秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

憲法改正

1226/月刊正論・桑原聡編集長等に対する批判的コメント一覧。

 桑原聡が月刊正論編集長になって半年も経っていないとき、民主党政権下の月刊正論2011年3月号で、桑原はこう書いていた。-「かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」。

 ということは現在の自民党も「多くを期待できない」のか。桑原聡という人は「政治感覚」がどこかおかしかったように感じる。
 上のことを以下で記した。

 ①2011.04.06

 「月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは。」

 ほかに、月刊正論の編集方針等について書いたものに以下がある。存外にたくさん、非生産的なことに時間を費やしてきた想いが生じ、あまり楽しくはないが。再度同旨のことを繰り返すのはやめにし、リストアップにとどめておくことにする。

 ②2012.04.06 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言1。」

 ③2012.04.09 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言2。」 

 ③2012.04.10 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言3。」

 ④2012.04.11 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言4。」 

 ⑤2012.04.13 「『B層』エセ哲学者・適菜収を重用する月刊正論(産経)。」

 ⑥2012.04.15  「『保守』は橋下徹に『喝采を浴びせ』たか?」

 ⑦2012.05.17  「月刊正論の愚-石原慎太郎を支持し、片や石原が支持する橋下徹を批判する。」

 ⑧2012.06.06 「月刊正論編集部の異常-監督・コ-チではなく『選手』としても登場する等。」

 ⑨2012.08.06 「憲法改正にむけて橋下徹は大切にしておくべきだ。」

 ⑩2012.08.21 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?①」

 ⑪2012.08.29 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?②」

 ⑫2012.09.03 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?③」

 ⑬2013.09.08 「適菜収が『大阪のアレ』と書くのを許す月刊正論(産経新聞社)」

 ⑭2013.10.04 「月刊正論(産経)・桑原聡は適菜収のいったい何を評価しているのか。」

 ⑮2013.10.13 「錯乱した適菜収は自民+維新による憲法改正に反対を明言し、『護憲』を主張する。」

1222/錯乱した適菜収は自民+維新による憲法改正に反対を明言し、「護憲」を主張する。

 10/04に、適菜収が月刊正論2013年8月号で、「反日活動家であることは明白」な橋下徹を「支持する『保守』というのが巷には存在するらしい」のは「不思議なこと」とだと書いていることを紹介し、「適菜収によれば、石原慎太郎、佐々淳行、加地伸行、西尾幹二、津川雅彦らは、かつ場合によっては安倍晋三も、『不思議』な『保守』らしい。そのように感じること自体が、自らが歪んでいることの証左だとは自覚できないのだろう、気の毒に」とコメントした。「保守」とされているのが「不思議」だ(「語義矛盾ではないか」)という言い方は、橋下徹を支持する人物の「保守」性を疑っている、ということでもあるだろう。

 それから一週間後の10/11に、明確に安倍晋三の「保守」性を疑問視する適菜収の文章を読んでしまった。週刊文春10/17号p.45だ。適菜収は「連載22/今週のバカ」として何と安倍晋三を取り上げ、「安倍晋三は本当に保守なのか?」をタイトルにしている。その他にも、驚くべきというか、大嗤いするというというか、そのような奇怪な主張を適菜は行っている。

 ①まず、簡略して紹介するが、橋下徹と付き合う安倍晋三を以下のように批判する。

 ・付き合っている相手によって「その人間の正体」が明らかになりうる。橋下徹の「封じ込めを図るのが保守の役割のはず」、日本の文化伝統破壊者に対して「立ち上がるのが保守」であるにもかかわらず、「こうした連中とベタベタの関係を築いてきたのが安倍晋三ではないか」。
 ②また、安倍晋三個人を次のように批判する。

 ・組んでよい相手を判断できない人間は「バカ」。「問題は見識の欠片もないボンボンがわが国の総理大臣になってしまったこと」だ。

 ③ついで、安倍内閣自体をつぎのように批判する。

 ・「耳あたりのいい言葉を並べて『保守層』を騙しながら、時代錯誤の新自由主義を爆走中」。
 ④さらには、次のように自民+維新による憲法改正に反対し、「護憲」を主張する。
 ・「維新の会と組んで改憲するくらいなら未来永劫改憲なんかしなくてよい。真っ当な日本人、まともな保守なら、わけのわからない野合に対しては護憲に回るべきです」。

 ビ-トたけしあたりの「毒舌」または一種の「諧謔」ならはまだよいのだが、適菜収はどうやら上記のことを「本気」で書いている。

 出発点に橋下徹との関係がくるのが適菜の奇怪なところだ。与えられた原稿スペ-スの中にほとんどと言ってよいほど橋下徹批判の部分を加えるのが適菜の文章の特徴だが、この週刊文春の原稿も例外ではない。よく分からないが、適菜は橋下徹に対する「私怨」でも持っているのだろうか。何となく、気持ちが悪い。

 それよりも、第一に、安倍晋三を明確に「バカ」呼ばわりし、第二に、安倍晋三の「保守」性を明確に疑問視し、第三者に、「野合」による憲法改正に反対し、「護憲に回るべき」と説いているのが、適菜収とはほとんど錯乱状態にある人間であることを示しているだろう。

 少し冷静に思考すれば、憲法改正の内容・方向にいっさい触れることなく、「維新の会と組んで改憲するくらいなら」と憲法改正に反対し、「野合」に対して「護憲に回るべき」と主張することが、憲法改正に関するまともな議論でないことはすぐ分かる。

 適菜収は論点に即して適切な文章を書ける論理力・理性を持っているのか?

 適菜といえば「B層」うんぬんだが、そのいうA~D層への四象限への分類も、思想・考え方または人間の、ありうる分類の一つにすぎない。容共・反共、親米・反米(反中・親米)、国家肥大化肯定的・否定的(大きな国家か小さな国家か)、自由か平等か、変革愛好か現状維持的か、等々、四象限への分類はタテ軸・ヨコ軸に何を取り上げるかによってさまざまに語りうる。適菜のそれの特徴は「IQが高い・低い」を重要な要素に高めていることだが、少なくとも、ある程度でも普遍的な分類方法を示しているわけではない。
 さらにまた、適菜のいうA~D層への四象限への分類は、適菜自身が考えたのではないことを適菜自身が語っている。適菜はある程度でも普遍的だとはまったくいえない「B層」・「C層」論等を、「借り物の」基準を前提にして論じているのだ。
 そしてどうやら適菜は自らは規制改革に反対(反竹中平蔵・反堺屋太一)で「IQが高い」という「C層」に属すると考えているようなのだが、この週刊文春の文章を読むと、「D層」ではないかと思えてくる。

 また、自民党・維新の会による憲法改正に反対し、「護憲」を主張しているという点では辻元清美、山口二郎等々々の「左翼」と何ら変わらない(中島岳志とも同じ)、安倍晋三を「バカ」と明言するに至っては、かつて第一次内閣時代の安倍について「キ〇〇〇に刃物」とも称していた、程度の低い「左翼」(またはエセ保守)文筆家(山崎行太郎だったか天木直人だったか)とも類似するところがある。

 この適菜が「橋下徹は保守ではない!」という論考で月刊正論(産経)の表紙をよくぞ飾れたものだ。

 もう一度10/04のこの欄のタイトルを繰り返しておこうか。

 <月刊正論(産経)・桑原聡は適菜収のいったい何を評価しているのか。> 

1197/六年半前と「慰安婦」問題は変わらず、むしろ悪化した。これでよいのか。

 この欄への書き込みを始めたのは2007年3/20で、第一次安倍晋三内閣のときだった。当初は毎日、しかも一日に3-6回もエントリーしているのは、別のブログサイトを二つ経てここに落ち着いたからで、それらに既に書いていたものをほとんど再掲したのただった。

 当時から6年半近く経過し、内閣は再び安倍晋三のもとにある。かつて安倍内閣という時代背景があったからこそ何かをブログとして書こうと思い立ったと思われるので、途中の空白を経て第二次安倍内閣が成立しているとは不思議な気もする。
 不思議に思わなくもないのは、定期購読する新聞や雑誌に変更はあっても、政治的立場、政治的感覚は、主観的には、6年半前とまったく変わっていない、ということだ。

 当時に書いたものを見てみると、2007年3/21に、「憲法改正の発議要件を2/3から1/2に変えるだけの案はどうか」という提案をしている(5回めのエントリー)。たまたま谷垣禎一総裁時代に作成された現在の自民党改憲案と同じであるのは面白い。但し、この案には、政治状況によっては、天皇条項の廃棄(「天皇制打倒」)も各議院議員の過半数で発議されてしまう、という危険性があることにも留意しておくべきだろう。

 同年3/25、16回めに、「米国下院慰安婦問題対日非難・首相謝罪要求決議を回避する方法はないのか!」と題して書き、同年4/12、63回めでは、「米国下院慰安婦決議案問題につき、日本は今どうすべきなのか?」と再び問題にしている。

 上の後者では、岡崎久彦や「決議案対策としての河野談話否定・批判は『戦術として賢明ではない』」等との古森義久の見解を紹介したあとで、「河野非難は先の楽しみにして、当面は『臥薪嘗胆』路線で行くしかないのだろうか。私自身はまだスッキリしていないが。」と書いている。
 この決議案は採択され、河野談話は否定されておらず、慰安婦問題という「歴史」問題は、まだ残ったままだ。残るだけではなく、さらに悪化している、とも言える。そして、「私自身はまだスッキリしていない」。今年の橋下徹発言とそれをめぐるあれこれの「騒ぎ」のような現象は、今後も間違いなく生じるだろう。

 急ぎ、慌てる必要はないとしても、自民党、安倍晋三内閣はこのまま放置したままではいけないのではないか。
 「歴史認識」問題を犠牲にしても憲法改正(九条改正)を優先すべきとの中西輝政意見もあるが、「歴史認識」問題には「慰安婦」にかかるものも含まれるのだろう。

 これを含む「歴史認識」問題について国民の過半数が一致する必要はなく、例えば<日本は侵略戦争という悪いことをした>と思っている国民も改憲に賛成の票を投じないと、憲法改正は実現できないだろう。

 しかし、河野談話や村山談話をそのまま生かしていれば、第二次安倍内閣は<固い保守層>の支持を失うに違いない。今のままで放置して、「臥薪嘗胆」路線で行くことが賢明だとは考えない。憲法改正を追求するとともに、河野談話・村山談話等についても何らかの「前進」措置を執ることが必要だと思われる。

1193/歴史戦争・歴史認識・歴史問題-中西輝政論考の一部。

 中西輝政のものを読んでいたら、引用して紹介したい部分が随所にある。すべてをという手間をかける暇はないので、一部のみを、資料的にでも引用しておく。

 〇阿比留瑠比との対談「米中韓『歴史リンケ-ジ』の何故?」歴史通7月号(ワック)p.36、p.41

 「いまやマルクス主義や共産主義を真面目に信じている人はいなくなりましたが、敗北した戦後左翼の人々の社会に対する怨念、破壊衝動は残っています。日本国内で長い間社会主義に憧れてきた人たちは、突然社会主義が崩壊してしまったのを見て、日本を攻撃するタ-ゲットを『侵略戦争』すなわち、歴史認識問題へと移しました」。「国際的なリアリズムを踏まえたうえで、歴史問題を考えなければいけません。全ての元凶はどこにあるのか。それは憲法九条です憲法九条さえ改正できれば、歴史問題を持ち出されても対応できるでしょう。憲法改正、歴史談話、靖国参拝の三つで賢く敵を押し返さねばなりません」。

 基本的趣旨に賛成だから引用した。以下はとるに足らないコメント-1.「マルクス主義や共産主義を真面目に信じている人はいなくな」ったのかどうか。生活のため又は惰性ではない日本共産党員もいるのでは。2.「戦後左翼」は「敗北」したと思っているだろうか。3.「突然社会主義が崩壊してしまった」のはソ連・東欧で、中国・北朝鮮はなお「社会主義」国の一つではあるまいか、他の要素・側面が混じっているとしても。4.「憲法九条」は「憲法九条2項」としてほしい。

1192/憲法改正の主張ではなく、いかにして憲法改正するかの「戦略」的主張を。

 民主党政権下の2010年11月3日、産経新聞社説は民主党は「政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」等と主張した。これに対して、同11月6日付のこの欄で、「現在の民主党政権のもとで、あるいは現在の議席配分状況からして、『戦後の絶対平和主義』から脱した、自主・自立の国家を成り立たせるための憲法改正(の発議)が不可能なことは、常識的にみてほぼ明らか…」、「産経社説は、寝惚けたことを書く前に、現内閣<打倒>をこそ正面から訴えるべきだ」、と批判した。

 同様の批判を同じ欄で、産経新聞同日の田久保忠衛の「正論」に対しても行っていた。以下のとおり。
 「『憲法改正の狼煙上げる秋がきた』(タイトル)と叫ぶ?のはいいのだが、どのようにして憲法改正を実現するか、という道筋には全く言及していない。『狼煙』を上げて、そのあとどうするのか? 『憲法第9条を片手に平和を説いても日本を守れないことは護憲派にも分かっただろう』くらいのことは、誰にでも(?)書ける。
 問題は、いかにして、望ましい憲法改正を実現できる勢力をまずは国会内に作るかだ。産経新聞社説子もそうだが、そもそも両院の2/3以上の賛成がないと国民への憲法改正「発議」ができないことくらい、知っているだろう。
 いかにして2/3以上の<改憲>勢力を作るか。この問題に触れないで、ただ憲法改正を!とだけ訴えても、空しいだけだ
 国会に2/3以上の<改憲>勢力を作るためには、まずは衆議院の民主党の圧倒的多数の現況を変えること、つまりは総選挙を早急に実施して<改憲>派議員を増やすべきではないのか?
 <保守>派の議論・主張の中には、<正しいことは言いました・書きました、しかし、残念ながら現実化しませんでした>になりそうなものも少なくないような気がする。いつかも書いたように、それでは、日本共産党が各選挙後にいつも言っていることと何ら違いはないのではないか。」 以上。
 政治状況は当時とは違っているが、衆議院はともかく、参議院では憲法改正に必要な2/3の議員が存在せず、いくら憲法改正を(9条2項廃棄を)と「正しく」主張したところで、国会は憲法改正を発議できず、従って憲法改正が実現されないことは当時と基本的には変わりはない。
 また、昨年12月総選挙も今年7月参議院議員選挙も、「憲法改正」は少なくとも主要な争点にはなっていない。したがって、民主党政権下とは異なりいかに自民党等の改憲勢力がかなりの議席数を有しているとしても、議席配分または各党の議席占有率がただちに国民の憲法改正に関する意向を反映しているとは断じ難い。
 衆議院では自民党・日本維新の会の2党で2/3以上をはるかに超える、参議院では維新の会・みんなの会と民主党内「保守派」を加えて、あるいは<野党再編>によって何とか2/3超になりはしないか、と「皮算用」している者もいるかもしれないが、やや早計、早とちりだろう、と思われる。
 というのは、軍の保持を認めて自衛隊を「国防軍」にするか否か、そのための憲法改正に賛成か否かを主要な争点として選挙が行われたとした場合の議席獲得数・率が昨年の総選挙、今般の参議院選挙と同じ結果になった、という保障は何もない。有権者の関心のうち「憲法改正」は、主要な諸課題・争点の最下位近くにあったと報道されたりもしていた筈だ。
 しかし、とはいえ、憲法改正を!という主張だけでは<むなしい>ことは、少なくともそれに賛同している者たちに対する呼びかけとしてはほとんど無意味であることは明らかだ。
 上の点からして、遠藤浩一の、撃論シリ-ズ・大手メディアが報じない参議院選挙の真相(2013.08、オ-クラ出版)の中のつぎの発言は、私のかつての記述内容と同趣旨で、適確だと思われる。

 「多くの人が憲法改正(ないし自主憲法制定)の大事さを説きますが、現実の政治プロセスの中でそれを実現するにはどうすればいいのか、どうすべきかについてはあまり語りません。多数派の形成なくして戦後体制を打ち破ることはできないという冷厳なる事実を直視すること、そして現実の前で身を竦ませるのではなく、それを乗り越える戦略が必要だと思います」(p.26)。
 ここに述べられているとおり、「現実の政治プロセスの中でそれを実現するにはどうすればいいのか」についての「戦略」を語る必要がある。

 <保守>派らしいタテマエや綺麗事を語っているだけではタメだ。私はこの欄で遅くとも2020年までには、と書き、2019年の参議院選挙が重要になるかもしれないと思ったりしたのだが、それでは本来は遅すぎるのだろう。だが、しっかりと基礎を固め、朝日新聞等の影響力を削ぎ、「着々と」憲法改正実現へと向かうには、そのくらいの期間がかかりそうな気もやはりする。むろん何らかの突発的な事態の発生や周辺環境の変化によって、2016年の参議院選挙、その辺りの時期の総選挙を経て、2017年くらいには実現することがあるかもしれない。
 このように憲法改正の展望を語ることができるのは昨年末までに比べるとまだよい。民主党等が国会の多数派を形成している間は、永遠に自主憲法制定は叶わないのではないかとの悲観的・絶望的思いすらあった。「ぎりぎりのところで日本は救われた」(中西輝政「中国は『革命と戦争』の世紀に入る」月刊ボイス8月号p.81)のかもしれない。

1191/憲法改正のために「歴史認識」問題を棚上げする勇気-中西輝政論考。

 昨日、中西輝政が<憲法改正(とくに9条2項)を最優先し、そのためには「歴史認識」問題を犠牲にしてもよい>、というきわめて重要な(そして私は賛同する)主張・提言をしていたと書いたが、雑誌数冊をめくっているうちに、この主張・提言のある文章を見つけた。
 月刊ボイス7月号(PHP)、中西「憲法改正で歴史問題を終結させよ-アジアの勢力均衡と平和を取り戻す最後の時が来た」だ。

 その末尾、p.57には-本来は前提的叙述にも言及しないと真意を的確には把握できないのだが、それには目を瞑ると-、こうある。
 「具体的には、いっさいの抵抗を排して憲法九条の改正に邁進することである。その手段として、九六条の改正に着手することも選択肢の一つであり、他方もし九条改正の妨げとなるならば、『歴史認識』問題をも当面、棚上げにする勇気をもたなければならない。」

 このあと続けて簡単に、「日本が九条改正を成就した日には、対日歴史圧力は劇的に低下するからである」という理由が書かれている。
 「歴史認識」問題について中国や韓国(そして米国?)に勝利してこそ憲法9条2項削除(「国防軍」の設置)も可能になるのではないかという意見の持ち主も多いかもしれない。
 しかし、中西輝政の結論的指摘は、私が感じていたことと紛れもなく一致している。中西と同じでではないだろうが、私が思い浮かべていたことは以下のようなことだった。
 国会(両議院)の発議要件がどうなろうと、有権者国民の「過半数」の支持がないと憲法改正は成就しない。しかして、産経新聞社の月刊正論をはじめとする(?)<保守派>が提起している「歴史認識」問題のすべて又はほとんどについて、国民の過半数が月刊正論等の<保守派>と同じ認識に立つことはありうるのだろうか。ありうるとしても、それはいつのことになるなのだろうか。
 田母神俊雄の<日本は侵略国家ではない>との主張・「歴史認識」が、問題になった当時、国民の過半数の支持を受けたとは言い難いだろう。当時の防衛大臣は現在の自民党幹事長・石波茂だったが、自民党の閣僚や国会議員すら明確に田母神を支持・擁護することが全くかほとんどなかったと記憶する。
 先の戦争にかかる基本的評価には分裂があり、2割ずつほどの明確に対立する層のほかに、6割ほどの国民は関心がないか、または歴史教科書で学んだ(人によっては「左翼」教師によって刷り込まれた)日本は悪いことをしたという<自虐>意識を「何となく」身につけている、と私には思える。
 昭和天皇も「不幸な」時代という言葉を使われた中で、さらには<村山談話>がまだ否定されていない中で、いくら産経新聞社や月刊正論が頑張ろうと、
国民の過半数が<日本は侵略国家ではない>という「歴史認識」に容易に達するだろうか。
 上は基本的な歴史問題だが、<南京大虐殺>にせよ<首切り競争>にせよ、あるいは<沖縄住民集団自決>にせよ、さらには<朝鮮併合(「植民地化」?)>問題にせよ、これらを含む具体的な「歴史認識」問題について、国民の過半数は<保守派>のそれを支持しているのだろうか、あるいは近い将来に支持するに至るのだろうか。

 朝日新聞、岩波書店、日本共産党等々の「左翼」の残存状況では、これは容易ではないだろうというのが、筆者の見通しだ。いつぞや書いたが、「seko」というハンドルネイムの女性らしき人物が「在日」と見られる人物に対して、「本当にすみませんでした」という謝りの言葉を発しているのを読んだことがある。産経新聞や月刊正論の影響力など全体からすれば<微々たる>ものだ、というくらいの厳しい見方をしておいた方がよいだろう。

 そうだとすると、憲法改正をするためには、日本はかつて<侵略>をした、<南京大虐殺>という悪いことをした、と(何となくであれ)考えている国民にも、憲法改正、とくに9条2項削除を支持してもらう必要があることになる。
 そういう観点からすると、<保守派>内部に、あるいは<非左翼>内部に対立・分裂を持ち込んでいては憲法改正が成就するはずはないのであり、「歴史認識」に違いはあっても、さらについでに言えば<女性宮家>問題を含む<皇室の将来のあり方>についての考えについて対立があっても、憲法改正という目標に向かっては、「団結」する必要があるのだ。「左翼」用語を使えば、いわば<憲法改正・統一戦線>を作らなければならない。
 日本共産党はずいぶんと前から「九条の会」を作り、又はそれに浸入して、憲法9条の改正にかかる「決戦」に備えている。実質的・機能的には日本共産党に呼応しているマスメディアも多い。
 そうした中では<保守派>にも「戦略・戦術」が必要なのであり、残念ながら「戦略・戦術」を考慮して出版し、そのための執筆者を探すというブレイン的な人物が岩波書店の周辺にはいそうな気がするのに対して、<保守派>の中の「戦略」家はきわめて乏しいのではないか。中西輝政は-安倍晋三と面と向かえる行動力も含めて-貴重な、「戦略」的発想のできる人物だと思われる。

 かつて皇室問題、より正確には雅子皇太子妃問題に関する中西輝政の発言を批判し、国家基本問題研究所の理事を辞めたらどうかと書いたこともあるのだが(なお、むろん私の書き込みなどとは無関係に、中西はのちに同理事でなくなっている)、中西は、相対的・総合的には、今日の日本では相当にレベルの高い<保守派>論客だと思われる。

1188/橋下徹のいわゆる慰安婦発言をめぐって。

 一 「正論を堂々と臆することなく述べる人物に対する、メディアという戦後体制側の恐怖と嫌悪感」という表現を、撃論シリ-ズ・従軍慰安婦の真実(2013.08、オ-クラ出版)の中の古谷経衡「”橋下憎し”に歪むテレビ芸人の慰安婦論」は末尾で使っている。
 このタイトルと上の表現の直後の「防御反応としての橋下叩き」という表現でも分かるように、冒頭の表現は橋下徹のいわゆる慰安婦発言に対するマスメディア側の反応についてのものだ。
 二 古谷によると、橋下発言に対する大手メディアの反応はおおむね4・4・2の割合で次に分かれたという。①「強制性」を強調して日本に反省を求める、②一定の理解を示しつつ「タイミングや発言のニュアンス、つまり方法論」に異議を述べる、③平和・議論必要等の美辞麗句を伴う「無知を基底とする思考停止」の反応。
 小倉智昭、田崎史郎、古市憲寿、吉永みち子、みのもんた、等が「歪むテレビ芸人」としてそれらの発言とともに紹介されているが、宮根誠司は「じっくりと議論していく。ちゃんと勉強して、諸外国の方に謝るべきところは謝る。いつまでもこの話を堂々巡りでやっていては日中韓の信頼は築けない」と述べたようで(日テレ系列)、上の③に分類されるだろう。古谷は「手前の無勉強を棚にあげての高みの謝罪推奨説教の美辞麗句」と評している。
 感心し?かつ唖然ともしたのは、紹介されている次の菊川怜の発言だ(フジテレビ系列)。
 「従軍慰安婦の問題で傷ついている人がたくさんいて、私は根本的に戦争とかをなくしていくという方向が気持ちとしてあります。従軍慰安婦について、強制だったとか、日本以外の国もやっていたとか言うのではなくて、それを反省して二度と戦争を起こしてはいけないという気持ちを持つことだと思います」。

 古谷によると「橋下氏は苦笑いで対応」したらしいが、この菊川怜の発言の仕方・内容は東京大学出身者にふさわしい、<二度と戦争を起こしてはいけない>ということだけはきちんと学んだ?、「戦後教育の優等生」のなれの果て、または「戦後教育の優等生」の、実際の日本が経験した戦争についての「無知蒙昧」のヒドさ、を示しているだろう。橋下徹発言に「戦争反対」とコメントとするのはバカバカしいほど論点がずれていることは言うまでもない。
 クイズ番組には登場できても、現実の歴史や日本社会の諸問題、政治的な諸思想・諸論争には関心を持たず、知らないままで、デレビ界で生き延びるためには、自分がそこそこに目立つためには、どうすればよいかをむしろ熱心に考えているのだろう「無知蒙昧」さを、「テレビ芸人」としての菊川怜は見事に示してくれた、と言うべきだ(むろんそのような者を使っているテレビ界自体により大きな問題があるのだが)。
 三 橋下徹のいわゆる慰安婦発言に対して<保守論壇>は、あるいは自民党はどう対応したのだっただろうか。
 詳細にはフォロ-していないが、橋下徹があとで批判していたように、自民党は<逃げた>のではなかっただろうか。自党の見解とは異なるというだけではなく、また政府見解は強制性を明示的には肯定していない等でお茶を濁すのではなく、橋下発言には支持できる部分もある、というくらいは明言する自民党の政治家・候補者が現れていてもよかったのではないか。
 自民党は公明党とともに<ねじれ解消>を最優先して、減点になりかねないとして重要な<歴史認識>問題の争点化を避けたのではないか。安倍晋三は密かには自民党だけでの過半数獲得を期待し、比例区での当選者が期待的予測よりも数名は少なかったことを嘆いたとも伝えられているが、その原因は<無党派層>を意識するあまりに確実な<保守層>の一部を棄権させたことにあったのではないか、とも思われる。

 四 <保守>派論者では、櫻井よしこは上記二の分類では明らかに②の立場を表明していた。テレビ界にも何人かは(決して「保守」派とは思えないが)存在はしていた、「タイミングや発言のニュアンス、つまり方法論」を批判する立場だった。

 櫻井よしこは、週刊新潮5/30号で橋下発言の要点を11点に整理した上で、7-11の5点を問題視し、自民党の下村博文文科大臣の、「あえて発言をする意味があるのか。党を代表する人の発言ではない。その辺のおじさんではないのですから」というコメントを「まさにそれに尽きる」と全面的に支持した。
 さらには、「歴史問題を巡る状況は本稿執筆中にも日々変化しており、これからの展開には予測し難い面がある。なによりも橋下氏自身が慰安婦問題をより大きく、より烈しく世界に広げていく原因になるのではないか。氏は日本の国益を大きく損ないかねない局面に立っている」と明記し、一部でいわれる「情報戦争」または「歴史認識」戦争の状況下で、橋下徹は「日本の国益を大きく損ないかねない」とまで批判(こきおろして)いる。
 興味深いのは、櫻井よしこは、問題がないとする(と読める)1-6の橋下徹発言については言及せず、正しいことを言ったとも明記せず、むろん褒めてもいないことだ。
 この櫻井よしこの文章は、実質的には<保守>内部での厳しい橋下徹発言批判だっただろう。
 このような櫻井よしこ的風潮が保守派内を覆っていたとしたら、<維新失速>も当然ではあっただろう。

 なお、何度か書いたように、櫻井よしこの<政治的感覚>は必ずしも適切ではない場合がある。
 産経新聞ははたしてどうだったのか。7/04付社説では(自民党は選挙公約には明記しなかったのに対して)憲法96条先行改正を明記した日本維新の会をむしろ肯定的に評価しているようだ。
 但し、先の古谷論考によれば、産経新聞もまた他紙と同じく「当時は」という限定を付けることなく橋下発言につき「慰安婦制度は必要」と見出しを付けたようだし、平然と<維新失速>または<第三局低迷>という客観的または予測記事を流し続けたのではなかったか。真に憲法改正のためには日本維新の会の(実際にそうだったよりも大きい)獲得議席の多さを望んでいたのだったとすれば、多少は実際とは異なる紙面構成・編集の仕方があったのではあるまいか。もっとも、定期購読をしていないので、具体的・実証的な批判または不満にはなり難いのだが。

1186/2013参院選挙前のいくつかの新聞社説等。

 1.朝日新聞7/17社説は「参院の意義―『ねじれ』は問題か」をタイトルにしている。内容を読むと参議院の存在意義に触れてはいるのだが、<ねじれは問題か>と問い、「衆院とは違う角度から政権の行き過ぎに歯止めをかけたり、再考を促したりするのが、そもそも参院の大きな役割のはずだ。その意味では、ねじれ自体が悪いわけではない」と答えているのは、いかにも陳腐で、<ねじれ解消>を訴える自民党や公明党に反対したい気分からだけのもののようにも見える。

 一般論として「ねじれ」の是非を論じるのが困難であることはほとんど論を俟たないと思われる。問題は、「ねじれ」によって何が実現しないのか、にあるのであり、その「何」かを実現したいものにとっては「ねじれ」は消極的に評価されるが、その「何」かを阻止したい者にとっては「ねじれ」のあることは歓迎されるだろう。朝日社説はこの当たり前のことを言っているだけのことで、かつ現在において「ねじれ」は「悪いわけではない」と指摘しているのは、実践的には、衆参両院における自公両党の多数派化に反対したいという政治的主張を、朝日新聞だから当たり前のことだが、含むことになっている。

 2.毎日新聞7/20社説、論説委員・小泉敬太の「参院選/憲法と人権」はかなりヒドい。現憲法と自民党改憲案の人権条項(諸人権の内在的制約の根拠の表現)における「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」を比較して、前者は「一般に、他人に迷惑をかけるなど私人対私人の権利がぶつかった際に考慮すべき概念」とされるが、後者は「公権力によって人権が制約される場合があることを明確にしたのだ」と明記している。

 「公共の福祉」とは「他人に迷惑をかけるなど私人対私人の権利がぶつかった際」の考慮要素だとは、いったい誰が、どの文献が書いていることなのだろう。「公共」という語が使われていることからも明らかであるだろうように-<多数の他人>の利益が排除されないとしても-「社会公共」一般の利益または「国家」的利益との間の調整を考慮すへきとする概念であることは明らかではあるまいか。

