秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

志位和夫

1821/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑫。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第12回
 第4章。
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 日本共産党2004年綱領「三」〔章〕の「(八)」〔節〕は、次のように述べる。
 ・「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、1917年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。//最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録されたしかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて…」。
 また、不破哲三著にそのまま依拠する志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)は以下の趣旨を記述する。「」は直接の引用。
 ・レーニンは内戦勝利によって、「世界革命は起こらなかったけれども、ロシア革命が生きていく条件」をかちとった。
 ・「新しい時期」に入って、1921年3月に「クロンシュタットで水兵の反乱」が起こり「やむなく鎮圧しなければならないという事態」が生じたりして、「ソビエト政権と農民の関係」の改善という「大問題」をつきつけられ、レーニンは「経済政策の大転換を始め」た。
 ・1921年3月に開始され、のちに「新経済政策(ネップ)」と呼ばれる政策は、「割当徴発から『穀物税』(現物税)」への移行を図るものだったが、農民に残る「余剰」部分の処理という「大問題」が生じて、それは「市場経済の大きな波に呑み込まれた」。
 ・1921年10月にレーニンは「モスクワ県党会議」での報告で、「市場経済=悪」論と「本格的に手を切る」、「本格的な転換」に踏み切った。つまり、「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」だ。
 ・レーニンはネップ期に「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいは、そういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」
 以上、p.174-8。
 なお、不破哲三らによると、この「市場経済を通じて社会主義へ」という路線は、ロシアに限らない、世界的に普遍的で不可避の<路線>だとされる。
 スターリンに対する日本共産党の悪罵は引用しないが、S・フィツパトリクの2017年版の著の試訳部分のうち、日本共産党の上の記述と最も対応する時期に関する記述は、おそらく今回試訳部分または今後の数回部分だろう。
 現在の日本共産党によるロシア革命とレーニンに関する「歴史認識」と叙述は事実・「真実」に沿っているのか、それともこの党は歴史の単純化と<政治的捏造>を平然と行っているのか。
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 第4章・ネップと革命の行く末(NEP and the Future of the Revolution)。
 (はじめに)
 ボルシェヴィキは内戦で勝利して、行政の混乱と経済の荒廃という国内問題に対処することを迫られた。
 町々は飢えて、半分空っぽだった。
 石炭生産は破滅的に落ちこみ、鉄道は止まり、産業はほとんど静止状態だった。
 農民たちは、食糧徴発(food requisitioning)にきわめて憤激していた。
 収穫のための種蒔きは落ち込み、干魃が二年続いて、ヴォルガ地帯その他の農業地域には飢餓が迫ってきた。
 1921-22年での飢饉と流行病による死者数は、第一次大戦と内戦での死傷者の総合計数を上回った。
 革命と内戦の数年間に、およそ200万の人々が国外へと亡命し、ロシアの教養あるエリートたちの多くがいなくなった。
 積極的な人口配置上の進展は、数十万人のユダヤ人たちの群れの移住だった。彼らの大多数は、首都の区画に定住していた。(1)//
 赤軍には500万人を超える男たちがいた。そして、内戦が終わるとは彼らの多くが除隊されることを意味した。
 この動員解除は、ボルシェヴィキが予想していたよりもはるかに、困難な仕事だった。すなわち、十月革命後に新体制が建設しようとしたものの多くの部分を分解することを意味した。
 赤軍は、内戦と戦時共産主義経済の時期でのボルシェヴィキの行政の脊柱部分だった。
 さらに、赤軍の兵士たちは、国の最大の「プロレタリア」の一団を成していた。
 プロレタリア-トは、ボルシェヴィキが選んだ社会的支持の基盤だった。そして、ボルシェヴィキは、現実的な目的をもってプロレタリア-トを、ロシアの労働者、兵士と海兵および貧農だと定義していた。
 今や兵士と海兵集団の大部分が、消失しようとしていた。
 そして、さらに悪いことに、除隊された兵士たちは-職を失い、飢えて、武装し、交通の遮断によって故郷から遠い場所で立ち往生し-、騒擾を引き起こした。
 1921年の初めの月々までに200万人以上が除隊して、革命のための戦闘員が一夜にして盗賊団に変わるのを、ボルシェヴィキは見た。//
 工場にいる核心的プロレタリア-トの運命もまた、同様に警戒すべきものだつた。
 工業の閉鎖、軍事徴用、行政の業務への昇格、そしてとりわけ、飢餓を理由とする都市からの逃散によって、工業労働者の数は、1917年の360万人から、1920年には150万人に減少した。
 こうした労働者の大部分は、村落へと戻った。そこには、家族がまだいて、彼らは村落共同体の一員として小土地(plots)を受け取った。
 ボルシェヴィキには、村落にいる労働者の数の多さが、あるいは滞在期間の長さが、分からなかった。
 労働者たちはおそらく農民層に吸収されてしまい、都市にはもう帰ってこないだろう。
 しかし、長期的見通しはともあれ、直近の状況は明瞭だつた。すなわち、ロシアの「独裁階級」の半分以上が消え失せたのだ。(2)//
 ボルシェヴィキは元々は、ヨーロッパのプロレタリア-トによるロシア革命に対する支援を計算に入れていた。彼らは第一次大戦の終末期にはまさに革命を起こす準備をしているように見えていたのだ。
 しかし、ヨーロッパでの戦後の革命運動は弱体化し、ソヴィエト体制は、永続的な同盟者だと見なし得るようなヨーロッパでの仲間を全くもたずして、取り残された。
 レーニンは、外国からの支援がない状況ではボルシェヴィキがロシア農民層からの支持を獲得することが致命的に重要だ、と結論づけた。
 だが、食糧徴発と戦時共産主義のもとでの市場の崩壊によって農民たちは離反しており、いくつかの地域では彼らは公然たる反乱を起こした。
 ウクライナでは、Nestor Makhno(マフノ)が率いる農民軍がボルシェヴィキと戦っていた。
 ロシア中心部の重要な農業地域であるタンボフ(Tambov)では、農民の反乱が起こり、5万人の赤軍兵団の派遣によってようやく鎮圧された。(3)//
 新体制に対する最悪の衝撃は、1921年3月にやって来た。その月、ペテログラードで労働者のストライキが勃発した後で、近郊のクロンシュタット(Kronstadt)海軍基地の海兵たちが反乱を起こした。(4)
 クロンシュタット海兵たち(Kronstadters)は、1917年七月事件の英雄で、また十月革命のときのボルシェヴィキの支援者であって、ボルシェヴィキの神話からするとほとんど伝説的な人物群になっていた。
 彼らは今は、ボルシェヴィキの革命を否認し、「人民委員の恣意的な支配」を非難し、労働者と農民の真の(true)ソヴェト共和国の建設を呼びかけた。  
 クロンシュタット蜂起が起きたのは、〔ボルシェヴィキ/共産党〕第10回党大会が開催中のことだった。そしてかなりの数の代議員たちは、蜂起と戦って鎮圧するために突如として赤軍とチェカ兵団の先鋭部隊に加わるべく、退場しなければならなかった。
 この事態はほとんど劇的なものではなかったし、ボルシェヴィキの意識の中にさほど強く刻み込まれたわけではなかった。
 ソヴィエトの新聞は、蜂起はエミグレ(亡命者)たちが引き起こし、見知らぬ白軍将校たちが指導した、と主張した。不愉快な真実を隠そうとする最初の重要な努力だったと思える。
 しかし、第10回党大会で広まった噂は、違うことを告げていた。//
 クロンシュタット蜂起は、労働者階級とボルシェヴィキ党の間の、進む途の象徴的な別離であるように見えた。
 労働者は裏切られたと考えた者たち、党が労働者に裏切られたと感じた者たち、いずれにとっても悲劇だった。
 ソヴィエト体制は初めて、その銃砲を、革命的プロレタリア-トに対して向けた。
 さらに、クロンシュタットの悪夢はほとんど同時に、革命にとってのもう一つの厄災とともに生じていた。
 モスクワのコミンテルン指導者によって励まされたドイツ共産党は、革命の蜂起を試み、惨めな失敗を喫した。
 その敗北は、最も楽観的なボルシェヴィキですらがヨーロッパ革命は接近しているという望みを打ち砕かれることを意味した。
 ロシア革命は、自分だけの支援なき努力でもって、生き延びていかなければならないことになった。//
 クロンシュタットとタンボフの反乱は政治的不満はもちろんのこと経済的なそれによっても火を注がれていて、戦時共産主義政策に代わる新しい経済政策の必要性を痛感させた。
 1921年春に採択された最初の一歩は、農民の生産物の徴発を終わらせ、現物税〔食糧税〕を導入することだった。
 これが実際に意味したのは、国家は農民が手放せる全ての物ではなくて一定の割合で奪う、ということだった(のちに1920年代前半に通貨が再び安定した後ではいっそう、現物税は在来的な金銭税になった)。//
 食糧税は農民に市場に出せるかなりの余剰を生むと想定されたがゆえに、つぎの論理上の歩みは、合法的な私的取引の再復活を許して、繁茂しているブラック市場を閉鎖しようとすることだった。
 レーニンは、1921年春、取引の合法化に強く反対していた。共産主義の原理を否認するものだと考えたからだ。しかし、最終的には私的取引の自然の復活(しばしば地方当局は是認した)がボルシェヴィキ指導部に対する既成事実(fait accompli)となり、指導部も受け容れた。
 こうした歩みが、頭文字をとってNEP(ネップ)として知られる新しい経済政策の始まりだった。(5)
 これは絶望的な経済情況に対する即興的な反応であり、元々は党とその指導部によってほとんど議論されることなく(またほとんど明確な反対もなく)採用された。
 経済に対する影響の良さは、急速でありかつ劇的だった。//
 経済の変化は、さらに続いた。遡及して「戦時共産主義」と称され始めた諸制度が、全般的に放棄されるに至ったのだ。
 産業については、完全な国有化への動きは放棄され、私的部門の再構築が許された。大規模工業と融資業を含む経済の「管制高地」の支配権は国家が維持したけれども。
 外国の投資者が、工業や鉱山企業および開発プロジェクトに関する免許(concessions)を取得するようにと招かれた。
 財務人民委員部と国有銀行は、かつての「ブルジョア」財務専門家の助言に注意を払い始めた。彼らは、通貨の安定と政府および公共部門の支出の制限を求めた。
 中央政府の予算は厳しく削減され、徴税による国家歳入を増大させる努力がなされた。
 以前は無料だった学校教育や医療は、今や個々の利用者が対価を支払うことになった。
 老人の年金や療養給付および失業給付を利用することは、拠出金の基盤にかかわることとして制限された。//
 共産主義者の観点からすれば、ネップは退却(retreat)であり、失敗を部分的に認めることだった。
 多くの共産主義者は、大きな幻滅を感じた。すなわち、革命はほとんど何も変えなかったように見えた。
 1918年以降の首都でありコミンテルン司令部の所在地であるモスクワは、ネップの最初の年月に再び活力に充ちた都市になった。外見的な印象だけではまだ1913年のモスクワだったけれども。農民女性が市場でジャガ芋を売り、教会の鐘や髭を生やした僧侶が信者たちを呼び集め、街頭や駅舎では娼婦、乞食やスリが活動し、ナイトクラブではジプシー歌が流れ、制服姿のドアマンが紳士たちへとその帽子を取り、劇場に行く者は毛皮をまとって絹の靴下を履いていた。
 このモスクワでは、皮ジャケットの共産党員たちは物憂げな外部者のように見え、赤軍退役者は職業安定所の行列に並んでいそうだった。
 クレムリンやホテル・ルクセにばらばらに集まった革命のリーダーたちは、不吉な予感をもって革命の行く末に向かいあっていた。//
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 (1) 1912年と1926年の間に、モスクワとレニングラードのユダヤ人の人口は4倍以上に増大した。そして、同様の規模の増加がウクライナの諸首都、キエフやハルコフ(Kharkov)でもあった。Slezkine, <ユダヤ人の世紀>, p.216-8 を見よ。
 (2) 消失しつつある労働者階級につき、D. Koenker, <ロシア革命と内戦時の都市化と脱都市化>, D. Koenker, W. Rosenberg & R. Sunny, eds, <ロシア内戦時の党、国家および社会>所収、およびS・フィツパトリク「ボルシェヴィズムのディレンマ-党の政治と文化における階級問題」S・フィツパトリク・<文化の前線>(Ithaca, NY, 1992)所収、を見よ。
 (3) Oliver H. Radkey, <ソヴェト・ロシアの知られざる内戦>(Stanford, CA, 1976), P.263.
 (4) Paul A. Avrich, <クロンシュタット>(Princeton, NJ, 1970)およびIsrael Getzler, <クロンシュタット・1917-1921年>(Cambridge, 1983)を見よ。
 (5) ネップにつき、Lewis H. Siegelbaum, <革命の間のソヴェト国家と社会-1918-1929年>(Cambridge, 1992)を見よ。
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 第1節・退却という紀律(The disciplin of retreat)。
 レーニンは、こう語った。ネップという戦略的退却は、絶望的な経済状態と革命がすでに勝ち得ていた勝利を確固たるものにする必要性によって強いられた、と。
 その目的は、疲弊した経済を回復させ、非プロレタリア国民の不安を鎮静化することだった。
 ネップは、農民層、知識人層および都市の小ブルジョアに対する譲歩を意味した。すなわち、経済や社会的、文化的生活に対する統制の緩和、社会全体に対する共産主義者の対処の仕方のうちにあった実力的強制の要素を宥和に代えること。
 しかし、レーニンには完全に明白なのは、この緩和は政治的分野にまで及ぼすべきではない、ということだった。
 共産党の内部では、「紀律に対するきわめて微少な抵触であっても、厳しく、断固として、容赦なく罰せられなければならない」。彼は、以下のように述べた。//
 『軍隊が退却するときには、それが前進しているときの百倍もの紀律が必要だ。前進している間は、誰もが押し合って前にかけて行くからだ。
 誰もが今、急いで後退し始めるならば、災厄の発生はすぐでかつ不可避的になるだろう。<中略>
 本物の軍隊が退却するときは、機関銃を据えつける。そして、秩序立った退却が無秩序な退却になってしまうときには、銃を撃てとの命令がくだされる。そしてそれも、全く正当なことだ。』
 その他の政党に関しては、彼らの見解を公的に発表する自由は、内戦の間以上に厳しくすら制限されなければならない。とくに、ボルシェヴィキの新しい立場は自分たちのものであるように主張しようとするならば。
 『あるメンシェヴィキが「諸君はいま退却している。私はこれまでいつも退却を主張してきた。私は諸君に同意する。私は諸君の仲間だ。一緒に退却しよう」と言うならば、我々は答えてこう言う。
 「メンシェヴィズムを公然と表明する者には、我々の革命裁判所は死刑の判決を下さなければならない。もしそうでなければ、革命裁判所は我々の裁判所ではなく、神が知るようなもの〔訳の分からないもの〕だ」、と。』(6)//
 ネップの導入に伴って、メンシェヴィキ党中央委員会委員の全員を含めて、数千人のメンシェヴィキ党員が逮捕された。
 1922年には、エスエルの右翼派が国家反逆罪で公開の審問にかけられた。
 そのうちのある範囲の者たちには、死刑判決が下された。死刑判決は実施されなかったように思われるけれども。
 1922年と1923年、数百人の著名なカデット党員とメンシェヴィキ党員が、ソヴェト共和国から出国することを強いられた。
 統治する共産党(今でも通常はボルシェヴィキと呼ばれた)以外の全ての政党が、この時点以降、事実上は非合法のものになった。//
 現実的なまたは潜在的な政治的反対派を粉砕しようとのレーニンの意欲は、1922年3月19日の政治局あて秘密書簡でもって、衝撃を受けるほどに明らかにされている。その文書で彼は、飢饉によって提供された正教会の力を破壊する機会を同僚たちが利用することを強く要求した。
 『飢餓にある地域の人民が人肉(human flesh)を食べ、数千でなければ数百の死体が道路上に散乱しているときに、わけわれが著しく苛酷で容赦なき力を注いで教会〔ロシア正教〕財産の剥奪を実行することができる(ゆえに、そうしなれればならない)のは、まさしく今、そして今のみなのだ。』
 飢饉からの救済という助けを借りて教会財産を収奪する〔そして名目上は飢えた人々に分ける〕運動(campaign)によって暴力的示威活動が刺激されて生じたシュヤ(Shuya, Shuia)について、レーニンはこう結論した。『巨大な数の』地方聖職者とブルジョアたちは逮捕されて、裁判にかけられなければならない、そしてその裁判はこう終わる必要がある、と。//
 『シュヤにいる巨大な数の最も影響力があり最も危険な黒の百人組を、銃撃隊が射殺する以外の方法で終わってはならない。
 その都市だけでもモスクワを含む都市やその他のいくつかの聖職者の中心地だけでもなく、…反動的な聖職者や反動的なブルジョアジーの代表者たちをその理由によって処刑することを我々がより多く達成すればするほど、それだけ結構なことだ。
 我々は今すぐ、これらの者たちに教訓を与えて、この数十年間は、いかなる抵抗も敢えてしようとはせず、かつまたそれを思い付くことすらしないようにしなければならない。』(7)//
 同時に、共産党<内部>の紀律の問題が、再検討されていた。
 ボルシェヴィキはもちろん、つねに党の紀律を重視してきていた。それは、レーニンの1902年の冊子<何をなすべきか>にまで溯る。
 ボルシェヴィキたちは全員が、民主集中制の原理を受け入れた。その原理は、党員は政策決定に至るまでは自由に議論することができるが、党大会または中央委員会で一たび最終的な票決がなされればその決定を受容するよう拘束される、というものだった。
 しかし、民主集中制原理それ自体は、内部的な議論に関する党の慣例を明瞭に決定するものではなかった。-どの程度の議論が許容され、どの程度厳しく党指導者たちを批判することができ、その批判は特定の論点に関する「分派」または圧力集団を組織してよいのか、等々。//
 1917年以前では、多くの実際的目的はあったが、党内論争はボルシェヴィキ知識人層の中のエミグレ集団の内部での論争を意味した。
 レーニンが圧倒的な地位を占めたために、ボルシェヴィキのエミグレたちは、メンシェヴィキやエスエルのそれよりもはるかに一体的で均質的だった。これらの者たちには、それぞれの個々の指導者と政治的帰属意識をもつ多数の小集団で群れをなす傾向があった。
 レーニンは、ボルシェヴィキの中でそのようなものが形成されることに強く抵抗した。
 もう一人の有力なボルシェヴィキの人物だった Aleksandr Bogdanov (ボグダノフ)は、1905年後の亡命者たちの中に彼の哲学的および文化的考え方を支持する弟子たちの集団を作り始めたが、そのときレーニンは、ボグダノフと彼の集団がボルシェヴィキ党から離脱するように強いた。その集団は現実には、政治的分派も党内反対派も形成してはいなかったけれども。//
 二月革命後に、状況は急激に変化した。以前よりも多様な党指導者たちの中にエミグレと地下のボルシェヴィキの一団が出現し、全党員たちに大きな影響を与え始めた。
 1917年、ボルシェヴィキは党の紀律よりも革命の波に乗ることを重視した。
 党内の多くの党員とグループは、十月の前でも後でも、重要な政策上の論点についてレーニンに同意しなかった。そして、レーニンの意見がつねに優勢であるのではなかった。
 ある範囲のグループは、半永続的な党内集団を固めていた。それらの基本的主張が、中央委員会または党大会の多数派によって拒否されたあとでもなお。
 少数派集団(多くは旧ボルシェヴィキの知識人で成る)はふつうは、1917年以前ならばしたように党を離れることはなかった。
 彼らの党は今や、事実上の一党国家で権力を有していた。そのゆえに、党を離れることは政治生活をすべて止めてしまうことを意味した。//
 しかしながら、、このような変化にもかかわらず、党の紀律と組織に関するレーニンの理論的な前提命題は、内戦が終わるまでなおもボルシェヴィキのイデオロギーだった。そのことは、モスクワに本拠をおく新しい国際的共産主義者組織であるコミンテルンをボルシェヴィキがどう操縦したか、からも明白だった。
 1920年に第2回コミンテルン大会がコミンテルンへの加入条件を討議したとき、ボルシェヴィキ指導者たちは明らかに1917年以前のロシアのボルシェヴィキ党をモデルにした条件を課すよう強く主張した。このことが大きくて人気があったイタリア社会党を排除し、ヨーロッパでの再生社会主義インターの対抗者としてのコミンテルンを弱くするものであったとしても(イタリア社会党は、その右派および中央派集団を追放しないでコミンテルンに加入するのを望んでいた)。
 コミンテルンが採択した加入のための「21条件」は、事実上、つぎのことを要求するものだった。すなわち、コミンテルンを構成する諸党は高い使命感をもつ革命家のみを党員とする極左の少数派であるべきで、残るその党が「改良主義」の中心部や右派から明瞭に分かれる(1903年でのボルシェヴィキとメンシェヴィキの分裂と同様の)分裂によって形成されることが望ましかった。
 一体性、紀律、非妥協性および革命的職業人主義は、敵対者がいる環境の中で活動する全ての共産党の本質的な性格だった。//
 もちろん、これと同じ考え方がボルシェヴィキ自体にそのまま適用されたわけではなかった。ボルシェヴィキはすでに権力を掌握していたからだ。
 一党国家での支配党は、第一に、大衆政党にならなければならない。第二に、多様な意見に適応し、それらを組織化すらしなければならない。
 これは実際に、1917年以降のボルシェヴィキ党に生じたことだった。
 党内集団が特定の政策的論点に関して党指導層の中で発展し、(民主集中制原理に反して)最終の票決後ですら存在を保ち続けた。
 1920年までに、労働組合の地位に関する当時の論争に関与した党内諸集団は、巧く組織された集団となり、矛盾し合う政策基盤を提示したのみならず、第10回党大会に先立つ議論と代議員選挙の間には地方の党委員会の支持を得るための働きかけ活動(lobby)も行った。
 言い換えると、ボルシェヴィキ党は、それ自身の範型の「議会制」政治を発展させていた。党内集団が、複数政党システムでの政党の役割を果たしていたのだ。//
 西側ののちの歴史研究者-そして、リベラルな民主主義の価値観もつ外部からの観察者の-立場からは、これは明らかに称賛されてよい進展であり、良い方向への変化だった。
 しかし、ボルシェヴィキは、リベラルな民主主義者ではなかった。
 ボルシェヴィキの党員たちの中には、党が分解していて、目的をもつ一体性と方向意識を喪失しているのではないかという相当の懸念があった。
 レーニンは確実に、党内政治の新しい様式を是認しなかった。
 第一に、労働組合論争-内戦後にボルシェヴィキが直面している重大で切迫した問題に比べて全く末梢的な論争-によって、莫大な量の指導者たちの時間とエネルギーが奪われた。
 第二に、党内集団は、明らかに、党におけるレーニンの個人的な指導力に挑戦している。
 労働組合論争での一つの党内集団を率いたのは、トロツキーだった。彼は、比較的に新しい入党だったにもかかわらず、レーニンに次ぐ党内の大物だった。
 別の党内集団である「労働者反対派」は、Aleksandr Shlyapnikov (シュリャプニコフ)に率いられて、労働者階級党員との特別の関係を強く主張した。この主張は、レーニンが率いるエミグレ知識人層から成る指導部の古い中核部分には、潜在的にはきわめて有害なものだった。//
 かくしてレーニンは、党にある党内集団(factions, 分派)と分派主義を破滅させることを開始した。
 これをするためにレーニンが用いた戦術は、分派的(factional)であるのみならず完全に陰謀的なものだった。
 Molotov (モロトフ)とレーニン派の若きアメリカ人党員の Anastas Mikoyan(ミコヤン)はのちに、1921年初めの第10回党大会に際して作戦を開始したレーニンの熱意と思い入れを描写した。その作戦とは、レーニン支持者の秘密会合を開き、反対分派に言質を与えている大きな地方の代議員を分裂させ、中央委員会の選挙で否決されるべき反対派の者たちの名簿を作成する、といったものだった。
 レーニンは、こっそりとビラを撒くために「タイプライターや手動印刷機をもつ、地下にいる古き共産主義者同志」を呼び込もうとすら欲した。-この秘密のビラ配布という考えは、分派主義だと解釈されうるという理由でスターリンが反対した。(8)
 (こうしたことは、レーニンがかつての陰謀的な習癖へと立ち戻った初期のソヴィエト時代だけのことではなかった。
 モロトフが内戦の暗鬱な時期だと思い起こしたのは、レーニンが指導者たちを召集して、ソヴィエト体制の崩壊が近づいていると告げた、ということだった。
 出所が虚偽の文書と秘密の住所録がその指導者たちに用意されていた。その文書には「党は地下に潜るだろう』とあった。(9))//
 レーニンは第10回党大会で、トロツキー派と労働者反対派を打ち負かした。そして、新しい中央委員会でのレーニン派の多数派を確保し、トロツキー派の二人の中央委員会書記局員に代えてレーニン派のモロトフを指名した。
 しかし、これで全てでは、決してなかった。
 党内集団の指導者たちを突然に驚かせた動議をレーニン派集団が提案して、第10回党大会は、「党の一体性(統一)について」という決議を承認した。それは、現存している党内集団に解散を命令し、党内部での全ての分派活動をそれ以上することを禁止するものだった。//
 レーニンは、党内集団(分派)の禁止は一時的なものだと述べた。
 これは正直なものだった、と想像できるかもしれない。しかし、分派の禁止が党で承認されないことが分かった場合の逃げ道を自分のためにたんに用意していたにすぎない、ということの方がありえそうだ。
 実際に生じたように、そのようなことではなかった。すなわち、党全体が、一体性(統一、団結)のために党内集団(分派)を消滅させるつもりであるように見えた。おそらくは、党内分派は一般党員にまで深く根づいておらず、多くの党員にはそれは知識人である<先進党員(frondeurs)>の特権だと考えられていたがゆえに。//
 「党の一体性」決議は、頑固な分派主義者を党が除名し、分派主義という罪を犯したと判断する被選出委員を中央委員会が排除することを認める秘密条項を含んでいた。
 しかし、党政治局はこの条項をかなり疑っていた。そして、レーニンが生存中は、これは形式的には発動されなかった。
 しかしながら、1921年秋、レーニンが主導して、大規模な党の粛清〔purge, =党員再審査〕が行われた。
 これが意味したのは、党員であり続けるために、全党員が粛清委員会の前に出廷して革命家としての適性を正当化し、必要があれば批判から自分を防御しなければならない、ということだった。
 この1921年の党粛清について言われた主要な目的は、「出世主義者」や「階級敵」を見つけ出して排除することだった。つまり、形式上は、敗北した党内集団の支持者だった者に向けられてはいなかった。
 レーニンは、それにもかかわらず、「ほんの僅かでも疑念があり信用を措けない全てのロシア共産党員は、…排除されるべきだ」(すなわち、党から除名(expell)されるべきだ)ということを強調した。
 T. H. Rigby が論評するように、無価値で不用だと判断された全党員のほとんど25パーセントの中に反対集団の者たちはいなかった、と信じるのは困難だ。(10)//
 この粛清で、著名な反対派の者は党から除名されなかった。その一方で、1920-21年の反対派党内集団の一員たちは、全員が制裁を免れたのではなかった。
 この当時にレーニン派の一人が長だった中央委員会書記局には、党組織員の任命と配置の職責があった。
 そして、モスクワから遠方に囲い込む指示書にもとづいて多くの労働者反対派の者たちを派遣するに至り、そうして、指導者層内の政治に積極的に関与するのを事実上排除した。
 指導部の一体性を確保するためのこのような「行政的手法」は、のちにスターリンが、1922年に党の総書記(General Secretary)(すなわち、中央委員会書記局の長)になった後で、大いに発展させた。
 研究者たちはしばしば、これをソヴィエト共産党における党内民主主義の本当の弔鐘(死滅の標し)だと見なしてきた。
 しかし、これはレーニンが創始し、第10回大会での闘争から発生した実務だった。そのとき、レーニンはまだ主人たる戦略家であり、スターリンとモロトフはレーニンの忠実な子分(henchmen)だった。//
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 (6) レーニン「第11回党大会に対する中央委員会の政治報告」(1922年3月), レーニン・<全集>(Moscow, 1966), 33巻p.282。
 (7) Richard Pipes, ed., <知られざるレーニン>, Catherine A. Fitzpatrick訳(New Haven, 1996), p.152-4.
 (8) A. I. Mikoyan, <Mysli i vospominaniya o Lenine>(Moscow, 1970), p.139.
 (9) <モロトフは回顧する>, Resis 訳, p.100.
 (10) Rigby, <共産党の党員>, p.96-100, p.98.
 地方レベルでの1921年党粛清に関する生々しい再現として、F. Gladkov, <セメント>, A. S. Arthur & C. Ashleigh 訳(New York, 1989), Ch. 16.を見よ。
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 *上の注(6)に関する試訳者・秋月の注記。これは日本語版全集33巻「ロシア共産党(ボ)第11回大会/ロシア共産党中央委員会の政治報告/3月27日」p.287に邦訳があり、これを参照しつつ、ある程度は変更した。
 また、これの上の箇所(注番号はない)の原文引用部分は、レーニン・日本語版全集同巻「同」p.286を参照して訳した。但し、ある程度は内容が異なると思えるので、日本語版全集上掲p.286頁の訳をそのまま以下に引用して紹介しておく。
 「攻撃のばあいには、規律がまもられないでも、みなが押し合って、まえにかけて行く。退却のばあいには、規律は自覚的なものになければならず、百倍もの規律が必要である。というのは、全軍が退却するときには、<中略>。このばあいには、わずかの狼狽の声があげられただけで、全員が潰走することさえ、ときどきある。<一文、略>本物の軍隊でこういう退却がおこると、機関銃をすえつける。そして、正常な退却が無秩序な退却になっていくと、『撃て!』との命令がくだされる。そして、これは正当である。」以上。
 **上の注(7)の<秘密書簡>部分は、R・パイプス著の方から逆に接近して、この欄の2017年4月1日付・№1479「レーニンの極秘文書。日本共産党・不破哲三らの大ウソ32」ですでに訳出している。今回は、訳をある程度、変更した。
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 第4章(ネップと革命の行く末)のうち、「はじめに」と第一節(退却という紀律)が終わり。
 なお、「退却」=retreat は後退・譲歩とも訳される。しかし、レーニンらは<軍事用語>に模して使っているので、より軍事・戦闘用語的な「退却」が適切だろう。

