秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

憲法制定会議

1947/R・パイプス著・ロシア革命第11章第6節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.473-p.477.
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 第6節・ボルシェヴィキのためのソヴェト大会の企て。
 (1)レーニンの切迫した意識は、かなりの程度は、憲法制定会議によって先手を打たれるのではないか、という怖れで大きくなっていた。
 8月9日、臨時政府はようやく最終的に、憲法制定会議の日程を発表した。
 選挙は、11月12日。最初の会合は、11月28日。
 ボルシェヴィキは数日間はこの会議で議席の多数派を獲得できるだろうと幻想していたが、心の裡では、かりに農民たちが確実にエスエルに投票するならばその機会はない、と分かっていた。
 ボルシェヴィキは都市と軍隊で強く、単独でソヴェト組織を握っていた。そしてボルシェヴィキの望みはただ、ソヴェトを通じて全国的な信任を勝ち得ることだった。
 さもなければ、全ては終わってしまう。
 民主主義的な選挙を通じて国家がいったんその意思を明らかにすれば、ボルシェヴィキが「民衆(people)」を代表しており、新しい政府は「資本主義者」だ、とはもはや主張できないだろう。
 したがって、ボルシェヴィキが権力を奪取するとすれば、それは憲法制定会議の前に行わなければならなかった。
 ボルシェヴィキが制御している場合にのみ、選挙での反対の結果を帳消しにすることができる。ボルシェヴィキのある出版物が、憲法制定会議の構成は「誰がそれを招集するかに大きくかかっている」と述べたように。(113)
 レーニンも同意見だった。憲法制定会議の「成功」は、クーの<あと>でのみ最もよく確保されるだろう。(114)
 事態が示すことになるように、このことは、ボルシェヴィキが選挙結果に不正に手を加えるか、そうでなければ会議を解散させるだろう、ということを意味した。
 レーニンが辞任宣告で脅かしてまで同僚たちを急がせた主要な理由は、このことにあった。//
 (2)ボルシェヴィキには、憲法制定会議を操作して自分たちに権力を譲らせるという望みはなかった。しかし、考えられ得ることとしては、彼らはこの目的をもってソヴェトを、定期的にではなく選挙され、農民たちの代表者のいない、ゆるやかな構造をもつこの装置を、利用することができた。
 このことを意識しつつ、ボルシェヴィキは、第二回ソヴェト大会の迅速な招集のための煽動活動を行い始めた。
 彼らには、事情があった。
 6月の第一回会議以降、ロシアの情勢は変化し、都市ソヴェトの構成員も変化していた。
 エスエルとメンシェヴィキは次の大会には全く熱心ではなかった。その理由の一つは、ボルシェヴィキの割合が大きくなるのを怖れたことだ。別の理由は、憲法制定会議の邪魔をすることになるだろうことだった。
 地方ソヴェトと軍隊もまた、否定的だった。
 9月の末、イスパルコムは169のソヴェトと軍委員会に対してアンケートを実施し、第二回ソヴェト大会を開催することの賛否を問うた。
 そのうち63のソヴェトが回答したが、賛成したのは8ソヴェトだけだった。(115)
 兵士たちの間の感情は、さらに消極的なものだった。
 10月1日、ペトログラード・ソヴェトの兵士部門は、ソヴェトの全国大会に反対する票決を行い、10月半ばにイスパルコムに報告書を提出した。それは、軍委員会の代議員たちは満場一致でそのような大会は「時期尚早(premature)」で、憲法制定会議の基礎を破滅させるだろう、と述べていた。(116)//
 (3)しかし、ペトログラード・ソヴェトで優勢であるボルシェヴィキは、圧力をかけ続けた。そして9月26日、イスパルコム事務局は、10月20日に第二回ソヴェト大会を招集することに同意した。(117)
 この会議の議事対象は、憲法制定会議に提出する立法草案を起草することに限定されるものとされた。
 ソヴェトの都市協議部署に対して、地方ソヴェトに代議員を派遣して招聘するよう、指令が発せられた。//
 (4)ボルシェヴィキはかくして勝利したが、ほんの第一歩にすぎなかった。
