者たちによって、いくつかの集団的農場が設立された。
 集団的農場では、伝統的な農民村落のようには、土地が細片地に分割されるということがなかった。そうではなく、集団的に(collectively)土地で働き、集団的に生産物を市場に出した。
 初期の集団農場の農民には、しばしば、アメリカ合衆国その他での夢想家的な(ユートピアン)農業共同体の創始者のイデオロギーに似たものがあった。そして、資産や所有物のほとんど全てを貯蔵した。
 かつまた彼らは、夢想家たちに似て、ほとんど稀にしか、農業経営に成功したり、平穏な共同体として長く存続したりすることがなかった。
 農民たちは、疑念をもって国家的農場や集団的農場を見ていた。
 それらは、あまりにも少なくてかつ力強くなかったので、伝統的な農民の農業に対する重大な挑戦にならなかった。
 しかし、それらのまさに存在自体が、ボルシェヴィキは奇妙な考えを抱いていて、とても信頼できるものではない、ということを農民たちに思い起こさせた。
 --------
 (12) 経済につき、Silvana Malle, <戦時共産主義の経済組織・1918-1921年>(Cambridge, 1985)を見よ。
 (13) Alec Nove, <ソヴィエト同盟の経済史>(London, 1969), Ch. 3. を見よ。
 (14) 商取引に関する政策につき、Jule Hessler, <ソヴィエト商取引の社会史>(Princeton, NJ, 2004),Ch. 2. を見よ。
 (15) 食料収奪につき、Lars T. Lih, <ロシアにおけるパンと権力・1914-1921年>(Berkley, 1990)を見よ。
 (17) N. Bukharin & Preobrazhensky, <共産主義のイロハ>、E. & C. Paul訳(London, 1969)p.355.
 (18) ストリュイピン改革の時期と1920年代の間の継続性につき、とりわけ田園地帯での土地安定化の作業をした農業専門家の存在を通じての、George L. Yaney, 「ロシアにおけるストリュイピン土地改革から強制的集団化までの農業行政」、James R. Millar, <ソヴィエトの村落共同体>(Urbana, IL, 1971)所収, p.3-p.35.を見よ。
 ---- 
 第3章(内戦)のうち、「はじめに」~第2節(戦時共産主義)までが終わった。

1794/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)の構成。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)は1941年生まれのオーストラリアのロシア・ソ連史の専門研究者で、のちイギリスやアメリカに移る(前回にイギリスの、としたのは正確ではない)。
 Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (Oxford, 2ed. 1994, 3rd. 2008, 4th. 2017).
 =シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命。
 これの(本文の)内容構成は、つぎのとおり。()は明記されていない。「第*節」という語もなく、見出しだけがある。「章」という語もないが、こちらには数字はある。
 ----
 序論
  (はじめに)
  第1節・革命の時期的範囲。
  第2節・革命に関する著作物。
  第3節・革命の解釈。
  第4節・第四版への注記。
 第一章・初期設定(The Setting)。
  第1節・社会。
  第2節・革命的伝統。
  第3節・1905年革命とその後、第一次大戦。
 第二章・二月革命と十月革命。
  第1節・二月革命と「二重権力」。
  第2節・ボルシェヴィキ。
  第3節・民衆の革命。
  第4節・夏の政治的危機。
  第5節・十月革命。
 第三章・内戦。
  第1節・内戦、赤軍およびチェカ。
  第2節・戦時共産主義。
  第3節・新世界の見通し。
  第4節・権力にあるボルシェヴィキ。
 第四章・ネップと革命の未来。
  第1節・退却という紀律。
  第2節・官僚制の問題。
  第3節・指導者をめぐる闘い。
  第4節・一国での社会主義建設。
 第五章・スターリンの革命。
  第1節・スターリン対右翼。
  第2節・工業化への衝動。
  第3節・集団化。
  第4節・文化の革命。
 第六章・革命の終焉。
  第1節・「達成された革命」。
  第2節・「裏切られた革命」。
  第3節・テロル
 ----
 以上。試訳なので、正確さを期すためには本文を読んでの再検討が必要な語がありうる。

1669/ネップ①-L・コワコフスキ著18章3節。

 この本には、邦訳書がない。-Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 第3節の試訳へ
 ---
 第3節・社会主義経済の始まり①。
 レーニンのもとでのソヴェト・ロシアの経済史は、二つの時代に分けられる。
 『戦時共産主義』の時代と、『新経済政策(N.E.P.、ネップ)』の時代。
 『戦時共産主義』という言葉は、第二期の間に作られた。そして、つぎのような誤解を生み出しかねない。すなわち、内戦から生じた一時的な政策であり、経済的破滅状態の国に食を与えるために非常事態の手段として採用する必要があったのだ、という誤解。
