皇室経済法(昭和22法律第4号)によると、「予算に計上する皇室の費用」には次の三種がある。①内廷費、②宮廷費、③皇族費、だ(法律上の順序による)。
 ①は皇族の「日常の費用その他内定諸費」に充てられ、②は①以外の「宮廷諸費」に充てられ、③は「皇族としての品位保持」のためのもので、皇族に年額、皇族であった者・皇族を離れる者に一時金額として出費される。
 園部逸夫・皇室制度を考える(中央公論新社、2007.09)も参照。但し、この本には、次の疑問の答えは明示されていない。そもそも(伊勢)神宮などという言葉は一回も出てこない。
 伊勢神宮をはじめとする神社や仏閣に天皇(家)から何らかの「金銭」が支出されているとすれば、上のどの種別に含まれるのか?
 日本国憲法第3条は「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」と規定して、天皇は<国事行為>をするが、すべてに「内閣の助言と承認」が必要だと定める。この<国事行為>とは、同6条による内閣総理大臣・最高裁長官の「任命」のほかは、同7条が定めるものに限られると一般に解されているようだ(「「憲法改正、法律、政令及び条約」の「公布」、「国会」の「召集」、「衆議院」の「解散」、四~六<略>、七「栄典」の「授与」、八・九<略>、十「儀式を行ふこと」)。
 これらの国事行為と天皇の<(純粋な)私的行為>の区別は、財源的には、上の②と①の区別に対応する。①内廷費は皇族の「日常の費用その他」のいわば「私費」として使われる、とされる。
 天皇(皇族)の活動・行為は(憲法上の)国事行為に限られるのか、<(純粋な)私的行為>とも区別される第三の「公的行為」との類型もあり、これも存在しうるのか、については、「公的行為」肯定説と同否定説が憲法学界にはあるようだ(野中=中村=高橋=高見・憲法Ⅰ〔第四版〕(有斐閣、2006)の高橋和之(前東京大学)執筆部分のp.136-141参照)。
 少なくともマルクス主義「的」と見られる浦部法穂が関係部分を執筆している芦部信喜監修・注釈憲法(1)(有斐閣、2000)で浦部法穂は、国事行為以外は「純粋な私的行為」のみ=「ひとりの人間としてなす純然たる私的行為(起居動作や趣味の行為など)」に限られる、とする(上掲書p.201、p.220~)。
 実務あるいは現実は<公的行為>を一定範囲で肯定しているようだが(国会開会式での「お言葉」など)、皇室が社寺とかかわる行為は<公的行為>とはされていないようだ。
 高橋和之(前東京大学)は上掲書p.131で憲法上の国事行為の一つの「儀式を行うこと」に触れて、「その儀式は私的ではなく国家的な性格なものでなければならず、かつ、政教分離の原則から宗教的なものであってはならないとされる」と書き、p.132では「儀式的行為が国事行為」になるには「国家的、全国民的性格のもの」の必要があり、「宗教的性格をもってはならないことはいうまでもない」と、「いうまでもない」との語尾をつけて強調しており、伊勢神宮等への関与が(現憲法上の)国事行為になる余地はなさそうだ。
 さらに、高橋(前東京大学法学部教授)は、昭和天皇の葬儀は「皇室の宗教儀式」としての「葬場殿の儀」と「国事行為」としての「大喪の礼」の二つを含んでいたこと、かつ両者が「同じ日に隣接した場所」で「あたかも一連の儀式であるかのような外観」で行われたので「政教分離の不徹底さが批判を受けた」と明記している。
 また、高橋は、現天皇陛下の即位にかかわる「皇室の宗教儀式」としての「大嘗祭」の費用は(国事行為とされなかったが)「宮廷費」から出費された、一方、現天皇陛下の婚姻の儀全体は当時の天皇=昭和天皇の「国事行為」として行われつつも、そのうち「賢所での宗教的儀式」=「神事」の費用は(「宮廷費」ではなく)「内廷費」で賄われた、という「あいまいさを残した」とも書いている(p.132-3)。