 国全体のソヴェトでのボルシェヴィキの立場は、6月よりははるかに強くなっていた。しかし、第二回ソヴェト大会で彼らが絶対多数を獲得しそうにはなかった。(118)
 第二回ソヴェト大会を自分たちの手で招集し、たいていは中央や北部ロシアにあるソヴェトかまたは多数派を占めている軍委員会のソヴェトのみをその大会に招くことによってのみ、彼らは絶対多数の獲得を確保することができる。
 今やボルシェヴィキは、このように進むこととなった。//
 (5)9月10日、ヘルシンキで、第三回フィンランド労働者・兵士ソヴェトの地方大会が開かれた。
 ここではボルシェヴィキは、堅い多数派を形成していた。
 この大会は地方委員会を設立し、この委員会は、フィンランドの民間人および軍人に対して、同委員会が同意した臨時政府の法令にのみ従うよう指令した。(120)
 このような動きが意図したのは、ボルシェヴィキが動かす似而非政府的中心機関を媒介として臨時政府の正統性を奪う(delegitimate)ことだった。
 (6)フィンランドでの成功によって、ボルシェヴィキは、全ロシア・ソヴェト大会を従順なものにして開催する同じような装置を使うことができる、と納得した。
 9月29日にボルシェヴィキ中央委員会は議論し、10月5日、ペトログラードで北部地方ソヴェト大会を開催することを決定した。(121)
 招聘状は、フィンランド陸海軍および労働者の地方委員会と自称する、ボルシェヴィキのその日限りのフロント組織の名前で発送された。
 イスパルコム事務局は、この会合は正式ではない方法で招集されている、と抗議した。(122)
 地方委員会はこれを無視し、代議員を派遣する多数派をボルシェヴィキが握っているおよそ30のソヴェトを招聘する手続を進めた。
 それらの中にはとくに、モスクワ地方の各ソヴェトがあった。北部地方の中に入ってはいなかったのだけれども。(123)
 何人かのボルシェヴィキ指導者たち、とくにレーニンは、この地方ソヴェト大会に権力のソヴェトへの移行を宣言させることを考えた、と有力に示唆するものが存在する。(124) しかし、この計画は断念された。//
 (7)北部地方ソヴェト大会は、10月11日にペトログラードで開かれた。
 この大会は、ボルシェヴィキとその同盟者である、社会革命党を跳び出た集団の左翼エスエルが、完全に支配した。
 この奇抜な「大会」では、あらゆる種類の扇動的な演説が行われた。その中には、「言葉のための時間」は過ぎたと明瞭に語った、トロツキーのものもあった。(125)
 (8)もちろんボルシェヴィキには、他の党派と同じく、全国的であれ地方的であれ、ソヴェト大会を開催する権限はない。そしてイスパルコムは、この会合は公式の立場を有しない、個々のソヴェトの「私的な集会」だと宣言した。(126)
 ボルシェヴィキは、この宣言を無視した。
 彼らは、この大会を、10月20日に集まることが決定されている第二回ソヴェト大会を直接に先駆けするものだと見なしていた。-トロツキーによると、可能ならば合法的な手段で、それが可能でないならば「革命的」方法で。(127)
 この地方ソヴェト大会の最も重要な結果は、「北部地方委員会」の設立だった。これは、11名のボルシェヴィキと6名の左翼エスエルで構成され、その任務は第二回全ロシア・ソヴェト大会の開催を「確実なものにする」こととされた。(128)
 10月16日、北部地方委員会は、連隊、分団および軍団レベルの軍委員会へとともに、各ソヴェトに対して電報を発した。それは、第二回大会がペトログラードで10月20日に開催されることを告げ、代議員を派遣するよう要請するものだった。
 大会では、休戦と農民たちへの土地の配分が達成され、かつ憲法制定会議が予定どおりに開かれることが確実にされるべきだ。
 電報は、第二回大会の招集に反対している全ソヴェトと軍委員会-これらはイスパルコムの調査から知られるように大多数だったが-に対して、ただちに「再選挙」を行うよう指示していた。「再選挙」とは、ボルシェヴィキの暗号符では、「解散」のことだった。(129)//
 (9)このボルシェヴィキの動きは、紛れもなく、ソヴェトの全国組織に対するクー・デタだった。そして、権力掌握の開幕を告げるものだった。
 このような方法でもって、ボルシェヴィキ中央委員会は、第一回ソヴェト大会がイスパルコムに付与した権限を不法に自分たちのものにした。