 歴史書はしばしばこのように事態を説明し、さらに、ネップはあらかじめ計画されていたが、戦争という例外的な情勢によって実行することができなかったものだ、と示唆する。言い換えると、ネップは退却(retreat)や誤ったこと(error)の告白ではなく、党が一時的に逸脱を強いられていた、従前に選択した途への回帰(retern)だ、と示唆する。//
 現実には、事態の推移およびそれに関するレーニンの説明のいずれからも、つぎのことが明らかだ。すなわち、戦時共産主義は『共産主義の完全な勝利』まで維持されるべき経済制度だと最初から考えられていたこと、そして一方で、ネップとは敗北を認めること(admission)だったこと。  
 荒廃したロシアでの最重要問題は、言うまでもなく、食糧生産、とくに穀物の生産だった。
 戦時共産主義はもともと、農民から全ての余剰食料を、あるいは地方の政府機関や徴発部隊が余剰(surplus)だと見なした全ての食糧を、徴発すること(requisitioning)から成っていた。 
 数百万の小農場での貯蔵や余剰の質量を正確に計算するのは不可能だったので、徴発のシステムは農民大衆が政府に反対し、巨大な規模での贈収賄や実力強制を生じさせることになっただけではなく、農業生産を破滅させ、そうして権力の体制全体の基礎を掘り崩した。
  しかしながら、レーニンは、こう信じていた。小農民の国での穀物の自由取引は、一時的な手段ではなく原理として、資本主義の復活と等しい(tantamount)と、また、経済の回復の名のもとにこれ〔穀物の自由取引〕を提案する者はコルチャクの同盟者だ、と。
 1919年5月19日の演説で、レーニンは、 『資本および商品(commodity)生産の完全な打倒が前線に立ち現れている、そういう歴史的時機』、に論及した。(+)
 (全集29巻p.352〔=日本語版全集29巻「校外教育第一回全ロシア大会」350頁〕。)
 その年の7月30日、食料状勢に関する演説では、自由取引の問題は資本主義との最終的な闘いでの決定的なものだと再度強調し、自由取引はデニーキンおよびコルチャクの経済的な頼りなので、『ここには、他ならぬこの分野には、いかなる妥協もあり得ない』、と語った。
 『我々は、資本主義の主要な根源の一つがその国の穀物についての自由取引にあること、この根源がまた従前の全ての共和国が破滅した原因だったこと、を知っている。
 いまや資本主義と取引の自由に対する最後の決定的な闘いが行われており、これは我々には、資本主義と社会主義の間の真に根本的(truly basic)な闘いなのだ。
 この闘いに我々が勝利すれば、資本主義や以前の体制に、過去にあった体制に、元戻りすることはあり得ないだろう。
 このような元戻りは、ブルジョアジーに対する戦争、投機者に対する戦争が、そしてプチ経営者に対する戦争が続いているかぎりは、不可能だろう。』(+)
  (以上、全集29巻p.525・p.526〔=日本語版全集29巻「工場委員会、労働組合。モスクワ中央労働者協同組合代表のモスクワ協議会での食糧事情と軍事情勢についての演説」538頁、539頁〕。)//
 そのとき、レーニンは集団的または国営の農業への即時の移行を予想しなかった一方で、つぎのことに全く疑いを持っていなかった。すなわち、農業生産は最初から国家の直接の統制のもとに置かれなければならないこと、商品の自由取引は社会主義の破滅を意味していること。
 レーニンの意図は最初から、農業生産は警察による農民に対する強要(coercion)を、そして生産物の直接の収奪を基礎にしなければならない、というものだった。この収奪とは、翌年のための穀物の種子用に十分でかつ家族一員が食べていく最少限度を残すと(これを実際に実行するのは不可能だった)想定する割当量を基準とする形態で行われるものだ。//
 ネップへの移行は、こうした政策の、大惨事的な失敗によるものだった。
 -メンシェヴィキやエスエルたちが、痛みを代償にして予言した失敗。その予言のゆえに彼らは、非難され、投獄され、白衛軍(the White Guards)への無節操な追従者として殺害された。//
 レーニンは、1921年3月の第10回党大会で、退却(retreat)を発表した。
 ---
 (+) 秋月注記-日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1506/日本共産党の大ペテン・大ウソ34-<ネップ>期考察01。

○ 志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)p.173-4はこう書く。
 レーニンの1918年夏~1920年の経済政策は「戦時共産主義」と呼ばれ、農民から「余剰穀物のすべてを割当徴発する」ものだった。レーニンが「この戦時の非常措置」を「共産主義」への「直接移行」と「勘違いして位置づけ」たことから、「農民との矛盾が広がってい」った。
 レーニンが「共産主義」への「直接移行」と観念していたことはそのとおりだろうが、しかし、「勘違いして位置づけ」た、という表現の中に、日本共産党(幹部会)委員長・志位和夫の人間的な感情は、認められない。
 この「勘違い」によって、のちに1921年秋にレーニン自身が「生の現実はわれわれが過っていたこと(mistake, Fehler)を示した」と明言した<失敗>によって、いかほどの人間が犠牲になったのか。