 自民党改憲草案にいう「公益及び公の秩序」を批判したいがために毎日新聞社説は上のように書いているのだが、この欄でかつて自民党案の表現は「公共の福祉」を多少言い換えたものにすぎないだろうと書いたことがある。
 この点には私の知識および勉強不足があり、最初は 
宮崎哲弥のテレビ発言で気づいたことだったが、産経新聞7/09の「正論」欄で八木秀次がきちんと次のように書いていた。
 改憲反対派は「基本的人権の制約原理として現行憲法が『公共の福祉』と呼んでいるものを、自民党の憲法改正草案が『公益及び公の秩序』と言い換えたことについても、戦時下の国家統制を持ち出して、言論の自由を含む基本的人権が大幅に制約されると危険性を強調する。自民党案は、わが国も批准している国連の国際人権規約(A規約・B規約)の人権制約原理(「国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護」)を踏まえ、一部を採ったささやかなものに過ぎないのに、である」。 
 「公益及び公の秩序」とは国際人権規約が明示する人権制約原理の一部にすぎないのだ。
 「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えることによって、現憲法以上に「公権力によって人権が制約される場合があることを明確にしたのだ」と自民党改憲案を批判している毎日新聞は、ほとんどデマ・捏造報道をしているに等しいだろう。問題・論点によっては「左翼」が必要以上にその内容を好意的・肯定的に援用することのある「国際人権規約」の基本的な内容くらい知ったうえで社説が書かれないようでは、ますます毎日新聞の<二流・左翼>新聞ぶりが明らかになる。

 毎日新聞の上の社説の部分は、最近に、<憲法は国民が国家(権力)をしばるもの、法律は国家(権力)が国民をしばるもの>と書いた朝日新聞社説とともに、見事に幼稚な<迷言>・<妄論>として、両社にとっての恥ずかしい歴史の一部になるに違いない。
 3.ついでに(?)、産経新聞7/19の「正論」欄の百地章「『憲法改正』託せる人物を選ぼう」にも触れておこう。

 樋口陽一が代表になった(9条の会ならぬ)「96条の会」というのが設立され、96条の改正要件の緩和に反対する樋口陽一らの講演活動等がなされている、という。いくつかの大学等でのその講演集会をかなり詳しく報道し続けているのが朝日新聞で、さすがに朝日新聞は自らの社論に添った運動・集会等には注目して記事にするという政治的な性癖をもつ政治団体だと思わせる。かつての、松井やよりや西野瑠美子らの、いわゆる「天皇断罪戦犯法廷」(NHKへの安倍晋三らの圧力うんぬんという<事件>のきっかけになった)について事前にも朝日新聞記者の本田雅和らが熱心に記事で紹介していたことを想起させる。
 上の一段落は百地論考と無関係だが、百地によると、憲法96条改正反対論に対する反対論・疑問論を提起する者として、大石眞(京都大学教授-憲法学)、北岡伸一(東京大学名誉教授)がある。また、96条先行改正には反対の小林節(慶応大学教授-憲法学)も、「9条などの改憲がなされた後なら、96条の改正をしてもいい」と発言している、という。
 大石眞の読売新聞上のコメントは読んでいるが、上の程度に紹介しておくだけで、ここではこれ以上立ち入らない。立憲主義なるものと憲法改正要件とは論理的な関係がないのは自明のこと。現役の京都大学教授の読売上での発言は、失礼ながら百地章の産経上の文章よりも影響力は大きいのではないか。
 百地章は以下の重要なことを指摘しており、まったく同感だ。 
 「9条2項の改正だが、新聞やテレビのほとんどの世論調査では、『9条の改正』に賛成か反対かを尋ねており、『9条1項の平和主義は維持したうえで2項を改正し軍隊を保持すること』の是非を聞こうとはしない。なぜこれを問わないのか

 この欄で、自民党改憲案も現9条1項はそのまま維持している、「9条の会」という名称は9条全体の改正を改憲派は意図しているという誤解を与えるもので(意識的なのかもしれない)、正確に「9条2項の(改正に反対する)会」と名乗るべきだ等、と書いたことがある。
 百地章も少なくとも最近は漠然と「9条」ではなく「9条2項(または論旨によって1項)」と明記するようになっているようで、まことに適切でけっこうなことだ。また、上のような「新聞やテレビ」の世論調査の質問の仕方は今の日本の「新聞やテレビ」の低能ぶりまたは「左翼」性を明らかにしている証左の一つだろう。  

1179/憲法改正に関するTBS・NHKの「デマ」報道-2013年5月。

 〇5/03だったと思うが、NHKのニュース9は、外国の憲法改正手続の例としてアメリカ、ドイツ、韓国の三国のみを紹介していた。いずれも、現在の日本と同様かそれ以上に厳しい手続を用意している(そして、にもかかわらず頻繁に改正されている)例としての紹介だった。
 諸外国の憲法改正手続について詳しくはないのだが、アメリカとドイツは連邦国家で、各州の意向の反映方法という問題があるので、日本と直接に比較するのは適切ではない。残る韓国一国だけで、世界の趨勢などを知ることができるわけがない。
 と感じていたら、読売新聞5/11朝刊橋本五郎がこう書いていた。
 「改正条項を変えることに反対する人は、米国では両院の3分の2以上の賛成と4分の3以上の州議会の承認がなければ修正できないと強調する。フランスでは両院の過半数の賛成と国民投票で改正が可能であることを決して言わない」。
 念のために高橋和之編・新版世界憲法集(岩波文庫、2007)を見てみると、フランス1958年憲法89条2項が定める憲法改正手続は、政府・議員提案の場合の両院の議決につき2/3以上の要件を課しておらず、国民投票による承認が必要とのみ定める(どちらについても数字ないし割合の定めはなく過半数による議決と承認を意味していると解される)。なお、大統領が憲法改正議会に提案する場合には議会による3/5以上での承認が必要であり、かつこの場合は国民投票に付されない、とも定めている(89条3項)。
 要するに、基本的には、フランスでは両院議員の過半数で発議され、国民投票による過半数の承認で憲法が改正されることになっているようで、橋本五郎の言及内容は誤ってない。
 そうだとすると、なぜ大越健介らのNHKのニュース9はなぜフランスの例を紹介しなかったのだろう、という疑問が生じる。そして、答えは、NHKニュースは橋本のいう「改正条項を変えることに反対する人」によって作られている、そういう特定の立場に立っているということですでに<偏向>している、ということだ。
 くれぐれも注意する必要がある。すなわち、NHKの報道を信頼してはいけない。

 〇5/11夕方のTBS「報道特集」の憲法改正問題に関する取り扱い方は、自民党「日本国憲法改正草案」中の「表現の自由」に関する条項、より正確には現行の21条に2項として「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは認められない」を追加していることを批判することだった。
 キャスターやレポーターは次のように言って論難していた。<表現の自由の保障は大切だ、「公の秩序を害する」の意味が不明確だ、誰がそれを決めるのか>等。
 自民党の上の案が最善だとはまったく思わないが、しかし、TBS「報道特集」による上のような批判は適切ではなく、憲法についての無知をむしろさらけ出すものだ。
 わざわざ書くのも恥ずかしいようなことだが、TBS「報道特集」は、現行憲法のもとでは(自民党改憲案とは違って)「表現の自由」は無条件・無制約に保障されている人権だと思っているのだろうか。
 そんなことはない。直接に関係する21条だけではなく、包括的な「人権」規定とも言われる(従って「表現の自由」についてもあてはまる)12条・13条をきちんと読んでみたまえ。
 12条「国民は」「この憲法が国民に保障する自由及び権利」を「濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のために利用する責任を負ふ」。13条「…幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、…国政の上で、最大の尊重を必要とする」。
 現行憲法のもとでも、「表現の自由」は「公共の福祉」による(内在的な)制約を受けていることは明らかなのだ。この点をより明確に、やや異なる表現で21条自体に追記しようとするのが、自民党案だろう。
 現行憲法21条についても<表現の自由の保障は大切だ、「公共の福祉」の意味が不明確だ、誰がそれを決めるのか>という批判はいちおうは成り立つのであり、自民党改憲案についてだけ言えることではまったくない。なお、最高裁を頂点とする司法部が最終的には法律制定その他の国家活動の合憲性を審査して「決める」ことは常識的なことで、「誰がそれを決めるのか」という疑問を発すること自体も、担当者の無知または「幼稚さ」を示している。
 要するに、TBS「報道特集」は、さすがにTBSらしく、何やら深刻ぶりつつ自民党による憲法改正の動きに対していちゃもんを付けておきたかったのだろう。かりにそれはよいとしても、もう少し憲法についてきちんとした知識・素養にもとづいて「報道」しないと嗤われるだけだ。<陰謀・謀略のTBS>は、しかし、そうした姿勢を正すことはないのだろう。
 〇6年前にこの欄に書いたことを読み返していて、憲法学者・阪本昌成の言説を次のように紹介していたことを思い出した。元の雑誌(ジュリスト1334号)で再確認することなく、もう一度掲載しておく。  平和主義」ではなく「国家の安全保障体制」と表現すべき。九条は「主義・思想」ではなく国防・安全保障体制に関する規定だからだ(p.50)。/「平和主義」という語は「結論先取りの議論を誘発」するが、「平和主義」はじつは「絶対平和主義」から「武力による平和主義」まで多様だ。
 「平和主義」という言葉を単純に使っている朝日新聞等の護憲派(九条2項削除反対派)の人々は、上の短い部分だけでもきちんと読みたまえ。
 「平和主義」の中には現九条2項も入るのかを明確にすべきだし、武力・軍隊の保持による「平和」追求もまた「平和主義」であることを知らなければならない。

 阪本昌成はまた自らの著書の中で次のようにも書いていた。「平和主義」を現憲法の三大原理の一つなどと単純に理解してはいけない。

 <阪本は、「日本国憲法の基本原則は、「国民主権・平和主義・基本的人権の尊重」といった簡単なものではな」く、次の6つの「組み合わせ」となっている、とする。/1.「代議制によって政治を行う」(代議制・間接民主主義)、2.「自由という基本的人権を尊重する」(自由権的基本権の尊重)、3.「国民主権を宣言することによって君主制をやめて象徴天皇制にする」(国民主権・象徴天皇制)、4.「憲法は最高法規であること(そのための司法審査制)を確認し、そして、「よくない意味での法律の留保」を否定する」(法律に対する憲法の優位・対法律違憲審査制)、5.「国際協調に徹する安全保障をとる」(国際協調的安全保障)、6.「権力分立制度の採用」(権力分立制)。> 

1177/日本共産党と朝日新聞の「盟約」関係。

 〇5/09の衆議院憲法審査会で日本共産党の笠井亮は、憲法は国家を<縛る>ものだ(ときどきの政権の都合で変えてはいけない)とか、現96条の要件の緩和は<憲法を法律なみに>するものだとかと述べて、同条の改正に反対したらしい。
 テレビでその部分を観ていて、朝日新聞の社説とほとんどと同じことをほとんど同じ表現で述べていると思った。朝日新聞論説委員・社説子の中にも共産党員や確信的な共産党シンパがいるだろうが、少なくとも憲法改正問題に関して、日朝同盟ならぬ<共・朝盟約>が実質的に成立しているものと思われる(もう一つこれに参加している重要な仲間が、出版界の岩波書店だ)。

 朝日新聞5/09朝刊の二面右上には日本共産党を実質的には「応援」としていると読める記事があった。朝日新聞は日本共産党を<無視>することは決してしないのだ。
 NHKも中立をいちおうは装おうとしながら、憲法(96条)改正に反対の方向で報道することに決めているかに見える。その具体例は逐一挙げないが、5/03の憲法記念日の集会に関するニュ-スでは護憲派(憲法改正反対派)の集会の方を先に取りあげていた。
 この問題が参議院選挙の結果にどのような影響を与えるのかは、私には分からない。だが、朝日新聞やNHKが護憲を明確にしているとなると、改憲派(自民党・日本維新の会・みんなの党)が参院で2/3以上を獲得するのは決して容易ではないと見ておくべきろう。
 なお、私は96条の要件の緩和に反対ではない。まずは96条の改正をしたらどうかという案をこの欄に6年前に記したことすらある。

 但し、改正発議要件の2/3か1/2かという問題は、単純な理屈で決せられるものではないだろう。一義的に是非が判断できる問題ではないと思われる。となれば、96条改正のために2/3以上が獲得できるということは、現9条2項の削除等のためにも2/3以上を獲得できることとたいして変わらず、現行改正規定のままで(むろん両院で2/3以上を獲得して)、一挙に9条2項の削除・国防軍設置等の改正を発議した方がよい、あるいはてっとり早い、ような気もする。
 96条の要件の緩和にあえて反対はしないものの、反面では、例えば現憲法の第一章「天皇」の削除が現在よりも簡単に発議されるような事態が生じることも怖れてはいる(日本共産党は96条改正に反対しているから、現時点では「天皇制度」解体のために国会各議院の議員総数の過半数を獲得する自信を持っていないのだろう。だが、日本共産党が他「左翼」政党とともにそれが可能だと判断するときがくると、96条の要件が緩和されていることは怖いことでもある)。

 〇橋下徹護憲派ほどうさんくさいものはない。護憲派の人たちは、今の憲法が絶対的に正しいと思っている」、「『(憲法に対する異なる)価値観を強要しないで』と言いながら(今の憲法が正しいという価値観を)ばりばり強要している」と護憲派を批判したらしい(5/09記者会見)。

 改憲派である「保守派」の論者の一部の長い文章などよりも、はるかに分かりやすい。

1171/<憲法は国民が国家を縛るもの>考。

 〇現憲法9条の「アクロバット」な解釈(読売4/17)を用いて、政府により自衛隊は「軍その他の戦力」に該当しない合憲の存在とされ、「自衛戦争」はできないが(国際法上または国家の自然権として認められる)「自衛権の行使」は(集団的自衛権のそれでなければ)許される、そのための核兵器の保有も禁止されていない、とされた。
 この常識的には苦しい解釈を政府が採ってこざるをえなかった大きな理由の一つは、正規の憲法改正・9条2項の改定が、国会内の1/3以上の「護憲」=少なくともかつては明確な親コミュニズム・親社会主義勢力の存在によってずっと不可能だったことによる。

 〇さて、<憲法は国民が国家を縛るもの>という正しそうな命題を肝心のわが日本国憲法にあてはめると、まずは、「国民」がこの憲法を制定したのか、という問題にぶちあたる。そして制定時の衆議院・貴族院は当時の国民を代表していたのか、前者の衆議院に限っても、実際には「制憲議会」となった衆議院議員選挙において国民や議員立候補者は「新憲法」案の内容をいかほどに知っており、いかほどの知識にもとづいて選挙運動や投票行動をしたのか等の疑問が生じる。結果として支持され、定着した、というだけでは、国民または国民代表が憲法を制定したことにはならないはずだ。
 現憲法が明治憲法(大日本帝国憲法)の改正手続にのっとり、新憲法施行と同時に廃止された貴族院での議論も経て、天皇(昭和天皇)により公布されたこと、そのかぎりで天皇が旧憲法を「改正」したといっても決して誤りではないことをどう見るか、という問題もある。
 日本国民でも昭和天皇でもなく、GHQが作った、という理解が、実態には最も近いように見える。たしかに一院制から参議院を含む二院制への変更など日本側の意見も採用されてはいるが、より基本的なところは<マッカ-サ-が1週間で作った>、憲法には素人のベア-テ・シロタや、法学部を出ていても憲法の専門家では決してないGHQの軍人たちが、応急的かつ大胆な原案を作ってそれが基本的にそのまま維持された、と言ってよいだろう。
 <憲法は国民が国家を縛るもの>というとき、日本国憲法のかかる出自に関する疑念・問題意識が湧かないようでは困る。
 上の諸論点には立ち入らない。「八月革命説」によるとその八月から新憲法施行までの期間はいかなる法状態だったのか、旧憲法は生きていたのか、少なくとも「非民主的」部分は失効していたのか等々の問題が生じる。学界では多数説になったらしいこの説の主唱者だった東京帝国大学教授・宮沢俊義は、この問題等々をじつに巧妙に説明または回避しているのだが、それの紹介も別の機会に譲る。
 そもそも「国民」は現憲法制定時に存在したのか、という大きな問題が、悲しくも、わが現憲法には付着している。
 つぎに、<国民が国家を縛る>というときの「国民」とは、上記の諸問題を一切捨象していうと、制定・施行時の「国民」に他ならない。日本についていうと、かつての、60年以上前に存在した国民が現在の国家を縛っていることになる。
 現在の「国家」のうち、最も意識されなければならないのは国民代表議会である国会だ。そうすると、憲法は国家を縛るとは、60年以上前の国民が現在(まで)の国会を拘束している、ということであり、国会が制定する法律を縛っている、ということを意味する。
 上のことは、憲法の決定的に重要な機能が、そのときどきの国民によって選出される議員によって構成される国会が制定する法律を「縛る」ことであることを意味している。要するに、法律は憲法に違反してはいけない、そのときどきの主権者国民の代表者でも超えられない、違反できない、枠あるいは基本的基準を憲法を定めている、ということだ。これをたんなる理念・理論で終わらせないために、司法部に法律に対する違憲審査権が与えられている(仕組みは憲法裁判所をもつドイツや韓国もあるなど種々だが、中国等とは異なる自由主義・三権分立国家では法律の合憲性が審査される)。
 ということは、さらにいえば、60年以上前の国民の意思が現在までの国民(および国民代表議会)を拘束してきたことになる、といえる。
 実際にも、法律を違憲とした(一部規定を無効とした)最高裁判決がいくつかある。

 <憲法は国民が国家を縛るもの>とは、平たくいえば、制定時の国民の意思がその後の国民(代表議会)の意思決定を制約するということだ。そして、前回書いたように、憲法を遵守している法律は、行政部や司法部を拘束する。そのようにして憲法は「国家」各部門を縛っていることになる。
 一般論としていうと上のとおりだが、問題ははたして60年以上前の国民の意思(とされているもの)がその後、そしてとくに現在においても絶対的なものなのか、だ。絶対的・永久的な拘束ではないことは、現憲法が(諸外国憲法と同様に)「憲法改正」に関する条項をもつことでも明らかだ。
 憲法改正は実際上困難だったが(96条の要件)、しかしつねに<よりマシな、よりよい憲法>を追求する姿勢を失ってはならなかった。だが、しかし、日本の憲法学の学者もマスメディアもほとんどと言ってよいほど、それを怠ってきた。まことに恥ずかしいことだ。

 いいかげんに目を覚まして、まともでふつうの国民に、あるいはまともでふつうの憲法学者やマスコミ等にならなければならない。
 以上、2013年4月時点での述懐。

1170/読売新聞の憲法9条解釈の説明と宮崎哲弥の憲法論と…。

 〇読売新聞4/17朝刊の「憲法考1」はさすがに?適切に現憲法9条の解釈問題を説明している。
 まず、9条1項でいう「国際紛争を解決する手段として」の戦争は「政府・学説(多数説)は侵略戦争と解釈する。自衛戦争は放棄していないことになる」、と的確に説明している。この点をかなり多くの国民は誤解している可能性があり、産経新聞の社説ですらこの点を知らないかのごとき文章を書いていた。
 「自衛権の行使」ではなく「自衛戦争」も現憲法上許されないのは9条2項による。この点にも読売は触れている。自民党の改憲草案も9条1項は残し、同2項を削除し、「国防軍」の設置を明記するために9条の2を新設(挿入)することとしている。
 改正されるべきなのは現9条全体なのではなく、9条2項であることを、あらためて記しておく。

 つぎに、読売の上記記事は、現9条2項の冒頭の「前項の目的を達成するため」(いわゆる芦田修正)につき、これを「根拠に自衛のための戦力保持を認めれば簡単だったが、政府はそうしなかった」、と説明している。これも適切な説明であり、学説(多数説)もそうではないか、と思われる。
 いわゆる芦田修正の文言を利用すれば、9条1項で禁止される侵略戦争のための「戦力」等のみの保持が禁止されることとなり、自衛戦争目的に限定された軍隊の保持は許容される(禁止されていない)こととなるのだが、そのようには芦田修正(追加)文言は利用されなかった。
 芦田修正文言を知って、将来の軍備保持の日本側の意欲を感じたGHQは「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という現66条2項を挿入させたと言われているが、自衛目的ですら「軍」の保持が禁止されれば「軍人」・「武官」は存在しないはずなのであるから、「文民」を語るこの66条2項は奇妙な条文として残ったままになった(どの憲法教科書も奇妙な、または苦しい説明をしているはずだ。「文民統制」うんぬんは後付けの議論)。
 結果として、芦田修正(追加)文言は、政府や多数学説において実際には意味がないものとして扱われることになった。常識的な日本語文の読み方としては、じつはこちらの方が奇妙なのだが。
 ともあれ、上の二点くらいは広く国民の常識となったうえで現憲法9条の改正問題は議論される必要があるだろう。

 〇宮崎哲弥が週刊文春4/25号(文藝春秋)の連載コラムで朝日新聞4/11天声人語を使って橋下徹の憲法観を紹介し、賛同するかたちで「憲法とは、国家が国民を縛るためのものではなく、国民の名において『国家権力を縛る』ためにあるのだ。私はこの一〇年、あらゆるメディアで、口が酸っぱくなるほど繰り返しこの原理を説いてきた」と書いている(p.123)。

 宮崎が批判している例を読んでいて、かつて社共(といっても分からない者が増えているかもしれない。日本社会党と日本共産党)両党に支えられた京都府知事・蜷川虎三が唱えて府庁舎にも垂れ幕が懸かっていたらしい「憲法をくらしの中に生かそう」も、間違った憲法観にもとづくものだったような気がしてきた。
 それはともかく、宮崎哲弥(や橋下徹)の理解に反対する気はとりあえずないが、「私はこの一〇年、あらゆるメディアで、口が酸っぱくなるほど繰り返しこの原理を説いてきた」とはご苦労なことで、またそれほどに自慢・強調するほどのことなのか、という気もする。
 
 また、朝日新聞・天声人語の<法律は国家が国民を縛るもの>という理解は誤りであることを過日この欄で書いた、この点に宮崎は触れていない。

 さて、親愛なる宮崎哲弥にあえてタテつくつもりはないが、<憲法は国民が国家を縛るもの>という理解の仕方も、何とかの一つ覚えのように朝日新聞の記者等がしばしば述べてはいるが、多少は吟味の必要がある。

 第一に、あえて反対するつもりはとりあえずはないが、上のような理解は「近代憲法」観とでもいうべき、欧米産の憲法理解を継承しているのであり、日本には日本の独自の「憲法」理解があっても差し支えはない、と考えている。欧米の憲法観が国家や時代を超えて普遍的なものだとは私は思わない。
 第二に、<憲法は国民が国家を縛るもの>というだけの-最近にテレビ朝日系報道ステ-ションに出ている朝日新聞の者が(何とかの一つ覚えのように?)述べて憲法現96条の改正に反対する根拠にしていたようでもあるが-単純な理解では済まないような気がする。
 これだけの言辞からは、(上の朝日新聞の解説委員?のように?)それほど大切なものだから簡単に変えてはいけないとか、現憲法99条により公務員には(大臣・国会議員を含む)憲法尊重擁護義務があるから大臣等は憲法改正を語ってはいけないととかの、誤りであることが明白な言説が出てこないともかぎらない。

 当然にもっと書く必要があるが、長くなったので、次の機会に回す。

1169/朝日新聞4/11天声人語の「法的」素養の欠如。

 朝日新聞4/11朝刊の天声人語がエラそうに、じつはアホなことを書いている。
 自民党の憲法改正案を皮肉り、それとの比較で橋下徹の見解を「常識的な見解」と持ち上げる過程で、次のような馬鹿な言辞を吐いている。
 「憲法は国民が国家を縛るもの、法律は国家が国民を縛るもの。向きが逆さになる。」

 このあとこの旨を「憲法99条が象徴的に示している」と続けているのだが、憲法99条のどこに「法律は国家が国民を縛るもの」という趣旨が含まれているのか。
 そもそも「法律は国家が国民を縛るもの」という理解が間違いであり、戯けた言辞だ。
 法律は議会(立法権)が制定し、国家の中の行政権と司法権を拘束する(「縛る」)もので、第一次的機能は「国民を縛る」ものではない。行政権の諸活動や司法権(裁判所)の判決を拘束する(「縛る」)ことこそが、憲法に違反していないかぎりでの法律の本質的な機能だ。行政は「法律を誠実に執行」しなければならず、司法(を担当する裁判官)は憲法と良心のほか「法律」にのみ拘束される。

 天声人語執筆者はそのお好きな日本国憲法の73条1号と76条3項を読んでみたらどうか。

 なるほど法律は直接に特定の又は一定範囲の国民を拘束する(「縛る」)ことがあるが、それはその他のもしくは別の一定範囲の国民の利益を、又は社会公共の利益を守るためのものだ。
 「法律は国家が国民を縛るもの」と書いてしまう天声人語執筆者は、いったい何のために縛っているのか考えたことがあるのか。

 刑法は(特定の、又は特定行為をする)国民を縛っていると言えるかもしれないが、どの刑法入門書にもそれは「個人的」・「社会的」または「国家的」法益を守るためのものだと書いているはずだ。また、罪刑法定主義によって、法律の定めによらない(国家=裁判所による)刑罰の賦課を阻止しようとしている点をとらえれば、刑法という法律は当然に国民を守る重要な機能を持っている。

 民法はどのように、いかなる意味で「国民を縛るもの」なのか。朝日新聞・天声人語執筆者は具体的例を挙げてみるがよい。きっとできないだろう。基本的には、民法は国民相互の権利義務に関する紛争を解決するための、司法権(裁判所)を拘束する裁判規範として機能するものだ。決して単純に「国民を縛るもの」ではない。
 個々の行政法規は、直接に(民法とは違って国民が出訴しなくとも)行政権・行政機関を拘束するものだ。国民を拘束する命令等を行政機関に授権することもあるが、法律がないかぎりで国民を拘束する命令を出せないという意味では、国民を守っている。またそもそも例えば生活保護法という法律のように、国民に「権利」を付与するもので、決して「国民を縛るもの」という性格づけをできない法律も少なくない。
 議会(立法権)は他の二権と違って国民により選出された議員により構成されているので、むしろ議会制定法=法律は、国民代表が司法権と行政権を「縛る」ものだ、と言える。お分かりかな? 朝日新聞、天声人語殿。
 天声人語が「憲法は国民が国家を縛るもの、法律は国家が国民を縛るもの。向きが逆さになる。」などというバカげたことを書いているのは、日本のマスメディアの知識レベルの低劣さを示す典型でもあろう。
 憲法改正に関する議論でも、日本のマスコミが産経新聞も含めて、いかほどに適切な記事や論評を書いたり、議論を展開させることができるのか、はなはだ疑わしいと思っている。何しろ、<よりよい・よりマシな憲法を>という問題意識を欠落させたまま、長い間眠り続けてきた日本人を作りだし、その
先頭に立ってきたのは、朝日新聞を筆頭とする日本のマスメディア(に従事する天声人語子等)に他ならない。
 産経新聞ですら、改憲の必要はしばしば訴えてはいるものの、具体的な諸論点についての「法的」な理解は心もとないところがある。護憲派の朝日新聞・毎日新聞となるとなおさらだ。「法的」素養の欠如は、4/11朝日新聞・天声人語が見事に示してくれている。そもそも朝日新聞・天声人語に、憲法や法律に関する(以上では言及を省略したが)「そもそも」論を述べる資格はない、というべきだろう。

1157/週刊朝日12/21号、森田実-日本での「右派」性は欧州では<あたりまえ>のこと。

 〇週刊朝日12/21号の表紙は「原発再稼働派 悪夢の430議席」と大きく謳っている。中身を読むと「原発再稼働派」とは少なくとも「民自公維」の四党を指しているらしい。
 記事中の森田実の予測では4党合計で419、田崎史郎のそれでは436なので、これらから「430」と記者(そして編集長)は表現したようだ。
 細かくいえば国民新党や新党改革も単純な「反・脱原発」派ではないと思うが、それは別として、興味深いのは週刊朝日がこの430議席/480を、「悪夢」と表現していることだ。
 すなわち、週刊朝日は「原発再稼働派」ではない、日本未来の党、社民党、共産党(、ついでに新党日本=田中某)らと同じ立場(・立ち位置)にいることを自ら明瞭にしているわけだ。
 前回に書いたばかりだが、日本未来の党、社民党、共産党らは「左翼」政党と称してよく、これらと同じ立場に立つのも、朝日新聞社系の週刊誌ならば、不思議でも何でもない。朝日新聞グループの「左翼」性をあらためて確認することになる
だけだ。
 その「左翼」性からすれば、自民党単独過半数獲得等の予想は、まさに「悪夢」に違いない。朝日新聞本紙も週刊朝日も最近は何やら精彩を欠くよう見えるのは、民主党による「歴史的」政権交代に喝采を浴びせたことを少しは気恥ずかしく感じているからだろうか。それならばよいが。一時的に温和しくしているだけの可能性が高い。
 〇森田実は一部の自民党候補の推薦者に名を連ねているが、そのことと矛盾するかのような次のような発言を、上記週刊朝日に載せている。
 「参院選で維新が飛躍すれば、公明を外した『自維連立』も考えられる。そうしたら極右政権の誕生で、一気に『戦争ができる国』へかじを切ることになる」(p.32)。
 一部の自民党候補の選挙公報上の推薦者になっておいて、上のような、「極右…」とか「戦争ができる…」とかの表現はひどいだろう。
 ひょっとすれば、週刊朝日の記者または編集長・小境郁也が元の森田の言葉を修正・改竄したのかもしれない。それくらいのことを、朝日グループの記者たちはするだろうし、これまでもしてきた。
 そうでないとすれば、元日本共産党員だった森田の「地」の気分が思わず出たことになるのかもしれない。どちらでもよい、些細な問題だが。
 〇森田実の発言の正確さはともかく、自民党(とくに安倍晋三)や維新の会(とくに石原慎太郎)の主張について「右派」、「右翼」、「右傾化」といった批判をしばしば目にする。
 だが、きちんと指摘しておきたいことだが、①国家が国家・国民の防衛のための軍隊(国防軍・自衛軍)をもつこと、②「集団自衛権」をもち、かつ行使することは、NATOに加盟している諸国、つまりドイツも社会党出身大統領のフランスも、あるいはチェコ等々でも当たり前のことであり、当たり前の現実であって、<ごくふつう>のことなのであり、欧州的意味での「左翼」政権の国でも変わりはない、ということだ。
 上の二点の主張をもって「右派」、「右翼」、「右傾化」というならば、NATOに加盟している諸国はすべて「右派」、「右翼」であり「右傾化」していると叙述しなければならない。朝日新聞は、そのような書きぶりをしないと論旨一貫していないことになる。
 つまりは、上の二点のような主張をし、憲法改正や憲法解釈変更を唱えることをもって「右派」、「右翼」、「右傾化」と評する一群の者たちがなお存在するというのは、じつに日本に特殊・特有の、異様な現象なのだ。このことに気づかない、1947年時点での思考状態のままで停止したままの政党や人々を、できるだけ早く消滅させ、またはできるだけ少なくする必要がある。日本が生き延びるためには。