 これはまた、臨時政府の権能を奪うものだった。なぜなら、ボルシェヴィキがいわゆる第二回大会に設定した議事予定は、憲法制定会議が開催されるまでの政府の活動の中枢に関係していたからだ。(130)
 (10)ボルシェヴィキがしようとしていることを十分に知って、メンシェヴィキとエスエルは、第二回大会の正統性を承認するのを拒否した。
 10月19日、<イズヴェスチア>は、イスパルコム事務局のみがソヴェトの全国大会を招集する権限をもつとのイスパルコムの声明文を掲載した。
 「このような大会を開催する主導権を奪う権限や権利は、別のどの委員会にも存在しない。北部地方委員会は地方ソヴェトに関して定められた全ての規約を侵犯する、恣意的にかつでたらめに(at random)選出されたソヴェトを代表する、ということを一緒にまとめて行っているのであるから、この権利がこの北部地方大会に帰属することは、なおさらあり得ない。」
 イスパルコム事務局はさらに進んで、ボルシェヴィキによる連隊、分団および軍団の各委員会に対する招集は、代議員は軍集会で、これを開催できない場合には2万5000人ごとに1名を基礎にした軍委員会で選出された者を代議員とすると定める軍代表制に関する所定の手続を侵犯する、と述べた。(131)
 ボルシェヴィキの組織者たちは明らかに、第二回大会に反対していることを知って、軍委員会を無視していた。(132)
 三日のちに<イズヴェスチア>は、つぎのように明確に指摘した。ボルシェヴィキは不法な大会を招集しているのみならず、受容された代表制に関する規約を明らかに侵犯している。2万5000人以下の者を代表するソヴェトは全ロシア大会に代議員を送ることができず、2万5000人から5万人までの場合は2名を派遣すると定める選挙規程があるにもかかわらず、ボルシェヴィキは、500人のいるソヴェトに2名の代議員を招聘し、別の1500人のいるソヴェトには5名の派遣を求めている。これは、キエフ(Kiev)に割り当てられている数よりも多い。(133)
 (11)これらの指摘は全て、正しいことだった。
 しかし、エスエルとメンシェヴィキは、来たる第二回大会は正規に代表されていないことはむろんのこと、不法だ、と宣言したにもかかわらずなお、手続が進行するのを許した。
 10月17日、イスパルコム事務局は、二つの条件を付けて第二回大会の開催を承認した。
 第一に、第二回大会は、地方の代議員にペトログラードに到着できる時間を与えるべく、5日間、10月25日まで、延期されるべきこと。
 第二に、その議題は、憲法制定会議を準備すべく国内状況と、イスパルコムの再選出に限定されるべきこと。(134) 
 これは、驚くべき、そしてじつに不可解な屈服だった。
 ボルシェヴィキが心の裡にもつことを知っていたにもかかわらず、イスパルコムは彼らが欲するものを与えた。
 支持者とその同盟者たちで充たされた、お手盛りの(handpicked)組織〔大会〕。これが確実に、ボルシェヴィキによる権力掌握を正当化することになるだろう。
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 (112) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDRP(b)>(Moscow, 1958), p.74.
 (113) <SD>No.169(1917年9月28日), p.1.
 (114) レーニン, <PSS>XXXIV, p.403, p.405.
 (115) <Izvestiia>No.186(1917年10月1日), p.8.
 (116) <Revoliutsiia>V, p.53.; <Izvestiia>No.197(1917年10月14日), p.5.
 (117) <NZh>No.138(1917年9月27日), p.3.
 (118) Leonard Schapiro, <ソヴィエト同盟共産党>(London, 1960), p.164.
 (119) <Revoliutsiia>IV, p.197, P.214.
 (120) 同上, p.256.
 (121) <Protokoly TsK>, p.73, p.76.
 (122) <Revoliutsiia>V, p.65.
