秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

憲法改正

2234/福田恆存・企画監修・憲法のすべて(1977年)。

 安倍晋三現首相は、わが党(自由民主党)は結党以来一貫して憲法改正を唱えてきた、と述べて、継続してずっと自民党が憲法改正運動を積極的に行ってきたかのごとき口吻を漏らしているが、実態はそうではないだろう。
 自民党が<憲法改正>を積極的には言い出さない時代も長かった。
 それでも民間では、憲法改正または「自主憲法制定」の運動は一貫して継続してきている、という印象がないではない。
 しかし、おそらくは1990年代の半ば頃、つまり<いわゆる保守>の運動の主導権を形・表面だけでも<日本会議>が奪取した頃あたりを境にして、民間の、あるいは国民・市民の側の<改憲>運動は継続性を失った、いったん途切れた、というのが秋月の見立てだ。
 このことを感じたのは、すでにこの欄で記したが、つぎの書を見たときだった。
 自主憲法期成議員同盟・自主憲法制定国民会議編・日本国憲法改正草案-地球時代の日本を考える-(現代書林、1993)。
 その改正案内容は、9条についていうと現1・2項のあとに、新3項-「前二項の規定は国際法上許されない侵略戦争ならびに武力の威嚇または武力の行使を禁じたものであって、自衛のために必要な軍事力行使を持ち、これを行使することまで禁じたものではない」-を追記するものだ。
 これは、「自衛隊」という語を明示的に使用するらしい現在の自民党等の案とは異なる。
 そして、現2項を存置するとはいえ、現在の案よりも<スジ>がよい。現2項があっても、国家に固有の権利としての「自衛権」を現憲法も否定していない、との解釈を前提とすると思われ、論理的にも十分に成り立つ。
 日本会議設立、1997年。櫻井よしこ・田久保忠衛らを代表とする美しい日本の憲法をつくる国民の会の設立、2014年10月
 上記の1993年時点での自主憲法期成議員同盟・自主憲法制定国民会議らの運動とは、<つながって>いない、と思われる。
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 上のことをあらためて感じさせる、別の書物がある。但し、1970年代までさかのぼる。といっても、今日での<改憲>派の議論や<憲法無効論>と比べて、はるかに上質で、真摯な、かつ冷静な議論・検討がなされているように見える。
 書名とその概要だけ、メモして紹介しておく。
 福田恆存(企画監修)・日本の将来/憲法のすべて(高木書房、1977)。
 日本文化フォーラムまたは日本文化会議等の団体名は出てこない。
 全体が対談・座談で構成されている。主題・テーマと座談会参加者の名前は、つぎのとおり。
 ***
 第一部・日本国憲法の成立過程
 /児島襄・三浦朱門・渡部昇一・原田統吉・福田恆存。
  一・憲法について思うこと
  二・ポツダム宣言と新憲法
  三・東京裁判と日本国民
  四・防衛・戦争・平和
 第二部・新憲法・不可解な内容
 /川上源太郎・ゲプハルト・ヒルシャー・土田隆・原田統吉・福田恆存。
  一・民定憲法という名の欽定憲法
  二・元首ではなぜいけないか
  三・第九条のもたらす不条理
 第三部・近代憲法の本質
 /奥原唯弘・香山健一・志水速雄・原田統吉・福田恆存。
  一・日本人と憲法意識
  二・なぜ留保期間をおかなかったか
  三・国民をまどわす憲法
 <資料>①大日本帝国憲法と日本国憲法の生まれるまで、②大日本帝国憲法と日本国憲法、③世界各国の憲法比較、④世界各国の憲法改正年表、⑤日本・イギリスの統治機構図、⑥アメリカ合衆国・ソ連の統治機構図。
 ***
 以上
 ソ連解体、バブル崩壊、非自民連立内閣の成立等々の1990年~1995年頃、社会・政治の継続性自体の全体に大きな亀裂ができたのだろう。日本共産党が必死になってソ連は1930年代半ばから社会主義国ではなかったと言い張り始めた頃でもある。
 それまでにあった、まだ健全で知的な<改憲>運動を継承しなかった責任者は、いったい誰か。その後の<改憲>運動を、上の福田恆存著に一回も言及せず、伊藤哲夫等の本を「手本」にしているらしい櫻井よしこのように、<歪めて>しまった「アホたち」は、櫻井の他に、いったい誰々なのか?

1857/安倍晋三・改憲姿勢とレーニン・ロシア革命。

 安倍晋三首相・自民党総裁は「改憲」に積極的な姿勢をしばしば示しているようだ。
 しかし、彼が自民党単独の賛成で国民投票にかけることができ、本当に「改憲」できると考えているかきわめて疑わしく、<見せかけ>あるいは<そのふり>だと思われる。
 来年の参院選の結果にも左右され、そもそも自民党で文案がまとまるか否かにも不透明さが残っている。
 党の役員人事が<改憲布陣>などと報道され、論評されることもあるが、かりに人物的にそのような印象があったとしても、これまた<見せかけ>あるいは<そのふり>の可能性が高い。
 なぜそのような「ふり」をするのか。
 言うまでもない。<改憲>=<保守>、<護憲>=<左翼・革新>という根深い観念・イメージがあるからだ。
 そして、安倍晋三と同内閣・同自民党の支持者、かつ<堅い>支持者とされる日本会議等々のいわゆる<堅い保守層>からすると、「改憲」と主張しているかぎり、断固として支持しよう、支持しなければならない、と思いたくなるからだ。
 その際、現九条二項を残したままでの「自衛隊」憲法明記がどういう意味をもつのか、それによって「自衛隊」が本当に合憲なものになるのか、それに弊害はないのか、とったことを考えはしない。あるいは、理解できる者たちも、あえて口を閉ざしている。
 現九条二項の削除が本来は望ましいが、とりあえず「自衛隊」の合憲化だけでもよい、という程度のことしか多くの上記支持者たちは考えていない。
 こういう「現実的」?案を案出した者たちの責任はすこぶる重い。
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 <見せかけ>・<そのふり>で想起するのは、1917年4月・ロシア帰還前後のレーニンの主張だ。
 レーニンは、臨時政府打倒を叫び、「全ての権力をソヴィエトへ!」と主張した。
 しかし、この政治的人物は、この時点で臨時政府を打倒し、そり権力を全てソヴィエトに移すことなど不可能だと知っていたはずだ。
 もともと、臨時政府自体が<二重権力>と言われるように実質的には半分はソヴィエトによって支えられていたが、そのソヴィエトの中で、レーニン率いるボルシェヴィキ(翌年3月に正式には共産党に改称)は少数派であって、本当に「全ての権力をソヴィエトへ!」が実現されたとかりにしても、その主導権をレーニンらが掌握することはできなかった。
 レーニンの上の主張は、実現不可能を見越した上での、いわばスローガン、プロパガンダにすぎなかったのだ。何のためか? 他のソヴィエト構成諸党との<違い>を際立たせ、最も先鋭的な層の支持を獲得しておくためだ。
 さて、その後7月事件を経てケレンスキー首相による継戦努力が不首尾だったりして臨時政府・ソヴィエトに対する不信が高まり、レーニンのボルシェヴィキがソヴィエト内での一時的にせよ多数派(相対的な第一会派)を握る、という状態が生じる。
 しかし、このとき、レーニンは<「全ての権力をソヴィエトへ!」とはもう強調しない。
 この辺りは歴史研究者に分かれがあるかもしれないが、トロツキー(首都のソヴィエト執行委員会が設立した軍事委員会の委員長)は、のちのボルシェヴィキ中心政権がソヴィエト・システムの中から生まれたように(少なくとも擬制するために)努力したとされる。
 つまり、ソヴィエト全国総会-同執行委員会-新「革命政権」(1917年10月)という流れで、新政権をソヴィエトも正当化した、という「かたち」を辛うじて取るようにしたらしい。
 しかし、上もすでに「擬制」であって、レーニンは、<全ソヴィエト派>が生み出した権力、あるいは<全ソヴィエト派が権力を分有する>政権を成立させようとは全くしなかった、と推察される(しろうとの秋月だけの解釈ではない)。
 「全ての権力をソヴィエトへ!」ではなく、「全ての権力を自分たち(=レーニン・ボルシェヴィキへ)!」が本音だったわけだ。
 つまり、ソヴィエト内の各派・各党がそれぞれの勢力比に応じて内閣・閣僚を分け合うような政権を作るつもりはなかった。
 そして、じつに際どく、ソヴィエト全国大会が開催中に!新政権が発足したことにし、おそらくは事実上または結果としてソヴィエト大会に「追認」させた、または「事後報告の了解」を獲得した。あるいは、獲得した「ふり」をした。
  レーニンはもはや「全ての権力をソヴィエトへ!」というスローガンを捨てていて、それを守るつもりなどなかった。そして、既成事実の産出こそ、この人物の強い意思だった。
 たしかに「左翼エスエル(社会革命党左派)」も最初は数人だけ閣僚(=人民委員会議委員)の一部になっているが、エスエル本体の主要メンバーは入っておらず、エスエルとともにソヴィエトの有力構成派だったメンシェヴィキも加わっていない。
 この実質的一党独占政権は、半年後には正式に?一党独裁政権へと(まだ1918年夏だ!)へと変化し、形骸化していた「ソヴィエト」はさらに形骸化し、セレモニーの引き立て役になる。
 しかしながら、「ソヴィエト」による正当化という「かたち」はぎりぎり維持したかったのだろう、レーニンたちはロシア以外の諸民族・「国家」を統合した連邦国家に、「ソヴィエト」という地名でも民族でもない、本来はただの普通名詞だった言葉を冠した(強いて訳せば、<ロシア的評議会式の~>だろう)。
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 以上要するに、政治家の発言の逐一を、そのまま本気であると、その内容を本当に実現したがっており、かつ実現できると考えている、などと理解してはいけない。
 政治家は、平気でウソをつく(政治家ばかりではないが)。日本共産党もまた、目的のためならば「何とでも言う」。
 自民党を念頭におくと、政治家は、例えば選挙で当選するためには、大臣にしてもらうためには、あるいは政権を何としてでも維持するためには、平気でウソをつく。
 ウソという言葉が厳しすぎるとすれば、平気で「そのふり」をし、何らかの「見せかけ」の姿勢を示そうとする
 以上は、安倍晋三を批判するために書いたものではない。
 この人は、ずいぶんと現実的になり、政治家として「したたかに」なったものだと感心し、ある意味では敬服している。ただの<口舌の徒>にすぎないマスコミ・ジャーナリストや評論家類に比べて、人間という点ではあるいはその職責上の役割という点でははるかに上かもしれない。
 もちろん、こう書いたからといって、安倍晋三を100%支持して「盲従」しているわけではない。

1845/自民党<自衛隊憲法明記>案では自衛隊は合憲にならない。

 一 自民党の大勢または多数議員は2017年5月3日に突如打ち出された安倍晋三総裁私案に、またはその基本的趣旨に賛成し、日本国憲法9条を改正したいようだ。
 その際、現9条第1項と第2項はそのまま存置し、9条の2を新設して、そこに「自衛隊」を明記して、<自衛隊の合憲化>または<自衛隊の合憲性論争に終止符を打つ>ことを意図しているらしい。
 マス・メディアの報道によっても、しかし、まだ9条の2の正規の文案(条文案)は確定的には伝えられていないようだ。
 だが、おおよそのところ、例えば下のAまたはBのようなものらしい。①と②は項。
 A「①我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
 ② 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」
 B「①我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つための必要最小限度の実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
 ②自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」
 このAとBの基本的な違いは、①で、自衛隊につきA「必要な自衛の措置をとる~ための実力組織」と書くか、B「~のための必要最小限度の実力組織」と書くかだ。
 しかし、どちらにせよ、第一に、そのように若干の説明または目的を記したうえで「自衛隊」なるものの「保持」を明記しようとするものに変わりはない。
 第二に、いずれも「法律の定めるところにより」として、「保持」の前提としての設立とその維持、つまり「保持」については「法律」が定めるとしている点で、変わりはない。
 二 このような案では自衛隊を合憲のものにすることは、絶対に不可能だ。
 昨年夏に諸案を批判したが、そのうち、上の案に最も近いのが、百地章の案・考え方だった。
 百地章に対する一年前の批判がそのまま、あてはまる。
 簡潔に記そう。
 ①自衛隊の正確な又は具体的な姿は上にいう「法律の定めるところ」を見なければ、憲法上はまださっぱり分からない。
  ②憲法上明確なのは、第一に、「軍その他の戦力」であってはならないこと(現9条2項)のほか、第二に、新設条文により、自衛のための「必要な実力組織」または「必要最小限度の実力組織」という性格づけに反してはならないこと。
 ③自衛隊の正確な又は具体的な姿(組織・編成・人員・活動等々)を定める「法律」は上の②の制約を受ける。とりわけ現9条2項にいう「軍その他の戦力」であってはならない、という制約を受ける。
 ④自衛隊関連法律が新設されるにせよ、自衛隊関連現行法律(および政令・省令等)が維持されるにせよ、それらが「軍その他の戦力」であってはならない、という制約の範囲内のものであるか否かは、永続的に問われ続ける。
 ⑤よって、上のような9条の2新設案で、自衛隊の合憲性の問題が解消するはずがない。
 なお、上の新設9条の2の②に明確には論及しなかったが、新設条の二項は「自衛隊の行動は、法律の定める~」と定めているのだから、上と全く同じことが妥当する。
 上にいう「法律」の現九条2項適合性が、つねに問われ続けるのだ。
 三 そうだとすると、「自衛隊」という概念と一定の説明・目的の言葉を残して、<法律の定めるところにより>という字句を削除すればよい、との考え方をすぐに思い浮かべる者もいるはずだ。
 しかし、これでも、「自衛隊」なるものを合憲視することはできず、合憲性論争は続く。
 日本会議の伊藤哲夫・小坂実等々の頭脳では理解不能なのかもしれないが、いちおう、簡潔に書いておく。
 ①憲法上の「自衛隊」は、当然のこととして現9条2項に抵触しないものである必要がある。そのようなものとしてのみ、新設条文は「自衛隊」を許容するはずである。
 ②よって、そのような憲法上の「自衛隊」の範囲内に、実際の、現実の(法令上の)自衛隊がとどまっているか否かは、永続的に問われ続ける。
  ③要するに、憲法上の「自衛隊」と、現行法制上の「自衛隊」または今後改正によってその具体的な態様は変動しうる「自衛隊」、とが同じであるはずがないのだ。
 四 一年前の夏に書いたことをいっさい変更する必要を感じていない。
 また、上の大きくは二点につき、ほとんど確信に満ちた自信をもっている。<ほとんど>とは一種の修辞で、実際には100パーセントだと言ってよい。
 少しでも憲法解釈、憲法と「法律」の関係、憲法・「法律」間解釈の作法を知っている者であれば、誰でも、こういう結論になるだろう。弁護士その他法曹資格を持つ者ならば分かるはずだ。
 しかし自民党の中でも大きな声になっていないようであるのは、<ともかく改憲>派、<できるだけ早く改憲>派に、政治的に遠慮しているからだろう。
 <改憲>という言葉・概念のトリック・魔力にひっかかっている政治運動団体があるからだろう。
 憲法に「自衛隊」という言葉さえ入れば<自衛隊>は(実際の自衛隊も)合憲になる、と考えている「アホ」丸出しの政治運動団体があるからだろう。
 大切なのは、<改憲か護憲か>ではない。<どのように改憲するか>だ。
 あるいはそもそも、現在の自民党案では<改憲>にならない。自衛隊の合憲性問題を、却って大きく意識させ、浮上させるだけだ。
 そしてまた、現在の自民党案では、「自衛隊」なるものが「軍・戦力」になることを半永久的に否定することになる。これも大きな弊害だ。

1796/池田信夫5/04ブログと「国民党」・憲法九条。

 池田信夫5/04「平和憲法が野党をダメにした」によると、新しい「国民党」の綱領には「違憲の安保法制の白紙撤回」や「解釈改憲を許さない」があるそうだ。
 池田とともに、やれやれという感じがする。
 昨年9月、もう半年以上も前になるが、毎日新聞の第二面あたりに、「保守かリベラルか」という大きなタテの見出しがあった。
 それは当時の民主党の代表選挙が前原誠司と枝野幸男の闘いになると報じるもので、前原=「保守」、枝野=「リベラル」と旧民主党内を位置づけ又は「色分け」していたわけだ。
 保守とリベラルという語のこういう使い方が印象に残ったのだった。それはともかく、9月から10月にかけての民主党や総選挙に関するコメントの中で共感できたのは、池田信夫によるものだった。
 原典、ソースの確認は厳密に行って、典拠は示してきたつもりだが、ここでは端折る。
 池田は、民主党が割れて反共・非共と容共の違いが明瞭になるだけでも意味がある、そういう形で選挙が行われるだけでも今回の(昨秋の)総選挙の意味はある(それだけてもよい)という趣旨のことをブログで(どの欄だと特定しないが)書いていた。
 これに秋月瑛二が同感できるのは、<反共・非共>対<容共+共産党>こそが現在の日本の最大の対立軸だと考えているからだ。後者は、私のいう「左翼」だ(とくに菅直人が首相のときの民主党は、民主党全体が「左翼」だと考えてきた)。
 そして、より具体的には、国会等々において日本共産党と「共闘」してもよい、又はそうすべきだ、とするのが「容共」=「左翼」だ(旧社民党で小選挙区当選のために旧民主党に移った辻元清美、何と東京大学名誉教授の上野千鶴子等々、いっぱいまだいる)。
 そういう民主党の中で<反共・非共>の旗幟を明確にしたい議員たちがいたのはよいことで、前原が代表となり、総選挙も想定して、小池百合子の「希望の党」と合流することとなった。
 このとき、安倍晋三首相・自民党総裁は、こう皮肉り、あるいは挑発した。
 <選挙目当ての野合ではありませんか!
 この言葉は、正確には奇妙なことだ。
 なぜなら、自民党こそが、最大の「選挙目当ての」、あるいは議員やそれになりたい者たちが「選挙での当選」を最優先にして入党し、そのような者を軸にしていくつかの集団を作って「野合」している政党だからだ。
 この安倍晋三発言(・演説)のたぶん翌日だっただろう、小池百合子はこの発言を意識していたに違いない。そこで、こう言った。
 民主党議員を<丸ごと受け入れるのではない。(一部は)排除します。
 新党・希望の党に吹いていた風向きがここで変わったようだ。
 しかし、どう真面目に考えても、(旧)民主党内の明確な<容共>または明確な<反・保守または自民党>の議員全てを取り込んだ新しい党というのは想定し難い。
 小池百合子は「改革保守」、「しがらみのない保守」を目指すと、明確に発言していた。
 したがって、「排除」であれ「拒否」、「区別」であれ、論理的には全く問題はないものだった。
 しかし、この言葉に<傲慢さ>を感じたのだろうか、「言葉」の揚げ足取りを好む日本のマスコミは「排除」という語をしきりと報道した。
 そしてむしろ関心は、新党ではなく、新々党である「立憲民主党」へとさらに移ってゆき、野党の中では枝野幸男を党首とする立憲民主党が第一党になってしまった。
 当時、池田信夫のブログをよく見ていたのだが、こうした状況の変遷をよく感じ取れた。
 そして、いつだったか、池田は、<今回の総選挙は、政治的には一回休み(だった)>と書いた。
 これにもまた、同感できた。
 ほとんど変わらなかった。大きくは変わらなかった。
 しかし、重要な一つは、上記のように「改革保守」・「しがらみのない保守」を標榜した<希望の党>が惨敗したことだ。なぜだったのだろうか。
 この「保守」色が<なんとなく左翼>を含む一般有権者に嫌われた可能性もあり、また立憲民主党に新鮮さを感じた人たちも多くいたのかもしれない。
 しかし、その理念から見て、<希望の党>と立憲民主党は基本的に異質だったはずなのだ。同じ<新党>という名で括れるようなものではなかった。
 また、昨年前半にはあった小池百合子ブーム的なものは、<本来の保守>だと自らを考えている日本会議や産経新聞主流派には気にくわなかった可能性がすこぶる高い。
 日本会議・産経新聞主流派は政治運動の中での「保守」運動の主流・中心だという(自分たちはそう考えている)位置を奪われてしまう危険を感じたのだ。
 危険は、小さいときに摘み取っておくにかぎる。
 そこで、<保守系>月刊雑誌にも、立憲民主党や共産党よりもむしろ<小池百合子>を批判し警戒する論考や記事が多くなった。
 いちいち立ち入らないが、当時の月刊正論、月刊Hanada等を見れば明らかだろう。
 櫻井よしこはこの当時以前から、小池百合子に対する敵意を丸出しにしていた。
 政治運動団体・日本会議の基本的な考えにそったものだと思われる。
 また、中国問題等々でかなりよい発言等をしていた有本香までもが、編集者・出版者に依頼されたからだろう、反小池百合子の論考や書物を書くに至った。
 日本会議・産経新聞主流派の<保守系>評論家に対する影響は大きい、と言わなければならないだろう(その例は、江崎道朗にも見られる)。
 産経新聞の表向きの姿勢は別として、少なくとも日本会議の幹部たちの関心は、共産党でも立憲民主党でもなく、自民党を大きくは減らさないこと、そして小池百合子(=希望の党)を大きくさせないことにあった、と推察させる。
 日本会議という特殊な政治団体という「ピース」に気づいてそれを嵌めて、初めて理解できることが秋月にはある。
 なぜ、産経新聞社発行の月刊正論の編集代表者・桑原聡は、あれほどまでに橋下徹を危険視したのか
 さらに別の機会に書く。要するに、彼らは自分たちの影響力の外で「保守」と名乗る又は「保守」だと評される者の存在を認めたくないのだ。
 小池百合子のいった「しがらみのない保守」とは何だったのか?
 自民党にいた小池だから、いろいろなことを知っているに違いない。そしてすでに当時に秋月はこう意識したものだ。すなわち、「しがらみ」=日本会議の影響ではないとしても、「しがらみ」の中には安倍晋三等(日本会議関係国会議員)と日本会議の間のそれも含まれているに違いない、と。
 安倍内閣が昨8月頃に支持率を落としていた背景の一つは、「お友だち」つまりは稲田朋美等の日本会議と親近的な議員を閣僚や自民党の要職の就けている、という印象だったと思われる(そして、小池百合子は安倍総裁のもとでの自民党では「疎外」されていた)。
 なお、これまた特定の手間を省くが、八幡和郎は選挙後に、「希望の党」がもっと増えていた方が憲法改正は容易になったとだろうブログで書いていた。この感想も、池田信夫のそれとともに的確だろう。
 総選挙結果に関するもう一つの重要なことは、日本共産党は議席を減らしたが大敗したわけでもなく、日本共産党が候補者を立てなかった選挙区でかなりの立憲民主党の候補者が当選したことだ。つまり、現在の立憲民主党国会議員には共産党員や本来は同党支持者の票が入っている。
 そして、日本共産党幹部会委員長・志位和夫は、こう明言した。
 <志を同じくする候補が多く当選したのはよいことだった(決して悲観しない)>、と。
 日本共産党からすれば、立憲民主党は<志を同じくする>党と見られていることに注目しなければならない。
 この「志」というのは、社会主義(・共産主義)への道というわけではなく、現時点では、2015年成立の平和安全法制は違憲だと言い続け、<九条改憲を許さない>と主張する姿勢に間違いないだろう。立憲民主党というのはこの点では日本共産党と同じで、紛れもなく<容共>政党であると認識しなければならない。
 かくして、憲法問題では、共産党・立憲民主党・社民党・自由党という共産党と「左翼」政党が明確に揃い組みすることになった。
 ここで今回の冒頭に戻るが、玉木雄一郎らの「国民党」なるもの所属の議員たちが、昨年の民主党分裂の意味を忘れ、一体何のための分党で、何のための「希望の党」設立だったのかを放念しているのだとすれば、見識と良識、人としての倫理感の欠如を疑わせる。
 池田信夫が指摘するように、「憲法」でしか自民党と差別化できない野党というのは、きわめて存在意義が薄い。
 あらためて書いてもよいが、九条をめぐる「改憲」か「護憲」(または改悪阻止)かは、現在の日本の基本的な対立軸では全くない、と考えるべきものだ。
 そのように対立軸を設定してきたのは、憲法学界に党員や支持者を多く獲得することを地道に?積み上げてきた日本共産党の戦略そのものだ。
 日本共産党は、「憲法」を利用して、あるいはそのいう「平和と民主主義」を利用して、党員や支持者、そして選挙での票を獲得し、拡大しようとしてきたのだ(その長い闘争のわりには、それはまだ完全には成功していない、とは言える)。
 憲法九条をめぐる対立は現在の日本にとって決して最大の、あるいは本質的な問題ではない。いや、正確に言えば、九条二項の廃止・国防軍の設置に賛成か反対かではなく、二項存置「自衛隊」明記に賛成か反対かというのは、全くとるに足らない、馬鹿馬鹿しい、非本質的な、「とんちんかんな」議論を生じさせている、ニセの対立点だ。
 すでに内閣法制局、そして内閣の憲法解釈が変わり、2015年の国会・両議院もまた、その解釈を支持して平和安全法制を成立させ、施行させた。<フルスペックではない>にしても現憲法下でも限定的な集団的自衛権の行使はできることに、法制上なっており、現在の国会も内閣もこれは違憲ではないと判断している。
 新しい「国民党」は、これをいったいどうしたいのか?
 かつまたこれを論じることに、いま、どのような意味があるのか。
 日本共産党が今でも自衛隊の存在自体が違憲だと主張し続けているように、立憲民主党同様に「国民党」もまた、2015年平和安全法制について「違憲の安保法制の白紙撤回」と主張し続けるつもりなのか。バカバカしい。
 ついでに追記しておく。
 枝野幸男は自衛隊の憲法明記は2015年平和安全法制による「集団的自衛権行使の容認」を憲法が容認することになるから(二項存置)自衛隊明記に反対する、と言った。
 また、小池百合子は、自信たっぷりではなかったが、現在防衛省の中の重要だが一部署であると言うしかない自衛隊を(防衛省設置法を飛び越えて)憲法上のものにするのは奇妙だ、と昨秋に述べていた。
 この二つの議論は、いずれもおかしい。憲法・法律の関係、憲法解釈というものが分かっていない。「とんちんかんな」議論がすでにいっぱい始まっている。
 今回は立ち入らない。
 青山繁晴、高市早苗のように、二項存置「自衛隊」明記論に反対し、二項自体の削除を支持することを明確にしている自民党国会議員もいる。こちらの方が「正しい」方向だろう。
 (二項存置)「自衛隊」憲法明記についての自民党の条文案では、「自衛隊」に関する違憲・合憲論争に「終止符を打つ」ことは絶対にできない。かつまた、違憲・合憲論争をかえって刺激して大きくすることになる。自信をもって、確言できる。
 この点は機会があればまた書きたいが、国民投票の現実的可能性等々も勘案すると、大きな関心はなくなっている。

1786/「前衛」上の日本共産党員⑭-2018年05月号。

 以下、明確に日本共産党の党員だと見られる。
 日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』2018年05月号による。
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 山内敏弘/一橋大学名誉教授-安倍九条改憲。
 西谷 修/立教大学特任教授-安倍改憲。
 丹羽 徹/龍谷大学教授-教育無償化論。
 田中 隆/弁護士-安倍改憲と改正手続法。
 鈴木達治郎/長崎大学核兵器廃絶研究センター長-核。
 桜田照雄 /阪南大学教授-カジノ実施法案。
 斉藤敏之/農民連副会長-卸売市場法。
 大日方純夫/早稲田大学教授-明治150年と自由民権。
 中村晋輔/弁護士-米兵殺人国家賠償。
 佐貫 浩/法政大学名誉教授-教育政策と新自由主義。
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 以上。別の号につづく。

1748/田久保忠衛・日本会議会長は平然とウソをつく。

 「日本会議」のウェブサイト上に「平成29年(2017年)03月15日」付けの、日本会議会長・田久保忠衛の名による、「日本会議への批判報道を糾す」という文章が掲載されている。月刊Hanada(飛鳥新社)2016年8月号に掲載のものに加筆したものだというが、後者で確認しても、ここで秋月瑛二が問題にしたい部分には変更がなく、全く同じだ(後者p.32~のうち、p.35)。。
 どちらを見てもよいのだが、日本会議会長・田久保忠衛は、憲法改正・九条問題についてこう明記している。
 ①「そもそも、改憲論者で第九条の二項を変えようという者はいるが、一項を変えようという者はいない。
 そして、日本国憲法現九条一項と二項を引用したうえで、②「読めばわかるように、一項は『侵略戦争をしない』との意味で、これに反対する人はいまい。しかし、二項のままでは自衛隊は軍隊ではない」、と説明する。
 上の①は、「改憲論者」の中には九条「一項を変えようという者はいない」ということ。
 これは、全くのウソ、全くのデマだ。しかも、田久保忠衛が自身が「改憲論者」だとすれば、この人は自分自身がしたことを意識的に無視しているか、呆然として忘れている。
 産経新聞・同社は、月刊正論編集部も含めて、「改憲」支持派だろう。
 しかして、産経新聞のウェブサイトにも載っているが、現「一項を変えようとする」憲法改正案を堂々と発表している。
 2013年(平成25年)春に発表された、産経新聞社「国民の憲法」草案要綱は、現在の第二章を第三章とし、表題を「国防」と改めて、つぎの条文を提案した。
 「第一五条(国際平和の希求) 日本国は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国が締結した条約および確立された国際法規に従って、国際紛争の平和的解決に努める。
 第一六条(軍の保持、最高指揮権) 国の独立と安全を守り、国民を保護するとともに、国際平和に寄与するため、軍を保持する。
  2 軍の最高指揮権は、内閣総理大臣が行使する。軍に対する政治の優位は確保されなければならない。
  3 軍の構成および編制は、法律でこれを定める。」
 この15条、16条が現行の9条全体に代わるものとして提言されていることは、ここで子細を書くと面倒なので避けるが、明らかだ。
 そして、<「国民の憲法」要綱全文と解説>のうちの解説は、つぎのように叙述する。「」は直接の引用。
 「侵略のための武力行使の放棄や国際平和に努める『平和憲法』は外国の憲法でも珍しくない。こうした現状を踏まえ、現行憲法第9条1項前段にうたわれた「国際平和の希求」は今後も堅持すべきだと結論づけた。
 ただ、同項後段にある武力行使を禁止した件には疑問が出された。ある委員は、現行規定をそのまま残し、国際社会にも武力行使を慎むよう期待を表明する条文を提案した。
 最終的には単に『戦争を放棄する』とした『消極的平和主義』から、紛争の平和的解決や国際平和の実現にわが国が尽くしていく『積極的平和主義』に立脚した表現に改められた。」
 これについて、田久保忠衛は「一項を変えようという」ものではない、あるいは一項の「平和主義」は変わらない、と理解するのかもしれない。
 しかし、<一項を変える>ということの意味にもかかわるが、<消極的平和主義>から<積極的平和主義>へと変えるものであることは明言されている。また、現在の「同項後段にある武力行使を禁止した件には疑問が出された」という委員の意見が最終的には生かされたかたちになっている。
 なお、現九条一項は、つぎのとおり。念のため。
 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
 ところで、田久保忠衛は上の産経新聞「国民の憲法」案起草委員会の委員長だった
 その田久保忠衛が上のように「一項を変え」るものではない、と理解するのは無理であるのは、田久保自身の著のつぎの文章からも明らかだ。また、「武力行使を禁止した件には疑問」があるとしたのは、田久保自身である可能性がある。
 田久保忠衛・憲法改正/最後のチャンスを逃すな!(並木書房、2014)。
 田久保自身が、こう明記する。p.175。
 「産経新聞社の『国民の憲法』要綱は」、「現行憲法第一項を含めて全文を改め」(ここで上記15条・16条を挿入)「…と規定した」。
 これは、田久保が2016年・2017年そして現在の、「そもそも、改憲論者で第九条の二項を変えようという者はいるが、一項を変えようという者はいない」という理解・主張と合致するか?
 田久保自身が、「一項を変えようという」、「改憲論者」なのではないか。少なくとも2013年時点および上の著刊行の2014年時点では、そうだったのではないか。
 そして、日本会議会長としての2016年以降の上掲文章は、真っ赤なウソはないか。
 追記すると、上の2014年著で田久保は、「第一項を含めて全文を改め」る必要を、一項について、森本敏の指摘に「全く同感」だとして、つぎの二点を述べる。以下は、抜粋・要約的引用。
 第一。「国連多国籍軍」のような「集団的安全保障に参加」できるかが疑問。「第一項をそのまま残」すと「国際紛争にかかわる集団的安全保障に参加できないことになる」。
 第二。集団的自衛権行使容認に「法制局解釈」が改められると「日本は米国に対する武力攻撃を、自国が攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する場合、米国が多国籍軍に入っているときに、日本はどうするか」という問題が生じる。「第一項がある限り、日本は動きがとれなくなってしまう」。
 立ち入らないが、現一項(と二項の関係)の解釈自体や現行の平和安全法制が容認する<フル・スペックではない>集団的自衛権行使の具体的態様にかかる解釈・現実運用、「米国が多国籍軍に入っているとき」ということの意味・可能性の問題でもあるだろう。
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 田久保忠衛は、日本会議系とされる<美しい日本の憲法をつくる国民の会>の共同代表を櫻井よしことともに務めている。
 そして同会の冊子やウェブ上の現九条一項・二項に関する考え方と、上の産経新聞社の改正草案要綱や田久保・上掲書の考え方は一致していない、同じことだが矛盾していると、この欄ですでに指摘したことがある。
 №1275/2015.01.22、№1494/2017.04.11
 日本会議会長としても、田久保忠衛は、自分自身の過去の見解を無視して(あるいは呆然と忘れて)、平然とウソをついているのだ。
 憲法改正問題、とくに九条問題にはいまや大きな関心はないのだが、こんな<大ウソ>が吐かれていることを知って、記しておく気になった。
 なお、自民党の公式の現在の改正案は(その前の<桝添要一委員長>を経た改正案も)、および読売新聞社の憲法改正草案は、現一項を(上の産経新聞社案と違い、基本的には)そのまま残すこととしている。
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 上の産経新聞社の現九条関係の<解説>は、他にも興味深いことを述べている。
 以下に引用する。
 「現行憲法第9条2項の「…<中略>」との条文を全面的に見直し、現存する自衛隊を軍として明確に憲法に位置づけることにも、全委員が賛成した。」
 これは、昨2017年5月の<二項存置・自衛隊明記>という安倍晋三自民党総裁提言に正面から反対することを意味する。しかし、産経新聞はこの提案をどう受け止めたか?
 もちろん、2013年と2017年という違いはある。それに、何と言っても<安倍晋三首相>の提言なので、産経新聞社がかつては会社としても採用したはずの改正案起草委員全員による二項<全面見直し>論を捨ててしまった、としても無理はないだろう。