1506/日本共産党の大ペテン・大ウソ34-<ネップ>期考察01。

○ 志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)p.173-4はこう書く。
 レーニンの1918年夏~1920年の経済政策は「戦時共産主義」と呼ばれ、農民から「余剰穀物のすべてを割当徴発する」ものだった。レーニンが「この戦時の非常措置」を「共産主義」への「直接移行」と「勘違いして位置づけ」たことから、「農民との矛盾が広がってい」った。
 レーニンが「共産主義」への「直接移行」と観念していたことはそのとおりだろうが、しかし、「勘違いして位置づけ」た、という表現の中に、日本共産党(幹部会)委員長・志位和夫の人間的な感情は、認められない。
 この「勘違い」によって、のちに1921年秋にレーニン自身が「生の現実はわれわれが過っていたこと(mistake, Fehler)を示した」と明言した<失敗>によって、いかほどの人間が犠牲になったのか。
 ○ 志位和夫は<戦時共産主義>という言葉を使い、多くの歴史書もこの概念を使っている。
 おそらくは、スターリン時代におけるソ連・ロシアの公式的歴史叙述によって、レーニン時代をおおよそこの<戦時共産主義>時代と<ネップ=新経済政策>時代に分けるということが定着して、そのまま現在にまで続いているようにも思われる。
 最近にほんの少し触れたように、<戦時共産主義>という語は、志位が「この戦時の非常措置」と書いているように、<戦時>のやむをえない措置だったかのように誤解させる。
 また、<戦時>とはまるで第一次大戦とその後の勝利諸国による対ロシア<干渉戦争>を意味するかのように誤解されうる。
 日本共産党は、そのように理解したい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。
 しかし、ロシアが第一次大戦から離脱したのは1918年3月の「中央諸国(ドイツ等)」との間のブレスト・リトフスク条約によってだ。また、1918年~1919年に戦闘終結とベルサイユ講和条約締結があった。
 そこで、日本共産党によると、英仏らによる<干渉戦争>と闘った、と言いたい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。しかし、大戦終結と英仏らの対ドイツ等との講和まで、およびその後のほんの数年間、英仏らが新生?ロシアと「戦争」をすべき理由がいかほどあっただろうか。
 たしかに、ボルシェヴィキ「赤軍」に対する「白軍」への物的・資金的援助はあったのだろう。だが、今のところの知識によれば、戦争といっても、対ロシアについては、英国軍が北方のムルマンスクまで来たということと、日本がいわゆる<シベリア出兵>をしたといった程度で、いかほどに<干渉戦争>という「戦争」に値する戦闘があったのかは疑わしい。日本軍は地方軍または「独立共和国」軍と戦闘したのだろうが、モスクワ・中央政府とその軍にとっては「極東」の遠いことだったのではないかとの印象がある(それよりも<東部>での農民反乱等の方に緊迫感があったのではないか)。
 誰もが一致しているだろうように、<戦時共産主義>とは、ロシアの「内戦」という「戦時」のことをさしあたりは意味している。「内戦」とは civil war, Buergerkrieg で(直訳すると「市民(・国民)戦争」で)、まさに「戦争」の一種なのだ。ボルシェヴィキの政府と軍は、国民・民衆と戦争をしていた。
 しかしさらに、<内戦>中の「非常措置」(志位和夫)という理解の仕方すら、相当に政治的な色彩を帯びている、と考えられる。
 後掲のL・コワコフスキの1970年代の書物も、<戦時共産主義>という語はmislead する(誤解を招く、誤導する)ものだと述べている。
 ○ 既述のように、秋月の今のところの理解では、10月「革命」後のレーニン・共産党(ボルシェヴィキ)の経済政策は、マルクスの文献に従った、かつレーニンがそれに依って具体的に1917年半ばに『国家と革命』で教条化した<共産主義>そのものだった。当時の「非常措置」だったのではない。
 そうして、レーニン・共産党による<ネップ>導入は、じつはマルクス主義又は共産主義理論自体の「敗北」を示していた、と考えられる。たんなる暫定的な「退却(retreat)」ではない。
 レーニンが病床にあって、大いに苦悩したというのも不思議ではないだろう。
 ○ 文献実証的に( ?)、1919年半ばにレーニンは何と主張していたかを、日本共産党も推奨するに違いないレーニン全集第29巻(大月書店、1958/1990第31刷)から引用する。
 まず、<校外教育第一回ロシア大会-1919.05.6-19>。
 「マルクスを読んだものならだれでも」、「マルクスが、その全生涯と…の大部分を、まさに自由、平等、多数者の意思を嘲笑することに、…ささげたこと」、こうした嘲笑の対象となる「空文句の裏には、商品所有者が勤労大衆を抑圧するためにつかう、商品所有者の自由、資本の自由の利益があるということの証明」に「ささげたことを知っている」。
 「全世界で、あるいはたとえ一国においてでも、…時機に、また資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅するための被抑圧階級の闘争が前面に現れているような歴史的時機に」、「その自由のためにプロレタリアートの独裁に反対する」者は、「そういう人は、まさに搾取者をたすけるものにほかならない」。p.350。
 後掲のL・コワコフスキの著によると、「資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅する」こととは、英文では、<the complete overthrow of capital and the abolition of commodity production >だ。「commodity production 」の、goods ではない「commodity」=「商品」は、「必需物」・「有用物」という含意もある。
 ともあれ、レーニンはこのとき、マルクスによりつつ「資本」の完全打倒と「商品生産」の完全絶滅を正しいものとして、目標に掲げていた。
 つぎに、<工場委員会、労働組合、…での食糧事情と軍事情勢についての演説-1919.7.30>。
 食糧政策・問題について、「真の勤労大衆の代表者、…人々、彼らは、ここでの問題が、どんな妥協をもゆるさない、資本主義との最後の決戦であることを知っている」。
 「われわれは、ほんとうに資本主義とたたかっており、資本主義がわれわれにどのような譲歩を強いようとも、…やはり資本主義と搾取に反対してたたかいつづけるのだ、と言う」。コルチャコフやデニーキン〔ボルシェヴィキと闘う「白軍」等の指導者-秋月〕などの「彼らを元気づけている力、それは資本主義の力であるが、この力は、…、穀物や商品の自由な売買にもとづくものだ」。「穀物が国内で自由に販売されているなら、こうした事態がつまり資本主義を生み出す主要な源泉であって、この源泉がまた…共和国の破滅の原因であったということを、われわれは知っている。いま資本主義と自由な売買にたいする最後の決闘がおこなわれており、われわれにとってはいま資本主義と社会主義とのもっとも主要な戦闘がおこなわれている」。p.538-9。
 ここでレーニンは、明確に、「穀物や商品の自由な売買」に反対することこそ社会主義の資本主義に対する闘いだと、「最後の決闘」とまで表現して、無限定に、つまり例外を設けることなど全くなく一般的に語っている。
 これら二点等について、以下を参照した。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (仏語1976、英語1978、〔マルクス主義の主要な動向〕), p.741-3。
 ○ むろん引用し切れないが、上の二つともに、レーニンは長々と、得々と喋り、同僚又は支持者たちに向けて力強く(?)演説している。
 日本共産党・志位和夫が言うように、後になって「…と勘違いして位置づけ」た、で済ませることができるだろうか。
 <ネップ>とはつまり、部分的にせよ、「商品生産」を、「穀物や商品の自由な売買」を正面から認めることとなる政策だったのだ。
 こんなふうに<転換>が語られるとすれば、それまでの農業政策等によって辛苦を舐めた農民たち、犠牲者等はやり切れないだろう(しかも、新政策がすみやかに施行又は「現実化」されたわけでもない)。
 ネップ導入は政策表明上の、つまるところ、レーニンによる「敗北」宣言だった。
 では、ネップという新政策導入時期に、<市場経済を通じて社会主義へ>という基本方針を、レーニンは確立したのかどうか。
 ずいぶんと前この欄でに設定したこの問題については、まだ本格的には立ち入っていない。あせる必要はない。現今の<時局>・<時流>のテーマではない。