1156/朝日・NHKとともに中国展を共催する毎日新聞12/12社説と総選挙。

 毎日新聞は、「第二朝日」などと言われないように、せめて朝日と読売新聞の「中間」あたりの読者層をターゲットにしたらどうなのだろう。日中国交「正常化」40周年記念の「特別展・中国王朝の至宝」を東京国立博物館・NHK・朝日新聞社!ともに「主催」していて(後援は日本外務省・中国国家文物局・中国大使館!)、中国・同共産党に不満を与えたくないためだろうか。
 毎日新聞の12/12の社説は、自民党の尖閣諸島への「公務員の常駐や周辺漁業環境の整備を検討する」という公約にイチャモンをつけている。
 同社説によると、「公務員を常駐させたり船だまりを造ったりすれば、日中の対立をことさらあおり、中国にさらなる実力行動の口実を与えかねない。紛争は日米の利益に反する」、のだそうだ。

 また同社説は、「自民党や日本維新の会の候補者に保守化の傾向が強まっていること」への憂慮を示している。
 今回の総選挙の注目点の大きな一つは、「左翼」政党がどの程度の議席を獲得するか(どの程度減らすか)、だと思っている。
 ここでいう「左翼」政党とは、東京都知事選挙で宇都宮健児を支持している党だといえば、分かりやすい。すなわち、日本未来の党、社民党、共産党だ。
 小沢一郎が「社会民主義」や「共産主義」の政党と手を組むまでに<落ちぶれた>ことも刮目すべきことだと思うが、それは措くとして、保守化・「右傾化」を憂えている毎日新聞は、これらの政党(または民主党旧社会党系の「左翼」)の主張と近似の主張をしているのであり、それがいかほどの国民または「世論」の支持を受けることになるのか、余計ながら真面目に再検討した方がよいだろう。
 もっとも、たとえば憲法改正・自主憲法制定や国防軍の設置が第一の争点になっていないこともあり、自民党と日本維新の会の個々の議員候補者や支持者が実際にどの程度これらを支持しているかは分からない。
 週刊現代12/22・29号によると、テレビ朝日系「報ステ」(12/07?)に出席した安倍晋三が石原慎太郎とともに「時間の3分の2近く」を使って憲法改正論を「ブチまくった」翌日、ある自民党選対関係者は「あれじゃ、まるで右翼だ。票を減らすのは確実だろう。終わった」と嘆いた、という(p.56-57)。
 週刊誌がいかほどに正確な記事を書いているかは十分に疑わしいが、以上が事実だとすると、まことに嘆かわしい自民党関係者の言葉だ。
 とくに社民党の福島瑞穂が喚いていていてくれるおかげで、憲法改正は低い順位ながらも選挙の争点にはなっている。そして、石原慎太郎のほか、かつて自民党草案をまとめた桝添要一(新党改革)、「ブレない保守」国民新党の自見某らが憲法改正はしごく当然のことという趣旨で発言しているので、改憲(とくに9条2項を削除しての正規「軍」保持)の主張が決して一部の「右翼」の主張ではない、ということが、ある程度はふつうの国民・有権者にも伝わっているようで、将来も考えると希望を持ってよいような気がする。
 だが、いずれまた書くかもしれないが、かりに改憲主張の政党が2/3以上の議席を得たとしても、ただちに改正の発議にはならないことは当然だ。
 参議院もあることとともに、やはり自民党と日本維新の会等が各党内で、どの程度結束し、どの程度の「本気・覚悟」を持つかにかかっている。安倍晋三・石原という党首が同意見であることが近い将来の改憲を楽観視できる根拠にはまったくならないだろう。
 月刊WiLLの1月号(ワック)が<私が安倍総理に望むこと>を10人の論者に(早くも?)書かせているが、西部邁の名もあるので興味を惹いた。
 そして、西部が温和しく(?)安倍晋三への皮肉を一言も記すことなく、安倍への期待を書いていることに驚き、ある意味では安心した。「右派」ではなく「保守リベラル・社民リベラル」の側に立つ旨を明言し、憲法改正に反対している(9条護持論に立つ)中島岳志と西部は全く同じではない、と見てよいだろう。
 もっとも、最後には、安倍への直接の皮肉ではないにしても、「…といってみたものの、この私、この世にそんな素晴らしいことが起こるとは少しも信じていない」、だから安倍はこの文章を無視してよいと書いているのだから、さすがに、西部邁はシニシストでありニヒリストだ。
 現実に影響を与える可能性のある言論活動をすることなどはとっくに諦め、自分の観念・意識の中でそれなりにまとまった世界を描かれていればそれで満足する、という境地に達しているかのごとくだ。発言内容は同じではないが、こうしたスタンスは佐伯啓思のそれともかなり似ていると思われる。
 総選挙について、各党の公約や党首の発言等々について、書きたいことは多いのだが…。

1151/自主憲法制定と維新の会・橋下徹、橋下徹をヒトラ-扱いした新保祐司。

 一 日本維新の会は11/29発表の衆院選公約「骨太2013-2016」で「自主憲法の制定」を明記したようだ。
 おそらくは現憲法の改正というかたちをとると思われる「自主憲法の制定」をし、「…軍その他の戦力」を保持しないと明記する現9条2項を削除して正式に「国防軍」または「自衛軍」(前者の方がよいだろうといつぞや書いた)を保持するようにしてこそ、中国・同共産党とより強く対決できるし、アメリカに対する自主性も高めることができる、と考えられる。「自主憲法の制定」は、<戦後レジ-ムからの脱却>の重要な、かつ不可欠の徴表であるに違いない。
 今から10年以内に、ということは2022年末までに、現9条改正を含む「自主憲法の制定」ができないようでは、「日本」はずるずると低迷し、やがて<消滅>してしまう、という懸念をもつ。
 来月の総選挙を除いて3~4回の総選挙があるだろう。2013、2016、2019、2022年には参議院選挙がある。最も遅くて、2022年には改正の発議と国民投票が行われなければならない。
 先立って改正の発議条件を2/3以上から過半数に改正しようとの主張も有力にあるようだが、それをするにしても、国会各議院の議員の2/3以上の賛成が必要だ。
 問題は、したがって、どのようにして憲法改正賛成2/3以上の勢力を国会内に作るか、にある。
 かりに自民党が第一党になり維新の会がかなりの議席を獲得したとしても、来月の総選挙の結果として憲法改正派2/3以上の勢力が衆議院の中にできるとは想定しがたい(この予測が外れれば結構なことだ)。
 従って、何回かの総選挙、参議院選挙を通じて、徐々に各院で2/3以上になるように粘り強く闘っていくしかない。
 改憲案をもつ自民党以外に(必ずしも改憲内容は明確でないが)「自主憲法制定」を目指すとする日本維新の会が誕生していることは貴重なことだ。これに加えて、現在の新党改革やみんなの党の他、現民主党内の松原仁のような「保守」派をも結集して、何とかして2/3以上の勢力確保を達成しなければならない。
 二 かかる時代状況の中で、日本維新の会の要職(代表代行)を占める橋下徹を「きわめて危険な政治家」などと評していたのでは(月刊正論編集長・桑原聡)話にならない。
 ましてや、純然たる「左翼」ならばともかく、橋下徹を「ファシスト」と呼んで攻撃している(自称)保守派がいるのだから、「自主憲法制定」への径は険しいと感じざるを得ないし、そのような感覚を誤った保守派らしき者は、改憲への闘いを混乱させるだけだろう。
 新保祐司は産経新聞「正論」欄に登場するなど<保守派>らしいが、産経新聞社発行・桑原聡編集長の月刊正論の2012年6月号の遠藤浩一との対談の中で、橋下徹の言動を眺めて小林秀雄「ヒットラアと悪魔」を思い出した、「やはりヒトラ-の登場時とよく似ている」、ヒトラ-と同様に「高を括れるような人物じゃない」、「橋下ブ-ムは、構造改革のどん詰まりに咲いた徒花」かもしれない、等と語っている(p.139-140、p.143)。
 欧州ではヒトラ-呼ばわり、ファシストとの形容は最大限の悪罵の言葉で、通常は用いないのが良識的な人間らしいが、新保祐司は、実質的に、橋下徹を「ヒトラ-」呼ばわりしている(なお、最初に読売の渡邊恒雄が橋下徹を「ファシスト」と呼び、遠慮していた者たちも安心してその語を使うようになったとか何かで読んだが、確認できない)。
 それはともかく、そのような新保祐司を、あるいはかつてこの欄で批判的に記したように<旧かなづかひ>を使った憲法改正でないと真の憲法改正とは言えない旨を「正論」欄で述べていた新保祐司の諸写真を、月刊正論の2012年9月号の「私の写真館」でとりあげ、まるでまともな保守派知識人のごとく扱っている月刊正論の編集方針もまた、きわめて奇怪なもので、ある意味では「奇観」ですらある。
 現実に「自主憲法の制定」が叶わなくとも、マスコミ人として、文筆業者として、あるいは国会議員としてすら、それなりに、そこそこに現状が保たれればよい、ささやかな「既得権」が守られればよい、と思っている保守派の者たちもいるのだろう。
 大切なのは言葉や観念ではない。綺麗事の世界ではない。現実に国会内に改憲勢力を作り出していくことだ。それこそ<小異を捨てて大同につく>姿勢で、真に<戦後体制の終焉>を意欲する者たちは結集する必要がある。
 三 なお、面白くもない話題だから書かないできているが、上の対談を読んで、遠藤浩一という大学教授はひどいものだと感じ、それまでのこの人の論調へのかなりの共感も、すっかり消え失せた。遠藤自身はよく憶えているだろう。同時期の別の雑誌上では橋下徹による憲法改正の可能性をいくつかの条件をつけつつ肯定的に叙述しながら(この点はこの欄で記したことがある)、上の対談では橋下徹の登場等による政治状況を「厄介な事態だなぁ」と感じるのが「正直」なところだ(p.136)などと述べつつ、新保祐司に同調する多々の発言をしている。編集者からの依頼内容によって、どのようにでも(ほぼ真反対の内容でも)書き、語るというのが、この拓殖大学教授のしていることなのだ。
 四 というわけで、自主憲法制定への道は紆余曲折せざるをえないと思われる。しかし、日本維新の会代表・石原のほか、佐々淳行など、保守派の中ではどちらかというと政治・行政実務の経験者の中に橋下徹支持者または期待者が多いのは興味深いし、心強いことだ。安倍晋三もこれに含めてよいかもしれない。
 政治・行政の経験者である岡崎久彦も、産経新聞11/28の「『戦後レジーム脱却』に、再び」と題する「正論」欄の中で、「教育基本法の、教育の現場における徹底は安倍内閣の課題であるが、これについては、今や日本維新の会が大阪における実績によって頼もしい友党となっている。これには期待できよう」と述べて、教育行政分野に限ってにせよ、大阪維新の会・橋下徹に好意的な評価を寄せている。
 中島岳志、適菜収らの保守とも「左翼」ともつかない売文業者は勿論だが、桑原聡らの出版業界人や新保祐司らの自称保守論者もいる中で、まともな保守派論客もいることを将来への希望がまだあることを確認するためにも、記しておきたい。
 

1145/石原新党と橋下徹・維新の会-憲法「破棄」か否かで対立するな。

 1 石原慎太郎、都知事辞職、新党結成・代表就任・総選挙立候補を表明。
 これについての、みんなの党・渡辺某と比べて、維新の会の国会議員団代表・松野頼久の反応ないしコメントの方がよかった。自民党も含めて「近いうち」の衆議院選挙の結果はむろんまだ不明だが、連携・協力の余地は十分に残しておいた方がよい。
 2 石原慎太郎と橋下徹(・維新の会)との違いの一つは、現憲法の見方にあり、石原は憲法<破棄>論であるのに対して、橋下は<改正>論である、らしい。つまり、石原は、渡部昇一の影響を受けてか、現憲法を<無効>と考えているのに対して、橋下は<有効>であることを前提にしているようだ(彼らの発言を厳密にフォローすることを省略するので、<ようだ>と記しておく)。
 おそらくこの違いもあるのだろう、橋下徹は、代表を務める日本維新の会の「傘下」にあるはずの東京維新の会の東京都議会議員が「憲法破棄」・旧かな遣いの大日本帝国憲法復活の請願に賛成したことについて、大きく問題視はしないとしつつも、クレームをつけた、という(10/09。都議会全体としては請願を否決)。
 石原慎太郎が産経新聞紙上で述べていた「憲法破棄」論については、この欄で疑問視したので子細を反復しないが、橋下徹の「憲法改正」論の方が適切だ。現実性はないと思うが、かりに国会で「憲法破棄」決議をしたところで法的には無意味で、そのことによって大日本帝国憲法が復活するわけでもない。国会についてすらそうで、現憲法によってはじめて府県レベルでも設置することとされた住民公選議員により構成される都道府県議会が、橋下も言っていたように、現憲法「破棄」決議をする権限はなく、かりに決議または請願採択をしてもまったく無意味だ。
 3 上のことをとくに指摘しておきたいのではない。あとでも触れるかもしれないが、この問題は今日ではほとんど決着済みの、議論する必要がないと思われる論点だ。
 なぜあえてこの論点に触れているかというと、この問題についての石原新党と維新の会の違いが強調されまたはクローズアップされて、両党の連携に支障が生じることを、あるいは支障の程度が大きくなることを危惧しているからだ。
 安部晋三内閣時代に2007年に成立しのちに施行された憲法改正手続法=正確には「日本国憲法の改正手続に関する法律」は、名称どおり、現憲法の有効性を前提にして、同96条によるその「改正」のための国民投票等の手続を定めたものだ。自民党の第一次、第二次の新憲法案も<憲法改正案>であり、ずっと前の読売新聞案も同様だったかと記憶する。
 橋下徹は 「日本維新の会としての方針としては、憲法破棄という方針はとらない。あくまで改正手続きをとっていく。理論上は憲法破棄ということも成り立ちうるのかもしれないが、その後現実的に積み重ねられてきた事実をもとにすると、簡単に憲法について破棄、という方法はとれないのではないのか」と発言したらしい。この発言のとおり、「理論上は憲法破棄ということも成り立ちうるのかもしれない」とかりにしても、上のような法律が安部晋三の新憲法制定の意欲のもとに作られ、重要な「改正案」も発表されているのであり、石原慎太郎・石原新党は、政治的・現実的に判断し、<憲法破棄>論に拘泥すべきではない、だろう。実質的に日本国民による新憲法の制定がなされる方向で、両党(と自民党)は連携・協力すべきだ。
 4 上の論点についての見解の相違が<保守勢力の結集>を妨げるようなことがあってはならない。
 この点、産経新聞(社)はどういう立場を採っているのだろうか。
 上記のように維新の会・東京都議会議員団は旧かな遣いの憲法に戻したいようだが、この主張およびそのもととなった都民の請願が産経新聞「正論」欄に掲載された新保祐司のそれの影響を受けているとすると、新保祐司と産経新聞は、極論すれば<保守派>の中に分裂を持ち込むものだ。そして、国民の過半数の支持による新憲法制定を妨害する役割を客観的には果たすものだ。また、石原の<憲法破棄論>が渡部昇一らの<現憲法無効論>の影響を受けているか支えの一つになっているのだとすると、渡部昇一らの議論もまた、極論すれば<保守派>の中に分裂を持ち込むものだ。そして、国民の過半数の支持による新憲法制定を妨害する役割を客観的には果たすものだ。
 念のため確かめてみると、産経新聞社に置かれたという数名による委員会の議論について、同新聞は「新憲法起草」とか「国民の憲法」起草とかと見出しを立てていて、<改正>と明記していないようだ。つまり、<破棄>論に配慮したとも解釈できる言葉遣いを採用しているように見える。
 また、「産経新聞出版」ではなく産経新聞社発行の月刊雑誌・正論(編集長・桑原聡)の今年8月号p.232-は、渡部昇一と大原康男の「対論/改正か無効か~日本が『日本』であるための憲法論」を掲載して、「改正か無効か」が大きな論点であるかのごとくとりあげている。この問題に関心を持つことや月刊正論上で取り上げること自体を批判はしないが、このとり上げ方は、月刊正論、そして産経新聞が少なくとも<憲法無効・破棄論>を一顧だにしないという立場ではない、ということを示しているだろう。
 また、上の二人のうち大原は実質的には有効・改正論者だと読めるが、大原が渡部に敬意を表して遠慮しているせいか、法学に「素人」だと自認している渡部にしゃべらせ過ぎており(大原は京都大学法学部卒でもある)、<憲法無効・破棄論>の無意味さを明確にするものには(私には残念ながら)なっていない。
 こうしたことも併せ考えると、産経新聞社・月刊正論(編集長・桑原聡)は、石原・同新党と橋下・維新の会の協力・連携を阻害する役割を果たしている可能性、そして今後も果たす可能性があると危惧される。
 月刊正論の編集長・桑原聡は橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと判断しているので、上の両党の協力・連携が阻害されるのは、少なくとも桑原聡の意図には即しているのかもしれない
 だが、産経新聞も月刊正論も少なくとも強くは批判していない安部晋三・現自民党総裁は、憲法改正のためには橋下徹・維新の会と連携する必要がある、あるいはそういう時期が来る可能性がある、という旨を発言している。橋下徹が現憲法96条の要件緩和に賛成していることは周知のことだ。
 大局を見ない、または国民の過半数の支持という重要なハードルを考慮しない主張や議論は(旧仮名遣い復活論も含めて)、新憲法の制定に賛成する立場の新聞や雑誌からは排されるべきだ。 
 5 <憲法無効・破棄論>はむろん、自民党の立場でもないと考えられる。この論に固執することは、石原新党と自民党との対立も深めることとなり、<保守派の結集あるいは連携・協力>を妨げることとなるだろう。自民党全体を<リベラル>または「左翼」と考えるならば話は別だが。

 憲法「破棄」論に立ち、<旧かな遣い>の憲法に戻すべきだ、という見解こそが「真の保守」だ、などという大きな、かつ危険な勘違いをしてはいけない。
 なお、中島岳志のごとき、現憲法9条改正(2項削除・国防軍明記)反対論は、言うまでもなく「保守派」のそれではない。
 6 上の渡部・大原対論も含めて、産経新聞や月刊正論の記事・主張・議論に、この欄で最近はほとんど言及していない。だからといって、何の感想も持っていないわけではない。以上で書いたものの中には、その一部は含まれているだろう。

1127/文芸批評家・新保祐司のユニークな憲法改正(新憲法制定)論。

 〇産経新聞5/08の「正論」欄で「文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司」の「憲法と私/日本人の精神的欺瞞を問いたい」を読んで、かつて文章のヒドさを指摘したことのある文芸評論家兼大学教授らしき者がいたが、誰だったのだろうと思い返した。1000回以上も書いていると、自分の文章であっても少なくとも詳細・細目は忘れてしまっているのがほとんどだ。
 調べてみると、やはり、批判した文章(「正論」欄)は新保祐司のものだった。
 1年も経っていない、昨年の8/09に、新保の産経新聞7/05の文章を批判し、8/17に簡単にポイントを再述している。
 後者によると、こうだ。引用する。  「新保祐司の産経7/05『正論』欄は、『戦後体制』または『戦後民主主義』を『A』と略記して簡潔にいえば、大震災を機に①Aは終わった、②Aはまだ続いている、③Aは終わるだろう(終わるのは「間違いない」)、④Aを終わらせるべきだ、ということを同時に書いている。レトリックの問題だなどと釈明することはできない、『論理』・『論旨』の破綻を看取すべきだ(私は看取する)」。
 こういう批判を受けながらも、大学教授先生、文芸評論家様は、依然として、産経新聞で「正論」をぶっていたようだ。あるいは、産経新聞は、そのような機会を、よく読めば訳の分からないことを書いている人物に与えていたようだ。
 〇今年5/08の上記の新保の「正論」には、文章ではなく、内容的な疑問を大いに持つ。
 新保の主張の要点は、新憲法の「本質を左右する根本的な」のは「形式に関わる問題」で、①新憲法は「歴史的かなづかひ」で書かれるべき、②新憲法は2/11の紀元節(建国記念日)に発布されるべき、ということだ。
 上の②にとくに反対はしないが、強く拘泥する問題でもないだろうと私は考えている。なお、現憲法は昭和天皇によって「公布せしめ」られたものであり、現憲法7条1号によれば、憲法改正は天皇によって「公布」される。新憲法制定が現憲法改正のかたちをとるかぎりは(その可能性がきわめて高いだろう)、「発布」ではなく「公布」という語が選ばれるだろう。これくらいのことは、知っておいた方がよい。
 問題なのは上の①だ。この点にこだわり、「歴史的かなづかひ」の条文でないと憲法改正または新憲法制定を許さない、という主張を貫徹するとすれば、憲法改正・新憲法制定はおそらく不可能になるだろう。なぜなら、もはやほとんどの国民が「歴史的かなづかひ」を読めないか理解できない可能性が高いからだ。いわゆる現代かなづかいの新憲法案と「歴史的かなづかひ」の同案を同時に示されれば、条文内容が同じであれば、ほとんどの国民が現代かなづかいの方を選択するのではないか。
 それではだめなのだ、ということを新保は主張したいのだろうが、その主張を貫きたければ、何年先の将来になるのか分からないが、新保には、現代仮名遣いの憲法改正・新憲法制定案に、その点を根拠とする「反対」の清き一票を投じていただく他はないだろう。
 新保の主張はもはや時代錯誤的で、現代仮名遣いによる教育が半世紀以上続いた、という現実を(頭の中で)無視している。頭の中・観念のレベルではいくらでも<元に戻せる>が、現実はそう旨くはいかない。
 それに、最近に自民党の新憲法改正案等が出され、いずれの案も「現代かなづかい」によっていることは、新保も知っている筈だ。上の文章を書くに際して、何故、自民党等の案が「歴史的かなづかひ」によっていないことを、強く批判しないのか
 また、「歴史的かなづかひ」が学校教育で教えられておらず、学んでいない国民が今やほとんどだという現実を、新保も知っている筈だ。新保は何故、学校教育(>義務教育)における「歴史的かなづかひ」教育導入の必要性や成人に対する「歴史的かなづかひ」教育(・研修?)の必要性を、具体的に強く主張しないのか
 ただ自己満足的に言っておきたいだけで、現実に少しでも影響を与えるつもりがないのならば、わざわざ「正論」欄に書くな、と言いたい。
 もともと興味深いのは、新憲法(憲法改正)の内容よりも、新保は「形式」が重要だ、と主張していることだ。より正確には、新保は最後にこう書いている-「逆にいえば、新憲法が『歴史的かなづかひ』で書かれ、建国記念の日に発布されれば、それだけでも新憲法の精神の核心は発揮されているというべきである」。
 きわめてユニークな主張だ。
 <「戦後民主主義」という「日本人の精神的欺瞞」こそまずは徹底的に問われるべきで、その厳しい過程を経ない限り、憲法の自主制定はできない。「議論百出の果てに、せいぜい、現行憲法の一部(例えば9条とか)の改正にとどまってしまうのではないか」>という観点から、「精神的欺瞞」を克服して新しく「内発的」に新憲法の制定をするためにも、上の二つの「形式」が重要だ、と新保は言う。
 気分・情緒は理解できなくはないが、この主張を推し進めると、例えば、現憲法九条二項の削除・国防軍の設置といった現九条の改正がなくとも、新保のいう二つの「形式」さえ満たせば、「それだけでも新憲法の精神の核心は発揮されている」ということになってしまう。
 上の①は現実的には不可能と見られる(実現されそうにない)主張なのだが、それをさておいても、いかなる内容の改正(新憲法制定)かを問題にしない憲法改正・新憲法制定議論は、今日的にはほとんど無意味だと思われる。
 新保祐司にどのような「文芸評論家」としての実績があるのかを全く知らないのだが、さすがに「文芸」畑の人は、面白い憲法論を(まじめに)展開するなぁ、というのが率直な感想だ。

1115/福島みずほ(社民党・弁護士)の暗愚と憲法改正。

 〇福島みずほ(社民党)は東京大学法学部出身でかつ弁護士(旧司法試験合格者)でもあるはずだが、政治活動をしているうちに、憲法や人権に関する基礎的なことも忘れてしまっているのではないか。
 憲法9条に関する、(アメリカとともに)「戦争をできる国」にするための改正反対という議論は、妄想のごときものなので、ここでは触れない(なお、「防衛戦争」もしてはいけないのか、というのが、「戦争」という語を使えば、基本的な論点になろう)。
 福島みずほは、月刊一個人6月号(KKベストセラーズ)の憲法特集の中で、「国家権力に対して『勝手に個人の権利を制限するな』と縛るのが憲法の本来の目的だった」と、いちおうは適切に書いている。G・イェリネックのいう国民の国家に対する「消極的地位」だ。
 これは国家に対する国民の「自由」(国家からの自由)の保障のことだが、福島はつづけて、「だからこそ」「『国家はしっかり我々の生存権を守りなさい』とも言える」と続けている(p.93)。
 生存権保障は自由権とは異なる社会権保障とも言われるように、国家に対して作為・給付を要求する権利の保障で、G・イェリネックは国民の国家に対する「積極的地位」と言っているように、「自由」(消極的地位)とは異なる。
 「だからこそ」などとの簡単な接続詞でつないでもらっては困る。
 それにまた、福島は東日本大震災で、憲法一三条の「幸福追及権」や憲法二五条の「生存権」が「著しく侵害されている状態」だというが(p.93)、第一に、憲法の人権条項は何よりも国家との関係で意味をもつはずなのに(これを福島も否定できないはずだろうが)、国家(日本政府等)のいかなる作為・不作為によって上記の「著しい」人権侵害状態が生じているのかを、ひとことも述べていない。困った状態=「国家による人権侵害」ではない。
 第二に、生存権にも「自由権」的側面があり、「幸福追求権」は自由権的性格を基礎にしつつ「給付(国務)請求権」性格ももちうることがありうるものだと思われるが(この二つを同種のものとし単純に並べてはいけない)、そのような自由権と給付請求権の区分けを何もしていない。
 ほとんど法学的議論・論述になっていないのだ。
 ついでにいえば、「生存権」にせよ「幸福追求権」にせよ、憲法上の人権であることの法的意味、正確には、それらの<具体的権利性>について議論があり疑問があり、最高裁判決もあることを、よもや弁護士資格取得者が知らないわけはないだろう。
 憲法に素人の読者に対して、震災は憲法上の「幸福追求権」や「生存権」と関係があるのよ、とだけ言いたいのだとすれば、ほとんどバカだ。
 〇阿比留瑠比ブログ5/04によると、福島みずほは、この月刊一個人6月号の文章とかなり似たことを、5/03にJR上野駅前で喋ったようだ。
 こちらを先に引用すると、上のようなことの他に、福島はこうも言っている(阿比留ブログより引用)。
 「先日発表された自民党の憲法改正案は、逆です。国民のみなさんの基本的人権をどのように、どのようにも剥奪できる中身になっています。国民は公益、公共の福祉に常にしたがわなければならない。そうなっています。」
 上記雑誌ではこう書いている。
 「自民党の憲法改正草案には、『この憲法が国民に保障する権利を乱用してはならない。常に公益及び公の秩序に反しない範囲で自由を享受せよ』と書かれています。つまり権力者が国民に対して自由や人権を制限するという意味で、ベクトルが完全に反対になってしまっています。これは、ある意味もう憲法ではないとさえわたしは思います」(p.93)。
 福島みずほの頭自体が「逆に」または「ベクトルが完全に反対に」できているからこそ、このような罵倒になるのだろう。
 自民党改正草案の当該条文は、以下のとおり。
 11条「国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である」。
 12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民はこれを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」
 現憲法の条文は、次のとおり。
 11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」。
 12条「
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」。
 このように、第一に、「常に公益及び公の秩序に反してはならない」等の制約も、前条による基本的人権の保障を前提としたものだ。
 第二に、福島らが護持しようとする現憲法においてすら、
「…濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と明記されている。
 いったい本質的にどこが違うのか。福島が自民党案を「逆」だ、国家権力による人権制限容認案だとののしるのならば、現憲法についても同様のことが言えるはずなのだ。現憲法においても基本的人権を「濫用してはならない」し、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」のだ。
 福島みずほの改憲案憎し、自民党憎しは、この人物の頭の中の「ベクトルを完全に反対に」してしまっているようだ。
 この人物に客観さとか冷静さを求めても無駄なのだろう。あらためて、呆れる。
 〇なお、自民党草案は、上に見られるように現憲法の微修正で、マッカーサー憲法ないしGHQ憲法の抜本的な見直しになってはいない。
 九条改正・新九条の二設定はこれらでとりあえずはよいとしても、全体としてはもっと本格的な改正案(新憲法制定と言えるもの)が出されることが本来は望ましいだろう(改正の現実的可能性・戦略等々にもよる)。
 そして、私は上のような二カ条は、とくに(現11条の後半と)12条は、なくともよいと考えている。自民党、立案担当者は、もっと思い切った改憲案をさらに検討してもよいのではないか。
 このあたりは、憲法改正手続法の内容にも関係し、現憲法の条文名(数)を基本的には変えない(加える場合には九条の二のような枝番号つきの新条文にする)という出発点に立っていることによるようだ。
 あらためて調べてみたいが、番号(条文名)も抜本的に並び替える、という抜本的・全面的な改正は全く不可能なのだろうか。このあたりの問題は、産経新聞社の新憲法起草委員たちはどう考えているのだろうか。