1710/1993年の憲法九条二項存置・三項追加論。

 広大な書庫の片隅の本の下に、自主憲法期成議員同盟・自主憲法制定国民会議編・日本国憲法改正草案-地球時代の日本を考える-(現代書林、1993)が隠れていたのを見つけた。
 この書p.25の憲法現九条改正案は、一・二項存置三項追加論だ。
 しかし、今年5月以降の「現在の自衛隊を憲法に明記する」というアホらしい追加論(九条の二の場合も含む)に比べると、はるかにましだと考えられる。
 新三項-「前二項の規定は国際法上許されない侵略戦争ならびに武力の威嚇または武力の行使を禁じたものであって、自衛のために必要な軍事力行使を持ち、これを行使することまで禁じたものではない。」
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 ・この条文は<侵略戦争>と<自衛のための軍事力行使>を重要な対概念としているので、第一項の趣旨や第二項冒頭の「前項の目的を達するため」との関係が再びむしかえされる可能性がある。
 ・当然に、二項を削除して「…軍その他の戦力」を保持できるようにる改正案ではない、そのかぎりで、本来あったはずの<保守派>の九条改憲ではない。
 ・しかし、「自衛のために必要な軍事力行使」の保持と行使を容認することを明記するものだ。かつまた、「自衛」目的の「軍事力」という言葉を使って、おそらくは意識的に「…軍その他の戦力」に明らかには含まれないようにしている。
 自衛のための「軍事力」行使はするが、その組織・機構は「軍」・「軍隊」ではない、というのは、苦しいかもしれないが、成り立ちうるだろう。
 ・「自衛隊」との紛らわしい言葉を憲法に使っていないことは、むしろすっきりしている。現在に法律上および現実に「自衛隊」と称する機構・隊があるので、改正憲法上にこの概念を(「軍その他の戦力」ではないものとして)用いるのは混乱させるだけだし(かつ「軍」不保持を固定化する悪効果もあり)、また、*現在の自衛隊をそのまま*憲法上に記述することは、どだい不可能なことなのだ。
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 これに比べれば、現在の「自衛隊」をそのまま?憲法に明記するとの改正案は、悲惨だ。
 日本会議も産経新聞(・阿比留瑠比)も、伊藤哲夫も、櫻井よしこも、百地章も、潮匡人も、そろってアホだ。遅くとも条文作りに入れば、この案は消滅する。
 安倍晋三もおそらく、もはやこだわってはいないのではないか。しかし先の選挙公約で謳ったこともあって、アホらしくも体裁上は残ったままだ。
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 上の自主憲法期成議員同盟には1990年代初頭の有力な改憲派議員が加わっている。
 現職国会議員は計176名とされる(p.220)。そして、安倍晋太郎、高村正彦、船田元等々の名もある(いちいち写さない)。
 不思議なのは、昨今の憲法改正論議において、伊藤哲夫も、櫻井よしこも、安倍晋三その他も、どうやらこの本を真面目には参照としているとは思えないことだ。九条三項追加論にもかかわらず。
 自民党の二次にわたる改憲案づくりではこの本は参照されたが、九条については、「防衛軍」または「国防軍」の設置を、二項を全面削除したうえで明記することにしているので、上のような<九条三項追加論>の出る幕はなかったのかもしれない。

1702/百地章・産経「正論」欄8/9の過ちと悲しさ。

 気の毒だ。悲しいことだ。しかし、百地章はやはり信頼できない。
 産経新聞8/9「正論」欄に、つぎの案を書いてしまった。二項存置自衛隊明記の条文案だ。
 「9条の2/前条〔9条〕の下に、わが国の平和と独立を守り、国際平和活動に協力するため、自衛隊を保持する。その組織及び権限等は、法律で定める」。
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 さっそく小林よしのりが批判した。ブログの8/9で。
 「産経新聞の『正論』欄で、百地章が安倍政権の改憲草案作りを粛々と進めよと言っている。//
 ものすごい勘違いだと思うのは……。…/百地章は客観性を担保しろ。/
 そして、甚だしい勘ちがいの2番目は、憲法9条1、2項をそのままで自衛隊明記という『加憲案』は、『一歩でも二歩でも前進する』方法論ではない。
 国民投票で、可決されても、否決されても、現状より悪くなる史上最悪の『加憲案』」である。/
 わしは純然たる『改憲論者』だから、この『加憲案』は絶対に許せない!」
 小林よしのりはその前から、今次の「加憲」なるものに反対だった。<安倍・日本会議案>とも、事態をより本質的に?捉えてもいる。
 8/3-「憲法9条1項2項をそのままで、自衛隊を明記するという考えは完全に『護憲派左翼』である。/
 「『護憲派左翼』は実は『従米主義』であるという欺瞞から目を背けているだけなのだ」。
 7/31-「安倍晋三のわがままで、日本会議のために、憲法9条そのままで自衛隊を明記するというトリック加憲が目指されている。/『お友だち内閣』だから、日本会議というお友だちのために、働くのだ。/決して国民のためではない」//。
 「安倍晋三は、発議しても国民投票で必ず負ける詐欺的加憲案を、やっぱり作るらしい。/憲法改正は、安倍晋三の『私』的なレガシー、政治的遺産作り、名誉欲のためだけに行ってはならない!//
 「わしは『公』と『権力』が合致しているときは、政府を応援するが、この二つがズレ始めたら、警鐘を鳴らし、……これを阻止する。//
 わしは常に「公」に付く。/だが、劣化保守&ネトウヨ連中は、安倍個人崇拝で、「公」よりも「権力」に付く。//
 言っておくが、自衛隊明記のためだけの加憲は、国民投票で可決されても、否決されても、日本にとって最悪な結果しかもたらされない。/可決されれば、戦後レジームの完成、軍事法廷なしの集団的自衛権行使に突入。//
 否決されれば、憲法改正の機会は100年遅れる。// 
 「公」のためにならない、最悪の安倍・日本会議案にわしは断固反対する!」
 7/28-「わしは安倍首相の改憲論は、ウルトラ欺瞞であって、左翼に媚びた加憲だと思っている。/
 わしは個人的に、恐れると言えば、確かに恐れる。//
 なぜなら「戦後レジームの完成」、自衛隊が永遠に軍隊になれない、盤石な左翼国家の誕生になるからだ。//
 それはアメリカの永久属国憲法になると思っている」。
 「福島瑞穂が出したら、猛反対するくせに、安倍晋三が出したら大賛成するのだから、産経新聞、極左大転向というニュースになっていいくらいだ」。
 この最後の7/28には、この欄の7/30=№1677で言及した。
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 秋月瑛二も6月に伊藤哲夫改憲案に批判的にコメントしたあと、7月末からこの<九条存置自衛隊明記>論を成文化がほぼ間違いなく不可能な案として、その論拠も含めて、頻繁に書いた。
 その中には、百地章「私案」に対するものもあった。
 すなわち、8/2の「百地章私案もダメ-「日本会議」派の九条二項存置・自衛隊明記論」。
 産経「正論」欄で百地章が書いている案は、ほぼ上と同じなので、8/2での批判がそのまま当てはまる。
 以下、あらためて記し、またこの人が他に言うことにもコメントしよう。
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 「9条の2/前条〔9条〕の下に、わが国の平和と独立を守り、国際平和活動に協力するため、自衛隊を保持する。その組織及び権限等は、法律で定める」。
 第一、「前条〔9条〕の下に、わが国の平和と独立を守り…i協力するため」は「自衛隊法の条文を参考に」しているらしいが、自民党の改憲案にも、「国防軍」か「自衛軍」について見られるはずだ。但し、自民党改憲案は九条二項削除での<軍>設立明記の際の趣旨文言だったのだから、意味・位置づけが全く違う。
 第二に、上のことよりも、「自衛隊を保持する」と、第一文の最後に「自衛隊」という語・概念を使っているが、これがそもそも何を意味するのかがさっぱり分からない、という基本問題がある。
 前回に批判的にコメントをしたときは<自衛隊の権限を一切変更しないのが大前提」だという事前の<解釈>または<解説>をつけていた。
 これをおそらく、第二文案の「その組織及び権限等は、法律で定める」に改めている。
 <現在の自衛隊の権限等を変更しないのが前提>とか言っていた部分を、「法律で定める」に変更して、問題を回避している、かに見える。
 実際には、そんなことは全くない。
 百地章は、この案の「狙いの第一」は「『自衛隊の保持』を憲法に明記することで違憲論の余地を無くすことにある」という。
 憲法学者でありながら、幼稚としか言いようがない。
 何度も、同じことを書く。
 第一文にいう「自衛隊」とは何のことなのか。
 たしかに、ここにいう(加憲された条文の言う)「自衛隊」なるものは、その設置が明記され、合憲的なものとされる。しかし、これはまだ、憲法規範上の概念であり、用語だ。
 この自衛隊が現在の・今の自衛隊をそのまま意味しているはずがない。
 百地章が正当にも第二文で書くように、「自衛隊」「の組織及び権限等は、法律で定める」のであって、その「法律」を見なければ何も分からない。
 上記のごとき目的のための「自衛」の「隊」というだけのことだ。
 しかしおそらく百地章は、現在に自衛隊に関して存在する諸法律が憲法上の「法律」に当たることになる、と主張するのだろうと思われる
 そのように、論旨展開をすることはできなくはない。しかし、そう主張しても、現在の諸「法律」自体が違憲だ、あるいは例えば集団的自衛権行使容認のこの部分が違憲だ、といった主張を消滅させることはできない。
 <<かりに万が一>>百地章の案が実際に憲法条項なったとしても、いまの・現在の自衛隊違憲論者あるいは少なくとも集団的自衛権行使容認違憲論者は、断固としてつぎのような憲法解釈を主張するに違いない。
 すなわち、例えば、百地章案九条の二の「自衛隊」は九条二項の「軍その他の戦力」であってはならない、いまの・現在の自衛隊(を種々に定めている)「法律」はその根幹部分がこの制約に違反しており、少なくとも自衛隊に集団的自衛権行使を認めている法律諸条項は違憲である、と
 前回に言及した、「左翼」・水島朝穂の憲法解釈の仕方は、スジとしては誤っていない。
 百地章は、設置が明記され合憲的なものとされる、と言うが、これは大ウソ。
 絶対に、違憲論が残り、有力に主張される。この点で現状と同じで、憲法解釈論を今よりも複雑にさせるだけだ。
 そして、万が一かりにこの加憲が成功したとしても、それは、<軍・戦力ではないものとしての自衛隊>をしばらくの間はずっと公認・公定することになる。これこそが、今次の百地章案であり、「日本会議」案だ
  また百地章は今回の立論の趣旨の一つは「自衛隊に栄誉を、そして自衛官に自信と誇りを与え、社会的地位を高めることだ」、という。
 気分が少しは分からなくはないが、これは欺瞞だ。
 なぜなら、「軍その他の戦力」である、正規の?国軍・国防軍・自衛軍・防衛軍ではない<自衛隊>の構成員としての「自信と誇りを与え」、というのは、一体何を百地章は主張したいのだろうか。<軍・戦力ではない自衛隊員としての自信・誇り>とは一体何のことだ。
 <自衛隊を明記を>というスローガンの真実は、<戦力でない自衛隊の明記を>、<戦力として認めないままで自衛隊の明記を>、ということだ。
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 これ以上の繰り返しを避ける。百地章等について記したことを、もう一度、そのまま以下に掲載する。
 8/2-「百地章にいう私案の冒頭で『自衛隊』という概念を使ったとたんに、現実にいまある『自衛隊』とは論理的には別の概念・範疇が生まれる。/その別の概念・範疇と現実とを、…連結することはできない。百地章の<頭・観念世界>の中ではできても。/この<連結>は、不能だ。分かって主張しているとすれば、ペテンであり、欺瞞だ。//
 この百地章も、概念・現実、規範と現実、憲法規範と現行法規範の関係について、大きな錯覚に陥っている。大きな過ちを冒している」。
 8/9-「憲法上に『自衛隊』なるものの容認規定を作ったところで、そこでの『自衛隊』がいまの・現在の自衛隊を意味することになるわけでは全くない。
 ひどいことに、八木秀次や西修も、全く気づいていない。/
 法規範解釈論としては、「左翼」・水島朝穂の方がまだ鋭い。/
 百地章、八木秀次、西修、いずれも産経新聞、「日本会議」派の<憲法学者>のようだが、知的・学問的なレベルでは、九条二項存置・自衛隊明記論に限ると、伊藤哲夫・岡田邦宏・小坂実、そして櫻井よしこ・田久保忠衛らと変わらないようだ
 いや、知的学問としてではなく、<政治>優先の=安倍支持・産経支持の=文章を書いているのにすぎないのかもしれない。」


1698/「日本会議」・伊藤哲夫の稚拙と安倍内閣改造。

 これでまともな改憲提案か。
 伊藤哲夫=岡田邦宏=小坂実・これがわれわれの憲法改正提案だ-護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?(日本政策研究センター、2017.05)。
 体裁からして、計200頁ほど。
 三点しか、改正の提案はない(緊急時、九条、家族)。しかも、具体的な条文案を用意しているのでもない。
 その計200頁ほどのうち、総論的部分が30頁ほどあるので、平均すると、一つの改憲項目について、50-60頁ほどしか当てていない。しかも、そのうち過半は「鼎談」。
 読者を馬鹿にしているだろう。
 これでよく、「護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?」と表紙に書けるものだと思う。ほとんど発狂している。この人たちがいう「護憲派」は、この人たちの発言・文章よりも確実に1万倍以上、長年にわたって執拗に情報を発信してきている。
 これで本当に「それでも憲法改正に反対か?」と胸を張れると思っているのだろうか。ほとんど発狂している。
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 伊藤哲夫による、冒頭の総論・入門部分(といっても計17頁)を読んでみよう。明らかに、稚拙さあるいは誤りがある。
 伊藤は堂々と「憲法改正に関する基本認識と現状への視覚」と表題を掲げる。
 伊藤哲夫が指摘するのは、現日本国憲法には「国家」と「日本」が欠けている、ということ。これは、さすがに?、「日本会議」がその設立趣旨で謳っているのと同じで、かつ櫻井よしこが最近に現憲法・憲法改正にからめて言っていることとほとんど同じ
 もちろん、「国家」・「日本」の意味が問題になるが、先に進もう。
 第一。そのような欠陥の「淵源」を、アメリカの「占領政策」に求める。p.15。
 これは「日本会議」派によく見られる、<反米>ルサンチマン的心情の発露だ。
 <親米>外交政策を支持しつつ、この人たちには、<民族の栄光>を侵奪してしまった、侮辱したアメリカへの底知れぬ憤懣があるやに感じる。
 中川八洋がよくこの人たちを<民族系>と称するのは、根拠がないわけではない。
 ともあれ、しかし、①現日本国憲法の直接の「淵源」はアメリカでありマッカーサーだっとしても、現憲法の基礎にあるのは、天皇条項は別として、<リベラル・デモクラシー>という欧米的・近代的「国家・憲法」観であって、アメリカに限るのは、誤謬だ。
 アメリカ独立・連邦建設時の「国家・憲法」観とともにフランス革命時およびその前後以降の、<欧米思想>がはっきりと流れ込んでいる。三権分立(規範制定と執行の別、司法権の別置)、<自然権的「人権」>思想、等々。
 伊藤哲夫は、きちんと勉強したことがないのだろう。政策研究センター「代表」らしい程度には。
 現憲法の上の二つの欠落は「まさに占領政策に淵源する」。/「占領政策の影響をストレートに受けた」、「その帰結そのものがこの憲法になった」。p.15。
 上の認識、評価は誤りだ。
 また、②占領期のアメリカの対日政策は、1950年以前、すでに1947年頃には<変化>>している。九条の定めにしても、制定・公布時と比べて、国際・東アジアの安全保障・軍事環境はまるで変わっていた。だからこそ、<白色>パージから<レッド・パージ>へと公職追放対象は変わったし、日本政府も、憲法改正(とくに九条)をしないままで警察予備隊・保安隊を設立する方途へと進んだ。
 <アメリカの占領政策>と簡単に書き、「マッカーサー・ノート」を持ち出したりするのだけでは、決定的に時代認識が足りない。なぜその頃に憲法改正(とくに九条)しなかったのか、できなかったのかにも言及すべきだろう。
 幼稚、稚拙-伊藤哲夫。おそらくは、「日本会議」の幹部・活動家(櫻井よしこを含む)たちも。
 第二。伊藤哲夫は長々と欠陥住宅・耐震補強やゴルフの喩え話をする。p.18-22。
 せっかくの貴重な紙面を、退屈な話で埋めている。読者としてきっと、伊藤哲夫らと同等の読者を想定しているのだろう。
 しかし、こうした部分は、むしろ多くの読者を<馬鹿にする>ものだ。自分のレベルに合わせない方がよい。
 第三。いつぞや、<ただ、卑しい>と書いた。
 政治戦略的なテーマになるのだが、この人たち、伊藤哲夫らは、自分たちが<政治戦略>を考えていることを、明らかにしている。
 つまり<改憲に反対でない国会議員>が三分の二超を占めている、という国会の状況、そしておそらくは安倍晋三が首相である、というのを前提にしてだ。p.21-24。
 これを踏まえて、何とか<改憲>したい、または安倍晋三に<改憲>をさせたい。これこそが、この人たちの基本的パッション(熱情)だろう。
 このこと自体を批判しない。「左翼」・日本共産党のように<安倍による改憲反対>などとは思わない。
 しかし、問題なのは、卑屈になり、場合によっては日本共産党の<憲法解釈>に屈服してまで、つまりは合意が得られるようにハードルを下げて、<形式的でもいいから、改憲したい・させたい>という願望を実現しようとしていることだ。
 その結果として、九条二項存置のままでの三項・自衛隊明記論も出てきている。
 この案の行く末については、すでに書いた。
 結局のところは、<現実的に>これまでの「保守」の基本的考え・目標を投げ捨てることにつながっている。
 小林よしのりが自衛隊=非「軍・戦力」視を固定する「左翼」・「極左」の改憲案・考え方だと評したのも、ある程度は的を射ている。
 興味深いと思うのは、伊藤哲夫らは政治家でも国会議員でもないのに<政治戦略>を弄していることだ。
 この人たちは、いったい何者なのだろう。<策略家>か、<陰謀家>か。
 <保守>論者ならばそれらしく、スジを通すべきではなかったのか。
 しかもまた、その案は<現実的>でも何でもない。
 理想を70-80点だとすると、<現実的に>20-30点を獲得しよう、という案にも、実際にはなっていない。
 繰り返さないが、案への賛成・反対を論じる以前に、この案は実際には成文化できないだろう。現実の案にはならない、きっとつぶれるものだった、と思われる。
 伊藤哲夫や「日本会議」に対して冷たすぎるかもしれないが、秋月瑛二にもいろいろな経緯がある。
 もう少し別に触れよう。
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 二項存置・自衛隊明記案は、すでに政治的には消滅した可能性もないではない。
 8月の安倍首相による<内閣改造>は「お友だち内閣」という名の、実際には、正確には、「日本会議とつながった」内閣では危ないと安倍晋三が判断しての、「日本会議」隠し内閣改造だった(まだ少しは残っている)。
 2012年末の安倍晋三内閣誕生は、「日本会議」・産経新聞だけが生み出したのではなかった。
 しかし、安倍晋三内閣は、「日本会議」・産経新聞が崩壊させる可能性・危険性がある。
 そのように、政治的感覚が(樺島有三、伊藤哲夫、櫻井よしこらよりは)鋭い安倍晋三が判断した、という可能性があるだろう。
 2015年安倍内閣戦後70年談話を、産経新聞や「日本会議」がかりに批判していても、安倍内閣は倒れなかっただろう。朝日新聞らが基本的には反対できない「歴史観」を述べたからだ。
 しかし、一方で、産経新聞と「日本会議」派だけでは、安倍晋三内閣を支えることはできない
 安倍晋三は、ひょっとすればこの重要なことに、ようやく気づいたのかもしれない。

1697/篠田英朗・ほんとうの憲法(ちくま新書、2017)①。

 篠田英朗の「もし…明確化する」ならばという加憲条項案も問題が多い。
 篠田英朗・ほんとうの憲法(ちくま新書、2017)。
 「おわりに-9条改正に向けて」の最終行=「あとがき」の直前。
 「前二項の規定は、本条の目的にそった軍隊を含む組織の活動を禁止しない」。
 これが、著者・篠田英朗の、「かりに」九条三項を創設するとすればの案だ。おかしい。
 第一に、これでは、篠田のいう「自衛隊の合憲性を明確にするのであれば」という前提目的を達することができない。
 なぜならば、現在の・いまの自衛隊が「本条の目的にそった軍隊を含む組織」でありその活動が上にいう「…活動」であることの確証は何もない。
 むろん、篠田英朗によれば、現在の・いまの自衛隊はそのようなものなのだろう。私もまた、そうだと<解釈>する(但し、「軍隊を含む」との部分には大きな留保がつく)。
 しかし、そのように認識または<憲法解釈>をしない人たち・活動家・政治家等々がいるからこそ、問題なのだ。
 つまり、彼らは、現在の・いまの自衛隊は、「本条の目的にそった軍隊を含む組織」であるとは(おそらく絶対に)主張しない、容認しないのだ。
 かりにだが、上の条文案で本当に「加憲」されたとする場合、日本共産党や同党員憲法学者たちは、現在の・いまの自衛隊とその活動は「本条の目的にそった…組織」・「活動」ではないと、主張するに違いない。
 そもそもが、<九条の目的>の理解・認識・<憲法解釈>が異なるのだから、上のような条項ができたからといって、現在の・いまの自衛隊の合憲・違憲の問題が解消されるはずはないのだ。
 「自衛隊」という語・概念を用いないのは優れている?のかもしれないが、せっかくの篠田英朗の案は、現状を解決することには絶対にならない
 <憲法解釈>上の(かつ政治的な)論争を、さらに複雑にするだけだ。「戦力」不保持の明文条項を残したままでの、現在の・いまの自衛隊の合憲化という試みは、三浦瑠璃の言葉によれば、却って、<頓珍漢な議論を温存>することになる。
 全体として、篠田英朗の叙述、主張に反対しているのではない。
 現憲法の現状のままでの自衛隊合憲論、かつ九条二項削除論は、十分に読むに値するのだろうと思われる。そのかぎりで、勉強にもなるし、多くの人が読めばよいとも思われる。
 しかし、たまたま出版が5月安倍晋三発言の直後(しかもまだ校正中で追記可能?)だったためかもしれないが、上の案は、採用できない。
 他にも、「軍」概念をめぐって等々、憲法解釈論の観点からすれば、大いに疑問もある。第二以下を、さらに別に記す。

1691/自衛隊を憲法に明記しよう!との大ウソ-「日本会議」派・櫻井よしこらの会。

 自衛隊を、戦力とは認めないで憲法に明記しよう!
 戦力ではない自衛隊を憲法に明記しよう!
 ならば、まだよい。
 しかし、「自衛隊を憲法に明記しよう!」とだけのスローガンは、いわば不当表示の、大ウソだ。
 重要なポイントを、わざと、意識的に隠している。
 本質的な部分を、隠蔽している。
 同じような不当表示を、「戦争法」等々、日本共産党や「左翼」はさんざんやってきたし、やっている。
 <美しい日本の憲法をつくる国民の会>(事務局長・椛島有三)がノボリや看板に書いている上のスローガンも、かなり似ている。
 「日本会議」、<美しい日本の憲法をつくる国民の会>、そして代表の一人・櫻井よしこは、こうしたことを平然とするのだと思われる。
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 上のノボリ、車上看板の証拠は、8月1日朝の産経新聞のネット上のニュースに添付されている写真。
 これだけ熱心に報道するのは、産経新聞しかないだろう。文字の部分に限られるが、以下、抜粋。
 「憲法改正の意義を広める国民運動組織『美しい日本の憲法をつくる国民の会』(共同代表・櫻井よしこ氏ら)の全国縦断キャラバン隊が31日、高崎市などを訪れた」。「この日は、JR高崎駅東口で約1時間にわたり街頭宣伝やチラシ配布を行った」。
 「キャラバン隊は、『平和と安全を守ってくれているのは自衛隊でも、1文字も書かれていない。憲法に明記し、自衛隊がしっかり任務を果たせるよう感謝のメッセージを伝えましょう』と訴えた」。
 「駅前を通りかかった…女性は『明記されていないのはおかしい。…北朝鮮からミサイルは飛んでくるし、日本はやられてしまうのでは…。みんなに(改憲の必要性を)広めたい』と話した」。
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 上のスローガンは、サギの一種だろう。長くは書けないとか、難しいことを言っても理解してもらえないと釈明するつもりか。
 安倍晋三案の趣旨をそのまま書けば、<自衛隊を、戦力とは認めないで憲法に明記しよう!>、または<戦力ではない(ままで)自衛隊を憲法に明記しよう!>になるはずだ。
 平然と、正確でないプロパガンダを行う、「日本会議」、<憲法をつくる国民の会>、櫻井よしこ、…。

1690/産経新聞8/4社説の「憲法改正」という大ウソ。

 1000万人程度の人はダマされている可能性がある。
 産経新聞8/4社説が前提とする九条二項存置・自衛隊明記は「改憲」だというウソによっても。
 大手新聞社の一つと「日本会議」派によって。恐ろしい。デマだ。
 「憲法改正」について「首相の決意を改めて問いたい。首相と自民党は、改正案の策定や有権者との積極的な対話を通じ、改正への機運を高めてほしい」。
 と産経新聞8/4社説は叫ぶ。
 すでに社説で支持したから、後戻りはできない。伊藤哲夫・櫻井よしこら「日本会議」派が背後にあるとすると、今さら撤退できない。
 と考えてしまうのも、「商売」として、分からなくもない。
 しかし、九条二項存置のままでの、同三項又は九条の二新設による<自衛隊明記>は、本当に「改憲」・「憲法改正」なのか???
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 形の上ではそのようにも思える。
 読売新聞紙上で橋下徹が支持するようなことを発言していたので、秋月瑛二も改憲として「成り立つ」案と考えてしまった。産経新聞や、決定的には「日本会議」派の主張内容を、よく知らなかった。櫻井よしこのアホで奇妙な?論理の方に気が向いてしまった。
 集団的自衛権の行使を認めた2015年平和安全法制の基礎の憲法解釈のエッセンスを明文化するもののように、誤解していた。
 そのような程度の<高尚>さも<高潔>さも、まるでないことが分かった。ただ、<卑しい>。
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 ①「自衛隊」という語をたんに明記したところで、二項があるかぎりは、「戦力」との区別という解釈問題はそのまま残したままになるのであり、何の意味もない。
 ②「自衛隊」という憲法上の新概念が、いまの・現実の「自衛隊」を意味する・表現することになるのでは、全くない。
 ③かりに「自衛隊」という語・概念を使わなくとも、存置される二項との関係で、あるいは二項が残るかぎりは、その組織・機構は、憲法上は「軍その他の戦力」に絶対になりえない。憲法二項が「軍その他の戦力」の不保有をそれこそ<明記>しているからだ。
 ④したがってまた、<二項存置・自衛隊明記>という案は、条文自体を作ることがおそらくは絶対に不可能だと、考えられる。「おそらくは」と限定したが、修辞であって、間違いなく作れない。
 さらに追記する。<かぎりなく軍に近い自衛隊>、<実質的に戦力であるような自衛隊>関係条項を目指すのは結構だが、二項があるかぎりは、絶対に「軍その他戦力」にはなり得ない。パーフェクトになり得ない。また、<かぎりなく…>、<実質的に…>とするために、どうぞ条文案を作っていただきたい。間違いなく、不可能だ、と断言してよい。
 以上は、この数日間に書いたものも参照していただきたい。   
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 産経新聞(社)は「改憲」支持のようだ。秋月瑛二も支持だ
 憲法九条を何とかしたい。二項を削除して、日本が当たり前の国家になってほしい。
 「天皇」とともに、憲法九条・これに関する憲法改正の問題は、個人的にはとっくにカタがついていて、わざわざ論じるまでもない。個人的には、もはや主要な関心事ですらない。
 しかし、錯覚と幻想を与える議論が一部に、あるいは産経新聞や月刊正論(産経)等々で少なくとも1000万人程度にはまき散らされているかと想うと、さらには、一国の総理大臣たる自民党総裁が、<つながりのある>団体又は個人からの示唆によって錯覚と幻想を与えるような議論をさらに拡大している可能性があると想うと、黙ってはおれない。
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 産経新聞が支持する、いったんは安倍晋三が「問題提起として」?語ったかもしれない案は、上記のとおり、「改憲」案ではないし、そもそも成立・実施不可能な案だ。
 西尾幹二が安倍案を<保守への裏切り>としたのは、正当だ。保守は櫻井よしこや日本会議だけでない、としたのも正当だ。
 三浦瑠璃が、憲法解釈上の問題に、読んだ中では最も適確に、立ち入っていると思える。この人のブログ5/4。
 「9条1項2項をそのままに、自衛隊を明記したとしてもこの問題は解決し」ない。/
 「『戦力』ではないところの『自衛隊』とはいったい何なのか」。/
  この「頓珍漢な議論」が温存されてしまう。//紹介、終わり。
 <「戦力」ではないところの「自衛隊」、とはいったい何なのか。
 <「戦力」ではない「自衛隊」を「憲法に明記」する、とはいったい何のことなのか。
 文学的?にではなく、真摯に考察しなければならない。
 産経新聞(社)もまたきっと、ダマされていて、錯覚に陥っている。
 その加害者は、犯人は、いま知り得るかぎりで、「日本会議」役員の伊藤哲夫だ。
 「日本会議」が、日本国民をダマそうとしている。
 櫻井よしこも、産経新聞(社)も「付和雷同」。「日本会議」代表の田久保忠衛はお飾りなので、子細は知らないままで、これまた追従している。櫻井よしこは、そして櫻井=田久保共同代表の<美しい日本の憲法をつくる会>は、広告部隊・運動部隊になっている。

 支持・反対を<政治的に>捉えてはいけない。
 正確にいうと、あらゆる言論や文章は多少とも<政治性>を帯びるとすれば、その<政治性>の色をきわめて濃くして、判断してはいけない。
 「日本会議」の案だからとか、安倍総裁の案だから、とかの理由で支持を決めてしまうのは<きわめて政治的だ>。
 「日本会議」の案だからとか、安倍総裁の案だから、とかの理由でただちに反対するのも<きわめて政治的だ>。
 秋月瑛二は、そんなことはするつもりはない。
 九条に限っても、「改憲」一般・「改憲」それ自体に反対はしないし、むしろ積極的に賛成する(これまでにさんざん書いてきている)。
 しかし、いまの産経新聞支持の<改憲案>・<改憲への道筋>なるものは、幻影だ。
 しかも、ふつうの、まともな九条論を抑止するという意味で、弊害の方が多く、その意味で<犯罪的>だ。
 日本共産党の「別働隊」としての産経新聞・「日本会議」というテーマで、また書く。
 さらに、心づもりはあっても書けなくなってしまうことがしばしばあるので、痕跡を残しておく。-<文学部的保守>が、日本を決定的に悪くした
 池田信夫の<文学部廃止>論、<人文社会系学部(原則)廃止論>に、その基本趣旨に、大賛成だ。

1688/策略の失敗-「日本会議」派二項存置・自衛隊明記論⑦。

 高村正彦・自民党副総裁(留任)挨拶・8/3-「先ほど役員会で総裁に『総裁の5月3日の憲法発言は憲法論議を党内外で活性化させるのに大変良かったけれども、これからは党にお任せいただいて、内閣としては経済第一でやっていただきたい』とお願いしてきたところであります」。
 おそらく間違いなく、九条二項存置・自衛隊明記論は消えるだろう。
 条文化の検討に入ったとたんに、いや検討に入らなくとも、少しばかりは想定しかけたとたんに、「その文章化はほとんど困難であるか、またはかりに作っても無意味であるために、必ず、つぶれる」。
 「自民党の案として、おそらく間違いなく、まとまることはない。/したがってまた、こんな改憲案が国民に示されることはない。」-以上、「 」内は既述。
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 党総裁が突如として、現在の自民党改憲案と異なる、九条二項存置・自衛隊明記との憲法改正案を5/3に述べたのは奇妙ではあった。
 それを、自民党の会議や集会ではなく、「日本会議」系憲法改正集会へのビデオレターーで明らかにしたのは極めて異様だった。これは、一紙・読売新聞のインタビュー答えたよりも、異様だった。
 高村正彦は、月刊正論(産経)9月号に写真つきで登場して上の案肯定を述べてしまって、恥ずかしく思っているのではないか。
 遅れて読んだが、三浦瑠璃のつぎのわずか二文は、ことの本質・深層をすでに見抜いている。三浦瑠璃ブログ・5/4。
 「仮に、総理が提起するように、9条1項2項をそのままに、自衛隊を明記したとしてもこの問題は解決しません。『戦力』ではないところの『自衛隊』とはいったい何なのかという、頓珍漢な議論が温存されてしまうでしょう。」 
 二項存置のままで<自衛隊の存在を憲法に明記>しても「問題は解決し」ないのであり、「戦力」でないまままの「自衛隊」について「頓珍漢な議論が温存」するだろう。
 これは正当な指摘だ。①<自衛隊の存在を憲法に明記>するのは実質的にほぼ不可能だし、②従前よりも奇妙で複雑でかつ「頓珍漢な議論」を憲法解釈論に持ち込むことになるだろう。
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 もう関心もなくなったし、実際的意味もなくなっただろうが、伊藤哲夫ら「日本会議」派の頭の中を覗いてみる意味はまだあるだろう。
 また、産経新聞によるとさっそく、櫻井よしこと「日本会議」代表の田久保忠衛が共同代表である「美しい日本の憲法をつくる会」の<憲法に自衛隊を明記を>と掲げたキャラバン隊がどこやらの都市を走っているらしいのだが、できもしないことを主張して動く、若い?運動員たち、「日本会議」や櫻井よしこらに<そそのかされている>人々の可哀想さに思いを馳せて、気の毒だという想いを書きつづってもよいだろう。
 可哀想なのは、月刊正論、そして月刊正論編集部、編集代表・菅原慎太郎も同じ
 「仕事」として、「日本会議」尊重・安倍晋三追随の会社と雑誌の基本方針に反するわけにはいかない。
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 「自衛隊の存在を」というとき、おそらく提案者は、無意識にでもすでに、現行法制とそれにもとづく組織・人員および活動-広義での<現実>-の理解・認識を行っている。
 「憲法上に明記を」というのは、新しい憲法規範の設定作用で、<現実>の理解・認識とは別の次元での精神的行為だ。それがあってのちに、<憲法解釈>および<現実化>が始まる。
 この二つを平板に並べる、あるいは結合して叙述する文は、その文自体に陥穽・ワナ、がある。
 「自衛隊の存在を憲法に明記」という文は、異質な精神的行為を混在させていることに気づかなければならない。
 条文化の時点で隘路にはまり、現に一部そうなっているように、「頓珍漢な議論」が続出することになるだろう。

1685/憲法規範というもの-非専門の<素人>が陥るワナ。

 秋月瑛二とは何者かについて、できるだけ示唆を与えないようにして、気軽に書いてきた。
 多少は専門家ふうに書かせていただく。
 ①憲法典上に言葉・概念が「存在しない」から、憲法上「認められていない」、のでは全くない。
 例、「営業の自由」という言葉・概念は、現日本国憲法上のどこにも、基本的人権保障条項のどこにもない。
 では、日本国憲法は、「営業の自由」を<自由権的>人権の一つとして<保障>していないのか?
 そんなことは、ない。
 例、「知る権利」・「プライバシー」という言葉・概念は、現日本国憲法上のどこにも、基本的人権保障条項のどこにもない。
 では、日本国憲法は「知る権利」・「プライバシー」の権利性または保護法益性を、いっさい認めていないのか?
 そんなことはない。
 情報<公開>に関する法律や条例の多くは「知る権利」という言葉・用いないが、これは「知る権利」なるもののいっさいを否定する趣旨ではない。一方で、「知る権利」という言葉・概念を使っている条例もあるが、だからといって、「知る権利」の保障に厚い、というわけでも全くない。法律や条例上のより具体的な制度内容や適用・執行の仕方にむしろ大きく関係する。
 *「自衛隊」という語・概念がないからといって、法律以下による「自衛隊」の設置・編成およびそれにもとづく組織と活動を憲法が<認めていない>のでは、全くない。
 ②憲法典上の言葉・概念そのままの意味で、法律以下の法制がその言葉・概念を使っている、のでは全くない。
 例、<地方公共団体>。憲法上の「地方公共団体」と地方自治法(法律)上の「地方公共団体」の意味・範囲は、憲法の通説および最高裁判所の判例によると、明らかに異なっている。
 東京都の新宿区という<行政団体>は、憲法92条以下の「地方公共団体」なのか。法律上はそれであることは明らかなのだが(「特別地方公共団体」の一種としての「特別区」)。
 例、<条例>。憲法94条でいう「条例」と地方自治法(法律)上の「条例」の意味・範囲については、いくつかの説がある。立ち入らない。
 *憲法上に「自衛隊」という語・概念が(その存在を肯定する意味で)使われたとしても、自動的に、その意味内容、組織・公務員・活動の範囲、あるいはその国の機構の中の位置づけが、明らかになるわけでは、全くない。
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 潮匡人、伊藤哲夫らは、少しは理解できるだろうか。
 <自衛隊の存在>を<憲法に明記する>とは、どういう精神的活動だと考えているのか?
 さらに論じてみたい。