 こうして見ると、明記は以上のどの本にもないが、伊勢神宮への関与(式年遷宮費の一部負担)は「内廷費」から出費されていると理解しておそらく間違いないだろう。
 だが、極端とも思われる浦部法穂によれば、「内廷費」とは「ひとりの人間としてなす純然たる私的行為(起居動作や趣味の行為など)」について出費されるものになるが、はたして天皇(家)にとって、皇室と関係の深い社寺への<御下賜金>の交付が「純然たる私的行為」というような性格のものか否かは疑問も生じる。
 園部逸夫・上掲書p.298は「宗教的性格」をもつ「皇室財産は私有財産」とされ、「宗教的性格を有すると見られる行為は私的な立場の行為とされている」と書く。これがどうやら、現憲法のもとでの現在の一般的理解なのだろう。皇室と関係の深い社寺への<御下賜金>の交付が「宗教的性格を有する」と見られる限り、「私的な立場の行為」としか性格づけられないことになる(従って、「内廷費」で賄われる)
 だが、前東京大学の高橋和之は「いうまでもない」と書いて当然視しているが、現憲法上存置されている天皇と天皇制度はかくも全面的に<政教分離原則>に服しなければならないものなのだろうか。
 GHQがどの程度<天皇制度>の意味や歴史を理解していたかが問題になるが、いつか書いたように、とくに<神道>との密接な関連性をもつということは、<天皇制度>のうちに元来内包されている要素であり、そのようなものとして現憲法も<天皇制度>を存続させた、という解釈も可能なのではないだろうか。だとすれば、天皇(家)と<神道>の関係について厳格に<政教分離の原則>を適用するのは、むしろ憲法の趣旨には合致していない、とも解釈できるのではないだろうか。
 園部逸夫・上掲書p.同も、「宗教的性格」の財産や行為を従来通り「私的な位置づけ」とするとしても、「財産や行為の内容によっては」、それらの「文化的・歴史的意義に鑑み、…費用を、公費から支出することが可能なものもあるのではないか」と提言又は試論的に述べ、その例として、「文化的・歴史的な側面から」「宗教的意義」を評価しての、「古くから伝わる宗教的財産や古くから行われている祭祀等」を挙げている。
 「公費から支出」とは皇室経費以外の国費支出の場合の他に、「宮廷費」からの支出も含む、と理解できるのではないかと思われる。
 「古くから行われている祭祀等」の中に大嘗祭や婚礼のための「賢所での宗教的儀式」は含まれるかもしれないが、伊勢神宮の式年遷宮への<御下賜金>の交付も含まれるかは明らかではない。だが、少しばかりの可能性は生じうるだろう。
 以上は現日本国憲法を前提としての話なのだが、そもそも、政教分離に関する条項も、日本の宗教、とくに<神道>と<(日本化された)仏教>についてのいかほどの見識・知見をもって制定されているのかも問題にしなければならない。原文を作ったGHQの担当者は殆ど詳細な知識もなく、自国(アメリカ)又は欧州の有力諸国の憲法を大きな参考にしたのではなかろうか。
 だとすれば、宗教にかかわる国情も歴史も異なる日本に、米国(又は欧州)産の宗教関係条項をそのまま持ち込むのは無理がある、と言うべきではないか。
 そしてまた、<政教分離>の観点から、天皇(家)の宗教的活動を否定するかできるだけ制限することを志向している憲法学者の議論は、<天皇制度>への不信、将来におけるそれの廃棄を心の奥底では狙っているもののように思えなくもない。
 最もよいのは、<天皇と宗教>というテーマに関しても十分に議論・検討をして、新憲法を制定する(現憲法の関係条項を改正する)ことだろう。だが、自由民主党の新憲法草案を見てみると、新20条は現行規定と内容は殆ど(全く?)変わっていない。いつ憲法改正が具体的政治日程に上がるのか不明になってしまったが、目配りすべき部分は自由民主党の新憲法草案立案者が想定していたよりも多いのではないか。