秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

憲法審査会

1313/安保法案「違憲」論は憲法学者の「学問」か-1。

 しばらく、安保法制整備法案に対する<違憲論>について、それに対する批判的コメントを続けてみよう。
 池田信夫がいうように非専門家または一般国民からすれば「神学」的な、魑魅魍魎の?議論かもしれないが、一部憲法学者さまたちの「違憲」論が一種の<政局>的現象を生じさせているとあっては、無視するわけにはいかない。
 一 まず、そもそも現憲法九条の条文・文言と現在提出されている、「集団的自衛権行使容認憲法解釈」を前提とするという今次の安保法制整備法案とを比較対照させて、簡単にあるいは断定的に<違憲>だと言えるのだろうか、という疑問がわく。一般国民的感覚からすれば、そのことこそが奇妙に感じられる。憲法学者というのは、条文・文言の背後にある規範的意味内容をさほどに明確に取り出せる魔術を持ち、トリックを使える者なのか。
 現憲法は「自衛(権)」という語を用いず、そのための実力行使・それを行なう組織についての言及もしていない。そのことから、いかなる(日本の主権、国土と国民の安全を守るための)「自衛」措置も、「自衛」組織の設立も違憲だと断じるのならば、問題は簡単だ。今次の法案は「自衛」権、そして「自衛隊」の存在を前提としているがゆえに、ただちに違憲となる。
 しかし、言うまでもなく、長谷部恭男たちや昨年07月の「集団的自衛権行使容認閣議決定」への抗議声明に参加した(そして今次の法案にも反対している)憲法学者たちは、上のような立論をしているわけではない。
 とすれば、そしてこの学者たちが憲法解釈上も日本国家に固有の(自然の)「自衛権」を否認していないとすれば、その「自衛権」の行使の程度・範囲・態様等々について、どこまでが合憲で、どこからが違憲なのか、という線引きをしていなければならなくなる。
 長谷部恭男、小林節、笹田榮司および森英樹、樋口陽一らの憲法学者たちは、上の問題についての自らの憲法解釈およびその適用の具体例を、憲法学者ならば積極的に示すべきだろう。そのことをしていないとすれば、学者の怠慢なのではないか。
 二 もちろん、憲法学者のかなり多くが、もともとは自衛隊設置(法律)から始まって、いわゆる有事立法・周辺事態法、自衛隊イラク派遣法等々に反対してきており、その際に当然ながら憲法九条との抵触を指摘してきたことを知っている。つまり自分たちの上の点についての憲法解釈・適用を積極的に示すというよりも、自民党を中心とする(自衛隊設置はそれ以前の<保守>諸政党だが)政権側の諸法律案に反対する・制定に抵抗することに力を注いできたことは分かる。その際に、今次にも見られるように、いわば防戦的に、言葉・概念にかかわる細かな指摘・主張をするとともに、<時の政権の恣意的な解釈を許す>、<「戦争」に巻き込まれるおそれがある>等々と憲法学者たちも述べてきたのだった。
 自衛隊も、有事立法等々も、もちもと「左翼」憲法学者たちにとっては違憲だったのではないか? また、これらの諸法律は、何らかの内閣による<憲法解釈>=「政府解釈」を前提として、その「政府解釈」を立法府・国会による<憲法解釈>にしてきたものだった。もはやたんなる「政府解釈」ではなくなっている。国会も行なったいわば「国会解釈」になっている(これを覆すことができるのは裁判所、とくに最高裁判所だけだ)。