1684/潮匡人・新潮新書もアホ-「日本会議」派二項存置・自衛隊明記論⑥。

 橋下徹入閣、しかも憲法改正担当ということであれば、少しは書き方を変えるが、主張自体は変わらない。
 <保守>派言論人らしき者は、そろって異常だ。
 「『自衛隊』という名前のまま、憲法に明記する」。p.233。
 潮匡人・誰も知らない憲法9条(新潮新書、2017.07)。
 憲法上に「自衛隊」という語を明記したとして、いったい何故、その語・概念が意味するのは、現在ある、現行諸法制にもとづく、現行法規範上の、または現実のもしくは<経験上の>「自衛隊」と同一だと、言えるのか???
 憲法上に「自衛隊」という言葉さえ導入すれば、現実の、現行法制上の「自衛隊」もまた、憲法上、より具体的に正当化されるのか???
 この潮匡人もまた、バカだろう。
 純粋に防衛・軍事問題を研究して発信することに執心して、<しろうと>の憲法論議になど関与しないでいただきたい。
 まだ熟読はしていないのだが、どうも伊藤哲夫・岡田邦宏あたりよりも、ヒドそうな気がする。
 月刊正論の座談記事は別途読むが、期待していない。
 ああ恥ずかしい。本当に、安倍晋三がこの案に執着するのだとすると、安倍晋三内閣は、完全にアウトだ。
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 昨日に書いたたしか三つ、および今朝書いた、百地章「私案」批判の文章も読んでいただきたい。 

1683/百地章私案もダメ-「日本会議」派の九条二項存置・自衛隊明記論⑤。

 百地章が、7/30に時事通信社に対して、こう語ったとされる。時事ドットコムニュース/政治による。
 百地章は、九条二項存置・自衛隊明記の安倍晋三案を「積極的に評価する」と明言したのち、こう言う。
 ①/「私案だが『9条の2』を設け、『前条の下に(=9条の下に)、わが国の平和と独立を守り国際平和活動に寄与するため、自衛隊を保持する』との文言を加えてはどうか。自衛隊の権限を一切変更しないのが大前提」だ。
 ②/「自衛隊明記は9条に矛盾するという人もいるが、現在の自衛隊は9条の下で存在している。単に憲法に明記するだけでどうして矛盾するのか、論理的にあり得ない。」
 ②/は説明不足かもしれないが、結論的には、よい。
 しかし、①/の「私案」はおかしい。
 この人は憲法学者・法学者のはずだが、分かっていない。
 すなわち、「自衛隊の権限を一切変更しないのが大前提だ」というが、この大前提は、いかにして憲法上あるいは憲法解釈上、担保される、あるいは保障されるのか。
 憲法学者なら、答えていただきたい。
 「(現在の)自衛隊の権限を一切変更しない(ものとする)」、という文章を条文化するのか??
 根本的に、つぎの問題がある。
 第一。「一切変更しない」、「自衛隊の権限」とはそもそも何か。現在時点での現行法令上の「権限」と同じ権限を意味するなら、それをこと細かく憲法上にも規定しないと憲法上の権限にはならない。そして、それは不可能。
 第二。このように固定してしまうと、<現状>からの多少の変更も、憲法上禁止されてしまうことになる。 こんな現状固定が許されるはずがない。「権限」にも大から小まであるので、法律で追加・修正する必要が生じうる。
 こんな「私案」が、のうのうと語られてはならない。
 こんな「私案」で、条文化できるはずはない。
 百地章にいう私案の冒頭で「自衛隊」という概念を使ったとたんに、現実にいまある「自衛隊」とは論理的には別の概念・範疇が生まれる。
 その別の概念・範疇と現実とを、「自衛隊の権限を一切変更しないのが大前提」だとして連結することはできない。百地章の<頭・観念世界>の中ではできても。
 この<連結>は、不能だ。分かって主張しているとすれば、ペテンであり、欺瞞だ。
 この百地章も、概念・現実、規範と現実、憲法規範と現行法規範の関係について、大きな錯覚に陥っている。大きな過ちを冒している。
 より詳しくは、この欄に最近に書いたことを参照していただきたい。

1682/九条二項存置・自衛隊明記論④-伊藤哲夫・小坂実のバカさと危険。

 小坂実は、以下の著で、こう言う。
 「せめて世界標準の個別的自衛権が行使できるよう、憲法に自衛隊を明記しましょうよと。本気で個別的自衛権で反撃できるというなら、是非とも自衛隊の『加憲』に同調すべきだと」。p.131。
 伊藤哲夫=岡田邦宏=小坂実・これがわれわれの憲法改正提案だ-護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?(日本政策研究センター、2017.05)。
 これは、恐ろしい主張だ。
 つまり伊藤・岡田とともに小坂が二項存置・自衛隊憲法明記案を主張する際の「自衛隊」とは、集団的自衛権を行使しうるのではなくても、個別的自衛権を行使できるだけのものでもよい、そこまでは一致できるはずだから、「加憲」に賛成しようよ、と言っているのだ。
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 九条二項存置のままで個別的自衛権とか集団的自衛権の区別に関係する<明文>を定めることは相当に困難だ。
 とすると、何という概念を小坂は使うつもりなのかは知らないが、新三項によって明記される「自衛隊」なるものは、個別的自衛権の行使に限られる(集団的自衛権の行使は認められない)組織・機構だと<憲法解釈>されてよい、と小坂は明示的に主張していることになる。
 少なくとも法律レベルで実質的に明記し、憲法にも違反しないと(国会、内閣>内閣法制局によって)解されている集団的自衛権の行使を、小坂実は、新九条三項「加憲」によって、憲法解釈上、個別的自衛権の行使に限定してよい、というのだ。
 ひどい後退、劣化だ。こんなことを言う「センター研究部長」の気が知れない。
 よほど<自衛隊の明記>にこだわっている。
 しかし何と、明記を拘泥する<自衛隊>は、個別的自衛権しか行使できないと憲法解釈されてよい、というのだ。
 この人、小坂実は、「左翼」であり、日本共産党同調者だろう。九条二項削除をよほど怖れて、先ずは三項「加憲」でごまかそうとしているのかもしれない。
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 何度でも、つぎのことを、書いておく。
 「法解釈にのみ依存する自衛隊の存在」。p.94の見出し。
 これは、結論誘導的で、欺瞞的な表現の仕方だ。
 この人たちの、「明記」と「法解釈」を大きな断絶があるものとして<どしろうと>として理解している、幼稚な知識と発想にもとづいている。
 <憲法解釈にもとづく(依存する)>というのは、<憲法にもとづく>とほとんど同じ意味だ。
 この人たちの論じ方を使っていうと、<憲法にもとづく>には二種ある。
 <憲法上の、だれも疑い得ないほどに明確な言葉で成る規定にもとづく>と<憲法解釈にもとづく>。
 憲法「解釈」であっても、それが安定していて、堅固であれば、ほとんど何の問題もない。
 自衛隊員たちの士気にかかわるとかの議論をする、訳の分からない者たちがいるようだ。
 そういう人たちは「憲法解釈」論をかぶった日本共産党の政治闘争にすでにある程度は屈服している。
 「自衛隊」という直接の言葉はなくとも、現憲法が国家に固有の自衛権行使を容認しているかぎり、現在の自衛隊は憲法にもとづくものであり、かつまた1954年以降60年以上にわたって、国民を代表する国の国会が、つまりは全国民の代表者たちが、合憲的なものとして、その崇高な任務を自衛隊に、そして自衛隊の隊員たちに与えたのだ。
 そのことが申し訳ないというなら、九条二項を削除して、本格的に安全保障・軍事関係規定を設ければよい。
 そうしないでおいて、またそう主張しないでおいて、二項存置のまま形だけ「明記」しようとするのは、日本共産党や「左翼」の政治的主張に屈服している。
 日本にまともな「保守」が希薄化していることの証拠だ。
 中でも、小坂実の上の主張は、ひどい。
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 ところで、10年ほど前、秋月瑛二は日本政策センターなるものの薄い月刊誌的なものを、1年間だけ購読したことがある。雑誌名をすぐに思いだせない。
 1年で止めてしまった契機になったのは、2000年頃に廃止された「機関委任事務」なるものについての知識・理解がその後かなり経っていたが不十分で怪しいままの論文的なものを読んだからだった。
 その著者名を、思い出した。小坂実、だった。
 地方行政、または国と地方の関係を問題にしながら、その論考らしきものは、「機関委任事務」という(国・地方の)行政公務員であれば基本的には了解しているはずの基本的タームの意味を、理解できていなかった。
 これでよくぞ、地方行政あるいは国と地方の関係について語れるものだと、呆れてしまったのだ。
 「機関委任事務」。その当時にすでに(制度としては)廃止されていたから(しかし、何らかのかたちで継続している事務の方が多い)、説明は省く。
 ともあれ、こんな基本概念(だったもの)を知らずして日本の「政策」を「研究」している団体だと分かって、一年かぎりでおサラバしたのだった。
 代表・所長・研究部長、専従の「研究」者は、この三人だけなのだろうか
 さらについでに書くと、小坂実、1958~、東京大学法学部卒。唯一の「法学部」出身者だ。卒業するだけはほとんど誰でもできるので、卒業できるでけの勉強はしたらしい。
 また、これでよく、「株式会社」として経営していけているものだと、感心し、不思議に思いもする。

1681/九条二項存置・自衛隊明記論-伊藤哲夫・産経新聞の愚③。

 つぎの二人は、他にもいるだろうが、現時点で憲法現九条二項削除の憲法改正を主張しない。そして、言う。
 岡田邦宏「いずれにしても、自衛隊の存在を憲法に明記することが肝要」だ。p.107。
 伊藤哲夫「まず議論の出発点として、自衛隊を憲法上、明確に位置づけることが必要だ。」
 伊藤哲夫=岡田邦宏=小坂実・これがわれわれの憲法改正提案だ-護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?(日本政策研究センター、2017.05)。
 すこぶる疑問なのは、ここでほいほいと出てくる「自衛隊」とは何のことか?、だ。
 きっと二人は、こう問われても、意味が理解できないのだろう。 
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 自衛隊法(昭和29年法律第165号、最終改正・平成28年5月)という法律がある。防衛省設置法が「自衛隊」に言及し、これについては「別に法律」が定めるとする、その別の法律にあたる。
 自衛隊法3条は、つぎのように「自衛隊の任務」を定める。
 第3条「1項/自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。
 2項/自衛隊は、前項に規定するもののほか、同項の主たる任務の遂行に支障を生じない限度において、かつ、武力による威嚇又は武力の行使に当たらない範囲において、次に掲げる活動であつて、別に法律で定めるところにより自衛隊が実施することとされるものを行うことを任務とする。
 一 我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態に対応して行う我が国の平和及び安全の確保に資する活動
 二 国際連合を中心とした国際平和のための取組への寄与その他の国際協力の推進を通じて我が国を含む国際社会の平和及び安全の維持に資する活動
 3項/陸上自衛隊は主として陸において、海上自衛隊は主として海において、航空自衛隊は主として空においてそれぞれ行動することを任務とする。」
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 これらの定め(明文規定)から、<どしろうと>には分からないかもしれないが、素人でも、現在の「自衛隊」の「任務」について、つぎのことが理解できる。
 第一、「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」こと(第一項)。
 ここで「我が国を防衛すること」が「主」とされ、そうではないものとして、「必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」ことが記されていることも分かる。いわば、第一種と第二種だ。
 第二、上のほか、「主たる任務の遂行」に支障がない限度でかつ「武力による威嚇又は武力の行使に当たらない範囲」で、かつまた、「別に法律」が自衛隊が実施すべきとするかぎりで、つぎのものも、自衛隊の「任務」でありうることも分かる(第二項)。そのまま記す。
 ①「我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態に対応して行う我が国の平和及び安全の確保に資する活動」
 ②「国際連合を中心とした国際平和のための取組への寄与その他の国際協力の推進を通じて我が国を含む国際社会の平和及び安全の維持に資する活動」
 そうすると、上のことから任務は三種に分けうることもわかり、最後の第三種には、上の①と②がありうることも分かる。
 これだけでは第三種の中身は分からない。「別に法律で定めるところにより自衛隊が実施することとされるもの」を確定しなければならないからだ。
 しろうとでも容易にわかるものもあれば、かなり複雑な法制になっている部分もある。
 いわゆる<有事法制>は、仮の呼称だが、<第一種>だろう。
 この機会にいくつか記しておけば、以下。
 武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成15年=2003年法律第79号、最終改正・平成二七年=2015年法律第76号)。
 武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律(平成16年法律第112号、最終改正・平成二七年=2015年法律第76号)。
 武力攻撃事態等における特定公共施設等の利用に関する法律(平成16年114法律第114号、最終改正・平成二七年=2015年法律第76号)。
 他にも、いくつかの<有事>関連法律があるが、省略。
 <第三種>の1にかかる「別の法律」とみられるのは、以下。
 重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律(平成11年法律第60号、最終改正・平成27年=2015年法律第76号)
 重要影響事態等に際して実施する船舶検査活動に関する法律(平成12年法律第145号、最終改正・平成二七年=2015年法律第76号)。
 <第三種>の2にかかる「別の法律」とみられる7のは、以下。
 国際緊急援助隊の派遣に関する法律(昭和62年法律第93号、最終改正・平成18年法律第118号)。 
 国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(平成4年法律第79号、最終改正・平成27年法律第76号)。
 国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律(平成27年=2015年法律第77号)。
 正確さを全面的には主張しない。しかし、少なくとも、「任務」の面をとっても自衛隊のそれは多様だと分かる。
 上では、「公共の秩序の維持」、つまり<警察>的活動を「必要に応じ」てすべきものとする、その他の個別の<警察>的活動、自然災害発生時の応急行動など、の関係諸法律の名称を挙げてはいない。
 上で試みたのは、自衛隊法上の「任務」規定からする分類だが、自衛隊発足以降徐々に増加してきた<任務の変遷の歴史>という観点からの<任務の分類>も考えられるだろう。
 また以上は活動・任務の観点から「自衛隊」を捉えようとするものだが、<組織・定員等>の観点、あるいは国家組織全体から見ての「自衛隊」の位置づけという観点、から自衛隊を理解しようとすることもできる。
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 なぜ、以上のようなことを書いたのか。
 現在の自衛隊が行っているのは、日本の防衛(自衛)活動だけではない。
 国内的にも、国際的にもそうだ。
 また、防衛・自衛といっても、個別的自衛権の行使と「集団的」自衛権行使に関するものに、大きくは分けられる。
 さて、そもそも、伊藤哲夫、岡田邦宏らがほいほいと「自衛隊」というとき、<任務>だけからしても多様なのだが、いったいどのような任務・活動を行うものを想定して語っているのか。これを問題にしたいから、上のように自衛隊法(法律)の定めに立ち入った。
 まさかとは思うが、観念的に・抽象的に「自衛隊」という観念・範疇だけが一人で(頭の中で)歩いているのではないだろう。
 どこからどこまでの自衛隊の任務・活動を想定して(二項存置前提の)<自衛隊>明記・三項追加が語られているのか、いくら読んでも、さっぱり分からない。
 現憲法九条は現憲法の<第二章・戦争の放棄>の唯一の条だが、自然災害時の現実の自衛隊の活動は<戦争の放棄>と、論理的にいかなる関係があるのか?
 これも説明しないで、あるいし説明し切れないで、簡単に「自衛隊」という言葉・概念を使ってよいのだろうか。
 さらには、<自衛隊の存在を憲法上明記>などと主張して、自衛隊にかかわる憲法改正論を説く資格があるのだろうか?
 <もう一度出直せ>、とすでに書いたのは、このようなことも理由としている。
 「自衛隊」という語の<観念化>のひどい者たち、自衛隊なるものの現実・実際に降りていくという姿勢が乏しい者たち、こんな者たちが平然と平和と安全保障にかかわる憲法論を説くのを、許してはいけない。
 前回に書いたのだが、概念・規範等と現実、法の憲法と法律以下の少なくとも二層制等の理解・認識について、この人たちには、どこかに大きな過ちがある。
 産経新聞社自体にも(そして、月刊正論・編集代表の菅原慎太郎にも)、きっとあるのだろう。

1680/九条二項存置・自衛隊明記論-伊藤哲夫・産経新聞の愚②。

 九条二項を存置したままでの九条三項の追加による、または九条一・二項をそのままにしたうえでの九条の二の新設による<自衛隊の明記>という案は、<成り立つ>と思った。
 それは、2015年に平和安全法制を改正・成立させるに際してその当時の国会が採った憲法および九条関連「解釈」、つまりは、新「武力行使三要件」で限定された意味での集団的自衛権の行使が憲法上認められるということを前提とする「解釈」のエッセンスを書き込んで憲法に明記することはありうる、つまりいったん憲法解釈として採用されたものを憲法上に明記して確認する、ということはありうる、そういう議論も<成り立つ>と考えたからだ。
 むろん、この<エッセンス>をどう文章化するかという、という問題が残ることは意識した。
 棟居快行が読売新聞上で示した「試案」は簡単すぎるだろうと、感じてもいた。
 しかし、この案が単純に「自衛隊明記」案だとか称されていることや、その主張者たちの文章を読んでいて、すでに結論は出てしまった。
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 たしかに、九条三項(または九条の二)に<二項と矛盾しない自衛隊関係条項>を作るという案は、考え方または案としては成り立つ。しかし、その文章化はほとんど困難であるか、またはかりに作っても無意味であるために、必ず、つぶれる。自民党の案として、おそらく間違いなく、まとまることはない。
 したがってまた、こんな改憲案が国民に示されることはない。
 三項加憲案を支持するか、支持しないかの問題ではない。それ以前の基本的問題として、文章化・条文化が実質的に不可能だと思われる。
 支持とりつけ→条文化、ではない。そもそも、「条文化」を試みて、それを支持してほしいと訴えるべきで、上のような<軍・戦力ではないものとしての自衛隊の憲法上の明記>を支持するか、しないかの議論を先行させてはいけない。
 <軍・戦力ではないものとしての自衛隊の憲法上の明記>なるものは、実質的に不可能だ。
 したがって、この案は、必ず、つぶれる。おそらく間違いなく、自民党の案にならない。
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 伊藤哲夫=岡田邦宏=小坂実・これがわれわれの憲法改正提案だ-護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?(日本政策研究センター、2017.05)。
 前回に書いた。「明記」、「解釈」、「認める」、といった概念・言葉で何を意味させているのか。このような言葉、概念の意味・違いを明確にさせてから、<もう一度出直せ>。
 方法的、概念的、論理的な疑問は、前回に書いたこと以外にもある。
 ①「自衛隊について憲法に何も定めがないというのは異常です」。 p.99。
 陥穽への第一歩がここにもある。
 「自衛隊について」が何を意味するかが、そもそも問題なのだが、これは別に書く。
 「憲法に何も定めがない」とはいかなる意味か?
 「定め」が明示的な(ausdrueklich)な規定という意味であればそのとおりで、その意味では<明記>されていない、とも言い得る。
 しかし、だからといって、現在の自衛隊が憲法外の、あるいは超憲法上の存在であるわけでは全くない。現在の憲法秩序、現憲法が<認める>、あるいは<許容>しているものとして現在の自衛隊は存在している。
 そうでなければ、自衛隊法等々も、2015年平和安全諸法制も法規範として存在していない。
 つぎの②に対するコメントの一部と同じことだが、現在の自衛隊は現憲法が<認める>、あるいは<許容>しているものであり、その意味で<憲法に根拠づけ>られている。
 繰り返すが、憲法外の、あるいは超憲法上の存在であるわけでは全くない。
 憲法学者の90%以上が集団的自衛権行使容認の平和安全法制を違憲だとしたとか、憲法学者の60%以上が自衛隊を違憲だと言っている、ということを重視する向きがある。
 秘境・魔境に生息する者たちを重視しすぎてはいけない。
 上のことを気にするのは、憲法学界・憲法学者の中に食い込んでいる、日本共産党および同党員学者の「憲法解釈」論上での<政治的な闘争>に屈服していることを、ある程度は示している。
 そもそもの伊藤哲夫・岡田邦宏らの発想は、この対日本共産党屈服、だろう。
 正面から闘わないで、脇道を通って、<形だけの>勝利を目指そうとしているかに見える。
 そして、その<脇道>は、実際にはほとんど塞がれていることは、前回も、今回も、述べているところだ。
 ②「自衛隊が憲法に明記されず、九条二項に反しないような解釈にのみ根拠づけられていることに問題の根源がある」。p.101。
 大きな陥穽に落ち込みそうな叙述だ。
 つまり、「明記」と「(憲法)解釈」をそれぞれどのような意味で、従ってどのように区別して、用いているのか。
 結論だけ、まず示そう。
 第一に、つぎの三項追加案で、<自衛隊を明記>したことになるのか?。
 「第三項/自衛隊は、存在する。」、「第三項/自衛隊を、設立する。」、「第三項/自衛隊を、認める。」
 たしかに「自衛隊」を「明記」しているが、これでは無意味だろう。
 この無意味さを分からなければ、議論に関与するな、と言いたい。
 なぜか。三項で新たな憲法上の概念として出てくる「自衛隊」が、現在ある自衛隊を意味しているとする、根拠は何も、少しも、全くないのだ。
 現在の法律や<経験上の>知識を前提にしてはいけない。
 (かりにそうだとしても、自然災害対処や国際平和協力など「自衛」概念に通常は入らないものも現「自衛隊」はしていること等に、別に触れる)。
 そもそも、憲法上の「自衛隊」という語の<解釈>がやはり必要なのだ。
 第二に、「自衛隊」という語を使わないで、どう成文化するか。
 できるかもしれないが、しかしその場合、*二項存置が絶対の前提なので*、二項の「軍・戦力」ではないものとして三項で<明記>するものを表現しなければならない。
 その場合に、二項の「軍・戦力」ではない自衛権行使組織を定めようとすれば、当然ながら、二項の「軍・戦力」や<自衛権>についての<憲法解釈>を前提にせざるを得ない。
 結論だけ、が長くなったが、つまり、こうして追加される三項もまた、<憲法解釈>を必然的に要求するのであり、<明記されずに憲法解釈にのみ根拠づけ>られる状態は、何ら変わりない
 第三。決定的な反論または岡田邦宏批判。
 「憲法解釈にのみ根拠づけ」られていても、「憲法に根拠づけ」られていることに変わりはない。
 「どしろうと」にとって、「明記」と「法解釈」の間の溝・区別はきわめて大きいのだろう。
 しかし、「明記」というのは、言葉・概念それ自体の常識的・社会通念的・通常日本語上の意味が確定している場合に使いうる言葉であって、憲法上の概念とは、そんなものばかりではない。
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 だからこそ、憲法はしばしば「法律の定めるところにより」と書いて明確化・具体化を法律に任せているのだ。
 伊藤哲夫や岡田邦宏や小坂実は、「内閣」は憲法上に明記されていると思っているだろう。その通りであり、かつその構成にも言及があり、「内閣」の仕事も憲法上に列挙されている。
 しかし、そのような憲法上に「明記」された「内閣」の姿だけで、現実の「内閣」を理解できるのか? あるいは「知った」と言えるのか?
 この問いの意味が理解できなければ、国家「政策」や憲法論に関与する資格はない、と思われる。
 憲法にかりに<明記>される自衛隊(「自衛組織」等々)と現実の自衛隊が「全く同じ意味・範囲」であるはずはない。
 <二項存置+自衛隊憲法明記>論者は、どこかで、言葉・概念・規範と現実、法規範の憲法と法律以下の最少でも二層の区別、に関するとんでもない過ちを冒している、と考える。

1678/九条三項「加憲」論-伊藤哲夫・岡田邦宏のバカさ。

 日本の「保守」と称している者たちの知的退廃の程度は、哲学・言語学・論理学そして精神医学のレベルにまで立ち入って検討されてよい。
 もちろん、日本の「共産主義者」についてもそうなのだが、一見だけは論理的に詳細に論じるふうの日本共産党・月刊前衛掲載文章と比べても、以下に言及する内容は、ひどい。
 伊藤哲夫=岡田邦宏=小坂実・これがわれわれの憲法改正提案だ-護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?(日本政策研究センター、2017.05)。
 憲法九条関連に限る。遅れて、一読した。
 安倍内閣支持率の変化により、今年5月の安倍晋三・自民党総裁案(どの党機関決定もないはずだ)がそのまま自民党の提案になるのかも怪しい。
 その九条三項加憲案(現二項存置・自衛隊明記案。または論理的には現二項存置・九条の二新設案)が、上のような下らない書物の書き手の影響を受けたものではないことを願いたい。
 簡単に、書こう。
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 岡田邦宏(1952~、京都大学工学部卒。所長)が案を示して、伊藤哲夫(1947~、新潟大学人文学部卒。代表)らが賛同している。p.106-7、p.130-1。
 岡田邦宏は日本政策研究センターという団体・組織の「所長」らしい。
 恥ずかしい「所長」が、またいる。
 憲法改正提案三つのうち一つの、九条関係の見出しは、つぎのとおりだ。
 <自衛隊明記が「九条問題」克服のカギ>。p.90。
 この部分の全体を通じて理解をはなはだ困難にするのは、「明記」、「解釈」、「認める」、あるいは「国際法」といった概念・言葉で何を意味させているのか、だ。
 冒頭に「哲学・言語学・論理学そして精神医学のレベル」とか書いたのは、この完全な不明瞭さだ。
 上のような言葉、概念(国際法はさしあたり除外してもよいが)の意味・違いを明確にさせてから、<もう一度出直せ>と言いたい。
 ここでの岡田のような文章・論理を活字にするようだからこそ、日本の保守は<やはりアホ>だと思われる。
 上にいう、「自衛隊」の「明記」とは、何を意味するのか? 以下も同じ。
 岡田p.107-「二項はそのままにして、九条に新たに第三項を設け、…『戦力』は別のものであるとして、…自衛隊の存在を明記するという改正案も一考に値する選択肢だと思う」。
 また、つぎの、伊藤哲夫の「憲法上、明確に位置づける」とは、いかなる意味か。岡田の案を否定しているのではないことは明らかなのだが。
 伊藤p.131-「まず議論の出発点として、自衛隊を憲法上、明確に位置づけることが必要だ」
 こうした、「明記」とか「明確に位置づける」ということの意味をきちんと理解しないで、それこそ<明確に>しないままで憲法を論じているつもりの人たち、「代表」とか「所長」がいるのだから、ひどいだろう。
 あれこれと、すぐに疑問が湧く。
 具体的な条文案を示さないと、そもそもはダメ(これは、<美しい日本の憲法をつくる会>運動も同じ。精神論さえ示せばよく、あとは官僚にお任せ、では絶対にダメなのだ)。
 「自衛隊の存在を明記」とは何か
 新三項に、「自衛隊は存在する」と書くのか?、「自衛隊を設置する」とだけ書くのか?
 こんな条文にはなるはずはない。「自衛隊」という概念・語を現憲法は用いていないので、さっそく、例えばつぎの、疑義が出てくる。
 ・現在の「自衛隊」に関する諸法律は、防衛省設置法等も含めて、憲法より下位の法規範なので、下位の法律上の概念・制度でもって、あるいは現在の<経験上の>「自衛隊」なるものによって、憲法上の意味内容を理解できないし、また理解してはいけない。
 また、つぎの疑問もある。
 突然に「自衛隊」なるものを持ち出すとすると、その目的・趣旨も少しは書かないとダメだろう。つまり、<…のため>が憲法上も少しは必要だろう。
 二項・新三項(らしきもの)で分かるのは、「軍・戦力」ではない、「自衛」ための「隊」というだけのことだ。
 これで、「存在を明記」することになるのか?
 ならないだろう。「自衛隊」とは何のことか?、二項の「軍・戦力」ではないという意味はどこにあるのか? この「憲法解釈」論がまた、出てくる。あるいは、現状をさらに混乱させるに間違いない。
 以上のことは、伊藤哲夫のいう、「自衛隊を憲法上、明確に位置づける」についても同じ。
 <自衛隊>という言葉を用いないとすれば、それに代わる言葉・概念を、または条文そのものを提案しなければならない。
 上に()で書いたことを繰り返す。
 我々は精神論、あとは技術的なこととして「法制官僚」にお任せ、ではダメなのだ。
 同じ趣旨のことはすでに、伊藤哲夫のウェブサイトで知った文章について書いた。
 二項でいう「戦力」に該当しないが実質的には近づけるように自衛隊を憲法上容認する方法を探りたい、とか伊藤は書いていたが、自衛隊を実質的に「戦力」として位置づけるのは不可能で、自衛隊は「戦力」ではないことを「明記」することも、じつはさほどに簡単ではないのだ。
 後者のために、<本項にいう自衛隊は、前項にいう戦力に該当しない>という但書きでも付けるつもりなのだろうか。たしかに形式的には、<明記>かもしれない。
 哲学・論理学・言語学等の必要な論者が多いようなので、また書いておこう。
 二項-「戦力」/三項-「自衛隊」または「自衛組織」・「自衛部隊」?・「自衛のための実力組織」?。
 このように区別して<明記>することはできる。
 しかし、どう書いても、上のような<但書>を付けたとしても、「戦力」という言葉を介して<憲法解釈>をしないと、「自衛隊」または「自衛組織」・「自衛部隊」・「自衛のための実力組織」の意味は明確にならないのだ。<明記>の意味がない。<憲法解釈>の必要性はずっと残る。
 これが分からない人は、少なくとも国家「政策」や憲法論に関与しない方がよいだろう。
 このような結論的案とその肯定に至る過程での論述や議論は、陳腐なものだ。
 例えば、岡田邦宏は何やら力を込めて、(九条全体や第一項ではなく)「問題が九条第二項にあることは、…明らか」と書く。p.102。
 こんなことくらいは、憲法九条関係議論を少しは知っているものならば(吉永小百合や意図的に曖昧にしてきた日本共産党・容共知識人らは別として)、常識だ。
 わざわざこう述べるのも、ああ恥ずかしい。
 2017年の憲法記念日に向けて、こう頑張って発言する馬鹿がまだいるのかと思わせるほどだ。
 上のことくらいは、この欄で、10年ほども前から、私も指摘している。
 じつは他にも、基本的に疑問とする論理、言葉遣いがある。きっと、続ける。

1611/伊藤哲夫見解について②-「概念」の論理。

 「それに留まらず、自衛隊を『自衛のための戦力』として認める道はないのか。問題は3項の内容にかかって」いる。
 伊藤哲夫・『明日への選択』平成29年6月号。
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 上の伊藤哲夫の文章は、つぎの後に出てくる。
 「『立派な案』ということでいえば、2項を新たな文言で書き換える案がむろん好ましい。しかし、3分の2の形成ということで考えれば、実はこの9条『加憲』方式しか道はないのではないか、というのは必然の認識でもあ」る。「2項を残したままで、どうして自衛隊の現状が正されるというのか」は「当然の議論ではあるが、ならば2項そのものを変えることが正しいとして、その実現性はどうなのか、ということを筆者としては問いたい。実現性がなければ、『ただ言っているだけに終わる』というのが首相提言の眼目でもあった」。
 したがって、従来からある九条2項削除派に対する釈明、配慮あるいは媚びのようにも読める。
 それはともかく、伊藤哲夫の上の部分について前回に厳しく批判した。→6/27付、№1605。
 これに対して、<言葉で「戦力」を使うのではなく、実質的に自衛隊を『自衛のための戦力』として認める道を探りたいだけだ>、という反論・釈明らしきものも予想できないわけではない。
 そこで、あらためて批判する。
 哲学、論理学、言語学にかかわるのかもしれない。
 結論的にいうと、「戦力」という言葉(「軍」でもよい)を使わずして、自衛隊を実質的にであれ「戦力」(「軍」でもよい。以下、「戦力」)として認める方法は存在し得ない。
 なぜなら、自衛隊は「戦力」だとの旨を明記しなければ、論理的に永遠に自衛隊が「戦力」になることはないからだ。
 <実質的に>「戦力」のごとき言葉を考えてみよう。「軍隊」は憲法九条2項に「…軍」があるからだめ。
 「実力部隊」・「実力行使隊」、あるいは「自衛兵団」、「自衛戦団」。
 あとの二つはすぐに、「…軍その他の戦力」との異同の問題が生じて紛糾するに違いない。
 かと言って、自衛隊を(自衛のための)「実力部隊」・「実力行使隊」と表現したところで、自衛隊が「戦力」それ自体には、ならない。いかにAに近い、A'、A''を使ったところで、自衛隊がAになることはない。
 あるものを「赤」と断定したければ、「赤」という語を使う他に論理的には方法はないのであり、「緋」や「朱」やその他を使っても、そのあるものは論理的に永遠に「赤」にはならない
 もともと、自衛<軍>や自衛<戦力・戦団>ではなく自衛<隊>と称してきたのは、<軍>や<戦力>という語を使えなかったからだ。実体も、それなりの制約を受けた。
 それを今さら、九条2項存置のままで<実質的に>「戦力」として認めたいと主張したところで、そもそも論理的な・言語表現上の無理がある。
 なお、「前項の規定にかかわらず、…」というのは構想できる条文案だ。
 しかし、「前項の規定にかかわらず、自衛隊を自衛のための戦力として設置する」と、「戦力」の語を用いて規定すれば、やはり現2項と新3項(または新九条の二)は正面から抵触するので、こんな案は出てこない、と考えられる。
 伊藤哲夫は、あまり虫の良い話を考えない方がよいだろう。
 伊藤自身がすぐそのあとで「何とか根本的解決により近い案になるよう、今後議員諸兄には大いに知恵を絞ってほしいと願う」と書いて、「根本的解決により近い案」と書いているのも、「根本的解決」になる「案」は不可能であることを自認しているからではないか
 九条3項加憲論者でかりにそう安倍晋三に提言したのならば、その立場を一貫させるべきで、伊藤哲夫は、九条2項削除論者のご機嫌をとるような文章を書かない方がよい。

