藤田覚・江戸時代の天皇/天皇の歴史06(講談社,2011)、p.280-1によると、少なくとも江戸時代、生前に譲位して(つまり前天皇であって)生存中の天皇は「太上天皇」と号され、死亡すると「~院」と称された。おそらく、死亡による譲位・退位の場合も、崩御した天皇はほとんどすみやかに「~院」と称されたのだろう
 したがって、<日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08>(№2098・2019/12/11)が、光格天皇は父の閑院宮典仁について<「太上天皇」の尊号付与>を願い出たと記述したのは誤ってはいないと思われる。しかし、その直後に、<「天皇」ではなく、「太上天皇」=「院」号付与に関する2例を先例として挙げた>と記述しているのは、典仁親王はまだ存命だったので誤りになる。
 この誤解は、太上天皇=上皇=「~院」という等式や、上皇による「院政」という言葉に影響を受けていたのだろう。
 現在での歴史記述や一般的論議では「天皇」や太上天皇の簡略形としての上皇、そしてときには後者の意味での「~院」という語を使って、多くの場合は問題がないのだろう。
 しかし、当時の言葉遣いは、以下のとおりで、この時期に「天皇」号の使用も改められた(再興された)、とされる。上掲書、p.281等。
 在位中の天皇が「~天皇」と呼ばれることはないし、「天皇」とすら称されない。
 光格天皇在位の時代を基準にすると、村上天皇についてその死後の967年に「村上天皇」と追号されたのは、天皇が死後に「~天皇」と追号された最後だった。そして、円融天皇の死(991年)以降はずっと、「~院」、つまり例えば「円融院」と追号されてきた。この場合の「院」は、上皇・太上天皇の就位とは関係がない。
 これを変えたのは光格天皇(119代)で、光格天皇は死後に「光格天皇」という諡号を付与され(翌年の1842年)、天皇が死後に「~天皇」と追号されたのは、じつに874年ぶりだった(!)、とされる。「天皇」号の<再興>もまた光格天皇についてであり、次代の仁孝(120代)の時代になる。
 なお、追号ではなく厳密な意味での諡号は、887年に崩御した「光孝天皇」以来、何と954年ぶりだった(!)とされる。上掲書、p.281。
  知識がかつてなかった上のことを前提として、<尊号一件>にかかわる「太上天皇」や「院」号の問題に触れる。
 光格天皇(119代)は即位後に、実父・閑院宮典仁について、「太上天皇」尊号の付与を幕府に願い出た。幕府側は最終的にも拒否したのだったが、光格が先例として挙げたのは、つぎの2件だった、とされる。その時点では死亡しているので、天皇在位者ではなかったにもかかわらず生前は「太上天皇」尊号がおくられ、死後は「院」号が付与された例となる。
 1/守貞親王=後高倉院。1221年即位の後堀河天皇(86代)の父。高倉(80代)の子、後鳥羽(92代)の実兄。承久の乱を契機とする後鳥羽の系統ではない後堀河の即位にもとづき、「太上天皇」の尊号を送られて実質的に朝政に関与し、死後は「後高倉院」とされた。
 2/伏見宮貞成親王=後崇光院。1428年践祚の後花園天皇(102代)の父。北朝3代・崇光天皇の孫、伏見宮家初代の栄仁親王の子。存命中は「太上天皇」の尊号がおくられ、死後は「後崇光院」と称された。
 なお、この伏見宮貞成親王(後崇光院)の父・栄仁親王が伏見宮家第1代で、戦後に「皇籍」を離れた男子とその後裔男子たちは、男系でのみたどると、この伏見宮栄仁親王(1351-~1416。室町・南北朝時代)に行き着く。
 これら2例では、後高倉院、後崇光院はともに「天皇」ではなかったが上の2天皇との関係では「院政」を敷いた、あるいは実質的に政治(主として朝政)に関与した、とされる。但し、代数をもつ歴代天皇には加えられない。