 上の二点はとりあえずさておき、再び論及するだろう。
 三 北側一雄(公明党副代表)が6/11の衆院憲法審査会で語ったらしいように、自衛隊そのものや安保条約ではなく「憲法9条と自衛措置の限界について突き詰めた議論」が憲法学界・憲法学者たちの間でなされてきた、とはとても思えない。上述のように、<「自衛権」の行使の程度・範囲・態様等々について、どこまでが合憲で、どこからが違憲なのか>という問題に積極的に回答することを憲法学者たちはしてこなかった、と思われる。そして、たんに自民党・政府側の動き・法案は憲法九条(・その精神)に反して違憲だとか、違憲の疑いがある、とか言ってきたわけだ。
 この機会に、この欄に引用・掲載している日本共産党系憲法学者たちの2014.07声明にも言及するが、この声明をあらためて読むと、「集団的自衛権行使容認」は憲法九条違反だとは明確には、または断定的には述べていないことに気づく。
 長年にわたって継続した政府解釈を変更するのは「国民的議論」を欠いた「暴挙」だとか、「従来の政府見解から明白に逸脱」だとか言って批判しているが、とくに後者について言えば、政府解釈を<変更>すると安倍内閣は明言しているのだから、従来の政府解釈から「逸脱」するところがあるのは当然で、何ら批判になっていない(原文作成者は頭が悪いのではないか)。
 そして、「憲法9条の根本的変質」に他ならないとも言っている。ここで憲法九条が登場するが、この表現は、現憲法九条に違反する、と明言するものではなく、それよりも弱い表現だ。要するに、この声明ですら、集団的自衛権行使容認は憲法九条違反とは明言・断定していないとも解される。
 では、長谷部恭男らは、今次の、上の解釈にのっとった(そして従前から予定されていた)安保法案は<違憲だ>となぜ、明言・断定できるのか。
 ここで、いわゆる個別的自衛権と集団的自衛権の区別の問題が出てくる。
 四 長谷部恭男は6/04の憲法審査会での発言ののち、6/09の<読売オンライン>上の「国民の生死”をこの政権に委ねるのか?/集団的自衛権―憲法解釈変更の問題点」で、自らの見解を記している。
 かかる論考を掲載する読売新聞はさすがに太っ腹で(?)、例えば「憲法学者が見た審査会」という小特集で、長谷部を擁護する憲法学者のみを二人登場させて、そのインタビュー内容を掲載している6/12の朝日新聞とは大違いだ。
 上のことはさておき、長谷部恭男は上の中で「タバコ」吸引のことを例に挙げたあとで、集団的自衛権行使否認という従来の憲法解釈の変更は「立憲主義を覆す」ものだ、とまで述べている。こういう批判の仕方は上記の日本共産党系学者たちの声明の中には明記されていないようだが、しばしば見られる。また、長谷部恭男は、憲法審査会で、<法的安定性を害する>とも語ったようだ。
 「タバコ」吸引のことを例にとれば、長谷部恭男の言っていることは、次のような、「僕ちゃんよい子」のダダッ子の言葉のようだ。
 <長い間、タバコ喫煙は20歳にならないと許されないと執拗にかつ厳しく言われて、そのとおりだと納得してじっと我慢してきたのに、急に18歳から喫煙可能だと言うなんて、僕が従ってきたルールを勝手に破るもので、僕の内心の(精神的)安定性をひどく害するものだ。
 もちろん、もっと説明が必要だ。次回に行なう。