1114/未読の多数の書物に囲まれてBSフジで西部邁を観る。

 〇机・椅子の周囲に現在積まれている書物。順不同。
 ①竹内洋・革新幻想の戦後史(中央公論新社) ②西尾幹二・壁の向うの狂気―東ヨーロッパから北朝鮮へ(恒文社21) ③産経新聞取材班・親と子の日本史 ④船橋洋一・同盟漂流(岩波)、⑤内田樹ほか・橋下主義〔ハシズム〕を許すな!(ビジネス社)、⑥古谷ツネヒラ・フジテレビデモに行ってみた!(青林堂)、⑥b/ケストラー・真昼の闇黒(岩波文庫)、⑦産経新聞論説委員室・社説の大研究(扶桑社)、⑧宮野澄・最後の海軍大将・井上成美、⑨水田洋・社会科学の考え方(講談社現代新書)、⑨佐伯啓思・反・幸福論(新潮新書)、⑩不破哲三・現代前衛党論(新日本出版社)、⑪中島義道・人生に生きる価値はない(新潮文庫)、⑫小林よしのり編・国民の遺書(産経新聞出版)、⑬田母神俊雄=中西輝政・日本国家再建論(日本文芸社)、⑭田母神俊雄・ほんとうは強い日本(PHP新書)、⑮高橋たか子・高橋和巳の思い出(構想社)、⑯月刊正論5月号、⑰月刊WiLL6月号、⑱Japanism第6号、⑲月刊ヴォイス5月号、⑳撃論第4号、21林敏彦・大災害の経済学(PHP新書)、22池田信夫・原発「危険神話」の崩壊(PHP新書)、23佐藤優・はじめての宗教論〔右巻〕(NHK出版)、24ダワー・容赦なき戦争(平凡社)、25中島義道・ヒトラーのウィーン(新潮社)、26秦郁彦・靖国神社の祭神たち(新潮選書)、27杉原誠四郎・日本の神道・仏教と政教分離/増補版(文化書房博文社)、28石平・中国人大虐殺史(ビジネス社)、29坂本多加雄・象徴天皇制度と日本の来歴(都市出版)、30上杉隆・新聞・テレビはなぜ平気で「ウソ」をつくのか(PHP新書)、31石光勝・テレビ局削減論(新潮新書)、32不破哲三・「資本主義の全般的危機」論の系譜と決算(新日本出版社)、等々等々。
 整理し忘れのものもあれば、読むつもりで放っていたものもある。また、多少とも読んで、何がしかの感想・コメントくらいは書けたのに、書けないままになってしまっているものがすこぶる多い(言及しても不十分なままのものも含む)ことにあらためて気づく。
 〇西部邁がBSフジ(プライムニュース)の憲法特集の中で喋って(喚いて?)いた。年齢にしては頭の回転は速そうだし、間違ったことを語っているわけでもないように見えた。
 橋下徹をどう思うか旨の問いに、大した関心はないとしてまともに答えていなかったのが、興味深かった。西部邁は週刊現代3/17号(講談社)でも、橋下徹の政策論に批判的に言及してはいるが、<西部邁・佐伯啓思グループ>の総帥?のわりには、中島岳志、藤井聡、東口暁、佐伯啓思のような、「決めつけ」的な警戒論・批判論を展開してはいない。
 そのことともに、上の週刊誌の末尾には「あの世のほうがよほどに真っ当そうだ」との老人?の言葉があるが、自分の言いたいことをいうが、自分の言うようにはならないだろう、自分の主張を大勢は理解できないだろう、という日本の現実についての<諦念>または<ニヒル>な気分が濃厚であることも印象的だった。
 そのような末世的気分からは、自らの発言の優先順位に関する思考、現在の日本の状況(政治・論壇・国民意識等)を動かすことのできる重要なテーマは何で、些細な論点は何か、という戦略的な?判断は抜け落ちてしまうのではなかろうか。
 視聴者大衆への具体的な影響への配慮よりも、とにかく自分が正しい(または適切だ)と考えることを喋りまくるのでは、却って、何が言いたいのかが不鮮明になるおそれなきにしもあらずだ。
 西部邁とともに、私もまた、多分に、ニヒリスティックな気分なのだが、私とは異なり著名な<自称保守派>論客には、戦略・戦術も配慮した発言や論考を期待したいものだ。

1113/憲法改正・現憲法九条と長谷部恭男・岡崎久彦。

 一 自由民主党が日本国憲法改正草案を4/27に発表した。この案については別途、何回かメモ的なコメントをしたい。
 翌4/28の朝日新聞で、東京大学の憲法学教授・長谷部恭男は、<強すぎる参議院>が日本国憲法の「最大の問題」だとして、この問題(二院制・両院の関係・参議院の権能)に触れていない自民党改正草案を疑問視している。
 長谷部恭男はやはり不思議な感覚の持ち主のようだ。現憲法の「最大の問題」は、現九条2項なのではないか。
 潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(PHP、2007)という本もある。橋下徹も最近、趣旨はかなり不明確ながら、日本の諸問題または「諸悪」の根源には憲法9条がある旨を述べていた(ツイッターにもあった)。
 忖度するに、長谷部恭男にとっては、自衛隊は憲法「解釈」によって合憲的なものとしてすでに認知され、実質的に<軍隊>的機能を果たしているので、わざわざ多大なエネルギーを使って、九条改正(九条2項削除と「国防軍」設置明記)を主目的とする憲法改正をする必要はない、ということなのかもしれない。
 「護憲論の最後の砦」が長谷部恭男だと何かで読んだことがあるが、上のようなことが理由だとすると、何と<志の低い>現憲法護持論だろう(この旨はすでに書いたことがある)。
 二 外務官僚として政治・行政の実務の経験もある岡崎久彦はかなりの思想家・評論家・論客で、他の<保守>派たちと<群れて>いないように見えることも、好感がもてる。
 月刊正論5月号に岡崎久彦「21世紀の世界はどうなるか」の連載の最終回が載っている。
 「占領の影響と、そして冷戦時代の左翼思想の影響がその本家本元は崩壊したにもかかわらず、まだ払拭されていないという意味では、日本の二十世紀は、ベルリンの壁の崩壊でもまだ終わっていないのかもしれない」(p.261)という叙述は、まことに的確だと思われる。多くの(決して少数派ではない)評論家・知識人らしき者たちが平気で「冷戦終結後」とか「冷戦後」と現在の日本の環境を理解し表現しているのは、親中国等の<左翼>の策略による面があるとすら思われる、大きな錯覚だ。中国、北朝鮮という「社会主義」国が、すぐ近隣にあることを忘れてしまうとは、頭がどうかしている。北朝鮮の金「王朝」世襲交替に際して、金正恩は、「先軍政治」等と並んで、「社会主義の栄華」(の維持・発展)という言葉を使って演説をしたことを銘記しておくべきだ。
 上の点も重要だが、岡崎久彦の論述で関心を惹いたのは、以下にある。岡崎は次のように言う(p.262)。
 婦人参政権農地解放は戦後の日本政府の方針で、GHQも追認した。日本の意思を無視した改革に公職追放財閥解体があったが占領中に徐々に撤廃され、今は残っていない。
 「押しつけられた改革」のうち残ったのは憲法教育関連三法だったが、教育三法は安倍晋三内閣のもとで改正され、実施を待つだけだ。「今や残るのは憲法だけになっている」。
 しかし、軍隊保持禁止の憲法九条は、日本にも「固有の自衛権」があるとの裁判所の判決によって「実質的に解決されている」。自衛隊を国家に固有の「自然権」によって肯定したのだから、「自衛隊に関する限り憲法の改正はもう行われていることとなる」。
 「実質問題として残っているのは集団的自衛権の問題だけ」だ。政府の「頓珍漢な解釈を撤回」して集団的自衛権を認めれば「戦後レジームからの脱却はほぼ完成することになっている」。
 以上。
 きわめて興味深いし、柔軟で現実的な思考が表明されているとも言えるかもしれないが、はたして上のように理解すべきなのだろうか。「集団的自衛権」に関する(それを否認する)政府の<憲法解釈>を変えれば、条文上の憲法改正は必要はない、というのが、上の岡崎久彦の議論の帰結に近いと思われるが、はたしてそうだろうか。
 趣旨はかなり理解できるものの、全面的には賛同できない。「戦車にウィンカー」といった軍事的・技術的レベルの問題にとどまらず、「陸海空軍その他の戦力」の不保持条項(九条2項)は、戦後日本人の心性・メンタリティーあるいは深層意識にも多大な影響を与えてきたように思われる。
 集団的自衛権にかかる問題の解決もなされるべきだろうが、やはり九条2項削除・国防軍保持の明記も憲法典上できちんとなされるべきだろう。

1112/日本国憲法「無効・破棄」論について③。

 月刊正論(産経)6月号が発行されている筈だが、産経新聞の購読を辞めて広告も見ず、新刊雑誌として購入することも、編集長が桑原聡である間は、差し控える。
 一ヵ月前の月刊正論5月号が、わざわざ2頁余を使って、「ハイ/正論調査室」という欄の中で、<憲法
破棄>を可能とする二人の読者の回答を紹介している(p.330-332)。
 二人(A氏、B氏)とも60歳代の元公務員で共通し、日本国憲法(1947施行)は「無効」とする点でも共通している。
 異なるのは、まず、「破棄」または「廃棄決議」・「無効宣言(決議)」をする主体だ。
 A氏は「国会」と考えていて、「過半数の議決」があればよい、とする。
 B氏は「国会で決議」するか「最高裁で『無効』判決」を出せばよいとする。
 これらの回答を生じさせた契機となった石原慎太郎の発言・考え方を、最近の産経新聞3/05の連載「日本よ」から引用すると、次のようだ。 
 「憲法改正などという迂遠な策ではなしに、しっかりした内閣が憲法の破棄を宣言して即座に新しい憲法を作成したらいいのだ。憲法の改正にはいろいろ繁雑な手続きがいるが、破棄は指導者の決断で決まる。それを阻害する法的根拠はどこにもない」。
 このように三者三様で一致がないが、石原慎太郎のいう「しっかりした内閣」とはいかなる意味かは厳密にはよく分からない。但し、「内閣」に「破棄を宣言」する権限があると考えているのだろう。
 いかほどに厳密な法的思索を経ているのかは疑わしいが、天皇や「最高裁」も想定される中で「内閣」を権限主体として想定するのは、<無効>論者の中でもおそらく少数派だろう(主流派?は「国会」だと思われる)。
 そして、「内閣」が日本国憲法のもとでの内閣であり、日本国憲法下の公職選挙法にもとづき選出された衆議院議員・参議院議員から成る国会により選出された内閣総理大臣とそれが任命したその他の国務大臣からなる合議体を意味するかぎり(但し、婦人参政権を認めた等の公職選挙法改正は現憲法公布後・施行前。憲法施行後に頻繁に改正されて憲法とともに「国会」議員等を選出する根拠になっている)、石原説は成立しえない、と思われる。「内閣」を生んだ法規である日本国憲法を内閣が「無効」とし「破棄」するのは、子どもが親を殺すようなものだ。
 親あるいは血を継承した祖先の一人でも殺してしまえば自分自身(子ども)はこの世に存在していない筈なのであり、過去に生じた憲法を、憲法所産の「内閣」が現時点で「破棄」するなどというのは、明らかに背理だ。
 基本的に全く同じことはA氏やB氏のいう「国会」や「最高裁」についても言える。
 旧憲法下では「国会」はなく「帝国議会」だった。参議院はなく、貴族院が所謂第二院として存在した。
 両氏のいう「国会」が日本国憲法のいうそれであり、衆議院・参議院で構成されるものであるかぎり、「国会」なるもの自体が、日本国憲法(とそれに違反していない国会法等の法律)によって生み出されたものであり、「国会」による日本国憲法の「無効宣言」・「破棄」とは、親殺しであり、かつ完全に瞬間的に同時の<自分殺し>に他ならない。日本国憲法を「破棄」したあとまで、日本国憲法下での「国会」が存続するはずがない。
 この議論が現憲法41条が国会を「国権の最高機関」と称していることを根拠(の一つ)にしているとすれば、明らかな矛盾がある。「無効」であるはずの日本国憲法(の一条項)を根拠とする、という<背理>に陥らざるをえない。
 「最高裁判所」となるとますます日本国憲法所産のもので、「最高裁」が自分の親である日本国憲法を「無効」とする判決を出せるはずがない。
 戦前は「大審院」(と「行政裁判所」)で、憲法上の位置づけは大きく異なる。
 というわけで、第一に、いったい誰が(どの機関が)日本国憲法を「無効」宣言=「破棄」できるのか、という問題で、現時点での日本国憲法「無効」論は躓かざるをえない。
 「無効」視したいというセンティメント(気分・情緒)は理解できるが、もはや現時点では「無効」宣言・「破棄」は不可能だ。ありうるとすれば、国民または有権者の少なくとも過半数がそのような認識に立ち、何らかの方法で(数千万の署名を集めて?)意思表明することだろうが、どのような手続および意思表明の方法を採用するのかになると、途方に暮れる(「無効」論者で<国民投票>という手続・方法を提言する者はいないようだ)。
 A氏が述べるように(p.331)、1952年の「主権回復」後ただちに(または「すみやかに」)「無効」・「失効」宣言をして(旧憲法に戻すか)新しい・自主憲法を制定すべきだっただろう。
 その場合の「無効」宣言の主体の問題はやはりある。その場合に、天皇陛下(昭和天皇)の意思・認識も「無効」論を支持するものでなければならないのは不可欠の前提だったと思われる(日本国憲法は、昭和天皇の名において公布されているのだ)。
 主体・手続の問題はかつてもあっただろうが、60年後の現在と比べると、クリアできる可能性はまだ十分にあったと思われる。

 第二に、万が一上記の機関が権限主体たりうるとしても、「無効」宣言・「破棄」をする現実的可能性はあるか、という問題に、日本国憲法「無効」論はぶつからざるをえない。 
 A氏は正当にも次のように述べる-「現実問題として現憲法の廃棄なり無効宣言をするには、現憲法は正統性を有せず無効とする考えを持つ国会議員が衆参両院においてそれぞれ過半数いることが必要です」(p.331)。
 この必要性が充足される可能性に言及してはいないが、B氏がたんに<可能だ>という旨を回答しているにとどまるのに比べると大きな(第二の)違いで、より現実的に考えておられるようだ。
 しかし、上の「必要」性が充足されるとは、到底考えられない。
 現在、いくつかの政党が憲法改正案を発表しているが、<すべて>が、現憲法=日本国憲法は憲法として有効なものであることを前提としている。そしておそらくは、現在の国会議員の全員が(または少なくとも99%)が、日本国憲法を「無効」と考えてはいないものと思われる。
 つまり、「無効」論に立って国会議員を送り出している政党はゼロであり、「無効」と考えている国会議員はゼロか、存在しても1~2名だろう。
 このような状況において、各院の国会議員の「過半数」が日本国憲法「無効」論に与する可能性は皆無(ゼロ)だと言い切ってもよい、と考えられる。
 最高裁判所の裁判官についても同じことが言えるだろう。
 石原慎太郎のいう「内閣」説に立てば、現実的可能性はもう少し高くなりそうではある。しかし、それは法的には一種の<革命>か<クーデター>で、失敗する後者ではなく成功する前者になるためには、少なくとも国民の「過半数」(現実的には最低でも2/3以上)の賛同に支えられていないといけないだろう。
 しかして、国民の意識はどうだろうか。日本国憲法「無効」論の存在自体を知っている国民すら、おそらくは10%以下だろう。
 そのような現実が誤っており、正しい教育、正しい情報提供・言論活動をしていけば、必ず過半数のまたは2/3以上の国民が現憲法は「無効」のものだと認識するはずだ、と考え、主張するのも、論理的には誤っているわけではない。
 しかし、そのような状況に達することを目指して活動するよりも、<憲法改正>というかたちで、実質的に<自主憲法>を制定することの方が、はるかにてっとり早く、現実的可能性もはるかに高い。
 なお、一時期、<維新政党・新風>という政党がこのブログサイトにも登場していて、2007年参議院選挙に候補者を立てたりしていたが、この政党?が、明言してはいないものの、日本国憲法「無効」論に親和的であるようにも感じられた。だが、この政党は一人の当選者(国会議員)も出してはいない。
 ここまで書いてネット上で調べてみると、この政党?も、現憲法を「国際法違反の占領基本法」と(渡部昇一と同様に)称しつつ、憲法「改正」を志向しているようだ。→ 
http://seisaku.sblo.jp/article/3621051.html
 このような状況ではますます、国民の多数が「無効」論を支持し、国会議員の過半数でもって「無効宣言(・決議)」が行われる可能性はほとんどゼロであり、「夢想」にすぎない、というべきだ。
 月刊正論編集部は、こんな問題に2頁余を割くよりも、そんなスペースがあるならば、憲法改正の具体的内容に関する議論を掲載したらどうか。
 石原慎太郎を尊敬してはいるが、「しっかりした内閣」による現憲法「破棄」論だけは、気分・情緒は理解できても、支持することができないものだ(都民により「直接に選出」された東京都知事という地位もまた、日本国憲法の一条項にもとづく)。  

1111/日本国憲法「無効・破棄」論について②。

 今年2月下旬に石原慎太郎が現憲法無効・破棄論を述べたと伝えられたとき、無茶・無謀と感じつつ、ここでは採り上げないつもりでいた。佐伯啓思が<本来は無効>と書いたのを知っても、同様だっただろう。
 だが、再び論及したくなったのは、月刊正論5月号(産経新聞社)が、「ハイ/正論調査室」という欄の中で、<憲法破棄>の可能性を問う一読者の質問に対する別の二人の読者の回答を紹介し、かつ二人の回答はいずれも<(論理的には)不可能ではない>という点では共通していた、ということによる。
 わざわざ2頁余を、この問題に費やした産経新聞・月刊正論編集部(桑原聡編集長)の意図はわからないが、こういうかたちで議論が広がり、混乱・錯綜が生じることは<憲法改正(=新憲法制定)>のためにはよくないだろう。
 さて、石原慎太郎の「憲法破棄」論(憲法破棄可能が前提)は、現憲法は「無効」との論を前提としていると思われ、そして、憲法「破棄」とは「無効宣言」または「無効確認(決議・決定)」を意味している、後者と同意義のものだと理解して差し支えないだろう。
 そして、石原慎太郎発言を受けて、日本国憲法無効論者のブログサイトは勢いづいて?いるようでもある。
 しかし、この日本国憲法「無効論」は、①「破棄」または「無効宣言」という手続を一つ加えるために、<憲法改正(=新憲法制定)>を却って遅らせるものだ、②「無効宣言」・「破棄」の権限主体に法的問題もあり、かつ現実的にはそれが行われる可能性はゼロに近い、(したがって賛同できない)というのが私の結論だった(あくまでも要点の要約だが)。
 すでに、この欄の以下で、日本国憲法「無効論」については何度か論及してきた。詳しくは、以下を(有効の論拠については大石眞の著に言及したものを)参照していただきたい(このテーマ以外のものを含むものもある)。
 ①「「日本国憲法無効」論に接して―小山常実氏の一文を読む。」2007/04/23。  ②「渡部昇一は日本国憲法改正に反対している!」2007/04/26。  ③「立花隆の現憲法論(つづき)と国民投票法反対姿勢。」2007/04/28。  ④「日本国憲法無効論はどう扱われてきたか(たぶん、その1)。」2007/04/29。  ⑤「潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(PHP、2007)の渡部昇一氏による書評。」2007/04/29。  ⑥「小山常実・憲法無効論とは何か(展転社、2006)を少し読む。」2007/05/04。  ⑦「別冊宝島・日本国憲法特集号の「奇怪」と……」2007/05/10。  ⑧「小山常実氏の日本国憲法無効論に寄せて-その2。」2007/05/23。  ⑨「日本国憲法「無効」論とはいかなる議論か-たぶんその3。」2007/05/24。  ⑩「1956年3月衆議院内閣委員会での神川彦松公述人と石橋政嗣委員の質疑。」2007/05/28。  ⑪「大石眞・憲法講義Ⅰ(有斐閣、2004)の一部を読む-日本国憲法はなぜ有効な憲法か。」2008/12/26。  ⑫「竹田恒泰は安易に「真正保守」と語ることなかれ」。2009/10/05。  ⑬「もはや解散・総選挙以外にない+渡部昇一の妄論。」2011/03/03。  ⑭「西尾幹二は渡部昇一『昭和史』を批判する。」2011/07/07。  既述のように、日本国憲法「無効論」の影響を受けて、これを支持している者に、渡部昇一、兵藤二十八、秦奈津子らがいる。
 この人たちの文章を読むことはあるが、この欄で言及することがそのわりには少ないのは、渡部昇一らが安易に「無効論」に依りかかっている(がゆえに信頼性が低い)と感じているのが理由だ。
 月刊正論5月号での読者回答文や石原慎太郎の発言内容について言及するために、もう一回だけ、別の機会にこの欄でこのテーマを採り上げることにする。

1108/日本国憲法「無効・破棄」論について①。

 一 佐伯啓思産経新聞の昨年2011年の9/19、すなわち講和条約締結ほぼ60年後に、連載コラムの「日の蔭りの中で」で、①同条約によって主権を回復したと言っても、占領期に日本は「完全に」主権を喪失していたわけではなく、日本国政府は存在していたので、「主権はせいぜい『制限』され」ていた、②同条約締結(・発効)後も、日米安保条約により「国防という主権の最高の発動を『制限』されて」いるので、「いまだに日本は『不完全な主権国家』ということになる」のではないか、と述べる。相当に乱暴に要約したが、講和条約の前後でさほど大きな(質的な)変化はなかったのではないかと、(佐伯啓思らしく)辛口で?分析しているわけだ。
 また佐伯は最近4/16、講和条約発効ほぼ60年後の同連載でも、「同条約と同時に日米安全保障条約が締結された」ことにより、「形の上では日本は主権国家となり、実体の上では『不完全主権国家』となった」、と同旨を述べている。「戦後日本の繁栄であり発展であるとされるもの、すなわち日本が得た『利』は、実は、『完全な主権』をいまだに回復していないがゆえに可能だったということになる」とも書いている。
 翌日4/17の産経新聞「正論」欄では稲田朋美が「主権回復記念日を設ける意義は」と題し、自民党が4/28を「主権回復記念日として祝日に」する法案を国会に提出したことから書き始めていることと対比すると、本当に「主権回復」したのか?、そんなに喜んでよいのか?と佐伯啓思はあらかじめ言っているようで、なかなか面白い。
 この対立?について、ここでコメントしたいのではない。稲田朋美も、「主権回復記念日を祝うということは、安倍晋三首相が掲げた『戦後レジームからの脱却』を今一度わが党の旗にすること」だとか述べ、「今年の主権回復記念日を、日本が…真の主権国家になる始まりの一日に、そして保守政治再生の一歩にしたい」と結んでいるので(現状は「真の主権国家」ではないと言っているようであったりするので)、そもそも基本的な対立があるかどうかも疑わしい可能性がある。
 二 佐伯啓思の4/16の連載コラムで関心を惹いたのはむしろ、「サンフランシスコ条約締結以前の占領状態は、公式的にいえば、いまだ戦争継続中なのであり、広義の戦争状態における占領である。日本には主権はない。したがって、『本来』の意味でいえば、あの憲法は無効である。憲法制定とは、主権の最高度の発動以外の何ものでもないからだ」と書いていることだ。
 「本来」の意味では無効、ということの正確な意味はむろん問題になるが、なぜ関心を惹いたかというと、石原慎太郎が最近(も)、日本国憲法「無効」かつ<破棄>論を述べているからだ。
 産経新聞3/26の「新憲法起草/熱帯びる地方-石原、橋下氏が牽引」と題する記事は次のように伝える。
 「東京都の石原慎太郎知事は今年2月下旬、『占領軍が一方的に作った憲法を独立後もずっと守っている。こんなばかなことをしている国は日本しかない』と強調、憲法破棄と自主憲法制定を呼びかけた。/大阪市の橋下徹市長率いる『大阪維新の会』も3月上旬に公表した公約集『維新八策』の原案で憲法改正を明記。橋下氏は『平穏な生活を維持しようと思えば不断の努力が必要で、国民自身が汗をかかないといけない。それをすっかり忘れさせる条文だ』と憲法9条批判も展開している」。
 石原慎太郎は産経新聞3/05の連載コラムで「歴史的に無効な憲法の破棄を」と題して、たとえば次のように明言している。
 「憲法改正などという迂遠な策ではなしに、しっかりした内閣が憲法の破棄を宣言して即座に新しい憲法を作成したらいいのだ。憲法の改正にはいろいろ繁雑な手続きがいるが、破棄は指導者の決断で決まる。それを阻害する法的根拠はどこにもない。/敗戦まで続いていた明治憲法の七十三条、七十五条からしても占領軍が占領のための手立てとして押しつけた現憲法が無効なことは、美濃部達吉や清瀬一郎、そして共産党の野坂参三までが唱えていた」。
 佐伯啓思は「ではどうすべきか」を書いてはいないのだが、憲法が「本来」の意味では「無効」だと、あるいは、石原慎太郎とともに<センティメント(情緒・気分)>としては現憲法は「無効」だと、言いたいし、そういう情緒・気分も理解できる。しかし、現在における現実的かつ法的な議論としては、日本国憲法「無効」・<破棄>論は成り立たないし、成り立つべきでもない、と考える。
 さらに続けるつもりだったが、長くなったので、次回にする。
 なお、橋下徹の、憲法九条に限っての「国民投票」による(憲法九条改正問題の)決着、という意見にも、完全には同意しない。この点に、いつ言及できるだろうか。橋下徹のツイッターをすべてフォローすることはできないように、この欄のために費やせる時間が無限にあるわけでもないので、困ってはいる。

1107/橋下徹は佐々淳行・「正論」にツイッターで答えていた。

 一 佐々淳行産経新聞2/24の「正論」欄で橋下徹・「維新八策」に論及していることはすでに触れた。
 月刊ボイス5月号(PHP)の中に佐々淳行「日米安保条約改定を『八策』に加えよ」があることを知り、「正論」欄と似たようなことを書いているのかと思ったら、何と、上の佐々淳行「正論」に対して、同じ2/24に橋下徹はトゥイッターでコメントしたらしい。
 佐々淳行の文章によると、産経新聞2/24で「国政を担うには外交、安全保障分野への認識が著しく欠けている、と厳しい論調で批判したのだ。そのうえで、『天皇制の護持』や『憲法九条改正』などが必要だと指摘した。/すると同日午後一時過ぎに、橋下氏はツイッターで私に対するコメントを発表した」。
 1カ月以上前のことであり、また、橋下徹ツイッターのフォロヤーには無意味かもしれないが、以下、橋下徹の対佐々淳行コメントの全文をそのまま掲載(転載)しておく。
 二 「佐々さんのご意見も厳しいご意見ではあるが、役立たずの学者意見とは全く異なり、国家の安全を取り仕切ってこられた実務者の視点で迫力あるご意見です。」(posted at 13:09:54、以下省略)

 「佐々さんのご主張はまさに正論。内容自体に反論はありません。ただし、今の日本が動くようにするためにはどうすべきかの観点から、僕は次のように考えています。まだ維新の案として確定したものではありません。佐々さんの言われるように、日本は国家安全保障が弱い。これは全てに響いてきています。」
 「世界では自らの命を落としてでも難題に立ち向かわなければならない事態が多数ある。しかし、日本では、震災直後にあれだけ「頑張ろう日本」「頑張ろう東北」「絆」と叫ばれていたのに、がれき処理になったら一斉に拒絶。全ては憲法9条が原因だと思っています。」
 「この憲法9条について、国民的議論をして結着を付けない限り、国家安全保障についての政策議論をしても何も決まりません。国家の大きな方針が固まっていないのですから。しかし憲法9条議論や国家安全保障議論をしても結局憲法改正は非現実ということで何も動かない。学者議論に終始。」

 「だから僕は仕組みを考えます。決定でき、責任を負う民主主義の観点から。憲法96条の改正はしっかりとやり、憲法9条については国民投票を考えています。2年間の議論期間を設けて国民投票。この2年の間に徹底した国民議論をやる。」
 「これまでの議論は決定が前提となっていないから、役立たず学者議論で終わってしまう。その議論でかれこれ何十年経つのか。決定できる民主主義の議論は決定が前提の議論。そして期限も切る。2年の期間で、最後は国民投票。この仕組みを作って、そして国民的に議論をする。」

 「朝日新聞、毎日新聞、弁護士会や反維新の会の役立たず自称インテリは9条を守る大キャンペーンを張れば良い。産経新聞、読売新聞は9条改正大キャンペーンを張れば良い。2年後の国民投票に向かって。そして国民投票で結果が出れば、国民はその方向で進む。」

 「自分の意見と異なる結果が出ても、それでも国民投票の結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う。9条問題はいくら議論しても国民全員で一致はあり得ない。だから国民投票で国のあり方を国民が決める。そのために2年間は徹底して議論をし尽くす。意見のある者は徹底して政治活動をする。」
 「その上で国民投票の結果が出たら、国民はそれに従う。そんな流れを僕は考えているのです。佐々さん、そう言うことで、今維新の八策にあえて安全保障については入れていません。憲法9条についての国民の意思が固まっていない以上、ここで安全保障政策について論じても画餅に帰するかなと。」

 「憲法9条について国民意思が確定していない日本において、それを確定するというのが僕の考えです。あくまでもシステム論です。まずはその決定できる仕組みを作る。仕組みができれば、次に実体論に入る。実体論から先に入ると、その賛否によって決定できる仕組みすら作ることができません。」

 「まずは憲法9条について国民意思を固める仕組み作りが先決だと思います。佐々さん、またご意見下さい。」
 翌日の2/25にもある。

 「政治は学者や論説委員の議論と違う。決定しなければならない。実行しなければならない。自民党が憲法改正案を出すらしいが、本当にこのようなやり方で憲法問題が結着すると考えているのであろうか?憲法改正案を選挙の公約に掲げて、仮に自民党が勝ったとしても、選挙が全てでないと言われる。」(posted at 09:35:36、以下、省略)

 「自民党に投票したけど、憲法問題は違うと必ず言われる。政策等であれば、選挙結果に従って欲しいと言えるだろうが、憲法の本質的価値に触れるところまでそれを言えるだろうか?首相公選、参議院の廃止は、分かりやすいので選挙になじむ。しかし憲法9条はどうだろう?これは選挙になじまないと思う。」 
 「政治には自分の価値観を前面に出すことと、国民の価値を束ねることの2つの側面があると思う。これは領域、状況によって使い分けるものであり、その使い分けもまた政治と言える。自称インテリは後者ばかりを言う。それでは現実の課題は解決しない。議論ばかり。」

 「しかし憲法9条問題こそは、国民の価値を束ねて行くことが政治の役割だと思う。自らの価値を前面に出すのではなく、国民に潜在化している価値を顕在化していく作業。単なる議論で終わるのではなく一定の結論を出す。そういう意味では、憲法9条問題は選挙で決するのではなく、国民投票にかけるべきだ。」

 「選挙の争点には、憲法9条の中身・実体面・改正案を掲げるのではなく、憲法9条問題に結着を付けるプロセス、仕組み、手法、手続きを掲げるべきだと思う。この点は、今後維新の会で議論していきます。」

 「簡単に言えば、憲法9条は色々な政治公約の一つとして選挙で決めるのではなく、憲法9条だけを取り上げる国民投票で決めましょうということです。この問題はある種の白紙委任で政治家に委ねるわけにはいかないと思う。」 

 「一定期間を定めて国民的大議論。そして国民投票の結果には皆で従う。反対の結果が出た国民も国民投票の結果に従う。だからこそ自分の主義主張がある人は一定期間内に徹底して国民に訴えかける。その上で結果が出たなら潔くその結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う。」

 「憲法9条については国民的大議論を巻き起こす裏方役が政治家の役割だ。政治家が憲法9条について自分の価値観を前面に出せば出すほど、憲法9条問題は決着しない。政治家は学者と違う。自分の考えを控えることが決定のための必要条件なら自分の考えを押し殺す。決定こそ政治だ。」

 「佐々さん、幕末の世は民主主義ではありませんでした。ですから坂本竜馬は船中八策で国家安全保障のことを一人で決しました。しかし、今の世は国民主権です。国家安全保障を決するのも国民です。憲法9条問題は、国民全員が坂本竜馬です。その裏方を引き受けるのが政治だと思います。」