1599/読売新聞6/22朝刊と櫻井よしこの<革命>容認論。

 読売新聞6月22日朝刊13面。「調査研究本部主任研究員・舟槻格致」による憲法改正論議に関する解説は、穏当だ。
 基礎知識に誤りはないと思うし、今後について特定の方向へと偏ってもいない。
 憲法現九条1・2項を残したままでの自衛隊明記は、あり得る。
 これはこの上記の読売記事で大石眞(京都大学名誉教授)が「あり得る選択肢」と語っている(らしい)ことと同旨で、憲法・法的に見て疑いはない。
 くり返せば、2015年成立の平和安全法制が合憲であるならば、自衛隊の存在を前提とするその法制の基礎的解釈部分を憲法上に明記しても、2015年時点で合憲だったのだから、憲法現九条1・2項と矛盾するはずはない。
 櫻井よしこらの愚見・無知、かつ多大の危険性は、のちに触れる。
 憲法九条に関する議論を少しでも熟知しているならば、当然に、上の大石眞のようなコメントになる。
 むろん、どういう内容の条文にするのかの問題は、大きく残る。
 また、九条3項、九条の二、のいずれにするか、という問題も残る。
 上の読売解説記事は、「法的に大きな差違は生じないとみられるが、政治的には後者の方が」現九条には一切触れなかった「と説明できる長所がある」と、ほとんど適切に記述している。
 安倍晋三発言の内容を正確には知らないままでこの欄ですでに数度言及したが、安倍晋三はこの点にまで言及したのではなかったようだ(たしかに、読売が伝えていたように、橋下徹は後者を支持していた)。
 上の選択にかかわる<メッセージ性>についても、すでにこの欄で記した。
 上記解説記事が正確なのは、いわゆる<芦田修正>、または九条二項冒頭の「前項の目的」うんぬんの追加に関して、つぎのようにしっかりと書いていることだ。
 「政府は、自衛隊が認められてきた根拠は『芦田修正論』ではないとの立場だ」。
 これが政府・実務解釈だ。
 この冒頭の文言を使い、<文民>条項の追加導入等を根拠にして、あるいは九条の立案・制定過程を調べて<自衛>目的の「軍その他戦力」は二項によって禁止されていないと解釈する<保守派>憲法学者もいるが、それは成り立ちうる解釈ではあるものの、政府・実務解釈ではない(私的解釈にすぎない)。
 産経新聞関係者、月刊正論関係者あるいは「特定保守」論者には無知による混乱があるかもしれないが、上の点はきちんと理解しておく必要がある。
 自衛隊は、そもそも、「軍その他戦力」ではないがゆえに、設立当初から、九条二項違反=憲法違反ではない、と政府・法制局実務によって解釈されてきたのだ。
 すでに月刊Hanada7月上の櫻井よしこ冒頭論考について呆れてコメントした。
 櫻井よしこは、週刊ダイヤモンド2017年5月27日号でも「アホ」を繰り返している。また、きわめて危険なこともじつは述べている。
 いわく、「『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない』と定めた2項を維持したままで、いかにして軍隊としての自衛隊の存在を憲法上正当化し得るのかという疑問を、誰しもが抱くだろう」。
 この部分は、月刊Hanada7月号と同じ。文章・原稿の<使い回し>だと思われる。
 また安倍晋三についていわく、「少々の矛盾は大目的の前には呑み込むのが政治家であり、大目的を達成することが何よりも大事なのだという現実主義が際立つ」。
 「少々の矛盾」が現九条と安倍晋三発言内容との間にあったのでは、憲法上または法的には、絶対にいけない。安倍晋三も、法論理上の矛盾はないことを理解している。
 しかし、この櫻井よしこの文章は、「少々」は憲法上問題があっても、つまり違憲でも(「2項を維持したままでいかにして…自衛隊の存在を憲法上正当化し得るのかという疑問を誰しもが抱く」)、「大目的を達成する」ための「現実主義」を優先させようとするものだ。
 また最後に櫻井よしこいわく、「自衛隊を違憲の存在として放置し続けるのは決して国民の安全に資することではない。今、改正に取り組みたいものだ」。
 こうして読むと、既に記したことだが、櫻井よしこは今のままでは「自衛隊を違憲の存在として放置し続ける」ことになる、と考えている。これは、長谷部恭男らも採用していないところの、日本共産党および同党員憲法学者の憲法九条二項の解釈と全く同じだ。その根拠は、たぶん、<自衛隊って、軍隊でしょ>という中学生のような単純な理解だ。
 そのうえで、つまり現二項と自衛隊は矛盾している(自衛隊は二項違反)との前提のうえで、現二項と「少々の矛盾」があっても、「自衛隊の存在」を肯定するという「大目的」のために、「現実主義」を優先して、「改正に取り組みたい」、と櫻井は主張している。
 強固かつ執拗な、安倍晋三擁護の姿勢はさておく。
 このような主張がきわめて危険であるのは、<多少の憲法違反>よりも<現実主義>を優先させてよい、としていることだ。
 これは、安倍晋三の考えでもない。
 危険な、<憲法否定>、<立憲主義否定>の論理だ。
 憲法よりも国家、憲法よりも歴史、法よりも現実、これはすでに一つの<思想>であって、いちおうは日本国憲法のもとでの法的枠内で憲法改正運動を含む諸活動をしているはずの者たちが採るべきものではない。
 これは、法的非連続性を承認する、または前提とする<革命>を容認する思想だ
 <櫻井よしこによると憲法違反の存在である自衛隊の存在>を、憲法上の「少々の矛盾」を無視して、いわば超憲法的な<現実主義>に立って正当化しようとするもので、<極右または極左>または<極右かつ極左>の<革命>擁護論を胚胎させている。
 きわめて危険な発想だ。こんなことを主張する者がいるから、それこそ<反立憲主義>という主張が、<保守>派に対して投げかけられる。
 決して安倍晋三は、そんなことを主張してはいない。
 繰り返すが、自衛隊設置を前提とする限定的集団的自衛権行使は現憲法九条(一項・二項)に違反していない、とするのが、現在の国会議員が構成する国会の憲法解釈だ。
 自衛隊そのものが現憲法九条二項に違反すると現国会が憲法解釈しているはずはない。
 上のような<危険>思想にたどりつこうとするのも、ひとえに櫻井よしこの無知と無恥によるものと、(まだ好意的に)せめては理解しておきたいものだ。
 なお、以下、念のために追記する。
 現九条二項を削除して、新二項以下でまたは新九条の二以降で、自衛軍・国防軍・国軍の設置等を明記する憲法改正も、当然に「あり得る」。
 憲法改正の限界内の憲法改正は現憲法も許容しており、このような憲法改正が憲法に違反することにならないのは当然のことだ。このような意見が自民党内にあることも、各種報道は伝えている。 

1575/読売新聞6/6・棟居快行「憲法考」-憲法九条。

 読売新聞6/6朝刊、棟居快行(むねすえ・としゆき、62歳)のインタビュー記事・「憲法考」。
 じつにまともな見解だ。
 この記事はおそらく、棟居快行の語った内容を正確に伝えている。
 棟居には、頻繁ではないがいく度か、この欄にも登場していただいた。
 おそらく、長谷部恭男や辻村みよ子らともきちんと対抗できる議論のできる論者・憲法学者だろう。
 大石眞や藤田宙靖(-ときやす)が昨年あたりに読売新聞に寄稿したらしいが、大石眞も藤田宙靖も、そしてこの棟居快行も、読売新聞には登場するが、なぜか産経新聞には出てこないようだ。ましてや、この人たちが月刊正論(産経)に何かを執筆するとは、全く想定し難い。
 読売新聞を全面的に信頼しているのでは全くないが、産経新聞や月刊正論編集部は、あるいは一部<保守>派は、なぜか、と一度くらいは、真摯に自問した方がよいと思われる。
 さて、具体的内容は、先月の安倍晋三提言と関係している。
 もちろん、この人は憲法九条をめぐる解釈論、2015年の平和安全法制または集団的自衛権をめぐる議論の法的意味も熟知している。
 あえて最近に記したことを繰り返せば、安倍提言は、2015年の平和安全法制または集団的自衛権をめぐる議論の中で示された内閣法制局・内閣そして国会の憲法解釈の中身を、つまりは<武力行使の新・三要件>とか称されたものを(どう表現するかは以下のごとく議論が必要だが)現九条一項・二項には手をつけないで、憲法上に明記・追記しようとするものだ。
 決して、憲法現九条二項の「正しい」解釈に反する内容を「現実的に」明記しようとするものではない。
 2015年の平和安全法制が違憲ではないならば、その法制が依拠した憲法解釈を憲法上に明記することが違憲になるはずはない。
 この辺りを全く理解していない、著名論壇者?もいる。
 棟居快行が優れている一つは、追記条文の「私案」を示していることだ。これでよいとは全く思わないものの、具体的条文案を示す、という作業はなかなか大変だと思われる。
 自衛隊設置の憲法上の明記のための、九条二項の削除案も含めての、議論が十分になされる必要がある。
 もう一つの優れているのは、学者・研究者にしては、<政治的?または憲政的な>感覚が鋭いことだ。
 すなわち、2015年の平和安全法制が成立・施行されているとしても、したがってこの法制の基礎にある憲法解釈は安倍内閣どまりではなく国会も採用したことになるとしても、その内容が<国民投票>によっても支持されるか否かは、別の問題だ。
 棟居快行は言う。「国民投票は期せずして、安全保障関連法にイエスかノーか、という様相を呈する可能性がある」。
 2015年夏に執拗に抵抗した日本共産党や「左翼」は、必死で、闘ってくるだろう。
 安倍晋三提言は形式上は現9条にかかわらないとすれば「九条を考える会」とは無関係ということになるが(?!)、日本共産党や同党員は、何とでも言う。
 かりに安倍晋三提言でまとまったとしても、「政府・与党にとっては大きな賭けになる」(棟居)。
 上に書いたこと(意を尽くしているわけではないが)、したがって読売新聞の棟居談話?の意味を、全くかほとんど理解できない、月刊雑誌冒頭執筆者もいるに違いない。
 そのような人や、そのような雑誌の編集者が、憲法九条に関する議論や「運動」にまともに、または正気で参加できるとは思えない。

1573/読売新聞6/4の奇妙と櫻井よしこの無知・悲惨-憲法九条。

 ○読売新聞6/4付日曜朝刊一面に、「自衛隊根拠・9条と別に/憲法改正・橋下氏が条項新設案」という見出しがある。
 第4面の橋下徹インタビュー(聞き手・十郎浩史)と関連記事も読んだが、報道の仕方が奇妙だ。
 とくに一面の見出しと、4面の隣接記事の上の「イメージ」および「『9条の2』追加」という文字は、十郎浩史だけではないし、また十郎浩史と関係はないのかもしれないが、事実・事態の本質を、まるで理解していない可能性が高い。
 ひとことでいえば、現行の自由民主党(自民党)憲法改正案もまた、「9条と別」の、「9条の2」を追加又は挿入する条項を用意している。
 読売新聞関係者(政治部)は、じつに恥ずかしいミスをしていると思われる。
 一度、自民党ウェブサイトで、同党の改憲案を見てもらいたい。
 おそらくは、要するに、この記事関係者は、「9条」と「9条の2」が全く別の条項であることを認識していない。
 また、5/3の安倍晋三自民党総裁の発言の基本趣旨も、きちんと理解していない。
 すなわち、読売新聞の見出しに即していうと、①「9条と別に/条項新設案」をすでにとっくに自民党憲法改正案は用意している。②「『9条の2』追加」することを、自民党憲法改正案はすでに用意している。
 くり返すが、読売新聞関係者(政治部)は、とっくに公表されている自民党の改憲案を見てもらいたい。
 もちろん、その改憲案と、安倍晋三談話の趣旨は、同じではない。安倍晋三の趣旨を支持する、というのが橋下徹見解の趣旨で、読売新聞の見出しつけは、厳密にいえば、完全に<誤報>だ。自民党既成案と今回の安倍案それぞれの内容と違いは、後記する。
 4面の隣接記事が「~の2」という条項を追加することの必要性について長々と改正民法の例を挙げて「教えて?」いるが、不十分だ。「国民生活に支障が出る」からということの意味を、おそらくは理解していない。
 現9条の1項・2項をそのまま残して「自衛隊」の合憲性を根拠づける条項を新設する場合(これは現自民党改憲案ではない)、考えられるのは、9条に3項を追加することと、「9条の2」などの新設の「条」を設けることだ。論理的につねに「9条の-」になるとは限らない。憲法(の総合的)解釈に委ねて、地方自治に関する条項の前に、または内閣に関する条項の最後に挿入することも不可能ではない。
 しかし、内容的関連性からして、かりに新「条」項を挿入するのが妥当だとすれば、現9条と10条の間に挿入するのがおそらく最も妥当だろう。
 なぜ新10条にして、現10条以降を一つずつずらして10→11、11→12、…、としないのか。改正民法の場合は「国民生活に支障が出る」からでよいのかもしれないが、憲法を含めて全ての法典・法律類についていうと(読売新聞記者は手元の六法で一度<地方自治法>という法律を見てみたまえ。<~条の2の2>もある(これは~条2項2号のことでは全くない))、例えばこれまで簡単に<憲法20条の問題>で政教分離の問題であると理解することができたのを、それができなくなることだ。
 また、憲法および法律について各条または各項ごとに多数または場合によっては少ない判決例が蓄積されていて電子データ化されているというのに、新10条の挿入によって20条1項が21条1項になってしまえば、電子情報蓄積者も利用者も新10条挿入の発効日前後によって数字を区別しなければならず、法務省も裁判所も訴訟関係当事者も(ひいては国民一般)も、また国会自体が、きわめて混乱するし、きわめて不便で、現実的ではないからだ。
 電子情報だとしたが、紙ベースであっても変わりはない。新条を増やすたびに1つずつずらしていたのでは、立法作業、審議作業、訴訟審理、弁護士や国民一般の情報検索・収集が大変なことになる。読売新聞に例えば憲法25条に関する訴訟が提起されたとか新判決が出たと見出しで報道されている場合、その条文=25条が<生存権>に関する内容のものではなくなっていれば、「憲法25条」と略記したことの意味はほとんどなくなる。
 4面の隣接記事の執筆者は、これを理解しているのか、疑わしい。
 さて、自民党改憲案と安倍晋三総裁発言案の違いは何か。
 法技術的な差違の問題で趣旨は同じ、というわけではない。
 決定的な差違は、現9条二項を削除するのか、しないのか、だ。
 現9条以外に「新条項を追加」するか否か、ではない。
 現自民党改憲案は、現9条二項を実質的に全面削除する、そのうえで自衛隊関連の若干の言葉に代え、そのうえで「9条の2」を追加・挿入して、「国防軍」の設置を明記する。おそらくは、現在の自衛隊を「国防軍」に発展吸収させること(もちろん自衛「戦力」の保持の合憲性が前提)を意図しているのだと思われる。
 安倍晋三の案の正確な内容(条文案)は定かではないが、安倍案では、現9条はその一項も二項も、そのまま存置される。そのうえで、「自衛隊」を明示的に合憲化する条項を置く。
 この案を貫くと、「9条の2」が追加・挿入されることになるのかもしれない。
 しかし、自民党改憲案ではその内容は、①現9条二項削除を前提としての、②「国防軍」設置である(設置以外のことにも多々触れる)のに対して、安倍案では、その内容は、①現9条二項存置を前提としての、②「自衛隊」の設置・合憲化だ。
 新条項の追加であることに、変わりはない。読売新聞は、この点を誤解しているのではないか。
 つぎに、かなり立法技術的には、現9条一項・二項を全面存置したうえでも、<9条三項>にするか、<9条の2>にするか、という問題がある。
 前者も追加・新条「項」の挿入・新設であることに変わりはない。
 安倍発言が現9条は両項ともにそのまま残すことを前提にしていることは明らかだが、<三項>追記なのか、<9条の2>追記なのかは私自身は安倍発言の正確な内容を確認していないので、定かではない。安倍の、「読売新聞で読んでもらいたい」という国会答弁にも、従っていない。
 橋下徹は、これを後者だと理解したうえで、賛成しているようだ。
 法的意味は上の二つで、変わりはない(くどいようだが、自民党改憲案と安倍晋三案の法的意味は異なる。ここで言っているのは、現9条一項・二項の存置のうえでの、<三項>追記と<9条の2>追記の間の違いだ)。
 但し、<9条の2>とする方が、<現在の9条には全く触らない>というメーセッージ性は、あるだろう。くどいが、<9条の2>と<9条>は、別の、異なる「条」だ。
 <三項>追記にしても<9条の2>追記にしても従来とは異なる憲法解釈の必要性が生じてくるのは、間違いない。いずれにせよ、憲法自体が「自衛隊」は「軍その他の戦力」(現二項)に該当しない、と(解釈するだけでなく)明記していることになるからだ。
 この明記によって、現9条二項が保有を禁止する「軍その他の戦力」に該当する等々を理由とする自衛隊違憲論、自衛隊憲法違反論は、憲法上の「自衛隊」とその実態に乖離がなければ、払拭できる=阻止できる。
 しかし、日本国家は自衛のためならば「軍その他の戦力」を有しうる、という見解が発生する余地を、憲法解釈上はなくしてしまう、又は長く否定してしまう危険性は、あるだろう。
 秋月瑛二は、安倍発言が報道された5/3の翌々日に、この欄ですでにこう書いた。
 「先日に安倍晋三・自民党総裁(首相)が、憲法九条三項の追加による自衛隊の合憲性の明確化を提唱したようだ。/
 現在の自民党改憲案では現九条二項を削除し、新たに『九条の二』」を設ける(これは『九条二項』の意味ではない)こととしているので、同じではない。
 総裁が党の案と違うことを明言するのも自民党らしいし、また現改憲案とはその程度の位置づけなのかとも思う。が、ともあれ、たった一人で思いついたわけではないだろうし、かつまた、法技術的に見て、上のような案も成立しうる。想定していなかった解釈問題が多少は、生じるだろうが。/
 法技術的な議論の検討を別とすれば、憲法九条の問題が、観測気球ではなく、かなりの本気度をもって提言されているとすると、歓迎する。
 /憲法改正のためにも、橋下徹・維新の会を大切にすべきとの、秋月のこの欄でのだいぶ前での主張・予見は、適切だったことが証されそうな気もする。」
 橋下徹がどう反応するかなど、このときに予測などしていない(ただ、9条を含む改憲論者だと知っていただけだ)。
 また、上の時点で『憲法九条三項の追加による自衛隊の合憲性の明確化』と理解しているようなのは、『憲法九条三項の追加』の部分は正確ではないかもしれない。但し、<9条の2>新設(くどいが自衛隊設置のもので、自民党改憲案のこれではない)との間の法的意味の中味は、メッセージ性は別として異ならない。
 「憲法九条の問題が、観測気球ではなく、かなりの本気度をもって提言されているとすると、歓迎する」と書いたのは、ほぼ1ヶ月のちの今日でも変わりはない。
 橋下徹が言うように(言ったとされるように)、「2項を削除して自衛隊を軍と認め、軍法会議も規定すべきとの指摘」があるのは「百も承知」だ。
 理想・理念と戦略ないし現実をどう調整し、どう優先させるのか?
 改憲派、<保守>派もまた、問われる。
 ○ どうやら、憲法九条をめぐる解釈論議をまるで知らないことを、あらためてポロリと示してしまったのが、櫻井よしこの以下の論考のようだ。
 櫻井よしこ「安倍総理は憲法の本丸に斬り込んだ」月刊Hanada7月号p.34以下。
 もともと2000年刊行の本で櫻井よしこは、自衛隊は「違憲」であることから出発すべきだ、と主張していた。その点で、<左翼>と同じだった。その根拠は、あらためて確認しないが、<自衛隊って「戦力」じゃないの?>という素朴かつ幼稚なものだった。自衛隊の制度化・合憲視のための苦労も闘いも、まるで知らないように見えた。
 上の最近のものでも、つぎのように書く。
 「注目すべきは二項である。『前項の目的のため』、つまり侵略戦争をしないためとはいえ、『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。<一文略-秋月>』と定めた二項を維持したままで、如何にして軍隊としての、戦力としての自衛隊を憲法上正当化し得るのかという疑問は誰しもが抱くだろう。/現に、民進党をはじめ野党は早速、反発した。自民党内からも異論が出た。」p.37。
 櫻井よしこは、安倍発言自体を批判しない。この人は安倍晋三を(近年は)批判しないと固く誓っているとみえる人物で、今回のタイトルも、「安倍総理は憲法の本丸に斬り込んだ」になっている。また、「なんと老獪な男か」とも書く。
 しかし、ここでも透けて見えるのは、櫻井よしこの九条に関する憲法解釈論についての無知だ。そして「無知」であることに気づかないままでいる、という<悲痛さ>も再び示している。悲痛だ。悲しくも痛々しい。ここまでくると、<無恥>とも、追記・挿入しなければならない。あるいは、これで月刊雑誌に載せられると思っていることの、<異様さ>・<異常さ>を指摘しなければならないのかもしれない。
 櫻井よしこは、「矛盾のボールを投げた理由」を小見出しの一つにしている。
 また、つぎのようにも書く。「首相の攻め方の根底にあるのは徹底した現実主義だ。/正しいことを言うのは無論大事だが、現実に即して結果を出せと説く。」
 すぐには意味が分からない読者もいるだろう。だが、櫻井よしこが安倍内閣戦後70年談話への<保守>派の対応を引き合いに出して、自分のそれへの立場を卑劣な詭弁で取り繕っているところを読むと、意味は判然とする。
 すなわち、櫻井よしこにおいて、現九条二項があるかぎりは「自衛隊」を正しく「合憲化」することはできないのだ。
 したがって、櫻井よしこにおいては、安倍晋三発言は「正しい」のではなく、「矛盾」を含んでいる。そのうえで、「徹底した現実主義」(小見出しの一つ)として擁護しようとする。
 間違っている。悲惨だ。私、秋月瑛二の方が、<正しい>。
 上の秋月瑛二のコメントですでに記したように、安倍晋三の「上のような案も成立しうる」。現九条二項を存置したうえでの安倍の議論は、法的に、憲法立法論として、成り立ちうる。
 「正しい」のではないが「現実的」といつた対比をしては、いけない。断じて、いけない。
 どこに櫻井よしこの誤り=無知があるのか。
 これまでの政府解釈はそもそも基本的には、自衛隊は九条二項にいう「戦力」には該当しない、自衛権(これは明文がなくとも国家はもつ)の行使のための実力組織・実力行使機構は、ここでの「戦力」ではない、というものだった(「最低限度の」とか「近代戦を遂行できるだけの」とかの限定もあったことや論理的には<核>保有も可能だったことに立ち入らない)。
 現在の自衛隊はそもそも二項にいう「軍その他の戦力」ではないがゆえに、合憲だとされたのだ。その上で、誤った?かつての(自衛権の中に理論上は入るが行使するのは容認されていないという)内閣法制局見解=解釈の遵守を改めて、同法制局も解釈を変えて<限定的な集団的自衛権の行使>も合憲だとし、2015年にいわゆる平和安全法制も法律化された。
 櫻井よしこは、おそらく間違いなく、自衛隊=「戦力」だと考えている。
 この櫻井の解釈を前提にすれば、やはり現自衛隊は違憲で、平和安全法制も違憲のはずのものだった。櫻井よしこは、二年前にどう主張していたのか。強く平和安全法制違憲論を唱えて反対していた、という記憶はない。
 かつまた、櫻井は、条文上の<明示(明記)>の問題と条文<解釈>の問題とを区別できていないのかもしれない。
 櫻井よしこの自衛隊=「戦力」だは、素人の<思い込み>だ。
 幼稚で素朴な過ちだ。憲法解釈は日本語・文章の文学的?解釈ではない。
 そう思い込んでもよろしいのだが、しかし、それは政府および自民党(政権中枢を支える派)が採ってきた憲法解釈ではないし、警察予備隊以降の長年の憲法解釈実務と、全く異なる
 この人は、櫻井よしこは、悲しいことに、何も知らないのだ。
 憲法九条に関する憲法概説書の少しでも読んでみたまえ。
 西修の本は、自らの憲法解釈として「前項の目的…」を使っているかもしれないが、政府解釈・内閣法制局解釈と同じでは全くない。西修や産経新聞に二年前に載った憲法九条に関する説明は、自説と政府・実務解釈との違いが明瞭でなかった。
 この人は、すなわち櫻井よしこは、基本的なところで間違っている。
 だから安倍晋三は「矛盾のボール」を投げた、「正しい」ことよりも「現実に即し」た結果を出そうとしている、などという論評が出てくる。
 櫻井よしこという人は、本当に無知で、悲惨だ。
 警察予備隊を発足させる直前からの、長年にわたる旧自民党、政府与党の、憲法解釈にかかわる苦しみも闘いも、まるで分かっていないのだ。
 もちろん、喫茶店での、少しは憲法のことを知っているらしき者たちの世間話程度ならばよい。
 しかし、こんな、基本から誤った人の文章が、なぜ堂々と月刊雑誌の冒頭を飾り、表紙でも右端に大きくタイトル・執筆者名が書かれるのか。
 月刊Hanadaおよび花田紀凱に対しても、<恥を知れ>と言いたい。
 いやその前に、<恥ずかしくないのか?>と問おう。
 読売新聞も奇妙だが、櫻井よしこと月刊Hanadaの無知の方がむしろおそろしい。
 いや、双方ともに、現在の日本の知的世界の堕落した状態、頽廃さを示しているのかもしれない。
 悲惨だ。
 本当は、櫻井よしこなどからは、早く遠ざかりたいのだが。


1529/憲法九条改正と櫻井よしこの「自衛隊・違憲」論。

 ○ 日本国憲法「改正」問題については、「改正」論を嘲笑し唾棄すべきものとする同廃棄論・同無効論についても含めて、この欄でたびたび触れた。
 憲法現九条の問題についても同じ。したがって、新たに述べたいことはほとんどない。
 ○ 先日に安倍晋三・自民党総裁(首相)が、憲法九条三項の追加による自衛隊の合憲性の明確化を提唱したようだ。
 現在の自民党改憲案では現九条二項を削除し、新たに「九条の二」を設ける(これは「九条二項」の意味ではない)こととしているので、同じではない。
 総裁が党の案と違うことを明言するのも自民党らしいし、また現改憲案とはその程度の位置づけなのかとも思う。が、ともあれ、たった一人で思いついたわけではないだろうし、かつまた、法技術的に見て、上のような案も成立しうる。想定していなかった解釈問題が多少は、生じるだろうが。
 それよりも、テレビ報道のかぎりでは、安倍晋三のビデオ・メッセージが伝えられたというその場で、その後なのか前なのか、櫻井よしこが<緊急事態条項の追加を!>という、安倍晋三のメッセージとは異なる、<あっち向いてホイ>ふうのことを大きく喋っていたのが記憶に残った。
 とくにビデオ放映の後だとすると、何とトンマな人だろうと思う。櫻井よしことは。
 むろん、自民党も含めた憲法改正賛成派の中で、改正の優先順位に関する議論にまるで一致がない、という問題がある。
 改正手続の改正(現96条。過半数でま発議を可とする改正)からという話も、安倍政権のもとであった。法技術的な議論の検討を別とすれば、憲法九条の問題が、観測気球ではなく、かなりの本気度をもって提言されているとすると、歓迎する。憲法改正のためにも、橋下徹・維新の会を大切にすべきとの、秋月のこの欄でのだいぶ前での主張・予見は、適切だったことが証されそうな気もする(元月刊正論編集部・桑原聡や、橋下について<ロベスピエールの再来>の危険があるとした佐伯啓思大先生は、その後、どう思っているのか ?)。
 但し、重要なのは、憲法改正による自衛隊合憲化(又は自衛軍・国防軍の明記)は現憲法の一部、軍事問題についての一定の「改正」にすぎず、かりにそれが成されたからといって、<保守革命>が起きたかのごとく歓ぶことになるのでは全くない、ということだ。
 一部だけでも改正する実績ができることは、戦後史の大きな転換ではある。しかし、自衛隊合憲性明記がいかほどの<変革>になるかは、じつは相当に疑わしい。現憲法、現条項のもとでも(さらには「前文」を変えなくとも)、2015年の平和安全法制程度の諸法律等を制定するのは不可能ではなくなっていたのだから。この程度にしておく。
 ○ 櫻井よしこは、改憲民間団体の共同代表でもあるらしい。
 しかし、この人物はかつて2000年に、どう言っていたか。以下による。
 櫻井よしこ・憲法とはなにか(小学館、2000)、p.226-。
 櫻井は、「『自衛隊は違憲』から出発しよう」と節の見出しをつけ、このとおりのことを述べている。p.228。
 現九条二項は「あまりにも明確に自衛隊の存在を違憲だとする文言です」。
 「自衛隊は現行憲法においてはもはや違憲の存在であるという視点でもう一回憲法を見て」みると「ストンと納得がいく」、「憲法がわかりやすくなって」くる。
 社会党は村山内閣で自衛隊合憲論へと変化したが、「皮肉なことに自衛隊は合憲か違憲かという点については」、「以前の社会党の主張が正しかったとも思えるのです」。
 この叙述の意味を再述しはしない。
 櫻井よしこの憲法論(あるとすれば)に特徴的なのは、形式的な「文言重視」主義で、不文憲法や不文法原理というものの存在を想定していないことだろう。
 したがって、じつに幼稚な、中学生・高校生レベルの認識・議論をしている(そのレベルのものは、他の論点にもこの人には多々ある)。
 そしてまた、自衛隊=「違憲」ということは、自衛隊法という法律を含めて、自衛隊の活動に関するすべての関連法律諸条項は「違憲=無効」となって<法的>には過去も現在もあってはならないことになる、という帰結となることも、おそらく櫻井よしこは理解していないと思われる。
 文章には<規範・希望・予測>等の<観念>を叙述するものと、<事実>を叙述する(少なくともそのつもりの)ものがある、という区別自体が、この人には存在していないのではないか、と強く疑っている。
 なお、二項の冒頭の「前項の目的を達するため」との文言に着目して政府側が合憲視していたかの理解は、誤り。
 日本側の幣原喜重郎による九条提言説を江藤淳の書のみを使って却下しているようなのも、きわめて不十分。
 この本も、他にもあるが、この人が「勉強」した(つまり情報収集に使った)本を引用したり、抜粋要約したりして、他者のものを結果として<なぞっている>だけだ。櫻井よしこの独自性はどこにあるのか ?
 ○ 櫻井よしこは、九条関係の諸議論を、おそらく全く分かっていない。
 近年は、九条一項は維持して九条二項を改正すべきと、櫻井は主張しているようだ。
 主張・見解を変更すること自体を批判できないだろう。
 だが、2000年時点で<自衛隊・違憲>論を明確に主張していたことは、上記のとおり間違いない。
 現在の立論へとどのように変化したのか、あるいは違憲のものを合憲にしたいだけで変わっていないと主張するのか(この立場だと2015年平和安全法制も違憲だ)。
 いずれにせよ、櫻井よしこはきちんと説明する責任があるだろう。民間憲法改正運動の代表者、国家基本問題研究所の所長という肩書きを付けていることを認めるのならば。

1308/中西輝政の憲法<改正>論。

 中西輝政・中国外交の大失敗 (PHP新書、2014.12) の最終の第八章のタイトルは「憲法改正が日中に真の安定をもたらす」であり、その最終節の見出しは「九条改正にはもはや一刻の猶予もならない」だ。そして、「九条改正という大事の前では、集団的自衛権の容認など、取るに足らない小事」で憲法九条を改正すれば「集団的自衛権の是非などそもそも問題にはなりえない」等ののち、「日本人はいまこそ一つの覚悟を固めて」、「日本国憲法の改正、とりわけ第九条の改正」にむけて「立ち上がらなければならない」等と述べて締めくくられている。
 このように中西輝政は憲法「改正」論者であり、<改正というべきではない、廃棄だ>とか<明治憲法に立ち戻ってその改正を>とか主張している<保守原理主義>者あるいは<保守観念主義(観念的保守主義)>者ではない。
 ではどのような憲法改正、とくに九条改正を、中西は構想または展望しているのだろうか。中西輝政編・憲法改正(中央公論新社、2000)の中の中西輝政「『自己決定』の回復」の中に、ある程度具体的な内容が示されている。
 すなわち、「九条の二項を削除し代わりに、自衛のための軍隊の保有と交戦権の明示、シビリアン・コントロールの原則と国際秩序への積極的関与に、それぞれ一項を立てる、というのが私の提案である。そして慎ましい『私の夢』である」(p.98)。
 そして、このような「九条二項の逐条改正を『最小限目標』とすべきである」ともされている(p.96)。
 この中西の案はいわば九条1項存置型で、同2項削除後の追加条項も含めて、基本的には、自民党改正案(第二次)や読売新聞社案とまったくか又はほとんど同じもののようだ。
 注目されてよいのはまた、「一括改憲」か「逐条改憲」かという問題にも言及があることで、「戦略」的な「現実の改憲」の容易性(入りやすさ)が意識されている。
 中西によれば、私学助成、環境権、プライバシー権など(の追加による逐条改憲)は「入りやすく」とも「『自己決定』の回復」とは到底いえず、一方、一括改憲は「改憲陣営の分裂を生じさせる」可能性があり、「何よりも時間がかかる」(p.96)。
 昨年末に田久保忠衛の論考(月刊正論(産経)所収)を読んで、ただ憲法改正を叫ぶだけではダメで、どの条項から、どういう具体的内容へと改正するのかを論じる必要がある、<保守派の怠惰>だと書いたのだった。しかし、中西輝政はさすがによく考えていると言うべきで、上のような議論を知ると、中西輝政を含めた<保守派>全体にあてはまる指摘ではなかったようだ(この中西編の著も読んだ形跡があるのだが、少なくともこの欄で取り上げたことはなく、-よくあることだが-中西論考の内容も忘れていた)。
 なお、上の2000年の中西論考は、中西輝政・いま本当の危機が始まった(集英社、2001)p.214以下、およびその文庫版(文春文庫、2004)p.196以下にも収載されている。
 とくに中西輝政と西尾幹二の諸文献、諸論文を、読む又はあらためて読み直すことをするように努めている。この稿はその過程でしたためることになった。

1307/日本共産党は「将来、情勢が熟したとき」<天皇制>を廃止する。

 産経新聞5/18で日本共産党・小池晃(政策委員長)は、現行憲法の「全条項を守る」と明言している。
 しかし、これは日本共産党独特の言い方、あるいは<ペテン>であって、<今のところは>または<当面は>という副詞が隠されている、と理解しなければならない。
 軍・戦力の保持を一般に禁止している九条2項についてもそうなのだが、とりわけ一条以下の「天皇」の存在を前提とする諸規定も含めた「全条項を守る」つもりであるとは思えない。
 小池によれば、1946年6月に同党が発表した日本人民共和国憲法草案は「歴史的文書」で、現在における憲法改正案として掲げているのではないらしい。
 だが、そうであるとしても、戦前に<天皇制打倒>を掲げた政党が戦後にその目標を降ろしたとは考え難い。また、日本共産党系の、鈴木安蔵を初代の代表理事とした「憲法改悪阻止各界連絡会議」(「憲法会議」)が、<護憲>ではなく<憲法改悪阻止>と謳っているのも、日本共産党にとっての(改悪ではない)<改正>は追求する趣旨を込めていると解することができるし、実際、そうであるはずだ。
 日本共産党は1961年綱領を2004年に改定した。同綱領は、日本の戦後の変化を、①「アメリカの事実上の従属国」になったこと、②政治制度が「天皇絶対の専制政治から、主権在民を原則とする民主政治」になったこと、③「戦前、天皇制の専制政治とともに、日本社会の半封建的な性格の根深い根源となっていた半封建的な地主制度が、農地改革によって、基本的に解体されたこと」の三点にまとめ、②についてはさらにこう書いている。
 ②の変化の代表は日本国憲法で、「民主政治の柱となる一連の民主的平和的な条項を定めた。形を変えて天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点を残したものだったが、そこでも、天皇は『国政に関する権能を有しない』ことなどの制限条項が明記された」。
 また、今後について、次のように書いている。これ以外に綱領上の言及はないようだ。
 「天皇条項については、『国政に関する権能を有しない』などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する。/党は、一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のため民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」。
 ここでは、<将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって><天皇制度の存廃>が解決される、と言っている。
 これについて、2004年党大会では「国民の総意に転嫁するのは無責任」等の意見があったようで、不破哲三(中央委議長)は次のように「報告」している。以下、不破哲三・報告集/日本共産党綱領p.33-(同党中央委出版局、2004)による。
 党の立場は「明確」だ。「党は、一人の個人あるいは一つの家族が『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく」と、その「評価を明確にして」おり、今後についても、「国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだ」という方針を明示している。だが、天皇制について「国民の現在の多数意見はその存在を肯定する方向にあ」り、「その状態が変わって、国民多数が廃止あるいは解消の立場で合意しない限り、この問題での改革は実現でき」ない。「天皇制の問題」については「なんらかの改変」自体が、「憲法の改定を必要とする」。「一方、戦前のような、天皇制問題の解決を抜きにしては、平和の問題も、民主主義の問題もないという、絶対主義的天皇制の時代とは、問題の位置づけが根本から違っていることも、重視すべき」だ。
 「いま、憲法をめぐる中心課題は、第九条の改悪を主目標に憲法を変えようとする改憲のくわだてに反対し、現憲法を擁護することにあ」る。「わが党は、当面、部分的にもせよ、憲法の改定を提起する方針をもちません」。だから、「天皇制の廃止の問題が将来、どのような時期に提起されるかということもふくめて、その解決について」は、「将来、情勢が熟したとき」の問題だ、と「規定するにとどめている」のだ。
 このように、綱領上の文章ではやや曖昧ではあるが、天皇制度廃止を明記しないのは天皇制度を現在の国民の多数は肯定している、したがって廃止論が多数にならないかぎり改憲による天皇制度の廃止はできないからだ、現在の「憲法をめぐる中心課題」は「現憲法を擁護」することだが、平和・民主主義にとって「天皇制問題の解決」は不可欠なので、その解決は「将来、情勢が熟したとき」の問題だ、という趣旨を述べている。
 要するに、当面は「現憲法を擁護」するが、国民多数の意見の動向によって「将来、情勢が熟したとき」に、憲法改正によって「天皇制の廃止」を図る、と主張していると理解して差し支えない。
 このような理解に、小池晃も反対はできないだろう。不破哲三が述べた内容の合理的な理解のはずだからだ。
 したがって、当面は「守る」が、将来は「廃止」する、というのは、やや複雑な言い方をしているが、日本共産党の既定の方針だ、ということになる。日本共産党は、このような、<戦術的>な政策表明をするので、注意しなければならない。
 <未来社会-社会主義・共産主義社会>を目指す手段・過程としての(「自由」と「民主主義」の擁護・徹底を通じての)<民主主義革命>なのであって、この政党にとっては「自由」と「民主主義」も、第二段階の「革命」のための手段あるいは<便法>であることは言うまでもない。