 
 

1261/月刊正論1月号・柳本卓治論考を読む。

 月刊正論(産経新聞社)2015年1月号に柳本卓治「世界最古の『憲法の国』日本の使命」がある(p.168-)。
 自民党議員で参議院の憲法審査会会長に就任したという人物が書いているもので、共感するところもむろんあるが、大いに気になることもある。
 この論考は大きく五つの柱を立てているが、その二は「国家や国民という歴史と文化・伝統を縦軸に、国民主権・基本的人権・平和主義の三大原理を横軸に据えた憲法を」だ。「国民主権・基本的人権・平和主義の三大原理」を基軸の一つにする、と言うのだが、より詳しくは次のように語られている(p.170)。
 「現行の日本国憲法は、占領下の翻訳憲法ではあるが、その根幹には、国民主権、基本的人権、そして平和主義(戦争の放棄)という三大原理が謳われてい」る。「国民主権(主権在民)も基本的人権も、自由と民主主義に立脚する近代国家には、普遍的な原理」だ。「また、戦争放棄と平和主義も、人類国家として実現していかなければならない理想でもあ」る。
 これはいけない。第一。すでにこの欄で述べたことがあるが、まず、現憲法が「国民主権・基本的人権・平和主義」を「三大原理」とするというのは、多くの高校までの教科書には採用されている説明かもしれないが、<左翼>憲法学者たちが説いてる一つの解釈または理解の仕方にすぎない。阪本昌成のように七つの<後日訂正-六つの>原理を挙げる憲法学者もあり、大学レベルでの憲法教科書類が一致して説いているわけでは全くない。少なくとも、権力分立原理と「象徴」天皇制度の維持・採用も、現憲法の重要な原理だろう。前者には、司法権により立憲主義を維持・確保しようとしていること(立法を含む国家行為の憲法適合性の審査)も含めてよい。
 ともあれ、素朴で、幼稚ともいえる「三大原理」の持ち出し方は、適切であるとは思えない。
 つぎに、その「三大原理」を「自由と民主主義に立脚する近代国家」に「普遍的な原理」だと語るのは、まさに<左翼>的な戦後教育の影響を受けすぎており、とても<保守>派の政党・論者が語るものとは思えない。そもそも、日本において、アメリカの独立革命やフランス革命とそれらが生んだ憲法をモデルとして「近代憲法」を語ることの意味が問われなければならないだろう。西欧+アメリカの「近代」原理を日本も現憲法で採用し、それは「普遍的原理」だ、というのは、典型的な<左翼>の主張であり、理解である、と考えられる。
 欧米を「普遍的」原理を提供しているモデルと見るのではなく、日本的な国政あるいは国家統治の原理を創出しなければならず、「自由と民主主義」といっても、それは日本的な「自由と民主主義」でなければならない。
 柳本のような論調だと、欧米的「近代」・「普遍的な原理」によって、「国家や国民という歴史と文化・伝統」は害され、決して両者は調整・調和されないことになるのではないか。
 柳本の教養・素養の基礎は経歴によると経済学にあるようだが、上のようなことを書く人が参議院憲法審査会会長であるというのは、かなり怖ろしい。
 さらにいえば、柳本・参議院憲法審査会会長は、「戦争の放棄」とか「平和主義」をどのような意味で用いているのだろうか。いっさいの「戦争の放棄」をしてはならず、正しい又は正義の戦争=自衛戦争はある、と私は考える。
 また、<左翼>が「平和憲法」などと称して主張する場合の「平和主義」とは、決して戦後および現在の世界諸国において一般的・普遍的なものではなく、「戦力の保持」をしないで他国を信頼して「平和」を確保しようとする、きわめて非常識かつ異常な「平和主義」に他ならない。
 にもかかわらず、柳本は次のように書く-「いま最も大切なことは、この憲法9条の精神を今後も高々と掲げると共に、同時に、…独立国としての自衛権と、自衛のための自衛軍の整備をきちんと明文化すること」だ。
 ここには現9条の1項と2項の規範内容の違いへの言及がまるでないし、「憲法9条の精神を今後も高々と掲げる」という部分は、実質的に日本共産党の別働団体になっている「九条の会」の主張と何ら異ならない。せめて、9条1項の精神、とでも書いてほしいところだ。
 柳本は「憲法9条とは、先の大戦を通して、国民が流し続けた血と涙の池に咲いた、大輪のハスの花である」とまで言い切る。憲法9条は、その2項も含めて全体として、このように美化されるべきものでは全くない、と私は考える。このような言い方も「九条の会」と何ら異ならない。
 繰り返すが、現憲法の文言から素直に読み取れる「平和主義」とは、「軍その他の戦力」の不保持・「交戦権」の否認を前提とする、それを重要な構成要素とする<世界でも稀な、異様な>「平和主義」だ。その点を強調しないままで、現9条は「大輪のハスの花」だとか、「戦争放棄と平和主義」は「人類国家として実現していかなければならない理想」だ、などと自民党かつ参議院の要職者に語られたのでは、げんなりするし、憲法改正・自主憲法制定への熱意も薄れそうだ。
 第二。五つめの柱の「日本人は世界初の『憲法の民』」も、そのまま同感はしかねるし、また議論のために不可欠の論点だとは思われない。
 柳本は、聖徳太子の「十七条の憲法」を持ち出して、「近代国家の憲法とは、一律には比較でき」ないと断りつつも、「日本人は、世界初の『憲法の民』なの」だ、という(p.175)。
 日本と日本人が<世界初>・<世界で一つ>のものを有することを否定はしない。しかし、日本の明治期に欧米の近代「憲法」の原語(Constitution, Verfassung)がなぜ「憲法」と訳されたのかという歴史問題にもかかわるが、柳本も留保を付けているように、日本が世界初の「憲法」を持った、というのはいささか牽強付会の感を否めない。これはむろん「憲法」という概念・用語をどう理解するかによる。今後の憲法改正にあたっては、この点の指摘または強調はほとんど不要だろう。
 憲法改正に向けての多少の戦術的な議論の仕方を一切否定しようとするつもりはないが、柳本の基本的論調はあまりに<左翼>の影響を受けた、あるいは、表現を変えると<左翼>に媚びたものではないか。稲田朋美ならば、このような文章にならないのではないか。
 問題は、現憲法の諸条項を、どのように、どのような順序で改正するか(新設も含む)、そのための勢力を国会両議院内および国民・有権者内でどのように構築していくか、にある。