 (123) <Protokoly TsK>, p.264.; <Revoliutsiia>V, p.63.
 (124) Alexander Rabinowitch, <ボルシェヴィキの権力奪取>(New York, 1976), p.209-p.211.
 (125) <Revoliutsiia>V, p.71-p.72.
 (126) 同上, p.70-p.71.
 (127) <NZh>No.138/132(1917年9月27日), p.3.
 (128) <Revoliutsiia>V, p.78.
 (129) 同上, p.246, p.254.
 (130) 9月25-27日の政府声明を見よ。<Revoliutsiia>IV所収, p.403-6.
 (131) <Izvestiia>No.201(1917年10月19日), p.7.
 (132) 同上, No.200(1917年10月18日), p.1.
 (133) 同上, No.203(1917年10月21日), p.5.
 (134) <Revoliutsiia>V, p.109.; <NZh>No.156/150(1917年10月18日), p.3.
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 第6節は終わり。次節・第7節の目次上の表題は、<ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の奪取>。

1665/ロシア革命③-L・コワコフスキ著18章2節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 第2節の前回のつづき。
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 第2節・1917年の革命③。
 レーニンの死後に、一国社会主義をめぐる論争が勃発した。
 トロツキーとの争いで、スターリンは完全に、問題の背景を歪曲した。しかし、スターリンはおそらく、トロツキーと比べて、レーニンの考えにより忠実だった。
 問題の本質は、社会主義は様々な歴史上の理由で孤立した一国で建設されるべきかされるべきではないかではなくて、ロシアでの社会主義の建設は世界革命という根本教条に従属すべきか、それともその逆か、だった。
 この問題は、ソヴェト国家の政治にとって決定的な重要性をもつものだった。とくに、これだけではないが、その外交政策および共産主義の目標地点の設定にとって。
 トロツキーは、レーニンがロシア革命を世界革命の序曲だと、そしてソヴェト・ロシアは国際プロレタリアートの前衛だと見なしたことを示すレーニンの多数の言明を、指摘することができた。
 当然にレーニンは、この主題に関して語ってきたことを何も否認はしなかった。そして、スターリンはどちらかを明確に語ることをしなかった。その代わり、スターリンは社会主義は一国で建設され得るのか否かが問題であるかのごとく議論を誤って再提示(misrepresent)し、トロツキーはロシアの社会主義という根本教条を放棄していると示唆した。
 レーニンに関して言えば、内戦後の彼の注意力はほとんど平和的な建設の問題に奪われていたこと、そしてレーニンの最後の年月でのその政策は世界革命の指導者ではなく、国家の長としての政策だったこと、が認められなければならない。
 1920年11月29日の演説で彼がこう語った、というのは本当(true)だ。
 『我々が資本主義を全体として打倒できるほどに強くなれば、我々は資本主義の襟首をすぐさま掴むことになる。』
 (全集31巻p.441〔=日本語版全集31巻「ロシア共産党(ボ)モスクワ組織の活動分子の会合での演説」447頁。)(+)(*)
 そして、レーニンが実際にそう考えていたことは、疑いない。
 しかし、彼が『共産主義=ソヴェト+全世界の電化』 と書いたとき、明らかに西ヨーロッパのではなくロシアの電化を意味させていた。
 レーニンの態度の変更は、明示的な理論上の正当化を伴っていなかった。
 スターリンがこの点についてのレーニンの立場をトロツキーのそれと対比させようとした試みは、完全にデマゴギー的(demagogic)だった。問題は、スターリンが述べたようなレーニンの時代にあったのではないのだから。