 ○ 志位和夫は<戦時共産主義>という言葉を使い、多くの歴史書もこの概念を使っている。
 おそらくは、スターリン時代におけるソ連・ロシアの公式的歴史叙述によって、レーニン時代をおおよそこの<戦時共産主義>時代と<ネップ=新経済政策>時代に分けるということが定着して、そのまま現在にまで続いているようにも思われる。
 最近にほんの少し触れたように、<戦時共産主義>という語は、志位が「この戦時の非常措置」と書いているように、<戦時>のやむをえない措置だったかのように誤解させる。
 また、<戦時>とはまるで第一次大戦とその後の勝利諸国による対ロシア<干渉戦争>を意味するかのように誤解されうる。
 日本共産党は、そのように理解したい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。
 しかし、ロシアが第一次大戦から離脱したのは1918年3月の「中央諸国(ドイツ等)」との間のブレスト・リトフスク条約によってだ。また、1918年~1919年に戦闘終結とベルサイユ講和条約締結があった。
 そこで、日本共産党によると、英仏らによる<干渉戦争>と闘った、と言いたい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。しかし、大戦終結と英仏らの対ドイツ等との講和まで、およびその後のほんの数年間、英仏らが新生?ロシアと「戦争」をすべき理由がいかほどあっただろうか。
 たしかに、ボルシェヴィキ「赤軍」に対する「白軍」への物的・資金的援助はあったのだろう。だが、今のところの知識によれば、戦争といっても、対ロシアについては、英国軍が北方のムルマンスクまで来たということと、日本がいわゆる<シベリア出兵>をしたといった程度で、いかほどに<干渉戦争>という「戦争」に値する戦闘があったのかは疑わしい。日本軍は地方軍または「独立共和国」軍と戦闘したのだろうが、モスクワ・中央政府とその軍にとっては「極東」の遠いことだったのではないかとの印象がある(それよりも<東部>での農民反乱等の方に緊迫感があったのではないか)。
 誰もが一致しているだろうように、<戦時共産主義>とは、ロシアの「内戦」という「戦時」のことをさしあたりは意味している。「内戦」とは civil war, Buergerkrieg で(直訳すると「市民(・国民)戦争」で)、まさに「戦争」の一種なのだ。ボルシェヴィキの政府と軍は、国民・民衆と戦争をしていた。
 しかしさらに、<内戦>中の「非常措置」(志位和夫)という理解の仕方すら、相当に政治的な色彩を帯びている、と考えられる。
 後掲のL・コワコフスキの1970年代の書物も、<戦時共産主義>という語はmislead する(誤解を招く、誤導する)ものだと述べている。
 ○ 既述のように、秋月の今のところの理解では、10月「革命」後のレーニン・共産党(ボルシェヴィキ)の経済政策は、マルクスの文献に従った、かつレーニンがそれに依って具体的に1917年半ばに『国家と革命』で教条化した<共産主義>そのものだった。当時の「非常措置」だったのではない。
 そうして、レーニン・共産党による<ネップ>導入は、じつはマルクス主義又は共産主義理論自体の「敗北」を示していた、と考えられる。たんなる暫定的な「退却(retreat)」ではない。
 レーニンが病床にあって、大いに苦悩したというのも不思議ではないだろう。
 ○ 文献実証的に( ?)、1919年半ばにレーニンは何と主張していたかを、日本共産党も推奨するに違いないレーニン全集第29巻(大月書店、1958/1990第31刷)から引用する。
 まず、<校外教育第一回ロシア大会-1919.05.6-19>。
 「マルクスを読んだものならだれでも」、「マルクスが、その全生涯と…の大部分を、まさに自由、平等、多数者の意思を嘲笑することに、…ささげたこと」、こうした嘲笑の対象となる「空文句の裏には、商品所有者が勤労大衆を抑圧するためにつかう、商品所有者の自由、資本の自由の利益があるということの証明」に「ささげたことを知っている」。
 「全世界で、あるいはたとえ一国においてでも、…時機に、また資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅するための被抑圧階級の闘争が前面に現れているような歴史的時機に」、「その自由のためにプロレタリアートの独裁に反対する」者は、「そういう人は、まさに搾取者をたすけるものにほかならない」。p.350。
 後掲のL・コワコフスキの著によると、「資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅する」こととは、英文では、<the complete overthrow of capital and the abolition of commodity production >だ。「commodity production 」の、goods ではない「commodity」=「商品」は、「必需物」・「有用物」という含意もある。
 ともあれ、レーニンはこのとき、マルクスによりつつ「資本」の完全打倒と「商品生産」の完全絶滅を正しいものとして、目標に掲げていた。
 つぎに、<工場委員会、労働組合、…での食糧事情と軍事情勢についての演説-1919.7.30>。