1500/日本共産党こそ主敵だ。反共産主義の「自由と孤独」。

 ○ 一年近く前に日本共産党こそ主敵という旨の文章を書いたが、二つの注記を付しておこう。
 第一に、日本共産党は日本の共産主義者の代表者又は代表的組織という意味であり、その他の共産主義的団体・組織又は個人を批判の対象から外しているわけではない。
 したがって、日本共産党の現在の路線(不破哲三・志位和夫体制)には反対だが、マルクスの理想あるいは論述だけは支持するという団体・組織に対しても、批判的立場にある。
 もっとも、そのような団体・組織はほとんどないかもしれない。
 というのは、ロシア「革命」・レーニンに対して(そしてたぶんスターリンにも)批判的だが、マルクス(・エンゲルス)だけは信じる、という団体・組織があるのか、疑わしいからだ。
 ある・いるとすれば、現実にあった「ソ連」社会主義はレーニンも含めて拙劣で悲劇的だったが、マルクス(・エンゲルス)の資本主義分析や将来展望だけは、正しくかつ「理想」だと思っている個人だろう。
 「左翼的」研究者・学者たちには、<雰囲気>だけでも、あるいは<頭の中>だけでも、そう思っている、または思いたい人々が、日本にはある程度存在しているように思える。この人たちも頭の中は「左翼」で、選挙での投票行動は<反自民党>である可能性が高い。
 つぎに、マルクス(・エンゲルス)は信じる、つまりマルクス主義を信奉しつつ、ロシア「革命」とその主導者・レーニンをロシアにそれを適用し現実化したものとして基本的には擁護する、そして一方で、スターリン以降のソ連・社会主義は支持せず、ソ連解体の原因をマルクス主義やレーニン・ロシア「革命」に内在するものとは見ない、という見地もある。このような見地にも、反対だ。
 これは、日本共産党の見地でもある。
 また、日本共産党のみならず、スターリンを批判する、スターリンから社会主義の道を踏み外したと見る点では日本共産党と同じだが、日本共産党をスターリニストの党として批判する、その他の反日本共産党の共産主義者たちにも、賛同することができない。
 このような組織・団体があることは知っている。有名なもの以外にも、いくつかあるようだ。
 この組織・団体や所属する人たちのことを日本共産党は、今でもきっと「トロツキスト」と呼んでいるのだろう。
 日本共産党は、スターリンはダメで、トロツキーがレーニンの継承者であればよかった、などとは一言も主張していない。また、同党には、理論上・論理上、あるいは歴史的にみて、そのように主張する資格はない。
 では、ロシア「革命」とレーニンを基本的に擁護する考えは日本共産党と「トロツキスト」以外にないかというとそうではなく、トロツキーを支持するわけでもスターリンを支持するわけでもなく、レーニン主義を継承する又は支持する、日本共産党=不破・志位以外の組織・団体以外の組織・団体あるいは個人もありうる。
 このような組織・個人も、日本にあるはずだ。彼らもなお「左翼」・容共主義者だろう。
 さらにいうと、日本共産党からの決裂、または同党との訣別の時期によって、すでに宮本顕治・不破哲三時代から(およそ1990年頃までに)この立場になった人々もいるだろうし、とりわけ1991年のソ連解体やそれへの同党の反応を知って、不破哲三体制ないし不破哲三・志位和夫体制時に分かれた人々もいるかもしれない。
 いろいろと推測できるが、固有名詞の列挙、個人名の特定はしないし、たぶん正確にはできない。
 反日本共産党と言っても、私がこれらの人々あるいは組織・団体に親しみを覚えているわけでも全くない。
 その他、反日本共産党だが、何となく「左翼」で自民党には絶対に(又は候補者が他にいないようなやむをえない場合を除いて)投票しないという人々も多いに違いない。
 非・反日本共産党で、かつ非・反自民党=反「保守」というのは、人文社会系の学者・研究者または大学の世界では、最も<安全な>立場だと見られ、イデオロギー・思想・信条とかとは関係なく、人間関係から、又は世すぎ・処世の手段として、この立場にいる者たちも多いように見える。
 しかし、この人たちは「主敵」ではないだろう。「左翼」であっても、じつは融通無碍な人々だ。
 もっとも、非・反日本共産党で、かつ非・反自民党=反「保守」と表向きは装いながら、じつは日本共産党の党員だったり、同党の熱烈な支持者だったりすることはある、と推測される。
 日本共産党・党員やその熱烈支持者は、こういう<偽装>を平気ですることができる人たちだ。目的のためならば、手段を選ばない。反・非日本共産党な言辞を吐くことくらいは平気でする、と想定しておいた方がよいように思われる。
 以上で書いたようなことは、じつは、大まかには1920年代ロシアの<ネップ>の評価・論じ方にも関係があるようだ。この回では触れない。
 第二に、日本共産党が当面に、社会主義・共産主義社会の実現を課題とはしていないことは承知しているし、同党を支持する国民たちが(場合によっては党員たちですら)社会主義・共産主義社会の展望を支持しているわけでもないことも、承知している。
 そのような意味で、日本共産党は主敵だと主張しているわけではない。
 問題は、長期的には<社会主義・共産主義の社会>を目指すと綱領に明記する政党に600万人ほどの有権者が投票していることだ。すなわち、<民主主義>でも<反戦・平和>でも<護憲>でも何であれ、「共産主義」を標榜する政党に、それだけ多くの日本国民が<ついていっている>ということだ。
 むろん、彼ら全員が社会主義・共産主義を目指しているわけではないし、同党員の中にすら、そのあたりは曖昧にしつつ、人間関係や処世の手段として入党した者も少なくないかもしれない。
 問題はいつまで<従っていくか>、日本共産党側からいえばどこまで<連れていくか>であって、そのあたりは慎重にかつ警戒しながら、日本共産党は政策立案やその表明をしている。憲法問題、天皇・皇室問題、「平和」問題、等々。
 ○ あえて再び指摘しなければならないのは、日本共産党の存在とその獲得票数や所属議員数から見ても、共産主義は決して日本で消滅していない、ということだ。
 支持者や党員の全員が社会主義・共産主義の「正しさ」を信じていないにしても、日本共産党それ自体は、指導部がそうであるように、日本の共産主義者の組織・団体だ。
 日本の共産主義について、「ネオ共産主義」(中西輝政)とか「共産主義の変形物」(水島総)を語る論者もいるが、そんな限定や形容句をつける必要なく、共産主義と共産主義者は立派に存在している。
 共産主義とは何かという「理論的・学者的」議論をしても、意味がない。
 自分で考える「共産主義」とは離れているから日本共産党は大丈夫だなどと、警戒感を解いてはならない。「正しい」、又は「真正」の共産主義(・マルクス主義)は、「保守」についても同じだが、誰も判断することができないはずのものだ(むろん、したい人は一生懸命に議論し、研究すればよい)。
 某「ほとんど発狂している」論者は、中国は「市場経済」を導入した、日本での共産主義の夢は滅びた、という旨を書いていたが、そのようなタワ言に影響されてはならない。
 明確であるのは、日本共産党・不破哲三らは<市場経済を通じて社会主義へ>の途を目指すと明言し、かつ、現在の中国(共産チャイナ)とベトナムを(あくまで今のところと慎重に言葉を選びつつ)<市場経済を通じて社会主義へ>と進んでいる国家と見なしていることだ。
 日中両共産党は1998年に「友党関係」を回復し、日本共産党・不破哲三もまた、中国共産党が<国際社会主義運動>の一員であることを肯定している。
 中国と中国共産党は、日本共産党にとっての<仲間>なのだ。
 しきりと中国や中国共産党を批判する人々が、なぜ批判の矢を、日本共産党にも向けないのか
 なぜ、反共を一応は謳う<保守>系月刊雑誌には、日本共産党に関する情報がほとんど掲載されないのか。
 日本共産党の影響は、じつはかなりの程度、<保守>的世界を含むマス・メディア、出版業界にも浸透している、と感じている。
 冷静で理性的な批判的感覚の矛先を、日本共産党・共産主義には向けないように、別の方向へと(別の方向とは正反対の方向を意味しない)流し込もうとする、巨大なかつ手の込んだ仕掛けが存在する、又は形成されつつある、と秋月瑛二は感じている。
 いく度も、このようなことを書かなければならない。

1493/食糧徴発廃止からネップへ②-R・パイプス別著8章6節。

 前回のつづき。
 なお、不破哲三・レーニンと「資本論」第7巻(新日本出版社、2001)p.118-p.125は、レーニンは1921年10月29日-31日の「第7回モスクワ県党会議」での報告によって、「市場経済を容認し、それと正面から取り組みながら、社会主義への道を探求するというこの方針」に到達したと述べ、かつまた「この報告」は「『新経済政策』の展開の歩みのなかで、その後の歴史にてらしても、もっとも重大な、文字通り画期的な意義をもつものだった」と記す。
 志位和夫・綱領解説第2巻(新日本出版社、2003)p.177-もこれに追随する。志位によると、ネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」のだが(p.179)、つぎのようにも書く。
 レーニンは、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「本格的な転換」に踏み切った。新たに転換した路線とは「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」だ(p.177-8)。
 レーニンの上記報告の全文(邦訳)は、以下。
 レーニン全集第33巻(大月書店、1978年第26刷)p.70~p.98/「第七回モスクワ県党会議」。
 前回部分もそうだが、この日付や会議名にも留意してR・パイプス著を継続して読むと、興趣を少しはそそられるかもしれない。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発の廃止とネップへの移行② 〔p.391~p.393〕
 新政策を表明する際に、レーニンは、その政治的意義を強調した。
 農民が人口の大多数を構成するロシアでは、農民から支持を受けないで効果的に統治することはできない。
 カーメネフは内部的な連絡文書で、この政策の第一の目標として『農民層への政治的平穏性の導入』を挙げた(次いで、作付け面積の増加の奨励)。(87)
 従来は階級敵と見なされていた農民層は、これ以来、同盟者だと扱われた。
 レーニンは今や、以前は拒否していたこと、西ヨーロッパーの多くの国とは違ってロシアでは、農村住民の多数は被雇用者でも土地賃借耕作者〔小作人〕でもなく、独立した小規模生産者だ、ということを承認した。(88)
 確かに、上の最後の者は、『プチ・ブルジョアジー』だった。そして、彼らに対する譲歩は、レーニンによると、遺憾な退却(retreat)だが、一時的な(temporary)なものだった。
 レーニンは、『経済上の息つぎ(breathing spell)』だと正当化した。
 ブハーリンとD・B・リャザノフは一方、『農民とのブレスト〔-・リトフスク講和条約〕』だと語った。(89)
 この『息つぎ(breathing spell)』がどのくらい長く続くかについては、何も語られなかった。だがレーニンはある箇所で、農民を変えるのには数世代(generations)かかるだろうことを認めている。(90)
 このような又はその他のレーニンのこの問題についての言葉は、レーニンの究極の目標は集団化であるままだが、スターリンがしたように早くにはそれを開始しなかっただろう、ということを示唆している。//
 1921年4月についてすでに触れたように、新しい政策によって農民世帯は、穀物、馬鈴薯、油用種子について規準の税を課された。
 翌年に、他の農産物がリストに加えられた。すなわち、卵、乳製品、毛織物、タバコ、干し草、果物、蜂蜜、獣肉、および生皮。(91)
 穀物税〔現物税〕の大きさは、赤軍、工業労働者および非農業集団の最小限の必需によって決定された。
 村落ソヴェトの裁量に委ねられた割当額の決定は、規模、自由に使用できる耕作適地の広さ、および地域の穀物生産高に応じて決定される、個々の農民世帯の納入能力と相応したものでなければならなかった。
 布令は、農民に生産増加を促すために、税の規準として、実際に耕作されている土地ではなく耕作がなされる可能性のある土地、つまり全耕作適地の広さを用いた。
 国家への義務を果たす『集団責任』(krugovaia otvetstvennost')の原理は、放棄された。(92)//
 最初の現物税は、2400万Pud〔単位、1トン=ほぼ6 Pud?〕が設定された。これは、1921年に徴収されたよりも600万少なく、1921年について従前に設定された< Prodrazverstka >〔余剰食糧徴発制〕の上限のわずか41%だった。
 政府は、物々交換原理のもとで、農民に工業製品を余剰穀物と交換してもらうことで、不足を埋め合わせることを望んだ。
 これによって、追加して1600万Pud がもたらされるはずだった。(93)
 これらの望みは、何一つ叶えられなかった。主要な穀物生産地帯を1921年春に厳しい干魃が襲ったからだ。
 被害を受けた地域はほとんど何も生まなかったので、徴収できた税は、上記の2400万Pud ではなく、1280万Pud にすぎなかった。(94)
 誰も、どの穀物についても、提案された物々交換をしなかった。交換取引をする工業製品がなかったからだ。//
 新しい政策は直ちには改善につながらなかったけれども-実際に最初は徴集した食糧は < Prodrazverstka >よりも少なかった-、長期的にはきわめて大きい利益になるという共産主義者の思考方法に関して、重要な前進点を画した。
 農民層をたんに収奪の対象として扱うかつての実務とは対照的に、現物税、あるいは< prodnalog >は、農民層の利益も考慮に入れた。//
 新しい農業政策の経済上の利益は、直ちには明らかにならなかった。しかし一方で、政治上の報償は、すぐに与えられた。
 食糧徴発制の廃止は、反乱という帆船隊の帆を根こそぎ吹き飛ばした。
 レーニンは、翌年に、以前は農民蜂起が『ロシアの一般的な絵画を決定』したが、その蜂起はほとんど終わった、と誇ることができた。(*)//
 現物税を導入したとき、ボルシェヴィキ〔共産党〕は、それの影響・効果について何も考えていなかった。無傷で国家経済の中央集中管理を維持することを、意図していたからだ。
 商取引と工場制工業に対する国家独占を放棄することは、ボルシェヴィキが最も望んでいないことだった。
 ボルシェヴィキは、物々交換で農民に工業製品を与えて、穀物の余剰分を吸い上げようと十分に期待していた。
 しかしながら、この期待が非現実的で、その結果としてつぎのことをボルシェヴィキに強いるものであることが、すみやかに明らかになった。すなわち、かつてより野心的な改革を少しずつ実行して、社会主義と資本主義の独特な合成物をついには生み出すことを強いられる、ということだ。両者のこの独特な合成物(hybrid)は、新経済政策(NEP, New Economic Policy)として知られる。(この言葉は、1921-22年の間の冬に初めて一般的になった。)(95)
 現物税は必然的に、自由に処分できる余剰生産物の部分で、農民層に商取引をする権利を認めることを意味した。
 (そうでなければ、農民の生産高を増加させる心的動機としてはほとんど何の影響力も持たないので、自由処分可能な余剰を手放すことは、ただ名目上の譲歩にしかならないだろう。)
 このことは反面では、農業生産についての市場の再生、農業と工業を結びつける不可欠の結節点であり貨幣の循環が甦る領域である市場関係の再建、を意味した。(96)
 < prodnalog >〔現物税〕は、かくして不可避的に、まず最初に、穀物とその他の食糧についての私的取引を復活する途へと誘い込んだ。
 これが生じたとき、穀物取引についての国家独占という要塞を放棄して明け渡すくらいなら、全員を殺させる方がよいとレーニンが誓約したのち、ほとんど15週間も経っていなかった。(97)
 さらに、公認の価値という客体に支えられる安定した通貨制度をもつ、伝来的な貨幣実務が回復することも、意味した。
 また加えて、農民は代わりに工業製品を取得できるときにのみ自分の余剰分を引き渡すので、工業に対する国家独占を放棄することをも意味した。
 これが必要としたのは、また反面では、消費者をもつ工業の相当部分の私営化(privatizing)だった。
 このようにして、国土に広がる共産党に対する蜂起を鎮静化させるために企図された緊急措置は、最後の出口には資本主義とその帰結である『ブルジョア民主主義』の復活が待っている、予め地図に描いていなかった水路へと、共産党の者たちを導いた。(**)//
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  (87) RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 9。
  (88) レーニン, PSS, XLIII〔第43巻〕, p.57-58。
  (89) 同上, p.69-70。Desiatyi S" ezd, p.224, p.468。
  (90) レーニン, PSS, XLIII〔第43巻〕, p.60-61。
  (91) 1921年4月21日の布令, SUiR, No. 38 (1921年5月11日), p.205-8。E. B. Genkina, 新経済政策のソヴェト政府の布令〔?露語〕1921-22 (1954), p. 123-124。
  (92) SUiR, No. 26 (1921年4月11日), 第147条, p. 153。
  (93) E・H・カー, ボルシェヴィキ革命, Ⅱ (1952), P. 283-4。
  (94) Genkina, Perekhod, p. 302。
  (*) レーニン, Sochineniia, XXVII〔第27巻〕, P. 347。この文章の文言は、次とは異なる。最新版の、レーニン選集(PSS, XLV, p. 285)。
  (95) <省略、露語>
  (96) Maurice Dobb, 1917年以降のソヴェト経済の展開 (1948), p. 131。
  (97) レーニン, XXXIX〔第39巻〕, p.407。Iu. Poliakov, <省略>を見よ。
  (**) 『戦時共産主義』は即興的なものだったが、ネップは計画された、とふつうは考えられているけれども、現実は、反対方向にあった。
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 ③につづく。