 以上の2例につき、藤田覚・幕末の天皇(講談社学術文庫、2013/原著1994)、p.112も参照。
 ところで、上掲書二つには言及がないが、つぎの例も加えてよいのではないかとも思われる。
 3/誠仁親王=陽光院。1586年に即位した後陽成天皇(107代)の父。正親町天皇(106代)の子。
 しかし、誠仁親王=陽光院は正親町が30余年在位したためか天皇に就位せず、誠仁親王の死後にその子の後陽成が天皇となった。したがって、「太上天皇」と尊号されたことはなく、この点で、「院」号を受けたにもかかわらず、上の後高倉院・後崇光院の例とは異なるようだ。
  朝廷・幕府関係一般の問題に発展しそうであるため、<尊号一件>問題の経緯の詳細は省く。しかし、ともあれ、朝廷側が幕府に要請すること自体、あるいは尊号付与をいったんは天皇・朝廷の独断で決定したこと自体が、それまでと比べて異様だつたと、とされる。この光格の幕府に対する姿勢をふまえて、のちの孝明天皇も存在する。あるいは、幕府側が天皇・朝廷の意見を「聴取」したり「勅許」を求めたりする実例の発端が(後水尾と比べても強い)光格の姿勢・見解にあった、とも言われる。しかし、光格や孝明が江戸幕府の打倒や「徳川」家の廃絶を考えていたわけでは、むろんない。
 幕府側(11代将軍・德川家斉、老中・松平定信)は承久の乱・応仁の乱いう混乱期の「悪しき事例」だったとして、拒否した(上の2は応仁の乱と厳密には関係がないともされる)。また、子が天皇になっても生前に「太上天皇」と尊号されなかった天皇の父親の方がむしろ多いともされる。
 しかし、光格天皇がこだわったのは、御所でまたは朝議の際に典仁は「天皇の実父とはいえ親王であるため、関白はおろか三公(太政大臣・左大臣・右大臣)より下に座らなければなら」ないこと-これは幕府側の諸<法度>を根拠とするとされる-を嘆いたためだという(藤田覚・江戸時代の天皇(2011)、p.259)。親への「孝行」が強い理由の一つだ。
 なるほどと思わせる理由だが、幕府側にはそんな心情を慮る気持ちがなかったようでもある。
 この事件の決着後に、朝廷側の「議奏」だった中山愛親は、上官の「武家伝奏」だった正親町公明とともに幕府側から「閉門・逼塞」を命じられ、朝廷側にそれぞれの役職を解任することが要求された(藤田・上掲書p.261-2)。
 この中山愛親とは、前回に記述のとおり、明治天皇の実母・中山慶子の父親の中山忠能(1809-88)の、実の曾祖父だ(~1814)。「墓」は廬山寺内にある。
 とりあえず推測として書いておくが、中山愛親等々の、この事件で幕府に<苦渋を舐めさせられた>一部の公家たち・朝廷官僚たちの後裔たちの間に、幕府に対する何らかの<心のしこり>ができた、そのような意識・精神の伝達が各家で行われた、後の時期での幕府や「徳川家」に対する厳しい姿勢にもつながった、と想像することは全く不可能ではないだろう。
 さて、江戸幕府の介在なく、典仁親王に「慶光〔きょうこう〕天皇」と追諡され、かつさかのぼって太上天皇とも尊号されたのは、時代が変わった、明治17年(1884年)のことだった。1794年の典仁没後、90年後のことになる。「皇威」を高める光格天皇の努力に、その子孫の明治天皇が遅れて応えたことになる。但し、慶光天皇は歴代の天皇の1代には数えられない。しかし、「天皇」であるがゆえの「陵」は、その後に整備された。
  今回に記したようなことも、<いわゆる保守系>月刊雑誌である月刊正論(産経)・月刊WiLL(ワック)、月刊Hanada(飛鳥新社)の三誌をいくら毎号読んでも出てこず、「知識」にならないだろう。