 以上。
 三 ・内容は、憲法9条改正問題が中心になっている。この問題についての橋下徹の考えについて、私はこの欄で「世論の趨勢を測りかねていて、個人的見解を明確にする時期ではまだないと判断しているように…推察している」と書いたことがある(4/11エントリー)が、少し異なるようだ。別の機会にコメントしたい。
 ・佐々淳行は、この橋下徹コメントを読んだうえで、「私は彼を『百年に一度の政治家』とみている。強い正義感と信念をもち、現代においてこれほど政策提言に命を懸ける人物はいないと思うからである」(ボイス5月号p.76)、「この戦闘機」=橋下氏の「敵・味方識別装置」は「有効に機能している」(p.82)等と、高く評価している。
 橋下徹は憲法9条改正に賛成と明言しているわけではなく、厳密には憲法9条改正問題について国民投票で決着をつけたいと考えている、と読めるが、この点も含めて、別にコメントする。
 ・しかしともあれ、一日平均11通(?)というツイッターで発信された橋下徹の文章を眺めていて、大阪市長という公職や維新の会代表を務めながら、よくもこれだけ書けるものだと本当に(それだけでも)、橋下徹に感心する。若い、まだ頭脳明晰、文章作成能力旺盛、むろん政策・行政に対する熱意十分、の証左だ。
 ・ボイス5月号の橋下徹特集(大阪府知事・松井一郎のものを除いて計4本、1つが佐々淳行のもの)のほか、中央公論5月号(中央公論新社)の橋下徹特集(計5本)も、すべて今日(4/16)読んだ。必要に応じて、別の機会に言及したい。
 四 PHP研究所と中央公論新社の上の二つと比べて、産経新聞社の月刊正論5月号の橋下徹特集の「貧弱さ」が目立つ
 上の二特集の計9本の論考(座談も含む)はいずれも面白く読める。観念的で現実感覚に欠けた論考がないからだ(中央公論5月号の北岡伸一論考には少し感じるが)。これらと比べて、月刊正論5月号の適菜収論考は「最低」・「最悪」だ、と言ってよい。すでに言及した、別の雑誌での中島岳志藤井聡の<反橋下>論考と優るとも劣らない「劣悪」さだ。
 中島岳志や藤井聡の論考は各雑誌のメインと位置づけられてはいなかったが、月刊正論5月号は適菜収論考のタイトルを表紙最右翼に大きく印字し、巻頭にもってくる、「売り」の論考と位置づけていたのだから、機能的には最もヒドく、「最悪」だ。
 あまつさえ、月刊正論の編集長自体が、自分自身は何ら詳論することもなく、橋下徹を「きわめて危険な政治家」、「目的は日本そのものを解体することにある」と明記したのだから、始末に負えない。バランスを取るために山田宏の(インタビュー)記事を載せたのだろうが、橋下徹を「デマゴーグ」等と断じる適菜収論考をメインにする編集・広告方針のうえでのものであり、かつまた編集長個人が山田宏とは異なる見解を明示するとは、山田宏に対して非礼でもあろう。
 上記の月刊ボイスや中央公論には、編集長(個人)の特定の考え方などはどこにも書かれていない。産経新聞社の月刊正論が、最も異様なのだ。産経新聞社の人々は、恥ずかしい、あるいは情けないと思わないのだろうか。

1102/月刊正論編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言④。

 何度めになるのだろう、産経新聞4/06の「正論」欄で田久保忠衛が憲法改正の必要を語っている。そのことに反対はしないが、憲法改正(九条2項の削除、国防軍保持の明記を含む)の必要性をとっくに理解している者にとっては、そんな主張よりも、いかにして<改憲勢力>を国会内に作るかの戦略・戦術、そういう方向での運動の仕方等を語ってもらわないと、「心に響かない」。
 両議院の2/3以上の賛成がないと憲法改正を国民に発議できないのだから(現憲法上そのように定められているのだから)、いくら憲法改正の必要性を説いても、国会内での2/3多数派形成の展望を語ってもらわないと、厳しい言い方をすれば、ほとんど空論になるのではないか。
 現在のところ、憲法改正の具体的案文を持っているのは自民党で、さらに新しいものを検討中らしい。憲法改正にも現憲法第一章の削除を含む、かつての日本共産党の<日本人民共和国憲法案>のようなものもありうるが、自民党のそれは、九条改正・自衛軍設置明記等を含むもので、「左翼的」な改正ではない。
 自分が書いていながらすっかり忘れていたが、1年余り前に(も)、月刊正論編集長・桑原聡を、「月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは」と題して、批判したことがあった。
 月刊正論の昨年2011年の4月号の末尾に、自民党を「賞味期限の過ぎたこの政党」と簡単に断じていたからだ。桑原聡は同時に、「かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、<賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」とも明言していた。
 自民党については種々の意見があるだろうが、「はたして、かかる立場を編集長が明記することはよいことなのかどうか。それよりも、その<政治的>判断は適切なものなのかどうか」、という観点から批判的にコメントしたのだった。背景には、編集長が替わってからの月刊正論は編集・テーマ設定等が少しヘンになった、と感じていたことがあったように思う。
 一年前のこの言葉の考え方を桑原聡がまったく捨てているとは思えないので、彼にとっては、自民党は基本的には、「多くを期待できない」「賞味期限の過ぎた」政党のままなのだろう。
 しかし、産経新聞(社)は「国民の憲法」起草委員会まで設けたのだが、現在のところ、産経新聞社の見解に最も近い憲法改正を構想しているのは、自民党なのではないか。
 将来における<政界再編>によってどのようになるかは分からないが、憲法改正に向けての動きが進んでいくとすれば、現在自民党に所属している国会議員等が担い手になることは、ほとんど間違いはないものと思われる。
 しかるに、桑原聡のように、自民党を「多くを期待できない」「賞味期限の過ぎた」政党と断じてしまってよいのか
 桑原聡はこのように自民党を貶し、かつまた橋下徹を「きわめて危険な政治家だ」と明言する。この人物は、いったいどのような政党や政治家ならば(相対的にではあれ)肯定的・好意的に評価するのだろうか。ただの国民でも雑誌・新聞の記者でもない、<月刊正論>の編集長である桑原聡が、だ。
 読売新聞4/08安倍晋三が登場していて、橋下徹は憲法改正に向けての大きな発信力になるので期待しているといった旨を書いて(答えて?)いた(手元になく、ネット上で発見できないので厳密に正確ではない)。

 憲法改正の内容を橋下徹・大阪維新の会は具体的・明確にはまだ明らかにしていないが、国会議員連盟もあるらしい、憲法改正のための国会発議の要件を2/3超から1/2超に改正することには橋下徹は賛成している。憲法改正の必要性自体は、彼は十分に認識していると思われる。
 桑原聡は憲法改正には反対なのだろうか。大江健三郎、香山リカ、佐高信、立花隆らと同じく<護憲派>なのだろうか。
 そうではないとしたら、橋下徹を「きわめて危険な政治家だ」となぜ簡単に断じてしまえるのか。不思議だ。<異常な>感覚の持ち主の人物だとしか思えない。
 なお、佐々淳行産経新聞2/24の「正論」欄で、「橋下徹大阪市長に申す。国家安全保障問題、国家危機管理の問題こそが国民の龍馬ブームの源であり、物事を勇気を以て改めてくれる強い指導力を貴方に期待している国民の声なのだ。国政を担わないのなら、今の八策でもいいが、命をかけて、先送りされ続けた国家安全保障の諸問題を、貴方の『船中八策』に加え、国策の大変更を含めて平成の日本の国家像を示してほしい」、と書いている。
 この文章の途中で、「船中八策」には「一番肝心の安全保障・防衛・外交がそっくり抜け落ちて」いると批判もしている。
 このような佐々淳行の批判もよく理解できる(九条については、橋下徹は世論の趨勢を測りかねていて、個人的見解を明確にする時期ではまだないと判断しているように私は推察している)。

 だが、佐々淳行は最終的には<期待>を込めた文章で結んでいるのであり(最末尾の文章は「…など橋下市長の勇気ある決断を祈っている」だ)、きわめて穏当だと感じられる。
 大人の、まっとうな<保守>派に少なくとも求められるのは、橋下徹に対する、このような感覚・姿勢ではないだろうか。
 逆を走っているのが、月刊正論(産経)の現在の編集長・桑原聡だ。
 こんな人物が産経新聞発行の政治関係月刊誌の編集長であってよいのか。
 川瀬弘至という編集部員が、イザ!で月刊正論編集部の「公式ブログ」を書いているのに気づいた。この川瀬の文章の内容の奇妙さにも、今後は言及していくつもりだ。

1094/朝日新聞を応援する「産経抄」と産経・憲法改正起草委員会。

 一 産経新聞3/20の「産経抄」が、朝日新聞にエールを送っている。
 例の巨人軍契約金問題に触れ、巨人軍の「有望選手を獲得するための、なりふりかまわぬやり口は、野球ファンには常識だ」と断定したあと、「報道のメスは高校野球にも及ぶのか。夏の甲子園大会を主催する、朝日ならではの追及に期待したい」、と締めくくっている。
 読売巨人軍を擁護する気はないし、問題もあるかもしれないが、上のような書き方は、あまりにも一方に偏った、不公正なものだろう。
 朝日新聞が、巨人軍の親会社がライバル社である読売新聞社であるがゆえにこそ、この問題を大きく取り上げたのは、ほとんど明瞭なことなのではないか?
 それに、朝日新聞が執拗な「政治団体」でもあって、例えば2005年には安倍晋三・中川昭一という二人の政治家に打撃を与えるために<NHKへの圧力>という捏造報道を―NHK内の「極左」活動家ディレクターの告発をきっかけとして(ひょっとすればそれを誘導して)し続けた―関係記者・本田雅和は解雇されなかったし、NHKもそのディレクター・長井暁を馘首しなかった―、等々の<デマ>を撒き散らしてきたのは、少なくとも産経新聞の読者には「常識だ」ろう。

 産経抄子は朝日・読売の対決という、どう見ても少なくとも五分五分の言い分はそれぞれにありそうな問題について、何と、あっけらかんと、朝日新聞の側に立つことを明らかにしたのだ。
 呆れる。
 二 上の小記事が原因ではないが、3月末で産経新聞の購読を止めた。
 「よりましな」新聞であることは分かっているが、重要な文章はネット上で無料でコピーできることが大きい。他の新聞に比べて、数年前までの、例えば「正論」や「昭和正論座」その他の論説委員執筆コラム等々がネット上で追いかけられるのは有り難い。
 朝日新聞などは、若宮啓文の重要なコラムを読み逃しても、遅れればネットで(無料では)読めないし、そもそもネット上に掲載していない可能性もある。
 というわけで、3月末と決めていたのだが、産経新聞が<憲法改正起草委員会>を組織したとの報道があって、ややぐらついた。毎日の紙面で、その動向を知っておく必要があるのではないか、と。
 話題を憲法改正案起草に変えれば、「委員」5人の顔ぶれを見て、感じることもある。
 法学者・法学部出身者が多い(全員?)のはよいのだが、79歳、77歳、71歳、69歳、65歳では、あまりにも「年寄り」しすぎではないか?
 しかし、これは現在の法学界、とくに憲法学界の反映かもしれない。50歳代であれば十分に、しっかりした憲法改正論を語れる者がいても不思議ではないのだが、そのような適材がいないのだろう。少なくとも、産経新聞社の求めに応じて「委員」になるような適当な学者がいないのだろう。
 憲法改正に賛成することが、あるいは憲法改正を語ることすら、はばかられるような学界の雰囲気があるに違いない、と思われる。
 産経新聞紙上にもかつての改憲案の作成機関等が紹介されていたが、「憲法学界(学会)」こそがそのような検討をしていたとしても不思議ではないにもかかわらず、そのようなテーマで議論したことは一度もないのだろう。ついでに言うと、日本弁護士連合会(日弁連)もまた<よりよい憲法>を目指した案を作成してもまったく不思議ではない団体だが、日弁連が憲法改正を(それに反対はしても)議論したという話は聞いたことがない。
 (憲法等の)法学界も専門法曹・弁護士会も、憲法改正を一種のタブーにしてきた、という、まことに見苦しく情けない現状がある。それを話題にすること自体が、憲法九条を改正したがっている<保守・反動派>を助けることになる、という意識が、論壇やマスコミ界以上に強いものと思われる。「黒い羊」と断定されれば、就職もできず、あるいはまともな?法学部には就職(・転職)できない、という<経済・生活>にかかわる、サンクションも機能していると思われる(これは「左翼ファシズム」がほとんど成立してしまっている、ということでもある)。
 そのような怖ろしい「部分」・業界?もある中で産経新聞社が憲法改正へと棹さすのは結構なことだ、ととりあえず言っておこう。
 前回に触れたように現九条1項にはそれなりの由来・歴史が伴っているのだが、<侵略戦争はしない>ことはもはや当然のこととして、せいぜい前文で抽象的かつ簡単に触れるくらいにして、現九条1項のような(たしかに紛らわしくはある)条項は残存させないのも、一つの案かもしれない。
 なお、橋下徹・大阪維新の会は憲法改正を「タブー」視していないことは明らかだ。自民党等の中にいるだろう「保守」派は、差異・不明部分のみを強調するのではなく、共通している部分にも目を向けておく必要があるだろう。
 元に戻れば、やはり産経新聞の購読は止めている。したがって、「産経抄」の文章に言及したのは、今回が最初で最後になる可能性が高い。

1074/中西輝政「米中対峙最前線という決断―米軍が日本から消える日」(月刊正論)と産経。

 〇月刊正論2月号(産経)の中西輝政「米中対峙最前線という決断―米軍が日本から消える日」(p.86-98)は、米オバマ大統領の2011.11演説によるアメリカの対中強硬政策への明示的な転換、その具体的内容を軍事面を中心に月刊WiLL上よりも詳細に述べている。その代わり、日本自体についての言及は少ない。
 印象に残る部分二つのみを、以下に紹介。
 ・「中国が共産党一党独裁のまま市場経済に移行すれば国際社会にとってかつてない深刻な脅威となる」という二〇年前に生じた懸念は脳裏から離れず、国際社会や日本はいつそれに気づくのかと訴え続けてきた。「ようやくアメリカがそのことに気付」いたが、遅すぎたかもという懸念もある。中国が持ってしまった力を思えばこそだが、「責任はひとえに”日中友好”に浮かれ、何の国家戦略も持たずに中国をここまで強大化させてきた日本人の側にある」(p.87-88)。
 ・「アメリカの戦略転換」に対する中国の「巻き返し戦略」に日本はどう対処すべきか。「現状では殆どその能力を欠いている」。「対日工作に対する日本の政治と世論の抵抗力は極めて脆弱」で、「政治の決断」、「防衛力の顕著な増強」が不可欠だ。もう遅いかもしれないが、緊急性が高いのは「財政危機よりも社会保障よりも」「防衛力の増強」だ。併せて、集団的自衛権行使・憲法改正という体制・精神の整備をしての「国家戦略の大転換」が必要だ(p.98)。
 このあと、月刊WiLLで書いていたような条件つきの「楽観」的文章で終わっている。
 〇ところで、月刊正論2月号の表紙の最大の見出しは石原慎太郎の立川談志に関する文章で、中西輝政の上の論考名もあるが、屋山太郎(!)の文章のタイトルの下に小さく?書かれている。また、目次欄でも、リーダー・英雄論を主テーマ(特集)するかのような記載がされている(実際にそのような扱いだ)。
 石原慎太郎や立川談志を蔑視するわけでは全くないが、この二人に関係するものを最も大きく目立たせるとは、月刊正論の編集部はセンスがない。それとも、<お堅い>政治・社会論壇誌とのイメージを払拭したいのだろうか。また、「英雄」・「リーダー」特集も、あまり面白くない。
 産経新聞(社)や月刊正論は「保守」の側に立つ最大の、または少なくとも重要なメディアのはずなのだが、経営的にも岩波書店や朝日新聞社の方が安定しているだろうし、堅い芯と執拗さという点でも岩波や朝日新聞には劣っていそうだ。そして、的確に政治状況を把握しての的確な編集のセンスという点でも「左翼」メディアに負けているのではないだろうか。
 「保守」は相対的な少数派であり、今後も<勝てそうにない>のでないか、という悲観的見通しを持たざるをえないのも、(産経の個々の社員を論難はしないが)「保守的」雑誌・新聞等々の有力なまたは中心的な戦略・司令塔のような媒体が存在していないことにある。むろん、ゲリラ的なもの(?)を含む多数の「保守」系雑誌等のあることは知っているが、おそらくは(「大衆的」な)広がりに乏しい。
 中西輝政論考を冒頭に持ってき、また、<解散・総選挙>の実施を煽るような編集方針でないと、(本来は)いけないのではないだろうか。ないものねだりかもしれないような期待を、産経新聞(社)に寄せつつ(1/4記)。

1073/月刊WiLL2月号の中西輝政論考・九条の呪い・総選挙。

 〇自民党幹事長・石原伸晃は1/03に「1月の通常国会の冒頭に解散すれば1カ月で政治空白は済む」と発言したらしい。今月解散説だ。今月でなくとも、今年中の解散・総選挙の主張や予測は多くなっている。
 にもかかわらず、産経新聞も含めて、「(すみやかに)解散・総選挙を」と社説で主張する新聞は(おそらく地方紙を含めても)ない。のんびりとした、何やらややこしく書いていても<あっち向いてホイ>的な社説が多い。
 朝日新聞は総選挙を経ない鳩山由紀夫退陣・民主党新政権発足(「たらし回し」)に反対していたが、近い時期に総選挙をとはいちおう社説で書いていた(2010年6月頃)。朝日新聞がお好きな「民主主義」あるいは「民意」からすると、「民意」=総選挙によって正当化されていない野田・民主党内閣も奇態の内閣のはずであり、今年冒頭の社説では<すみやかに解散・総選挙をして民意を問え>という堂々とした社説が発表されていても不思議ではないのだが、この新聞社のご都合主義または(自分が書いたことについての)健忘主義は著しく、そのような趣旨は微塵も示されていない。
 マスメディア、大手新聞もまたそこそこの<既得>の状況に安住していて、本音では(産経新聞も?)<変化>を求めていないのかもしれない。

 〇月刊WiLL2月号(ワック)の中西輝政論考の紹介の続き。
 ・日本「国家の破局」の到来が危惧される3つめの理由は、「
政党構造が融解し、国内政治がまったく機能していないこと」だ。「保守」標榜の自民党も「見るに堪えない状況」で、「大きな政界再編の流れ」は全く見られない。官僚も企業も同じ。今年に解散・総選挙がなければ、日本は今年の「世界変動」に乗り遅れるだろう。ロシア大統領、台湾総統のほか韓国大統領選挙もあるが、新北朝鮮派(野党・韓国「民主党」)が勝利すれば、38度線が対馬海峡まで下がってくるような切迫した状況になる。そして、日本は「親北」民主党政権なのだ。日本には「冷戦終局後かつてない危機が、さらに明確な形で目前にまで迫っている」(p.40-42)。
 ・だが、全くの悲観論に与しない端的な理由は、<欧州も中国ももはや一つであり続けられない>のが、2020年代の大きな流れだからだ。EUは崩壊するだろう。中国でもバブルが崩壊し「社会体制」も崩れて「国家体制」を保てなくなるだろう(p.42-43)。
 ・かかる崩壊は「民主主義と市場経済の破綻」=「アメリカ的なるもの」の終焉にも対応する。アメリカ型市場経済は臨界点を超えると「激発的な自己破壊作用」に陥る。「物質欲、金銭欲の過剰」は「市場経済のシステム自体」を壊す。「個人が強烈な物質主義によって道徳的に大きく劣化し、『腐敗した個人主義』に走り」、「自らの欲望」だけを「政治の場」にも求める結果として、「民主主義そのものがもはや機能しなくなっている(p.43-44)。

 ・①「過剰な金銭欲」と②「腐敗した個人主義」という「現代文明の自己崩壊現象」が露呈している。「アメリカ由来の市場経済も民主主義も、長くは機能しない」。「アメリカ化」している日本に、むろんこれらは妥当する。この二つが日本を壊すだろうと言い続けてきたが、不幸にも現実になった。だが、これは「アメリカ一極支配の終焉」でもある(p.44)。
 ・「グローバル」化・「ボーダーレス」・「国家の退場」・「地球市民社会」などの「未来イメージ」は結局は「幻想」だった。アメリカ一極支配後の核心テーマは、「国家の再浮上」だ。この時こそ、「一国家で一文明」の日本が立ち上がるべきで、その状況まで日本国家が持続できていれば、「日本の世紀」になる。これが「短期の悲観」の先の「長期の楽観」の根拠だ(p.45)。
 ・「固有の文明」をもつ日本は有利だ。だが、「民主主義を荒廃」させる「腐敗した個人主義」の阻止が絶対条件だ。日本文明の再活性化・国民意識の回復のためには、「国家の刷新、とりわけ憲法改正が不可欠」だ。とくに憲法九条の改正。「すべてを、この一点に集中させる時が来ている」(p.45-46)。
 ・アメリカ「従属」、歴史問題・領土問題・財政問題・教育問題などはすべて、「九条の呪い」に発している。憲法改正に「保守」は正面から立ち向かうべきだ。今の危機を乗り越えれば、「日本の時代」としての2020年代が待っている(p.46-47)。
 以上。
 アメリカ的市場経済に批判的なところもあり、ある程度は佐伯啓思に類似した論調も見られる。
 「腐敗した個人主義」という形容または表現は面白い。利用?したくなる。
 おおむね賛同できるが、「九条の呪い」という表現や叙述は、朝日新聞の若宮啓文等々の「左翼」護憲論者、樋口陽一等々の大多数の憲法学者はとても納得できない、いや、理解できないに違いない。

 最終的には条件つきの楽観視で中西輝政はまとめているが、はたしてこのように楽観視できるだろうか? そのための「絶対条件」は達成できるだろうか? はなはだ心もとない。

 中西輝政は真意を隠してでも多少は煽動的に書く必要もある旨を述べていたことがある(この欄でかつて紹介した)。従って、条件つきの楽観視も、要するに「期待」・「願望」にすぎないのだろう、とは言える。だが、微かな希望でも存在しうると指摘されると、少しは精神衛生にはよいものだ。

1008/櫻井よしこは不信任案の意味を知らない!

 日本国憲法69条「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」。
 産経新聞6/09の櫻井よしこの文章(菅首相に申す)の第一文はこうだ。
 「菅直人首相への不信任決議案は、首相ひとりではなく、菅政権そのものに突きつけられたものだ」。
 櫻井よしこは何を言っているのか? ずっこけるほどの、目を剥く文章だ。
 6/02に衆議院で議決されたのは内閣不信任決議案であって首相不信任決議案ではないことは憲法条項からも明らかだ。かりに厳密には「内閣」<「政権」だとしても、まさに「首相ひとりではなく、菅政権そのものに突きつけられたものだ」。このことすら知らないで、新聞の一面を飾る?文章を書き、国家基本問題研究所なるものの理事長でもあるらしいのだから、恐れ入る。
 かつてこの欄に書いた文章を確認する手間を省くが、櫻井よしこは2009年夏に、①民主党の詳細な政策がよく分からないので早く具体的なマニフェストを公表してほしい旨を書き、民主党内閣成立後には、②<期待と不安が相半ば>する旨を書いた、そういう人物だ。
 民主党の少なくとも幹部連中のこれまでの政党遍歴・諸発言を知っていれば、民主党の詳細な政策など知らなくとも、櫻井よしこが批判していた自民党よりも<よりましな>政権になるはずはないだろう、ということくらいはすでに判るのが、優れた評論家であり国政ウォッチャーであり、「国家基本問題」の研究者だろう。情けなくも、早く具体的で詳細な政策を明らかにせよ(そうでないと評価できない)と櫻井よしこは書いていたのだ(①)。
 また、ある時期からは明確に民主党や同党内閣批判の姿勢に転じたようだが、上記研究所理事の屋山太郎の影響を受けてか、民主党政権の成立当初は、櫻井よしこのこれへの姿勢は曖昧なままだった、ということも忘れてはならないだろう(②)。

 また、櫻井よしこはその後も、「谷垣自民党」と民主党は<同根同類>だ旨も強調して、自民党も期待できないという雰囲気を撒き散らしてきた。このような櫻井の認識では説明できなかったのが、(詳細は省くが)この間の政界・政局の動向だっただろう。要するに、櫻井は、残念ながら、適確に政治状況を把握し切れているわけでは全くない。また、反中国専門家ではあるようだが、しかし、反フェミニズムの専門家では全くない。
 ついでに。櫻井よしこには今年初めに、正論大賞が贈られた。産経ニュースから引用すると、「櫻井氏はシンクタンク・国家基本問題研究所を設け『日本人の誇りと志』を取り戻そうと活動。ぶれない姿勢、切れ味鋭い論調が評価され、正論大賞が贈られた」らしい。
 「ぶれない姿勢、切れ味鋭い論調」とは少し?褒めすぎではないか?? 産経新聞社自体が、「ぶれない姿勢、切れ味鋭い論調」では必ずしもないのだから、社の論調に近い原稿を寄せてくれる者に対する<内輪褒め>のようなものだろうか。
 と書きつつも、筆者の頭を離れないのは、(とりわけ憲法9条2項削除・自衛軍の正式設置のための)憲法改正に向けた<多数派>をいかに形成するか、という問題・課題だ。
 その目標に向けて櫻井よしこにも働いてもらわなければならず、櫻井を全面的に非難・批判しているわけではむろんない。但し、和服を着て母親とともに受賞式場に現れて、嬉しそうに微笑んで、<功成り名を遂げた>ような挙措をするのはやめてほしかったものだ。
 日本の全状況から見ると、櫻井よしこらは(私もだが)<反体制>派であり、<少数派>にすぎないことを、深刻に、悲痛な想いで、つねに自覚しておくべきだろう。ニコニコとしている場合では全くない。 

0972/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章を読む⑤。

 佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」-メモ⑤

--------------------  「国」には「ステイト」と「ネーション」の二つの側面がある。戦後日本の前者の基軸は主として日米安保による在日米軍に委ねられ、後者をまとめる「共通の価値」は、「公式的にいえば、憲法に規定された個人の自由、基本的人権、平和主義」で、「占領下においGHQによって」与えられた。サ条約を「起点」とする「戦後」において、「平和憲法と日米安全保障体制は相互補完的」で「不可分の関係」にある。サ条約によって「主権回復」したというが、日本は「事実上、主権国家といえる」のか。  サ条約とともに締結された日米安保条約の基本的考えは以下。憲法により日本は「固有の自衛権を行使する手段」がない。だが軍国主義が世界からなくなっていないので日本には「危険」がある。一方、国連憲章により日本は「個別的および集団的自衛権」をもつ。この権利の「暫定的行使」として、日本は国内・付近に米軍が配備されることを希望する。  1951年安保条約は「あくまで暫定的措置」だった。アメリカも日本は「いずれは憲法改正を断行して軍事力を保持するものと想定」していた。  1960年安保改定にかかる岸首相の意図は「双方の義務を明確化」すること=「米軍による日本防衛と、日本の基地提供」の明瞭化によって、条約を「より対等なものに近づけ」ることだった。一説によると、岸は条約の双務的対等化により国民の支持を得た勢いによる憲法改正の実現を企図した。岸の選択は革新派の「アンポハンタイ」よりも「正しかった」が、世論の読み間違いがあり、皮肉にも、安保反対運動が憲法改正への道筋を阻止し、「日米安保体制」の強化により「戦後体制」が固定化された。  日米安保体制は変化していった。1996年の「共同宣言」、1997年の「新ガイドライン」で再定義された。この体制は「日本および極東」ではなく「アジア太平洋地域」の安全のための枠組みへと転化した。この背景には、「冷戦以降」の国際環境の中で、国際主義よりも「同盟国との関係を重視」する米国の方針転換があった。この延長線上に2005年の合意があり、これにより端的に「日米同盟」と定義された。日米は「世界の安全保障」という「共通の目標を達成するために同盟関係を活用する」こととなった。この合意は、対テロ戦争・対「ならず者国家」等のアメリカの世界戦略の中に日本を位置づけるものだった。これは「深化」ともいわれるが、「変質」だ。平和憲法による防衛能力の欠如の米軍による補填ではなく、「世界の安全保障」との「共通の戦略目標」のためのものへと変形したのだ。  かかる変化は、「戦後体制」を固定化し「いっそう先に推し進める」ものだ。  以上、p.191-195。 上の後半のような「安保体制」の変容の叙述または分析は、しかし、日本共産党等の<左翼>も行っている、と見られる。対米従属性、アメリカの(自分勝手な)戦争に日本が巻き込まれる危険、というのは日米安保条約締結以降の<左翼>の主張でもある。だからどうだ、というのでは、とりあえずは、ない。 --------------------------------------------  安保体制から同盟への変質は戦後体制をさらに固定化する。
 そこには「もはや憲法改正によって日本独自の防衛力を保持することが事実上不可能であるという」認識がある。「平和憲法のもとで」世界の安全保障のために協力するということは、アメリカの軍事行動に「平和憲法を前提にしつつ」後方支援等で日本が関与するとの方向を目指す。集団自衛権の保持と行使可能との憲法解釈をとることで、事実上「九条の平和主義の解釈を変更」しようとするものと推測される。「平和憲法」の成文はそのままにして「集団的自衛権」を行使する「普通の国家」に接近させる、ということだろう。これが「深化」の意味だ。
 だが、かかる関係は決して「対等な同盟」ではない。「従属的同盟」だ。本格的同盟にするためには日本は独自の軍事力と軍事戦略をもち、主体的な世界観をもって情報活動・外交をする必要がある。それはまず憲法改正を要請し、サ条約の時代に立ち返るわけで、日米安保体制のあり方そのものを遡って論じる必要がある。
 対等・共同の「同盟」は「集団的自衛権の行使を含む十全な軍事協力」が可能でなければならない。そのためには憲法改正が必要で、かつ九条の「非武装平和主義」を放棄するとすれば、当初の「安保条約」の意味の根本的再検討が可能になる。

 変則的「同盟」において、「日米共通の価値」の存在が強調されている。「自由・民主主義、…市場経済体制の絶対性」を承認し世界化することだが、「ネオコンの論理」はその価値観を端的に表明したものだった。
 日本が「自由・民主主義の世界秩序の受益者」であることは否定できない。しかし、<力による自由・民主主義の世界化>・<敵対者に対する力の対決>という価値観まで共有しているとは思えない。

 以上。17.5/26頁。

0937/「戦後」とは何だったのか①-三島由紀夫「檄」。

 三島由紀夫の自裁後、ちょうど40年がもうすぐだ。
 1970年11月25日の「檄文」は、当時における三島の「戦後」認識を示している。そして、40年後の現在も何も変わっていないことに気づく。いや、何も変わっていないのではなく、当時よりも状況は<悪く>なっているかもしれない。

 「戦後」とは何だったのか。現在も含めて、<1947年憲法体制>の時代、と将来は呼ばれそうな気がする。ともあれ、三島由紀夫の「檄文」における「戦後」認識を引用する。なお、この「檄文」の一部はすでにこの欄に掲載したことがあるが、そのときよりも、引用部分をより長くした(新仮名遣いに改めている)。決定版三島由紀夫全集36巻p.402以下(2003、新潮社)。

 「檄/〔略〕/
 われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。〔中略〕しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不明確な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。〔中略〕憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力を尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。

 〔中略〕日本の軍隊の建軍の本義とは、『天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る』ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしたのである。

 〔中略〕その日〔昭和44年10月21日〕に何が起こったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て『憲法改正』という火中の栗を拾わずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。〔中略〕政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬っかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。〔中略〕そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。

 〔中略〕この昭和四十四年十月二十一日という日は〔中略〕憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され〔中略〕自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であった自衛隊は、『護憲の軍隊』として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。