 しかしながら、世界革命の見通しに関する評価についてスターリンはトロツキーよりも慎重だっただけではなく、ソヴェト・ロシアは革命の前衛だというレーニンの言明をより論理的に解釈してもいた。
 なぜなら、ソヴェト・ロシアが世界のプロレタリア-トの最も貴重な財産であれば、明らかに、ソヴェト国家にとって良いものは何であれ、世界のプロレタリア-トにとって良いものだからだ。
 ソヴェト国家の直接的な利益が別の国の革命運動のそれと矛盾するならば、もちろん、何をすべきかについて問題とする余地はありえないだろう。
 このような場合に、外国の革命の不確実な運命のためにソヴェトの利益を決して犠牲にはしないというスターリンの戦略は、レーニン主義の原理と合致していた。//
 レーニンがこのように行動した証拠のうち、ブレスト=リトフスク条約の歴史ほどよく示すものはない。
 若い共和国がドイツに屈辱的な降伏をしたのは、レーニンがその党やロシアのほとんど全体の激しい反対にもかかわらず、強引に押し切ったからだ。
 党の外部の愛国者にとって、民族の恥辱だった。
 ボルシェヴィキにとって、世界革命への裏切りであり、ドイツ帝国主義との分離講和は問題になりえないとしていた1917年十月以前のレーニンの頻繁な保証を撤回するものだった。
 この条約は、敗北だった。そして、レーニンは、それ以外のことを言い張ろうとはしなかった。
 レーニンには、のちにスターリンがそうだったようには、あらゆる後退を輝かしい勝利だと言い立てる習癖はなかった。
 彼は十分に、ディレンマを意識していた。党に対して説明したように、不名誉な講和をすることでボルシェヴィキを救う(力を貯める、save)か、それとも、ロシアが打ち負かされてボルシェヴィキが権力を奪われる蓋然性が高いドイツに対する革命戦争の旗を振りづけるか、このいずれかをレーニンはしなければならなかった。
 教訓は、苦いものだった。そのことは、彼の人生の残りの間に頻繁にこの条約に言及することが示している。
 しかし、最初は(ブハーリンが主な指導者の一人だった)圧倒的大多数が反対したにもかかわらず中央委員会にこれを受諾するようにレーニンが強いた行為は、のちにスターリンが従った政治の、最初の明確な例だった。 
 ソヴェトの利益とボルシェヴィキの権力は至高のものであり、決して不確実な世界革命のために危険を冒してはならないものだった。//
 革命後ほとんど直ちに、新しい権力の正統性の問題は、レーニン主義の原理に従って曖昧に解決された。
 革命の前から予定されていた憲法制定会議(Constituent Assembly)の選挙は、11月末にかけて行われた。ボルシェヴィキは、投票数のおよそ四分の一を受け取った。
 この選挙は、平等の普通選挙権(universal sufferage)にもとづいて実施された、ロシアの歴史上の唯一の例だ。また、ボルシェヴィキの人気がその頂点にあったときに、行われた。
 1918年1月18日に開かれた憲法制定会議は、武装した海兵たちによって解散させられた。かくして、ロシアの議会制民主主義の歴史は、終焉した。
 憲法制定会議の解散の前にも後にも、レーニンは何度も、これに権力を与えることは、ブルジョアジーと大土地所有者の支配に戻ることを意味する、と宣告した。
 事態で明白なのはエスエルが最大多数を獲得したことで、これは農民大衆の意向を表明していた。
 1917年12年14日の演説で、レーニンはこう言った。
 『我々は、人民(people)の利益は民主主義的な制度の利益よりも優先する、と人民に告げる。
 我々は、人民の利益を形式的(formal)な民主主義の利益に従属させる、古い偏見に逆戻りしてはならない。』(+)
 (全集26巻p.356〔=日本語版全集26巻「全ロシア中央執行委員会の会議」364頁〕。) //
 もう一度、12月26日の演説で、こう述べた。
 『「全ての権力を憲法制定会議へ」というスローガンは、労働者・農民革命が獲得したものを無視しており<中略>、実際にカデットやカレーディン派(Kaledinites)、およびその他の協力者たちのスローガンになった。<中略>
 憲法制定会議の問題を直接であれ間接であれ、ふつうのブルジョア民主主義の枠の範囲内で、かつ階級闘争と内戦を無視して、形式的、法的な観点から考察する全ての試みは、プロレタリア-トの根本教条に対する裏切りであり、ブルジョアの立場を採用するものだ。』(+)