1429/日本共産党の「大ウソ」31 -池田嘉郎・ロシア革命(岩波新書)。

 一 日本共産党の現在の綱領は、「10月社会主義革命」によってロシアは資本主義を離脱して社会主義への道を切り拓いたが、スターリンの誤りによって道を踏み外し、ソ連は社会主義国ではなくなった、とか書いている(はずだ)。
 また、同党幹部会委員長・志位和夫は、党員向け研修で、上に加えて、ロシア「革命」後にレーニンらは外国からの干渉(干渉戦争)に耐え抜き、<クロンシュタットの反乱>を「やむなく」鎮圧したのち、レーニンは本格的に社会主義への道の具体化を(実践の中で)思考しはじめ、<ネップ>政策への変更時に「市場経済を通じて社会主義へ」という路線を明確に打ち立てた。しかし、レーニンの死によってこれは十分には実現せず、かつ後継者・スターリンによってこの道は葬り去られて、1930年代半ばにはソ連は社会主義をめざす国(社会主義国)ではなくなった、と講義している。
 記憶によって書いたが、以上二つは大きくは誤っていないだろう。それぞれ、昨年のこの欄に直接の引用によって紹介・記載している。
 二 志位和夫・不破哲三・レーニン(全集)の本を並べて、文献実証的に ?、不破哲三のレーニン理解は誤っている、レーニン全集の当該文献・論文は不破哲三のようには全く解されない、ということを書く直前のところまで進んでいた。
 「日本共産党・不破哲三には<何もなかった>」ということを示すのはこの回も先送りして(自信がないのでは全くなく、結論は出ている。不破文献やレーニン全集の該当頁を示しつつきちんと書くのが億劫なだけだ)、日本共産党が根本の前提にしている「ロシア革命」による社会主義への道への出発、つまりロシア「社会主義革命」は歴史を「進める」、人類にとつて良きものだった、という前提がそもそも「誤っている」 ということについて、記しておきたい。
 三 レーニンまたはロシア「革命」関係の文献を和洋とわず渉猟して、一瞥または一読して感じた、予想よりも異なる感想は、「ロシア革命」を肯定的・積極的に評価する文献は、とくに1990年以降は、ほとんどない、ということだった。
 ほとんどは、レーニンとスターリンを連続的なものと見ている(全く同じでは勿論なく、同方向にあったと見ている)。
 レーニンとスターリンをあえて区別して、異質なものと考えているように読める、そして「ロシア革命」とレーニンだけは批判していないと読める学者・研究者は、つぎの三名のみ。日本共産党自身の文献はむろん除く。
 すなわち、藤田勇、渓内謙、笹倉秀夫
 これらの人の文献にはまだ全くかほとんど言及していない。藤田勇は、1970年代のマルクス主義法学講座(日本評論社)の編集委員の一人だった。一部言及した笹倉秀夫は、長く民主主義科学者協会(民科)法律部会の理事を務めている。
 あらためて論及することがあるだろう。老人となってしまった前の二人の近年の言述は、もはや哀れを誘うほどだ。
 また、日本共産党のように、レーニンが<市場経済から社会主義への道>という路線を明確にした、と書いているのは、ほとんどか全くか、日本共産党の幹部たちしかいない。
 不破哲三、志位和夫、聴濤弘。
 もう一人、(日本平和学会員とか書いてあった)学者らしき者が同党の教条的公式の敷衍のような文献を刊行していたが、その本は現在手元からなくなっている(判明次第にこの欄で明らかにする)。
 つまり、レーニンによる<市場経済から社会主義への道>という路線の明確化というのは、ロシアまたはソ連の歴史に関する大学・学界(アカデミズム)ではまったく相手にされていない、と見られる。
 これは喜ばしい、予想はずれだった。日本近現代史をほとんど講座派系マルクス主義学者に占められていると感じていたので、歴史学全体が、ソ連・ロシア史も含めてやはり日本共産党の影響が強いのかと思っていた。
 四 池田嘉郎・ロシア革命-破局の8か月(岩波新書、2017)も、ロシア・ソ連史分野の現在のアカデミズムの状況を反映している、と考えられる。ロシア「10月革命」は、何ら美しくは描かれていない。
 但し、全9章のうち最後の9章だけが「10月革命」であとは二月革命とその前史なので、「10月革命」の叙述は詳しいものではない。
 だが、日本共産党の文献・綱領のごとくこれを賛美するものではないことは全く明らかだ。
 「10月革命」の叙述については、不満も含めて別に感想も記すが、R・パイプスの本も通じてある程度は知識があるので、一気に難なく読めた。
 ここでは、池田のつぎの文章部分だけを引用・紹介しておきたい。「はじめに」から。
 「社会主義者のなかの急進派、ボルシェヴィキ」は、「民衆と臨時政府」のあいだの「裂け目」に食い込み、「指導者レーニン」は「ロシアで直ちに社会主義の実現に着手するという途方もない目標」を掲げた。
 「世界大戦」が示すように「資本主義体制は滅びの淵」にある。臨時政府を打倒し、戦争から抜け出し、「ヨーロッパ革命とひとつとなって、…あたらしいロシアをつくりだそう」-「この力強い、そして、根本において誤っていた展望に促されて起こったのが、十月革命である」。
 池田の「民衆」概念とその分析、レーニンの個性、つまりその<狂信>・強固な<理論・観念>、への言及、がほとんどないこと、あるいは、マルクス主義・共産主義「理論」への論及もほとんどない(「マルクス」は索引にもない)ことなど、コメントしたいことも多い。しかし、日本共産党の歴史叙述とはまるで異なることは、一目瞭然だ。
 日本共産党や同党員は、冷静に上のような学者の見解を読む<勇気>あるいは<人間らしさ>を持っているかどうか。

1412/日本共産党の大ウソ30-志位和夫綱領解説02。

 志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)のうち、不破哲三の研究に依拠するという<ネップ>に関する叙述、つまりネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」(「」はp.179より引用)ということについての叙述を、要約・部分引用しながら紹介する。
 ・レーニンの1918年夏~1920年の経済政策は「戦時共産主義」と呼ばれ、農民から「余剰穀物のすべてを割当徴発する」ものだった。レーニンが「この戦時の非常措置」を「共産主義」への「直接移行」と「勘違いして位置づけ」たことから、「農民との矛盾が広がってい」った。(p.173-4)
 志位(したがって不破)によれば、レーニンが「深い試行錯誤から抜け出し」「国際情勢の変化」を「的確に見定めた」ことは、1920年11月の「ロシア共産党モスクワ県会議」での「わが国の内外情勢と党の任務」と題する演説で示された。レーニン全集31巻415頁に掲載されており、つぎのような文章を含む。
 ・「われわれがロシアの反革命の企てをみな粉砕し、西欧のあらゆる国々と正式の講話締結をかちとった」ことから、「われわれが息つぎを獲得」しただけではなく、資本主義諸国の包囲の中で「われわれの基本的な存立をかちとった新しい一時期を獲得した」ことが明らかだ。
 これを含むレーニン演説を、志位(不破)はつぎのように理解・解釈する。
 ・レーニンは、ロシア革命の勝利のためには「国際的勝利」(=秋月によると「世界革命」、つまり全欧州レベルでの「社会主義革命」の勃発と勝利)が必要と考えていたが、戦争の結果はそれをもたらさなかったけれども、資本主義諸国の包囲の中で「ソビエト・ロシアが存立していく条件」は闘いとった。「世界革命は起こらなかったけれども、ロシア革命が生きていく条件」をかちとった、という「新しい一時期」になった。
 以上、p.174-5。志位(不破)は、そのあとすぐに続けてこう書く。
 ・「新しい時期」に入ったと「見定めた以上、方針も変えることが求められ」る。レーニンは「やがて」、「多くの分野で」の「路線転換の仕事に取り組むようにな」る。
 志位によると、不破著/レーニン第7巻は、レーニンは上の1920年11月の「転換」を「契機にして」、「レーニンの理論活動が"夜明け"を迎えた」と書いている、らしい(別途確認はする)。
 さて、以下がネップに関する叙述だ。
 ・1921年3月の「クロンシュタットで水兵の反乱」が起こり「やむなく鎮圧しなければならないという事態」が生じ、そういうもとで「ソビエト政権と農民の関係」の改善という「大問題」をつきつけられて、レーニンは「経済政策の大転換を始め」る。
 ・1921年3月に開始され5月ぐらいからその政策は「新経済政策(ネップ)」と呼ばれるようになる。まずは、「割当徴発から『穀物税』(現物税)」への移行。/「現物税」を払っても農民に残る「余剰」部分は「大きくなるはず」だった。
 ・だが、「余剰」部分はどう処理するのかという「大問題」が生じる。レーニンは最初は「市場経済とたたかいながら生産物を交換」するという方式を考えたが「うまくい」かず、余剰の処理・生産物交換は「市場経済の大きな波に呑み込まれた」。
 ・上の「経験をふまえて」レーニンは、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「本格的な転換」に踏み切った。以上、p.177-8。
 志位によると、この報告による「新しい現実に直面」してのその転換した新しい「路線」の内容は、つぎのようなもので、「市場経済=悪」論と「本格的に手を切る」ものだった、という。
 ・「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」。
 そして、志位は、この会議での「討論」(レーニン全集収載)にも見られるように反対・不満も多かったが、レーニンは「懇切ていねいに説得的に」反論し、「市場経済を認めることが絶対に必要不可欠であることを明らかにし」た、とする。
 以上のあとで、すでに今回の冒頭で記したように、志位は、ネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」とする。
 以下(次回以降)で、不破哲三文献やレーニン全集そのものに立ち入る。
 また、前回に紹介したのは、クロンシュタットの「反乱」の前に発生していたタブロフ県地方での<農民反乱>中の(それを鎮圧するための、レーニンも許容したとみられる)トゥハチェフスキーらの「命令(指令)」の内容だが(この反乱自体に志位和夫の綱領解説は言及していない)、1920年の秋から約一年間のレーニン・ロシア共産党(ボルシェヴィキ)、そしてロシアに関する情勢あるいは諸事実にも、併せて言及する(なぜなら、不破哲三と志位和夫は具体的にロシアで生起した諸事情・事件等々の「現実」を「認識」したうえで書いているのか、という大きな疑問があるからだ)。
 1920-21年というのは、日本の大正9年-10年。
 不十分だが、年表的なものを掲載する。のちに補充していく。
 1917年8月/ケレンスキー臨時政府、憲法制定会議の選挙・招集予定を発表。
 1917年9月/レーニンがフィンランドから「蜂起」=「権力奪取」を促す手紙。
 1917年10月/ロシア10月「革命」。
 1918年2月/ブレスト・リトフスク条約でドイツと停戦。
 1918年3月/社会民主労働党・ボルシェヴィキ派から「ロシア共産党」へと名称変更。
 同/ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国憲法発布。
 1918年5月/チェコ軍団反乱。成人男子を兵役招集、「赤軍」の始まり。
 1918年8月/ブレスト・リトフスク条約の補足条約締結。
 1918年11月/トイツ降伏により第二次大戦終結。
 1919年3月/コミンテルン(国際共産主義者同盟)結成。
 1919年春~/コルチャーク、デニーキンらの攻撃、「白軍」との戦闘(内戦)。
 1920年1月/ベルサイユ条約発効・国際連盟成立。
 1920年2月/ドイツで「国家社会主義労働者」党(ナツィス党)発足(改称)。
 1920年4月/ロシア・ポーランド戦争始まる。
 1920年8月 ?/タンボフの農民「反乱」始まる。
 1921年2月/クロンシュタットの「反乱」始まる。
 1921年3月/クロンシュタットの「反乱」鎮圧される。。
 同/ロシア共産党(10回党大会 ?)がネップ政策導入を決定。
 同/ロシア・ポーランド間でリガ条約。
 1921年6月 ?/タンボフの農民「反乱」鎮圧される。
 1921年7月/モンゴル「革命」。
 同/中国共産党創立。
 1921年10月/レーニン、<戦時共産主義>につき、「誤り」を認める。
 1921年12月/ワシントン会議による4カ国条約。日英同盟廃棄。
 1922年2月/チェカ廃止。同様の機能の「ゲ・ペ・ウ」発足。
 1922年3月/ロシア共産党第11回党大会。
 1922年7月/日本共産党結成=コミンテルン日本支部。
 1922年12月/ソヴィエト社会主義共和国連邦結成。

1405/日本共産党の大ウソ28-志位和夫綱領解説。

 一 日本共産党2004年綱領について現在の幹部会委員長・志位和夫が三巻本の<綱領教室>を出している。ソ連、とくにレーニンに関する部分は綱領第3章第8節の中にあり(但し節番号は最初からの通し)、その部分についての志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)のp.167-188を、以下適宜引用しつつ読む。
 前回にも言及した<戦時共産主義からネップへの移行>について志位は「不破さんの研究に依拠しつつ、…」と明記しているので、当該箇所は不破哲三の<レーニンと資本論>の該当部分も同時に読むことになる。
 二 p.170まではたいした内容がない。「教室」=幹部 ?研修講義のための概述と年表だけ。
 つづく、つぎの文章は、さっそく驚かせる。いずれも、p.171。
 「十月社会主義革命が巨大な世界史的意義をもつ出来事であったことは、政治的・思想的立場の違う人であっても、今日でも揺るがない評価だと思います」。
 「人類最初に社会主義への道に踏み出したロシア革命は、一時のものではなく、それ自体が、世界史に今日も続く持続的な影響を、与え続けている」。//ソ連という国は崩壊したが、「にもかかわらず、十月社会主義革命が、世界史に与えた影響が、過去のものになってしまったわけでは」ない。
 まず気づくのは、「たとえば」として論拠として出す文献が、E・H・カーの本一冊(岩波現代選書)だけだ、ということだ。
 この本は1989-91年以前の本にしてはロシア革命史(ネップ期を含む、1917-1929)を要領よくまとめているとは思うが、日本語版・原書ともに何と1979年、ソ連崩壊前のものだ。とりわけソ連崩壊後の諸資料、諸研究文献を見ているはずがない。
 第二は、「十月社会主義革命」(かつて日本共産党は<社会主義大革命>と「大」を付けていたかもしれない)とか「人類最初に社会主義への道に踏み出したロシア革命」とかいう捉え方自体に問題があるし、疑問視されなければならず、かつ実際にも、疑問視されている。
 「政治的・思想的立場の違う人であっても」認めている、という言い方は不当であり、デマだ。
 例証をいちいち挙げない。「社会主義」革命性自体を、かつまたマルクスの言説またはマルクス主義の正当な(ロシアにおける)帰結だったか、もまた、疑問としなければならないと思われる。少なくとも問題になりうるということは、認めなければならない。
 しかし、日本共産党幹部・志位和夫はこれを認めることができない。なぜなら、日本共産党自体がロシア革命の成功を前提とする(レーニンが最高指導者時代の)第三インター(コミンテルン)の結成によってこそ誕生しているからだ。
 したがって、日本共産党は、1922年創立をその歴史の出発点とするかぎりは、そして、そうした政党として存在するかぎり、絶対にレーニンだけは(ロシア「社会主義」革命とともに)「救う」必要があるのだ。したがってまた、ロシア革命についての歴史観・歴史認識は、大きな<政治的>粉飾にまみれたものになってしまう。
 第三に、なるほど1917年10月にペテルブルクで起きたことは、「世界史に今日も続く持続的な影響を、与え続けている」と言える。また、その「世界史に与えた影響が、過去のものになってしまったわけでは」ない。しかし、これはもちろん、否定的・消極的意味においてであって、志位和夫の言い分とは真反対だ。
 フランスのF・フュレも、ロシア革命がなければドイツ・ファシズムはなく、第二次大戦はなかった、と言った。これらに比べれば低い蓋然性ではあるが(戦後の)<冷戦>もなかった、と言った。
 それだけの影響を与えた、と私も断言したい。
 マルクスが「社会主義」への必然性を言葉の上で唱えていただけならばよかった。レーニンら、ロシア共産党は、「社会主義革命」を現実に行ったと宣言し、<理論(・言葉)の現実化>に成功した、とされた。多くの世界中の人々がそれを「信じて」しまい、逆にマルクス主義の「正しさ」を立証した、ということになってしまった。
 これは、20世紀の初頭の、実に悲痛な現実だった、と思う。
 日本でも<マルクス主義(またはマルクス・レーニン主義)に染まらないとインテリではない>とか言われ、戦前の帝国大学学生を含む知的階層に巨大な影響を与えた。その影響は戦後および今日まで(日本には)残っている。
 北一輝は「純正社会主義」をタイトルにした本を書き、「私有財産」を厳しく制限する<日本改造法案>を著した。これらは、マルクスやレーニンの本を一部は読んでいたこと、後者はロシア革命の報に着目したことを示しているだろう。最近に北一輝の上の本も見たが、マルクスとかレーニンの名が出てくる。
 この北一輝の本が二・二六事件の農民出身兵士たちに「理論的」影響を与えた、というのだから、あくまで一例だが、レーニンとロシア革命は日本史の現実をも変えてしまった、と言える。むろん、不破哲三や志位和夫の人生も大きく変えてしまった(気の毒に)。
 三 上の部分のあとの志位の叙述は、「レーニンが指導した最初の段階」での「真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力」の話になる。