 〔中略〕沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであろう。

 〔中略〕もう待てぬ。〔中略〕生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。〔以下略〕」

 「戦後」認識には当然に、戦後の基本的「体制」をどう認識するかも含まれる。そこには憲法上は「戦力」ではない筈の自衛隊をどう見るか、上の文には出てこないが日米安保をどう見るか、もまた含まれる。そして「憲法改正」にどういう立場を採るかにも関係してくる。

 一字一句、三島由紀夫の文章を<信奉>することはしない。だが、40年前の三島の鋭い指摘・認識にはあらためて感心する。三島由紀夫だけの認識や考え方ではなかっただろう。だが、当時も現在も、基本的なところですら、日本の政治家や国民の<多数派>にはなっていない。痛い想いとともに、三島の死の意味を考える。

0933/佐藤幸治の紹介する「戦略的護憲論」と井尻千男の唱える「憲法改正是非国民投票」。

 〇佐藤幸治・憲法とその”物語”性(2003、有斐閣)は、日本国憲法についての改憲論、護憲論にはそれぞれ二種ある旨を述べている。

 前者・改憲論には①根本理念を否定的に評価する「全面的改憲論」と、②全体としては「受け入れ」つつ「九条」の改正を主張する「部分的改憲論」(p.62)。

 記憶に頼るが、櫻井よしこは国民の権利義務の章についても疑問を呈しているので、上の①。八木秀次は人権条項等には間違っていないものもある旨を書いていたことがあるので(この点はこの欄で触れているが、自分の文章ながらも検索しない)、上の②に近いだろうか。

 いわゆる改憲論者は、自分が上のどちらに属するのか、明確な自己確認をしておいてよいだろう。私は理論的には、あるいは望ましい改正の姿からすれば、①の「全面的改憲論」に立つ。

 自民党の改憲案は現行憲法を前提として一部に削除・追加等をするもので、②に近いものと考えられる。

 本来は、自民党案のような<継ぎ接ぎ(つぎはぎ)改正>ではなく、条項名も内容も一新した全面改正が望ましいと考えられる。それによってこそ、日本と日本人は<自立>できるだろう。

 だが、現実的には、九条2項削除(+新設規定)による国防軍(自衛軍)の正式認知が可能ならば、そして法技術的観点等も含めてその方がより容易ならば、<継ぎ接ぎ改正>という<妥協・譲歩>もやむをえない、と考えている。

 元に戻る。佐藤幸治によると、後者・護憲論には、①「全面的擁護論」と、②「別種の理想社会への過渡的措置としてだけ評価する」いわば「戦略的護憲論」とがある。なお、①も「自由主義」から「社会民主主義」までの「多様な立場を包摂」する、とされる(p.62)。

 興味深いのは、佐藤幸治が、②「別種の理想社会への過渡的措置としてだけ評価する」いわば「戦略的護憲論」なるものの存在をきちんと認知し、かつどちらかといえば消極的評価のニュンスを匂わせていることだ。

 まさしく、②「別種の理想社会への過渡的措置としてだけ評価する」「戦略的護憲論」はある。日本共産党の護憲論、日本共産党員の護憲論、日本共産党員憲法学者の護憲論はこれにあたる。

 日本共産党のみが現行憲法制定(旧憲法「改正」)時に「反対」投票をしたことはよく知られている。それも、固有の自衛権の行使のための「戦力」保持を禁止する九条2項を当時の日本共産党は問題視したのだ。

 それが近年では<九条の会>運動の担い手になっているのだから、笑わせる。

 吉永小百合もそうだし、その他の空想的・理念的<平和主義>者もそうだが、日本共産党の<戦略>としての護憲論(いやこの党は<憲法改悪阻止>と表現しているかもしれない)に騙されてはいけない。社会主義・共産主義社会という「別種の理想社会」への「過渡的措置を実現」するための<戦略>としての護憲論に騙されて、<ともに闘う仲間だ>などという甘い考えを持ってはいけない。

 〇月刊日本11月号(K&Kプレス)に井尻千男「今こそ憲法改正の好機だ」(インタビュー回答)が掲載されている(p.28-)。尖閣事件を契機とするもので、最近に言及した産経新聞11/03の田久保忠衛「正論」と似たようなものだ。

 しかし、上の中で井尻千男がこう言っているのには目を剥いた。
 <民主党だ自民党だと争っている場合ではない。与野党を超えて一致団結すべきだ。そこから「政界再編」もありうるが、「憲法改正の是非を問う国民投票をまず実施するべきだ」。>(p.31)。

 現時点で憲法改正に向けて「与野党」が一致できるかという現実認識の当否は別としておくが、「憲法改正の是非を問う国民投票をまず実施」すべきだ、とは、この人は何を寝ぼけたことを言っているのだろう。

 憲法改正を論じながら、現憲法上の「改正」手続に関する諸条項の内容すら知識としてもっていないようだ。他にどんなことを言っても、三島由紀夫が1970年に述べた「果たしえていない約束」を果たすべきだ等と言ったところで、上の部分で、ズッコケる。

 「憲法改正の是非を問う国民投票」などが「まず」必要になるのではない(むしろ不要だ)。最近書いたように、そんな思いつき(?)よりも、内閣を変えること、そのために総選挙をして国会議員の構成を変えること、の方がはるかに「憲法改正」に近づける。じつに常識的なことを書いているつもりなのだが。

0929/産経11/03社説(主張)の「能天気」ぶり。

 産経新聞11/03の社説(「主張」)「憲法公布64年/国家の不備を正す時だ/尖閣を守る領域警備規定を」は、おわりの直前まではまともな指摘・叙述をしているようだ。

 しかし、最後の段落の「審査会の早期始動を」の部分は、寝言に等しい。

 憲法改正の必要性を前提としてだろう、「参院の民主、自民両党幹部の協議で、委員数など審査会の運営ルールとなる『規程』の制定に民主党が応じる考えを示した」ことをもって「注目すべき動き」と捉え、両院での議論の活性化につなげるべきだとし、「日本の守りの不備をどう是正するかなどを、審査会で論議すべきだ。……/民主党は党の憲法調査会ポストを空席にしたままだ。政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」と結んでいる。

 なるほど民主党が憲法改正手続法により設置されたはずの憲法審査会の動きを前進させるようであるらしい(参院の審査会「規程」の制定に「応じる」らしい)ことは、好ましい変化なのかもしれない。

 だが、現在の国会の議席状況から見て、かりに万が一両院で憲法審査会での「議論」が始まったとしても、まともな憲法改正の方向に結実しないことは、ほぼ明らかではないのだろうか。

 民主党に「政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」と産経社説は書くが、厳密にいえば、ともかくもいかなる内容であれ憲法が改正されればよい、というものではないことは自明のことだろう。かりに万が一、政権与党が憲法改正に積極的になったとして、民主党と同様の見解の政党とともに出した結論が、現9条2項の削除ではなく、第一章・天皇条項の削除であったとしたら、社説子は歓迎するのか?

 現在の民主党政権のもとで、あるいは現在の議席配分状況からして、「戦後の絶対平和主義」から脱した、自主・自立の国家を成り立たせるための憲法改正(の発議)が不可能なことは、常識的にみてほぼ明らかではないか。

 産経新聞社説子がとりわけ現9条2項の削除・正規の「自衛軍」(防衛軍・国軍)の設置の明記を望んでいるならば、現与党による「憲法改正への主体的な取り組み」を求めても無駄だ。

 こんなことを理解していないとすれば、<能天気>であり、本当に思考力は<寝た>ままではなかろうか。

 自民党自体にいかほどに憲法改正(・現9条2項削除等)を目指す「意思」と「力」があるかは問題だ。しかし、民主党よりは「まだまし」だろう。

 喫緊の課題は、現与党・民主党に憲法改正への何らかの「期待」を寄せることではなく、民主党政権自体を「よりましな」内閣に変えることだ。それを抜きにして、望ましい方向での憲法審査会の「議論」がなされるとはとても思えない。
 産経社説は、寝惚けたことを書く前に、現内閣<打倒>をこそ正面から訴えるべきだ。

 <打倒>という表現でなくともむろんよい。<あらためて政権選択を!>とか、<政権選択のやり直しを!>とかくらいは主張したらどうか。

 と考えているところに、民主党には「政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」などと主張されたのでは、ガックリくる。

 近いことは、同じ11/03の田久保忠衛の「正論」についても言える。「憲法改正の狼煙上げる秋がきた」(タイトル)と叫ぶ?のはいいのだが、どのようにして憲法改正を実現するか、という道筋には全く言及していない。「狼煙」を上げて、そのあとどうするのか? 「憲法第9条を片手に平和を説いても日本を守れないことは護憲派にも分かっただろう」くらいのことは、誰にでも(?)書ける。
 問題は、いかにして、望ましい憲法改正を実現できる勢力をまずは国会内に作るかだ。産経新聞社説子もそうだが、そもそも両院の2/3以上の賛成がないと国民への憲法改正「発議」ができないことくらい、知っているだろう。

 いかにして2/3以上の<改憲>勢力を作るか。この問題に触れないで、ただ憲法改正を!とだけ訴えても、空しいだけだ。
 国会に2/3以上の<改憲>勢力を作るためには、まずは衆議院の民主党の圧倒的多数の現況を変えること、つまりは総選挙を早急に実施して<改憲>派議員を増やすべきではないのか?

 <保守>派の議論・主張の中には、<正しいことは言いました・書きました、しかし、残念ながら現実化しませんでした>になりそうなものも少なくないような気がする。いつかも書いたように、それでは、日本共産党が各選挙後にいつも言っていることと何ら違いはないのではないか。

0894/<日本>はその美しい自然と四季とともに残り続けるだろうか。

 1970年11月の自裁の際の三島由紀夫の檄文に書かれた日本の近未来の予測文章はよく知られている。
 西尾幹二は1996年に次のように書いたらしい(初出、サンサーラ1996年12月号)。
 「このままいけばおそらく日本は、……いぜんとしてアジアでもっと生活レベルは高く、ハイテク文明に彩られてはいるが、国家意志といったものをもったく持たない国、刹那的な個人主義だけが限りなく跋扈する虚栄の市場としての国になり果てるであろう。…―というような悪夢を心の中で抱くこと久しい。そうなっては困るのだが、しかし、そうなるのではないか、いや間違いなく相違ないという胸騒ぎのような心理を、私はここ数年、ずっと持ちつづけてきたのである」。
 「いぜんとしてアジアでもっと生活レベルは高く、ハイテク文明に彩られてはいる」のか否か、2010年の時点での将来予測としては疑問符もつくが、上のような懸念と「悪夢」はほとんど現実化してしまっているのではないか。
 西尾幹二の書くもの、それで解る西尾の考え方等を全面的に支持しはしないが、この人の時代感覚も(三島由紀夫と同様に?)鋭いと言えるかもしれない。
 私は近年、次のような「悪夢」を抱く、あるいは将来の日本列島の<惨状>を恐怖感とともに思い描くことがある。
 日本の山岳と田畑と海岸の美しい風景はまだ残っている。だが、かつてはどこでも見られたものが無くなってしまっている。
 神社のすべてが、大から小まで物理的に破壊され、消失した(神官・宮司等は当然に職を失った)。路傍の地蔵像や祠などもすべて無くなった。寺院も文化財としてのごく一部の有名(・観光)寺院の建造物を除いてすべて破壊され、消失した。京都・奈良・飛鳥のみならず、日本列島のすべての地域で、<かつての日本>的な神社仏閣は破壊された、無くなった。伊勢神宮も例外ではない。明治神宮も橿原神宮も熱田神宮等々も同じ。
 その時代には、当然に<天皇制度>は廃止され、<皇室>なるものはもはやない。日本国家・日本政府というものももはやない。某国の一州か自治領のようなものになっている。かりに日本「国家」が残っていても、某国との間に主たる仮想敵国をアメリカ合衆国とする安保条約が締結され、日本列島人も徴兵される軍隊の指揮権は当然に某国「人民軍」総司令官にある。
 その某国政府の命令または「勧告」だが実質的には強い要請にもとづいて、日本列島人は自らの手で、神社仏閣のほとんど(一部の遺跡扱いの寺院を除く)を壊したのだった。
 その時代、日本列島人は「何語」を話しているだろうか?。
 これが、立ち入らないが、平川祐弘・日本語は生き延びるか(河出ブックス、2010)の冒頭にある、戦慄を伴う問題設定だ。
 美しい列島、美しい四季は残り続けるかもしれない。だが、<鎮守の杜>が全てなくなって、路傍の祠がいっさいなくなって、さらには日本語が話されなくなるか、正規の言語ではない「方言」の一種と見なされるようになって、いったいどこに<日本>が残っているのだろうか。顔つきだけはかつての「日本人」によく似た日本列島人は残っているとしても。
 西尾幹二は冒頭引用の文章を含む論考を、「私は自分の未来を諦める気にはなれない。自分と自分の国の歴史を見捨てる気にはなれないのだ」、と結んでいる。
 1935年生まれで私よりも10歳余年上の西尾がこう書いているくらいだから「諦め」てはいけないだろう。だが、本音をいえば、西尾の上の言葉よりは私はペシミステイック(悲観的)だ。
 他国によるイデオロギー支配を伴う占領と、その時代に生み出された実質は他国産の1947年憲法がもつ「価値観」にもとづく教育、そして当該「価値観」の実質的な(<時流>としての)押しつけ(「憲法」教育を含む)の影響を拭い去ることは、もはやほとんど不可能なのではないか。
 週刊金曜日5/01号で憲法学者らしき斎藤笑美子(茨城大学)は、皇族の「市民」的平等を確保するには<天皇制廃止>か<皇族離脱の自由の承認>しかないとの自説を述べていた。
 週刊金曜日6/04号の日米安保特集には憲法学者・早稲田大学教授の水島朝穂が(相変わらず?執拗にも)「重大なのは日本が『攻める』危険性」と題する文章を載せている。
 現在書店に並んでいる週刊金曜日には、上杉某が、憲法改正手続法を利用して<天皇制廃止>のための改憲論を展開すべしとの文章を書いている筈だ。
 <天皇制廃止>のための憲法改正を<保守>派は断固阻止しなければならない。世論動向に応じて、日本共産党や社会民主党はこの問題を積極的に提起する可能性はあり、これまた世論を見極めつつ、朝日新聞は<天皇制廃止>の方向に誘導する可能性もある(もっとも、すでにそれは目立たないかたちで実施に移されていると観るのが正確だろう)。
 <ナショナルなもの>の忌避・否定は日本<国家>への反感・怨念にも由来する。日本<国家>と<天皇制度>はもともと不可分のものと考えられる。
 <天皇制度>の維持と雅子妃殿下うんぬんの議論とどちらが大切かは語るまでもない。
 日本<国家>と<天皇制度>を否定しようとし、そして<宗教>意識は自分にはないと考えているのが多数派と見られる日本人の意識を利用して<反神社(・神道)・反寺院(・日本的仏教)>の立場へも誘導しようとするだろう、「左翼」言論人等の活動家たちの策略・大きな顔をしての言動を弱体化させなければならない。
 そうしないと、上に書いたような私の「悪夢」は正夢に、つまり近い将来の現実になってしまうのではないか。
 6/04、西尾幹二・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010.06)のうち、第一部の「江沢民とビル・クリントンの対日攻撃…」(上に引用はこれの一部)、「トヨタ・バッシングの教訓」、「外国人地方参政権・世界全図」、第三部の「講演/GHQの思想的犯罪」、「『経済大国』といわれなくなったことについて」を読了。
 残りのほとんどは「激論ムック」か月刊正論で既読のような気がするが、あらためて読むかもしれない。

0891/朝日新聞は民主党・鳩山内閣の継続を願う。

 朝日新聞はふざけた新聞だ。精神衛生に悪いので継続的にウォッチはしていないが、たまに読むと<あゝやはり>と感じてしまう。
 古いが、5/03の社説は当然に憲法のことを扱っていた。だが、「広範な議会への町民参加」や市民の「参加と協働」を旗印にしているという北海道福島町や三鷹市について好意的に言及しながら、5/18に施行された(5/03の時点では施行予定の)憲法改正手続法についてはひとことの言及もない。そして、同法によって想定されている国会(各議院)の憲法審査会が「現在全く機能していない」(同日の一般記事)ことについても、ひとことの言及もない。
 このようにあえて言及しない、書かれていないことにこそ、朝日新聞の体質・本音がある。憲法改正論議が活発になってとくに9条2項が改廃されることは、戦後<平和・民主主義>路線になおもしがみついている朝日新聞にとっては都合が悪いわけだ。
 したがって、朝日新聞の読者には、憲法改正手続法施行の重要性や憲法審査会の機能不全の奇妙さが伝わらないような社説になっている。彼らから見れば当然の書きぶりなのだろうが、やはり卑劣な「活動家」集団だ。
 比較的最近の5/29社説も面白い。
 この社説も含めて、民主党や鳩山由紀夫首相に対する批判的な記事・コメントや社説も書いてはきている。だが、そのような民主党や鳩山由紀夫代表を支持して<政権交代>を煽った昨年前半の自分たちの紙面作りについての反省の気分は、もちろん示さない。
 5/29社説は最後にいう-「何より考えるべきなのは鳩山政権誕生の歴史的意義である。有権者が総選挙を通じ直接首相を代えたのは、日本近代政治史上初めてのことだ。/政治改革は政権交代のある政治を実現した。永久与党が短命政権をたらい回しする政治からの決別である。選ぶのも退場させるのも一義的には民意であり、選んだらしばらくはやらせてみるのが、政権交代時代の政治である。/歴史的事件から1年もたたない。政治的な未熟さの克服が急務とはいえ、旧時代の「政局」的視点から首相の進退を論じるのは惰性的な発想である。」
 第一に、「有権者が総選挙を通じ直接首相を代えたのは、日本近代政治史上初めてのこと」だなどと2009総選挙を<絶賛>するのはバカげているし、事実にも反する。「…初めて」ではない。これまでも総選挙または参院選挙の結果として当時の首相が<責任>をとり首相が<代わった>ことはある。
 自分たちの<政権交代>に向けての報道ぶりを自賛し、立派なことをしたと改めて思っておきたいのだろう。ここには、自らの報道姿勢に対する反省の気分はどこにもない。
 第二に、「旧時代の『政局』的視点から首相の進退を論じるのは惰性的な発想である」として、「首相の進退」論への言及を避け、かつ論じることを<封印>すべきとの主張をしている。
 ここには、民主党(中心)政権をなお擁護し、このままの継続を願っている朝日新聞の見解・主張が表明されている、と考えられる。
 支持率が20%程度になっている世論調査結果が続いていれば、自民党政権であるならば、朝日新聞は、<民意を問い直せ>、現在の新しい民意を確認するために<解散・総選挙を!>と社説で喚いていた可能性がある。
 <民意>を重視するはずの朝日新聞がなぜこういう主張の片鱗も示さず、「首相の進退」論への言及にすら消極的であるのは、自民党政権ではなく、現在が非・反自民党の民主党(中心)政権であるからに他ならないだろう。
 朝日新聞は「左翼」活動家集団らしく、巧妙に使い分けているのだ(ご都合主義、ダブル・スタンダード)。
 朝日新聞の<政略>はどうやらはっきりしている。世論の動向をふまえて現政権の具体的政策・行動を個別的には批判することがあっても、決して現在よりも<右寄り>・<保守的>方向へと基軸を移した政権に代わらせない、ということだ。
 民主党・鳩山政権を批判しつつも、そうかといって自民党への期待が増えているわけではない、というムードは、ある程度は、マスメディア自身が作ってきている。結果としてはずるずると民主党(中心)政権を継続させたい、というのが「左翼」政治団体・朝日新聞の本音だろう。
 三年前の参院選挙の前はどうだったか。ちょうど5-6月あたりは<消えた年金>でマスコミは大騒ぎをしていた。その問題があることはもっと以前から明らかになっていたにもかかわらず、集中的に朝日新聞等が取り上げるようになったのは5月くらいからだった。
 政治家・国会議員の<事務所経費>問題は、いったい何だったのだろう。<カネ>の問題ではあったが、近年に明らかになっている小沢一郎や鳩山由紀夫の<政治とカネ>の問題に比べれば、じつに瑣末な問題だった。にもかかわらず、マスコミは<なんとか還元水>問題と大騒ぎし、当時の安倍晋三内閣の閣僚・農水大臣は自殺までしてしまった。やはり<事務所経費>問題でターゲットにされた後継の農水大臣は顔の<ばんそうこう>をテレビのワイドショー等の話題にされ、虚仮(こけ)にされた。
 政治家・国会議員のあの当時の<事務所経費>問題は、刑事事件になっていたわけではなく、捜査の対象になっていたわけでもなく、「脱税」問題でもなく、せいぜい政治家の<倫理>程度の問題だった。現在の小沢一郎や鳩山由紀夫の<政治とカネ>の問題とは質的に異なる。
 なぜ三年前、朝日新聞等は<事務所経費>問題で大騒ぎしたのか。そして、なぜ、自民党が<大敗北>した参院選後は、<事務所経費>の話題はピタッと止まってしまったのか(そして現在でも関心は持たれていない)。
 言うまでもなく、朝日新聞等が参院選での自民党(・安倍内閣)の敗北・後退を企図して組んだ(一時的な)「政治的」キャンペーンだったからだ。
 朝日新聞は現政権を批判するかもしれないが、<こうすれば支持は回復するよ>的な、民主党・鳩山由紀夫に好意的な「アドヴァイス」としての「批判」も多分に含まれている。
 再び5/29社説に戻れば、「選んだらしばらくはやらせてみるのが、政権交代時代の政治である。/歴史的事件から1年もたたない。…旧時代の『政局』的視点から首相の進退を論じるのは惰性的な発想である」とは、よくも言えたものだ。
 「選んだらしばらくはやらせてみるのが、政権交代時代の政治である」。この「しばらく」は最低でも一年間くらいは意味していそうだ。かりに将来、非・反民主党の新政権が誕生したときには、朝日新聞のこの文章を、きちんと思い出す必要がある。
 また、「『政局』的視点から首相の進退を論じ」てきたのはかつての朝日新聞こそではないか。自己批判もなく、よくもしゃあしゃあと、と呆れてしまう。
 朝日新聞の基本的路線が現実化するようでは、<日本>と日本国民のためにはならない。
 追記-①「仕分け人」民主党・蓮舫の<事務所経費>問題を週刊誌が昨年末か今年初めにとり挙げたことたがあった。その後、この問題はなぜ話題にならなかったのだろう。
 ②鳩山由紀夫から政治活動費(・選挙運動費)として<カネ>をもらったとの証言があり、出所は母親から提供された潤沢な資金の一部だと想定されたが、なぜマスメディアはその後この問題を追及しなかったのだろう。
 新党さきがけの結成やその後の民主党の結成に際して<鳩山資金>が重要な役割を果たし、そのことによってこそ鳩山由紀夫が要職に就けたということは、ほとんど<常識>的な想定なのではないか。
 当然に鳩山は出所を知っていたし、何に使ったかも(厳密な詳細まではともかくとしても)知っていたと思われる。なぜマスメディアはその後この問題を追及し続けないのだろう。
 <やましい金ではないし、やましい目的のために使ったわけでもない>旨の鳩山由紀夫の釈明は、ウソだと推測される。
 ③中井(ハマグリ?)国家公安委員会委員長の議員宿舎キー渡し問題は、国家の「公安」にかかわる。私的な問題に過剰に立ち入る必要はないとしても、この問題はもっと大きく<騒がれて>よく、中井の大臣としての資質・資格にかかわる問題だったと思われる。
 自民党内閣の閣僚であるならば、朝日新聞と同社グループの写真誌等は連日の如く取り上げ<大騒ぎ>をし、場合によっては、クビが飛んでいたのではないか。
 なぜ、マスメディアはその後この問題を追及し続けなかったのだろう。
 何も調べずに頭に浮かんだだけでも上の三つがある。
 私に言わせれば、マスメディアの民主党・鳩山内閣・鳩山由紀夫に対する態度は、まだまだひどく<甘い>。そこに<戦後体制>の維持という「政治的」意図が隠されていることを、多くの国民は知らなければならない。

0886/西部邁には「現実遊離」傾向はないか①。

 1970年の三島由紀夫の自決の際の<檄文>が憲法と自衛隊に触れていることから、隔月刊・表現者29号(ジョルダン、2010.03)の「憂国忌・記念シンポジウム/現代に蘇る三島由紀夫」によると、西部邁は憲法や法律について、つぎのように発言している(p.272)。<檄文>への言及部分は省く。
 ①憲法と自衛隊は本来は「二者択一」。
 ②「元来、憲法なんてアメリカ人が書いた草案」で、日本側が拙速で翻訳して日本の「帝国議会」で「認められただけの存在」だ。
 ③「成文憲法」を書き「その憲法の条文に従って」行動するというのは「変な」のだ。「憲法に合うように自分の存在を変える」、これ自体を「歴史感覚をもった国民ならば」「とんでもないと思うべき」。「特定の人物」の「適当な興味による文章ごとき」に「国家のあり方とか人格のあり方まで左右される」こと自体が「非常に近代主義的な誤謬」だ。「あんな成文憲法は…あってもいいけれども」、「本来ならば自分たちの歴史の…良識なり常識として」「国防なり軍隊」をどう「作るかが決定的に大事だ」。
 ④「法律は大事」だが、その前に「常識」がある。それをもたらすのは「日本の歴史その他」で、この方が「遙かに大事」だ。
 ⑤「今の日本人」は「尚かつ憲法というものに依存」しているが、「そんなもの日本の歴史と無関係」。「歴史」の方が「人間精神、意識として決定的に大事」。「どんな憲法の条文」があろうが、「そんなことは二の次三の次」ということを「今の日本人は全く分からずにいる」。
 さて、西部邁はいったい何を言いたいのか?
 上の①・②はよい。あとは「憲法」の部分を1947年施行の<日本国憲法>ときちんと読み替えると趣旨・気分は理解できそうだ。
 だが、いかに現憲法に対する嫌悪感・拒否感情が強くとも(私も多分に同感だ)、現憲法やその下位の法律よりも「日本の歴史」の方が重要だ、という旨の部分は、一種の<憲法・法ニヒリズム>につながるところがあるようで、脆いところがあると感じる。
 上の③のように、「憲法の条文に従って」行動するというのは「変な」のだ、「憲法に合うように自分の存在を変える」、これ自体を「歴史感覚をもった国民ならば」「とんでもないと思うべき」だ、と西部邁が言ってみたところで、現実の日本の政治・社会(・人々の行動)は現憲法によって方向づけられ、制約されてきたことは疑いえない。
 いかに現憲法の生誕の奇異さを指摘し、その内容の日本の歴史と無関係の「近代主義」性を強調しても、現憲法施行後は現憲法の定めにのっとり、加えて国会法等の法律に従って両議院の議決によって「法律」は制定されてきた。同じく加えて公職選挙法等の法律に従って両議院の議員は選出されてきた。そして現憲法に従って、小泉内閣も鳩山由紀夫内閣も生まれてきた、という現実を否定することはできない。
 そのような意味で、西部邁が渡部昇一のように現憲法「無効」論を主張しているのかどうかは知らないが、西部邁にはいくぶんは<現実遊離>の趨きがある。
 西部邁自身が憲法改正に関する提言類を執筆しているように、現実的に力を持ちうるのは、<憲法よりも歴史が大事、憲法は「二の次三の次」>といった主張ではなく、「日本の歴史」を組み込んだ新憲法を作ること=憲法を改正すること、そのための主張・提言・議論をすることに他ならないだろう。
 西部邁は「法律」にも言及して「日本の歴史その他」がもたらす「常識」の方が「遙かに大事」だとも語る。気分は分かるが、しかし、例えば―あくまで一例だが―、「法律」が定めるべき、両議院議員の選出方法(定数配分等を含む)、消費税率、社会的福祉的給付の具体的内容は、「日本の歴史その他」がもたらす「常識」によってどのように明らかになるのか、具体的な例を示していただきたい。
 国有財産の管理方法、道路管理の仕方や道路交通の諸規制、あるいは各種「公共」事業の実施を国・地方公共団体・独立行政法人・その他の<外郭団体>・「公益法人」・<ほとんど純粋な民間セクター>にどう配分するのか等々は、「日本の歴史その他」がもたらす「常識」によって、どのように、どの程度、明らかになるのか?
 現実に多数ある政策課題(そして、どのような内容の法律にするかという諸問題)を前にしてみれば、「法律」よりも「日本の歴史その他」がもたらす「常識」の方が「遙かに大事」だ、という見解を述べたところで、ほとんど<寝言に等しい>
 実際にも、憲法改正をめぐって、あるいは諸法律案をめぐって(公務員制度改革、高速道路の料金の決め方、外国人選挙権、夫婦別姓等々々)<政治的>闘いが繰り広げられているようだ。
 そのような「憲法」や「法律」の具体的内容に関する諸運動に対して、西部邁の上のような発言は、<水をぶっかける>こととなる可能性が全くないとは思われない。
 もともと「憲法」(一般)・「法律」と道徳(規範)や歴史とは決して無関係ではない。あえてこれらの違いを強調することの意図はいったい奈辺にあるのだろう。
 このシンポジウムの司会者・富岡幸一郎は三島由紀夫の<檄文>が提起した一つは「憲法改正の問題」だと明確にかつ正当に述べている(p.270)。
 したがって、「憲法改正」の具体的内容・戦術が語られてもよかったのだが、西部邁は「成文憲法」・日本国憲法なんて「二の次三の次」だ、「大事」なのは「日本の歴史」だなどと発言して、論点をズラしてしまっている。こんな西部の議論を、憲法(とくに現9条2項)護持論者はきっと喜ぶだろう。