 食糧政策・問題について、「真の勤労大衆の代表者、…人々、彼らは、ここでの問題が、どんな妥協をもゆるさない、資本主義との最後の決戦であることを知っている」。
 「われわれは、ほんとうに資本主義とたたかっており、資本主義がわれわれにどのような譲歩を強いようとも、…やはり資本主義と搾取に反対してたたかいつづけるのだ、と言う」。コルチャコフやデニーキン〔ボルシェヴィキと闘う「白軍」等の指導者-秋月〕などの「彼らを元気づけている力、それは資本主義の力であるが、この力は、…、穀物や商品の自由な売買にもとづくものだ」。「穀物が国内で自由に販売されているなら、こうした事態がつまり資本主義を生み出す主要な源泉であって、この源泉がまた…共和国の破滅の原因であったということを、われわれは知っている。いま資本主義と自由な売買にたいする最後の決闘がおこなわれており、われわれにとってはいま資本主義と社会主義とのもっとも主要な戦闘がおこなわれている」。p.538-9。
 ここでレーニンは、明確に、「穀物や商品の自由な売買」に反対することこそ社会主義の資本主義に対する闘いだと、「最後の決闘」とまで表現して、無限定に、つまり例外を設けることなど全くなく一般的に語っている。
 これら二点等について、以下を参照した。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (仏語1976、英語1978、〔マルクス主義の主要な動向〕), p.741-3。
 ○ むろん引用し切れないが、上の二つともに、レーニンは長々と、得々と喋り、同僚又は支持者たちに向けて力強く(?)演説している。
 日本共産党・志位和夫が言うように、後になって「…と勘違いして位置づけ」た、で済ませることができるだろうか。
 <ネップ>とはつまり、部分的にせよ、「商品生産」を、「穀物や商品の自由な売買」を正面から認めることとなる政策だったのだ。
 こんなふうに<転換>が語られるとすれば、それまでの農業政策等によって辛苦を舐めた農民たち、犠牲者等はやり切れないだろう(しかも、新政策がすみやかに施行又は「現実化」されたわけでもない)。
 ネップ導入は政策表明上の、つまるところ、レーニンによる「敗北」宣言だった。
 では、ネップという新政策導入時期に、<市場経済を通じて社会主義へ>という基本方針を、レーニンは確立したのかどうか。
 ずいぶんと前この欄でに設定したこの問題については、まだ本格的には立ち入っていない。あせる必要はない。現今の<時局>・<時流>のテーマではない。

1495/食糧徴発廃止からネップへ③-R・パイプス別著8章6節。

 前回のつづき。
 ---
 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発の廃止とネップへの移行③ 〔p.393~p.394〕
 1922年と1924年の間に、モスクワは貨幣なき経済という考え方を放棄し、伝統的な会計実務を採用した。
 政府は予算上の欠損を充たす山積みの紙幣を必要としていたので、会計上の責任体制への移行は困難だった。
 ネップ(新経済政策)の最初の三年間、ソビエト同盟では実際には、二種類の通貨が並んで流通していた。
 一つは、denznaki とか sovznaki とか呼ばれる、実際には無価値の『引換券(token)』、もう一つは、chervonets と呼ばれる、金を基礎にした新しいルーブルだ。//
 ルーブル紙幣は、印刷機が作動するかぎりで急いで製造された。
 1921年にその発行数は16トリリオン(trilliom、16兆)だったが、1922年には2クヴァドリリオン(quadrillion=1000 trilliom、2000兆)に昇った。これは、『16桁の数字をもつ量、財務というよりも晴天の空での天文学を連想させる量』だった。(98)
 無価値の紙券が、洪水のように国を覆いつづけた。政府は一方で、新しい安定した通貨を生み出し始めた。
 財政改革は、ニコラス・カトラー(Nicholas Kutler)に託された。この人物は、銀行家、セルゲイ・ウィッテ内閣の大臣で、政府の仕事から引退したあとは、カデット(立憲民主党)の国会下院議員だった。
 カトラーの奨めで1921年10月に作られた国有銀行(Gosbank)の理事会の一員に、彼は指名された。
 政府が新通貨を発行することや国家予算を帝政時代のルーブルで表記することも、彼の助言によっていた。(99)
 (類似の改革は二年後に、ヒャルマール・シャハト(Hjalmar Schacht)のもとでのドイツでなされることになる。)
 国有銀行は1922年11月に、chervontsy 、5種類の銀行券を発行する権限を与えられた。これら銀行券は、25%は金塊と外国預金、残りは農産物や短期の借款で支えられた。
 新しい各ルーブルは純金7.7グラムに相当し、金の価値は帝制時代の10ルーブルと同じだった。(+)
 Chervontsy は法的な弁済よりも国有企業間の大規模の取引や決済に用いられることが想定されたが、古い引換券(token)と一緒に流通した。後者は、天文学的数字にかかわらず、小規模の小売り取引で必要とされた。
 (レーニンは、貨幣政策としては金を伝統的な地位に復活させる必要があると批判されて、共産主義が世界中で勝利するやいなや、ルーブル紙幣の使用は手洗所の建設に限られることになる、と約束した。)(100)
 1924年2月までに、Chervontsy で表記された貨幣量は10分の9になった。(101)