0929/産経11/03社説(主張)の「能天気」ぶり。

 産経新聞11/03の社説(「主張」)「憲法公布64年/国家の不備を正す時だ/尖閣を守る領域警備規定を」は、おわりの直前まではまともな指摘・叙述をしているようだ。

 しかし、最後の段落の「審査会の早期始動を」の部分は、寝言に等しい。

 憲法改正の必要性を前提としてだろう、「参院の民主、自民両党幹部の協議で、委員数など審査会の運営ルールとなる『規程』の制定に民主党が応じる考えを示した」ことをもって「注目すべき動き」と捉え、両院での議論の活性化につなげるべきだとし、「日本の守りの不備をどう是正するかなどを、審査会で論議すべきだ。……/民主党は党の憲法調査会ポストを空席にしたままだ。政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」と結んでいる。

 なるほど民主党が憲法改正手続法により設置されたはずの憲法審査会の動きを前進させるようであるらしい(参院の審査会「規程」の制定に「応じる」らしい)ことは、好ましい変化なのかもしれない。

 だが、現在の国会の議席状況から見て、かりに万が一両院で憲法審査会での「議論」が始まったとしても、まともな憲法改正の方向に結実しないことは、ほぼ明らかではないのだろうか。

 民主党に「政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」と産経社説は書くが、厳密にいえば、ともかくもいかなる内容であれ憲法が改正されればよい、というものではないことは自明のことだろう。かりに万が一、政権与党が憲法改正に積極的になったとして、民主党と同様の見解の政党とともに出した結論が、現9条2項の削除ではなく、第一章・天皇条項の削除であったとしたら、社説子は歓迎するのか?

 現在の民主党政権のもとで、あるいは現在の議席配分状況からして、「戦後の絶対平和主義」から脱した、自主・自立の国家を成り立たせるための憲法改正(の発議)が不可能なことは、常識的にみてほぼ明らかではないか。

 産経新聞社説子がとりわけ現9条2項の削除・正規の「自衛軍」(防衛軍・国軍)の設置の明記を望んでいるならば、現与党による「憲法改正への主体的な取り組み」を求めても無駄だ。

 こんなことを理解していないとすれば、<能天気>であり、本当に思考力は<寝た>ままではなかろうか。

 自民党自体にいかほどに憲法改正(・現9条2項削除等)を目指す「意思」と「力」があるかは問題だ。しかし、民主党よりは「まだまし」だろう。

 喫緊の課題は、現与党・民主党に憲法改正への何らかの「期待」を寄せることではなく、民主党政権自体を「よりましな」内閣に変えることだ。それを抜きにして、望ましい方向での憲法審査会の「議論」がなされるとはとても思えない。
 産経社説は、寝惚けたことを書く前に、現内閣<打倒>をこそ正面から訴えるべきだ。

 <打倒>という表現でなくともむろんよい。<あらためて政権選択を!>とか、<政権選択のやり直しを!>とかくらいは主張したらどうか。

 と考えているところに、民主党には「政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」などと主張されたのでは、ガックリくる。

 近いことは、同じ11/03の田久保忠衛の「正論」についても言える。「憲法改正の狼煙上げる秋がきた」(タイトル)と叫ぶ?のはいいのだが、どのようにして憲法改正を実現するか、という道筋には全く言及していない。「狼煙」を上げて、そのあとどうするのか? 「憲法第9条を片手に平和を説いても日本を守れないことは護憲派にも分かっただろう」くらいのことは、誰にでも(?)書ける。
 問題は、いかにして、望ましい憲法改正を実現できる勢力をまずは国会内に作るかだ。産経新聞社説子もそうだが、そもそも両院の2/3以上の賛成がないと国民への憲法改正「発議」ができないことくらい、知っているだろう。

 いかにして2/3以上の<改憲>勢力を作るか。この問題に触れないで、ただ憲法改正を!とだけ訴えても、空しいだけだ。
 国会に2/3以上の<改憲>勢力を作るためには、まずは衆議院の民主党の圧倒的多数の現況を変えること、つまりは総選挙を早急に実施して<改憲>派議員を増やすべきではないのか?

 <保守>派の議論・主張の中には、<正しいことは言いました・書きました、しかし、残念ながら現実化しませんでした>になりそうなものも少なくないような気がする。いつかも書いたように、それでは、日本共産党が各選挙後にいつも言っていることと何ら違いはないのではないか。

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