0880/朝日新聞5/3の憲法に関する世論調査結果報道。

 一 憲法記念日、5/3の朝日新聞。一面左上に、「憲法について朝日新聞社が実施した全国世論調査」の結果の要点が載っている。
 付されている見出しで最大のものは「9条改正67%反対」、続いて「『平和に役立つ』7割」。
 この見出しの付け方は、世論調査の結果のうち朝日新聞にとって好ましい部分を特記している。これらの見出しの内容自体が調査結果から逸脱しているのではなさそうだ。だが、これらを選ぶこと自体が、朝日新聞の<体質>を表している。一面記事の署名は、「石原宗幸」。「左翼」心情者あるいは九条護憲教の信者なのだろう。
 二 3面に正確な諸データが載っている。
 1.一面に最小の活字で書いてはいるが、<憲法全体についての改正の要否>の問いについては、改正の「必要がある」47%、「必要はない」39%。朝日新聞はこの数字は軽視したいようだ。
 改正必要・改正不要の理由の問いもあり、改憲派の「15%」が「9条に問題があるから」、10%が「自分たちで新しい憲法を作りたいから」。一方、護憲派の「33%」が「9条が変えられるおそれがあるから」。
 これによると、9条護持を理由としての改正不要(護憲)派は、39%×33%で約13%。一方、9条を問題視しての改正必要(改憲)派は47%×15%で約7%になる。これに「自分たちで新しい憲法を作りたいから」も加えると、47%×25%で約12%だ。
 朝日新聞が報道したい見出しからする印象よりも、9条にかかわる憲法改正問題の世論調査において、改正必要(改憲)派はかなり頑張っている(なお多く存在している)と評すべきではなかろうか。
 9条護持のための護憲派13%に対して、9条を問題視する改憲派は7%、「自主」憲法作りを理由とする改憲派をも含めると12%になる。ほぼ拮抗している、とも言える。
 2.「9条改正67%反対」という見出しの根拠になっている数字が出ている問いの文章は、「憲法は9条で『戦争を放棄し、戦力は持たない』と定めています。憲法9条を変える方がよいと思いますか。変えない方がよいと思いますか」。回答は前者24%、後者が(見出しになっている)67%。
 この数字もなお24%というほぼ1/4が9条改正賛成であることを示しており、かなり明確な9条改憲「潮流」はあることを示している、とも読めるだろう。
 上のことよりも気になるのは、朝日新聞の質問が、「憲法は9条で『戦争を放棄し、戦力は持たない』と定めています」という文のようであることだ。戦争についての侵略戦争と防衛(自衛)戦争の区別はなく、9条1項と2項の意味の違いも何ら説明もしていない。
 細かいことを言っても読者(素人)は分からないとバカにしているのかもしれないが、こんな質問文が通用しているがゆえにこそ、9条の1項と2項の意味の違いを知らずに、たんに9条全体が「『戦争を放棄し、戦力は持たない』と定めて」いる、というだけの理解が大多数国民に蔓延しているのだと思われる。
 3.つぎの質問に対する回答結果はかなり興味深い。質問は「いまの憲法9条は、これからの日本の平和や東アジアの安定に、どの程度役立つと思いますか」。回答は、「大いに」16%、「ある程度」54%、「あまり役立たない」19%、「まったく役立たない」3%。
 9条の<平和>貢献度につき、計22%が「あまり」または「まったく」役立たないとしていることも興味深い。ほぼ5人か4人に一人が<クール>に見ている。
 より興味深いのは、一面見出しには「『平和に役立つ』7割」と謳っているにもかかわらず、そのうち「大いに」は16%にすぎないことだ(「ある程度」も含めて「7割」になる)。
 ギリギリ捏造見出しにはならないだろうが、それはともかく、「これからの」ではあれ「日本の平和や東アジアの安定」に9条が「大いに役立つ」とするのは16%にすぎない
 社民党は全体として、共産党や同党員の少なくとも一部は、<9条があったからこそ、日本の平和は守られてきた>と理解し、主張してきたはずだ。この主張・見解をそのままに支持している者は16%程度しか存在しない、ということを意味しているように思われる。国民はけっこうリアルに判断し、感じているのではないか。むろん、こんなことを、朝日新聞は指摘したり、強調したりはしていない。さすがに、「左翼」朝日新聞。
 朝日新聞5/3の記事についてはまだ書きたいことがあるが、別の機会にする。

0874/「九条を考える」、「九条実現」運動の欺瞞。

 憲法記念日、読売新聞5/3に、「市民意見広告運動事務局」による、「9条・25条実現」、「基地はいらない」、「核の傘もいらない」等と大書した一面広告が掲載されている。7613の氏名・団体名も小さく載っているらしい。
 その団体名の中には「〇〇9条を考える会」という、実質的には日本共産党系の運動になっている地域グループの名もある。
 「9条を考える」会運動が文字通りの「考える」ではなく「護持する」(憲法改正により削除させない)運動であることは疑いえない。
 上のことを前提にいうと、「九条を考える」、「九条実現」運動には大きな欺瞞がある。
 上に言及の新聞広告には日本国憲法現9条の1項と2項の全文も掲載されているが、いわゆる<改憲>論者のほとんどが主張している9条の改正の対象の中には、9条1項は含まれていない。
 代表的には自民党の憲法改正案があるが、その案では現憲法9条のうちその1項はそのまま維持することとしている。そして、2項を削除し、新たに「9条の2」を挿入して「自衛軍」の設立等を定めることとしている。
 上のことは、現憲法9条1項にいう「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争」等は所謂<侵略>戦争等のことを意味し、9条1項(だけ)では<自衛(防衛)>「戦争」等は「放棄」されていない、という現在の憲法学界の通説および政府解釈でも採用されている理解の仕方を前提としている。
 私もそうだが、9条を改正しようとする主張・運動は、決して9条1項(の少なくとも基本的趣旨)までをも削除・否定しようとはしていないのだ。
 しかるに、「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争」等は所謂<侵略>のためのそれ(のみ)を意味する、という知識をもたず、ごく通俗的に9条1項の文言を読んで、すべての「戦争」がこの条項によって「放棄」・否定されていると理解している国民が多すぎるのではないか。だいぶ以前に触れたが、「左翼」のアイドル(?)吉永小百合もこのような誤解をしたままで、岩波ブックレットに一文を書いている。

 ちなみに、上のことを意識してだろう、西田昌司=佐伯啓思=西部邁・保守誕生(ジョルダン、2010.03)の巻末の西部邁起草「自由民主党への建白書(要項)」(p.197~)の中の「D・憲法改正の要項」には、「第9条第一項」につき、「①『国際紛争を解決する手段として』の戦争とは『侵略戦争のことである』と明記する必要があることに加えて、……」との文章がある(p.229-230)。
 これにも見られるように、西部邁もまた現9条1項の削除を主張しておらず、意味の明確化と追加(「国民の国防義務」等。今回はこれ以上言及しない)を主張しているのであり、要するに、現9条の全体を削除すること=9条の(1項・2項の)全面改正を主張しているのではない。

 だが、なぜか、「九条の会」呼びかけ人の中には憲法学者・奥平康弘もいるにもかかわらず、9条全体ではなく、そのうちの現9条2項の維持か改正(削除を含む)かが決定的に重要な争点であることが曖昧にされている。
 彼らの運動のスローガンは「九条を考える」、「九条実現」ではなく、「九条2項を考える」、「九条2項実現」でなければならない筈なのだ。
 このように明瞭にすることなく、現九条1項(の基本的趣旨)もまた改正・否定されようとしていると理解して(または理解させて)運動をするのは、その名前またはスローガン自体のうちに欺瞞が含まれている。

 <ウソ、ウソ、ウソ>-「左翼」の中に隠れているコミュニスト(日本共産党々員たちが代表)は、目的のためならばいかなる策謀も瞞着も厭わない者たちであることを、肝に銘じておく必要がある。

0835/資料・史料-2005.11.22自由民主党の基本方針。

 資料・史料-2005.11.22自由民主党の基本方針 

  ● 新理念
 平成17年11月22日
 ・わが党は、すべての人々の人格の尊厳と基本的人権を尊重する、真の自由主義・民主主義の政党である。
 ・わが党は、自国の安全はみずからが守るという、気概と使命感をもち、正義と秩序を基に世界平和を希求し、その実現に貢献する政党である。
 ・わが党は、貧困・疾病・環境など人類が直面する課題の改善に貢献し、地球規模の共生をめざす政党である。
 ・わが党は、常に長期的・国際的視点に立ち、日本の方向を定め、改革を断行し、また、直面する課題に対しても安易な迎合に堕することなく、強い責任感と実行力をもって対処する責任政党である。
 ・わが党は、先人達が築き上げてきた日本の伝統と文化を尊び、これらを大切にし、その発展をめざす政党である。
 ・わが党は、政治は国民のものとの信念のもとに、都市・地方の幅広い支持のうえに立つ国民政党である。
 
  ● 新綱領
 平成17年11月22日
 ・新しい憲法の制定を
 私たちは近い将来、自立した国民意識のもとで新しい憲法が制定されるよう、国民合意の形成に努めます。そのため、党内外の実質的論議が進展するよう努めます。

 ・高い志をもった日本人を
 私たちは、国民一人ひとりが、人間としての普遍的規範を身につけ、社会の基本となる家族の絆を大切に、国を愛し地域を愛し、共に支え合うという強い自覚が共有できるよう努めます。そのために教育基本法を改正するとともに、教育に対して惜しみなく資源を配分し、日本人に生まれたことに誇りがもてる、国際感覚豊かな志高い日本人を育む教育をめざします。

 ・小さな政府を
 私たちは、国、地方を通じて行財政改革を政治の責任で徹底的に進め、簡省を旨とし、行政の肥大化を防ぎ、効率的な、透明性の高い、信頼される行政をめざします。また、国、地方の適切な責任分担のもとで、地方の特色を活かす地方分権を推進します。

 ・持続可能な社会保障制度の確立を
 私たちは、思い切った少子化対策を進め、出生率の向上を図り、国民が安心できる、持続可能な社会保障制度を確立します。

 ・世界一、安心・安全な社会を
 私たちは、近年の犯罪の急増やテロの危険性の高まりに対し、断固たる決意をもって闘うとともに、災害に強い国づくりを進めることにより、日本を世界一、安心・安全な社会にします。

 ・食糧・エネルギーの安定的確保を
 私たちは、世界の急速な変化に対応するため、食糧とエネルギー資源を確保し、経済や国民生活の安定に努めます。特に、食糧の自給率の向上に努めるとともに、食の安全を確保します。

 ・知と技で国際競争力の強化を
 私たちは、わが国の質の高い人的資源と技術力を基礎に、新しい産業の育成にも力を注ぎ、国際競争を勝ち抜くことのできる、活力と創造力あふれる経済の建設をめざします。
特に、日本の中小企業の活力を重視し、また、最先端技術の基礎的、独創的な研究開発を推進し、知と技によって支えられる科学技術立国をめざします。

 ・循環型社会の構築を
 私たちは、自然も人も一体という思いから、地球規模の自然環境を大切にし、世界の中で最も進んだ持続可能な循環型社会の構築をめざします。

 ・男女がともに支え合う社会を
 私たちは、女性があらゆる分野に積極的に参画し、男女がお互いの特性を認めつつ、責任を共有する「男女がともに支え合う社会」をめざします。

 ・生きがいとうるおいのある生活を
 私たちは、ボランティア活動や身近なスポーツ・芸術の振興、高齢者や障害者の社会参加を促進し、生きがいとうるおいのある生活をめざします。そのため、NGO・NPO諸団体をはじめ、あらゆる団体との交流を深め、また、まじめに働く人たちの声を大切にします。
 
  ● 立党50年宣言
 平成17年11月22日
 わが党は民主主義のもとに、平和と自由を愛する国民政党として立党以来、ここに50年の歳月を刻んだ。この50年間、我々は国民の負託に応え、情理を尽くして幾多の問題を克服し、国家の安全と経済的豊かさを実現すべく、つねに主導的役割を果たしてきた。

 この半世紀は、わが国が国際化の道を歩んできた時代でもある。
 また、冷戦が終焉し、世界が大きく変動した時代でもある。
 わが国は、いまや少子高齢化、国際テロリズムの激化への対応など多くの課題をかかえている。

 我々は先人が明治の改革、戦後の改革に大胆に取り組んできたように、新しい党の理念と綱領に基づき、構造改革、行財政改革、党改革などの諸改革を進めていかなければならない。

 我々はわが国の歴史と伝統と文化を尊び、その是をとって非を除き、道徳の高揚につとめ、国際社会の責任ある一員として積極的に活動する国家の実現を国民に約束する。

 右、宣言する。
 ----------------------
 
<出所-自民党HP。下線は掲載者>

0833/資料・史料-1955.11.15自由民主党/立党宣言・綱領等②。

 資料・史料-1955.11.15自由民主党/立党宣言・綱領等②

 
D 党の使命
 昭和三十年十一月十五日
 世界の情勢を考え、国民の現状を省み、静かに祖国の前途を思うに、まことに憂慮にたえぬものがあり、今こそ、強力な政治による国政一新の急務を痛感する。
 原子科学の急速な進歩は、一面において戦争回避の努力に拍車を加え、この大勢は、国際共産勢力の戦術転換を余儀なくさせたが、その終局の目標たる世界制圧政策には毫も後退なく、特にわが国に対する浸透工作は、社会主義勢力をも含めた広範な反米統一戦線の結成を目ざし、いよいよ巧妙となりつつある。
 国内の現状を見るに、祖国愛と自主独立の精神は失われ、政治は昏迷を続け、経済は自立になお遠く、民生は不安の域を脱せず、独立体制は未だ十分整わず、加えて独裁を目ざす階級闘争は益々熾烈となりつつある。
 思うに、ここに至った一半の原因は、敗戦の初期の占領政策の過誤にある。占領下強調された民主主義、自由主義は新しい日本の指導理念として尊重し擁護すべきであるが、初期の占領政策の方向が、主としてわが国の弱体化に置かれていたため、憲法を始め教育制度その他の諸制度の改革に当り、不当に国家観念と愛国心を抑圧し、また国権を過度に分裂弱化させたものが少なくない。この間隙が新たなる国際情勢の変化と相まち、共産主義及び階級社会主義勢力の乗ずるところとなり、その急激な台頭を許すに至ったのである。
 他面、政党及び政治家の感情的対立抗争、党略と迎合と集団圧力による政治、綱紀紊乱等の諸弊が国家の大計遂行を困難ならしめ、経済の自立繁栄を阻害したこともまた反省されねばならぬ。
 この国運の危機を克服し、祖国の自由と独立と繁栄を永遠に保障するためには、正しい民主主義と自由を擁護し、真に祖国の復興を祈願する各政党、政治家が、深く自らの過去を反省し、小異を捨てて大同につき、国民の信頼と協力の基盤の上に、強力な新党を結成して政局を安定させ、国家百年の大計を周密に画策して、これを果断に実行する以外に途はない。
 わが党は、自由、人権、民主主義、議会政治の擁護を根本の理念とし、独裁を企図する共産主義勢力、階級社会主義勢力と徹底的に闘うとともに、秩序と伝統の中につねに進歩を求め、反省を怠らず、公明なる責任政治を確立し、内には国家の興隆と国民の福祉を増進し、外にはアジアの繁栄と世界の平和に貢献し、もって国民の信頼を繋ぎ得る道義的な国民政党たることを信念とする。而して、現下政治の通弊たる陳情や集団圧力に迎合する政治、官僚の政治支配、政治倫理の低下の傾向等を果敢に是正し、国家と国民全体の利益のために、庶政を一新する革新的な実行力ある政党たることを念願するものである。
 わが党は右の理念と立場に立って、国民大衆と相携え、第一、国民道義の確立と教育の改革 第二、政官界の刷新 第三、経済自立の達成 第四、福祉社会の建設 第五、平和外交の積極的展開 第六、現行憲法の自主的改正を始めとする独立体制の整備を強力に実行し、もって、国民の負託に応えんとするものである。

 E 党の政綱
 昭和三十年十一月十五日
 一、 国民道義の確立と教育の改革
 正しい民主主義と祖国愛を高揚する国民道義を確立するため、現行教育制度を改革するとともに教育の政治的中立を徹底し、また育英制度を拡充し、青年教育を強化する。
 体育を奨励し、芸術を育成し、娯楽の健全化をはかって、国民情操の純化向上につとめる。 
 ニ、 政官界の刷新
 国会及び政党の運営を刷新し、選挙制度、公務員制度の改正を断行して、官紀綱紀の粛正をはかり、政官界の積弊を一掃する。
 中央、地方を通じ、責任行政体制を確立して過度の責任分散の弊を改めるとともに、行財政の簡素能率化をはかり、地方自治制度の改革を行う。
 三、 経済自立の達成
 通貨価値の安定と国際収支の均衡の上に立つ経済の自立繁栄と完全雇用の達成をはかる。
 これがため、年次計画による経済自立総合政策を樹立し、資金の調整、生産の合理化、貿易の増進、失業対策、労働生産性の向上等に亘り必要な措置を講じ、また資本の蓄積を画期的に増強するとともに、これら施策の実行につき、特に国民の理解と協力を求める。
 農林漁業の経営安定、中小企業の振興を強力に推進し、北海道その他未開発地域の開発に積極的な対策を講じる。
 国際労働憲章、国際労働規約の原則に従い健全な労働組合運動を育成強化して労使協力体制を確立するとともに、一部労働運動の破壊的政治偏向はこれを是正する。
 原子力の平和利用を中軸とする産業構造の変革に備え、科学技術の振興に特段の措置を講じる。
 四、 福祉社会の建設
 医療制度、年金制度、救貧制度、母子福祉制度を刷新して社会保障施策を総合整備するとともに、家族計画の助長、家庭生活の近代化、住宅問題の解決等生活環境を改善向上し、もって社会正義に立脚した福祉社会を建設する。
 五、 平和外交の積極的展開
 外交の基調を自由民主主義諸国との協力提携に置いて、国際連合への加入を促進するとともに、未締約国との国交回復、特にアジア諸国との善隣友好と賠償問題の早期解決をはかる。
 固有領土の返還及び抑留者の釈放を要求し、また海外移住の自由、公海漁業の自由、原水爆の禁止を世界に訴える。
 六、 独立体制の整備
 平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う。
 世界の平和と国家の独立及び国民の自由を保護するため、集団安全保障体制の下、国力と国情に相応した自衛軍備を整え、駐留外国軍隊の撤退に備える
 <D、Eの符号を除き、出所-自民党HP。下線は掲載者。了>

0825/三島由紀夫「文化防衛論」の一部。

 三島由紀夫「文化防衛論」の末尾(最後の一段落)は、つぎのような文章だ。「昭四三、五、五」という執筆年月日が一番最後にある。
 「私がかういうことを言ふのは、東南アジア旅行で、……、共産主義の分極化と土着化の甚だしい実例を見聞してゐるからである。時運の赴くところ、象徴天皇制を圧倒的多数を以て支持する国民が、同時に、容共政権の成立を容認するかもしれない。そのときは、代表制民主主義を通じて平和裡に、『天皇制下の共産政体』さへ成立しかねないのである。およそ言論の自由の反対概念である共産政権乃至容共政権が、文化の連続性を破壊し、全体性を毀損することは、今さら言ふまでもないが、文化概念としての天皇はこれと共に崩壊して、もつとも狡猾な政治的象徴として利用されるか、あるひは利用されたのちに捨てられるか、その運命は決つてゐる。このやうな事態を防ぐためには、天皇と軍隊を栄誉の絆ーでつないでおくことが急務なのであり、又、そのほかに確実な防止策はない。もちろん、かうした栄誉大権的内容の復活は、政治的概念としての天皇をではなく、文化概念としての天皇の復活を促すものでなくてはならぬ。文化の全体性を代表するこのやうな天皇のみが窮極の価値自体だからであり、天皇が否定され、あるひは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の真の危機だからである。/―昭四三、五、五―」
 (初出-中央公論昭和43年7月号。決定版三島由紀夫全集第35巻p.50-51(新潮社、2003))
 <文化概念としての天皇>なる概念に拘るつもりはない。 
 「象徴天皇制を圧倒的多数を以て支持する国民が、同時に、容共政権の成立を容認するかもしれない。そのときは、代表制民主主義を通じて平和裡に、『天皇制下の共産政体』さへ成立しかねない」、という41年前の三島の懸念と予想は現実化しつつあるのではないか。三島の鋭さと今現実にある虞れを、ともに強く感じる(なお、現在の「国民」が「圧倒的多数を以て」「象徴天皇制を支持」していると考えるのは、甘い認識である可能性もある)。
 「〔文化概念としての〕天皇が否定され、あるひは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の真の危機だ」、という指摘も適確だと思われる。皇太子妃バッシングに耽り、「小和田王朝」うんぬんと能天気なことを話題にする前に、「天皇」(制度)、そして「日本」の危機こそが深刻に意識されなければならないのではないか。雅子妃殿下こそが「天皇」(制度)と「日本」の危機の一因だなどと喧伝するのは狂気の所業だ。また、皇太子妃の「公務」なるものを平気で語る知識人(らしき者)がいるのにも驚いている。
 「〔文化概念としての天皇が崩壊して、〕もつとも狡猾な政治的象徴として利用されるか、あるひは利用されたのちに捨てられるか、その運命は決つてゐる」、という指摘も-怖ろしくも-当たっていると思われる。
 
<容共>政権のもとで、米国よりも中国(中国共産党)を選好するような政策が選択されれば、その行き着くところは、<容共>政策のために「利用される」かぎりでの(中国共産党にとって少なくとも邪魔にならない)「天皇」(制度)が残るか、現憲法上の「天皇」条項が国会議員の2/3以上の発議によって国民投票にもとづき削除されるか、ではないか。
 この懸念・憂慮は、まっくの杞憂だとは思えない。心ある日本国民は、現実を深刻に受けとめる必要がある。

0803/鳩山由紀夫の過去の発言-8/17阿比留瑠比ブログによる。

 本イザ・ブログの産経・阿比留瑠比の8/17のエントリーに、民主党代表・鳩山由紀夫の過去の発言のいくつかが紹介されている。
 この人物が九月には次代の内閣総理大臣の国会で指名されるのだろうか。以下に阿比留の紹介そのままに再引用させていただく。再確認をして又は最近の言辞と比較等をして、面白く、また恐ろしい。
 この人は総理大臣を辞したら議員(政治)から身を引く旨をすでに!!述べて、自らの<老後>のこともすでに考えている。戦後<個人主義>者の徴し。
 ①「選挙に言動を左右されない志を持った政治家の集団を生み出すことが日本の未来を導く可能性をもたらすのである。常に選挙を念頭に行動し、世話になっている団体に頭が上がらず、本音が言えない政治家を政治家と呼ぶべきではない」(平成8年1月16日付朝日、新党さきがけ代表幹事、「論壇」欄に寄稿して)

 ②「あまり苦労知らずに今日まで政治の世界にいて、無理をしてきてない。それだけ市民の発想に近いところに身を置くことができるんじゃないか。政治家は 目指して苦労を重ねていると、例えば、金銭的に危ない橋を渡らないといけない。しかも一度得たバッジは絶対失いたくないということで、わりと国民に迎合的な政策しか打ち出せなくなる恐れがある」(平成8年5月3日付読売、新党さきがけ代表幹事、世襲議員のメリットについて)
 ③ 「日本と北朝鮮は体制が違うことを前提に相互理解を深めるべきです。北朝鮮へのコメ支援でも、隣国として支援の手を差し伸べれば、わだかまりを減らすことができます。ただ、こういう発想をすると北朝鮮ロビーと思われる日本の風土があります」(平成8年7月18日付日経、新党さきがけ代表幹事、インタビュー)
 ④「大変強いリーダーシップを持たれるときもあったが、逆に自分の主張を遂げるために民主主義の基本的原則を超越、無視してきた部分があって信奉者が離れていった」(平成10年4月11日付産経、「旧」民主党幹事長、自由党の小沢一郎党首に対する評価で)
 ⑤「私は創価学会さんのヒューマニズムを追求する姿勢は非常に大事だと思っております。我々と公明党さんとの距離が一番近いぞ、ということを選挙で示すことはできるだろうと思っていますし、(公明党との)連立政権のところまで導くことが必要だ」(平成11年1月22日付毎日、民主党幹事長代理、公明党との選挙協力に関して)
 ⑥「結局、小沢氏が五年前に自民党を飛び出したのは、派閥内や自民党内の権力闘争に敗れて飛び出しただけで、国民にそれを悟らせないために『政治改革』の旗を掲げていただけ--としかいいようがありません」(平成11年2月25日付夕刊フジ、民主党幹事長代理、自身のコラム「永田町オフレコメール」で)
 ⑦「日本としては日米韓の安全保障体制を基軸としながら、韓国の太陽政策の線で協力すべきだと思います。現在、日本と北朝鮮の間で交渉のテーブルがないことがお互いを疑心暗鬼にしています。確かに、わが国は拉致疑惑といった特殊事情を抱えていますが、真っ先に拉致疑惑を持ち出せば交渉は成立しません。まず、何の前提もなく協議の場を設けるべき」(平成11年3月11日付夕刊フジ、民主党幹事長代理、コラム「永田町オフレコメール」で)
 ⑧「『対話と抑止』より韓国の包容政策(太陽政策)のような方向にすべきです。拉致疑惑や不審船事件があると日本は硬化しがちだが、冷静に対話の道を切り開くことが大切」(平成11年4月25日付朝日、民主党幹事長代理、インタビュー)
 ⑨「私は核武装は絶対反対ですが、国会でそういう議論があってもいいと思うのです」(平成11年10月28日付夕刊フジ、民主党代表、コラム「永田町オフレコメール」で)
 ⑩「東北選出のある議員が、知事にかけ合って地元の有料道路を無料化させたのに、喜ばれたのは二日間だけで『どうせ税金から出すんでしょ。それなら使う人だけ払った方がいい』と批判されている」(平成12年1月6日付夕刊フジ、民主党代表、小泉元厚相との対談で)
 ⑪「(ドイツと比べて歴史の総括が不十分だったことが)今でも日本への信頼を勝ち得ていないことを事実として認めたい。もし、首相となる機会に恵まれれば、歴史認識の問題は皆さんの前でしっかり話す」(平成12年12月14日付産経、民主党代表、北京市内の中国人民大学で講演して)
 ⑫「偏狭なナショナリズムに基づくような教科書が日本の子供たちに影響を与えないよう努力していきたい」(平成13年5月4日付産経、民主党代表、韓国の金大中大統領との会談で扶桑社のの教科書の不採択を働きかける考えを伝えて)
 ⑬「私は、憲法や安全保障といった最も基本的なテーマについてマニフェストが機能していないのが最大の問題だと思っている」(平成15年9月4日付毎日夕刊、民主党前代表、インタビューで)
 ⑭「政権交代に向けて次期衆院選に憲法改正を掲げて挑むべきだ。政権党が当然やるべき改憲を自民党に先駆けて実現させるという意欲が必要だ」(平成15年9月12日付産経、民主党前代表、インタビューで)

0802/憲法改正による天皇制度廃止を可能にする議席を民主党等に与えてよいのか。

 民主党300-320?、自民党100-140?。こうした予想を見ていると、民主党(中心)政権の与党は320という、衆院議席の2/3を超えそうだ。
 来年の参院選でも与党側(民主党ら)が勝利してしばらくは衆議院議員選挙がないとすると、大いに危惧されるのは、憲法改正による「天皇」条項の削除、すなわち、公的又は憲法秩序としての<天皇制度>の廃止への動きだ。国会が各議員2/3以上の多数で「天皇」条項の削除=<天皇制度>の廃止を発議すれば、今の国民は過半数でもってそれを支持しかねないと思われる。
 すでに天皇・皇室(制度)に対する攻撃がなされていることは知られている。もともと日本共産党は戦後当初から(いや戦前から)「天皇制」を(本音では)廃止したかっただろうし、現在の社民党も同様に見える。民主党の中にもこれを積極的に推進したいはずの「左派」議員はいる。
 また、今年のNHK番組の中に<反天皇>宣伝と見られるものがいくつかあったことも周知のこと。朝日新聞はイザとなれば(?)<天皇制度>廃止に賛成するに決まっている。岩波書店も同様。
 そのうち、皇族のための皇居は広すぎる、「主人公・国民」にもっと利用させよ、皇居下に地下鉄を走らせれば速く・近くなる、皇族への国費出費は多すぎる、皇族にも人権を、天皇陛下をもっとお楽に(現憲法上の公務なしにしてもっぱら祭祀に)、等々の意見が、共産党・社民党・民主党「左派」系や、朝日新聞・岩波書店お気に入りの「学者・知識人」、あるいは一般「庶民」の声として、チラホラと出てくるようになるのではないか。
 きっと誰かが、あるいは何らかのグループが、国会の多数を利用しての<天皇制度>廃止の策謀を仕掛けるに違いない(すでになされている可能性も高い)。
 改憲=憲法改正は九条(2項)改正をほぼ意味するとして反対する者たちの中には、「第一章・天皇」の削除ならば改憲大賛成の者も多いだろう。
 <天皇制度>廃止とは、「日本」国家の喪失、亡国に他ならないだろう。この方向へ動いていくのを強く憂慮せざるをえない。
 (なお、「天皇制」は勿論<天皇制度>という語の使用にも、「制度」ではないとの理由で反対する論者がいる。では、どう表現すればよいのか。一つの公的「制度」であることに違いはないのではないか。)

0759/山室信一・憲法九条の思想水脈(朝日新聞社、2007)の欺瞞-なぜ「司馬遼太郎賞」。

 山室信一・憲法九条の思想水脈(朝日新聞社、2007)という本がある。まず問題になるのは、この著において「思想水脈」が追求される「憲法九条」とはいかなる意味・内容の「思想」又は「理念」なのか、だ。
 通説的解釈又は政府解釈を前提にすると、常識的に考えて、「憲法九条」の独特の意味、あるいは独特の「思想」・「理念」は、その第二項にある、つまり、第一項による<侵略戦争>の否認・放棄の明示的宣言のみならず、「自衛」のためにでも「軍隊その他の戦力」を持たず、「交戦権」を否認する、ということにある。「軍隊その他の戦力」による「戦争」を否定しているのだ(反面では、少なくとも<自衛>のための、「軍隊その他の戦力」によるのではない、国家間の「戦争」ではない武力行使(武力衝突)は否認されていない、ということになる)。
 したがって、<憲法九条の思想水脈>とは、上のような反面の余地を残した、自衛「軍(その他の戦力)」否認および自衛「戦争」の否定、という「思想」・「理念」の「水脈」を意味する、と理解されて当然だろう。
 しかるに、山室の上の本は、この点がまず曖昧だ。
 山室によると、憲法九条の<基軸>にあるのは、まず①「戦争放棄・軍備撤廃」、②「国際協調」、③「国民主権」、④「平和的生存権」の4つだ。その上で「根底にあって平和主義の基軸となるこれらの理念や思想を生み出し、実現する駆動力となってきたのは、…戦争に反対し平和を希求する信条であり運動」だとして、簡単には⑤「非戦」、多少表現を変えると、「戦争や軍備の縮小・廃絶とそれによる平和の実現をめざして展開されてきた非戦や反戦の信条」等を、「四つの基軸を貫いて一つのものに」する、「基底的な貫通軸」・「思想水脈の底流」になっているものとして挙げる(p.18-35)。
 憲法九条の解釈問題に触れる中では多少は言及してるが、上における「戦争」や「軍備」等は、いかなる目的・実態のものなのか等についての厳密な定義がなされることなく使われている。そして、憲法九条の「思想水脈の底流」には「非戦や反戦」の信条・運動があるというのだから、結局のところ、山室において、「憲法九条の思想水脈」という場合の「憲法九条」とは、きわめて漠然とした意味での「非戦や反戦」信条のことなのだ。あるいは少なくとも、これを含むものなのだ。
 従って、そののちに紹介・検討される諸「思想水脈」は、九条二項にみられる、「自衛」のためにでも「軍隊その他の戦力」を持たず、「交戦権」を否認する、という考え方の「水脈」ではなく、むしろ、漠然とした又は抽象的・一般的な「非戦や反戦」(・反軍)信条のそれになっている。
 ここまで広げると、多くのものが入ってくる。あるいは、何とでも言える。諸論者の「非戦や反戦」(・反軍)言説を抜き出していけば、「水脈」をたどることになり、例えば、日本の横井小楠・小野梓・中村正直・植木枝盛・西周・中江兆民の言説の一部が紹介される。
 山室信一の本にはタイトルからしてすでに欺瞞がある。この本は、<非戦(反戦)の思想水脈>と題しても不思議ではないし、その方が内容に即している。ことさらに「憲法九条」を表に出す点に「政治的」意図すら感じられる。改憲論者のおそらくほとんどが削除しようとはしていない憲法九条一項もまた十分に「非戦や反戦」信条の表明だ。問題は同条二項の是非であるにもかかわらず、この区別を曖昧にしたまま、人類の「思想」の先端的到達点が(二項を含む)憲法九条だと主張しているのだ。
 「憲法9条」とだけ表現し「憲法9条2項」と明記しないこと、明記できないことにこそ、この本の欺瞞がある。
 この本は「第11回司馬遼太郎賞」を受賞したらしい。朝日新聞社が発行するのはよく分かるが、なぜこんな本が「司馬遼太郎賞」に値するのか。日本(の学界・論壇等)は狂っているとしか思えない。