1388/日本共産党の大ウソ25-日本共産党とレーニン。

 一 日本共産党2004年綱領(23回党大会採択)は、「1917年にロシアで起こった十月社会主義革命」なるものの存在とその肯定的評価を当然の前提として、こう書く。
 ・「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、…、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、…、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。」 
 ・「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。」
 ・「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、…にもかかわらず、…をともないながら、真剣に社会主義をめざす積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、…、国内的には、…、の道を選んだ。……、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、…重大であった」。
 この「市場経済を通じて社会主義へ」論は1994年(20回党大会)綱領では語られていないし、その際の不破哲三報告も、「ネップ(新経済政策)」に言及しつつも、上のようがな定式化をしているわけではない。
 だが、現綱領では「レーニンが指導した最初の段階」での「真剣に社会主義をめざす積極的努力」としか明記されていないが、不破哲三や志位和夫の文献を読めば明かなのは、レーニンによる「ネップ(新経済政策)」導入の肯定的評価と「市場経済を通じて社会主義へ」論が結合していること、端的には、レーニンこそが(「ネップ(新経済政策)」導入を通じて)「市場経済を通じて社会主義へ」という<新>路線を明確にした、この「正しい」路線をスターリンが覆した、と日本共産党は理解していることだ。
 かつまた、現綱領も日本共産党の基本的方針として明記しているように、「市場経済を通じて社会主義へ」という路線は、ロシアにかぎらないすべての国にあてはまる社会主義国建設の方法の少なくとも一つとして、レーニンが「ネップ(新経済政策)」期に明らかにした、と日本共産党は理解していることも重要だ。
 これらについてはあらためて、不破哲三、志位和夫等(他にもいる)の文献に即して引用、紹介しなければならない。
二 前回に述べたように、佐藤経明・現代の社会主義経済(岩波新書、1975)が「1921年春のネップへの転換」について、「主として現実政治上の考慮から」もしくは「農民層の離反という政局を避ける実際政策上の必要から」なされたと分析していることは、納得できるものだ。
 ここでの論点の結論をかなり先取りすることになるが、佐藤経明は明確に述べてはいないものの、私の理解では、「現実政治上の」・「実際政策上の」考慮・必要とは、つまるところ、レーニンを最高指導者とするボルシェヴィキの「権力」を維持し続けること、にある。
 レーニンにはもともとかなり融通無碍(プラグマティック)なところがあり、いわゆる二月革命のあとの「社会主義革命」の必要性・可能性、あるいは「社会主義革命」は世界的にほとんど同時に起こりうる(起こるべき)かそれとも一国でも可能か、について、一貫した「理論」的立場があったのではない。あるいは、彼の元来の「理論」と彼が実際に行ったことが合致しているわけではない。
 「10月革命」による権力奪取とその後の「内戦」およびいわゆる「干渉戦争」の期間におけるその権力の維持の間もそうだが、レーニンに明確な「社会主義」建設の<一般的理論>などはなかったのであり、レーニンには、ただ<社会主義>へと進まなければならない、あるいは<資本主義>からの基本的離反を維持しなければならない、という強い<意欲>または<執念>があったにすぎない、と思われる。
 ネップの導入もまた、自分自身と自らの党の政治的権力を維持するための方策であり、それ(出発点は農民からの徴税方法の変更)が引き起こした農民・農業分野に限られない全産業または<経済>全般への影響をレーニンが予見していたわけでは全くなかった、と思われる。
 レーニンによる「市場経済から社会主義へ」という<理論>の発見・確立というのは、日本共産党の不破哲三らのみが主張している、戯けた(タワけた)奇論に他ならない、と考えられる。
 これらについては、あらためて書くことがあるだろう。
 三 上に<レーニン自身と自らの党の政治的権力の維持>と書いた。
 専門的研究者による、石井規衛・文明としてのソ連(山川出版社、1995)は、もっと詳細かつ緻密に分析して、「古参党員集団の寡頭支配」の維持について語っている(p.123あたり以降)。「10月革命」以降に入党した「新参」党員を含まないようなボルシェヴィキ権力の確保・維持という趣旨だ。
 古参党員の中には、トロツキーもスターリンもいる。また、党員の<粛清>は、レーニン期のボルシェヴィキ(共産党)も行ったことで、スターリンに始まるわけではまったくない。また、いわゆる「白軍」あるいは諸<反乱>の指導者の殺戮がレーニンの指示または指導によって行われたことも当然だ(例えば田中充子の無知ははなはだしいが、そのような共産党員や同シンパはいくらでもいるだろう)。
 以上では簡単すぎて言及とすらいえない。ネップ自体についても詳しい石井上掲著にはここではこれ以上立ち入らない。
 では、自らと共産党の<権力>への執着はそもそも何に由来するのだろう。
 ここでコミュニズム(共産主義)自体、ロシアにおけるボルシェヴィズム自体を持ち出さずにいかないものと思われる。
 「執着」では軽すぎる。<狂熱>と言ってよいだろう(資本主義打倒と社会主義・共産主義を志向する)強い信念・固着、これは完全には理解できそうにないが、とりわけレーニンの頭に「取り憑いて」いたもののようだ。
 ヴォルコゴーノフ(生田真司訳)・七人の首領-レーニンからゴルバチョフまで/上(朝日新聞社、1997)は、ネップに関係してつぎのように書く(p.182-3)。
 レーニンは「戦時共産主義」の「生みの親」で、共産主義へのその「性急」さを「誤り」とも認めたが、「資本主義の復活」だとして「商業」の承認に反対した。「レーニンはボルシェヴィキによって引き起こされた経済的破綻で壁際まで追い込まれ、新経済政策に同意せざるをえなくなった」。「そして、それを私たちは革命的弁証法の素晴らしいお手本であると呼んでいたのだ! かくして、あらゆる失敗、犯罪、不首尾は弁証法で正当化された」。
 ここには、私の印象とはやや異なるレーニンのネップ観が示されてはいる。
 それよりも、ヴォルコゴーノフがレーニンまたはレーニン主義全般について以下のように述べていることは、上記のレーニンの<狂熱>に少しは関係しているように見える。
 ・「マルクス主義のロシア的異説、ロシア的バリエーション」である「レーニン主義」は、「歴史的状況」・「専制主義的帝国の特殊性」・「ロシア人の心理的タイプの独特さ」だけではなく、「レーニンのまったく独特な特性にも」よって形成された。
 ・「その特性の肝心なところは、彼自身が事業の権化」で、「ボルシェヴィズムとレーニンの個人的な運命が、彼個人の意識のなかだけではなく、多くの人たちの社会意識のなかで統合されていた」点にある(以上、p.175)。
 ・レーニンは「マルクス主義を土台に、世俗的宗教」を、「新しい宗教」を作り出した(p.177)。
 ・「レーニン主義はテロルなしには考えられない」。「レーニン主義の擁護者」はテロルは「国内戦の現実」・「特殊な状況」から生まれたと言うが、テロルは「レーニン主義の過酷な哲学から生まれた」。その哲学の「非人道性の恐ろしい刻印は、レーニン主義と呼ばれる現象の恥ずべき標識として永遠に残るであろう」(p.185)。
 これらは、スターリンについての文章(訳文)ではない。具体的な事象・手紙・電信類を著者は記しているが、言及は(キリがないので)省略する。
 四 たまたま最近に手に取った文献から、レーニンが欲した<権力>維持の内容やその「執念」にかかわる部分に言及した。
 石井規衛とヴォルコゴーノフの述べる内容、述べ方が違っていても、この欄の執筆者にとっては、全く問題はない。レーニンとその時代、スターリンとの差違等のそれら自体を研究しようとしているわけではなく、日本共産党のレーニン(とくにスターリンとの対比における)「解釈」が誤っているだろうこと、少なくとも決して常識的なものでは全くない奇論であること、を示せば足りるからだ。
 日本共産党の幹部と同党党員「研究者」以外に、冒頭で紹介したようなレーニン等についての理解・解釈を示している者はいない。
 一人の日本共産党党員「研究者」らしき者が、党員であることを隠したまま、日本共産党の上記の理解・解釈をふくらませた「研究書」らしきもの、幼稚で杜撰な本、客観的には「研究」書の体裁をとった<プロパガンダ>本、あるいは日本共産党にとっての<アリバイ作り>本を、大月書店から刊行していることを、つい最近に知った。もちろん、いずれ論及する。 

1347/日本共産党の大ペテン・大ウソ16。

 二(つづき)
 E・H・カーのロシア革命-レーニンからスターリンへ1917~1929年〔塩川伸明訳〕(岩波現代新書、1979)には、ネップ(新経済政策)とその時期について、次のような叙述もある。抜粋的に紹介・引用する。
 ・ネップが目指した「農民との結合」の必要性を疑う者は数年間は稀で、1921-22年の「悲惨な飢餓」ののちの農業の回復等によりネップの正当性は立証された。しかし、危機が去って「戦時共産主義」の窮乏が忘れられてくると、「社会主義」からの徹底的な離脱への不安感が生じた。結局「誰かが」農民への譲歩の「犠牲を払った」のであり、「ネップの直接、間接の帰結のあるものは、予期も歓迎もされない」ものだった。2年以内に、新たな危機が生じ、農業以外の全経済部門に影響を与えた。(p.70)
 ・工業への影響は「主として消極的」だった。重要な修正はあったが、レーニンのいう「管制高地」である大規模工業は「国家の手に残った」。
 ・ネップ導入後、想定された現物的商品交換は売買に変化したため、商業過程への「公的統制」が図られた。それはむしろ「ネップマン」=新商人階級の活動を容易にし、小売商業が活発になり、「繁栄の空気が資本の裕福な方面」に戻ってきた、ネップの受益者には、「未来はバラ色」に見えた。(以上、p.71-73)
 ・しかし、「ネップのより深い含意が、相互に関連する危機」を伴って現れた。最初は、狂気じみた価格変動による「価格危機」だった。農産物価格の高騰・工業製品価格の下落は「労働の危機を招来」し「失業」を生んだ。雇用者は労働者に現金支払いではなく「現物支給」をした。
 ・労働組合と雇用者又は経済管理者の間の交渉で紛争解決が図られたが、労働者の不満は「赤い経営者」=かつてのツァーリの将校あるいはかつての工場経営者・工場所有者に向けられた。彼らは高い給料をもらい、工業経営・政策への発言権も持ち始めた。彼らへの非難は、<革命>とは逆転した状況への「嫉妬と憤慨の徴候」だった。(以上、p.74-77)
 ・「失業の到来」は労働者に、「ネップ経済におけるその低下した地位を最も強く意識させた」。ネップは農民を厄災から救ったが、「工業と労働市場」は「混沌寸前の状況」だった。「革命の英雄的旗手たるプロレタリアートは、内戦と産業混乱の衝撃の下で、離散、解体、極端な数的減少」を被っていた。「工業労働者はネップの継子になっていた」。
 ・「金融上」の危機が別の側面だった。ルーブリの価値が急落したため、1921年末の党協議会決定により「金ルーブリ」を貨幣単位とする紙幣等が発行されたものの、実際上の効果は少なかった。こうした状況の結果として、1923年に「大きな経済危機」が起き、労働者の不満は同年の「夏から冬に、不穏な状態とストライキの波をひきおこした」。(以上、p.77-79)
 まだ叙述は続いていくが、このくらいにしよう。
 1923.03.03-レーニン、3度目の脳梗塞により言語能力を失う。
 1924.01.21-レーニン死去。
 省略しつつも、かつ上の部分以降には全く言及しないものの、かなり長く引用・紹介したのは、日本共産党は、レーニンが「ネップ(新経済政策)」導入を通じて、「市場経済を通じて社会主義へ」という<新しく正しい>路線を明確にした、この「正しい」路線をスターリンが覆した、と理解しているからだ。
 また、既に紹介のとおり、志位和夫は、1921年10月のレーニン報告は「市場経済を正面から認めよう」、「市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しよう」という路線を打ち立てていくもので、「『市場経済=敵』論と本格的に手を切る」ものだった、「そこで本格的な『ネップ』の路線が確立」した、「レーニンがこの時期に確立した『市場経済を通じて社会主義へ』という考え方」は、「画期的な新しい領域への理論的発展」で、レーニンが「情勢と格闘し、模索しながらつくった」ものだ、などと書いているからだ。
 志位和夫がエピゴーネンとして依拠している不破哲三の本も一瞥しているが、いわゆる戦時共産主義とレーニンの死の間の時期、ネップ期とも言われることもある時期・時代の歴史は、上のコンパクトなカーの書物においてもすでに明らかなように、日本共産党や志位和夫・不破哲三が描くような単純なものではない。
 また、個人、例えばレーニンが「頭の中」で考えて手紙等で記したことと、党の会議での発言内容(・提出文書)と、そして党(ボルシェヴィキ)の公式・正式決定として承認されたもの(レーニンの原案であれ)は、党にとってもロシアにとっても意味は同じではないと思われ、それぞれ区別しておく必要があると思われる。
 上の点での厳密な史料処理はなされていないと思われるし、また、「観念」・「意識」と「現実」は違うはずだ、という基本的な点が日本共産党、不破哲三らにおいてどう理解され、方法論的に処理されているのかについても疑問がある。
 つまり、いくら<考え>あるいは<党決定>がかりに適切な(正しい)ものであったとしても、<現実>とは異なるのであり、前者に応じて後者も変わったということを、別途叙述または論証する必要があるだろう。
 不破哲三らはレーニンが何と言ったか、書いたかの細かな(文献学的な)詮索をしているが、かつての、1920年くらいから1924年くらいまでの現実の具体的な歴史の変遷を細かく確認する作業は怠っているように見える。
 そして、レーニンの生前と死後とで政策方針と現実が質的に大きく変わったかのごとき単純化は、誤っている、とほとんど断じてよいものと思われる。なお、レーニン生前の、「革命」後の党決定等には、スターリンも党幹部として関与している。
 三 ネップ期に限っても別の文献を紹介することはできるが、当然のことだが、ネップ期の前や10月「社会主義革命」まで(さらには2月「ブルジョワ革命」まで?)遡らないと、レーニンとロシア(・ソ連)についての理解は困難だ。
 今のところ所持している関係文献に、以下がある。すでに言及しているものも含む。
 ①稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)。
 ②D・ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/上・下(1995、日本放送出版協会)。
 ③M・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史1917~1991/上・下(1997、草思社)
 ④R・パイプス(西山克典訳)・ロシア革命史(2000、成文社)。
 ⑤クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書/ソ連篇(2001、恵雅堂出版/文庫版もある)。
 ⑥E・H・カー・ボリシェヴィキ革命1~3(1967・1967・1971、みすず書房)。
 ⑦E・H・カー(塩川伸明訳)・ロシア革命-レーニンからスターリンへ1917~1929年(1979、岩波現代新書)。
 カーの書物はソ連解体前のもので、それ以降に明らかになった史料は使われていない。
 カーは、「ソ連型社会主義」が<失敗>したと理解したとすれば、その原因をスターリンに求めるのだろうか、「革命」後のレーニンに求めるのだろうか、それとも「ロシア革命」自体に求めるだろうか、あるいはマルクス自体に?
 上の諸文献を利用しつつ、さらに、レーニンとスターリンの異同をめぐる日本共産党の<大ペテン>・<大ウソ>に論及していくこととする。

1343/日本共産党の大ペテン・大ウソ15。

 一 ネップ(新経済政策)の問題は、現在の日本共産党綱領の正当性にもかかわるじつに微妙な?問題だ。
 現2004年(23回党大会)綱領はつぎのように書く。
 ・「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、…、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、…、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。」 
 ・「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。」
 上の第一の観点から、現在の中国(シナ)とベトナムの両「社会主義」国の歩みは日本共産党によって正当化され、また第二点のように、日本共産党自身も「市場経済を通じて社会主義に進む」と明言している。
 しかして、この「市場経済を通じて社会主義へ」論は1994年(20回党大会)綱領では語られていないし、その際の不破哲三報告にも、-「ネップ(新経済政策)」への言及はあるが-このような定式化は見られない。
 そして重要なのは、レーニンによる「ネップ(新経済政策)」導入の肯定的評価と「市場経済を通じて社会主義へ」論が結合していること、いや端的には、レーニンこそが(「ネップ(新経済政策)」導入を通じて)「市場経済を通じて社会主義へ」という<新>路線を明確にした(この「正しい」路線をスターリンが覆した)、と日本共産党は理解していることだ。
 志位和夫・綱領教室第2巻(2013、新日本出版社)によれば、こうだ。
 1921年10月のレーニン報告は、「市場経済を正面から認めよう」、「市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しよう」という路線を打ち立てていくもので、「『市場経済=敵』論と本格的に手を切る」ものだった。「そこで本格的な『ネップ』の路線が確立」した。レーニンの主張には反対もあったが、「市場経済を認めることが絶対に必要不可欠であることを明らかに」した。
 「レーニンがこの時期に確立した『市場経済を通じて社会主義へ』という考え方は、…、画期的な新しい領域への理論的発展」で、「レーニンが、…、情勢と格闘し、模索しながらつくった」ものだ。(以上、p.178-9)
 志位はこの考え方を「マルクス、エンゲルスの理論にもなかった新しい考え方」だとしている(p.179)。不破哲三の文献で確認しないが、志位和夫は「不破さんの研究に依拠しつつ」説明すると明記しているので(p.176)、不破哲三においても同じ理解がされているのだろう。
 そうだとすると、「マルクス、エンゲルスの理論」の「画期的な新しい領域への理論的発展」であるよりむしろ、マルクス主義からの<逸脱>ではないか、という気がしないでもない。<マルクス・レーニン主義>とは言うが、レーニンはマルクス主義から逸脱していたのではないのか。とすれば(マルクスを基準にすれば)、レーニンがすでに「誤って」いたのではないいか(とすれば、日本共産党1922年創立自体も、正しい科学的社会主義理論?からの逸脱の所産ではないか)。
 だが、そこまで問題にするのは避けて、レーニンは<正しく、ネップ路線を導入した>のかに焦点をあてよう。これが日本共産党の主張するようなものでなければ、それは現日本共産党の綱領の正当性、および同党の現在の存在意義そのものにかかわることは、変わりはない。
 二 ネップについてはすでに言及してきており、稲子恒夫の認識も、その一部は紹介している。
 上記の志位和夫の著はE・H・カーのロシア革命-レーニンからスターリンへ、1917~1929年〔塩川伸明訳〕(岩波現代新書、1979)に肯定的に言及しているが、同じカーの書物のレーニンとネップとの関係についての部分は、次のようなものだ。
 ・「戦時共産主義」の評価の差異は「ネップ」の評価にも反映し始めた。1921年3月の危機的状況の中で「戦時共産主義のより極端な政策からネップへの転換」が満場一致で受け入れられたときでも「分岐は棚上げされた」のであり、全面的「和解」はなかった。//
 ・「戦時共産主義が社会主義に向かう前進としてではなく、軍事的必要に迫られた逸脱、内戦の非常事態に対するやむをえざる対応として考えられる限り、ネップは強要されたものではあるが遺憾な脱線からの撤退であり、…より安全でより慎重な道への回帰であった」。//
 ・「戦時共産主義が社会主義のより高度な点への過度に熱狂的な突進-確かに時期尚早ではあったが、それ以外の点では正しかった-として扱われる限り、ネップは、当面保持するのが不可能だとわかった地歩からの一時的撤退であり、その地歩は早晩奪還されるべきものであった。レーニンが-彼の立場は必ずしも一貫してはいなかったが-、ネップを『敗北』、『新たな攻撃のための撤退』と呼んだのは、この意味においてであった。」//
 ・「第10回党協議会においてレーニンが、ネップは『真剣かつ長期にわたって』意図されていると言ったとき(だが、質問に答えて、25年という見積りは『あまりに悲観的』であると付けたした)、ネップは戦時共産主義という過誤の望ましくかつ必要な修正であるとの見解と、ネップ自身が将来修正され、とって代わられるべきものであるとの見解の両方に言質を与えたのである。」//
 ・「第一の見解の言外の前提は、後進的農民経済と農民心理を勘案することが実際に必要であるという点であった。第二の見解のそれは、工業を建設し、革命の主要な拠点をなしている工業労働者の地位をこれ以上悪化させないことが必要だということであった。」//
 ・1920-21年の難局の解消への感謝で当面は覆われていた「分岐は、2年後の更なる経済危機と党内危機の中で再び現れるのである。」/
 以上、p.52-53。//は原文では改行ではない。
 E・H・カーの1979年の本ではまだ見逃されたままの資料・史料があったかもしれない。だが、それにもかかわらず、上の叙述を読んだだけでも(他にもネップ言及部分はある)、主として農業・対農民政策をとってみるだけでも、レーニン時代とスターリン時代とに大別する発想をすることは、複雑な歴史を(都合のよいように?)単純化するものではないだろうか、という疑問が生じる。
 <つづく>
 

1336/2007年3月の秋月瑛二・日本共産党批判(再掲)。

 10年近くも経つと、かつて自分が何を書いていたか、自分のことながら分からなくなってくる。
 2007年3月に、「日本共産党よ、32年テーゼ・50年批判はスターリンの時代ではなかったのか」と題して、つぎのように書いていた。2007/03/23付け。
 現時点で見れば知識不足のところはあるし、当時は日本共産党文献やその他の関係文献を調べてみようという気は起きなかった。但し、最近は、きちんと実証的に正確な「事実」を確認しようと思っている。
 日本共産党が現在およびそれぞれの時期に何と主張していた(いる)かを知ること自体は、「事実」の認識の問題だ。
 問題関心だけは今でも共通するので、過去のものを再掲しておくことにする。
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 日本共産党よ、32年テーゼ・50年批判はスターリンの時代ではなかったのか。
 腑に落ちない、こと又はもの、は沢山あるが、ソ連崩壊に関係する日本共産党の言い分は最たるものの一つだ。
 同党のブックレット19「『社会主義の20世紀』の真実」(1990、党中央委)は90年04月のNHKスペシャル番組による「社会主義」の総括の仕方を批判したもので、一党独裁や自由の抑圧はスターリン以降のことでレーニンとは無関係だなどと、レーニン擁護に懸命だ。昨日に触れたが、2004年の本で不破哲三氏はスターリンがトップになって以降社会主義から逸脱した「覇権主義」になったと言う。そもそも社会主義国ではなかったので、崩壊したからといって社会主義の失敗・資本主義の勝利を全く意味しない、というわけだ。
 だが、後からなら何とでも言える。後出しジャンケンならいつでも勝てる。関幸夫・史的唯物論とは何か(1988)はソ連崩壊前に党の実質的下部機関と言ってよい新日本出版社から出た新書だが、p.180-1は「革命の灯は、ロシア、…さらに今日では十数カ国で社会主義の成立を見るにいたりました」と堂々と書いてある。「十数カ国」の中にソ連や東欧諸国を含めていることは明らかだ。ソ連は社会主義国(なお、めざしている国・向かっている国も含める)でないと言った3年前に、事実上の日本共産党の文献はソ連を社会主義国の一つに含めていたのだ。判断の誤りでした、スミマセン、で済むのか。
 また、レーニンの死は1924年、スターリンが実質的に権力を握るのは遅くても1928年だ。とすると、日本共産党によると、1928年以降のソ連は、そしてコミンテルン、コミンフォルムは、社会主義者ではなく「覇権主義」者に指導されていたことになる。そしてますます腑に落ちなくなるのだが、では、コミンテルンから日本共産党への32年テーゼはいったい何だったのか。非社会主義者が最終的に承認したインチキ文書だったのか。コミンフォルムの1950年01月の論文はいったい何だったのか。これによる日本共産党の所感派と国際派への分裂、少なくとも片方の地下潜行・武装闘争は非社会主義者・「覇権主義」者により承認された文書による、「革命」とは無関係の混乱だったのか。
 1990年頃以降、東欧ではレーニン像も倒された。しかし、日本共産党はレーニンだけは守り、悪・誤りをすべてスターリンに押しつけたいようだ。志位和夫・科学的社会主義とは何か(1992、新日本新書)p.161以下も参照。
 レーニンをも否定したのでは日本「共産党」の存立基盤が無になるからだろう。だが、虚妄に虚妄を重ねると、どこかに大きな綻びが必ず出るだろう。虚妄に騙される人ばかりではないのだ。
 なお、私的な思い出話を書くと、私はいっとき社会主義・東ドイツ(ドイツ民主共和国が正式名称だったね)に滞在したことがある。ベルリンではない中都市だったが、赤旗(色は付いてなかったがたぶん赤のつもりのはずだ)をもった兵士のやや前に立って、十数名の兵士を率いて前進しているレーニン(たち)の銅像(塑像)が、中央駅前の大通りに接して立っていた。
 数年前に再訪して少し探して見たのだが、レーニン(たち)の銅像が在った場所自体がよく分からなくなっていた。
 レーニンまでは正しくて、スターリンから誤ったなどとのたわけた主張をしているのは日本共産党(とトロツキスト?)だけではないのか。もともとはマルクスからすでに「間違って」いたのだが。
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 以上。
 旧東ドイツを訪れた当時、上に言及のレーニン像のほか、比較的大きい建造物の壁面上部に、<我々を解放してくれた「赤軍」に感謝する!>というような旨の大文字が書かれてあるのを見た記憶もある。50年も前のことではない、かつての「社会主義」国・東ドイツの「現実」だった。