 (同上、p.381-2〔=日本語版全集26巻「憲法制定会議についてのテーゼ」390頁・391頁。)//
 こう言うことで、レーニンは、何が人民の利益であるのかを決めるのは人民の誰のすることでもない、というその持続的な信念を、ただ繰り返している。
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 (*) この日付は旧暦とみられる。日本語版全集では、おそらく新暦で「12月6日」の演説とされているが、旧・新の日付の差とは合致しない。
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 段落の途中だが、ここで区切る。 
 ④へとつづく。

1450/ボルシェヴィズム登場①-R・パイプス著9章5節。

前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第5節・ボルシェヴィズムの出現
 〔p.358-p.361〕
 産業労働者はもともと非革命的で実際は『ブルジョア的』だ、そしてブルジョアジーは『反革命的』だ、と結論づけたレーニンには、二つの選択肢があった。
 一つは、革命を起こす考えを放棄することだ。
 しかし、先に述べた精神的な理由から、レーニンはこれを選べない。彼にとって革命は、目的のための手段ではなく、目的そのものなのだ。
 もう一つは、大衆の意思を顧慮することなく、陰謀とクー・デタによって上から、革命を実行することだ。 
 レーニンは、後者を選んだ。1917年7月に、つぎのように書くことになる。
 『…革命の時代には、「多数者の意思」を見出すことでは十分ではない。-ちがう。決定的瞬間に、決定的場所で、「より強く」なければならず、「勝利」しなければならない。
 中世ドイツの「農民戦争」に始まり…1905年まで、われわれは、よりよく組織され、より多く意識的な、より十分に武装した少数者が、その意思を多数者に押しつけて征圧してきた無数の例を知っている。』(55)
 その任務を遂行すべき党組織のモデルを、レーニンは、直接に人民の意思から採用した。
 人民の意思はその構造や活動についてきわめて秘密的だったので、今日までこのテーマの多くのことは不明瞭なままだ。(56)
 しかしレーニンは、カザンとサマラにいた間に元の人民の意思の者との会話を通じて直接に多くの知識を得ていた。  
 人民の意思は階層的な構造をもち、準軍事的な様相でもって活動した。
 その母体である土地と自由(Land and Freedom)とは違って、構成員の平等の原則を否定し、その頂点に全権力をもつ執行委員会(Executive Committee)が立つ、命令的構造に置き換えていた。
 執行委員会の構成員になるためには、綱領を無条件に承認するだけではなく、その根本教条に全身全霊で貢献することが必要だった。委員会規約はいう、『全構成員は、その全ての才能、能力、関係および共感と反感、そしてその生命すら、無条件に組織の意のままにしなければならない。」(57)
 多数の票決を経た執行委員会の決定は、全ての構成員(委員)に対する拘束力をもった。
 委員は、合議によって選出された。
 委員会を下から支えるべく、軍事委員会および地域的または従属的な支部を含む特殊な機関があった。これらは、抗弁なくして委員会の指令を実行しなければならなかった。
 執行委員会委員は全日働く(full-time)革命家であり、その多くは党が好意者から得た金で生活しなければならなかった。//
 レーニンはこの組織原理と実務を、そっくり採用した。  
 厳格な規律、職業家主義、そして階層的組織は、彼が社会民主党に注入しようと探していた全遺産だった。そして、それが叶わなかったとき、彼は自分自身のボルシェヴィキ党派にこれらを課したのだった。
 1904年にレーニンは、『革命的社会民主主義者の組織原理は、上から下へと進もうとするもので、党の中央機関に全ての部分又は支部が服従することを必要とする、と主張した。(58) -これは、人民の意思の規約に由来する表現だ。// 
 しかしながらレーニンは、二つの重要な点で、人民の意思の実務から離れた。
 第一に、人民の意思は階層的に組織されたが、個人的な指導権を許さなかった。すなわち、その執行委員会は、合議によって活動した。