0717/月刊正論6月号(産経)・西尾幹二論考における天皇条項論、稲田朋美等。

 一 稲田朋美は、渡部昇一=稲田朋美=八木秀次・日本を弑する人々(PHP、2008)のp.207-8で、現憲法1条の「象徴天皇」は「成文憲法以前の不文の憲法として確立していると見なすべき」として、憲法改正の限界を超える(改正できない)と主張する(この本については、昨年に言及したことがある。但し、上の点には言及しなかった筈だ)。
 また、稲田は同書p.209で、現皇室典範(法律)1条が「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定めていることに注目し、ここでの「皇統に属する…」は2条以下の「皇族」に限られないとして、現在「皇族」でなくとも、「皇統に属」しているかぎりは皇位の継承資格がある(したがって、現在の法律上では「皇族」でなくとも「皇統に属する男系の男子」が存在するかぎりは皇位継承者も存在し、皇統断絶の懸念又は皇位継承者欠如の問題は生じない)旨を主張する。
 これらは憲法問題でもあるが、憲法学者であるはずの八木秀次は稲田朋美のこれらの主張に何ら反応していない。
 上の点はともかく、稲田朋美の主張(解釈)はいずれも成り立つ可能性がある。もっと議論されてよいだろう。
 だが、いずれも現在の通説・政府解釈ではないようだ。とくに皇位継承資格者の問題は、それが「皇族」に限られることを前提として、旧宮家一族の皇族籍復活等が論じられてもいる。
 かかる現在の通説・政府解釈を前提にすると、現皇太子・秋篠宮両殿下の下の世代の男子(親王)は悠仁親王しかおられないことをふまえて、「皇族」の範囲を拡大して、皇位継承者・「皇統」の安定的確保の途を早急に検討しなければならないと思われる。この問題は、現皇太子妃殿下に関するあれこれの議論よりもはるかに重要だ。
 二 さて、月刊正論6月号(産経)で八木秀次はご成婚50年記者会見(4/08)での天皇・皇后両陛下のご発言を「誰よりも保守主義を正確に理解されている」とそのままに全面的に尊重・尊敬するコメントを述べている(p.44)。
 結果的には大きな異存はないが、両陛下のご発言はある意味ではきわめて政治的で、あるいは非常によく準備されたものだ、という感想も私は持った。八木秀次ほどには私は単純・素朴ではないのかもしれない。
 また、美智子皇后陛下が「一方で、型のみで残った伝統が社会の発展を阻んだり、伝統という名の下で古い慣習が人々を苦しめていることもあり、この言葉が安易に使われることは好ましく思いません」等と「伝統」について述べられた内容はある意味で新鮮であり、ある意味では刺激的でもあった。<保守すべき伝統>というものがあるはずなのだが、<保守>派はどちらかというと日本の<伝統>を丸ごと維持・保守しようという言説・主張に傾きやすかったのではないか。その意味で、皇后陛下が「伝統」の消極的な面・弊害も明言されたことは、注目されてよいと思われる(その内容自体に反論するつもりはない。問題は「社会の進展を阻」む「型のみで残った伝統」とは具体的に何か、になる)。
 三 月刊正論同号西尾幹二論考は、両陛下、とくに天皇陛下の発言を(八木秀次は勿論)私よりも<深く>解釈しているようだ。西尾は、「陛下の…お言葉はじつは相当に政治的であり、政治的役割を果たしておられるとも思います」と書いている。
 天皇陛下のお言葉とは、簡単には、日本国憲法の「象徴」規定に「心を致」す、日本国憲法の天皇条項は「天皇の長い歴史で見た場合、天皇の伝統的な天皇のあり方に沿う」、というものだ。
 西尾幹二は、十分な展開は見られないと思われるが、こうしたご発言を手がかりにして、天皇制度の将来には次の二つの方向があると主張していると見られる(天皇条項改正論でもあると思われる)。この点にも安倍晋三・中曽根康弘による日本「再占領」政策加担・追随論とともに、斬新さがある。
 一つは、政治的責任をより負担する、その点を明文化した「元首」になっていただくことだ。
 いま一つは、「京都にお住居をお移し下さり」、一段と「非政治的存在に変わっていく方針をおとり下さる」ことだ。
 これらは天皇条項の憲法改正をほとんど不可避的に伴うものと思われる。もっとも、「国」と「日本国民の統合」の「象徴」である旨の現1条を改正する必要はない可能性はあるので、冒頭に記した稲田朋美説と完全に矛盾するわけではないかもしれない。
 憲法改正は必要ではないとしても、前者の方向をとる場合、例えば、天皇の<宮中祭祀>は正式の「国事行為」(現憲法だと7条10号「儀礼を行うこと」)か、少なくとも「公的行為」としてきちんと位置づけられる必要が出てくるだろう(憲法20条と皇室の「神道」の関係についての解釈論の整理も必要だ)。
 後者の方向をとる場合、西尾は言及していないが、現行憲法の大幅な改正が必要になるものと思われる。
 現憲法6条・7条によると、天皇に最終的・形式的な権能があるのは、次のように幅広く、かつ重要なものばかりだ。
 ①内閣総理大臣の任命、②最高裁長官の任命、③法律・政令・条約の公布、④国会の召集、⑤衆議院の解散、⑥総選挙施行の公示、⑦国務大臣等の任免、⑧「全権委任状及び大使及び公使の信任状」の「認証」、⑨外国の大使・公使の「接受」、等々。
 これらの行為は、天皇のお住まいが現在の皇居のように、国会・首相官邸・諸外国大使館等に近い場所にあるからこそ容易にかつ速やかに行うことが可能なものではないか。
 したがって、天皇(・皇后)陛下が京都にお戻りになるということは、まさしく西尾の言葉どおりに、上のような<政治(・外交)>に関わらない、「非政治的存在」に変わることを意味することにほとんどつながるものと考えられる。例えば首相が衆議院解散を決意し記者会見等で公にしても、天皇陛下による正式の(最終的・形式的な)衆議院解散は、かりに天皇陛下が京都におられれば、その後早くても6時間程度は要するのではないか。同じことは、多数あるはずの、法律・政令等の「公布」についても言える(「公布」にはさらに官報掲載が必要な筈だが、その前提として現行憲法上は天皇陛下の御名・御璽が不可欠なのだ)。
 こう見ると、天皇の明確な政治的「元首」化にしても純粋な「非政治的存在」化にしても、憲法条項の具体的内容にかかわるもので、本来、憲法改正論議のなかで丁寧に議論すべきものと思われる。
 そういう問題提起を含んでいるので、西尾幹二は憲法学者・八木秀次よりも<鋭い>し、よく考えていると思わざるをえない。かりに明確な「元首」化を想定せず、「象徴」規定を維持するとしても、憲法が天皇に認める国事行為又は「公的」行為の範囲いかんによって、天皇は現在よりもより政治的にもなりうるし、非政治的にもなりうる。憲法改正をゼロ・ベースから、すなわち「白紙」の出発点から考えるのなら、この点は留意されておくべきだ。
 とは言っても、今後いかほどの熱心な議論が上に示した論点について生じるかは、心もとない。ほとんど現九条二項問題だけに関心が集まる可能性は高い。また、西尾幹二のいう二つの方向(現状のままだと三つの方向)のいずれが適切かについて、既述のこと以外には、述べるほどの私見は現在のところは殆どないというのが率直なところだ。

0712/昭和の日・「戦後レジームからの脱却」等と佐伯啓思の2論考。

 一 昭和の日。産経新聞4/29社説は「経済的繁栄」後の日本人は「結束」心や「価値観」を「再び忘れてしまったようだ」と書き、「憲法改正などいわゆる『戦後レジーム(枠組み)』からの脱却や、戦後に戦勝国から押しつけられた自虐的歴史観の克服」といった「『昭和』が先送りした問題も多い」と書く。
 上の後段の「憲法改正」等の「戦後レジーム(枠組み)」からの脱却、「自虐的歴史観の克服」という課題を明示的に指摘しているのが注目される。産経新聞ならぱ当然なのかもしれないが、さっとこう明確に書けるのは素晴らしい。
 他紙の「昭和の日」社説を読んでいないが、しかし、上のように明言するのは産経にとどまるだろう。そして、産経は新聞紙販売シェアでは10%に満たないこともあらためて知っておく必要がある。おそらく、読売がどういう見解に立つか(簡単には、朝日か産経のいずれか)によって、世論の動向は決定的に左右されるような気がする。読売も産経に同調してはじめて、朝日・毎日・日経連合に拮抗できるようになるのではないか。産経新聞だけでは、新聞というマスメディアの大勢的雰囲気を作り出せない。
 二 週刊エコノミスト5/05・12合併号(毎日新聞社)の佐伯啓思「日本を真に豊かにするために『脱成長社会』の道を探れ」(p.96-97)を読む。
 「物質的成長や物質的幸福、永遠の生命」を追求しない、「豊かな」「日本人の自然観、死生観、歴史観」という「原点に戻りたい」。/「貨幣では測れないものがある。もう少し伝統的なものを大事にしてゆったりして暮らしたらどうだろうか」。
 「永遠の生命」を追求しないとは<生命=人生には限りがあると自覚する(諦念する?)>ことを意味しているのだろうが、精神的な意味での「永遠の生命」の追求を肯定する余地はあると思われるので、「永遠の生命」という語の使い方には若干の留保が必要だろう。だが、上の点を除いては、佐伯啓思の主張に全く異論はない。それは、「西洋の近代主義」(p.97)に立脚した「戦後レジームからの脱却」の主張とほとんど重なるだろう。
 産経新聞4/28佐伯啓思「日の蔭りの中で-文明の危機呼ぶ幼児性」は、ホイジンガーの1935年の本が、アメリカに見られた「幼児性」=「子供っぽいこと」を称賛する風潮こそが<文明の危機>の本質だと述べている、と紹介しつつ、今の日本で「私たちが目撃している」のも「大差ない光景」ではないか、とする。今の日本には「幼児性」が氾濫している-国会論議・バラエティを含むテレビ番組・犯罪に至るまで…。
 この「幼児性」は、佐伯啓思のいう「近代文明」又は「欧州近代」の限界を示すものとしての<ニヒリズム>の発生と無関係ではないだろう。あるいはまた、<戦後レジーム>(「個人主義」・「平和と民主主義」)こそが、「幼児性」をもつマスコミ先導の世論やテレビ番組等々を生み出した、とも言える。
 佐伯啓思・大転換-脱成長社会へ(NTT出版、2009.03)を先日から読み始めている。第一・第二章(~p.59)は読了。最近に佐伯が雑誌・週刊誌・新聞等に書いている短い文章と、当然ながら問題意識・叙述内容は共通しているか、似ている。

0685/五百旗頭真・日米戦争と戦後日本(講談社、2005)の一部(現憲法論)を読む。

 一政治学者・大学教授の理解としても興味深いが、現在の防衛大学校長のそれでもあるとなると、重要度は増すだろう。
 
五百旗頭真(1943-、元神戸大学教授)・日米戦争と戦後日本(講談社学術文庫、2005)は、日本国憲法の制定経過・内容的評価等について、以下のように叙述している(要約・抜粋する)。
 ・ポツダム宣言第10項(「民主主義的傾向」への「障碍」の「除去」)は日本政府に「憲法改正の責務を負わせた」と「考えられた」(p.218)。
 さっそく挿むが、「考え」た主体は誰なのか? またそもそもポ宣言による新憲法制定(明治憲法改正)の「責務」化という認識・解釈は正しいのだろうか。少なくとも日本側から積極的に憲法改正を言い出したのではない。1945年秋に有力な日本の憲法学者は<憲法改正不要>論だったことはすでに書いた。
 ・マッカーサーも上の考えに沿って「日本政府に改正作業を命じた」。日本政府による<自主的>対応という外見が日本国民の将来の支持のために必要との考えもあった。しかし、マッカーサーはソ連等を含む極東委員会の介入を嫌い、また幣原内閣下での松本烝治委員会案も意に添わなかったため、1946.02.03に「マッカーサー三原則」を示して民政局に憲法草案の作成を命じ、同局は「合宿状態の突貫作業」で02.13に草案を「完成」した。この草案をマッカーサーは日本政府に示し、「戦争放棄」を含む草案受諾は「天皇制」存続に効果的だ旨を述べた(p.219-220)。
 ・幣原首相・吉田茂外相等は「抵抗を試みた」が02.22に「結局受け入れ」、03.06に「憲法改正草案要綱」を発表、04.17に「口語体・ひらがな書き」の「憲法改正草案正文」を発表した。
 ここで以下を挿む。これ以降、議会での審議が始まったわけだが、衆議院を構成するこの当時の衆議院議員の選挙は1946.04.10に行われている(五百旗頭p.213)。従って、この総選挙(戦後第一回)の時点で有権者や立候補者が知っていた(又は知り得た)のは条文の形をとっていない「改正草案要綱」にすぎなかった。また、岡崎久彦・吉田茂とその時代(PHP、2002)は、憲法改正案の是否はこの総選挙の主要な争点ではなかった旨を叙述している(すでにこの欄に記したことがある)。
 ・「この日本国憲法案が発表されると、国民は熱く歓迎した」(p.221)。「事実関係から言えば押しつけ」だが、「日本政府は〔明治憲法が定める〕正規の手続によってこの案を検討・修正のうえ、決定した」。「さらに、この憲法を国民の圧倒的多数が、内容的に歓迎したのである」(p.222)。
 上に挿んだように、日本国民は「日本国憲法案」なるものは「草案要綱」しか知り得ていないし、岡崎久彦によれば04.10総選挙での主要な争点にもならなかった。にもかかわらず、五百旗頭真は、いかなる実証的根拠をもって、「日本国憲法案」の発表を「国民は熱く歓迎した」とか、「この憲法を国民の圧倒的多数が、内容的に歓迎したのである」とかと、自信をもって?書けるのだろうか。
 五百旗頭真の頭の中での<物語>の創出にすぎないのではないか、との疑問が湧く。
 ・「壮大なフィクションとしての『大東亜共栄圏』や『八紘一宇』などに狂奔した」のは「どんなに空しかったか」。「貧しくても、平和で公平な社会を再建したい-という気持ちが、戦後の日本国民には非常に強かった。少なくとも、もう一度武器をとることだけはごめんだ、というのが国民の広範な願いだった。それだけに…日本国憲法に対しては、これこそわれわれが望んでいたものだった、という反応が強かった」(p.222)。
 この文章は、<歴史>の叙述なのだろうか。<歴史>が究極的には<物語>たらざるをえないとしても、あまりにも五百旗頭の<主観>に合わせて作られた<物語>にすぎるのではないか。日本国憲法施行時に3~4歳にすぎなかった五百旗頭は、何をもって、「戦後の日本国民」の気持ち・「国民の広範な願い」・「望んでいたもの」を、上のように自信をもって?書けるのだろうか。不思議でしようがない。現憲法を「正当」視するために、後から考えた(<後づけ>的な)一種の<こじつけ>に近いのではなかろうか。
 ・「国民は日本国憲法を歓迎した。その意味で『押しつけ憲法論』は一面的であり、経緯はともかく、内容的には国民の意に反するものでなかったことを忘れてはならない」(p.223)。
 国民による「歓迎」(<受容)を理由として「押しつけ」論は「一面的」だと批判し、「経緯はともかく、内容的には」国民の意思に反していなかった、と述べる。かかる論理づけは、日本国憲法の制定過程とその(とくに内容の)評価について、<左翼>憲法学者たちが述べていることと全く同じだ。この五百旗頭という人物は、紛れもなく、現憲法=「戦後民主主義」まるごと擁護の立場に立つ、その意味で<進歩的な=左翼的な>、現在までの<体制派>のど真ん中にいる人だ。この人が現在の防衛大学校長?! 悪い冗談を聞くか、悪夢を見ている気がする。
 ・「日本国憲法は成立のいきさつが押しつけであるから我慢できぬ、民族の誇りが許さぬという『押しつけ憲法』論に対して、その…憲法下で自然に育った世代は、どこがいけないのかと考える」。参議院の弊害等の「具体的弊害」を言うならよいが、「そもそも憲法をご破算にしなければならないなどという議論は、いいかげんに大人になって卒業したらどうか、と諫〔いまし〕めたくなる性質のものである」(p.223-4)。
 この文章はかなりひどい。冷静な「大人」の文章ではない。
 「憲法をご破算にしなければならないなどという議論」とは何を意味させているのだろう。改憲論(現憲法改正論)一般を意味させているとすれば、五百旗頭の主張が成り立つ筈がない。100年後も200年後も、現憲法を「護持」していなければならない筈がない。
 現憲法「無効」論を意味させているとすれば、現在の改憲論(現憲法改正論)の大勢は、現憲法を「無効」と考えてはいないのだから、間違った、的外れの批判をしていることになる。
 肝心の「ご破算(にする)」の意味が不明なのだから、困った文章だ。参議院制度等の「具体的」 問題を論じるのはよいようだが、五百旗頭において、「具体的弊害」の問題と<基礎的・一般的>弊害の問題とはどのように区別されているのだろう。例えば、現憲法九条(とくにその第二項)の削除の可否は、いったいどちらの問題なのか??
 今では60歳代の半ばになる五百旗頭真は、単純素朴な日本国憲法観から、少しは「大人になって卒業したらどうか、と諫めたくなる」。こうした五百旗頭真の叙述・議論に比べて、佐伯啓思の日本国憲法論の方がはるかに奥深いし、自主的で冷静な思索の存在を感じさせる。五百旗頭は、つまるところ、アメリカ(GHQを含む)が行ったこと、関与したことを非難できない、批判しない、そういう心性が堅く形成されてしまっている人物なのではないか、というのが一つの仮説だ。 

0684/佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)を読む-その4・戦後憲法。

 一 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)をさらに読みつなぐ。なおも憲法にかかわる。
 ・「近代憲法の正当性の根拠」は欧州でも問題がなかったわけではなく、二つの立場があった。一つは、「ロック流の個人の社会権という社会契約というフィクション」を必要とした、「革命」により「近代社会」(普遍的「人権」等を内包する)が始まり、「その精神を憲法化する」、というやり方。フランスやアメリカで、これらには「近代社会」の「神話」を受容する「歴史的な構造」があった。もう一つは、イギリスのように「歴史的連続性」を強調するもので、統治・権利の原則を元来「イギリス人がもっていたもの」という伝統に遡及させる。「革命」という断絶は回避され、歴史の中の「本来の経験」に戻ろうとする(p.151-2)。
 ・では、日本の戦後憲法は上のどちらなのか? 明治憲法の「改正」手続を採った点で(形式的には)「歴史的連続性」が踏襲されているが、一方、実質的には、八月「革命」説のように「戦前との断層」に存在意義を主張していると見られる。ここに「日本国憲法の歴史に例を見ない奇妙な性格がある」。現憲法の「ユニークさ」はただ第九条にのみあるのではない(p.152)。
 ・欧米憲法において、国民(人民)主権原理のもとでは主権者たる国民(人民)が(議会・政府を通じて)自らの権力を制限するが(「集合的な権力の主体としての国民」)、これとは別に、そのような「権力」を超えた、「普遍的な権利をもった一人一人の個人」という範疇も成立する。国民(人民)主権を支えた、現実の「国民の一体感」・「愛国心」こそが、この二つの範疇の矛盾をとりあえず「隠蔽」し、「辛うじて調和させ」た(p.153)。
 ・アメリカ憲法修正1~10条は「連邦議会から個人の権利を守る」目的のものだが、ここでの「個人」は「抽象的で普遍的な」それではなく、アメリカ国民(人民)であり、連邦政府を作った張本人たちだ。これとは別に、「連邦政府の権限の以前に」、「自由な個人」が想定されていて、彼ら「個人」の「基本的な権利は不可侵」なのだ。
 ・日本国憲法においてはどうなのか? その11条によると「基本的人権」を保障するのは「この憲法」に他ならないが、元のGHQ案の表現では、「基本的人権」の根拠は「多年にわたる人類の自由への戦い」という歴史の「普遍性」にあった。この辺りが、現憲法では「一切不明確なまま」だ(p.156-7)。
 〔なお、ここで挿んでおくと、現憲法97条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と、-その具体的な法的意味は他の条項に比べて違和感があるほど不明確だが-書いている。この条文によっても佐伯の提出する問題は残るだろうが、佐伯がこの97条の存在を意識しているかは定かでない。〕
 ・「憲法の専門家たち」がどう説明しているのか知らないが、戦後憲法において「国民の意思」、「その由来するところ」は「きわめてあいまい」ではないか? その原因は直接にはGHQ案に基礎をもつことにあるだろうが、「もっと根本的には」、「近代憲法の正当性の基盤」という困難な問題を「回避」したことによる(p.159)。
 ・既述のように、フランス型憲法における、「革命」により「普遍的人権に基づく近代社会」の創設という「ストーリー」を支えたのは「人民の一体感をともなった愛国心」・「国民意識」だったが、「戦後日本にはそのようなものはほぼ皆無だった」(p.159-160)。
 ・「戦後の体制変革は革命ではなく占領政策」だった。「愛国心や国民意識は…打ち砕かれていた」。そんな状態で「普遍的人権」に依拠した「近代憲法を創設する」ことができるわけがない。「国民」に憲法制定能力がないとすれば、「憲法の正当性は明治憲法の改正という手続」に求めるほかはない。そうだとすると、(改正の最終的主体としての)「天皇制度の維持はきわめて重要な事項」だった(p.160)。
 ・「良かれ悪しかれ、天皇制度を国家の(象徴的な)骨格としたのが日本の歴史の連続性」で、明治憲法も「その改正を天皇の勅令をもって帝国議会に付すべきこと」を規定していた。従って、明治憲法の中核である「天皇制度…を廃止するような改正」は「事実上不可能」だったのだ。だとすれば、その存続がマッカーサーの政治的判断であろうとなかろうと、「天皇制度」は「憲法のロジックにしたがって生き延びることになる」(p.161)。
 二 以上、あまり読んだことのないような指摘、問題設定、説明等がなされている(「国民」と「人民」は意識して区別されることなく叙述されている)。
 現に生きている日本国憲法は、そもそも何によって憲法として「正当化」されているのか? (憲法前文の前の告諭が明示するように)天皇が「裁可し、公布せしめ」た現憲法が、所謂「天皇」主権を廃して「国民主権」原理を採用している(とされている)ことはどう説明されるのだろうか。「告諭」は「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび」から始まるが、「日本国民の総意に基いて」と、なぜ言えたのだろう。
 ぎりぎり間接的には「国民代表」者から成る衆議院による可決を経ているが、国民(有権者)投票が行われたわけではなく、逆に、「枢密顧問の諮詢」という明治憲法上の規定もなかった枢密院での審議・可決手続を経ており、また、新憲法によって廃止されることとなっていた「貴族院」での審議・可決すらあったのだ。
 戦後日本は、<不思議な>来歴の憲法の下で国家運営がなされてきた、とあらためて感じる。法的・論理的には、完璧な説明はできないのではないか。そのような憲法が60年以上も生き続けてきたことに、大多数の国民が違和感を持たなかったのだから、憲法学者を含むその<鈍感さ>にあらためて驚くとともに、占領期の日本人の<思考停止>状態におけるGHQの力の大きさも感じる。
 新憲法制定・施行を「祝う」行事・催事がなされたはずだし、何といっても天皇陛下が「裁可し、公布せしめ」たとあっては、大多数の国民は(その内容に関係なく)新憲法を(少なくとも当面は)「支持」せざるを得なかったものと考えられる。
 だが、その「支持」は、はたして「内容」をも全面的に支持するものだったのかどうか。表面的にはともかく(占領下に新憲法反対の国民運動が起こせる筈もない)、実感としては違和感も覚える憲法条項もあったのではなかろうか。そうした違和感を潜在的には多少とも覚えつつ、建前としては「支持」しているうちに、<ごまかした>まま60年が経過してしまった、というところだろうか(直接には「護憲」派が国会で少なくとも1/3以上を占め続けたことによる)。
 当時の国民の全てが、あるいは圧倒的多数の国民が、手続的にはともかく「内容」的に支持し、受容した、という、少なからぬ(と思われる)憲法学者等の説明は、信頼できない、と思われる。

0681/中西輝政「歴史は誰のものか」(月刊WiLL別冊・歴史通№1、2009)・その2。

 一 月刊WiLL別冊の歴史通№1(ワック、2009春)の中西輝政「歴史は誰のものか」p.62以下は、「歴史家利権」に触れたあと、つぎのように書く。
 ・「日本の歴史学界では歴史家がいわゆる一つの史観(とくに東京裁判史観)に異を唱えると、ものすごい社会的制裁が待っている」。
 ・その「制裁」の「強さ」は「まさに想像を絶するほどのもので」、「強烈な形でその人に不利益を与える『パージの構造』が今も厳としてある」。
 ・「大学に講師・助教授として就職したいという若い研究者がいても、彼らがある歴史観、つまり東京裁判史観から乖離してしまうと、三十代でほとんどは抹殺されてしま」う
 ・「決して誇張ではなく、集団間に『手配書』みたいなものが廻るような世界がある」。「この世界の広がりは、出版界やマスコミにもつながっている」。
 ・「だから若いうちは…、自分の本当の史観や思想を隠して『就職用論文』を書き続ける学者が大勢います。そして、大半はいつしか『習い性』となる」。
 ・「歴史家が、ある歴史観に異を唱えることが、日本では…大きな勇気が必要」で、「人生の上でも大きな社会的損失を覚悟しないとできない」。「学者や作家としての個人的な栄達や利益、そういうものを犠牲にしないといけない」。
 ・「歴史家」にとっての<三つの敵>はつぎだ。①「自己の栄達」。これを求めすぎると「学問や知的探求心をいつ頃からか犠牲にしてしまう」。②「政治的考慮」。例えば「日米の友好」への影響を恐れて、研究の「姿勢や結論を大きく自己規制する人がとても多いように思う」。欧米の歴史家は「愛国心」をもち「自国にとって悪い事」を言わないようにしないと「黒い羊」になることを恐れている。日本では逆だ。③「大勢に順応しようという諦念」あるいは「勇気の欠如」。
 以上が、「すさまじい」ことを書いている、と感じた部分だ。最後の三点は、結局は同じことに帰一しそうだ。
 二 日本には「学問の自由」も「表現・出版の自由」もあるはずだが、特定の史観=「東京裁判史観」から乖離すると歴史学者(研究者)として大学等で生きていくことがむつかしい、それに異を唱えるには「大きな勇気」が要ることがあからさまに語られている。ある程度は感じ、ある程度は知ってもいたことだが、「東京裁判史観」が日本の歴史(とくに近現代史)学界を支配してしまっているわけだ。田母神俊雄論文「事件」に際して田母神を擁護した学者(研究者)はいったい誰々だったのか(いたのか?)を思い出しても、納得するし、また慄然とする。
 誰でも自分の<生活>、ついで<名誉>を大切にしたいと思うだろう。だが、それらを大切にしようとすることと<真実(・事実)の追究>・<真実・事実の表現>が矛盾し、後者をねじ曲げなければならないようでは、いったいそれは「学問(研究)」の名に値するのか。
 「学問(研究)」を本当はしているつもりはなく広くは「社会貢献」つもりで、「学問」の名を騙りつつ(「大学教授」の肩書きを利用して)特定の事実や特定の主張に拘泥し続けることを自己の「政治活動」、「政治」的使命と考えている日本共産党員その他の「組織」員たる「学者」(大学教授)もいるに違いない。また、そのような「組織」員でなくとも、やはり特定の史観を維持し、<復古的・反動的・軍国主義>史観に反対することが自己の「良心」だと考えている(かつての「進歩的」知識人のような)学者も多いのだろう。
 慄然とする思いに駆られるし、<左翼ファシズム>への恐怖を感じる。
 ところで、中西輝政は上のことを「歴史」学(者)について語っているが、一部に「出版界やマスコミ」も同様だ旨の指摘もしている。
 さらに、「歴史」学に限らず広く社会系・人文系学問分野で上記のようなことは、ある程度は(その程度は「圧倒的に」から「多少は」までの広がりがありうるが)あてはまっているように思われる。これこそがさらに輪をかけて、怖ろしいことだ。
 「教育学」の分野については竹内洋に上のことを示唆する文章がある。「政治学」について中西輝政は同旨を含むことを語っていた。
 三 明確な文章を読んだことはないが、他の社会学、法学等々についてもあてはまるのではないか。法学のうちとくに<憲法学>はそうではないだろうか。
 憲法学の場合は、「東京裁判史観」というよりも、その史観にもとづいて制定された日本国憲法(その「前文」は東京裁判史観が色濃い)への<信奉>の有無が「羊」たちを「白」か「黒」かに分けているのだろう。日本国憲法の「進歩的・民主的・平和的」理念に反対して(と護憲者は理解し)改憲を唱えるような「黒い羊」は、学界のごく少数派で、居心地がきわめて悪いのではなかろうか。
 日本国憲法が最良・至上のものではないことは誰が考えても明かなことで、<よりよい憲法>を目指す議論がまともに展開されてよい筈だ。<平等>原則を普遍化し、天皇・皇族にも「人権」を、とか言って、天皇条項の削除を正面から提案する憲法学者が現れても本来は不思議ではないと思われる。だが、現憲法を少しでも改めようとする議論は(どのようなものであれ)敵=<改憲勢力>に「利用される」とか考えて、まともに憲法改正に関する議論(「憲法政策論」と言ってよいだろう)を展開していないのだとすれば、<憲法学界>は「政治的考慮」を優先した、「政治活動家」の集団と言っても過言ではないことになるだろう(最近の種々の問題でも、憲法学者の発言がきわめて乏しいと思われるのはいったいなぜだろう)。
 大学の教師たちは学生に(とくに新入生に対して?)「自分の頭で(批判的に)考えよ」とか言って「教育」しているのだろう。だが、そう言っている大学の教授・准教授たちは(社会系・人文系にいちおう限っておくが)、本人自らが「自分の頭で(批判的に)考え」ているか否かを厳しく<自己評価>してほしいものだ。指導教授の「学説」を墨守したり、関係学界の<雰囲気(空気)>を「読ん」で黙従したりしていては、楽に(安全に)生きてはいけても、刺激と緊張に充ちた「自由で闊達な」学問活動にはならない筈だが。

ギャラリー
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1721/L・コワコフスキの「『左翼』の君へ」等。
アーカイブ
アマゾン(Amazon)
記事検索
カテゴリー