1325/日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ02。

 現在の日本共産党は、かつてのソ連をどう見ているか。
 2004年改定の日本共産党綱領は、次のように述べる。
 「三〔章〕、世界情勢―二〇世紀から二一世紀へ」の中の「(八)」〔節〕(但し、この節番号は最初の一章からの通し)の一部を引用する。
 ・「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。第二次世界大戦後には、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカの一連の国ぐにが、資本主義からの離脱の道に踏み出した。
 最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。『社会主義』の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。」
  ・「ソ連とそれに従属してきた東ヨーロッパ諸国で一九八九~九一年に起こった支配体制の崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産であった。これらの国ぐにでは、革命の出発点においては、社会主義をめざすという目標が掲げられたが、指導部が誤った道を進んだ結果、社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた。」
 ・「ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の崩壊は、大局的な視野で見れば、世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性を開く意義をもった。」
 以上
 以下は同「(九)」の冒頭の一文。
 ・「ソ連などの解体は、資本主義の優位性を示すものとはならなかった。」
 上の最初の方からだけでは、ソ連は「社会主義」国だったのか否かについての回答は示されていないようにも読める。「社会主義の原則を投げ捨てて」とは厳密には何を意味するか、はっきりしないからだ。
 しかし、そのあとに、「社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた」とあることから、遅くとも「解体」の時点では、「社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会」だったと理解・認識しているようだ。
 このような理解に、党としては1994年の(綱領一部改定をした)第二十回大会で(1991年からは3年後になる)、達したとされる。 
 この大会の決定・報告集を所持していないが、綱領一部改定はソ連の認識を<修正または変更する>もので(このあたりが興味深いのだが)、当時日本共産党(幹部会)委員長だった不破哲三は、自らこう報告したと不破の2007年の著(スターリンと大国主義・新装版)のまえがきで紹介している(p.15)。
 ・「スターリン以後の転落は、政治的な上部構造における民主主義の否定、民族自決権の侵犯にとどまらず、経済的な土台においても、勤労人民への抑圧と経済管理からの人民のしめだしという、反社会主義的な制度を特質としていました。」
 以上。
 また、不破哲三の2000年8月刊行の本である、不破・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版〕(2000、新日本出版社)p.62-63によると、上の党大会で不破は以下のように述べた。
 ・「社会主義とは人間の解放を最大の理念とし、人民が主人公となる社会をめざす事業であります。人民が工業でも農業でも経済の管理からしめだされ、抑圧される存在となった社会、それを数百万という規模の囚人労働がささえている社会が、社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白ではありませんか。」
 以上。
 志位和夫・綱領教室第2巻(2013.04、新日本出版社)でも、上の(直近の)不破発言部分はそのまま引用されているので、現在の日本共産党の公式見解と言ってよいだろう。
 ちなみに、現在の党(幹部会)委員長・志位和夫は、この不破発言部分を聞いて「私自身も大きな感動を覚えたものでした」、らしい(上掲・志位著p.195-6参照)。
 また、不破哲三は、2000年の上記書物・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版〕によれば、同年7月20日の講演で自らの上記発言部分も引用しつつ改定綱領の重要点の一つとして次の「認識」を、やや異なる表現で、こう述べている(p.63-65)。
 ・「第一は、ソ連型の経済・政治体制、社会体制にたいする徹底した告発、これは、社会主義とは縁のない社会だったという認識であります。」
 ・「『ソ連型社会主義』というのは、社会主義の典型でないことはもちろん、社会主義のロシア的な道でもない、…と告発しました。」
 ・「そういうわれわれの批判的な認識の深まりが、ソ連解体後一挙に明るみに出た社会の内情についての材料の分析と結びついて、第二十大会でのあの結論--ソ連は社会主義でも、それへの過渡期でもなかった、抑圧型、人間抑圧型の体制だった、という結論になったのであります。」
 以上。
 さらに、不破哲三は、同・スターリンと大国主義・新装版(2007.05、新日本出版社)のまえがきで、次のようにも述べている。
 ・「ソ連で崩壊したのは何だったのか。/ソ連で崩壊したのは、社会主義ではありません。そこで崩壊したのは、社会主義に背を向け、ソ連を反社会主義の軌道に引き込んだ覇権主義と専制主義です。」
 ・「その覇権主義は社会主義の産物ではなく、スターリンとその後継者たちが社会主義の事業に背を向け、社会主義を目指す軌道を根本的にふみはずすことによって生み出したものです。」
 以上。
 このとおりで、1994年から現在までの日本共産党のソ連についての理解・認識を知ることはできる。
 だがしかし、秋月瑛二が不思議にまたは奇妙に感じるのは、不破哲三のつぎのような文章を目にしたときだ。
 上記の不破(2000)・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版〕p.63は言う。
 ・「スターリン以後のソ連にたいするわれわれのこうした認識は、ソ連が解体してからにわかに生まれたものではありません。これは、三十年にわたるソ連の大国主義、覇権主義との闘争を通じて、私たちが到達した結論であります。」
 以上。
 はたして、日本共産党の「ソ連の大国主義、覇権主義との闘争」というのは、ソ連の<反社会主義>・<人間抑圧社会>との闘いだったのだろうか
 「ソ連が解体してから」ではなく、それ以前から現在のような認識に立っていた(少なくともその一端は明確に示していた)、というがごとき書き方だが、これは、大ペテン・大ウソだ。また、そもそも、「ソ連が解体してからにわか」の時点では、現在のような認識ではなかったようだ。文献上の(実証的な)根拠はある。
 <つづく> 

 

1309/日本共産党は「河野談話」を全面擁護し「性奴隷制」を認定する論点スリカエで朝日新聞を応援する。

 先に(この欄の6/02で)「慰安婦」にかかる歴史関係団体声明と日本共産党・小池晃等の発言の対応関係を見たのだったが、小池晃等の発言は、当然のことながら日本共産党の公式見解の範囲内のものだ。また、歴史関係団体声明が、日本共産党の見解に添ったものであることもほとんど明らかだ、と考えられる。
 以下、志位和夫・戦争か平和か-歴史の岐路と日本共産党(新日本出版社、2014.10)を、諸資料を載せているものとして用いる。
 日本共産党幹部会委員長・志位和夫は、2014年06月02日に「日本軍『慰安婦』問題アジア連帯会議」でこう述べた。しんぶん赤旗2014.06.04掲載。
 ・河野談話「見直し」論は、①「日本軍『慰安婦』問題の一番の核心部分である『慰安所』における強制性」=「性奴隷」にされたことに「ふたをして」、「強制連行があったか否か」に「問題を矮小化」し、②「強制連行を裏付ける公文書があったかいなかに、さらに問題を二重に矮小化する」。
 ・安倍政権に以下を要求する。①「性奴隷制」の「加害の事実」を認め、謝罪すること。②軍「慰安婦」問題がなかったとする論に対して明確に反論すること。③被害者に賠償すること。④子孫に伝えるため、この問題に関する「歴史教育」を行なうこと。
 2014年03月14日に「内外記者」からの質問に答えるかたちで、志位は以下のことを述べた。しんぶん赤旗2014.03.17掲載。
 ・「日本軍『慰安婦』制度」は、「軍の統制・監督下の『性奴隷制度』」で、「性奴隷制度」の中でも「最も野蛮でむき出しの形態のもの」だった。
 ・河野談話否定論に対しては、「今日発表した見解」で反論を尽くした。
 「今日発表した見解」とは、「歴史の偽造は許されない-河野談話と日本軍『慰安婦』問題の真実-」と題する相当に長文の、志位の以下のような見解だ。しんぶん赤旗2014.03.15掲載。以下は、基本的な構造のみ。
 ・河野談話はつぎの五つの事実を認定した。①「慰安所」と「慰安婦」の存在、②「慰安所」の設置・管理への「軍の関与」、③「慰安婦」とされる過程が「本人の意思に反して」いた=「強制性があった」、④「慰安所」における「強制性」=「強制使役の下におかれた」、⑤日本人以外の「慰安婦」の多数が朝鮮半島出身で、募集・移送・管理等は「本人の意思に反して行われた」=「強制性があった」。
 ・河野談話「見直し」派は上の③のみを否定して談話全体を攻撃する。本質・最大の問題は、「本人の意思で来たにせよ、強制で連れて来られたにせよ」、軍「慰安所」に入れば「監禁拘束され強制使役の下におかれた」「性奴隷状態とされたという事実」だ。
 ・上の③の事実認定には根拠がないという批判は成り立たない。
 以上で要約的紹介を終える。
 明瞭であるのは、日本共産党が③の問題から④の問題へと、つまり<女性の人権侵害>の問題へと論点をスリカエていることだ。これはのちの日本共産党・山下芳生発言にも見られた。そして、2014年8月に朝日新聞が行なったことでもある。朝日新聞の記事をまとめた者たちは、この日本共産党・志位和夫の見解をおそらく知っていたものと思われる。そして、それを十分に参考にしたのではないか。
 ④については、「本人の意思で来たにせよ、強制で連れて来られたにせよ」と、入所自体は「自由意思」であった場合のあることを肯定していることは興味深い。、
 それはともかく、河野談話の原文に比べて日本共産党・志位の表現はより悲惨な印象を与えるものになっている。すなわち、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいもの」だった。→軍「慰安所」に入れば「監禁拘束され強制使役の下におかれ」、「性奴隷状態とされた」。
 また、もともと、河野談話のいう、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいもの」だったという簡単な一文が正確にまたは適切に「慰安所」での「慰安婦」の状態を叙述しているか、という問題があるだろう。はたして、志位のいうように「監禁拘束され強制使役の下におかれた」というものだったのか。
 つぎに、上のように日本共産党・志位は③で「慰安婦」とされる過程が「本人の意思に反して」いた=「強制性があった」とまとめているが、この部分の河野談話の原文は、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」、というものだ。
ここにも見られるように、また志位も「強制性があった」とだけ述べているように、第一に、「慰安婦」とされる過程がすべて「本人の意思に反して」なされたとは河野談話は述べておらず、「本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあ」ったと言っているにすぎない。割合としての「数多く」なのか、絶対数が少なくないという意味なのかも曖昧だ。第二に、河野談話は「官憲等が直接これに加担したこともあった」と述べているだけで、「慰安婦」とされる過程の「強制性」が全体として日本軍(・国家)の行為を原因とするものだとは述べていない。また。「官憲等」と「等」を付けて、「加担」者が日本軍(・国家)だと断定しているわけでもない。
 要するに、河野談話は、1.一般的に「強制」性を認めたものとは言い難い、2.その「強制」なるものが全体として日本軍(・国家)の行為によるものだったと述べているわけでもない。
 日本共産党・志位は、「慰安婦」となる過程は<軍による強制>と明言しないでたんに<強制性があった>と述べつつ、じつはすべてが<軍による強制>があったという印象・イメージを生じさせようとしている。概念操作・論理展開において、<卑劣>なところがある。
 むろん、河野洋平もいけない。談話発表後に、朝日新聞の記者によるものだったのだろう、<強制があったと認めるのか>という質問に、<そのように理解してもらってけっこうだ>旨を答えてしまったのだから。
 この③の部分の重要な基礎だった吉田清治証言の内容を、朝日新聞は2014年08月に事実でなかったとした。ここで紹介した志位見解はこれよりも前の時期に語られている。そして、前回に記した小池晃発言は、吉田清治証言が崩れても③の事実が否定されはしないと、これまたほとんど朝日新聞と同様に、<強弁>していることになる。
 なお、「強制」=<悪>という語感でもって「強制」という概念が使われているようだが、法律にもとづく(適法な)「強制」もあれば、一般的・包括的な<自由意思での合意・契約>にもとづく個別の「強制」の受忍というものもある。このあたりは改めて記してみたい。「強制」という概念の整理も必要だ、とかねてより感じている。

1299/日本共産党「海外で戦争できる国…」は2005年に。

 一 日本共産党の「海外で戦争できる国づくり」反対のポスターは、昨年末の総選挙時に初めて見かけたように思う。では「日本国領域内での戦争」ならばよいのか、と皮肉りたくなったものだったが。
 もっとも、このような決めつけ、レッテル貼りを、日本共産党は遅くとも2005年には行なっている。
 志位和夫・日本共産党はどんな党か(新日本出版社、2007)は、小泉純一郎首相時代の2005年に自民党第一次憲法改正草案が現九条2項の削除と「自衛軍」保持の明記を掲げたことに論及して、「憲法九条をかえる」、「とくに九条二項」の「戦力」不保持条項を変えて「自衛軍がもてる」ようにする「憲法改定の…ねらい」は、「海外での武力の行使」を可能にすること、「海外で戦争する国」にすることだ、という旨を明記している(p.57)。志位によれば、小泉首相はこの狙いを「ひた隠しに隠」しており、それは「一番知られたくないこと」なのだそうだ(同上)。
 また、上の書p.62は、志位和夫が2005年05月の時点で、<九条2項削除・自衛軍保持>の憲法改正は日本を「海外で戦争をする国」に「つくりかえることに道を開くもの」だと述べたことも記している。この「からくり」を「しっかり見破る」ことが大切なのだ、という(同上)。
 憲法改正(九条2項削除等)ではなく集団的自衛権行使容認等の憲法解釈をふまえた安保法制の整備に反対してであるが、日本共産党は遅くとも10年前には、現在と同じことを言っている。
 「戦争反対」について言えば、厳密には、自衛目的の正当な戦争もあると考えるので、「戦争」一般をすべて<悪>として否認する考え方は採らない。おそらくは日本共産党も、社会主義国の核は善、資本主義国の核は悪と見なしてきた時代もあったくらいだから、厳密には「戦争」一般を<悪>だとは考えていないはずだ。
 にもかかわらず「戦争」一般が<悪>であるかのごとく主張しているのは、第一に、日本国民に根強い<反戦・平和>の感情に媚び、それを取り込んで自分たちの勢力を少しでも拡大したいからだろう。
 あるいは第二に、自分たちとは異なる勢力が起こす「戦争」はつねに<悪>だ、と見なしているからだろう。自分たちとは異なる勢力とは、より正確には、日本共産党が綱領上「敵」と見なすアメリカ(帝国主義)とそれに従属した日本の「反動」勢力(>日本独占資本)だ。
 このような<堅い>考え方をしている政党の党首等と議論・討議しても、本当は時間が無駄なだけだ。建設的・生産的な議論になるはずがない。安倍首相らには、適当に(あるいは適切に?)<お相手をしてあげて>、とだけ申し上げたい。
 二 2015年05月28日の衆院平和安全法制特別委員会で、民主党の辻元清美は「日本が戦争に踏み切る基準の変更について議論しているのか」と質問の冒頭で述べたらしい。また、同党の後藤祐一は、「この法案は石油を求めて戦争を可能にする法案なのか」と述べたらしい。
 「戦争」という語を平気で用いて、国民の不安を煽っているのだろうこの二人のメンタリティもまた、日本共産党のそれとほとんど異ならないようだ。まともに議論しても、回答しても、おそらく意味がない。
 三 質疑の内容については、古森義久産経新聞5/30の「緯度経度」欄で「安保法制、日本の敵は日本か」と題して語っていることに、ほとんど異論はない。
 もっとも、古森の上のような適切な分析と批判を行なっても、日本共産党には何ら意味がないようだ。
 日本共産党は1998年に中国共産党と関係を修復して<社会主義をめざす>友好党になっている。中国共産党が率いる中国を正面から批判するはずがない。「日本を軍事的に威嚇し、侵略しようとする勢力」への「歯止め」(古森)をこの政党が問題にするはずがない。この政党にとってのリスク、いや「敵」は、上記のとおりアメリカと日本の安倍晋三たちなのだ。民主党の中にも、同党に移ってもよいような議員がいるのだろう。 