 引換券(token)ルーブルは1924年に流通しなくなり、帝制時代のルーブルの金の内容をもつ『国家財務省券』が取って代わった。
 このとき、農民は、国家への納税義務を一部又は全部、生産物ではなく金銭で履行することが認められた。//
 租税制度もまた、伝統的な方向で改革された。
 金ルーブルで計算される国家予算は、定期的に作成された。
 1922年に総支出の半分以上に達していた欠損は、次第に小さくなった。
 1924年に公布された法令は、欠損を埋めるための手段として銀行券を発行することを禁止した。(102)//
 国有企業の経営者は抵抗したにもかかわらず、小規模の私企業や協同企業を推進する布令が裁可された。これら企業は、法人格を付与され、限られた数の有給労働者を雇用することが許された。
 大企業は依然として国家の手のうちにあり、政府からの助成金で利益を確保し続けた。
 レーニンは、社会主義の国家的基礎を、彼の権力基盤とともに徐々に破壊するという危険(リスク)がネップにある、ということを十分に察知した。そして、経済の『管制高地』の支配権は政府が維持することを確かなものにした。輸送はもとより、銀行、重工業および貿易(=外国との取引)についてだ。(103)
 中規模の企業は、健全な会計実務に従うように命じられ、自立的になった。その会計実務は、Khozrazchet として知られる。
 怠惰な又は非生産的な中規模企業は、賃貸借の対象になる第一次の候補だと指示された。
 4000以上のこのような企業は、その大部分は小麦製粉業だったが、以前の所有者か又は協同企業に賃貸された。(105)
 こうしたことを容認したことは、設定した基本的考え方で、とくに社会主義の実務ではきわめて嫌悪された被雇用労働者を許した点で、主として重要だ。
 生産に対する実際の影響は、限られていた。
 1922年に国有企業は、価額を規準として、全国家産業生産高の92.4%を占めた。(106)//
 Khozrazchet への移行は、自由な業務や商品の綿密な構造を放棄することを強いた。そのために、およそ380万人の国民は、1920年と21年の間の冬に、政府の費用でもってその基本的な必需品を与えられた。(107)
 郵便と輸送は、〔政府から〕支払われるものとされた。
 労働者は金銭で給料を受け取り、公開の市場で必要な物を何でも購入した。
 配給もまた、次第に少なくなった。
 小売取引は、一歩一歩、私営化されていった。
 国民は、都市の不動産を売買すること、印刷業社を所有すること、薬品や農機具を製造すること、を許された。
 1918年に廃棄されていた相続する権利は、部分的に復活した。(108)//
 ネップは、魅力的でないタイプの起業家、古典的な『ブルジョア』とはきわめて異質な者たちを培養した。(109)
 私企業にとってロシアの環境は根本的に非友好的で、かつその将来は不安定だったので、経済自由化を利用した者たちは、得た利益を明日のことなど考えないで費やした。
 政府やそれと似た社会にパリア人のごとく取り扱われて、『ネップマンたち(Nepmen)』は、現物でもって返報した。
 貧窮のど真ん中で、彼らは贅沢にかつ目立って生活し、高価なレストランやナイトクラブに群らがった。毛皮のコートで身を包んだ愛人たちを見せびらかしながら。//
 ------
  (98) Arthur Z. Arnold, ソヴェト・ロシアの銀行、信用、貨幣 (1937), p. 126。
  (99) カー, ボルシェヴィキ革命, Ⅱ, p.350-352。
  (+) 帝制時代の『chervonets 』とは、金貨の名前だった。ソヴェトのchervontsy は多くは紙幣で、ある程度は新たに鋳造されたけれども。
  (100) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p. 225。
  (101) N. D. Mets, Nash rubl' (1960), p. 68。
  (102) ソ連の国民経済・1921-23以降〔統計年鑑〕, p.495-6, p. 498。
  (103) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p. 289-290。
  (104) RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 27, list 34。
  (105) Genkina, Perekhod, p. 232-3。
  (106) カー, ボルシェヴィキ革命, Ⅱ, p.302-3。
  (107) リチャード・パイプス, ロシア革命, p. 700〔第二部第15章「戦時共産主義」第8節「市場廃棄の努力と陰の経済の成長」〕。
  (108) Allan M. Ball, ロシアの最後の資本家 (1987), p.21-22。
  (109) 同上の各所。
 ---
 ④につづく。

1437/R・パイプスの大著『ロシア革命』(1990)の内容・構成。

 1.Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)は、表紙、新聞書評の抜粋、著者の他の著書の紹介、扉、著作権記述、献辞(「犠牲者たちに」)、内容〔=目次〕、写真・地図の一覧、謝辞、略語表、まえがき、本文p.1-p.840、あとがきp.841、用語集〔ロシア語/英語〕p.842-p.846、年表p.847-p.856、注記p.857-p.914、参考文献〔ロシア革命に関する100の著作〕p.915-p.920、索引p.921-p.944、文献への謝辞〔9文献・資料集〕p.945、著者紹介p.946、裏表紙、から成る。p.は、記載された頁数。