1305/長谷部恭男は九条改正反対論者、「人選ミス」では済まない。

 「人選ミス」では済まないだろう。
 6/04の衆院憲法審査会で、与党等(自民党・公明党・次世代の党)の推薦で参考人となった長谷部恭男は、安保法制整備法案について、「憲法違反」だと言い切った。
 産経新聞社のネット情報によると長谷部を選んだのはまずは衆院法制局のようだが、もちろん自民党等の委員、船田元や北側一雄(公明党)らが了解しないと参考人になれるはずがない。
 長谷部恭男はひっょとして、依頼を受けて驚くとともにほくそ笑んだのではなかろうか。
 長谷部は特定秘密保護法案には反対を明言しなかったようだが、憲法九条の改正については、<志は低い>とはいえ、明確な<護憲>つまり改憲反対論者だ。このことは、この欄でも紹介してきた。
 また、2005年の<NHKに対する安倍晋三ら政治家による圧力>という朝日新聞の記事が問題視されたあとの第三者的検証委員会のメンバーとして朝日新聞には<優しい>報告書作成に関与し、今年2015年4月にはNHK「クローズアップ現代」の<やらせ>問題でも調査委員会の一員となってNHKには<優しい>報告書をまとめた。もともとは、民主党が推薦したらしい小林節の方が<より保守的>であり、長谷部は小林節よりも<左>の人物なのだ(東京大学→早稲田大法という履歴でもすでにある程度は分かってしまう)。
 このような人物が、今次の安保法案は合憲ですと発言してくれると思っていたのだろうか。信じ難い。
 長谷部恭男は昨2014年夏の、日本共産党系「左翼」憲法学者たちの集団的自衛権行使容認閣議決定に対する反対声明に参加してはいない。純粋な日本共産党的な(教条的な?)「左翼」ではない。だが、そのような「左翼」学者もまた多いのであって、この声明に加わっていないことが集団的自衛権行使容認解釈は合憲と理解していることの保障には全くならないことは自明のことだろう。木村草太(首都大学)もまた、非共産党系「左翼」憲法学者のようだ。
 船田元は「ちょっと予想を超えた」と言ったらしいが、マヌケにもほどがある。憲法学者の中にまともな人物が少ないのは残念なことだが、それでも、自民党内で憲法改正を扱う中心的な人物の一人であるならば、憲法学界の状況、どういう学者・大学関係者が憲法改正、とくに九条2項改正に明確に賛成しているのかぐらい、きちんと把握しておくべきだろう。
 維新の党が安保法制についてどういう立場なのかは知らないし、同党の人選結果についての反応も知らない。だが、同党が推薦したらしい笹田栄司(現早稲田大)についても、長谷部恭男についてとほぼ同様なことが言えそうだ。
 どうやら、国会議員の方が、現実の憲法学界の動向・雰囲気を知らないという<浮き世離れ>した世界に生きているようだ。それはひょっとすれば、<保守>派・<改憲>派の人々にもあてはまるのではないか。

1304/西修・…よくわかる!憲法9条を読む-4。

 西修・いちばんよくわかる!憲法9条(海竜社、2015)を読んでの感想は、最後に、改憲派あるいは憲法九条改正を主張する論者においても、その改正の具体的内容についてはおそらくは基本的な点についてすら一致が必ずしもない、ということだ。これは西修の責任ではない。但し、読売新聞社案、産経新聞社案の作成に関与し、「美しい日本の憲法をつくる会」の代表発起人の一人であることから、もう少し何とかならなかったのか、という気もする。
 最大の論点は、現九条1項を基本的にそのまま残し、2項のみを削除・改正ないし追加するかだ。西修自身は、全体をかなり分解した改正案を考えているが(上掲p.115-)、現1項の趣旨をより明確化した文章に変えたうえで現2項を全面的に改めるもので、基本的趣旨・構造自体は現1項存置型に近いもののように解される。西修案は、同・憲法改正の論点(文春新書、2013)p.186でも示されている。
 明確に1項存置型の読売新聞社案と産経新聞社案とは基本的に同じだという西修の説明もあるが、産経新聞社案「起草委員会委員長」だった田久保忠衛は「第一項も含めて全面的に改める」こととしたと明記していることはすでに何度か記した(田久保忠衛・憲法改正/最後のチャンスを逃すな!p.172-5(並木書房、2014))。また一方では、既述のとおり、田久保忠衛は「美しい日本の憲法をつくる会」の共同代表の一人だが、同会による「改正案骨子」は現九条について「9条1項の平和主義を堅持するとともに、9条2項を改正して、自衛隊の軍隊としての位置づけを明確にします」と述べて、現1項は存置する考え方であるような主張をしている。
 櫻井よしこ=民間憲法臨調・日本人のための憲法改正Q&A(産経新聞出版、2015)はこの点についてどう書いているだろうか(なお、西修は民間憲法臨調の「副代表・運営委員長」のようだ)。
 まず、「例えば、第9条2項だけを改正し、1項は残す」としているのが目につき(上掲、p.36)、「例えば」とあるところからすると、この考え方も一案にすぎないものと理解されているように読めなくはない。
 しかし、改憲諸案で現1項の<侵略戦争>放棄の趣旨部分を提案するものはないと書き、1項を存置しても「平和主義の原則」は変わらない旨も記している(p.35)。
 また、<第9条を改正すると、「平和主義の理想」を捨てることになりませんか?>という質問を設定しつつ、「第9条2項を改正して軍隊を持っても、第9条1項に掲げられた『平和主義の理想』を捨てることにはなりません」という回答を述べ、その説明をしている(p.54-55)。
 こうしてみると、この本の考え方は、現九条1項は基本的に残したうえで2項を改正又は削除して「軍隊」保持を明記する、というもののようだ。
 とすると、田久保委員長ら「起草」の産経新聞社案はやはり最も異質な改正案の文言になっている。 
 奥村文男は産経新聞5/17の「憲法講座」94回で自民党案と産経新聞社案を比較して、「両者の基本的視点は共通ですが、自民党草案は、現9条1項を踏襲した上で、自衛権の発動を認めるとする点で、回りくどい表現が気になります。この点では、産経案の方がより簡明です」と述べて、産経新聞社案が最良であるかのごときコメントをしている。しかし、各改正案を見てみれば、このような評価は、「簡明」さの問題はさておき、決して多数に支持されているわけではないと思われる。
 このように諸改正案を見てみると、西修案にも見られる「簡明」さは魅力的ではあるが、結局のところ、現に政党の中で唯一九条改正案を提示し、今後も改憲運動の中心になるだろう自民党の案を基本として九条改正を議論する、あるいはそれに向けて運動するのが妥当だろうと考えられる。
 政権政党でもある自民党の案は、たんなる「私」企業である新聞社の案や学者等の「私案」とは異なるレベルのものと理解されるべきで、同列に並べて比較するのはもともと適切ではない。
 細かな文言等々について種々の議論が-おそらくは「美しい日本の憲法をつくる会」の役員の内部でも-あるのだろうが、私的団体間や個人間の議論ではなく、九条に関する自民党改正草案を支持するか、あるいはどのようにそれをよりましに修正するか、という議論をした方が生産的だと思われる。また、かりに九条にかかる自民党改正草案が支持されてよいのだとすれば、それを採用して各団体や論者の主張・意見としてもよいのではないか、と考えられる。
 九条の改正の具体的内容について些細なあるいは細かな、字句をめぐるような、不毛な・非生産的な議論は避けるべきだろう。 

1299/日本共産党「海外で戦争できる国…」は2005年に。

 一 日本共産党の「海外で戦争できる国づくり」反対のポスターは、昨年末の総選挙時に初めて見かけたように思う。では「日本国領域内での戦争」ならばよいのか、と皮肉りたくなったものだったが。
 もっとも、このような決めつけ、レッテル貼りを、日本共産党は遅くとも2005年には行なっている。
 志位和夫・日本共産党はどんな党か(新日本出版社、2007)は、小泉純一郎首相時代の2005年に自民党第一次憲法改正草案が現九条2項の削除と「自衛軍」保持の明記を掲げたことに論及して、「憲法九条をかえる」、「とくに九条二項」の「戦力」不保持条項を変えて「自衛軍がもてる」ようにする「憲法改定の…ねらい」は、「海外での武力の行使」を可能にすること、「海外で戦争する国」にすることだ、という旨を明記している(p.57)。志位によれば、小泉首相はこの狙いを「ひた隠しに隠」しており、それは「一番知られたくないこと」なのだそうだ(同上)。
 また、上の書p.62は、志位和夫が2005年05月の時点で、<九条2項削除・自衛軍保持>の憲法改正は日本を「海外で戦争をする国」に「つくりかえることに道を開くもの」だと述べたことも記している。この「からくり」を「しっかり見破る」ことが大切なのだ、という(同上)。
 憲法改正(九条2項削除等)ではなく集団的自衛権行使容認等の憲法解釈をふまえた安保法制の整備に反対してであるが、日本共産党は遅くとも10年前には、現在と同じことを言っている。
 「戦争反対」について言えば、厳密には、自衛目的の正当な戦争もあると考えるので、「戦争」一般をすべて<悪>として否認する考え方は採らない。おそらくは日本共産党も、社会主義国の核は善、資本主義国の核は悪と見なしてきた時代もあったくらいだから、厳密には「戦争」一般を<悪>だとは考えていないはずだ。
 にもかかわらず「戦争」一般が<悪>であるかのごとく主張しているのは、第一に、日本国民に根強い<反戦・平和>の感情に媚び、それを取り込んで自分たちの勢力を少しでも拡大したいからだろう。
 あるいは第二に、自分たちとは異なる勢力が起こす「戦争」はつねに<悪>だ、と見なしているからだろう。自分たちとは異なる勢力とは、より正確には、日本共産党が綱領上「敵」と見なすアメリカ(帝国主義)とそれに従属した日本の「反動」勢力(>日本独占資本)だ。
 このような<堅い>考え方をしている政党の党首等と議論・討議しても、本当は時間が無駄なだけだ。建設的・生産的な議論になるはずがない。安倍首相らには、適当に(あるいは適切に?)<お相手をしてあげて>、とだけ申し上げたい。
 二 2015年05月28日の衆院平和安全法制特別委員会で、民主党の辻元清美は「日本が戦争に踏み切る基準の変更について議論しているのか」と質問の冒頭で述べたらしい。また、同党の後藤祐一は、「この法案は石油を求めて戦争を可能にする法案なのか」と述べたらしい。
 「戦争」という語を平気で用いて、国民の不安を煽っているのだろうこの二人のメンタリティもまた、日本共産党のそれとほとんど異ならないようだ。まともに議論しても、回答しても、おそらく意味がない。
 三 質疑の内容については、古森義久産経新聞5/30の「緯度経度」欄で「安保法制、日本の敵は日本か」と題して語っていることに、ほとんど異論はない。
 もっとも、古森の上のような適切な分析と批判を行なっても、日本共産党には何ら意味がないようだ。
 日本共産党は1998年に中国共産党と関係を修復して<社会主義をめざす>友好党になっている。中国共産党が率いる中国を正面から批判するはずがない。「日本を軍事的に威嚇し、侵略しようとする勢力」への「歯止め」(古森)をこの政党が問題にするはずがない。この政党にとってのリスク、いや「敵」は、上記のとおりアメリカと日本の安倍晋三たちなのだ。民主党の中にも、同党に移ってもよいような議員がいるのだろう。 

1297/西修・…よくわかる!憲法9条を読む-3。

 西修・いちばんよくわかる憲法9条(海竜社、2015)を読んでコメントしておきたい第三は、以下のことだ。
 西修は現九条をどう改正するかについて①自民党案(2012)、②読売新聞社案(2004)、③産経新聞社案(2013)を挙げ(もう一つ旧民社党議員たちの「創憲会議」案(2005)も挙げているが、ここでは省略する)、1.現九条1項の「基本的な踏襲」、2.自衛戦力(軍隊)保持の明記、等で共通している、とするが(p.112)、この1.は、はたしてそうなのだろうか。
 現九条1項-「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。
 これに対応する各改正案の条文は次のとおりだ。
 ①自民党案-「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない」。
 ②読売新聞社案-「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを認めない」。
 ③産経新聞社案-「日本国は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国が締結した条約および確立した国際法規に従って、国際紛争の平和的解決に努める」。
 西修は各改正案が1.現九条1項の「基本的な踏襲」で共通している理由として、①を除く各案の「作成に関し、かかわりをもっているから」だとしている(p.116)。この著によると西は、②については読売新聞社内の1992年設置の憲法問題調査会に1委員として参画し、2004年案作成にも関係した。また、この欄でも既述のように、③については、産経新聞社内「国民の憲法」起草委員会5委員の一人だった。だから各案には「私の考えが大なり小なり反映されて」いる、というのだが、上記のとおり、ほとんど明らかに、産経新聞社案だけは異なっている。
 他の案は現九条1項の条文をほとんどそのまま維持している。「…は、国際紛争を解決する手段としては、」の部分をそのまま生かしており、そのあとが①「用いない」、②「永久にこれを認めない」。と少し変えているだけだ。
 これに対して、③産経新聞社案には、「…は、国際紛争を解決する手段としては」否認する、という、パリ不戦条約以来の歴史のある、<侵略戦争の放棄>の趣旨を、少なくとも明文では残していない。「…、国際紛争の平和的解決に努める」という部分でその旨を表現した、と主張されるのかもしれないが、その旨は明確ではない、と理解するのが自然だと考えられる。
 それに、この欄ですでに触れたことだが、産経新聞社案にかかる「国民の憲法」起草委員会の委員長だった田久保忠衛自身が、その著で次のように述べている。以下、田久保・憲法改正、最後のチャンスを逃すな!(並木書房、2014)による。
 「第一項は…そのまま残し」、第二項を「全面的に改める」説に「じつは私も…賛成だった」が、現第一項に「問題はないだろうか」。「国際紛争」の理解によっては「支障が出てくる」。第一項があると「国連決議にもとづく国際紛争にかかわる集団的安全保障に参加できないことになる」、また「米国が多国籍軍に入っている」ときに米国に対する武力攻撃を日本が「自国が攻撃されていないにもかかわらず」実力で阻止しようとすると「動きがとれなくなってしまう」=「集団的自衛権の行使に踏み切ることができなくなる」。そこで現第一項を含めて全面的に改める」こととした(p.172-5)。
 上にいう「国連決議にもとづく国際紛争にかかわる集団的安全保障」への参加については現一項は何も定めて(語って)いないのではないかとすでに書いたが、そうでない場合の米国との関係での「集団的自衛権の行使」については、現一項のもとでも一定の要件のもとに認められると閣議決定で解釈され、それにもとづく法案が(現一項のもとで!)国会に提出されている(2015.05)。
 この実際の動きはさしあたり別論としても、③産経新聞社案が他の、現一項をほとんどそのまま残す①や②とは異なることは、田久保忠衛が明言するようにほとんど明瞭なことではないか、と思われる。
 この産経新聞社案が絶対的に拙劣で<悪い>案だと言うさもりはない。だが、①や②には、現九条の全体に問題があるのではなく(<侵略戦争>放棄の第一項に問題はなく)、現九条二項こそが問題であってこの項こそが改正すべきなのだ、という主張・見解を国民に対して明確にアピールできる効用はあるだろう。
 自らが関係した二つの案が基本的に同じ趣旨だと主張したい気分は理解できるが、やはり、産経新聞社案だけは異質なのではないだろうか。
 全体の趣旨・論調からすると些細なことかもしれないが、気になった点であることは間違いない。
 なお、西修の改正私案は「…他国に対する侵略の手段として、国権の発動たる戦争、武力による威嚇または武力の行使を永久に放棄する」というもので(p.115-6)、「侵略」という語の使用によって趣旨をより明確にしつつ、③産経新聞社案よりも①自民党案・②読売新聞社案に近いものだ。 

1292/西修・…よくわかる!憲法9条を読む-2。

 西修・いちばんよくわかる憲法9条(海竜社、2015)にかかわってコメントしたい第二は、保守派または改憲派、あるいは正確には現九条改正論者において、現在「公」的に通用している(例えば、自衛隊を法的に支えている)、政府の九条解釈の理解は一致しているのか、という疑問がある、ということだ。
 西修の理解については、すでに触れた。もう少し言及すれば、政府解釈は①「憲法は戦争を放棄した」とするものであり(上掲p.15)、「自衛戦争」も「認めていない」(p.17)、また、②憲法は自衛目的の「戦力」=「自衛戦力」も認めていない、とするものだ(p.19)。そして、③自衛隊は、禁止されている「戦力」ではない「必要最小限度の実力」として合憲である(p.16、p.21)。
 政府解釈を、このように私も理解してきた。①については、A/すでに1項からか、B/2項からかという解釈の分かれがあるが、とりあえず省略する。
 産経新聞の5/03と5/10に「中高生のための国民の憲法講座」として、奥村文男が憲法九条について解説している(なお、失礼ながらこの人の名は見聞きしたことがなかった)。
 この解説の最大の問題は、自説、つまり自らの解釈を述べることに重点を置いており、政府の解釈はいかなるものかについての丁寧な説明がないことだ。これでは、なぜ現九条を改正しなければならないのかが殆ど分からないままだと思われる。
 奥村は自らの解釈としては西修と同じ解釈を主張している。つまり、1項は「国際紛争を解決する手段として」の戦争(侵略戦争)のみを禁止(放棄)しており自衛戦争等は認めている、そのような(2項にいう)「前項の目的」のために、「自衛戦争」(や制裁戦争)・自衛目的の「戦力」保持は許容される、と解釈する。
 かかる解釈を主張するのはむろん自由だが、すでに述べたように、この解釈に立てば、現九条、とくにその2項を改正しなくとも、自衛隊を自衛「軍」と性格変更する法律制定、換言すると<自衛軍>あるいは<国防軍>設置法(法律)を制定することによって「陸海空軍その他の戦力」を保持することができ、「自衛戦争」も行なうことができる。
 なぜ現九条、とくにその2項を改正しなければならないかの理由が、かかる解釈の披瀝だけでは全くかほとんど分からない。
 また、政府解釈に言及する部分もあるが、奥村文男の理解は正確ではないと見られる。
 2項の「戦力」の意味についての、「戦力の保持は認められないが、自衛のための必要最小限度の実力の保持は認められるとする」のが「何度か変更」はあったが「政府解釈」だ(丙2説)と説明する部分は(5/03)、誤っていないだろう。
 しかし、2項の「前項の目的」についての、「国際紛争を解決する手段として」の戦争等を放棄するものだと限定的に解し、「自衛戦争や制裁戦争は禁止していないとする」のが「現在の政府見解」だとする説明は(5/03)、政府解釈の理解としては、誤っている。
 このように解釈すると、<自衛戦力>は保持できないにもかかわらず<自衛戦争>は認められている(!!)、というじつに奇妙な結果になってしまう。奥村は、そして読者はお判りだろうか。
 したがってまた、奥村が示す甲説から丙2説までの解釈の分かれの分類とそれらの説明も、適切なものではない、と考えられる。
 奥村文男の個人的な見解が自らの著書等に書かれているのならばまだよい。しかし、代表的な?<保守派>・改憲派の新聞に、このような現九条に関する説明が掲載されているのは由々しきことだと感じる。九条の解釈問題は複雑だ、ややこしいという印象が生じるだけならばまだよい。誤った理解・情報が提供されるのは問題だろう。
 田久保忠衛の書物にも櫻井よしこら編の書物にもアヤしい部分があることは、すでに触れた。
 こんなことで大丈夫なのだろうか。自民党の改正草案をまとめた人たちはさすがに政府解釈をきちんと押さえていると思われるので、憲法改正、九条改正運動のためには、田村重信らの自民党関係者または防衛省関係者の解説書を読む方が安心できるようだ。

1286/西修・いちばんよくわかる憲法9条(2015)を読む。

 西修・いちばんよくわかる憲法9条(海竜社、2015)を、当面関心をもつ部分のみに限って読む。
 最近読んだ憲法改正ものの本の中で、田村重信著につづいて非常によく分かる。さすがに憲法学者の書物だ。いかに志は高く、同じであっても(?)、非専門家の叙述には、奇妙だと感じたり、趣旨が分からないものもあった。
 きちんとフォローしておこうと思っていた政府解釈の内容(・変遷)も、残念ながら原文どおりではないかもしれないが(p.15-17)、基本的なところは紹介されているので、役に立つ。
 西修が紹介している政府解釈のポイント(p.17-23)も、私も同様の理解であるので、目くじらを立てる(?)ところはない。
 というわけで上だけの言及で十分とも言えるのだが、いくつかの感想・コメントを記しておく。
 第一。西は憲法九条(とくに二項)についての自らの解釈を(も)示している。それは、いわゆる芦田修正を文理どおりに生かし、九条二項により保持が禁止されているのは「侵略戦争を目的とする」戦力であり、認められないのは「自衛権」の範囲を超える「交戦権」だ、というものだ(p.40)。
 むろんこのような解釈は成り立つし、また文理に即していえば最も素直な解釈だ。ゼロ・ベースで考えると、私もこう解釈したい。さらに、芦田が挿入した意図もこのような解釈を可能にすることだったかとも思われる。
 しかし、西修もよく理解しているように、かかる解釈を一貫して日本政府は採用してこなかった、ということが重要だ。西説もいわば私的な、成立しうる解釈の一つにすぎず、自衛隊の現在までの存立を法的に支えているのは政府解釈という「公的」解釈だ(そしてこれを最高裁も少なくとも否定したことはない)、ということが重要だ。
 この区別が明確に意識されているとは思われない叙述も、改憲派の文献の中に見られる。
 櫻井よしこ=民間憲法臨調・日本人のための憲法改正Q&A(産経新聞出版、2015)p.39以下はいわゆる芦田修正の文言の意味を解説しているが、この部分の執筆者の憲法解釈を示しているのか、それとも(現実には通用している)政府解釈の説明をしているのかが明確ではない。そして、「自衛のためであれば、軍隊や戦力を保持できることを明確にすべく」「前項の目的を達成するため」との文言を入れた、と書いており、これは上の西修の解釈と同じだ。
 しかし、このように政府は解釈していないことが重要なのであり、その旨をきちんと記しておくべきだろう。
 上の櫻井ら著が記すように、この著が示す解釈が採用されているならば、つまり「文意にそって解釈していけば」、「自衛のための組織である自衛隊は、憲法に何ら違反していない」ことになる。
 さらに重要なのは、そうだととすれば、九条2項はあえて<改正>する必要がないことになる、ということだろう。
 もちろん種々の疑義を晴らしておくための条文改正もありうるところだが、芦田修正文言が文字通りに解釈され、政府・国会議員・国民等々の間に疑問が生じていなければ、自衛隊は名実ともに憲法適合的な存在であったはずなのであり、その点については憲法改正は不要であるのだ。
 この辺りを上の櫻井ら著は理解しているのかはっきりしない。例えば、この著は「…自衛隊は、憲法に何ら違反しない」に続けて、「また、政府見解も『自衛力』としての自衛隊を合憲としています」と書いているが、この続け方は意味不明だ。自衛隊が自衛力の行使のための(必要最小限度の)実力組織であって合憲であるということと、九条2項にいう「軍隊その他の戦力」であって合憲(上述の文理解釈)であるというこことはまったく意味が異なる。
 西修は理解していると思うが、西修解釈そして櫻井ら著の解釈(p.40)を強調すると、じつは九条2項の改正という、改憲派が最重要視しているかもしれない課題の達成は不要になってしまう、という逆説的状態が生じる、ということにも留意が必要だ。
 さらにいえば、西修解釈・櫻井ら著の解釈が占領期、遅くとも1950年段階で採用されていれば、「自衛隊」ではなく「国軍」・「国防軍」等の名称の正規の?軍隊を(現九条2項のもとで)設置することも憲法上可能であったわけだ。だが、現実の歴史はそうは動かなかった。
 なお、コメントの最後にまで至っていない、田久保忠衛・憲法改正/最後のチャンスを逃すな!(並木書房、2014)のp.112は「芦田解釈」で「何ら不都合はなかったはずだ」、しかし「芦田修正案は政府の見解ではない」と、上の櫻井ら著よりも正しく明確に記述している。但し、「芦田解釈」を「政府解釈にしていれば、日本は自衛隊を改め、…軍隊を持って」よかった、と語っている(p.112)。揚げ足取りのようだが、上記のとおり、「自衛隊を改め、…軍隊」に、という必要はなく、当初からあるいは主権回復時から(自衛隊という中間項?を経ることなくただちに)「軍隊を持って」よかったことになる、と解される。
 第二点以降は、さらに続ける。

1283/「保守原理主義」者の暗愚2-兵頭二十八・日本国憲法「廃棄」論。

 兵頭二十八が日本国憲法<無効>論者であることは早くから知っていたが、おそらく一回だけこの欄で触れただけで、無視してきた。その間も、月刊正論(産経)は冒頭の連載コラム(?)の執筆者として、けっこう長い間、兵頭を重用してきたはずだ。
 兵頭二十八・「日本国憲法」廃棄論(草思社文庫、2014)はそのタイトルとおりの主張をする書物だが、同時に憲法「改正」に反対する旨をも明確に語っている。
 ・「偽憲法〔日本国憲法〕を『改正』などしてはなりません。改正は、国民史にとって、とりかえしのつかない、自殺的な誤りです。偽憲法は、まず廃棄するのでなければなりません」。
 ・「改憲」〔=憲法改正〕は、1946年に日本人が天皇を守れなかった「歴史を意思的に固定する行為」で、それをすれば、かつての「全面敗北」の再現という「どす黒い期待」を外国人に抱かせてしまう。(以上p.11-13)
 ・「『改憲』〔=憲法改正〕しようと動きまわっている国会議員たちのお仲間は、じぶんたちが国家叛逆者であるという自覚がない」。
 ・主権在民原理に反する憲法・詔勅等の禁止を宣言する前文をもつ「偽憲法など、もう捨てるほかにない」。「改憲」によりそんな宣言を「有効にしようと謀るのは、ストレートに国家叛逆」だ。
 ・「…偽憲法に対するわたしたちの態度は、破棄であり、廃用であり、消去でなくてはなりません」。(以上、p.46-47)。
 ・有権者国民の「国防の義務」を定めない日本国憲法は「西洋近代憲法の共通合意」を否定するもので、「そもそも、最初から『違憲』なんです」。
 ・そんな「偽憲法の規定などを墨守して『改憲』を目指そうとしている一派は、囚人がじぶんの引っ越し先の新牢舎を建設しているだけだという己が姿に、じぶんの頭では気がつけないのでしょう」。(以上、p.276)
 このように憲法改正論者・同運動を強烈に?批判しているから、日本共産党や朝日新聞等々の憲法改正(とくに九条2項削除等)を阻止しようとしている「左翼」たちは、小躍りして?喜ぶに違いない。
 また、憲法<改正>によって「美しい日本の憲法」あるいは「自主憲法」を作ろうとしている「一派」?である櫻井よしこ・田久保忠衛・中西輝政・百地章等々や平沼赳夫等は、「改憲」を目指す政党である自民党の安倍晋三等々とともに、「国家叛逆者」であり、「じぶんの引っ越し先の新牢舎を建設している」「囚人」だと、罵倒されることになる。
 では、「改正」ではなく「廃棄」あるいは「破棄・廃用・消去」(以下、「廃棄」とする)を主張する兵頭は、「廃棄」ということの法的意味・法的効果をどのように理解しているのだろうか、また、どのようにして(誰がどのような手続をとって)「廃棄」すべき(又は「廃棄」できる)と考えているのだろうか。
 この問題についての兵頭の論及は、はなはだ少ない。上の書物の大部分は日本国憲法の制定過程の叙述だからだ。そして、「廃棄」ということの厳密な法的意味について明確に説明する部分はないと見られる。しかし、「廃棄」の方法または手続については、おそらく唯一、つぎのように述べている。
 「『そもそも不成立』であったことの国会決議が望ましい」。(p.47。なお、p.273でも「国会」での「不成立確認決議」なるものを語っている)。
 不成立であるがゆえに効力がない(無効である)ということと、成立はしているが瑕疵・欠陥があるために成立時から効力がない(無効である)ということは、厳密には同じではない。しかし、この点はともあれ、おそらく「廃棄」を<不存在>の確認または<無効>の確認(または宣言)と理解しているのだろう。
 しかし、驚くべきであるのは、その確認または(確認の)決議の主体を「国会」と、平然と記していることだ。
 この議論が成り立たないことは、日本国憲法「無効」確認・決議を国会がすべし(できる)とする日本国憲法「無効」論に対する批判として、すでに何度か、この欄で述べてきた。倉山満ですら?、この議論は採用できないとしている。
 繰り返せば、兵頭が戻れとする大日本帝国憲法のもとでは「国会」なるものはない。帝国議会は衆議院と貴族院によって構成されたのであり、「参議院」を両院の一つとする「国会」などはなかった。また、帝国議会議員と「主権在民」下での有権者一般の選挙によって選出される日本国憲法下の国会議員とでは、選出方法・手続自体も異なっている。
 兵頭が「帝国議会」ではなく「国会」という場合のそれが日本国憲法下のものであるとすれば、論理矛盾・自己撞着に陥っていることは明らかだろう。
 兵頭が毛嫌いしている「主権在民」原理のもとで成立している参議院を含む日本国憲法下の「国会」が、なぜ日本国憲法、兵頭のいう「偽憲法」を「廃棄」できるのか? 論理的にはひょっとすれば、「廃棄」と同時に自ら(国会)も消滅するということになるのかもしれないが、自らの親である憲法を子どもが否定することは、自らを否定することに他ならず、そのようなことはそもそもできない(絶対的に不能である)とするのが、素直でかつ論理的な考え方だろう。
 それにまた、「…が望ましい」とはいったいいかなるニュアンスを含ませているのだろうか。他にも、望ましくはないけれども「廃棄」できる方法または主体はあるとでも考えているのだろうか。
 このような、容易に疑問視できる兵頭の思考の欠陥(暗愚さ)は、つぎのような叙述において、さらに際立っている。
 ・「最高裁判所」は長沼ナイキ訴訟において「憲法九条の二項(の少なくとも後半部分)は無効である」と判断すべきだった。
 ・「日本国政府」の側から、「長沼ナイキ訴訟」のような裁判を起こし、「最高裁判所に」、「九条二項の文言は、…国際法、および自然法の条理に反し、制定時に遡って無効である」との「判断」を求めるべきだ。(以上、p.293)
 兵頭は上の部分の直前に、国家の自衛権という自然権を禁じる憲法は「最初から『違憲』に決まっている」と書いている。この点について立ち寄れば、集団的自衛権も含めて現憲法は禁止しておらず行使もすることも可能という憲法解釈が現内閣によって採られたことは周知のことで、その意味で現憲法は「自然権を禁じる」という理解は正確ではないだろう。
 が、しかし、重要なのは、日本国憲法は不成立とか当初から「無効」だとか兵頭は言っておきながら、平然と?、日本国憲法下のもとでその定めに従って成立している「日本国政府」とか「最高裁判所」の行動・役割を語っていることだ。唖然とするほかはない。
 兵頭は、日本国憲法は「無効」で「廃棄」すべしとしつつ大日本国憲法の復活とその改正を主張している(p.273-4)。一方で「日本国政府」や「最高裁判所」を語る部分は、日本国憲法の成立とその有効性を前提としていると理解する他はない。明治憲法下では「最高裁判所」なる司法機関はない(「大審院」があった。またその権能は現憲法下の最高裁判所と同じではない)。この概念矛盾又は論理矛盾に気づいていないとすれば、相当に暗愚であって、<保守原理主義>という<主義>を私が語るのも恥ずかしいレベルにあると思われる。
 さらに言えば、長沼ナイキ訴訟やその「ような裁判」について語る部分は、現憲法下の現在の訴訟制度を前提にするかぎり、まったく成立しえない、<空虚な>議論だと思われる。
 第一に、現在の最高裁判所は法律等の違憲審査権をいちおうは持つが、現憲法・その条項の一部が(国連憲章等に違反して?)「無効」だとの判断を示す権限を持たない。憲法は「最高法規」とされている。
 第二に、政府が最高裁判所に現憲法・その条項の一部の「無効」判断を求める訴訟などそもそもありえない。
 高校生に説くようなことだが、森林伐採を認める具体的行為を争う中で目的としてのナイキ基地建設が憲法九条に違反すると長沼ナイキ訴訟の原告たちは主張し、第一審判決はその憲法問題に立ち入ったのだった。憲法九条自体が何らかの上位法に違反して「無効」であると被告・国側は主張したのではなかった。従って、同様の裁判を「今度は政府側から起こす」などという発想自体が幼稚なもので、誤っている。
 ついでにいえば、具体的事件を離れて、政府が法律や個別的行為の合憲性又は違憲性の確認を最高裁判所に求めることのできる訴訟制度などは現行法制上存在していない。ましてや、現憲法・その条項の一部の「無効」の確認を求める訴訟制度が存在しているはずがない。そもそもが、「政府」自体が現憲法の有効性を前提にして成立していることはすでに述べた。
 このように、日本国憲法制定過程に関する叙述には興味深いものがあるとしても、現実の問題解決方法に関する兵頭の上記書物の考え方はまったく採用できないものだ。このような議論を「左翼」憲法学者が読めば、一読して大笑いしてしまうに違いない。それもやむをえないほどに、その論理・主張内容は幼稚で問題が多い(最近に言及した渡部昇一のそれも同様だ)。
 Japanism21号(青林堂、2014.10)の中の「左翼アカデミズムを研究する会」名義の文章の中に、以下のようなものがある。
 ・「大学における左派インテリの学術的業績の高さは、保守系知識人が束になってもかなわないレベルにあるといっても過言ではない」(p.119)。
 同様の感想を、残念ながら憲法に関する議論について持たざるをえないところがある。<保守派>論者・知識人は、「左翼」学者たちと同等以上にわたりあえる主張と議論をしなければならない。隙だらけの粗っぽい議論をしていれば、(身内が読むだけならばそれでよいかもしれないが)「左翼」が大嗤いして喜ぶだけだ。
 やや唐突だが、百地章、西修、八木秀次らの<保守>派憲法学者は(八木は憲法学者を廃業したのだろうか?)は、兵頭二十八、渡部昇一、あるいは倉山満らの日本国憲法<廃棄>論が理論的・概念的にも現実的にも成立し難いことを、月刊正論(産経)等においてきっぱりとかつ明確に述べておくべきだ。渡部昇一らに対する「自由」がないとすれば、もはや学問従事者ではありえないだろう。