1236/安倍晋三内閣総理大臣靖国神社参拝。

 12/26の正午すぎに安倍首相の靖国参拝のテレビ報道があり、予期していなかったので驚くとともに、安倍首相の参拝後のインタビュ-回答を聞いていて、思わず涙がこぼれた。
 当然のことが当然のように行われ、当然のことが語られている。
 欺瞞と偽善に満ちた報道、発言や声明類に接することが多いだけに、久しぶりに清々しい気分になった。
 日本共産党・志位和夫は「侵略戦争を肯定、美化する立場に自らを置くことを、世界に宣言することにほかならない。第二次世界大戦後の国際秩序に対する挑戦であり、断じて許すわけにはいかない」とコメントしたらしい。①誰が先の戦争を「侵略」戦争だったと決めたのか、②万が一そうだったとして戦没者を慰霊することが、なぜそれを「肯定、美化する」ことになるのか、③いわゆるA級戦犯が合祀されていることを問題にしているとすれば、そのいわゆるA級戦犯とはいったい誰が決めたのか、いわゆるA級戦犯合祀が問題ならばB級戦犯、C級戦犯であればよいのか、④「第二次世界大戦後の国際秩序に対する挑戦」とは最近中国政府・中国共産党幹部が日本についてよく使う表現で(かつての仲間ではないかと米国をゆさぶる発言でもある)、日本共産党の親中国信情を示している、⑤戦没者への尊崇・慰霊行為が「戦後の国際秩序に対する挑戦」とは、何を血迷っているのだろう。神道式の参拝だが、もともと「死者」の追悼なるものに重きを置かない唯物論者に、「死者への尊崇」とか「慰霊」とかの意味が理解できるはずがない。日本の「カミ」ではなく、インタ-ナショナルな?<共産主義>を崇拝し続ければよいだろう。
 社民党・福島瑞穂は「アジアの国々との関係を極めて悪化させる。国益に明確に反している。強く抗議したい」とコメントしたらしい。NHKもさっそく中国・韓国政府の反応を丁寧に報道していたが、「アジアの国々」というのは大ウソ。タイ、カンボジア、マレ-シア、インド等々、西部のトルコまで含めなくとも、アジア諸国の中で内政干渉的または信仰の自由侵害的にいちゃもんをつけているのは中国、韓国(・北朝鮮)といういわゆる「特定アジア諸国」だけ。ウソをついてはいけない。あるいはひょっとして、福島にとっては、アジアとは中国・韓国(・北朝鮮)と日本だけから成り立っているのだうろか。
 ところで、特定秘密保護法に反対した大学教授たち、ジャ-ナリスト、映画人等々の多くは、例えばかつての有事立法反対運動にも参画していた人々で、先の戦争は「侵略戦争」で、日本は「悪いことをした」と、信じ込み、思い込んでいる人たちだろう。そして、かつての「悪」を繰り返させるな、<戦争をしたい保守・反動勢力>が「軍靴の音」を響かせつつあるので、戦後<平和主義>を守るためにも、保守・反動の先頭にいる安倍晋三(・自民党)をできるだけ早く首相の座から下ろさなければならない、と考えているのだろう。
 このような<基本設定・初期設定>自体が間違っている。
 先の戦争は民主主義対ファシズムの戦争で、日本は後者の側に立って「侵略戦争」をした、という歴史の認識は、戦後・とくに占領下において勝者の側・とくに米国(・GHQ)が報道規制・特定の報道の「奨励」、あるいは間接的に日本人教師が行う学校教育等を通じて日本人に事実上「押しつけた」ものであり、正しい「歴史」認識または把握であったかは大いに問題になる。ソ連や米国の戦時中の資料がまだすべて公開されていないので、今後により詳細な事実・真実が明らかになっていく可能性があるだろう。
 先の戦争はソ連共産党・コミンテルンと米国内にいたコミュニストたち(コミンテルンのスパイを含む)により影響を受けたル-ズベルト大統領がまともに国内を支配できていなかった(分裂していた)中国よりも日本を攻撃して潰しておくことがそれぞれ(ソ連・アメリカ)の国益に合致していると判断しての<日本攻撃・日本いじめ>だった可能性は十分にある。ソ連は日本敗戦後の日本での「共産革命」(コミュニスト・共産党中心の政権樹立。それが民主主義(ブルジョア)革命か社会主義革命かの理論的問題よりもコミュニストに権力を奪取させることが重要だった)を画策していたに違いない。
 毛沢東の中国共産党の拡大と1949年の政権奪取(中国人民共和国の成立)を予想できなかったアメリカにも大きな判断ミスがあった。こともあろうに日本よりもスタ-リンの「共産」ソ連と一時期は手を結んだのだから大きな歴史的誤りを冒したことは間違いない。ようやく対ソ連措置の必要を感じて、ソ連参戦の前にアメリカ主導で日本を敗戦させたかったのだと思うが、それは原爆製造とその「実験」成功によって対ソ連で戦後も優位に立つことが前提でなければならなかった(吉永小百合のように日本の二都市への原爆投下は終戦を遅らせた日本政府に第一次的責任があるかのごとき文章を書いている者もあるが、間違っている)。
 先の戦争について連合国側に全面的に「正義」があったなどと日本人まで考えてしまうのは-戦後の「洗脳」教育のためにやむをえないところはあるが-じつに尾かなことだ。
 大学教授、ジャ-ナリスト、映画人といえば、平均的な日本国民よりは少しは「賢い」のではなかろうか。そうだとすれば、自らの歴史の把握の仕方の基本設定・初期設定自体を疑ってみる必要がある。少なくとも、異なる考え方も十分に成り立つ、という程度のことは「賢い」人ならば理解できるはずだと思われる(但し、例えば50歳以上の日本共産党員または強い日本共産党シンパは、気の毒ながら今からではもう遅いかもしれない)。
 先の戦争についての(付随的に南京「大虐殺」問題、「百人斬り競争」問題、朝鮮「植民地支配」諸問題等々についての)理解が、今日まで、首相の靖国参拝問題を含む諸問題についての国内の議論の基本的な対立を生んできた、と考えられる。靖国参拝問題は戦後の「中国共産党王朝」成立以来一貫して問題されてきたわけではなく1980代になってからなのだが、しかし、日本や韓国(・北朝鮮)がかつての日本の「戦争責任」、という<歴史カ-ト゜>を使っているので、先の戦争についての正しい理解はやはり不可欠になる。
 繰り返すが、民主主義対ファシズム(・軍国主義)という単純二項対立、暗黒だった戦前と<平和と民主主義>国に再生した戦後という単純二項対立等による理解や思考は間違っている。戦前はいわれるほどに暗黒ではなかったし、戦後はいわれるほどに立派な国歌・社会になったわけではない。むしろ、<腐った個人主義>や日本の伝統無視の<政教分離>等々による弊害ははなはだしい、ともいえる。例えば、親の「個人尊重」のゆえの「子殺し」も少なからず見られ、珍しいことではなくなった。こうした各論に今後もつぶやいていこう。

1084/橋下徹を単純かつ性急に批判する愚①―佐伯啓思。

 やはりというべきか、中島岳志、東口暁、藤井聡に続いて、佐伯啓思も橋下徹に対する批判的姿勢を明らかにした。①新潮45/3月号(新潮社)と②産経新聞の月一回連載(2/20付)においてだ。
 前者についてもっと後でコメントしようと思っていたが、新潮45誌上よりも批判・警戒視の気分が明瞭な産経新聞上の文章が出たので、とり急ぎ感想を書いておく。
 ・上と同日の産経新聞紙上に、日本共産党の志位和夫が橋下徹をヒトラーになぞらえて警戒視しているという特集記事中の文章があるが、②の最後で佐伯啓思はフランス革命期のジャコバン派の勢力拡大に言及し、「そうなってからでは遅い」という。
 ヒトラーとジャコバン派(ロベスピエール独裁)との違いはあるが、日本共産党委員長と佐伯啓思が似たようなことを言っている。
 もっとも、①の計11頁のうちの後半の5頁は違和感なく読めるもので(橋下徹批判になっておらず)、橋下徹は「独裁者」だという批判をむしろ和らげるものになっている。そして、独裁者は「橋下の後に?」との見出しのもとで、橋下徹が独裁者になるとは思わないが、「人気者」デモクラシーを続ければ「いずれ本格的に…独裁者がでてくるかもしれません」、「その事態になってからでは遅い」とまとめている。
 この①の最後に比べれば、②のまとめ方は、紙数制限のゆえだろうが、性急すぎるか、簡略化しすぎている。
 ・佐伯啓思は①で「橋下現象」に「危険なもの」よりも「イヤなもの」・「嫌悪感」を感じる、と書いている。一方、②では「大阪維新の会」に対して「原則的な」、「大きな危惧の念」を抱くと書いている。
 この二つはややニュアンスが異なる。「橋下現象」と「維新の会」とで使い分けているとは思えない。後者で見解をより明確化した、ということだろうか。
 ・佐伯啓思は①で「橋下現象を批判することは結構難しい」と書いているが、私にはそうは思えない。佐伯がまさに批判しているように、今日までの(とくに最近20年間の)時代の所産の一つで、ポピュリスト(・デマゴーグ)で、マスメディアによる「人気主義」・「面白主義」の結果だ、等の批判は容易だ。佐伯が言うように橋下現象は「われわれ自身の変形された自画像」で「時代の象徴」なのだろう(p.327)。
 もっとも、上のような趣旨は、紙数のゆえだろうが、②にはまったく出てこない。
 
・上のように、佐伯啓思の二つの文章には、若干のブレ、ニュアンスの違いなどがある。
 もう一つ例を示せば、「素人政治」に関する言及は②にはあるが、①にはない。かつ、②におけるこの点の叙述はその意味がよく判らないところがある。
 佐伯啓思によると、「民主党の失敗の最大の原因」は「にわか作りの素人集団による政治の貧困」にあったにもかかわらず、「維新の会」という「素人集団」に(教訓を無視して)期待するのはいかがなものか、ということらしい。これはこれでスジは通っているのだが、大阪府知事を三年間は務めた橋下徹らを「素人集団」と言い切ってよいのか、という疑問もある(余計ながら佐伯啓思らはこのような政治・行政実務をしていないはずだ)。
 また、そもそも次のような叙述の意味が判らない。―「従来の政党政治」では「党内実績や地元との交流、人間相互の信頼関係の醸成、官僚との調整など時間をかけた積み上げが必要」だったが、これらを「省略して政治主導による合理的解法を見いだせるする政治」が「素人政治」だ。
 後者の「素人政治」を消極的に評価しているのはかりによいとしても、では前者の「従来の政党政治」は(100%でなくともよいが)肯定的に評価されるものなのか。佐伯啓思の書きぶりからすると後者よりはだいぶマシなものと理解されているようだ。
 多言はしないが、「従来の政党政治」をむろん完全に消極的に評価はしないとしても、「金」等にかかわる政策と無関係の党内の人間関係とか、「利権」の混じった「地元の交流」とかもあったのであり、佐伯啓思がイメージしているほどには「従来の政党政治」は万全のものではないと思える。「官僚との調整」も「時間をかけ」ればよい、というものではあるまい。
 「民主党」と「大阪維新の会」を同じイメージで捉えること自体が―下記および別の回のとおり―疑問だが、民主党のいう「政治主導」という「素人政治」に対する批判を橋下徹らに対しても投げかけるのは、「従来の政党政治」の評価も含めて、いささか性急すぎるか、単純化しすぎているのではないだろうか。
 さらに、この「素人政治」に関する部分は、佐伯啓思の②の文章の中にうまく溶け込んでいない、前後との関係がよく分からない、という疑問もある。
 ・以上は、佐伯からすればおそらく瑣末な問題だろう。
 佐伯啓思の言っていることに対する基本的な疑問は、「橋下現象」や「大阪維新の会」の主張を、日本のこの20年間の「改革」運動の一つ・またはより徹底したものと理解し、佐伯による、近年の「改革」運動の否定的評価を前提にして、橋下徹らの主張をも批判し、「否定」しようとしていることだ。
 ものごとを単純化・抽象化する作業を頭の中で(書斎の中で)することは簡単だが、現実は上のように単純には把握できないと考えられる(この点は佐伯啓思の叙述自体をもう少し紹介しておく必要がある)。
 それに、佐伯啓思が言及していないこと、例えば、橋下徹が府知事時代に大阪護国神社に参拝したこと、橋下徹は日本の元首は天皇陛下だと述べたらしいこと、橋下徹は国歌・国旗を大切にする姿勢を鮮明にして、民主党または日本共産党を支持する教員労働組合と対決しようとしていること、もある。
 これらも視野に入れないで、簡単にあるいは性急に橋下徹らを論評してはいけないのではないか? また、東口暁に対して述べたように、橋下徹と対立した候補が当選した方がよかったのか?、民主党・自民党・共産党が揃って支援した対立候補が勝利することこそが「イヤな感じ」の「気味の悪い」現象ではなかっのか、と問うてみたい。
 長くなったので、途中で切り上げた。最後の段落部分については、あらためてもう少し詳しく述べる。その際には、「思想家」佐伯啓思のこれまでの基本的論調との関係にも言及するだろう。

0995/月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは。

 月刊正論4月号(産経新聞社)で編集長・桑原聡いわく-「…民主党内閣が、憲政史上最低最悪の内閣であることは多くの国民が感じているところだろうが、かりに解散総選挙が行われ、自民党が政権を奪回したとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも、わが国を元気にする知恵も力もないように思える」(p.326)。
 同誌の宣伝紹介記事(産経3/01付)で同じく桑原聡いわく-「国民の大半が期待しているのは、この党〔民主党〕が一日も早く政権の座から降りてくれることだけだ。しかし、かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」。
 産経新聞社内の出世コースを歩んでいるのかもしれないこの桑原聡のこのような<政治的>判断を基準にして、産経新聞全体は別としても、当面の月刊正論は編集されていくものと見られる。

 はたして、かかる立場を編集長が明記することはよいことなのかどうか。それよりも、その<政治的>判断は適切なものなのかどうか。

 2009年総選挙前に、自民党はダメだ、(よくは分からないが、新しい)民主党は期待できそうだ、というムードを煽ったのは朝日新聞を含む大手メディアだった。櫻井よしこすら、自民党に対して冷たかった(民主党内閣成立後も<期待と不安が相半ばする>旨を書いていた)。

 現時点で、自民党を「賞味期限の過ぎた政党」と断定して叙述するこの桑原聡のような、大(?)雑誌、しかも<保守系>とされる雑誌の姿勢は、どのような政治的効果をもたらすだけだろうか。

 2009年に自民党離れが生じ、かりに民主党に投票しなくとも<保守派>国民の中に<棄権(無投票)>行動がある程度は生じたと推測されるように、上のような断定は、反民主党(同党政権)の見解をもった国民に対して、自民党にも投票せず、<棄権(無投票)>するという行動を誘発する方向に機能するだろう。そしてそれは、民主党に有利に働くだろう。

 かりに現在のような政党状況のままで解散・総選挙が行われた場合、そのような投票行動は、日本を<良い>方向に導くのだろうか? 民主党の延命を助けるだけではないのか。
 それに、上のような断定は、<右>からの自民党は「第二民主党」、「民主党と同根同類のリベラル」という批判と共鳴しているとももに、<左>からの、例えば日本共産党(・社民党)のいう、民主党(内閣)は<第二自民党(内閣)>だ、という批判とも共振している。

 桑原聡は、上のように、その主張は、日本共産党(・社民党)のそれとも共通することを、いかほど意識しているのだろうか。代表的<保守系>雑誌が、こんな感覚の編集長に率いられているのだから、内容に奇妙な部分が出てくるのもやむをえないだろう。

 月刊正論4月号のウリは「保守論客50人が提言~これが日本再生の救国内閣だ!」で、屋山太郎のような「保主論客」とは思えぬ者を含む人々に、それぞれが構想する内閣の布陣(構成)を語らせている。

 まじめによく考えられており、かつ現実味がなくはないと感じられる「構想」もあるが、雑誌の全体としていえば、<お遊び>の類だ。保守的論者による保守派政治家・評論家類の「人気投票」のような観もある(一部には文章を書かせているが、じっくりと読みたいものがあるものの、1.5頁~2頁に過ぎず、短か過ぎる)。

 八木秀次は「公務員制度改革担当相」に屋山太郎をあてる。筆坂秀世は法務大臣に長谷部恭男(東京大学教授)、「領土問題担当相」に志位和夫(日本共産党委員長)をあてる。野口健は外務大臣に岡本行夫、防衛大臣に前原誠司、環境大臣にC・W・ニコルをあてる。河添恵子は首相に出井伸行、官房長官に辛坊治郎をあてる。……。

 重ねて桑原聡はこの雑誌の最後でこう書く-「筆坂秀世氏が領土問題担当大臣に志位和夫氏を指名しているが、現在の国難は、これぐらいの大胆さがないと乗り越えられないのではないか。いかがだろうか」(p.326)。「賞味期限の過ぎた」自民党(中心)内閣よりも、志位和夫を閣僚の一人とする<救国>内閣の方が、桑原には「よりまし」であるらしい。

 現実的実現可能性はさておくとしても、この桑原聡は正気で、「いかがだろうか」などと暢気に訊いているのだろうか。

 (少なくとも日本の)ジャーナリズム・ジャーナリストの類は(マスメディア一般がそうだが)、総じては、または基本的には、国家・社会・国民を「正」・「善」・「美徳」の方向に導こうなどという気構えはなく、そもそもが何が「正」・「善」・「美徳」かなどという思考をめぐらしもせず(価値相対主義・一種のニヒリズムに陥るとこうなる)、何が<話題になるか>、何が<面白いか(興味を惹くか)>、そして何が<相対的によく(多く)売れるか(儲かるか)>を基準にして雑誌等を編集しているように見える。

 例えば「適切さ」はもちろん現実の実現可能性よりも、<面白い>かどうか、<話題になる>かどうか、が基準になっているように見える。

 産経新聞社の新(?)編集長のもとでの月刊正論も(いい論考も少なくないのに)、そのような弊を免れていないようだ。

0720/名越健郎・クレムリン機密文書は語る(中公新書)の第二章-日本共産党が受けた「援助」。

 〇佐伯啓思・大転換-脱成長社会へ(NTT出版、2009.03)の第一章「出口のない危機」、第二章「ミクロとマクロの合理性」を読了したことは、その直近の日にこの欄で記した。
 その後、第三章「経済が『モデル』を失うとき」、第四章「グローバリズムとは何か」、第五章「ニヒリズムに陥るアメリカ」を読了し、ここまでが基礎的叙述かとも思った。さらに、第六章「構造改革とは何だったのか」という最も関心を惹くタイトルの章も読了し、現在は第七章「誤解されたケインズ主義」の途中(p.225あたり)。
 佐伯啓思の近年の本の中では経済学に最も傾斜しているかもしれないが、この程度なら私でも理解できるし、興味を持って読み進められる。
 佐伯啓思・日本の愛国心(NTT出版、2008)や同・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書、2008)もそうだったが、今日の日本を考える上で重要かつ刺激的な見方・主張が多分に含まれていると思われるのに、なぜか、佐伯啓思の本は新聞も含めた書評欄等で話題になることが少ない。佐伯啓思の著の内容をめぐって活発な議論がなされている様子でもない。論壇が崩壊しているのか、それとも、何らかの<言論統制>が敷かれているのか。
 朝日新聞にとって都合のよい、親朝日新聞的論調の本であれば、杜撰な内容・論の本でも朝日新聞は大きくとり上げるような気がする(そして、何かの「賞」すら与えるかもしれない)。だが、佐伯啓思の近年の上掲のものを含むいくつかの本を、朝日新聞は完全に無視しているのだろう。新聞や週刊誌の書評欄などいいかげんなものだ(基本的には産経新聞や同社発行雑誌も同様かもしれない)。
 〇名越健郎・クレムリン機密文書は語る-闇の日ソ関係史(中公新書、1994)の第二章「日本共産党のソ連資金疑惑」のみを今年に入ってから読了(いつ頃だったか失念)。
 同書によると、コミンテルン後継機関として1947年に設立されたコミンフォルム(1956解散)の方針により、「各国の共産主義運動支援の名目」で「ルーマニア労組評議会付属左翼労働組織支援国際労組基金」という「秘密基金」がルーマニア・ブカレストに創設された。
 この基金とは別枠でソ連から直接に日本共産党に対して1951年に10万ドルが供与された(p.83-84)。上の基金からは日本共産党に1955年に25万ドル、1958年に5万ドル、1959年に5万ドル、1961年に10万ドル、1962年に15万ドル、1963年に15万ドル、が「援助」された(p.84、p.91)。これら以外に、日本共産党を除名された志賀義雄グループに1963年に5000ドル(対神山茂夫を含む)、1973年に5万ドル、が「援助」された(p.84、p.92)
 内訳は明確ではないが、この基金からの各国共産党(共産主義者)への「援助」はなんとゴルバチョフ時代の1990年まで続いた、という(p.84)。
 日本共産党の<所感派>(徳田球一・野坂参三ら)と<国際派>(宮本顕治ら)への分裂自体がコミンフォルムの1950年の日本共産党の当時の方針批判を原因としていた。日本共産党が、コミンフォルム=ほとんどソ連共産党、その解散後も上記基金運営の主導権を握っていたソ連共産党に財政的にも相当程度に依存していたことは明らかだ。
 志賀グループに対する以外の1951~1963年の日本共産党に対する「援助額」は累計85万ドルになり、これは30年後(1990年代前半)の貨幣価値では「10億円以上」になる、という(p.91)。
 1962年の「援助」に関する「ソ連共産党中央委国際部議定書」(1961.12.11)なる文書の存在も明らかになったというから興味深い。
 その文書を面倒だがそのまま書き写すと、次のとおり。
 「一、一九六二年に日本共産党に対し、一五万米ドルの資金援助を提供することを適切な決定と認める。
 一、セミチャストヌイ同志(KGB議長)は日本共産党への上記援助資金の引き渡しに責任を持つものとする。引き渡しに際し、『左翼労働組織支援国際労組基金』からの援助であることを周知させるよう通達する。