 このことはボルシェヴィキの(議長はいない)中央委員会(Central Committee)の理論的な基盤でもあった。しかし、レーニンは実際には、完全に委員会の議事進行を支配し、彼の同意がなければ、ほとんど多数決すら行われなかった。
 第二に、人民の意思は、帝制から解放されたロシアの政府になるつもりはなかった。その使命は、憲法制定会議(Constituent Assembly)の開設でもって終わることになっていた。(59)
 これに対して、専制体制の打倒は、レーニンにとって、彼の党が実施する『プロレタリアート独裁』の序奏にすぎなかった。//

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 ②へとつづく。

1435/ロシア革命史年表④-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.852-p.854。/の左右に日付(月日)がある場合、左は旧暦、右は新暦。()ではない〔〕内は、秋月が補足・挿入。

 1917年〔9月以降〕
  9月10日 ボルシェヴィキ支援による第3回ソヴェト地方大会開く、フィンランドで。
  9月12日・14日 レーニン、〔ボルシェヴィキ党〕中央委員会に、権力掌握のときは熟している、と書き送る。  
  9月25日 ボルシェヴィキ、ペトログラード・ソヴェトの労働者部門で過半数を獲得。トロツキー、〔ペトログラード・〕ソヴェト議長に。
  9月26日 CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕、ボルシェヴィキの圧力のもとで、第2回全ロシア・ソヴェト大会を10月20日に開催することに同意。
  9月28日-10月8日 ドイツ軍、リガ湾の島々を占拠、ペトログラードを脅かす。
  9月29日 レーニン、権力奪取について中央委員会あて第三の手紙。
 10月 4日 臨時政府、ペトログラードからの避難を討議。 
 10月 9日 CEC、メンシェヴィキの動議により、首都防衛軍事組織の結成を票決(すみやかに、軍事革命委員会と改称)。
 10月10日 レーニン出席して、ペトログラードでボルシェヴィキ中央委員会が深夜の真剣な会議、武力による権力奪取に賛成票決する。
 10月11日 ペトログラードで、ボルシェヴィキ支援による北部地方ソヴェト大会開く。『北部地方委員会』を設立し、第2回ソヴェト大会への案内状を発行。
 10月16日 ソヴェト、軍事革命委員会(Milrevkom、ミルレヴコム)の設立を承認
 10月17日 CEC、第2回〔全ロシア〕ソヴェト大会を10月25日に延期。
 10月20日 軍事革命委員会、ペトログラード市内および近郊の軍団に『コミッサール』を派遣。
 10月21日 軍事革命委員会、各連隊委員会の会議を開く。兵団へのいかなる命令も軍事革命委員会の副書を必要とする旨を参謀部(Military Staff)に提示する無毒のような決定を裁可させようとする。要求は却下される。
 10月22日 軍事革命委員会、参謀部は『反革命的だ』と宣言。 
 10月23-24日 軍事革命委員会、参謀部と欺瞞的な交渉を継続。 
 10月24日 政府〔ケレンスキー首班の臨時政府〕に忠実な軍団、ペトログラードの要所を占拠、ボルシェヴィキの新聞社を閉鎖。ボルシェヴィキ、反対行動を起こし、ペトログラードの多くを奪い返す。
 10月24-25日の夜 ケレンスキー、前線からの助けを求める。変装したレーニン、ボルシェヴィキが支える第2回ソヴェト大会が始まろうとするスモルニュイへと進む。ボルシェヴィキ、軍事革命委員会を使って、首都を完全に征圧。
 10月25日朝 ケレンスキー、軍事支援を求めて冬宮から前線へ逃亡。レーニン、軍事革命委員会の名で、臨時政府打倒と権力のソヴェトへの移行を宣言。
 10月25日 ボルシェヴィキ、冬宮の確保に失敗。そこでは、政府の大臣が忠実な兵団による救出を待つ。トロツキー、午後に、ペトログラード・ソヴェトの緊急会議を開く。レーニン、7月4日以来初めて、外に姿を現す。ボルシェヴィキの動議により、モスクワで、軍事革命委員会を設立。
 10月26日 モスクワ軍事革命委員会の兵団、クレムリンを掌握。