1282/日本人・日本国民は憲法改正「すら」できないのか。

 4/08夜にチャンネルを変えていたら、たまたま某BS局で西尾幹二小林よしのりが対談しているのに気づいた。ややのちに思いついて録画ボタンを押したのだったが、間に合わず録画していないときに、日本国憲法改正にも言及があった。
 もっぱら記憶に頼るしかないが、小林が憲法改正もアメリカの意向の範囲内だというようなことを言ったのに対して、西尾が<その改正すらできないのか、ということなんですよ>とか述べていた(正確ではないかもしれない)。両人の発言の趣旨は必ずしも同じではないように思われた。そのあとは、この問題への論及は続かなかったと思われる。
 西尾が「改正すら」という言葉を発したのはおそらく確かで、印象に残った。
 さて、池田信夫が国会改革をしないような憲法改正はほとんど無意味というようなことを彼のブログサイトに書いていたが、なるほど九条2項の削除・「軍」設置の明記も現状を根本的に変えるようなものではないかもしれない。
 渡部昇一は憲法九条(2項)は現憲法前文から「導かれる必然的な話」、「当然の帰結」だとして、「前文の見直し」から始めるべきだとする(月刊正論5月号p.63(産経))。しかし、前文の法規範的意味から考えると、前文のみを対象とした「改正」の発議・国民投票は想定されるのだろうかという疑問を持っている。また、現在の前文のままでも集団的自衛権の行使を容認する政府解釈が採られたのであり、現在の前文を何ら変えないままでの憲法九条2項の削除・「軍」設置の明記も可能であるように考えられる。前文中の「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分は保守派論者によってしばしば非難と嫌悪・唾棄の対象とされるところだが、そして私もこれを残すことに積極的に賛成するわけではないが、しかし、この部分と「軍その他の戦力」の不保持は論理的に不可分のものとは思われない。つまり、もともと現前文は厳密な法規範ではなく、緻密な法解釈が要求されるされるものではなく、基本的な方向性または「理念」を抽象的に叙述したものと理解すれば、現前文のもとで集団的自衛権行使容認の解釈をすることも(これはすでになされた)、「軍」設置を憲法典に明記することも、まったく不可能ではないと思われる。
 民主党の参院議員・小西洋之は集団的自衛権行使容認の解釈が現在の前文と九条に違反すると、前文と九条はセットのものだとする(前者の必然的な帰結が九条であるという旨の)理解に立って主張している(小西のウェブサイト参照)。むろん憲法制定時にはあるいは憲法制定者においては前文と九条の間の密接な論理的関係が意識されていたのしれないのだが、保守派は「左翼」の憲法解釈と同じ前提に立つ必要はないのではないか。繰り返せば、現前文と改正後の「軍」設置の明記とは矛盾するとただちに理解してしまう必要はなく、両者は併存しうると憲法解釈することは十分に可能だと思われる。現在の前文のもとでも日本国家の「自衛権」が否定されるのではないと解釈されてきた(昨年にはその一部である「集団的自衛権」の行使は可能と解釈されるに至った)。そうだとすれば、「自衛権」行使のための実力組織を「軍」と称することがただちに現在の前文(とくに上記の部分)と矛盾するとはとても言い難いと考えられる。
 現在の自衛隊は日本国憲法上は「軍隊」ではないが国際法上は「軍隊」であるらしい(最近の政府答弁書)。そうだとすると、日本国憲法を改正して、現在の自衛隊にあたる組織等を「軍隊」と称することができるようにしても、実態にさほどの大きな変更は生じないとも言えそうだ。
 ここで、冒頭で記したことに戻る。現在における諸議論のテーマのうち最重要なものは憲法改正問題ではないという含意が西尾の言葉の中には含まれていたように感じられる。対アメリカ(あるいは対中国)姿勢はどうあるべきかがより基本的な問題かもしれない。あるいは、「左翼」等との対立軸の最大のものは憲法改正問題ではないかもしれない。
 そして、あらためて感じさせられる。日本人は、日本国民は、主権が実質的にはなかった時期に制定された、内容的にも少なくとも決して日本人・日本国民だけで決定したとはいえない日本国憲法・現憲法の<改正>「すら」できないのか、と。
 近年に何やら<本格的な保守派らしき>雰囲気をばら撒いている倉山満は現憲法の「改正」は、1/3以上の護憲勢力がつねにいるのだから不可能だと断じている。あきらめてしまっているのだが、では倉山はどうすれば新しい「自主」憲法を作ることができるかについてはほとんど何も語っていないに等しい。大日本帝国憲法に戻れ、そこから出発せよ、と言葉だけで言ったところで、そのための方法・戦略・手続等が具体的に示されていないと、たんなる「喚き」にすぎない。
 「改正」ではなく「廃止(廃止)」をとか「無効」宣言をとか言ったところで、そのための方法・権限主体・手続等を適切に明らかにすることができなければ、とても現実に通用する主張・議論にはならない。現憲法を「廃止」はするが当面は「効力は維持する」という渡部昇一の主張・議論に至っては、奇妙奇天烈な意味不明のもので、「左翼」が容易にかつ喜んで批判・攻撃できるようなものだ。
 石原慎太郎が現憲法「破棄」論を唱えていたことから次世代の党という政党はこのような主張を採用しているのかもしれないという印象もあったが、同党の代表・平沼赳夫は次のように述べて、その立場ではないことを明らかにしている。
 「思想的には現行憲法は無効だという『無効論』の立場に私は立ってい」る、「しかし、…現実論としては難しい」。「現実の政治の場では改正手続を経ながら自主憲法を制定するやり方が妥当だと考え」る(月刊正論2015年4月号p.116(産経))。
 同じ政党の議員・中山恭子は安倍晋三に対して<憲法全体の一括改正>もありうるのではないかという旨を国会・委員会で質問し、安倍は<世論の動向を見極めつつ優先順位を考えていきたい>という旨の、噛み合っていない回答をしていたが(先月)、かりに全体の「一括」改正であっても(それは不可能だと予想しているが、それはともかく)、<改正>であることには変わりはない。そして、「改正」とは対象となる条項の効力を失わせることおよび同時にその代わりに新しい規範的な意味内容の条項を設けること(別の定めに法的効力を持たせること)を当然に意味することを知っておく必要がある。
 ともあれ、次世代の党もまた憲法改正(による自主憲法制定)を目指すのだとすると、渡部昇一の主張は論外として、日本国憲法「廃止」・「無効」論に立ってそれらの宣言・確認をいずれかの国家機関が行なうべきだとする主張をしている政党はおそらくゼロであるはずだ。国会議員や地方議会議員の、多く見積もっても1%ほども、日本国憲法「廃止」・「無効」論を支持してはいないだろう。
 このような現実の政治状況のもとで、日本国憲法「廃止」・「無効」論者は、いったいどのようにして自分たちの主張を現実化するつもりなのだろうか。
 もともと日本国憲法は「無効」であるとは、制定時においてすでに効力がなかった(無効であった)ことを意味し、それを現実化するためには日本国憲法のもとでだからこそ生じたすべての法的行為・法現象の効力を否認することを意味する。そんなことは遅くともサ条約の批准・発効、再「独立」の時点以降は不可能になったというべきだ。
 選挙無効訴訟において選挙制度の憲法違反(違憲)判断が裁判所により示されることがあるが、そうであっても問題とされた選挙を「無効」とした判決はいっさい出ていない。違憲・違法=無効、ではまったくない。そして、裁判官たちは、かりに無効とすれば、問題とされた選挙の「やり直し」をしなければらならないこと、いったんは選出されたはずの国会議員が関与して制定・改正した法律もまた「無効」になるのか等の<後始末>の問題が生じざるをえないこと、を考慮して、分かりやすくはない判決を下しているのだ。
 そのような苦慮を(本来の意味での)「廃止・無効」論者はしているのだろうか。
 現実の政治状況を見ても理論的・概念的問題を考慮しても、現憲法を「廃止」はするが当面は「効力は維持する」という渡部昇一の主張・議論はもちろんだが、日本国憲法「廃止」・「無効」論を採ることはできない。あるいはかりにこうした議論の影響を受けて行動・運動すれば、憲法改正はそれだけ遅れる。
 倉山満とは違い、憲法改正が不可能であるとは考えない。自民党内においてどの条項から(今のところ「前文」は含まれていないようだ)改正を始めるべきかの議論がなされ、形だけでも国会内に憲法問題の審査会が発足していることは、一〇年ほど前と比べても、2009-12年の民主党政権下と比べても、大きな変化だ。
 ひょっとすれば思っているほどには、また「左翼」が不安を煽っているほどには、改正の実質的意味は少ないかもしれないのだが、現憲法九条2項の改正くらい「自主的に」行うことが、日本人・日本国民はできないのだろうか。日本人・日本国民は現憲法の改正「すら」できないのだろうか。
 この程度ができないのでは、日本国憲法全体の「廃止」・「無効」宣言ができるわけがないのは自明のことだ。
 日本国憲法「廃止」・「無効」論者は、<護憲・左翼>陣営を客観的には応援することとなるようなことをしてはいけない。

1281/「保守原理主義」者の暗愚1-渡部昇一・月刊正論2015年5月号の日本国憲法「廃止」論。

 渡部昇一の主張・議論のすべてではないが、その日本国憲法「廃止」論については、「保守原理主義」らしきものを感じ、「暗愚」はおそらく言い過ぎだろうが、間違いなく「意味不明」な議論だと感じる。
 南出某ら等々の日本国憲法「無効」論・「廃止」論にはこの欄ですでに論及しているので、参照していただきたい。以下は、渡部昇一「反日との我が闘い」月刊正論5月号p.60-63の叙述に対する批判的コメントだ。渡部のこのような叙述が月刊正論(産経)の実質的な「巻頭」を飾っているのだから、戦慄を覚えないではない。
 渡部昇一は、敢えて「憲法改正」とは言わないようにしてきた、それは「憲法改正」は「今の憲法を承認したうえで、それを改正する」ことを意味するからで、「占領統治基本法」である、「嘘に塗り固められ、国家の恥に満ちた」日本国憲法という認識にもとづけば、「今の憲法はまず廃止されるべき」である、とする(p.62)。
 このあたりは、これまで読んできた日本国憲法「廃止」論(・「無効」論)とほとんど変わりはなく、渡部の主張としてとくに目新しいものではない。また、最初の小見出しになっている「日本国憲法は憲法ではないという認識を」(p.61)も、<日本国憲法はまともな憲法ではないという認識を>というふうに改めていただければ、賛同することができる。問題は、p.63上段の半ば以降の叙述にある。
 渡部昇一は、「とにかく、まず一度、明治憲法に戻って今の憲法を廃止し、皆がつくった憲法を廃止する」、これが「筋の通ったやり方だ」とする。ここにもすでにその意味内容が分かりにくいところがあるが、決定的には、つぎの文章には唖然としてしまった。
 渡部はいう。日本国憲法を「廃止」すれば「大混乱に陥る」という反論があるかもしれないが、「新憲法のもとで一つ一つを変えていくまでは、現行憲法が効力を維持するとすればいいのです」。
 「現行憲法が効力を維持する」とはいったいいかなることを意味するのか。渡部は、新憲法のもとでの「法改正」が一つ一つできるまでは、「今までどおりでOKとすれば、何の混乱も生じない」とも書く。
 これまで、日本国憲法「無効」論は同「廃止(廃棄)」論と基本的趣旨は同じだと理解して、「無効」・「廃止」の宣言・確認の主体や手続に関する主張は非現実的だ、論理矛盾がある、等と指摘してきた。
 上の渡部昇一の主張からすると(渡部の諸文献での主張をここで網羅的に参照することはできないので、上記部分に限る)、この人の主張は日本国憲法「廃止」論であっても「無効」論ではない。なぜなら、「廃止」後の一定の時期までは日本国憲法は「効力を維持する」と明瞭に述べているからだ。
 小児に語るようなことだが、「効力を維持する」とは<無効ではない>、<有効である>ということを意味する。「有効」であるとは「効力をもつこと」、「効力を維持」していることを意味する。「効力を維持する」とは、「無効」とはしない、ということを意味しているのは明らかなことだ。
 では、渡部のいう日本国憲法の「廃止」とはいったい何のことなのか。
 通常、法律等の成文法の「廃止」とは、<効力を否定する>こと、<効力を失わせる(=失効させる)>こと、つまりは<効力がないことにする>=<無効とする>ことを意味するはずだ。
 日本国憲法を「廃止」はしても同憲法は「効力を維持する」とは、いったい何のことなのか? いったい、何が言いたいのか? これが唖然としてしまった点だ。渡部において、効力の有無とは無関係なものとして語られている「廃止」とは、いったい日本国憲法に対するいかなる働きかけのことを意味しているのだろうか。
 なるほど、違憲な法律、違憲の行為であっても効力は維持する、つまり無効ではない、とすることはありうる。国会議員選挙の違憲・無効訴訟の諸判決の中にも、このような論法を示すものがある。
 では、日本国憲法を<無効とする(無効を確認する)>のではないが、<廃止>する、とはいったいどういう論法なのだろうか。問題は法律や具体的行為の<合憲性・無効性>ではなく、日本国憲法を<廃止>するということの意味だ。
 明治憲法に違反すること、あるいは国際法(?)に違反することを「確認」することを意味するのだろうか。
 しかし、成文法の「廃止」とは上述のとおり<無効とする>=<効力を維持させない>ことを意味させるのが通常であるはずなので、渡部昇一における「廃止」は、新奇な意味をもたされていると理解するほかはない。そして、その意味はほとんど理解不可能だ。
 渡部昇一においても、概念の混乱・不明瞭さがある。「無効」を、制定時にさかのぼってではなく、<将来にむかってのみ>効力をなくするという意味で用いている「無効」論者にも、通常の意味での「無効」とは異なる「無効」概念の誤用があると思われるが、渡部は、日本国憲法が将来において「効力を維持する」ことを一定時期までは認めつつ、「廃止」を語っている。上の意味での「無効」論以上に意味不明だと言わざるをえない。
 先に留保したところだが、p.63の半ばでは、国会の承認を得ての「憲法草案」策定→政府による明治憲法に「帰る」ことの宣言=日本国憲法の「廃止」→新憲法の発布、という手続・過程が想定されている。
 この辺りもよく分からないことが多い。①「政府」とは何か、それが「内閣」のことだとすれば、日本国憲法の規定にもとづいて同憲法下の国会によって指名された内閣総理大臣とそれの任命した大臣によって構成される「内閣」=政府に、自らの生誕の母体ともいえる日本国憲法を「廃止」する権限・権能がそもそもあるのか、②明治憲法に「帰る」べきと主張しながら、天皇に何ら論及がないのはなぜか、新憲法を「発布」する権限は政府にあるかのごとき書き方だが(①のような問題がすでにあるが)、天皇陛下の少なくとも何らかの関与を明示的には認めていないのはなぜか、という疑問が容易に生じる。
 p.61-62あたりの叙述にも首を傾げる部分があるが、省略する。
 厳密にはとても採用できそうもない議論がごく少数の論者によってなされているならば、無視しておいてよいかもしれない。しかし、月刊正論の冒頭に置かれている渡部の論稿の少なくとも一部は、倉山満の日本国憲法「改正」=<恥の上塗り>論等とも共鳴しつつ、憲法「改正」運動を批判するもので、客観的には妨害する可能性がある。
 「保守」派意識の旺盛な人が、現憲法の制定過程の不正常さを知るのはよいが、そのことで(知ったかぶりをして?)<現憲法は無効>あるいは<現憲法はいったん廃止>と簡単に言ってしまうことがあるのを知っている。無駄な手続を要求することによって、またあえて<廃止>論や<無効>論を主張することによって、憲法「改正」を遅らせることがあってはならないだろう。現在の憲法「改正」運動の主軸は自民党内にあると見るほかなく、「美しい日本の憲法をつくる会」にあるのではない。そしてまだ決戦の火蓋は切られていない。自民党の船田元、保岡興治、磯崎陽輔
らは渡部昇一らの「観念的・原理的」議論の影響を受けていないようであることは、安心できることだ。

1280/倉山満は「憲法改正」を「恥の上塗り」等と批判する。

 〇 渡部昇一が日本国憲法無効論者であることはすでに触れてきたし、彼が依拠している書物のいくつかにもすでにこの欄で言及して批判してきた。
 あらためて、渡部の主張を、渡部・「戦後」混迷の時代に-日本の歴史7・戦後篇(ワック、2010)から引用して、確認しておこう。
 ・「…帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」との昭和天皇の上諭は、連合国軍総司令部長官に「嘘を言わされた」ものだ(p.118)。
 ・日本政府は独立時に「日本国憲法を失効とし、普通の憲法の制定か、明治憲法に復帰を宣言し、それと同時に、その手続に基づき明治憲法の改正をしなければならなかった」。
 ・「…日本国憲法をずるずると崇め、またそれを改正していくということをすべきではないのである」。
 ・新憲法の中身は日本国憲法と同じでもいいが、「今の憲法は一度失効させなければならない」(以上、p.119)。
 ・日本国憲法96条の「改正条項だけで日本をあげて何年も議論している」のは「滑稽極まりない」(p.119-120)。
  <失効>させる方法(手続)・権限機関への言及は上にはない。ともあれ、渡部昇一が憲法「改正」反対論者であることは間違いない。彼が、美しい日本の憲法をつくる国民の会の「代表発起人」等の役員になっていないのは、上のような見解・主張からして当然のことだろう。
 〇 最近に名前を知った倉山満は、いかなる見解のもち主なのか。先月に、田久保忠衛が起草委員会委員長だった産経新聞社案「国民の憲法」に対するコメントをする中で、日本国憲法無効論の影響をうけているのではないかという疑問を記し、倉山満の考え方をつぎのように紹介した。勝谷誠彦=倉山満・がんばれ!瀕死の朝日新聞(アスペクト、2014)の中で語られている。
 「日本国憲法の廃止」を「本当にできるなら」それが一番よい。そして、それをするのは「天皇陛下」のみだ。議会には廃止権限はない。憲法を廃止するとすれば「一度天皇陛下に大政奉還するしかない」、「本来はそれが筋」。日本国憲法改正手続によって「帝国憲法を復活」することは「論理的には可能」だ。
 「論理的には」とか「本来は」とかの条件又は限定が付いていたし、その他の倉山の著を読んでいなかったので最終的なコメントは省略していたのだが、彼の見解をほぼ知ることができたと思うので、以下に紹介しつつ批判しておく。
 まず、上ですでに語られている「天皇陛下」による日本国憲法の「廃止」は、「政府」あるいは「国会」による<無効>・<失効>・<廃止>決議・宣言を主張する考え方に比べて目新しいし、少しはましなようにも思われる。しかし、残念ながら論理的にも現実的にも成立せず、かつ現実的にも可能であるとは言えない。
 倉山が「天皇陛下」という場合の天皇とは、日本国憲法を「公布せしめ」た、日本国憲法制定時(・明治憲法「改正」時)の昭和天皇であられるはずだ。自らの名において御璽とともに現憲法を「裁可」されたのは昭和天皇に他ならない。そして、その当時の「天皇陛下」である昭和天皇が、渡部昇一の言うように「嘘を言わされた」ものでご本意ではなかったとして、主権回復時に<無効>・<失効>・<廃止>の旨を宣言されることは論理的にはありえないわけではなかったと思われる。しかし、昭和天皇は薨去され、今上陛下が天皇位に就いておられる。今上陛下が(血統のゆえに?)昭和天皇とまったく同じ権能・立場を有しておられるかについては議論が必要だろう。また、今上天皇は天皇就位の際、明らかに「日本国憲法にのっとり」と明言されている(「日本国憲法に基づき」だったかもしれないが、意味は同じだ)。天皇位はたんに憲法上のものではない、憲法や法律とは無関係の歴史的・伝統的なものだという議論は十分に理解できる。しかし、今上天皇に、現憲法を<無効・失効・廃止>と宣言されるご意向はまったくない、と拝察される。渡部昇一は、あるいは倉山満も、今上天皇も<騙された>ままなのだ、と主張するのだろうか。
 さて、日本国憲法<無効>論者によると、現憲法に対する姿勢は、<無効>と見なすか、<有効>であることを前提とするかによって、まず大きく二分される。こちらの方が大きな対立だと見なされる。ついで、<有効>論の中に「改正」=改憲論と「改正反対」=護憲論の二つがあることになる。後者の二つは<有効>論の中での<内部対立>にすぎないことになる。倉山満は、どの立場なのか?
 倉山満・間違いだらけの憲法改正論議(イースト新書、2013.10)は、以下のように述べている。
 ・安倍晋三内閣の政治を支持するが、「憲法論だけは絶対に反対」だ。自民党の改憲案は「しょせんは日本国憲法の焼き直しにすぎない」のだから「戦後レジームそのもの」だ(p.239)。
 ・日本国憲法「無効」論は、「法理論的には、間違いなく…正しい」。これによると、日本国憲法を「唯々諾々と押し戴いていることが恥なら、その条文を改正することは恥の上塗り」だ(p.244)。
 ・講和条約発効時に「無効宣言をしておけば、なんの問題もなかった」のだが、:現在の国会議員や裁判官は現憲法のもとで選出されているので、(これらが)「いまさら無効を宣言しようにも自己否定になるだけ」だ(p.244-5)。
 ・「天皇陛下が王政復古の大号令を起こす」か、「国民が暴力革命」を起こして現憲法を「否定するしかなくなる」が、いずれも「現実的」ではない(p.245)。
 このように「法理論」と「現実」の狭間で揺れつつ?、倉山はつぎのように問題設定する。
 「本来なら無効の当用憲法〔日本国憲法〕を合法的に改正するにはどのような手続きが妥当なのか」。
 論の運びからするとしごくもっともな問題をこのように設定したのち、倉山は「本書での回答は、もう少しあと」で述べる、としている(p.245)。
 だが、「どのような手続きが妥当なのか」という問題に答えている部分は、いくら探しても見つからない。
 むしろ、「憲法改正」は現実には不可能だ旨の、つぎの叙述が目を惹く。
 ・護憲勢力が一定以上存在するので、「憲法改正は戦争や革命でも起こらないかぎり、不可能」だ。いまの状況で「憲法の条文だけ変えても、余計に悪くなるだけでしょう」。「死ぬまでに…憲法改正を見たい」と「実現不可能な夢を見ても労力のムダ」だ(p.259)。
 そして、つぎの三点を「憲法典の条文を変える」ために不可欠の重要なこと、憲法の条文より大事なこと、として指摘してこの書を終えている(p.260-2)。これらは「手続」というよりも、憲法についての<ものの見方>あるいは<重要論点>だ。すなわち、「憲法観の合意」、「憲法附属法」(の内容の整備-「憲法典の条文だけ変えても無意味」だ)、「憲法習律」(運用・憲法慣行)。
 上の三つは、第一のものを除けば憲法改正に直接の関係はない。むしろ、憲法改正をしないでよりマシな法状態を形成するための論点の提示にとどまると思われる。
 つぎに、倉山満・保守の心得(扶桑社新書、2014.03)は上の書よりも新しいもので、倉山が日本国憲法の「改正」を批判し、それを揶揄する立場にあることを明確に述べている。以下のとおりだ。
 ・「自民党案も産経新聞案も、戦後の敗戦体制をよしとするならばよくできた案」だが、「戦後七十年間の歴史・文化・伝統しか見ていない」という問題点をもつ(p.179)。
 ・「日本の歴史・文化・伝統に正しく則っているのは、日本国憲法ではなく大日本帝国憲法」だ。
 ・「私の立場」は、「改憲するならば、日本国憲法ではなく帝国憲法をベースにすべきだ」にある。
 ・「少なくとも、…〔日本国憲法という〕ゲテモノの手直しなど、何の意味があるのでしょうか」。「恥の上塗り」だ(以上、p.180)。
 上掲の2013年の書では「無効」論に立てば現憲法改正は「恥の上塗り」だとしていたが、ここでは明確に自らの見解として同旨のことを述べている。
 上のあと、「実際に生きた憲法を作る」ために必要なものと表現を変えて、先の著でも触れていた「憲法観の合意」・「憲法習律」・「憲法附属法」の三つを挙げて、前著よりは詳しく説明している。
 憲法改正との関係では、「憲法観の合意」のところで次のように主張しているのが注目される。
 ・「まず、日本国憲法を改正するという発想を捨てる」。「もう一度、帝国憲法がいかに成立したかを問い直す」。「これが出発点」だ。
 ・「強硬派は日本国憲法を破棄せよとか、無効宣言をしろという論者もいますが、実現不可能にして自己満足の言論」だ。
 ・護憲派が衆参両院のいずれかにつねに1/3以上いたが、「今後、それを変えられる可能性がどれくらいあるの」か。「マッカーサーの落書きを手直ししたようなものを作ったところで、何かいいことがあるの」か。
 ・「日本という国を考えて」制定されたのは「帝国憲法」だ。「なぜ国益を損なう日本国憲法をご丁寧に改正する必要があるの」か(以上、p.182-6)。
 以上で、倉山満という人物の考え方はほぼ明らかだろう。とはいえ、先に示した分類でいうと、この人の立場はいったいどこにあるのかという疑問が当然に生じる。
 上記の紹介・引用のとおり、単純な日本国憲法「無効」論ではない。では憲法改正を主張しているかと言うとそうではなく、「恥の上塗り」等として批判し、(客観的には)<揶揄・罵倒>している。そして、憲法改正は現実には不可能だとの諦念すら示す。かといって、現憲法護持派に立っているわけでもない。
 じつに奇妙な<ヌエ>的な見解だ。
 「強硬な」<無効・破棄>論は「実現不可能にして自己満足の言論」だと倉山は言っているが、では倉山のいう「憲法観の合意」は容易に達成できるのだろうか。日本国憲法の改正ではなく明治憲法の改正という発想から出発すべきだという主張は、それこそ「実現不可能にして自己満足」の議論ではないか。
 また、憲法改正は現実には不可能だと想定しているのは、憲法改正運動に水をかける<敗北主義>に陥っていると言わざるをえない。この人物は、この点でも、地道な「憲法改正」の努力をしたくないのであり、現在の最も重要だとも考えられる戦線から、最初から逃亡しているのだ。
 倉山満とは、護憲派が「左翼」から憲法改正運動に抵抗しているのに対して、「右翼」からそれを妨害しようとしている人物だ、といって過言ではない。
 読んでいないが、倉山は産経新聞の「正論」欄にも登場したことがあるらしい。そこで、上に紹介したような見解・主張を明確にはしていないとすれば、原稿依頼者の意向に添うことを意識した<二枚舌>のもち主だろう。
 むろん、倉山満の<気分>を理解できる部分は多々ある。しかし、その主張の現実的な役割・機能を考えると等閑視するわけにはいかない。<保守派>らしい、ということだけで、警戒を怠ることがあってはならない、と断言しておく。

1278/毛利透(京都大学)の憲法制定過程の日独の差異を無視する妄言。

 毛利透(京都大学・憲法専攻)が、昨年7月半ばに、共同か時事に配信された憲法改正に関する文章を、地域新聞に載せている(先に読売新聞と記したのは誤り)。そこに、つぎの、デタラメな文章がある。
 「ドイツ基本法も占領下で制定されたが、与野党が支持しており、『自主憲法でない』などと主張すると極右扱いされる」。
 この一文は、ドイツを模範として?、同じ占領下に制定された憲法であるにもかかわらず日本国憲法を「自主憲法でない」、「おしつけ憲法」だと(与党が?)主張するのはとんでもない「極右」だ、という意味を込めている、ということは間違いない、とみられる。
 上の一文のうち「占領下で制定された」という点で西ドイツ憲法(いわゆるボン基本法)と日本国憲法には共通性があるという指摘のみは誤っていないが、あとは、ドイツと日本の各新憲法の制定過程や位置づけの差異を全く無視したもので、こんな一文をもって日本の改憲派・憲法改正の主張を揶揄したいという、卑劣で下司な心情・意識にもとづいている、と断じてよい。
 第一。日本国憲法は<ほぼ押しつけ(られた)憲法>だと先日にも書いたが、西ドイツ憲法(現在は統一ドイツの憲法)は<ほぼ自主憲法>だ、と言える。この違いを毛利は無視している。
 毛利と同じく憲法護持派の「活動家」学者・水島朝穂は自らのウェブサイト上で、以下のように記している(本日現在で読める)。長いが、できるだけそのまま引用する。
 「連邦道9号線沿いにあるこの建物〔アレクサンダー王博物館〕で、1948年9月1日、基本法制定会議(議会評議会)が開会された。その2週間前、バイエルン州の景勝地ヘレンキームゼー城で専門家の会議が開かれ、憲法草案がまとめられた。そこでは、先行するドイツの諸憲法(とくにフランクフルト憲法とヴァイマール憲法)のほか、諸外国の憲法、とくに米英仏とスイスの憲法が参考にされた。たとえば、基本権関係では、外国憲法だけでなく、国連の世界人権宣言草案も影響を与えた(とくに前文、婚姻や家族、一般的行為の自由、人身の自由)。また、集会の自由はスイス憲法がモデル。連邦憲法裁判所はアメリカ最高裁が参考にされた。ただ、全体として、特定の憲法がモデルになるということはなかった(〔文献略-秋月〕)。特筆されるべきは、ドイツを分割占領した米英仏占領軍の影響である。3カ国軍政長官は、3本のメモランダムや個々の声明などを通じて直接・間接に制定過程に介入。たとえば、48年11月22日の「メモランダム」は、二院制の採用、執行権(とくに緊急権限)の制限、官吏の脱政治化など、内容に踏み込む細かな指示を8点にもわたって行っていた。その干渉ぶりは、米占領地区軍政長官クレイ大将に対して、米国務省はもっと柔軟に対応すべきだとクレームをつけるほどだった。/約8カ月の審議を経て基本法が可決されたのは、49年5月8日。日曜日にもかかわらず、この日午後3時16分に会議は開始された。賛成53、反対12(共産党と地方政党)で可決されたのは午後11時55分。日付が変わるわずか5分前だった。〔一文略-秋月〕 5月12日、3カ国の軍政長官たちは、基本法制定会議の代表団と州首相に対して、基本法を承認する文書を手渡したが、この段階に至ってもなお、個々の条文を列挙して条件を付けた。5月21日までに、基本法はすべての州議会で審議され、バイエルン州を除くすべての州で承認された。このような状況下で制定された基本法を『押しつけ憲法』と見るか。当初はそういう議論もあったが、50年の歴史のなかで『押しつけ』といった議論はほとんどない。実際、軍政長官の影響は、財政制度、競合的立法権限、ベルリンの地位などに絞られ、全体として基本法制定会議で自主的に決定されたと評価されている。占領下の厳しい状況のなかでアデナウアーらは、占領軍の顔をたてつつ、したたかに実をとっていくギリギリの努力をした。その結果生まれた基本法は、その後の世界の憲法に重要な影響を与えるとともに、憲法学の分野で必ず参照される重要憲法の一つとなった」。
 以上のとおり、水島の叙述を信頼するかぎりは、その制定過程において米英仏占領軍・同軍政長官の介入・関与はあったようだが、「全体として基本法制定会議で自主的に決定されたと評価されている」。「自主憲法でない」という見解がもともとごく少数派なのであり、日本と同一でない。
 なぜ「自主憲法でない」という見解がもともとごく少数派なのか。それは、ドイツ憲法の制定過程が日本国憲法のそれに比べれば、はるかに<自主的>だからだ。
 上の水島の文章でも触れられているが、名雪健二・ドイツ憲法入門(八千代出版、2008)および初宿正典「ドイツ連邦共和国基本法/解説」初宿・辻村みよ子編・新/解説世界憲法集-第3版(三省堂、2014)によって、あらためて記述しておこう。
 ・ソ連占領区域を除く英米仏占領地域(西ドイツ)について憲法制定をすることを三国が合意したのが、1948.06.07のロンドン協定。
 ・当時の上の地域の各州(ラント)の首相は主権未回復の状況では正規の「憲法制定会議」設立は適切でないと判断して、各ラントの代表者から成る「議会評議会(・基本法制定会議)」をボンで開催することを決定。これが、1948.07.08-10のコブレンツ会議。
 ・各ラント議会によって「基本法制定会議」議員が選挙されたのが、上につづく1948.08。
 ・各ラントの首相により「専門委員会」が設立され(むろん全員ドイツ人)、これがオーストリア国境に近い湖上の島・キーム・ゼー内のヘレン島で「基本法」(憲法)の草案を議論して起草。1948.08.10-23だ。これが<ヘレンキームゼー草案>とも呼ばれて、のちのボンの「基本法制定会議」の審議の基礎になった。
 ・「基本法制定会議」は70人(むろんドイツ人)の各ラント代表者によって1948.09.01から討議を開始。議長はコンラッド・アデナウワー。
 ・1949.05.08に53対12で「基本法制定会議」が「基本法」(憲法)を採択。さらに1949.05.22までにバイエルンを除く各ラント議会の採択により成立。翌05.23に公布。その翌日、1949.05.24に施行。
 上の経緯のうち、2週間のドイツ人専門家から成る<ヘレンキームゼー草案>の審議が基礎となって「基本法」(憲法)が採択され、公布・施行されたということが重要だろう。なお、基本法(憲法)施行後の1949.08.14に新憲法上の国家機関である連邦議会の議員選挙、09.07に連邦議会と連邦参議院発足、09.12に初代大統領ホイスを選出、09.15に初代首相アデナウワー選出、09.20に同内閣発足。
 日本国憲法の制定過程にはここでは立ち入らない(すでに何度か言及したことがある)。GHQによって条文から成る草案そのものが政府に手交されたのであり、上に見たドイツとは大きく異なる、と言ってよい。また、<憲法制定議会>と称してもよいかもしれない、<明治憲法改正>のための衆議院の議員選挙に際してGHQの改憲案は正確には知られておらず(民意は反映されておらず)、かつ<GHQの圧力>のもとでの衆議院の<改正>の議論は決して<全体として自主的に>になされたとは言い難い、と考えられる。
 第二。上でもすでに触れているが、西ドイツ憲法(基本法)の施行は同時に西ドイツ・ドイツ連邦共和国という新しい国家の成立・発足をも意味している。西ドイツ発足は1949.05.23とされるが、それは西ドイツ憲法(基本法)の公布日であり、同法は1949.05.24の午前0時0分の施行だった。
 この点でも、日本国憲法と大きく異なる。日本国憲法施行後も占領は継続し、新憲法上は禁止されているはずの「検閲」がGHQにより行われるなど、<超憲法>的権力が日本にはなお存続した。
 このような大きな違いがあるにもかかわらず、たんに「同じ占領下に制定された憲法」というだけで、西ドイツ憲法に関するドイツでの議論が日本にもあてはまるかのごとき毛利透の言説は、きわめて悪質だ、毛利透(京都大学)は恥ずかしいと思わないか? 詳細を知らない新聞読者に対して、日本の改憲派の主張の一部にある「押しつけ憲法」論がさも異様であるかのごときデタラメを書くな、と言いたい。