 日本共産党は<武装闘争>路線を放棄する1955年の所謂「六全協」によって統一回復を始め、1958年の第七回党大会で統一・規約決定、1961年の第八回党大会で新綱領を採択して、所謂<宮本顕治体制>が確立される。
 興味深いのは1950年代は勿論、日ソ両共産党が対立し始めるまでは1960年代に入っても、実質的にはソ連共産党からの財政的援助が日本共産党に対してあった、ということだ。
 日本共産党は1958年には<自主独立路線>を打ち出した。もともとコミンテルン(国際共産党)日本支部と同義だった日本共産党(1922年設立)がようやくソ連共産党から自由になったとも思わせるが、上の資料は、<自主独立>性を疑わせる。
 名越の本によると、日本共産党は上の資料が告げる事実を否定し、「援助はあくまで一部の内通者が要請したもので、党中央は一切関与していない」との立場で一貫しているらしい(p.93にはその旨の日本共産党・志位和夫書記長談話も掲載されている)。
 上のような援助のあること(あったこと)は、一般国民はもちろん一般党員にも知らされず、少なくとも正式には中央委員会はもちろん少数の常任中央委や幹部会でも報告されなかったのだろう。そして、上にいう「内通者」が要請し受領していたことは、宮本顕治ら数名のみが知っていた可能性が高い。
 上の志位談話は「ひそかに特別の関係を持」っていた「内通者」は「野坂参三袴田里見ら」だと述べている。
 語るに落ちたとはこのことだろう。「野坂参三や袴田里見」はのちに除名されたが、1950年代の有力党員であり、1958年~1963年の期間の日本共産党の正式な幹部そのものではないか。のちに除名したからといって、その事実が消えることはない。
 かりに「野坂参三や袴田里見」が「内通者」だったとしても、宮本顕治は、その「内通者」による資金援助要請と受領の事実を知っており、かつ(おそらくは積極的に)容認していたと思われる。
 名越はいう。「分裂時代の五一、五五年はともかく、五八~六三年については、秘密基金が日本共産党本部に流れた疑いは払拭しきれない」(p.95-96)。
 「党中央」と個々の幹部党員(「内通者」)とを区別する日本共産党・志位和夫の論理は実質的には破綻している。
 かりに万が一本当に「内通者」と称することが適切な者が存在したとしても、それが「野坂参三や袴田里見」という当時の幹部党員だったということを、志位和夫は(そして現在の日本共産党幹部および党員全員は)<恥ずかしく>感じるべきだ。それがまともな感覚というべきだろう(<自主独立>を謳うかぎりは)。
 1960年代半ば以降は、ソ連共産党は日本共産党と縁を切って日本社会党との「関係」を深めたと見られる。また、アメリカのいずれかの機関から、初期の自由民主党又はその前身諸政党への「援助」があった可能性を、今回の叙述は否定するものではない。
 なお、法律条文を確認しないが、名越によると、日本の政治資金規正法は「外国からの政治資金導入を禁止」しており、外国からの「資金受け入れは違法行為」で、「禁固三年以下ないし罰金刑」が定められている(この刑罰の対象は政党・政治団体ではなく、その代表者又は個々の国会議員等なのだろう)。

0601/日本共産党に未来はない-月刊正論11月号・筆坂秀世「”上げ潮”日本共産党の虚実」。

 月刊正論11月号(産経新聞社)の筆坂秀世「”上げ潮”日本共産党の虚実」を興味深く読む(これや既に言及したもの以外は興味深くなかった、との趣旨ではない)。
 元日本共産党幹部の筆坂秀世はかつて三和銀行時代も含めて、とくに若い世代の者たちを日本共産党に入党させることに貢献したものと思われる。そして、私から見て<客観的>には、コミュニズム・日本共産党にかけがえのない・一度しかない・貴重な青春と人生を<奪われて>しまった人たちも少なからずいるに違いない。
 筆坂秀世はそういう人々に対する後悔・反省・償い・贖罪の観点からだけでも、反日本共産党の言論活動をすべきだ。むろん、不破哲三が「ここまで落ちるのか」と書いても気にすることはない。
 さて、この筆坂論文は、7月の日本共産党六中総で志位和夫が「九千人近い新入党員を拡大し…」と、まるで純増9000人、しかもそれが「蟹工船」ブームによるかの如きことを述べたことを疑問視している(p.99-)。
 筆坂によると第一に、新入党員のうち「若者」は「二割」で「蟹工船」ブームとの関係は「きわめて限定的」。
 第二に、一方で志位は「党勢拡大は、…党活動全体の中では最も遅れた分野」なことを「私たちは直視」すべきと、党勢拡大=党員数拡大と矛盾することを述べていることからして、「本当に党員は増えているのか」疑問。そして、「増えた以上に減っている可能性すらある」(p.101)。
 つまり「九千人近い新入党員」とは全くの純増ではなく、九千人増えても一万人が離党すればマイナス千人(二万人だとマイナス一万千人)になっている可能性もある。
 第三に、上のことを推測させるのは次。赤旗本紙発行部数は2005年比で約3万、日曜版で約13万八千減っていることを「赤旗」は明らかにしている。本当に「大量に入党者が増えている」なら、こんなことはありえない筈だ。
 私の知人に、大学生(大学院学生?)時代に日本共産党に入党した(させられた)と推測され、昨年あたりのネット情報の中で、某道府県の「九条の会」呼びかけ人になっていることを知った者がいた。30年以上にわたって日本共産党に囚われて続けていることを知り、かつもはや残りの人生年数の方が少なくなっていることを思って、可哀想に、という複雑さも含む感慨をもってしまった。
 筆坂による日本共産党の現況の一端を読んでみても、当然ながら、日本共産党に未来はない。次の総選挙でも<躍進>はありえないだろう。縮小→解党へと少しずつでよいから歩んでほしい。
 日本共産党は21世紀の遅くない時期に「民主連合」政権の樹立を目指しているのだがら、かりに日本共産党のプランどおりに歴史が推移しても、日本に真の民主主義革命と社会主義革命が起こり、日本が社会主義社会になるのは、「21世紀の遅くない時期」のはるかのち、22世紀になるだろう。今から100年以上のち。今生きている人々のすべてが死んでいる。すなわち、今生きている日本国民の誰一人として、日本における「社会主義」を経験することはできないことに―日本共産党が今言っていることを前提にしても―なる。
 もっとも、中国(共産党)の力による中国と一体になるような「社会主義」化の危険性はあるが、この論点には触れないでおこう。
 また、日本共産党員が編集長をしているらしき「ロスジェネ」とかいう雑誌につき、あえて同党が「特定の雑誌を支持、賛美する方針はとっていません」と今年5/31付「赤旗」で<宣告した>という共産党らしさ(p.106)、そしてまた新日本出版社の「経済」という雑誌は明瞭に「支持、賛美」しているという共産党らしき矛盾・欺瞞(p.107)も興味深いが、省略。

0294/安倍首相を退陣させるな。朝日新聞を喜ばせるな。

 7/22日曜日午前中の二つの番組の一部を録画で観た。とくに午前10時30分(?)から始まる田原総一朗の番組で、大きくは二つのことが印象に残った。
 第一に、野党各党首へのインタビューの後の政治記者等(+議員・学者)の座談会で、安倍首相退陣の可能性が話題になっていた。午前8時台のもう一つの番組の座談会では櫻井よしこ、三宅久之両氏が(自民党の数字による可能性を全否定はしていないようだったが)安倍にはどんな数字であっても辞任(退陣)する意向はない、とおそらくは安倍の主観的気持ちの忖度としては正確と思われることを述べていた。
 一方、田原司会の番組では、安倍首相の意向については同様のことが語られつつも、(以下、正確に観ながらではなく記憶によるが)参加者の一人・朝日新聞の星浩だけは、これこれの数字以下では他の自民党議員が黙っていないだろうとか、数字の責任はやはり<大将>の責任なのだからなどと、<安倍退陣>に未練を残した発言をしていた。これがまず、印象的だった。
 朝日新聞はやはり、安倍退陣(総理辞任)を本気で狙っているのだ。自民党の獲得議席数にもよるが、44程度だと、橋本龍太郎首相は参院選44で責任をとった、36程度だと宇野首相は36で責任をとった、と大きく報道するに違いない。そして、どの数字にせよ、民主党を下回った場合には、加藤紘一山崎拓古賀某らの安倍首相に批判的な(退陣が望ましいと示唆するような)コメントを載せて大きく扱うに違いない。自民党内の動きの報道というかたちを表面的にとりながら、じつは<政治的な>倒閣運動をこの新聞社はきっと行うだろう
 心ある自民党員、自民党議員は、安倍内閣のもとでのせっかくの前進を<逆行>させてはならない。朝日新聞の報道ぶりなど、<デマ新聞>・<政治ビラ>の一つと思って無視しなければならない。
 第二に、志位和夫日本共産党(幹部会)委員長の発言に興味深いものがあった。一つは、田原総一朗が「共産」という名をやめたらどうかと質問したのに対して、<いつまでもずっと資本主義社会が続くとお考えですか?>旨を述べ、明瞭に社会主義(・共産主義)社会を展望していることを述べていた。これではむろん「共産」の名称の変更はできない。そして、さすがに、日本共産教の信徒総代だと思った。社会主義(・共産主義)社会の<到来>をやはりこの人は本当に<信仰>しているのだ。合理的・理知的?(という程でもないか)な顔をして、<宗教>に嵌り込んでいるのだ(東京大学出身ながら、じつは莫迦なのだろう。そもそもこんな問題に学歴は無関係なのだが)。
 二つは、志位としては当然だろうが、マルクスを棄てていない、と明言した。マルクス主義は19世紀前半の社会系諸科学を統一した・凝縮し発展させたとかも言われるが、「共産党宣言」出版は1948年だ。今から150年以上前の(当然に外国産の)「理論」が今の日本共産党の基礎にはまだあるのだ。古色蒼然。古ければいい、というものではない。
 三つは、北朝鮮に対する立場はよく知らなかったが、現在の北朝鮮を中国・ベトナム・キューバのような「社会主義」国とは見ていないことを明言した。
 それはそれでよいが、しかし、例えば1961年の綱領制定時点では、北朝鮮もまた(ソ連と同様に)「社会主義」国、少なくとも「社会主義へと進んでいる国」だと認識していた筈で、いずれかの時点(正日への権力世襲時?)以降になってようやく「社会主義」国のリストから除外した筈なのだ。もっと突っ込んだ質問が北朝鮮についてあれば、ソ連はレーニンとスターリンのいずれの時期から誤ったのか?との質問とともに、面白い場面が見られただろう。
 日本共産党とその追随者に未来はない。憲法九条護持を明確にしている日本共産党(と社会民主党)の、今後6年も任期のある参議院議員を、一人でも増やしてはいけない。一人でも、二人でも、憲法改正発議の障碍になることは明瞭だからだ。
 (なお、上の番組での民主党・小沢の発言内容はきちんと聞いていない。)

 

0288/そして、宮本顕治もいなくなった-日本共産党。

 いつか、「そして、宮本顕治の他は、誰もいなくなった」というタイトルで一文を書こうと思っていた。つい先ほど、同氏が死去したことを知ったので、宮本顕治もいなくなってしまった。98歳。追悼する、という気持ちは私にはない。
 新党綱領を制定した1961年とそのときの共産党大会が現在の日本共産党の<(表面的な)議会主義的・平和主義的>路線の実質的な始まりで、1961年こそが同党の新設立の年だ、それまでの共産党は名前は同じでもコミンテルン・コミンフォルムの影響を受けすぎた別の政党だった、という説明の仕方も可能だった、と思われる。そうすれば、1922~1960年までの(50年以降の分裂と少なくとも片方の<武装蜂起>路線も)現在まで問題にされ批判されている事柄は現在の党とは無関係だと強弁することはできただろう。
 しかし、そうしなかったのは、宮本顕治らの戦前組、そして<獄中組>の<プライド>が許さなかったからだろう。そしてまた、戦前からの活動経験と10年以上の獄中経験こそが宮本顕治ら一部の者に対して、一種の<カリスマ>性を与えたのかもしれない。
 それにしても、1961年以降の日本共産党は、上に、「そして、宮本顕治の他は、誰もいなくなった」と書いたが、中国の毛沢東、北朝鮮の金日成のように、宮本顕治が自らに反抗する(反対意見をもつ)同等クラスのものを徹底的に排除しいく過程だっただろう。社会主義国でなく資本主義国内の共産党でも<独裁>・<(実質的な)個人崇拝>容認思考は形成されていたのだ、と考えられる。
 犠牲者は、それぞれ事由は違うが、春日庄一志賀義雄(日本のこえ)、そして(最)晩年を党員として生きることも許されなかった袴田里見野坂参三…と続いた。<新日和見主義>とされた一群の者たちや有田芳生などの個別のケースの者を挙げているとキリがない。
 一般の日本共産党員は何ら不思議に思っていないようだが、宮本顕治から不破哲三への実質的権力の移譲、不破哲三から志位某への実質的権力の移譲は党大会で承認されたわけでは全くない。幹部会委員会か常任幹部会委員会か知らないが、一般党員には分からない数名(たぶん数十名ではない)の<仲良しクラブ>の中での<密室>の話し合いか又は前任者による<後継指名>によって決まったわけだ。そこには<党内民主主義>なるものは一片もない。あるのは極論すればただ<個人的嗜好>だろう(もちろん共産党の実質的代表として「立ち回れる」能力・知識があることは条件とされただろうが)。
 そういう政党を作り、ここまで40年以上長らえさせたのは、おそらくひとえに宮本顕治の力にかかっている。
 いつかも書いたような気がするが、宮本は二度と入獄の経験などしたくないと心から強く(皮膚感覚を伴って)考えていたに違いない。そして、武装闘争による逮捕→党員数減少・一般国民からの支持の離反などは御免こうむりたいと強く願っていたに違いない。
 その結果が、1961年党綱領だった。そのおかげで日本共産党はまだある。日本共産党の専従活動家として同党に生活を依存している者も多いに違いない。その者たちのためにもある程度の数の議員をもつ政党として日本共産党を存続させていかなければならない。-かかる発想は現在の志位和夫にもあるだろう。
 その代わりに、日本共産党のいう民主連合政府→民主主義革命→社会主義社会・共産主義社会という道は<夢の夢>へとますます遠ざかっている。職業的活動家を扶養するだけの新聞収入と議員歳費収入のある政党として、今後も<細く長く>生きていくつもりだろうか。
 本当はソ連・東欧社会主義国崩壊の時点で、日本の新聞等のマスコミ・論壇は、<日本にコミュニズム政党が存在する意味>を鋭く問わなければならなかった。それを怠った日本のマスコミ・論壇は、それら自体がかなりの部分マルクス主義に冒されていた、というべきだろう。
 勿論現在でも<資本主義国・基本的には自由主義国の日本での「共産主義」政党の存在意義>を問うことができるし、問うべきだろう。しかし、そのような論調はわが国のマスコミ・論壇では必ずしも大きくはない。マルクス主義者の<残党>がまだ一定の影響力をもっているからに他ならないと思われる。なんと日本は<多様な思想>を許容する<寛大で自由な、優しい>国なのだろう
 以上、宮本顕治逝去の報に接して一気に。

-0031/親王ご誕生と大江健三郎・日本共産党・朝日新聞。

 皇太子・秋篠宮各殿下の次の世代に親王誕生。慶賀と安堵の声を伝える放送を見ていて、大江健三郎は誕生と一般市民の反応の二つをどう感じているのだろう、と余計ながら思った。
 過日に言及した谷沢栄一の大江健三郎「告発」書を数日前に読了したが、この本の引用によれば大江は1959年に「皇太子よ、…若い日本人は、すべてのものがあなたを支持しているわけではない。…天皇制という…問題についてみば、多くの日本人がそれに反対の意見をもっているのである」と書き(ここでの皇太子は現天皇)、1971年には天皇制という中心への志向を特性とするのが日本の近代の「歪み、ひずみ」だとした。
 岩波新書・あいまいな日本の私(1995)の中にも反天皇的気分の文章はある(例えばp.151-2)。
 朝日新聞が今回彼のコメントを求めたら面白かったと思う。
 大江は民主主義の徹底を「あいまい」にしたものとして天皇・皇室の存続に反対であり、可能ならば天皇関係条項を憲法から削除したいが、「情勢」を見て自説を積極的に唱えてはいない、と推察できる。9条を考える会の呼びかけ人の1人になっているのは、天皇条項廃止とは異なり9条改正阻止は可能性があると「政治的」に判断しているからだろう。
 ほぼ同じことは日本共産党についても言える。昼休みに読んだ朝日新聞の中で共産党書記長が祝意を示していたが、「民主主義革命」達成までの「当面のこと」と付言すべきだ。
 その朝日の1面左側のたしか解説委員記事中で、記憶に頼れば、皇室の「心」・見解も反映させて皇室典範改正すべきと主張していたが、昨秋以降、小泉の私的諮問機関の最終報告書(皇室典範の基本的改正案)に皇室の一部から疑義が出されたときに朝日新聞は<皇室はダマっていろ>旨を「慎む」という語を使ってかなり失礼に、恫喝的に、述べたのではなかったのか。
 日本共産党が「安定的」な皇位継承を確保するために…などと言い出したら奇妙なように、朝日がそのような目的の意見を言うのも本当は片腹痛い。「夏の甲子園」開催と同じく、存立のための「大衆」迎合のつもりなのだろう。
 朝日はかつての戦後50年村山首相談話を継承するか等と質問して「安倍いじめ」を相変わらず続けている。日本共産党の志位某は国内で横田夫妻に逢うこともなく韓国の政党関係者と逢い、彼らが喜ぶ「歴史認識」を述べている。この2団体の動きを知ると精神衛生に悪いが、未来は彼らにはないと達観し、楽観して生きていこう。


ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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