 10月25-26日の夜 冬宮が落ち、諸大臣が逮捕される。ボルシェヴィキ、第2回ソヴェト大会を開会。
 10月26日夕 ソヴェト大会、レーニンの土地および講和に関する各布令を裁可。レーニンを議長(首相)とする新しい臨時政府、すなわち人民委員会議(ソヴナルコム、Sovnarkom)の形成を承認。ボルシェヴィキが支配する新しいCECを任命。
 10月27日 第2回ソヴェト大会、中断。反対派のプレス、非合法に(プレス布令)。
  10月28日 親政府の兵団、モスクワ・クレムリンを再奪取。
 10月29日 鉄道被用者組合、ボルシェヴィキに対して政府の構成政党の拡大を要求する最後通告を渡す。カーメネフ、同意。政府、ソヴェト・CECの事前の同意なくして法令を発布するつもりだと表明。政府被用者〔公務員〕組合、ストライキを宣言。
 10月30日 プルコヴォ近くで、コサックと親ボルシェヴィキ船員および赤衛軍との間の衝突。コサックが撤退。鉄道被用者組合、権力を手放すようボルシェヴィキに対して要求。
 10月31日-11月2日 モスクワで戦闘が起こり、親政府兵団の降伏で終わる。
 11月 1-2日 ボルシェヴィキ中央委員会、鉄道被用者の要求を拒否。カーメネフとその他4名のコミッサール〔人民委員〕、内閣構成の拡大の妥協に対するレーニンの拒否に抗議することを諦める。
 11月 4日 レーニン、トロツキーとソヴェト・CEC〔中央執行委員会〕の間の深刻な出会い。票決を操作することにより、ソヴナルコム〔人民委員会議=内閣〕が布令(decree)により立法(legislate)する公式権限を獲得。 
 11月 9日 ボルシェヴィキ、講和に関する布令を、政府は即時停戦に反対している同盟諸国の代表者に送る。
 11月12日 憲法制定会議(Constituent Assembly)の選挙、ペトログラードで始まる。月末まで、非占領のロシア全域で続く。社会主義革命党〔エスエル〕が最大多数票を獲得。
 11月14日 銀行従業員、金銭を求めるソヴナルコムの要求を拒否。
 11月15日 ボルシェヴィキのソヴナルコム、第1回定期会合。
 11月17日 ボルシェヴィキ兵団、国有銀行を襲い、500万ルーブルを奪う。 
 11月20日/12月3日 ブレスト・リトフスクで停戦交渉始まる。ソヴェト代表は、ヨッフェ。
 11月22日 裁判所のほとんどおよび法曹職業を廃止する布令。革命裁判所の創設。
 11月22-23日 憲法制定会議防衛同盟の設立。
 11月23日/12月6日 ロシアと中央〔中部欧州〕諸勢力、停戦で合意。
 11月26日 農民大会、開かれる、ペトログラードで。
 11月28日 憲法制定会議の座り込み〔 ?〕会合。
 12月    国家経済最高会議、創設(VSNKh)。 
 12月 4日 ボルシェヴィキと左翼エスエル〔社会主義革命党左派〕、農民大会を破壊。 
 12月 7日 チェカ(Cheka〔秘密政治警察〕)、設立。
 12月9-10日 ボルシェヴィキと左翼エスエルの協議成立。左翼エスエル、ソヴナルコムおよびチェカに加入。
 12月15日/28日 ブレスト会議、一時休止。
 12月27日/1月9日 ブレスト会議、再開。トロツキーがロシア代表団を率いる。
 12月30日/1月12日 中央〔中部欧州〕諸勢力、ラダ〔ウクライナ・ソヴェト〕をウクライナ政府として承認。
 12月後半 アレクセイエフ、コルニロフ各将軍、義勇軍(Volunteer Army)を立ち上げる。

 1918年 1月
  1月 1日 レーニンの暗殺未遂。  
  1月 5日/18日 憲法制定会議の一日会合。憲法制定会議を支持するデモ、発砲され、逃散。労働者『幹部会』、第1回会合。トロツキー、ブレストからペトログラードへ戻る。
  1月 6日 憲法制定会議、閉じられる。
  1月 8日 ボルシェヴィキが支援する第3回ソヴェト大会、開く。『労働者および被搾取大衆の権利の宣言』を採択し、ソヴェト・ロシア共和国を宣言。
  1月15日/28日 ソヴェト・ロシア、国外および国内の債務履行を拒否。
  1月28日 ラダ、ウクライナの独立を宣言。」  
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*1918年2月以降につづく。
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