 2.「内容」=目次のうち、細節を除いて、部と章のタイトル、始めの頁数を記すとつぎのとおり。
 ---
 第一部 旧体制の苦悶 p.1
  第01章 1905年-予震 p.3
  第02章 帝国ロシア p.53 
  第03章 田園ロシア p.91
  第04章 知識人 p.121
  第05章 立憲主義の実験 p.153
  第06章 戦時ロシア p.195
  第07章 崩壊へ p.233
  第08章 二月革命 p.272
 第二部 ボルシェヴィキによるロシアの征圧 p.339
  第09章 レーニンとボルシェヴィズムの起源 p.341
  第10章 ボルシェヴィキの権力への欲求 p.385
  第11章 十月のクー p.439
  第12章 一党国家の建設 p.506
  第13章 ブレスト=リトフスク p.567
  第14章 革命の世界輸出 p.606
  第15章 『戦時共産主義』 p.671
  第16章 農村に対する戦争 p.714
  第17章 皇帝家族の殺戮 p.745
  第18章 赤色テロル p.789
 ---
 上のうち、第9章『レーニンとボルシェヴィズムの起源』は、目次の細目部によると、以下の諸節から成っている。但し、「節」の旨の言葉も「数字番号」も、原著にはない。原著の本文では、これら(以下の各節)の区切りは、一行の空白を挿むことによってなされている。
 ---
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第1節 レーニンの青少年期
  第2節 レーニンと社会民主党 
  第3節 レーニンの個性
  第4節 レーニンの社会民主党への失望
  第5節 ボルシェヴィズムの出現
  第6節 メンシェヴィキとの最終決裂
  第7節 レーニンの農業問題・民族問題綱領
  第8節 ボルシェヴィキ党の財政事情
  第9節 マリノフスキーの逸話
  第10節 ツィンマーヴァルト、キーンタールおよび敵工作員との接触
 ---
 以上。

1410/ロバート・W・デイヴィス・現代ロシアの歴史論争(岩波、1998)を一部読む。

 一 ロバート・W・デイヴィス(イギリス人学者)は、同〔内田健二=中嶋毅訳〕・現代ロシアの歴史論争(岩波書店、1998/原書1997)で、主として1988年半ば~1996年半ば-すなわちソ連崩壊後の時期を含む-のソ連又は主としてロシアでのソ連史・ロシア史の「見直し」の状況を紹介し、また論じている。
 その「第11章/レーニン、スターリンと新経済政策」は「第10章/レーニンと内戦」に続くものだが、その第11章の最後の段落でまず、こう述べている。邦訳書からの引用。p.266。
 「総じて内戦とネップの初期についての新たな史料は、世界が『人間の顔をした社会主義』に向かう動きを再び始めると考えている私自身のような時代遅れの人間にはほとんど慰めを与えてくれない」。
 彼自身は「人間の顔をした社会主義」への再出発を期待しながらも、そのような希望に、新しい、レーニンやスターリン等に関する、従来は「秘密」だった史料は「ほとんど慰めを与えてくれない」、というわけだ。
 そのあと、「慰め」になるかもしれない「傾向」がいくつか(これら自体興味深いがここでは省略)見出される、としつつ、こう続けて、この章を終える。p.266-7。
 「しかし、ここで見た証拠によれば、こうした傾向は弱いものであり、容易に打倒された。そしてレーニン自身が-〔略〕-他のすべての政治集団を容赦なく抑圧する一党制に傾倒しつづけていたとりわけオ・ゲ・ペ・ウ〔ゲペウの前身、チェカーの後身/国家保安秘密警察〕によって与えられた『証拠』は党指導者たちの政策に影響を与えた。そして秘密警察の政治的役割は絶えず膨張していったのである」。
 日本共産党、または党員学者の文献にはレーニンは多党制を容認・支持していたかのごとく書いているものがあるかもしれないが、事実に反するデマだ。たしかに1917年10月の「革命」時点で共産党(ボルシェヴィキ)だけが実質的な国家最高権力の指導部を構成していたわけでは(辛うじて)ないが、すみやかに共産党=国家になったことは広く(少なくともロシア・ソ連史の日本を含む研究者には一致して)認められている、と思われる。
 この点や、チェカーなどには、別の機会にまた触れるだろう。なお、「革命」時点でロシア<全国>あるいは<農民>を掌握したわけでも全くない。のちに「戦時共産主義」時代ともいわれる「内戦」が長く続き、レーニン指導のボルシェヴィキ対する<農民>の激しい抵抗等もあった。
 二 リチャード・パイプスらの<反共産主義>が明確な学者や論者の叙述を紹介しても、日本共産党員や同党支持者または日本の「左翼」は、<反共>主義者ということでもってその叙述を疑う、または容易には信頼しないかもしれない。
 注意を惹いておきたいのは、上の書物は、ほとんど「左翼」的または「容共」的な、すくなくとも<反共産主義的ではない>本・雑誌ばかりを日本で出版している、岩波書店が出版している、ということだ。