1276/田久保忠衛・憲法改正最後のチャンス(並木)を読む-4。

 〇 現憲法九条について、その1項と2項とを分けて論じることは、決して「左翼」憲法学者の解釈ではない。彼らはむしろ、1項によって自衛(防衛)戦争を含むすべての戦争が「放棄」されていると読みたいかもしれない。学者ではなく、吉永小百合を含む「左翼」一般国民は、九条1項ですべての戦争が放棄され、2項はそれを前提にして確認的に具体化した規定であると漠然と理解している可能性が高い。
 <保守派>憲法学者である百地章は、2013年参院選直前の産経新聞7/19の「正論」欄で「『憲法改正』託せる人物を選ぼう」と題して、次のように述べていた(この欄の2013.07.20で既述)。
 「9条2項の改正だが、新聞やテレビのほとんどの世論調査では、『9条の改正』に賛成か反対かを尋ねており、『9条1項の平和主義は維持したうえで2項を改正し軍隊を保持すること』の是非を聞こうとはしない。なぜこれを問わないのか。」 
 このとおり、<9条1項の平和主義は維持したうえで2項を改正し軍隊を保持すること>を提言することは、<保守>派の者であっても何ら奇異なことではない。産経新聞社案「国民の憲法」とその解説は、むしろ異質で少数派に属するかもしれない。
 ここで再び不思議なことに気づく。百地章は田久保忠衛とともに産経新聞案「国民の憲法」の起草委員の一人なのだが、何と前回に言及した「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の<幹事長>でもあるのだ(ウェブサイト、本日現在で同じ)。
 ということは、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の共同代表の一人と幹事長は、産経新聞社案起草の際は現九条1項を含めて九条を全面的に改めることに同意していたが、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の共同代表と幹事長としては、九条1項の「平和主義」は堅持する考えであることになる。きわめて奇妙で不思議だ。
 合理的に考えられるのは、産経新聞社案起草の際と上記の「国民の会」設立の際とでは考え方を変えた、ということだろうが、憲法改正論上の重要な論点についてこのように簡単に?基本的考え方を変えてよいのか、そして、そのような方々を信頼してよいのか、とすら感じてしまう。田久保忠衛は2014年10月30日刊行(奥付による)の本でも産経新聞社案と同じ考え方であることをその理由も挙げて積極的に記している。「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の設立は、2014年10月01日だ。はて??
 なお、憲法学者の西修(駒沢大名誉教授)も、5人の産経新聞案「国民の憲法」の起草委員の一人であるとともに、上記「国民の会」の<代表発起人>だ。
 〇 上の問題はこのくらいにして、「前文」に移る。既述のように、田久保忠衛はその著で憲法の具体的内容については、前文・天皇条項・九条にしか触れていない。国会についても、衆議院と内閣の関係についての衆議院「解散権」の所在・要件についても、「地方自治」等々々についても、むろん「人権」または国民の権利・義務条項についても論じられるべき点は多いにもかかわらず、上の三論点あたりに関心を集中させてきたのが<保守派>の憲法改正論の特徴だ。田久保が触れていない問題については、別のテーマとして扱ってみたい。
 さて、田久保は縷々述べたのちに、現在の前文を産経新聞社案「国民の憲法」のそれに「一日も早く…差し替えたい」としている(p.107)。
 感想の第一は、そもそも憲法の前文とはいかなる法的性質をもつのか、に関する議論が必要だ、ということだ。産経新聞社・国民の憲法(産経)を見ないままで書くが、現日本国憲法のような長い前文をもつ憲法は世界でもむしろ少ないように思われる。あっても、制定の経緯のほかは基本的原理・理念をごく簡単に述べているにとどまるようだ。
 現憲法前文が日本の「国柄」に合わないこと、これを改めてしっかりと日本の「国柄」を書き込みたいという気持ちは理解できるし、あえて反対はしない。しかし、もともと前文とは本文(の個々の条文)のような法規範的意味は持たず、個々の条項の解釈に際して「参照」または「(間接的に)援用」されるものにすぎないと考えられる。
 したがって、過大なエネルギーを割くほどのものではないし、文章内容について激しい議論・対立が生じるようであれば、いっそ現在のものを削除して、新しい前文は改正(「新」憲法の制定でもよい)の経緯を記録として残す程度にして、内容的なものはいっさい省略する、というのも一つの考えだと思われる。
 むろん、日本の「国柄」を示す10ほどの文からなる文章について、容易に合意が成立し、過半数国民も理解し、納得できるならばそれでもよい。あえて反対はしないし、する必要もない。
 第二の感想は、田久保が「差し替えたい」と望んでいる新前文の内容について、上のような合意・納得が得られるのだろうかという疑問が生じる、ということだ。
 例えば、「国家の目標として独立自存の道義国家を目指す」というが、「道義国家」とは何か。ほとんど聴いた又は読んだことがない「国家」概念だ。むろん、「道義」をもつ国家であろうとすることに反対はしないが、「国家の目標」として憲法前文に書き込むほどのことなのだろうか。
 上のことよりも、より疑問をもち、問題を感じたのは、「道義国家」文の一つ前の「日本国は自由主義、民主主義に立脚して基本的人権を尊重し…」というくだりだ。
 櫻井よしこの週刊新潮1/29号の連載コラムには最後に、「自由、民主主義、法治という人類普遍の価値観」を肯定的に語っている文章がある。
 安倍晋三首相も同じまたは類似の発言をしばしばし行っていて、本心で又は心底からそう思ってなのか、対中国(・北朝鮮等)を意識して欧米(かつての西側)むけに<戦略的に>言っているのか、と訝しく思っている。
 「日本国は自由主義、民主主に義に立脚」するという場合の「自由主義、民主主義」とはいったい何を意味しているのだろうか。櫻井よしこが言うように「人類普遍の価値観」なのだろうか。アフリカ・イスラム圏を含む「人類普遍の価値観」だとは到底思えない。これらは近代西欧に由来する<イデオロギー>で、日本ではそのままでは採用できず、そのままでは定着することはない、と考えている。こんなに簡単に前文の中に取り込むためには、その意味等々について相当の議論が必要だと思われる。
 とくに「民主主義」は、日本共産党を含む「左翼」の標語であり、そのうちに(人民民主主義・プロレタリア民主主義という「独裁」の一形態を経ての)「社会主義」・「共産主義」というイデオロギーを胚胎している、と私は理解している。
 私どころか、有力な<保守派>論客も、「民主主義」の危険性を説いてきた。
 長谷川三千子・民主主義とは何なのか(文春新書、2001)のある長谷川は、最近の長谷川=倉山満・本当は怖ろしい日本国憲法(ビジネス社、2013)の中でも、民主主義・「国民主権」の<怖ろしさ>を語っており(p.34-48など)、倉山満は、「長谷川先生は『平和主義』『人権主義』『民主主義』というのは、そもそも怖いものだということを力説しています」とまとめてもいる(p.155)。
 長谷川三千子は産経新聞社憲法案とは無関係のようだが、上記、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の「代表発起人」の一人ではある。長谷川が上記の「日本国は自由主義、民主主義に立脚して基本的人権を尊重し…」という部分に容易に賛同するとは考え難い。
 自民党憲法改正草案はいわゆる<天賦人権論>に立つと言ってよい現憲法97条を削除することとしており、産経新聞社案も同様のはずなのだが、そこでなおも語られる「人権」・「権利」ではない<基本的人権>とは何のことなのか、近代西欧的<天賦人権論>が付着した、それと無関係に語ることはできないものなのではないか、という問題もある。
 田久保忠衛の推奨する産経新聞社案の前文が<保守派>のそれだとすれば、私はきっと<超保守的>であるに違いない。<戦略的に>?「自由主義、民主主義」等を語ることも考えられるが、真意ではない文章を掲げるくらいならば、いっさい省略してしまう方がよい、と思う。
 というようなわけで、田久保のせっかくの長い叙述にかかわらず、「国柄」を書く文章はむつかしい、と感じざるをえない。
 フランスのように自由・平等・博愛(友愛)をなおも理念として前文に書いたり(1958年第五共和国憲法)、ドイツ憲法(ボン基本法)のように「ドイツ連邦共和国は民主主義的かつ社会的な連邦国家である」という明文条項をもつ国家はうらやましいものだ。「国柄」をどう表現するかについて、過半の日本国民に一致はあるのだろうか、合意は得られるのだろうか。

1275/田久保忠衛・憲法改正最後のチャンス(並木)を読む-3。

 田久保忠衛・憲法改正、最後のチャンスを逃すな!(並木書房、2014.10)は、筆者の、「体系的」憲法論ではなく、「体感的な」憲法論だとされているので(p.252)、国際政治が専門らしい田久保に専門的な憲法論を期待するのは無理かもしれない。しかし、表紙裏の経歴には「産経新聞『国民の憲法』起草委員会委員長」と明記されているのだから、産経新聞案「国民の憲法」に関する(委員長個人としてであれ)、産経新聞社の本にはない説明または解説がある程度詳しくはあるものと期待しても不思議ではないだろう。
 また、今年に入って気づいたことだが、田久保忠衛は「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の共同代表の一人(あとの二人は櫻井よしこ、三好達)だ。この団体は2014.10.01に設立されたようで、同日に設立宣言を発表している(同会のウェブサイトによる)。そして、たんにこういう名称の会の設立だけだと、さっそく「美しい日本の憲法」の具体的内容は何かと問いたくなるが、同会はQ&Aのかたちで、条文案ではないものの、目指す憲法の骨子を7点に整理しまとめたものを公表している。
 そうすると、時期的には田久保の上掲書は上の会の設立前に書かれてはいるが、一年も前ではない直前の時期に書かれていると推測されるので、同著は「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の代表(の一人)が書いたものだ、という<権威>をもってしかるべきことになるだろう。
 だが、期待しもした産経新聞社案「国民の憲法」のより詳しい説明はほとんどないし、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が公表している7つの骨子の過半についてはまったく触れるところがない。
 しかも、一方では起草委員会の委員長を、片方では共同代表を努めながら、両者が提言する憲法案の具体的内容には<一致していない>、<矛盾する>部分がある。これはきわめて奇異なことだ。
 矛盾しているとほぼ明らかに言えそうなのは、九条についてだ。産経新聞案「国民の憲法」と田久保の上掲書は矛盾してはいないが、田久保の上掲書の九条(およびその改正案)に関する叙述と「美しい日本の憲法をつくる国民の会」公表の改正案骨子は矛盾している。
 先に「美しい日本の憲法」案の方から紹介すると、第三の柱として「九条…平和条項とともに自衛隊の規定を明記しよう」との見出しが掲げられ、その第三文では、こう書かれている(ウェブサイトのそれとまったく同一文ではない同会のパンフレットによる。ウェブ上では以下の「軍隊」は「国軍」になっている)。
 9条1項の平和主義を堅持するとともに、9条2項を改正して、自衛隊の軍隊としての位置づけを明確にします」。
 すでに書いたことだが、このような文章の考え方にもとづく改正案づくりと憲法改正(おそらくは1項の基本的な維持と現2項の削除、そして自衛隊を正規に「軍隊」と位置づける条項の新設)に私は賛同する。
 だが、田久保忠衛が起草委員会委員長だった産経新聞社案「国民の憲法」は、このような考え方に立っていないことはすでに記したとおりだ。
 自民党草案も読売新聞社試案も現9条1項は基本的に維持することとしているのだが(また、北岡伸一も、1項の平和主義は維持し2項の戦力不保持は改正しようとする意見を無視して、朝日新聞は一括して改憲論>九条改正論=「平和」主義・「平和憲法」否定というデマを撒き散らしている旨を述べて朝日新聞を批判していたが)、くり返せば、産経新聞社・国民の憲法(産経、2013)は、自民党草案について、つぎのように書いていた。
 <自民党草案は1項に「自衛権の発動を妨げるものではない」を追記して「工夫を重ねている」が、「主権の行使に制限を課している条文をそのままにしている意味では不徹底で不完全だ」>(p.140)。
 そして、現9条1項の断片のみを残した「平和」希求と国際紛争の「平和的解決」を志向する新たな条文を作り、別の条文で、「軍を保持する」ことを明記することとしている(同案15条・16条)。
 「美しい日本の憲法」案が「9条1項の平和主義を堅持する」と記しているのは現1項の条文を基本的に維持するとの趣旨ではなく、この産経新聞案「国民の憲法」のような書きぶりでも「平和主義」の堅持にあたる、という可能性がないではない。
 しかし、「美しい日本の憲法」案の文章が続けて「9条2項を改正して、自衛隊の軍隊としての位置づけを明確にします」と書いていることからすると、9条1項は(基本的に)改正しないという趣旨だと解釈するのが自然で、やはり、、「美しい日本の憲法」案と産経新聞社案「国民の憲法」は異なる、と理解することができるものと思われる。
 そして、田久保忠衛の上掲書は、現9条1項は基本的にであれ維持することはしないという考え方を明確に語っている。つぎのとおりだ(p.172-5)。
 <当初は九条1項はそのまま残す説に賛成だったが、森本敏の次の指摘(森本ら・国防軍とは何か(幻冬舎ネネッサンス新書)に「まったく同感」して、産経新聞社案では「現行憲法第九条第一項を含めて全面的に改める」ことした。>
 森本の指摘とは、①第一項があると、「国連決議にもとづく集団安全保障に参加できなくなる」、②第一項があると、「多国籍軍」に入っているアメリカ軍が攻撃された場合に「集団的自衛権の行使」ができなくなる、をいう。
 要約したし、もとの森本の発言内容を読んではいない。また、私自身の知識と勉強の不足かもしれないが、これらの理由が当たっているのかは理解困難だ。だが、<集団的自衛権>の行使は現憲法のままでも行使可能と閣議決定されたところであるし、「国連決議にもとづく集団安全保障」措置への参加の許容性については現憲法は何も語ってはいないのではないのだろうか。また、正規に認知された軍ができたとすれぱ直ちに「国連決議にもとづく集団安全保障」措置に参加できるというものではなく、法律(+条約?)による正当化が必要だろう。
 この問題には立ち入らない。ともかくも、現九条1項も「改め」る見解である旨を田久保忠衛は上掲書で明確に述べている。しかるに、共同代表を務める会の「美しい日本の憲法」案はどうも現九条1項は「堅持」するつもりのようだ。
 これは明らかに矛盾で、田久保は上掲書の考え方に立つのであれば、「美しい日本の憲法」案の内容に反対するのが論理的な筋のはずだ。にもかかわらず、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」による公表後に、それと異なる見解を明らかにしている書物を公にしているのは、奇異・奇妙だと言う他はない。
 もともと、p.110以下の叙述を読んでいても、現九条に関する田久保の理解の仕方には疑問が生じるところである。例えば、「芦田修正案は政府の見解ではない」という理解はそのとおりだが、「戦力」ではない「必要最小限度の実力の行使」による相手国兵力の殺傷及び破壊等を行うことは「交戦権の行使」としてのそれとは「別の観念」という政府答弁は「何を意味するのかよくわからない」と書いている(p.113-4)。しかし、私にはよく分かる。現憲法の政府解釈によるかぎりは、自衛権はあり、そのための実力行使は「交戦」ではない(実力行使組織=自衛隊は「軍その他の戦力」ではない)、ということになる。
 憲法学上の「多数説」に従って私は記してきているのだが(最近にあらためて憲法学文献で確かめておいた)、諸説が成り立つものの、1項は自衛権を否定するものではなく<自衛のための軍>設置・「自衛戦争」を否定するものでもない。しかし、2項が一般に「軍その他の戦力」の保持等を否認している結果として、「自衛」目的であれ「軍」は保持できず「戦争」もできない。但し、「自衛」のための「必要最小限度の実力の行使」は可能であり、そのための組織の保持も許容される。このような、政府解釈も基本的に拠っていると思われる(むろん、但し以降は相当に苦しい)論理構造くらいは、民間団体とはいえ、憲法改正案起草委員会の委員長や新憲法制定運動団体の共同代表の方には、理解しておいていただきたいものだ。

1273/田久保忠衛・憲法改正最後のチャンス(並木書房)を読む1。

 2014衆院選で与党圧勝とは言うが、自民党は定数減を考慮してほとんど橫バイで、議席数を増やしたわけではない。大阪府下の小選挙区で維新の党から奪い返した議席が10ほどあるから、それ以外では10議席ほどマイナスだった。産経新聞などの300議席超えが確実という旨の予測と比べると、むしろ後退の印象がある。
 その他の衆院選結果で印象的なことは次世代の党とみんなの党の大幅減または壊滅だ。その分を増やしたのが民主党と日本共産党だから、全体としても<保守派>は後退した、というのが客観的な把握だろう。
 維新の党が何とか「踏みとどまった」のに対する次世代の党の壊滅状態は、<保守化>とか<右傾化>の現象があるわけでは全くないことを意味していると思われる。
 田母神俊雄には当選してほしかったし、山田宏・中田宏という<反共>・<反・反日>の明確な人物が比例復活もならなかったのは残念だ。とくに中田宏はまだ若いのだから、再起を期して、将来は橋下徹らとともに新しい風の担い手になってほしい。
 大阪維新の会と立ち上がれ日本→太陽の党が合流して石原慎太郎・橋下徹共同代表による日本維新の会ができたのち、旧立ち上がれ日本グループは橋下徹に対する違和感を隠さなかった印象があったが、2012年総選挙で日本維新の会は議席を伸ばし、旧立ち上がれ日本グループ(石原グループ)もかなり当選した。石原グループの議員たちの多くは自分たちの「保守」の力で当選したと思ったかもしれないが、石原・橋下コンビの清新さへの期待もかなり大きかっただろう。その後も橋下徹批判を平気で続ける者もいたが、自分の当選に橋下徹人気も寄与していることを忘れているのではないか、と感じたことだった。
 橋下徹グループと別れて、旧立ち上がれ日本グループ=次世代の党は二名しか当選させることができなかった。維新の党の松野某らは何とか比例復活したにもかかわらず、比例復活させるほどの票をまんべんなく集めることはできなかった。
 次世代の党という名前自体、自分たちはすでに旧世代の年寄りたちだという自覚の表れのようで、魅力を感じさせないものだった。それに、彼らは、<保守化>について、何らかの「錯覚」をしていたのではないか。安倍晋三政権が比較的に安定して支持され続けたことが自信を生じさせたのかもしれないが、有権者国民は、自民党よりも「右」の<保守>政党に期待することが少なかったわけだ。
 江田憲司は、石原慎太郎らの「自主憲法」制定という主張に「憲法破棄」論を感じるとして、石原らまたは次世代の党とは組めないとか言っていたが、「自主憲法」制定という語をそこまで穿って理解することはないだろうと思われた。だが、次世代の党の正確な公約または政策提言は承知していないものの、また正式に表明しているかどうかは別として、石原慎太郎も含めて、日本国憲法「破棄」論や同「無効」論の主張者・支持者が同党には多いだろうという印象はある。日本国憲法「無効」論は現として存在しているが、2009年や2012年の総選挙でそれを明示的に主張した政党は(維新政党・新風も含めて)なかったように思われる。そしてまた、次世代の党が醸し出している?日本国憲法「破棄」論・同「無効」論は、今回の選挙でも、支持されなかった、と言ってよい、と思われる。
 日本国憲法「無効」論が決して微々たる存在ではないことは、勝谷誠彦=倉山満・がんばれ!瀕死の朝日新聞(アスペクト、2014)に、「日本国憲法は日本の憲法ですらない」と題する章の中に「日本国憲法の改正では意味がない」と題する節があることでも分かる(p.122-)。そこでは、二人のこんな会話がある。
 勝谷/僕の意見は「廃憲」・「今の日本国憲法の廃止」。倉山/「本当にできるなら」それが一番よい。そして、それをするのは「天皇陛下」のみ。議会には廃止権限はない。憲法を廃止するとすれば「一度天皇陛下に大政奉還するしかない」、「本来はそれが筋」。日本国憲法改正手続によって「帝国憲法を復活」することは「論理的には可能」。
 こうした議論は、日本国憲法は「本来は無効」という考え方を前提としているとみられる。上の天皇陛下による憲法廃止論にも、倉山が上のあとで述べている、「改憲派すら」日本国憲法の「条文をどうやって変えようかという議論しかしていない」(p.126)という批判にも、反論することができる。但し、別の本、倉山満・間違いだらけの憲法改正論議(イースト新書、2013)はニュアンスの異なることを書いているので(上でも「論理的には」と述べている)、別の機会に譲って、ここではこの問題には立ち入らない。
 ともあれ、日本国憲法「無効」論はあり、それを<保守派>論者の中で明確に述べてきたのは渡部昇一で、渡部は、日本国憲法を「占領基本法」とも称してきた。
 さて、田久保忠衛・憲法改正、最後のチャンスを逃すな!(並木書房、2014)には、現日本国憲法は「占領基本法だ」、との旨を書いている部分が、少なくとも2カ所ある。
 ①集団的自衛権容認に対する反対論には「…国際情勢の中で占領基本法だった現憲法がいかに旧式になってしまったかという説明は皆無だった」(p.212)。
 ②「日本を危機にさらすのは占領基本法を死守しようとする護憲派だ」(p.249)。
 <保守派>の重鎮?・渡部昇一の使っている表現を<保守派>の慣用句?のごとく無意識に使っているのかもしれず、「占領基本法」なるものの意味は説明されてはいない。
 しかし、将来に「国民投票」に参加するかもしれない有権者国民の感覚で質問するが、「占領基本法」とはいったい何のことか。
 日本国憲法が本来の、まっとうな憲法ではないという意味をもっていることは何となく分かるが、それ以上に何を意味しているのか? この語を用いることにいかなる意味・効用があるのか? また、この概念の前提には日本国憲法「無効」論があると見られるが、田久保は明確にその立場に立っているのだろうか?
 少し踏み込んで言えば、憲法ではなく占領基本「法」だとすれば、憲法でも法律でもない「法」は(不文法を除けば)存在しないので、占領基本「法」は法律の一種になるのだろうが、それでは昭和天皇の<憲法改正の詔勅>とはいったい何なのか。、法律の一種だとすると後法優先・特別法優先が働いて、事後の法律によっていかようにも特則・例外を作れることになるが、法律の「憲法」適合性を審査する規範・基準として現日本国憲法は機能して、最高裁によって<違憲>とされた法律(の条項)もすでにいくつかあることをどう理解すればよいのか。
 <保守派>の常套句のつもりで簡単に用いているのかもしれないが、もともと渡部昇一の議論は、サ条約上のJudgementsは「裁判」ではなく「諸判決」だと、鬼の首を取ったように主張していることも含めて(この点はすでにこの欄で言及している)、信用することができない。
 有権者国民から質問されて適切には回答することができないような術語を、そしてまた憲法改正のためには不可欠でもない用語を、用いない方がよい、と思われる。
 周辺部分の、やや些細なことから始めてしまったが、少しずつ、上掲の本によって、田久保忠衛の<憲法論>についてコメントする予定だ。

1272/「憲法改正」の事項的「単位」と産経新聞社案「国民の憲法」。

 1/06に、次のように書いた。-「憲法改正とは、現憲法の全体を一挙に廃棄・廃止して、新しい憲法を一括して創出する、というものではない」。「憶測にはなるが、ひょっとすれば産経新聞『国民の憲法』案は、渡部昇一らの現憲法『無効』論や石原慎太郎の現憲法『破棄』論の影響も受けて、現憲法の全体に新しい『自主』憲法がとって代わる、というイメージで作成されたのではないか、という疑問が生じなくはない」。「現憲法と『新』憲法案のどちらがよいと思うか、というかたちで一括して憲法改正の発議と国民投票が行われるはずがない。確認しないが、憲法改正手続法もまた、そのようなことを想定していないはずだ」。
 この問題は、「憲法改正」の発議および「国民投票」の仕方、より正確には、発議や賛否投票の<対象>または<単位>の問題だ。先には憲法改正手続法と書いたが、この問題、とくに発議の<対象>・<単位>についての関係既定は、(改正された)国会法にある。以下、憲法制度研究会・ポイント解説Q&A/憲法改正手続法-憲法改正手続と統治構造改革ガイド(ぎょうせい、2008)に依って説明しておく、なお、憲法制度研究会が編者だが編集代表は川崎政司だ。この人は地方自治法・行政法の書物もあり、慶応大学法科大学院の客員教授だが、もともとは参議院法制局の職員・官僚(いわば立法・法制官僚)である人、またはそうだった人で、<とんでもない左翼>の人物ではない。叙述内容も、できるだけ客観的になるように努められている、という印象がある。
 上の本はやや古いが、言及されている関係条項は現在でも変わっていない(総務省・現行法令データベースによる)。国会法6章の2の表題は「日本国憲法の改正の発議」。その中の、現行規定でもある、国会法68条の3は次のように定める。
 「第六十八条の三  前条の憲法改正原案の発議に当たつては、内容において関連する事項ごとに区分して行うものとする。
 上掲書は、つぎのように「解説」する(p.30-31)。
 ・例えば九条改正と環境権の創設という別々の事項が一括して投票に付されると、一方には賛成だが別の一方には反対である、という国民はその意思を適切に投票に反映できない、そこで、「内容において関連する事項ごとに区分して」発議することとされた。
 ・問題は、何が「内容において関連する事項」に当たるか、だ。憲法改正手続法の国会審議では上の例の場合に一括発議・一括国民投票は「好ましくない」という点で一致したが、自衛軍の設置とその海外活動は一括できるか、自衛軍と軍事裁判所の設置は一括できるか、などについては「明確な判断は示されてい」ない。
 ・結局、個別の案ごとに国民の意思を問う要請と「相互に矛盾のない憲法体系を構築する」要請から決定されるべきもので、「個別具体的事例については、国会が発議するに当たって、しかるべき判断を行うことにならざるを得ない」ようだ。
 ・この点について、参議院では「発議に当たり、内容に関する関連性の判断は、その判断事項を明らかにするととともに、外部有識者の意見も踏まえ、適切かつ慎重に行うこと」との付帯決議がなされた。
 ・この条文により「全部改正」が不可能になったのかも問題になったが、「すべて相互に密接不可分である、つまり内容の上で分かち難いというものであれば一括して発議がなされるという場合も論理的にないことはない」とのむ答弁が提案者からなされている。
 ・国民投票のイメージとしては、個別の事項の案ごとに投票用紙を受け取り、投票(投函)を済ませてから次のブースに移り、そこで次の別の事項に関する投票をする形が間違いないという見解、その場合10も20もブースを作ることは困難で、3~5問程度が限度だとの見解も提案者から示されていた。
 以上のとおりだが、はたして、産経新聞社「国民の憲法」案は、このような国会法等の規定も十分に意識して作成されたのだろうか。
 なるほど、「すべて相互に密接不可分である、つまり内容の上で分かち難いというものであれば一括して発議がなされるという場合も論理的にないことはない」ということに「論理的には」なるのだろう。しかし、同社案は「すべて相互に密接不可分である」ものとして作成されたのだろうか。そのように主張する起草委員および産経新聞関係者も存在する可能性はある。だが、「基本的人権」または「国民の権利義務」の章の個別の条項の書きぶりはさらにいくつかに区分することが可能であると見られるし、いかに「産経憲法観」?によっているとしても、例えば「財政」や「地方自治」の章の具体的内容までが前文や「国防」の章(の案)と「密接不可分である」とまでは言えないように考えられる。
 ともあれ、産経新聞社「国民の憲法」案が、「憲法改正」運動のためには、形式面において「使いづらい」ところがあることは否定できない、と思われる。
 「憲法改正」発議の仕方、発議の対象となる<単位>には少なくともある程度の、「内容において関連する事項ごとに」、という限定があることもふまえて、「憲法改正」は議論されなければならない。そして、だからこそ、どの条項から優先して「改正」していくか、という問題があり、その問題に関する議論もしなければならないわけである。

1267/丸山真男と現憲法九条・「軍事的国防力を持たない国家」論。

 〇 竹内洋・丸山真男の時代(中公新書、2005)は丸山真男に対して批判的であり、竹内・革新幻想の戦後史(中央公論社、2011)も同様だ。竹内の上の前者によると、1996年8月に丸山真男が逝去したのち朝日新聞はある一面のすべてを「丸山の業績と人をしのぶ」座談会で埋めたが、産経新聞は元慶応大学・中村勝範の「丸山政治学は思想的に日本人を混乱させた元凶でした。過去の分析も戦後の状況判断も完全に誤っていた」とのコメントも掲載した。
 水谷三公・丸山真男-ある時代の肖像(ちくま新書、2004)を、私は丸山真男(の思想)に対する訣別の書として読んだ。だが、長谷川宏・丸山真男をどう読むか(講談社現代新書、2001)のような、丸山真男を称揚する書物は今日でも新たに刊行され続けている。
 戦後「左翼」のなお強固な残存の源流の一つは、丸山真男にあるだろう。
 〇 ジャパニズム21号(青林堂、2014.10)によって気づかされたのだが、丸山真男は、亡くなる一年前以内の雑誌・世界(岩波)の1995年11月号に、「サンフランシスコ講和・朝鮮戦争・60年安保」と題する回顧談的文章を載せている。その中に、つぎの文章がある。丸山真男全集第15巻(岩波、1996)から直接に引用する(p.326)。
 平和問題談話会の法政部会で憲法第九条の問題を論じたときは、民法専攻の磯田〔進〕君のような左派は、『軍備のない国家はない。軍備がないというのはおかしい』と批判しました。正統左派ではない大内〔兵衛〕先生も、『国家である以上は、完全非武装というのはありえない』というのが、このときのお考えでした。そこで僕は、こうなったら国家観念自体を変革する以外にない、今日の言葉でいえば、…『普通の国家』論でいえば、軍備のない国家はないんだけれども、憲法第九条というものが契機の一つになって一つの新しい国家概念、つまり軍事的国防力を持たない国家ができた、ということも考え得るんじゃないかといって、磯田君と議論した。(ジャパニズム上掲p.118と引用の部分・仕方が少しだけ異なる)。
 ジャパニズム上掲号の「左翼アカデミズムを研究する会」という実質的には無署名の書き手は、上の文章から、大内兵衛ですら武装肯定の時代にすでに<非武装中立>を信念としていた、というまとめ方をしているが、私には、丸山真男が現憲法九条を「国家観念自体」の「変革」、「新しい国家概念」提示の契機と理解しようとしていた、ということが興味深い。
 いずれにしても、「丸山という知の権威がつくりあげた憲法九条イデオロギーは、さまざまな形で、今日の左翼アカデミズムに大きな影響を及ぼしている」(同上p.118)のはおそらく間違いない。ここにいう「憲法九条イデオロギー」は、たんに<反戦・平和>の気分に支えられているのではなく、「左翼」が夢想したい「新しい国家概念」の展望によっても基礎づけられているかに見える。
 憲法九条2項改正(・削除)論・論者に対する強固で執拗な、あるいは脊髄反射的な反発は、現実的・具体的な議論によって成り立つているというよりも、まさに「イデオロギー」に依拠するものだろうと考えられる。
 そうだとすると、やはり、それを打ち砕いておくために、憲法九条2項の改正(・削除)は日本にとって絶対になすべき課題だ、と感じられる。
 池田信夫はそのブログ2014.12.25付で「憲法改正は『大改革』ではない」と題して、憲法>「第九条を改正しても、自衛隊の名前を『国防軍』と変える以外の変化はほとんどない。大事なのは一院制にするとか衆議院の優越を明確化するなどの国会改革だが、自民党の改正案は参議院にまったく手をつけない。これでは改正する意味がない」等と書いている。
 後段の指摘には賛同したい部分があるが、九条改正による「変化はほとんどない」、したがってその改正に大きな意味はないというかのごとき主張には、賛同し難い。九条2項を「改正(・削除)」しなくとも、すでに自民党中心の政権による憲法解釈によれば合憲とされている自衛隊によって、かなりのことが可能になっていることは確かであり、改憲反対派・憲法九条2項護持派によるデマ宣伝が言うほどには実態は大きくは変わらず、これまでの変化・実態の蓄積の延長線上にあるものにすぎないかもしれない。その意味では「質的」・「革命的」変化を生じさせるものではないかもしれない。
 しかし、「軍その他の戦力」の保持が明確に禁止されているにもかかわらず自衛隊を合憲視するのは相当に苦しい解釈ではあり、その「おとなのウソ」を解消する必要はやはりある、正規に「軍」と認知することによって日本の安全保障に一層寄与する、という点をかりにさしおいても、丸山真男のいう「軍事的国防力を持たない国家」という「新しい国家」観を、そして「憲法九条イデオロギー」を、きちんと打ち砕いておく課題と必要はある、と考えられる。問題は安全保障に関する現実だけではなく、<精神>・<国家観>にもあるのだ。
 〇 なお、丸山真男の、上の1995年の文章は「平和問題談話会から憲法問題研究会へ」という副題をもっている。
 前者の「平和問題談話会」については戦後<進歩的文化人>生成の重要な場であるという関心からそのメンバーの探索・確定や、安倍能成らの「オールド・リベラリスト」の排除による<純化>の過程の叙述を、たぶん竹内洋等々の文献を手がかりに、この欄でメモしていったことがある。そこでも触れたことがあるような経緯・構成員の一端を当事者の一人だった丸山も語っていて興味深い。また、後者についても、宮沢俊義(憲法学者)、我妻榮(民法学者)が政府系の憲法調査会ではなく、「憲法問題研究会」に入会したことは社会的に、また東京大学法学部内部でも大きな話題になった、等が語られていて興味深い。機会(・余裕)があれば、また言及しよう。

