一 佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)p.76以下は「『他国への配慮』と国益」との節名で、前回紹介したようなことを、再述又は別論している(この本全部は、12/15に読了した)。
 7 ①「国益」観念が背後にない「他国への配慮」・「国際的友好」は無意味だ。そして「国益」が意義あるためにはその国の「正義」あるいは「共有価値」で支えられている必要がある。「正義」・「共有価値」は「生活上の習慣や文化的様式の中に暗黙のうちに表出」されるものだろう。
 しかし、「今日の日本」のように「暗黙裡」のものであれ「正義」あるいは「共有価値」の「存在そのものが怪しくなっている」場合には、「ナショナル・アデンティティ」の名のもとに「日本という国家を構成する精神的基盤について論議するのは当然のこと」だ(p.76)。
 ②「他国への配慮」・「国際的友好」を唱える者たちもかかるナショナリズムを前提としている筈だが、この「進歩主義的立場に立つ国際主義者」は「反国家主義」を標榜し「インターナショナリズムをナショナリズムと対立させる」ために自らの「インターナショナリズム」を骨抜きにしている。「国益」・「ナショナル・アデンティティ」を排除した「国際主義」は「ただ空疎な美辞麗句」にすぎない。
 彼らの「国際主義」は「反ナショナリズム」から発しているがゆえに、その「国際主義」自体が「『自己陶酔的で排他的な』ナショナリズムの単なる裏返し」となり、「『自己卑下的で追従的な』インターナショナリズムへと転化」している。その対中国姿勢、対国旗・国歌法姿勢等こそ、「まさに『自己陶酔的で排他的』なナショナリズムをただ裏返しただけに過ぎない」(p.76-77)。
 ③彼らの「友好」・「配慮」は「きわめて独善的」で「一国主義的」でもある。「ナショナル・アデンティティ」を排除した「国際主義」は「真の意味での国際主義=国家間主義(インターナショナリズム)とはなりえない」。「友好」・「配慮」は、「奇妙なことに『自己卑下的で追従的な』国際主義を『排他的で自己陶酔的に』追求するという結果となりかねない」(p.77)。
 ④「朝日新聞」社説が「ナショナリズム」や「ナショナル・アデンティティ」を「根本から否定」しているとは思わないが、それを語ることを「躊躇」しているために、五輪ナショナリズムはよいが「現実のナショナリズムは危険」だなどという「トンチンカン」な論説を展開している。「過激なナショナリズムを高揚させるほどの国家への切迫した思いも一体感も現代の日本人は持ってはいない」。五輪ナショナリズムは過激だが「国家意識は低調」ということは「通常は考えにくい」(p.78)。
 ⑤既述のように「朝日新聞」社説の「反ナショナリズム」は「裏返された」ナショナリズムで「隠された」ナショナリズムを背後にもつ。ナショナリズムあるいは「国家という『主体』」なくして「他国への配慮」・「国際的友好」を語り得ないのは自明のことで、朝日新聞」社説も「戦後進歩主義者」もこれを前提とせざるをえない筈だ(p.78-79)。
 ⑥しかし、「今日の日本」ではこの「国家という『主体』」という「自明性が見えなくなってしまっている」。小林よしのりの本も新しい教科書の会の運動も「戦前復古ではなく、現在の『主体』をいかに構成するかという関心」に導かれていると考える。
 「朝日新聞」社説もかかる「主体」の必要性を前提とする筈だが、しかし、「この『主体』がほとんど崩壊、もしくは溶解しつつあるとき、その主体の構成を図るための議論をナショナリズムと規定して排斥するのは一体なぜなのか?
 「ナショナリズムを隠蔽した反ナショナリズム」、「反ナショナリズムの内に潜むナショナリズム」、「この奇妙な二重構造」・「顕揚と隠蔽」あるいは「無意識の検閲」、「ここに大きな欺瞞があるのではないか?」 そしてそれこそが「『戦後的なもの』を内側から溶解させてしまった根本」要因ではないか?(p.79-80)。
 ⑦この「二重性」・「無意識の検閲」は後述もするが、そもそも「反ナショナリズムの思想的拠点は何」なのか。次にこれを扱う(p.80)。
 二 以上でp.57-80のメモは終わり。この部分は、この著の序章「なぜ『国家』を論じるのか」の次の第一章「現代日本の国家意識」の1「『戦後的なもの』の溶解」の後半ほぼ3/4にあたる。
 このあと、2「『世界市民主義』とは何か」、3「逆立ちした国家意識」とつづき、第二章「『二重言説』の戦後日本」以降へと移っていく。いずれも<朝日新聞>と無関係ではないが、覚書的紹介はとりあえずここでやめる。
 のちに丸山真男宮沢俊義(・日本国憲法)に触れるところや佐伯自身の「国家」観・論の展開が見られるところがあるので、別の機会にこの欄で言及したい。
 三 それにしても、朝日新聞、そして若宮啓文は、上のような朝日新聞的「反ナショナリズム」批判(又は批判的分析)にどう反応する(又は反応した)のだろうか。若宮啓文が佐伯啓思のこの著を一顧だにすることなく単純な「ナショナリズム」批判をしている(した)ことは明瞭だ。彼らがしていることは本能的・感覚的な「ナショナリズム」嫌悪感の表明にすぎないだろう。朝日新聞の社説執筆者やその一人だった若宮啓文の思考の<驚くべき底浅さ>は、佐伯啓思の丁寧な(そしてこの人にしては珍しく朝日新聞と明示しての大胆な?批判を含む)論述と比べると、きわめてよく分かる。
 若宮啓文はもう遅いかもしれないが、より若い世代の「戦後進歩主義者」は、佐伯啓思の上掲書を一度きちんと読んでみたらどうか。