 この欄では-すでにある程度は意識してきたのだが-、<岩波書店(または朝日新聞社等)発行の文献ですら、~と述べている>、という紹介や言及の仕方をすることがある。

1404/日本共産党の大ウソ27-02-不破哲三・平凡社新書02。

 不破哲三・マルクスは生きている(平凡社新書、2009)は、「ソ連とはいかなる存在だったか」という節見出しのもとで、レーニンについて、つぎのように書く。日本共産党2004年綱領のレーニン関係部分を説明していることになろう。
 この欄は<反共デマ宣伝>を意図してはいないので、これまでと同様に、客観的に、日本共産党・不破哲三らの文章も引用または紹介する。
 ・日本共産党は「ソ連の歴史を見るとき」、「レーニンが指導した初期の時代と、スターリンの指導に移って以降の時代」とを、「はっきり区別」している。
 ・「レーニンは、…革命のあと、経済的には遅れていたロシアを社会主義への道に導くために、真剣な努力を行いました」。
 ・「初期、とくにイギリス、日本など14の資本主義諸国が軍隊を送り込んだ内戦の時期には、『戦時共産主義』などの誤った模索もあ」った。
 ・だが、「戦争終結のあと、内外の諸政策の抜本的な転換をおこない、内政面では、市場経済を通じて漸進的に社会主義に進む『新経済政策=ネップ』路線を、対外面では資本主義諸国との平和共存および周辺の諸民族の独立の尊重を基本とする外交路線をうちだし、それを基本路線として社会主義の道にふみだし」た。
 ・「しかし、不幸なことに」、「確立した路線にそっての前進を開始したばかり」の1923年にレーニンは「重い病に倒れ、翌24年1月、生涯を閉じ」た。
 以上、p.198。
 ここでは、「戦時共産主義」を「誤った模索」と明記していることのほか、レーニンの積極面として、①内政における「新経済政策=ネップ」、対外面での②「資本主義諸国との平和共存」と③「周辺の諸民族の独立の尊重」を基本路線としたこと、を挙げていることを、確認しておく必要がある。また、1923年には「確立した路線にそっての前進を開始した」とされていることも、関心を惹く。
 以上のあとはスターリンの時期の叙述だが、そのはじめに、「レーニンの最後の時期に」、つぎの点について、スターリンはレーニンと「激しい論争を交わしてた」と書かれていることも確認しておく必要があろう。
 すなわち、「国内の少数民族政策と党の民主的運営の問題について」。同じく、p.198。
 この欄では大きな第二の論点として「ネップ」導入は<市場経済を通じて社会主義へ>の路線の発見・確立だったのかを取り上げるが、その他の不破が上で言及しているような問題・事項についても、余裕があれば断片的にではあれ、論及する。例えば、資本主義諸国との「平和共存」 ?、「周辺諸民族の独立尊重」 ?(「国内の少数民族政策」 ?)。
 なお、このような日本共産党・不破哲三によるソ連またはレーニン・スターリンにかかる歴史の認識について、近年または最近の-いや1994年以降の-産経新聞社発行等のいくつかの<日本共産党研究>本は、きちんと批判的にとりあげているだろうか。反共産主義または「反共・保守」派の論壇は、日本共産党の主張・議論を詳しくかつ個別に反駁しておくことをしてきたのだろうか。相当に怪しく、心もとない。

1347/日本共産党の大ペテン・大ウソ16。

 二(つづき)
 E・H・カーのロシア革命-レーニンからスターリンへ1917~1929年〔塩川伸明訳〕(岩波現代新書、1979)には、ネップ(新経済政策)とその時期について、次のような叙述もある。抜粋的に紹介・引用する。
 ・ネップが目指した「農民との結合」の必要性を疑う者は数年間は稀で、1921-22年の「悲惨な飢餓」ののちの農業の回復等によりネップの正当性は立証された。しかし、危機が去って「戦時共産主義」の窮乏が忘れられてくると、「社会主義」からの徹底的な離脱への不安感が生じた。結局「誰かが」農民への譲歩の「犠牲を払った」のであり、「ネップの直接、間接の帰結のあるものは、予期も歓迎もされない」ものだった。2年以内に、新たな危機が生じ、農業以外の全経済部門に影響を与えた。(p.70)
 ・工業への影響は「主として消極的」だった。重要な修正はあったが、レーニンのいう「管制高地」である大規模工業は「国家の手に残った」。
 ・ネップ導入後、想定された現物的商品交換は売買に変化したため、商業過程への「公的統制」が図られた。それはむしろ「ネップマン」=新商人階級の活動を容易にし、小売商業が活発になり、「繁栄の空気が資本の裕福な方面」に戻ってきた、ネップの受益者には、「未来はバラ色」に見えた。(以上、p.71-73)
 ・しかし、「ネップのより深い含意が、相互に関連する危機」を伴って現れた。最初は、狂気じみた価格変動による「価格危機」だった。農産物価格の高騰・工業製品価格の下落は「労働の危機を招来」し「失業」を生んだ。雇用者は労働者に現金支払いではなく「現物支給」をした。
 ・労働組合と雇用者又は経済管理者の間の交渉で紛争解決が図られたが、労働者の不満は「赤い経営者」=かつてのツァーリの将校あるいはかつての工場経営者・工場所有者に向けられた。彼らは高い給料をもらい、工業経営・政策への発言権も持ち始めた。彼らへの非難は、<革命>とは逆転した状況への「嫉妬と憤慨の徴候」だった。(以上、p.74-77)