1265/産経新聞社案「国民の憲法」について2-天皇条項の一部。

 現憲法一条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」、と定める。
 「象徴」ではなく「元首」化をという議論についてはさておき、後段は、とくに「主権の存する」は、いわゆる「国民主権」(昔風には主権在民)を憲法上明記するために、やや無理して挿入された、とも説明されてきた。この条文以外に、<国民主権>を規定する明文は現憲法にはない。
 この「象徴」天皇制度の規定をふまえて、現憲法二条が「皇位は、世襲のものであ」ると明記していることは、占領期の憲法という特殊性を考慮すれば、刮目すべき重要なことだったと言える。なぜなら、日本の敗戦という結果にもかかわらず、日本の長い伝統に近い<世襲天皇>制度を明記して容認しているからだ。竹田恒泰がどこかで言っていたように、天皇制度が廃止されて<共和制>になっていたことを想像すると、それよりは優れた選択を現憲法はしている(GHQもそれを認めた)ことになる。連合国のうちかつてのソビエト連邦が戦後日本の憲法を企図したとすれば、あるいは原案作成に強く関与していれば、このような条項は採用されなかっただろう。
 さて、<世襲による象徴天皇制度>は憲法上のものであり、かつそれは「主権の存する日本国民の総意に基く」ととくに規定されているのだから、制定時の理解・解釈はさておき、それとは独自に成立しうる憲法解釈として、現一条(+二条)は現憲法上の重要な<原理>として、憲法改正の限界を画す、つまり、憲法改正によっても変更・削除することはできない、と理解することも不可能ではないと考えられる。このように解釈すれば、憲法改正によって、<世襲による象徴天皇制度>を廃止することはできない。もし廃止しようとすれば、それは法的には非連続の一種の<革命>になる。
 だが、以上は成り立ちうる解釈だとは思うが、戦後の憲法解釈学において、現一条(+二条)は憲法改正の対象にできない、という議論はまったくなかったように見える。それよりも、逆に、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」のだから、「主権の存する日本国民の総意」によって変更する、そして廃止することもできる、と解釈されてきた。この点を意識または強調して、将来の天皇制度廃止を展望する論者は、明言しないにせよ、現在の憲法学界には多いのではないか、と推測される。
 しかし、そのような解釈しか成り立たないのではないことは上記のとおりだ。<憲法制定権者である憲法制定時の国民の総意>にもとづくと明記されているのだから、将来の国民もこれに拘束される(改正・廃止はできない)と解釈することが、さほど荒唐無稽なものだとは思われない。一条の上記部分の通例のまたは多数の解釈は、<政治的>色彩をやはり帯びているように考えられる。
 ところで、産経新聞社・国民の憲法(2013)のうち、同社案「国民の憲法」と自民党改正案の違いを記した部分には、天皇条項について、つぎのような叙述がある(p.139)。
 自民党案には「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という部分が残ったままで、これは「あたかも国会の議決で天皇の地位を自在に改変できるかのような誤解を招きかねない」。そして、この条文を使って「天皇制廃止」を「堂々と主張する憲法学者もいる」ので、「このような誤解を生み出す記述は削除し」た。以上、抜粋引用。
 この文章・論理は奇妙だ。少なくとも二人の憲法学者が起草委員会には加わっていたはずなのだが、このような叙述をお二人とも了解しているのだろうか。
 根本的に言って、「主権の存する日本国民の総意」=「国会の議決」ではありえない、ということはほとんど自明なことで、ほとんど誤解を生じさせない、と考えられる。誤解する一部の者には誤解だと説明すれば足りる。それに、この条文を使っての「天皇制廃止」論は憲法改正によるそれを展望していると容易に想定できるのであり、国会の議決=(ほとんどが)法律、による「天皇制廃止」を主張する憲法学者など皆無なのではないか。そのような議論・主張を読んだことは一度もない。
 以上のとおりで、憲法(改正)レベルの問題と法律(改正)レベルの問題の混淆が、上の叙述にはある、と見られる。
 ひょっとすれば、明言はしていないが、「主権の存する日本国民」という理解に対する反発・懸念が産経新聞社「国民の憲法」立案者にはあるのかもしれない。たしかに「主権」概念の法的意味と効用は議論されてよいものの、そのまま残しておいてさしたる弊害は生じないものと私は考える。むしろ、これを残すことによって、<世襲による天皇制度>は憲法改正の対象にはできないという解釈を導くことが不可能ではないことは、上述のとおりだ。なお、読売試案2004年は「その地位は、国民の総意に基づく」、として「主権の存する」との部分を削除しているが、産経新聞社案に比べれば、はるかに現行の上記条文を残す自民党案に近い。この点でも、産経新聞社案は異質だ。
 さらにいうと、産経新聞社案「国民の憲法」によれば、「天皇制廃止」の主張は排撃され、、「天皇制廃止」は不可能になるのだろうか。そんなことはない。同案によれば(117条)、各議院の過半数議員の賛成による国民への提案にもとづく国民投票での国民の過半数の賛成でもって憲法改正が可能である。産経新聞社案「国民の憲法」上の天皇条項は、なんと現憲法によるよりも容易に改正される(廃止される)ことになっている(「憲法改正の限界」に関する明文はないようだ)。「天皇制廃止」を「堂々と主張する憲法学者もいる」ので上記部分を削除したというが、削除したところで、憲法改正による「天皇制廃止」を「堂々と主張する」ことを封じることはできないのだ。
 以上、二回めの、産経新聞社案「国民の憲法」についての感想とする。
 なお、産経新聞社・国民の憲法(2013)の奥付の前の頁には、産経新聞社の名のもとに小さく、「近藤豊和、石川水穂、湯浅博、石井聡、安藤慶太、榊原智、小島新一、溝上健良、田中靖人、内藤慎二」と記載されている。この人たちが(おそらくは起草委員会メンバーではなく)この本を執筆・編集しているのだろう。したがって、完全に産経新聞社の名のもとに隠されているわけではない。だが、今回に言及した部分も含めて、個々の部分の文章作成の(内部的な)責任者の個人名は明らかでない。

1264/産経新聞社案「国民の憲法」について。

 田久保忠衛の名も出しつつ、<憲法を改正しよう>と主張するだけでは意味がない、と前回に書いた。
 これに対して、田久保忠衛は、改正の優先順位も政治的な戦略・戦術にも触れていないが、産経新聞社の「国民の憲法」起草委員会の委員長として、改正の具体的内容は検討・議論して、公表している、と反論するかもしれない。
 そのとおりで、産経新聞は「国民の憲法」(憲法改正要綱)を公表している。そして、産経新聞社・国民の憲法(2013.07、産経新聞社)の中には、自民党改正草案との違いを(わずか3頁だが)叙述している部分もある(p.138-140)。従って、かりにその部分を田久保が執筆しているか、または了解しているのだとすると、田久保が産経新聞社案と自民党案との違いをまったく説明していないというわけではない。
 以上のかぎりで田久保に対する批判的コメントは一部取消させていただく。もっとも、上記書物は「国民の憲法」の個々の条項に即して自民党案を採用しなかった理由を述べてはいない。上の3頁の中で触れられているのは、のちに触れる基本的スタンスの他は、天皇条項・現九条・前文のみだ。
 それに、あらためて上記書物を手がかりに産経新聞「国民の憲法」要綱を見てみると、基本的なよく分からない点があり、また奇妙に感じる点もある。
 まず第一に、この産経新聞「国民の憲法」案の発表主体はいったい誰なのか。どうやら、上記委員会ではなく、産経新聞社という会社法人(新聞会社)そのもののようだ。上記書物の「はじめに」の執筆者(署名)は「産経新聞社」になっている。そして、この書物は「起草委員会の議論をもとに…編集」したものだとされているが、「国民の憲法」案を最終的に完結的に作成したのは田久保を委員長とする起草委員会なのか、それとも起草委員会の議論の過程に産経新聞社の社員・記者たちがすでに関与したのか、も分かりにくい。起草委員会なるものの性格・位置づけにかかわるが、おそらくは上の後者で、起草委員会の「事務局」としての社員・記者たちがすでにかなり関与したように推測される。そして、その産経新聞の社員・記者たちの固有名詞・人名が「産経新聞社」の名の中に隠されていることも特徴の一つだろう。
 このような曖昧さは、読売新聞社の<読売試案2004年>の作成過程とはかなり異なっている。
 読売新聞社編・憲法改正-読売試案2004(2004.08、中央公論社)によると、この試案が読売新聞社の名によるものであることが明らかだが、この書物の「はじめに」は同社の「調査研究本部長」が執筆し、「おわりに」は同社「調査研究本部」員が執筆して、それぞれ固有名詞(個人名)まで明らかにしている。また、読売試案の作成には(社外の専門家の助言等を得たかもしれないが)「起草委員会」なるものがかかわっているわけではない。
 つぎに第二に、時期的に私が産経新聞を定期購読しなくなって以降のことだったことに原因がある勉強不足のためかもしれないが(もっともネット上で改正案作成の動きや結論の公表があったことは知っていた)、あらためて産経新聞「国民の憲法」案を見て、大きな違和感を抱いたことがある。
 それは、自民党案との違いとして記述されていることでもあるが、「現行憲法をゼロベースで見直して」いて、自民党案や、さらに読売試案とも違って、現憲法の条項との関係がはなはだ分かりにくいことだ。現憲法の△条を改めて「…」とする、という書き方をしておらず、現憲法の「構成」や各条項とは無関係に、一体として、「新」憲法案が提示されていることだ。
 この点について、上記書物p.138は、自民党案は現憲法を「下敷き」にしているので「現行憲法の抱えるさまざまな欠陥をそのまま引き継い」でいる、と述べている。論理的に見て、「下敷き」にしていれば必ず「欠陥を引き継ぐ」ことにはならないとは思うが、それは別としても、現実の憲法改正(の発議と国民投票)のためには、産経新聞「国民の憲法」案ははなはだ使いづらい。
 なぜならば、憲法改正とは、現憲法の全体を一挙に廃棄・廃止して、新しい憲法を一括して創出する、というものではないからだ。
 ここで、憶測にはなるが、ひょっとすれば産経新聞「国民の憲法」案は、渡部昇一らの現憲法「無効」論や石原慎太郎の現憲法「破棄」論の影響も受けて、現憲法の全体に新しい「自主」憲法がとって代わる、というイメージで作成されたのではないか、という疑問が生じなくはない。
 総選挙における<次世代の党>の衰退とも関連させて、現憲法「無効」論・現憲法「破棄」論についてはあらためて触れる予定だ。ともあれ、現憲法と「新」憲法案のどちらがよいと思うか、というかたちで一括して憲法改正の発議と国民投票が行われるはずがない。確認しないが、憲法改正手続法もまた、そのようなことを想定していないはずだ。
 より具体的に、あるいは個々の条項に即して、例えば(自民党案によれば)現九条2項を削除して九条の二(国防軍の設置)を新設することに賛成か反対かで、あるいは(読売試案2004年によれば)①現九条1項を一部修正する、②現九条2項を削除して、別内容の条文に代える、③新たに別の条を追加して「自衛のための軍隊」保持可能等を明記する、のそれぞれについて、またはこれらだけを一括して賛成か反対かで、国民投票は行われるはずだ。
 産経新聞「国民の憲法」案の個々の条項を見て、かつ優先順位さえ決定すれば、上のような技術的?問題は解消できる、というのが産経新聞社案の意図なのかもしれない。しかし、現憲法との比較対照表を作れない(作っていない)案は、かなり分かりにくいし、上記のような(革命的?な一挙の)一括的「改正」をイメージしているのではないか、との疑問が生じなくはない(そうした気分がまったく理解できないわけではないが、非現実的で、却って「改正」を遅らせる)。
 さらに第三に、ここで書いてしまっておけば、産経新聞社の上記書物における現憲法九条1項の理解はいぜんとして奇妙だ。すなわち、p.140は、現九条1項は「主権の行使に制限を課している」、「不徹底で不完全」なものだ、と記している。
 しかし、自民党改正案も読売試案2004年も、基本的には現在の現九条1項の条文をそのまま残すこととしている。
 歴史的由来のある「国権の発動たる戦争」等の意味が理解しやすいものではなく、大きな誤解も招くことになっているのは確かで、<侵略戦争>の否定の趣旨を書き直すことは考えられてもよい(そうした趣旨の規定に対する、<侵略戦争>否定は「主権の行使に制限を課す」不適切なものだ、との批判はあたらないだろう)。
 しかし、産経新聞「国民の憲法」案よりもより長い時間と議論を経て作成されたとみられる自民党の最新改正案や読売試案2004年が現九条1項を基本的にはそのまま維持しているのと比較すると、同じく<保守派>の中では異質な案になっていることを、田久保忠衛や産経新聞関係者は意識・自覚しておいてよいと思われる。
 なお、産経新聞社の上記書物は、自民党案は「戦争放棄の規定(9条)をほぼ踏襲している」と書いて疑問視している(p.139)。しかし、(侵略)戦争放棄の規定は「9条」ではなく、同条1項だ。法学者ではない北岡伸一でもしているような理解を、どうやら産経新聞関係者および上記起草委員会は採用していないようだ。不思議で仕方がない。
 とりあえず、憲法改正の仕方・内容に関して若干のことを述べた。最優先されるべきは、現九条2項の廃止(削除)と実質的に自衛隊を正規の「軍」と認めることとなる条項の新設だ(法律改正により名称等々の変更が必要だが)、と考えている。「自衛軍」でも「国軍」でもよいが、「国防軍」で差し支えないのではないか。
 憲法の専門家ではない者が書いていることだが、憲法改正にむけての議論に小さな渦でも生じさせることがあれば、幸い。

1263/具体的・建設的で戦略も意識した議論を-憲法改正をめぐる保守派の怠惰。

 月刊正論1月号(産経新聞社)に、田久保忠衛「衆院選で忘れてはならぬ/憲法改正のラスト・チャンス」がある(p.158-)。産経新聞の憲法改正案起草委員会の一員だった人物(かつ国家基本問題研究所の幹部)が憲法改正の必要性を説き、衆院選の重要な争点とすべき旨を主張してるのだが、これを概読して、2010年11月03日の産経新聞「正論」に掲載された、やはり田久保忠衛の「憲法改正の狼煙上げる秋がきた」を読んで感じたのと似たようなことを感じた。
 当時感じたことは、この欄の2013.08.12投稿でも繰り返されている-「問題は、いかにして、望ましい憲法改正を実現できる勢力をまずは国会内に作るかだ。/この問題に触れないで、ただ憲法改正を!とだけ訴えても、空しいだけだ」。
 当時は民主党政権下だったので現在とはやや状況は異なるが、発議自体に各議院議員の2/3以上の賛成が必要であることに変わりはなく、これが達成されている状況にあるとは、衆議院に限っても明確には言い難い。
 また、国会議員の構成は民主党政権下に比べれば改憲のためにより有利にはなっているだろうが、そもそも憲法「改正」の具体的内容は改憲派(あるいは「保守派」)において明確になっているのか、という根本的問題がある。
 田久保は月刊正論1月号で現前文・現九条の改正と緊急事態対処条項の三つに少なくとも触れているようだが、田久保には尋ねてみたいことがある。
 まず、産経新聞社「国民の憲法」草案起草委員の一人として、すでに公表されていた自民党の憲法改正案を知っていたはずだが、産経「国民の憲法」案・要綱と自民党改憲案はまったく同じではないはずのところ、なぜ両者には違いがあるのか?、自民党の改憲案をそのまま採用しなかった具体的理由は何なのか?
 これくらいのことを明らかにしてくれていないと憲法改正のための具体的な議論はできないのではないか。
 また、憲法改正は-いずれまた触れるだろうように、明治憲法を全体としてそのまま復活させるという主張を採用しないかぎり-現憲法全体に対して改正案全体を提示して、全体について一括して支持するか否かを国民投票によって決する、というのではない。一箇条(の改正または新設)のみについて一回の記載か、複数の条項についての改正案(新設を含む)に即して複数回の(賛否の)記載を国民に問うのか、というやや技術的な(とはいえ現実には重要な)問題もあるが、いずれにせよ、改正が優先されるべき個々の条項について改正(・新設)の賛否を国民に問うことになるはずだ。
 しかして、田久保はいったい現憲法のどの条項から改正を始めるべきだと考えているのか。この点も明らかにしてくれていないと、憲法改正についての具体的な議論はできない。
 田久保忠衛に限らない。月刊正論2月号(産経新聞社)に、八木秀次「見え始める憲法改正への道筋」という魅力的なタイトルの論考があるが(p.58-)、総選挙結果の政治評論家的分析が3/4を占め、憲法改正に関する、上のような疑問に答えるところはない。ただ一つ、「憲法改正を政治日程に載せるためには1年半後の参議院選挙で改憲派の議席を確保しなければならない」等の、率直に言って改憲派ならば誰でも書けるようなことを書いているにすぎない。
 たまたま田久保忠衛と八木秀次の名を出したが、①両議院に2/3の改憲派を生み出し、国民投票でも国民・有権者の過半数の支持を得るための戦略・戦術、②すでにある改正案もふまえて、具体的にどのような内容の条文にするかのより突っ込んだ検討(ちなみに、櫻井よしこは「国防軍」ではなく「国軍」でよいと、どこかに書いていた)、③そもそもどういう順番で、改正案を国民に提示していくのか、についてのきちんとした検討、はいずれも、改憲派(「保守派))において、決定的に遅れているか、まったくなされていない。
 実に悲観的(・悲惨的)で危機的な状況にある、とすら言える。改憲派の論者たちは、本当に、真剣に、現憲法を変えたい、「自主憲法」を制定したい、と考えているのだろうか。
 このような状況では、安倍晋三首相が、憲法改正について具体的なことを語ることができないのも、当然だ。適当に何かを論じ、書いていれば済む立場に、安倍首相はいるわけではない。発議に必要な要件を彼は痛いほど理解しているだろうし(96条改正問題にもかかわる)、また、具体的な改憲条文を示した上で国民投票にかける必要があることも、どの条項から始めるべきかという問題があることも、当然に強く意識しているはずだ。
 にもかかわらず、安倍首相の問題意識・問題関心に応え、具体的にサポートする議論を改憲派(「保守派))が行ってきているとは思えない。
 優先順位にしても、公明党の「加憲」論に配慮して、安倍首相は緊急事態対処条項から始めたいのでは、という憶測記事を新聞で読んだことがあるが(何新聞だったかは忘れた)、かかる程度の<優先順位>論すら、改憲派(「保守派))は何もしていないのではないか。現九条か、前文か、緊急事態条項か、それとも「環境権」か?
 改憲派(「保守派」)の怠惰だ。
 もともと自民党は安倍晋三が言うとおり、「自主憲法の制定」を悲願としてきたのだから、改憲派(「保守派」)が、たんに、<憲法を改正しよう>と主張しても、訴えても、ほとんど意味はない。いいかげんに、それだけの主張や議論はやめるべきだ。
 ついでに言うと、周知のとおり、憲法改正反対(とくに現九条2項護持)の政党・運動団体があり、憲法学者の大半は<護憲派>とみられるところ、現96条改正や現九条改正に反対する憲法学者等の主張・議論に、改憲派(「保守派」)は適確に反駁してきているだろうか。
 例えば、昨2014年に、東京大学の現役教授・石川健治は朝日新聞に「乾坤一擲」の長い文章を載せ、京都大学の現役教授・毛利透は読売新聞紙上で護憲の立場で論考(・インタビュー回答)を載せていたが、これらに、迅速に改憲派(「保守派」)は反応し、これらを批判したのだろうか。
 <憲法改正を>だけ叫ぶのはいいかげんにしてほしい。具体的かつ建設的で戦略も意識した議論が、そして<護憲派>に対する執拗といってよいほどの批判が、必要だ。

1262/憲法九条2項改正と北岡伸一による朝日新聞の批判的分析。

 一 自民党の憲法改正案において、現憲法九条の全体が削除または改正されるのではなく、現1項はそのまま残されて新9条の全体になるとともに、新たに九条の二を設けて「国防軍」の設置が明記されることになっている。
 現在の第二次案ではなく「自衛軍」としていた第一次案の時期のものだが、自民党本部の担当者だった者による、田村重信・新憲法はこうなる(2006.11、講談社)p.120-1は現1項の趣旨をイタリア・ドイツ等の憲法(・基本法)も有し、「国権の発動たる戦争」とは1928年パリ不戦条約に由来する表現で<侵略戦争>を意味し、それを放棄・禁止するものであっても「自衛権に基づく戦争」を放棄・禁止するものではない、と明確に説明している。
 上の趣旨を理解していないかに思えた産経新聞社説があったので上の点を(そのときは上の田村著を知らなかったが)この欄で指摘し、かつ<「九条を考える会」という呼称はゴマカシだ、正確に<九条2項を考える(護持する)会>と名乗るべきだ>という旨を書いたことがある(2012.03.15)。
 前回にやや厳しい感想を述べた柳本卓治の文章も、上の点を明確に意識して書かれてはおらず、現九条=日本的「平和主義」について、<左翼>がふりまいているデマ宣伝に部分的には屈している印象がある。
 現九条の2項のみの削除・改正を主張しているにもかかわらず九条全体を削除・改正しようとしていると<すりかえ>をして改憲派を反平和主義者・好戦論者のごとく批判するのは、悪質なデマゴギーに他ならない。
 二 12/23に朝日新聞の<慰安婦報道検証・第三者委員会報告書>が公表された。その一部を成すと思われる各委員の個別意見において、北岡伸一は以下のように、適切に朝日新聞を批判している。日本共産党・「九条の会」のみならず、朝日新聞もまた、上のようなデマ宣伝を展開してきたからだ。
 朝日新聞には「言い抜け、すり替えが少なくない。/たとえば憲法9条について、改正論者の多数は、憲法9条1項の戦争放棄は支持するが、2項の戦力不保持は改正すべきだという人である。朝日新聞は、繰り返し、こうした人々に、『戦争を放棄した9条を改正しようとしている』とレッテルを貼ってきた。9条2項改正論を、9条全体の改正論と誇張してきたのである。要するに、他者の言説を歪曲ないし貶める傾向である」。
 北岡は、読売新聞12/26のインタビュー記事でも、「憲法9条についても、1項の『戦争放棄』は支持するが、2項の『戦力不保持』は改正すべきだという人に対し、戦争放棄を改めようとしているとレッテルを貼って批判する」と述べている。
 このような北岡伸一の朝日新聞批判は適切であり、こうして活字になった九条1項と2項をきちんと分けての議論を初めて読んだような気がする。
 <九条を世界遺産に>という運動があった(ある)ようだが、その運動者・活動家はおそらく九条2項を念頭に置いているのだろう。ちなみに、潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(2007.04、PHP)という書物があるが(読了)、正確な趣旨は、「憲法九条2項は諸悪の根源」なのではないか。憲法学者・百地章もかつては憲法九条改正という言い方をしていたかにも見えるが、近年では正確に九条2項改正と記述していることを、この欄でコメントしたことがある。
 三 ところで、北岡伸一の上記朝日新聞紙上の文章は朝日新聞の問題のある傾向の第6点「論点のすりかえ」の例として書かれている。それ以外は、第一・「粗雑な事実の把握」、第二・「キャンペーン体質の過剰」、第三・「物事をもっぱら政府対人民の図式で考える傾向」、第四・「過剰な正義の追求」、第五・「現実的な解決策の提示の欠如」、である。
 北岡に対しては<保守>派からの批判もあるようだが、朝日新聞批判の著・文章は数多くあると見られるところ、北岡の上のような、決して長くはない文章における体系的・総合的な?整理・分析は、的確で、なかなか優れていると感じられる。以上の諸点はすべて、かつての<進歩的文化人>と同様に社会主義・共産主義への憧憬を残した、目的のためならば歪曲・虚報も許されるという心情の「記者」たちによって構成された<政治団体>だからこそ生じている傾向・問題点であるかもしれないが。

1261/月刊正論1月号・柳本卓治論考を読む。

 月刊正論(産経新聞社)2015年1月号に柳本卓治「世界最古の『憲法の国』日本の使命」がある(p.168-)。
 自民党議員で参議院の憲法審査会会長に就任したという人物が書いているもので、共感するところもむろんあるが、大いに気になることもある。
 この論考は大きく五つの柱を立てているが、その二は「国家や国民という歴史と文化・伝統を縦軸に、国民主権・基本的人権・平和主義の三大原理を横軸に据えた憲法を」だ。「国民主権・基本的人権・平和主義の三大原理」を基軸の一つにする、と言うのだが、より詳しくは次のように語られている(p.170)。
 「現行の日本国憲法は、占領下の翻訳憲法ではあるが、その根幹には、国民主権、基本的人権、そして平和主義(戦争の放棄)という三大原理が謳われてい」る。「国民主権(主権在民)も基本的人権も、自由と民主主義に立脚する近代国家には、普遍的な原理」だ。「また、戦争放棄と平和主義も、人類国家として実現していかなければならない理想でもあ」る。
 これはいけない。第一。すでにこの欄で述べたことがあるが、まず、現憲法が「国民主権・基本的人権・平和主義」を「三大原理」とするというのは、多くの高校までの教科書には採用されている説明かもしれないが、<左翼>憲法学者たちが説いてる一つの解釈または理解の仕方にすぎない。阪本昌成のように七つの<後日訂正-六つの>原理を挙げる憲法学者もあり、大学レベルでの憲法教科書類が一致して説いているわけでは全くない。少なくとも、権力分立原理と「象徴」天皇制度の維持・採用も、現憲法の重要な原理だろう。前者には、司法権により立憲主義を維持・確保しようとしていること(立法を含む国家行為の憲法適合性の審査)も含めてよい。
 ともあれ、素朴で、幼稚ともいえる「三大原理」の持ち出し方は、適切であるとは思えない。
 つぎに、その「三大原理」を「自由と民主主義に立脚する近代国家」に「普遍的な原理」だと語るのは、まさに<左翼>的な戦後教育の影響を受けすぎており、とても<保守>派の政党・論者が語るものとは思えない。そもそも、日本において、アメリカの独立革命やフランス革命とそれらが生んだ憲法をモデルとして「近代憲法」を語ることの意味が問われなければならないだろう。西欧+アメリカの「近代」原理を日本も現憲法で採用し、それは「普遍的原理」だ、というのは、典型的な<左翼>の主張であり、理解である、と考えられる。
 欧米を「普遍的」原理を提供しているモデルと見るのではなく、日本的な国政あるいは国家統治の原理を創出しなければならず、「自由と民主主義」といっても、それは日本的な「自由と民主主義」でなければならない。
 柳本のような論調だと、欧米的「近代」・「普遍的な原理」によって、「国家や国民という歴史と文化・伝統」は害され、決して両者は調整・調和されないことになるのではないか。
 柳本の教養・素養の基礎は経歴によると経済学にあるようだが、上のようなことを書く人が参議院憲法審査会会長であるというのは、かなり怖ろしい。
 さらにいえば、柳本・参議院憲法審査会会長は、「戦争の放棄」とか「平和主義」をどのような意味で用いているのだろうか。いっさいの「戦争の放棄」をしてはならず、正しい又は正義の戦争=自衛戦争はある、と私は考える。
 また、<左翼>が「平和憲法」などと称して主張する場合の「平和主義」とは、決して戦後および現在の世界諸国において一般的・普遍的なものではなく、「戦力の保持」をしないで他国を信頼して「平和」を確保しようとする、きわめて非常識かつ異常な「平和主義」に他ならない。
 にもかかわらず、柳本は次のように書く-「いま最も大切なことは、この憲法9条の精神を今後も高々と掲げると共に、同時に、…独立国としての自衛権と、自衛のための自衛軍の整備をきちんと明文化すること」だ。
 ここには現9条の1項と2項の規範内容の違いへの言及がまるでないし、「憲法9条の精神を今後も高々と掲げる」という部分は、実質的に日本共産党の別働団体になっている「九条の会」の主張と何ら異ならない。せめて、9条1項の精神、とでも書いてほしいところだ。
 柳本は「憲法9条とは、先の大戦を通して、国民が流し続けた血と涙の池に咲いた、大輪のハスの花である」とまで言い切る。憲法9条は、その2項も含めて全体として、このように美化されるべきものでは全くない、と私は考える。このような言い方も「九条の会」と何ら異ならない。
 繰り返すが、現憲法の文言から素直に読み取れる「平和主義」とは、「軍その他の戦力」の不保持・「交戦権」の否認を前提とする、それを重要な構成要素とする<世界でも稀な、異様な>「平和主義」だ。その点を強調しないままで、現9条は「大輪のハスの花」だとか、「戦争放棄と平和主義」は「人類国家として実現していかなければならない理想」だ、などと自民党かつ参議院の要職者に語られたのでは、げんなりするし、憲法改正・自主憲法制定への熱意も薄れそうだ。
 第二。五つめの柱の「日本人は世界初の『憲法の民』」も、そのまま同感はしかねるし、また議論のために不可欠の論点だとは思われない。
 柳本は、聖徳太子の「十七条の憲法」を持ち出して、「近代国家の憲法とは、一律には比較でき」ないと断りつつも、「日本人は、世界初の『憲法の民』なの」だ、という(p.175)。
 日本と日本人が<世界初>・<世界で一つ>のものを有することを否定はしない。しかし、日本の明治期に欧米の近代「憲法」の原語(Constitution, Verfassung)がなぜ「憲法」と訳されたのかという歴史問題にもかかわるが、柳本も留保を付けているように、日本が世界初の「憲法」を持った、というのはいささか牽強付会の感を否めない。これはむろん「憲法」という概念・用語をどう理解するかによる。今後の憲法改正にあたっては、この点の指摘または強調はほとんど不要だろう。
 憲法改正に向けての多少の戦術的な議論の仕方を一切否定しようとするつもりはないが、柳本の基本的論調はあまりに<左翼>の影響を受けた、あるいは、表現を変えると<左翼>に媚びたものではないか。稲田朋美ならば、このような文章にならないのではないか。
 問題は、現憲法の諸条項を、どのように、どのような順序で改正するか(新設も含む)、そのための勢力を国会両議院内および国民・有権者内でどのように構築していくか、にある。

1247/日本評論社・法律時報という「容共」・「護憲」雑誌。

 現物を手にしていないが、別の某雑誌に載っている広告によると、日本評論社という出版社発行の専門分野の雑誌らしき「法律時報」の編集部は、法律時報編集部編・「憲法改正論」を論じる(法律時報増刊)という書物(又は雑誌の特別号)を刊行している。そして、広告に謳われた惹き文章は次のとおりだ。
 安倍政権下で進行している『憲法改正』論に警鐘を鳴らし、理論的な対抗軸を示す。憲法学はもとより、隣接領域や諸外国からの知見をも盛り込む」。
 この日本評論社がかつて1970年代に<マルクス主義法学講座>という講座もの、たぶん全8巻程度、を刊行していたことはこの欄ですでに何度か触れた。その際に触れたかどうかは忘れたが、そのときの同講座の編集担当者だった林克行は、のちに同社の社長になった。「左翼」性の明らかな浦部法穂および辻村みよ子の憲法(学)教科書は日本評論社から発行されている。上記の法律時報編集部編・「憲法改正論」を論じるを含む広告欄の隣に掲載されている同社刊行の書物のタイトルは、家永三郎生誕一〇〇年で、誕生100年記念実行委員会編だから、家永三郎に批判的な本であるはずはない。
 日本評論社には、少なくともかつて、家永三郎の子息も勤務していた。
 家永三郎に関する書物の隣で広告されているのは、樋口陽一・森英樹・辻村みよ子ら編の国家・自由・再論、だ。
 したがって、この出版社発行の雑誌編集部が「『憲法改正』論に警鐘を鳴らし、理論的な対抗軸を示す」ことを図ることは当然かもしれないし、そのことをここで批判するつもりもない。改憲派の雑誌もあるし、護憲(又は憲法改悪阻止)派の雑誌もある。
 だが、朝日新聞社や岩波書店以外に、明確に憲法改正反対の方針をもつ法学関係の雑誌、そして出版社があることは広く知られておいてよいと思われる。いつか触れたが、日本共産党系又は親日本共産党の(当然に日本共産党員学者を含む)「民主主義科学協会法律部会」(民科・みんか)という学会の機関誌を発行しているのも、この日本評論社だ。
 関西系のテレビで夕方に「反安倍」の立場でコメントしていて今春頃に降りた(その理由は知らない)森田実は東京大学学生時代に日本共産党→ブントの活動家だったはずだ。
 森田実は、ネット情報によると2007年5月の自著出版記念会で、こう挨拶している。「来る7月22日の参院選を、日本国民が過去を反省し、国民の多数が誤った政治を支持してきたという過去の過ちを正し、再出発する日にしたい」、「そのためには、日本国民が安倍自公連立政権の側に立つ政治家を拒否すること、安倍自公連立政権の対極に立つ野党(民主党、社民党、国民新党)の候補者を当選させることが必要である」。
 そして、この会に出版社社長の中でただ一人メッセージを寄せたのは、日本評論社社長・林克行だった。
 どうやら、森田実は、少なくとも一時期、日本評論社で働いていたようだ。
 このような「政治的」立場の明確な出版社であることを知ってこの社から本を出している者もいるだろうし、また法学界には、日本評論社的な<親共、反・反共>の者が多いのかもしれない。
 だがもちろん、このような立場・考え方が<親中国・親北朝鮮>のそれでもあることを、とくに定見もなくこの出版社から本を出したり、この社の雑誌に執筆している(脳天気な)者たちは知らなければならない。

1242/「積極的平和主義」を批判する朝日新聞。

 朝日新聞1/15朝刊の「今村優莉、清水大輔」との署名のある<安倍首相の言う「積極的平和主義」って?>というタイトルの記事は、朝日新聞らしくて面白い。
 安倍首相が使っている「積極的平和主義」(に立つ)という表現の仕方はなかなかうまいものだと感じていた。つまり、従来は「平和」は<革新>または<左翼>の標語で、これに対する「戦争」または「好戦」とは<保守>または<右翼>の好むものだというイメ-ジを「左翼」は撒いてきたのが、安倍首相は逆手にとって自らを「積極的平和主義」者と位置づけ、従来の<左翼>の「平和」主義とは「消極的平和主義」、「何もしない平和主義」に他ならないことを皮肉をも込めて?明らかにしているように思えたからだ。
 上のことがどうやら朝日新聞記者には気にくわないらしい。上の記事は安倍の「積極的平和主義」の意味をあえて特定の意味に理解しようとし、そしてそれを批判している。
 その前にこの記事には意味が不明確な概念・語が無前提に使われている。第一に、「平和憲法の改正を目指す安倍氏…」という表現がある。ここでの「平和憲法」とはいったい何を意味しているのか? 朝日新聞または同新聞の愛読者には自明なのかもしれないが、「平和」主義にも非武装平和主義から(例えばスイスのような、徴兵制による正規軍をもつ)武装平和主義まで種々のものがあることを考えても、「平和憲法」という語の意味は自明ではない。おそらくは前者のごとき意味で用いているのだろうが、それのみが「平和憲法」なるものの意味内容であるとは限らないことを知るべきだろう。「平和憲法の改正をめざす」という表現によってすでに、安倍首相は非平和的・好戦的というイメ-ジを提示してしまっているのだ。第二に、坪井主税という平和学専門らしき札幌学院大名誉教授の引用コメントの中に「9条の平和主義」という語があり、これまた厳密には意味不明であるとともに、これを改正すること=悪という前提に立った叙述をしている。自民党の改憲案も9条第一項は残すのであり同条項の「平和主義」を捨てているわけではない。朝日新聞的な論理または単純素朴な護憲派のイメ-ジを全く知らないものにとっては、奇妙な叙述であり、不思議な前提だ。
 上記のことだけでもすでに朝日新聞らしさは十分に出ているが、<積極的平和主義>については以下のごとくイチャモンをつけている。①青井未帆(学習院大教授・憲法学)の、安倍首相は「平和」概念の広さを利用して「狡猾」で、「アメリカのつくる『世界平和のあり方』、つまり軍事力介入をいとわない“平和”を前提」とするものだ、とのコメントを用いる。②都築勉(信州大教授・政治学)の「国際協調主義に基づく積極的平和主義」という意味ならば現行憲法の尊重で足りる、等のコメントを用いる。③坪井主税の、安倍首相国連演説の「積極的-」の英訳は「Proactive」だが、これは「『先攻的にやっつける』という意味にもとれ、日本が9条の平和主義を捨て、自衛隊という軍事力を行使する意志を示したととらえられてもおかしくない」とのコメントを用いる、など。
 結局のところ、第一には、安倍首相の憲法改正志向や「集団的自衛権」の政府解釈や「武器輸出三原則」見直しの志向を批判する、という前提に立って安倍が「平和」という概念を用いることに文句をつけて(矛盾するなどとして)「積極的平和主義」を批判しているのであり、従来かつ現在の朝日新聞の立場を反復するものにすぎない。第二には、安倍首相の「積極的」を「軍事力介入をいとわない」あるいは「先攻的にやっつける」という意味だと分析?して批判しており、ここには批判したさがゆえの歪曲または単純化が見られる。「積極的平和主義」とは「軍事力介入をいとわない」・「先攻的にやっつける」平和主義だ、との解釈は、かなりの特定・限定または歪曲を施した、批判しやすくするための概念理解に他ならないだう。「積極的」=「Proactive」は「先攻的にやっつける」という「意味にもとれ」とは、悪意に満ち満ちた理解だ。
 世界各地に見られる<非平和>状態・地域に関して、あるいは日本もまた直面している「平和」の危機に際して、今村優莉清水大輔はいかなる対応策あるいは政策・戦略を考えているのだろうか。軍事的要素に脊髄反射的な反発をするだけ、という「平和ボケ」の典型的な姿が、この朝日新聞の記事にも見られるようだ。
 ところで、朝日新聞のおそらくはまだ若い方の記者の署名入り記事をときどき読んで思うのだが、朝日新聞の若い記者たちは、若い間に<朝日新聞的>な主張・考え方に添った文章をどれほどうまく書ける能力があるかによって、上司に<勤務評定>されているのだろう。安倍晋三あるいは自民党を批判することは当然のこととして、それをいかに面白い観点からいかに洒落た文章で行えるかが試されているのだと思われる。朝日新聞社内で「出世」するためにこのようなことで競わなければならないとは、特定の政治団体に入ってしまったがための仕方がないこととはいえ、まことに可哀想で気の毒なことだと感じる。

 
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