 ・「失業の到来」は労働者に、「ネップ経済におけるその低下した地位を最も強く意識させた」。ネップは農民を厄災から救ったが、「工業と労働市場」は「混沌寸前の状況」だった。「革命の英雄的旗手たるプロレタリアートは、内戦と産業混乱の衝撃の下で、離散、解体、極端な数的減少」を被っていた。「工業労働者はネップの継子になっていた」。
 ・「金融上」の危機が別の側面だった。ルーブリの価値が急落したため、1921年末の党協議会決定により「金ルーブリ」を貨幣単位とする紙幣等が発行されたものの、実際上の効果は少なかった。こうした状況の結果として、1923年に「大きな経済危機」が起き、労働者の不満は同年の「夏から冬に、不穏な状態とストライキの波をひきおこした」。(以上、p.77-79)
 まだ叙述は続いていくが、このくらいにしよう。
 1923.03.03-レーニン、3度目の脳梗塞により言語能力を失う。
 1924.01.21-レーニン死去。
 省略しつつも、かつ上の部分以降には全く言及しないものの、かなり長く引用・紹介したのは、日本共産党は、レーニンが「ネップ(新経済政策)」導入を通じて、「市場経済を通じて社会主義へ」という<新しく正しい>路線を明確にした、この「正しい」路線をスターリンが覆した、と理解しているからだ。
 また、既に紹介のとおり、志位和夫は、1921年10月のレーニン報告は「市場経済を正面から認めよう」、「市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しよう」という路線を打ち立てていくもので、「『市場経済=敵』論と本格的に手を切る」ものだった、「そこで本格的な『ネップ』の路線が確立」した、「レーニンがこの時期に確立した『市場経済を通じて社会主義へ』という考え方」は、「画期的な新しい領域への理論的発展」で、レーニンが「情勢と格闘し、模索しながらつくった」ものだ、などと書いているからだ。
 志位和夫がエピゴーネンとして依拠している不破哲三の本も一瞥しているが、いわゆる戦時共産主義とレーニンの死の間の時期、ネップ期とも言われることもある時期・時代の歴史は、上のコンパクトなカーの書物においてもすでに明らかなように、日本共産党や志位和夫・不破哲三が描くような単純なものではない。
 また、個人、例えばレーニンが「頭の中」で考えて手紙等で記したことと、党の会議での発言内容(・提出文書)と、そして党(ボルシェヴィキ)の公式・正式決定として承認されたもの(レーニンの原案であれ)は、党にとってもロシアにとっても意味は同じではないと思われ、それぞれ区別しておく必要があると思われる。
 上の点での厳密な史料処理はなされていないと思われるし、また、「観念」・「意識」と「現実」は違うはずだ、という基本的な点が日本共産党、不破哲三らにおいてどう理解され、方法論的に処理されているのかについても疑問がある。
 つまり、いくら<考え>あるいは<党決定>がかりに適切な(正しい)ものであったとしても、<現実>とは異なるのであり、前者に応じて後者も変わったということを、別途叙述または論証する必要があるだろう。
 不破哲三らはレーニンが何と言ったか、書いたかの細かな(文献学的な)詮索をしているが、かつての、1920年くらいから1924年くらいまでの現実の具体的な歴史の変遷を細かく確認する作業は怠っているように見える。
 そして、レーニンの生前と死後とで政策方針と現実が質的に大きく変わったかのごとき単純化は、誤っている、とほとんど断じてよいものと思われる。なお、レーニン生前の、「革命」後の党決定等には、スターリンも党幹部として関与している。
 三 ネップ期に限っても別の文献を紹介することはできるが、当然のことだが、ネップ期の前や10月「社会主義革命」まで(さらには2月「ブルジョワ革命」まで?)遡らないと、レーニンとロシア(・ソ連)についての理解は困難だ。
 今のところ所持している関係文献に、以下がある。すでに言及しているものも含む。
 ①稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)。
 ②D・ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/上・下(1995、日本放送出版協会)。
 ③M・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史1917~1991/上・下(1997、草思社)
 ④R・パイプス(西山克典訳)・ロシア革命史(2000、成文社)。
 ⑤クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書/ソ連篇(2001、恵雅堂出版/文庫版もある)。
 ⑥E・H・カー・ボリシェヴィキ革命1~3(1967・1967・1971、みすず書房)。
 ⑦E・H・カー(塩川伸明訳)・ロシア革命-レーニンからスターリンへ1917~1929年(1979、岩波現代新書)。
 カーの書物はソ連解体前のもので、それ以降に明らかになった史料は使われていない。
 カーは、「ソ連型社会主義」が<失敗>したと理解したとすれば、その原因をスターリンに求めるのだろうか、「革命」後のレーニンに求めるのだろうか、それとも「ロシア革命」自体に求めるだろうか、あるいはマルクス自体に?
 上の諸文献を利用しつつ、さらに、レーニンとスターリンの異同をめぐる日本共産党の<大ペテン>・<大ウソ>に論及していくこととする。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー